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歴史問題(その21)(チューリングの哲学3題:ナチス・ドイツを敗北に導いた「超天才」チューリングの波乱万丈な人生と不幸な「死の謎」、「大胆であれ」天才を生んだ華麗なる血脈と家訓…チューリング一族の歴史をたどる、両親から離れて育った「孤立」が育んだ思考とは? 超天才チューリングの幼少期) [社会]

歴史問題については、本年8月17日に取上げた。今日は、(その21)(チューリングの哲学3題:ナチス・ドイツを敗北に導いた「超天才」チューリングの波乱万丈な人生と不幸な「死の謎」、「大胆であれ」天才を生んだ華麗なる血脈と家訓…チューリング一族の歴史をたどる、両親から離れて育った「孤立」が育んだ思考とは? 超天才チューリングの幼少期)である。

先ずは、本年9月3日付け現代ビジネスが掲載した國學院大學教授の高橋 昌一郎氏による「ナチス・ドイツを敗北に導いた「超天才」チューリングの波乱万丈な人生と不幸な「死の謎」 連載「チューリングの哲学」第1回」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/136291
・『21世紀の現在も燦然と輝き続ける業績を遺した3人の「超天才」たち。クルト・ゲーデル、ジョン・フォン・ノイマンに続き、アラン・チューリングの偉業と彼が辿った数奇な運命を、國學院大學教授・高橋昌一郎氏が解説していく。連載初回となる今回は、3人の「超天才」について、それぞれの人生の全体像を俯瞰するとともに、彼らの接点を紹介する』、興味深そうだ。。
・『天才の光と影  今春、『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』(PHP研究所)という単行本を上梓した。この拙著では、とくに私が独特の「狂気」を感得したノーベル賞受賞者23人を厳選して、彼らの波乱万丈で数奇な人生を辿っている。 一般に、ノーベル賞を受賞するほどの研究を成し遂げた「天才」は、すばらしい「人格者」でもあると思われがちだが、実際には必ずしもそうではない。 フィリップ・レーナルト(1905年・物理学賞)のようにヒトラーの写真を誇らしげに書斎に飾っていた「ナチス崇拝者」もいれば、「妻と愛人と愛人の子ども」と一緒に暮したエルヴィン・シュレーディンガー(1933年・物理学賞)のような「一夫多妻主義者」もいる。「光るアライグマ(実はエイリアン)」と会話を交わしたという「薬物中毒」のキャリー・マリス(1933年・化学賞)や、「アルコール依存症」で売春街から大学に通ったヴォルフガング・パウリ(1945年・物理学賞)、「超越瞑想」に「オカルト傾倒」して周囲を唖然とさせたブライアン・ジョセフソン(1973年・物理学賞)のような天才も存在する。 どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。物理学界の2大巨頭であるアルベルト・アインシュタイン(1921年・物理学賞)とニールス・ボーア(1922年・物理学賞)や、化学界の巨頭ライナス・ポーリング(1954年・化学賞/1962年・平和賞)でさえ、天才と狂気の紙一重の精神を抱えていた。読者には、ぜひ通常では見られない彼らの特異な「人生観」を読み取っていただけたら幸いである。 さて、『天才の光と影』に登場するノーベル賞受賞者たちを超えて、21世紀の現代社会に計り知れない影響を与え続けている「超天才」が3人存在する。その3人とは、ジョン・フォン・ノイマン、クルト・ゲーデル、アラン・チューリングである。 この3人は、20世紀のほぼ同じ時代に生きて、各々が独自のアプローチで人間理性の限界に迫り、まるで螺旋状に絡まるように人生の幾つかの重要な接点でお互いに何度か交差している。 彼らの代表的な講演・論文については拙著『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)に訳出してあるので、ご参照いただけたら幸いである』、「『天才の光と影』に登場するノーベル賞受賞者たちを超えて、21世紀の現代社会に計り知れない影響を与え続けている「超天才」が3人存在する。その3人とは、ジョン・フォン・ノイマン、クルト・ゲーデル、アラン・チューリングである。 この3人は、20世紀のほぼ同じ時代に生きて、各々が独自のアプローチで人間理性の限界に迫り、まるで螺旋状に絡まるように人生の幾つかの重要な接点でお互いに何度か交差している」、なるほど。
・『「人間のフリをした悪魔」フォン・ノイマン  ノイマンは、1903年12月28日にハンガリーのブダペストで生まれた。裕福なユダヤ家系の出身である。 ノイマンと少年時代を共に過ごしたノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーは、「なぜ当時のブダペストに多くの天才が出現したのか」と問われて、「その質問は的外れだ。なぜなら天才と呼べるのはただ一人、フォン・ノイマンだけだからね」と答えている。 後にアメリカのロスアラモス研究所でノイマンと一緒に原子爆弾の爆縮法を研究したノーベル物理学賞受賞者ハンス・ベーテは、「ノイマンの頭脳は常軌を逸している。彼は人間よりも進化した生物ではないか」と本気で考えていた。 もしノイマンがいなければ、原子爆弾は1945年に完成しなかったかもしれず、投下地点は彼が戦後処理を見越して猛反対した東京に決定していたかもしれない。また、現代のパソコンやスマートフォンや天気予報は存在しないかもしれない。 ノイマンは、彼自身が推進した核実験で何度も放射線を浴びたため骨髄癌を発症し、1957年に逝去した。わずか53年あまりの短い生涯の間に、論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学という極めて幅広い分野に関する150編の先駆的な論文を発表した。 彼の死後、生前の論文を集めて出版された『フォン・ノイマン著作集』は、全6巻で合計3,689ページに及ぶ。第1巻「論理学・集合論・量子力学」、第2巻「作用素・エルゴード理論・群における概周期関数」、第3巻「作用素環論」、第4巻「連続幾何学とその他の話題」、第5巻「コンピュータ設計・オートメタ理論と数値解析」、第6巻「ゲーム理論・宇宙物理学・流体力学・気象学」というタイトルを眺めるだけでも、彼がどれほど多彩な専門分野に影響を及ぼしたのかがわかるだろう。 天才だけが集まるプリンストン高等研究所の教授陣の中でも、さらに桁違いの超人的な能力を示したノイマンは、「人間のフリをした悪魔」と呼ばれた。拙著『フォン・ノイマンの哲学』(講談社現代新書)では、その綽名を副題にして、ノイマンの生涯と思想を探究した。 そこに浮かび上がってきたのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、この世界には普遍的な道徳や責任など存在しないという一種の「虚無主義」である。 第2次世界大戦後、ノイマンは、ソ連を先制核攻撃すべきだとハリー・トルーマン大統領に進言した。彼は「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張し、「明日爆撃すると言うなら、なぜ今日ではないのかと私は言いたい。今日の5時に攻撃すると言うなら、なぜ1時にしないのかと私は言いたい!」と叫んだ。この発言によって、彼は「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった。 それにしても、驚くべきことに、プログラム内臓方式の「ノイマン型コンピュータ」、量子論の数学的基礎に登場する「ノイマン環」、ゲーム理論における「ノイマンの定理」など、20世紀に進展した科学理論のどの研究分野を遡っても、いずれどこかで必ず何らかの先駆者として「ノイマン」の付いた業績に遭遇する。 ちなみにネットで検索すると、「ノイマン集合」「ノイマン・モデル」「ノイマン・パラドックス」など、彼の名前が冠された専門用語を50種類以上発見できる。ノイマンは、明らかにノーベル物理学賞と経済学賞を受賞するだけの業績を挙げていたが、早世したため、その機会はなかった。 そのノイマンが、「20世紀最高の知性」と呼ばれるたびに、「それは自分ではなくゲーデルだ」と返答した』、「もしノイマンがいなければ、原子爆弾は1945年に完成しなかったかもしれず、投下地点は彼が戦後処理を見越して猛反対した東京に決定していたかもしれない。また、現代のパソコンやスマートフォンや天気予報は存在しないかもしれない。 ノイマンは、彼自身が推進した核実験で何度も放射線を浴びたため骨髄癌を発症し、1957年に逝去した。わずか53年あまりの短い生涯の間に、論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学という極めて幅広い分野に関する150編の先駆的な論文を発表した・・・第2次世界大戦後、ノイマンは、ソ連を先制核攻撃すべきだとハリー・トルーマン大統領に進言した。彼は「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張・・・「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった・・・プログラム内臓方式の「ノイマン型コンピュータ」、量子論の数学的基礎に登場する「ノイマン環」、ゲーム理論における「ノイマンの定理」など、20世紀に進展した科学理論のどの研究分野を遡っても、いずれどこかで必ず何らかの先駆者として「ノイマン」の付いた業績に遭遇する・・・ノイマンは、明らかにノーベル物理学賞と経済学賞を受賞するだけの業績を挙げていたが、早世したため、その機会はなかった。 そのノイマンが、「20世紀最高の知性」と呼ばれるたびに、「それは自分ではなくゲーデルだ」と返答した」、なるほど。
