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ハラスメント(その5)(小田嶋氏:能力が高すぎた福田事務次官の“悲劇”) [国内政治]

昨日に続いて、ハラスメント(その5)(小田嶋氏:能力が高すぎた福田事務次官の“悲劇”)を取上げよう。

例によってコラムニストの小田嶋 隆氏が4月20日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「能力が高すぎた福田事務次官の“悲劇”」を紹介しよう。
・財務省の福田淳一事務次官のセクハラ疑惑は、やたらとツッコミどころが豊富なニュースで、それゆえ、この話題を伝えるメディアは、どこに焦点を当てて良いのやら混乱しているように見える。 この不可解な偶発事故のために、本丸のいわゆるモリカケ問題への追及を、一時的にであれ手控えたものなのかと訝しみながら、それでも彼らは、このネタに全力でくらいついている。 それほど、この事件は、扇情的かつ洗浄的ならびに戦場的で、つまるところ、やっぱり面白い。だからメディアは追いかけざるを得ない。
・私自身、ここまであらゆる方向からネタになる素材を前にすると、しばし考え込んでしまう。 マタタビ輸送車両の自損事故現場に遭遇した猫みたいな気分だ。 官僚としての自覚だとか責任だとかいったデカい主題のお話は、すでに無数の論者によって語り尽くされている。いまさらそんな場所に出かけていって、屋上屋を重ねようとは思わない。 といって、細部の論点には踏み込みたくない。 というのも、論点のいちいちが、あまりにもバカげているからだ。
・次の次官に昇格すると目されている矢野康治財務省大臣官房長による 「中身がわからないことには処分に至らないのが世の常ですよ。それをこの方(被害者の女性)は、この報道が事実であれば、雑誌の中で『こんなことをされた、こんなことをされてとても不快だった』と、カギ括弧つきで書いておられますよ。であれば、その方が財務省でなく、弁護士さんに名乗り出て、名前を伏せて仰るということが、そんなに苦痛なことなのか、という思いでありました」 という国会答弁にしても、 麻生財務相の 「福田に人権はないのか?」 という記者への問いかけにしても、論外すぎて取り上げる気持ちになれない。 論及するとキーボードが汚れる感じ、だ。
・あるいはこれほどまでに論外な論点での答弁は、まともな論者の気持ちをくじくという意味で防衛力の高い態度なのかもしれない。 いずれにせよ、原稿のネタにしたい話ではない。 とはいえ、まるっきり黙殺するのもそれはそれで面白くないので、簡単に言及しておく。
・セクハラの加害者として複数のメディアの女性記者から名指しにされている当の本人が、「胸触っていい?」「手縛っていい?」といった具体的な会話の録音データをネット上および地上波のテレビ放送を通じてさんざんリピート再生されている状況下で、自身の発言を否定しているだけでも驚きなのに、福田氏は、あろうことか、被害女性を名誉毀損で提訴する意向を匂わせた。
・さらに、財務省は財務省で、件の女性記者に対して自分たちが主導する事件の調査への協力を求めている。どういう神経が脳から脊髄を貫いていれば、これほどまでにいけ図々しい申し出を口に出すことができるものなのだろうか。
・財務省という組織が、ここまでの一連のやりとりを通じて露呈したダメージコントロールのダメさ加減を主題にすれば、それはそれで一本の原稿になるだろうとは思う。麻生財務大臣の発言傾向を政権時代にさかのぼって時系列で検討してみれば、それもまたそれなりに下品ながらも面白いテキストができあがることだろう。 とはいえ、そのあたりのことをネタに、私が小器用な原稿を書いてみせたところで、どうせきちんと自分の足で取材している人の文章には及ばない。
・なので、ここから先は、ほかの書き手があまり手がけないであろう話をする。 週刊新潮が伝えた福田氏のセクハラ疑惑の第一報を読んで、私が最初に感じたのは、驚きというよりは、違和感に近い感覚だった(こちら)。 というのも、録音された音声を聞いた上であらためて記事を読んで見ると、福田氏のセクハラ発言が、通常の日常会話や取材への受け答えの中にまったく無関係に挿入される挿入句のように機械的にリピートされている印象を持ったからだ。
