資本主義(その11)(資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム、渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか、資本主義とは何か 人間中心に考え直す) [経済政治動向]
資本主義については、昨年5月28日に取上げた。今日は、(その11)(資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム、渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか、資本主義とは何か 人間中心に考え直す)である。
先ずは、昨年5月11日付け東洋経済オンラインが掲載した 経済人類学者のジェイソン・ヒッケル氏による「資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム」を紹介しよう。
・『環境破壊、不平等、貧困……今、世界中で多くの人々が、資本主義が抱える問題に気づき始めている。 経済人類学者のジェイソン・ヒッケル氏によれば、資本主義は自然や身体をモノと見なして「外部化」し、搾取することで成立している、「ニーズを満たさないことを目的としたシステム」であるという。 そしてヒッケルは、「アニミズム対二元論」というユニークな視点で、資本主義の歴史とそれが内包する問題を白日の下にさらし、今後、私たちが目指すべき「成長に依存しない世界」を提示する。 今回、日本語版が4月に刊行された『資本主義の次に来る世界』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする』、興味深そうだ。
・『資本主義に対する誤謬 数か月前、わたしは生放送されるテレビ討論会のステージにいた。テーマは資本主義の未来だ。観客(オーディエンス)が注視する中、論敵は立ち上がってこう言った。ーー資本主義自体には、問題はまったくない。問題は、強欲なCEOと金で動く政治家のせいで資本主義が腐敗していることだ。わたしたちがすべきことは腐ったリンゴを取り除くことだ。そうすれば、すべてうまくいく。 資本主義とは、突き詰めれば市場で物を売り買いしている人々のことだ。地元のファーマーズマーケットであれ、モロッコの青空市場(スーク)であれ、彼らは、自分の技能を活かして生計を立てている罪なき人々だ。それのどこが間違っていると言うのか?) 聞こえのいい話だし、筋が通っているように思える。しかし、ファーマーズマーケットやスークの小さな店は、資本主義とは何の関係もない。その喩えは間違っている。しかも資本主義がなぜ生態系を破壊しているのかを理解するためには何の役にも立たない。 資本主義の仕組みを本当に理解したいのであれば、もっと深く掘り下げる必要がある。 その第一歩は、人間の歴史の大半を通じて、経済は「使用価値」〔人間の必要(ニーズ)を満たす有用性〕を中心に回っていたことを理解することだ。 農家が梨を育てたのは、そのみずみずしい甘さが好きだから、あるいは午後の空腹を和らげるためだった。 職人が椅子を作ったのは、ポーチでくつろぐ時やテーブルで食事をとる時に座るためだった。彼らが梨や椅子を売ることにしたのは、庭で使う鍬(くわ)や娘のためのポケットナイフといった別の有用な物を買う資金を得るためだった。 今日でも多くの人はこうした形で経済に参加している。わたしたちが店に行くのは、夕食の材料や冬の寒さをしのぐためのジャケットなど、自分にとって有用な物を買うためだ』、「わたしたちが店に行くのは、夕食の材料や冬の寒さをしのぐためのジャケットなど、自分にとって有用な物を買うためだ」、なるほど。
・『資本家のいない経済システム この種の経済は次のように表すことができる。Cは商品(梨や椅子)、Mはお金を表す。 C1→ M→C2 一見、これは資本主義を「個人間で有用な物を自由に交換すること」として、うまく説明しているように見える。ファーマーズマーケットやスークでの売買と同じだ。 しかし、ここに「資本家」は存在しない。人間の歴史のどの時代、どの場所でも、経済システムはおおむねこのようなものであった。それらと資本主義が異なるのは、資本家にとって価値の意味がまったく異なるからだ。 資本家は梨や椅子の有用性を認めるだろうが、彼らが梨や椅子を生産するのは、午後のおやつや座るための場所を得るためではなく、売って得たお金で他の有用な物を買うためでもない。目的はただ一つ、利益を生むことだ。) このシステムで重要なのは、物の使用価値ではなく、「交換価値」だ。それは次のように説明できる。 プライム(’)は量の増加を表す。 M→C→M’ これは使用価値経済とは正反対だ。だが、ここからが本題だ。 資本主義のもとでは、安定した利益を生むだけでは足りない。目標は、利益を再投資して生産プロセスを拡大し、前年より多くの利益を生むことだ。表すと次のようになる。 M→C→M’→C’→M”→C”→M’”……』、「資本主義のもとでは、安定した利益を生むだけでは足りない。目標は、利益を再投資して生産プロセスを拡大し、前年より多くの利益を生むことだ。表すと次のようになる。 M→C→M’→C’→M”→C”→M’”……」、なるほど。
・『地元のレストランと大企業の違い ここで起きていることを理解するために、2つのタイプの企業を例に挙げよう。 1つは地元のレストランだ。その店は年末の収支決算では黒字になっているが、オーナーは毎年ほぼ同じ利益を出すことで満足している。家賃を支払い、家族を養い、夏の休暇に旅行するには十分な金額だ。 このビジネスは、「賃金を支払い、利益を出す」という資本主義論理の要素になっているかもしれないが、それ自体は資本主義ではない。 なぜなら、その利益は使用価値の概念に基づいているからだ。中小企業の大半はこうしたやり方で経営されており、このような店は資本主義が生まれる数千年前からあった。 では次に、エクソンモービル、フェイスブック、アマゾンといった大企業について考えてみよう。それらの企業の経営のあり方は、地元のレストランが好むような安定した手法ではない。 アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓に食べ物を並べるためだけでなく、会社を大きくするために使われる。競合他社を買収し、地元の小売店を廃業に追い込み、新しい国に進出し、より多くの支店をつくり、人々に不必要なものを買わせる広告キャンペーンを打つ。すべては、年々利益を増やし続けるためだ。) これは自己強化のサイクルであり、加速し続けるランニングマシンだ。お金は利益になり、その利益がより多くのお金をもたらし、そのお金がさらに多くの利益になる。 これが資本主義の特徴であることに、わたしたちは気づき始めている。要するに資本家にとって利益は、単に特定の必要(ニーズ)を満たすためのお金ではなく、資本なのだ』、「地元のレストランだ。その店は年末の収支決算では黒字になっているが、オーナーは毎年ほぼ同じ利益を出すことで満足している。家賃を支払い、家族を養い、夏の休暇に旅行するには十分な金額だ。 このビジネスは、「賃金を支払い、利益を出す」という資本主義論理の要素になっているかもしれないが、それ自体は資本主義ではない。 なぜなら、その利益は使用価値の概念に基づいているからだ。中小企業の大半はこうしたやり方で経営されており、このような店は資本主義が生まれる数千年前からあった・・・アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓に食べ物を並べるためだけでなく、会社を大きくするために使われる。競合他社を買収し、地元の小売店を廃業に追い込み、新しい国に進出し、より多くの支店をつくり、人々に不必要なものを買わせる広告キャンペーンを打つ。すべては、年々利益を増やし続けるためだ。) これは自己強化のサイクルであり、加速し続けるランニングマシンだ。お金は利益になり、その利益がより多くのお金をもたらし、そのお金がさらに多くの利益になる。 これが資本主義の特徴であることに、わたしたちは気づき始めている。要するに資本家にとって利益は、単に特定の必要(ニーズ)を満たすためのお金ではなく、資本なのだ」、なるほど。
