終末期(その10)(老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは やりきれない」【500人超の取材で判明】、「息が止まりそう もう駄目…」がんで余命わずかな妻 言えなかった「また行こうね」の一言、「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない)
終末期については、本年5月27日に取上げた。今日は、(その10)(老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは やりきれない」【500人超の取材で判明】、「息が止まりそう もう駄目…」がんで余命わずかな妻 言えなかった「また行こうね」の一言、「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない)である。
先ずは、5月31日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した著述家・元神戸松蔭女子学院大学教授の楠木 新氏による「老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは、やりきれない」【500人超の取材で判明】」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/344498
・『定年前後の500人以上にインタビューを続けてきた楠木新さん。豊かな時間の使い方をする人もいれば、「このまま死ぬのは、やりきれない」と吐露する人もいたと言います。後悔する人の共通点とは何か、ジャーナリストの笹井恵里子さんが取材しました』、興味深そうだ。
・『「こんな退屈な日々が続き、このまま死ぬのはやりきれない」 私は、この10年間、定年前後の500人以上にインタビューを続けてきました。じっくり一対一で話を聞くこともあれば、図書館や書店、大型ショッピングセンター、スポーツクラブ、スーパー銭湯、カラオケ店、喫茶店などで声をかけることもあります。 例えば喫茶店のモーニングでは、「最近リタイアされたのですか?」と聞くと、「そうです。昨年退職して時々ここに来ています」「××の店ではおかわりまではできるが、こちらの店のほうが安いから」などと、簡単なやりとりができます。 そういった取材を通じてわかったことは、定年後の環境にスムーズに移行できない、何をしてよいのかわからないと戸惑う人がかなりの割合を占めます。 会社員時代からゴルフや釣りを楽しみ、「定年後は存分に遊ぶんだ!」と意気込んでいても、数週間もすれば興味を失ってしまいやすいです。「やらなければならないこと」の合間に気分転換でやることと、「自分の好きなこと」とは本質的に異なっているからです。 定年後の自由時間がどれほどあるのか、意識したことはあるでしょうか? 自由になる時間が1日11時間程度だとして、〈11時間×365日×15年(60歳から74歳まで)〉で合計約6万時間にものぼります。「74歳まで」としたのは、いわゆる後期高齢者に該当する75歳までは心身ともに健康な人が多いからです。 定年後の60歳から74歳までが、人生で最も裁量のある時間を持てる時期なのです。この期間を私は“黄金の15年”と呼んでいます。 もちろん75歳以降も健康を維持できれば、自由時間はさらに増えます。 65歳時点の平均余命は、男性で20年、女性で25年。男性であれば平均85歳まで生きる計算になりますから、健康度合いを加味し、75歳から84歳までは自由時間が半分になると仮定して〈1日5・5時間×365日×10年〉で約2万時間に。 黄金の15年の自由時間と合わせると、トータル約8万時間にもなります。女性の場合には寿命が長い分、さらに1万時間程度の自由時間が追加されます。 8万時間がどれほどの時間か。厚生労働省の発表によれば、年間総実動労働時間は2000時間に届いていません。仮に20歳から60歳まで40年間勤めたとして、総労働時間は8万時間に達しないのです。つまり、定年後は今までの全ての労働時間よりも長い自由時間があります。 そのため、この長い自由時間を前に立ち往生してしまう人もいます。私がかつて勤めていた会社の先輩は「こんなに退屈な日々が続き、このまま死んでしまうのかと思うと、やりきれない」と話していました。一方で豊かに時間を使っている人もいます。この両者の差は大きい。「人生は後半戦が勝負」だと感じます。 そこで、定年後に後悔する人の共通点を挙げましょう』、「会社員時代からゴルフや釣りを楽しみ、「定年後は存分に遊ぶんだ!」と意気込んでいても、数週間もすれば興味を失ってしまいやすいです。「やらなければならないこと」の合間に気分転換でやることと、「自分の好きなこと」とは本質的に異なっているからです・・・75歳から84歳までは自由時間が半分になると仮定して〈1日5・5時間×365日×10年〉で約2万時間に。 黄金の15年の自由時間と合わせると、トータル約8万時間にもなります。女性の場合には寿命が長い分、さらに1万時間程度の自由時間が追加されます。 8万時間がどれほどの時間か。厚生労働省の発表によれば、年間総実動労働時間は2000時間に届いていません。仮に20歳から60歳まで40年間勤めたとして、総労働時間は8万時間に達しないのです。つまり、定年後は今までの全ての労働時間よりも長い自由時間があります」、意外な感じを受けるが、事実なのだろう。
・『「退屈だからすること」だけの生活になっていないか 定年後に後悔する人の共通点、それは現役時代に「主体性をもたずに過ごしてきた人」といえると思います。 人の時間の過ごし方は「やらなければならないこと」「自分の好きなこと」「退屈でやっていること」の三つに分けられます。60歳までの間に自らの好きなことに関わっていれば、時間ができた定年後にもスムーズに移行できる。 しかし、60歳まで「やらなければならないこと」ばかりをしてきた人、外部から指示される、受け身の生活を送っていると、定年後は「退屈だからすること」だけの生活になってしまう恐れがあります。 会社員であるうちは主体性がない方が物事がうまくいく面もあり、人生の主人公が自分であることを忘れてしまうのです。確かに上司からの「個性を発揮しろ」という言葉を真に受けて実行すると、後でエライ目にあうことがありますからね(笑)。 私は40代半ばくらいから、遅くとも50代のうちに「主体性をもてる何か」を探しておくことを勧めます。言葉を変えると、会社員の自分とは違う“もう一人の自分”を持つということです。このもう一人の自分は「お金もうけができる」とか、外から見て「かっこいい」という必要はありません。本当に自分が好きなこと、ワクワクすることを見つけましょう。 「忙しくてそんな時間はない」と語る人がいますが、本当に好きなことを見つけると、時間の調整は何とかなるものです』、「「忙しくてそんな時間はない」と語る人がいますが、本当に好きなことを見つけると、時間の調整は何とかなるものです」、なるほど。
・『日々忙しく働いていたのに…支店長の自分が不在でも組織は回る 取材した中で面白い例を紹介します。営業を中心に実績を積み、出世街道を走っていた男性の話です。支店長を務めていた45歳の時、3カ月間のリフレッシュ研修で支店を離れる機会がありました。当初彼は支店の業績を心配していました。けれども業績は下落することなく、逆に上向きになるくらいだったのです。 彼は自分がいなくても組織が回ることを知って、ショックを受けてしまいます。日々忙しく働いている自分は一体なんだったんだろう、と思ったようですね。 そして、彼はある新聞記事に心動かされます。それは寝たきりだった92歳の女性が、ボランティアの美容師に髪をきれいにセットしてもらったのをきっかけに、施設内を歩けるようになったという内容でした。 「医師にもできないことを美容師がやれるのだ」と感動し、彼は会社には何も言わずに美容師資格の取得を目指すことにしました。資格取得に7年かかりましたが、退職後は美容室を開業し、多くのスタッフを抱えるまでにその店は成長したのです。 彼のように起業するための準備でもいいですし、趣味でもいいのですが、自分はこれをやっている時が「意味がある」「幸せだな」、あるいは「ここが私の居場所だな」というようなものを現役時代に探し出す、育てる姿勢が大事だと思います』、「自分はこれをやっている時が「意味がある」「幸せだな」、あるいは「ここが私の居場所だな」というようなものを現役時代に探し出す、育てる姿勢が大事だと思います」、なるほど。
