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経済学(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) [経済政治動向]

経済学については、昨年7月23日に取上げた。今日は、(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い)である。

先ずは、昨年11月29日付けNewsweek日本版が掲載したフォーリン・ポリシー誌上級特派員のマイケル・ハーシュ氏による「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/11/post-13509_1.php
・『<グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した> ノーベル賞の受賞者でコラムニストとしても知られる経済学者のポール・クルーグマンは、論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調で名をはせてきた。 1990年代初めから精力的に著書や論説を発表。急速に進むグローバル化に疑義を唱える論客には片っ端から「経済音痴」のレッテルを貼ってきた。特に中国との競争を危惧する議論を聞くと、「バカらしい」のひとことで切って捨てる。心配ない、自由貿易が自国経済に及ぼす負の影響など取るに足らない。それがお決まりのセリフだった。 そのクルーグマンが突如、宗旨変えした。今年10月、「経済学者(私も含む)はグローバル化の何を見誤ったか」と題した論説を発表。自分をはじめ主流派の経済学者は「一連の流れの非常に重要な部分を見落としていた」と自己批判したのだ。 クルーグマンによれば、経済学者たちはグローバル化が「超グローバル化」にエスカレートし、アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた、というのだ。 ラストベルト(さびついた工業地帯)の衰退ぶりを見ると、ようやく認めてくれたか、と言いたくもなる。謙虚になったクルーグマンは、さらに重大な問いに答えねばならない。彼をはじめ主流派の経済学者が歴代の政権に自由貿易をせっせと推奨したために、保護主義のポピュリスト、すなわちドナルド・トランプが大統領になれたのではないか、という問いだ。 公平を期すなら、クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた。彼は経済学者でありながら経済学者に手厳しいことでも知られる。2008年の金融危機後には、過去30年のマクロ経済学の多くの予測を「良くても驚くほど役に立たず、最悪の場合、明らかに有害」だったと総括した。 クリントン政権で労働長官を務めた経済学者のロバート・ライシュは、国際競争の激化を懸念し、良質の保護主義的な政策と製造業の労働者の再訓練を推進しようとした。このライシュについて、クルーグマンは1990年代当時、私に「気の利いた言い回しが得意なだけで、物事を深く考えない嫌な奴」と評したものだ。 クルーグマンの宗旨変えについてライシュにコメントを求めると、「彼が貿易の何たるかをやっと理解してくれてよかった」とメールで答えてくれた。クルーグマンもメールで「ライシュについて言ったことは後悔している」と述べたが、「もっとも彼が超グローバル化を予測し、チャイナショックの影響を最小限にとどめようとしたと言うのなら、それは初耳だが」と嫌みも付け加えた。 経済学者たちはようやく自分たちの傲慢ぶりを認め、2009年にクルーグマン自身が書いたように「数学という素敵な衣装をまとった美しい理論を真実と思い込んでいた」ことに気付いたが、時すでに遅しの感もある。 経済学者たちは1960年代末から連邦政府の政策立案に大きな影響を与えるようになり、アメリカを間違った方向に導き、社会の分断を助長したと、ジャーナリストのビンヤミン・アッペルボームは指摘している。多くの経済学者が福祉を犠牲にし、効率性を最優先して「高賃金の雇用を切り捨て、低コストの技術産業に未来を託した」というのだ』、「ポール・クルーグマン」の「論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調」を私は好んでいたので、「突如、宗旨変えした」ことで楽しみが1つなくなったとすれば、寂しい気がする。
・『「修正を試みても手遅れだ」  マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、デービッド・オートーは、中国の急成長がアメリカの労働市場に及ぼした影響をデータで示してきた。オートーによればより大きな問題は、多くの経済学者が自由貿易は善だと無条件で信じていたことだ。「貿易は万人にとって有益だと政策立案者に助言するのが自分たちの務めだと思い込んでいた」 ハーバード大学の経済学者、ダニ・ロドリックは1997年に『グローバル化は行き過ぎか』という著書を発表した。当時は異端と見なされたこの本を書いたのは「経済学者がグローバル化に全く危機感を持っていなかったから」だと、彼は言う。今ではロドリックの見方が主流になっている。 さしもの経済学者たちも、自分たちが引き起こした事態に対処すべく重い腰を上げ始めた。ロドリックも元IMFチーフエコノミストのオリビエ・ブランシャールと共に格差をテーマにした会議を主宰したばかりだが、もう手遅れかもしれないと言う。トランプ政権下では、まともな議論すらできないからだ。 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」と、アッペルボームは嘆く。 それでもトランプは、中国の台頭に対するアメリカ人の不安を背景に、史上最大の貿易戦争に打って出た。不安が広がったのは、経済学者の読み違いのせいでもある。中国の急成長でアメリカの製造業の雇用がこれほど迅速かつ大量に失われるとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クルーグマンも指摘しているように、「2000年以降、製造業の雇用は恐ろしいほど急減」し、その急カーブはアメリカの貿易赤字、特に対中赤字拡大の急カーブと一致していた。こうしたデータが、ただのデタラメにすぎないトランプの主張に信憑性を与えたのだ。 貿易問題や所得格差、労働者のための適切な保護策に関する「まともな議論を完全に消し去ったことが、最も理不尽なトランプ効果の1つだ」と、ロドリックは言う。 クルーグマンに、彼自身も含めて経済学者がトランプ政権の誕生を助けたのではないか、と聞いてみた。「それについては、まだ議論している最中だ」と、彼は答えた。「これは私の考えだが、トランプの(保護主義的な)貿易政策はさほど支持されておらず、トランプ人気に貢献したとは思えない。その意味でトランプ現象を経済学者たちのせいにするのはいささか酷ではないか」』、「トランプは・・・貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ」、超一流経済学者が多いアメリカでよりにもよってこんな大統領が出現したとは、経済学の無力さを露呈したのかも知れない。
・『レッテル貼りと締め出しと  そうは思わない人もいるだろう。問題の一端は、グローバル化は善だというコンセンサスが姿を現しつつあった1990年代、経済学者たちは貿易問題を「自由貿易主義」か「保護主義」かの2つに1つという単純な図式で捉える傾向があったことだ。 クルーグマンもおおむね自由貿易論者の立場を取った。ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていたことを思うと皮肉な話だ。 一方で政策論争に関わった人々の中には、急速なグローバル化にクルーグマンよりずっと強い懸念を抱いた人々もいた。その代表格が、ロドリックやライシュ、クリントン政権で国家経済会議議長を務めたローラ・タイソンといった人々だ。彼らは自由貿易こそ善という考え方に異議を唱えたり、タイソンのようにアメリカの競争力を高めるための産業政策を推進したりした。クルーグマンはこうした考え方も忌み嫌った。 クルーグマンは、自身の読み違えは貿易が労働者や経済格差に与えた影響に関するものであり、あくまでも「限定的なものだった」と言う。確かにその言い分は間違っていない。 だが冷戦終結後、貿易をめぐる議論は、自由市場vs政府による介入という、より幅広い議論の「代理戦争」となっていた。クルーグマンは「戦略的貿易論者の、経済学に対する無知の表れ」と彼の目に映ったものを大々的に攻撃した。戦略的貿易論者とは、人件費の安い途上国との競争で、アメリカの雇用と賃金は深刻な影響を受けると主張する人々だ。 ジャーナリストのウィリアム・グレイダーは著書の中で、途上国の攻勢により「アメリカが勝つ分野と負ける分野」が出てくるだろうと警告したが、クルーグマンからは「全くバカげた本」と評された。シンクタンク、ニューアメリカ財団のマイケル・リンド共同創立者が、アメリカの生産性が伸びても「世界の搾取工場である国々」にはかなわないかもしれないと指摘した際も、クルーグマンは経済の「事実」を知らない門外漢のくせに、と一蹴した。 クルーグマンに言わせれば、この手の議論はいわゆる「悪い経済学」だった。他の国の動向など気にし過ぎてはならない。あらゆる国が開かれた貿易から利益を得ることができるという新古典派経済学の概念が安定をもたらすはずだ──。自由貿易よりも市場への政府の介入に類するものや公正貿易(関税や失業保険、労働者保護の拡充と同義だ)を支持する人は、「保護主義者」の烙印を押され議論から締め出された。 確かにクルーグマンは、医療保険制度や教育の改革といった中間層に対する保護政策は大切だと常に考えてきた。また、貿易問題での見誤りを認めたからといって、いわゆるワシントン・コンセンサスを正しいと言っていたことにはならないとも述べている。ワシントン・コンセンサスとは、財政規律と急速な民営化、規制緩和を支持するネオリベラル(つまり自由貿易主義)的な考えだ。 「私たちを批判していた人全てが正しかったわけではない。肝心なのは彼らが何を言ったかだ。私の知る限り、これほど(中国などが)貿易で台頭することを予見した人も、それが一部地域に与える悪影響について注目していた人もほとんどいなかった」と、クルーグマンは言う。 だがグローバル化を善とする考え方はさらに深い問題もはらんでいた。やはりノーベル賞を受賞した経済学者のジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告していた。彼は「標準的な新古典派的分析」の問題点は「調整に全く無頓着だったところだ」と述べた。「労働市場の調整コストは驚異的なほど少ない」』、「クルーグマン」自身も「ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた」、のに単純化して自由貿易推進派になったのは、確かに矛盾している。「ジョセフ・スティグリッツ」や「ロドリック」のように、「貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告」していた人々もいたことを知って、少しは安心した。
・『大統領選では左派候補を支持  スティグリッツはクリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長を務め、国際的な資本の流れにブレーキをかけることを訴えるなどした(が実現しなかった)。つまり彼はタイソンやライシュと同じ非主流派だったのだ。また彼は「通常、雇用の破壊は新たな雇用の創出よりもずっと速く進む」と主張していた。 スティグリッツはフォーリン・ポリシー誌でこう論じている。「(グローバル化の)コストを背負うのは明らかに、特定のコミュニティー、特定の場所になるだろう。製造業が立地していたのは賃金の安い地域だった。つまりこうした地域では調整コストが大きくなりがちだった」 また、グローバル化の負の影響は一過性のものでは終わらない可能性も明らかになってきている。アメリカ政府が途上国との貿易を急速に自由化し、投資に関する合意を交わしたために「(労働組合の弱体化や労働規制の変化の影響も相まって)労働者の交渉力は劇的に変わってしまった」とスティグリッツは指摘した。 最大の負け組はやはり、アメリカの労働者だ。経済学者はかつて、好況下では労働者は自分たちの賃金を引き上げる力を持つと考えていた。だが最近の見方はちょっと違う。多国籍企業が全世界を自らの縄張りに収めて四半世紀がたち、グローバル化した資本は国内に縛られたままの労働者よりも優位に立った。 主流派の経済学者たちがこれほど急に左寄りになったことに驚いているのは当の経済学者たちだ。多くは前述の格差問題に関する会議でこのことに気付かされた。来年の米大統領選挙では、経済学者たちの支持は中道のジョー・バイデン前副大統領よりもエリザベス・ウォーレン上院議員やバーニー・サンダース上院議員などの革新派候補に流れているとの声も参加者からは聞かれた。 「私はフランスでは社会主義者なのに、ここに来たら中道だった」と、ブランシャールは冗談を飛ばした。これぞ1990年代の読み違えが残した「置き土産」かもしれない。 タイソンは言う。「みんな、いかに状況が急激に変わり得るかに気付いていなかった」 From Foreign Policy Magazine)』、「自由貿易」や「グローバル化」論議は、EUの市場統合、英国のEU離脱にも影響を与える幅広い問題で、今後の展開が1つの注目点だ。

次に、本年3月20日付け東洋経済オンラインが掲載した作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏による「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337633
・『今から20年前の2000年を超えたあたりから、アメリカ流の新自由主義的な考え方が日本に流れ込んできました。そのとき、セットで取り上げられたのが「自己責任論」です。 実はこの「自己責任論」が大手を振るう中で、それに振り回される形でさまざまなものを抱え込み、心を病んでしまう人が少なくありません。「自己責任論」が持つ矛盾と、それを振りかざす論者たちの本当の思惑を知ることで、心の病に陥るスパイラルから脱することが大切です。拙著『メンタルの強化書』をもとに解説します』、興味深そうだ。
・『一見、まともに見える自己責任論  まず「自己責任」が声高に言われ始めたのが金融業界でした。金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります。そしてリテール部門、つまり個人顧客の開拓に力点が置かれるようになりました。 ここで「自己責任論」が出てくるのです。要は、顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題です。当時、金融機関はバブル処理がまだ完全に終わっていないところもあり、決して安定している状況ではありませんでした。 まして護送船団方式が解除され、諸外国の金融機関も含めた競争の激化が予想されました。リテール部門での責任をいちいち追及されたらたまったものではありません。先手を打って自己責任という言葉を出してきたと思われます。 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理でした。 一見、至極当然のようにも聞こえるところがミソなのです。しかし、言葉の意味をしっかりと吟味したら、この「自己責任論」がおかしいことがわかります。 まず、彼らの言う「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違うものです。own riskとは「自分で利益を求めようとして自分で決定した場合には、予期せぬ不利益(リスク)も併せて背負わなければいけない」という考え方です。 これは、株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです』、「貯蓄から投資へ」の流れも「自己責任論」が強まった背景だ。
・『「自己責任」は不自然な言葉だ  そもそも「自己責任」という言葉自体がおかしな言葉です。まず、「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳されますが、そのもとはラテン語のrespondereだとされます。その本来の意味は、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指しているとされます。 また、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされました。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました。 先ほどのラテン語の意味と合わせると、「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方です。 ですから欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提とされます。なぜなら説明義務が生じるのは本人であることは自明ですから、改めて「自己」をつける必要がないからです。 さらに言えば、「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味です。このような言葉をあえて掲げなければならない状況自体がすでに不自然であり、おかしいのです。 この不自然な言葉である「自己責任」が、やたらと使われた場面がもう1つありました。それが非正規雇用の拡大の場面です。小泉内閣のときに行われた労働法の改正で、非正規雇用の枠組みが広げられました。それによって非正規雇用が一気に増え、ワーキングプアなどの問題が噴出しました。 当時、年末の日比谷公園などに、ネットカフェで寝泊まりする非正規雇用者や路上生活者などが集まり、ボランティアの人たちから炊き出しを受けている光景がニュースになったのを覚えているでしょうか? そのときにしきりに論じられたのが「自己責任」という言葉です。彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした。 当時は、職場でもプライベートでも「自己責任でやってくれ」とか、「自己責任をきちんと果たしてください」などと、猫も杓子も「自己責任」という言葉を使っていました。 その言葉とともに使われるようになったのが「努力」という言葉でした。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために非正規雇用で働かざるをえなかったのだから、それは「自己責任」だという論理です。 「自己責任」はいつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになりました。いかにも新自由主義的な発想だと考えますが、ここにこの問題のすり替えがあります』、「彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした」、日本国民としての仲間意識などは微塵も感じられない非常に冷たい見方だ。
・『労働者に責任を転嫁する人たち  そもそも「責任」という概念は「自由」という概念とはつながっていますが、「努力の有無」とはまったく関係のない概念です。「努力しなかったことの責任が問われる」としたら、それはいったいどういう社会なのでしょう?もちろん「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立っても、そこに「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があります。 新自由主義的な競争社会においては、まさにそのような考え方がフィットするのだと思いますが、本質をはき違えた論理だと思います。努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。 「責任」は「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度が高いでしょうか?マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っていると言います。自由と責任は表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるということは当然の帰結です。 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはずです。 私は、非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます。むしろ「自己責任」を追及されるべきは雇用者側ではないでしょうか? 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。 ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか?少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います』、「「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます」、同感だ。
・『神の前で反省し、悔い改めればいい  ちなみに、先ほどの「責任」という考えは、キリスト教ではまったく違った捉え方をします。キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられるべき存在ではありません。 「自由」がもともと与えられていないのですから、「責任」など人間には最初からないということになります。逆に、自分のしたことに対して「責任」を取ろう、あるいは取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢なのです。 人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。 では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう?それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。 そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか?詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、愚かな人間は互いに手を取り合うことなく、取ることもできない責任を勝手に作り出し、それによって同胞をおとしめ、自分だけが這い上がろうと足掻いているのです。なんとも哀れで滑稽な姿に見えてきます。 現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまいます。しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつくでしょう』、『メンタルの強化書』が、「新自由主義」的な「自己責任論」に苦しめられている人々に救いになることは確かなようだ。