・『「アリストテレス以来の天才論理学者」ゲーデル  ゲーデルは、1906年4月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のブルンで生まれた。勤勉なドイツ家系の出身である。 1930年、ゲーデルが24歳の若さで「不完全性定理」を発表したとき、その証明の内容を誰よりも早く理解し、その独創性と重要性を見抜いたのが、ノイマンだった。彼はゲーデルの定理を「時間と空間をはるかに越えても見渡せる不滅のランドマーク」だと賞賛した。 この定理は、当時ノイマンが推進していた「ヒルベルト・プログラム」が「達成不可能」であることを論理的に証明している。生まれてから一度も人に先を越されたことがないノイマンにとって、この事実に自分が先に気付かなかったことは、大きなショックだったに違いない。その後、ノイマンは、この分野の第一人者の地位をゲーデルに譲り、二度と数学基礎論に関する論文を発表しなかった。 ゲーデルは、すでにその前年にウィーン大学に提出した博士論文において、古典的論理の完結性を表す「完全性定理」を証明している。この定理は、アリストテレスの三段論法に始まる推論規則が完全に形式体系化されることを示すもので、いわば古典論理学を完成させた偉業といえる。ゲーデルが「アリストテレス以来の天才論理学者」と呼ばれる由縁である。 さらにゲーデルは「選択公理と一般連続体仮説の無矛盾性」を証明し、その後の公理的集合論の発展に大きな影響を及ぼした。これらの抜群の業績によって、ゲーデルは順調にウィーン大学講師に就任したが、その直後にナチス・ドイツがオーストリアを占領して、ドイツ国防軍司令部から「守備隊勤務適合」の通知が届いた。ゲーデルは、いつ彼の嫌悪するナチスの軍隊から招集されるかわからない状況に陥ったのである。彼の持病の神経衰弱と鬱病は一挙に悪化し、ゲーデルは自殺願望を抱くようになった。 そのゲーデルを助けたのが、ノイマンだった。当時のノイマンは、合衆国の原水爆開発とコンピュータ開発の中枢で重責を負い、プリンストンとワシントンを分刻みのスケジュールで往復しながら、政府や軍の最高レベルの関係者と対等に議論できる立場にあった。彼は「ゲーデルをヨーロッパの瓦礫の中から救い出すことほど重要なことはない」とアメリカ国務省の上層部を説得した。 その結果、ゲーデルは「ありとあらゆる手段」によってウィーンから救出され、ノイマンのいたプリンストン高等研究所に招聘された。 そこでゲーデルと親友になったのが、物理学者アルベルト・アインシュタインである。晩年のアインシュタインは、「私が研究所に行くのは、ゲーデルと散歩する恩恵に浴するためだ」とまで述べている。2人は、毎日のように一緒に散歩をしながら一般相対性理論について議論を重ねた。その結果、ゲーデルは、アインシュタインの重力場方程式に「回転宇宙論解」と呼ばれる新たな解を発見した。 ゲーデルの生涯の頂点は、1951年に訪れた。この年にゲーデルは、第1回アインシュタイン賞を受賞し、アメリカ数学会最高の栄誉である「ギブス講演」を行った。この講演でゲーデルは「イギリスの数学者チューリングが見出した有限の手続きの概念を有限個の部分から構成される機械の概念に還元する方法」に触れ、その方法が導く「哲学的帰結は大いに注目されるべきである」と賞賛している。 ゲーデルは、この講演を最後に「人格障害による栄養失調および飢餓衰弱」により71歳で生涯を閉じるまで、26年間にわたる隠遁生活をおくった。この時期のゲーデルが何を研究しているのかは当時から一種の謎だったが、残された遺稿から、実はゲーデルは「生命と機械」に関する哲学的議論を追究していたことがわかっている。その詳細については、拙著『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書)をご参照いただきたい』、「当時のノイマンは、合衆国の原水爆開発とコンピュータ開発の中枢で重責を負い、プリンストンとワシントンを分刻みのスケジュールで往復しながら、政府や軍の最高レベルの関係者と対等に議論できる立場にあった。彼は「ゲーデルをヨーロッパの瓦礫の中から救い出すことほど重要なことはない」とアメリカ国務省の上層部を説得した。 その結果、ゲーデルは「ありとあらゆる手段」によってウィーンから救出され、ノイマンのいたプリンストン高等研究所に招聘された。 そこでゲーデルと親友になったのが、物理学者アルベルト・アインシュタインである。晩年のアインシュタインは、「私が研究所に行くのは、ゲーデルと散歩する恩恵に浴するためだ」とまで述べている。2人は、毎日のように一緒に散歩をしながら一般相対性理論について議論を重ねた」、なるほど。
・『エニグマ暗号を解読した「超天才」チューリング  さて、すでに新書化したノイマンとゲーデルに続き、本連載では3人目の「超天才」チューリングがどのような生涯をおくり、いかなる思想に到達し、21世紀に生きる私たちに何を遺したのか、その意味を探究するつもりである。 チューリングは、1912年6月23日、ロンドンで生まれた。彼の父親は、スコットランド系貴族の家系出身で、大英帝国政府代表部の高等文官としてインド帝国に赴任していた。そこで結婚した彼は、息子をインドではなくイギリスで育てる方針だったため、チューリングは幼少期からイギリス南部の退役軍人の家庭で育てられた。そこで彼は反抗し、生意気でだらしない性格になった。 チューリングの天賦の才能が開花したのは、彼が15歳のとき、パブリック・スクールで1歳年上のクリストファー・マルコムと出会ったことがきっかけだった。 眉目秀麗なマルコムは、どの科目も全校トップの秀才で、とくに数学と科学では抜群の能力を誇っていた。この「初恋の相手」に気に入られようとチューリングは猛勉強を始め、ついにマルコムと同じようにケンブリッジ大学への進学を目指すようになったのである。 偏屈な変わり者で、誰からも相手にされなかったチューリングに、マルコムは音楽やビリヤードの楽しさを教え、一緒に化学実験や天体観測を行った。ところが、ケンブリッジ大学から合格通知が届いた直後、マルコムは結核のため倒れ、数週間後に急逝してしまった。 失意のどん底に陥ったチューリングは、自殺しようとするが、マルコムの両親から励まされて、マルコムのために生きることを決意する。 1936年、チューリングは、ゲーデルが不完全性定理を証明したのと同じ24歳の若さで「計算可能性とその決定問題への応用」を発表した。この画期的な論文において、彼は、あらゆる命令を一定の規則に基づく記号列に置き換えて計算する理想機械「チューリング・マシン」を提起している。ここでチューリングの用いた概念が、あらゆる情報をデジタル処理する現在のコンピュータに実現されているわけである。 この論文を発表した直後、チューリングはケンブリッジ大学の奨学金を得てアメリカのプリンストン大学大学院に留学した。 チューリングは2年間近くプリンストンに滞在したため、この街にノイマンとゲーデルとチューリングの3人の「超天才」が一堂に集まったわけだが、不思議なことに、チューリングは一度もゲーデルと会った形跡がない。 一方、チューリングと何度も面会して彼の能力を高く評価したノイマンは、高等研究所で彼の助手にならないかと誘ったが、チューリングは帰国してイギリスの軍に志願する道を選んだ。 ロンドン郊外にあるイギリス情報局秘密情報部の暗号機関ブレッチリー・パークに赴任したチューリングは、難攻不落と呼ばれるナチス・ドイツ軍の暗号機「エニグマ」の解読に取り掛かった。 この暗号機は、アルファベットに対応する26個の電気接点が並んだ円盤状のローターが何枚か組み合わされただけの比較的単純な構造であるにもかかわらず、ローター3枚だけで毎秒1,000通りを調べても30億年かかるほどの天文学的な配置の組み合わせを生じさせる。 したがって、暗号の送り手と受け手が、ローターが同じように初期設定された同一のエニグマを持っていなければ、解読は不可能だとみなされていた。 これに対して、チューリングは、36機のエニグマの動作を同時にシミュレートできる暗号解読機「ボンブ」を開発し、ローターの配置可能性を個別に探知する方法で、ついにその解読を成功させた! エニグマ暗号解読は、ナチス・ドイツを敗北に導いた最大の要因ともいわれるほどの功績である。つまり、チューリングは、連合国軍を勝利に導いた「英雄」であり、1945年にはチャーチル首相から「大英帝国勲章」を授与されている。ただし、この受勲は1970年代まで公表されず、関係者の口外も固く禁じられたため、チューリングの偉業は、母親でさえ知らなかった』、「暗号の送り手と受け手が、ローターが同じように初期設定された同一のエニグマを持っていなければ、解読は不可能だとみなされていた。 これに対して、チューリングは、36機のエニグマの動作を同時にシミュレートできる暗号解読機「ボンブ」を開発し、ローターの配置可能性を個別に探知する方法で、ついにその解読を成功させた! エニグマ暗号解読は、ナチス・ドイツを敗北に導いた最大の要因ともいわれるほどの功績である。つまり、チューリングは、連合国軍を勝利に導いた「英雄」であり、1945年にはチャーチル首相から「大英帝国勲章」を授与されている」、なるほど。