次に、6月19日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した文芸評論家の江藤 淳氏による「「息が止まりそう。もう駄目…」がんで余命わずかな妻、言えなかった「また行こうね」の一言」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/343499
・『1998年、文芸評論家の江藤淳の愛妻・慶子は末期がんで余命僅かながら入院生活を続けていた。江藤や医師たちは懸命の看病を続けていたが、症状は進行し、治療の甲斐も虚しく妻はだんだん衰弱していく。そんななか、2人共通の思い出に浸ることで一時の癒やしを感じるも、哀しい予感は確実に迫っていた。※本稿は、江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春学藝ライブラリー)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『「何もしないことがはじめて」停っているような甘美な時のなかで 10月11日も終日病状が思わしくなかったので、泊り込むことにした。 「あなたが仕切りはじめると、急にいろいろなことが動きはじめるのね」 と、家内は満足そうにいったが、私は何を「仕切」っていたわけでもなく、背の低い簡易ベッドに横になりながら、しびれていないほうの家内の左手を握りしめているに過ぎなかった。 それに加えて、9日に泊ったときには家内のそばにいる安心感でしばらくぐっすりと眠れたのに、11日は終夜眠りが浅く、看護婦の動きがしきりと気になった。 「こんなに何にもせずにいるなんて、結婚してからはじめてでしょう」 と、家内がふと微笑を浮べていった。 「たまにはこういうのもいいさ。世間でも充電とか何とかいうじゃないか」 と、月並みなことを口にしながら、私はそのとき突然あることに気が付いた。 入院する前、家にいるときとは違って、このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。 日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停っているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか。 この時間は、余儀ない用事で病室を離れたりすると、たちまち砂時計の砂のように崩れはじめる。けれども、家内の病床の脇に帰り着いて、しびれていないほうの左手を握りしめると、再び山奥の湖のような静けさを取り戻して、2人のあいだをひたひたと満してくれる。 私どもはこうしているあいだに、一度も癌の話もしなければ、死を話題にすることもなかった。家政の整理についても、それに附随する法律的な問題についても、何一つ相談しなかった。私たちは、ただ一緒にいた。一緒にいることが、何よりも大切なのであった。 何故なら、私たちの別れは遠くないからである。そのときまでは、できるだけ一緒にいたい。専門医の予測した長くて半年という期限は、既に2ヶ月も過ぎていた。こうしてまだ一緒にいられるのが、ほとんど奇蹟のように感じられた』、「このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。 日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停っているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか」、さすが「江藤 淳氏」だけあって、格調高い。
・『家内を孤独にしたくない 生と死の間に愛を見つけて 私は、自分が特に宗教的な人間だと思ったことがない。だが、もし死が万人に意識の終焉をもたらすものだとすれば、その瞬間までは家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぼっちではないと信じていてもらいたい。そのあとの世界のことについては、どうして軽々に察知することができよう? まだこれほど衰弱してはいなかった頃、小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、 「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」 と、感心してみせたことがあったらしい。 「……今だからそう見えるだけで、若いうちは毎日喧嘩ばかりしてたのよって、いってやったけれどね。あの子ヘマばかりして、落ち込んでは話に来ていたの」 と、家内は、血圧を測りに来て病室を出て行ったその若い看護婦の後姿を、眼で追いながらいった。しかし、その視力が、既にひどく衰えていることを私は知っていた。 「今の若い娘は、こういうのを“ラブラブ”っていうのかね。はじめて聞いたな」 と応じながら、私は実はそのときひそかに愕然とした。 若い看護婦のいわゆる“ラブラブ”の時間のなかにいる自分を、私はそれまで生と死の時間に身を委ねているのだと思っていた。社会生活を送っている人々は、日常性と実務の時間に忙しく追われているのに、自分は世捨人のようにその時間から降りて、家内と一緒にいるというもう一つの時間のみに浸っている。だからその味わいは甘美なのだと、私は軽率にも信じていた。 だが、いわれてみればこの時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?』、「小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、 「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」 と、感心してみせたことがあったらしい・・・この時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?」、なるほど。
