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天皇制度(その4)(天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”、天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」) [政治]

天皇制度については、2021年12月28日に取上げた。久しぶりの今日は、(その4)(天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”、天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」)である。

先ずは、昨年7月17日付けデイリー新潮が掲載したジャーナリストの徳本栄一郎氏による「天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/07170900/?all=1
・『天皇陛下のご著書『テムズとともに――英国の二年間』(紀伊國屋書店)には、英オックスフォード大学に留学された際の思い出が綴られている。だが、その背後には、日本への影響力拡大を目指す英国の思惑があった。機密解除文書から、その知られざる内幕を解き明かす。(前後編のうち「前編」)<『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)より抜粋、一部加筆しています>』、興味深そうだ。
・『「今日の私の生き方にどれだけプラスになっているか」  「私がオックスフォードに滞在したのは、一九八三年の六月末から八五年の十月初旬にいたる二年四カ月間であった。その間、とても一口では表現できない数々の経験を積むことができた」 「それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない」 今春、今上天皇の英国留学の回顧録『テムズとともに』が復刊された。その冒頭は、こうした言葉で始まっている。 1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学への留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。その間、内側から英国を眺め、外から日本を見つめ直せたという。 留学が、いかに大きな体験だったかが分かる。だが、それは浩宮が初めてではない。 今から100年前、同じくオックスフォードで学んだのが、昭和天皇の弟・秩父宮だ。東洋の皇族の留学を、英国は国を挙げて歓迎した。その裏には、明治から脈々と続く、英国の深遠な外交戦略があった。 関東大震災の翌年、1924年7月、皇居の濠を臨む駐日英国大使館から、ロンドンに電報が送られた。最高機密を指す「Most Confidential」とあり、10行余りの短い文面である。 「信頼できる筋によると、(大正)天皇の次男、秩父宮が、来春、英国に留学することがほぼ確定した。宮中は、当面、この件を極秘扱いにし、発表は控えるよう切望している」 電報を作成したのは、当時のチャールズ・エリオット駐日英国大使。オックスフォード大学を卒業後、外務省に入り、ロシアやトルコでキャリアを重ね、4年前、東京に赴任した。このエリオットが心血を注いだのが、秩父宮の留学だった』、「1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学への留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。その間、内側から英国を眺め、外から日本を見つめ直せたという。 留学が、いかに大きな体験だったかが分かる」、確かに海外留学は貴重な体験だろう。