第三に、4月17日付けダイヤモンド・オンライン「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/234917
・『日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録  「貨幣とは何か?」「その価値の根拠はどこにあるのか?」 これは誰でも一度は考えてみたことがあり、古代ギリシアの哲人アリストテレス以来、多くの哲学者や経済学者によって考察がなされてきた、シンプルでありながら実は極めて難解な問いである。マルクスの言葉を借りれば、貨幣とは「形而上学的な不思議さに満ち満ちた存在」なのである。 本書『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』は、日本を代表する経済学者で、稀代の教養人である岩井克人が、アリストテレスからアダム・スミス、カント、モンテスキュー、ゲーテ、シュンペーター、ケインズ、ハイエク、フリードマンに至るまで検証し、30年以上にわたってこの問題に挑み続けてきた全記録である。 岩井は、正統派の近代経済学からスタートして、東京大学、イエール大学、プリンストン大学などの超一流大学で教鞭をとる傍ら、『ヴェニスの商人の資本論』『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるのか』『経済学の宇宙』といった著書を通じて、貨幣や会社など様々な社会問題について思想的考察を行なってきた。 岩井が貨幣の本質に迫った『貨幣論』を書いたのは1993年だが、貨幣の研究を本格的に始めたのは1980年代の初め頃である。それ以来、岩井の貨幣論の基本は全く変わっていない。それどころか、グローバル化の進展によって地球全体がひとつの資本主義社会になり、より純化したことで、現実の方が『貨幣論』で描いていた理論的な世界にどんどん近づいてきている。 貨幣がおカネとしての価値を持つ根拠として、「貨幣商品説」と呼ばれるものがある。金銀がおカネとして使われるのは、それが多くの人が手に入れたがる価値の高い商品だからという説明である。しかしながら、これは、「あるモノがおカネとして流通しているときには、おカネとしての価値はモノとしての価値を必ず上回っている」という事実に反している。 これに対して、国家や君主や共同体などにその根拠を見いだそうとするのが、「貨幣法制説」である。法律や命令などで貨幣として定めたからおカネは流通するのだという説明であり、今日では、この貨幣法制説が経済学者の間での通説になっている。今話題の「現代貨幣理論(MMT)」は、正にこの貨幣法制説に依拠しているのだが、岩井に言わせれば、この説もやはり不十分である。 1741年にオーストリアで発行されたマリア・テレジア銀貨はヨーロッパ全土で流通し、更には時代を超えて、中東や東アフリカで使われ続けた。ハプスブルク家が支配した帝国は1918年に滅んだにも関わらず、エチオピアのカファ地方では、1970年代までコーヒー取引のための貨幣として流通していた。これは、貨幣が貨幣として流通するためには、法律や命令は必ずしも必要がないということを示している』、確かに「マリア・テレジア銀貨」が、今に至るまで「中東や東アフリカで使われ続けた」、というのは、「貨幣法制説」の「不十分」さを示している。
・『貨幣と商品とはどこが違うのか  岩井に言わせれば、我々がおカネを受け取るのは、「ほかの人」がその価値があるおカネとして次に受け取ってくれると信じているからである。つまり、貨幣の価値というのは、商品と同様に社会が与えているのである。 それでは、貨幣と商品とはどこが違うのか。おカネには、人間のモノに対する欲望のような実体的な根拠は存在しない。誰もが貨幣として受け取るから貨幣なのであり、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法になっているのである。 貨幣商品説だけでなく貨幣法制説をも明確に否定して、人類がこの自己循環論法にまでたどり着くには、 17世紀末にスコットランドで生まれ、フランスの中央銀行総裁と財務大臣にまで登り詰め、世界三大バブルのひとつ「ミシシッピバブル」を招いた、ジョン・ローというトリックスターの登場を待たなければならなかった。 ジョン・ローは、『貨幣と商業』という著作の中で、のちに「ローのシステム」と呼ばれることになる、中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している。現代の金融システムは、この「ローのシステム」そのものであり、経済の効率性を大いに高めると同時に、経済の不安定性をも大いに高めるという、「効率性と安定性の二律背反」を背負ったものなのである。 「自分がモノとして使うためではなく、将来、ほかの人に売るために何かを買うこと」というのが投機の定義である。その意味で、おカネを使うこと、即ち、それ自体何の使い道もないおカネをおカネとして流通させるという行為こそが、実は最も純粋な投機だと言える。 我々が生きているのはおカネに全面的に依拠した社会であり、そのおカネを使うことが純粋な投機なのだとすれば、資本主義社会は本質的に不安定性を抱え込んでいることになる。なぜなら、投機は必ずバブルを生み出し、膨れ上がったバブルは必ず崩壊し、それは必ず混乱とパニックを招くからである。 ▽法だけではなく、おカネの下でも人間は平等(マルクスは『資本論』の中で、「貨幣はレヴェラーズだ」と言っている。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で、17世紀半ばのピューリタン革命の時に、法の下での平等を唱えた急進的な政治グループのことを指す。マルクスが言おうとしたのは、人間は貨幣を持つことにより匿名性を獲得する、つまり、法だけではなく、おカネの下でも人間は平等だということである。 貨幣は、互酬的交換によってお互いが緊密に結びつけられた共同体的な束縛から個人を自由にし、一人一人が独立した市民として投票する民主制の発展を促した。つまり、おカネの下の平等が、法の下の平等を生み出したのである。 このように、貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる。そして、その行き着く先は、ポピュリズムや全体主義という悪夢である。このように、貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的であり、自由を守るためには自由放任主義と決別しなければならないのである。 アリストテレスは、今から2300年以上も前にこの貨幣の不思議に気づき、『政治学』の中で次のような言葉を残している。 「貨幣による財獲得術から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲するからだ。生きる欲望に果てはないのだから、彼らは満たしうる際限のない財を欲することになる。貨幣は元々交換のための手段。しかし、次第にそれを貯めること自体が目的化する。」 あらゆるモノを手に入れる「手段」である貨幣が、具体的なモノと切り離されて、それ自体がひとつの「目的」に転化した。終極点が新たな出発点になり、新たな終極点が更に新たな出発点となっていくこのプロセスに終わりはない。ここで、より多くの貨幣を絶えず求め続ける「貨幣の無限の増殖活動」としての資本主義が始まることになる。アリストテレスが嘆いたように、人々は「善く生きることではなく、ただ生きることに熱中する」ようになるのである』、「貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる」、「貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的」、その通りなのだろう。。
・『「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成  『欲望の資本主義』シリーズに登場する哲学者マルクス・ガブリエルは、今日の資本主義を、「商品生産に伴う活動全体」と再定義している。そして、資本主義は「商品の生産」そのものになり、これ自体が見せるためのショーになっているという。ただ差異を生み続けるためだけの果てしない資本の運動、つまり、絶対的な価値を見出すことよりも相対的な価格競争が勝ってしまい、差異を生むこと自体が自己目的化していく世界である。 そして今や、「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成つつある。繰り返される金融危機、拡大する所得格差、そして急速に進む地球温暖化といった形で、資本主義に本来的に内在している不安定性や不平等性や不可逆性が一気に顕在化してきている。 こうした際限のない貨幣への欲望に対抗し、社会の不安定性を抑えるために、岩井は、アメリカ独立やフランス革命などの動乱期のヨーロッパにあって、大陸合理論とイギリス経験論を調停したと言われる哲学者カントの倫理学に着目する。即ち、「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によって行動せよ」と命ずる、カントの道徳律である。 ここでもう一度繰り返すと、貨幣は人間を自由にする。自由とは、自分自身の領域を持っていて、自分で自分の目的を決定できることである。そして、これが「人間の尊厳」なのである。しかし、自由と安定は両立せず、常に二律背反的である。 岩井に言わせれば、資本主義というのは人類の歴史の中から生み出された普遍的な存在である。その中で人間の尊厳を守り続けるためには、同情、共感、連帯、愛情といった個々の感性に依拠するのではない、より普遍的な原理を持ってくる必要がある。それが、他者を邪魔しない最低限の義務としての「規範」なのである。そして、人はその規範を守る限りにおいて、誰からも侵されることのない領域である「人間としての尊厳」を保てるのである』、「哲学者カントの倫理学」は「大陸合理論とイギリス経験論を調停した」、初めて知った。なかなか巧みな「調停」のようだ。
・『世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる  岩井は『貨幣論』の中で、資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。」 こうした不安定さの中においても、岩井は資本主義そのものを否定することはしない。岩井が思い描く「規範」に基づく資本主義の新しい姿というのは、「倫理」という言葉で表されるものである。それは、2018年の京都大学経済研究所でのシンポジウムをベースにした近著『資本主義と倫理:分断をこえて』の中で垣間見ることができるが、その全貌を一刻も早く我々に見せてもらいたい。 新型コロナウィルスがグローバル経済を一気に破壊していく様を見ながら、皆、改めて世界が一体となったグローバル資本主義社会に生きていることを実感していると思う。世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる正にこの瞬間にこそお勧めしたい一冊である』、「資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである」、この「対応関係」を詳しく知るには、『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』を読むしかなさそうだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 タイソン ダイヤモンド・オンライン 佐藤 優 Newsweek日本版 (その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) マイケル・ハーシュ 「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」 グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した 論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調 クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた 「修正を試みても手遅れだ」 ダニ・ロドリック 『グローバル化は行き過ぎか』 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」 レッテル貼りと締め出しと 「自由貿易主義」か「保護主義」か ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた ロドリック ライシュ ジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告 大統領選では左派候補を支持 「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」 新自由主義的な考え方 セットで取り上げられたのが「自己責任論」 一見、まともに見える自己責任論 金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります 顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理 「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違う 株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです 「自己責任」は不自然な言葉だ 「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました 責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方 欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提 「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味 非正規雇用の枠組みが広げられました 彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした 労働者に責任を転嫁する人たち 「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます 神の前で反省し、悔い改めればいい 「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」 日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録 岩井克人「欲望の貨幣論」を語る マリア・テレジア銀貨 中東や東アフリカで使われ続けた 「貨幣法制説」の「不十分」 貨幣と商品とはどこが違うのか ジョン・ロー 中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している 貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる 貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的 「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成 哲学者カントの倫理学 大陸合理論とイギリス経験論を調停した 世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる 人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである
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日本型経営・組織の問題点(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、昨年11月6日に取上げた。今日は、(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている)である。

先ずは、作家・経済ジャーナリストの渋谷 和宏氏が昨年11月23日付けPRESIDENT Onlineに掲載した「外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/30036
・『日本人はなぜロボットを友達だと思うのか  「日本人ほど『日本人論』が好きな国民はいない」と著者の佐藤智恵氏は言う。そうかもしれないと思う。私自身、外国の識者が語る日本論、日本人論にはつい耳をそばだててしまう。本書『ハーバードの日本人論』は、そんな外国人の視点で見た日本論、日本人論の中でもとりわけ異彩を放つ一冊だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――本書はこうした「日本人のなぜ」について、メディア論やマネジメント論などそれぞれの分野で第一人者として知られるハーバード大学の教授陣に著者がインタビューし、わかりやすくまとめている。専門領域のみならず、日本や日本人について深い知識を持つ教授陣の話は示唆に富み、かつ新鮮だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」――メディア論を専門とするアレクサンダー・ザルテン准教授は言う。「日本人が歴史的にテクノロジーを『理想的な社会を実現するのに不可欠なもの』ととらえてきたことと深い関係がある」。 明治維新後、日本は西洋の技術を取り入れ、近代化に成功した。戦後の高度成長を支えたのも絶えざる技術進歩だった。テクノロジーへの信頼が、日本人のロボット観の根っこにあると指摘するのだ』、「佐藤智恵氏」は元NHKディレクターでコロンビア大学MBA取得、ボストン・コンサルティング・グループ勤務などを経てげ、作家/プロデューサー/コンサルタント。このブログでも2017年8月19日付け「原爆投下」で紹介している。確かに「外国の識者が語る日本論、日本人論」は、日本人が気付かない点を指摘してくれるので、興味深いものも多い。
・『日本のアニメが国境を超えて愛される理由  さらにザルテン准教授は日本のアニメが国境を超えて愛される理由についても独創的な分析を披露する。日本のアニメは日本の物語だけでなく、ディズニーのアニメや近代のSF文学などからも影響を受けており、その表現にも様々な技法が取り入れられている。こうした特徴が、インターネットによって文化の混合を日常的に体験している世界の若者の感覚に合致したと言うのだ。 「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――マネジメント論が専門のウィリー・C・シー教授は「かんばん」に代表されるトヨタ生産方式を例に挙げ、それを可能にしているのは継続して学習し、問題を解決する企業文化であり、その土台には「完璧な品質を追求する」「継続して改善を行う」という日本人の国民性があると解説する。 トヨタ生産方式は「日本の経済風土にあったオリジナルな方法を」という考えから開発されたと言われる。世界のものづくりに革命を起こした生産方式がなぜ日本企業によって生み出されたのか。答えの一端を垣間見た気がする。 本書が取り上げる「日本人のなぜ」は、もちろんこれらだけではない。「日本人はなぜ『場』を重んじるのか」「日本人はなぜものづくりと清掃を尊ぶのか」――ほかにも気になる命題が取り上げられ、その分析には思わず同僚や友人にひけらかしたくなる指摘がちりばめられている』、「佐藤智恵氏」が専門家から見解を引き出す能力は、豊富な職歴の上に築かれたのだろう。暇を見つけて、読んでみたくなる本だ。

次に、在米作家の冷泉 彰彦氏が12月24日付けNewsweek日本版に掲載した「忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/12/post-1132.php
・『<社内での打ち合わせや会議のための「社内出張」や、転勤、単身赴任などスルーすべきビジネス慣行が日本の会社には多い>  30年ぐらい前に止めていれば良かったのにいまさら感がありますが、「忘年会スルー」という言い方で、職場における半強制的で楽しくない宴会のために、貴重な年末の時間を使う習慣が批判されているのは良いことだと思います。 ですが、悪いのは忘年会だけではありません。日本の職場風土をもっと風通しの良いものにすると同時に、先進国中最低レベルとなっている生産性を向上させるためには、他にもスルーすべきことがあります。 1つ目は「社内出張」です。出張というと、セールスや業務提携など重要な目的があったり、あるいは見本市への出店や、反対に見本市や国際会議への参加による情報収集や人脈形成など、企業としての業務に欠かせないものがあるのは事実だと思います。 ですが、出張には大きな負荷がかかります。期間中は家事、育児、介護といった家族における責任を放棄して、遠隔地に行かねばなりません。問題は、どうしても必要な対外交渉、調査といったものではなく、日本の場合はまだまだ同じ会社の中での打ち合わせや会議のために出張する、つまり「社内出張」の機会が多いということです』、テレビ会議導入などで多少減ったとはいえ、「社内出張」は本当に無駄の最たるものだ。
・『「社内会議のための出張」はほとんどムダ  例えば、一定の職位以上の管理職は定期的に本社に集めて、全社の動きを知らせるという会社は多いと思います。また、海外など遠隔地に駐在させて勤務させている社員を呼び返して報告させる会議などもあります。さらには、何か突発的な問題が生じた場合には、役員などに報告と謝罪のために出張しなくてはならないということもあるでしょう。 こうした「社内会議のための出張」というのは、ほとんどがムダだと思います。まず、多くの社員を集めて「全社の動きを知らせる」会議というのは、単に参加者を社内政治の評論家にするだけで、個人のスキルの向上、そして会社全体の業績の向上には役にも立ちません。もっと言えば、社内世論を形成して意思決定の参考にしようなどという弱いリーダーでは通用しない時代でもあります。全社の動きを幅広く知らせれば社員の育成になるというのも、社員のモラル向上になるというのも限定的です。 海外に人を出していると「浦島太郎」になるので、ときどき呼び返してコミュニケーションしたほうが良いという習慣もありますが、根拠は怪しいと思います。日本の産業界は、国際化の遅れからこのような低迷に到ったのですから、変わらねばならないのは日本側であって、せっかく最前線に出ている人間には伸び伸びチャレンジさせるべきでしょう。 一番悪いのは、トラブルの発生時に「報告と謝罪」を対面式コミュニケーションでやるために呼び寄せることです。初動が大事であれば、現場の問題解決を本社は支援するべきところですが、ふんぞり返って「不始末は来て報告せよ、対応はそれからだ」というような姿勢の企業はどんどん淘汰されていくでしょう』、海外駐在の拠点長を定期的に呼び寄せるのも無駄だ。「トラブルの発生時」の本社の「ふんぞり返った」対応も酷いものだ。
・『2つ目にスルーすべきなのは、転勤です。せっかく身に着いたスキルを捨てさせて、全く違う分野に異動させる、あるいは別の土地へ異動させるという「人事ローテーション」と「ゼネラリスト育成」というのが、日本型人事だとされてきました。ですが、共働きが当然となる一方で、あらゆる業務内容が高度化し、専門性が問われるようになった現在、転勤のメリットは薄れており、残っているのは個人の人生設計を壊す弊害だけのように思います。 転勤に伴う単身赴任という習慣も、核家族の求心力を奪い、次世代に親となるべきロールモデルを与えることができなかった罪は重いと思います。まわりまわって非婚少子化の後押しをしているという観点から、社会的に止める時期に来ていると考えていいでしょう。 忘年会に象徴されるような、公私混同体質を伴った封建的ヒエラルキーで人間性を束縛するのが「忠誠心」だとか、何かに付けて「社内会議」をするのが育成やスキル向上になると思い込んだり、国中、世界中のどこへでも辞令一枚で社員と家族を飛ばせると考えたり、これでは、まるで「お国替え」と「参勤交代」です。封建主義そのものであり非人間的であると同時に、21世紀の高度な生産性とは全く馴染みません。これらの慣習も、スルーでいいのではないでしょうか』、アメリカで日本人駐在員たちの悲哀を見ているらしい冷泉氏ならではの鋭い指摘で、諸手を挙げて同意する。

