警察の重大ミス(その11)(警察庁長官狙撃事件3題:「オウム4人逮捕は公安警察のプロパガンダ」警察庁長官狙撃事件 スナイパーが公安警察に突き付けた挑戦状、警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘、中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由、) [社会]
警察の重大ミスについては、本年7月4日に取上げた。今日は、(その11)(警察庁長官狙撃事件3題:「オウム4人逮捕は公安警察のプロパガンダ」警察庁長官狙撃事件 スナイパーが公安警察に突き付けた挑戦状、警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘、中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由)である。
先ずは、7月15日付けデイリー新潮「「オウム4人逮捕は公安警察のプロパガンダ」警察庁長官狙撃事件、スナイパーが公安警察に突き付けた挑戦状」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150851/?all=1
・『5月22日、中村泰(ひろし)受刑者(94)が収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した。別の事件で無期懲役中だった中村受刑者は、1995年3月に発生した重大事件への関与を“自白”したことでも知られる。2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件だ。 この国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。1本目の手記「国松長官狙撃犯と私」は銃撃犯の行動や心理を“推理”する内容。今回公開する2本目の手記は、捜査をめぐる警視庁公安部と警察庁刑事部、大阪府警の“暗闘”などがテーマである。なおその掲載にあたり、当時の編集者は一切手を加えていない。 (全3回の第1回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです) 中村泰被告(74)は、本誌2004年4月号に「国松長官狙撃犯と私」と題する手記を寄せた。その約3カ月後の7月7日、「国松孝次・警察庁長官狙撃事件」の捜査は突如、急展開した。 警視庁公安部が、国松氏に対する殺人未遂容疑などで、オウム真理教(現アーレフ)の元信者ら4人を逮捕したのである。事件が発生した1995年3月30日から9年余。新聞は号外まで出した。 逮捕者には、オウム元在家信者の小杉敏行元警視庁巡査長が含まれていた。事件発生の約1年後に「自分が撃った」と明かしたものの、その後の捜査で供述の信用性が疑われ、東京地検がいったん立件を断念した人物である。その小杉元巡査長を再び引っ張り出してきて、「逃走支援役」として逮捕したのだ。 しかし、逮捕後の小杉元巡査長の供述は二転三転。他の逮捕者は皆、容疑を否認した。結局、逮捕の21日後に全員が釈放され、その後、嫌疑不十分で不起訴処分となった。終わってみれば、事件を巡る闇を濃くしただけの結果になったのである。 こうした騒動を横目で眺めながら、地道に捜査を続けていた連中がいる。警視庁刑事部捜査一課の刑事達だ。彼らが「狙撃事件」の“容疑者”と目している人物。それが、今回、再び本誌に手記を寄せた中村被告である。 中村被告は東大教養学部理科二類を中退、警察官射殺事件を起こして逮捕され、服役したという経歴の持ち主だ。昭和51年に出所したが、平成14年11月、名古屋市内にある銀行の支店を襲撃。現金輸送車の警備員に拳銃を発砲し、重傷を負わせて再び逮捕された。 その捜査の過程で、アジトから「国松事件」を“自白”するような内容の散文詩が発見され、銀行の貸し金庫に大量の銃器を隠し持っていたことが判明した。こうして、中村被告は「容疑者」として急浮上。銃刀法違反容疑で警視庁に逮捕された後、別の銀行襲撃事件で大阪府警に再逮捕された。そのため、現在、身柄は大阪拘置所にあるが、警視庁捜査一課の専従班は今も中村被告の周辺捜査を続けている。 獄中から寄せた以下の手記で、中村被告は警視庁公安部による今回の逮捕劇を「関係者」の立場から検証。さらに、これまで報じられたことのない貸し金庫の「開扉記録」を示し、「国松事件」と自らについての“重大な事実”を明かした――』、「逮捕後の小杉元巡査長の供述は二転三転。他の逮捕者は皆、容疑を否認した。結局、逮捕の21日後に全員が釈放され、その後、嫌疑不十分で不起訴処分となった・・・こうした騒動を横目で眺めながら、地道に捜査を続けていた連中がいる。警視庁刑事部捜査一課の刑事達だ。彼らが「狙撃事件」の“容疑者”と目している人物。それが、今回、再び本誌に手記を寄せた中村被告である。 中村被告は東大教養学部理科二類を中退、警察官射殺事件を起こして逮捕され、服役したという経歴の持ち主・・・中村被告は「容疑者」として急浮上。銃刀法違反容疑で警視庁に逮捕された後、別の銀行襲撃事件で大阪府警に再逮捕された。そのため、現在、身柄は大阪拘置所にあるが、警視庁捜査一課の専従班は今も中村被告の周辺捜査を続けている」、なるほど。
・『公安警察のプロパガンダ 昨年7月、世間の耳目を驚かすニュースが流れた。その九年前に起こって未解決のままになっていた國松警察庁長官狙撃事件の容疑者として、突如、オウム関係者四人が逮捕されたのである。ところが、三週間後に、これは全くの空騒ぎとして終った。逮捕者全員があっさり釈放されてしまったのだ。いったい、これは何だったのか。その背後には何かの策謀があったのだろうか。 それ以前に警視庁に逮捕されて厳重な報道管制の下、その長官狙撃事件について、捜査一課の係官を相手に三カ月もの間、連日殆ど休みなしの攻防戦を続けてきた私は、その間に知り得た事実とその後の推移から、ある種の陰謀の存在をはっきり感知したのである。 これからその実体を説き明かすに当たり、警察、検察当局に対する私の個人的感情を抑えて、できるだけ客観的に記述するために、以下は、あえてNという三人称を用いることにする。 7月7日のオウム関係者四人の逮捕が公安警察のプロパガンダであることは、大方の指摘するところなのだが、では、なぜこの時期に、全員が不起訴釈放となって大失態と非難される結果になることを承知のうえで、この無謀ともみえるプロパガンダを強行しなければならなかったのか、その背後の事情を解明してみよう。 今回の逮捕において、唯一の決め手といわれていたのは、拳銃の発射時にコートに付着したとされる金属微粒子の鑑定結果だったのだが、実はこれは逮捕時の一年以上も前に出ていた。その当時は、これはせいぜい「ないよりまし」という程度のものにすぎず、これに基いて立件しようとするような考えはなかったのである。そもそもこの鑑定自体が、警察内部でのプロパガンダに類するものであったとみてよい。 長官狙撃事件の特別捜査本部として、百名ほどの捜査員を擁し公安部の一大拠点となっていた南千住署では、数年前から肝心の狙撃事件の捜査などほとんどやっていなかった。というよりも、もはや、やることがなくなっていたのである。現場の捜査員にしてみれば、数多くのガセネタ(偽情報)に翻弄されながらも、殆どのオウム関係者を洗い抜いていたのだから、「もう逆さにして振っても何も出ないよ」と言いたい気分であっただろう。名ばかりの捜査本部は、少数の者が過去の捜査資料の整理再検討の作業に従事するほかには、ときおり、もたらされる怪しげな情報の裏付け捜査に駆り出されるだけ、という状態になっていた。そのような状況下で、他の大多数の本部員は、本来の狙撃事件の捜査とは無関係な分野の仕事に向けられていたのである。 公安警察は「警察」と称してはいるものの、実際はその上に「秘密」という語をかぶせて「秘密警察」と呼ぶほうがふさわしい特殊な組織である。当然、その活動の大部分は公けにされない秘密のものになる。秘密の活動にも、もちろん、それなりの予算と人員は要る。特別捜査本部という看板は、そのための“裏”(編集部注:原文は傍点、以下同)予算と“裏”人員を生み出すのに利用されていたとみてよい。 公安警察というのは一種の聖域ではあるにせよ、各地の警察での裏金作りが槍玉に上げられている昨今の情勢下では、やはりそれなりの配慮はしなければなるまい。前述のように、コートを「スプリング8」という権威ある研究施設に持ち込んで鑑定を依頼したことも、今なお不断に本来の捜査活動を継続して成果を挙げているというアッピールの一環と受け取れる。 公安部内にも、こうした小手先の糊塗策を続けているだけではまずいのではないか、という危惧はあったに違いない。しかし、官庁というのは、なかなか一気に方針を転換することができにくい組織である。そして、公安警察といえども、また、官庁組織の一員であり、何かの“きっかけ”がなければ簡単には動かないのである。 ところが、03年(平成15年)の後半になって、その“きっかけ”となる異変が生じた。その年の夏、前年末に名古屋で強盗事件を起こして逮捕されていたNという男がアジトにしていた三重県名張市の民家が家宅捜索された際に、思いがけない物が出てきたのである。 その一は、長官狙撃事件に関する記事を掲載した新聞、雑誌、単行本に加えて、英文のものまで含む各種の関連記事のコピーなど、膨大な量の文献資料であった。およそ、この事件に関する刊行物の殆どすべてが集められているといえるほどであった。これはもちろん、この事件に対するNの異常な関心を示している。だが、もともと事件自体が前代未聞の特異なものである以上、特別な関心を抱いた者がいたとしても、それほど不自然ではない。ジャーナリストなどにしても、ある一つの事件を深く掘り下げるために、関連資料を大量に収集する人もいる。というわけで、これは決め手となりうるほどのものではなかった。 その二は、同時に押収されたフロッピー・ディスクに記録された詩編である。数個のディスクに、長短さまざまな一千篇近くの詩が記録されていたが、その中に五、六十篇ほどの狙撃事件を題材にしたものがあった。大半は叙情的あるいは風刺的なものだったが、なかには作者自身を狙撃者として書いている詩もあった。しかし、詩というものは、あくまで創作である。現実の事件を主題にして、いかに真に迫った小説を書いたからといって、その作者を犯人とするわけにはいくまい。ただ、これらの詩の中に、際立って写実的なものが一篇あった。「緊急配備」という題の下に、事件当日の中央線武蔵小金井駅の非常警戒の状況を正確に描写した詩である。だが、これとて作者がたまたまその場面に遭遇したか、あるいは、そこに居合わせた誰かから詳細な話を聞いたもの、といわれればそれまでのことであろう。 というわけで、捜索の当初は、何か訝しいという程度にすぎなかったのだが、そこでの押収物が端緒となって新宿の貸金庫にたどり着いたときから、新たな展開が始まった。まず、最初に注目されたのは、特注品とみられる高性能ライフルだった。高精度を保つための肉厚の銃身、サプレッサー(消音器)をはめ込むためと思われる銃口部のねじ溝、折畳み式の銃床を取り付けてコートの内側に隠し持てるほどのコンパクトな寸法、命中時に先端部が潰れて殺傷効果を大きくするソフト・ポイント型のレミントンBR7という超高速弾(一般に弾速が大きいほど精度が高くなる)を使用するなど、どの点から見てもプロ用の特殊な狙撃銃と判断された。ある捜査員は、まさに(フレデリック・フォーサイスの)「ジャッカルの日」を思い起こさせる、と洩らしたくらいである。そのほかにも、掌に隠れるほどの超小型でありながら強力な22口径マグナム・ホローポイント弾を発射できるミニ・レボルバーなど、要人暗殺等の特殊工作用と思われる銃器が発見された。こうなれば、要人暗殺イコール長官狙撃という連想が生じるのは自然の成行きである』、「未解決のままになっていた國松警察庁長官狙撃事件の容疑者として、突如、オウム関係者四人が逮捕されたのである。ところが、三週間後に、これは全くの空騒ぎとして終った。逮捕者全員があっさり釈放されてしまったのだ・・・百名ほどの捜査員を擁し公安部の一大拠点となっていた南千住署では、数年前から肝心の狙撃事件の捜査などほとんどやっていなかった。というよりも、もはや、やることがなくなっていたのである。現場の捜査員にしてみれば、数多くのガセネタ(偽情報)に翻弄されながらも、殆どのオウム関係者を洗い抜いていたのだから、「もう逆さにして振っても何も出ないよ」と言いたい気分であっただろう・・・前年末に名古屋で強盗事件を起こして逮捕されていたNという男がアジトにしていた三重県名張市の民家が家宅捜索された際に、思いがけない物が出てきたのである。 その一は、長官狙撃事件に関する記事を掲載した新聞、雑誌、単行本に加えて、英文のものまで含む各種の関連記事のコピーなど、膨大な量の文献資料であった・・・同時に押収されたフロッピー・ディスクに記録された詩編である。数個のディスクに、長短さまざまな一千篇近くの詩が記録されていたが、その中に五、六十篇ほどの狙撃事件を題材にしたものがあった。大半は叙情的あるいは風刺的なものだったが、なかには作者自身を狙撃者として書いている詩もあった。しかし、詩というものは、あくまで創作である・・・押収物が端緒となって新宿の貸金庫にたどり着いたときから、新たな展開が始まった。まず、最初に注目されたのは、特注品とみられる高性能ライフルだった。高精度を保つための肉厚の銃身、サプレッサー(消音器)をはめ込むためと思われる銃口部のねじ溝、折畳み式の銃床を取り付けてコートの内側に隠し持てるほどのコンパクトな寸法、命中時に先端部が潰れて殺傷効果を大きくするソフト・ポイント型のレミントンBR7という超高速弾(一般に弾速が大きいほど精度が高くなる)を使用するなど、どの点から見てもプロ用の特殊な狙撃銃と判断された」、なるほど。