・『英国王から届いた歓迎の親電 浩宮英国留学  その年、秋も深まった11月、ロンドンの外務省に、エリオット大使から長文の報告が届く。留学は本決まりで、秩父宮は、天皇の息子の中で体力、知性共に、最も優れているという。 「留学の考えは、昨年7月、欧州訪問中の松平が最初に持ち出してきた。彼は、秩父宮の世話役に適任とされるドラモンド夫妻と、ロンドンで予備交渉を行った。その後、翌春の留学をめざし、松平は帰国した。 しかし、昨年9月の大震災後、今は皇族が国を離れるべきでないとの空気が広がり、守旧派の実力者も、天皇の息子の留学は前例がないと反対した。その後、西園寺公望や宮内大臣らが賛成し、計画は、貞明皇后に提出され、予想外に早く承諾された。皇太子は、当初から留学に賛成しており、同意を得るのは容易であった」 ここで登場する松平とは、当時、宮中の式部官だった松平慶民(よしたみ)を指す。彼自身、オックスフォードで学んだ経験がある。すでに1年以上前から、松平と英国側は、密かに根回しを進めていたのだった。 そして、年が明けた1925年1月、英国のオースティン・チェンバレン外務大臣は、国王ジョージ五世に最終報告を送った。従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めてとし、国王自ら、摂政宮に親電を打つべきという。 それから間もなく、日本の新聞に、英国王からの親電の内容が紹介された。 「貴殿下が秩父宮殿下をして更に研学せしむる為め弊国に渡来することを許すべく決定されたるに就き貴殿下が弊国に対して示されたる顕著なる信任の情に対し甚く感銘する所あり」(「朝日新聞」、1925年1月24日付) 日本の皇族が英国で教育を受けることになり、それを、国王も歓迎している。このニュースは、新鮮な驚きを伴って、国中に広まっていった』、「従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めてとし、国王自ら、摂政宮に親電を打つべきという。 それから間もなく、日本の新聞に、英国王からの親電の内容が紹介された」、「従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めて」とは初めて知った。「日本の皇族が英国で教育を受けることになり、それを、国王も歓迎している。このニュースは、新鮮な驚きを伴って、国中に広まっていった」、英国側の手回しのよさは大したものだ。
・『破棄された日英同盟  機密解除されたこれらの文書から、奇異な印象を受ける人もいるかもしれない。いくら天皇家とはいえ、一青年皇族の留学だ。それを、まるで国家プロジェクトのように扱っている。駐日大使はおろか、外務大臣、国王まで動員し、根回しする。この裏には、当時の英国の思惑が隠れていた。 過去、いくつもの世界帝国が登場したが、その中で、英国は特別な位置を占める。インドやアフリカに植民地を持ち、7つの海を航海し、日の沈まぬ大英帝国とされた。その英国が、20世紀初めに結んだのが、日英同盟だ。 なぜ、誇りある大英帝国が、日本と手を組んだか。そこには、アジアの権益を狙うロシアへの警戒が横たわっていた。19世紀末、中国で外国人を排斥する義和団事件が起きると、各国は北京に軍隊を派遣する。ところが、その後も、ロシアは軍を引き揚げず、南下の意思を示し始めた。 このままでは、自分たちの権益にも脅威となる。英国は焦るが、彼らとて、アフリカの戦争に手を焼き、単独で対抗できない。そこで結んだのが、日英同盟だった。 ところが、1920年代に入ると、日英には暗雲が漂い始める。原因の一つは、米国だった。すでに米国は、日本の勢力拡大を警戒し、将来の対日戦争を想定していた。そして、そのネックは、日英同盟にあった。 同盟の条約では、日英どちらかが戦争に入れば、他方も参戦し、援助するとある。もし日米が戦えば、米国と英国が戦う羽目になる。米国は、同盟の破棄を画策し、ついに受け入れさせるのに成功した。 その後、英国はすぐに、シンガポール軍港の強化を検討し、日本では裏切られたとの感情が広がる。秩父宮の留学が決まったのは、まさにその最中だった。チェンバレン外務大臣から国王への報告では、シンガポール基地への「疑念」を晴らせるとある。たかが留学、されど留学なのだ。 また、英国が神経を尖らせたのは、外交だけではない。日本の国内情勢に、重大な関心を寄せていた』、「いくら天皇家とはいえ、一青年皇族の留学だ。それを、まるで国家プロジェクトのように扱っている。駐日大使はおろか、外務大臣、国王まで動員し、根回しする。この裏には、当時の英国の思惑が隠れていた。 過去、いくつもの世界帝国が登場したが、その中で、英国は特別な位置を占める。インドやアフリカに植民地を持ち、7つの海を航海し、日の沈まぬ大英帝国とされた。その英国が、20世紀初めに結んだのが、日英同盟だ・・・米国は、同盟の破棄を画策し、ついに受け入れさせるのに成功した。 その後、英国はすぐに、シンガポール軍港の強化を検討し、日本では裏切られたとの感情が広がる」、なるほど。
