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司法(その20)(大阪地検元トップの壮絶な性暴力 被害女性が衝撃の事実を告発 「女性副検事が“金目当て”と私を侮辱し 虚偽の内容を吹聴」、日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」、日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」、刑事司法の病理現象「冤罪」に関する「日本特有の問題」…日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」、最終版) [社会]

司法については、昨日取上げた。今日は、(その20)(大阪地検元トップの壮絶な性暴力 被害女性が衝撃の事実を告発 「女性副検事が“金目当て”と私を侮辱し 虚偽の内容を吹聴」、日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」、日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」、刑事司法の病理現象「冤罪」に関する「日本特有の問題」…日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」)である。

先ずは、10月30日付けデイリー新潮が掲載した「大阪地検元トップの壮絶な性暴力 被害女性が衝撃の事実を告発 「女性副検事が“金目当て”と私を侮辱し、虚偽の内容を吹聴」」を紹介しよう。
・『被告側に捜査情報を漏洩していた疑惑  大阪地方検察庁の元検事正・北川健太郎被告(65)が、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行を加えた罪に問われている事件の裁判が始まった。事件の被害者である女性検事が明かしたのは、“共犯者”ともいえるゴマすり女性副検事の存在だった。かつて「関西検察」の雄として名高かった大阪地検の罪と罰とは。 北川被告は、故郷・石川の金沢大在学中に司法試験に合格。検事に任官すると大阪、京都、神戸の各地検で要職を務めて「関西検察のエース」と呼ばれた』、「関西検察のエース」が破廉恥事件とは世も末だ。...
・『被告側に捜査情報を漏洩していた疑惑  大阪地方検察庁の元検事正・北川健太郎被告(65)が、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行を加えた罪に問われている事件の裁判が始まった。事件の被害者である女性検事が明かしたのは、“共犯者”ともいえるゴマすり女性副検事の存在だった。かつて「関西検察」の雄として名高かった大阪地検の罪と罰とは。 【写真を見る】逮捕された北川被告(65) 初公判では終始打ちひしがれた様子だった 北川被告は、故郷・石川の金沢大在学中に司法試験に合格。検事に任官すると大阪、京都、神戸の各地検で要職を務めて「関西検察のエース」と呼ばれた。大阪高検次席検事、最高検刑事部長を歴任、2018年に大阪地検のトップ・検事正に上り詰める。退職後は弁護士になったが、検事正時代に部下だった女性検事への準強制性交罪の容疑で、今年6月に大阪高検に逮捕、7月に起訴された。 10月25日、被害を訴えた現役検事は自ら会見を開き、事件の全容を語った。彼女が訴えたのは、事件の発端となった宴席に同席した女性副検事が、内偵捜査の段階で北川被告側に捜査情報を漏洩して、不利な供述をさせないよう尽力していた疑惑だ』、「彼女が訴えたのは、事件の発端となった宴席に同席した女性副検事が、内偵捜査の段階で北川被告側に捜査情報を漏洩して、不利な供述をさせないよう尽力していた疑惑だ」、なるほど。
・『「被害者を誹謗中傷し、被告人を庇うような発言を」  この会見で被害女性は、 「(女性副検事は)検察庁職員やOBに対して、被害者が私であることを言った上で、事件当時、性交に同意していたと思う、PTSDの症状も詐病ではないか、金目当ての虚偽告訴ではないかという趣旨の、私を侮辱し、誹謗中傷する虚偽の内容を故意に吹聴していたことが分かりました。さらにうそは検察庁内に広く伝わり、私が信頼していた上級庁の検事までもが、証拠関係も知らないのに、被害者を誹謗中傷し、被告人を庇(かば)うような発言をしていた」 退職後も影響力を持ち続けた被告への“ゴマすり”だろうか。被害女性は、女性副検事を名誉毀損で10月1日に刑事告発した。 実際に裁判を傍聴、会見の様子を取材したライターの小川たまか氏に聞くと、 「性被害者が、周囲からのセカンドレイプに傷つけられることは多々ありますが、この件が異様なのは、その加害者が性犯罪に詳しいはずの副検事だったこと。下手をすれば、北川被告は不起訴になっていたかもしれないだけに看過できません」 被害女性の受けた傷の深さは計り知れない。裁判では、 「マスク越しでも、普段はサバサバとして仕事ができる方だと分かる雰囲気を漂わせていましたが、話し出すと徐々に声が震え始め、最後まで涙声が続きました。今まで耐え忍んできた感情が、一気にあふれ出た印象を受けました」(同)』、「マスク越しでも、普段はサバサバとして仕事ができる方だと分かる雰囲気を漂わせていましたが、話し出すと徐々に声が震え始め、最後まで涙声が続きました。今まで耐え忍んできた感情が、一気にあふれ出た印象を受けました」(同)、さぞかし悔しかったのだろう。