・『チューリングの死と名誉回復  戦後、チューリングはマンチェスター大学で新型コンピュータを開発し、世界で最初のチェス・プログラムを書いている。1950年、37歳のチューリングは「機械は考えることができるか」という問題を徹底的に追究した記念碑的論文「計算機械と知性」を発表した。 彼は、この問題を単なる哲学的な議論に陥らせないために「チューリング・テスト」を生み出し、その概念は今も「機械の思考」を測る基準とみなされている。このように、チューリングの驚くべき独創性は、「思考」や「計算」のような抽象概念を具体的に処理可能にする方法を発見する際に発揮された。 彼の研究は、機械から生命の形態形成へ向かい、反応拡散系において自発的に「チューリング・パターン」と呼ばれる空間的パターンが生じることを理論的に示した。その後、このパターンは実際の多彩な生物の体表面模様において実証されている。 チューリングの研究活動は大いに充実していたが、少年時代から同性愛者であることを自覚していたチューリングにとって、私生活での安定は望めなかった。 実は、戦時中、彼が同性愛者であることを受け入れたうえで、それでも彼を愛して結婚を承諾した女性がいたのだが、結果的にチューリング自ら婚約を破棄したという悲愴な出来事もあった。 1952年、39歳のチューリングは、映画館で知り合った19歳の青年を自宅に招いて宿泊させた。その数週間後、チューリングの自宅に泥棒が入り、警察の捜査の結果、犯人はその青年と彼のゲイ仲間であることがわかった。 チューリングは、窃盗の被害者であったにもかかわらず、裁判の過程で同性愛者であることが公開されてしまった。 当時のイギリスで同性愛は「違法」であり、彼に下された判決は、留置場に収監されるか、性欲を抑制するために定期的に化学的去勢療法を受けるか、どちらかを選ぶという刑罰だった。チューリングは化学的去勢療法を選び、定期的にテストステロン値を下げる女性ホルモンを投与されることになった。 この事件によって、彼はイギリス政府に関連する研究機関への立ち入りが禁止された。王立協会フェローでもある大学教授のスキャンダルは、新聞に大きく報道された。 それから2年後、1954年6月8日午後5時頃、41歳のチューリングが死亡している姿をメイドのクレイトン夫人が発見した。ベッドの脇には、齧りかけのリンゴがあった。 検死報告書で明らかになったのは、彼の肺や胃から「強いアーモンドの香りがする青酸化合物」が検出されたということで、そこから青酸化合物を塗ったリンゴを齧った「服毒自殺」であると結論付けられている。 しかし、駆け付けた母親サラは、チューリングが自殺するはずはないと主張した。まず、これまで何でも報告していたサラに遺言がないのがおかしい。また、寝る前にリンゴを齧るのは、以前からのチューリングの習慣だった。 クレイトン夫人によれば、7日夜のチューリングは上機嫌で彼女の作った夕食を食べている。調べてみると、チューリングは、6月9日に数学者バーナード・リチャーズと面会の約束があり、大学の研究室に残されていた予定表には、翌週以降の予定も多く書き込まれていた。 チューリングの部屋には、彼の趣味である化学実験道具があった。天井の電燈には変圧器が取り付けられ、電線が蒸発皿の電極に繋げられ、その皿には青酸化合物で生じた泡が付着していた。彼は、この装置でスプーンを金メッキしていたのである。 物事に頓着しないチューリングは、青酸化合物の結晶をジャム瓶に入れて保存していた。つまり彼は、電気分解をしているうちに青酸ガスを吸い込み過ぎたか、あるいは間違って結晶を飲み込んでしまったため、「事故死」に違いないというのが、サラの主張である。 この主張に対しては、チューリングがサラを悲しませないため、あえて遺書を残さず、事故に見せかけて自殺したという見解もある。 さらに小説じみた話になるのだが、私は、実はチューリングはイギリスの諜報機関に抹殺されたのではないかと考えている。その理由と背景の事情については、本連載の最後で種明かしをするつもりである。 いずれにしても、チューリングの死後、彼の「同性愛」に与えられた屈辱的な「処罰」に対して大きな批判が巻き起こった。彼の死から55年が過ぎた2009年、イギリスのゴードン・ブラウン首相は、チューリングに対する「処罰が完全に不当であったことを認め、ここに深く遺憾の意を表明する」とイギリス政府として公式に「謝罪」を表明した。 チューリングの生誕109周年を迎えた2021年には、イギリスに新「50ポンド紙幣」が誕生した。表にエリザベス女王、裏にチューリングの肖像がある』、「チューリングは、窃盗の被害者であったにもかかわらず、裁判の過程で同性愛者であることが公開されてしまった。 当時のイギリスで同性愛は「違法」であり、彼に下された判決は、留置場に収監されるか、性欲を抑制するために定期的に化学的去勢療法を受けるか、どちらかを選ぶという刑罰だった。チューリングは化学的去勢療法を選び、定期的にテストステロン値を下げる女性ホルモンを投与されることになった。 この事件によって、彼はイギリス政府に関連する研究機関への立ち入りが禁止された。王立協会フェローでもある大学教授のスキャンダルは、新聞に大きく報道された。 それから2年後、1954年6月8日午後5時頃、41歳のチューリングが死亡している姿をメイドのクレイトン夫人が発見した。ベッドの脇には、齧りかけのリンゴがあった。 検死報告書で明らかになったのは、彼の肺や胃から「強いアーモンドの香りがする青酸化合物」が検出されたということで、そこから青酸化合物を塗ったリンゴを齧った「服毒自殺」であると結論付けられている。 しかし、駆け付けた母親サラは、チューリングが自殺するはずはないと主張した。まず、これまで何でも報告していたサラに遺言がないのがおかしい。また、寝る前にリンゴを齧るのは、以前からのチューリングの習慣だった。 クレイトン夫人によれば、7日夜のチューリングは上機嫌で彼女の作った夕食を食べている。調べてみると、チューリングは、6月9日に数学者バーナード・リチャーズと面会の約束があり、大学の研究室に残されていた予定表には、翌週以降の予定も多く書き込まれていた。 チューリングの部屋には、彼の趣味である化学実験道具があった。天井の電燈には変圧器が取り付けられ、電線が蒸発皿の電極に繋げられ、その皿には青酸化合物で生じた泡が付着していた。彼は、この装置でスプーンを金メッキしていたのである。 物事に頓着しないチューリングは、青酸化合物の結晶をジャム瓶に入れて保存していた。つまり彼は、電気分解をしているうちに青酸ガスを吸い込み過ぎたか、あるいは間違って結晶を飲み込んでしまったため、「事故死」に違いないというのが、サラの主張である・・・彼の死から55年が過ぎた2009年、イギリスのゴードン・ブラウン首相は、チューリングに対する「処罰が完全に不当であったことを認め、ここに深く遺憾の意を表明する」とイギリス政府として公式に「謝罪」を表明した。 チューリングの生誕109周年を迎えた2021年には、イギリスに新「50ポンド紙幣」が誕生した。表にエリザベス女王、裏にチューリングの肖像がある」、なるほど。

次に、10月1日付け現代ビジネスが掲載した高橋 昌一郎氏による「「大胆であれ」天才を生んだ華麗なる血脈と家訓…チューリング一族の歴史をたどる 連載「チューリングの哲学」第2回」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/138190
・『・・・子孫に「大胆であれ」と命じた家訓  アラン・チューリングは、1912年6月23日、ロンドンのパディントン駅の北に位置するウォリントン・クレッセント2番地の産院で生まれた。この産院は、今では改築されて白亜の「ザ・コロネード・ホテル」となり、玄関にはチューリング生誕の「英国遺産」であることを記念する「ブルー・プラーク」が埋め込まれている。 彼の父方の家系は、スコットランドに移住したノルマン人である。その家系図は 1316 年生まれのウィリアム・チューリン(Turin)にまで遡る。ウィリアムは、スコットランド王ジェームズ6世から「騎士(knight)」に叙せられ、その際に姓の最後に「g」を付け加えて「チューリング(Turing)」と改姓した。 彼が定めたチューリング家の家訓は「運命の女神は、大胆に振る舞う者を助ける(ラテン語:Fortuna audentes Juvat)」である。この言葉は、チューリングの幾つかの英文伝記資料に登場するのだが、それ以上の説明がない。 そこで気になって調べてみたところ、紀元前70年に生まれた古代ローマ時代の詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マローの叙事詩『アエネーイス(ラテン語:Aeneis)』に登場する言葉であるらしいことがわかった。 『アエネーイス』は、ローマ建国の物語を歌う全12巻の壮大な叙事詩で、ラテン文学の傑作として知られる。主人公は、ホメロスの『イーリアス』に登場するトロイアの英雄アエネーイスで、トロイア陥落後に放浪した末、新天地イタリアに辿り着く。そこで、イタリアの王トゥルヌスと一騎打ちの勝負をすることになるのだが、まさにその勝負が決まりそうな場面で物語は終わる。 そのトゥルヌスが「運命の女神は、大胆に振る舞う者を助ける」と語るのだが、なぜウィリアムは主人公ではなく敵の言葉を選んでチューリング家の家訓としたのか。単純に子孫に「大胆であれ」と命じたかったのか、あるいは何か他に裏の意味があったのか、想像を膨らませると興味深い。 いずれにしても、初代チューリングから596年後に生まれた子孫アラン・チューリングが、「エニグマ」暗号を解読してナチス・ドイツを敗北に導き、コンピュータを発明して人類に大きな影響を及ぼした「大胆な振る舞い」を考えると、家訓は活かされたとみなすべきかもしれない。 ウィリアムは、アバディーンシャー州のフォヴェランを領地とした。その数世代後の子孫ジョン・チューリングは、1639年、イングランド王チャールズ1世から「準男爵(Baronet)」に叙せられた。 ところが、チャールズ1世は、ピューリタン革命により1649年にオリバー・クロムウェルら議会派から処刑される。国王に忠誠を尽くしたジョンは、今度はチャールズ2世を支援して戦うが、ウスターの戦いでクロムウェル軍に敗北した。その結果、ジョンはチューリング家が300年以上所有していた領地すべてを失ってしまった。 1660年には「王政復古」が成立し、ジョンは領地の賠償を願い出たが、もはや弱体化した王権下では、その願いは叶えられなかった。そこでチューリング一族は、スコットランドからイングランドに移住したらしい。 その数代後、1744年生まれのサー・ロバート・チューリングは医者になって東インドで大成功し、莫大な財産を築いて、スコットランドのバンフに引退して暮らした。彼の子孫はオランダに移住し、ロッテルダムのイギリス領事を歴任している』、「なぜウィリアムは主人公ではなく敵の言葉を選んでチューリング家の家訓としたのか。単純に子孫に「大胆であれ」と命じたかったのか、あるいは何か他に裏の意味があったのか、想像を膨らませると興味深い。 いずれにしても、初代チューリングから596年後に生まれた子孫アラン・チューリングが、「エニグマ」暗号を解読してナチス・ドイツを敗北に導き、コンピュータを発明して人類に大きな影響を及ぼした「大胆な振る舞い」を考えると、家訓は活かされたとみなすべきかもしれない」、なるほど。