・それこそ、学齢期前の子供が、進行している対話とは無関係に「うんこ」とか「おしっこ」だとかいった単語を繰り返し発声しながらただただ笑っている時の、幼児性の狂躁に近いものを感じた。 であるから、第一印象として私が抱いたのは、いやらしさや嫌悪感よりも、不可思議さや不気味さであり、もっといえば当惑の感情だった。
・新潮の記事を読むと、福田氏は、取材者である女性記者の質問に答えながら、同時並行的に、取材の文脈とはまったく無縁なセクハラ発言を繰り返している。 不思議なのは、セクハラ発言だけを繰り返しているのでもなければ、取材への対応だけをしているわけでもないことで、この点だけを見ると、まるでマルチタスクのOSみたいに機能しているところだ。
・つい昨日、ある知人との対話の中で、この時の福田氏の会話の不思議さが話題になった。 「どうしてこんなに能力の高い人が、これほど支離滅裂なんだろうか」 というのが、その時のとりあえずの論点だったわけなのだが、私は、その場の思いつきで、以下のような仮説を開陳した。 「思うに、福田さんは、事務次官という官僚の頂点に相当する地位に就いていることからも想像がつく通り、本来は猛烈にアタマの良い人で、仕事もできるはずです」 「だから、こういう人のアタマの働き方を、われわれみたいな凡人と同じ基準で評価してはいけません」 「おそらく、異様なばかりに高いポテンシャルを備えた福田さんの脳みそは、助平な思考のためのスレッドと業務用の思考のスレッドをふたつ別々に立てて、その両方をまったく相互に支障なく両立させることができるはずで、だからこそ、助平な福田さんと有能な福田さんという二つの別々の人格を同時並行的に機能させつつ、その二人の腹話術的複合人格の福田さんとして振る舞うことが可能だったのだと思います」
・「なんだよそれ。どういう意味?」  「だからつまり、われわれみたいな凡人は、助平なことを考えると全然仕事ができなくなっちゃうし、一方、大真面目に仕事に集中すると助平な妄想を持ちこたえられなくなるわけで、要するに、単能なのですよ、われわれは。で、その、同時にひとつのことしかできない能力の低さゆえに、わたしたち普通の男は、仕事中にセクハラをせずに済んでいるわけです。ということは、われわれは特に清潔な人間であるわけではなくて、単に能力が低いということです」
・「ははは。ってことは、福田氏みたいな能力の高い人間は、たとえばエロビデオ見ながらでも論文書けちゃったりするわけか?」  「ぜんぜん書けると思いますよ。ついでにスマホでエロ動画見ながら会議資料用のパワポの編集しつつ通りかかった女性官僚に向けて6秒間に4回のセクハラ発言をカマすことだって朝飯前だと思います。だからこそ次官になれたんですよ」
・「ははは。オレもそういう人間になりたかった」 もちろん、この話は、基本的にはジョークだ。 が、あらためて振り返ってみるに、福田氏のセクハラ発言に「能力」という視点から光を当ててみた発想そのものは、そんなに的外れではなかったのではなかろうかと思っている。
・というのも、福田氏のセクハラ発言は、性的欲求の発露である以上に、他者全般への強烈な優越感が言わせている何かで、結局のところ、自身の能力への異様なばかりの自負の副作用であるに違いないからだ。  一般に、勉強のできる子供は思い上がっているものだ。 私自身、中学を卒業する段階までは成績の良かった生徒で、型通りに思い上がっていた。
・15歳の人間にとって学校の成績が優秀であることは、一点の曇りもない全能感をもたらしてくれるよすがでもあったということで、まあ、なんというのか、中学生というのは、それほど視野が狭いということです。 もちろん、そんな状態はいつまでも続かない。思い上がった少年は、いずれ自分の能力の天井を知ることになる。あるいは、自分よりも能力の高いライバルに出会うことで天狗の鼻をへし折られる。