・『「みんな終ってしまった」妻が漏らした静かな悟り 前の日から小康を得ているかと思われた家内が、突然、 「息が止りそう。もう駄目……」 と、力無い声で訴えたのは、10月13日の午後3時を少し過ぎた頃だった。 「駄目ということはないだろう」 と、私は声を励まして耳許で呼び掛けた。 「……今までに辛いことは何度もあったけれども、2人で一緒に力を合わせて乗り切って来たじゃないか。駄目なんていわないで、今度も2人で乗り切ろう、ぼくがチャンと附いているんだから」 家内が微かに肯いたように見えたので、私は看護婦に連絡して主治医の診察を求めた。モルヒネの投与がはじまったのは、その日の午後6時からであった。 「新薬の抗生剤だ。これで楽になって来るだろう」 と、私はその頃見舞に来ていた姪たちにいった。 彼女たちは当然それがモルヒネであることを知っていたはずだから、これは家内に聴かせるためだったが、医学知識に詳しい家内が「新薬」の性質に気付いていないとも思われなかった。 この夜、というよりは翌14日未明の午前2時25分、病院からホテルに緊急の連絡があり、また顕著な徐脈が起ったという。急いで行ってみると、ナース・ステーションに置いてあるモニターのブラウン管は、65というような数字を映し出していた。 越えて、10月15日の午後のことである。 誰にいうともなく、家内は、 「もうなにもかも、みんな終ってしまった」 と、呟いた。 その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終ってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった。 この日から、モルヒネの投与量が増えた。夕刻、主治医や担当医に勧められてホテルに戻っても、相変らず2時間置きに眼が覚めてしまう夜がつづいていた』、「誰にいうともなく、家内は、 「もうなにもかも、みんな終ってしまった」 と、呟いた。 その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終ってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった」、なるほど。
・『迫りくる死を前に2人だけの思い出旅行を ときどきは夕食の時間に間に合うように、N夫妻が病院やホテルを訪ねてくれることがある。N氏は地方議員、N夫人は画廊を経営していて、そこで年1回催される大家の余技展の末席に、家内の絵を2度ほど加えてもらったこともある。 それがほとんど唯一の息抜きで、眠れようが眠れまいが朝は6時過ぎには起床し、7時に食堂が開くのを待ち兼ねて朝食を取り、そのあいだにランチ・ボックスを作ってもらって、8時少し前には病室に到着する。そこで夜の附添婦と昼間の附添夫である私とが交替し、それから10時間病室にいる。 ランチ・ボックスは、バターと苺ジャムのサンドウィッチにピクルス、それにゆで卵2個という至極簡単なもので、私はそれを「コロスケ・ランチ」と呼んでいた。 家内と私との共通の幼時体験に、「仔熊のコロスケ」という漫画がある。そのなかで、コロスケが苺ジャム付きの食パンを食べている1コマが実に旨そうで、家内も私も以前から鮮明に覚えていた。その「コロスケ・ランチ」を持って、附添夫の私が毎日現われる。どうだい、面白いだろうと、私は家内の反応にはお構いなく、勝手に面白がって見せた。 その「コロスケ・ランチ」のボックスを、そろそろ開けようかと思っていた正午少し前である。モルヒネの投与がはじまってちょうど10日目の、10月23日のことであった。 薬のせいで気分がよいのか、家内が穏やかな微笑を浮べて、私を見詰め、 「ずい分いろいろな所へ行ったわね」 といった。 そういえばプリンストンから帰って来るとき、2人でヨーロッパを廻っていると、汽車で出逢った老夫婦から、 「みんなは引退してから世界漫遊に出掛けるのに、この若夫婦はこの若さで同じことをしている」 と感心されたことがあった。海外への旅行者が稀な、1960年代前半のことである。 「本当にそうだね、みんなそれぞれに面白かったね」 と、私は答えたが、「また行こうね」とはどうしてもいえなかった。そのかわりに涙が迸り出て来たので、私はキチネットに姿を隠した』、「プリンストンから帰って来るとき、2人でヨーロッパを廻っていると、汽車で出逢った老夫婦から、 「みんなは引退してから世界漫遊に出掛けるのに、この若夫婦はこの若さで同じことをしている」 と感心されたことがあった」、貴重な2人の思い出だ。
第三に、7月26日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した認知科学者のアレクサンダー・バティアーニ氏と英日翻訳者の三輪美矢子氏による「「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/347054
・『重い病の床につき、知的能力を永久に失ったと思われていた者が、死の数日前に思いがけず意識を取り戻すことがある。そうした「終末期明晰」の事例を体系化すべく、筆者はさまざまな情報を集めた。死の淵で患者は何を思い、愛する人々に何を語っていたのだろうか。※本稿は、アレクサンダー・バティアーニ『死の前、「意識がはっきりする時間」の謎にせまる「終末期明晰」から読み解く生と死とそのはざま』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです』、「終末期明晰」とは初めて知った。
・『患者は終末期に何を語るのか? 家族への短い『さよなら』 多くの報告が示唆していたのは、患者が自分の(明晰性のエピソードに入る前の)認知機能の衰えを自覚していたこと、またかなりの数の患者が、明晰な時間が長く続かないのを知っていたらしいことだった。なかには死が迫っていることを明言して、残された時間で家族や友人や介護者に別れを告げた患者までいた。これらの発見は、ピーター・フェンウィック(編集部注/イギリスの神経生理学者)らの研究グループが得た結果とまたしても合致しており、調査の対象となった患者の多くが、自身の差し迫る死を敏感に感じ取っていたことを裏づけていた。 まとめると、こうした報告では、5つの話題が繰り返し語られていたことになる。家族との思い出、死が近いという意識、旅立ちの準備と最後の望み(「やり残したことを片づける」)、そしてときに、身体的な問題(空腹や喉の渇きなど)だ。大多数の事例で、これらの話題のひとつ以上が明晰性のエピソードの最中に語られていた。 【事例1】 父とわたしは、1時間以上語り合いました。昔のことを思い出しながら……父の記憶はとても鮮明で、わたしがすっかり忘れていたいくつかの場所の名前も覚えていました。それから父は、遺言に含めなかったものや所有品のことを話し、家族と友人で分けてほしいと言いました。そのあいだずっと父は穏やかで落ち着いており、とても理性的で、話しぶりも明瞭でした。いま考えると、あのとき父の心はすでに世を去っており、後始末がきちんとできているかどうかをただ確かめたかったのだと思います。 最後に、父は自分の葬儀とその算段について語りました。なんとも不思議な経験でしたが、父はいたって穏やかなリラックスした様子で、かつ強い責任感をもってこの話をしており、わたしはそのあと家に帰りながら、車のなかでさっき起きたことの意味にようやく思い至りました。つまり、父は父なりのやり方でさよならを告げていたのだ、ということに。 父の整えたお別れがあまりに意外すぎて、またあまりに鮮やかだったので、葬儀を終えたあと、わたしは深い喪失感に陥りました。父は、この成熟と愛情と責任感の鑑のような人は、永遠にいなくなってしまいました。父に会いたい気持ちは日に日に募っています。それは本当に、父にしか思いつけないお別れでした』、「それは本当に、父にしか思いつけないお別れでした」、なるほど。