・『数学に秀でた祖父、文系エリートの父  チューリングの祖父に当たるジョン・ロバート・チューリングは、1826年1月1日に生まれた。 ジョン・ロバートはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学した。彼は、成績優秀である一方で、睡眠中に起き上がって屋根の上を歩く「夢遊病」で知られる不思議な学生だったという。彼は1848年に「トライポス(Tripos)」と呼ばれる卒業試験を受けた。 はるか昔から続くケンブリッジ大学の「トライポス」とは「三脚椅子」のことで、学生たちが試験を受ける際に三脚椅子に座ったことから名付けられたという伝説がある。この試験の結果は公表され、成績優秀者は「ラングラー」と称されて特別扱いされた。 17世紀から19世紀に行なわれた「オールド・トライポス」は「上院試験」でもあり、成績優秀者は、文字通り政界や官界における将来の地位と栄誉を約束された。その意味で「トライポス」は、中国の「科挙」に類似した制度といえるだろう。 この伝統を引き継ぐ19世紀のケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの数学科は、とくに厳しい「数学トライポス」を課すことで知られた。受験者は、8日間に合計48時間にわたって16の分野に及ぶ200以上の難問を解かなければならない。 この試験が「受験生の精神を消耗させ、多大なダメージを与える」ことは、「進化論」を生んだチャールズ・ダーウィンや「整数論」で知られる数学者ゴッドフレイ・ハーディでさえ嘆いて書き残している。 ジョン・ロバートは、この難関の「数学トライポス」で11位の好成績を収め、「シニア・ラングラー」の称号を得た。ところが、なぜか彼は数学を活かす研究職に就かず、司祭となる道を選んだ。 1859年、ジョン・ロバートはトリニティ・カレッジ礼拝堂の司祭に就任した。1861年、35歳のジョン・ロバートは、女学校を卒業したばかりの19歳のファニー・モンタギュー・ボイドと結婚した。 夫妻は、よほど仲がよかったのか、10人の子どもを儲けている。その内2人は早世し、男子4人と女子4人の8人の子どもを育てた。司祭の報酬で大家族を養うことは大変だったはずだが、貧しくとも温かい家庭だったという。 大家族の次男に相当するジュリアス・チューリングは、1873年11月9日に生まれた。 彼が10歳になった1883年にジョン・ロバートが亡くなると、母親ファニーを支えたのは、長姉ジーンだった。ジーンはグラマースクールの教師となり、後には自ら学校を開学し、広大な領地を所有する貴族と結婚した。 ジーンの3人の妹は、学校教師あるいは社会奉仕者となり、生涯未婚で家族に尽くした。その最大の理由は、ヴィクトリア朝のイギリスで、チューリング家の4人の男子を立派に成長させるためだった。 結果的に、長男はインドで戦死したが、三男はジャーナリスト、四男は弁護士となって社会的成功を収めた。4人の男子の中でも最も家族に栄誉をもたらしたのが、チューリングの父親となる次男のジュリアスである』、「ジョン・ロバートは、女学校を卒業したばかりの19歳のファニー・モンタギュー・ボイドと結婚した。 夫妻は、よほど仲がよかったのか、10人の子どもを儲けている。その内2人は早世し、男子4人と女子4人の8人の子どもを育てた。司祭の報酬で大家族を養うことは大変だったはずだが、貧しくとも温かい家庭だったという。 大家族の次男に相当するジュリアス・チューリングは、1873年11月9日に生まれた。 彼が10歳になった1883年にジョン・ロバートが亡くなると、母親ファニーを支えたのは、長姉ジーンだった。ジーンはグラマースクールの教師となり、後には自ら学校を開学し、広大な領地を所有する貴族と結婚した・・・、長男はインドで戦死したが、三男はジャーナリスト、四男は弁護士となって社会的成功を収めた。4人の男子の中でも最も家族に栄誉をもたらしたのが、チューリングの父親となる次男のジュリアスである」、なるほど。
・『父のジュリアス・チューリング  ジュリアスは、父親と違って数学は苦手で「なぜマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるのか、まったく意味不明だ。僕の理解を超えているよ」と、後に妻に冗談めかして語っている。 しかし、歴史学では優秀な成績で奨学金を獲得し、オックスフォード大学コーパスクリスティ・カレッジに進学した。彼は1894年に文学の学士号を取得し、1895年8月の国家公務員試験で154人中7位という好成績を収めた。 当時のイギリスのエリートたちは、ヴィクトリア女王が直接統治するイギリス領インド帝国を目指した。猛暑で不衛生なインドでの行政府の仕事は過酷だったが、その報酬は本国公務員の数倍にもなったという。 ジュリアスは、タミール語やインドの法律や歴史を猛勉強して、1896年に実施されたインド行政府試験でも7位の好成績を獲得した。 1896年12月7日、23歳のジュリアスは、意気揚々とインド帝国マドラス行政管区に着任した。その後の10年間、彼は収税官としてインド各地の農村を視察し、現地の農業や灌漑、予防接種や公衆医療の状況を報告すると同時に収税を監督した。 1906年、33歳になったジュリアスはマドラス行政管区収税官長に任命され、1907年4月にイギリスへの一時帰国を許可された。その帰国する船の中で、彼は妻となる女性と出会ったのである』、「オックスフォード大学コーパスクリスティ・カレッジに進学した。彼は1894年に文学の学士号を取得し、1895年8月の国家公務員試験で154人中7位という好成績を収めた・・・猛暑で不衛生なインドでの行政府の仕事は過酷だったが、その報酬は本国公務員の数倍にもなったという。 ジュリアスは、タミール語やインドの法律や歴史を猛勉強して、1896年に実施されたインド行政府試験でも7位の好成績を獲得した。 1896年12月7日、23歳のジュリアスは、意気揚々とインド帝国マドラス行政管区に着任した。その後の10年間、彼は収税官としてインド各地の農村を視察し、現地の農業や灌漑、予防接種や公衆医療の状況を報告すると同時に収税を監督した。 1906年、33歳になったジュリアスはマドラス行政管区収税官長に任命され、1907年4月にイギリスへの一時帰国を許可された。その帰国する船の中で、彼は妻となる女性と出会ったのである」、なるほど。
・『科学者・技術者が多い母方の家系  チューリングの母親エセル・サラ・ストーニーは、1881年11月18日に生まれた。母方の家系を遡ると、1688年の名誉革命で活躍したアイルランドの貴族トマス・ストーニーに行き着く。 ストーニー家の家系には、科学者や技術者が多い。1826年生まれのジョージ・ジョンストン・ストーニーは、アイルランド国立大学ゴールウェイ校物理学科の教授として数多くの業績を挙げ、とくに「電子(electron)」の名付け親として知られる。 チューリングの母方の祖父にあたるエドワード・ウォーラー・ストーニーは、1844年2月10日に生まれた。彼はアイルランド国立大学ゴールウェイ校土木工学科を最優秀成績の「金メダル」で卒業し、1866年6月、インド帝国マドラス鉄道の技師として赴任した。 エドワードの兄フランシスは、スライドする扉にローラーを取り付けて扉の開閉の抵抗を少なくした「ストーニー水門」の発明者として知られる。「ストーニー水門」は、ナイル川の氾濫を防止するために建設された「アスワン・ハイ・ダム」をはじめ、世界中の多くのダムに用いられている。 エドワード自身も、さまざまな特許を取得している。彼がマドラス鉄道の主任技師として発明した「ストーニー・パンカー・ホイール」は、列車の車輪の軋む音を大幅に軽減させたため、線路周辺の住民に大いに感謝されたという。 エドワードは、1985年にアイルランド人のサラ・クロフォードと結婚し、2人の男子と2人の女子を儲けた。サラは才能のある画家で、南インドのニルギリ丘陵にある野生の花を多く描いた。彼女の画集はイギリス王立植物園に感謝して受け入れられている。 長男は父親の跡を継いでマドラス鉄道の技師となり、次男はイギリス陸軍少佐になった。長女はインド軍陸軍少佐と結婚し、次女エセル・サラ・ストーニーがチューリングの母親となる。なお、彼女はよほど母親を愛していたためか、ミドルネームの「サラ」を自称した。 ストーニー家の子どもたちは、全員アイルランドで育てられた。サラは、叔父ウィリアム・クロフォードの家で、その家の4人の子どもたちと一緒に育てられた。 銀行の支店長を務めていたクロフォードは厳格で、愛情豊かな家庭とはいえなかったらしい。それでも向学心旺盛な彼女は、大学を目指す女性のために創設された寄宿学校チェルトナム・レディース・カレッジを卒業した。 そして、音楽と美術を学ぶためにパリのソルボンヌ大学に留学したが、そこには彼女の思い描いていた「自由と文化」がなく「幻滅した」という。もしかすると、インド生まれでアイルランド訛りの英語を話すサラは、パリの学生たちとは馴染めなかったのかもしれない。結果的に、彼女は半年間で大学を去った。 1900年、19歳のサラはインドのクヌールにある両親の邸宅に戻り、イギリス社交界の晩餐会や舞踏会に参加した。ヴィクトリア朝の女性として、いわば花嫁候補として相手を探す状況となり、そこである医者と相思相愛になったが、その医者は宣教師として世界各地に派遣される立場だったため、結婚を諦めたという』、「インド生まれでアイルランド訛りの英語を話すサラは、パリの学生たちとは馴染めなかったのかもしれない。結果的に、彼女は半年間で大学を去った。 1900年、19歳のサラはインドのクヌールにある両親の邸宅に戻り、イギリス社交界の晩餐会や舞踏会に参加した」、なるほど。