第三に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が2月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「何をいまさら経団連、日本型雇用は10年前に終わっている」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00062/?P=1
・『久しぶりに春闘が話題だ。 きっかけは経団連が「日本型雇用の見直し」なるものを求めたこと。年末に行われた定例の記者会見で中西宏明会長は、こう訴えた。「新卒一括採用、終身雇用、年功序列型賃金が特徴の日本型雇用は効果を発揮した時期もあったが、矛盾も抱え始めた。今のままでは日本の経済や社会システムがうまく回転しない。雇用制度全般の見直しを含めた取り組みが重要だ」と。 その上で、「賃上げの勢いを保つことは大前提だ。ただ製品やサービスの付加価値向上に必要なスキルや意欲のある人が活躍できる環境づくりも大事だ。そのためには賃金体系や人事制度についてもしっかり対応すべきだ」──。 この発言は1月21日に発表された「2020年版 経営労働政策特別委員会報告(経労委報告)」の中で、「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言葉に置き換わった。「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と、盛んにアピールしているのだ。 しかも、組合側も組合側で、経団連の指針に“素直”に応じるような要求が相次いでいる。 自動車メーカーなどの各労働組合が12日、経営側に提出した要求書には……、・給与を1人当たり月額1万100円の引き上げを求める一方で、ベアについて人事評価に応じて差をつける新たな方法を提案(by トヨタ自動車の労働組合) ・新たな仕事に挑戦した社員に賃金を上乗せする制度の拡充を求める(by ホンダの労働組合)など、賃上げにめりはりをつけてほしいと書かれているらしい』、「労働組合」が「賃上げにめりはりをつけてほしい」、とは信じられないような要求だ。「めりはりをつけ」るのは、あくまで経営側であり、こんな要求で、組合員の団結が維持できると思っているのだろうか。或いは、団結など不要と割り切っているのかも知れない。御用組合化もここに極まれりだ。
・『2008年の「派遣村」が象徴していた日本型雇用の崩壊  これらの経緯を受け、テレビなどでは「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言語明瞭意味不明のフレーズを繰り返している。 ……ふむ。「日本型雇用システムが転換期を迎えている」って? 中西会長含め、経済界を代表する重鎮たちは、昨年から度々この言葉を繰り返しているけど、この言葉に私は違和感を抱き続けている。 だって、とっくの昔に日本型雇用システムは転換期を迎えていたじゃないか。10年前に、重鎮たちだってしかと、その目で、見たはずである。 まさか、忘れたってことだろうか? 経団連もメディアも、2008年の年末の「派遣村」のことを忘れてしまったのか?当時、メディアは連日連夜日比谷の派遣村から中継していたのに……。いったいどうしてしまったんだ? あの「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない。 忘れてしまった“経済界の重鎮”のために、あのときの出来事を簡単におさらいしておく。 08年秋に起きたリーマン・ショックにより、大手の製造業などで働く非正規の人たちがリストラされ、寮からも追い出される事態となった。いわゆる「派遣切り」だ。 そんな人たちを受け入れようと、労働組合関係者、法律家、生活困窮者支援NPOのメンバーらにより、日比谷公園に「年越し派遣村」がつくられ、全国から500人近くが集結。当時は“ワーキングプア”や“ネットカフェ難民”など、不安定な雇用形態である非正規雇用で働く人が急増した時期だったので、社会の関心も高かった。 中には「ホームレスも含まれているじゃないか!」「政治的な陰謀じゃないか」など、批判的な意見もあったが、派遣村の最大の功績は「貧困の可視化」だった。派遣村をきかっけに格差問題は貧困問題になり、非正規と正社員という単なる雇用形態の違いが「身分格差」になっていることが周知されたのだ。 それは“経営の三種の神器”として日本企業を支えてきた「終身雇用、年功制、社内組合」の崩壊であり、米国の経営とは異なる日本独自の極めて優れた経営戦略として世界から称賛された「日本型雇用システム」の終焉(しゅうえん)を意味するものだった。 つまり、経団連はやたらと「日本型雇用システムの限界」だの「日本型雇用システムの転換期」だの昨年から言い続けているけど、10年も前に“日本型雇用システム”の転換期を迎えていたのだ』、「「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない」、思い出したが、確かにその通りだ。
・『にもかかわらず「日本型雇用システムの転換期」という言葉を多用するのは、非正規にしたくでもできない正社員の賃金を減らしたい。コストをとにかく減らしたい。ただそれだけのこととみえる。 情けないことに経済界の司令塔である経団連が、あからさまに「コストカット」を訴え続けているのである。 こちらの図をご覧いただきたい。改めて書くまでもなく、日本の労働人口の年齢構成は高齢化が進み、60歳を過ぎても働くのが当たり前となった。共働きも当たり前で、働く女性も増えた。ところが「増えた属性=60代&女性の人たち」は日本型雇用システムでは雇用されていない(http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-07.html)。 年齢階級別非正規雇用労働者の割合の推移(男女別)(男女共同参画局『男女共同参画白書 令和元年度版』より) 女性は34歳以下をのぞくすべての年代で半数以上が非正規、男性では65歳以上の7割以上、55~64歳の約3割が非正規だ。25~34歳では14.4%と割合はさほど高くないが、全体として非正規雇用が増加傾向にあることは注視すべきだ。 一方、35~54歳は小泉政権の時に一旦増えたが、その後はほぼ横ばいが続いている。 要するに、この世代こそが経団連が言うところの“日本型雇用システム”の恩恵を受けている世代だ』、「35~54歳」の「男性」だけが「“日本型雇用システム”の恩恵を受けている」、とは初めて知った。しかし、ここにもいよいよ「経団連」はメスを入れようとしているようだ。
・『経団連の使命とは何だったのか  これまでも経団連の重鎮たちは、あの手この手で40代、50代の働く人たちをお荷物扱いするような発言をしてきたけど、今回は“子飼いにした組合”を巻き込み、この世代のコストカットに踏み切った。 連合の神津里季生会長がどんなに、「そもそも(経団連が指摘するような日本型)雇用システムはこの20年、確立していない。中小・零細企業の労働者や正社員以外の雇用形態で働く労働者への視点が欠けている」と指摘しても、重鎮たちはどこ吹く風だ。 「そんなこと分かってるよ! でもね、まださ、日本型雇用システムの恩恵を受けている層がいるのよ。その人たちのコストをカットしないことには日本の未来はないのさ」ってこと。……あまりに露骨だ。 かつてトヨタの会長だった奥田碩氏が、機会ある度に「解雇は企業家にとって最悪の選択。株価のために雇用を犠牲にしてはならない」と語り、経団連会長として「人間の顔をした市場経済」という言葉を掲げたのに、今の経団連のお偉い人たちの視界に「人間の顔」はない。 経団連のウエブサイトには経団連の使命として、「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与することにあります」と記されている。 「稲山嘉寛経団連会長(1980-86)は『我慢の哲学』、平岩外四経団連会長(1990-94)は『共生』、豊田章一郎経団連会長(1994-98)は『魅力ある日本』といったコンセプトを打ち出し、国際社会の中でよき企業市民として日本企業が受け入れられるように取り組みました」とも書かれている。 今の経団連から発せられる文言のどこに、「個人や地域の活力を引き出す」メッセージがあるのか? 日本型雇用システムを悪の根源のごとく叩きまくっているけど、それを生かす経営を今の経団連はしてきたのだろうか?』、従来の「経団連」とは大きく異なり、大所高所の議論よりも、目先の利害中心になってきたようだが、これも時代の流れとしたら、余りに寂しい。
・『2018年、日経新聞が“異例”の経団連批判をしたと話題になった記事を覚えているだろうか。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31995500Q8A620C1X12000/ 「経団連、この恐るべき同質集団」と大きな見出しがついた記事には、 ・19人の正副会長全員のだれ一人として転職経験がない  ・全員サラリーマン経営者 ・全員男性 ・全員日本人 ・一番若くて62歳 ・中西会長以下12人が東大卒、次いで一橋大3人、京大、横浜国大、慶応大、早稲田大が各1人で、首都圏以外の大学を出たのは山西健一郎・三菱電機取締役相談役ただ1人(京大工卒)と、異様なまでの同質性が指摘されていた。 フツーに考えれば、これだけ働く女性が増えたご時世で、なんでこの集団には女性がいない? 外国人労働者を増やすといっているのに、なんで外国人もいない? 経団連が大好きな「世界の市場」では多様性が当たり前なのに、今の経団連は多様性の「たの字」もない集団である。中西会長は会長に就任する前に、多様性の重要性を訴えていたはずなのに……いったいなぜ? お偉い人たちに叱られることを覚悟で言わせていただければ、経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている。そう思えてならないのである。 もし、本当に経団連の使命が「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与すること」であるなら、組合のあり方そのものも変えなくてはならないはずだ。 ところが、経団連は「業界横並びの集団的な賃金交渉は、実態に合わなくなっている」と明記し、春闘の意義そのものに疑問を呈した。社会的対話の象徴である「春闘」を、必要ないのでは?と指摘したのだ。 ふむ。これは大問題である』、「日経新聞が“異例”の経団連批判」、は誠に手厳しいが、その通りだ。「経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている」、との河合氏の批判は正鵠を突いている。
・『世界がディーセント・ワークを目指す時代に  社会対話は自由、平等、保障、人間の尊厳といった条件の下で、男女を問わずすべての人々がディーセント・ワークを得る機会を促進するというILO(国際労働機関)の目的達成においてカギとなる役割を果たしている。 ディーセント・ワークについては、今年最初の元日コラムで書いたとおり(働きがい問われる年、シニアのリストラが若者にも悪影響)、1999年のILO総会で初めて用いられた概念である。 「権利が保障され、十分な収入を生み出し、適切な社会的保護が与えられる生産的な仕事」であるディーセント・ワークを、ILOでは「すべての人にディーセント・ワークを(Decent Work for All)」を目指し活動している。 その仕事とは、「労働基準及び働く上での権利」「雇用」「社会的保護」「社会対話」の4つの柱で成立する。 社会対話をILOは、「政府、使用者、労働者の代表が、経済・社会政策に関わる共通の関心事項に関して行うあらゆる種類の交渉、 協議、あるいは単なる情報交換」と定義している。 そして、社会対話を可能にする条件として、以下を掲げている。 ・社会対話に参加する技術的能力を備え、関連する情報を入手できる機会が与えられた、強く、独立した労使団体 ・社会対話に従事しようとという政治的意思と決心が全当事者に存在すること ・結社の自由と団体交渉の基本的な権利の尊重 ・適切な制度的支援 ・社会的パートナーの代表が互いに平等なパートナーとして認識されること こうした社会対話の形態の1つが、春闘のような労使の二者構成だ。 その社会対話を経営の司令塔である経団連が「いらない」と言っているのだ。 労働組合からに講演会に呼ばれると、大抵聞こえてくるのは「組合に若い人が入りたがらない」「非正規の人が多いのに組合では正社員のことしか議論しないので、実態に合っていない」といった、組合のあり方への懸念であり、疑問だ』、「ディーセント・ワーク」の柱の多くは、ほぼすべて条約化されているが、日本は批准していないものが多い(Wikipedia)。日本は労働法制の面では後進国並みのようだ。
・『中西会長の出身母体である日立製作所の組合の雑誌に、私は数年間連載を持たせてもらったことがある。子会社や関連会社も多い日立グループにはたくさんの組合があり、活動が実に活発だった。いくつかの組合からは講演会に呼ばれたし、本体の日立製作所に呼んでいただいたこともある。 そのときの感想は「組合と会社がとてもいい関係にある」という、極めてポジティブなものだった。 なので、私は中西さんが経団連の会長に就任したときに、ものすごく期待した。あの日立のトップだった中西さんなら、時代遅れになっている経団連を変えてくれるのではないか、と。 働く人たちの視点で、カネではなく「人」を見てくれるんじゃないか、と。心から期待したのだ。 いったいどうしてしまったんだ? もっと働く人たちのやる気が湧くメッセージを、経団連の会長として出してくれよ!と、本当に残念でたまらないのである。 価値が多様化し、技術が日新月歩する予測不能な厳しい市場で生き残るには、企業が存在する意義を経営者がきちんと考え、自分たちの会社の価値判断を重視し、働く人たちが「誇りを持って働ける職場」とは何か?を考える経営をすることだ。 たとえばジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条(Our Credo)」のような、「自分たちのなすべきことは何か」の原点に立ち戻る経営について、経済界の司令塔としてメッセージを出すことじゃないのか。会長さん!私、間違ってますか?』、「経団連会長」に対する手厳しくも暖かい叱咤激励だ。
タグ:日経ビジネスオンライン PRESIDENT ONLINE 河合 薫 Newsweek日本版 佐藤智恵 日本型経営・組織の問題点 冷泉 彰彦 (その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている) 渋谷 和宏 「外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある」 日本人はなぜロボットを友達だと思うのか 「日本人のなぜ」について、メディア論やマネジメント論などそれぞれの分野で第一人者として知られるハーバード大学の教授陣に著者がインタビューし、わかりやすくまとめている 『ハーバードの日本人論』 日本のアニメが国境を超えて愛される理由 「忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習」 社内での打ち合わせや会議のための「社内出張」や、転勤、単身赴任などスルーすべきビジネス慣行が日本の会社には多い 「社内出張」 日本の場合はまだまだ同じ会社の中での打ち合わせや会議のために出張する、つまり「社内出張」の機会が多い 「社内会議のための出張」はほとんどムダ トラブルの発生時に「報告と謝罪」を対面式コミュニケーションでやるために呼び寄せることです。初動が大事であれば、現場の問題解決を本社は支援するべきところですが、ふんぞり返って「不始末は来て報告せよ、対応はそれからだ」というような姿勢の企業はどんどん淘汰されていくでしょう 2つ目にスルーすべきなのは、転勤 「人事ローテーション」と「ゼネラリスト育成」というのが、日本型人事 あらゆる業務内容が高度化し、専門性が問われるようになった現在、転勤のメリットは薄れており、残っているのは個人の人生設計を壊す弊害だけ 転勤に伴う単身赴任 忘年会に象徴されるような、公私混同体質を伴った封建的ヒエラルキーで人間性を束縛するのが「忠誠心」 国中、世界中のどこへでも辞令一枚で社員と家族を飛ばせると考えたり、これでは、まるで「お国替え」と「参勤交代」です 封建主義そのものであり非人間的であると同時に、21世紀の高度な生産性とは全く馴染みません 「何をいまさら経団連、日本型雇用は10年前に終わっている」 経団連が「日本型雇用の見直し」なるものを求めた 雇用制度全般の見直しを含めた取り組みが重要だ 賃金体系や人事制度についてもしっかり対応すべきだ 転換期を迎えている日本型雇用システム 専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要 組合側も組合側で、経団連の指針に“素直”に応じるような要求が相次いでいる 賃上げにめりはりをつけてほしい 2008年の「派遣村」が象徴していた日本型雇用の崩壊 非正規にしたくでもできない正社員の賃金を減らしたい。コストをとにかく減らしたい 「35~54歳」の「男性」だけが「“日本型雇用システム”の恩恵を受けている」 経団連の使命とは何だったのか 奥田碩 「人間の顔をした市場経済」 今の経団連から発せられる文言のどこに、「個人や地域の活力を引き出す」メッセージがあるのか? 日本型雇用システムを悪の根源のごとく叩きまくっているけど、それを生かす経営を今の経団連はしてきたのだろうか? 日経新聞が“異例”の経団連批判 経団連、この恐るべき同質集団 今の経団連は多様性の「たの字」もない集団 経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている 世界がディーセント・ワークを目指す時代に 社会対話は自由、平等、保障、人間の尊厳といった条件の下で、男女を問わずすべての人々がディーセント・ワークを得る機会を促進するというILO(国際労働機関)の目的達成においてカギとなる役割を果たしている ほぼすべて条約化されているが、日本は批准していないものが多い ジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条(Our Credo)」のような、「自分たちのなすべきことは何か」の原点に立ち戻る経営について、経済界の司令塔としてメッセージを出すことじゃないのか
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日本型経営・組織の問題点(その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、8月18日に取上げた。今日は、(その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義)である。

先ずは、東京工業大学教授・リベラルアーツ研究教育院長の上田紀行氏が9月10日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/214248
・『相次ぐ企業の偽装事件、ストレスで心身を病む会社員、続く役人の文書改竄・不適切調査、そして長すぎる老後への不安――。なぜ、こんな世の中になってしまったのか。スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークをおこない、「癒し」の観点を早くから提示し、日本仏教の再生に向けた運動にも取り組む上田紀行・東京工業大学教授・リベラルアーツ研究教育院長は、いまの日本人には、したたかに「立て直していく力」が乏しいと言う。日本は何を捨て去ってしまったのか? 上田教授の著書『立て直す力』(中公新書ラクレ)から、悩みを消し去り幸福に生きるためのヒントをお伝えする』、「悩みを消し去り幸福に生きるためのヒント」とは興味深そうだ。
・『今の日本を覆う失敗を語れない雰囲気  満員電車を前にして、時折立ち尽くしてしまうことはないでしょうか。 通勤時間帯で、しかも人身事故でダイヤが乱れて、いつもより混雑しているときがあります。 人が引きちぎられるようにして降りてきて、人があたかもモノのような形で押し込まれていくさまを見ていると、立ち尽くしてしまうのです。残された隙間に突進していく力が湧いてこない。 それはおそらく、社会状況が変わってしまったからだと思うのです。昭和の頃は、ギューギュー詰めになった車内にからだを預けて、ともかく乗ってしまえば、からだはキツいかもしれないけれど、終着駅にはそれなりの幸せが待っていると思えた。 経済は右肩上がりだったし、終身雇用制度が維持されている会社も多かった。給与のベースアップも多少なりともあった。少なくとも、昭和から平成の最初の頃までは、漠然とした安心感があったわけです。多くの人がそういう感覚だったので、一体感のようなものがあったような気もします。「経済神話」「企業信仰」というものに守られている心強さもありました。 しかしバブル経済が崩壊し、リーマンショックという大波を受ける中で時代状況は変わりました。多くの企業に導入された成果主義は一層研ぎ澄まされ、ハードルの高いノルマがのしかかり、達成できないと厳しい上司から説教されたり、ネジを巻かれたりする。目標未達の月が続くと、いつ肩をたたかれるかと、針のむしろの状態が続くことになる。 生きづらい社会になっていったのです』、確かにその通りだ。
・『人間はとても壊れやすい いつの時代もこぼれ落ちる人はいる  寛容な社会であれば、まだ精神的に何とか持ちこたえられるのですが、飲みながら愚痴をこぼせた日常は、古き良き時代の趣きさえあります。 お能をみると、妖怪になって夜な夜な旅人を襲うような化け物がでてきます。ところがその化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです。そしてそのこころの内を旅の僧が聞いてやると、妖怪は天上に昇っていきます。誰でも突然不幸な境遇となることがあり、傷ついて妖怪となってしまう。そういうものがこころなのであって、常にピンピンしているものではありません。 時代が変わったとしても、人間のこころが強靭になるわけではありません。傷つきやすい、フラジャイルなものです。 高度経済成長の時代、経済神話、企業信仰があった時代、身分は企業という“御本尊”に守られていたので、会社に依存していればさほど問題はありませんでした。「安心」や「信頼」は、ある意味タダのようなもの、空気のようなものだと思い込んでいました。気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです。 そのことを痛感した、印象深いエピソードを紹介したいと思います』、「競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです。 スリランカで11年間大統領として君臨したジャヤワルダナ氏の逸話です。彼はまだ大蔵大臣だった1951年、サンフランシスコ講和会議にスリランカ代表として出席しました。 この会議では、第2次世界大戦後の領土問題や日本への賠償請求などについて話し合われました。日本に痛めつけられた国々からは、日本への厳しい意見が相次ぎました。「多額の賠償金を日本に求めるべきだ」「日本の自由を奪ってしまえばいい」というムードが漂っていました』、「サンフランシスコ講和会議にスリランカ代表として出席」、日本擁護をしたというのは覚えているが、詳細は忘れたので、以下をみてみたい。
・『日本の印象をがらりと変えたジャヤワルダナ大統領の演説  そんな中、「私たちは日本に対する賠償請求権を放棄する。ぜひ日本には寛大な措置をお願いする」と演説したのがジャヤワルダナだったのです。少し長くなりますが、以下、引用します。 「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます。これはビルマ(現ミャンマー)、ラオス、カンボジア、シャム(現タイ)、インドネシア、セイロン(現スリランカ)を通じて中国、日本にまで広まって、共通の文化と遺産をわれわれは受け継いできました。 この会議に出席するために途中、日本を訪問しました。その際に私が見いだしたように、この共通の文化はいまだに存在しているのであります。そして、日本の指導者たち、すなわち民間人のみならず、諸大臣から、また寺院の僧侶から、私は一般の日本人はいまだにあの偉大な平和の教師の影響を受けており、さらにそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。われわれは彼らにその機会を与えなければいけません」(『次世代に伝えたい日本人のこころ』) あまりに感動的な演説であったため、各国の日本に対する雰囲気はずいぶん変わったと言われています。そして注目すべきは、ジャヤワルダナが、日本の指導者を含め、民間人、諸大臣、一般の人までもが、平和の教えを説くブッダの影響を受け、それに従おうとしている、とみていたことです。 なぜ彼はそう思ったのでしょう。ジャヤワルダナが、先の講和会議に出席するためサンフランシスコへ向かう際、日本に立ち寄り、ある人物と会っていたのが明らかになっています。 当時、スリランカからサンフランシスコへの直行便はなく、日本を経由した際に鎌倉に立ち寄りました。会ったのは、禅をアメリカに広めた仏教思想家、鈴木大拙です。大拙と話して感動した話を、1979年に日本を再訪した際、天皇陛下の前で語っています』、「「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます」、さすがブッダだけあって、いいことを言ったものだ。
・『鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆  1951年当時の日本は、東京の半分ほどが破壊され、まだ戦争の惨禍に苦しんでいる状況でした。彼はそんな日本にあるいくつかの寺を訪問し、仏教指導者と面会しますが、なかでも大拙との邂逅は印象深かったそうです。ジャヤワルダナは次のように続けます。 「私は鈴木教授に、日本の方が信仰している大乗仏教と、私たちが信仰している小乗仏教はどう違うのかを尋ねました。すると教授はこう言いました。なぜあなたは違いを強調しようとするのでしょうか。それよりも、私たちはどちらも仏法僧(仏道における三宝、仏=ご本尊、法=経典、僧=仏道を歩む人)を護持することで共通しており、無常、苦、無我を悟るための八正道(涅槃に至るための八つの修行方法)を信奉しているではありませんか。私は日本の仏教徒とスリランカの仏教徒を結びつける強い絆があることを感じました」(同書) ジャヤワルダナは鈴木大拙や日本の僧侶たちに会って感動し、日本に流れている仏教の伝統を絶対に消してはいけない、われわれは仲間なのだと思い、日本を助けようということを説かれました。 しかし日本は、その後大きく変化していきます。 高度経済成長を遂げ、終身雇用制度を採る企業の数が増え、社員が安心して働ける環境が整うと、宗教になど頼る必要はなくなったと思ったのでしょう。仏教を捨て、単一化を推し進めていきました。 そのことをジャヤワルダナは、鋭く察知します。1968年に彼が日本を再訪したときのこと。大阪の万国博覧会を2年後に控えた当時の日本には、立派なビルや商業施設ができ、繁栄を遂げていました。それを目の当たりにした彼は驚きます。 17年前と同じように、彼は再び日本の僧侶たちに会います。それはジャヤワルダナたっての願いだったようです。各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います。経済的な繁栄の中で、仏教教団にも戦後すぐの緊迫感が失われていったのです。 そのことを1979年の宮中晩餐会でジャヤワルダナは次のように語っています。 「私が1968年に再び日本を訪れたとき、あなた方は以前と変わって物質的にとても繁栄していました。今日では日本国民は奇跡の復活を遂げ、国は富み、経済的には世界をリードする国のひとつとなりました。 しかし、私たちが知っているように、それだけが文明ではありません。私たちの周りにある、人によって建てられた偉大な建造物がひとかけらもなく消え去ったとしても、私たちがちょうど28年前に、サンフランシスコにおける演説で引用したブッダの言葉は、人々に記憶されていることでしょう。 ほかのあらゆる国々と同様に、日本においても壮大な権力がその必然的な終わりを迎えたとしても、あなた方の寺院から広まった理想や、あなた方の僧侶が実践した瞑想と敬虔な言葉は記憶され、そして、来たるべき世代の人類の型をつくっていくことでしょう」(同書)』、「鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆」、「ジャヤワルダナ」氏に強い印象を与えた「鈴木大拙」氏はさすがだ。しかし、1968年の再訪時に、「各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います」、高度成長が日本の「僧侶たち」から「宗教性」を失わせたのであれば、残念なことだ。
・『経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」  これはものすごい皮肉です。「日本がこんなに発展したのは喜ばしい。しかしあのときの鈴木大拙の言葉ははたして活かされているのか。自分を感動させ、サンフランシスコ講和会議で一大演説をさせた、日本の深い精神性はどうなってしまったのか?」というわけです。 当時はすでに日本人は海外から「エコノミック・アニマル」と呼ばれるようになっていました。1970年代、80年代の経済成長、そしてバブルに至る道を思い返してみれば、そこには明らかに経済至上主義による社会の単一化がありました。 ジャヤワルダナのエピソードをたどっても、やはり日本にも、昭和20年代前半には、複線の社会(経済人としての線、徳を積んで人間的な成長を人生において求める宗教人としての線)があったことがわかります。しかしその後、経済成長とともに、宗教を手放していったのです。 日本では、宗教や精神性がもっと身近にあったし、こころの中心にもあったのです。 しかしそれが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦らせるのに遅すぎることはありません。ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います』、「経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」、というのは問題だが、無宗教の私には、「日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います」には違和感がある。経済VS宗教、以外にももっと軸があるような気がする。