・『「庭は私たちの愛情のしるし」 夫婦が死の淵で咲かせた愛情の花 【事例2】祖母は死の床にあり、祖父は祖母のそばに座っていました。この愛情深い夫は、連れ添って60年以上になる妻の病床の傍らで、悲嘆に身を震わせていました。 祖父はまた、混乱してもいました。祖母がその日初めて自分のことをわかってくれたからであり、一方で医師から祖母の死が近いことを告げられて、深い悲しみに襲われていたからです。 涙がふたりの頬を濡らし、こちらの様子を見にときどきそっと部屋に入ってくる看護師まで、こみあげるものを抑えられないようでした。 「愛しているよ」と、とめどなく涙を流しながら祖父は言いました。祖母はそんな祖父に目をやると、こう言ってなぐさめました。「うちの庭を、わたしたちの愛情のしるしだと思って世話してくださいな」 祖父母の家には小さな美しい庭があり、祖母は時間を見つけてはその庭を丹精込めて手入れしていました。暖かい夏の日には、祖父は庭に座って祖母に新聞を読んでやったり、祖母が草木の世話をしているあいだ、ふたりでおしゃべりしたりしていました。 だからその庭は、ふたりにとって大きな意味をもっていたのです。そしていま、自分への愛情と哀悼の気持ちを庭に注いでほしいという祖母の粋な助言は、見事に実を結びつつあります。枯れかけていた祖父の心が、自身が世話する庭のように、また花を咲かせはじめたのです。 これらの報告からわかるように、コミュニケーションの内容は多岐にわたる。これほど感動的な状況ではなくても、会話を記録したらやはり同じような結果になるだろう。さらに調査回答者の相当数が、患者のコミュニケーションの仕方が発病前の患者のそれに酷似していたことを認めていた。) 結論を言うと、明晰性のエピソード中の話題に関するわたしのチームの調査結果は、身体的な問題(空腹や喉の渇きなど)への言及を除いて、マクラウド(編集部注/サンディ・マクラウド、研究者)による2009年の観察――終末期明晰は「“身辺を片づけ”、辞世の言葉を述べ、別れを告げる機会となりうる」――とここでも合致していた。 エピソード中の話題に関する情報が提供された患者の過半数がまさしくそうした行動をしており、結果的にほとんどの調査回答者が、エピソード全般を「貴重な経験」として記憶していた』、「終末期明晰は「“身辺を片づけ”、辞世の言葉を述べ、別れを告げる機会となりうる」、なるほど。
・『予期せぬ終末期明晰は死とつながっているのか? 問いはまだ残っている。予期せぬ明晰性のエピソードは死と特別に関連する現象(「終末期明晰」)なのか、という問いだ。それは患者の死後に遡及的(レトロスペクティブ)に認められた、認知能力の一時的な変動がたまたま目立った事例ではないのか? それとも、実際に患者の死とつながりがあるのだろうか? わたしの事例集では、患者の約3分の1が明晰性のエピソード後2時間以内に、別の3分の1が2時間から1日以内に、5分の1が2日から3日以内に亡くなっている。また、全体の10%未満が4日から7日以内に亡くなり、約5%が8日後以降に亡くなったか、エピソードに近接する期間には亡くならなかった。つまりわたしのチームの調査サンプルでは、明晰性のエピソードは実際に死と強い関連があったわけだ。患者のじつに9割以上が、数時間から数日以内に亡くなっていたのである。 ここで見出された明晰性のエピソードと、それに近接する死との強い関連性も、慎重に解釈する必要がある。事例報告の大半を受け取ったころには、わたしが終末期明晰に研究上の関心を抱いていることはすでに知れ渡っていた。回答者のなかにも知っていた人はいるだろうし、その回答者の一部は、わたしの初期の研究報告を議論していたオンライングループから募った人々である。 理想を言えば、こうした統計調査の協力者は、こちらの目的を知らない人々であることが望ましい。「ナイーブサンプル」と呼ばれる調査協力者のことだが、こちらが聞きたがっていそうなことではなく、自分が経験したり見たりしたことを純粋に報告してくれることが重要なのだ』、「わたしの事例集では、患者の約3分の1が明晰性のエピソード後2時間以内に、別の3分の1が2時間から1日以内に、5分の1が2日から3日以内に亡くなっている。また、全体の10%未満が4日から7日以内に亡くなり、約5%が8日後以降に亡くなったか、エピソードに近接する期間には亡くならなかった。つまりわたしのチームの調査サンプルでは、明晰性のエピソードは実際に死と強い関連があったわけだ。患者のじつに9割以上が、数時間から数日以内に亡くなっていたのである」、驚くべきことだ。
・『患者の認知機能やコミュニケーションは死が近づくと回復する 一方、この要素のおおよその比較対照として、わたしのチームの研究が広く知られる前に得たデータとこの調査の結果を比べてみる、という手もある。 まだ粗削りな調査ではあったが、患者の死と時間的に近いエピソードの割合が、調査協力を募った時期によって有意差がないことがわかれば大きな助けになる。ちなみに終末期ではない、すなわち単なる逆説的明晰(編集部注/死と無関係と思われる明晰)であった事例の割合は、パイロット調査のために(つまり、メディアがわたしのチームの研究を報じる前に)募集した回答者のサンプルの約5%であり、もっと最近の事例でも5%だった。 さらに言うと、ナーム(編集部注/ミヒャエル・ナーム、生物学者)とグレイソン(編集部注/ブルース・グレイソン、精神医学研究者)のレビュー論文にある歴史的事例のデータも似たような割合だった。彼らの49例(多くは認知症患者)のサンプルのうち、終末期明晰のエピソードの43%が患者の死の当日に起きていた。また、41%が死の2日から7日前に、10%が8日から30日前に生じていた。 そのほか、イム(編集部注/イム・チヨン、バティアーニ博士の研究メンバー)らによる韓国の最近の調査では、患者の50%がエピソードのあと1週間以内に、残る50%が9日以内に亡くなっていた。ただしこの調査は、神経変性疾患の患者をほとんど含んでおらず、彼らの発見が、ここで報告されているデータと単純に比較しうるものなのかどうかははっきりしない。よって、一定の回答の偏りが生じるのは避けられないが、その影響が――仮に影響があったとしての話だが――調査の結果を大きく歪めることはなかったと考えてよさそうだ。 このように、さらなるデータや事例を要する不確実さはあるものの、既存のデータは、患者の認知機能やコミュニケーション能力が、その症状からはおよそ考えられないような死と関連した回復を遂げていたことを裏づけているのだ』、「既存のデータは、患者の認知機能やコミュニケーション能力が、その症状からはおよそ考えられないような死と関連した回復を遂げていたことを裏づけているのだ」、信じ難いような結果だ。
先ずは、5月31日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した著述家・元神戸松蔭女子学院大学教授の楠木 新氏による「老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは、やりきれない」【500人超の取材で判明】」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/344498
・『定年前後の500人以上にインタビューを続けてきた楠木新さん。豊かな時間の使い方をする人もいれば、「このまま死ぬのは、やりきれない」と吐露する人もいたと言います。後悔する人の共通点とは何か、ジャーナリストの笹井恵里子さんが取材しました』、興味深そうだ。
・『「こんな退屈な日々が続き、このまま死ぬのはやりきれない」 私は、この10年間、定年前後の500人以上にインタビューを続けてきました。じっくり一対一で話を聞くこともあれば、図書館や書店、大型ショッピングセンター、スポーツクラブ、スーパー銭湯、カラオケ店、喫茶店などで声をかけることもあります。 例えば喫茶店のモーニングでは、「最近リタイアされたのですか?」と聞くと、「そうです。昨年退職して時々ここに来ています」「××の店ではおかわりまではできるが、こちらの店のほうが安いから」などと、簡単なやりとりができます。 そういった取材を通じてわかったことは、定年後の環境にスムーズに移行できない、何をしてよいのかわからないと戸惑う人がかなりの割合を占めます。 会社員時代からゴルフや釣りを楽しみ、「定年後は存分に遊ぶんだ!」と意気込んでいても、数週間もすれば興味を失ってしまいやすいです。「やらなければならないこと」の合間に気分転換でやることと、「自分の好きなこと」とは本質的に異なっているからです。 定年後の自由時間がどれほどあるのか、意識したことはあるでしょうか? 自由になる時間が1日11時間程度だとして、〈11時間×365日×15年(60歳から74歳まで)〉で合計約6万時間にものぼります。