・『資本は永遠に自己増殖を求め続ける 重要なこととして、資本はさらなる資本を生み出すために再投資されなければならない。このプロセスは決して終わらず、ひたすら拡大し続ける。 地元のレストランが具体的な必要を満たすことを目指すのと違って、交換価値を蓄積するこのプロセスに明確な終点は存在しない。 それは根本的に人間の必要という概念から切り離されたものなのだ。 3つ目の公式を見れば、資本はウイルスに少々似たふるまいをすることがわかる。 ウイルスは自己複製するようプログラムされた遺伝子から成るが、それ自体は自己複製できない。自分を複製するには、宿主細胞に感染して、自分のDNAのコピーを作らせなければならない。 そうしてできたコピーが他の細胞に感染し、より多くのコピーを作らせる。ウイルスの唯一の目的は自己増殖だ。 資本もまた自己増殖の遺伝子から成り、ウイルスと同じように、触れるものすべてを自己増殖する自らのコピー、すなわち、より多くの資本に変えようとする。 このシステムは、永遠に拡大し続けるようプログラムされた圧倒的な破壊者、ジャガノート(注)になる』、「資本はさらなる資本を生み出すために再投資されなければならない。このプロセスは決して終わらず、ひたすら拡大し続ける」、なるほど。
(注)ジャガノート:イギリス植民地時代のインドのキリスト教宣教師の報告によって語が伝えられ、上記より転じて「止めることのできない巨大な力」「圧倒的破壊力」といった意味を持つ名詞となった(Wikipedhia))
・次に、一昨年6月16日付け日経ビジネスオンライン「渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/061400231/
・『政府は6月6日、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版案」を公表した。新しい資本主義は、官民連携による社会課題の解決によって新たな市場の創造と成長が実現し、その果実が国民に広く還元され、成長と分配の好循環を実現することが基本的な考え方だ。この考え方に沿って改訂版案では、転職しやすい労働市場の実現やスタートアップの支援に重点を置く内容となった。 企業が中長期の戦略を考える上でも重要になる「新しい資本主義」の実行計画の改訂版案をどう読み解けばいいのか。政府の新しい資本主義実現会議の有識者構成員でシブサワ・アンド・カンパニー代表取締役の渋澤健氏に聞いた。 政府が「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版案」を公表しました。渋澤さんも新しい資本主義実現会議の有識者構成員として策定に携わった立場ですが、2023改訂版案は何がポイントでしょうか。 渋澤健氏(以下、渋澤氏):そもそもの話ではありますが、「新しい資本主義」は、今の時代に大事なことを提案していると私は思っています。ただ、このメッセージが2021年に当初出たときには「分配政策」と受け取られて、やや残念だった面もあります。その後、政府は「これは成長戦略です。成長と分配の好循環です」と発信し、ある程度認知が広まってきました。 (渋澤健氏の略歴はリンク先参照) とはいえ、成長と分配の好循環も経済としては当たり前で、新しくはありません。今までの資本主義ではいろいろな目詰まりがあるので、それを取り除きましょうという意味では大事なことで、評価はできると思いますが、新しいものはあまりありませんでした。特に当初の議論ですと国内目線だけでした。もちろん国内だけで循環させることはとても大切です。しかし、人口のこれからの長期的なトレンドを見ると国内が小さくなることは明らかで、いくら好循環をつくり出しても限られています。 日本の新しい時代を考えたときに、グローバルの観点の好循環がないと駄目だと思っていました。今年は主要7カ国首脳会議(G7サミット)の議長国だったこともあり、これまでと比べるとその点はしっかりと書かれていると思います。 もう1つは「外部不経済を資本主義に取り込む」というメッセージがはっきりと打ち出された点です。これは当初から岸田首相が打ち出していたメッセージではあるのですが、より明確になったと思います。「外部不経済」というと少し難しい言葉のように思うかもしませんが、環境の問題とか社会の格差といったESGのEとSの部分です。 資本主義が取り残したことを否定するのではなく、資本主義に取り込みましょうというこのメッセージが私は非常に大切だと思っています。新しい資本主義はインクルーシブ(包摂的)な資本主義であると私は考えています。改訂版案では(経済的成長と社会課題解決の両立を目指す)インパクトスタートアップに対する支援策の項目もあります。インパクト投資についての日本の存在感はこの1年間でかなり広まりました。私自身は新しい資本主義の手段はここだと思っています。 人に投資をして社会的課題を解決し、成長するという考え方がよりはっきり打ち出されたように感じます。 渋澤氏:「外部不経済を資本主義に取り込む」を言い換えると、人を中心にしているということだと思います。以前は、賃金を上げるためには労働市場の流動性を高めなければという意見があると、それは分かるが難しいという話になっていました。 しかし、昨年の秋ごろからトーンが変わり、「リスキリングによる能力向上支援」「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」「成長分野への労働移動の円滑化」という三位一体の労働市場改革の指針が打ち出されるまでになったことは評価できる点です。) これからこの計画を実行していくに当たり、どういった点が重要になってきますか。 渋澤氏:労働市場の改革で言えば、シームレスな労働移動の円滑化がどこまで制度に落とし込めるか、さらに制度だけではなく、企業の労働の慣習に落とし込めるかが重要です。また同一労働同一賃金の考え方は外国人にも適用されると明示されていることも大きい。 やはり明治維新で渋沢栄一がつくった日本の資本主義を大きく変える機会ということでしょうか。 渋澤氏:そうですね。資本主義はもちろん課題がありますが、課題を解決して新しい環境に適応できます。新しい時代に合わせるといったことはやはり資本主義でないとできないと思います。 あとは企業が変われるかどうかでしょうか。 渋澤氏:変わらない企業は淘汰というかフェードアウトしてしまうのだと思います』、「資本主義が取り残したことを否定するのではなく、資本主義に取り込みましょうというこのメッセージが私は非常に大切だと思っています・・・渋澤氏:労働市場の改革で言えば、シームレスな労働移動の円滑化がどこまで制度に落とし込めるか、さらに制度だけではなく、企業の労働の慣習に落とし込めるかが重要です。また同一労働同一賃金の考え方は外国人にも適用されると明示されていることも大きい。 やはり明治維新で渋沢栄一がつくった日本の資本主義を大きく変える機会ということでしょうか」、なるほど。
・『「人的資本の情報開示」、まずできるところから 2023年3月期の決算から人への投資などを開示することになっていますが、どう開示するのかで行き詰まっているという企業の話も聞きます。 渋澤氏:マニュアルやガイドラインがないとできませんというのは非常に「サラリーマン」的です。日本ではすぐに「How」に行きがちですが、根本としてなぜそれが必要なのか、という議論が浅い気がします。ただ、「どうすればいいんですか」という声が上がってきているということは、以前はそんなことを考えていなかった人たちがどうすればいいか考えているということでもあるので、方向性としてはポジティブです。 そもそも企業の価値はこれですと言い切るのであればそれでいい。単純に株価×株数でいいわけです。それに対して企業の多くの方は「それだけではないです。こういう価値をつくっています」と言うわけです。であれば、それを見せてくださいということだと思います。 ただ、今はまだ社会課題市場や環境課題市場があるわけではないので、市場の数字を見て「はい、これが価値です」と言い切れない。だから企業は「自分たちはこういうところに価値があると思っていて、こういう目標を設定し、このように測定していますが、いかがでしょうか」と資本市場に出していかないといけません。 日本人は真面目なので、できるかできないかをすぐに判断しようとしますが、すべての課題が数値化できるかというとそうではありません。ですから、すべてができるわけではないけれども、できるところからやっていきましょうということです。 日本企業の場合、渋澤さんが言うように「How」が整理されるまで待って、結果的に出遅れてしまっている印象になっています。 渋澤氏:もう本当にそうなんですよ。人を大切にすることは日本企業がずっとやってきたことです。日本企業はもったいなすぎます。日本には大きな伸びしろがあると私は思っています』、「今はまだ社会課題市場や環境課題市場があるわけではないので、市場の数字を見て「はい、これが価値です」と言い切れない。だから企業は「自分たちはこういうところに価値があると思っていて、こういう目標を設定し、このように測定していますが、いかがでしょうか」と資本市場に出していかないといけません・・・人を大切にすることは日本企業がずっとやってきたことです。日本企業はもったいなすぎます。日本には大きな伸びしろがあると私は思っています」、その通りだ。
