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介護(その10)(神奈川のケアマネが東京に大移動する理由 訪問介護を「狙い撃ち」のマイナス報酬改定に業界大激怒!、「縛ってください」と懇願する家族「縛らないと人が辞める」と訴える職員…介護現場の厳しすぎる現実、日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた) [社会]

介護については、本年2月6日に取上げた。今日は、(その10)(神奈川のケアマネが東京に大移動する理由 訪問介護を「狙い撃ち」のマイナス報酬改定に業界大激怒!、「縛ってください」と懇願する家族「縛らないと人が辞める」と訴える職員…介護現場の厳しすぎる現実、日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた)である。

先ずは、本年2月20日付けダイヤモンド・オンライン「神奈川のケアマネが東京に大移動する理由、訪問介護を「狙い撃ち」のマイナス報酬改定に業界大激怒!」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/338284
・『2024年度の介護報酬改定では、訪問介護の基本報酬が軒並みマイナス改定となった。これに対し業界団体が厚生労働省に猛抗議し、波紋を呼んでいる。『後悔しない医療・介護』の#9では、訪問介護への“はしご外し”を巡る思惑を探った』、興味深そうだ。
・『訪問介護を“狙い撃ち”した マイナス改定の理由  「誠に遺憾であり、訪問介護の現場従事者を代表して強く抗議します」――。 これは2月1日にホームヘルパー(訪問介護員)の職能団体である全国ホームヘルパー協議会、日本ホームヘルパー協会が連名で発表した、2024年度の介護報酬改定に対する意見書の一文である。 この2団体が激怒している理由、それは1月22日に公表された24年度介護報酬改定において全体の改定率がプラス1.59%だったにもかかわらず、訪問介護の基本報酬だけが軒並み引き下げられたからである(下図参照)。 (図表:直近3度の改定における訪問介護サービスの介護報酬単位の推移 はリンク先参照) 今回の報酬改定の基本方針では、介護従事者全体の待遇改善がうたわれていた。意見書内では、人材不足と従事者の高齢化、人件費の高騰、物価高騰などにより、閉鎖や倒産する事業所が増加しており、「更なる人材不足を招くことは明らかで、このような改定は断じて許されるものではありません。このままでは、訪問介護サービスが受けられない地域が広がりかねません」と警告している。 厚生労働省は、今回一本化された介護サービス従事者の処遇改善加算で、訪問介護は他のサービスよりも高い加算率が設定されており、トータルでは今回の改定がホームヘルパーの賃上げにつながるとしている。そうであっても、訪問介護だけの基本報酬を引き下げる理由としては説得力に欠ける。 では、厚労省が訪問介護を“狙い撃ち”した真の理由は何か』、「厚労省が訪問介護を“狙い撃ち”した真の理由は何か」、何なのだろう。
・『「国はもう在宅介護を諦めたのではないか」  訪問介護を狙い撃ちにした理由として、前述した処遇改善加算に加えて厚労省が公にしているのは、他のサービスよりも訪問介護の利益率が高い点だ。確かに直近の「介護事業経営実態調査」では、訪問介護の利益率が22年度で7.8%と、全サービス平均の2.4%を大幅に上回っている。 また、今回の改定では介護職員以外の職種の待遇改善も実現する方針を打ち出しており、多職種が従事している介護老人保健施設や特別養護老人ホームの基本報酬は大幅に引き上げている。一方、訪問介護はホームヘルパーをはじめ介護職以外の職種はほとんどおらず、利益率も高い。 介護財政が厳しい昨今、めりはりある報酬設定が求められる中で、今回の改定では訪問介護に泣いてもらう選択をしたというのが、厚労省の言い分といったところである。 しかし、高齢社会において国が目指してきたのは「地域包括ケアシステム」の下、最後まで住み慣れた地域で高齢者が安心して暮らせる社会の姿だったはずだ。だからこそ、今回の訪問介護のマイナス改定は、国による在宅医療・介護への“はしご外し”の始まりだとみる業界関係者も少なくない。 居宅介護支援事業所ケアプランナーみどり(神奈川県)代表の原田保氏は、今回の改定について「国はもう在宅(介護)を諦めたのではないか」と分析する。ホームヘルパーと共に、自宅で暮らす高齢者の介護を支えるケアマネジャー(介護支援専門員)の基本報酬の改定からもその片鱗は垣間見えるという。ケアマネが担う介護予防支援・居宅介護支援の基本報酬は今回辛うじてプラス改定ではあったものの、前回の改定よりも引き上げ率は下がったからだ(本特集#4『要介護認定を受けて「ケアマネ難民」を回避する方法、現役の介護認定審査会委員が伝授!』参照)。 「25年からは団塊の世代が後期高齢者となるため、高齢者人口そのものが減少し始める。だから、現状は慢性的な人手不足でも、25年以降には供給過多に転じると国はみており、報酬改定によって人材確保を促す必要はないと考えているのだろう」(原田氏) また3年後の27年度改定では、ケアマネが行うケアプランの作成が有料化されると予想されている。