次に、筑波大学名誉教授の河合 忠彦氏が10月30日付けPRESIDENT Onlineに掲載した「サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/30027
・『「失われた30年」で、日本企業は敗北したのか?  日本経済にとって、平成時代は「失われた30年」でした。1989(平成元)年の日本の1人当たり名目GDPは世界第4位でしたが、2018(平成30)年には第26位に後退。この間の増加率は約58%で、同期間に約174%も増加したアメリカに比べ、率直に言って見劣りするものでした。 その要因は複合的ですが、目につくのは日本の大企業の没落です。89年には世界の企業の時価総額ランキング上位50社の中に、日本企業は32社ありました。それが18年、ランキング入りしていたのはトヨタ自動車の1社だけです。 そのひとつの象徴が、日本のエレクトロニクス産業の敗北でした。私の考える「敗北」とは、事業の赤字が続くこと、ないしは事業を縮小・撤退することです。スマホで負け、有機ELで負け、GAFAには及びもつかない。5G技術にしても、蚊帳の外です。 こうした現状が生じたのは、1990年代から2010年ごろにかけての薄型テレビ戦争で、日本メーカーが敗れてお金がなくなったことに起因します。結果、薄型テレビに続くスマホや有機ELなどの次世代製品の開発で後れをとり、GAFAのようなプラットフォームビジネスや、5Gのようなさらに次世代のテクノロジー競争にも置き去りにされてしまいました』、確かに電機業界の「敗北」ぶりは目を覆いたくなるほどだ。
・『「失敗の本質」を分析・把握し、克服する  日本経済が再び輝きを取り戻すためには、各企業が薄型テレビ戦争における「失敗の本質」を分析・把握し、克服する必要があります。一言で言えばそれは、トップ・マネジメント層の戦略の失敗(とりわけ、環境の変化に適切に対応する「ダイナミック戦略」の失敗)と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です。 まず、前者の失敗について説明しましょう。薄型テレビにおける日本企業の戦略の失敗は、大きく2つのカテゴリーに分けられます。1つは、最初はうまくいっていたのに、環境変化に伴う戦略の転換に失敗したパターンで、シャープとパナソニックがそれにあたります。もう1つは最初から苦労し、その後も傷が深くなるばかりだったパターンで、ソニー、東芝、日立製作所、パイオニアが該当します。 シャープは液晶の開拓者であり、当初は技術的に業界の先端を走っていました。一方で企業規模は比較的小さく、大量生産のための設備投資を機動的に行えるほどの体力はありません。そこで同社は技術力による差別化を戦略の核に置き、「亀山モデル」に象徴されるような大画面化や画質の向上に邁進しました。当初のうちはうまくいきましたが、他社もだんだん技術的にキャッチアップし、結局は価格競争に巻き込まれることを避けられませんでした。 パナソニックは液晶技術で後れを取っていたため、大型画面では液晶より有利とされていたプラズマディスプレイに経営資源を集中し、大規模生産でコストダウンを行って勝負に出ました。ところが、シャープをはじめとする液晶メーカーが徐々に大画面化に成功したため、消費電力や価格競争力で勝る液晶との競合が始まってしまいます。 そして両社に共通するのが、薄型テレビ市場がまさに飽和しつつあったタイミングで、それまでの戦略を転換すべく、大規模な工場を造ってしまったことです。その投資が重荷になっていたところに、08年のリーマン・ショック、さらに12年の家電エコポイント終了による需要減が起きたことで、より「負け」の傷を深くしました。 この2社以外の企業は、参入戦略の誤りや技術的な出遅れ、過去の成功体験や自社の技術力への過信、市場環境の変化に合わせた戦略転換の失敗などから、終始勝ち目の薄い戦いを強いられ続けました。そしてすべての日本の薄型テレビメーカーに共通することとして、先任社長が後継社長を選任した結果、前社長の影響力が残り続けるというコーポレート・ガバナンス上の問題が、戦略の適切な転換を妨げたことも指摘せざるをえません。「赤字続きだが前社長からのプロジェクトだから継続せざるをえない」といった案件が、どれだけ日本のメーカーの体力を削いできたことでしょうか』、「「失敗の本質」を・・・一言で言えばそれは、トップ・マネジメント層の戦略の失敗・・・と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です」、その通りだろう。
・『サムスンが覇権を握った理由  一方で、日本企業が苦闘する中、薄型テレビ戦争で覇権を握ったのが韓国のサムスンでした。サムスンは当初、シャープのように技術的に先行していたわけではなく、薄型テレビへの参入時は生産能力の増強による低価格戦略を基本としていました。では、何がその後の明暗を分けたのでしょうか。 液晶技術の進歩によって、業界全体が価格競争に巻き込まれ、先進国の需要がほぼ飽和しつつあった、という市場環境はサムスンにとっても共通でした。しかし、日本企業が低価格戦略(パナソニック)か技術による差別化戦略(シャープ)のいずれかに固執し、機動的な戦略転換に失敗したのに対し、サムスンはデザインやマーケティングによる差別化を含めた、柔軟な競争戦略を行いました。欧州市場で大ヒットしたワイングラス形シルエットの製品や、省エネをうたうLEDバックライト(技術的には比較的単純で、コストも大してかかりません)の製品などを開発し、市場で勝利したのです。 日本企業が無謀な設備拡大に走ったのに対して、ソニーと合弁でパネル生産会社を設立し、新興国市場向けの中型画面製品の需要拡大に合わせ、あえて最先端でない(ただし生産効率が高くて設備投資も安くすむ)生産設備の拡充を行うなど、パネル戦略の転換についても柔軟でした。日本とせいぜいアメリカ市場ばかりを見ていた日本企業に対し、サムスンが中国や南アジア、ブラジルなどを含む、よりグローバルな市場をとらえて戦略を立案していたことも一因でしょう。 この差が何から生まれるかといえば、やはりマネジメント層の戦略立案能力が、日本企業に比べてきわめて高かったからだと言わざるをえません。技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いたことがあります。一方、サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません。サムスンが日本企業との合弁や日本人技術者のヘッドハンティングを通じて、日本メーカーの技術を相当に吸収したのは事実です。しかし、薄型テレビ市場でシェアトップに押し上げたのは、最終的には経営戦略の優位性にあったと私は考えます』、「技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いたことがあります」、事実であれば救いようがない。「サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません」、彼我の差は極めて大きそうだ。
・『モノとプラットフォームを組み合わせて戦略  今後、日本のメーカーが再び輝きを取り戻すためには、これまで苦手としてきた企業戦略の部分、具体的には市場環境の変化に柔軟に対応する「ダイナミック戦略」の強化が不可欠です。競争戦略理論の古典であるポーター理論では、コストリーダーシップ戦略と差別化戦略は二律背反とされていますが、その両方を柔軟に組み合わせることは可能です。安くて品質がよく、ブランディングも巧みなユニクロは、その好例でしょう。また、GAFAのようにモノではなくプラットフォームベースで戦略をつくっていく、あるいはモノとプラットフォームを組み合わせて戦略を立てる方向もあるはずです。 そのためには、サムスンのように戦略立案に特化した参謀本部をつくるのも1つの手です。また、コーポレート・ガバナンスを強化して、前社長の戦略が惰性で継続されるような状況を防ぐことも必要でしょう。少なくとも中堅レベル以上の社員が競争戦略を理解するような土壌ができれば、そうした社員に見られている経営陣の緊張感も変わり、日本企業の戦略力は大きく向上していくはずです』、このほかにも日本企業が「カイゼン」という逐次的改革を重視し過ぎ、「競争戦略」を軽視してきた咎が出ているようだ。一刻も早く競争力を取り戻してほしいものだ。

第三に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が10月29日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00046/?P=1
・『ワールドカップ ラグビー日本代表はカッコよかった。鍛え抜かれた強靭(きょうじん)な肉体と自分たちを信じる力。本当にカッコよかった。「どこの国籍だかわからないヤツらばかりで、応援する気がしない」「見た目がね…」とディスっていた人も、きっと感動したはず(参考 「世界最低レベルの外国人受け入れ寛容度、ニッポンの末路」)。 しょっぱなから個人的な話になってしまうけど、父がラグビーを大学時代にやっていたので子供のときからゲーム観戦に連れていかれたり、私の母校が花園にも出場するラグビーの強豪校だったたりしたのでワールドカップは最初から見る気満々だったけど、ここまでのめり込むとは……自分でも驚いている。 録画したゲームを繰り返し見ても飽きないし、スコットランド戦の後半20分を見るたびに勇気がでる。よし、頑張ろう! まだまだできる!とやる気スイッチが押されるのだ。 いかなるスポーツの祭典も私たちに感動と勇気をくれるものだが、なぜ、ここまで日本代表に魅了されてしまうのか?』、河合氏がもともと「ラグビー」と縁があったとは初めて知った。
・『ラグビー日本代表に理想の信頼関係を見た  私は「ONE TEAM」「信頼」という、私たちの内部に組み込まれた人類の原点を彼らが具体的に見せてくれたからだと考えている。 メンバーが一丸となり、それぞれのメンバーすべてがMAXの力を発揮して活躍し、互いに信頼し合っているのを肌で感じ、たとえスーパースターになれなくとも、自分もあんな風にMAXの力を発揮したい。皆、ああいうチームのメンバーになりたい。そう願ったのではあるまいか。 状況が厳しければ厳しいほど、誰もが自分ができることを探し、互いが依存しあいながらも、それぞれが自立して動く。少々大げさな解釈になってしまうけど、そういった人類の歴史は私たちの深部に刷り込まれていて、日本代表の勇姿が「その部分」を刺激したのだ。 昨今の競争社会では「個の確立」だの「自立」だのという言葉ばかりが飛び交うけれど、人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する。 会社=COMPANY(カンパニー)はそのために存在し、個と個のつながりを育むのが、会社での“時間”であり“空間”である。 “The whole is greater than the sum of its parts.(直訳:全体は部分の総和に勝る)”というアリストテレスの名言は、まさに人間の本質なのだ。 というわけで今回は「チームと信頼」についてあれこれ考えてみようと思う』、「人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する」、その通りだろう。「全体は部分の総和に勝る」、が「アリストテレスの名言」だったというのは初めて知ったが、噛みしめがいがある言葉だ。
・『チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマンだ。 敗戦国でありながら、次々と「メイド・イン・ジャパン」の技を創出。世界の人々を驚かせた日本企業はどんどん成長し、日本は経済大国の一つになった。 それまでは研究者の関心はもっぱら個人主義、独立志向が高い米国だった。ところが、欧米のストレス研究者たちは「なぜ、日本のサラリーマンはあんなに元気なのか? なぜ、あんな技を次々と生み出しているのか?」と日本企業への関心を高めた。 その一人が日本企業を支える“経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレンだ。終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとしたのである。 アベグレン博士が日本型経営のプラス面を世界に発信した背景には、人をコストと考え、レイオフを当たり前のように行っていた競争第一主義の米国企業に「本当にそれでいいのか? もっと人の強みを引き出す経営手法があるのではないか?」と警鐘を鳴らすことが目的だったとされている』、「チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマンだ」、「日本企業を支える“経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレンだ。終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとした」、確かに思い出した。
・『米国流雇用の見直しから始まったチームワーク研究  いずれにせよ「終身雇用」のもともとの言葉は「Lifetime Commitment」。終身雇用から受けるイメージとは、ちょっとばかり異なる。「雇用」だとパワーが圧倒的に雇う側に委ねられている感じだが、「Lifetime commitment」だと「あなたの人生に関わらせてね」といった優しいニュアンスがある。 つまるところ、アベグレンは「企業」の本質は単なる市場労働の場ではなく、社会組織であり、リソースであり、そこで働く人たちが安全に暮らせるようにすることが最大の目的だと説いたのである。 もっとも米国ではそれからも働く人を非人格化した経営手法を続ける企業が後を絶たなかったわけだが、確実に「チームワーク」に着目する研究者は増えた。社会学や政治学などの分野で研究されていたソーシャル・キャピタル(社会関係資本)という概念が、企業経営で注目されるようになったのもその延長線上にある。 企業のソーシャル・キャピタルの重要性を説いたドン・コーエンとローレンス・プルサックによる「IN GOOD COMPANY」(邦題『人と人の「つながり」に投資する企業』)は日本の大部屋主義や給湯室など、日本企業にかつて存在した「人がつながる空間」に言及し、さらには来るべきSNS社会での働き方にまで思慮を巡らせた名著だ。 そういったチームワーク礼賛主義の流れの中で、「人はチームワークが苦手」という、これまた「確かに!」と多くの人がうなずく論説を打ち出したのが、チームワーク研究の第一人者の一人、リチャード・ハックマン博士である。 ハックマン博士いわく「ただ単にチームのこだわりだけではチーム力は発揮できない。メンバーたちのポテンシャルを生かすことができない」と。「世間ではチームをめぐる問題の原因と結果の順序を逆にとらえている」と指摘した』、どういうことなのだろう。
・『目標共有と達成感がチームを進化させる  具体例として挙げたのが、交響楽団を対象にした調査だ。 ハックマン博士いわく、個々がチームに多少の不満を抱えているオーケストラの演奏の方が、メンバー全員が満足しきっているオーケストラのパフォーマンスよりも優れていることが分かった。チームメンバーたちが「最高の結果を残したい」という目標を共有できていると、「もっと自分にできることはないか?」とおのおのが努力する。その結果として、いい演奏ができた時に「このチームのメンバーでよかった」と満足感が得られ、さらに「チーム力」は進化していたのである。 もちろんその前提条件として、リーダーが「チームづくり」にこだわり、絶対的な方向性を示すことが必要不可欠。リーダーは「チームとしていい結果を出すこと」にこだわり続ける必要があり、その熱がメンバーに伝わったときに初めて、個々人が自分に足りないこと、自分がやるべきことに向き合うことができる。 それはまさにラグビー日本代表を率いたジェイミー・ジョセフHCが掲げた「ONE TEAM」であり、「ベスト8進出」という日本代表の目標だった。リーダーの一貫した揺るぎない姿勢は、チームの価値観とルールになる。 同時に、チームメンバー全員に「自分が参加している」という感覚を持たせることもリーダーの大切な仕事だ。 ワールドカップ日本代表チームのロッカールームには、ジェイミーHC(ヘッドコーチ)からのメッセージが、メンバー一人ひとりのロッカーに張られていた。おそらく彼は彼がHCに就任してからも常に、リーダーとして、個々のメンバーと向き合い「アナタは必要な存在だ」というメッセージを送り続けたのではないだろうか。 とはいえ、メンバーが増えれば増えるほど、リーダーの思いは届きづらくなるという側面もある。人が「一人の人」と日常的に向きあえるのはせいぜい10人。最適な人数は6人という調査結果もある。 日本代表はその点もクリアしているのが、これまたすごい。 報道されているとおり、リーチ・マイケル主将を筆頭に、プロップの稲垣啓太選手、ナンバーエイトの姫野和樹選手、フランカーのピーター・ラブスカフニ選手、スクラムハーフの田中史朗選手、スタンドオフ田村優選手、ウイングの松島幸太朗選手らに、リーダーとしてチームのかじ取りを任せた。 そして、それぞれのリーダーのもと、少人数のミーティングを繰り返し行い、メンバー一人ひとりが発言し、現状の問題点や今後の課題を話し合うことで、「ONE TEAM」という価値観を浸透させていったのだ』、オーケストラでは「チームメンバーたちが「最高の結果を残したい」という目標を共有できていると、「もっと自分にできることはないか?」とおのおのが努力する。その結果として、いい演奏ができた時に「このチームのメンバーでよかった」と満足感が得られ、さらに「チーム力」は進化していた」、ラグビー日本代表は、「それぞれのリーダーのもと、少人数のミーティングを繰り返し行い、メンバー一人ひとりが発言し、現状の問題点や今後の課題を話し合うことで、「ONE TEAM」という価値観を浸透させていったのだ」、ここでラグビーに結び付けた筆力はさすがだ。
・『「もの言える空気」は上から下へと伝わる  自分の意見を聞いてくれる「人」がいるからこそ人は発言する。「こんなこと言っちゃいけないんじゃないか」という心配をしなくてもいい「空気」があるからこそ、人は言いづらいことや失敗を言うことができる。 そういった空気が生まれるのはリーダーがメンバーをリスペクトするからであり、そのリスペクトをその下の小グループのリーダーが肌で感じることで、小グループのメンバーにもリスペクトが生まれる。上から下、下から横に「いい空気」が伝染し、初めてチーム全体の空気感が出来上がっていくのである。) 10年ほど前になるが、清宮克幸氏(現日本ラグビーフットボール協会副会長)をインタビューさせていただいたことがあった。 数々の金字塔を打ち立ててきた清宮氏だが、そのきっかけは早稲田からサントリーに入り、キャプテン失格になったことだと話してくれた。 清宮氏はサントリーに入社後、「こんな練習をやっていたら日本一なんかなれない。俺にキャプテンをやらせろ!」と25歳のときにキャプテンに就任する。 ところが出る試合出る試合負けばかり。27歳までキャプテンをやり続けたが一度も勝てなかった。で、キャプテンをやめた翌年、全国社会人ラグビーでサントリーは優勝する。 「やっと俺が間違っていた、俺に足りないものがあったと受け入れられました。結局、『俺が俺が』ってとにかく独りよがりだった。なんでも自分でできると過信していたんです。チームは組織。組織が機能するチームにしないとダメ。自分でできることは限界があることに気づいたんです」(清宮氏)。 どんなにリーダーが優秀でも、リーダーシップを発揮するにはフォロワーであるメンバーたちの力が不可欠。チームにはチームワークを発揮させる仕組みが必要であり、チームの力はリーダーの価値観がクモの巣のようにチームに張り巡らされ、クモの巣から誰一人として漏れない組織がつくられて発揮できる』、清宮氏がこんな挫折を経験していたとは初めて知った。
・『真の競争力は個々が信頼されるチームから生まれる  どんなに能力があろうとも、周囲と「いい関係」がない限り、その能力が生かされることはない。 人から信頼されている、愛されている、見守られている、認められていると認識できたとき初めて、人は安心して目の前の難題に全力で取り組むことができる。自らの行動に責任を持ち、自分の力を極限まで引き出す胆力が育まれる。 ラグビー日本代表はそんな人の本質を教えてくれたのだ。 そういえば、かの松下幸之助氏は、「和の精神とは、人と対立することを避けて、表面的に仲良くやっていくという意味での和ではありません。私たちが考える和の精神とは、まず皆が自由に正直に話し合い、お互いの意見や価値観に違いがあることを認め、その違いを尊重したうえで、共通の目標のために協力し合うという、相違や対立の存在を前提とする和なのです」と説いたが、これも真のチーム力の言葉ではないか。 最後に……。今回の日本代表の躍進をさらに理解するためにオススメの映画を2つ。「ブライトンミラクル」と「インビクタス」。映画界の回し者ではありませんが、学びが多い映画なのでこの機会にぜひ』、松下幸之助氏の「和の精神」もなかなか含蓄のある言葉だ。
タグ:スリランカ ソーシャル・キャピタル 日経ビジネスオンライン 上田紀行 ダイヤモンド・オンライン お能 PRESIDENT ONLINE 河合 薫 日本型経営・組織の問題点 (その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義) 「仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン」 『立て直す力』 悩みを消し去り幸福に生きるためのヒント 今の日本を覆う失敗を語れない雰囲気 昭和から平成の最初の頃までは、漠然とした安心感があった 「経済神話」「企業信仰」というものに守られている心強さも バブル経済が崩壊し、リーマンショックという大波 成果主義は一層研ぎ澄まされ、ハードルの高いノルマがのしかかり、達成できないと厳しい上司から説教されたり、ネジを巻かれたりする。目標未達の月が続くと、いつ肩をたたかれるかと、針のむしろの状態が続くことになる。 生きづらい社会になっていった 人間はとても壊れやすい いつの時代もこぼれ落ちる人はいる 化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです 傷つきやすい、フラジャイルなものです 気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです 11年間大統領として君臨したジャヤワルダナ氏 サンフランシスコ講和会議 日本の印象をがらりと変えたジャヤワルダナ大統領の演説 「私たちは日本に対する賠償請求権を放棄する。ぜひ日本には寛大な措置をお願いする」 「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます 日本の指導者たち、すなわち民間人のみならず、諸大臣から、また寺院の僧侶から、私は一般の日本人はいまだにあの偉大な平和の教師の影響を受けており、さらにそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。われわれは彼らにその機会を与えなければいけません 日本を経由した際に鎌倉に立ち寄りました 会ったのは、禅をアメリカに広めた仏教思想家、鈴木大拙 鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆 1968年の再訪時 各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います 経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」 それが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦らせるのに遅すぎることはありません。ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います 河合 忠彦 サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質」 「失われた30年」で、日本企業は敗北したのか? 89年には世界の企業の時価総額ランキング上位50社の中に、日本企業は32社ありました。それが18年、ランキング入りしていたのはトヨタ自動車の1社だけ 日本のエレクトロニクス産業の敗北 「失敗の本質」を分析・把握し、克服する トップ・マネジメント層の戦略の失敗(とりわけ、環境の変化に適切に対応する「ダイナミック戦略」の失敗)と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です サムスンが覇権を握った理由 日本企業が低価格戦略(パナソニック)か技術による差別化戦略(シャープ)のいずれかに固執し、機動的な戦略転換に失敗 サムスンはデザインやマーケティングによる差別化を含めた、柔軟な競争戦略を行いました 技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いた サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません モノとプラットフォームを組み合わせて戦略 「チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義」 ラグビー日本代表に理想の信頼関係を見た 全体は部分の総和に勝る)”というアリストテレスの名言は、まさに人間の本質 人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマン “経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレン 終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとした 米国流雇用の見直しから始まったチームワーク研究 「人はチームワークが苦手」 ハックマン博士いわく「ただ単にチームのこだわりだけではチーム力は発揮できない。メンバーたちのポテンシャルを生かすことができない」と。「世間ではチームをめぐる問題の原因と結果の順序を逆にとらえている」と指摘した 目標共有と達成感がチームを進化させる 「もの言える空気」は上から下へと伝わる 真の競争力は個々が信頼されるチームから生まれる
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政府財政問題(その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!) [経済政治動向]