第三に、昨年12月27日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した多摩大学大学院経営情報学研究科 教授の堀内勉氏へのインタビュー(後編)「資本主義とは何か。人間中心に考え直す」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/336585
・『名著『読書大全』の著者、堀内勉氏が、かつて絶望の淵に立たされた時に読んだヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。そこに記された強制収容所での過酷な状況を生き抜いた考え方に、堀内氏は救いを見た。以来、読書は人生を変え、本と真摯(しんし)に向き合うことで、どう生きるかを考えた。その読書論を著した新著『人生を変える読書―人類三千年の叡智を力に変える』 (Gakken)をもとに、ロングインタビューした(Qは聞き手の質問、Aは堀内氏の回答)。前編に続く、後編をお送りします』、興味深そうだ。
・『デフォルトとしての資本主義 Q:前編で伺った、人生を変えた読書を経験した37歳の頃から、堀内さんが思索されているのが、本書の後半で書かれている「資本主義とは何か」だと思います。どのような思考の変遷だったのでしょうか。 A:西洋で言うと、中世はキリスト教が世界観を支配していたわけですね。教会の教えと違うことを言うと、殺されてしまうような時代でした。その後、ルネサンスや宗教改革、科学革命など、いろいろな時代を経て人々の考え方は変化していきました。 18世紀に資本主義が誕生しました。これは、ある意味で宗教のようなものです。この資本主義という人々の考えを大きく規定する枠組みが生まれ、思考から生活までを支配していきました。それへのアンチテーゼとして共産主義が生まれ、さらにそれら両方に対するアンチテーゼとしてナチズムに代表されるファシズムが出てくるわけです。 社会的動物である人間というのは、何らかのパラダイムを共有して、その中で生きていると思うのです。人々の考え方やそれを包含する文化というようなものが相互作用しながら、時代や社会の精神を構築して、その中で生きている。もちろん、細部を見ればそれぞれ考え方が違う人はいて、100%考え方が統一されているわけではありませんが、今日においては社会を強く規定しているオペレーティングシステム(OS)のようなものが資本主義なのではないでしょうか。それは、人々の価値観や行動様式を左右するものです。 現代に生きる私たちは、生まれた瞬間から資本主義社会の中にいて、わざわざ自分はこういう主義主張に従って生きるのだと言わなくても、最初から資本主義のOSに従って生活しています。そこでは、自動的に資本主義的に考えて、資本主義的に行動する。このように、現代において、資本主義という枠組みは、我々にとってのデフォルト状態になっているのです。 つまり、働いて、お金を稼いで、消費するという行動が、デフォルトの状態としてビルトインされている。就職についても、その年齢に達したら、大概の人は就職活動をします。そこでの選択の優先順位は、給与が高い会社が良い会社だということになっています。会社に入ってからは、より良い待遇を求めて出世を目指します。給与の前提になる会社の業績を高めようと考え、皆で収益を成長させていくよう努力するわけです。資本主義のOS上で生きている多くの人は、それに対して根本的な疑問を呈することなく、こうした行動を続けているのです。 私は(前編の)冒頭にお話ししたようなきっかけがあって、「なぜ会社は毎年、成長しないといけないのだろうか?」と、素朴な疑問を持つようになりました。企業で経営計画を立てる際、前年度対比何%増というのが当たり前になっていますが、そもそもなぜ毎年プラス成長が前提になっているのだろうか、と疑問に思うようになったのです。 その前提について、だれも、一度も、何の議論もしない。これは一体どういうことなのだろう、と考えるようになったのです。でもこれは真面目に考えだすと難しい問題で、自分だけではとても手に負えないと思い、知り合いの学者やビジネスパーソンに声をかけて、資本主義研究会というものを立ち上げました。 Q:本書では、「流されるだけの人生から抜け出すために」「基軸がなければ組織に寄りかかるしかない」「人類がつくってきた『考える道筋』」などの節があり、最初に、ソクラテスやプラトン、アリストテレスに始まるギリシャ哲学について多く論じていますね。 A:哲学の意義については話し始めるときりがないので、関心がある方は、本書『人生を考える読書』や、前著『読書大全』を読んでいただければと思います。 若い頃、回し車の中を走るハムスターのように、毎日、会社で懸命に仕事をしていた時は、何も考えていなかったのですが、37歳の時にそこからいったん降りて、「資本主義とは一体なんなのか?」と考え始めたら、そのメカニズムだけでなく、そこで生きている人間の中に根差した何かが見えてきたのです。その根源的なところにあるのが、哲学ですね。 まずは、多くの経済学の学者に話を聞きに行ってみました。でも、驚くことに、資本主義に関する私の素朴な疑問に答えてくれるような先生にはなかなか出会えませんでした。例えて言うなら、自らが自覚しないうちにサッカーフィールドに立っていて、そこでいかに効果的にゴールを決めるか、どうやって相手チームを打ち負かすかという研究に没頭し、そのための戦術を研究している先生は多いのですが、「なぜ相手のゴールにボールを蹴り込まなければいけないのか?」という疑問に答えてくれる人はどこにもいないという感じです。 数学を駆使して、メカニズムとしての経済動向や市場の動きを緻密に研究している先生は多くても、なぜ人々はそうした行動をとらなければならないのか、どうしてそのような社会になっているのかについて、納得のいく説明をしてくれる先生はいませんでした。つまり、経済思想について研究している先生になかなか巡り合えなかったのです』、「数学を駆使して、メカニズムとしての経済動向や市場の動きを緻密に研究している先生は多くても、なぜ人々はそうした行動をとらなければならないのか、どうしてそのような社会になっているのかについて、納得のいく説明をしてくれる先生はいませんでした。つまり、経済思想について研究している先生になかなか巡り合えなかったのです」、なるほど。