現行制度では、ケアプランの作成は全額介護保険でまかなわれて利用者負担はない。これが有料化されればサービスの利用控えが起こり、ケアマネ不足は解消されていく可能性が高い。すでに国はケアマネの需要自体を抑制していく制度設計にかじを切っており、今回の改定は高齢者が増加する想定でシステムを構築する時期は終わったというメッセージとも受け取れる。 しかし現状、ホームヘルパーもケアマネも、介護保険制度開始時に就労した層が引退の時期を迎え、空前の人手不足が続いている。長期的にみればいずれ供給過多になるといっても、今回の改定によって需要過多の状態は悪化すると原田氏は予測。しばらくは地域によって、要介護認定を受けていても在宅で介護サービスを受けるのが難しくなる所も出てくるかもしれないという。 とりわけ東京都に隣接する市町村で不足危機が高まる可能性がある』、「介護財政が厳しい昨今、めりはりある報酬設定が求められる中で、今回の改定では訪問介護に泣いてもらう選択をしたというのが、厚労省の言い分といったところである・・・長期的にみればいずれ供給過多になるといっても、今回の改定によって需要過多の状態は悪化すると原田氏は予測。しばらくは地域によって、要介護認定を受けていても在宅で介護サービスを受けるのが難しくなる所も出てくるかもしれないという」、なるほど。
・『「月1万~2万円の手当」と都知事 神奈川から東京にケアマネ流出か  東京都の小池百合子都知事は年始のあいさつで、都内で働く全ての介護職員、ケアマネを対象に月1万~2万円の手当を支給すると発表した。 この施策に原田氏は嘆息する。自身の事業所が神奈川県にあるからだ。 「川崎市、横浜市のケアマネは、多摩川を渡って東京に流出するだろう」と原田氏は予測する。川崎市や横浜市などの東京都に隣接する市町村では、都内に介護従事者が大移動して不足する恐れがある。 今回の改定を機に国が在宅介護へのはしごを外していくのであれば、高齢者が最後まで住み慣れた地域で安心して暮らしていくことは、どんどん難しくなるのかもしれない』、「川崎市や横浜市などの東京都に隣接する市町村では、都内に介護従事者が大移動して不足する恐れがある。 今回の改定を機に国が在宅介護へのはしごを外していくのであれば、高齢者が最後まで住み慣れた地域で安心して暮らしていくことは、どんどん難しくなるのかもしれない』、「都内に介護従事者が大移動」はやむを得ないが、「高齢者が最後まで住み慣れた地域で安心して暮らしていくことは、どんどん難しくなる」のは、困ったことだ。

次に、6月6日付けダイヤモンド・オンライン「社会学者の上野千鶴子氏と元気が出る介護研究所所長の 高口光子氏の対談「「縛ってください」と懇願する家族「縛らないと人が辞める」と訴える職員…介護現場の厳しすぎる現実」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/342276
・『介護保険制度の改悪や人手不足など介護の現場では問題が山積みだ。また、そこで働く職員のなかでも方針の違いなどがあるという。介護現場の葛藤を上野千鶴子氏と高口光子(正しくははしご高)氏が語る。本稿は上野千鶴子・高口光子著『「おひとりさまの老後」が危ない! 介護の転換期に立ち向かう』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『寝たきりにしない、身体拘束しない施設につきつけられる厳しい現実  高口 とにかく、望まれたニーズには応える。選ばない、断らない、見届けるというのが私が立ち上げに関わった老健(介護老人保健施設)のテーマでした。具体的に言うと、どんな重度の人でも寝たきりにしない、それまでの生活習慣を大事にする、持てる力を活かす、そして身体拘束はしないということでした。 こういう方針を明確に出したんですが、やっぱりつきつけられるわけですよ。「身体拘束しなかったら立ち上がりますよ、歩き出しますよ、転びますよ」って。「痛い思いするのはお年寄りですよ、それでいいんですか、高口さん」と。「高口さんはお年寄りのことばっかり考えているけど、職員はどうなるんですか」とか。 上野 介護職があなたにそう言うの? 高口 そう言ってくるのは、ほかの介護施設を経験してきた職員たちですね。開設1年目のとき、そういうことがどんどん出てきたんですよね。 上野 なるほど。どれも言いそうなことばかりね。 高口 鼻に入れているチューブを取ってしまうムラカミさんというおじいさんが、ミトンをつけて入居してきました。ミトンっていうのは大きな手袋のことで、認知症のある人が点滴や胃ろうのチューブを抜いたり、自分でおむつを取ったり便をさわったりしないように、両手につけて行動を抑制するためのものです。 この方が入居してきたとき、職員が家族に「ミトンは外しますね。うちは介護施設だから身体拘束できないんです。チューブも外してできるだけ口から食べましょう」と言って、ミトンを外したんです。そうしたら、ムラカミさんの妻が怒鳴り込んできました。 ムラカミさんは病院に運ばれるたびに医師から、このままだったら餓死しますよって言われて、妻は「ごめんなさい、ごめんなさい」って言いながらチューブを入れたって言うんですね。 悩んで悩んで入れたチューブなのに、この老健に来た途端に「外しますから」と言われて「あんたたちは何がしたいんや!」ってものすごく怒って来られたのです』、「介護」の「理想」と「現実」のギャップは極めて大きいようだ。