昨日に続いて、政府財政問題(その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!)を取上げよう。

先ずは、三井住友DSアセットマネジメント ファンドマネージャーの山崎 慧氏が4月9日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「日本版MMT」の効果が疑わしい理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/199318
・『議論を呼ぶ「MMT」日本で実質的に行なわれている  昨今、経済論壇でMMT(Modern Monetary Theory/現代金融理論)が話題となっている。MMTとは、自国通貨の発行権を持つ国では自国通貨建てで国家債務のデフォルト(債務不履行)が起こらず、政府は無限に信用を供与できるという主張である。 これまで話題に上ることは少なかったが、政治経験がない元ウェイトレスの経歴を持ちながら、昨年の米下院議員選挙に史上最年少で当選した民主党のオカシオコルテス氏が、自身が推し進めるグリーンニューディール政策(環境・再生可能エネルギー関連の財政支出拡大)の財源としてMMTを提唱したことで注目を集めた。 同氏は、ブログにて、「オリジナルのニューディール政策、第二次世界大戦、2008年の銀行救済、量的緩和、私たちの現在のすべての戦争と同じように、連邦準備制度理事会(FRB)は信用を供与することでグリーンニューディールの財源を手当てすることができる」と主張している。 これに対し、ジェローム・パウエルFRB議長、黒田東彦・日本銀行総裁など主な各国中央銀行首脳らは「危険な考え方だ」と異を唱えており、欧州中央銀行(ECB)の次期総裁の有力候補であるフランソワ・ビルロワドガロー仏中銀総裁は「ハイパーインフレになる大きなリスクがある」とMMTを強く批判した。 ただ、MMTのように、政府の債務を中央銀行が引き受けることによって財政政策を拡大させるという考えは決して突飛なものではなく、むしろオカシオコルテス氏の言うように、有史において幾度も用いられてきたオーソドックスな考え方だ。それどころか、この政策はすでに日本で行われているとも言える。 2013年に量的・質的金融緩和が導入され、2016年にマイナス金利付き量的・質的金融緩和にてイールドカーブコントロールが導入されるまで、日銀の国債購入額は新規発行額を大幅に上回っていた。一方、財政政策はこの間、アベノミクスの三本の矢のうちの第二の矢として大規模化していた。これは、財政政策の財源となる国債を日銀が引き受けていると明示されていないだけで、アベノミクスにおける金融緩和と財政支出拡大のポリシーミックスは、オカシオコルテス氏の目指しているものに非常に近い。 こうした、「日本版MMT」の結果はどうであろうか。2013年から2016年までの消費者物価は、生鮮食品とエネルギー、消費税を除くベースで前年比+0.5%(年率)にとどまっており、日銀は現在に至るまで2%の物価安定目標の達成に苦慮している。ハイパーインフレが生じるどころか、政府はデフレ脱却宣言すら行えておらず、「日本版MMT」を用いてもなお物価の押し上げに失敗している』、確かに目新しいものではなく、「日本版MMT」を行っているが、実効性に乏しいようだ。
・『劇薬どころかかなり疑わしい日本版ヘリコプターマネーの効果  今後も財政と金融の協調の議論が続くのであれば、これまで講じられてきた政策が不十分だとして、さらに踏み込んだ信用供与に話題が移ることになるだろう。具体的には、政府による日銀保有国債のデフォルトだ。 日銀保有国債の永久債化や、日銀引き受けによる政府紙幣の発行も同種の考えで、これらはヘリコプターマネーなどとして定期的に話題に上っている。たとえば、若田部昌澄・日銀副総裁は、副総裁に就任する前の2015年2月5日の朝日新聞のインタビューで、「政府と一体と考えられる日銀が持っている国債260兆円は国のバランスシートから落とせる」と発言しており、政府と日銀の間で資金を貸し借りしているのだから、両者を合わせた組織(統合政府)として考えれば、債務は相殺され消えるという理論として語られることが多い。 一般に、こうした政策・考え方は劇薬・禁じ手と言われているが、実際には劇薬どころか効果がかなり疑わしい。簡略化して考えると、日銀のバランスシートにおける保有国債(資産)の裏付けは、当座預金(負債)であり、これは民間銀行のバランスシートにおける当座預金(資産)を通じて国民の預金(負債)と繋がっている。 すなわち、日銀の保有国債をデフォルトさせることは、国民の預金をデフォルトさせることと同義となる。これは政治的にほぼ不可能であり、仮に実施されたとしても国民負担による財政再建となるため、増税による財政再建となんら変わらない。 保有国債をデフォルトさせても、国民の預金は保護すればいいという考えもある。ただし、この場合、日銀は債務超過となり、政府債務が日銀債務に置き換わっただけとなる。政府が借金しているのはあくまでも民間部門に対してなので、日銀の保有国債をデフォルトさせたところで、統合政府の債務は消えないのだ。政府債務が減る同額だけ日銀債務が増えたところで、何か変化が起こるのだろうか。 中央銀行が債務超過になったことで、多少のインパクトがある可能性は残るものの、同額の政府債務も減少することを考えると、財政再建の前進とも後退とも捉えられず、これによって物価に何らかの影響が及ぶとは考えにくい』、「若田部昌澄・日銀副総裁は、副総裁に就任する前」とはいえ、MMTを評価する発言をしていたとは初めて知ったが、日銀副総裁としての適格性を大いに疑わせる発言だ。
・『杞憂に終わる日本版MMT 物価上昇モメンタムが途切れる恐れも  まとめると、これまで行われていた「日本版MMT」は物価に対して影響を与えておらず、より踏み込んだ政策をとっても影響は薄いように思える。結局のところ、財政政策の拡大が物価に影響を与えるかどうかは、財源の調達方法ではなくその規模と使途に依存する。歴史上、ハイパーインフレのほとんどが放漫財政ではなく、大規模な国家予算の投入が将来の利益につながらなかった敗戦が原因となって生じてきたことがその証左だろう。 MMTに対しては懸念が表明されているものの、その議論が日本に及ぼす影響は良くも悪くも限定的だろう。むしろ現段階では、MMTがハイパーインフレを招くリスクを心配するよりも、景気が腰折れし、日銀の言う物価の上昇モメンタムが途切れるリスクをより心配すべきではないだろうか。 名目GDPの伸びがここ1年半にわたって完全に停止し、足元で景気動向指数が「下方への局面変化」を示しているにもかかわらず、消費増税を強行することになれば、2014年と同様の結果になるのが目に見えている』、景気腰折れの「リスクをより心配すべき」というのはその通りだろう。

次に、SMBC日興証券 チーフ金利ストラテジストの森田 長太郎氏が3月26日付け東洋経済オンラインに寄稿した「MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/275326
・『財政赤字の積極的な拡大を推奨する「現代金融理論(MMT、Modern Monetary Theory)」をめぐり、米国では経済学者たちがメディアを巻き込み、論争を展開している。その論争の内容は、われわれ日本人にとっては失笑を禁じえないところがある。また、ある種のデジャビュを感じるものでもある。 MMTを主張する経済学者たちは、経済学コミュニティにおいては少数派だ。批判する経済学者のほうが数も多いうえ、地位や名声もはるかに高い。この数カ月間で、ポール・クルーグマン、ラリー・サマーズ、ケネス・ロゴフといったそうそうたる面々がMMTを批判する議論を展開しており、ジェローム・パウエルFRB(米国連邦準備制度理事会)議長や黒田東彦日本銀行総裁をはじめ現役の中央銀行幹部も批判の弁を述べている。メディアはこの論争を「主流派経済学 vs 非主流派経済学」という描き方で盛り上げている。 印象から言えば「非主流派」がずいぶんと威勢よく攻勢をかけているのに対し、「主流派」の反論は何やら昔ながらの教科書を紐解くような内容で、今ひとつ歯切れが悪い。経済学コミュニティの外野からは、小勢ながら果敢に攻める「非主流派」に「ヤンヤ」の声が掛かる状況だ。MMTは現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝されており、米国では特にポピュリスト政治家やトランプ政権を政治的に攻めあぐねている野党民主党の政治家の中にこの理論の信奉者が少なからずいる』、米国で「現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝」というのは誇大喧伝だ。
・『日本における「リフレ派vs反リフレ派」にそっくり  筆者が「失笑を禁じえない」というのは、MMTと主流派経済学者たちのヒステリックな議論に、「どっちもどっちではないか」と思わせるところがあるためだ。特に、1990年代後半以降、日本の経済政策を最も声高に批判してきたポール・クルーグマンが、「財政政策は金利がゼロ%の下限に達してからのみ意味がある」というようなMMTに対する批判を述べているのを聞くと、「五十歩百歩だろう」とつっこみたくなる。 また、「デジャビュを感じる」というのは、「MMTvs主流派経済学者」の論争は、過去20年超も続いているわが国における「リフレ派 vs 反リフレ派」の論争と完全にオーバーラップするからである。当のクルーグマンはベン・バーナンキ元FRB議長と並んで、日本のリフレ派論者たちに盛んに援用されてきた「リフレ派の理論的支柱」とも言うべき経済学者だ。「極論を主張するリフレ派に対して正論を述べる反リフレ派論者」というわが国の構図が完全に攻守逆転する形で、「極論のMMTに対して正論を述べるクルーグマン」という形になっているのが何とも皮肉である。 ここで、日本の「リフレ派 vs 反リフレ派」論争の最大のインプリケーションを述べておくと、「正論必ずしも勝たず」ということであろう。リフレ派は決して議論に勝ったわけではないが、主張した政策を実現する機会をつかんだ。米国における「MMTvs主流派経済学」も、MMTをポピュリスト政治家が支援しているため、同じ構図に見えてならない。 さて、米国の経済論壇を騒がせているMMTなるものの本質は何なのか。 クルーグマン先生も解説してくれているように、アバ・ラーナーの「機能的ファイナンス」といった古めかしい経済議論にその淵源があるようだ。当のMMTを主張する学者たちもまた、そう認めている。ラーナーの議論を踏襲するMMTの主張を簡単にまとめると、①金融政策が民間の経済活動に対して適切な水準に金利をコントロールしてさえいれば、あとは財政政策で完全雇用とインフレ目標を100%達成できる、②財政赤字はどれだけ拡大させても問題は起きない、という2点に尽きる。 このMMTの主張に対して、クルーグマンなどは先に述べたように、「金利がゼロ%の下限に達した場合には財政拡大はOK」と言っているので、その論は「MMT批判」のようでいて、実際にはMMTの「限定容認」になってしまっている。クルーグマンの場合、「ある段階までは金融政策、ある段階からは財政政策」という2段階の政策を主張しているのだが、完全雇用を達成するまでは政府と中央銀行が需要を無制限に創出すべきであり、政府も中央銀行もその能力を持っていると主張していることにおいては本質的に変わらない。 「主流派経済学者」といっても、現代の米国においてはかつてのようなガリガリの新古典派、新自由主義信奉者はすでに多数派ではない。市場調整機能の限界を所与とした上で政府や中央銀行の積極的な需要創出を支持するいわゆる「ニュー・ケインジアン」が現代の主流派といってよい。 ニュー・ケインジアンは公的部門の経済への介入を積極的に容認するのだから、政治的には「リベラル」との親和性が高い。そのため、彼らがMMTを批判してもしょせん迫力に欠けるのだ。ましてやクルーグマンなどは、主流派の範疇からもやや外れており、主張そのものはオールド・ケインジアンに近い。そのクルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽なのだ』、「失笑を禁じえない」、「デジャビュを感じる」、「クルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽」などというのは手厳しい批判だ。
・『MMTは会計上の資産負債の一致を述べているだけ  こう言ってしまうと、MMTをめぐる論争は、現代の主流派経済学者のうち多数派を構成するケインジアン(=ニュー・ケインジアン)と、もっと古風で先鋭的なケインジアン(=MMT)の「五十歩百歩対決」なのだと結論づけてしまってもよいように思えるが、実際にはもう少し複雑な要素を含んでいる。 アバ・ラーナーに端を発するところの「財政赤字はいくら増やしても何も問題ない」という主張だけを取り出していえば、これはレーガン減税の理論的根拠にもなった「ラッファー・カーブ(=減税すれば経済成長によって減税額以上に税収が増えるという主張)」のような「ブードゥー経済学」のようにも聞こえるのだが、さすがにそれでは議論が粗すぎる。 ラーナーが主張し、MMTが受け継いでいる最も重要なコンセプトは、「誰かの負債は必ず誰かの資産」ということである。どういうことかというと、「財政赤字(=政府の負債)によって減税を実施すれば、国民は減税によって貯蓄(=資産)が増えるので、つねに発行された国債の額と国民の資産増加額は会計的に一致する」ということである。そうであれば、財政赤字によってどれだけ政府の債務が積み上がったとしても、それに見合った国民の資産は増加しているのだから問題はない、というのである。 このロジックを聞いて、「だまされている」ような感覚を持つ人は少なくないだろう。けれども、少し考えてみると、このロジック自体は簡単には論破できないものであることにも気づくはずだ。 「誰かの借金は誰かの資産」→「国の借金は国民の資産」→「政府債務がいくら増えても会計上は帳尻が合っている」というMMTのロジックは、この限りにおいては間違いではない。そこから、彼らは「主流派経済学者は歯止めなき財政拡張はいずれハイパーインフレをもたらすと批判するが、そんなことはない」→「財政赤字はどんどん拡大すべきである」という結論を導き出すのである。 しかし、このロジックは、「金融政策万能論」に近い考え方を採る現代の主流派経済学である「ニュー・ケインジアン」と、その牙城となっている主要中央銀行(FRB、日銀、ECB)からすると、とてもそのままでは容認できないものである。 なぜならば、「財政赤字を拡大すると国民の資産が増える」というのが事実であるならば、「財政政策がマネーサプライ(=国民の金融資産)を決定するのであり、中央銀行が決定するのではない」と言っているのに等しいからである。若干マイルドな言い方に変えれば、「中央銀行もマネーサプライの決定に関与するものの、財政政策はそれと同じかそれ以上に強く関与する」ということになってしまうのである』、これでは、「主要中央銀行」が目の敵にするのも頷ける。
・『「財政政策が決める」とするMMTの根拠  ここで少し冗長にはなるが、政府が財政赤字を拡大して国債を発行した時に実際に起きていることを正確に描写してみたい。 「政府が1億円の減税を決定して1億円の国債を発行」→「銀行Aが準備預金を取り崩して国債1億円を購入」→「中央銀行の管理する政府預金が1億円増加し、銀行Aの準備預金が1億円減少」→「中央銀行は銀行Aから国債1億円を購入して資金を供給し、銀行Aの準備預金は元の水準に戻る」 さらに「政府は増加した預金勘定の1億円で国民Bに対して減税を実施」→「国民Bは減税資金を受け取りそのまま銀行Aに1億円預金」→「政府預金が1億円減少して銀行Aの準備預金が1億円増加」→「中央銀行は銀行Aに1億円の国債を売却して資金を吸収」→「銀行Aの準備預金は1億円減少して元の水準に戻る」→「最終的に銀行Aの準備預金は変化せずに国債保有が1億円増加し、国民Bの預金は1億円増加」 さて、この長ったらしいプロセスを注意深く見ると、中央銀行はただ銀行の準備預金の水準を一定に維持するためだけに行動している。その結果、政府が国債を1億円発行して減税を実施したことで何が起きたかというと、銀行Aの国債保有が1億円増加し、国民Bの預金が1億円増加している。 そして、政府の財政赤字の額(=政府負債の増加額)と銀行の国債保有(=資産増加)が一致し、銀行の資産増加は国民の資産増加(=預金増加)に見合ったものになっている。ここでは財政政策が国民の金融資産(=マネーサプライ)を増加させているわけであり、中央銀行の働きはひたすら受動的ということになる。 このプロセスをもってMMTの論者は、中央銀行が経済の水準(ここではマネーサプライが重要であるという前提)を決めるのではなく、財政政策が決めているのだと主張している。同時に、財政赤字をいくら増加させても国民の負担にはならないとの議論が展開される。MMTの論者は、そもそも中央銀行はマネーサプライを増減させる能力はないとまで主張するわけだが、上記のプロセスを見る限り、結果として中央銀行はマネーサプライの増減に対して受動的に行動していることは確かである。 しかし、MMTを主張する人々よりもはるかに前から、この議論を行なっていたのは、実は日本銀行であったということを忘れてはならない。 1990年代前半に経済学者の岩田規久男(前日銀副総裁)と日銀スタッフだった翁邦雄が『週刊東洋経済』で繰り広げた「翁-岩田論争」である。ここでは、翁が中央銀行は準備預金を能動的に増減させることはできず、マネーサプライに与えられる影響力も限定的であると主張していた。MMTが声高に主張している議論は、すでに20年以上前に日本で行われていたわけである。そして、当時、日銀の「受動的な金融政策」は間違いだと主張した岩田らの論が、2000年代以降に日銀の政策として段階的に採用され、実験されていくことになるのである。 この実験の結果、中央銀行のマネーサプライ管理能力については、おおむね翁の主張に沿った結果が出ており、MMT論者の主張も、その面においては支持されている。ただし、話はこれでは終わらない。 上記の「財政赤字→国債発行」のプロセスを根拠にMMT論者が「財政赤字は誰の負担も増やさない」という結論を単線的に導こうとするのであれば、この結論を論破するのは簡単である。単純な話だが、「減税された資金をまったく使わずにそのまま預金するのであれば、そもそも何も変わらないのは当たり前」なのである。国債の金利支払いも財政赤字でまかなわれると考えれば、その分も減税と同じ扱いにできる』、「翁-岩田論争」まで引用するとは筆者の博識ぶりに驚かされた。
・『「リカード中立」を前提にするなら乗数効果はゼロだ  実は、ラーナーやMMTの使っているトリックはここにあるわけだが、「誰かの負債は誰かの資産」なので誰の負担にもなっていないというのは、あくまでも「バランスシート」もしくは「ストック」の議論である。前述の例では、「国民Bは減税資金を受け取りそのまま銀行Aに1億円預金する」としているが、これはつまり、財政政策の乗数効果が「ゼロ」である状況を想定している。「完全なリカードの中立命題が成立している」という言い方にもなる。「リカード中立」は「財政赤字を拡大しても、国民が将来の増税を予想してしまうと一切資金を使用しない」という状況を指す。 しかし、実際には減税資金のうちいくらかを消費に回すからこそ経済効果があるわけであり、そもそもラーナーもMMTもその効果に期待して「財政政策でいくらでも雇用やインフレをコントロールできる」と主張しているわけである。結局、「誰かの負債は誰かの資産」あるいは「財政赤字は誰の負担にもなっていない」というのは、「恒等式」の関係を述べている、「会計上、バランスシートの右と左は釣り合っている」と言っているにすぎないのである。 トリックとはいえ、ラーナーやMMTの言っている議論も、ある時代、ある局面においては、現実に起こっている経済状況を的確に説明できていたりもする。例えば、1990年代後半から2000年代半ば頃にかけての日本の国債市場のケースなどである。 この時期、日本政府が景気対策として財政赤字拡大政策を採るたびに、過大な国債発行が長期金利の上昇を招くのでないか、それがむしろ経済にネガティブな影響をもたらすのではないかとの懸念が高まった。だが、実際に国債発行による本格的な長期金利上昇は起きなかった。この事象を振り返って、「ほら見ろMMTの正しさは2000年前後の日本で証明済みだ」などとわけ知り顔で語る論者もいる。 だが、当時から日本の債券ストラテジストたちは、このメカニズムについて正確に把握、指摘していた。すなわち、。財政赤字による国債発行はマネーサプライを増加させ、それは銀行の預金を増加させる。あるいは、「預貸ギャップの拡大」を招き「貸出に対する預金超過」を生む。それは、銀行の国債保有を促す形となり、結局、長期金利の上昇をもたらさないだろう――。このように予想していた者が少なくなかったのである。つまり国債発行が貸出の大幅な増加に結びつかない、財政による乗数効果の低いことが景気対策の効果が細っている理由でもある。 なお、「翁-岩田論争」は、中央銀行のマネーサプライ・コントロール能力に焦点を当てた議論であったが、財政政策、金融政策を共通の土俵で扱い、マネーサプライとの関係を分析するという作業を古くから行なっていたのも、世界の中央銀行のなかで実は日銀であった(末尾のコラム参照のこと)』、「財政赤字による国債発行は」「長期金利の上昇をもたらさないだろう」との債券ストラテジストたち見方は正しかったことになる。
・『MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている  MMTの論者は、中央銀行が雇用やインフレに及ぼす影響力はなく、すべてを創出するのは財政政策だと主張するが、この主張は「明確な誤り」である。金融政策は、局面によってはほとんど無力に近い時もあるが、メカニズムとしては民間部門債務と海外債務の変動を通じてマネーサプライを増減させ、雇用やインフレに影響を及ぼすことがある程度はできる。 しかし、「マネタリスト的」な金融政策万能論を振りかざすタイプのニュー・ケインジアンによる「金融政策こそがすべて」という主張も、同じくらい「明確な誤り」である。2000年代の日本のケースなどは、翁邦雄が主張したように、マネーサプライの変化を通じて中央銀行が雇用やインフレに影響を及ぼす経路が非常に細っていたのである。どちらの議論も、リアルな経済と資金の流れをあまりにも「単純化」しすぎていると言わざるを得ない。 確かに「財政」によるマネーサプライ増減のメカニズムは「シンプル、直接的」ではある。しかし、それでも減税資金が100%預金されてしまうのか100%支出されるのかによって、実体経済へのインパクトは大きく変わってくる。一方、「金融政策」によるマネーサプライ増減のメカニズムは、民間部門債務が増減する複雑なメカニズムのある部分しか担っていないという意味で、その波及経路はより分かりにくい。 しかし、いずれにせよ、「将来の成長期待」「競争環境」「技術革新」「金融規制」さらには「社会全体のセンチメント」まで実に多岐にわたる要素が影響するのである。こういった複雑な要素を捨象して、「財政政策がすべてだ」「いや金融政策だ」と経済学者や評論家たちが主張をぶつけ合っている姿自体があまりにも現実離れしており、空想世界に生きているように見える。それこそクルーグマン流に言うならば、「はるかに多様な要素が影響しているんだ、バカ!」ということになる。 アバ・ラーナーが「機能的ファイナンス」というコンセプトで語ったのは、「財政赤字を善悪で判断するのではなく、雇用とインフレに影響を及ぼしうる唯一のツールとして、その結果あるいは効果で判断すべきだ」ということであった。しかし、現実には「財政政策」は唯一のツールなどではない。それどころか、その政策が効果に結びついていく経路には「リカード中立の程度」という非常に想定が難しい要素が介在するのである。「財政政策」は一つの「機能」なのだから、出てきた効果と結果だけを見てその適用可否を判断すればよいなどと安直に扱える、コントローラビリティのある(制御可能な)代物ではないのである。 ここで、「政府債務」、「民間債務」、「海外債務」というマネーサプライ創出の3部門におけるコントローラビリティとは、いったいどういうことなのかという点について、最も重要な視点を提示しておこう。 先ほども述べたが、例えば「政府債務」について、「財政赤字を出して国債発行を行っても、民間資産の増加も伴うため誰の負担にもならない」というMMTの理屈は「両建て」でのバランスシート拡大のことを指している。しかし、問題は「レバレッジ」、つまりリスクの拡大にあるのだ。「信用創造」=「レバレッジ」という、金融実務においては当然すぎる議論の整理を、経済学者も行なう必要がある。 「両建て取引では負債に見合う資産があるので大丈夫」というのは30年前、1980年代後半のバブル期の日本で盛んに流行ったロジックである。「借金をしても見合う資産がある」、それどころか「むしろ資産には含み益があるので、それを担保にもっと借金ができる」といった具合である。つまり、「政府債務」でも「民間債務」でも、「両建て取引」あるいは「レバレッジ」はそれ自体では「会計上」はつねに「中立」に見えるのである』、「MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている」というのはその通りだ。モデル化のため単純化する過程で、多くの前提を置いて細かな要素を捨象しているため、「現実離れ」は不可避なようだ。
・『「レバレッジ拡大政策」を空疎な理論で決定するな  しかし、これを無制限に拡大させていった場合に、過去に何が起こったのか、先に何が起こりうるかといったイマジネーションを広げてみる必要がある。リーマン危機も然りだが、「レバレッジ」の拡大はどこかで「リスク感覚」を麻痺させる。「両建てで負債に見合った資産ならば」ということで、経済主体は「過大なリスク」を取りがちである。これを政府部門のケースでいえば、まったくムダに終わる公的事業に資金を費やすようなことが平気で行われる。簿価評価の負債に対して時価評価の資産が大幅に毀損していく事態が生じれば、「誰かの借金は誰かの資産」ではなくなってくるのである。 もちろん、現在の日本を含めた先進諸国においてこの「過大なレバレッジ」が問題を引き起こす段階にあるのか、と言えばそうではないかもしれない。国ベースで言えば、レバレッジの極端な拡大は、1980年代の日本で生じ、これに1990年代後半から2000年代にかけて米国が続き、2000年代にはユーロ圏が追随した。そして、リーマン危機後から2010年代にかけては中国のレバレッジがとんでもない水準に達している。2019年現在ということでいえば、先進諸国においてはむしろ「レバレッジが過小」であるとの指摘はおそらく正しいのだろう。 しかし、時期は予想できないものの中国のレバレッジ崩壊のリスクがこれほど高まっている中で、安直に先進諸国がレバレッジ拡大を志向していくべきなのかといえば、長期的な観点からは疑問符が付く。そもそも、既に述べたように財政政策であれ金融政策であれ、「レバレッジ」の水準(=これが要はマネーサプライの水準を決定する)を完全にコントロールすることなどはできない。過大になれば抑制し過小になれば拡大すればよい、というほど簡単な話ではまったくないのである。 その意味で、レバレッジ拡大政策を取るかどうかの判断は、「理論」の領域ではなく、「グローバルな経済状況」、「国ごとのさまざまな事情」、「経済政策決定における政治プロセス」など、広範にわたる「現実」の領域が決定的に影響してくるということを踏まえたものでなければならない。不確かな「理論」が政治的に「つまみ食い」されるリスクもつねに存在しており、「理論上」の論争で勝ち負けを決めることほど無意味なことはない。 この点において、経済学者の議論は、主流派経済学者もMMT論者も五十歩百歩、どっちもどっちだと言わざるをえない。「あなた方にはそんなことを決める能力はない、バカ!」と声を大にして言いたいところである。(コラムは省略)』「レバレッジ拡大政策を取るかどうかの判断は、「理論」の領域ではなく・・・広範にわたる「現実」の領域が決定的に影響してくるということを踏まえたものでなければならない」、というのはさすが現実を長年見てきた金利ストラテジストならではの鋭い見方だ。その通りなのだろう。
タグ:東洋経済オンライン ダイヤモンド・オンライン 政府財政問題 (その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!) 山崎 慧 「「日本版MMT」の効果が疑わしい理由」 MMT(Modern Monetary Theory/現代金融理論) 自国通貨の発行権を持つ国では自国通貨建てで国家債務のデフォルト(債務不履行)が起こらず、政府は無限に信用を供与できるという主張 民主党のオカシオコルテス氏が、自身が推し進めるグリーンニューディール政策(環境・再生可能エネルギー関連の財政支出拡大)の財源としてMMTを提唱したことで注目 各国中央銀行首脳らは「危険な考え方だ」と異を唱えており すでに日本で行われている アベノミクスにおける金融緩和と財政支出拡大のポリシーミックスは、オカシオコルテス氏の目指しているものに非常に近い 「日本版MMT」を用いてもなお物価の押し上げに失敗している 劇薬どころかかなり疑わしい日本版ヘリコプターマネーの効果 若田部昌澄・日銀副総裁 「政府と一体と考えられる日銀が持っている国債260兆円は国のバランスシートから落とせる」と発言 劇薬・禁じ手 日銀の保有国債をデフォルトさせることは、国民の預金をデフォルトさせることと同義となる。これは政治的にほぼ不可能であり、仮に実施されたとしても国民負担による財政再建となるため、増税による財政再建となんら変わらない 国民の預金は保護すればいいという考えもある。ただし、この場合、日銀は債務超過となり、政府債務が日銀債務に置き換わっただけとなる 杞憂に終わる日本版MMT 現段階では、MMTがハイパーインフレを招くリスクを心配するよりも、景気が腰折れし、日銀の言う物価の上昇モメンタムが途切れるリスクをより心配すべきではないだろうか 森田 長太郎 「MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!」 MMTを主張する経済学者たちは、経済学コミュニティにおいては少数派 「主流派経済学 vs 非主流派経済学」 MMTは現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝 ポピュリスト政治家やトランプ政権を政治的に攻めあぐねている野党民主党の政治家の中にこの理論の信奉者が少なからずいる 日本における「リフレ派vs反リフレ派」にそっくり 「失笑を禁じえない」 「デジャビュを感じる」 日本の「リフレ派 vs 反リフレ派」論争の最大のインプリケーションを述べておくと、「正論必ずしも勝たず」ということであろう。リフレ派は決して議論に勝ったわけではないが、主張した政策を実現する機会をつかんだ クルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽 MMTは会計上の資産負債の一致を述べているだけ アバ・ラーナー 「財政赤字はいくら増やしても何も問題ない」 最も重要なコンセプトは、「誰かの負債は必ず誰かの資産」ということ 現代の主流派経済学である「ニュー・ケインジアン」と、その牙城となっている主要中央銀行(FRB、日銀、ECB)からすると、とてもそのままでは容認できないもの 財政政策がマネーサプライ(=国民の金融資産)を決定するのであり、中央銀行が決定するのではない」と言っているのに等しい 「財政政策が決める」とするMMTの根拠 中央銀行の働きはひたすら受動的 翁-岩田論争 「リカード中立」を前提にするなら乗数効果はゼロだ 実際には減税資金のうちいくらかを消費に回すからこそ経済効果がある 「誰かの負債は誰かの資産」あるいは「財政赤字は誰の負担にもなっていない」というのは、「恒等式」の関係を述べている、「会計上、バランスシートの右と左は釣り合っている」と言っているにすぎない 財政赤字による国債発行はマネーサプライを増加させ、それは銀行の預金を増加させる。 長期金利の上昇をもたらさないだろう MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている 金融政策は、局面によってはほとんど無力に近い時もあるが、メカニズムとしては民間部門債務と海外債務の変動を通じてマネーサプライを増減させ、雇用やインフレに影響を及ぼすことがある程度はできる 「金融政策こそがすべて」という主張も、同じくらい「明確な誤り」 「将来の成長期待」「競争環境」「技術革新」「金融規制」さらには「社会全体のセンチメント」まで実に多岐にわたる要素が影響するのである 複雑な要素を捨象して、「財政政策がすべてだ」「いや金融政策だ」と経済学者や評論家たちが主張をぶつけ合っている姿自体があまりにも現実離れしており、空想世界に生きているように見える 「レバレッジ拡大政策」を空疎な理論で決定するな
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政府財政問題(さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ、日本の「腐敗指数」は先進国で中の下 独立財政機関が必要!?、基礎的財政収支の黒字化 1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する) [経済政治動向]