・『アダム・スミスの『道徳感情論』と『国富論』 Q:本書の第4章で、模索の結果、アダム・スミスの『道徳感情論』にたどり着いたと、書かれています。 A:そして最後に、大阪大学大学院教授の堂目卓生先生に出会ったのです。堂目先生は、私の話をじっくり聞いた上で、「それはマルクスが感じた根源的な疑問そのものですね」と言われました。 ですから、経済思想については、まずは堂目先生の『アダム・スミス―「道徳感情論」と「国富論」の世界』(中公新書)をお勧めします。近代経済学の祖のアダム・スミスといえば、多くの人が『国富論(諸国民の富)』を思い浮かべます。同書でスミスは、何が国民にとって富に当たるのかを説きました。それも、一国の富ではなく、「諸国民」の富についてです。スミスは、個人が利己的に行動しても、経済は「見えざる手」によってうまく回るということで、市場機能に基づく自由放任主義を唱えています。そのため同書は、今日で言うところの新自由主義的なメッセージを含んだ本だという理解が広まりました。 しかし、それは非常に一面的な理解なのです。スミスを理解するには、『国富論』より17年も前に彼が書いた『道徳感情論』も読む必要があります。同書でスミスは、社会秩序は理性ではなく、道徳感情によって基礎づけられるのだと結論づけました。人間というのは共感する生きものであり、その共感する力が人間の道徳的な観念を形づくり、それが社会を成り立たせているというのです。 スミスは『道徳感情論』を生涯に5回書き直しました。彼の死の直前、1790年の最終版の序論で、1776年に出した『国富論』は彼の道徳哲学の全体構想の一部であったことを明らかにしています。つまり、『国富論』は『道徳感情論』を前提にした経済書であり、単なる自由放任と弱肉強食の書ではないのです。 『道徳感情論』は、古代ギリシャやローマの哲学をはじめ、過去の文献を多く読み解いて引用した上で、自分が生きた18世紀半ばの時代の人々を細かく観察しながら、社会を解説しています。読めば読むほど、「人間とはこういうものだ」ということが深く理解できる書物です。 スミスとともに、やはりマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、資本主義について一定の説得力を持って論じていることを付言しておきたいと思います。プロテスタンティズムの中の、特にカルバン派の禁欲の精神と蓄財、神による救済という考え方により、なぜ西洋にだけ資本主義が根付いたのかを明かしています』、「スミスは『道徳感情論』を生涯に5回書き直しました。彼の死の直前、1790年の最終版の序論で、1776年に出した『国富論』は彼の道徳哲学の全体構想の一部であったことを明らかにしています。つまり、『国富論』は『道徳感情論』を前提にした経済書であり、単なる自由放任と弱肉強食の書ではないのです・・・スミスとともに、やはりマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、資本主義について一定の説得力を持って論じている」、なるほど。
・『宇沢弘文の『社会的共通資本』の意義 Q:本書で、アダム・スミスの他に一人の学者について一節を設けて論じているのは、「宇沢弘文の『人間のための経済学』」です。 A:宇沢弘文先生は1956年、28歳の時に渡米して、数理経済学の分野で多くの論文を発表し、36歳でシカゴ大学教授に就任します。「ノーベル経済学者に最も近い日本人」とも言われていました。しかし、米国のベトナム戦争に反対して、68年に日本に帰国します。 その後、宇沢先生は東京大学で経済学を教えると同時に、自動車の排気ガスや水俣病などの公害問題、成田空港問題などの解決に向けての社会運動に積極的に関与していきます。 宇沢先生の本も多く読みました。私と同様に、先生も「経済学は人間を幸せにしているのか?」という疑問に行き当たったのではないでしょうか。同書の中では、「なぜ社会の中心に人間が置かれずに、人間が市場経済という鋳型に嵌(は)め込まれなければならないのか?」「資本主義というシステムの中に、人々が本来の人間性を取り戻して平和に暮らせる仕組みを埋め込むことはできないか?」といった問題意識や危機感が見て取れます。 宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(『社会的共通資本』岩波新書)です。大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。 そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています。 Q:本書では、「『資本主義』社会を『人間』社会として見る」という節を最後の方でまとめられていますね。 A:人類はかつて、有害物質を海にまき散らしても、海はとても大きいからそれを薄めてくれるし、浄化してくれると考えてきました。地球上にはフロンティアがいくらでもあり、ここまでは自分たちの関心事だけれど、その向こう側は放っておいてもなんとかなるという世界観でした。それが今やグローバル化の時代に突入して、実は地球はとても狭く、有限だったということが認識されるようになってきました。その中で、2015年からSDGs(持続可能な開発目標)を国連が提唱し始めます。このSDGsの考え方は、宇沢先生の社会的共通資本に通底するものだと思います。 歴史を振り返ってみると、最初はうまく機能していた社会システムや政治体制も、いつの間にかそれが人間の上位概念になってしまい、それによって人間が疎外され、人間が不幸になっていくということが繰り返されてきました。人類の長い歴史を見てみると、ある「枠組み」に全面的に依存して自ら考えることを放棄してしまうと、人間は必ず不幸になるということがわかります。 ですから、常に、人間の視点から、枠組みを見直し続けていく必要があると思うのです。例えば、共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです。 その意味では、宇沢先生は時代のかなり先を行っていたと言えます。もし彼が今生きていたら、世界が彼の考え方に耳を傾けていたと思うのです。(了)』、「宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」・・・です。大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。 そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています・・・共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです」、その通りなのだろう。
先ずは、昨年5月11日付け東洋経済オンラインが掲載した 経済人類学者のジェイソン・ヒッケル氏による「資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム」を紹介しよう。
・『環境破壊、不平等、貧困……今、世界中で多くの人々が、資本主義が抱える問題に気づき始めている。 経済人類学者のジェイソン・ヒッケル氏によれば、資本主義は自然や身体をモノと見なして「外部化」し、搾取することで成立している、「ニーズを満たさないことを目的としたシステム」であるという。 そしてヒッケルは、「アニミズム対二元論」というユニークな視点で、資本主義の歴史とそれが内包する問題を白日の下にさらし、今後、私たちが目指すべき「成長に依存しない世界」を提示する。 今回、日本語版が4月に刊行された『資本主義の次に来る世界』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする』、興味深そうだ。
・『資本主義に対する誤謬 数か月前、わたしは生放送されるテレビ討論会のステージにいた。テーマは資本主義の未来だ。観客(オーディエンス)が注視する中、論敵は立ち上がってこう言った。ーー資本主義自体には、問題はまったくない。問題は、強欲なCEOと金で動く政治家のせいで資本主義が腐敗していることだ。わたしたちがすべきことは腐ったリンゴを取り除くことだ。そうすれば、すべてうまくいく。 資本主義とは、突き詰めれば市場で物を売り買いしている人々のことだ。地元のファーマーズマーケットであれ、モロッコの青空市場(スーク)であれ、彼らは、自分の技能を活かして生計を立てている罪なき人々だ。それのどこが間違っていると言うのか?) 聞こえのいい話だし、筋が通っているように思える。しかし、ファーマーズマーケットやスークの小さな店は、資本主義とは何の関係もない。その喩えは間違っている。しかも資本主義がなぜ生態系を破壊しているのかを理解するためには何の役にも立たない。 資本主義の仕組みを本当に理解したいのであれば、もっと深く掘り下げる必要がある。 その第一歩は、人間の歴史の大半を通じて、経済は「使用価値」〔人間の必要(ニーズ)を満たす有用性〕を中心に回っていたことを理解することだ。 農家が梨を育てたのは、そのみずみずしい甘さが好きだから、あるいは午後の空腹を和らげるためだった。 職人が椅子を作ったのは、ポーチでくつろぐ時やテーブルで食事をとる時に座るためだった。彼らが梨や椅子を売ることにしたのは、庭で使う鍬(くわ)や娘のためのポケットナイフといった別の有用な物を買う資金を得るためだった。 今日でも多くの人はこうした形で経済に参加している。わたしたちが店に行くのは、夕食の材料や冬の寒さをしのぐためのジャケットなど、自分にとって有用な物を買うためだ』、「わたしたちが店に行くのは、夕食の材料や冬の寒さをしのぐためのジャケットなど、自分にとって有用な物を買うためだ」、なるほど。