・『事件当日の開扉記録 これに加えて、さらに追い打ちをかけるものが見付かった。貸金庫の管理会社に保管されていた個別の金庫の開扉記録である(表参照)。Nにしても、まさか十年も前のそんなものが保存されていたとは思い及ばなかったに違いない。これを見ると、通常は月に一、二回程度であり、全く訪れていない月もあるのに対して、95年(平成7年)3月だけが五回となっている。これは約十年に及ぶ契約期間を通じて最多の記録であり、しかも、そのうちの四回は23日以降に集中しているという異常さが目立つ。 これについての捜査当局の解釈は、次のようなものである。3月22日の山梨県上九一色村のオウム教団施設に対する一斉捜索の結果を知ったN(あるいはその一味)は、早急に行動を起こすことを決意して、そのための銃器弾薬を貸金庫から取り出した。その後の数日間に國松長官の動静を探りながら準備を整えた一味は、28日を暗殺決行の日と定めた。 当日の朝は、春一番か二番かの強風が吹き荒れていた。一般に強風は精密な射撃には好ましくないのだが、この場合は想定射程が30メートルほどであるから、それほど影響はないと判断したのだろう。むしろ、このような天候では外出を控える人が多いから、通行人すなわち目撃者が少なくなるという利点があったといえる。 しかし、ここで全く予想外のことが起こった。長官の居住棟の玄関の前あたりの路上に、コートを着た二人の中年の男が人待ち顔で佇んでいるのが見えたのである。彼らが、あまり動きまわりもせず、周囲を窺うそぶりもみせなかったことからして、SPや所轄署の警戒員でないのは明らかであった。また、もし一般人であれば、その挙動を怪しんだ護衛の警官が、職務質問をするとか何かの対応をしたであろう。そういうことがなく黙認されているからには、彼らの正体は警察関係者と推定するのが妥当である。 やがて、ほぼ定刻になって長官が玄関に現われると、待ちかまえていた二人の男は、足早に近付いて何か話しかけた。コートも着ていない長官は、寒風に吹きさらされながら戸外での立ち話が長引いてはたまったものではない、と思ったのかどうか、その二人を伴って屋内へ引き返した。 狙撃手は完全に出ばなを挫かれたことになる。長官の出勤が阻止されるというのは、明らかに異常事態である。そのような状況で狙撃のチャンスを逸した以上、長居は無用として、ただちに支援車両に引き上げてきた狙撃手は、同志に状況を報告するとともに今後の対策についての協議を始めた。 これは、おそらく警備態勢の変更に関する打ち合わせか連絡のたぐいであろう。変更があるとすれば、まず考えられるのは専任のSP(警護課員)の配備である。そうなると、これまでのように、隣接する建物で待ち伏せるというわけにはいくまい。では、遠方からライフルで一発必中の狙撃といくか。いや、それはSPが盾となる可能性があるから不確実だ。すると、事前検索の範囲外となる五、六十メートル離れた地点から、マシンガンの集中連射で、SPもろとも撃ち倒すほかあるまい。本来は目標を長官だけに限るはずだったのだが、こうなっては止むをえないだろう。それに、SPは迅速に応射するように訓練されているはずだから、自衛のためにも先制攻撃で倒してしまう必要がある―― と、まあ、このような論議が交されたのだろう。そこで、早速、貸金庫へ赴いて、作戦変更に伴って必要となった新たな装備品を取り出した、ということになる。ところが、同じ日の午後にも再び開扉されている。これについては、前述のようなやりとりを経て、最終的な詰めに至ったのは昼頃だったとも考えられるし、あるいは何か不足していた物に気付いて、それを取りに行ったとも推測できる。いずれにしても、予想外の事態に遭遇した直後で、動揺していたのかもしれない。ここで、開扉記録に基いて、もう一歩推理を進めてみると、貸金庫の6051番のケースには、実際に狙撃に使われた長銃身のコルト・パイソン回転式拳銃が、6080番のほうには、新たに携行することになったKG9短機関銃が、それぞれ収められていた、と考えるのが妥当である。 この日から二日後の30日が、実際の狙撃の当日になる。事件の発生時刻直後に、現場から適切な交通機関を利用して新宿へ向かったと仮定すると、記録されている開扉時間にちょうど間に合うということは、捜査員が可能なかぎりのルートを想定して、それをなん度もくり返して実地に試みて得た結論であった。当日、狙撃が決行された直後、Nは使用された銃器類を持って新宿へ急行し、それらを貸金庫に隠してから、当時、小平市にあった自分のアジトへ行く道筋に当たる中央線武蔵小金井駅で下車したところで、警察の警備陣に遭遇した。そのときに実際に見た状況を描写したものが、叙事詩「緊急配備」にほかならない。 以上が貸金庫の異常な開扉状況についての合理的な解釈になる、というのが捜査当局の見解である。少なくとも、Nがそれを否定するに足る矛盾のない弁明を示さないかぎりは。それに、28日の朝、國松長官と警察幹部との間で警備態勢に関する緊急の会談があったことなど、刑事部では、それまで全然知らなかったのである。 貸金庫の開扉状況についての「合理的な解釈」の次は、「窮地に追い込まれた」公安部についての“洞察”が始まる――。第2回【警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘】では、小杉元巡査長を含むオウム集団を犯人にせざるを得ない公安部と、「N」のグループによる犯行とみた刑事部の対立が綴られている』、「当日、狙撃が決行された直後、Nは使用された銃器類を持って新宿へ急行し、それらを貸金庫に隠してから、当時、小平市にあった自分のアジトへ行く道筋に当たる中央線武蔵小金井駅で下車したところで、警察の警備陣に遭遇した。そのときに実際に見た状況を描写したものが、叙事詩「緊急配備」にほかならない。 以上が貸金庫の異常な開扉状況についての合理的な解釈になる、というのが捜査当局の見解である」、なるほど。
次に、7月15日付けデイリー新潮「警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150851/
・『・・・5月22日、中村泰(ひろし)受刑者(94)が収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した。別の事件で無期懲役中だった中村受刑者は、1995年3月に発生した重大事件への関与を“自白“したことでも知られる。それは2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件だ。 この国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。今回公開する手記は、銃撃犯の行動や心理を“推理”する1本目の「国松長官狙撃犯と私」に続く2本目。この第2回では、公安警察と刑事部が繰り広げた“暗闘”の詳細が綴られている。なお、掲載にあたり、当時の編集者は一切手を加えていない。 (全3回の第2回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです)・・・』、
2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」・・・「国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた」、なるほど。
・『危機感を募らせる公安部 このあたりから雲行きが怪しくなってきた。もしも、Nが真犯人ということにでもなったら、公安部は窮地に追い込まれる。(刑事部という)“とんび”に油揚げをさらわれたどころの話ではない。これまで九年もの歳月を費やし、延べ三十七万人ともいわれる人員を投入して、何をやっていたのだということになる。当初から「犯人はオウム」という先入観に固執して、目隠しされた馬車馬のように盲進を続けるだけだった公安部は、「無能」の烙印を押されて、その存在価値さえ問われることになろう。 公安部は危機感をつのらせていたが、しかし、まだ望みは残されていた。その一つは、目撃者の証言である。狙撃者を直接見ていた数人の証言から得た犯人像は、年齢三、四十歳で身長一七○センチ前後というものであった。これは、六十代半ばで一六○センチのNとは、かなり隔たっている。 さらに、それにもまして重要なのは、その実年齢である。運動能力については、かなり個人差が大きいので一概にはいえないが、誰にとっても不可避なのが視力の劣化である。加齢とともに眼球内の水晶体の硬化が進んで、いわゆる老眼になるのだが、このため必然的に動体視力が低下する。対象物に焦点を合わせる水晶体が伸縮しなくなるのだから、当然の帰結である。拳銃で遠く離れた動く標的を迅速正確に狙撃するためには、十分な動体視力が必要である。長官狙撃事件では、過去の拳銃使用事件には前例がないほどの高度の射撃技量が示されている。他の行動の状況とも併せて、プロの仕事といわれているのもうなずけるところである。動体視力の低下している高齢者にできることではない。 Nのほうでも、そのような事情は百も承知していた。あらかじめ報道各社へ向けた声明文の中で、自分はゴルゴ13(劇画のヒーローで超一流の狙撃手)にはなれない、ティームの一員ぐらいが分相応であると述べている。 そのうちに、またもや、公安部にとって追い打ちになるようなことが起こった。Nが、長官狙撃事件についての手記を「新潮45」(04年4月号)の誌上に発表したのである。筆者は、公開された情報に基いて書いたという体裁をとっていた。しかし、その中には未公開の事実が含まれていたのである。 長官に向けて三発の銃弾が発射された直後に、長官公用車の前方に待機していた護衛車両から、異変に気付いた警戒員が、長官の横たわっている植込みの蔭に駈けつけてきたのだが、狙撃者はその私服警官へ向かって威嚇の発砲をした。これが最後の発砲になったが、銃弾が(狙撃者から見て)前方を横切る形で全力疾走する警官の背後すれすれに通り抜けるという際どい射撃であり、これもまた卓越した技量を示している。多くの拳銃用弾種の中でも、この事件で使われた357マグナム弾は最高速の部類に属するのだが、空気中を超音速で通過する物体からは衝撃波が発生して、これが弾の擦過音となる。当然、この警官は身近に銃弾が通過する音を耳にしている。Nがこの事実を知っていたということは、この警官のものを含めて極秘扱いとなっている関係者の供述書の内容を探り出す手段を持っていたか、あるいは、狙撃者から直接報告を受けていたか、のどちらかであるとしなければならない。 さらに、捜査員の中には、次のような見解を示す者もあった。この文章は一見、ルポ・ライターなどが書くものに似ているが、しかし、彼の場合は状況が全く違う。関連資料はすべて押収されているし、拘禁中の身では新たに参考資料を入手するのは困難であるはずだ。もちろん、取材活動などは全く不可能である。にもかかわらず、九年も前の事件をあれほど克明に記述できるのは、やはり直接関与していたからこそ、鮮明な記憶が残っているからではないか、というのである。 