・『「大阪地検のトップだというおごり」  元東京地検特捜部副部長で弁護士の若狭勝氏は、 「北川被告は最低でも懲役5年の実刑は免れないでしょう。関西エリアの検察はかなり特殊で、昔から検察庁内で“大阪人事”“関西人事”などと呼ばれ、大阪の幹部たちが人事を決めていました。若い検事たちからすれば、検事正は面と向かって話もできないようなレベルの高い役職に感じられるかもしれません。被告自身、心の中では大阪地検のトップの検事正である俺が言っている以上、被害者も表に出さないだろうというおごりがあった可能性はあると思います」 10月31日発売の「週刊新潮」では、事件の全容や北川被告の知られざる“素顔”について、詳しく報じている』、「被告自身、心の中では大阪地検のトップの検事正である俺が言っている以上、被害者も表に出さないだろうというおごりがあった可能性はあると思います」、なるほど。

次に、12/4現代ビジネスが掲載した明治大学教授で元裁判官の瀬木 比呂志氏による「日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/142079?page=1&imp=0
・『「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」〉にひきつづき、刑事系裁判官の「法意識」についてみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです』、「日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」〉にひきつづき、刑事系裁判官の「法意識」についてみていきます」、なるほど。
・『刑事系裁判官の「法意識」  日本の冤罪の原因として人質司法と並ぶもう一つの大きな問題は、刑事系裁判官の判断のはかりの針が、最初から検察官のほうに大きく傾いている傾向だろう。「建前上は『推定無罪』だが、現実には『推定有罪』になってしまっている」ということである。 刑事系裁判官の判断の針がなぜ最初から検察官に傾いていることが多いのか、なぜあそこまで検察官の意向をうかがい、忖度する傾向が強いのか、また、被疑者、被告人に対するバイアスが強いのかは、民事系裁判官を長く務めた私にとっても「謎」だ。 司法官僚である日本の裁判官のキャリアは、任地も職種も、自分で選べるわけではない。たとえば、私が任官したころの初任判事補の任地は、最高裁事務総局人事局が、彼らなりの基準で評価した順に東京から並べ始めるかたちで決定するといわれていた。 そして、東京初任についてみると、姓の五十音順に、民事部あるいは刑事部から、必要な人員を採っていた。刑事部の配属人数は少ないから、五十音順の最初か最後の数人が刑事配属となったのである。そして、東京初任の場合、これで民事系か刑事系かが決まり、その後のキャリアにおける変動はあまりなかった。もっとも、より一般的にいえば、初任の配属はキャリアを決める一要素にすぎなかったし、系列が明確に分かれない人々も相当程度の割合で存在した(系列の明確な裁判官は、相対的なエリート層により多い)。 つまり、個々の裁判官のキャリアがどう決まってゆくかは時代により多少異なるものの、個々人の希望の占める比重はあまり大きくないのである。にもかかわらず、民事系、刑事系、家裁系の裁判官集団についてみると、どの時代でもおおむね似通っている。日本人の個性や生き方、あり方が、所属する、あるいは精神的に帰属する「集団、ムラ」によって強く規定される事態を示す典型的な一例といえよう。そして、こうした系列の中でみるとき、刑事系は、その官僚制と閉鎖性において際立っているのだ。 私は、裁判官を批判してはきたが、民事系であれば、人柄に厚みのある人物も、教養識見が深い人物も、研究者の資質をもった人物も、挙げることはできる。しかし、刑事系については、その層が薄いこともあってか、そうした人間の「幅」があまり感じられない。個性ある人物は、いるとしても多くはない。私が若かったころには、まれに、非常に人間のできた温厚な方がいたものだが、そうした人々はおおむね傍流であった。また、検察官には退官後目立った社会的活動を行う人が時々いるが、刑事系裁判官にはあまりいない。 裁判官の書物も、刑事系の人々のそれは、従来からある「裁判官幻想」に沿い、それを補強・再生産し、そうすることで読者を安心させるレヴェルにとどまり、読者を突き動かすような創造性や力には乏しいものが多い。特に、エッセイ的なものでは自己満足が目立ちやすい。 以上のとおり、刑事系裁判官は、社会から隔離された司法官僚裁判官集団の中でも「もう一重隔離された人々」という印象が強いのだ。 「かつての刑事裁判長には、『被告人は平気で嘘をつく』、『検事がそんな変なことをするはずがないだろう』、あるいは、『国民が皆有罪と信じている被告人をなぜ裁判所だけが無罪とすることができるんだ』などといった信じられない発言を、合議等で堂々とする人も多かったのです。また、今でも、そういう考えをもっている人は決して少なくないと思います。もっとも、少なくとも、裁判員裁判では、そうした発言を合議の場ですることだけは、できなくなったようですね。また、無罪判決を一度も出していない刑事裁判官が一定の割合でいるのも事実です」 これは、私が、前記木谷明元裁判官からじかにお聴きし、引用の許可もいただいた言葉である。 また、私自身が直接に経験したところでも、かつての刑事系裁判官には、「被告人の争い方が悪かった場合には有罪判決の量刑を重くする」という考え方をもつ人がかなりいた。今でも、その傾向はあるかもしれない。しかし、被告人には争う自由があるし、「争い方が悪いかどうか」の判断は相当に裁判官の主観の問題であることを考えると、裁判官の客観性、中立性という観点から問題ではないかと思ったものである。さらに、実刑と執行猶予の選択において、世論の中の厳罰主義的な部分に沿い、平等・公平・公正の原則に反する「見せしめ、一罰百戒」的な志向が強く出やすいことについては、私を含め民事系裁判官のかなりの部分が、違和感を抱いていた。[刑事系裁判官は、社会から隔離された司法官僚裁判官集団の中でも「もう一重隔離された人々」という印象が強いのだ。 「かつての刑事裁判長には、『被告人は平気で嘘をつく』、『検事がそんな変なことをするはずがないだろう』、あるいは、『国民が皆有罪と信じている被告人をなぜ裁判所だけが無罪とすることができるんだ』などといった信じられない発言を、合議等で堂々とする人も多かったのです。また、今でも、そういう考えをもっている人は決して少なくないと思います・・・[刑事系裁判官は、社会から隔離された司法官僚裁判官集団の中でも「もう一重隔離された人々」という印象が強いのだ」、なるほど。