・『「縛ってちょうだい」 介護職員に懇願する家族  施設がスタートするとき、私は研修で、この施設ではチューブではなくて口から食べることと身体拘束は一切しないことを話して、口から食べることがどれだけ大事なことであるかとか、身体拘束がどれだけお年寄りにとってマイナスになるかということを職員に説明したつもりでした。 でも職員は「うちは身体拘束できない」「うちはチューブじゃなくて口から食べるから」と結論だけをぽんと家族に押しつけるように言ったわけなんです。ムラカミさんの妻は「行った先々で翻弄されるのはもう嫌だ」と言って、お願いだから縛ってくれと頭を下げるわけです。 私は「職員の言い方が失礼だったかもしれないけれど、うちは身体拘束はしません。身体拘束をしたらもう介護じゃなくなるからです」と言って、頭を下げました。妻は最後には「もうええ、あんたには頼まん」と言って、職員ひとりひとりに「縛ってちょうだい、ミトンをつけてちょうだい」って頭下げるんです。 すると職員から、「家族が縛ってくれって言っているんですよ。縛らなくていいんですか」「家族が縛ってくれと言うのを縛らないで事故があったら、訴えられますよ。職員は辞めますよ」という意見が出てきました。追いつめられた私は一瞬、たかがミトンじゃないかって思ったんです。 「一度ミトンをつけて、徐々に外していってもいいんじゃないか」と黒い光子さんが言う。白い光子さんは、「1回でも身体拘束したらもう駄目だよ。それはもう介護じゃないし、それはあんたのやりたい介護に反する。ここが踏ん張りどころだよ」と言う。 とうとう私はぶれて「みんなで話し合って決めて」って言ってしまったんです。ずるいですよね。 職員は話し合って、職員がムラカミさんの部屋にいられるときはミトンを外す。だけど、職員がついていられないときにはミトンをつけるという結論を私のもとへ持ってきました。私はそれを聞いて「もうちょっとちゃんと考えなさい」と言って返しました。 その日の日誌に、新人たちが「みんなで話し合って、ムラカミさんのケア対応を考えたのに、高口さんが言うこと聞かないから、もう一度みんなで話し合うことになりました」と書いていました(笑)。) そうしたら、一緒に立ち上げた栄養士が私のところに来て、「今、ムラカミさんのところで初めてミトンを見た」と言ってきました。とうとう家族がミトンをつけたんですね。「気持ち悪いね、あれ。私、生まれて初めてミトンをつけた人を見た、もうイヤだ」と言って泣いたんですよ。やりたい介護ができる施設を造ろうって一緒に立ち上げた仲間が目の前で泣いている、この状況は何なんだろうって思った』、「とうとう家族がミトンをつけたんですね。「気持ち悪いね、あれ。私、生まれて初めてミトンをつけた人を見た、もうイヤだ」と言って泣いたんですよ。やりたい介護ができる施設を造ろうって一緒に立ち上げた仲間が目の前で泣いている、この状況は何なんだろうって思った」、前述の理想と現実のギャップはとても大きいようだ。
・『トップが方針を決めて職員同士の対立を生ませる重要性  上野 施設でもそんな簡単にミトンや拘束ってやるんだ。 高口 私は、緊急会議を招集して「私はやっぱり縛りたくない。この施設は縛りません」と言いました。会議は真っ二つに分かれます。一つは、縛るしかないんじゃないかという意見です。縛らないと、チューブを抜いて介護はもっと大変になる。「人が辞める→大きい事故が起きる→訴えられる」といった主張をしてきます。 一方、「でも、縛りたくないです」って小さな声で言う人たちもいる。「だって、イヤじゃないですか、笑わなくなっちゃうじゃないですか」とおそるおそる言うわけですよ。 このときに、小さい声でおそるおそる言っているのは「理想」なんですよね。理想というのは、何と小さく弱々しいのかと。事故が起きるよというのは、「現実」なんです。現実というのは声が大きくて、迫力があって、強い。 だけど、職員の意見がこんなふうにしっかりぶつかれるのは、方針がしっかり出ているからなんです。現実と理想が職員の口から出てきて、対立という形で明らかになって話し合いが始まる。 トップが方針を示さなければ対立も生まれないので、意見も出ないし話し合いにもならない。トップの方針がいいかげんだと話し合いも成立しないんだということが、このときにわかりましたね。トップが方針を言い切って、対立を生むということは大事なんだというのを教わりました。 「だって、縛ったらムラカミさんかわいそうじゃない」って小さい声で言っていた職員が、「事故が起きたらどうする!」とがんがん言っている人たちに、「じゃ、先輩たちは縛りたいんですか?」って尋ねたんです。 そうしたら、「縛らずに済むなら縛りたくないわよ、だけどね」って、また人数が少ないとか事故とか同じことを繰り返す。