・『「宮中某重大事件」浩宮英国留学  1924年7月、明治の元老で政界の重鎮、松方正義が亡くなった。薩摩武士の家系に生まれ、維新後、明治政府で大蔵卿として財政政策を取り仕切った。その後も、政府の意思決定に関わり、彼の死は、無視できなかったようだ。エリオット大使の本国への報告を見てみる。 「松方は、西郷(隆盛)や大久保(利通)、木戸(孝充)ら維新の英雄でなく、伊藤(博文)、井上(馨)、山縣(有朋)、大山(巌)と同じ第2世代に属する。これは、王政復古により、封建制度から西欧型政権に移行する危険な時期、国の運命を担った世代である。松方は、伊藤の先見性、井上の頭の回転の速さは持ち合わせないが、機会が到来するのを待つ能力を持っていた」 明治の時代、伊藤や山縣らで構成する元老は、天皇の諮問機関の役割を担った。次期首相を推薦する他、外交にも目を光らせた。松方の死で、残る元老は、西園寺公望だけとなった。 元老の力が弱まれば、日本の意思決定は、どう変わるか。それを、英国は掴みかねていた。その懸念を増幅したのが、大正天皇の存在である。 もともと病弱な天皇は、この頃、とても公務に耐えられる状態ではなかった。そのため、皇太子裕仁が摂政に就き、代わりに公務をこなしていた。そして、松方の死の4ヵ月前、エリオットは、ロンドンに報告した。 「宮内省によると、天皇の病状は、前回の発表時より悪化している。これは、より深刻な状態を明らかにする前段階で、退位の準備の可能性もある」 「自分は最近、上海と香港を訪れたが、現地の外国人コミュニティーは、すでに天皇が死去したと信じる者も多い」 摂政の皇太子裕仁は、まだ22歳の若さで、国内を掌握する力は未知数だ。また、彼の結婚を巡る混乱も、国内の不安定さを見せつけた。いわゆる「宮中某重大事件」である。 これは、山縣有朋が、皇太子裕仁の妃に内定した良子女王(後の香淳皇后)の母方、島津家に色覚異常があるとし、婚約解消を迫った事件だ。西園寺公望や原敬首相は山縣を支持したが、大正天皇の皇后や島津家は、反山縣勢力を結集して対抗する。 この裏には、長州出身の山縣が、薩摩の島津家の血が皇室に入るのを嫌ったとの説も流れ、政界を巻き込む騒ぎになった。結局、皇太子が良子との結婚を強く望み、右翼の頭山満も反山縣につき、ついに婚約破棄の企ては潰れた』、「「宮中某重大事件」である。 これは、山縣有朋が、皇太子裕仁の妃に内定した良子女王(後の香淳皇后)の母方、島津家に色覚異常があるとし、婚約解消を迫った事件だ・・・西園寺公望や原敬首相は山縣を支持したが、大正天皇の皇后や島津家は、反山縣勢力を結集して対抗する・・・結局、皇太子が良子との結婚を強く望み、右翼の頭山満も反山縣につき、ついに婚約破棄の企ては潰れた」、こんな事件があったとは初めて知った。
・『「彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」  皇太子の婚約一つで混乱するほど、国内が不安定であることを、英国は察知した。1924年1月の結婚の際、駐日大使館は本国に、皇族の人間関係を含む、詳細な報告を送った。 明治から大正に移り、かつて維新を戦った世代は消えつつある。政党政治は定着せず、政治家は、権力闘争に明け暮れる。そして、宮中には、病弱な天皇と若い皇太子が控える。今後、日本の意思決定は、誰が、どうやって担うか。 その真っ只中で、秩父宮の留学準備は進められた。この過程で、英国は、皇族を初め、政府要人と濃密な接触を図ることができた。そこから、日本の支配層のデリケートな情報が手に入る。留学自体、インテリジェンス収集の絶好の機会だったのだ。 1925年7月、ロンドンのバッキンガム宮殿に近いビクトリア駅に、秩父宮と随員一行が到着した。出迎えたのは、王室関係者を初め、チェンバレン外務大臣らである。2年に亘るプロジェクトが成功した瞬間だ。 そして、それは同時に、英国政府の後輩への貴重な財産になってくれた。80年代、彼らが浩宮留学に動いた際、前例にしたのが、秩父宮なのだ。その浩宮は回顧録『テムズとともに』で、こう振り返っている。 「私は、イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる。これは、一つには家の建築方法と一脈通じるものがあるのではなかろうか。例えば、巨大な大聖堂にしても、それは数百年の歳月をかけて造られるものが多い。最初に石を積んだ石工は、その完成を見られない。