公安部の不安は増大していたが、しかし、まだ望みをつなげるものが残っていた。それは長年の極左過激派に対する捜査経験から確信に近いものになっていたのだが、自己の信念に基いて行動するこの種の確信犯は、損得や感情で動く一般犯罪者と違って、自らの手で同志を敵と見なしている官憲に売り渡すような行為はしない、ということである。この考えが正しければ、Nも自分の口から狙撃者の正体を明かすことはないとみてよい。あとは、刑事部が独自の捜査で、どこまで核心に迫れるかにかかっている。 この間、成行きからして当然のことではあるが、公安部は刑事部の捜査には全く協力しなかった。内心はともかく、表面は否定的に無視するという態度を続けていた。特捜本部として、重要な証拠のすべてを握っている公安部が知らぬ顔を決め込んでいるのだから、刑事部の捜査活動が困難をきわめたことはいうまでもない。しかも、それだけにとどまらず、公安部は妨害工作まで試みたようである。噂ではあるが、事件現場に残されていた朝鮮人民軍の記章と韓国硬貨からNのDNAが検出されないように、薬液で洗浄してしまったともいわれている。なにしろ、何も知らなかった小杉元巡査長を、わざわざ現場に“案内”して十分に観察させた上で、供述書に信憑性を付加するための詳細な見取図を描かせるような工作までしていたことからみても、全くありえないとはいえない。少なくとも、これらの物をオウム関係者の手に触れさせておいて、後日、そのDNAがどうのこうのというための細工ぐらいは試みているかもしれない。これなど、よく知られた(自分で転んでおいて公務執行妨害と言いがかりをつける)「転び公妨」手法の変種といえそうである。こうしてみると、例のコートの鑑定結果なるものも、どこまで真実なのか、疑問が生じてくる。 それでも、依然として公安部の不安感は払拭されなかった。刑事部が何か新しい証拠を見付けはしないか、Nが何か新しい供述を始めはしないか、それで事態が一変する可能性は、あい変わらず存在していた。Nが銃刀法違反事件で起訴された後、三カ月に及んだ取調べ期間中の彼の動静をひそかに窺い続けないではいられなかったのである。 刑事部は、それまでに集めた状況証拠に基いて、Nを立件できるかどうかを東京地検に打診していた。地検の見解は、それを証拠として認めて細部を説明する被疑者の供述書が伴わなければむずかしい、というものであった。これを公安部に対するものと較べてみると、まことに対照的である。一方には、証拠はあってもそれに対応する供述が欠けていると言い、他方には、(小杉元巡査長の)供述はあってもそれを裏付ける証拠が乏しいと難色を示しているからである。もっとも、この小杉供述なるものは、整合性のない不完全なもので、それを「マインド・コントロール」という怪しげな理由付けで補っているといわれているのだが。これに対して、刑事部のほうでは、われわれの集めた証拠は客観的で一貫性のあるものだ、と主張している』、「もしも、Nが真犯人ということにでもなったら、公安部は窮地に追い込まれる。(刑事部という)“とんび”に油揚げをさらわれたどころの話ではない。これまで九年もの歳月を費やし、延べ三十七万人ともいわれる人員を投入して、何をやっていたのだということになる。当初から「犯人はオウム」という先入観に固執して、目隠しされた馬車馬のように盲進を続けるだけだった公安部は、「無能」の烙印を押されて、その存在価値さえ問われることになろう。 公安部は危機感をつのらせていたが、しかし、まだ望みは残されていた。その一つは、目撃者の証言である。狙撃者を直接見ていた数人の証言から得た犯人像は、年齢三、四十歳で身長一七○センチ前後というものであった。これは、六十代半ばで一六○センチのNとは、かなり隔たっている。 さらに、それにもまして重要なのは、その実年齢である。運動能力については、かなり個人差が大きいので一概にはいえないが、誰にとっても不可避なのが視力の劣化である。加齢とともに眼球内の水晶体の硬化が進んで、いわゆる老眼になるのだが、このため必然的に動体視力が低下する。対象物に焦点を合わせる水晶体が伸縮しなくなるのだから、当然の帰結である。拳銃で遠く離れた動く標的を迅速正確に狙撃するためには、十分な動体視力が必要である・・・公安部は妨害工作まで試みたようである。噂ではあるが、事件現場に残されていた朝鮮人民軍の記章と韓国硬貨からNのDNAが検出されないように、薬液で洗浄してしまったともいわれている。なにしろ、何も知らなかった小杉元巡査長を、わざわざ現場に“案内”して十分に観察させた上で、供述書に信憑性を付加するための詳細な見取図を描かせるような工作までしていたことからみても、全くありえないとはいえない。少なくとも、これらの物をオウム関係者の手に触れさせておいて、後日、そのDNAがどうのこうのというための細工ぐらいは試みているかもしれない」、「公安部」の「妨害工作」には心底驚かされた。
・『刑事部対公安部 こうして、事態は、小杉元巡査長を含むオウム集団を犯人とする、というよりも、そうせざるをえない公安部と、Nのグループ――これより以前に彼が特別義勇隊(トクギ)と称する武装地下組織の結成をもくろんでいた当時、行動を共にしていた少数の者の集まり――の仕業と見ている刑事部との対決という形になっていった。シニカルな表現をすれば、小杉元巡査長らオウム一味のスポンサーである公安部と、Nのトクギ残党を推すスポンサーとしての刑事部とが、東京地検を相手に売り込み合戦を演じるという構図である。第三者にとっては面白い見ものかもしれないが、承知の上で行動している元巡査長とNとを除いて、この騒動の巻添えになった人たちには甚だ迷惑なことであった。 公安部としては、なんとか巻返しを図りたいところなのだが、Nという不発弾とも時限爆弾ともいえる厄介者が片付かなければ、うかつには動けなかった。だが、公安部にはもっけの幸いともいえそうな打開策が残されていた。それは、大阪府警が名古屋の事件との類似性から、Nを大阪市内で発生した数件の拳銃強盗事件の容疑者として捜査しているという情報である。 これについては、前年の十月初め頃に一部の日刊紙等に報道されていたのだが、なぜか、その後一向に進展がみられなかった。これというほどの決定的な証拠が出てこなかったからかもしれないが、あるいは、警視庁が長官狙撃事件の捜査を優先するために、府警の介入を抑えていたからとも考えられる。確かに長官狙撃事件は日本警察全体の威信にかかわる重大事で、それに較べれば、死者も出ていない強盗事件などは単なるローカルな雑件にすぎない。しかし、軽視された形になった大阪府警には当然、不満が生じる。それに、もともと府警には警視庁への対抗意識が根強くある。 どうやら公安部は、こうした感情に便乗して、それを煽るような工作を仕かけたらしい。府警は警視庁に対して、Nの身柄引渡しを執拗に求めるようになった。身柄を取り込むための逮捕容疑の対象としては、三件とも四件ともいわれている強盗事件の中から、とりあえず三井住友銀行都島支店の事件が選ばれた。それまでに集められた雑多な証拠らしきものの組合わせを操作してみた結果、都島の件になら、なんとか当てはめられそうに思えたからであろう。 しかし、その件で逮捕状を請求する前の段階で、姑息な小細工が施された。都島の件は、発生以来それまで強盗“致傷”(傷人)事件として捜査が続けられてきた。それを強盗“殺人”(同)未遂に切り換えたのである。別に殺意を裏付けるような新しい証拠が出てきたわけではないから、単なる呼称の変更にすぎないともいえる。だが、これには隠された意図があった。 警視庁が、長期間Nの身柄を独占するための根拠としていた長官狙撃事件の刑法上の罪名は“殺人”未遂である。一方、「ローカルな雑件」として軽視されていた大阪の事件を担当する府警が、容疑者の身柄の奪い合いで警視庁に対抗するためには、強盗“致傷”よりも強盗“殺人”(未遂)に“格上げ”したほうが押しがきく。部外者にとっては、なんともくだらない話のように感じられるかもしれないが、警察組織の中では、肩書や看板は大いにものをいう。単なる事件捜査でなく、捜査本部という看板が掛けられれば、予算も人員も集めやすくなる。これに「特別」が加わればなおさらだ。前述のように、南千住署の特別捜査本部の看板が公安部の予算と人員の捻出に利用されていたこともその一例である。 ともあれ、府警としては、Nの身柄を奪い取った以上、なんとしても立件しなければ面目を失う。もちろん、確固とした決め手になるものがあれば、問題はない。しかし、現実には、少なからず矛盾性を内包した状況証拠の寄せ集めがあるだけだ。これらをつなぎ合わせて、事件全体の構図を描き上げるためには、被疑者の供述が不可欠であり、その供述を得るためには、逮捕後の取調べ方法が重要になる。 都島の事件は、電車内で女性の体に触れたとか触れなかったとかいうような単純な構成のものではない。その細部については、真犯人でなければ知りえない点が数多くある。第三者が犯人を装って、それらの点を明らかにする供述を創作することなど不可能に近い。このことは、小杉元巡査長が、いかに自分が長官を狙撃した犯人だと主張しても、客観的事実に合致する供述はできないでいたという事例によく示されている。その種の供述書を作らせてみたところで、混乱を招くだけにすぎない。 こうした事情を考慮した結果でもあろうか、府警の取調べ方法は、きわめて異例のものであった。否認している被疑者に対しては、次々と証拠を突きつけて言い逃れを封じ、自供に追い込む、というのが取調べの常道であり、最も有効である。しかし、Nの取調べを担当した刑事の姿勢は全く逆であった。捜査段階で集めていた証拠はいっさい示さず、ただ、相手に何か話したいことがあれば述べさせようとするだけで、およそ追及というようなものではなかった。いきおい、連日の取調べとはいっても、その実、事件の核心を外れた雑談に終始していたのである。Nのほうから問いかけを試みても、肝心の点になると言を左右にしてそらしてしまうようなことも多かった。まあ、互いに肚の探り合いを続けていたといえるかもしれない。 そのような状態がえんえんと続くだけで、これという進展もなく、供述調書の作成にも至らないままに時が過ぎていった。思うに、捜査幹部のほうでも、証拠に絡む不自然な点は認識していたので、立件の妨げになりそうな内容の供述調書なら無用である、と指示していたのであろう。上層部と現場担当者との取調べ方針をめぐるあつれきは少なくなかったようで、日頃は愛想よく応対するように努めている刑事が、上司に呼ばれた直後は、不機嫌な表情をあらわにして戻ってきたものである。 それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極める――。第3回【中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由【警察庁長官狙撃事件の闇】】では、「警察史上最大の八百長ドラマ」とNが表現した“オウム集団4人の逮捕”について、そこに至る最後の過程が語られる』、「それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極める――」、セクショナリズムが余りに酷いようだ。
第三に、7月15日付けデイリー新潮「中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由【警察庁長官狙撃事件の闇】」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150852/?all=1
・『・・・5月22日、収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した中村泰(ひろし)受刑者(94)。別の事件で無期懲役中だったが、1995年3月に発生した「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件への関与を“自白“していたことでも知られる。2010年3月末に公訴時効を迎え、未解決事件となったこの国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。なお、掲載にあたり当時の編集者は一切手を加えていない。 今回公開する手記は、銃撃犯の行動や心理を“推理”する1本目の「国松長官狙撃犯と私」に続く2本目。捜査をめぐる警視庁公安部と警察庁刑事部、大阪府警の“暗闘”を描く内容だ。その第3回は、中村受刑者が「警察史上最大の八百長ドラマ」と表現したオウム関係者の逮捕、そこに至る経緯とその後についてである。 (全3回の第3回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです)』、興味深そうだ。