そうしたら、その子が「何だ、みんな同じじゃん」って言ったんです。 上野 感動的な場面ね。シンプルな直球が効いたんだ』、「小さい声でおそるおそる言っているのは「理想」なんですよね。理想というのは、何と小さく弱々しいのかと。事故が起きるよというのは、「現実」なんです。現実というのは声が大きくて、迫力があって、強い。 だけど、職員の意見がこんなふうにしっかりぶつかれるのは、方針がしっかり出ているからなんです。現実と理想が職員の口から出てきて、対立という形で明らかになって話し合いが始まる・・・トップが方針を言い切って、対立を生むということは大事なんだというのを教わりました・・・「事故が起きたらどうする!」とがんがん言っている人たちに、「じゃ、先輩たちは縛りたいんですか?」って尋ねたんです。 そうしたら、「縛らずに済むなら縛りたくないわよ、だけどね」って、また人数が少ないとか事故とか同じことを繰り返す。そうしたら、その子が「何だ、みんな同じじゃん」って言ったんです」、なるほど。

第三に、10月28日付け東洋経済オンライン「日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/835067
・『現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。 医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか? 日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。 書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々——。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。 『武士の介護休暇』より、幕末期の武士が介護記録を書き残した日記について、一部抜粋、再構成してお届けします』、興味深そうだ。
・『江戸時代の武士と介護  江戸時代の武士はどのように老親の介護を行っていたのでしょうか。 当時は現代のような介護保険体制が整っていたわけではなく、公的な介護保険サービスも存在しません。介護をする場合、基本的に家族など近くにいる人が担う必要がありました。武士の中には、日々の介護を詳しく記録している人がいて、その内容から当時の介護の様子が見えてきます。) ここでいう「武士」とは浪人や自称などではなく、幕府や藩に仕えていた旗本・御家人や藩士を指します。こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました。 ただ「介護」となるとなかなか大変な面もあったようです。武士の介護に関する史料・既存研究をひも解きながら、その実像についてご紹介しましょう』、「幕府や藩に仕えていた旗本・御家人や藩士を指します。こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました。 ただ「介護」となるとなかなか大変な面もあったようです。武士の介護に関する史料・既存研究をひも解きながら、その実像についてご紹介しましょう』、「こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました」、なるほど。
・『日記に残された「武士の介護」  武士の介護を見る上で、史料がしっかりと残り、既存研究も行われている事例として、幕末期における沼津藩(現在の静岡県沼津市周辺)藩士の金沢八郎に対する介護が挙げられます。 金沢八郎の妻の名前は不明で、息子にあたる人物として金沢久三郎、黒沢弥兵衛、徳田貢、水野重教などの名が残っています。名字が違うことからも分かる通り、弥兵衛、貢、重教は他家に養子に行っており、金沢八郎の介護に関する記録は、息子の一人である水野重教が日記に残しています。 この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年(文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録され、幕末維新における沼津藩の動きを知る上で貴重な史料です。その一方、父である金沢八郎が病気で倒れ、介護をし、亡くなるまでの様子について事細かに記されてもいます。そこから当時の武士の介護を読み解けるわけです。) 史料は日記形式であり毎日を逐一取り上げると大変なので、いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう』、「この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年(文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録・・・いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう」、なるほど。