しかし、彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」 まさに、この最初に積まれた石が、100年前の留学だった。それなしに、令和の天皇が、オックスフォードで学ぶことはなかった。 そして、やがて英国の視線は、もう一人の皇族に向けられる。彼の元へ家庭教師を送れば、日本での影響力を拡大できる。浩宮の父で、平成の天皇となる、皇太子明仁だった。 ※以下、「後編」に続く』、「1925年7月、ロンドンのバッキンガム宮殿に近いビクトリア駅に、秩父宮と随員一行が到着した。出迎えたのは、王室関係者を初め、チェンバレン外務大臣らである。2年に亘るプロジェクトが成功した瞬間だ。 そして、それは同時に、英国政府の後輩への貴重な財産になってくれた。80年代、彼らが浩宮留学に動いた際、前例にしたのが、秩父宮なのだ。その浩宮は回顧録『テムズとともに』で、こう振り返っている。 「私は、イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる・・・イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる。これは、一つには家の建築方法と一脈通じるものがあるのではなかろうか。例えば、巨大な大聖堂にしても、それは数百年の歳月をかけて造られるものが多い。最初に石を積んだ石工は、その完成を見られない。しかし、彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」、なるほど。

次に、昨年7月17日付けデイリー新潮が掲載したジャーナリストの徳本栄一郎氏による「天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/07170901/?all=1
・『天皇陛下がご著書に「何ものにも代えがたい貴重な経験となった」と綴られた、若き日の英国留学――。その背後に見え隠れするのは英国の深遠な外交だった。実は、上皇陛下の“家庭教師”をめぐっても、水面下で米英のせめぎ合いが展開されていた。(前後編のうち「後編」)<『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)より抜粋、一部加筆しています>』、興味深そうだ。
・『サッチャー首相、エリザベス女王とも交流  思い返してみると、この二年間は瞬く間に過ぎ去ったように感じるものの、私はその間実に様々なものを学んだように思う」 「英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができたこと、さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができたこと、このようなことが私にとって何ものにも代えがたい貴重な経験となった」 今上天皇の英国留学の回顧録、『テムズとともに――英国の二年間』は、これらの言葉で終わる。 1983年、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学の留学に出発した。まず、トム・ホール大佐宅にホームステイし、一般学生と寮生活をする。これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例で、その間、英国政府は、完璧とも言える体制で支援した。 私服の警護官が、目立たぬよう付き添い、一般学生と同じ生活ができるようにした。また、マーガレット・サッチャー首相やエリザベス女王とも交流するなど、浩宮にとって青春の忘れられない記憶になった。 前回触れたように、この背後には、明治から脈々と続く、英国の深遠な外交があった。終戦直後の皇太子の家庭教師プロジェクトも、その一つである』、「1983年、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学の留学に出発した。まず、トム・ホール大佐宅にホームステイし、一般学生と寮生活をする。これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例で、その間、英国政府は、完璧とも言える体制で支援した。 私服の警護官が、目立たぬよう付き添い、一般学生と同じ生活ができるようにした。また、マーガレット・サッチャー首相やエリザベス女王とも交流するなど、浩宮にとって青春の忘れられない記憶になった」、なるほど。
