歴史問題(その20)(旧日本軍の失敗から今こそ学ぶべき 現代日本企業の「失敗の本質」とは、「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く 日本軍部の心理、《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり 下士官の慰安所も昼間から…」) [社会]
歴史問題については、本年4月23日に取上げた。今日は、(その20)(旧日本軍の失敗から今こそ学ぶべき 現代日本企業の「失敗の本質」とは、「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く 日本軍部の心理、《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり 下士官の慰安所も昼間から…」)である。
先ずは、4月30日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したクライス&カンパニー顧問・Tably代表の及川卓也氏による「旧日本軍の失敗から今こそ学ぶべき、現代日本企業の「失敗の本質」とは」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/342705
・『マイクロソフトやグーグルでエンジニアとして活躍し、複数の企業で技術顧問を務める及川卓也氏が、組織論の名著として薦める『失敗の本質』。「現代の組織にとっても学ぶところが多い」というその本のポイントを、及川氏が分かりやすく解説する』、興味深そうだ。
・『日本軍の組織的欠陥に「失敗の本質」を学ぶ 前回記事『新社会人に薦める珠玉の3冊、活字の達人が「人生を変える読書法」を手ほどき』でお薦めした『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(以下、『失敗の本質』)は、私が10年以上、何度も読み返してきた1冊です。 『失敗の本質』はタイトル通り、第2次世界大戦中の日本軍の組織について、戦史と組織論を専門とする計6名の研究者が著した研究の書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦を取り上げています。初版は1984年で、ダイヤモンド社から発行されました。 組織としての日本軍の失敗を、現代組織の反面教師として活用することを目的に書かれた本書は、大東亜戦争(本書では戦場が太平洋地域に限定されていなかったという意味で、あえてこの呼び方が使われています)を通じて明らかになった非合理的かつ非効率な行動の背景に組織的な欠陥があり、これが日本の敗戦を招いたと論じます。 著者の1人で組織論を専門とする経営学者の野中郁次郎氏は、本書執筆のきっかけについて後年、「日本企業のケーススタディをもとにした研究を進めるうち、成功例だけでは一面的になると失敗例を探したが、企業からの協力が得られなかった」と振り返り、「日本軍の失敗の研究ならできるのではないか」との助言を得て、調査を進めるために防衛大学校へ移籍した経緯を明かしています。 今の現役世代にとっては第2次世界大戦は遠い過去、歴史の中の出来事にすぎないかもしれません。しかし、この本は純粋に読み物としても面白く、幅広い読者にお薦めできる書物です』、「組織としての日本軍の失敗を、現代組織の反面教師として活用することを目的に書かれた本書は、大東亜戦争(本書では戦場が太平洋地域に限定されていなかったという意味で、あえてこの呼び方が使われています)を通じて明らかになった非合理的かつ非効率な行動の背景に組織的な欠陥があり、これが日本の敗戦を招いたと論じます」、なるほど。
・『明確な目的を持つ米軍 目的のブレが目立つ日本軍 ここからは、太平洋戦争における日本軍失敗の組織論的要因について、現代日本の企業・組織と照らし合わせながら読み解いていきましょう。 1つ目は「目的のブレ」です。 日本海軍・軍令部の戦略は短期決戦を目指し、太平洋を越えて来る米国艦隊を日本近海で迎え撃って、艦隊決戦によって一挙に撃破することを企図していました。計画の背景には、日本の海軍力拡張を抑制しようとする国際的な圧力があります。ワシントンおよびロンドンの海軍軍縮条約に批准したことで、日本は主力艦の保有数を制限されていたのです。 しかし、実戦部隊の最高指揮官である山本五十六連合艦隊司令長官は、積極的な作戦思想を持っていました。山本長官は、攻撃の時期や場所を決めて来攻できる優勢な敵に対し、劣勢な立場での防御戦では勝利が望めないと考え、敵に対して自主的かつ積極的な作戦を展開することを主張。その最たる例が、1941年の真珠湾奇襲攻撃です。山本長官の目的は、敵の不意をついて初動で圧倒し、続く攻勢で米国の士気を喪失させ、結果として優位な講和条件を引き出すことにありました。 いずれも「有利な講和に持ち込む」という目的は共通していましたが、この2つには根本的な思想のブレがあり、それがその後も続いたのです。 対する米国には、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結という共通した明確な目的がありました。米国の対日戦略の基本を定めた「オレンジ計画改訂案」は、長期戦と大きな犠牲を予測。西大西洋のマーシャルおよびカロリン諸島を起点に日本の委任統治領を逐次攻略し、補給線を確保しながら徐々に進攻することを想定していました。歴史を後から振り返ると、実際この通りのプロセスを経ています』、「山本五十六連合艦隊司令長官は、積極的な作戦思想を持っていました。山本長官は、攻撃の時期や場所を決めて来攻できる優勢な敵に対し、劣勢な立場での防御戦では勝利が望めないと考え、敵に対して自主的かつ積極的な作戦を展開することを主張。その最たる例が、1941年の真珠湾奇襲攻撃です。山本長官の目的は、敵の不意をついて初動で圧倒し、続く攻勢で米国の士気を喪失させ、結果として優位な講和条件を引き出すことにありました。 いずれも「有利な講和に持ち込む」という目的は共通していましたが、この2つには根本的な思想のブレがあり、それがその後も続いたのです・・・米国には、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結という共通した明確な目的がありました。米国の対日戦略の基本を定めた「オレンジ計画改訂案」は、長期戦と大きな犠牲を予測。西大西洋のマーシャルおよびカロリン諸島を起点に日本の委任統治領を逐次攻略し、補給線を確保しながら徐々に進攻することを想定していました。歴史を後から振り返ると、実際この通りのプロセスを経ています』、なるほど。
・『現代の日本企業にも見られる目的のブレ 日本軍は各作戦においても目的が不明瞭で、現場に徹底されていませんでした。 ミッドウェー作戦には、ミッドウェー島攻略と誘い出した敵艦隊の駆逐という2つの目的がありました。山本長官は後者を真の目的としていたようですが、現場指揮官の南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、ミッドウェー攻略を重視。この目的の食い違いに加え、米国の攻撃機の襲来時期をミッドウェー島攻略の後と予想していたため、空母の航空機は陸用爆弾に転換作業中であり、被害が増大しました。 レイテ沖海戦においても、米上陸軍の補給を断つため輸送船団を攻撃することが目的であったにも関わらず、栗田健男司令官率いる連合艦隊主力が日本軍の伝統的な艦隊決戦に固執し、中央部の意図と異なる行動を取っています。 一方、米国は目的が明確でした。ミッドウェー作戦では、目的を日本の空母に限定。太平洋艦隊ニミッツ司令長官は、「空母以外には手を出すな」と厳命していました。ミッドウェー戦について、ニミッツ長官は回顧録で「日本の失敗の原因は2つの目的を持っていたことだ」と振り返っています。 さて、今日の日本企業においても、このような目的の不明瞭さや、マネジメントと現場との間の理解の不一致による目的のブレは見受けられます。 よくある例は、新規事業自体の成功を期待しているはずのマネジメント層が、うまくいかなかったときのことを恐れて「新規事業開発を通じて人材を育成する」といった別のメッセージを発してしまうケースです。これでは現場は困難な新規事業の成功を目指さず、人材育成に寄った施策を展開して、「オープンイノベーションを通じた学び」などが成果とされてしまいます。 また、「新規事業が既存事業に悪影響を与えないようにする」ような姿勢を取ってしまうのも、目的が二重になってしまっている例です。既存事業への依存から新しい取り組みが後回しになれば、結果として新興企業に市場を奪われるリスクがあります。それが分かっているのに、“虫のいい目標”を採用してしまっているのです』、「新規事業自体の成功を期待しているはずのマネジメント層が、うまくいかなかったときのことを恐れて「新規事業開発を通じて人材を育成する」といった別のメッセージを発してしまうケースです。これでは現場は困難な新規事業の成功を目指さず、人材育成に寄った施策を展開して、「オープンイノベーションを通じた学び」などが成果とされてしまいます。 また、「新規事業が既存事業に悪影響を与えないようにする」ような姿勢を取ってしまうのも、目的が二重になってしまっている例です。既存事業への依存から新しい取り組みが後回しになれば、結果として新興企業に市場を奪われるリスクがあります。それが分かっているのに、“虫のいい目標”を採用してしまっているのです」、なるほど。