・『1866年(慶応2年)に起こった異変  まずは日本史上で「薩長同盟が結ばれた年」として知られる1866年(慶応2年)4月23日の出来事に焦点を当てます。この日、水野重教の実父である金沢八郎の身に異変が起こります。このとき八郎は江戸に出府していて、「八幡」に参詣してから家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると、 「言語御渋り諸状不宜旨也」(言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない) という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、 「是中風再發之徴候也」(これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である) と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のことで、現代でも言葉がうまくしゃべれない、体にしびれが出るといった症状はその前兆として知られています。) 八郎はその後少しずつ回復しますが、同年の秋頃からまた体調が悪くなったようです。その後八郎は藩から暇(いとま)をもらい、国元で療養生活を送りましたが、年が明けて1867年(慶応3年)の正月4日頃から難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より、「年来中風御病之上、御老体旧臘より咽喉御悩、彼是ニて御疲労強所へ之吃逆ニて、種々之薬剤奏功無之上は、何分此度ハ心許なき」(年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです) と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます。金沢家の跡継ぎである久三郎は藩命で江戸表に滞在中であり、すぐに国元から飛脚で手紙が送られています』、「家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると・・・言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、 ・・・これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である) と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のこと・・・難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より・・・何分此度ハ心許なき」(年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです) と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます」、なるほど。
・『介護休暇を願い出た武士  医師から打つ手なしといわれた八郎に対し、久三郎が江戸にいたため、重教は自ら看取りケアを行おうと決意します。宣告を受けた翌日の8日の日記には、 「御容体弥不宜ニ付、自分今日看病引相願候処、即願済之事」(〔実父の〕ご容体が良くないので、私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった) とあります。父の介護をしたいので「看病引」、つまり介護のための休みが欲しいと願い出て、認められたわけです。翌9日には「後嗣えの御遺訓并自分・弥兵衛へ同断」とあり、医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません。) その後の重教の日記は、介護の内容が中心となります。八郎は容体が悪化するにつれてしゃっくりもひどくなったようで、重教は事細かに「吃逆發」「止」の記述を繰り返し、また八郎が人と会うときは「自分御背を御さすり罷在候事」(お背中をおさすり致しておりました)などのケアも行っていました』、「私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった) とあります・・・医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません」、なるほど。
・『排せつに関する記述が登場  また1月12日には、「殿様より実父君御不快御尋としてかすていら一折御頂戴被成候」とあり、介護生活の最中、殿様からカステラをもらったりしています。しゃっくりがひどかった八郎が食べられたかどうかは分かりませんが、殿様が家来の容体を心配することもあったようです。 1月13日からは、「朝五時前小水御通」や「暁九時両便御快通」など排せつに関する記述が登場し、この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます。その後、1月19日には勘定奉行をはじめ、藩士がぞくぞくと見舞いに駆けつけ、八郎は「今世之御暇乞」(今生のお別れ)をしたり、心得・教戒などを伝えたりします。 