・『「その影響力は、単なる英語教師をはるかに超える」  そこは、まるで日本でありながら、日本でないような空間だったという。 空襲を免れた丸の内のビルは、巨大な星条旗が翻る。周囲の路上は、英語の標識が並び、ジープが通り過ぎる。そして、歩道には、日本人のガールフレンドを連れた米軍兵士が闊歩していた。これが、1949年、敗戦から4年目を迎えた東京の光景だった。 その年の3月、皇居の濠を臨む駐日英国代表部が、ロンドンの外務省に報告書を送った。 「然るべき人間を(宮中に)送り込めば、その影響力は、単なる英語教師をはるかに超える。天皇や他の皇族、宮中関係者と頻繁な接触が可能となり、立憲君主のあらゆる事項で意見を求められる」 マッカーサーという障害を克服し、日本側と調整を進めるのが、自分の課題だ。決して容易でないのは承知しているが、実行する価値はあると思われる」 作成したのは、駐日英国代表のアルバリー・ガスコイン。第一次大戦に従軍後、外務省に入り、中国やハンガリーで勤務した。本省の極東部の幹部も務め、3年前、東京に赴任してきた。50代を迎え、外交官として脂が乗り切った時期だ。その彼が目指したのが、皇太子・明仁への家庭教師派遣だった。 敗戦と、それから7年間の占領は、日本人に初めて、外国による支配を体験させた。この間、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、文字通り、国を一変させた。 新憲法の制定や農地解放、財閥解体は、明治維新以来の変化をもたらす。そして、それは、皇室にも波及した。皇太子に、米国人の家庭教師が任命されたのだ』、「GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーは、文字通り、国を一変させた。 新憲法の制定や農地解放、財閥解体は、明治維新以来の変化をもたらす。そして、それは、皇室にも波及した。皇太子に、米国人の家庭教師が任命された」、なるほど。
・『ジミーと呼ばれた皇太子  敗戦の翌年、皇太子の英語教師として、エリザベス・バイニング夫人が来日する。だが、彼女が、単なる教師を超え、皇室のアドバイザー的存在だったのは、明らかだ。回顧録『皇太子の窓』で、こう述べている。 「私は天皇陛下御自身に任命された家庭教師なのである」 「そして、英語を教えるということは、日本に対して新しい動的な関係をもつようになったアメリカ的な民主主義の思想と実践とを、皇太子殿下その他の生徒たちに教えるという、さらに大きな仕事の方便にすぎないこともわかっていた」  実際、彼女は学習院中等科の授業で、生徒に英語のニックネームをつけ、エイブラハム・リンカーンの演説を暗記させた。皇太子にも「ジミー」という名を与え、様々なテーマで討論させた。 また、昭和天皇から教育で意見を求められ、吉田茂首相とも付き合い、日本の戦後史の目撃者と言える。それを、苦々しく見つめていたのが、英国政府だった。ガスコインの報告書の末尾は、こうだ。 「日本に皇室が維持される場合、その継承者は、適切な民主主義の基盤を持つべきである。また、天皇と皇室は、立憲君主制の教育を受けるべきで、それは、米国人でなく、われわれのみが行い得る」』、「苦々しく見つめていたのが、英国政府だった。ガスコインの報告書の末尾は、こうだ。 「日本に皇室が維持される場合、その継承者は、適切な民主主義の基盤を持つべきである。また、天皇と皇室は、立憲君主制の教育を受けるべきで、それは、米国人でなく、われわれのみが行い得る」、なるほど。
・『英国に助けを求めたGHQ  米国に皇室改革などできるか、と言わんばかりだが、これには伏線があった。 占領開始直後、GHQは、宮中の大規模なリストラに踏み切る。5000人以上いた職員を削減したのだが、その後も、試行錯誤が続く。そもそも宮中の適正な規模、業務とは何か、彼らも知らなかったのだ。そこで助けを求めたのが、英国だ。 英外務省は、すぐにバッキンガム宮殿と協議し、職員数や内訳、業務を、GHQに伝えた。偉そうに日本の占領を仕切っているが、米国は、皇室改革のノウハウがない。報告を受けた外務省は、この機会を逃さなかった。そこから、家庭教師派遣プロジェクトが浮上する。 そして彼らは、バイニング夫人の情報を集め始めた。米国が支給する給与の額、手当をチェックし、参考にするためだ。その上で、大蔵省に予算措置を打診した。