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民主主義(その10)(民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由 『西洋の没落』の著者 エマヌエル・トッドの議論、「どうしてあんな候補が当選?」民主主義の“終焉論”と“過剰論”の対立から見える問題点) [経済政治動向]

民主主義については、本年3月6日に取上げた。今日は、(その10)(民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由 『西洋の没落』の著者 エマヌエル・トッドの議論、「どうしてあんな候補が当選?」民主主義の“終焉論”と“過剰論”の対立から見える問題点)である。

先ずは、本年3月13日付け東洋経済オンラインが掲載した哲学者・経済学者の的場 昭弘氏による「民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由 『西洋の没落』の著者、エマヌエル・トッドの議論」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/740473
・『今からほぼ100年前、1冊の本が書店に並んだ。それはオットー・シュペングラー(1880~1936年)の『西欧の没落』(1918年)である。フランスのアナール学派の創始者の1人でもあるリュシアン・フェーヴル(1878~1956年)は、その本が飛ぶように売れたときの様子をこう述べている。 「ドイツに一冊の書物が現れた。著者は当時無名のシュペングラーで、『西欧の没落』というセンセーショナルなタイトルが付されていた。ライン河畔の本屋の店先に山と積まれていた八折り版が当時飛ぶように売れるさまを今でも眼に浮かべることができる」(リュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社ライブラリー、87ページ)』、「今からほぼ100年前」のベストセラーとは興味深そうだ。
・『ドイツの崩壊と西欧の没落  シュペングラーの名は一躍有名になったが、この書物は、第一次世界大戦の直後に出版されたことで、戦争に病んだ人々の心をとらえたのだ。敗戦に遭遇したドイツの人々の多くは、ドイツの崩壊と西欧の没落を予感し、この書物を我先に買ったのである。もちろんこれは杞憂に終わったとも言える。 それは、西欧の代わりにアメリカという西欧が出現し、それから100年、なんとか西欧の地位を維持することができたからである。 しかし、2024年現在、ガザとウクライナで問題を抱える西欧の人々は、西欧の没落と同じことを考え始めているともいえる。今まで疑っていなかった西欧の自信が揺らぎ始めているのである。 それは西欧の代表でもあったアメリカを含むアングロ=サクソン帝国の世界が崩壊しつつあるかに見えるからである。 前回私はエマヌエル・トッドの『西欧の敗北』という書物を紹介したが、そこに書かれたウクライナとロシアについては言及したが、本題の西欧については言及しなかった。今回はその西欧についての部分を紹介したい。) この書物の最後の方の11章に、なぜ世界の残りの国はロシアを選んだのか」という章がある。その中に地図が掲載されている(307ページ)。そこには、ウクライナ戦争直後の4月7日、国連総会でのロシアに対する制裁決議案に賛成した国と、反対した国が、区分されている。 断固たる非難決議を支持した国と、それ以外の国を分けると、圧倒的に多くの地域が、この決議案に積極的に賛成しているのではないことがわかる。アメリカとEUそして、日本などの一部の国を除いて、多くは、この非難決議案に、同意していないのである』、「国連総会でのロシアに対する制裁決議案に」、「断固たる非難決議を支持した国と、それ以外の国を分けると、圧倒的に多くの地域が、この決議案に積極的に賛成しているのではないことがわかる」、賛成国がそんなに少ないとは衝撃的だ。