・『相互の信頼関係を高めて組織内の意思統一を図るには 2つ目に「組織における意思統一のあり方」を取り上げましょう。 『失敗の本質』では、指揮系統の中での意思伝達における日本軍の失敗を指摘しています。上で述べたようにミッドウェー海戦やレイテ沖海戦では、上層部と現場指揮官の間で目的に関する理解が一致していなかったことが、戦略的失敗につながったと示されています。インパール作戦でも、現地のインド進攻を目的とする部隊と、ビルマ防衛を主目的とする上級司令部との間で理解の不一致があったにも関わらず、その不同意が上層部から明確に伝えられずに作戦が失敗しています。 一方米国は、ニミッツ長官と部下の現場指揮官・スプルーアンス少将が、ハワイで住居をともにして価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといいます。スプルーアンス少将も参謀と、空母「エンタープライズ」の甲板上で散歩をしながら長時間にわたって議論を重ね、相互の信頼関係を高めていました。そして作戦計画についての検討を進めると同時に、価値観の統一を図ったといいます。 戦後日本の企業組織を見ると、昭和の高度経済成長期には社員を家族のように親密に扱う会社も多く、社員旅行や運動会などを通じて価値観の共有を図っていました。今でもそういう企業もありますが、現代の日本ではワークライフバランスの重視やハラスメント教育など、昭和時代の問題点を見直そうという動きが強くなっています。昭和の悪しき習慣を一掃したのはよいのですが、組織内でのオープンなコミュニケーションも同時に取りづらくなり、意思疎通や価値観の統一が図れなくなるケースも増えているように思います。 もちろん、必要以上のウエットさはむしろ敬遠されますし、部下のプライベートに踏み込みすぎるのも良いことではありません。ただ、それなら新しい時代に合わせたチームビルディングや1on1ミーティングなどの手法を試すなど、上司と部下との間で意思統一を図る方法があるのではないでしょうか』、「インパール作戦でも、現地のインド進攻を目的とする部隊と、ビルマ防衛を主目的とする上級司令部との間で理解の不一致があったにも関わらず、その不同意が上層部から明確に伝えられずに作戦が失敗・・・ニミッツ長官と部下の現場指揮官・スプルーアンス少将が、ハワイで住居をともにして価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといいます。スプルーアンス少将も参謀と、空母「エンタープライズ」の甲板上で散歩をしながら長時間にわたって議論を重ね、相互の信頼関係を高めていました。そして作戦計画についての検討を進めると同時に、価値観の統一を図ったといいます」、米国の方が努力したようだ。
・『米国にもあった組織内対立 合理的判断の有無が明暗を分ける(3つ目は「組織内の対立」です。 『失敗の本質』では組織内の対立も日本軍敗戦の原因として挙げられています。対立はいくつかの部分で起きていますが、ここでは海軍と陸軍の対立を例として取り上げます。 ガダルカナル戦やレイテ戦では、陸海軍が策略を通じ合って共同で作戦に当たることはかなわず、むしろガダルカナル島では陸海軍の思惑の違いが防御に転じるべき時点を見誤らせ、犠牲を大きくしました。レイテ戦は本格的な陸海空一体の統合作戦として戦われるはずでしたが、陸海軍の間どころか、海軍内部の統合作戦さえ実現しませんでした。 『失敗の本質』では言及されていませんが、実はマッカーサーとニミッツは対立することも多く、そこへ空軍の独立的地位を確立しようとするヘンリー・アーノルド司令官も加わっての縄張り争いが繰り広げられていました。しかし米軍では、合理的な判断を優先させる組織文化が確立されていたようで、さらにルーズベルト大統領直下の組織が軍全体を指揮していました。組織内の対立がむしろ、成果を競い合う原動力として機能していた節もあります。 今の日本の企業・組織にもよく似た問題はあり、多くの会社で事業部間、あるいは営業担当と開発担当の間などに対立があると聞きます。その要因には、全社としての目的遂行の意識の弱さ、トップダウンの弱さがあり、組織文化が醸成されていないこともあると考えられます。 旧日本軍において敵とは本来、海軍から見た陸軍、陸軍から見た海軍ではなく、共通であるはずです。ところが陸軍はアジアを、海軍は太平洋を主戦場と見ていたため、統一された敵と目的を持てず、互いの戦略を良しとしないところがありました。 同じように今の日本企業でも、例えば営業と開発の間で互いに目的が統一されていないがゆえの対立というのはよくある話です。 米国企業でも組織内の対立はあります。しかし米国の場合は株主責任がより強く働き、CEOが更迭されることも頻繁で、常に正しいことを遂行する能力と結果責任が求められます。業績が悪化した際にはトップの責任問題として扱われ、組織の運営にメリハリがある点は日本の多くの企業と異なります。 『失敗の本質』の中で何度も語られていることの1つは、「日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います』、「旧日本軍において敵とは本来、海軍から見た陸軍、陸軍から見た海軍ではなく、共通であるはずです。ところが陸軍はアジアを、海軍は太平洋を主戦場と見ていたため、統一された敵と目的を持てず、互いの戦略を良しとしないところがありました・・・米国企業でも組織内の対立はあります。しかし米国の場合は株主責任がより強く働き、CEOが更迭されることも頻繁で、常に正しいことを遂行する能力と結果責任が求められます。業績が悪化した際にはトップの責任問題として扱われ、組織の運営にメリハリがある点は日本の多くの企業と異なります・・・日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います」、なるほど。
・『失敗を認めない空気が失敗から学べない体質を生む 4つ目のポイントは「学習の欠如」です。 『失敗の本質』では、戦略策定の方法論について「日本軍は帰納的、米軍は演繹的」と述べられています。 ある法則から個別の問題を解く演繹法と、経験した事実の中から一般的な法則を見つける帰納法は本来、双方を常に循環させることが必要です。本書ではしかし、「日本軍は事実から法則を析出するという本来の意味での帰納法も持たなかった」としています。そして日本軍の戦略策定について、「多分に情緒や空気が支配する傾向」があり、「科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかった」と指摘します。 日本軍の「状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法」について、この本では「客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった」としています。これはまさに今でいう仮説検証サイクルを表しています。 しかし、戦時中実際に起きていたのは「対人関係、人的ネットワーク関係に対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学び取ろうとする姿勢の欠如」でした。「本人も反省している。これ以上傷に塩を塗ることはない」といった“空気”が場を支配していたのです。この根底には、失敗を失敗と認めない文化があると考えられます。 対する米国は、真珠湾攻撃からの学びとして大艦巨砲主義からすばやく脱却。技術革新を基盤として航空機を兵の主力とする転換を行っています。 さて、今日の日本企業の状況はどうでしょうか。今でも日本の組織では失敗を許さない空気が支配しており、リスクを避ける姿勢がまん延しています。 障害が起きた際の模範的な対応を考えれば分かりますが、本来は失敗した個人を責めるのではなく、組織として失敗に至ったプロセスを客観的に検証し、二度と起こさないために改善を図ることが次の学びとなります。また、いくつもの小さな失敗から学ぶことが重要です。しかし実際には失敗を認めないがゆえに、その積み重ねによる大きな失敗でことが発覚することがよくあります。 今日の事業における仮説検証は戦時下と異なり、基本的には命を賭ける必要はありません。しかし、それでも失敗を許さない、失敗を失敗と認めない傾向がいまだに残っているのです。事業での失敗は学びの機会とすべきですが、今の日本の企業文化では、その機会が十分に活用されていないと感じられます。) ▽物資の重要性は認識されたが 人材確保の考えがまだ甘い日本(ほかにも『失敗の本質』には、組織論からは少し外れますが注目すべきポイントがいくつかあるので紹介しましょう。 1つは「補給」について。書籍では日本軍の敗戦の一因が補給不足だと指摘しています。特にガダルカナル戦やインパール作戦ではそれが顕著でした。短期決戦ですぐに陣地を取り返し、敵から食料や物資を奪うことができるという楽観的な予想のみを前提に計画を進めたのです。 『失敗の本質』の中では、日本軍にはコンティンジェンシープラン(想定外の事態が起きたときに実施する施策)が欠如していたと何度も指摘されています。また作戦が失敗したときに、補給路の確保を重視する認識にも欠けていました。一方、米国は補給路の重要性を理解していたため、長く伸びた日本軍の太平洋上の補給路をいかに断つか、戦略的に動いています。 現代の日本では、企業活動における物資補給の重要性は認識されています。特に製造業におけるサプライチェーンの確保は、総じてうまくいっていると言えるでしょう。ただし人的リソースの確保についてはまだ弱い部分もあり、物流の2024年問題をはじめ、解決すべき課題が山積しています。 これまでは人を増やさずに、現場の練度向上、改善努力で賄ってきた企業も多いと思いますが、それだけに頼ることは危険です。太平洋戦争においても、練度の高い人材の喪失と補給不足が敗戦の一因となっています。旧日本軍の状況は、現代における人材管理の課題と類似したところがあるのではないでしょうか』、「日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います・・・太平洋戦争においても、練度の高い人材の喪失と補給不足が敗戦の一因となっています。旧日本軍の状況は、現代における人材管理の課題と類似したところがあるのではないでしょうか」、なるほど。
・『戦時中からハード偏重でソフトが弱かった日本 『失敗の本質』を読んでいて、私が驚いたことがあります。1984年に出版され、戦時中の組織論を取り上げたこの本には、「ソフトウェア」というキーワードが登場するのです。日本軍の技術体系ではハードウェアに対してソフトウェアの開発が弱体であったとの指摘がそれで、ここでいうソフトウェアとはレーダーや通信などの情報システムを指します。) 日本軍は情報を取得し、分析し、適切に活用する能力において劣っていたということですが、現代の日本においてもハードウェア偏重主義の姿勢は変わっていないという感想を持ちました。 『失敗の本質』における私の最後の注目ポイントは、ものづくりにおける標準化についてです。本書には標準化と大量生産の重要性が挙げられています。米軍は最初から物量戦を見越して、次々と戦艦や飛行機を作るための資源確保・投入を繰り返していました。そのため「いかに標準品を大量に作るか」という、その後の製造業につながる発想をこのときに導入しています。 現代の日本の製造業には大量生産の能力はありますが、カスタムメード的なアプローチは残っています。ヨーロッパのコンポーネント化された部品を組み合わせるやり方ではなく、すり合わせで統合する手法もよく取られます。 IT業界に目を向けても、標準品を大量に普及させているのはマイクロソフトやアップルのような企業です。日本はこの分野でも、まだ戦時中の失敗の本質からしっかりと学びきれていないのかもしれません』、「日本軍は情報を取得し、分析し、適切に活用する能力において劣っていたということですが、現代の日本においてもハードウェア偏重主義の姿勢は変わっていないという感想を持ちました・・・IT業界に目を向けても、標準品を大量に普及させているのはマイクロソフトやアップルのような企業です。日本はこの分野でも、まだ戦時中の失敗の本質からしっかりと学びきれていないのかもしれません」、なるほど。