・『公安のスペシャリスト 取調べる側にとって、Nは扱いにくい容疑者であったかもしれない。過激派の連中のように、敵対的に黙否を貫くというのとは違うが、互いに波長が異なって噛み合わない、とでもいえばよいか。Nには、長官狙撃事件ならばともかく、単なる強盗事件で、しかも警察間の面子問題が絡んで扱われているとなれば、次元が低くてまともに論議するに価しない、という思いが心底にあったのだろう。刑事が問い詰めようとしても、むきになって弁明することもなく、柳に風と受け流してしまい、とどのつまりは、何か疑問点があればこういう密室の中ではなく、公開の法廷で堂々と解明しましょうや、という抵抗しがたい論理で片付けてしまうのであった。さらに、Nは老い先短い身を自覚しているからか、既に一身の利害得失は超越しているようなところがあって、一般の犯罪者には有効な利益誘導の手法が通用しないことも厄介だったといえる。 もっとも、通常の利害とは異なるが、彼にもそれなりの思惑はあった。妙な言い方だが、せっかく大阪府警が逮捕してくれたのだから、その流れに乗って立件に持ち込まれれば幸い、という気持があったのだ。つまり、法廷という舞台への出場権を得たかったのである。もし、この事件で起訴されなければ、公判の対象は銃刀法違反事件があるだけで、この場合は起訴事実を全面的に認めているので、ほとんど争点もなく、公判は割合い簡単に終ってしまう。したがって、被告人が発言する機会もあまり期待できないということになる。 Nについては、前年の秋以降、新聞、雑誌、テレビ等を通じて多くの報道が流布されてきたが、それらは誇張、歪曲、中傷、虚偽の入り交じった乱雑で不正確きわまるものだった。そんな報道の断片で真実が伝わるはずもない。彼の実像を知りたいと望む人びとに対して、当人が何を考え、何を企て、何を成してきたか、また、それと警察庁長官狙撃事件との関連性についても、できるかぎりの情報を提供することは、残り少ない人生における最後の義務であろう。社会から、あるいはさらに現世から完全に身を退いてしまう前に、その義務を果たすためには、公開の法廷という場が必要なのである。 6月18日、Nの移送を追いかけるようにして、新任の府警本部長が着任した。自他ともに認める公安のスペシャリストで、かつて警視庁公安部長の職にあった米村敏朗警視監である。公安の代理人とも目されているこの人物が、この時期に大阪府警の最高指揮官の地位に就いたことの意義は小さくない。公安部にとっての当面の緊急の課題はNの封じ込めであり、そのためには、大阪での事件をうまく利用することができれば好都合なのだ。もちろん、本部長が表立って指示するような粗雑な手を使うとは考えられないが、裏面から圧力をかけて目的を達するというのは、公安部の得意技でもある。この後あたりから、上層部の雰囲気が変わってきたようで、現場の担当者との摩擦も多くなってきた。 こうした上からの有形無形の圧力にもかかわらず、はかばかしい進展はなく、取調べの刑事にも焦りの色がみられるようになった。このままでは、検察庁が立件を認めないかもしれない、とも言い出した。これには、そうなってはそちらにとっても不都合だろうという含みがある。確かに、府警とNの双方にとって、その魂胆こそ全く別ものではあるにせよ、差し当たっての表向きの目標には共通するところがあった。府警としては、その面目にかけて、さらに背後で糸を引いている公安部の意向も加わって、なんとしても都島の事件を成立させたかったし、一方、Nにとっては、ここで起訴されなければ社会への窓口が閉じられてしまうことになる。 かといって、一時しのぎの供述書を作ったりするわけにはいかない。へたな小細工などすれば、後日、それが一人歩きして、自分の行動を縛ることにもなりかねない。特に、文書というものにはそういう性質がある。で、結局は消極的な対策で間に合わせるほかなかった。主任検事に対面するときには、何ごとについても具体的な反論をするのは控える、という姿勢を保つことにした。つまり、相手に立件をためらわせるような言動は避けよう、ということである。それが功を奏したかどうかはわからないが、少なくとも妨害にはならなかったと思われる。 しかし、そういう些事よりも、はるかに大きく影響したのは、府警が、きわめて重要な事実を検察庁に隠し通していたことである。実は、Nが名古屋で逮捕される直前まで、その身近に密接に連携して行動を共にしてきた人物がいたのである。だが、この事実を突き止めたのは、大阪府警ではなく、警視庁の刑事部であった。もちろん、警視庁に大阪府警の扱っている都島の事件に介入する意図があったわけではない。警視庁が追っていたのは、あくまで長官狙撃事件である。 警察庁長官襲撃は、その実行に必要ないくつもの条件からして、とうてい一個人が独力で遂行できるものではなく、数の多少はともかくとして、複数の人間が関与していることは確実とみられている。Nが関与しているとすれば、まず、その同志というか、仲間を洗い出すことが不可欠である。その後に、初めて事件の全体像が明らかになる。このことは、オウム教団を標的とした場合にも、小杉元巡査長一人だけを検挙してみても、それだけではどうにもならなかったという前例によく現われている。 こうして、Nの身辺を探る緻密で執拗な捜査が続けられた結果、ついにそれに該当する人物の“影”を焙り出した。とはいえ、その人物が特定されたわけではなく、今のところは、あくまで「影」にすぎない。ただし、実体がなければ生じないという意味での「影」であり、その正体が明らかになれば、事態が一変してしまう存在である。大阪府警が、検察庁に対して、この事実をひた隠しにしていたのも当然である。そんなことが暴露されたら、検察庁の描いた事件をNの単独犯行とする構図は覆ってしまうからだ。そうした共犯関係について、一応の目処がつくまでは立件を見送り、継続捜査の扱いにする、という処分になってしまう。紆余曲折はあったものの、勾留満期となった7月2日に、それまでなんとなく“異床同夢”の関係にあった府警とNの望んだとおり、都島の事件は起訴された。しかし、その両者にもまして、この日を待ち構えていたものこそ公安部にほかならない。これで、公安部が企画していた一大プロパガンダ作戦に対する最大の障害物であったNの身柄は大阪の地に封じ込まれ、もはや警視庁(刑事部)の手に戻ることはなくなった。さらに、接見禁止措置によって、その口封じも仕上がった。南千住署の特捜本部員の大半を蚊帳の外に置いたまま、永井力公安一課長が選抜した特別行動班に、GOサインが発せられた。既にこの日を見越して、佐藤英彦警察庁長官まで抱き込む根回し工作が済んでいたし、その他の準備も整っていたから、その後の進行は順調であった。 こうして、ついに7月7日の七夕祭の日、警察史上最大の八百長ドラマ、オウム関係者四人の逮捕劇の幕開けとなったのである。当日の新聞各紙は、第一面と社会面の殆どを挙げて、この報道に当てた。号外まで出した社もあった。警察当局は九年間もの長い地道な努力の結果、ついに難事件の解決にたどり着いた、と讃辞を呈する評者もいた。 だが、多少とも内情を知っている警視庁刑事部の多くの者が、さらに当の公安部門でさえ心ある者は、今日の各紙の大報道が二十二日後の7月29日の紙面では、どのように一変するかを予想して、背筋に寒いものをおぼえたであろう。もちろん、Nも強い衝撃を受けた一人であったが、彼の場合は一般のそれとは全く違っていた。まかり間違えば、あの新聞の大見出しの名前と顔写真は自分のそれと入れ替っていたかもしれない、という戦慄が先行していたのである。 7月29日の各紙朝刊の紙面は、警察内部の者が危惧していた以上のものになった。逮捕を報じたとき以上の紙面を当てた新聞社もあった。「失策」「不信」「悪夢」などの語句を連ねて、警察をこきおろす論調が溢れていた。この時期に、あえて強制捜査に踏み切ったからには、一般に知られている以上の有力な証拠を抑えているのだろうと期待していたのが、いざ蓋を開けてみたら何もない空洞だった、という肩すかしを食らった反動もあろうが、それにもまして、まんまと公安警察のプロパガンダの片棒を担がされてしまったことへの慚愧と憤懣の現われでもあったのだろう。しかし、もしも報道機関が、小杉元巡査長の一人芝居に終ったこの茶番劇は、実はNという男の突然の出現によって自己の権威が失墜する危機感に怯えた公安部が、巻返しのつもりで企てた苦しまぎれの駄作にすぎなかったという真相を知れば、どのような反応を示したであろうか。 佐藤長官を初めとして、伊藤茂男公安部長、この逮捕劇の企画演出を担当したと思われる水元正時参事官に至るまで、今は現場を去ってしまった。二十二日間の興行を終えると、後は野となれ山となれと逃げ出してしまったようにもみえる。だが、はたしてそれで一件落着となるであろうか。大阪の都島の事件は、一見、長官狙撃事件とは関係がないようにみえる。しかし、実際にはその審理の過程で、関連する事柄が次つぎと浮上してきて、新たな火種となるはずなのだ。 それはひとまずおくとして、公安警察が大義(と彼らが信じているもの)のために、オウム関係者の三人や四人は犠牲にしても止むをえないと考えたとしても、それはそれで仕方がないともいえる。元来、どこの国でも秘密警察というのは、そうした性格のものなのだから。しかし、もしも現場の幹部が、小杉元巡査長が長官狙撃事件の犯人だなどということを、保身策以上に本気で信じているとしたら、これはもう救いがたい。無能を証明する以外の何ものでもないからだ。そして、このような無能な指揮官に率いられている公安部に未来はない。 それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極めた――・・・』、「Nは老い先短い身を自覚しているからか、既に一身の利害得失は超越しているようなところがあって、一般の犯罪者には有効な利益誘導の手法が通用しないことも厄介だったといえる。 もっとも、通常の利害とは異なるが、彼にもそれなりの思惑はあった。妙な言い方だが、せっかく大阪府警が逮捕してくれたのだから、その流れに乗って立件に持ち込まれれば幸い、という気持があったのだ。つまり、法廷という舞台への出場権を得たかったのである・・・勾留満期となった7月2日に、それまでなんとなく“異床同夢”の関係にあった府警とNの望んだとおり、都島の事件は起訴された。しかし、その両者にもまして、この日を待ち構えていたものこそ公安部にほかならない。これで、公安部が企画していた一大プロパガンダ作戦に対する最大の障害物であったNの身柄は大阪の地に封じ込まれ、もはや警視庁(刑事部)の手に戻ることはなくなった。さらに、接見禁止措置によって、その口封じも仕上がった。南千住署の特捜本部員の大半を蚊帳の外に置いたまま、永井力公安一課長が選抜した特別行動班に、GOサインが発せられた・・・7月7日の七夕祭の日、警察史上最大の八百長ドラマ、オウム関係者四人の逮捕劇の幕開けとなったのである。当日の新聞各紙は、第一面と社会面の殆どを挙げて、この報道に当てた。号外まで出した社もあった。警察当局は九年間もの長い地道な努力の結果、ついに難事件の解決にたどり着いた、と讃辞を呈する評者もいた。 だが、多少とも内情を知っている警視庁刑事部の多くの者が、さらに当の公安部門でさえ心ある者は、今日の各紙の大報道が二十二日後の7月29日の紙面では、どのように一変するかを予想して、背筋に寒いものをおぼえたであろう・・・7月29日の各紙朝刊の紙面は、警察内部の者が危惧していた以上のものになった。逮捕を報じたとき以上の紙面を当てた新聞社もあった。「失策」「不信」「悪夢」などの語句を連ねて、警察をこきおろす論調が溢れていた。この時期に、あえて強制捜査に踏み切ったからには、一般に知られている以上の有力な証拠を抑えているのだろうと期待していたのが、いざ蓋を開けてみたら何もない空洞だった、という肩すかしを食らった反動もあろうが、それにもまして、まんまと公安警察のプロパガンダの片棒を担がされてしまったことへの慚愧と憤懣の現われでもあったのだろう。しかし、もしも報道機関が、小杉元巡査長の一人芝居に終ったこの茶番劇は、実はNという男の突然の出現によって自己の権威が失墜する危機感に怯えた公安部が、巻返しのつもりで企てた苦しまぎれの駄作にすぎなかったという真相を知れば、どのような反応を示したであろうか。 佐藤長官を初めとして、伊藤茂男公安部長、この逮捕劇の企画演出を担当したと思われる水元正時参事官に至るまで、今は現場を去ってしまった。二十二日間の興行を終えると、後は野となれ山となれと逃げ出してしまったようにもみえる。だが、はたしてそれで一件落着となるであろうか」、警察内の公安畑と刑事畑の対立は想像以上に酷いようだ。左翼も大人しくなったことから公安畑は大胆に縮小することも検討すべきだ。