・『西欧を支持しなかった国の多さと西欧の誤解  ここからわかることは、いわゆる西欧(ここでは東欧も含まれる)は、人口にして12パーセントであり、残りの88%の非西欧人は西欧と同じようには考えていないということである。 その理由は、非西欧世界の人々にとって、グローバル化とは再植民地化の過程であり、非西欧には西欧とは違う価値基準が存在し、それが西欧と足並みをそろえることを拒否しているからである。 もちろん、ロシア人が彼らに好まれているわけではない。ただロシアは自らの価値を世界の価値だと喧伝もしないし、価値観を押しつけもしていないから、非西欧にとって、それは付き合い安い相手にしかすぎないのだ。  ウクライナ侵攻に関して西欧が盛んに主張していたキャッチフレーズに、「民主主義と自由を守るための闘争」だというものがあった。しかし、トッドは、それに対して、それでは西欧には本当に民主主義国というものあるのか、本当に自由があるのかという問いを発している。) では現状はどうなっているのか。もはや民衆に開かれた民主主義ではなく、一部のエリートに自由に開かれた自由な寡占的(オリガーキー)社会のみが存在していることになる。 しかし他方で、ロシアなどの地域ではかえって民衆の平等が支配し、確かに選ばれた政治家が権威主義的な力をもつことはあるが、それ自体は公平な民主的制度によって担われているともいえる。そうした社会をトッドは、全体主義社会ではなく、権威的民主社会と表現する』、「トッドは、それに対して、それでは西欧には本当に民主主義国というものあるのか、本当に自由があるのかという問いを発している。) では現状はどうなっているのか。もはや民衆に開かれた民主主義ではなく、一部のエリートに自由に開かれた自由な寡占的(オリガーキー)社会のみが存在していることになる・・・他方で、ロシアなどの地域ではかえって民衆の平等が支配し、確かに選ばれた政治家が権威主義的な力をもつことはあるが、それ自体は公平な民主的制度によって担われているともいえる。そうした社会をトッドは、全体主義社会ではなく、権威的民主社会と表現する」、なるほど。
・『「権威主義的民主社会」の浮上  そうなると、自由と民主主義vs全体主義という図式はもろくも崩れ、寡占的自由な社会vs民主的権威主義との対立となり、そもそも西欧が守っているものは、今では自由と民主主義ではなく、寡占的な自由な社会であるというのだ。 今の民主主義社会は、かつては衆愚社会と呼んでいたものですらなく、無能な一部エリートの寡占的社会だというのだ。 こうして西欧の政治家たちやジャーナリストたち、学者たちエリートは、内輪のセレブな社会にいそしんだ結果、ウクライナで起こっていることの判断を間違ったというのだ。 現実に起こっていることから、何を読み取るかではなく、今まで信じて来た安定と平和という価値観から抜けだすこともできず、現状にただ驚き、うろたえ、現実をしっかり見ることもできず、自らが現実の歴史の中にいることを忘れ、歴史の傍観者になっているのだという。 そして「さらに悪いことに、彼らは旅行者として歴史を横断し、ヴァカンス中の夜に「モノポリー」のゲームを楽しむように、言葉でヨーロッパを作りあげ、人々を煙に巻いたのである」(162ページ)。) トッドは、このような状態のことをロシアでは、「マクロン化」(Macroner)という新しい動詞として使われているのだと、紹介している。つまり、「何かしゃべりまくっているが、なにも語っていない」という意味だ。 とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという。それはウクライナ戦争報道においても現実を直視せず、希望的観測の報道に終始したニヒリズム的態度に現れているという。 その劣化は、アメリカ人の平均寿命が下がっていることにも現れている。2014年の77.3歳から、2020年の76.3歳に減少しているのだ。自殺、アルコール、戦争などの原因があるにしろ、1人当たりの所得7万5000ドルの国とは思えない水準である。 もちろんGNPなどというものは、ドル計算によるバブル計算にしかすぎない。金融サービスと産業が同じ金額だとしても、それが経済に与える意味はまったく違う。西欧社会は、日本とドイツを除いて産業の割合が低く、それに比べて非西欧ではその率がとても高い。実質的な豊かさを実現できていない、ドルだけもっているバブル社会だともいえる』、「西欧が守っているものは、今では自由と民主主義ではなく、寡占的な自由な社会であるというのだ。 今の民主主義社会は、かつては衆愚社会と呼んでいたものですらなく、無能な一部エリートの寡占的社会だというのだ・・・トッドは、このような状態のことをロシアでは、「マクロン化」(Macroner)という新しい動詞として使われているのだと、紹介している。つまり、「何かしゃべりまくっているが、なにも語っていない」という意味だ。 とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという・・・とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという。それはウクライナ戦争報道においても現実を直視せず、希望的観測の報道に終始したニヒリズム的態度に現れているという。 その劣化は、アメリカ人の平均寿命が下がっていることにも現れている。2014年の77.3歳から、2020年の76.3歳に減少しているのだ。自殺、アルコール、戦争などの原因があるにしろ、1人当たりの所得7万5000ドルの国とは思えない水準である」、なるほど。