・『「負けに不思議の負けなし」 失敗からの学びを生かす 『失敗の本質』著者の1人の野中氏は、後に新聞に著したコラムでも「失敗を題材にし、そこから学ぶべき」と述べています。 私の好きな言葉に、故・野村克也監督が江戸時代の剣術書から引用した「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言があります。うまくいったケースより、失敗からの方が学べることは多いのです。社外には出せなくても、企業・組織の中では失敗をきちんと共有できるようにすべきだと考えます。 今の言葉なら「アンチパターン」とでも言い換えられるでしょうか。「こうすると失敗する」というパターンには、いくつかの法則があるのです。そうした法則をしっかりと共有し、そこからの学びを生かして同じ失敗を繰り返さないよう努めなければなりません。 (クライス&カンパニー顧問/Tably代表 及川卓也、構成/ムコハタワカコ)』、「野村克也監督が江戸時代の剣術書から引用した「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言があります。うまくいったケースより、失敗からの方が学べることは多いのです」、確かに上手い「名言」だ。
次に、8月15日付け東洋経済オンラインが掲載した東京大学名誉教授の井堀 利宏氏による「「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く、日本軍部の心理」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/802902
・『「軍部の台頭」「日中戦争の泥沼化」「資源確保のため」など……かつて日本がアメリカに戦争を仕掛けた原因はさまざまな学問で研究対象になり、現在では多くの事実が明らかにされています。 なぜ勝算が低い戦争に日本の軍部は突き進んだのでしょうか。経済学的にその理由を紐解くときに見えてくるのは、意外にも人間の心理面でした。 ※本記事は、書籍『超速・経済学の授業』から一部抜粋・大幅加筆したものです』、興味深そうだ。
・『なぜ勝算の低い戦争に突入したのか 1941年12月、日本はアメリカに攻撃を仕掛けました。いわゆる真珠湾攻撃です。その結果、1945年の終戦まで国内外で多くの犠牲者を生みました。 「両者の国力の差は歴然だったのに、なぜ日本は勝算の低い戦争に突入したのか」。多くの人がこのように疑問に感じたことがあるはずです。現在では経済学などを中心に、その理由は次の2つの理論で説明できると言われています。 日本が戦争を仕掛けたことを説明する理論 ・パワーシフト理論 ・プロスペクト理論 ひとつはパワーシフト理論という考え方です。パワーシフト理論とは、国際政治学の理論のひとつで、国と国の力関係が急激に変化したり、不安定になったりした場合、戦争に発展しやすいという考え方です。 特に衰退する国の場合、国力の低下を不安に感じて、敵対国に早めに戦争を仕掛けるインセンティブが働くとされています。 1941年12月、日本が真珠湾攻撃で第2次世界大戦に参戦した頃のアメリカと日本を比較すると、アメリカは世界恐慌で受けた不況から脱出して景気が回復していました。 一方の日本は次の理由から経済力が弱まることが見込まれていました。 まず、エネルギー資源の問題です。当時、日本はアメリカから石油を輸入していましたが、アメリカは日本への石油の供給を停止することを決定していました。石油輸入の7割をアメリカに頼っていたので、供給が止まってしまうと日本の備蓄量で賄ったとしても、2~3年で底をつくことが見込まれていました。 次に戦力面です。ヨーロッパで第2次世界大戦が始まった1939年の頃、太平洋地域での日米の戦艦や空母による軍事力の差はそれほどありませんでした。なぜなら、アメリカは、その軍事力を欧州の戦争に振り向けていたからです。ところが、アメリカは大国の経済力で、太平洋地域の軍事力を増強しつつありました。 そのため、数年後には太平洋地域での軍事力の面でも、不利な状況に追い込まれることが濃厚となっていたのです。実際、零式艦上戦闘機(零戦)は約1万機が生産されたものの、 アメリカは戦争中に約30万機の航空機を生産しました。こうした状況を踏まえて、日本はアメリカとの差が拡大する前に戦争を仕掛けるのが得策と考えました。 国力が低下することがわかっているなら、いまのうちに戦争を仕掛けたほうが有利だからです。まさしく、パワーシフト理論が働いたのです』、「日本はアメリカとの差が拡大する前に戦争を仕掛けるのが得策と考えました・・・まさしく、パワーシフト理論が働いたのです」、なるほど。
・『プロスペクト理論はリスクを評価する 勝算の低い戦争に突入したことを説明するもうひとつの理論は、2002年にノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏によって発表されたプロスペクト理論です。 (画像:『超速・経済学の授業』より) 行動経済学に基づくプロスペクト理論では、損失を受ける場合にはリスク愛好的(追求的)な行動をとる傾向があることがわかっています。さらに私たちには高い確率ほど低く評価し、低い確率ほど高く評価するという心理傾向があるとも想定されています。) わかりやすい例が宝くじです。宝くじでは1億円が当たる確率はとても低いのに、「もしかしたら当たるかもしれない」といった非合理的で歪んだ判断をすることがありますよね。多くの人は日々の生活のなかでも「確率を正しく認識できず」に行動を取っているのです。 当時の状況で考えてみましょう。まず、実際、当時の軍部が有力な経済学者に日本の国力でアメリカに勝てるのかどうか、シミュレーションを実施させたところ、多くの経済学者の答えは「ノー」でした』、「プロスペクト理論では、損失を受ける場合にはリスク愛好的(追求的)な行動をとる傾向があることがわかっています・・・私たちには高い確率ほど低く評価し、低い確率ほど高く評価するという心理傾向があるとも想定されています」、なるほど。
・『日本にあった2つの選択肢 日本の国力とアメリカの国力の差から開戦しても勝算が低いことは軍部もわかっていたのです。そのうえで、日本には2つの選択肢がありました。 日本の2つの選択肢 ① アメリカに戦争を仕掛けない ② アメリカに戦争を仕掛ける ①はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置などの経済制裁によって日本の国力は弱ってきており、このままでは2~3年後にはアメリカにひれ伏すことになる。それでも戦争を避けることで破滅的な損失を防げるので、これをやむを得ないと考える。 ②は高い確率で決定的な敗北を喫するが、極めて少ない確率で日本に勝算がある。すなわち、日本が東南アジアを占領すると、イギリスに対して優位に立てる。これには欧州戦線で同盟国のドイツが欧州で勝利する可能性があることを想定していました。) もしそうなればアメリカは、日本と戦うメリットが少なくなるため、戦争をやめて日本に有利な形で和解の道を選択することも考えられたわけです。 ①では確実に損失が発生します。 ②では極めて少ない確率ですが、開戦したほうがよい結果が得られるかもしれません。 プロスペクト理論では、開戦する場合の(高い確率での)損失よりも(極めて低い確率での)利得のほうをより大きく評価します。 かなりリスキーな選択ですが、そのリスクある選択が冒険的な気分へと昇華していき、日本は開戦へと突き進んでいったということが説明できるのです。 冷静な確率論で考えるのではなく、勝つ可能性を過大評価する心理的な圧力が働いたと考えれば、日本の参戦理由を理解しやすいかもしれません。 世界各地では現在も戦争や紛争が発生していますが、戦争と経済がどれほど深い関係にあることか、さらに我々がいかに不確実な考えに基づいた行動をするのか理解できたのではないでしょうか。 イデオロギーや感情論ではなく、経済との関係から戦争を見つめ直す。そうすることで、私たちは世の中の空気に流されない冷静な見方ができるはずです』、「プロスペクト理論では、開戦する場合の(高い確率での)損失よりも(極めて低い確率での)利得のほうをより大きく評価します。 かなりリスキーな選択ですが、そのリスクある選択が冒険的な気分へと昇華していき、日本は開戦へと突き進んでいったということが説明できるのです。 冷静な確率論で考えるのではなく、勝つ可能性を過大評価する心理的な圧力が働いたと考えれば、日本の参戦理由を理解しやすいかもしれません」、なるほど。
第三に、8月15日付け文春オンラインが掲載した石動 竜仁氏による「《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり、下士官の慰安所も昼間から…」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/72844
・『権力が集中するところに腐敗もまた集中するのはいつの時代も変わらないことだが、それが中央政府から遠く離れた場所で、大きな権力を持つ組織ならばなおさらのことだ。 第二次世界大戦において日本軍が占領した地域の中で最も西に位置するビルマ(現・ミャンマー)での醜聞はまさにそうだったかもしれない。「史上最悪の作戦」と呼ばれることの多いインパール作戦の悲惨な結果と相まって、ビルマにおける日本軍上層部の醜聞は今も数多く伝えられている。 日本人に広く知られたインパール作戦のイメージは、ノンフィクション作家の高木俊朗によるところが大きいだろう。『インパール』、『抗命』、『全滅』、『憤死』、『戦死』(いずれも文春文庫)の「インパール5部作」は高木の代表作として知られている』、興味深そうだ。