・『父ジュリアスと母サラの結婚  1907年4月、インドから太平洋航路でイギリスへ向かう船の中で、ジュリアスとサラは出会った。2人は即座に惹かれ合い、日本に到着すると、ジュリアスはサラをレストランに連れ出した。 そこで彼は、「ビールをください。こちらが要らないと言うまで、ずっと持ってきてください」といたずらっぽく言って飲み続け、サラにプロポーズした。 後にこの話を聞いたサラの父親エドワードは、「優秀な人材の集まる」インド行政府の「立派な青年」との結婚を認める一方で、娘の夫が大酒飲みになるのではないかと心配したという。 母のサラ(ジョンとアラン、二人の息子とともに) 1907年10月1日、33歳のジュリアスは26歳のサラと、アイルランドの首都ダブリンで結婚した。2人は1908年1月にインドに戻り、9月1日に長男ジョン・フェリエ・チューリングが誕生した。 マドラス行政管区収税官長に任命されたジュリアスは、妻と新生児を連れて、パルヴァティプラム、アナタプル、チャトラブルといった都市を転々としながら猛烈に仕事をこなした。 1911年の秋、サラがアランを妊娠したことがわかった。この時点で、ジュリアスとサラは、猛暑のインドで2人の幼児を育てることは無理だと判断したらしい。ジュリアスは休暇の手続きを取り、1912年春に家族でイギリスに帰国した』、「1907年10月1日、33歳のジュリアスは26歳のサラと、アイルランドの首都ダブリンで結婚した。2人は1908年1月にインドに戻り、9月1日に長男ジョン・フェリエ・チューリングが誕生した。 マドラス行政管区収税官長に任命されたジュリアスは、妻と新生児を連れて、パルヴァティプラム、アナタプル、チャトラブルといった都市を転々としながら猛烈に仕事をこなした。 1911年の秋、サラがアランを妊娠したことがわかった。この時点で、ジュリアスとサラは、猛暑のインドで2人の幼児を育てることは無理だと判断したらしい。ジュリアスは休暇の手続きを取り、1912年春に家族でイギリスに帰国した」、なるほど。
・『「実験家」と呼ばれた子ども時代  チューリングは、生まれて2週間後の7月7日、ロンドンの聖セイバーズ教会で洗礼を受けて、アラン・マティソン・チューリングと名付けられた。 その翌年、ジュリアスはインドに戻ったが、サラは1915年に再びロンドンに戻って、ジョンとアランの世話をしている。チューリングが3歳になる頃、サラは夫への手紙に「アランは新しい言葉を覚えるのが上手で、本当に賢くて驚かされる」と書いている。 さらに彼女は、チューリングが「たくさんの翌日(for so many morrows)」という言い回しを発明したことに触れ、通常の「長い間(for a long time)」よりも「ステキ(delightful)でしょ」と述べている。 ジュリアスとサラは、2人の息子を退役軍人のウォード大佐夫妻に預けることにした。ウォード夫妻の「ボストン・ロッジ」と呼ばれる巨大な家は、イギリス南部のイースト・サセックス州ヘイスティングスに隣接するセントレナルズにあった。 崖の上にある家の真下には海があり、イギリス海峡が見渡せる。ウォード夫妻は、自分たちの4人の娘に加えて、チューリング家の2人やカーワン陸軍少佐の家の3人の子どもたちも預かっていた。子ども部屋を仕切って世話をしたのは、メイドのトンプソン夫人である。 チューリングが4歳に近付いた頃、おもちゃの船に乗っていた木の水兵が壊れたことがあった。チューリングは、その水兵の腕と脚を庭に植えて、そこから身体が生えてくるか確かめようとしたという。 チューリングは、好奇心が旺盛で人懐こく、ウォード夫人やトンプソン夫人に可愛がられた。ウォード大佐は、男の子たちにおもちゃの兵器や戦艦の模型を見せて「戦争ごっこ」をさせようとしたが、他の子どもたちと違って、チューリング家の2人はほとんど興味を示さなかった。ジョンは「本の虫」であり、チューリングは「実験家」と呼ばれた。 ジュリアスは、インド行政管区で順調に出世し、高い給料も得ていたが、イギリスでの子どもたち2人の養育費に加えて、その後は年間1万ポンド近く学費・寮費のかかるパブリックスクールに進学させるために貯蓄し、贅沢はできなかった。 パブリックスクールとは、13歳から18歳の子供を教育するイギリスの学校の中でも、とくに上流家庭の子どもを対象に、トップクラスの中等教育を行う私立学校である。 当時のチューリング家のジュリアスとサラ夫妻にとって、息子2人を立派なパブリックスクールに入学させることが、何よりも重要な優先事項だった。(第2回 了 次回につづく)』、「ウォード大佐は、男の子たちにおもちゃの兵器や戦艦の模型を見せて「戦争ごっこ」をさせようとしたが、他の子どもたちと違って、チューリング家の2人はほとんど興味を示さなかった。ジョンは「本の虫」であり、チューリングは「実験家」と呼ばれた」、「実験家」の意味は不明だが、「戦争ごっこ」に興味を示さなかったとはみどころがありそうだ。

第三に、11月1日付け現代ビジネスが掲載した高橋 昌一郎氏による「両親から離れて育った「孤立」が育んだ思考とは? 超天才チューリングの幼少期 連載「チューリングの哲学」第3回」を紹介しよう。
・・・今回は幼少期のチューリングの神童ぶりを紹介する・・・ミツバチの巣の位置を予測する6歳児    1916年3月、再び休暇を取った父親ジュリアスと母親サラは、インドのチャプラドルを出発し、航路でスエズ運河を経由してサウサンプトン港に帰国した。当時は1914年に始まった第1次世界大戦の真只中で、ドイツ海軍から攻撃される可能性があった。 実際に、1915年5月7日、リバプールからニューヨークに向かって航行中だったイギリスの豪華客船ルシタニア号は、ドイツの潜水艦Uボートによって無警告のまま撃沈され、乗客・乗員1198人が犠牲となっている。 それから約1年後、さらに戦況の厳しくなった状況下の危険を冒してでも、夫妻は息子たちに会いたかったわけである。夫妻は乗船中、ずっと救命胴衣を着用したままだったという。 再会した一家は、スコットランドのハイランド地方のリゾートホテルで休暇を過ごし、父親は8月にインドに戻った。ドイツは、敵国に関係する船舶に無警告で攻撃する「無制限潜水艦作戦」をイギリス周辺海域から地中海に拡大しつつあった。そのため、母親サラは、戦争が終結するまでイギリスに留まることになった。 1917年5月、9歳になった長男ジョンは、ケント州タンブリッジウェルのヘーゼルハースト寄宿学校に入学した。サラは、4歳のチューリングと共にウォード家の部屋で暮らした。彼女は、母親に似て絵を描くのが得意で、美術大学の水彩画クラスに通った。一緒についていったセーラー服姿のチューリングは、奇妙なカモメの鳴き声を真似て走り回り、女子大学生たちの人気者になったという。 後にサラが家族の詳細をした伝記『アラン・チューリング』によれば、チューリングは「カモメが戦利品を巡って争う鳴き声」を「quockling」、「隙間風でロウソクの火が消える音」を「greasicle」、「ずんぐりした四角」を「squaddy」などと独特な言語で表現した。彼は、教えられた通りの言語表現だけでは飽き足らず、常に自己流の表現を用いようとしたわけである。物事を出発点から自力で理解し、独自の方法で表現しようとするチューリングの姿勢は、その後生涯にわたって続いた。 1861年にオックスフォード大学出版局が発行した『Reading without Tears』(涙なしの読書)という有名な絵本がある。この絵本は、英語圏で幼少期の子どもたちが楽しみながら読書を学習できるように(無理やり語句を覚えさせられて泣きながら読まなくてよいように)、さまざまな物語が美しい絵と共に描かれている。 サラによれば、チューリングは、『Reading without Tears』を約3週間読み続けて、5歳時には、ほぼ完全に英語を読み書きできるようになった。そして「外部世界」に興味を持つようになり、この年のクリスマスにチューリングが欲しがったのは「世界地図帳」だった。 メイドのトンプソン夫人は、幼児期のチューリングについて次のように述べている。「何よりも印象に残っているのは、とても幼いアランに、知性と一貫性が見られたことです。どんなことでも、彼を簡単に騙すことはできませんでした。ある日アランとゲームをしていて、私はわざと負けようとしました。すると彼はそれを見破って、大騒ぎになりました」 1919年1月、パリ講和会議が開催されて、第1次世界大戦が終結した。喜んだ父親ジュリアスは大急ぎで休暇を取り、2月にイギリスに帰国した。チューリング一家は、スコットランドの北西ウラプールにあるリゾートに出掛けて、家族の大切な時間を過ごした。父親ジュリアスと長男ジョンはマス釣りを楽しみ、母親は湖畔の風景を水彩画で描いた。 6歳の次男チューリングは「ヒース」と呼ばれるイギリス特有の荒地を駆け回っていたが、やがて周囲をミツバチが飛び回っていることに気づいた。彼は、ミツバチが飛んでいる経路を観察し、それらが最も多く交差する地点の図を描いた。そこでチューリングはミツバチの巣を発見し、野生の蜂蜜を集めて持って帰った。両親は、甘い蜂蜜に大喜びする以上に、チューリングの英知に満ちた予測行動に驚愕したという』、「チューリングは、『Reading without Tears』を約3週間読み続けて、5歳時には、ほぼ完全に英語を読み書きできるようになった。そして「外部世界」に興味を持つようになり、この年のクリスマスにチューリングが欲しがったのは「世界地図帳」だった」、「5歳児」としてはすごい。「チューリングは「ヒース」と呼ばれるイギリス特有の荒地を駆け回っていたが、やがて周囲をミツバチが飛び回っていることに気づいた。彼は、ミツバチが飛んでいる経路を観察し、それらが最も多く交差する地点の図を描いた。そこでチューリングはミツバチの巣を発見し、野生の蜂蜜を集めて持って帰った。両親は、甘い蜂蜜に大喜びする以上に、チューリングの英知に満ちた予測行動に驚愕したという」、確かに驚くべき行動だ。