「74歳まで」としたのは、いわゆる後期高齢者に該当する75歳までは心身ともに健康な人が多いからです。 定年後の60歳から74歳までが、人生で最も裁量のある時間を持てる時期なのです。この期間を私は“黄金の15年”と呼んでいます。 もちろん75歳以降も健康を維持できれば、自由時間はさらに増えます。 65歳時点の平均余命は、男性で20年、女性で25年。男性であれば平均85歳まで生きる計算になりますから、健康度合いを加味し、75歳から84歳までは自由時間が半分になると仮定して〈1日5・5時間×365日×10年〉で約2万時間に。 黄金の15年の自由時間と合わせると、トータル約8万時間にもなります。女性の場合には寿命が長い分、さらに1万時間程度の自由時間が追加されます。 8万時間がどれほどの時間か。厚生労働省の発表によれば、年間総実動労働時間は2000時間に届いていません。仮に20歳から60歳まで40年間勤めたとして、総労働時間は8万時間に達しないのです。つまり、定年後は今までの全ての労働時間よりも長い自由時間があります。 そのため、この長い自由時間を前に立ち往生してしまう人もいます。私がかつて勤めていた会社の先輩は「こんなに退屈な日々が続き、このまま死んでしまうのかと思うと、やりきれない」と話していました。一方で豊かに時間を使っている人もいます。この両者の差は大きい。「人生は後半戦が勝負」だと感じます。 そこで、定年後に後悔する人の共通点を挙げましょう』、「会社員時代からゴルフや釣りを楽しみ、「定年後は存分に遊ぶんだ!」と意気込んでいても、数週間もすれば興味を失ってしまいやすいです。「やらなければならないこと」の合間に気分転換でやることと、「自分の好きなこと」とは本質的に異なっているからです・・・75歳から84歳までは自由時間が半分になると仮定して〈1日5・5時間×365日×10年〉で約2万時間に。 黄金の15年の自由時間と合わせると、トータル約8万時間にもなります。女性の場合には寿命が長い分、さらに1万時間程度の自由時間が追加されます。 8万時間がどれほどの時間か。厚生労働省の発表によれば、年間総実動労働時間は2000時間に届いていません。仮に20歳から60歳まで40年間勤めたとして、総労働時間は8万時間に達しないのです。つまり、定年後は今までの全ての労働時間よりも長い自由時間があります」、意外な感じを受けるが、事実なのだろう。
・『「退屈だからすること」だけの生活になっていないか 定年後に後悔する人の共通点、それは現役時代に「主体性をもたずに過ごしてきた人」といえると思います。 人の時間の過ごし方は「やらなければならないこと」「自分の好きなこと」「退屈でやっていること」の三つに分けられます。60歳までの間に自らの好きなことに関わっていれば、時間ができた定年後にもスムーズに移行できる。 しかし、60歳まで「やらなければならないこと」ばかりをしてきた人、外部から指示される、受け身の生活を送っていると、定年後は「退屈だからすること」だけの生活になってしまう恐れがあります。 会社員であるうちは主体性がない方が物事がうまくいく面もあり、人生の主人公が自分であることを忘れてしまうのです。確かに上司からの「個性を発揮しろ」という言葉を真に受けて実行すると、後でエライ目にあうことがありますからね(笑)。 私は40代半ばくらいから、遅くとも50代のうちに「主体性をもてる何か」を探しておくことを勧めます。言葉を変えると、会社員の自分とは違う“もう一人の自分”を持つということです。このもう一人の自分は「お金もうけができる」とか、外から見て「かっこいい」という必要はありません。本当に自分が好きなこと、ワクワクすることを見つけましょう。 「忙しくてそんな時間はない」と語る人がいますが、本当に好きなことを見つけると、時間の調整は何とかなるものです』、「「忙しくてそんな時間はない」と語る人がいますが、本当に好きなことを見つけると、時間の調整は何とかなるものです」、なるほど。
・『日々忙しく働いていたのに…支店長の自分が不在でも組織は回る 取材した中で面白い例を紹介します。営業を中心に実績を積み、出世街道を走っていた男性の話です。支店長を務めていた45歳の時、3カ月間のリフレッシュ研修で支店を離れる機会がありました。当初彼は支店の業績を心配していました。けれども業績は下落することなく、逆に上向きになるくらいだったのです。 彼は自分がいなくても組織が回ることを知って、ショックを受けてしまいます。日々忙しく働いている自分は一体なんだったんだろう、と思ったようですね。 そして、彼はある新聞記事に心動かされます。それは寝たきりだった92歳の女性が、ボランティアの美容師に髪をきれいにセットしてもらったのをきっかけに、施設内を歩けるようになったという内容でした。 「医師にもできないことを美容師がやれるのだ」と感動し、彼は会社には何も言わずに美容師資格の取得を目指すことにしました。資格取得に7年かかりましたが、退職後は美容室を開業し、多くのスタッフを抱えるまでにその店は成長したのです。 彼のように起業するための準備でもいいですし、趣味でもいいのですが、自分はこれをやっている時が「意味がある」「幸せだな」、あるいは「ここが私の居場所だな」というようなものを現役時代に探し出す、育てる姿勢が大事だと思います』、「自分はこれをやっている時が「意味がある」「幸せだな」、あるいは「ここが私の居場所だな」というようなものを現役時代に探し出す、育てる姿勢が大事だと思います」、なるほど。
次に、6月19日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した文芸評論家の江藤 淳氏による「「息が止まりそう。もう駄目…」がんで余命わずかな妻、言えなかった「また行こうね」の一言」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/343499
・『1998年、文芸評論家の江藤淳の愛妻・慶子は末期がんで余命僅かながら入院生活を続けていた。江藤や医師たちは懸命の看病を続けていたが、症状は進行し、治療の甲斐も虚しく妻はだんだん衰弱していく。そんななか、2人共通の思い出に浸ることで一時の癒やしを感じるも、哀しい予感は確実に迫っていた。※本稿は、江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春学藝ライブラリー)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『「何もしないことがはじめて」停っているような甘美な時のなかで 10月11日も終日病状が思わしくなかったので、泊り込むことにした。 「あなたが仕切りはじめると、急にいろいろなことが動きはじめるのね」 と、家内は満足そうにいったが、私は何を「仕切」っていたわけでもなく、背の低い簡易ベッドに横になりながら、しびれていないほうの家内の左手を握りしめているに過ぎなかった。 それに加えて、9日に泊ったときには家内のそばにいる安心感でしばらくぐっすりと眠れたのに、11日は終夜眠りが浅く、看護婦の動きがしきりと気になった。 「こんなに何にもせずにいるなんて、結婚してからはじめてでしょう」 と、家内がふと微笑を浮べていった。 「たまにはこういうのもいいさ。世間でも充電とか何とかいうじゃないか」 と、月並みなことを口にしながら、私はそのとき突然あることに気が付いた。 入院する前、家にいるときとは違って、このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。 日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停っているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか。 