・『前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか このインパール5部作の中で批判的に言及されているのが牟田口廉也中将だ。第15軍司令官としてインパール作戦を主導したが、インパール作戦への否定的評価に加え、司令部のお膝元に料亭を建てて芸者を集めて遊興に浸った等、「愚将」との表現も残る彼のイメージは、高木の著作によるところも大きいとする意見もある。 こうした高木の著作における牟田口中将の特異なエピソードや個性について、後年になって高木による創作か誇張ではないかという意見も出ていた。高木の記述には出典が明示されていないことも多いためだ。しかし、高木の著作における牟田口中将や彼が率いた第15軍の醜聞は出典を確認できるものも多い。 また、牟田口中将の連隊長時代に副官を務めた河野又四郎が、戦後に高木の著作を読んで手紙(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)を書いている。 筆者がその手紙を確認したところ「牟田口将軍の性格については貴書に散見する各種の場面に於ける言動が盧溝橋事件のときと符節を合す如く感ぜられます」と、高木の著作における牟田口中将の性格は自分の知るものと同じだった事を記していた。よく知る人物からも、高木の著作に牟田口中将像に不自然なところはないという評価だった。 これを踏まえた上で、高木による牟田口中将や第15軍にまつわる著名な醜聞のうち、出典の確認が取れたものや、補完する情報が存在するもの。つまり、確度が高いものを本稿では紹介したい。前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか。 牟田口中将と第15軍の話に欠かせないのが、第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れる第十五軍首脳たちが描かれている。おそらく、戦時中に外地にあったもっとも知られている料亭だろう』、悲惨なインパール作戦を立案した「牟田口中将」が、「第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れ」ていたとは、フザケタ話だ。
・『「メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し…」 現在、料亭は遊興飲食を行う料理店というのが一般的だが、風俗営業法が存在しなかった戦前・戦中は性的なサービスもしばしば伴い、それは清明荘も同じだった。 ある元軍医は清明荘をこのように紹介している。 高級将校のためには軍司令部お抱えの料亭清明荘があり、内地から芸者が沢山きていた。もちろん我々見習士官などのゆける所でなく、各隊の隊長クラスがかち合わないようにスケジュールを決めて遊びにいっていた。うちの病院でも上級者数名が馴染みをつくっていた。曜日が変れば他隊の何某の女になるわけで、これを称して○○兄弟という。 では、清明荘はどのような料亭だったのだろうか。高木も引用している第15軍の報道班員だった朝日新聞の成田利一記者は、次のように記述している。 内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。) 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ。しかし、内地ですら窮乏生活をしている中、なぜビルマの山の中でこれほど豪勢な料亭が営業できたのだろうか。当の第15軍司令部で勤務していた下級将校の中井悟四郎は次のように書いている。 高級将校の此等遊興費は、機密費なる魔物で支弁されて居たようである。 機密費の問題は近年もたびたび政治問題化しているが、戦時中もさして変わらなかったようだ。 「若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが…」 戦時中、日本軍が進出した地域に料亭があったところは珍しくない。しかし、料亭にまつわる醜聞は第15軍をはじめとするビルマ方面軍の管轄のものが多く残っている。それだけ高木の著作の影響が大きかったこともあるのかもしれない。しかし、多くの戦地を見てきた軍人が、メイミョウの空気の異様さを指摘している。 戦時中から「作戦の神様」と称えられる一方で、虐殺への関与や自決強要など、毀誉褒貶の激しさでは帝国軍人の中でもトップクラスといえる辻政信大佐だが、インパール作戦中止から1週間後の1944年7月10日、メイミョウに第33軍参謀として着任する。この時、メイミョウから第15軍司令部は前進しており、そこに第33軍が来た形だ。メイミョウ周辺地形の確認に出た辻は、その光景に違和感を覚える。 仕事始めに早速その日、メイミョウ周辺の地形を一巡すると、緑滴る林間に色とりどりの和服姿でシャナリシャナリと逍遥する乙女の群が目についた。 中国でも滅多に見られない風景だ。森の中に一際目立つ建物には翠明荘(引用者注:清明荘の誤認か)と書いた看板がかけられてある。将校専用の慰安所であり、その界隈の下士官の慰安所も昼間から大入満員の盛況を呈している。 陽が陰を呼ぶのは宇宙の真理である。若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが、インパールで数万の将兵が餓死しているとき、同じビルマのしかも隣接軍でこのような行状が許されるものであろうか。 上記の初出は1950年の酣灯社版だが、旧字が多用されているので原書房版を引用した。記述自体は変わらない。) 辻は他地域と違うメイミョウの空気を目の当たりにし、空気の一新を決意したという。辻の記述は引用に注意が必要だが、この記述の初出は1950年でメイミョウの異様さを指摘するものとしては最古に属する。辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる』、「辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる」、当然だろう。
・『慰安婦調達の作戦は電光石火だった こうしたメイミョウの空気を醸成した第15軍について、辻は「敵の反抗もないままに各兵団とも居住、慰安の設備に貴重な二年を空費したらしい」と手厳しい。実際、ビルマを制圧してからインパール作戦までの2年間で、牟田口中将が慰安施設の整備に他の司令官より注力していたことを窺わせる証言があった。 民間の慰安所経営者が慰安婦を連れてラングーン港に着くと、菊兵団(第18師団の通称。第15軍司令になる前の牟田口中将が師団長を務めていた)の橋本参謀が待ち構えており、「師団司令部に連れていく」と有無を言わせず日本人慰安婦を連れ去っていった証言が残っている(西野瑠美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。 当時、慰安婦について不文律のランク付けがあり、一番が日本人、次に朝鮮人、中国人ときて、最後に現地人がくるというものがあった。つまり、はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である。 ここまで示したように、牟田口中将の醜聞に関しては、複数の証言から裏付けられるものも多い。しかし、彼だけに、そして彼が指揮した第15軍だけに問題があったのだろうか。後編では、第15軍の上位部隊であるビルマ方面軍全体に視野を広げてみよう』、「内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ・・・はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である」、こんな贅沢三昧を現地の高級将校が送っていたとは、内地との余りのギャップに驚かされると同時に、特権を振りかざしていた高級将校らに対し怒りを覚えた。
先ずは、4月30日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したクライス&カンパニー顧問・Tably代表の及川卓也氏による「旧日本軍の失敗から今こそ学ぶべき、現代日本企業の「失敗の本質」とは」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/342705
・『マイクロソフトやグーグルでエンジニアとして活躍し、複数の企業で技術顧問を務める及川卓也氏が、組織論の名著として薦める『失敗の本質』。「現代の組織にとっても学ぶところが多い」というその本のポイントを、及川氏が分かりやすく解説する』、興味深そうだ。
・『日本軍の組織的欠陥に「失敗の本質」を学ぶ 前回記事『新社会人に薦める珠玉の3冊、活字の達人が「人生を変える読書法」を手ほどき』でお薦めした『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(以下、『失敗の本質』)は、私が10年以上、何度も読み返してきた1冊です。 『失敗の本質』はタイトル通り、第2次世界大戦中の日本軍の組織について、戦史と組織論を専門とする計6名の研究者が著した研究の書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦を取り上げています。初版は1984年で、ダイヤモンド社から発行されました。 組織としての日本軍の失敗を、現代組織の反面教師として活用することを目的に書かれた本書は、大東亜戦争(本書では戦場が太平洋地域に限定されていなかったという意味で、あえてこの呼び方が使われています)を通じて明らかになった非合理的かつ非効率な行動の背景に組織的な欠陥があり、これが日本の敗戦を招いたと論じます。 著者の1人で組織論を専門とする経営学者の野中郁次郎氏は、本書執筆のきっかけについて後年、「日本企業のケーススタディをもとにした研究を進めるうち、成功例だけでは一面的になると失敗例を探したが、企業からの協力が得られなかった」と振り返り、「日本軍の失敗の研究ならできるのではないか」との助言を得て、調査を進めるために防衛大学校へ移籍した経緯を明かしています。 今の現役世代にとっては第2次世界大戦は遠い過去、歴史の中の出来事にすぎないかもしれません。しかし、この本は純粋に読み物としても面白く、幅広い読者にお薦めできる書物です』、「組織としての日本軍の失敗を、現代組織の反面教師として活用することを目的に書かれた本書は、大東亜戦争(本書では戦場が太平洋地域に限定されていなかったという意味で、あえてこの呼び方が使われています)を通じて明らかになった非合理的かつ非効率な行動の背景に組織的な欠陥があり、これが日本の敗戦を招いたと論じます」、なるほど。