・『いつのまにか変わっていた息子  1919年12月、両親は再びインドに赴任し、ジョンはヘーゼルハースト寄宿学校、チューリングはウォード家に預けられた。チューリングは、セント・マイケルズ小学校に入学した。 セント・マイケルズ小学校校長のテイラー夫人は、「私どもの小学校には、賢い子も一生懸命な子もいましたが、アランは天才でした」と後に述べている。チューリングは、算数とパズルが得意だった。他の児童が紙に式を書いて懸命に計算している間に、チューリングは彼独自の方法により、暗算で解答を導くことができた。 チューリングの能力が同級生を遥かに超えていることは、誰もが認めていることだったが、その一方で、チューリングは教師の命令に素直に従おうとはせず、次第に口答えばかりするようになった。 6歳から3年間のチューリングは、まるで「孤児のような生活」を送った。両親の目の届かなかった当時の彼の成績表には「だらしのない行動を慎むように」という注意が繰り返し記載されている。 1921年5月、父親ジュリアスはインドのマドラス開発大臣に昇進した。この年の夏、母親サラがイギリスに戻ってくると、9歳のチューリングは大きく変化していた。「活発で誰とでも打ち解ける子どもだったのに、いつのまにか内心を人に見せないように変わっていた」というのである。 サラが再びインドに赴く際には、「私の乗ったタクシーが見えなくなるまで、道路の真ん中で両手を一杯に振りながら追いかけてくる」息子の姿を見るという「悲しい思い出」があったとも述懐している。 1922年9月、9歳になったチューリングは、ヘーゼルハースト寄宿学校に入学した。児童に寄宿生活を学ばせると同時に、パブリックスクールへの試験対策を行うための学校である。チューリングが入学した時点では、9歳から13歳までの36人の少年たちが在籍していた。 チューリングの兄ジョンは、13歳で学校の首席だった。彼は、授業と運動、食事と就寝の定められた寄宿生活に見事に順応する優等生だった。ところが、チューリングは、自分の好きなことができる自由時間が少ない管理生活に反抗的だった。 チューリングは、休み時間になると、黙って「世界地図帳」に見入っていた。その様子を見て、彼を学校に溶け込ませようとしたダーリントン校長は、生徒全員に地理のテストを課すことにした。地理の苦手な兄にとって、この弟に対する校長の配慮は迷惑極まりなかった。 地理のテストの結果、チューリングは最年少であるにもかかわらず、兄ジョンよりも高得点で6位の成績を収めた。この結果は、兄に大きな屈辱を与えた。 また、寄宿学校のコンサートでジョンが英国国歌を独唱した際には、最後列のチューリングが笑い転げたため、せっかく練習したジョンの歌声が台無しになった。 1923年4月、ジョンは、最後の半年間を弟チューリングと共に過ごすという迷惑な環境から解放されて、パブリックスクールの名門マールボロ校に入学した。 マールボロ校は、1843年に英国国教会の聖職者の子弟を教育するためにウィルトシャー州マールボロに設立された私立の寄宿学校である。英国で最も古いパブリックスクールの1つであり、貴族や富裕者の子弟13歳から18歳を対象とする。卒業生には、免疫系の研究で1960年にノーベル生理学医学賞を受賞したピーター・メダワーや詩人のジョン・ベッジャマンなど、数えきれないほどの傑出した科学者や文学者、政治家やスポーツ選手などが存在する。 とくにマールボロ校の特徴として知られているのは、1968 年に英国で初めて女子を受け入れたことである。ウェールズ公妃キャサリンと彼女の妹ピッパ・ミドルトン、元首相デーヴィッド・キャメロンの夫人サマンサ・キャメロンら、現代の貴族や政財界の女性たちの母校である。 現在のマールボロ校のサイトを調べてみると、難関入学試験に合格した入学者180人が20人ずつの少人数クラスに分けられ、「ハウス」と呼ばれる寄宿舎で共同生活している。授業料と寮費を合わせると年間約4万ポンド(日本円で約800万円)となり、6年間で24万ポンド(約4800万円)が必要となるため、そもそも一般庶民には手の届かない学校である。 入学準備のための必需品リストを見ると、ジャケット(日常使用)・ブレザー(日曜教会用)・ズボンまたはスカート3着・ワイシャツ3枚・スポーツウェア(各種スポーツ用)・シューズ5足以上(革靴・各種スポーツ用)・水着などとあって、入学後の生活がどのようなものか想像できておもしろい。 この由緒あるマールボロ校に、チューリング家の爵位を継ぐことになる兄ジョンを入学させられたことは、ジュリアスとサラ夫妻にとって大きな喜びだったに違いない。 とはいえ、2人の息子を莫大な経費の掛かるパブリックスクールに進学させるためには、インドのマドラス開発大臣の収入であっても、大変な負担だった。ジュリアスは、それまで以上に家計費全般に倹約を命じるようになり、7歳年下のサラは、そのことで神経を摺り減らすようになる』、「2人の息子を莫大な経費の掛かるパブリックスクールに進学させるためには、インドのマドラス開発大臣の収入であっても、大変な負担だった」、「パブリックスクール」の経済的負担がそこまで重いとは再認識した。
・『超天才への扉を開いた書籍  一方、兄ジョンのいなくなったヘーゼルハースト寄宿学校では、チューリングが思いきり羽根を伸ばし始めた。彼は、ボートやカエルを折り紙で折る方法を考案して、それを周囲の生徒たちに教えたため、学校中に折り紙があふれたという。 その頃、チューリングは、学校に寄付された『Natural wonders every child should know』(すべての子どもが知るべき自然界の不思議)という本を手にした。1912年にアメリカで発行されてベストセラーになった書籍で、著者エドウィン・テニー・ブルースターは、ハーバード大学物理学科を卒業後、サイエンス・ライターになった人物である。 この書籍の目次を見ると、「どうやってニワトリは卵の中に入ったのか」「植物の卵」「男の子と女の子はどのように成長するのか」「人間は動物と何が違うのか」「植物は何を知っているのか」「見ることと信じること」「生きている自動車」「砂糖と毒」「誰にもわからないこと」など、主として生物学や動物学、植物学や薬学、さらに科学哲学的な話題も取り上げられていて、非常に興味深い。 たとえば「砂糖と毒」の章では、なぜ人間に糖分が必要なのか、それが肥満をもたらす理由は何か、なぜ植物がアルカロイドで身を守るのか、タバコのアルカロイドであるニコチンの作用、毒キノコ、カフェイン、アルコール、エーテル、クロロフォルム、アトロピン、コカインなどの作用が説明されている。 とくに注目すべきなのは、「生きている自動車」の章である。ここで著者ブルースターは、次のように述べている。「身体は、もちろん機械である。それは非常に複雑な機械で、これまでに人間の手で作られてきたどんな機械よりも、何倍も、何倍も複雑である。しかし、それでも一つの機械であることに変わりはない。以前は蒸気機関に喩えられたこともあったが、今ではそれ以上にすばらしいエンジンが開発されている。実は、人間の身体は、ガソリンで動くエンジン、つまり自動車やモーターボートや飛行機のエンジンと非常によく似ている」 この見解は、紛れもなく後にチューリングが定式化する「人間機械論」の根底に流れているアイディアといえる。さらに最後の「誰にもわからないこと」の章では、進化論は科学的に説明できるが、なぜ進化そのものが起こるのか、その理由はわからないとも記載されている。この部分も、晩年のチューリングが進化論を解明するため、形態発生学に向った志向性を暗示しているように映る。 いずれにしても、この書籍のタイトルは「すべての子どもが知るべき」となっているが、対象とする「子ども」とは、中学生か高校生以上と思われる。後にチューリングは、この本こそが自分に「自然」のすばらしさを教えてくれたと母親サラに手紙を書いているが、9歳のチューリングがそれほどの理解に到達していたことには驚かされる』、「チューリングは、学校に寄付された『Natural wonders every child should know』(すべての子どもが知るべき自然界の不思議)という本を手にした。1912年にアメリカで発行されてベストセラーになった書籍・・・対象とする「子ども」とは、中学生か高校生以上と思われる。後にチューリングは、この本こそが自分に「自然」のすばらしさを教えてくれたと母親サラに手紙を書いているが、9歳のチューリングがそれほどの理解に到達していたことには驚かされる」、なるほど。