・『オリガーキー民主社会vs権威主義的民主社会  こうした現状の中で、トランプなどの右翼政権があちこちで生まれているのはなぜかという深刻な問題もある。まさにエリートの思考と大衆とのねじれ構造がそこにあるのだが、西欧社会の一般民衆がデモクラシーからネグレクトされていることにも原因がある。 政治家も一流大学を出るエリートも、今や一部のものに限られるようになり、ジャーナリズムも法律も大衆にとって不都合な物になってくる中で、大衆は絶望感に陥っているともいえる。 そして、与えられるメディア情報も事実と真逆の都合のいい情報ばかりと来ている。そうした中で大衆は、エリートが「盲目」であるのと同じく、盲目の状態に追いやられている。) そう考えると、西欧社会が民主主義的だという根拠がどこにあるのかともいえる。そしてその民主主義が、まるで絵に描いた餅であり、現実が完全に裏切られているとすれば、大衆はどう抵抗すればいいのか。まさにそれが西欧社会で分断が生み出されている原因でもある。 刻苦勉励と高尚な意識を持った選ばれしエリートが、たんなる寡占支配の無能のゾンビ(生き返った死者)の集まりになったとき、人々が怒りをもってポピュリズムに流れるのも致し方のないことなのかもしれない』、「トランプなどの右翼政権があちこちで生まれているのはなぜかという深刻な問題もある。まさにエリートの思考と大衆とのねじれ構造がそこにあるのだが、西欧社会の一般民衆がデモクラシーからネグレクトされていることにも原因がある。 政治家も一流大学を出るエリートも、今や一部のものに限られるようになり、ジャーナリズムも法律も大衆にとって不都合な物になってくる中で、大衆は絶望感に陥っているともいえる・・・与えられるメディア情報も事実と真逆の都合のいい情報ばかりと来ている。そうした中で大衆は、エリートが「盲目」であるのと同じく、盲目の状態に追いやられている。) そう考えると、西欧社会が民主主義的だという根拠がどこにあるのかともいえる。そしてその民主主義が、まるで絵に描いた餅であり、現実が完全に裏切られているとすれば、大衆はどう抵抗すればいいのか。まさにそれが西欧社会で分断が生み出されている原因でもある」、なるほど。
・『民主主義という名の西欧の幻想  また非西欧諸国の多くが、民主主義という名の西欧の幻想にうんざりしていることも確かである。民主主義と自由が、新自由主義として新しい植民地主義をそれらの国に強いてきたのだとすれば、非西欧世界が西欧的価値観に対する偽善と嫌悪の意識を持つのも当然かもしれない。 もちろん、トッドの議論は親族構造などの歴史的背景を中心に世界を考察してきた社会学的分析、すなわち各地域の歴史的構造の分析にすぎないのかもしれない。この議論で、深層的構造を説明することは可能だが、突然変化する社会構造を説明することは難しい。 だから、ややもすると極めて保守的な議論になりかねない。新しい平等や自由を求める声が、旧い構造を変化させるのでそれを拒否し、旧い構造の持つプラスの側面を評価すればするだけ、保守的思想こそ重要だということになりかねないからだ。 しかし、人間のあり方がそう簡単に変化しないことも確かだ。各地で起きている西欧的価値観の受容がうまくいっていないことが、まさにそれを証明している。グローバル化の中で人間はよく似てくると同時に、他方でますます異化していくというのも事実だからである。 西欧が没落したかどうか、今のところまだわからないが、西欧の歴史が相対化される時代が始まったことだけは確かであろう。だからこそ、トッド以外に多くの同種の西欧没落論が今あちこちで出版されているのかもしれない。コロナそしてウクライナ、そしてガザ以降、西欧の没落は必然化してきたのかもしれない』、「西欧が没落したかどうか、今のところまだわからないが、西欧の歴史が相対化される時代が始まったことだけは確かであろう。だからこそ、トッド以外に多くの同種の西欧没落論が今あちこちで出版されているのかもしれない。コロナそしてウクライナ、そしてガザ以降、西欧の没落は必然化してきたのかもしれない」、その通りなのかも知れない。

次に、7月9日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した京都文教大学・龍谷大学非常勤講師の中島啓勝氏による「「どうしてあんな候補が当選?」民主主義の“終焉論”と“過剰論”の対立から見える問題点」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/344362