・『明確な目的を持つ米軍 目的のブレが目立つ日本軍 ここからは、太平洋戦争における日本軍失敗の組織論的要因について、現代日本の企業・組織と照らし合わせながら読み解いていきましょう。 1つ目は「目的のブレ」です。 日本海軍・軍令部の戦略は短期決戦を目指し、太平洋を越えて来る米国艦隊を日本近海で迎え撃って、艦隊決戦によって一挙に撃破することを企図していました。計画の背景には、日本の海軍力拡張を抑制しようとする国際的な圧力があります。ワシントンおよびロンドンの海軍軍縮条約に批准したことで、日本は主力艦の保有数を制限されていたのです。 しかし、実戦部隊の最高指揮官である山本五十六連合艦隊司令長官は、積極的な作戦思想を持っていました。山本長官は、攻撃の時期や場所を決めて来攻できる優勢な敵に対し、劣勢な立場での防御戦では勝利が望めないと考え、敵に対して自主的かつ積極的な作戦を展開することを主張。その最たる例が、1941年の真珠湾奇襲攻撃です。山本長官の目的は、敵の不意をついて初動で圧倒し、続く攻勢で米国の士気を喪失させ、結果として優位な講和条件を引き出すことにありました。 いずれも「有利な講和に持ち込む」という目的は共通していましたが、この2つには根本的な思想のブレがあり、それがその後も続いたのです。 対する米国には、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結という共通した明確な目的がありました。米国の対日戦略の基本を定めた「オレンジ計画改訂案」は、長期戦と大きな犠牲を予測。西大西洋のマーシャルおよびカロリン諸島を起点に日本の委任統治領を逐次攻略し、補給線を確保しながら徐々に進攻することを想定していました。歴史を後から振り返ると、実際この通りのプロセスを経ています』、「山本五十六連合艦隊司令長官は、積極的な作戦思想を持っていました。山本長官は、攻撃の時期や場所を決めて来攻できる優勢な敵に対し、劣勢な立場での防御戦では勝利が望めないと考え、敵に対して自主的かつ積極的な作戦を展開することを主張。その最たる例が、1941年の真珠湾奇襲攻撃です。山本長官の目的は、敵の不意をついて初動で圧倒し、続く攻勢で米国の士気を喪失させ、結果として優位な講和条件を引き出すことにありました。 いずれも「有利な講和に持ち込む」という目的は共通していましたが、この2つには根本的な思想のブレがあり、それがその後も続いたのです・・・米国には、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結という共通した明確な目的がありました。米国の対日戦略の基本を定めた「オレンジ計画改訂案」は、長期戦と大きな犠牲を予測。西大西洋のマーシャルおよびカロリン諸島を起点に日本の委任統治領を逐次攻略し、補給線を確保しながら徐々に進攻することを想定していました。歴史を後から振り返ると、実際この通りのプロセスを経ています』、なるほど。
・『現代の日本企業にも見られる目的のブレ 日本軍は各作戦においても目的が不明瞭で、現場に徹底されていませんでした。 ミッドウェー作戦には、ミッドウェー島攻略と誘い出した敵艦隊の駆逐という2つの目的がありました。山本長官は後者を真の目的としていたようですが、現場指揮官の南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、ミッドウェー攻略を重視。この目的の食い違いに加え、米国の攻撃機の襲来時期をミッドウェー島攻略の後と予想していたため、空母の航空機は陸用爆弾に転換作業中であり、被害が増大しました。 レイテ沖海戦においても、米上陸軍の補給を断つため輸送船団を攻撃することが目的であったにも関わらず、栗田健男司令官率いる連合艦隊主力が日本軍の伝統的な艦隊決戦に固執し、中央部の意図と異なる行動を取っています。 一方、米国は目的が明確でした。ミッドウェー作戦では、目的を日本の空母に限定。太平洋艦隊ニミッツ司令長官は、「空母以外には手を出すな」と厳命していました。ミッドウェー戦について、ニミッツ長官は回顧録で「日本の失敗の原因は2つの目的を持っていたことだ」と振り返っています。 さて、今日の日本企業においても、このような目的の不明瞭さや、マネジメントと現場との間の理解の不一致による目的のブレは見受けられます。 よくある例は、新規事業自体の成功を期待しているはずのマネジメント層が、うまくいかなかったときのことを恐れて「新規事業開発を通じて人材を育成する」といった別のメッセージを発してしまうケースです。これでは現場は困難な新規事業の成功を目指さず、人材育成に寄った施策を展開して、「オープンイノベーションを通じた学び」などが成果とされてしまいます。 また、「新規事業が既存事業に悪影響を与えないようにする」ような姿勢を取ってしまうのも、目的が二重になってしまっている例です。既存事業への依存から新しい取り組みが後回しになれば、結果として新興企業に市場を奪われるリスクがあります。それが分かっているのに、“虫のいい目標”を採用してしまっているのです』、「新規事業自体の成功を期待しているはずのマネジメント層が、うまくいかなかったときのことを恐れて「新規事業開発を通じて人材を育成する」といった別のメッセージを発してしまうケースです。これでは現場は困難な新規事業の成功を目指さず、人材育成に寄った施策を展開して、「オープンイノベーションを通じた学び」などが成果とされてしまいます。 また、「新規事業が既存事業に悪影響を与えないようにする」ような姿勢を取ってしまうのも、目的が二重になってしまっている例です。既存事業への依存から新しい取り組みが後回しになれば、結果として新興企業に市場を奪われるリスクがあります。それが分かっているのに、“虫のいい目標”を採用してしまっているのです」、なるほど。
・『相互の信頼関係を高めて組織内の意思統一を図るには 2つ目に「組織における意思統一のあり方」を取り上げましょう。 『失敗の本質』では、指揮系統の中での意思伝達における日本軍の失敗を指摘しています。上で述べたようにミッドウェー海戦やレイテ沖海戦では、上層部と現場指揮官の間で目的に関する理解が一致していなかったことが、戦略的失敗につながったと示されています。インパール作戦でも、現地のインド進攻を目的とする部隊と、ビルマ防衛を主目的とする上級司令部との間で理解の不一致があったにも関わらず、その不同意が上層部から明確に伝えられずに作戦が失敗しています。 一方米国は、ニミッツ長官と部下の現場指揮官・スプルーアンス少将が、ハワイで住居をともにして価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといいます。スプルーアンス少将も参謀と、空母「エンタープライズ」の甲板上で散歩をしながら長時間にわたって議論を重ね、相互の信頼関係を高めていました。そして作戦計画についての検討を進めると同時に、価値観の統一を図ったといいます。 戦後日本の企業組織を見ると、昭和の高度経済成長期には社員を家族のように親密に扱う会社も多く、社員旅行や運動会などを通じて価値観の共有を図っていました。今でもそういう企業もありますが、現代の日本ではワークライフバランスの重視やハラスメント教育など、昭和時代の問題点を見直そうという動きが強くなっています。昭和の悪しき習慣を一掃したのはよいのですが、組織内でのオープンなコミュニケーションも同時に取りづらくなり、意思疎通や価値観の統一が図れなくなるケースも増えているように思います。 もちろん、必要以上のウエットさはむしろ敬遠されますし、部下のプライベートに踏み込みすぎるのも良いことではありません。ただ、それなら新しい時代に合わせたチームビルディングや1on1ミーティングなどの手法を試すなど、上司と部下との間で意思統一を図る方法があるのではないでしょうか』、「インパール作戦でも、現地のインド進攻を目的とする部隊と、ビルマ防衛を主目的とする上級司令部との間で理解の不一致があったにも関わらず、その不同意が上層部から明確に伝えられずに作戦が失敗・・・ニミッツ長官と部下の現場指揮官・スプルーアンス少将が、ハワイで住居をともにして価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといいます。スプルーアンス少将も参謀と、空母「エンタープライズ」の甲板上で散歩をしながら長時間にわたって議論を重ね、相互の信頼関係を高めていました。そして作戦計画についての検討を進めると同時に、価値観の統一を図ったといいます」、米国の方が努力したようだ。
・『米国にもあった組織内対立 合理的判断の有無が明暗を分ける(3つ目は「組織内の対立」です。 『失敗の本質』では組織内の対立も日本軍敗戦の原因として挙げられています。対立はいくつかの部分で起きていますが、ここでは海軍と陸軍の対立を例として取り上げます。 ガダルカナル戦やレイテ戦では、陸海軍が策略を通じ合って共同で作戦に当たることはかなわず、むしろガダルカナル島では陸海軍の思惑の違いが防御に転じるべき時点を見誤らせ、犠牲を大きくしました。レイテ戦は本格的な陸海空一体の統合作戦として戦われるはずでしたが、陸海軍の間どころか、海軍内部の統合作戦さえ実現しませんでした。 『失敗の本質』では言及されていませんが、実はマッカーサーとニミッツは対立することも多く、そこへ空軍の独立的地位を確立しようとするヘンリー・アーノルド司令官も加わっての縄張り争いが繰り広げられていました。しかし米軍では、合理的な判断を優先させる組織文化が確立されていたようで、さらにルーズベルト大統領直下の組織が軍全体を指揮していました。組織内の対立がむしろ、成果を競い合う原動力として機能していた節もあります。 今の日本の企業・組織にもよく似た問題はあり、多くの会社で事業部間、あるいは営業担当と開発担当の間などに対立があると聞きます。その要因には、全社としての目的遂行の意識の弱さ、トップダウンの弱さがあり、組織文化が醸成されていないこともあると考えられます。 旧日本軍において敵とは本来、海軍から見た陸軍、陸軍から見た海軍ではなく、共通であるはずです。ところが陸軍はアジアを、海軍は太平洋を主戦場と見ていたため、統一された敵と目的を持てず、互いの戦略を良しとしないところがありました。 同じように今の日本企業でも、例えば営業と開発の間で互いに目的が統一されていないがゆえの対立というのはよくある話です。 米国企業でも組織内の対立はあります。しかし米国の場合は株主責任がより強く働き、CEOが更迭されることも頻繁で、常に正しいことを遂行する能力と結果責任が求められます。業績が悪化した際にはトップの責任問題として扱われ、組織の運営にメリハリがある点は日本の多くの企業と異なります。 『失敗の本質』の中で何度も語られていることの1つは、「日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います』、「旧日本軍において敵とは本来、海軍から見た陸軍、陸軍から見た海軍ではなく、共通であるはずです。ところが陸軍はアジアを、海軍は太平洋を主戦場と見ていたため、統一された敵と目的を持てず、互いの戦略を良しとしないところがありました・・・米国企業でも組織内の対立はあります。しかし米国の場合は株主責任がより強く働き、CEOが更迭されることも頻繁で、常に正しいことを遂行する能力と結果責任が求められます。業績が悪化した際にはトップの責任問題として扱われ、組織の運営にメリハリがある点は日本の多くの企業と異なります・・・日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います」、なるほど。