・日本では刑事事件のほとんどが有罪判決となることもあってか、刑事系裁判官の思考パターンは、さまざまな側面で検察官の思考パターンにシンクロナイズしがちであり、一方、検察や警察が間違いを犯すかもしれないという視点にはきわめて乏しい。刑事系裁判官の多数派にとっては、「疑わしきは罰せず」はお題目で、そもそも判断に当たっての葛藤や逡巡があまりみられず、思考停止しているような印象さえ受ける場合がある。木谷氏も言及されているとおり、キャリアを通じて無罪判決を一度も出していない刑事系裁判官さえ一定の割合で存在するのだ。』、「日本では刑事事件のほとんどが有罪判決となることもあってか、刑事系裁判官の思考パターンは、さまざまな側面で検察官の思考パターンにシンクロナイズしがちであり、一方、検察や警察が間違いを犯すかもしれないという視点にはきわめて乏しい。刑事系裁判官の多数派にとっては、「疑わしきは罰せず」はお題目で、そもそも判断に当たっての葛藤や逡巡があまりみられず、思考停止しているような印象さえ受ける場合がある。木谷氏も言及されているとおり、キャリアを通じて無罪判決を一度も出していない刑事系裁判官さえ一定の割合で存在するのだ」、なるほど。
 冤罪が確定した事件やそれが強く疑われている事件における非常識、非合理的な事実認定、論理性の欠如、被告人に対する予断と偏見にも、目をおおわしめるものがある。本書ではテーマと紙幅の関係から取り上げないが、拙著(『ニッポンの裁判』〔講談社現代新書〕、『檻の中の裁判官』〔角川新書〕)の関係記述、また、『現代日本人の法意識』末尾の「若干の補足」で挙げている各文献の記述を参照してみていただきたい。誇張でなく、「これではまるで中世の魔女裁判、かつてのアメリカ南部における黒人被告人裁判と同様ではないか」との印象を抱かせるような判決がまま存在するのだ。 刑事系裁判官のこうした意識、言動、判断については、裁判員裁判制度の導入によっていくらか変化した可能性はあるものの、その影響は限定的なものであろう。たとえば裁判員裁判における合議についても、裁判員のいないところで裁判官たちが「事実上の合議」をしている例はかなりあるといわれるように、司法官僚としての性格が強い日本の裁判官は、場面によって「顔」を使い分けることには慣れているのである。 なぜ刑事系裁判官の法意識が以上のようなものとなりやすいのかについては、すでに記したおり、私にも未だによくはわからない。木谷氏さえよくわからないと言われる。しかし、可能な限りであえて分析、推測すれば、以下のようになる。 第一に考えられる理由としては、(1)「最高裁に対する忖度。無罪判決がキャリアにおいて不利にはたらく可能性」があるだろう。しかし、それだけでは説明しにくい根深いものも感じるのだ。加えるとすれば、次のような理由が挙げられるかと思う。 (2)刑事訴訟は民事訴訟ほどヴァリエーションがなく、訴訟指揮や判決についても高度な法的知識が要求される度合は、一般的にいえば小さい(むしろ、陪審員のような普通の市民のコモンセンスが生きる領域である)。そのため、裁判官が、専門家としての実質のある自信、自負をもちにくい。 (3)日本の裁判官には、近世以前から、また戦前から引き継がれた行政優位の法文化・伝統の下で、国家や政治・行政の権力チェックをためらう傾向が強く、民事関係では行政訴訟やいわゆる憲法訴訟にその傾向が顕著だが、国家の直接的な権力作用である刑事訴訟については、その傾向が一層強い(刑事訴訟では、日本の裁判官の「司法官僚」的性格が、治安維持第一、有罪推定という方向で強く表れやすい)。 (4)前記のとおり、検察は一体として事実上の強大な権力をもっており、表面上は裁判官を立てていても現実にはあなどっている。個々ばらばらの裁判官は、比較すれば無力で、検察官に堂々と対抗してゆくことのできる勇気と実力のある人が少ない。 (5)刑事系裁判官は世論の影響を受けやすく、特にマスメディアによって醸成される検察・警察寄りのそれには弱い。 まとめると、刑事裁判官は、世間からは司法権力の象徴のように思われ、法廷でも表面的には民事や家裁の場合より尊重されているように見えるものの、現実にはその専門家としての精神的基盤に、弱い、もろい部分のあることが、問題の根本原因ではないだろうか。 私が若かったころ、司法修習生の間では、検察官は、法曹三者中最も人気がなく、ほとんど、なろうと思えば誰でもなれる状態だった。司法研修所の検察官教官は、法学部在学中合格者等の優秀な修習生を一本釣りする場合には、「君は、必ず高等検察庁の検事長まではいけるから」などと、事実上言質を与えるに等しいことまで言って任官を促す例があった(付け加えれば、そうした修習生には、実際そのポストまでいった例が多い)。一方、裁判官の人気は今よりもずっと高く、たとえば、当時は一年間に数名しかいなかった判事補留学者については、まだ若くても、一流の渉外弁護士事務所から、「すぐにパートナー弁護士(共同経営者弁護士)にしてあげるからきませんか?」という破格の誘いがかかることもあった。 しかし、近年は、裁判官の人気が下がっており、司法修習生獲得競争でも総体として大規模弁護士事務所に負け気味という、かつては考えられなかった事態が起きている。また、中途退職者も増えており、ことに、相対的な優秀層に属する裁判官が東京およびその周辺からの異動時期にやめてしまう例が目立つという。