この時間は、余儀ない用事で病室を離れたりすると、たちまち砂時計の砂のように崩れはじめる。けれども、家内の病床の脇に帰り着いて、しびれていないほうの左手を握りしめると、再び山奥の湖のような静けさを取り戻して、2人のあいだをひたひたと満してくれる。 私どもはこうしているあいだに、一度も癌の話もしなければ、死を話題にすることもなかった。家政の整理についても、それに附随する法律的な問題についても、何一つ相談しなかった。私たちは、ただ一緒にいた。一緒にいることが、何よりも大切なのであった。 何故なら、私たちの別れは遠くないからである。そのときまでは、できるだけ一緒にいたい。専門医の予測した長くて半年という期限は、既に2ヶ月も過ぎていた。こうしてまだ一緒にいられるのが、ほとんど奇蹟のように感じられた』、「このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。 日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停っているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか」、さすが「江藤 淳氏」だけあって、格調高い。
・『家内を孤独にしたくない 生と死の間に愛を見つけて 私は、自分が特に宗教的な人間だと思ったことがない。だが、もし死が万人に意識の終焉をもたらすものだとすれば、その瞬間までは家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぼっちではないと信じていてもらいたい。そのあとの世界のことについては、どうして軽々に察知することができよう? まだこれほど衰弱してはいなかった頃、小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、 「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」 と、感心してみせたことがあったらしい。 「……今だからそう見えるだけで、若いうちは毎日喧嘩ばかりしてたのよって、いってやったけれどね。あの子ヘマばかりして、落ち込んでは話に来ていたの」 と、家内は、血圧を測りに来て病室を出て行ったその若い看護婦の後姿を、眼で追いながらいった。しかし、その視力が、既にひどく衰えていることを私は知っていた。 「今の若い娘は、こういうのを“ラブラブ”っていうのかね。はじめて聞いたな」 と応じながら、私は実はそのときひそかに愕然とした。 若い看護婦のいわゆる“ラブラブ”の時間のなかにいる自分を、私はそれまで生と死の時間に身を委ねているのだと思っていた。社会生活を送っている人々は、日常性と実務の時間に忙しく追われているのに、自分は世捨人のようにその時間から降りて、家内と一緒にいるというもう一つの時間のみに浸っている。だからその味わいは甘美なのだと、私は軽率にも信じていた。 だが、いわれてみればこの時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?』、「小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、 「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」 と、感心してみせたことがあったらしい・・・この時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?」、なるほど。
・『「みんな終ってしまった」妻が漏らした静かな悟り 前の日から小康を得ているかと思われた家内が、突然、 「息が止りそう。もう駄目……」 と、力無い声で訴えたのは、10月13日の午後3時を少し過ぎた頃だった。 「駄目ということはないだろう」 と、私は声を励まして耳許で呼び掛けた。 「……今までに辛いことは何度もあったけれども、2人で一緒に力を合わせて乗り切って来たじゃないか。駄目なんていわないで、今度も2人で乗り切ろう、ぼくがチャンと附いているんだから」 家内が微かに肯いたように見えたので、私は看護婦に連絡して主治医の診察を求めた。モルヒネの投与がはじまったのは、その日の午後6時からであった。 「新薬の抗生剤だ。これで楽になって来るだろう」 と、私はその頃見舞に来ていた姪たちにいった。 彼女たちは当然それがモルヒネであることを知っていたはずだから、これは家内に聴かせるためだったが、医学知識に詳しい家内が「新薬」の性質に気付いていないとも思われなかった。 この夜、というよりは翌14日未明の午前2時25分、病院からホテルに緊急の連絡があり、また顕著な徐脈が起ったという。急いで行ってみると、ナース・ステーションに置いてあるモニターのブラウン管は、65というような数字を映し出していた。 越えて、10月15日の午後のことである。 誰にいうともなく、家内は、 「もうなにもかも、みんな終ってしまった」 と、呟いた。 その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終ってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった。 この日から、モルヒネの投与量が増えた。夕刻、主治医や担当医に勧められてホテルに戻っても、相変らず2時間置きに眼が覚めてしまう夜がつづいていた』、「誰にいうともなく、家内は、 「もうなにもかも、みんな終ってしまった」 と、呟いた。 その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終ってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった」、なるほど。
・『迫りくる死を前に2人だけの思い出旅行を ときどきは夕食の時間に間に合うように、N夫妻が病院やホテルを訪ねてくれることがある。N氏は地方議員、N夫人は画廊を経営していて、そこで年1回催される大家の余技展の末席に、家内の絵を2度ほど加えてもらったこともある。 それがほとんど唯一の息抜きで、眠れようが眠れまいが朝は6時過ぎには起床し、7時に食堂が開くのを待ち兼ねて朝食を取り、そのあいだにランチ・ボックスを作ってもらって、8時少し前には病室に到着する。そこで夜の附添婦と昼間の附添夫である私とが交替し、それから10時間病室にいる。 ランチ・ボックスは、バターと苺ジャムのサンドウィッチにピクルス、それにゆで卵2個という至極簡単なもので、私はそれを「コロスケ・ランチ」と呼んでいた。 家内と私との共通の幼時体験に、「仔熊のコロスケ」という漫画がある。そのなかで、コロスケが苺ジャム付きの食パンを食べている1コマが実に旨そうで、家内も私も以前から鮮明に覚えていた。その「コロスケ・ランチ」を持って、附添夫の私が毎日現われる。どうだい、面白いだろうと、私は家内の反応にはお構いなく、勝手に面白がって見せた。 その「コロスケ・ランチ」のボックスを、そろそろ開けようかと思っていた正午少し前である。モルヒネの投与がはじまってちょうど10日目の、10月23日のことであった。 薬のせいで気分がよいのか、家内が穏やかな微笑を浮べて、私を見詰め、 「ずい分いろいろな所へ行ったわね」 といった。 そういえばプリンストンから帰って来るとき、2人でヨーロッパを廻っていると、汽車で出逢った老夫婦から、 「みんなは引退してから世界漫遊に出掛けるのに、この若夫婦はこの若さで同じことをしている」 と感心されたことがあった。海外への旅行者が稀な、1960年代前半のことである。 「本当にそうだね、みんなそれぞれに面白かったね」 と、私は答えたが、「また行こうね」とはどうしてもいえなかった。そのかわりに涙が迸り出て来たので、私はキチネットに姿を隠した』、「プリンストンから帰って来るとき、2人でヨーロッパを廻っていると、汽車で出逢った老夫婦から、 「みんなは引退してから世界漫遊に出掛けるのに、この若夫婦はこの若さで同じことをしている」 と感心されたことがあった」、貴重な2人の思い出だ。