大蔵省も乗り気で、3年から5年、年間1000ポンドを出してもいいという。 これで、金の目途もついた。 ところが、この時のプロジェクトは、挫折してしまう。英国側の記録では、マッカーサーが乗り気ではなかったためらしい。英国外務省が唇を噛むのが目に浮かぶが、2年後、再びチャンスがやって来た。 1951年9月、サンフランシスコで、講和条約が調印され、翌年の春、発効した。これにより、日本占領は終わり、GHQも去っていく。そして、この頃、東京から、ある情報がもたらされた』、「GHQは、宮中の大規模なリストラに踏み切る。5000人以上いた職員を削減したのだが、その後も、試行錯誤が続く。そもそも宮中の適正な規模、業務とは何か、彼らも知らなかったのだ。そこで助けを求めたのが、英国だ。 英外務省は、すぐにバッキンガム宮殿と協議し、職員数や内訳、業務を、GHQに伝えた。偉そうに日本の占領を仕切っているが、米国は、皇室改革のノウハウがない。報告を受けた外務省は、この機会を逃さなかった。そこから、家庭教師派遣プロジェクトが浮上する・・・バイニング夫人の情報を集め始めた。米国が支給する給与の額、手当をチェックし、参考にするためだ。その上で、大蔵省に予算措置を打診した。大蔵省も乗り気で、3年から5年、年間1000ポンドを出してもいいという。 これで、金の目途もついた。 ところが、この時のプロジェクトは、挫折してしまう。英国側の記録では、マッカーサーが乗り気ではなかったためらしい」、なるほど。
・『「米国人は、何ら理解していない」  宮内庁の式部官長、松平康昌が、海外の王室制度を調査するため訪英することが決まったのだ。松平は、貴族院議員を経て宮中入りし、占領期、連合国との折衝を担った。その彼が、1952年1月、ロンドンへ入るという。これを機に説得しようと、英国外務省は動き始めた。 「(東京での)パーティーの席で、松平や田島(筆者注・田島道治宮内庁長官)は、かなり意図的に、『英国人家庭教師をつける考えは捨てていない。松平の訪英中、この提案に関心を持つ人間と会えないか』と言ってきた。ただ、彼らがどこまで真剣かは不明である」 「いかに立憲君主制を機能させるか、米国人は、何ら理解していない。彼らは、立憲君主とは、ただゴム印を押す者としか考えていない」 そして、今回、英国側は、家庭教師の人選まで検討した。オックスフォード大学トリニティ・カレッジの学長に、候補者の推薦を依頼した。さらに何と、松平説得に、国王ジョージ6世の長女、後のエリザベス女王まで動員しようとした。 松平との面談記録を読むと、執念じみたものさえ伝わってくる。 だが、結局、この時も話はまとまらなかった。時期尚早だったのかもしれないが、そもそもなぜ、英国は、ここまで家庭教師にこだわったのか。それは、英外務省文書の次の言葉から分かる。 「日本は、今後わずか10年から15年で、極東の極めて重要な要因となり、天皇の個人的影響力も、戦前より強くなると思われる。従って、皇室に英国への好意を抱かせるのは、われわれにも大きな利益となる。純粋に政治的観点からも、実現へ全力を尽くすべきである」 明治維新以来、英国は、あらゆるルートで日本の支配層に食い込んできた。留学生も受け入れ、彼らは、帰国後、近代国家の建設に貢献した。ところが、敗戦後、米国主導のGHQが幅を利かせ始める。立憲君主制も理解せず、自分に都合のいい改革を進めた。今こそ、われわれが存在感を発揮せねば。英国政府の本音を代弁すれば、こういう感じか。 皇太子明仁への家庭教師派遣、それは、戦後の国益を巡るせめぎ合いだった。そして、今から見ると、浩宮の留学のプロローグになっていたのが分かる。 80年代、英国は、外務省はおろか、サッチャー首相、エリザベス女王も動員し、留学を全面的に支援した。その裏には、終戦直後、米国に抱いた屈辱感があったのかもしれない』、「皇太子明仁への家庭教師派遣、それは、戦後の国益を巡るせめぎ合いだった。そして、今から見ると、浩宮の留学のプロローグになっていたのが分かる。 80年代、英国は、外務省はおろか、サッチャー首相、エリザベス女王も動員し、留学を全面的に支援した。その裏には、終戦直後、米国に抱いた屈辱感があったのかもしれない」、その通りなのだろう。