先ずは、7月15日付けデイリー新潮「「オウム4人逮捕は公安警察のプロパガンダ」警察庁長官狙撃事件、スナイパーが公安警察に突き付けた挑戦状」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150851/?all=1
・『5月22日、中村泰(ひろし)受刑者(94)が収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した。別の事件で無期懲役中だった中村受刑者は、1995年3月に発生した重大事件への関与を“自白”したことでも知られる。2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件だ。 この国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。1本目の手記「国松長官狙撃犯と私」は銃撃犯の行動や心理を“推理”する内容。今回公開する2本目の手記は、捜査をめぐる警視庁公安部と警察庁刑事部、大阪府警の“暗闘”などがテーマである。なおその掲載にあたり、当時の編集者は一切手を加えていない。 (全3回の第1回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです) 中村泰被告(74)は、本誌2004年4月号に「国松長官狙撃犯と私」と題する手記を寄せた。その約3カ月後の7月7日、「国松孝次・警察庁長官狙撃事件」の捜査は突如、急展開した。 警視庁公安部が、国松氏に対する殺人未遂容疑などで、オウム真理教(現アーレフ)の元信者ら4人を逮捕したのである。事件が発生した1995年3月30日から9年余。新聞は号外まで出した。 逮捕者には、オウム元在家信者の小杉敏行元警視庁巡査長が含まれていた。事件発生の約1年後に「自分が撃った」と明かしたものの、その後の捜査で供述の信用性が疑われ、東京地検がいったん立件を断念した人物である。その小杉元巡査長を再び引っ張り出してきて、「逃走支援役」として逮捕したのだ。 しかし、逮捕後の小杉元巡査長の供述は二転三転。他の逮捕者は皆、容疑を否認した。結局、逮捕の21日後に全員が釈放され、その後、嫌疑不十分で不起訴処分となった。終わってみれば、事件を巡る闇を濃くしただけの結果になったのである。 こうした騒動を横目で眺めながら、地道に捜査を続けていた連中がいる。警視庁刑事部捜査一課の刑事達だ。彼らが「狙撃事件」の“容疑者”と目している人物。それが、今回、再び本誌に手記を寄せた中村被告である。 中村被告は東大教養学部理科二類を中退、警察官射殺事件を起こして逮捕され、服役したという経歴の持ち主だ。昭和51年に出所したが、平成14年11月、名古屋市内にある銀行の支店を襲撃。現金輸送車の警備員に拳銃を発砲し、重傷を負わせて再び逮捕された。 その捜査の過程で、アジトから「国松事件」を“自白”するような内容の散文詩が発見され、銀行の貸し金庫に大量の銃器を隠し持っていたことが判明した。こうして、中村被告は「容疑者」として急浮上。銃刀法違反容疑で警視庁に逮捕された後、別の銀行襲撃事件で大阪府警に再逮捕された。そのため、現在、身柄は大阪拘置所にあるが、警視庁捜査一課の専従班は今も中村被告の周辺捜査を続けている。 獄中から寄せた以下の手記で、中村被告は警視庁公安部による今回の逮捕劇を「関係者」の立場から検証。さらに、これまで報じられたことのない貸し金庫の「開扉記録」を示し、「国松事件」と自らについての“重大な事実”を明かした――』、「逮捕後の小杉元巡査長の供述は二転三転。他の逮捕者は皆、容疑を否認した。結局、逮捕の21日後に全員が釈放され、その後、嫌疑不十分で不起訴処分となった・・・こうした騒動を横目で眺めながら、地道に捜査を続けていた連中がいる。警視庁刑事部捜査一課の刑事達だ。彼らが「狙撃事件」の“容疑者”と目している人物。それが、今回、再び本誌に手記を寄せた中村被告である。 中村被告は東大教養学部理科二類を中退、警察官射殺事件を起こして逮捕され、服役したという経歴の持ち主・・・中村被告は「容疑者」として急浮上。銃刀法違反容疑で警視庁に逮捕された後、別の銀行襲撃事件で大阪府警に再逮捕された。そのため、現在、身柄は大阪拘置所にあるが、警視庁捜査一課の専従班は今も中村被告の周辺捜査を続けている」、なるほど。
・『公安警察のプロパガンダ 昨年7月、世間の耳目を驚かすニュースが流れた。その九年前に起こって未解決のままになっていた國松警察庁長官狙撃事件の容疑者として、突如、オウム関係者四人が逮捕されたのである。ところが、三週間後に、これは全くの空騒ぎとして終った。逮捕者全員があっさり釈放されてしまったのだ。いったい、これは何だったのか。その背後には何かの策謀があったのだろうか。 それ以前に警視庁に逮捕されて厳重な報道管制の下、その長官狙撃事件について、捜査一課の係官を相手に三カ月もの間、連日殆ど休みなしの攻防戦を続けてきた私は、その間に知り得た事実とその後の推移から、ある種の陰謀の存在をはっきり感知したのである。 これからその実体を説き明かすに当たり、警察、検察当局に対する私の個人的感情を抑えて、できるだけ客観的に記述するために、以下は、あえてNという三人称を用いることにする。 7月7日のオウム関係者四人の逮捕が公安警察のプロパガンダであることは、大方の指摘するところなのだが、では、なぜこの時期に、全員が不起訴釈放となって大失態と非難される結果になることを承知のうえで、この無謀ともみえるプロパガンダを強行しなければならなかったのか、その背後の事情を解明してみよう。 今回の逮捕において、唯一の決め手といわれていたのは、拳銃の発射時にコートに付着したとされる金属微粒子の鑑定結果だったのだが、実はこれは逮捕時の一年以上も前に出ていた。その当時は、これはせいぜい「ないよりまし」という程度のものにすぎず、これに基いて立件しようとするような考えはなかったのである。そもそもこの鑑定自体が、警察内部でのプロパガンダに類するものであったとみてよい。 長官狙撃事件の特別捜査本部として、百名ほどの捜査員を擁し公安部の一大拠点となっていた南千住署では、数年前から肝心の狙撃事件の捜査などほとんどやっていなかった。というよりも、もはや、やることがなくなっていたのである。現場の捜査員にしてみれば、数多くのガセネタ(偽情報)に翻弄されながらも、殆どのオウム関係者を洗い抜いていたのだから、「もう逆さにして振っても何も出ないよ」と言いたい気分であっただろう。名ばかりの捜査本部は、少数の者が過去の捜査資料の整理再検討の作業に従事するほかには、ときおり、もたらされる怪しげな情報の裏付け捜査に駆り出されるだけ、という状態になっていた。そのような状況下で、他の大多数の本部員は、本来の狙撃事件の捜査とは無関係な分野の仕事に向けられていたのである。 公安警察は「警察」と称してはいるものの、実際はその上に「秘密」という語をかぶせて「秘密警察」と呼ぶほうがふさわしい特殊な組織である。当然、その活動の大部分は公けにされない秘密のものになる。秘密の活動にも、もちろん、それなりの予算と人員は要る。特別捜査本部という看板は、そのための“裏”(編集部注:原文は傍点、以下同)予算と“裏”人員を生み出すのに利用されていたとみてよい。 公安警察というのは一種の聖域ではあるにせよ、各地の警察での裏金作りが槍玉に上げられている昨今の情勢下では、やはりそれなりの配慮はしなければなるまい。前述のように、コートを「スプリング8」という権威ある研究施設に持ち込んで鑑定を依頼したことも、今なお不断に本来の捜査活動を継続して成果を挙げているというアッピールの一環と受け取れる。 公安部内にも、こうした小手先の糊塗策を続けているだけではまずいのではないか、という危惧はあったに違いない。しかし、官庁というのは、なかなか一気に方針を転換することができにくい組織である。そして、公安警察といえども、また、官庁組織の一員であり、何かの“きっかけ”がなければ簡単には動かないのである。 ところが、03年(平成15年)の後半になって、その“きっかけ”となる異変が生じた。その年の夏、前年末に名古屋で強盗事件を起こして逮捕されていたNという男がアジトにしていた三重県名張市の民家が家宅捜索された際に、思いがけない物が出てきたのである。 その一は、長官狙撃事件に関する記事を掲載した新聞、雑誌、単行本に加えて、英文のものまで含む各種の関連記事のコピーなど、膨大な量の文献資料であった。およそ、この事件に関する刊行物の殆どすべてが集められているといえるほどであった。これはもちろん、この事件に対するNの異常な関心を示している。だが、もともと事件自体が前代未聞の特異なものである以上、特別な関心を抱いた者がいたとしても、それほど不自然ではない。ジャーナリストなどにしても、ある一つの事件を深く掘り下げるために、関連資料を大量に収集する人もいる。というわけで、これは決め手となりうるほどのものではなかった。 その二は、同時に押収されたフロッピー・ディスクに記録された詩編である。数個のディスクに、長短さまざまな一千篇近くの詩が記録されていたが、その中に五、六十篇ほどの狙撃事件を題材にしたものがあった。大半は叙情的あるいは風刺的なものだったが、なかには作者自身を狙撃者として書いている詩もあった。しかし、詩というものは、あくまで創作である。現実の事件を主題にして、いかに真に迫った小説を書いたからといって、その作者を犯人とするわけにはいくまい。ただ、これらの詩の中に、際立って写実的なものが一篇あった。「緊急配備」という題の下に、事件当日の中央線武蔵小金井駅の非常警戒の状況を正確に描写した詩である。だが、これとて作者がたまたまその場面に遭遇したか、あるいは、そこに居合わせた誰かから詳細な話を聞いたもの、といわれればそれまでのことであろう。 というわけで、捜索の当初は、何か訝しいという程度にすぎなかったのだが、そこでの押収物が端緒となって新宿の貸金庫にたどり着いたときから、新たな展開が始まった。まず、最初に注目されたのは、特注品とみられる高性能ライフルだった。高精度を保つための肉厚の銃身、サプレッサー(消音器)をはめ込むためと思われる銃口部のねじ溝、折畳み式の銃床を取り付けてコートの内側に隠し持てるほどのコンパクトな寸法、命中時に先端部が潰れて殺傷効果を大きくするソフト・ポイント型のレミントンBR7という超高速弾(一般に弾速が大きいほど精度が高くなる)を使用するなど、どの点から見てもプロ用の特殊な狙撃銃と判断された。ある捜査員は、まさに(フレデリック・フォーサイスの)「ジャッカルの日」を思い起こさせる、と洩らしたくらいである。そのほかにも、掌に隠れるほどの超小型でありながら強力な22口径マグナム・ホローポイント弾を発射できるミニ・レボルバーなど、要人暗殺等の特殊工作用と思われる銃器が発見された。こうなれば、要人暗殺イコール長官狙撃という連想が生じるのは自然の成行きである』、「未解決のままになっていた國松警察庁長官狙撃事件の容疑者として、突如、オウム関係者四人が逮捕されたのである。ところが、三週間後に、これは全くの空騒ぎとして終った。逮捕者全員があっさり釈放されてしまったのだ・・・百名ほどの捜査員を擁し公安部の一大拠点となっていた南千住署では、数年前から肝心の狙撃事件の捜査などほとんどやっていなかった。というよりも、もはや、やることがなくなっていたのである。現場の捜査員にしてみれば、数多くのガセネタ(偽情報)に翻弄されながらも、殆どのオウム関係者を洗い抜いていたのだから、「もう逆さにして振っても何も出ないよ」と言いたい気分であっただろう・・・前年末に名古屋で強盗事件を起こして逮捕されていたNという男がアジトにしていた三重県名張市の民家が家宅捜索された際に、思いがけない物が出てきたのである。 その一は、長官狙撃事件に関する記事を掲載した新聞、雑誌、単行本に加えて、英文のものまで含む各種の関連記事のコピーなど、膨大な量の文献資料であった・・・同時に押収されたフロッピー・ディスクに記録された詩編である。数個のディスクに、長短さまざまな一千篇近くの詩が記録されていたが、その中に五、六十篇ほどの狙撃事件を題材にしたものがあった。大半は叙情的あるいは風刺的なものだったが、なかには作者自身を狙撃者として書いている詩もあった。しかし、詩というものは、あくまで創作である・・・押収物が端緒となって新宿の貸金庫にたどり着いたときから、新たな展開が始まった。まず、最初に注目されたのは、特注品とみられる高性能ライフルだった。高精度を保つための肉厚の銃身、サプレッサー(消音器)をはめ込むためと思われる銃口部のねじ溝、折畳み式の銃床を取り付けてコートの内側に隠し持てるほどのコンパクトな寸法、命中時に先端部が潰れて殺傷効果を大きくするソフト・ポイント型のレミントンBR7という超高速弾(一般に弾速が大きいほど精度が高くなる)を使用するなど、どの点から見てもプロ用の特殊な狙撃銃と判断された」、なるほど。