・『資本家のいない経済システム この種の経済は次のように表すことができる。Cは商品(梨や椅子)、Mはお金を表す。 C1→ M→C2 一見、これは資本主義を「個人間で有用な物を自由に交換すること」として、うまく説明しているように見える。ファーマーズマーケットやスークでの売買と同じだ。 しかし、ここに「資本家」は存在しない。人間の歴史のどの時代、どの場所でも、経済システムはおおむねこのようなものであった。それらと資本主義が異なるのは、資本家にとって価値の意味がまったく異なるからだ。 資本家は梨や椅子の有用性を認めるだろうが、彼らが梨や椅子を生産するのは、午後のおやつや座るための場所を得るためではなく、売って得たお金で他の有用な物を買うためでもない。目的はただ一つ、利益を生むことだ。) このシステムで重要なのは、物の使用価値ではなく、「交換価値」だ。それは次のように説明できる。 プライム(’)は量の増加を表す。 M→C→M’ これは使用価値経済とは正反対だ。だが、ここからが本題だ。 資本主義のもとでは、安定した利益を生むだけでは足りない。目標は、利益を再投資して生産プロセスを拡大し、前年より多くの利益を生むことだ。表すと次のようになる。 M→C→M’→C’→M”→C”→M’”……』、「資本主義のもとでは、安定した利益を生むだけでは足りない。目標は、利益を再投資して生産プロセスを拡大し、前年より多くの利益を生むことだ。表すと次のようになる。 M→C→M’→C’→M”→C”→M’”……」、なるほど。
・『地元のレストランと大企業の違い ここで起きていることを理解するために、2つのタイプの企業を例に挙げよう。 1つは地元のレストランだ。その店は年末の収支決算では黒字になっているが、オーナーは毎年ほぼ同じ利益を出すことで満足している。家賃を支払い、家族を養い、夏の休暇に旅行するには十分な金額だ。 このビジネスは、「賃金を支払い、利益を出す」という資本主義論理の要素になっているかもしれないが、それ自体は資本主義ではない。 なぜなら、その利益は使用価値の概念に基づいているからだ。中小企業の大半はこうしたやり方で経営されており、このような店は資本主義が生まれる数千年前からあった。 では次に、エクソンモービル、フェイスブック、アマゾンといった大企業について考えてみよう。それらの企業の経営のあり方は、地元のレストランが好むような安定した手法ではない。 アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓に食べ物を並べるためだけでなく、会社を大きくするために使われる。競合他社を買収し、地元の小売店を廃業に追い込み、新しい国に進出し、より多くの支店をつくり、人々に不必要なものを買わせる広告キャンペーンを打つ。すべては、年々利益を増やし続けるためだ。) これは自己強化のサイクルであり、加速し続けるランニングマシンだ。お金は利益になり、その利益がより多くのお金をもたらし、そのお金がさらに多くの利益になる。 これが資本主義の特徴であることに、わたしたちは気づき始めている。要するに資本家にとって利益は、単に特定の必要(ニーズ)を満たすためのお金ではなく、資本なのだ』、「地元のレストランだ。その店は年末の収支決算では黒字になっているが、オーナーは毎年ほぼ同じ利益を出すことで満足している。家賃を支払い、家族を養い、夏の休暇に旅行するには十分な金額だ。 このビジネスは、「賃金を支払い、利益を出す」という資本主義論理の要素になっているかもしれないが、それ自体は資本主義ではない。 なぜなら、その利益は使用価値の概念に基づいているからだ。中小企業の大半はこうしたやり方で経営されており、このような店は資本主義が生まれる数千年前からあった・・・アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓に食べ物を並べるためだけでなく、会社を大きくするために使われる。競合他社を買収し、地元の小売店を廃業に追い込み、新しい国に進出し、より多くの支店をつくり、人々に不必要なものを買わせる広告キャンペーンを打つ。すべては、年々利益を増やし続けるためだ。) これは自己強化のサイクルであり、加速し続けるランニングマシンだ。お金は利益になり、その利益がより多くのお金をもたらし、そのお金がさらに多くの利益になる。 これが資本主義の特徴であることに、わたしたちは気づき始めている。要するに資本家にとって利益は、単に特定の必要(ニーズ)を満たすためのお金ではなく、資本なのだ」、なるほど。
・『資本は永遠に自己増殖を求め続ける 重要なこととして、資本はさらなる資本を生み出すために再投資されなければならない。このプロセスは決して終わらず、ひたすら拡大し続ける。 地元のレストランが具体的な必要を満たすことを目指すのと違って、交換価値を蓄積するこのプロセスに明確な終点は存在しない。 それは根本的に人間の必要という概念から切り離されたものなのだ。 3つ目の公式を見れば、資本はウイルスに少々似たふるまいをすることがわかる。 ウイルスは自己複製するようプログラムされた遺伝子から成るが、それ自体は自己複製できない。自分を複製するには、宿主細胞に感染して、自分のDNAのコピーを作らせなければならない。 そうしてできたコピーが他の細胞に感染し、より多くのコピーを作らせる。ウイルスの唯一の目的は自己増殖だ。 資本もまた自己増殖の遺伝子から成り、ウイルスと同じように、触れるものすべてを自己増殖する自らのコピー、すなわち、より多くの資本に変えようとする。 このシステムは、永遠に拡大し続けるようプログラムされた圧倒的な破壊者、ジャガノート(注)になる』、「資本はさらなる資本を生み出すために再投資されなければならない。このプロセスは決して終わらず、ひたすら拡大し続ける」、なるほど。
(注)ジャガノート:イギリス植民地時代のインドのキリスト教宣教師の報告によって語が伝えられ、上記より転じて「止めることのできない巨大な力」「圧倒的破壊力」といった意味を持つ名詞となった(Wikipedhia))
・次に、一昨年6月16日付け日経ビジネスオンライン「渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/061400231/
・『政府は6月6日、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版案」を公表した。新しい資本主義は、官民連携による社会課題の解決によって新たな市場の創造と成長が実現し、その果実が国民に広く還元され、成長と分配の好循環を実現することが基本的な考え方だ。この考え方に沿って改訂版案では、転職しやすい労働市場の実現やスタートアップの支援に重点を置く内容となった。 企業が中長期の戦略を考える上でも重要になる「新しい資本主義」の実行計画の改訂版案をどう読み解けばいいのか。政府の新しい資本主義実現会議の有識者構成員でシブサワ・アンド・カンパニー代表取締役の渋澤健氏に聞いた。 政府が「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版案」を公表しました。渋澤さんも新しい資本主義実現会議の有識者構成員として策定に携わった立場ですが、2023改訂版案は何がポイントでしょうか。 渋澤健氏(以下、渋澤氏):そもそもの話ではありますが、「新しい資本主義」は、今の時代に大事なことを提案していると私は思っています。ただ、このメッセージが2021年に当初出たときには「分配政策」と受け取られて、やや残念だった面もあります。