・『「この体験は、将来、息子にとって真の財産となることでしょう」  だが、英国の思惑はどうあれ、留学が、浩宮の生涯の財産になったのは、間違いない。「テムズとともに」は、オックスフォードでの日々を愛おしむように綴っている。それは、まさに内側から英国を、外から日本を見つめ直す体験だった。そして、1985年10月、ロンドンの空港を飛び立つ場面で終わっていた。 「ロンドンの風景が遠ざかるのを見ながら、私の中で自分の人生にとって重要な一つの章が終わり、新たなページが開かれる思いがし、しばし心の中に大きな空白ができたような気がした。それとともに、内心熱いものがこみ上げて来る衝動も隠すことはできなかった。私は、ただ、じっと窓の外を見つめていた」 その翌月、ホームステイ先だったホール大佐に、日本のある人物から、感謝の手紙が届けられる。 「英国での滞在と勉学が実り多く、息子が大きく成長できたことを、妻と私も大変嬉しく思います。この体験は、将来、息子にとって真の財産となることでしょう」 ロンドンの英公文書館が保管する手紙は、直筆の署名で、「Akihito」とある。浩宮を留学に送り出した父であり平成の天皇、そして、現在の上皇からの手紙であった。 徳本栄一郎氏の略歴はリンク先参照)』、「ホームステイ先だったホール大佐に、日本のある人物から、感謝の手紙が届けられる。 「英国での滞在と勉学が実り多く、息子が大きく成長できたことを、妻と私も大変嬉しく思います。この体験は、将来、息子にとって真の財産となることでしょう」 ロンドンの英公文書館が保管する手紙は、直筆の署名で、「Akihito」とある。浩宮を留学に送り出した父であり平成の天皇、そして、現在の上皇からの手紙であった」、「英国」側の苦労も報われたようだ。
タグ:天皇制度 (その4)(天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”、天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」) デイリー新潮 徳本栄一郎氏による「天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”」 『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社) 「1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学への留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。その間、内側から英国を眺め、外から日本を見つめ直せたという。 留学が、いかに大きな体験だったかが分かる」、確かに海外留学は貴重な体験だろう。 「従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めてとし、国王自ら、摂政宮に親電を打つべきという。 それから間もなく、日本の新聞に、英国王からの親電の内容が紹介された」、「従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めて」とは初めて知った。「日本の皇族が英国で教育を受けることになり、それを、国王も歓迎している。このニュースは、新鮮な驚きを伴って、国中に広まっていった」、英国側の手回しのよさは大したものだ。 「いくら天皇家とはいえ、一青年皇族の留学だ。それを、まるで国家プロジェクトのように扱っている。駐日大使はおろか、外務大臣、国王まで動員し、根回しする。この裏には、当時の英国の思惑が隠れていた。 過去、いくつもの世界帝国が登場したが、その中で、英国は特別な位置を占める。インドやアフリカに植民地を持ち、7つの海を航海し、日の沈まぬ大英帝国とされた。その英国が、20世紀初めに結んだのが、日英同盟だ・・・米国は、同盟の破棄を画策し、ついに受け入れさせるのに成功した。 その後、英国はすぐに、シンガポール軍港の強化を 検討し、日本では裏切られたとの感情が広がる」、なるほど。 「「宮中某重大事件」である。 これは、山縣有朋が、皇太子裕仁の妃に内定した良子女王(後の香淳皇后)の母方、島津家に色覚異常があるとし、婚約解消を迫った事件だ・・・西園寺公望や原敬首相は山縣を支持したが、大正天皇の皇后や島津家は、反山縣勢力を結集して対抗する・・・結局、皇太子が良子との結婚を強く望み、右翼の頭山満も反山縣につき、ついに婚約破棄の企ては潰れた」、こんな事件があったとは初めて知った。 「1925年7月、ロンドンのバッキンガム宮殿に近いビクトリア駅に、秩父宮と随員一行が到着した。