・『古代ギリシアからルーツがある民主主義。その歴史は人類の発展とともにあったと言えよう。しかし、現在はこれまでの常識では考えられないような候補者が当選するなどの事態が起こり、民主主義のあり方に疑問が呈されている。民主主義への“終焉論”と“過剰論”の対立も見られるが、こうした現状と問題点を中島啓勝氏が語る。※本稿は、中島啓勝『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房)の一部を抜粋・編集したものです』、「民主主義への“終焉論”と“過剰論”の対立」とは興味深そうだ。
・『民主主義は「勝利」したが 実際には「敗北」している  政治・社会思想史の研究者である森政稔はその著書『迷走する民主主義』の中で、欧米を中心に近年、民主主義についての悲観論が強まっていると述べている。普通選挙や議会制など、一般的に民主的だとされる政治制度が世界中に広まり、漠然とした観念としての民主主義に対して公然と反対を唱える人は少数派に過ぎないにもかかわらず、民主主義への失望が声高に語られているというのである。 確かに、「選挙なんて行っても仕方ない」と冷笑的なことを口にする人はいくらでもいるだろうが、「だから選挙制度なんてものは無くしてしまおう」とまで主張する人はそうそういないし、「自分は反民主主義者だ」と堂々と宣言する人がいたとしても、それは民主的な社会では言論の自由が守られているから可能なのであって、その意味ではこの自称「反民主主義者」も民主主義の恩恵を大いに受けている。 その理念や制度が広まり常態化したという意味では民主主義は勝利したはずなのに、人々の信頼を失っているという意味では敗北しつつあるという逆説がそこにはある』、「自分は反民主主義者だ」と堂々と宣言する人がいたとしても、それは民主的な社会では言論の自由が守られているから可能なのであって、その意味ではこの自称「反民主主義者」も民主主義の恩恵を大いに受けている。 その理念や制度が広まり常態化したという意味では民主主義は勝利したはずなのに、人々の信頼を失っているという意味では敗北しつつあるという逆説がそこにはある」、なるほど。
・『「民主主義の終焉」論と「民主主義の過剰」論  森は更にこうした悲観論を、「民主主義の終焉」論と「民主主義の過剰」論の2つに分けて説明しているのだが、これは非常に乱暴に言えば前者が「左派」的な視点、後者が「右派」的な視点だと言える。 「民主主義の終焉」論者は、民主主義が高度に発展した資本主義に従属的となっていることを問題視する。「生産者」というよりむしろ「消費者」的主体へと変質した市民が、民主的な手続きを通じて新自由主義的政策を支持することで社会的不平等と格差を広げてしまい、ますます民主主義の力を削いでしまうと主張する。 その一方で、「民主主義の過剰」論者は民主主義と資本主義を表裏一体のものだと捉える。彼らによると、消費社会における欲望の増大や公共心の衰退は、民主化およびそれに伴う社会の平準化によって引き起こされたものである。人々は政府が自分たちの私的欲求を満足させてくれないとクレーマー化するが、かと言って主体的に政治を担うには公共心が欠けているため、不満を一気に解決してくれるような強い権力者を求める。そして、民主主義は結局は独裁へと傾く、と主張するのである。) この2つの立場は、資本主義の暴走と新自由主義的政策を批判する点では共通しているが、民主主義を善玉とするか悪玉に据えるかにおいて鋭く対立しているように見える。 森は両者が用いる民主主義概念の相違にその原因を求めている。つまり、「終焉」論者が民主主義のことを、資本主義に代表される社会的現実に対抗する規範や理念だと考えているのに対して、「過剰」論者は民主主義のことをまさにその社会的現実そのもの、社会が向かっている傾向として見ているという。 それは確かにその通りなのだが、そもそも同じ民主主義という言葉が何故こうも対立的な概念として想起されてしまうのかを、よく考えてみる必要がある』、「こうした悲観論を、「民主主義の終焉」論と「民主主義の過剰」論の2つに分けて説明しているのだが、これは非常に乱暴に言えば前者が「左派」的な視点、後者が「右派」的な視点だと言える。 「民主主義の終焉」論者は、民主主義が高度に発展した資本主義に従属的となっていることを問題視する。「生産者」というよりむしろ「消費者」的主体へと変質した市民が、民主的な手続きを通じて新自由主義的政策を支持することで社会的不平等と格差を広げてしまい、ますます民主主義の力を削いでしまうと主張する。 その一方で、「民主主義の過剰」論者は民主主義と資本主義を表裏一体のものだと捉える。