第三に、7月26日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した認知科学者のアレクサンダー・バティアーニ氏と英日翻訳者の三輪美矢子氏による「「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/347054
・『重い病の床につき、知的能力を永久に失ったと思われていた者が、死の数日前に思いがけず意識を取り戻すことがある。そうした「終末期明晰」の事例を体系化すべく、筆者はさまざまな情報を集めた。死の淵で患者は何を思い、愛する人々に何を語っていたのだろうか。※本稿は、アレクサンダー・バティアーニ『死の前、「意識がはっきりする時間」の謎にせまる「終末期明晰」から読み解く生と死とそのはざま』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです』、「終末期明晰」とは初めて知った。
・『患者は終末期に何を語るのか? 家族への短い『さよなら』 多くの報告が示唆していたのは、患者が自分の(明晰性のエピソードに入る前の)認知機能の衰えを自覚していたこと、またかなりの数の患者が、明晰な時間が長く続かないのを知っていたらしいことだった。なかには死が迫っていることを明言して、残された時間で家族や友人や介護者に別れを告げた患者までいた。これらの発見は、ピーター・フェンウィック(編集部注/イギリスの神経生理学者)らの研究グループが得た結果とまたしても合致しており、調査の対象となった患者の多くが、自身の差し迫る死を敏感に感じ取っていたことを裏づけていた。 まとめると、こうした報告では、5つの話題が繰り返し語られていたことになる。家族との思い出、死が近いという意識、旅立ちの準備と最後の望み(「やり残したことを片づける」)、そしてときに、身体的な問題(空腹や喉の渇きなど)だ。大多数の事例で、これらの話題のひとつ以上が明晰性のエピソードの最中に語られていた。 【事例1】 父とわたしは、1時間以上語り合いました。昔のことを思い出しながら……父の記憶はとても鮮明で、わたしがすっかり忘れていたいくつかの場所の名前も覚えていました。それから父は、遺言に含めなかったものや所有品のことを話し、家族と友人で分けてほしいと言いました。そのあいだずっと父は穏やかで落ち着いており、とても理性的で、話しぶりも明瞭でした。いま考えると、あのとき父の心はすでに世を去っており、後始末がきちんとできているかどうかをただ確かめたかったのだと思います。 最後に、父は自分の葬儀とその算段について語りました。なんとも不思議な経験でしたが、父はいたって穏やかなリラックスした様子で、かつ強い責任感をもってこの話をしており、わたしはそのあと家に帰りながら、車のなかでさっき起きたことの意味にようやく思い至りました。つまり、父は父なりのやり方でさよならを告げていたのだ、ということに。 父の整えたお別れがあまりに意外すぎて、またあまりに鮮やかだったので、葬儀を終えたあと、わたしは深い喪失感に陥りました。父は、この成熟と愛情と責任感の鑑のような人は、永遠にいなくなってしまいました。父に会いたい気持ちは日に日に募っています。それは本当に、父にしか思いつけないお別れでした』、「それは本当に、父にしか思いつけないお別れでした」、なるほど。
・『「庭は私たちの愛情のしるし」 夫婦が死の淵で咲かせた愛情の花 【事例2】祖母は死の床にあり、祖父は祖母のそばに座っていました。この愛情深い夫は、連れ添って60年以上になる妻の病床の傍らで、悲嘆に身を震わせていました。 祖父はまた、混乱してもいました。祖母がその日初めて自分のことをわかってくれたからであり、一方で医師から祖母の死が近いことを告げられて、深い悲しみに襲われていたからです。 涙がふたりの頬を濡らし、こちらの様子を見にときどきそっと部屋に入ってくる看護師まで、こみあげるものを抑えられないようでした。 「愛しているよ」と、とめどなく涙を流しながら祖父は言いました。祖母はそんな祖父に目をやると、こう言ってなぐさめました。「うちの庭を、わたしたちの愛情のしるしだと思って世話してくださいな」 祖父母の家には小さな美しい庭があり、祖母は時間を見つけてはその庭を丹精込めて手入れしていました。暖かい夏の日には、祖父は庭に座って祖母に新聞を読んでやったり、祖母が草木の世話をしているあいだ、ふたりでおしゃべりしたりしていました。 だからその庭は、ふたりにとって大きな意味をもっていたのです。そしていま、自分への愛情と哀悼の気持ちを庭に注いでほしいという祖母の粋な助言は、見事に実を結びつつあります。枯れかけていた祖父の心が、自身が世話する庭のように、また花を咲かせはじめたのです。 これらの報告からわかるように、コミュニケーションの内容は多岐にわたる。これほど感動的な状況ではなくても、会話を記録したらやはり同じような結果になるだろう。さらに調査回答者の相当数が、患者のコミュニケーションの仕方が発病前の患者のそれに酷似していたことを認めていた。) 結論を言うと、明晰性のエピソード中の話題に関するわたしのチームの調査結果は、身体的な問題(空腹や喉の渇きなど)への言及を除いて、マクラウド(編集部注/サンディ・マクラウド、研究者)による2009年の観察――終末期明晰は「“身辺を片づけ”、辞世の言葉を述べ、別れを告げる機会となりうる」――とここでも合致していた。 エピソード中の話題に関する情報が提供された患者の過半数がまさしくそうした行動をしており、結果的にほとんどの調査回答者が、エピソード全般を「貴重な経験」として記憶していた』、「終末期明晰は「“身辺を片づけ”、辞世の言葉を述べ、別れを告げる機会となりうる」、なるほど。
・『予期せぬ終末期明晰は死とつながっているのか? 問いはまだ残っている。予期せぬ明晰性のエピソードは死と特別に関連する現象(「終末期明晰」)なのか、という問いだ。それは患者の死後に遡及的(レトロスペクティブ)に認められた、認知能力の一時的な変動がたまたま目立った事例ではないのか? それとも、実際に患者の死とつながりがあるのだろうか? わたしの事例集では、患者の約3分の1が明晰性のエピソード後2時間以内に、別の3分の1が2時間から1日以内に、5分の1が2日から3日以内に亡くなっている。また、全体の10%未満が4日から7日以内に亡くなり、約5%が8日後以降に亡くなったか、エピソードに近接する期間には亡くならなかった。つまりわたしのチームの調査サンプルでは、明晰性のエピソードは実際に死と強い関連があったわけだ。患者のじつに9割以上が、数時間から数日以内に亡くなっていたのである。 ここで見出された明晰性のエピソードと、それに近接する死との強い関連性も、慎重に解釈する必要がある。事例報告の大半を受け取ったころには、わたしが終末期明晰に研究上の関心を抱いていることはすでに知れ渡っていた。回答者のなかにも知っていた人はいるだろうし、その回答者の一部は、わたしの初期の研究報告を議論していたオンライングループから募った人々である。 理想を言えば、こうした統計調査の協力者は、こちらの目的を知らない人々であることが望ましい。「ナイーブサンプル」と呼ばれる調査協力者のことだが、こちらが聞きたがっていそうなことではなく、自分が経験したり見たりしたことを純粋に報告してくれることが重要なのだ』、「わたしの事例集では、患者の約3分の1が明晰性のエピソード後2時間以内に、別の3分の1が2時間から1日以内に、5分の1が2日から3日以内に亡くなっている。また、全体の10%未満が4日から7日以内に亡くなり、約5%が8日後以降に亡くなったか、エピソードに近接する期間には亡くならなかった。つまりわたしのチームの調査サンプルでは、明晰性のエピソードは実際に死と強い関連があったわけだ。患者のじつに9割以上が、数時間から数日以内に亡くなっていたのである」、驚くべきことだ。