この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には「依之今日御両便共ニ御床上ニて自分・弥兵衛・久三郎御世話申上」とあり、重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。) そして2月3日の日記には、「先日以来御薬ハ不被召上旨被仰聞、御決死之事ニ候得は……」とあり、先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました』、「この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます・・・この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には・・・重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。) そして2月3日の日記には・・・先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました」、「薬を飲もうとせず、死を決したとの記述」、やはり最後の時は自分で分かるようだ。
・『現代でいうところの「介護休業」も  以上少し長くなりましたが、実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています。近世期の武士は文章のうまい人が多く、筆まめな人が詳細な介護記録をつけると、現代のプロの介護士が作成するような具体性があります。 なお、重教の兄嫁は舅(しゅうと)の八郎と不仲だったようで、ケアには非協力的だったようです。八郎の容体が悪化した際、兄達は江戸にいたため、結果として沼津にいた重教がケアを担い、兄達が江戸から戻った後も八郎の介護・看取りケアの中心役となっています。 なおケアを行う際、重教や兄弟が手ずから介護をしていたとは思いますが、家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます。 またこの八郎のケースで一つ注目したいのは、重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています』、「実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています・・・家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます・・・重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています」、「藩」と「武士」の関係は、現代の「企業」と「従業員」の関係よりはるかに濃密だったので、「介護休暇」の「許可」も驚くに値しない。むしろ現代の方が「許可」を取るのは大変なのかも知れない。
タグ:介護 (その10)(神奈川のケアマネが東京に大移動する理由 訪問介護を「狙い撃ち」のマイナス報酬改定に業界大激怒!、「縛ってください」と懇願する家族「縛らないと人が辞める」と訴える職員…介護現場の厳しすぎる現実、日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた) ダイヤモンド・オンライン「神奈川のケアマネが東京に大移動する理由、訪問介護を「狙い撃ち」のマイナス報酬改定に業界大激怒!」 「厚労省が訪問介護を“狙い撃ち”した真の理由は何か」、何なのだろう。 「介護財政が厳しい昨今、めりはりある報酬設定が求められる中で、今回の改定では訪問介護に泣いてもらう選択をしたというのが、厚労省の言い分といったところである・・・長期的にみればいずれ供給過多になるといっても、今回の改定によって需要過多の状態は悪化すると原田氏は予測。しばらくは地域によって、要介護認定を受けていても在宅で介護サービスを受けるのが難しくなる所も出てくるかもしれないという」、なるほど。 「川崎市や横浜市などの東京都に隣接する市町村では、都内に介護従事者が大移動して不足する恐れがある。 今回の改定を機に国が在宅介護へのはしごを外していくのであれば、高齢者が最後まで住み慣れた地域で安心して暮らしていくことは、どんどん難しくなるのかもしれない』、「都内に介護従事者が大移動」はやむを得ないが、「高齢者が最後まで住み慣れた地域で安心して暮らしていくことは、どんどん難しくなる」のは、困ったことだ。 ダイヤモンド・オンライン「社会学者の上野千鶴子氏と元気が出る介護研究所所長の 高口光子氏の対談「「縛ってください」と懇願する家族「縛らないと人が辞める」と訴える職員…介護現場の厳しすぎる現実」 上野千鶴子・高口光子著『「おひとりさまの老後」が危ない! 介護の転換期に立ち向かう』(集英社新書) 「介護」の「理想」と「現実」のギャップは極めて大きいようだ。 「とうとう家族がミトンをつけたんですね。「気持ち悪いね、あれ。私、生まれて初めてミトンをつけた人を見た、もうイヤだ」と言って泣いたんですよ。