今日は、政府財政問題(さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ、日本の「腐敗指数」は先進国で中の下 独立財政機関が必要!?、基礎的財政収支の黒字化 1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する)を取上げよう。

先ずは、ジャーナリストの磯山 友幸氏が昨年3月2日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/238117/030100071/
・『記者が「だまされる」いわく付きの発表  国会では「裁量労働制」を巡って政府が提出したデータの不備が、野党や大手メディアに追及され、安倍晋三首相は今国会に提出する働き方改革関連法案から裁量労働制を削除せざるを得ないところまで追い込まれている。議論する前提のデータがインチキでは真っ当な政策決定が行えないという野党の主張は当然である。 ところが、野党も大手メディアもまったく問題視しないデータ不備が存在する。日本はまだまだ税金も社会保険料も負担が軽いと主張するそのデータは、国民生活を直撃する「増税」を進めるための1つの論拠になっているのだから、裁量労働制に劣らない重要なデータと言える。にもかかわらず、毎年同じ「恣意的」とも言えるデータが発表され続けている。 国民負担率。国税と地方税の「税負担」や、年金掛け金・健康保険料といった「社会保障負担」が国民所得の何%を占めるかというデータである。 「国民負担率18年度42.5% 2年連続減、所得増映す」 2月24日付の日本経済新聞はこう報じていた。「負担率が前年度を下回るのは2年連続。景況感の回復で所得が増え、負担率を押し下げた」としている。 この記事は2月23日に財務省が発表した「2018年度(平成30年度)の国民負担率」を基に書かれた、いわゆる発表記事だ。財務省内にある記者クラブに詰めている若手記者が、財務官僚の説明をそのまま記事にしたのだろう。1年前に自分たちの新聞がどんな記事を書いたかチェックしなかったのだろうか。 「17年度の国民負担率、横ばい42.5%」これが日本経済新聞の2017年2月10日付(電子版)の記事だ。つまり2016年度も2017年度も42.5%だとしていたのだ。「横ばい」と書いていたはずなのに、なぜそれが「2年連続減」になるのか。 実は、この発表データは記者クラブの記者たちが何度も“だまされ”てきた、いわく付きの発表なのだ』、「いわく付きの発表」にも拘らず、「財務官僚の説明をそのまま記事に」するとは、お粗末極まる。
・『国民負担率を小さく見せようという「意図」  今年発表された年度推移のデータ一覧表を見ると、2016年度は42.8%、2017年度は42.7%、そして2018年度は42.5%となっている。この表をベースに記者は「2年連続減」と書いているのだが、ここに「罠」が仕掛けられている。 欄外に細かい文字でこう書かれている(年号を西暦に修正)。 「2016年度までは実績、2017年度は実績見込み、2018年度は見通しである」 2017年度も2018年度も確定的な数字ではない、と言っているわけだ。その財務省の「推計」を基に記事を書くので、辻褄が合わなくなっている。つまり、毎年「見通し」がおかしいのだ。 実績として確定した2016年度の国民負担率は6年連続で過去最高を更新した。2010年度は37.2%だったので、6年で5.6ポイントも上昇した。この国民負担率にそれぞれその年度の国民所得をかけて計算すると、何と33兆円も負担は増えているのだ。 ではかつて、日本経済新聞は2016年度の「見通し」をどう記事にしていたか。 「16年度の国民負担率、7年ぶり低下」である。財務省は、負担は軽くなるというデータを毎年のように示しながら、「実績」となると過去最高を続けているわけだ。記者はまんまと財務省の「印象操作」にはまっているのである。これは日本経済新聞だけの問題ではなく、朝日新聞ほかの大手メディアは概ね「引っかかって」いる。 今年の発表では2017年度は42.7%と、最高だった2016年度の42.8%に比べて0.1ポイント低下することになっている。2017年度は「実績見込み」だから大きくは狂わないだろうと多くの読者は思うに違いない。だが毎年、「実績」数字は、「実績見込み」を上回る結果になっている。昨年の発表で2016年度の「実績見込み」は42.5%だったが、蓋を開けてみると42.8%と0.3ポイントも上回っていたのだ。 過去何年にもわたって発表されてきた「見通し」や「実績見込み」は、決まって「実績」よりも小さく見積もられてきた。明らかに、予想ベースを過小に公表して、国民負担率を小さく見せようという「意図」が働いている。それを知ってか知らずか大手メディアは、財務省の意図通りに「見通し」ベースで記事を書き続けているのだ。 これこそ、霞が関による「情報操作」、「データ偽装」ではないか。本来、新聞が書くべきは、2016年度の国民負担率が42.8%と過去最高になった「事実」ではないのだろうか。役所の誘導に引っかかって、結果的に誤報を繰り返す、「官製誤報」が繰り返されている。野党も国民の給与が増えないと繰り返すならば、こうした増税論議の前提になる「データの不備」を追及すべきではないのか。 財務省の発表を見て経済データを見慣れた記者ならば、「実績見込み」も「見通し」もかなり前提が「緩い」ことに気がつくはずだ。2017年度実績見込みの前提になっている国民所得は「402兆9000億円」。2016年度は391兆7000億円なので、2.9%増える「見込み」になっている。さらに2018年度は414兆1000億円という「見通し」で、これは前年度比2.8%の増加である。高い経済成長を前提にして、国民所得が増えるので、その分、負担は減りますと言っているわけだ』、「「実績見込み」も「見通し」もかなり前提が「緩い」」ので、国民負担率の「実績」では大幅に上方修正され、負担が増えていた、というのは余りに見え透いた手口だ。きっと記者クラブのメンバーたちはそれを承知の上で「官製誤報」に協力しているのだろう。、
・『目白押しの増税プランが負担率を押し上げる  余談だが、実は、国民負担率が44.4%という過去最高を記録したことがある。2015年度だ。ところが政府がGDP(国内総生産)の計算方式を変更したため、国民所得が大きく増えることになった。これを受けて財務省は国民負担率の一覧表も過去に遡って修正した。2015年度は42.6%になったので、1.8ポイント分低く見えるようになった。 アベノミクスで景気回復に期待がかかる。GDPが徐々に増えていくことは間違いないだろう。だが、現実には国民負担率は過去最高を更新し続けるに違いない。 何せ、増税プランが目白押しなのだ。2019年度以降は所得増税と消費税率の10%への引き上げが決まっている。2018年度税制改正大綱では、給与所得控除の縮小によって年収850万円以上の給与所得者は増税となることが決まった。基礎控除が拡大されるため自営業やフリーランスは減税になるとしているが、トータルでは増税だ。さらに、出国税や森林環境税などの導入も決まった。 いくらアベノミクスで国民所得が増えても、それを上回るペースで税金が増えていけば、実際に使えるおカネ、可処分所得はマイナスになってしまう。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、訪日外国人観光客などが増え、消費が盛り上がると期待されているが、その「特需」の規模は不透明だ。増税によるマイナス効果を吸収できなければ、せっかく明るさが見え始めた日本経済に再び水がさされることになりかねない。 日本のGDPの過半は消費によって生み出されている。安倍首相は2012年末の第2次安倍内閣発足以降、「経済の好循環」を訴えている。アベノミクスによって円高が是正され企業収益が大幅に改善されたが、それを従業員に積極的に配分することで、冷え込んだままになっている消費に火をつけようというわけだ。安倍首相は繰り返し経済界に賃上げを求めており、今年は「3%の賃上げ」を働きかけている。消費に火がつけば、再び企業収益にプラスとなり、循環が始まるわけだ。 「経済の好循環」が回り始めるには、国民の可処分所得が増え、実際に消費にお金が回る必要がある。税負担や社会保険料負担を増やせば、国民の可処分所得はその分減ってしまうことになる。 それだけに増税議論には「正確なデータ」が不可欠なはずだ。「まだまだ日本の税金は安いですよ」「社会保障負担も増えてきましたが、大したことはありません」という印象操作をベースに議論をしていれば、実態を見誤ることになりかねない』、その通りだ。記者もクラブの悪しき伝統を脱却して、真の姿を記事にしてほしい。野党もトリックを追及すべきだ。

次に、東短リサーチ代表取締役社長の加藤 出氏が昨年4月19日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本の「腐敗指数」は先進国で中の下、独立財政機関が必要!?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/167319
・『今年2月に世界の「腐敗認識指数2017」(トランスペアレンシー・インターナショナル)が公表された。世界180の国と地域において、専門家とビジネスパーソンにアンケートを行い、「公的部門が腐敗していると感じている」と答えた人の割合を指数化したものである。ランキングが上位ほど清潔で、下がるほど腐敗度が高い。 清潔度1位はニュージーランドだったが、日本は20位だ(5年前は17位)。経済協力開発機構(OECD)加盟35カ国では18位、主要7カ国(G7)では5位。つまり、世界全体では上位にいるが、先進国では真ん中よりやや下に位置している。日本の公的部門の清潔度は悪くはないが、国際的に称賛されるほどではないといえる。 ランキングの下位を見ると、中国77位、インド81位、ブラジル96位、ロシア135位、北朝鮮171位、ソマリア180位だ。下位の国々の国民は、日本の昨今の「森友・加計問題」を聞いたら、「何をそんなに騒いでいるのか」と不思議に感じるかもしれない。しかし、上位国の国民は不適切な動きが起きていると思うだろう。 ところで、清潔度上位ベスト6の中に、北欧の福祉国家が4カ国入っている。デンマーク2位、フィンランド同率3位、ノルウェー同率3位、スウェーデン6位だ。 それら4カ国の昨年の名目国内総生産(GDP)に対する一般政府の収入(主に税収)は平均で52%、支出は51%だ。日本の比率はそれぞれ33%と37%(国際通貨基金〈IMF〉推計)。つまり北欧4カ国は「大きな政府」であり、「高負担・高福祉」となっている。 4カ国の消費税率は24~25%と、日本よりはるかに高い。それにもかかわらず、国民は大きな不満を抱いていない。政府の清潔度が高く、税金は社会保障などに適切に使われていると、国民が政府を信頼しているからである。 そう考えると、今回の「森友問題」における財務省の公文書改ざんは悪影響を及ぼすと懸念される。「財務省がこのような不祥事を起こしては、2019年10月の消費税率引き上げは難しい」という声を、市場関係者から最近よく聞く。 増税は本来財務省のためのものではないが、信認が低下した役所の財政見通しを国民に説得性を持って伝えるのは確かに難しい』、新しい「腐敗認識指数2018」によれば、日本は18位と僅かに上がったようだが、先進国での地位は低いままだ。北欧4カ国は、「高負担・高福祉」で、「国民は大きな不満を抱いていない。政府の清潔度が高く、税金は社会保障などに適切に使われていると、国民が政府を信頼しているから」というのはその通りだ。
・『こうなってくると、長期的な対策として、OECDが強く推奨している独立財政機関の設置を日本でも真剣に検討する必要があるだろう。政府や政党からの影響を受けずに、中立的な立場で経済や財政の中長期的な見通しを作成する機関のことである。OECD加盟国の中ではすでに27カ国以上が導入している。G7で採用していないのは実は日本だけだ。 米国の独立財政機関である議会予算局(CBO)は、4月9日に新たな経済見通しを発表した。実質GDPの成長率は今年と来年こそ高めだが、18~28年の平均は1.9%だった。米政権の同期間の見通しは3.0%だ。CBOは政府に忖度していない。政府債務の累増に関しても政府に強い警鐘を鳴らしている。こうした姿勢により、CBOは市場でもリスペクトされている。 しかも、CBOに限らず多くの国で独立財政機関は30~75年前後の財政見通しを公表している。日本政府(内閣府)の見通しは10年弱と極めて近視眼的だ。将来世代のための建設的な財政再建議論を進めるには、たたき台となる中立的で信頼に足る長期の財政見通しが必要である』、説得力溢れた主張で、大賛成だ。独立財政機関が出来れば、第一の記事でみた財務省の小細工などもなくなり実態が開示されることになる。ただ、財務省は猛反対するので、よほど本腰を入れて改革する必要があるだろう。

