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日本の構造問題(その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる) [経済政治動向]

日本の構造問題については、9月7日に取上げた。今日は、(その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる)である。

先ずは、6月11日付け東洋経済オンラインが掲載した元外資系投資銀行のアナリストで小西美術工藝 社社長のデービッド・アトキンソン氏による「日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/355042
・『オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。 退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、このままでは「①人口減少によって年金と医療は崩壊する」「②100万社単位の中小企業が破綻する」という危機意識から、新刊『日本企業の勝算』で日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析し、企業規模の拡大、特に中堅企業の育成を提言している。 今回は、日本ではほとんど知られていないが日本経済を語るうえで欠かせない、「monopsony(モノプソニ―)」という考え方を解説してもらう』、現在は菅政権のブレーンの1人として、政府の成長戦略会議の議員も務めている。「モノプソニ―」とはどういうことなのだろう。
・『「モノプソニ―」を知らずに日本経済は語れない  「monopsony(モノプソニー)」という言葉を検索しても、日本語の検索エンジンではあまり多くヒットしません。この言葉は一部の研究者以外、日本ではあまり知られていないのだろうと推察しています。 しかし、実はこの「モノプソニー」は、日本の産業構造の問題と賃金の議論にあたって、最も重要な経済原則です。この言葉が一般的に知られていないことは、大きな問題だと感じています。 もともとモノプソニーという言葉は、「売り手独占」を意味するモノポリーの対義語で、「買い手独占」という意味で使われていました。 現在では、「労働市場において企業の交渉力が強く、労働者の交渉力が弱いため、企業が労働力を安く買い叩ける状態」を説明するために使われることが多くなっています。特に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授のアラン・マニングが2003年に発表した『Monopsony in Motion』という有名な本で、広く知られるようになりました。 日本で最低賃金の重要性がわからない人が多いのは、「モノプソニー」を知らず、従来の新古典派経済学の理論に固執してるからだと思います。 新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定しています。「完全競争」にはさまざまな意味があるのですが、たとえばあらゆる情報が労使双方に共有されていて、労働者は少しでも条件がいい雇用先があれば、即座にコストゼロで転職できるような状況を指します。 このような状況では、各企業の賃金は完全に横並びとなります。要は、企業と労働者は「完全に対等」だと考えられていたのです。 この仮定のもとでは、賃金は需給によって決まるので、最低賃金を引き上げるとその分だけ雇用が減ります。日本で「最低賃金を引き上げると、失業者が増える」と広く信じられているのは、どこかでこの理論を聞きかじった人が多いからでしょう。 しかし、この理論をそのまま現実に当てはめられないのは明らかです。労働市場で完全競争が成立しているならば、私が社長を務めている小西美術工藝社で、全社員の給料を1円でも下げるとただちに全員が辞めて、他社に転職してしまうはずです。しかし、そんなことは起こるはずありません』、「新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定」、確かに余りに現実離れした考え方のようだ。
・『「モノプソニー」の存在は実証的に測定可能  最近の分析では、「モノプソニー」の存在を実証的に測定しています。ここでは細かい説明は省きますが、賃金が1%変動したときに労働供給が何%変動するかを示す「労働供給の賃金弾力性」を測ることで、「モノプソニー」の存在と強さを確認できます。 「労働供給の賃金弾力性」が0に近くなればなるほどその業種の「モノプソニー」は強く、大きくなるほど弱いとされています。近年、ビッグデータを活用することで、さまざまな国のさまざまな業種で「モノプソニー」の力が働いていることが明らかになっています。 ここに大きなインプリケーションがあります。新古典派では、完全競争の下、労働の価格は常に適性であるとされます。この理屈では、低賃金で働いている人は「スキルがないから低賃金」なのであって、その賃金を国がむりやり上げさせようとすると、経営者はその人を解雇するとされます』、これまでから「アトキンソン氏」は、最低賃金の引上げを主張してきたが、その背景にはこんな強力な理論的裏付けがあったようだ。