・『失敗を認めない空気が失敗から学べない体質を生む 4つ目のポイントは「学習の欠如」です。 『失敗の本質』では、戦略策定の方法論について「日本軍は帰納的、米軍は演繹的」と述べられています。 ある法則から個別の問題を解く演繹法と、経験した事実の中から一般的な法則を見つける帰納法は本来、双方を常に循環させることが必要です。本書ではしかし、「日本軍は事実から法則を析出するという本来の意味での帰納法も持たなかった」としています。そして日本軍の戦略策定について、「多分に情緒や空気が支配する傾向」があり、「科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかった」と指摘します。 日本軍の「状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法」について、この本では「客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった」としています。これはまさに今でいう仮説検証サイクルを表しています。 しかし、戦時中実際に起きていたのは「対人関係、人的ネットワーク関係に対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学び取ろうとする姿勢の欠如」でした。「本人も反省している。これ以上傷に塩を塗ることはない」といった“空気”が場を支配していたのです。この根底には、失敗を失敗と認めない文化があると考えられます。 対する米国は、真珠湾攻撃からの学びとして大艦巨砲主義からすばやく脱却。技術革新を基盤として航空機を兵の主力とする転換を行っています。 さて、今日の日本企業の状況はどうでしょうか。今でも日本の組織では失敗を許さない空気が支配しており、リスクを避ける姿勢がまん延しています。 障害が起きた際の模範的な対応を考えれば分かりますが、本来は失敗した個人を責めるのではなく、組織として失敗に至ったプロセスを客観的に検証し、二度と起こさないために改善を図ることが次の学びとなります。また、いくつもの小さな失敗から学ぶことが重要です。しかし実際には失敗を認めないがゆえに、その積み重ねによる大きな失敗でことが発覚することがよくあります。 今日の事業における仮説検証は戦時下と異なり、基本的には命を賭ける必要はありません。しかし、それでも失敗を許さない、失敗を失敗と認めない傾向がいまだに残っているのです。事業での失敗は学びの機会とすべきですが、今の日本の企業文化では、その機会が十分に活用されていないと感じられます。) ▽物資の重要性は認識されたが 人材確保の考えがまだ甘い日本(ほかにも『失敗の本質』には、組織論からは少し外れますが注目すべきポイントがいくつかあるので紹介しましょう。 1つは「補給」について。書籍では日本軍の敗戦の一因が補給不足だと指摘しています。特にガダルカナル戦やインパール作戦ではそれが顕著でした。短期決戦ですぐに陣地を取り返し、敵から食料や物資を奪うことができるという楽観的な予想のみを前提に計画を進めたのです。 『失敗の本質』の中では、日本軍にはコンティンジェンシープラン(想定外の事態が起きたときに実施する施策)が欠如していたと何度も指摘されています。また作戦が失敗したときに、補給路の確保を重視する認識にも欠けていました。一方、米国は補給路の重要性を理解していたため、長く伸びた日本軍の太平洋上の補給路をいかに断つか、戦略的に動いています。 現代の日本では、企業活動における物資補給の重要性は認識されています。特に製造業におけるサプライチェーンの確保は、総じてうまくいっていると言えるでしょう。ただし人的リソースの確保についてはまだ弱い部分もあり、物流の2024年問題をはじめ、解決すべき課題が山積しています。 これまでは人を増やさずに、現場の練度向上、改善努力で賄ってきた企業も多いと思いますが、それだけに頼ることは危険です。太平洋戦争においても、練度の高い人材の喪失と補給不足が敗戦の一因となっています。旧日本軍の状況は、現代における人材管理の課題と類似したところがあるのではないでしょうか』、「日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います・・・太平洋戦争においても、練度の高い人材の喪失と補給不足が敗戦の一因となっています。旧日本軍の状況は、現代における人材管理の課題と類似したところがあるのではないでしょうか」、なるほど。
・『戦時中からハード偏重でソフトが弱かった日本 『失敗の本質』を読んでいて、私が驚いたことがあります。1984年に出版され、戦時中の組織論を取り上げたこの本には、「ソフトウェア」というキーワードが登場するのです。日本軍の技術体系ではハードウェアに対してソフトウェアの開発が弱体であったとの指摘がそれで、ここでいうソフトウェアとはレーダーや通信などの情報システムを指します。) 日本軍は情報を取得し、分析し、適切に活用する能力において劣っていたということですが、現代の日本においてもハードウェア偏重主義の姿勢は変わっていないという感想を持ちました。 『失敗の本質』における私の最後の注目ポイントは、ものづくりにおける標準化についてです。本書には標準化と大量生産の重要性が挙げられています。米軍は最初から物量戦を見越して、次々と戦艦や飛行機を作るための資源確保・投入を繰り返していました。そのため「いかに標準品を大量に作るか」という、その後の製造業につながる発想をこのときに導入しています。 現代の日本の製造業には大量生産の能力はありますが、カスタムメード的なアプローチは残っています。ヨーロッパのコンポーネント化された部品を組み合わせるやり方ではなく、すり合わせで統合する手法もよく取られます。 IT業界に目を向けても、標準品を大量に普及させているのはマイクロソフトやアップルのような企業です。日本はこの分野でも、まだ戦時中の失敗の本質からしっかりと学びきれていないのかもしれません』、「日本軍は情報を取得し、分析し、適切に活用する能力において劣っていたということですが、現代の日本においてもハードウェア偏重主義の姿勢は変わっていないという感想を持ちました・・・IT業界に目を向けても、標準品を大量に普及させているのはマイクロソフトやアップルのような企業です。日本はこの分野でも、まだ戦時中の失敗の本質からしっかりと学びきれていないのかもしれません」、なるほど。
・『「負けに不思議の負けなし」 失敗からの学びを生かす 『失敗の本質』著者の1人の野中氏は、後に新聞に著したコラムでも「失敗を題材にし、そこから学ぶべき」と述べています。 私の好きな言葉に、故・野村克也監督が江戸時代の剣術書から引用した「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言があります。うまくいったケースより、失敗からの方が学べることは多いのです。社外には出せなくても、企業・組織の中では失敗をきちんと共有できるようにすべきだと考えます。 今の言葉なら「アンチパターン」とでも言い換えられるでしょうか。「こうすると失敗する」というパターンには、いくつかの法則があるのです。そうした法則をしっかりと共有し、そこからの学びを生かして同じ失敗を繰り返さないよう努めなければなりません。 (クライス&カンパニー顧問/Tably代表 及川卓也、構成/ムコハタワカコ)』、「野村克也監督が江戸時代の剣術書から引用した「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言があります。うまくいったケースより、失敗からの方が学べることは多いのです」、確かに上手い「名言」だ。
次に、8月15日付け東洋経済オンラインが掲載した東京大学名誉教授の井堀 利宏氏による「「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く、日本軍部の心理」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/802902
・『「軍部の台頭」「日中戦争の泥沼化」「資源確保のため」など……かつて日本がアメリカに戦争を仕掛けた原因はさまざまな学問で研究対象になり、現在では多くの事実が明らかにされています。 なぜ勝算が低い戦争に日本の軍部は突き進んだのでしょうか。経済学的にその理由を紐解くときに見えてくるのは、意外にも人間の心理面でした。 ※本記事は、書籍『超速・経済学の授業』から一部抜粋・大幅加筆したものです』、興味深そうだ。
・『なぜ勝算の低い戦争に突入したのか 1941年12月、日本はアメリカに攻撃を仕掛けました。いわゆる真珠湾攻撃です。その結果、1945年の終戦まで国内外で多くの犠牲者を生みました。 「両者の国力の差は歴然だったのに、なぜ日本は勝算の低い戦争に突入したのか」。多くの人がこのように疑問に感じたことがあるはずです。現在では経済学などを中心に、その理由は次の2つの理論で説明できると言われています。 日本が戦争を仕掛けたことを説明する理論 ・パワーシフト理論 ・プロスペクト理論 ひとつはパワーシフト理論という考え方です。パワーシフト理論とは、国際政治学の理論のひとつで、国と国の力関係が急激に変化したり、不安定になったりした場合、戦争に発展しやすいという考え方です。 特に衰退する国の場合、国力の低下を不安に感じて、敵対国に早めに戦争を仕掛けるインセンティブが働くとされています。 1941年12月、日本が真珠湾攻撃で第2次世界大戦に参戦した頃のアメリカと日本を比較すると、アメリカは世界恐慌で受けた不況から脱出して景気が回復していました。 一方の日本は次の理由から経済力が弱まることが見込まれていました。 まず、エネルギー資源の問題です。当時、日本はアメリカから石油を輸入していましたが、アメリカは日本への石油の供給を停止することを決定していました。石油輸入の7割をアメリカに頼っていたので、供給が止まってしまうと日本の備蓄量で賄ったとしても、2~3年で底をつくことが見込まれていました。 次に戦力面です。ヨーロッパで第2次世界大戦が始まった1939年の頃、太平洋地域での日米の戦艦や空母による軍事力の差はそれほどありませんでした。なぜなら、アメリカは、その軍事力を欧州の戦争に振り向けていたからです。ところが、アメリカは大国の経済力で、太平洋地域の軍事力を増強しつつありました。 そのため、数年後には太平洋地域での軍事力の面でも、不利な状況に追い込まれることが濃厚となっていたのです。実際、零式艦上戦闘機(零戦)は約1万機が生産されたものの、 アメリカは戦争中に約30万機の航空機を生産しました。こうした状況を踏まえて、日本はアメリカとの差が拡大する前に戦争を仕掛けるのが得策と考えました。 国力が低下することがわかっているなら、いまのうちに戦争を仕掛けたほうが有利だからです。まさしく、パワーシフト理論が働いたのです』、「日本はアメリカとの差が拡大する前に戦争を仕掛けるのが得策と考えました・・・まさしく、パワーシフト理論が働いたのです」、なるほど。