・その、得意の絶頂からの墜落の経験が何歳の段階で訪れるかによって、人格形成には多少のバラつきが生じるものなのだが、いずれにせよ、99.9%の人間は、子供時代の全能感を失うことと引き換えに大人になる。その意味からすれば、男の子が大人になることは、優秀さという夢から醒める過程なのだと言っても間違いではない。
・ところが、東大の法学部経由で財務省に任官して、しかも次官になる能力に恵まれた特別な人間は、転落も敗北も経験しないまま中年男に成長している。 ということは、14歳だったオダジマが抱いていたような無限の全能感とともに58歳になっているわけだからして、これは極めてやっかいな人間に仕上がっているはずなのだ。
・もちろん、能力が高いことそのものは、素晴らしいことだし、うらやましいことでもある。 とはいえ、情報処理能力が、実は視野の狭さを条件に発揮される資質であることもまた一面の事実ではあるわけで、専門性の高い枠組みの中で結果を求められている人間が、いつしか、枠の外の世界と遊離した人間になりおおせることは、避けがたい宿命であったりもする。
・であるからして、特定の閉鎖環境の中で人並み外れた情報処理能力を競いつつ出世レースの階段を登っている人間たちは、その閉鎖環境の外から見て、自分たちがどんなふうに見えているのかという視点を失うに至る。 というよりも、そもそも、とびっきりに優秀な人間だけが集まって互いの能力を競っているフィールドでは、外部の人間などものの数ではないのだ。
・陸上選手が、自分より速いタイムで走るアスリートをリスペクトせざえるを得ないのと同じように、ある特定の分野で特定の能力を競っている人間は、やがてその能力でしか人を評価しなくなる。 であるから、陸上のトラックではタイムが、予備校の教室では模試の偏差値だけが絶対的な金メダルになる。
・もっとも、人は一生涯陸上部員であり続けるわけではないし、終身の受験生でもあり得ない。 普通の人間は40歳を過ぎてなお自己記録更新に励み続けるような生き方は選ばないし、大学を出てなお別のさらに高偏差値の大学を受験することもしない。 だからこそ、われわれは、自分の人生の中に、短距離走の持ちタイムだけで人間の価値を決めつけていた一時期があったことを、むしろ可憐な思い出として思い出す境地に到達することができる。
・ところが、競争をやめない人間は、競争レーンの外の視野を知らない。 彼らは、自分たちが走っているトラックと別の場所で暮らしている人間を、自分と対等の存在だとは考えない。逆に言えば、そういう視野の狭い人間として生きることが、彼らの競争力の源泉なのだ。 あるいは、さらに別の言い方をすれば、ある種の能力は、視野の狭さそのものだということでもある。
・ともあれ、彼らの中には、自分たちの結界の外にいる人間を昆虫かなにかみたいに考える極端なメンバーが含まれている。 だからこそ、あれほど無機質なセクハラを発動することができるのだ。 優秀さは、「比較」から生じる概念だ。
・とすると、順序からして、他人を見下す過程を経ないと、人は「優秀」な状態に到達できないわけで、逆に言えば、「優秀」であるためには、自分より劣った人間に囲まれなければならないことになる。 つまり優秀な人間は、他人を見下すことによってしか自分の優秀さを確認できないのだ。 なんということだろう。
・おそらく、内閣人事局という仕組みを発想した人々のアタマの中には、ここのところの問題がひっかかっていたのだと思う。すなわち、もっぱら省益という狭い視野の中でのみその優秀さを競っている官僚の能力を、その省の官僚が評価したら、これは出口がないぞ、と、彼らは考え、だからこそ、政治主導による官僚の人事査定を画策したわけで、その考えそのものは、そんなに間違っていなかったはずなのだ。
・ところが、内閣人事局は、現状を見るに、どうやら、当初の思惑通りには機能していない。 官僚を評価する能力も倫理観も持たない政治家が、人事権を武器に官僚を小突き回すためのツールみたいなものに成り下がっているように見える。