第三に、慶應義塾大学 経済学部教授の土居 丈朗氏が2月4日付け東洋経済オンラインに寄稿した「基礎的財政収支の黒字化、1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/263535
・『内閣府は1月30日、毎年恒例の「中長期の経済財政に関する試算」(中長期試算)を公表した。 中長期試算は年に2回更新することになっているが、今回は2つの意味で重要である。1つは、2019年度政府予算案の閣議決定を受けて、今後の財政収支の見通しを確認すること。もう1つは、今年予定されている5年に1度の公的年金の財政検証で中長期試算がどう使われるかである』、なるほど。
・『異例の閣議決定やり直し  まず、今後の財政収支の見通しについて、2019年度政府予算案は、毎月勤労統計の不正の影響を受けて1月18日に閣議決定をやり直すという極めて異例の展開となった。一般会計の歳出総額は101兆4571億円と、当初予算としては過去最高額となった。「来年度予算案の『101兆円』はバラマキ予算か」で言及したとおり、消費増税対策や防衛費、公共事業費などの歳出増で歳出が膨張したことから、財政健全化目標の達成は遠のいたような印象を与えた。 毎年1~2月頃に公表される中長期試算の更新版は、次年度予算案の内容を踏まえて改訂される。次年度予算に盛り込まれた歳出改革は反映するが、翌々年度以降の歳出見通しには追加の歳出改革は織り込まないという試算の前提が踏襲されている。 したがって、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革が織り込まれていない2018年7月公表の試算と、今回の中長期試算(2019年1月試算)を比べれば、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革が財政収支の改善にどう影響したかを見極めることができる。 中長期試算の1つの重要な焦点となるのが、2025年度に国と地方を合わせた基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)がどうなるかという点だ。安倍内閣は、2025年度の国と地方を合わせたPBの黒字化を財政健全化目標として閣議決定している。PBは、税収等から政策的経費(基礎的財政収支対象経費)を差し引いた収支である。 2018年7月試算では、より高い経済成長率のシナリオである成長実現ケースで、2025年度のPBは2.4兆円の赤字だった。黒字化目標を達成するにはさらなる政策努力が求められるという試算結果だ。2019年1月試算の成長実現ケースで、2025年のPBは1.1兆円の赤字となった。2018年7月試算から収支が1.3兆円改善する結果だが、収支がなぜこれだけ改善したのだろうか』、放漫財政にしておきながら、改善するとは不思議だ。要因は何なんだろう。
・『収支の改善は、歳出側と歳入側の双方の要因が作用する。歳出が抑えられたり歳入が増えたりすれば、収支は改善する。内閣府の資料では、あいにくそのすべてが分解できる形で公表されていないが、公表されている部分から4つの要因に分解してみる。1つ目は国の一般会計歳出、2つ目は地方普通会計(地方財政を代表する会計)の歳出、3つ目は国と地方の税収総額、4つ目は残りの要因(すべてが公表されていないため前三者では説明できない部分)である。 まず、2019年度の国の一般会計歳出は、2018年7月試算では総額が99.0兆円だった。このうち国債費を除いた政策的経費(PB対象経費)は76.9兆円と見込んでいた。ところが、2019年度政府予算案では、歳出総額が101.5兆円、うち政策的経費が77.9兆円と、2018年7月試算より膨らんでいる。 2019年度予算案では、消費増税対策などで臨時的な歳出増が多いのも事実である。2019年1月試算では、臨時的な歳出増の部分は恒久的な歳出増とならない扱いにしている。2020年度までの臨時的な歳出増が終わると、2021年度以降は恒久的な制度や政策に基づく歳出だけになる。そこには、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果までは含むが、2020年度以降は追加の歳出改革を行わない前提で試算されている』、「臨時的な歳出増の部分は恒久的な歳出増とならない扱いにしている」が、それでも「政策的経費」は1兆円膨らんだようだ。
・『大きい社会保障見直しの効果  そこで、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果を、それを織り込んでいない2018年7月試算と、織り込んでいる2019年1月試算を比較してみると、その差異がわかる。 財政健全化目標の達成年次である2025年度において、成長実現ケースで、国の一般会計の政策的経費の試算結果はどうなっているか。2018年7月試算では88.7兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では88.4兆円と、0.3兆円ほど減っている。これは2025年度における収支改善要因となる。とくに、2018年7月試算では、2025年度の社会保障関係費を41.2兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では40.5兆円と、0.7兆円ほど減っている点が大きい。2019年度予算などで実施される社会保障の見直しの効果といえよう。 地方普通会計の歳出は、2025年度の政策的経費(PB対象経費)について、2018年7月試算では94.4兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では93.4兆円と、1兆円ほど減っている。1つ目と2つ目の要因を合計すると、1.3兆円ほどの収支改善要因となっている。国からの補助金を財源に地方自治体が政策的経費を投じている部分があるから、本来は重複を除かなければならないが、筆者の独自の推計でそれを考慮しても、おおむね同規模の収支改善効果が生じているといえる』、「社会保障の見直し」や「地方普通会計の政策的経費」圧縮で「1.3兆円ほどの収支改善要因」といわれても、数字上のトリックではないかと疑いたくなる。
・『3つ目の要因が国と地方の税収総額だ。2025年度の税収総額(国の一般会計の税収等+地方普通会計の税収)が、2018年7月試算では137.0兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では136.8兆円と、0.2兆円ほど減っている。2018年7月試算と2019年1月試算とでは、名目経済成長率はほとんど変わらない見通しとしていて、経済成長に伴う税の自然増収も同程度と見込んでいることから、経済見通しの更新に伴い自然増収が追加的に増えるという効果は、2019年1月試算では含まれていないとみられる。 2025年度のPBは、4つ目の残りの要因を含めると赤字が1.3兆円減る試算結果となって、今回の中長期試算では1.1兆円の赤字となった。今回の試算結果は、歳出抑制効果が主たる要因となって、2025年度のPBが改善する見通しになったと考えられる。これらが影響して、PB黒字化の年次が、2018年7月試算で2027年度だったのが、2019年1月試算では2026年と1年前倒しされる結果につながった。 2018年7月試算と2019年1月試算の歳出面での主たる差異は、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果である。改革努力を毎年度積み重ねてゆくことで、2025年度の黒字化を実現していく必要がある。 努力すれば実現できる金額だが、道のりは険しい。2021年度以降、臨時的な歳出増を行わないことが前提となっているが、2020年の東京オリンピックに財政出動を求める政治的圧力が高まらないとも限らない。さらに、成長実現ケースでは、2020年代前半の名目成長率を3.4%程度と見込んでいるが、その成長率が実現しなければ、税収増は捕らぬ狸の皮算用となる』、「臨時的な歳出増を行わないことが前提」というのは、実現は難しそうだ。名目成長率も2018年実績0.7%からみると、3.4%とはどうみても高過ぎる。やはり、安部政権の大盤振る舞いの予算の影響を軽く見せるための「忖度」が大いに盛り込まれた架空の試算のようだ。
・『財政再建は早期の実行が効果的  今回の中長期試算から得られる1つの示唆は、歳出改革を早期に実施すれば、5年ほど経つと兆円単位の収支改善効果が出るということだ。経済成長を促すことは重要だが、財政再建には早期に歳出改革を実行することが効果的である。 そして、今回の中長期試算のもう1つの見どころは、成長実現ケースとは別に用意されたベースラインケースの試算内容である。それは、今年予定されている年金の財政検証を左右する。 5年に1度行われる年金の財政検証では、今後の経済前提の置き方が問われる。楽観的過ぎる経済前提を置けば、年金財政は一見安泰に見えるが、絵に描いた餅になってしまう。保守的な経済前提でも、年金給付がどうなるかを正直に国民に示す必要がある。 5年前の2014年の財政検証のときには、経済前提として内閣府の中長期試算が大いに参照された。当時の中長期試算では、より高い成長率のシナリオを「経済再生ケース」、より低い成長率のシナリオを「参考ケース」と呼んでいた。年金の財政検証では、経済再生ケースを前提とした推計をケースA~E、参考ケースを前提としたケースF~Hの計8通りの検証結果を公表した。 「年金の検証、またも安倍内閣の鬼門になるか」で詳述したように、ケースA~Eは楽観的な経済成長を前提に、所得代替率(注)が50%を割らずに100年後にも年金積立金が払底しない、いわゆる「100年安心」であるとの検証結果となった。ところが、ケースF~Hは成長率が低いことも影響し、所得代替率が50%を割る結果となった。 これを厚生労働省が正直に公表した点は良心を示したといえるが、低成長だと、年金改革を行わないと「100年安心」ではないことを示唆している』、低成長では「所得代替率が50%を割る」とは、やはり年金改革が必要なようだ。(注)所得代替率とは、厚生年金で、現役世代の平均的なボーナス込みの手取り賃金に対する新規裁定時の年金額の割合を、給付水準設定の基準としており、50%を上回ることが目標。
・『保守的な経済前提を使うとどうなるか  そして、今年の財政検証。前回を踏襲するなら、経済前提は中長期試算の2019年1月試算を参照することになろう。前回検証の経済再生ケースは、今回検証では前掲の成長実現ケースが対応する。前回の参考ケースは、今回はベンチマークケースである。 焦点はそのベンチマークケースの経済前提である。2018年7月試算のベンチマークケースでは、全要素生産性(TFP)上昇率(いわゆる技術進歩の進捗率)を1.0%と置いていた。1.0%は、前回の財政検証で使われた参考ケースと同じであり、1983年2月から2009年3月までの平均値である。TFP上昇率を高く仮定すると経済成長率も高く推計される。これを、2019年1月試算のベンチマークケースでは、0.8%に下方修正した。0.8%とは、2002年1月以降の平均値である。 直近の日本経済の状況を適切に反映し、保守的な経済前提を示したという意味でこの点は評価できる。今年の財政検証にこれをそのまま用いるとよい。ただ、経済成長率はその分低く推計されることになるから、年金の財政検証の結果はより厳しいものになる可能性がある。虚心坦懐に検証結果が国民に示されるのを待ちたい』、こうした試算が政治的にねじ曲げられることを防ぐためには、第二の記事にある「独立財政機関」がやはり必要なようだ。
タグ:東洋経済オンライン 日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン 国民負担率 磯山 友幸 加藤 出 土居 丈朗 「中長期の経済財政に関する試算」 政府財政問題 (さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ、日本の「腐敗指数」は先進国で中の下 独立財政機関が必要!?、基礎的財政収支の黒字化 1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する) 「さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ」 記者が「だまされる」いわく付きの発表 毎年同じ「恣意的」とも言えるデータが発表され続けている 国民負担率を小さく見せようという「意図」 2016年度までは実績、2017年度は実績見込み、2018年度は見通しである 財務省は、負担は軽くなるというデータを毎年のように示しながら、「実績」となると過去最高を続けているわけだ 財務省の「印象操作」 これは日本経済新聞だけの問題ではなく、朝日新聞ほかの大手メディアは概ね「引っかかって」いる 目白押しの増税プランが負担率を押し上げる 「日本の「腐敗指数」は先進国で中の下、独立財政機関が必要!?」 腐敗認識指数2017 先進国では真ん中よりやや下に位置 清潔度上位ベスト6の中に、北欧の福祉国家が4カ国 北欧4カ国は「大きな政府」であり、「高負担・高福祉」 国民は大きな不満を抱いていない。政府の清潔度が高く、税金は社会保障などに適切に使われていると、国民が政府を信頼しているからである OECDが強く推奨している独立財政機関の設置を日本でも真剣に検討する必要 G7で採用していないのは実は日本だけ 「基礎的財政収支の黒字化、1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する」 018年7月試算から収支が1.3兆円改善する結果 臨時的な歳出増の部分は恒久的な歳出増とならない扱いに 大きい社会保障見直しの効果 歳出抑制効果が主たる要因となって、2025年度のPBが改善する見通しになったと考えられる。これらが影響して、PB黒字化の年次が、2018年7月試算で2027年度だったのが、2019年1月試算では2026年と1年前倒しされる結果 名目成長率も2018年実績0.7%からみると、3.4%とはどうみても高過ぎる 安部政権の大盤振る舞いの予算の影響を軽く見せるための「忖度」が大いに盛り込まれた架空の試算のようだ 財政再建は早期の実行が効果的 保守的な経済前提を使うとどうなるか
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2019年展望(アベノミクスの好循環が途切れた「3年前の悪夢」が2019年に再来か、日本が抱える2019年 7つの重大な経済リスク 五輪バブルが弾けるのは2019年後半か、2019年の安倍政権に渦巻く「7年目の不安」 選挙が目白押しの中 アベノミクスに危機) [経済政治動向]

大晦日の今日は、2019年展望(アベノミクスの好循環が途切れた「3年前の悪夢」が2019年に再来か、日本が抱える2019年 7つの重大な経済リスク 五輪バブルが弾けるのは2019年後半か、2019年の安倍政権に渦巻く「7年目の不安」 選挙が目白押しの中 アベノミクスに危機)を取上げよう。

先ずは、みずほ総合研究所 専務執行役員調査本部長/チーフエコノミストの高田 創氏が12月26日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「アベノミクスの好循環が途切れた「3年前の悪夢」が2019年に再来か」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189579
・『アベノミクスのもとで景気拡大は12月で戦後最長の「いざなみ景気」にならび、来年1月には最長記録を更新する可能性がいわれている。 好況を生み出したのが、想定を超える円安が株高につながる好循環だが、2019年はこの好循環が「2016年」のように途切れる可能性がある』、憂鬱な展望だが、確かに悪材料が揃っており、覚悟が必要なようだ。
・『円安の好循環が途切れた「2016年の再来」の可能性  2012年以降のアベノミクスの成果は企業が想定する為替レートを超えた円安が株高をもたらす好循環によるものだった。 逆にいえば平成バブル崩壊以降の景気停滞は超円高と資産デフレの悪循環が原因だった。つまりアベノミクスの成功は超円高・株安悪の循環を超金融緩和の金融政策で断ち切ったことにあった。 だが、2012年以降の好循環が初めて途切れたのが2016年だ。 図表1は想定為替レートと円ドル為替の推移だ。図表を振り返っても2016年は明らかに、これまでの想定為替レートを超える円安の好循環が崩れたことが示される。 現在は、依然、円ドルの為替水準は、想定為替レートより円安になっていて「好循環」が続いているのは救いだが、一方で懸念は世界的な景気拡大を牽引してきた中国サイクルとITサイクルが下方に転じたことだ。 2019年についての最大のリスクシナリオは、2016年同様に想定為替レートを超える円高によって好循環が途切れることだ。 その可能性が現実になるとしたら、世界経済の環境悪化で、米国FRBの利上げスタンスが転換し、日米の金利差縮小などの予想から円高トレンドに一気に転じることだ。 それは同時に金融・財政当局にとっても、急速な円高圧力のもとで、マイナス金利を導入するなど、マクロ政策運営で苦闘させられた、2016年のトラウマ、悪夢の再来となりかねない』、2016年ぐらいで済むのだろうか。
・『世界経済は“足踏み状態” 中国の減速が最大のリスク  そうした状況に陥る可能性は、図表2のグローバルな景況感を反映するグローバル合成PMIの推移をみてもわかる。現在の形状は2015年から2016年にかけて生じた状況に類似する。 実体経済は、堅調な米国を除き一時的な足踏み状態(ソフトパッチ)の様相を呈し、今後、2015~2016年のように世界経済が減速に至る不安がある。 2016年は中国を中心とした新興国経済の減速が、米国・ユーロ圏など先進国経済にも波及した。現状も中国経済の減速やITサイクルのピークアウトなどを起点として当時と似た状況に陥るリスクを秘めている。 なかでも最大の不安定要因が中国経済である。 次に示した図表3は、中国の景況感を示している。みずほ総研ではこれを「チャイナ・クロック」として活用している。  過去を振り返っても、製造業を中心にした世界の景況感は、中国の動きに少し遅れる形で、その動きに連動するように変わってきた。 2013年から14年、15年初にかけて中国ショックとされた中国の落ち込みが、その後、世界経済の減速を招いた。しかし15年から中国の景況感が回復に向かったことに加え、世界的なITサイクルの改善があって世界経済は回復、さらに、2016年末以降、米国トランプ政権主導の景気回復が世界全体を押し上げた。 その後、中国の景況感は2016、17年と徐々に減速に向かい、足元は停滞へと下方に向かい始めた様相になっている。加えて、国内自動車販売や輸出が下方屈折を示していることもあり、世界経済の牽引エンジンの中国経済が停滞局面に入った可能性がある』、「中国経済が停滞局面に入った」とすれば、日本への影響も甚大だろう。
・『2016年と類似する2019年のリスク  下記の図表4は、2016年の世界の状況と今を比較したもので、既にいくつかの共通項がある。 最近でも、原油価格下落のほかにも、Brexitをめぐる不透明感の強まりなどは、15~16年と共通するものだ。 欧州ではほかにも、イタリアなどの財政問題や独仏でのメルケル首相やマクロン大統領の指導力低下などもあり、欧州地域の不安定化も16年との共通点だ』、ただ、よくよく図表3を見ると、15~16年の中国経済は回復局面にあったのに対し、今回は停滞局面にあり、Brexitの影響も今回の方が大きそうなので、15~16年より深刻とみるべきだろう。
・『円高で日銀と財務省は「悪夢の再来」 財政金融政策の余力少ない  それでは、2016年の日銀と財務省の“悪夢”はなんだったのか。 当時、2015年末から2016年にかけての急速な円高トレンドへの転換で、日銀はさらなる金融緩和策として2016年1月のマイナス金利導入に追い込まれた。 さらに、16年6月の国民投票でのBrexit決定を受けて進んだユーロ安・円高も加わり、日銀は9月には、10年物国債をゼロ近傍に誘導するイールドカーブ・コントロールまで踏み出すことになった。 一方、財務省にとっては2016年6月の消費増税延期に追い込まれたことが、トラウマだ。 日銀は2018年7月の金融政策決定会合で、16年に「劇薬」に近い金融緩和強化に追い込まれた状況からの正常化を行うべく、長期金利の誘導幅を広げ金利上昇の余地を増やすなど、事実上、異常な緩和政策の「出口」に向けたスタンスにかじを切り始めている。 一方、財務省は2019年10月の消費増税を起点として財政再建への一歩を踏み出そうとしている。 以上の金融・財政当局の動きは、今日の局面からは極めて妥当な政策と筆者は判断している。 ただし、そうした正常化への動きに対する大きなハードルが「2016年のリスク」の再来であり、このことは、2019年の最大のリスクとして認識する必要があるだろう。 しかも困ったことには、「2016年の再来」というリスクケースに陥った時に、対応する金融財政政策の余地が乏しいことだ。 政策当局は、過度な円高を回避するべく米国との十分なコミュニケーションを深めるとともに、日本国内での円高への過剰反応を抑えることも必要になるだろう』、確かに今回は政策的に打つ手がないのは深刻だ。高田氏は立場上、悲観色を薄めているが、厳しい目にみるべきだろう。