一方、検察官の人気は昔よりも上がってきている。特に、検察庁は、私学のトップレヴェルの学生を狙い撃ちにする傾向が強いようだ。これは、「名よりも実を取る」という意味では、よい方法なのである。有名私学のトップクラス学生は、その割合こそ大学によって異なるものの、東大、京大の平均レヴェルよりも上の資質、能力をもっている例も多いからだ。 平均的にみれば裁判官の能力が検察官よりも相当に高かった昔でも、刑事系裁判官は、前記のような理由からか検察官(ないしはその背後にある一体としての検察およびこれに同調する裁判所当局)の方を向き、その顔色をうかがいがちだった。上記のような昨今の状況では、その傾向がさらにひどくなっているのではないか、ゆくのではないかを、私は、憂慮している。 なお、これは、実をいえば、民事系裁判官についても同様にいえる問題である。弁護士や検察官が裁判官の訴訟指揮に従うのは、「裁判官の能力を認めて」という前提あってのことなので、平均的な裁判官の能力が期待されるラインを割ってしまうと、法廷の適切、円滑な運営自体が難しくなってしまう。裁判官キャリアシステムの制度疲労は、こうした側面でも進行しつつあるのだ』、「弁護士や検察官が裁判官の訴訟指揮に従うのは、「裁判官の能力を認めて」という前提あってのことなので、平均的な裁判官の能力が期待されるラインを割ってしまうと、法廷の適切、円滑な運営自体が難しくなってしまう。裁判官キャリアシステムの制度疲労は、こうした側面でも進行しつつあるのだ」、なるほど。
・『冤罪に関する人々の法意識  最後に、冤罪に関する現代日本人、国民一般の法意識についても考察しておきたい。 刑事訴訟に関するインターネット空間の言説をひととおりさらってみたところでは、現代日本におけるよき市民の冤罪に関する最大公約数的な法意識・感想は、「冤罪など自分にはかかわりのないことだと思っていたのだが、どうも、そうでもないようだ。もしもそうであるとすれば恐ろしい」といったところではないかと思われる。 このことに関連して私が思い出すのは、アメリカの大学で哲学・倫理学を教えている教授の、次のような言葉だ。 「最近の学生(ロースクールの学生ではなく一般学生)は、公的な正義に関する意識が極端に低くなってきています。たとえば、冤罪被害者について具体的な事例を挙げて討議を行っても、出てくる意見、感想は、少なくとも最初はお粗末で、『オー、ゼイアー・アンラッキー(いやあ、不運な人たちもいるんですねえ)』というレヴェルのものすらままある有様です。『自分や家族、周囲の人間に関係がなければ別にいいや。要するに彼らは不運だったんだよ』ということなのです。実に嘆かわしい」 これに対して、私も、「アメリカの学生たちも、随分内向きになってきているんですね」などと応答したのだが、さて、一人になってからじっくり内省してみると、日本のよき市民の先のような感想も、突き詰めれば、「オー、ゼイアー・アンラッキー」というのと同じことなのではないかと気付き、あらためて愕然がくぜんとしたのである。 近年のアメリカでは、社会的分断が強まり、経済的に中位以下の人々の社会的疎外が進むにつれ、精神的な側面での荒廃傾向は否定しにくく、特に、モラルの側面における劣化がはなはだしい。 だから、現在の日本の「よき市民」の冤罪に関する法意識が、モラルが著しく低下した現代アメリカにおける「嘆かわしい学生たち」のそれと、「文化の相違からくる表現の直截ちょくせつ性の差こそあれ、実質的にみればさして変わらない」ことには、やはり、がっかりせざるをえないのだ。 『現代日本人の法意識』第7章でもふれるが、マスメディアの報道もひどい。おおむね警察・検察の情報の無批判な垂れ流しで、被疑者は暗黙のうちに犯人と扱われがちだ。再審についても、再審開始決定や再審無罪判決が出たときだけは、裁判所、国家がよいことをしたわけだから大きく報道するが、再審請求棄却決定や再審開始決定取消しの場合には、せいぜい、特別によく知られた事件について、おざなりな両論併記のコメントを付けて小さく報道する程度である。 そして、こうした決定に関するある程度掘り下げた分析についてすら、幹部が、「そもそも、判決、決定についての掘り下げた分析や批判など、新聞に載せるべきではない」などといった信じられない反応をするという話を、記者・元記者たちから聞くことさえある有様なのだ。 たとえば、前記郵便不正事件についてみると、「朝日新聞」は、村木氏逮捕後の社説(2009年6月16日)で、「村木局長は容疑を否認しているという。だが、障害者を守るべき立場の厚労省幹部が違法な金もうけに加担した疑いをもたれてしまった事実は重い」、「〔……〕キャリア官僚の逮捕にまで発展し、事件は組織ぐるみの様相を見せている。なぜ不正までして便宜を図ったのか。何より知りたいのはそのことだ」との驚くべき記述を行っている。「特捜検察に逮捕されたこと自体が社会的な罪だ。推定有罪だ」といわんばかりなのである。 ここで、『現代日本人の法意識』第4章で引用した次のような内容の記述を思い出していただきたい(『お白洲から見る江戸時代』)。 「お白洲において一般的には砂利の上でなく縁側に座ることを許されていた身分(武士、僧侶等)の被疑者も、未決勾留を命じられるとともに、突然縁側から地べたの砂利に突き落とされて縄で縛られる。ここには、嫌疑を受けること自体を『罪』とする江戸時代の人々の見方が表れている」 先のような記述を社説で堂々と行う記者たちの「法意識」と江戸時代の司法官僚たちの法意識が実際にはいかに近いものであるかが、理解されるのではないだろうか。 もっとも、村木氏無罪判決後、朝日を含め各紙は一転して検察批判に転じた。