・『事件当日の開扉記録 これに加えて、さらに追い打ちをかけるものが見付かった。貸金庫の管理会社に保管されていた個別の金庫の開扉記録である(表参照)。Nにしても、まさか十年も前のそんなものが保存されていたとは思い及ばなかったに違いない。これを見ると、通常は月に一、二回程度であり、全く訪れていない月もあるのに対して、95年(平成7年)3月だけが五回となっている。これは約十年に及ぶ契約期間を通じて最多の記録であり、しかも、そのうちの四回は23日以降に集中しているという異常さが目立つ。 これについての捜査当局の解釈は、次のようなものである。3月22日の山梨県上九一色村のオウム教団施設に対する一斉捜索の結果を知ったN(あるいはその一味)は、早急に行動を起こすことを決意して、そのための銃器弾薬を貸金庫から取り出した。その後の数日間に國松長官の動静を探りながら準備を整えた一味は、28日を暗殺決行の日と定めた。 当日の朝は、春一番か二番かの強風が吹き荒れていた。一般に強風は精密な射撃には好ましくないのだが、この場合は想定射程が30メートルほどであるから、それほど影響はないと判断したのだろう。むしろ、このような天候では外出を控える人が多いから、通行人すなわち目撃者が少なくなるという利点があったといえる。 しかし、ここで全く予想外のことが起こった。長官の居住棟の玄関の前あたりの路上に、コートを着た二人の中年の男が人待ち顔で佇んでいるのが見えたのである。彼らが、あまり動きまわりもせず、周囲を窺うそぶりもみせなかったことからして、SPや所轄署の警戒員でないのは明らかであった。また、もし一般人であれば、その挙動を怪しんだ護衛の警官が、職務質問をするとか何かの対応をしたであろう。そういうことがなく黙認されているからには、彼らの正体は警察関係者と推定するのが妥当である。 やがて、ほぼ定刻になって長官が玄関に現われると、待ちかまえていた二人の男は、足早に近付いて何か話しかけた。コートも着ていない長官は、寒風に吹きさらされながら戸外での立ち話が長引いてはたまったものではない、と思ったのかどうか、その二人を伴って屋内へ引き返した。 狙撃手は完全に出ばなを挫かれたことになる。長官の出勤が阻止されるというのは、明らかに異常事態である。そのような状況で狙撃のチャンスを逸した以上、長居は無用として、ただちに支援車両に引き上げてきた狙撃手は、同志に状況を報告するとともに今後の対策についての協議を始めた。 これは、おそらく警備態勢の変更に関する打ち合わせか連絡のたぐいであろう。変更があるとすれば、まず考えられるのは専任のSP(警護課員)の配備である。そうなると、これまでのように、隣接する建物で待ち伏せるというわけにはいくまい。では、遠方からライフルで一発必中の狙撃といくか。いや、それはSPが盾となる可能性があるから不確実だ。すると、事前検索の範囲外となる五、六十メートル離れた地点から、マシンガンの集中連射で、SPもろとも撃ち倒すほかあるまい。本来は目標を長官だけに限るはずだったのだが、こうなっては止むをえないだろう。それに、SPは迅速に応射するように訓練されているはずだから、自衛のためにも先制攻撃で倒してしまう必要がある―― と、まあ、このような論議が交されたのだろう。そこで、早速、貸金庫へ赴いて、作戦変更に伴って必要となった新たな装備品を取り出した、ということになる。ところが、同じ日の午後にも再び開扉されている。これについては、前述のようなやりとりを経て、最終的な詰めに至ったのは昼頃だったとも考えられるし、あるいは何か不足していた物に気付いて、それを取りに行ったとも推測できる。いずれにしても、予想外の事態に遭遇した直後で、動揺していたのかもしれない。ここで、開扉記録に基いて、もう一歩推理を進めてみると、貸金庫の6051番のケースには、実際に狙撃に使われた長銃身のコルト・パイソン回転式拳銃が、6080番のほうには、新たに携行することになったKG9短機関銃が、それぞれ収められていた、と考えるのが妥当である。 この日から二日後の30日が、実際の狙撃の当日になる。事件の発生時刻直後に、現場から適切な交通機関を利用して新宿へ向かったと仮定すると、記録されている開扉時間にちょうど間に合うということは、捜査員が可能なかぎりのルートを想定して、それをなん度もくり返して実地に試みて得た結論であった。当日、狙撃が決行された直後、Nは使用された銃器類を持って新宿へ急行し、それらを貸金庫に隠してから、当時、小平市にあった自分のアジトへ行く道筋に当たる中央線武蔵小金井駅で下車したところで、警察の警備陣に遭遇した。そのときに実際に見た状況を描写したものが、叙事詩「緊急配備」にほかならない。 以上が貸金庫の異常な開扉状況についての合理的な解釈になる、というのが捜査当局の見解である。少なくとも、Nがそれを否定するに足る矛盾のない弁明を示さないかぎりは。それに、28日の朝、國松長官と警察幹部との間で警備態勢に関する緊急の会談があったことなど、刑事部では、それまで全然知らなかったのである。 貸金庫の開扉状況についての「合理的な解釈」の次は、「窮地に追い込まれた」公安部についての“洞察”が始まる――。第2回【警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘】では、小杉元巡査長を含むオウム集団を犯人にせざるを得ない公安部と、「N」のグループによる犯行とみた刑事部の対立が綴られている』、「当日、狙撃が決行された直後、Nは使用された銃器類を持って新宿へ急行し、それらを貸金庫に隠してから、当時、小平市にあった自分のアジトへ行く道筋に当たる中央線武蔵小金井駅で下車したところで、警察の警備陣に遭遇した。そのときに実際に見た状況を描写したものが、叙事詩「緊急配備」にほかならない。 以上が貸金庫の異常な開扉状況についての合理的な解釈になる、というのが捜査当局の見解である」、なるほど。
次に、7月15日付けデイリー新潮「警察庁長官狙撃事件を“自白”した男、中村泰受刑者が明かしていた警視庁「公安警察」と「刑事部」の暗闘」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150851/
・『・・・5月22日、中村泰(ひろし)受刑者(94)が収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した。別の事件で無期懲役中だった中村受刑者は、1995年3月に発生した重大事件への関与を“自白“したことでも知られる。それは2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件だ。 この国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。今回公開する手記は、銃撃犯の行動や心理を“推理”する1本目の「国松長官狙撃犯と私」に続く2本目。この第2回では、公安警察と刑事部が繰り広げた“暗闘”の詳細が綴られている。なお、掲載にあたり、当時の編集者は一切手を加えていない。 (全3回の第2回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです)・・・』、
2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」・・・「国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた」、なるほど。
・『危機感を募らせる公安部 このあたりから雲行きが怪しくなってきた。もしも、Nが真犯人ということにでもなったら、公安部は窮地に追い込まれる。(刑事部という)“とんび”に油揚げをさらわれたどころの話ではない。これまで九年もの歳月を費やし、延べ三十七万人ともいわれる人員を投入して、何をやっていたのだということになる。当初から「犯人はオウム」という先入観に固執して、目隠しされた馬車馬のように盲進を続けるだけだった公安部は、「無能」の烙印を押されて、その存在価値さえ問われることになろう。 公安部は危機感をつのらせていたが、しかし、まだ望みは残されていた。その一つは、目撃者の証言である。狙撃者を直接見ていた数人の証言から得た犯人像は、年齢三、四十歳で身長一七○センチ前後というものであった。これは、六十代半ばで一六○センチのNとは、かなり隔たっている。 さらに、それにもまして重要なのは、その実年齢である。運動能力については、かなり個人差が大きいので一概にはいえないが、誰にとっても不可避なのが視力の劣化である。加齢とともに眼球内の水晶体の硬化が進んで、いわゆる老眼になるのだが、このため必然的に動体視力が低下する。対象物に焦点を合わせる水晶体が伸縮しなくなるのだから、当然の帰結である。拳銃で遠く離れた動く標的を迅速正確に狙撃するためには、十分な動体視力が必要である。長官狙撃事件では、過去の拳銃使用事件には前例がないほどの高度の射撃技量が示されている。他の行動の状況とも併せて、プロの仕事といわれているのもうなずけるところである。動体視力の低下している高齢者にできることではない。 Nのほうでも、そのような事情は百も承知していた。あらかじめ報道各社へ向けた声明文の中で、自分はゴルゴ13(劇画のヒーローで超一流の狙撃手)にはなれない、ティームの一員ぐらいが分相応であると述べている。 そのうちに、またもや、公安部にとって追い打ちになるようなことが起こった。Nが、長官狙撃事件についての手記を「新潮45」(04年4月号)の誌上に発表したのである。筆者は、公開された情報に基いて書いたという体裁をとっていた。しかし、その中には未公開の事実が含まれていたのである。 長官に向けて三発の銃弾が発射された直後に、長官公用車の前方に待機していた護衛車両から、異変に気付いた警戒員が、長官の横たわっている植込みの蔭に駈けつけてきたのだが、狙撃者はその私服警官へ向かって威嚇の発砲をした。これが最後の発砲になったが、銃弾が(狙撃者から見て)前方を横切る形で全力疾走する警官の背後すれすれに通り抜けるという際どい射撃であり、これもまた卓越した技量を示している。多くの拳銃用弾種の中でも、この事件で使われた357マグナム弾は最高速の部類に属するのだが、空気中を超音速で通過する物体からは衝撃波が発生して、これが弾の擦過音となる。当然、この警官は身近に銃弾が通過する音を耳にしている。Nがこの事実を知っていたということは、この警官のものを含めて極秘扱いとなっている関係者の供述書の内容を探り出す手段を持っていたか、あるいは、狙撃者から直接報告を受けていたか、のどちらかであるとしなければならない。 さらに、捜査員の中には、次のような見解を示す者もあった。この文章は一見、ルポ・ライターなどが書くものに似ているが、しかし、彼の場合は状況が全く違う。関連資料はすべて押収されているし、拘禁中の身では新たに参考資料を入手するのは困難であるはずだ。もちろん、取材活動などは全く不可能である。にもかかわらず、九年も前の事件をあれほど克明に記述できるのは、やはり直接関与していたからこそ、鮮明な記憶が残っているからではないか、というのである。 公安部の不安は増大していたが、しかし、まだ望みをつなげるものが残っていた。それは長年の極左過激派に対する捜査経験から確信に近いものになっていたのだが、自己の信念に基いて行動するこの種の確信犯は、損得や感情で動く一般犯罪者と違って、自らの手で同志を敵と見なしている官憲に売り渡すような行為はしない、ということである。