・『患者の認知機能やコミュニケーションは死が近づくと回復する 一方、この要素のおおよその比較対照として、わたしのチームの研究が広く知られる前に得たデータとこの調査の結果を比べてみる、という手もある。 まだ粗削りな調査ではあったが、患者の死と時間的に近いエピソードの割合が、調査協力を募った時期によって有意差がないことがわかれば大きな助けになる。ちなみに終末期ではない、すなわち単なる逆説的明晰(編集部注/死と無関係と思われる明晰)であった事例の割合は、パイロット調査のために(つまり、メディアがわたしのチームの研究を報じる前に)募集した回答者のサンプルの約5%であり、もっと最近の事例でも5%だった。 さらに言うと、ナーム(編集部注/ミヒャエル・ナーム、生物学者)とグレイソン(編集部注/ブルース・グレイソン、精神医学研究者)のレビュー論文にある歴史的事例のデータも似たような割合だった。彼らの49例(多くは認知症患者)のサンプルのうち、終末期明晰のエピソードの43%が患者の死の当日に起きていた。また、41%が死の2日から7日前に、10%が8日から30日前に生じていた。 そのほか、イム(編集部注/イム・チヨン、バティアーニ博士の研究メンバー)らによる韓国の最近の調査では、患者の50%がエピソードのあと1週間以内に、残る50%が9日以内に亡くなっていた。ただしこの調査は、神経変性疾患の患者をほとんど含んでおらず、彼らの発見が、ここで報告されているデータと単純に比較しうるものなのかどうかははっきりしない。よって、一定の回答の偏りが生じるのは避けられないが、その影響が――仮に影響があったとしての話だが――調査の結果を大きく歪めることはなかったと考えてよさそうだ。 このように、さらなるデータや事例を要する不確実さはあるものの、既存のデータは、患者の認知機能やコミュニケーション能力が、その症状からはおよそ考えられないような死と関連した回復を遂げていたことを裏づけているのだ』、「既存のデータは、患者の認知機能やコミュニケーション能力が、その症状からはおよそ考えられないような死と関連した回復を遂げていたことを裏づけているのだ」、信じ難いような結果だ。
タグ:終末期 (その10)(老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは やりきれない」【500人超の取材で判明】、「息が止まりそう もう駄目…」がんで余命わずかな妻 言えなかった「また行こうね」の一言、「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない) ダイヤモンド・オンライン 楠木 新氏による「老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは、やりきれない」【500人超の取材で判明】」 「会社員時代からゴルフや釣りを楽しみ、「定年後は存分に遊ぶんだ!」と意気込んでいても、数週間もすれば興味を失ってしまいやすいです。「やらなければならないこと」の合間に気分転換でやることと、「自分の好きなこと」とは本質的に異なっているからです・・・75歳から84歳までは自由時間が半分になると仮定して〈1日5・5時間×365日×10年〉で約2万時間に。 黄金の15年の自由時間と合わせると、トータル約8万時間にもなります。女性の場合には寿命が長い分、さらに1万時間程度の自由時間が追加されます。 8万時間がどれほどの時間か。厚生労働省の発表によれば、年間総実動労働時間は2000時間に届いていません。仮に20歳から60歳まで40年間勤めたとして、総労働時間は8万時間に達しないのです。つまり、定年後は今までの全ての労働時間よりも長い自由時間があります」、意外な感じを受けるが、事実なのだろう。 「「忙しくてそんな時間はない」と語る人がいますが、本当に好きなことを見つけると、時間の調整は何とかなるものです」、なるほど。 「自分はこれをやっている時が「意味がある」「幸せだな」、あるいは「ここが私の居場所だな」というようなものを現役時代に探し出す、育てる姿勢が大事だと思います」、なるほど。 江藤 淳氏による「「息が止まりそう。もう駄目…」がんで余命わずかな妻、言えなかった「また行こうね」の一言」 江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春学藝ライブラリー) 「このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。 日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停っているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか」、さすが「江 「小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、 「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」 と、感心してみせたことがあったらしい・・・この時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか 例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?」、なるほど。 「誰にいうともなく、家内は、 「もうなにもかも、みんな終ってしまった」 と、呟いた。 その寂寥に充ちた深い響きに対して、私は返す言葉がなかった。実は私もまた、どうすることもできぬまま「みんな終ってしまった」ことを、そのとき心の底から思い知らされていたからである。私は、しびれている右手も含めて、彼女の両手をじっと握りしめているだけだった」、なるほど。 「プリンストンから帰って来るとき、2人でヨーロッパを廻っていると、汽車で出逢った老夫婦から、 「みんなは引退してから世界漫遊に出掛けるのに、この若夫婦はこの若さで同じことをしている」 と感心されたことがあった」、貴重な2人の思い出だ。 アレクサンダー・バティアーニ氏 三輪美矢子氏 「「父は死ぬ間際に自分の葬儀の算段を語った」患者たちの最期のメッセージに驚きと感動が止まらない」 アレクサンダー・バティアーニ『死の前、「意識がはっきりする時間」の謎にせまる「終末期明晰」から読み解く生と死とそのはざま』(KADOKAWA) 「終末期明晰」とは初めて知った。 「それは本当に、父にしか思いつけないお別れでした」、なるほど。 「終末期明晰は「“身辺を片づけ”、辞世の言葉を述べ、別れを告げる機会となりうる」、なるほど。 「わたしの事例集では、患者の約3分の1が明晰性のエピソード後2時間以内に、別の3分の1が2時間から1日以内に、5分の1が2日から3日以内に亡くなっている。また、全体の10%未満が4日から7日以内に亡くなり、約5%が8日後以降に亡くなったか、エピソードに近接する期間には亡くならなかった。つまりわたしのチームの調査サンプルでは、明晰性のエピソードは実際に死と強い関連があったわけだ。患者のじつに9割以上が、数時間から数日以内に亡くなっていたのである」、驚くべきことだ。 「既存のデータは、患者の認知機能やコミュニケーション能力が、その症状からはおよそ考えられないような死と関連した回復を遂げていたことを裏づけているのだ」、信じ難いような結果だ。