だが、同じように無罪になった場合でも、村木氏のような地位、肩書をもたない人間の場合には、マスメディアは、名誉回復には到底及ばないような最小限の扱いしかしないのである(以上につき、牧野洋『官報複合体──権力と一体化するメディアの正体』〔河出文庫〕。なお、この書物の行っている日本のジャーナリズム批判は一々もっともだが、それとのコントラストを付けるためか、アメリカのジャーナリズムについては光の側面のみを取り上げている印象はある)。 私は、被疑者・被告人の権利ばかりを言い立てるつもりなどない。しかし、推定無罪の原則、「疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に」の原則は、いわば近代刑事司法のイロハである。それは、犯罪者を守るための原則ではなく、あなたや私、その家族や友人・知人、そして、名も知らないけれども人間としての同胞である無辜むこの人々が被疑者・被告人となった場合に、私たちと彼らを、冤罪という名の国家による重大な過ちから守るための原則なのだ。 しかし、刑事司法をめぐる日本の現状をみる限り、冤罪に関する現代日本人の法意識は、誰もそれを明示的に口にはせずとも、あえて意識の高みに引き上げて言葉を与えるなら、次のようなものなのではないだろうか。 「よくはわからないが、日本の刑事司法に問題があるとしても、冤罪はまれなことなのではないか。それに、冤罪被害者はお気の毒とは思うものの、やはり、犯罪がきちんと取り締まられ、犯罪者が確実に逮捕、処罰されることのほうが、より重要なのではないだろうか」 こうしてあからさまに言語化されたものを読むと、『現代日本人の法意識』第4章の「犯罪と刑罰に関する日本人の法意識」の項目における同様のまとめの場合と同じく、不快に感じる方々もいるかもしれない。私自身、私の疑念が杞憂きゆうであってくれればと思う。 だが、現実をみれば、本章で論じたことからも明らかなとおり、日本は、今ではもはや、刑事司法、刑事訴訟手続の適正に関しては、「後進国」であることが否定できなくなりつつある。それは、おそらく、動かしにくい「事実」であろう。日本の刑事法学が「学問」としては洗練されているとしても、上記の「事実」自体が変わるわけではない。また、そのような刑事司法の状況が、「ムラ社会の病理」の一端であり、「日本社会の中の『前近代的』と評価されても仕方のない部分」であることについても、議論の余地はあまりないと考える。 そして、そのことについては、私にも、あなたにも、日本の市民の一人としての責任がある。 本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください』、「日本は、今ではもはや、刑事司法、刑事訴訟手続の適正に関しては、「後進国」であることが否定できなくなりつつある。それは、おそらく、動かしにくい「事実」であろう。日本の刑事法学が「学問」としては洗練されているとしても、上記の「事実」自体が変わるわけではない。また、そのような刑事司法の状況が、「ムラ社会の病理」の一端であり、「日本社会の中の『前近代的』と評価されても仕方のない部分」であることについても、議論の余地はあまりないと考える。 そして、そのことについては、私にも、あなたにも、日本の市民の一人としての責任がある」、なるほど。

第三に、12月4日付け現代ビジネスが掲載した明治大学教授で元裁判官の瀬木 比呂志氏による「日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」」を紹介しよう。
・『「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?  講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈刑事司法の病理現象「冤罪」に関する「日本特有の問題」…日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」〉にひきつづき、検察官の「法意識」についてみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです』、「元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます」、興味深そうだ。「日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」〉にひきつづき、検察官の「法意識」についてみていきます、なるほど。
・『検察官の「法意識」  日本の検察官は、裁判官と同様司法修習生からそのまま採用され、司法官僚としてキャリアシステムにおける「出世」の階段をのぼってゆく。検察は、検事総長をトップとする一枚岩の行政組織だから、裁判官の中では一枚岩的な性格が強い刑事系の裁判官集団以上に、同族意識、組織としての一体感が強い。 また、建前としての無謬むびゅう性にこだわりやすい日本の組織の常として、さらには、正義の看板を背負っており、かつ、前記のとおり客観的なチェックの入らない大きな権限をもつ組織の構成員、官僚であることから、誤りのないこと、失点のないことに非常にこだわる。 そして、無罪判決は検察官の最も目立った失点となる。したがって、起訴した事件については、再審の局面をも含め、組織の面子をかけて最後の最後まで争い続けることになる。再審無罪事件の重大なものをみると、身柄拘束の時点から再審無罪判決確定までに30年前後ないしそれ以上の長期間を要しているものが多い。広く報道されてきた袴田事件に至っては、2024年10月9日の再審無罪判決確定までに、実に58年以上が経過している。これでは、冤罪被害者は、たとえ無罪判決を得ても人生の大きな部分を決定的に奪われてしまうことになる。人権侵害の最たるものといわなければならないだろう。 