・ともあれ、誰もが認める官僚エリートたる福田淳一氏が、あきれるほどの脇の甘さを露呈しつつ、単純なセクハラスキャンダルで躓いたことを伝えるこのニュースは、人並み外れた能力が、本人にとって重荷でもあるということを教えてくれる示唆的なケーススタディだった。
・さらに付け加えるなら、自らの能力を恃む人間がセックスの罠に陥りがちであることから導かれるのは「セックスほど平等な堕落はない」という平凡な事実だったりする。 その意味でも味わい深い事件だった。 福田氏は、結果として、次の次官の任期を縮めてしまったこと(←いずれ遠くない時期に文書改竄事件の責任を取って辞任せねばならない)を気に病んでいることだろう。 
・パソコンならばCtrl+Alt+Delで暴走したプロセスを強制終了させることもできるが、人間ではそうもいかない。 自分の気持ちを整理するためにも、半年くらい自らフリーズして暮らすと良いのではなかろうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/041900140/

小田嶋氏がこの問題をどのように捌くのかと期待して読んだが、期待に違わず快刀乱麻を断つ様子はさすがである。 『まるでマルチタスクのOSみたいに機能しているところだ』、 『福田氏みたいな能力の高い人間は・・スマホでエロ動画見ながら会議資料用のパワポの編集しつつ通りかかった女性官僚に向けて6秒間に4回のセクハラ発言をカマすことだって朝飯前だと思います』、というのには、笑ってしまった。 『99.9%の人間は、子供時代の全能感を失うことと引き換えに大人になる。その意味からすれば、男の子が大人になることは、優秀さという夢から醒める過程なのだと言っても間違いではない。 ところが、東大の法学部経由で財務省に任官して、しかも次官になる能力に恵まれた特別な人間は、転落も敗北も経験しないまま中年男に成長している。 ということは、14歳だったオダジマが抱いていたような無限の全能感とともに58歳になっているわけだからして、これは極めてやっかいな人間に仕上がっているはずなのだ』、との人間観察の深さには感心させられた。 『内閣人事局は、現状を見るに、どうやら、当初の思惑通りには機能していない。 官僚を評価する能力も倫理観も持たない政治家が、人事権を武器に官僚を小突き回すためのツールみたいなものに成り下がっているように見える』、との指摘は的確でその通りだ。 『福田氏は、結果として、次の次官の任期を縮めてしまったこと(←いずれ遠くない時期に文書改竄事件の責任を取って辞任せねばならない)を気に病んでいることだろう』、というのもなるほどと納得した。
タグ:まるでマルチタスクのOSみたいに機能しているところだ 福田氏のセクハラ発言が、通常の日常会話や取材への受け答えの中にまったく無関係に挿入される挿入句のように機械的にリピートされている印象を持ったからだ 違和感に近い感覚だった 「能力が高すぎた福田事務次官の“悲劇”」 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その5)(小田嶋氏:能力が高すぎた福田事務次官の“悲劇”) ハラスメント 福田氏みたいな能力の高い人間は、たとえばエロビデオ見ながらでも論文書けちゃったりするわけか?」  「ぜんぜん書けると思いますよ。ついでにスマホでエロ動画見ながら会議資料用のパワポの編集しつつ通りかかった女性官僚に向けて6秒間に4回のセクハラ発言をカマすことだって朝飯前だと思います。だからこそ次官になれたんですよ 、99.9%の人間は、子供時代の全能感を失うことと引き換えに大人になる。その意味からすれば、男の子が大人になることは、優秀さという夢から醒める過程なのだと言っても間違いではない ところが、東大の法学部経由で財務省に任官して、しかも次官になる能力に恵まれた特別な人間は、転落も敗北も経験しないまま中年男に成長している。 ということは、14歳だったオダジマが抱いていたような無限の全能感とともに58歳になっているわけだからして、これは極めてやっかいな人間に仕上がっているはずなのだ
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