その後、政府は「これは成長戦略です。成長と分配の好循環です」と発信し、ある程度認知が広まってきました。 (渋澤健氏の略歴はリンク先参照) とはいえ、成長と分配の好循環も経済としては当たり前で、新しくはありません。今までの資本主義ではいろいろな目詰まりがあるので、それを取り除きましょうという意味では大事なことで、評価はできると思いますが、新しいものはあまりありませんでした。特に当初の議論ですと国内目線だけでした。もちろん国内だけで循環させることはとても大切です。しかし、人口のこれからの長期的なトレンドを見ると国内が小さくなることは明らかで、いくら好循環をつくり出しても限られています。 日本の新しい時代を考えたときに、グローバルの観点の好循環がないと駄目だと思っていました。今年は主要7カ国首脳会議(G7サミット)の議長国だったこともあり、これまでと比べるとその点はしっかりと書かれていると思います。 もう1つは「外部不経済を資本主義に取り込む」というメッセージがはっきりと打ち出された点です。これは当初から岸田首相が打ち出していたメッセージではあるのですが、より明確になったと思います。「外部不経済」というと少し難しい言葉のように思うかもしませんが、環境の問題とか社会の格差といったESGのEとSの部分です。 資本主義が取り残したことを否定するのではなく、資本主義に取り込みましょうというこのメッセージが私は非常に大切だと思っています。新しい資本主義はインクルーシブ(包摂的)な資本主義であると私は考えています。改訂版案では(経済的成長と社会課題解決の両立を目指す)インパクトスタートアップに対する支援策の項目もあります。インパクト投資についての日本の存在感はこの1年間でかなり広まりました。私自身は新しい資本主義の手段はここだと思っています。 人に投資をして社会的課題を解決し、成長するという考え方がよりはっきり打ち出されたように感じます。 渋澤氏:「外部不経済を資本主義に取り込む」を言い換えると、人を中心にしているということだと思います。以前は、賃金を上げるためには労働市場の流動性を高めなければという意見があると、それは分かるが難しいという話になっていました。 しかし、昨年の秋ごろからトーンが変わり、「リスキリングによる能力向上支援」「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」「成長分野への労働移動の円滑化」という三位一体の労働市場改革の指針が打ち出されるまでになったことは評価できる点です。) これからこの計画を実行していくに当たり、どういった点が重要になってきますか。 渋澤氏:労働市場の改革で言えば、シームレスな労働移動の円滑化がどこまで制度に落とし込めるか、さらに制度だけではなく、企業の労働の慣習に落とし込めるかが重要です。また同一労働同一賃金の考え方は外国人にも適用されると明示されていることも大きい。 やはり明治維新で渋沢栄一がつくった日本の資本主義を大きく変える機会ということでしょうか。 渋澤氏:そうですね。資本主義はもちろん課題がありますが、課題を解決して新しい環境に適応できます。新しい時代に合わせるといったことはやはり資本主義でないとできないと思います。 あとは企業が変われるかどうかでしょうか。 渋澤氏:変わらない企業は淘汰というかフェードアウトしてしまうのだと思います』、「資本主義が取り残したことを否定するのではなく、資本主義に取り込みましょうというこのメッセージが私は非常に大切だと思っています・・・渋澤氏:労働市場の改革で言えば、シームレスな労働移動の円滑化がどこまで制度に落とし込めるか、さらに制度だけではなく、企業の労働の慣習に落とし込めるかが重要です。また同一労働同一賃金の考え方は外国人にも適用されると明示されていることも大きい。 やはり明治維新で渋沢栄一がつくった日本の資本主義を大きく変える機会ということでしょうか」、なるほど。
・『「人的資本の情報開示」、まずできるところから 2023年3月期の決算から人への投資などを開示することになっていますが、どう開示するのかで行き詰まっているという企業の話も聞きます。 渋澤氏:マニュアルやガイドラインがないとできませんというのは非常に「サラリーマン」的です。日本ではすぐに「How」に行きがちですが、根本としてなぜそれが必要なのか、という議論が浅い気がします。ただ、「どうすればいいんですか」という声が上がってきているということは、以前はそんなことを考えていなかった人たちがどうすればいいか考えているということでもあるので、方向性としてはポジティブです。 そもそも企業の価値はこれですと言い切るのであればそれでいい。単純に株価×株数でいいわけです。それに対して企業の多くの方は「それだけではないです。こういう価値をつくっています」と言うわけです。であれば、それを見せてくださいということだと思います。 ただ、今はまだ社会課題市場や環境課題市場があるわけではないので、市場の数字を見て「はい、これが価値です」と言い切れない。だから企業は「自分たちはこういうところに価値があると思っていて、こういう目標を設定し、このように測定していますが、いかがでしょうか」と資本市場に出していかないといけません。 日本人は真面目なので、できるかできないかをすぐに判断しようとしますが、すべての課題が数値化できるかというとそうではありません。ですから、すべてができるわけではないけれども、できるところからやっていきましょうということです。 日本企業の場合、渋澤さんが言うように「How」が整理されるまで待って、結果的に出遅れてしまっている印象になっています。 渋澤氏:もう本当にそうなんですよ。人を大切にすることは日本企業がずっとやってきたことです。日本企業はもったいなすぎます。日本には大きな伸びしろがあると私は思っています』、「今はまだ社会課題市場や環境課題市場があるわけではないので、市場の数字を見て「はい、これが価値です」と言い切れない。だから企業は「自分たちはこういうところに価値があると思っていて、こういう目標を設定し、このように測定していますが、いかがでしょうか」と資本市場に出していかないといけません・・・人を大切にすることは日本企業がずっとやってきたことです。日本企業はもったいなすぎます。日本には大きな伸びしろがあると私は思っています」、その通りだ。
第三に、昨年12月27日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した多摩大学大学院経営情報学研究科 教授の堀内勉氏へのインタビュー(後編)「資本主義とは何か。人間中心に考え直す」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/336585
・『名著『読書大全』の著者、堀内勉氏が、かつて絶望の淵に立たされた時に読んだヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。そこに記された強制収容所での過酷な状況を生き抜いた考え方に、堀内氏は救いを見た。以来、読書は人生を変え、本と真摯(しんし)に向き合うことで、どう生きるかを考えた。その読書論を著した新著『人生を変える読書―人類三千年の叡智を力に変える』 (Gakken)をもとに、ロングインタビューした(Qは聞き手の質問、Aは堀内氏の回答)。前編に続く、後編をお送りします』、興味深そうだ。