・『「モノプソニー」では、労働者は企業に「搾取」される  対して「モノプソニー」とは、労働市場が完全競争ではなく、企業のほうが立場が強くなっているため、企業は本来払うべき給料より低い給料で人を雇うことができる状況を指します。つまり低賃金なのは一種の「搾取の結果」であり、必ずしもその人が低スキルだからではないと考えるのです。 「モノプソニー」の力は、特定の労働者層に特に強く働きます。例えば、低学歴、女性、高齢者、外国人労働者、移動が難しい人など、一般的に労働市場では弱者と考えられている人たちです。 特に、子どもを持った女性に「モノプソニー」の力が最も強く働いていることが、世界中の研究で確認されています。小さな子どもがいる女性は、現実として転職が難しい状況にあります。企業はその「足元を見る」ことができるため、賃金が相対的に低く抑えられるのです。 実は、男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています。女性労働者の「労働供給の賃金弾力性」が年齢とともに下がっていくことが、その証拠です。 先進国では近年、産業構造の変化によって、「モノプソニー」の力が強くなっていると分析されています。 労働組合の力が強ければ「モノプソニー」の力は制限されます。しかし、先進国では過去数十年間、労働組合の機能が低下してきました。そのため、「モノプソニー」の力が強くなっていったと分析されています。 労働者が労働組合に加入しなくなった理由の1つは、労働組合が製造業に最も向いた組織だからです。製造業の場合は、そもそも設備投資が大きく、企業の規模が大きくなる傾向があります。また労働者のスキルが明確で、他の企業でも通用することが多いので、雇用主に対する労働者の交渉力が強くなりやすいとされています。 逆に企業の規模が小さくなりやすいサービス業が発達し、全産業に占める製造業の割合が低下すると、労働組合加入率が低下して「モノプソニー」の力が強くなるとされており、そのとおりのことが現実の世界でも確認されています。 このように、過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています。 「モノプソニー」による搾取を抑止する手立てとして、先進各国は最低賃金政策を取り入れてきました。先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです』、「男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています」、「過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています」、「先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです」、なるほど、深く理解できた。。
・『最低賃金を引き上げると雇用が増えるメカニズム  日本では「最低賃金を引き上げると失業者が増える」という、根強い妄信があります。これは労働市場が完全競争なら確かに正しいのですが、「モノプソニー」の力が働いていると、まったく逆のことが起きます。「モノプソニー」の下では、最低賃金を適切に引き上げることで、失業者はむしろ減らせるのです。 これは、さまざまな国で実際に確認されている事実です。 以下のケースをご覧ください。最低賃金の引き上げによって企業が雇用を増やすメカニズムが明白になります。 時給1000円で1000人を雇用している企業があり、同じ仕事をする人をもう1人新たに雇用すると、1時間あたり1200円の収益が上がるとします。この場合、労働市場が完全競争だと1200円の時給を払わないといけないのですが、「モノプソニー」の力が働くと1000円で雇えるため、利益が200円も余計に増えます(この200円が「搾取」にあたります)。 労働市場の状況が変わって1000円で雇える人がいなくなり、新しい人を雇用するには時給1100円を払わなくてはいけなくなったとします。これでも、この新しい人は高い利益率を生み出すのですが、企業はこの人を雇わないと考えられます。 なぜなら、新しい人に時給1100円を支払うと、すでに雇用されて同じ仕事をしている1000人の時給も、1000円から1100円に引き上げなければならないからです。この場合の人件費の増加は、新しい人に支払う1100円だけではなく、1000人×100円+1100円=10万1100円となります。