彼らによると、消費社会における欲望の増大や公共心の衰退は、民主化およびそれに伴う社会の平準化によって引き起こされたものである・・・この2つの立場は、資本主義の暴走と新自由主義的政策を批判する点では共通しているが、民主主義を善玉とするか悪玉に据えるかにおいて鋭く対立しているように見える。 森は両者が用いる民主主義概念の相違にその原因を求めている。つまり、「終焉」論者が民主主義のことを、資本主義に代表される社会的現実に対抗する規範や理念だと考えているのに対して、「過剰」論者は民主主義のことをまさにその社会的現実そのもの、社会が向かっている傾向として見ているという」・・・そもそも同じ民主主義という言葉が何故こうも対立的な概念として想起されてしまうのかを、よく考えてみる必要がある」、なるほど。
・『高度に発達した民主国家で「民主主義を守れ」と叫ぶ空虚さ  例えばこれがヨーロッパ社会で階級対立が顕在的であった時代の議論であれば、両陣営がどの社会集団に属しているかによって民主主義に対する心理的距離を説明することはもっと容易であった。 いわゆる「左派」は、恵まれない貧しい者たちを代弁する側としてこれから実現していくべき民主主義の理念を擁護するのが当然だっただろうし、「右派」は自分たちの価値観や既得権益に挑戦してくるこうした勢力を眼前の敵だと見なし、民主主義というものをより実体化した現実として憎んだことだろう。 しかし、現代の欧米諸国や日本ではどうだろうか。グローバルに展開する未曾有の格差社会という現実を顧みると、こうした社会対立がとっくに解消され過去の遺物になったなどという楽観的な見方はできないまでも、少なくとも民主主義に基づいた制度や文化がこれほどまでに社会に定着した時代はないのではないか。 もし仮にそうだとすると、ある意味では非常に奇妙なことに、実は「終焉」論の方がこの争いでは分が悪いように見える。民主化の進んだ社会において、民主的な手続きによって民主主義が縮小していることを「民主主義の終焉」と呼んで嘆いたり批判したりするのは随分と虫のいい話だからだ。 それよりも、民主主義の進展を敵視し警戒してきた「過剰」論の方が、事実認識の面でも思想的一貫性においてもまさっていると言わざるを得ない。それは、民主主義が良いものとされ続けてきたこれまでの一般的通念からすると、あまりにも意外かつ苦々しい結果だと言える。 「終焉」論より「過剰」論の方が説得的であるということは、裏を返せば規範や理念としての民主主義というビジョンが有効性を持たないことを意味している。「民主主義を推進しろ」「民主主義を守れ」とどんなに叫んでも、これほど民主主義が栄えた時代にその声は空しく響かざるを得ない。) しかし、そもそもである。ここで敢えて「終焉」論者の意見に従って、制度的現実としての民主主義が理念としての民主主義を封殺しようとしているとしよう。では、そこで封殺されつつある民主主義の理念とは実際にはどのようなものなのか。より公正な選挙だろうか。より開かれた議論だろうか。それとも、よりいき届いた福祉だろうか』、「民主主義の進展を敵視し警戒してきた「過剰」論の方が、事実認識の面でも思想的一貫性においてもまさっていると言わざるを得ない。それは、民主主義が良いものとされ続けてきたこれまでの一般的通念からすると、あまりにも意外かつ苦々しい結果だと言える。 「終焉」論より「過剰」論の方が説得的であるということは、裏を返せば規範や理念としての民主主義というビジョンが有効性を持たないことを意味している。「民主主義を推進しろ」「民主主義を守れ」とどんなに叫んでも、これほど民主主義が栄えた時代にその声は空しく響かざるを得ない」、なるほど。
・『民主主義自体に崇高な理念などない それは政治参加の「方法」にすぎない  ここに民主主義の抱える大きな問題がある。それは、民主主義の理念などと言ってもそれは所詮手続き、つまり「方法」に関する理念に過ぎないという問題である。 当たり前と言えばあまりに当たり前だが、民主主義とはまずは人民の意見を政治に反映し、その決定に人民が従うという政治体制のことであり、人民の意見は多様かつ流動的なのでその政治体制のもとでは政策決定も多様化し流動化する。 だから、公正な選挙を求めることもあれば選挙の停止を求めることもでき、自由な言論を促進することもあれば言論を制限することもでき、福祉を拡充することもあれば福祉を縮小することもできるのである。 しかも、その極端なスイングは、選挙結果を重視し言論の自由を許し人民の福祉が優先されるほど大きくなる。「過剰」論者はこうした民主主義の持つ放埒さに警戒してきたのだ。 それにもかかわらず「終焉」論者は、こうした性質を持つ民主主義を称揚しつつ、それが自己破壊的に作用することを批判するというダブルスタンダードを採ってしまう。