・『抽象的思考と具象的思考  チューリングと並ぶ「超天才」のフォン・ノイマンとクルト・ゲーデルは、幼少期に両親の見守る温かい家庭に恵まれ、早い時期から数学や多言語のような「抽象的思考」で大人が驚く才能を発揮した。 彼らの幼少期と比較して、両親から離れ、孤立した状態でいることの多かったチューリングの特徴が強く表れているのは、彼が手で触れることのできる事物に対する工夫や発明のような「具体的思考」に才能を発揮した点といえるだろう。 1923年4月1日、10歳のチューリングは、自分の手にフィットする万年筆を作り、その万年筆の図も付けて、その万年筆を使って両親に手紙を書いている。この万年筆にはインク吸入器が内部に組み込まれていて、ペン先を紙に押し付けると、インクが少しずつ落ちるように調整されていた。チューリングは、この万年筆を完成させるまでに、4本分のインクを台無しにしたという。 10歳から11歳にかけてのチューリングの手紙には、新しい形式のタイプライターやカメラ、自転車をこぐ力を蓄電池に蓄積する方法のアイディアなどが書かれている。ダーリントン校長の夫人は、チューリングの「頭の中は、いつも何か新しい物を組み立てよう、発明しようと、大忙しのようです」と母親サラに手紙を書いている。 チューリング家の兄弟を教育した彼女は、次のように述べている。「喩えて言うと、ジョンは、食事に見識のある人だったら誰もが惹きつけられるビンテージ・ワインです。でも、アランはキャビアです。いったん彼のことを知ったら、ジョンと同じように誰もが惹きつけられるでしょう」 この年の夏、チューリング家にとっては大事件が起こった。ジュリアスが突然、マドラス開発大臣の辞職を宣言したのである。その理由は、彼と同期で入省したキャンベルという人物がマドラス首席大臣に任命されたことにあった。 キャンベルの入省時の成績は、ジュリアスよりも遥かに低かった。要するにジュリアスは、自分よりも能力の劣った首席大臣の下で開発大臣を勤めることに耐えられなかったのである。 後に長男ジョンは、自分の父親ジュリアスについて、次のように述べている。「父親が職場の上司や部下として扱いやすい人物だったとは、とても思えない。なぜなら彼は、インド行政府内部の上下関係や自分の立場などをまったく配慮せず、常に平気で本心を語っていたからである」 この部分の父親の性格は、そのままチューリングに引き継がれていて興味深い。一方、ジョンは母親サラと似て、周囲の状況を配慮することに長けていた。 ジュリアスは、当時の首席大臣のウェリントン卿と口論になり、「いずれにしても、あなたがインド政府というわけではありませんからね」と発言したという記録がある。この発言に激怒したウェリントンが、有能ではなくとも穏健なキャンベルを後任に選んだ可能性は十分考えられる。 ジュリアスの辞職が正式に認定されるのは1926年7月である。それまでの3年間、彼は最後の休暇を消費し、インド政府関係者は英国内に6週間以内しか留まらなければ英国所得税を免除するという規定に基づき、フランスの保養地ディナールに家を借りた。 50歳を迎えたばかりのジュリアスは、昼間は釣りをして、夜はパーティに出掛けてブリッジに興じるという引退生活に入ったが、インドのマドラス開発大臣時代に比べて強烈な退屈感に襲われた。彼は、そもそもフランスを好まずにイギリスに帰りたがる妻サラの態度も気に入らなかった。 おもしろいことに、両親がフランスに住むことになって最も喜んだのはチューリングだった。彼は、ヘーゼルハースト寄宿学校で熱心にフランス語を学んだが、それはフランス語の複雑な文法がパズルを解くように楽しめるからだった。11歳のチューリングは、両親にフランス語でハガキを書いている。 (第3回 了 次回につづく)』、「ジュリアスは、当時の首席大臣のウェリントン卿と口論になり、「いずれにしても、あなたがインド政府というわけではありませんからね」と発言したという記録がある。この発言に激怒したウェリントンが、有能ではなくとも穏健なキャンベルを後任に選んだ可能性は十分考えられる。 ジュリアスの辞職が正式に認定されるのは1926年7月である。それまでの3年間、彼は最後の休暇を消費し、インド政府関係者は英国内に6週間以内しか留まらなければ英国所得税を免除するという規定に基づき、フランスの保養地ディナールに家を借りた。 50歳を迎えたばかりのジュリアスは、昼間は釣りをして、夜はパーティに出掛けてブリッジに興じるという引退生活に入った・・・彼は、そもそもフランスを好まずにイギリスに帰りたがる妻サラの態度も気に入らなかった。 おもしろいことに、両親がフランスに住むことになって最も喜んだのはチューリングだった。彼は、ヘーゼルハースト寄宿学校で熱心にフランス語を学んだが、それはフランス語の複雑な文法がパズルを解くように楽しめるからだった。11歳のチューリングは、両親にフランス語でハガキを書いている」』、「フランス語の複雑な文法がパズルを解くように楽しめるから」、もともとの気質に加え、「両親」と離れて英国の「寄宿学校」で「フランス語を学んだ」からこそのような気がする。
タグ:(その21)(チューリングの哲学3題:ナチス・ドイツを敗北に導いた「超天才」チューリングの波乱万丈な人生と不幸な「死の謎」、「大胆であれ」天才を生んだ華麗なる血脈と家訓…チューリング一族の歴史をたどる、両親から離れて育った「孤立」が育んだ思考とは? 超天才チューリングの幼少期) 歴史問題 現代ビジネス 高橋 昌一郎氏による「ナチス・ドイツを敗北に導いた「超天才」チューリングの波乱万丈な人生と不幸な「死の謎」 連載「チューリングの哲学」第1回」 3人の「超天才」たち。クルト・ゲーデル、ジョン・フォン・ノイマンに続き、アラン・チューリング 『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』(PHP研究所) どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。物理学界の2大巨頭であるアルベルト・アインシュタイン(1921年・物理学賞)とニールス・ボーア(1922年・物理学賞)や、化学界の巨頭ライナス・ポーリング(1954年・化学賞/1962年・平和賞)でさえ、天才と狂気の紙一重の精神を抱えていた 「超天才」が3人存在する。その3人とは、ジョン・フォン・ノイマン、クルト・ゲーデル、アラン・チューリング 『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書) 「『天才の光と影』に登場するノーベル賞受賞者たちを超えて、21世紀の現代社会に計り知れない影響を与え続けている「超天才」が3人存在する。その3人とは、ジョン・フォン・ノイマン、クルト・ゲーデル、アラン・チューリングである。 この3人は、20世紀のほぼ同じ時代に生きて、各々が独自のアプローチで人間理性の限界に迫り、まるで螺旋状に絡まるように人生の幾つかの重要な接点でお互いに何度か交差している」、なるほど。 「もしノイマンがいなければ、原子爆弾は1945年に完成しなかったかもしれず、投下地点は彼が戦後処理を見越して猛反対した東京に決定していたかもしれない。また、現代のパソコンやスマートフォンや天気予報は存在しないかもしれない。 ノイマンは、彼自身が推進した核実験で何度も放射線を浴びたため骨髄癌を発症し、1957年に逝去した。わずか53年あまりの短い生涯の間に、論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学という極めて幅広い分野に関する150編の先駆的な論文を発 表した・・・第2次世界大戦後、ノイマンは、ソ連を先制核攻撃すべきだとハリー・トルーマン大統領に進言した。彼は「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張・・・「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった・・・プログラム内臓方式の「ノイマン型コンピュータ」、量子論の数学的基礎に登場する「ノイマン環」、ゲーム理論における「ノイマンの定理」など、20世紀に進展した科学理論のどの研究分野を遡っても、いずれどこかで必ず何らかの先駆者として「ノイマ マン」の付いた業績に遭遇する・・・ノイマンは、明らかにノーベル物理学賞と経済学賞を受賞するだけの業績を挙げていたが、早世したため、その機会はなかった。 そのノイマンが、「20世紀最高の知性」と呼ばれるたびに、「それは自分ではなくゲーデルだ」と返答した」、なるほど。 「当時のノイマンは、合衆国の原水爆開発とコンピュータ開発の中枢で重責を負い、プリンストンとワシントンを分刻みのスケジュールで往復しながら、政府や軍の最高レベルの関係者と対等に議論できる立場にあった。彼は「ゲーデルをヨーロッパの瓦礫の中から救い出すことほど重要なことはない」とアメリカ国務省の上層部を説得した。 その結果、ゲーデルは「ありとあらゆる手段」によってウィーンから救出され、ノイマンのいたプリンストン高等研究所に招聘された。 そこでゲーデルと親友になったのが、物理学者アルベルト・アインシュタインである 。晩年のアインシュタインは、「私が研究所に行くのは、ゲーデルと散歩する恩恵に浴するためだ」とまで述べている。2人は、毎日のように一緒に散歩をしながら一般相対性理論について議論を重ねた」、なるほど。 「暗号の送り手と受け手が、ローターが同じように初期設定された同一のエニグマを持っていなければ、解読は不可能だとみなされていた。 これに対して、チューリングは、36機のエニグマの動作を同時にシミュレートできる暗号解読機「ボンブ」を開発し、ローターの配置可能性を個別に探知する方法で、ついにその解読を成功させた! エニグマ暗号解読は、ナチス・ドイツを敗北に導いた最大の要因ともいわれるほどの功績である。 つまり、チューリングは、連合国軍を勝利に導いた「英雄」であり、1945年にはチャーチル首相から「大英帝国勲章」を授与されている」、なるほど。 