99.9から99.8パーセント(地裁事件統計)という日本の有罪率は、日本の検察の優秀さを示すものというよりはむしろ、日本の刑事司法の異常さや問題を示すものであり、今では社会一般の認識もそうなりつつある(たとえば、有罪率100パーセントといったことになれば、それはもはや専制主義国家の暗黒裁判であろう)。また、高い有罪率への固執は、本来であれば起訴が相当な事件を不起訴にする弊害も伴い、特に裁判員裁判対象事件については、この弊害を指摘する声が多い。しかし、閉じた組織である検察は、こうした外部の声にはきわめて鈍感であり、無謬性に強迫的にこだわることをやめられないのである(検察は、前記の袴田事件再審無罪判決について控訴権を放棄したものの、併せて、「証拠捏造を認めた判決については強く不満」との異例の談話を出した。また、後記の特捜部検察官に関する付審判決定についても、ある検察幹部が「これでは現場は必ず萎縮する」旨のコメントを行っている〔2024年8月9日朝日新聞〕。こうした対応やコメントも、日本の検察ならではのものであろう)。 以上のような組織特性、メンタリティーの帰結としてか、日本の検察官は、刑事裁判官をあまり尊敬していない。それどころか、おおむね自分たちの言いなりになることからあなどっており、また、まれにそうでもなくなることについては、いらだちを隠さない。 政治家鈴木宗男氏の事件(いわゆる国策捜査事案)にからむ容疑で逮捕され有罪とされた経験をもつ元外交官佐藤優氏の『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』〔新潮文庫〕では、捜査担当検察官が、「今後鈴木氏の裁判につきあうのはほどほどに」との旨を佐藤氏に忠告するとともに、「裁判なんて時間の無駄だよ」と語るが、これが典型的だ。付け加えれば、この検察官との間に一種の友情を結んだ著者自身の感懐としても、「供述をしなくても私の有罪を確実にする仕掛けを作る能力が検察にはある。国家権力が本気になれば何でもできるのだ」、「弁護人は司法府の独立をほんとうに信じているようだが、私はまったく信じていない」との記述がある。 さて、『現代日本人の法意識』第1章でふれた『不思議の国のアリス』には、実は、もう一つ、刑事裁判がらみのエピソードがある。幻の巨鳥ドードーをも含めた鳥や獣が集まってするコーカスレースの後の、ネズミの「長くて哀れなお話(ア・ロング・アンド・ア・サッド・テイル)」である。 犬の検察官がネズミをつかまえ、「おまえを起訴して有罪にしてやる」と言う。ネズミが、「でも、陪審員も裁判官もいないじゃないですか?」と反論する。犬は、「裁判官も陪審員も俺がやる。一切合切一人で裁いて、おまえを死刑にしてくれる」と、有無を言わさず切り返す。 これもまた、ナンセンスでシュールレアリスティックなありえない裁判として語られているのだが、私が慄然りつぜんとしてしまうのは、これが、160年後の「先進国・富裕国」の一つにおける刑事司法の現実についての、強烈なブラックジョークにもなっているからなのだ。 非常に単純化していえば、『アリス』の犬と同様に、「裁判官も裁判員も〔実質は〕俺がやりたい。一切合切一人で裁いて、おまえを確実に有罪にしてやりたい」というのが、表には出てこない、また、彼ら自身意識の表面にはあまりのぼらせない、日本の検察官の「本音」なのではないだろうか。検察官と話していると、穏やかなタイプの人であっても、気を許した会話の中では、こうした本音がちらちらと見え隠れすることがある。 また、公証人となって元検察官とともに働いた経験をもつかつての先輩・同僚裁判官からも、「瀬木さんの裁判官批判には当たっている部分があるが、自己過信や慢心についていえば、検察官はさらに問題が多いと思うよ」との意見を聞くことがある。確かに、検察官は、被疑者、被告人、刑事弁護人との関係では圧倒的に優位に立っているし、外部から批判を受けて内省する機会も、裁判官以上に少ないかもしれない(なお、公証人は法務省管轄の制度のため、検察官等法務官僚のほうが裁判官よりもなりやすく、数も多い)。 日本の検察についても、大陪審や予備審問のような起訴チェック機関を設けるとともに、検察官定員の一定割合については弁護士から期間を限って採用する人々とするなどの方法により、外部の血を入れ、組織の民主化を図ることが望ましいと思われる。それは、かたくなで一枚岩的な検察官の法意識の改善にもつながることだろう』、「日本の検察についても、大陪審や予備審問のような起訴チェック機関を設けるとともに、検察官定員の一定割合については弁護士から期間を限って採用する人々とするなどの方法により、外部の血を入れ、組織の民主化を図ることが望ましいと思われる」、その通りだ。
・『特捜検察の問題  特捜検察は、手続的な正義、透明性のあるシステムという観点からみたとき、きわめて問題の大きい制度である。特定の政治的な勢力の意を受けて行われる「国策捜査」になりやすく、小沢一郎氏が無罪となった陸山会事件(2004~07年)のように、たとえ無罪となっても政治家として大きな打撃を受ける例がある。また、厚生官僚の村木厚子氏が無罪となった郵便不正事件(2004年)のように、検察官による証拠の改竄かいざんまでが行われた例がある。 さて、その郵便不正事件では、村木氏が犯行に至った経緯として、事件関係者がかかわったとされる19件の面談や電話での会話が検察官の冒頭陳述で挙げられており、これを裏付ける関係者の供述調書が多数あったが、うち1件を除く18件については、現実には存在しない架空のものだった。これについては、村木氏の弁護士であった弘中惇一郎氏が、「組織をあげての事件の捏造ねつぞう」であり、一人の検察官による証拠の偽造(フロッピーディスク内文書データの最終更新日時を改竄)よりもさらに重大な問題であると述べている(『特捜検察の正体』〔講談社現代新書〕)。 こうしたフレームアップ、でっち上げは、重大冤罪事件の警察捜査ではしばしばみられるものだ。