出迎えたのは、王室関係者を初め、チェンバレン外務大臣らである。2年に亘るプロジェクトが成功した瞬間だ。 そして、それは同時に、英国政府の後輩への貴重な財産になってくれた。80年代、彼らが浩宮留学に動いた際、前例にしたのが、秩父宮なのだ。その浩宮は回顧録『テムズとともに』で、こう振り返っている。 「私は、イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる・・・イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる。これは、一つには家の建築方法と一脈通じるものがあるのではなかろうか。例えば、巨大な大聖堂にしても、それは数百年の歳月をかけて造られるものが 多い。最初に石を積んだ石工は、その完成を見られない。しかし、彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」、なるほど。 徳本栄一郎氏による「天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」 「1983年、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学の留学に出発した。まず、トム・ホール大佐宅にホームステイし、一般学生と寮生活をする。これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例で、その間、英国政府は、完璧とも言える体制で支援した。 私服の警護官が、目立たぬよう付き添い、一般学生と同じ生活ができるようにした。また、マーガレット・サッチャー首相やエリザベス女王とも交流するなど、浩宮にとって青春の忘れられない記憶になった」、なるほど。 「GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーは、文字通り、国を一変させた。 新憲法の制定や農地解放、財閥解体は、明治維新以来の変化をもたらす。そして、それは、皇室にも波及した。皇太子に、米国人の家庭教師が任命された」、なるほど。 「苦々しく見つめていたのが、英国政府だった。ガスコインの報告書の末尾は、こうだ。 「日本に皇室が維持される場合、その継承者は、適切な民主主義の基盤を持つべきである。また、天皇と皇室は、立憲君主制の教育を受けるべきで、それは、米国人でなく、われわれのみが行い得る」、なるほど。 「GHQは、宮中の大規模なリストラに踏み切る。5000人以上いた職員を削減したのだが、その後も、試行錯誤が続く。そもそも宮中の適正な規模、業務とは何か、彼らも知らなかったのだ。そこで助けを求めたのが、英国だ。 英外務省は、すぐにバッキンガム宮殿と協議し、職員数や内訳、業務を、GHQに伝えた。偉そうに日本の占領を仕切っているが、米国は、皇室改革のノウハウがない。報告を受けた外務省は、この機会を逃さなかった。そこから、家庭教師派遣プロジェクトが浮上する・・・ バイニング夫人の情報を集め始めた。米国が支給する給与の額、手当をチェックし、参考にするためだ。その上で、大蔵省に予算措置を打診した。大蔵省も乗り気で、3年から5年、年間1000ポンドを出してもいいという。 これで、金の目途もついた。 ところが、この時のプロジェクトは、挫折してしまう。英国側の記録では、マッカーサーが乗り気ではなかったためらしい」、なるほど。 「皇太子明仁への家庭教師派遣、それは、戦後の国益を巡るせめぎ合いだった。そして、今から見ると、浩宮の留学のプロローグになっていたのが分かる。 80年代、英国は、外務省はおろか、サッチャー首相、エリザベス女王も動員し、留学を全面的に支援した。その裏には、終戦直後、米国に抱いた屈辱感があったのかもしれない」、その通りなのだろう。 「ホームステイ先だったホール大佐に、日本のある人物から、感謝の手紙が届けられる。 「英国での滞在と勉学が実り多く、息子が大きく成長できたことを、妻と私も大変嬉しく思います。この体験は、将来、息子にとって真の財産となることでしょう」 ロンドンの英公文書館が保管する手紙は、直筆の署名で、「Akihito」とある。浩宮を留学に送り出した父であり平成の天皇、そして、現在の上皇からの手紙であった」、「英国」側の苦労も報われたようだ。
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