・『プロスペクト理論はリスクを評価する 勝算の低い戦争に突入したことを説明するもうひとつの理論は、2002年にノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏によって発表されたプロスペクト理論です。 (画像:『超速・経済学の授業』より) 行動経済学に基づくプロスペクト理論では、損失を受ける場合にはリスク愛好的(追求的)な行動をとる傾向があることがわかっています。さらに私たちには高い確率ほど低く評価し、低い確率ほど高く評価するという心理傾向があるとも想定されています。) わかりやすい例が宝くじです。宝くじでは1億円が当たる確率はとても低いのに、「もしかしたら当たるかもしれない」といった非合理的で歪んだ判断をすることがありますよね。多くの人は日々の生活のなかでも「確率を正しく認識できず」に行動を取っているのです。 当時の状況で考えてみましょう。まず、実際、当時の軍部が有力な経済学者に日本の国力でアメリカに勝てるのかどうか、シミュレーションを実施させたところ、多くの経済学者の答えは「ノー」でした』、「プロスペクト理論では、損失を受ける場合にはリスク愛好的(追求的)な行動をとる傾向があることがわかっています・・・私たちには高い確率ほど低く評価し、低い確率ほど高く評価するという心理傾向があるとも想定されています」、なるほど。
・『日本にあった2つの選択肢 日本の国力とアメリカの国力の差から開戦しても勝算が低いことは軍部もわかっていたのです。そのうえで、日本には2つの選択肢がありました。 日本の2つの選択肢 ① アメリカに戦争を仕掛けない ② アメリカに戦争を仕掛ける ①はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置などの経済制裁によって日本の国力は弱ってきており、このままでは2~3年後にはアメリカにひれ伏すことになる。それでも戦争を避けることで破滅的な損失を防げるので、これをやむを得ないと考える。 ②は高い確率で決定的な敗北を喫するが、極めて少ない確率で日本に勝算がある。すなわち、日本が東南アジアを占領すると、イギリスに対して優位に立てる。これには欧州戦線で同盟国のドイツが欧州で勝利する可能性があることを想定していました。) もしそうなればアメリカは、日本と戦うメリットが少なくなるため、戦争をやめて日本に有利な形で和解の道を選択することも考えられたわけです。 ①では確実に損失が発生します。 ②では極めて少ない確率ですが、開戦したほうがよい結果が得られるかもしれません。 プロスペクト理論では、開戦する場合の(高い確率での)損失よりも(極めて低い確率での)利得のほうをより大きく評価します。 かなりリスキーな選択ですが、そのリスクある選択が冒険的な気分へと昇華していき、日本は開戦へと突き進んでいったということが説明できるのです。 冷静な確率論で考えるのではなく、勝つ可能性を過大評価する心理的な圧力が働いたと考えれば、日本の参戦理由を理解しやすいかもしれません。 世界各地では現在も戦争や紛争が発生していますが、戦争と経済がどれほど深い関係にあることか、さらに我々がいかに不確実な考えに基づいた行動をするのか理解できたのではないでしょうか。 イデオロギーや感情論ではなく、経済との関係から戦争を見つめ直す。そうすることで、私たちは世の中の空気に流されない冷静な見方ができるはずです』、「プロスペクト理論では、開戦する場合の(高い確率での)損失よりも(極めて低い確率での)利得のほうをより大きく評価します。 かなりリスキーな選択ですが、そのリスクある選択が冒険的な気分へと昇華していき、日本は開戦へと突き進んでいったということが説明できるのです。 冷静な確率論で考えるのではなく、勝つ可能性を過大評価する心理的な圧力が働いたと考えれば、日本の参戦理由を理解しやすいかもしれません」、なるほど。
第三に、8月15日付け文春オンラインが掲載した石動 竜仁氏による「《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり、下士官の慰安所も昼間から…」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/72844
・『権力が集中するところに腐敗もまた集中するのはいつの時代も変わらないことだが、それが中央政府から遠く離れた場所で、大きな権力を持つ組織ならばなおさらのことだ。 第二次世界大戦において日本軍が占領した地域の中で最も西に位置するビルマ(現・ミャンマー)での醜聞はまさにそうだったかもしれない。「史上最悪の作戦」と呼ばれることの多いインパール作戦の悲惨な結果と相まって、ビルマにおける日本軍上層部の醜聞は今も数多く伝えられている。 日本人に広く知られたインパール作戦のイメージは、ノンフィクション作家の高木俊朗によるところが大きいだろう。『インパール』、『抗命』、『全滅』、『憤死』、『戦死』(いずれも文春文庫)の「インパール5部作」は高木の代表作として知られている』、興味深そうだ。
・『前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか このインパール5部作の中で批判的に言及されているのが牟田口廉也中将だ。第15軍司令官としてインパール作戦を主導したが、インパール作戦への否定的評価に加え、司令部のお膝元に料亭を建てて芸者を集めて遊興に浸った等、「愚将」との表現も残る彼のイメージは、高木の著作によるところも大きいとする意見もある。 こうした高木の著作における牟田口中将の特異なエピソードや個性について、後年になって高木による創作か誇張ではないかという意見も出ていた。高木の記述には出典が明示されていないことも多いためだ。しかし、高木の著作における牟田口中将や彼が率いた第15軍の醜聞は出典を確認できるものも多い。 また、牟田口中将の連隊長時代に副官を務めた河野又四郎が、戦後に高木の著作を読んで手紙(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)を書いている。 筆者がその手紙を確認したところ「牟田口将軍の性格については貴書に散見する各種の場面に於ける言動が盧溝橋事件のときと符節を合す如く感ぜられます」と、高木の著作における牟田口中将の性格は自分の知るものと同じだった事を記していた。よく知る人物からも、高木の著作に牟田口中将像に不自然なところはないという評価だった。 これを踏まえた上で、高木による牟田口中将や第15軍にまつわる著名な醜聞のうち、出典の確認が取れたものや、補完する情報が存在するもの。つまり、確度が高いものを本稿では紹介したい。前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか。 牟田口中将と第15軍の話に欠かせないのが、第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れる第十五軍首脳たちが描かれている。おそらく、戦時中に外地にあったもっとも知られている料亭だろう』、悲惨なインパール作戦を立案した「牟田口中将」が、「第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れ」ていたとは、フザケタ話だ。
・『「メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し…」 現在、料亭は遊興飲食を行う料理店というのが一般的だが、風俗営業法が存在しなかった戦前・戦中は性的なサービスもしばしば伴い、それは清明荘も同じだった。 ある元軍医は清明荘をこのように紹介している。 高級将校のためには軍司令部お抱えの料亭清明荘があり、内地から芸者が沢山きていた。もちろん我々見習士官などのゆける所でなく、各隊の隊長クラスがかち合わないようにスケジュールを決めて遊びにいっていた。うちの病院でも上級者数名が馴染みをつくっていた。曜日が変れば他隊の何某の女になるわけで、これを称して○○兄弟という。 では、清明荘はどのような料亭だったのだろうか。高木も引用している第15軍の報道班員だった朝日新聞の成田利一記者は、次のように記述している。 内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。) 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ。しかし、内地ですら窮乏生活をしている中、なぜビルマの山の中でこれほど豪勢な料亭が営業できたのだろうか。当の第15軍司令部で勤務していた下級将校の中井悟四郎は次のように書いている。 高級将校の此等遊興費は、機密費なる魔物で支弁されて居たようである。 機密費の問題は近年もたびたび政治問題化しているが、戦時中もさして変わらなかったようだ。 「若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが…」 戦時中、日本軍が進出した地域に料亭があったところは珍しくない。しかし、料亭にまつわる醜聞は第15軍をはじめとするビルマ方面軍の管轄のものが多く残っている。それだけ高木の著作の影響が大きかったこともあるのかもしれない。しかし、多くの戦地を見てきた軍人が、メイミョウの空気の異様さを指摘している。 戦時中から「作戦の神様」と称えられる一方で、虐殺への関与や自決強要など、毀誉褒貶の激しさでは帝国軍人の中でもトップクラスといえる辻政信大佐だが、インパール作戦中止から1週間後の1944年7月10日、メイミョウに第33軍参謀として着任する。この時、メイミョウから第15軍司令部は前進しており、そこに第33軍が来た形だ。メイミョウ周辺地形の確認に出た辻は、その光景に違和感を覚える。 仕事始めに早速その日、メイミョウ周辺の地形を一巡すると、緑滴る林間に色とりどりの和服姿でシャナリシャナリと逍遥する乙女の群が目についた。 中国でも滅多に見られない風景だ。森の中に一際目立つ建物には翠明荘(引用者注:清明荘の誤認か)と書いた看板がかけられてある。将校専用の慰安所であり、その界隈の下士官の慰安所も昼間から大入満員の盛況を呈している。 陽が陰を呼ぶのは宇宙の真理である。若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが、インパールで数万の将兵が餓死しているとき、同じビルマのしかも隣接軍でこのような行状が許されるものであろうか。 上記の初出は1950年の酣灯社版だが、旧字が多用されているので原書房版を引用した。記述自体は変わらない。) 辻は他地域と違うメイミョウの空気を目の当たりにし、空気の一新を決意したという。辻の記述は引用に注意が必要だが、この記述の初出は1950年でメイミョウの異様さを指摘するものとしては最古に属する。辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる』、「辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる」、当然だろう。