やりたい介護ができる施設を造ろうって一緒に立ち上げた仲間が目の前で泣いている、この状況は何なんだろうって思った」、前述の理想と現実のギャップはとても大きいようだ。 「小さい声でおそるおそる言っているのは「理想」なんですよね。理想というのは、何と小さく弱々しいのかと。事故が起きるよというのは、「現実」なんです。現実というのは声が大きくて、迫力があって、強い。 だけど、職員の意見がこんなふうにしっかりぶつかれるのは、方針がしっかり出ているからなんです。現実と理想が職員の口から出てきて、対立という形で明らかになって話し合いが始まる・・・トップが方針を言い切って、対立を生むということは大事なんだというのを教わりました・・・ 「事故が起きたらどうする!」とがんがん言っている人たちに、「じゃ、先輩たちは縛りたいんですか?」って尋ねたんです。 そうしたら、「縛らずに済むなら縛りたくないわよ、だけどね」って、また人数が少ないとか事故とか同じことを繰り返す。そうしたら、その子が「何だ、みんな同じじゃん」って言ったんです」、なるほど。 東洋経済オンライン「日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた」 『武士の介護休暇』 「幕府や藩に仕えていた旗本・御家人や藩士を指します。こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました。 ただ「介護」となるとなかなか大変な面もあったようです。武士の介護に関する史料・既存研究をひも解きながら、その実像についてご紹介しましょう』、「こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべ て自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました」、なるほど。 「この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年(文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録・・・いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう」、なるほど。 「家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると・・・言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、 ・・・これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である) と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のこと・・・難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。 7日には医師より・・・何分此度ハ心許なき」(年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです) と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます」、なるほど。 「私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった) とあります・・・医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません」、なるほど。 「この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます・・・この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には・・・重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。) そして2月3日の日記には・・・先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました」、 「薬を飲もうとせず、死を決したとの記述」、やはり最後の時は自分で分かるようだ。 「実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています・・・家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます・・・重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。 これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています」、「藩」と「武士」の関係は、現代の「企業」と「従業員」の関係よりはるかに濃密だったので、「介護休暇」の「許可」も驚くに値しない。むしろ現代の方が「許可」を取るのは大変なのかも知れない。
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