この考えが正しければ、Nも自分の口から狙撃者の正体を明かすことはないとみてよい。あとは、刑事部が独自の捜査で、どこまで核心に迫れるかにかかっている。 この間、成行きからして当然のことではあるが、公安部は刑事部の捜査には全く協力しなかった。内心はともかく、表面は否定的に無視するという態度を続けていた。特捜本部として、重要な証拠のすべてを握っている公安部が知らぬ顔を決め込んでいるのだから、刑事部の捜査活動が困難をきわめたことはいうまでもない。しかも、それだけにとどまらず、公安部は妨害工作まで試みたようである。噂ではあるが、事件現場に残されていた朝鮮人民軍の記章と韓国硬貨からNのDNAが検出されないように、薬液で洗浄してしまったともいわれている。なにしろ、何も知らなかった小杉元巡査長を、わざわざ現場に“案内”して十分に観察させた上で、供述書に信憑性を付加するための詳細な見取図を描かせるような工作までしていたことからみても、全くありえないとはいえない。少なくとも、これらの物をオウム関係者の手に触れさせておいて、後日、そのDNAがどうのこうのというための細工ぐらいは試みているかもしれない。これなど、よく知られた(自分で転んでおいて公務執行妨害と言いがかりをつける)「転び公妨」手法の変種といえそうである。こうしてみると、例のコートの鑑定結果なるものも、どこまで真実なのか、疑問が生じてくる。 それでも、依然として公安部の不安感は払拭されなかった。刑事部が何か新しい証拠を見付けはしないか、Nが何か新しい供述を始めはしないか、それで事態が一変する可能性は、あい変わらず存在していた。Nが銃刀法違反事件で起訴された後、三カ月に及んだ取調べ期間中の彼の動静をひそかに窺い続けないではいられなかったのである。 刑事部は、それまでに集めた状況証拠に基いて、Nを立件できるかどうかを東京地検に打診していた。地検の見解は、それを証拠として認めて細部を説明する被疑者の供述書が伴わなければむずかしい、というものであった。これを公安部に対するものと較べてみると、まことに対照的である。一方には、証拠はあってもそれに対応する供述が欠けていると言い、他方には、(小杉元巡査長の)供述はあってもそれを裏付ける証拠が乏しいと難色を示しているからである。もっとも、この小杉供述なるものは、整合性のない不完全なもので、それを「マインド・コントロール」という怪しげな理由付けで補っているといわれているのだが。これに対して、刑事部のほうでは、われわれの集めた証拠は客観的で一貫性のあるものだ、と主張している』、「もしも、Nが真犯人ということにでもなったら、公安部は窮地に追い込まれる。(刑事部という)“とんび”に油揚げをさらわれたどころの話ではない。これまで九年もの歳月を費やし、延べ三十七万人ともいわれる人員を投入して、何をやっていたのだということになる。当初から「犯人はオウム」という先入観に固執して、目隠しされた馬車馬のように盲進を続けるだけだった公安部は、「無能」の烙印を押されて、その存在価値さえ問われることになろう。 公安部は危機感をつのらせていたが、しかし、まだ望みは残されていた。その一つは、目撃者の証言である。狙撃者を直接見ていた数人の証言から得た犯人像は、年齢三、四十歳で身長一七○センチ前後というものであった。これは、六十代半ばで一六○センチのNとは、かなり隔たっている。 さらに、それにもまして重要なのは、その実年齢である。運動能力については、かなり個人差が大きいので一概にはいえないが、誰にとっても不可避なのが視力の劣化である。加齢とともに眼球内の水晶体の硬化が進んで、いわゆる老眼になるのだが、このため必然的に動体視力が低下する。対象物に焦点を合わせる水晶体が伸縮しなくなるのだから、当然の帰結である。拳銃で遠く離れた動く標的を迅速正確に狙撃するためには、十分な動体視力が必要である・・・公安部は妨害工作まで試みたようである。噂ではあるが、事件現場に残されていた朝鮮人民軍の記章と韓国硬貨からNのDNAが検出されないように、薬液で洗浄してしまったともいわれている。なにしろ、何も知らなかった小杉元巡査長を、わざわざ現場に“案内”して十分に観察させた上で、供述書に信憑性を付加するための詳細な見取図を描かせるような工作までしていたことからみても、全くありえないとはいえない。少なくとも、これらの物をオウム関係者の手に触れさせておいて、後日、そのDNAがどうのこうのというための細工ぐらいは試みているかもしれない」、「公安部」の「妨害工作」には心底驚かされた。
・『刑事部対公安部 こうして、事態は、小杉元巡査長を含むオウム集団を犯人とする、というよりも、そうせざるをえない公安部と、Nのグループ――これより以前に彼が特別義勇隊(トクギ)と称する武装地下組織の結成をもくろんでいた当時、行動を共にしていた少数の者の集まり――の仕業と見ている刑事部との対決という形になっていった。シニカルな表現をすれば、小杉元巡査長らオウム一味のスポンサーである公安部と、Nのトクギ残党を推すスポンサーとしての刑事部とが、東京地検を相手に売り込み合戦を演じるという構図である。第三者にとっては面白い見ものかもしれないが、承知の上で行動している元巡査長とNとを除いて、この騒動の巻添えになった人たちには甚だ迷惑なことであった。 公安部としては、なんとか巻返しを図りたいところなのだが、Nという不発弾とも時限爆弾ともいえる厄介者が片付かなければ、うかつには動けなかった。だが、公安部にはもっけの幸いともいえそうな打開策が残されていた。それは、大阪府警が名古屋の事件との類似性から、Nを大阪市内で発生した数件の拳銃強盗事件の容疑者として捜査しているという情報である。 これについては、前年の十月初め頃に一部の日刊紙等に報道されていたのだが、なぜか、その後一向に進展がみられなかった。これというほどの決定的な証拠が出てこなかったからかもしれないが、あるいは、警視庁が長官狙撃事件の捜査を優先するために、府警の介入を抑えていたからとも考えられる。確かに長官狙撃事件は日本警察全体の威信にかかわる重大事で、それに較べれば、死者も出ていない強盗事件などは単なるローカルな雑件にすぎない。しかし、軽視された形になった大阪府警には当然、不満が生じる。それに、もともと府警には警視庁への対抗意識が根強くある。 どうやら公安部は、こうした感情に便乗して、それを煽るような工作を仕かけたらしい。府警は警視庁に対して、Nの身柄引渡しを執拗に求めるようになった。身柄を取り込むための逮捕容疑の対象としては、三件とも四件ともいわれている強盗事件の中から、とりあえず三井住友銀行都島支店の事件が選ばれた。それまでに集められた雑多な証拠らしきものの組合わせを操作してみた結果、都島の件になら、なんとか当てはめられそうに思えたからであろう。 しかし、その件で逮捕状を請求する前の段階で、姑息な小細工が施された。都島の件は、発生以来それまで強盗“致傷”(傷人)事件として捜査が続けられてきた。それを強盗“殺人”(同)未遂に切り換えたのである。別に殺意を裏付けるような新しい証拠が出てきたわけではないから、単なる呼称の変更にすぎないともいえる。だが、これには隠された意図があった。 警視庁が、長期間Nの身柄を独占するための根拠としていた長官狙撃事件の刑法上の罪名は“殺人”未遂である。一方、「ローカルな雑件」として軽視されていた大阪の事件を担当する府警が、容疑者の身柄の奪い合いで警視庁に対抗するためには、強盗“致傷”よりも強盗“殺人”(未遂)に“格上げ”したほうが押しがきく。部外者にとっては、なんともくだらない話のように感じられるかもしれないが、警察組織の中では、肩書や看板は大いにものをいう。単なる事件捜査でなく、捜査本部という看板が掛けられれば、予算も人員も集めやすくなる。これに「特別」が加わればなおさらだ。前述のように、南千住署の特別捜査本部の看板が公安部の予算と人員の捻出に利用されていたこともその一例である。 ともあれ、府警としては、Nの身柄を奪い取った以上、なんとしても立件しなければ面目を失う。もちろん、確固とした決め手になるものがあれば、問題はない。しかし、現実には、少なからず矛盾性を内包した状況証拠の寄せ集めがあるだけだ。これらをつなぎ合わせて、事件全体の構図を描き上げるためには、被疑者の供述が不可欠であり、その供述を得るためには、逮捕後の取調べ方法が重要になる。 都島の事件は、電車内で女性の体に触れたとか触れなかったとかいうような単純な構成のものではない。その細部については、真犯人でなければ知りえない点が数多くある。第三者が犯人を装って、それらの点を明らかにする供述を創作することなど不可能に近い。このことは、小杉元巡査長が、いかに自分が長官を狙撃した犯人だと主張しても、客観的事実に合致する供述はできないでいたという事例によく示されている。その種の供述書を作らせてみたところで、混乱を招くだけにすぎない。 こうした事情を考慮した結果でもあろうか、府警の取調べ方法は、きわめて異例のものであった。否認している被疑者に対しては、次々と証拠を突きつけて言い逃れを封じ、自供に追い込む、というのが取調べの常道であり、最も有効である。しかし、Nの取調べを担当した刑事の姿勢は全く逆であった。捜査段階で集めていた証拠はいっさい示さず、ただ、相手に何か話したいことがあれば述べさせようとするだけで、およそ追及というようなものではなかった。いきおい、連日の取調べとはいっても、その実、事件の核心を外れた雑談に終始していたのである。Nのほうから問いかけを試みても、肝心の点になると言を左右にしてそらしてしまうようなことも多かった。まあ、互いに肚の探り合いを続けていたといえるかもしれない。 そのような状態がえんえんと続くだけで、これという進展もなく、供述調書の作成にも至らないままに時が過ぎていった。思うに、捜査幹部のほうでも、証拠に絡む不自然な点は認識していたので、立件の妨げになりそうな内容の供述調書なら無用である、と指示していたのであろう。上層部と現場担当者との取調べ方針をめぐるあつれきは少なくなかったようで、日頃は愛想よく応対するように努めている刑事が、上司に呼ばれた直後は、不機嫌な表情をあらわにして戻ってきたものである。 それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極める――。第3回【中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由【警察庁長官狙撃事件の闇】】では、「警察史上最大の八百長ドラマ」とNが表現した“オウム集団4人の逮捕”について、そこに至る最後の過程が語られる』、「それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極める――」、セクショナリズムが余りに酷いようだ。
第三に、7月15日付けデイリー新潮「中村泰受刑者が“公開の法廷という場”で発言を希望していた理由【警察庁長官狙撃事件の闇】」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/07150852/?all=1
・『・・・5月22日、収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した中村泰(ひろし)受刑者(94)。別の事件で無期懲役中だったが、1995年3月に発生した「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件への関与を“自白“していたことでも知られる。2010年3月末に公訴時効を迎え、未解決事件となったこの国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。なお、掲載にあたり当時の編集者は一切手を加えていない。 今回公開する手記は、銃撃犯の行動や心理を“推理”する1本目の「国松長官狙撃犯と私」に続く2本目。捜査をめぐる警視庁公安部と警察庁刑事部、大阪府警の“暗闘”を描く内容だ。その第3回は、中村受刑者が「警察史上最大の八百長ドラマ」と表現したオウム関係者の逮捕、そこに至る経緯とその後についてである。 (全3回の第3回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです)』、興味深そうだ。