・『慰安婦調達の作戦は電光石火だった こうしたメイミョウの空気を醸成した第15軍について、辻は「敵の反抗もないままに各兵団とも居住、慰安の設備に貴重な二年を空費したらしい」と手厳しい。実際、ビルマを制圧してからインパール作戦までの2年間で、牟田口中将が慰安施設の整備に他の司令官より注力していたことを窺わせる証言があった。 民間の慰安所経営者が慰安婦を連れてラングーン港に着くと、菊兵団(第18師団の通称。第15軍司令になる前の牟田口中将が師団長を務めていた)の橋本参謀が待ち構えており、「師団司令部に連れていく」と有無を言わせず日本人慰安婦を連れ去っていった証言が残っている(西野瑠美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。 当時、慰安婦について不文律のランク付けがあり、一番が日本人、次に朝鮮人、中国人ときて、最後に現地人がくるというものがあった。つまり、はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である。 ここまで示したように、牟田口中将の醜聞に関しては、複数の証言から裏付けられるものも多い。しかし、彼だけに、そして彼が指揮した第15軍だけに問題があったのだろうか。後編では、第15軍の上位部隊であるビルマ方面軍全体に視野を広げてみよう』、「内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ・・・はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である」、こんな贅沢三昧を現地の高級将校が送っていたとは、内地との余りのギャップに驚かされると同時に、特権を振りかざしていた高級将校らに対し怒りを覚えた。
タグ:歴史問題 「組織としての日本軍の失敗を、現代組織の反面教師として活用することを目的に書かれた本書は、大東亜戦争(本書では戦場が太平洋地域に限定されていなかったという意味で、あえてこの呼び方が使われています)を通じて明らかになった非合理的かつ非効率な行動の背景に組織的な欠陥があり、これが日本の敗戦を招いたと論じます」、なるほど。 「野村克也監督が江戸時代の剣術書から引用した「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言があります。うまくいったケースより、失敗からの方が学べることは多いのです」、確かに上手い「名言」だ。 「日本軍は情報を取得し、分析し、適切に活用する能力において劣っていたということですが、現代の日本においてもハードウェア偏重主義の姿勢は変わっていないという感想を持ちました・・・IT業界に目を向けても、標準品を大量に普及させているのはマイクロソフトやアップルのような企業です。日本はこの分野でも、まだ戦時中の失敗の本質からしっかりと学びきれていないのかもしれません」、なるほど。 「日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います・・・太平洋戦争においても、練度の高い人材の喪失と補給不足が敗戦の一因となっています。旧日本軍の状況は、現代における人材管理の課題と類似したところがあるのではないでしょうか」、なるほど。 しかし米国の場合は株主責任がより強く働き、CEOが更迭されることも頻繁で、常に正しいことを遂行する能力と結果責任が求められます。業績が悪化した際にはトップの責任問題として扱われ、組織の運営にメリハリがある点は日本の多くの企業と異なります・・・日本の組織文化では合理的な意思決定よりも、多分に情緒や空気を重んじる傾向がある」という点です。それは現代の日本企業の中にも根強く残っているように思います」、なるほど。 「旧日本軍において敵とは本来、海軍から見た陸軍、陸軍から見た海軍ではなく、共通であるはずです。ところが陸軍はアジアを、海軍は太平洋を主戦場と見ていたため、統一された敵と目的を持てず、互いの戦略を良しとしないところがありました・・・米国企業でも組織内の対立はあります。 そして作戦計画についての検討を進めると同時に、価値観の統一を図ったといいます」、米国の方が努力したようだ。 「インパール作戦でも、現地のインド進攻を目的とする部隊と、ビルマ防衛を主目的とする上級司令部との間で理解の不一致があったにも関わらず、その不同意が上層部から明確に伝えられずに作戦が失敗・・・ニミッツ長官と部下の現場指揮官・スプルーアンス少将が、ハワイで住居をともにして価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといいます。スプルーアンス少将も参謀と、空母「エンタープライズ」の甲板上で散歩をしながら長時間にわたって議論を重ね、相互の信頼関係を高めていました。 また、「新規事業が既存事業に悪影響を与えないようにする」ような姿勢を取ってしまうのも、目的が二重になってしまっている例です。既存事業への依存から新しい取り組みが後回しになれば、結果として新興企業に市場を奪われるリスクがあります。それが分かっているのに、“虫のいい目標”を採用してしまっているのです」、なるほど。 「新規事業自体の成功を期待しているはずのマネジメント層が、うまくいかなかったときのことを恐れて「新規事業開発を通じて人材を育成する」といった別のメッセージを発してしまうケースです。これでは現場は困難な新規事業の成功を目指さず、人材育成に寄った施策を展開して、「オープンイノベーションを通じた学び」などが成果とされてしまいます。 、それがその後も続いたのです・・・米国には、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結という共通した明確な目的がありました。米国の対日戦略の基本を定めた「オレンジ計画改訂案」は、長期戦と大きな犠牲を予測。西大西洋のマーシャルおよびカロリン諸島を起点に日本の委任統治領を逐次攻略し、補給線を確保しながら徐々に進攻することを想定していました。歴史を後から振り返ると、実際この通りのプロセスを経ています』、なるほど。 「山本五十六連合艦隊司令長官は、積極的な作戦思想を持っていました。山本長官は、攻撃の時期や場所を決めて来攻できる優勢な敵に対し、劣勢な立場での防御戦では勝利が望めないと考え、敵に対して自主的かつ積極的な作戦を展開することを主張。その最たる例が、1941年の真珠湾奇襲攻撃です。山本長官の目的は、敵の不意をついて初動で圧倒し、続く攻勢で米国の士気を喪失させ、結果として優位な講和条件を引き出すことにありました。 いずれも「有利な講和に持ち込む」という目的は共通していましたが、この2つには根本的な思想のブレがあり (その20)(旧日本軍の失敗から今こそ学ぶべき 現代日本企業の「失敗の本質」とは、「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く 日本軍部の心理、《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり 下士官の慰安所も昼間から…」) 東洋経済オンライン 井堀 利宏氏による「「勝算の低い戦争」に日本が突き進んだ背景事情 行動経済学で紐解く、日本軍部の心理」 『超速・経済学の授業』 「日本はアメリカとの差が拡大する前に戦争を仕掛けるのが得策と考えました・・・まさしく、パワーシフト理論が働いたのです」、なるほど。 「プロスペクト理論では、損失を受ける場合にはリスク愛好的(追求的)な行動をとる傾向があることがわかっています・・・私たちには高い確率ほど低く評価し、低い確率ほど高く評価するという心理傾向があるとも想定されています」、なるほど。 「プロスペクト理論では、開戦する場合の(高い確率での)損失よりも(極めて低い確率での)利得のほうをより大きく評価します。 かなりリスキーな選択ですが、そのリスクある選択が冒険的な気分へと昇華していき、日本は開戦へと突き進んでいったということが説明できるのです。 冷静な確率論で考えるのではなく、勝つ可能性を過大評価する心理的な圧力が働いたと考えれば、日本の参戦理由を理解しやすいかもしれません」、なるほど。 文春オンライン 石動 竜仁氏による「《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり、下士官の慰安所も昼間から…」 悲惨なインパール作戦を立案した「牟田口中将」が、「第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れ」ていたとは、フザケタ話だ。 「辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる」、当然だろう。 「内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ・・・はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である」、こんな贅沢三昧を現地の高級将校が送っていたとは、内地との余りのギャップに驚かされると同時に、特権を振りかざしていた高級将校らに対し怒りを覚えた。