次に、経済ジャーナリストの岩崎 博充氏が12月28日付け東洋経済オンラインに寄稿した「日本が抱える2019年、7つの重大な経済リスク 五輪バブルが弾けるのは2019年後半か」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/257758
・『「2019年は株価が下落する要素しか思いつかない」「不安材料しかない」株式市場関係者の声だが、実際に今年のクリスマスはそんな展開となった。アメリカ株がニューヨークダウ平均で600ドル超の大幅下落となり、日本株も日経平均で1000円を超す下落幅を記録するなど、惨憺たる状況で終わった。 アメリカでは、リーマンショック以来の大幅な下げとなり、一部では「暗黒のクリスマス」といった悲観的な表現も飛び交った。クリスマス明けの株式市場では1000ドルを超す史上最高の暴騰となったものの、トランプ政権の方向性のない迷走ぶりに投資家も直面せざるを得なかったともいえる。 もっとも、2019年には世界的な景気後退懸念をはじめとして、アメリカや欧州にはさまざまな不安要素にあふれている。米中貿易交渉や英国の合意なきEU離脱(ハードブレグジット)といったリスク要因があり、そこにトランプ米大統領の気まぐれな政策姿勢が世界に大きな混乱をもたらしている、と言っていいだろう。 そんな状況の中で、日本の2019年はいったいどんな1年になるのか。大混乱の外的要因に加えて、日本国内の内的要因も日本には存在する。日本経済の2019年を俯瞰してみたい』、これは株価の暴落も踏まえた記事なので、第一の記事よりは現状を織り込んでいる可能性がある。
・『消費税、五輪バブル、世界同時株安  とりあえずいま直面している世界同時株安だが、その影響は日本市場にも重くのしかかって来ている。アメリカの株式市場が下落すると、それに輪をかけて日本市場も大きく下げるのが通常のパターンだが、今回もその状況が再現されるとみていいのかもしない。 FRB(米連邦準備制度理事会)よる金利の引き上げが、株価下落の最大の要因であることは間違いないが、アメリカの株価下落の影響で、日経平均株価は10月2日には2万4270円という高値をつけていたものの、12月26日にはその高値から15%も下落した。 ニューヨークダウは、10月3日の2万6828ドルから12月24日には2万1792ドルまで大きく下げて、下落率は18%を超えた。そう考えると、日本の株価はもっと大きく下げる可能性が高い。 もっとも、現在の株式市場はほとんどヘッジファンドのAI(人工知能)による投資判断が主流だから、「パウエルFRB議長、解任か?」といったニュースに、AIが反応した株価下落ともいえる。それだけ、トランプ米大統領が発信する「トランプリスク」が市場の混乱を招いているともいえる。 いずれにしても、日本は株価をはじめとして外的要因が大きく作用していることは確かだ。2019年はこうした外的要因に加えて、日本国内の内的要因によって株価や景気が大きく影響を受けるのではないかと言われている。 実際に、金融市場に大きな影響をもたらしそうな外的リスクには何があるのだろうか。大雑把に考えると次の4点に絞られるだろう。 ①合意なきブレグジットへの懸 ②米中貿易協定交渉、念日米物品協定(TAG)などアメリカによる一連の保護貿易主義 ③FRBによる金利引上げ懸念 ④一連のトランプリスク  合意なきEU離脱(ハードブレグジット)は、早ければ1月中旬にもイギリス議会で採決が行われるが、ブレグジットの承認に至る前に、メイ英首相の不信任案が英国議会に出される可能性が高く、与党の保守党内からの反乱などで承認される可能性もある。メイ首相が不信任となれば、総選挙の実施となり、事態はさらに混乱していく』、4つとも深刻なリスクだ。
・『ハードブレグジットでデリバティブが不安定に?  ハードブレグジットの最大の懸念は、金融派生商品(デリバティブ)の決済機関の大半がロンドンに集中しているため、デリバティブ商品が不安定になることだ。想定元本6000兆円とも言われており、リーマンショック時の6200兆円に匹敵する金融危機の可能性も否定できない。実態が不透明なのも、混乱に拍車をかける。 アメリカの保護貿易主義に関しては、1月から日米の物品貿易交渉がスタートするが、日本に不利な貿易交渉になるのは避けられないだろう。戦闘機を大量に発注することで交渉を有利にしようとする安倍政権の目論見通りに行けばいいのだが、先行きは不透明だ。 一方のアメリカと中国の貿易交渉の期限も2月末に迫っており、互いに25%の関税を掛け合うような事態になる可能性がある。そうなれば、日本企業への影響は大きくなる。 一連のトランプリスクも、ますます拡大している。シリアから米軍を撤退させるなど地政学リスクにも及んでおり、メキシコの国境に壁を作る予算をめぐって政府機関の一部閉鎖が続いている。トランプ大統領自身にも、ロシア疑惑がいよいよ核心に迫っており弾劾裁判への動きがスタートするかもしれない。株価暴落の要因になるはずだ。 トランプ大統領にリーダーシップがないことは明らかであり、アメリカがいまや世界最大のリスクとなりつつある。アメリカに依存しすぎる日本にとって 2019年は極めて大きなリスクを抱えることになるのかもしれない』、「ハードブレグジットでデリバティブが不安定に?」というのは、やや誇張気味だ。決済がロンドンに集中していることは事実だが、参加者はいずれもプロであり、予め織り込んでいる筈だ。
・『日本固有のリスクが爆発する?  さて、そんな外的要因にさらされている日本だが、2019年にはさらなる国内要因のリスクが存在している。簡単に列記すると次のようになる。 ①東京五輪バブルの崩壊が始まる ②消費税率アップによる景気減速リスク ③日銀の金融政策の機能不全  まずは東京五輪のバブル崩壊だが、周知のようにオリンピックにはバブル崩壊がつきものだ。21世紀になってからのアテネ、北京、ロンドン、リオデジャネイロといった歴代の五輪でも、開催決定直後から株式市場などは上昇するものの、早ければ実際の開催から数年前、遅くとも五輪開催直後から株価下落、景気減速するケースが多い。 たとえばアテネの場合は2000年に起きたITバブル崩壊の影響を受けて、アテネ総合指数の株価は6000ポイントから1000ポイント台まで下落。五輪開催時には2500ポイント前後に戻して、その後は順調に推移した。 しかし、最近の傾向としてはオリンピック開催前後の景気減速が当たり前で、投資が集中する開催前の2~3年をピークに、開催の半年前ぐらいから景気減速が始まることが多い。とは言え、その大半はオリンピックの開催とは関係のないITバブル崩壊やリーマンショックといった経済全体の動きに左右されることのほうが多い。 唯一の例外は2000年のシドニーぐらいで、五輪の準備中から開催後も含めて株価や経済全体が上昇基調となった。オーストラリアのシドニー・オリンピックが比較的影響を受けずに済んだのは、2000年をピークとしたITバブルで世界中の景気が高騰していた時期と重なり、さらにITバブル崩壊の影響を資源国「オーストラリア」は、さほど受けなかったからかもしれない。 既存の建物を活用するなど、財政的な負担を極力抑えたロンドン五輪では、残念なことに開催した2012年までの間にリーマンショックを迎えたため、一時期は大きな株価低迷、景気減速となった。五輪開催後はリーマンショックからの立ち直りで、世界的に景気が拡大し、五輪の影響は最小限に済んだと言われる。 東京オリンピックは、当初5000億円程度の予算と言っていたのが、 いつのまにか2兆9600億円の規模になっており、15万人の雇用創出を生むという内容に変化した。都内で人手不足の元凶になっているのは、東京五輪の経済効果なのかもしれない。 もっとも、日本の場合は政府が意図的に五輪バブルを演出しており、2次的な波及効果も合わせれば5兆円規模と言われているが、早ければ開催日である2020年8月の1年前ぐらいから景気減速が見えてくるかもしれない。オリンピック関連施設などが次々に完成してくる段階で、建設現場での雇用などが失われていくことになる。 そもそも5兆円規模の経済効果といえば、日本のGDPの100分の1程度だから、経済効果は期待薄。最近のオリンピックに経済効果はない、と言われるゆえんだ。特に、先進国には経済的なメリットは少ない。それが分かっていながら、政府は意図的にバブルを演出しており、国民の意識の中に消費拡大を浸透させようとしている。 東京都は2030年までのレガシー効果などを含めて32兆円の経済効果があると試算している。仮に32兆円あったとしても、日本経済全体からすればたいしたことのない数字と言える。2020年の本番前に少なくとも直接的な経済効果は吹き飛ぶ可能性がある。 2019年は、アメリカの景気後退も顕著になってくるはずだから、日本では五輪バブル崩壊と合わせて意識的な消費低迷が加速する可能性がある。わずか2週間程度のイベントのために、莫大な公共投資を集中して行うのがオリンピック。言い換えれば、景気刺激策としては絶好の好機なのだが、その反動は避けられない』、オリンピック特需は大したことはないとはいえ、他の悪材料と重なると影響は深刻だろう。
・『過剰な消費税率アップ対策、逆に景気抑制効果か?  ②の消費税率アップに伴う景気後退懸念だが、政府は食料品など一部の商品に対しては8%の税率を維持。加えて、キャッシュレスによる買い物に対してポイント還元するなど、消費税率引き上げのショックを和らげようと必死になっている。消費税率アップの影響がどの程度出るのかは未知数だが、 はっきり言えることはわずか2%の消費税率アップのために民間企業は各種の対応に追われ、大きな負担を強いられるということだ。 大衆迎合的なバラマキをするぐらいなら、政府や地方自治体のペーパーレスや印鑑レスといった作業効率のアップを測ったほうがよほど経済効果が見込めそうなものだ。医療制度の効率を図るためにスマホによる処方箋の処理を解禁するなど、スマホ社会に適合した規制緩和をどんどん推し進めて行く方がよほど経済効果は高いだろう。 ③の日銀の金融政策機能不全というのは、世界中で今後の景気減速が懸念されている中で、日本だけが金利引き下げや量的緩和できる余地を持っていない状況のことだ。景気減速に対応できる金融政策が打てないことを意味しており、日本だけが他の国よりも大きく減速する可能性があるかもしれない。 さらに、日銀はこれまでETF(上場投資信託)を通して購入した株式などの金融資産を大量に保有しているわけだが、日経平均株価が1万8000円を割り込むと、購入した価格よりも割り込む元本割れの状態となり、日銀が大量の不良債権を抱えることになってくる。 日銀の信用が落ち込んで、日本銀行発行券=円の価値が大きく下落する可能性が出てくる。黒田東彦・日銀総裁が心配する1ドル=125円の壁を大きく突破してしまう可能性もあるということだ。そうなれば原油価格が大きく落ち込んではいてもガソリン価格は上昇し、 輸入品の価格も大きく上昇することになる。 景気が悪い中でのインフレ=スタグフレーションが2019年には心配されるということだ』、大幅円安によるスタグフレーションは確かにありそうなシナリオだ。
・『日本が抱える最大のリスクは「財政赤字」!  さて、2019年がどんな1年になるのかは正直言って誰にも分からないことだが、その対応を考えることは大切だろう。アメリカ経済の景気減速が心配されている中で、急激な円高も予想されるし、逆に日本の景気減速が想定範囲を超えれば、次は円安が心配になってくる。 日本経済にとって最大のリスクは何かということを考えておくべきだろう。東京オリンピックの経済効果が薄れてくる2019年の後半には、何が起こるのか。インフレ率2%を達成させるために、安倍政権は6年もの間、450兆円もの莫大な資金を中央銀行を通して市中に流してきた。 この流動性を縮小しなければならない期限も2019年あたりから始まる可能性がある。日銀の金融政策で残されたものと言えば、実際にヘリコプターから現金をばらまくことぐらいしかない、とも言われている。 急激な円安が進んで輸入インフレが起これば、日銀はインフレ抑制のために金利を引き上げなければならない。金利上昇のためには、現在の異次元の量的緩和を中止しなければならない。そもそも日銀が国債を買い入れることで、銀行などに大きな負担をかけ続けてきた。 ややもすると忘れられがちだが、日本経済にとって最大のリスクは、昔も今も1000兆円を超す財政赤字であることだ。その事実を忘れてはならない。ヘリコプターマネー論は最近、勢いを失ったが、景気が悪くなれば再び息を吹き返す可能性がある。その場合は、財政赤字がさらに膨大に膨らみ、円の大暴落、長期金利の高騰による財政赤字の一層の拡大となって、悪循環に陥る懸念がある点は、要注意だ。

第三に、政治ジャーナリストの泉 宏氏が12月28日付け東洋経済オンラインに寄稿した「2019年の安倍政権に渦巻く「7年目の不安」 選挙が目白押しの中、アベノミクスに危機」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/257650
・『「あと3年、日本のかじ取りを担う決意だ」と9月の自民党総裁選圧勝で3選を果たした安倍晋三首相だが、年の瀬の永田町では「任期全うは簡単ではない」(自民長老)との声が広がっている。 平成最後のクリスマスに株価が2万円の大台を割り込むなど、アベノミクスの危機が目立ち、米中貿易摩擦やEU(欧州連合)主要国の混乱などで国際情勢も流動化が際立つ。「内政外交ともいつ、何が起こるか分からない状況」(閣僚経験者)だからだ。 来年は統一地方選と参院選が重なる「政治決戦の年」で、10月には消費税率の10%への引き上げが予定されている。12月26日に再登板から満6年を迎えた首相にとっても「不安がいっぱいの政権7年目」(側近)となることは避けられない』、第二次安倍政権の「ツキ」もいよいよ剥げそうだ。
・『政治日程は窮屈、難題も多い  来年の政治日程をみると、首相の政権運営の前途には多くの関門が並ぶ。1月28日召集予定の通常国会では、初の100兆円台となった2019年度政府予算の早期成立が最優先課題だが、国土強靭化のための大型補正予算の処理が先行するため、年度内成立への審議日程は極めて窮屈だ。 さらに、4月は統一地方選投開票日(前半7日、後半21日)で、21日には衆院の沖縄3区や大阪12区の補選も実施される。その後も4月30日に天皇陛下退位、5月1日に新天皇即位という歴史的皇室行事があり、6月末の主要20カ国・地域(G20)首脳会合のあとの7月下旬に参院選、そして10月1日には消費増税へと進む。まさに政治的ビッグイベントが目白押しだ。 政権運営からみると、首相にとっての最初の関門は沖縄3区補選だ。今年9月末の沖縄県知事選で与党が推した候補が、主要野党と「オール沖縄」が擁立した玉城デニー前衆院議員(自由党)に大敗しただけに、玉城氏の転出に伴う4月21日の沖縄3区補選で与党支持候補が敗れれば、政府が強行している米軍普天間飛行場の辺野古移設のための埋め立て工事への影響も避けられない。 併せて、統一地方選で自民の苦戦が際立てば、与党内で参院選への危機感が高まる一方で、野党共闘に勢いがつくことは確実だ。 もちろん首相にとっての最大の難関は、7月下旬に予定される参院選だ。今年7月、国会で定数6増(選挙区2比例代表4)を盛り込んだ公職選挙法改正が成立したことで、来夏の参院選の改選は124議席(同74同50)となる。 今回改選の対象となる2013年参院選では、自民党が2001年以降で最多となる65議席(同47同18)を獲得、特に1人区では自民が29勝2敗と完勝した。自民党は2016年参院選でも56議席(同37同19)と圧勝して27年ぶりに単独過半数を回復し、憲法改正に前向きな一部野党も加えたいわゆる「改憲勢力」が、参院でも「3分の2」を超えた。 ただ、2019年の参院選以降の「3分の2勢力」維持には、2013年並みの自民大勝が必要だが、「現状では50議席台前半に留まる」(選挙専門家)との見方が多い。32の1人区で主要野党が統一候補を擁立すれば、「自民党は20議席獲得が精一杯」(同)とされ、残る13の複数区でも自民複数当選が見込めるのは1~2区しかない。 さらに、比例代表も2017年衆院選での各党の得票などから推計すれば、「自民が20議席を超えるのは困難」(自民選対)との見方が多く、自民合計議席は改選前を大幅に下回る50台前半というのが「常識的見方」(同)だ。その場合、参院全体で自民党は単独過半数を大きく割り込み、「改憲勢力3分の2」も消滅することになる。 第1次安倍政権で実施された前回の「亥年選挙」の参院選(2007年7月)では、自民党が37議席という歴史的惨敗を喫し、9月の首相退陣につながった。それだけに首相は「何としても汚名をそそぎたい」と秘策を練っているとされる』、どんな秘策が出てくるのだろう。
・『「7.28同日選」も取らぬ狸の皮算用  そこで浮上してきたのが「衆参同日選」断行論だ。通常国会が1月28日召集となれば会期末は6月26日で、会期延長がなければ参院選は自動的に7月21日投開票となる。6月28、29両日にはG20首脳会合が大阪で開催されるが、首相はこれに合わせて来日する予定のプーチン・ロシア大統領との日ロ首脳会談で、「残された最大の外交課題」である日ロ平和条約締結と北方領土問題での「基本合意」に強い意欲を示している。 このため、永田町では「歴史的な日ロ合意を大義名分に、首相が“日ロ解散”に打って出る」(自民長老)との憶測も広がる。その場合は、短期会期延長による7月初旬解散・28日投開票という「7.28同日選」となる可能性が大きい。 過去2回行われた同日選はいずれも自民党が圧勝した。今回も「政権選択選挙となる衆院選をかぶせれば、野党選挙共闘は破綻する」(自民選対)との見方が多い。「野党共闘潰しの秘策で、首相の国政選7連勝となれば、参院選後の憲法改正実現にも弾みがつく」(細田派幹部)という期待もある。 ただ、“超難題”の北方領土問題で「歯舞・色丹の2島先行返還」への道筋すら明確にできなければ、「同日選どころではなくなる」(自民選対)ことも予想され、現時点では「まさに、取らぬ狸の皮算用」というのが実態だ。 そうした首相サイドの思惑を狂わせそうなのがアベノミクスの危機だ。25日の株価急落で「来年以降の世界経済減速の前触れ」(有力エコノミスト)との見方が広がり、日本経済への影響も深刻化する可能性が出てきたからだ。 ただ、25日を底に27日には株価が2万円を回復したこともあり、与党幹部は「世界経済は今のところ堅調」(岸田文雄自民党政調会長)、「日本のファンダメンタルズ(基礎的条件)はしっかりしている」(斎藤鉄夫公明党幹事長)と平静を装うが、政府部内には「1日で1000円もの急落はリーマンショック級で、年末以降も不安定な値動きが続くのは確実」(経産省幹部)との警戒感が広がっている。 これに対し、主要野党は「異常な金融緩和などで株価を支えてきたが、限界が露呈しつつある」(大塚耕平国民民主党参院議員会長)とアベノミクスの失敗が原因だと指摘、「消費不況が深刻化している。消費増税はあり得ない」(枝野幸男立憲民主党代表)と増税見送りも要求している。 菅義偉官房長官は記者会見で「リーマンショック級の事態が起きないかぎり、法律で定められたとおり来年10月から引き上げる予定だ」と繰り返したが、与党内には「来年も株価が低迷したままなら、首相が来年のG20を経て増税の延期や凍結を表明する可能性がある」(閣僚経験者)との声も相次ぐ。ただ、そうなれば「首相自身がアベノミクスの破たんを認めたことにもなる」(自民長老)だけに首相の責任問題も浮上する』、確かに北方領土交渉は、「二島先行」も難しくなりそうな雰囲気だし、アベノミクスの「化けの皮」が剥げつつあることも大きな打撃だろう。
・『安倍首相は自信満々も、経済に暗雲  そうした中、首相は連休明けの25日に記者団から第2次安倍政権満6年の感想を求められると「大変感慨深い。7年目を迎えても日々、国家国民のため全力投球で頑張っていきたい」と語るとともに、あえて第1次安倍政権にも言及し「非常に肩に力を入れて頑張ったが1年で終わった。あの挫折と経験が大切な肥やしになった」と自信満々の笑顔で振り返ってみせた。 しかし、政権の命綱でもあったアベノミクスが危機に瀕し、年明けから始まる日米貿易交渉でも「盟友」のはずのトランプ米大統領が首相を攻め立てる場面も想定される。任期中の実現を公約した「憲法改正」も実現の見通しは立たず、「政権のレガシー(遺産)」作りのための日ロ交渉も「失敗すれば安倍外交も失速する」(自民幹部)ことは確実だ。このため、首相の自信とは裏腹に「7年目の政権運営は内政外交とも八方ふさがり」(首相経験者)ともみえる。 来年の干支(えと)は己亥(つちのとい)で前回は1959年。その年に結婚された当時の皇太子が、60年後の2019年4月、天皇を退位されるという因縁も絡み、2019年は新時代の幕開けの年になる。さらに歴史を紐解けば、60年前は首相の祖父の故岸信介元首相が押し進めていた日米安保改定への反対運動で岸政権が揺れ、5000人以上の死者を出した伊勢湾台風に襲われた年でもある。 己亥は「足元を固めて次を目指す」との意味合いがあるとされるが、政権7年目の首相が足元を固めて、首尾よく2019年11月20日の「史上最長政権」にたどり着けるかは、なお予断を許さない』、「内政外交とも八方ふさがり」とは言い得て妙だ。2019年は経済面では厳しくなるが、安倍政権の崩壊がありそうなのは楽しみだ。
タグ:東洋経済オンライン ダイヤモンド・オンライン 高田 創 泉 宏 岩崎 博充 2019年展望 (アベノミクスの好循環が途切れた「3年前の悪夢」が2019年に再来か、日本が抱える2019年 7つの重大な経済リスク 五輪バブルが弾けるのは2019年後半か、2019年の安倍政権に渦巻く「7年目の不安」 選挙が目白押しの中 アベノミクスに危機) 「アベノミクスの好循環が途切れた「3年前の悪夢」が2019年に再来か」 2019年はこの好循環が「2016年」のように途切れる可能性がある 円安の好循環が途切れた「2016年の再来」の可能性 2019年についての最大のリスクシナリオは、2016年同様に想定為替レートを超える円高によって好循環が途切れることだ 世界経済は“足踏み状態” 中国の減速が最大のリスク 2016年と類似する2019年のリスク 原油価格下落のほかにも、Brexitをめぐる不透明感の強まりなどは、15~16年と共通 円高で日銀と財務省は「悪夢の再来」 財政金融政策の余力少ない 「2016年の再来」というリスクケースに陥った時に、対応する金融財政政策の余地が乏しい 過度な円高を回避するべく米国との十分なコミュニケーションを深めるとともに、日本国内での円高への過剰反応を抑えることも必要になるだろう 「日本が抱える2019年、7つの重大な経済リスク 五輪バブルが弾けるのは2019年後半か」 2019年には世界的な景気後退懸念をはじめとして、アメリカや欧州にはさまざまな不安要素にあふれている 大混乱の外的要因に加えて、日本国内の内的要因も日本には存在する 消費税、五輪バブル、世界同時株安 金融市場に大きな影響をもたらしそうな外的リスク ①合意なきブレグジットへの懸念 ②米中貿易協定交渉、念日米物品協定(TAG)などアメリカによる一連の保護貿易主義 ③FRBによる金利引上げ懸念 ④一連のトランプリスク 日本固有のリスクが爆発する? ①東京五輪バブルの崩壊が始まる ②消費税率アップによる景気減速リスク ③日銀の金融政策の機能不全 過剰な消費税率アップ対策、逆に景気抑制効果か? 景気が悪い中でのインフレ=スタグフレーションが2019年には心配される 日本が抱える最大のリスクは「財政赤字」! 「2019年の安倍政権に渦巻く「7年目の不安」 選挙が目白押しの中、アベノミクスに危機」 再登板から満6年を迎えた首相にとっても「不安がいっぱいの政権7年目」(側近)となることは避けられない 政治日程は窮屈、難題も多い 政治的ビッグイベントが目白押し 最大の難関は、7月下旬に予定される参院選 自民合計議席は改選前を大幅に下回る50台前半というのが「常識的見方」 「7.28同日選」も取らぬ狸の皮算用 歴史的な日ロ合意を大義名分に、首相が“日ロ解散”に打って出る “超難題”の北方領土問題で「歯舞・色丹の2島先行返還」への道筋すら明確にできなければ、「同日選どころではなくなる」 首相サイドの思惑を狂わせそうなのがアベノミクスの危機 年も株価が低迷したままなら、首相が来年のG20を経て増税の延期や凍結を表明する可能性がある そうなれば「首相自身がアベノミクスの破たんを認めたことにもなる」 首相の責任問題も浮上
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