・『デフォルトとしての資本主義 Q:前編で伺った、人生を変えた読書を経験した37歳の頃から、堀内さんが思索されているのが、本書の後半で書かれている「資本主義とは何か」だと思います。どのような思考の変遷だったのでしょうか。 A:西洋で言うと、中世はキリスト教が世界観を支配していたわけですね。教会の教えと違うことを言うと、殺されてしまうような時代でした。その後、ルネサンスや宗教改革、科学革命など、いろいろな時代を経て人々の考え方は変化していきました。 18世紀に資本主義が誕生しました。これは、ある意味で宗教のようなものです。この資本主義という人々の考えを大きく規定する枠組みが生まれ、思考から生活までを支配していきました。それへのアンチテーゼとして共産主義が生まれ、さらにそれら両方に対するアンチテーゼとしてナチズムに代表されるファシズムが出てくるわけです。 社会的動物である人間というのは、何らかのパラダイムを共有して、その中で生きていると思うのです。人々の考え方やそれを包含する文化というようなものが相互作用しながら、時代や社会の精神を構築して、その中で生きている。もちろん、細部を見ればそれぞれ考え方が違う人はいて、100%考え方が統一されているわけではありませんが、今日においては社会を強く規定しているオペレーティングシステム(OS)のようなものが資本主義なのではないでしょうか。それは、人々の価値観や行動様式を左右するものです。 現代に生きる私たちは、生まれた瞬間から資本主義社会の中にいて、わざわざ自分はこういう主義主張に従って生きるのだと言わなくても、最初から資本主義のOSに従って生活しています。そこでは、自動的に資本主義的に考えて、資本主義的に行動する。このように、現代において、資本主義という枠組みは、我々にとってのデフォルト状態になっているのです。 つまり、働いて、お金を稼いで、消費するという行動が、デフォルトの状態としてビルトインされている。就職についても、その年齢に達したら、大概の人は就職活動をします。そこでの選択の優先順位は、給与が高い会社が良い会社だということになっています。会社に入ってからは、より良い待遇を求めて出世を目指します。給与の前提になる会社の業績を高めようと考え、皆で収益を成長させていくよう努力するわけです。資本主義のOS上で生きている多くの人は、それに対して根本的な疑問を呈することなく、こうした行動を続けているのです。 私は(前編の)冒頭にお話ししたようなきっかけがあって、「なぜ会社は毎年、成長しないといけないのだろうか?」と、素朴な疑問を持つようになりました。企業で経営計画を立てる際、前年度対比何%増というのが当たり前になっていますが、そもそもなぜ毎年プラス成長が前提になっているのだろうか、と疑問に思うようになったのです。 その前提について、だれも、一度も、何の議論もしない。これは一体どういうことなのだろう、と考えるようになったのです。でもこれは真面目に考えだすと難しい問題で、自分だけではとても手に負えないと思い、知り合いの学者やビジネスパーソンに声をかけて、資本主義研究会というものを立ち上げました。 Q:本書では、「流されるだけの人生から抜け出すために」「基軸がなければ組織に寄りかかるしかない」「人類がつくってきた『考える道筋』」などの節があり、最初に、ソクラテスやプラトン、アリストテレスに始まるギリシャ哲学について多く論じていますね。 A:哲学の意義については話し始めるときりがないので、関心がある方は、本書『人生を考える読書』や、前著『読書大全』を読んでいただければと思います。 若い頃、回し車の中を走るハムスターのように、毎日、会社で懸命に仕事をしていた時は、何も考えていなかったのですが、37歳の時にそこからいったん降りて、「資本主義とは一体なんなのか?」と考え始めたら、そのメカニズムだけでなく、そこで生きている人間の中に根差した何かが見えてきたのです。その根源的なところにあるのが、哲学ですね。 まずは、多くの経済学の学者に話を聞きに行ってみました。でも、驚くことに、資本主義に関する私の素朴な疑問に答えてくれるような先生にはなかなか出会えませんでした。例えて言うなら、自らが自覚しないうちにサッカーフィールドに立っていて、そこでいかに効果的にゴールを決めるか、どうやって相手チームを打ち負かすかという研究に没頭し、そのための戦術を研究している先生は多いのですが、「なぜ相手のゴールにボールを蹴り込まなければいけないのか?」という疑問に答えてくれる人はどこにもいないという感じです。 数学を駆使して、メカニズムとしての経済動向や市場の動きを緻密に研究している先生は多くても、なぜ人々はそうした行動をとらなければならないのか、どうしてそのような社会になっているのかについて、納得のいく説明をしてくれる先生はいませんでした。つまり、経済思想について研究している先生になかなか巡り合えなかったのです』、「数学を駆使して、メカニズムとしての経済動向や市場の動きを緻密に研究している先生は多くても、なぜ人々はそうした行動をとらなければならないのか、どうしてそのような社会になっているのかについて、納得のいく説明をしてくれる先生はいませんでした。つまり、経済思想について研究している先生になかなか巡り合えなかったのです」、なるほど。
・『アダム・スミスの『道徳感情論』と『国富論』 Q:本書の第4章で、模索の結果、アダム・スミスの『道徳感情論』にたどり着いたと、書かれています。 A:そして最後に、大阪大学大学院教授の堂目卓生先生に出会ったのです。堂目先生は、私の話をじっくり聞いた上で、「それはマルクスが感じた根源的な疑問そのものですね」と言われました。 ですから、経済思想については、まずは堂目先生の『アダム・スミス―「道徳感情論」と「国富論」の世界』(中公新書)をお勧めします。近代経済学の祖のアダム・スミスといえば、多くの人が『国富論(諸国民の富)』を思い浮かべます。同書でスミスは、何が国民にとって富に当たるのかを説きました。それも、一国の富ではなく、「諸国民」の富についてです。スミスは、個人が利己的に行動しても、経済は「見えざる手」によってうまく回るということで、市場機能に基づく自由放任主義を唱えています。そのため同書は、今日で言うところの新自由主義的なメッセージを含んだ本だという理解が広まりました。 しかし、それは非常に一面的な理解なのです。スミスを理解するには、『国富論』より17年も前に彼が書いた『道徳感情論』も読む必要があります。同書でスミスは、社会秩序は理性ではなく、道徳感情によって基礎づけられるのだと結論づけました。人間というのは共感する生きものであり、その共感する力が人間の道徳的な観念を形づくり、それが社会を成り立たせているというのです。 スミスは『道徳感情論』を生涯に5回書き直しました。彼の死の直前、1790年の最終版の序論で、1776年に出した『国富論』は彼の道徳哲学の全体構想の一部であったことを明らかにしています。つまり、『国富論』は『道徳感情論』を前提にした経済書であり、単なる自由放任と弱肉強食の書ではないのです。 『道徳感情論』は、古代ギリシャやローマの哲学をはじめ、過去の文献を多く読み解いて引用した上で、自分が生きた18世紀半ばの時代の人々を細かく観察しながら、社会を解説しています。読めば読むほど、「人間とはこういうものだ」ということが深く理解できる書物です。 スミスとともに、やはりマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、資本主義について一定の説得力を持って論じていることを付言しておきたいと思います。プロテスタンティズムの中の、特にカルバン派の禁欲の精神と蓄財、神による救済という考え方により、なぜ西洋にだけ資本主義が根付いたのかを明かしています』、「スミスは『道徳感情論』を生涯に5回書き直しました。彼の死の直前、1790年の最終版の序論で、1776年に出した『国富論』は彼の道徳哲学の全体構想の一部であったことを明らかにしています。つまり、『国富論』は『道徳感情論』を前提にした経済書であり、単なる自由放任と弱肉強食の書ではないのです・・・スミスとともに、やはりマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、資本主義について一定の説得力を持って論じている」、なるほど。