・『公安のスペシャリスト 取調べる側にとって、Nは扱いにくい容疑者であったかもしれない。過激派の連中のように、敵対的に黙否を貫くというのとは違うが、互いに波長が異なって噛み合わない、とでもいえばよいか。Nには、長官狙撃事件ならばともかく、単なる強盗事件で、しかも警察間の面子問題が絡んで扱われているとなれば、次元が低くてまともに論議するに価しない、という思いが心底にあったのだろう。刑事が問い詰めようとしても、むきになって弁明することもなく、柳に風と受け流してしまい、とどのつまりは、何か疑問点があればこういう密室の中ではなく、公開の法廷で堂々と解明しましょうや、という抵抗しがたい論理で片付けてしまうのであった。さらに、Nは老い先短い身を自覚しているからか、既に一身の利害得失は超越しているようなところがあって、一般の犯罪者には有効な利益誘導の手法が通用しないことも厄介だったといえる。 もっとも、通常の利害とは異なるが、彼にもそれなりの思惑はあった。妙な言い方だが、せっかく大阪府警が逮捕してくれたのだから、その流れに乗って立件に持ち込まれれば幸い、という気持があったのだ。つまり、法廷という舞台への出場権を得たかったのである。もし、この事件で起訴されなければ、公判の対象は銃刀法違反事件があるだけで、この場合は起訴事実を全面的に認めているので、ほとんど争点もなく、公判は割合い簡単に終ってしまう。したがって、被告人が発言する機会もあまり期待できないということになる。 Nについては、前年の秋以降、新聞、雑誌、テレビ等を通じて多くの報道が流布されてきたが、それらは誇張、歪曲、中傷、虚偽の入り交じった乱雑で不正確きわまるものだった。そんな報道の断片で真実が伝わるはずもない。彼の実像を知りたいと望む人びとに対して、当人が何を考え、何を企て、何を成してきたか、また、それと警察庁長官狙撃事件との関連性についても、できるかぎりの情報を提供することは、残り少ない人生における最後の義務であろう。社会から、あるいはさらに現世から完全に身を退いてしまう前に、その義務を果たすためには、公開の法廷という場が必要なのである。 6月18日、Nの移送を追いかけるようにして、新任の府警本部長が着任した。自他ともに認める公安のスペシャリストで、かつて警視庁公安部長の職にあった米村敏朗警視監である。公安の代理人とも目されているこの人物が、この時期に大阪府警の最高指揮官の地位に就いたことの意義は小さくない。公安部にとっての当面の緊急の課題はNの封じ込めであり、そのためには、大阪での事件をうまく利用することができれば好都合なのだ。もちろん、本部長が表立って指示するような粗雑な手を使うとは考えられないが、裏面から圧力をかけて目的を達するというのは、公安部の得意技でもある。この後あたりから、上層部の雰囲気が変わってきたようで、現場の担当者との摩擦も多くなってきた。 こうした上からの有形無形の圧力にもかかわらず、はかばかしい進展はなく、取調べの刑事にも焦りの色がみられるようになった。このままでは、検察庁が立件を認めないかもしれない、とも言い出した。これには、そうなってはそちらにとっても不都合だろうという含みがある。確かに、府警とNの双方にとって、その魂胆こそ全く別ものではあるにせよ、差し当たっての表向きの目標には共通するところがあった。府警としては、その面目にかけて、さらに背後で糸を引いている公安部の意向も加わって、なんとしても都島の事件を成立させたかったし、一方、Nにとっては、ここで起訴されなければ社会への窓口が閉じられてしまうことになる。 かといって、一時しのぎの供述書を作ったりするわけにはいかない。へたな小細工などすれば、後日、それが一人歩きして、自分の行動を縛ることにもなりかねない。特に、文書というものにはそういう性質がある。で、結局は消極的な対策で間に合わせるほかなかった。主任検事に対面するときには、何ごとについても具体的な反論をするのは控える、という姿勢を保つことにした。つまり、相手に立件をためらわせるような言動は避けよう、ということである。それが功を奏したかどうかはわからないが、少なくとも妨害にはならなかったと思われる。 しかし、そういう些事よりも、はるかに大きく影響したのは、府警が、きわめて重要な事実を検察庁に隠し通していたことである。実は、Nが名古屋で逮捕される直前まで、その身近に密接に連携して行動を共にしてきた人物がいたのである。だが、この事実を突き止めたのは、大阪府警ではなく、警視庁の刑事部であった。もちろん、警視庁に大阪府警の扱っている都島の事件に介入する意図があったわけではない。警視庁が追っていたのは、あくまで長官狙撃事件である。 警察庁長官襲撃は、その実行に必要ないくつもの条件からして、とうてい一個人が独力で遂行できるものではなく、数の多少はともかくとして、複数の人間が関与していることは確実とみられている。Nが関与しているとすれば、まず、その同志というか、仲間を洗い出すことが不可欠である。その後に、初めて事件の全体像が明らかになる。このことは、オウム教団を標的とした場合にも、小杉元巡査長一人だけを検挙してみても、それだけではどうにもならなかったという前例によく現われている。 こうして、Nの身辺を探る緻密で執拗な捜査が続けられた結果、ついにそれに該当する人物の“影”を焙り出した。とはいえ、その人物が特定されたわけではなく、今のところは、あくまで「影」にすぎない。ただし、実体がなければ生じないという意味での「影」であり、その正体が明らかになれば、事態が一変してしまう存在である。大阪府警が、検察庁に対して、この事実をひた隠しにしていたのも当然である。そんなことが暴露されたら、検察庁の描いた事件をNの単独犯行とする構図は覆ってしまうからだ。そうした共犯関係について、一応の目処がつくまでは立件を見送り、継続捜査の扱いにする、という処分になってしまう。紆余曲折はあったものの、勾留満期となった7月2日に、それまでなんとなく“異床同夢”の関係にあった府警とNの望んだとおり、都島の事件は起訴された。しかし、その両者にもまして、この日を待ち構えていたものこそ公安部にほかならない。これで、公安部が企画していた一大プロパガンダ作戦に対する最大の障害物であったNの身柄は大阪の地に封じ込まれ、もはや警視庁(刑事部)の手に戻ることはなくなった。さらに、接見禁止措置によって、その口封じも仕上がった。南千住署の特捜本部員の大半を蚊帳の外に置いたまま、永井力公安一課長が選抜した特別行動班に、GOサインが発せられた。既にこの日を見越して、佐藤英彦警察庁長官まで抱き込む根回し工作が済んでいたし、その他の準備も整っていたから、その後の進行は順調であった。 こうして、ついに7月7日の七夕祭の日、警察史上最大の八百長ドラマ、オウム関係者四人の逮捕劇の幕開けとなったのである。当日の新聞各紙は、第一面と社会面の殆どを挙げて、この報道に当てた。号外まで出した社もあった。警察当局は九年間もの長い地道な努力の結果、ついに難事件の解決にたどり着いた、と讃辞を呈する評者もいた。 だが、多少とも内情を知っている警視庁刑事部の多くの者が、さらに当の公安部門でさえ心ある者は、今日の各紙の大報道が二十二日後の7月29日の紙面では、どのように一変するかを予想して、背筋に寒いものをおぼえたであろう。もちろん、Nも強い衝撃を受けた一人であったが、彼の場合は一般のそれとは全く違っていた。まかり間違えば、あの新聞の大見出しの名前と顔写真は自分のそれと入れ替っていたかもしれない、という戦慄が先行していたのである。 7月29日の各紙朝刊の紙面は、警察内部の者が危惧していた以上のものになった。逮捕を報じたとき以上の紙面を当てた新聞社もあった。「失策」「不信」「悪夢」などの語句を連ねて、警察をこきおろす論調が溢れていた。この時期に、あえて強制捜査に踏み切ったからには、一般に知られている以上の有力な証拠を抑えているのだろうと期待していたのが、いざ蓋を開けてみたら何もない空洞だった、という肩すかしを食らった反動もあろうが、それにもまして、まんまと公安警察のプロパガンダの片棒を担がされてしまったことへの慚愧と憤懣の現われでもあったのだろう。しかし、もしも報道機関が、小杉元巡査長の一人芝居に終ったこの茶番劇は、実はNという男の突然の出現によって自己の権威が失墜する危機感に怯えた公安部が、巻返しのつもりで企てた苦しまぎれの駄作にすぎなかったという真相を知れば、どのような反応を示したであろうか。 佐藤長官を初めとして、伊藤茂男公安部長、この逮捕劇の企画演出を担当したと思われる水元正時参事官に至るまで、今は現場を去ってしまった。二十二日間の興行を終えると、後は野となれ山となれと逃げ出してしまったようにもみえる。だが、はたしてそれで一件落着となるであろうか。大阪の都島の事件は、一見、長官狙撃事件とは関係がないようにみえる。しかし、実際にはその審理の過程で、関連する事柄が次つぎと浮上してきて、新たな火種となるはずなのだ。 それはひとまずおくとして、公安警察が大義(と彼らが信じているもの)のために、オウム関係者の三人や四人は犠牲にしても止むをえないと考えたとしても、それはそれで仕方がないともいえる。元来、どこの国でも秘密警察というのは、そうした性格のものなのだから。しかし、もしも現場の幹部が、小杉元巡査長が長官狙撃事件の犯人だなどということを、保身策以上に本気で信じているとしたら、これはもう救いがたい。無能を証明する以外の何ものでもないからだ。そして、このような無能な指揮官に率いられている公安部に未来はない。 それぞれのメンツが複雑に絡み合い、公安部と刑事部、大阪府警の“暗闘”は混沌を極めた――・・・』、「Nは老い先短い身を自覚しているからか、既に一身の利害得失は超越しているようなところがあって、一般の犯罪者には有効な利益誘導の手法が通用しないことも厄介だったといえる。 もっとも、通常の利害とは異なるが、彼にもそれなりの思惑はあった。妙な言い方だが、せっかく大阪府警が逮捕してくれたのだから、その流れに乗って立件に持ち込まれれば幸い、という気持があったのだ。つまり、法廷という舞台への出場権を得たかったのである・・・勾留満期となった7月2日に、それまでなんとなく“異床同夢”の関係にあった府警とNの望んだとおり、都島の事件は起訴された。しかし、その両者にもまして、この日を待ち構えていたものこそ公安部にほかならない。これで、公安部が企画していた一大プロパガンダ作戦に対する最大の障害物であったNの身柄は大阪の地に封じ込まれ、もはや警視庁(刑事部)の手に戻ることはなくなった。さらに、接見禁止措置によって、その口封じも仕上がった。南千住署の特捜本部員の大半を蚊帳の外に置いたまま、永井力公安一課長が選抜した特別行動班に、GOサインが発せられた・・・7月7日の七夕祭の日、警察史上最大の八百長ドラマ、オウム関係者四人の逮捕劇の幕開けとなったのである。当日の新聞各紙は、第一面と社会面の殆どを挙げて、この報道に当てた。号外まで出した社もあった。警察当局は九年間もの長い地道な努力の結果、ついに難事件の解決にたどり着いた、と讃辞を呈する評者もいた。 だが、多少とも内情を知っている警視庁刑事部の多くの者が、さらに当の公安部門でさえ心ある者は、今日の各紙の大報道が二十二日後の7月29日の紙面では、どのように一変するかを予想して、背筋に寒いものをおぼえたであろう・・・7月29日の各紙朝刊の紙面は、警察内部の者が危惧していた以上のものになった。逮捕を報じたとき以上の紙面を当てた新聞社もあった。「失策」「不信」「悪夢」などの語句を連ねて、警察をこきおろす論調が溢れていた。この時期に、あえて強制捜査に踏み切ったからには、一般に知られている以上の有力な証拠を抑えているのだろうと期待していたのが、いざ蓋を開けてみたら何もない空洞だった、という肩すかしを食らった反動もあろうが、それにもまして、まんまと公安警察のプロパガンダの片棒を担がされてしまったことへの慚愧と憤懣の現われでもあったのだろう。しかし、もしも報道機関が、小杉元巡査長の一人芝居に終ったこの茶番劇は、実はNという男の突然の出現によって自己の権威が失墜する危機感に怯えた公安部が、巻返しのつもりで企てた苦しまぎれの駄作にすぎなかったという真相を知れば、どのような反応を示したであろうか。 佐藤長官を初めとして、伊藤茂男公安部長、この逮捕劇の企画演出を担当したと思われる水元正時参事官に至るまで、今は現場を去ってしまった。二十二日間の興行を終えると、後は野となれ山となれと逃げ出してしまったようにもみえる。だが、はたしてそれで一件落着となるであろうか」、警察内の公安畑と刑事畑の対立は想像以上に酷いようだ。左翼も大人しくなったことから公安畑は大胆に縮小することも検討すべきだ。