「チューリングは、窃盗の被害者であったにもかかわらず、裁判の過程で同性愛者であることが公開されてしまった。 当時のイギリスで同性愛は「違法」であり、彼に下された判決は、留置場に収監されるか、性欲を抑制するために定期的に化学的去勢療法を受けるか、どちらかを選ぶという刑罰だった。チューリングは化学的去勢療法を選び、定期的にテストステロン値を下げる女性ホルモンを投与されることになった。 この事件によって、彼はイギリス政府に関連する研究機関への立ち入りが禁止された。 王立協会フェローでもある大学教授のスキャンダルは、新聞に大きく報道された。 それから2年後、1954年6月8日午後5時頃、41歳のチューリングが死亡している姿をメイドのクレイトン夫人が発見した。ベッドの脇には、齧りかけのリンゴがあった。 検死報告書で明らかになったのは、彼の肺や胃から「強いアーモンドの香りがする青酸化合物」が検出されたということで、そこから青酸化合物を塗ったリンゴを齧った「服毒自殺」であると結論付けられている。 しかし、駆け付けた母親サラは、チューリングが自殺するはずはないと主張した。 まず、これまで何でも報告していたサラに遺言がないのがおかしい。また、寝る前にリンゴを齧るのは、以前からのチューリングの習慣だった。 クレイトン夫人によれば、7日夜のチューリングは上機嫌で彼女の作った夕食を食べている。調べてみると、チューリングは、6月9日に数学者バーナード・リチャーズと面会の約束があり、大学の研究室に残されていた予定表には、翌週以降の予定も多く書き込まれていた。 チューリングの部屋には、彼の趣味である化学実験道具があった。天井の電燈には変圧器が取り付けられ、電線が蒸発皿の電極に繋げられ、そ の皿には青酸化合物で生じた泡が付着していた。彼は、この装置でスプーンを金メッキしていたのである。 物事に頓着しないチューリングは、青酸化合物の結晶をジャム瓶に入れて保存していた。つまり彼は、電気分解をしているうちに青酸ガスを吸い込み過ぎたか、あるいは間違って結晶を飲み込んでしまったため、「事故死」に違いないというのが、サラの主張である・・・彼の死から55年が過ぎた2009年、イギリスのゴードン・ブラウン首相は、チューリングに対する「処罰が完全に不当であったことを認め、ここに深く遺憾の意を表明する」とイギリ ス政府として公式に「謝罪」を表明した。 チューリングの生誕109周年を迎えた2021年には、イギリスに新「50ポンド紙幣」が誕生した。表にエリザベス女王、裏にチューリングの肖像がある」、なるほど。 高橋 昌一郎氏による「「大胆であれ」天才を生んだ華麗なる血脈と家訓…チューリング一族の歴史をたどる 連載「チューリングの哲学」第2回」 「なぜウィリアムは主人公ではなく敵の言葉を選んでチューリング家の家訓としたのか。単純に子孫に「大胆であれ」と命じたかったのか、あるいは何か他に裏の意味があったのか、想像を膨らませると興味深い。 いずれにしても、初代チューリングから596年後に生まれた子孫アラン・チューリングが、「エニグマ」暗号を解読してナチス・ドイツを敗北に導き、コンピュータを発明して人類に大きな影響を及ぼした「大胆な振る舞い」を考えると、家訓は活かされたとみなすべきかもしれない」、なるほど。 「ジョン・ロバートは、女学校を卒業したばかりの19歳のファニー・モンタギュー・ボイドと結婚した。 夫妻は、よほど仲がよかったのか、10人の子どもを儲けている。その内2人は早世し、男子4人と女子4人の8人の子どもを育てた。司祭の報酬で大家族を養うことは大変だったはずだが、貧しくとも温かい家庭だったという。 大家族の次男に相当するジュリアス・チューリングは、1873年11月9日に生まれた。 彼が10歳になった1883年にジョン・ロバートが亡くなると、母親ファニーを支えたのは、長姉ジーンだった。ジーンはグラマー スクールの教師となり、後には自ら学校を開学し、広大な領地を所有する貴族と結婚した・・・、長男はインドで戦死したが、三男はジャーナリスト、四男は弁護士となって社会的成功を収めた。4人の男子の中でも最も家族に栄誉をもたらしたのが、チューリングの父親となる次男のジュリアスである」、なるほど。 「オックスフォード大学コーパスクリスティ・カレッジに進学した。彼は1894年に文学の学士号を取得し、1895年8月の国家公務員試験で154人中7位という好成績を収めた・・・猛暑で不衛生なインドでの行政府の仕事は過酷だったが、その報酬は本国公務員の数倍にもなったという。 ジュリアスは、タミール語やインドの法律や歴史を猛勉強して、1896年に実施されたインド行政府試験でも7位の好成績を獲得した。 1896年12月7日、23歳のジュリアスは、意気揚々とインド帝国マドラス行政管区に着任した。 その後の10年間、彼は収税官としてインド各地の農村を視察し、現地の農業や灌漑、予防接種や公衆医療の状況を報告すると同時に収税を監督した。 1906年、33歳になったジュリアスはマドラス行政管区収税官長に任命され、1907年4月にイギリスへの一時帰国を許可された。その帰国する船の中で、彼は妻となる女性と出会ったのである」、なるほど。 「インド生まれでアイルランド訛りの英語を話すサラは、パリの学生たちとは馴染めなかったのかもしれない。結果的に、彼女は半年間で大学を去った。 1900年、19歳のサラはインドのクヌールにある両親の邸宅に戻り、イギリス社交界の晩餐会や舞踏会に参加した」、なるほど。 「1907年10月1日、33歳のジュリアスは26歳のサラと、アイルランドの首都ダブリンで結婚した。2人は1908年1月にインドに戻り、9月1日に長男ジョン・フェリエ・チューリングが誕生した。 マドラス行政管区収税官長に任命されたジュリアスは、妻と新生児を連れて、パルヴァティプラム、アナタプル、チャトラブルといった都市を転々としながら猛烈に仕事をこなした。 1911年の秋、サラがアランを妊娠したことがわかった。この時点で、ジュリアスとサラは、猛暑のインドで2人の幼児を育てることは無理だと判断したらしい。ジュ リアスは休暇の手続きを取り、1912年春に家族でイギリスに帰国した」、なるほど。 「ウォード大佐は、男の子たちにおもちゃの兵器や戦艦の模型を見せて「戦争ごっこ」をさせようとしたが、他の子どもたちと違って、チューリング家の2人はほとんど興味を示さなかった。ジョンは「本の虫」であり、チューリングは「実験家」と呼ばれた」、「実験家」の意味は不明だが、「戦争ごっこ」に興味を示さなかったとはみどころがありそうだ。 高橋 昌一郎氏による「両親から離れて育った「孤立」が育んだ思考とは? 超天才チューリングの幼少期 連載「チューリングの哲学」第3回」 「チューリングは、『Reading without Tears』を約3週間読み続けて、5歳時には、ほぼ完全に英語を読み書きできるようになった。そして「外部世界」に興味を持つようになり、この年のクリスマスにチューリングが欲しがったのは「世界地図帳」だった」、「5歳児」としてはすごい。 「チューリングは「ヒース」と呼ばれるイギリス特有の荒地を駆け回っていたが、やがて周囲をミツバチが飛び回っていることに気づいた。彼は、ミツバチが飛んでいる経路を観察し、それらが最も多く交差する地点の図を描いた。そこでチューリングはミツバチの巣を発見し、野生の蜂蜜を集めて持って帰った。両親は、甘い蜂蜜に大喜びする以上に、チューリングの英知に満ちた予測行動に驚愕したという」、確かに驚くべき行動だ。 「2人の息子を莫大な経費の掛かるパブリックスクールに進学させるためには、インドのマドラス開発大臣の収入であっても、大変な負担だった」、「パブリックスクール」の経済的負担がそこまで重いとは再認識した。 「チューリングは、学校に寄付された『Natural wonders every child should know』(すべての子どもが知るべき自然界の不思議)という本を手にした。1912年にアメリカで発行されてベストセラーになった書籍・・・対象とする「子ども」とは、中学生か高校生以上と思われる。後にチューリングは、この本こそが自分に「自然」のすばらしさを教えてくれたと母親サラに手紙を書いているが、9歳のチューリングがそれほどの理解に到達していたことには驚かされる」、なるほど。 「ジュリアスは、当時の首席大臣のウェリントン卿と口論になり、「いずれにしても、あなたがインド政府というわけではありませんからね」と発言したという記録がある。この発言に激怒したウェリントンが、有能ではなくとも穏健なキャンベルを後任に選んだ可能性は十分考えられる。 ジュリアスの辞職が正式に認定されるのは1926年7月である。それまでの3年間、彼は最後の休暇を消費し、インド政府関係者は英国内に6週間以内しか留まらなければ英国所得税を免除するという規定に基づき、フランスの保養地ディナールに家を借りた。 50歳を迎えたばかりのジュリアスは、昼間は釣りをして、夜はパーティに出掛けてブリッジに興じるという引退生活に入った・・・彼は、そもそもフランスを好まずにイギリスに帰りたがる妻サラの態度も気に入らなかった。 おもしろいことに、両親がフランスに住むことになって最も喜んだのはチューリングだった。彼は、ヘーゼルハースト寄宿学校で熱心にフランス語を学んだが、それはフランス語の複雑な文法がパズルを解くように楽しめるからだった。11歳のチューリングは、両親にフランス語でハガキを書いている」』、「フランス語の複雑な文法が パズルを解くように楽しめるから」、もともとの気質に加え、「両親」と離れて英国の「寄宿学校」で「フランス語を学んだ」からこそのような気がする。
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