話は逆であり、民主主義は自己破壊を許すほど気前の良い「方法」であり、それがここまで普遍化したからこそ自己破壊も徹底的になったのだ。彼らはむしろ自分たちが支持してきた民主主義の理念を誇るべきとさえ言える。 もちろん、「終焉」論者がそのような意見に従うはずはない。 しかし、そうだとすれば彼らが本当に大事だと考えてきたのは民主主義そのものではないと認めるべきだろう。民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だったのである。 これは民主主義という「方法」の擁護者の多くもたびたび言及していたことであり、何も目新しい主張ではない。それなのに、ここに来て民主主義に対してここまで失望感が高まっているということは、口ではカッコつけていてもやはり多くの人々は民主主義そのものをいつの間にか理想化してしまっていたのだ』、「民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だったのである。 これは民主主義という「方法」の擁護者の多くもたびたび言及していたことであり、何も目新しい主張ではない。それなのに、ここに来て民主主義に対してここまで失望感が高まっているということは、口ではカッコつけていてもやはり多くの人々は民主主義そのものをいつの間にか理想化してしまっていたのだ」、「「民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だった」、その通りだ。  
タグ:民主主義 (その10)(民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由 『西洋の没落』の著者 エマヌエル・トッドの議論、「どうしてあんな候補が当選?」民主主義の“終焉論”と“過剰論”の対立から見える問題点) 東洋経済オンライン 的場 昭弘氏による「民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由 『西洋の没落』の著者、エマヌエル・トッドの議論」 リュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社ライブラリー 「今からほぼ100年前」のベストセラーとは興味深そうだ。 「国連総会でのロシアに対する制裁決議案に」、「断固たる非難決議を支持した国と、それ以外の国を分けると、圧倒的に多くの地域が、この決議案に積極的に賛成しているのではないことがわかる」、賛成国がそんなに少ないとは衝撃的だ。 「トッドは、それに対して、それでは西欧には本当に民主主義国というものあるのか、本当に自由があるのかという問いを発している。) では現状はどうなっているのか。もはや民衆に開かれた民主主義ではなく、一部のエリートに自由に開かれた自由な寡占的(オリガーキー)社会のみが存在していることになる・・・他方で、ロシアなどの地域ではかえって民衆の平等が支配し、確かに選ばれた政治家が権威主義的な力をもつことはあるが、それ自体は公平な民主的制度によって担われているともいえる。そうした社会をトッドは、全体主義社会ではなく、権威 的民主社会と表現する」、なるほど。 「西欧が守っているものは、今では自由と民主主義ではなく、寡占的な自由な社会であるというのだ。 今の民主主義社会は、かつては衆愚社会と呼んでいたものですらなく、無能な一部エリートの寡占的社会だというのだ・・・トッドは、このような状態のことをロシアでは、「マクロン化」(Macroner)という新しい動詞として使われているのだと、紹介している。 つまり、「何かしゃべりまくっているが、なにも語っていない」という意味だ。 とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという・・・とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという。それはウクライナ戦争報道においても現実を直視せず、希望的観測の報道に終始したニヒリズム的態度に現れているという。 その劣化は、アメリカ人の平均寿命が下がっていることにも現れている。2014年の77.3歳から、2020年の76.3歳に減少しているのだ。自殺、アルコール、戦争などの原因があるにしろ、1人当たりの所得7万5000ドルの国とは思えない水準である」、なるほど。 「トランプなどの右翼政権があちこちで生まれているのはなぜかという深刻な問題もある。まさにエリートの思考と大衆とのねじれ構造がそこにあるのだが、西欧社会の一般民衆がデモクラシーからネグレクトされていることにも原因がある。 