・『宇沢弘文の『社会的共通資本』の意義 Q:本書で、アダム・スミスの他に一人の学者について一節を設けて論じているのは、「宇沢弘文の『人間のための経済学』」です。 A:宇沢弘文先生は1956年、28歳の時に渡米して、数理経済学の分野で多くの論文を発表し、36歳でシカゴ大学教授に就任します。「ノーベル経済学者に最も近い日本人」とも言われていました。しかし、米国のベトナム戦争に反対して、68年に日本に帰国します。 その後、宇沢先生は東京大学で経済学を教えると同時に、自動車の排気ガスや水俣病などの公害問題、成田空港問題などの解決に向けての社会運動に積極的に関与していきます。 宇沢先生の本も多く読みました。私と同様に、先生も「経済学は人間を幸せにしているのか?」という疑問に行き当たったのではないでしょうか。同書の中では、「なぜ社会の中心に人間が置かれずに、人間が市場経済という鋳型に嵌(は)め込まれなければならないのか?」「資本主義というシステムの中に、人々が本来の人間性を取り戻して平和に暮らせる仕組みを埋め込むことはできないか?」といった問題意識や危機感が見て取れます。 宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(『社会的共通資本』岩波新書)です。大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。 そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています。 Q:本書では、「『資本主義』社会を『人間』社会として見る」という節を最後の方でまとめられていますね。 A:人類はかつて、有害物質を海にまき散らしても、海はとても大きいからそれを薄めてくれるし、浄化してくれると考えてきました。地球上にはフロンティアがいくらでもあり、ここまでは自分たちの関心事だけれど、その向こう側は放っておいてもなんとかなるという世界観でした。それが今やグローバル化の時代に突入して、実は地球はとても狭く、有限だったということが認識されるようになってきました。その中で、2015年からSDGs(持続可能な開発目標)を国連が提唱し始めます。このSDGsの考え方は、宇沢先生の社会的共通資本に通底するものだと思います。 歴史を振り返ってみると、最初はうまく機能していた社会システムや政治体制も、いつの間にかそれが人間の上位概念になってしまい、それによって人間が疎外され、人間が不幸になっていくということが繰り返されてきました。人類の長い歴史を見てみると、ある「枠組み」に全面的に依存して自ら考えることを放棄してしまうと、人間は必ず不幸になるということがわかります。 ですから、常に、人間の視点から、枠組みを見直し続けていく必要があると思うのです。例えば、共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです。 その意味では、宇沢先生は時代のかなり先を行っていたと言えます。もし彼が今生きていたら、世界が彼の考え方に耳を傾けていたと思うのです。(了)』、「宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」・・・です。大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。 そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています・・・共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです」、その通りなのだろう。
タグ:資本主義 (その11)(資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム、渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか、資本主義とは何か 人間中心に考え直す) 東洋経済オンライン ジェイソン・ヒッケル氏による「資本主義は「加速し続けるランニングマシン」だ 「交換価値」を求め続ける自己増殖システム」 『資本主義の次に来る世界』 「わたしたちが店に行くのは、夕食の材料や冬の寒さをしのぐためのジャケットなど、自分にとって有用な物を買うためだ」、なるほど。 「地元のレストランだ。その店は年末の収支決算では黒字になっているが、オーナーは毎年ほぼ同じ利益を出すことで満足している。家賃を支払い、家族を養い、夏の休暇に旅行するには十分な金額だ。 このビジネスは、「賃金を支払い、利益を出す」という資本主義論理の要素になっているかもしれないが、それ自体は資本主義ではない。 なぜなら、その利益は使用価値の概念に基づいているからだ。中小企業の大半はこうしたやり方で経営されており、このような店は資本主義が生まれる数千年前からあった・・・ アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓に食べ物を並べるためだけでなく、会社を大きくするために使われる。競合他社を買収し、地元の小売店を廃業に追い込み、新しい国に進出し、より多くの支店をつくり、人々に不必要なものを買わせる広告キャンペーンを打つ。すべては、年々利益を増やし続けるためだ。) これは自己強化のサイクルであり、加速し続けるランニングマシンだ。お金は利益になり、その利益がより多くのお金をもたらし、そのお金がさらに多くの利益になる。 これが資本主義の特徴であることに、わたしたちは気づき始めている。要する に資本家にとって利益は、単に特定の必要(ニーズ)を満たすためのお金ではなく、資本なのだ」、なるほど。 「資本はさらなる資本を生み出すために再投資されなければならない。このプロセスは決して終わらず、ひたすら拡大し続ける」、なるほど。 (注)ジャガノート:イギリス植民地時代のインドのキリスト教宣教師の報告によって語が伝えられ、上記より転じて「止めることのできない巨大な力」「圧倒的破壊力」といった意味を持つ名詞となった(Wikipedhia)) 日経ビジネスオンライン「渋澤健氏が語る「新しい資本主義」 「外部不経済」どう取り込むか」 「資本主義が取り残したことを否定するのではなく、資本主義に取り込みましょうというこのメッセージが私は非常に大切だと思っています・・・渋澤氏:労働市場の改革で言えば、シームレスな労働移動の円滑化がどこまで制度に落とし込めるか、さらに制度だけではなく、企業の労働の慣習に落とし込めるかが重要です。また同一労働同一賃金の考え方は外国人にも適用されると明示されていることも大きい。 やはり明治維新で渋沢栄一がつくった日本の資本主義を大きく変える機会ということでしょうか」、なるほど。 「今はまだ社会課題市場や環境課題市場があるわけではないので、市場の数字を見て「はい、これが価値です」と言い切れない。だから企業は「自分たちはこういうところに価値があると思っていて、こういう目標を設定し、このように測定していますが、いかがでしょうか」と資本市場に出していかないといけません・・・人を大切にすることは日本企業がずっとやってきたことです。日本企業はもったいなすぎます。日本には大きな伸びしろがあると私は思っています」、その通りだ。 ダイヤモンド・オンライン 堀内勉氏へのインタビュー(後編)「資本主義とは何か。人間中心に考え直す」 新著『人生を変える読書―人類三千年の叡智を力に変える』 (Gakken) 「数学を駆使して、メカニズムとしての経済動向や市場の動きを緻密に研究している先生は多くても、なぜ人々はそうした行動をとらなければならないのか、どうしてそのような社会になっているのかについて、納得のいく説明をしてくれる先生はいませんでした。つまり、経済思想について研究している先生になかなか巡り合えなかったのです」、なるほど。 「スミスは『道徳感情論』を生涯に5回書き直しました。彼の死の直前、1790年の最終版の序論で、1776年に出した『国富論』は彼の道徳哲学の全体構想の一部であったことを明らかにしています。つまり、『国富論』は『道徳感情論』を前提にした経済書であり、単なる自由放任と弱肉強食の書ではないのです・・・スミスとともに、やはりマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、資本主義について一定の説得力を持って論じている」、なるほど。 「宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」・・・です。 大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。 そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています・・・ 共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです」、その通りなのだろう。