しかし、それらについては、強引な捜査方法に問題があると警察内部でも取り沙汰されていた人物が見込み捜査を強硬に推し進めた結果である例も多いといわれる。 検察官は、警察の捜査をチェックする立場にある官僚である。その官僚組織中でもエリート集団といわれる特捜検察が「問題のある刑事」と同様の捜査を行っていたということになると、組織の構造的なひずみを考えざるをえないであろう。前記弘中書に書かれている事柄のうち、法律家の目からみて主観による推測の入る余地の乏しい客観的事実だけを取り出してみても、戦後の警察が各種の冤罪事件で行ってきた問題のある捜査方法が、拷問を除き、ほぼそのまま網羅されている感があるのだ。 特捜検察は、捜査の端緒をつかむことから起訴までのすべてをみずから行う。したがって、動き出してしまうと、客観的、合理的で冷静なチェックがはたらかない。それに加えて、前記のような検察官のメンタリティー、面子、特権意識が重なると、暴走を押しとどめることができなくなる。 また、すでにふれたとおり、特捜検察が、政治権力の特定の一部の意向を不明瞭なかたちで受けて立件に動いている可能性も、特に政治家がらみの事件では指摘されている。これは、民主政治の根本をおびやかす事態を生みかねない。 一方、特捜検察は、福島第一原発事故や第二期安倍政権時代の森友・加計学園問題、「桜を見る会」問題等では動かなかった(福島第一原発事故に関する起訴は、検察審査会の議決による強制起訴)。2020年前後の自民党政治資金パーティー裏金事件における起訴も、ごく小規模なものにとどまり、ほとんどの議員は刑事責任を免れた。しかし、これらは、本来であれば特捜検察が積極的かつ果敢に取り組むべき問題だったはずであり、こうした点でも、特捜検察の姿勢は不明瞭といわざるをえない。 前記のとおり特捜検察は検察のエリート集団と位置付けられてきたのだが、以上に論じてきたような問題もあってか、「近年は、特捜検察の積極的志望者が少なくなっている」との話を、私は、検察の内部についてよく知る人物から聞いたことがある。しかし、そうであればなおさら、自己チェック機能の弱体化も懸念されるわけである。 政治の腐敗については事件限りで任命された特別検察官が捜査、起訴を行うというアメリカの方式のほうが、よほど健全であろう。あるいは、特捜検察は捜査の端緒をつかむだけのセクションにして、現実の捜査は警察あるいは別の検察セクションにさせ、起訴も同様にし、また、起訴の当否、必要性については、弁護士等外部から入れた法律家の目をも交えて決めるような組織にすべきであろう。権力が少数の人間に集中し、立件の基準が不明瞭であり、第三者による客観的なチェックが入らない現在のような制度は、まさに前近代的である。 なお、2024年8月8日、大阪高裁は、大阪地検特捜部の検察官に関する付審判請求につき、「検察なめんな」などと一方的にどなり、机を叩いて責め立てたなど取り調べの際の言動に大きな問題があったとして、特別公務員暴行陵虐罪で審判に付する決定を出した。付審判請求とは、公務員の職権濫用罪について告訴・告発を行った者が、検察の不起訴処分に不服のある場合に、事件を裁判所の審判に付する(刑事裁判を開始する)ことを求める手続であり、検察官が審判に付されたのは初めてのことである。また、検察官の取り調べをめぐっては、国家賠償請求訴訟も相次いで提起され、地裁での勝訴判決も出ている。 さらに【つづき】〈日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」〉では、刑事系裁判官の「法意識」について見ていきます。 本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください』、「政治の腐敗については事件限りで任命された特別検察官が捜査、起訴を行うというアメリカの方式のほうが、よほど健全であろう。あるいは、特捜検察は捜査の端緒をつかむだけのセクションにして、現実の捜査は警察あるいは別の検察セクションにさせ、起訴も同様にし、また、起訴の当否、必要性については、弁護士等外部から入れた法律家の目をも交えて決めるような組織にすべきであろう。権力が少数の人間に集中し、立件の基準が不明瞭であり、第三者による客観的なチェックが入らない現在のような制度は、まさに前近代的である」、その通りだ。

第四に、12月4日付け現代ビジネスが掲載した明治大学教授で元裁判官の瀬木 比呂志氏による「刑事司法の病理現象「冤罪」に関する「日本特有の問題」…日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/142075?imp=0
・『「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だという「意外な事実」〉にひきつづき、「刑事司法における明らかな病理現象」である冤罪について、刑事司法関係者の法意識を中心にみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです』、「「刑事司法における明らかな病理現象」である冤罪について、刑事司法関係者の法意識を中心にみていきます」、興味深そうだ。