政治家も一流大学を出るエリートも、今や一部のものに限られるようになり、ジャーナリズムも法律も大衆にとって不都合な物になってくる中で、大衆は絶望感に陥っているともいえる・・・ 与えられるメディア情報も事実と真逆の都合のいい情報ばかりと来ている。そうした中で大衆は、エリートが「盲目」であるのと同じく、盲目の状態に追いやられている。) そう考えると、西欧社会が民主主義的だという根拠がどこにあるのかともいえる。そしてその民主主義が、まるで絵に描いた餅であり、現実が完全に裏切られているとすれば、大衆はどう抵抗すればいいのか。まさにそれが西欧社会で分断が生み出されている原因でもある」、なるほど。 「西欧が没落したかどうか、今のところまだわからないが、西欧の歴史が相対化される時代が始まったことだけは確かであろう。だからこそ、トッド以外に多くの同種の西欧没落論が今あちこちで出版されているのかもしれない。コロナそしてウクライナ、そしてガザ以降、西欧の没落は必然化してきたのかもしれない」、その通りなのかも知れない。 ダイヤモンド・オンライン 中島啓勝氏による「「どうしてあんな候補が当選?」民主主義の“終焉論”と“過剰論”の対立から見える問題点」 中島啓勝『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房) 「民主主義への“終焉論”と“過剰論”の対立」とは興味深そうだ。 「自分は反民主主義者だ」と堂々と宣言する人がいたとしても、それは民主的な社会では言論の自由が守られているから可能なのであって、その意味ではこの自称「反民主主義者」も民主主義の恩恵を大いに受けている。 その理念や制度が広まり常態化したという意味では民主主義は勝利したはずなのに、人々の信頼を失っているという意味では敗北しつつあるという逆説がそこにはある」、なるほど。 「こうした悲観論を、「民主主義の終焉」論と「民主主義の過剰」論の2つに分けて説明しているのだが、これは非常に乱暴に言えば前者が「左派」的な視点、後者が「右派」的な視点だと言える。 「民主主義の終焉」論者は、民主主義が高度に発展した資本主義に従属的となっていることを問題視する。「生産者」というよりむしろ「消費者」的主体へと変質した市民が、民主的な手続きを通じて新自由主義的政策を支持することで社会的不平等と格差を広げてしまい、ますます民主主義の力を削いでしまうと主張する。 その一方で、「民主主義の過剰」論者は民主主義と資本主義を表裏一体のものだと捉える。彼らによると、消費社会における欲望の増大や公共心の衰退は、民主化およびそれに伴う社会の平準化によって引き起こされたものである・・・この2つの立場は、資本主義の暴走と新自由主義的政策を批判する点では共通しているが、民主主義を善玉とするか悪玉に据えるかにおいて鋭く対立しているように見える。 森は両者が用いる民主主義概念の相違にその原因を求めている。 つまり、「終焉」論者が民主主義のことを、資本主義に代表される社会的現実に対抗する規範や理念だと考えているのに対して、「過剰」論者は民主主義のことをまさにその社会的現実そのもの、社会が向かっている傾向として見ているという」・・・そもそも同じ民主主義という言葉が何故こうも対立的な概念として想起されてしまうのかを、よく考えてみる必要がある」、なるほど。 「民主主義の進展を敵視し警戒してきた「過剰」論の方が、事実認識の面でも思想的一貫性においてもまさっていると言わざるを得ない。それは、民主主義が良いものとされ続けてきたこれまでの一般的通念からすると、あまりにも意外かつ苦々しい結果だと言える。 「終焉」論より「過剰」論の方が説得的であるということは、裏を返せば規範や理念としての民主主義というビジョンが有効性を持たないことを意味している。「民主主義を推進しろ」「民主主義を守れ」とどんなに叫んでも、これほど民主主義が栄えた時代にその声は空しく響かざるを得ない」、 「民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だったのである。 これは民主主義という「方法」の擁護者の多くもたびたび言及していたことであり、何も目新しい主張ではない。それなのに、ここに来て民主主義に対してここまで失望感が高まっているということは、口ではカッコつけていてもやはり多くの人々は民主主義そのものをいつの間にか理想化してしまっていたのだ」、 「「民主主義が(彼らが望む方向で)上手く機能するために必要な規範や理念、民主主義を支える前提こそが大事だった」、その通りだ。
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