・『冤罪に関する日本特有の問題  冤罪は、いわば刑事司法の病理現象、宿痾しゅくあであり、どこの国にでも存在する。 しかし、日本特有の問題もある。それは、日本の刑事司法システムが冤罪を生みやすい構造的な問題を抱えていること、また、社会防衛に重点を置く反面被疑者や被告人の権利にはきわめて関心の薄い刑事司法関係者の法意識、そして、それを許している人々の法意識、という問題である。日本の刑事司法システムは、為政者や法執行者の論理が貫徹している反面、被疑者・被告人となりうる国民、市民の側に立って上記のような国家の論理をチェックする姿勢や取り組みは非常に弱いのである。 刑事司法システムの問題からみてゆこう。 まず、身柄拘束による精神的圧迫を利用して自白を得る「人質司法」と呼ばれるシステムが挙げられる。勾留期間20日間に逮捕から勾留までの期間を加えると最大23日間もの被疑者身柄拘束が常態的に行われている。また、否認したまま起訴されると、自白まで、あるいは検察側証人の証言が終わるまで保釈が許されず、身柄拘束が続くことがままある。第一回公判期日までは弁護人以外の者(家族等)との接見が禁止される決定がなされることも多い。 「人質司法」は、日本の刑事司法の非常に目立った特徴であり、明らかに冤罪の温床となっている。しかし、これについては、近時ようやく一般社会の注目が集まるようになってきたという段階であり、改革は、ほとんど手つかずのままである。 検察官の権限が非常に大きく、たとえば英米法系諸国における大陪審や予備審問のように起訴のためにほかの機関による承認やチェックを必要とする仕組みがないことも、大きな問題である。起訴権を独占する一枚岩の組織体としての検察の権力は、無制約に強大なものとなる。 そして、江戸時代以来連綿と続いている「自白重視、自白偏重」の伝統が、以上の問題に拍車をかけている。こうした伝統の下では、捜査官も検察も、いきおい自白を得ることに固執しがちになるからだ』、「検察官の権限が非常に大きく、たとえば英米法系諸国における大陪審や予備審問のように起訴のためにほかの機関による承認やチェックを必要とする仕組みがないことも、大きな問題である・・・江戸時代以来連綿と続いている「自白重視、自白偏重」の伝統が、以上の問題に拍車をかけている。こうした伝統の下では、捜査官も検察も、いきおい自白を得ることに固執しがちになるからだ」、なるほど。
・『冤罪防止のためのシステムや取り組みの欠如  冤罪の頻度、また、これを防止するためのシステムの整備という点からみても、日本の状況には、大きな問題がある。 まず、冤罪が実際にはどのくらいあるのかすら全くわからない。表に出てくる情報もほとんどない。キャリアを通じて真摯しんしに刑事裁判に取り組み、約30件の無罪判決を確定させた裁判官(木谷明氏。公証人、法政大学法科大学院教授を経て現在は弁護士)がいる一方、刑事系裁判官の多数はごくわずかしか無罪判決を出しておらず、「ゼロ」という裁判官さえ一定の割合で存在する。特定の裁判官にだけ無罪事案が集中するのはきわめてありにくいことだから、たとえば刑事系裁判官が控えめにみて一人当たり十の冤罪を作っている可能性があると考えてみると、日本における冤罪が、いかにありふれたものでありうるかがわかるだろう。 たとえばアメリカでは、ロースクール、公設弁護士事務所等を中核とするイノセンス・ネットワーク、その中核となっているイノセンス・プロジェクト(非営利活動機関)が、刑事司法改革に取り組み、冤罪に関する調査を行い、冤罪の可能性のある事件についてDNA鑑定等を利用して再審理を求め、イノセンス・プロジェクトだけでも300件以上の有罪判決をくつがえしている。 そして、こうした活動には連邦や州も協力している(なお、イノセンス・ネットワークは、アメリカ以外の国々にも展開されている)。さらに、多くのロースクールには、冤罪を含む刑事司法の問題について中心的に研究しかつ教えている教授がいるので、そうした事柄に関する平均的な弁護士、裁判官のリテラシーについても、一定水準のものは確保されるようになっている。日本の法学教育、法曹教育においても、冤罪とその防止に関する最低限の教育くらいは行われるべきであろう。 アメリカの刑事司法も決してバラ色ではなく、警官の問題行動は非常に多い。また、法域(連邦、州以外にも種々の法域がある)がともかく細かく分かれているため、警察、検察、裁判所とも、法域、地域による質のムラが大きい。しかしながら、少なくとも、「冤罪という問題」の存在を「直視」し、そのような「不正義」から被害者を「救済」するための充実した「取り組み」があり、連邦や州等の「公的セクション」も、その必要性と意味を認めて「協力」している(一例を挙げれば、冤罪事件を含め、貧困者、死刑囚、受刑者等のための弁護活動を専門に行う弁護士事務所に補助金を出すなど)のであり、こうした点は、日本とは全く異なる(なお、日本でも、海外における取り組みを参考にして、イノセンス・プロジェクト・ジャパンが2016年に設立された。未だその歴史は浅いが、今後の活動の展開に期待したい)。 また、刑事訴訟、特に再審請求手続における検察官手持ち証拠の開示、再審等に備えての証拠の保管(特に重要なのが、前記のDNA鑑定資料)といった冤罪防止、刑事訴訟手続全般の適正化のための基盤となる制度についても、日本は、明らかに国際標準に後れつつある(たとえば、李怡修リーイシュウ「刑事手続における証拠閲覧・開示と保管──日本・台湾・カリフォルニア州の再審請求段階から考察する」〔一橋大学機関リポジトリ〈ウェブ〉掲載〕によると、日本の制度は、アメリカのみならず、台湾にも後れをとっているように思われる)。 さらに【つづき】〈日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」〉では、検察官の「法意識」」などについてくわしくみていきます。 本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください(日本の制度は、アメリカのみならず、台湾にも後れをとっているように思われる・・・日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」〉では、検察官の「法意識」」などについてくわしくみていきます」、なるほど。
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