たとえ赤字にならないとしても、利益が大きく削られることになるので、新しい人が雇われることはありません。 このケースで、仮に政府が最低賃金を1100円に上げると、新しい人を雇うにせよ雇わないにせよ、既存の1000人の時給は1100円にしなくてはいけなくなります。この場合、経営者にとって、新しい労働者を雇うことで生まれる新たなコストは時給分の1100円だけです。1200円の収益は超えていませんから、削られた過剰利益を少しでも取り戻すために、新しく人を雇います。 これが、「モノプソニー」による搾取の範囲内なら、最低賃金を引き上げても、雇用が減るどころか増えることになるメカニズムです。 実際、日本でも世界の先進国でも、過去数年、最低賃金を引き上げてきたのに、雇用はむしろ増えています。最低賃金を引き上げても、企業の倒産は起こらず、給料が増え、個人消費は膨らむのです。 だからこそ私は、データ分析に基づいて「モノプソニー」の力を測り、その範囲内で適切に、毎年最低賃金を引き上げていくと同時に、中小企業の統廃合を進めて規模を拡大し、産業構造を強化するべきだと強調してきました。これこそが日本を救う道であり、韓国ができなかったことです。 次回は、日本が「モノプソニー」の力がきわめて強い「モノプソニー大国」であることを説明します』、現実の「最低賃金」については、8月22日付け日経新聞は40県が上げ、東京など据え置きで決定したと伝えた。「アトキンソン氏」が政権に近いところにいながら、こうした結果になったのは誠に残念だ。

次に、9月19日付け東洋経済オンラインが掲載した漫画家・文筆家のヤマザキ マリ氏による「日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/375574
・『世界を駆けてきた漫画家で文筆家のヤマザキマリ氏。1年の半分を東京で、残りの半分を夫の実家であるイタリアで過ごしているが、コロナ禍で約10カ月東京の自宅に閉じこもることを余儀なくされているそう。そして自宅からは、コロナそのものの症状に加えて、日本人にすでに蔓延していた別の”病”まで見出されたという。自著の『たちどまって考える』を一部抜粋・再構成しお届けする。 「日本のナショナルチームはなぜ、『いよいよゴールだ!』というときにボールをみんなで譲り合うのか、その理由を知りたい。失敗したら責められるのが嫌だからなのかい?」 少し前になりますが、駐日イタリア大使から日本代表のサッカーチームについてこんな質問を受けました。スポーツニュースなどを通じて、ゴール前の決定力の低さがよく指摘されていた頃のことです。 その真偽はその道のプロにお任せしますが、「失敗したくない」というメンタリティーは現代の日本人が抱える大きな病ではないでしょうか。実際、コロナ対策で日本政府が急に方針を変えたり、何かと右往左往している姿を見ていたりしても、失敗したくない、つまり責任を取らなきゃいけない状況をとにかく回避しようとしている気がしてなりません。 この日本人の”失敗したくない病”を、”語学学習”の話を例に考察したいと思います』、「「失敗したくない」というメンタリティー」は、「現代の日本人」に特徴的にみられるが、これが確かに「ゴール前の決定力の低さ」にもつながっていそうだ。
・『語学学習から見える失敗したくない病  私のイタリア語は、美術の学校の勉強やフィレンツェで出会った人たちと接するなかで身につけたものです。学生時代、イタリア語でレポートや論文を書いていましたが、当初スペルは間違いだらけ。 しかし、当時の私にとっては完璧なイタリア語の習得より、付き合っていたイタリア人たちに言いたいことを伝えるほうが大切だったため、とにかく聞き覚えのある言葉から覚え、言語化するのを優先していました。つまり「伝わること」こそ、言語を生かしたコミュニケーションで、文法やスペルの正しさは追いついてくるものと思っていた。実際、それでなんとかなってきました。 しかし、この世界にはそんな荒っぽい語学学習をする私の上をいく人がたくさんいます。イタリアももちろんそうですが、中東や南米など、おおむね積極的に会話する地域で、言語の”ハッタリ”達人に多く出会ってきました。 二言、三言でも知っている言葉があればもう十分で、男性なら「コンニチハ」「サヨウナラ」「アイシテマス」だけで、冗談ではなく日本女性と恋に落ちる。この場合、しゃべりたい意欲と相手への気持ちを少ない語彙に精一杯込めながら、雰囲気で相手に合わせていくわけです。彼らが伝えたいのは、言語よりコミュニケーション力であり、相手を知りたい、わかりたい、と思う気持ちなのでしょう。 言語はその国の文化や考え方を表すものですから、母国語にしている人々と付き合っていくうえで徐々に理解できる表現のニュアンスというものがあります。テキストだけでは学べない部分ですね。そこに暮らして恋愛し、喧嘩もし、仕事に生かして不条理を経験し……。真の言語力を身につけるには、やはり「経験」が不可欠です』、「言語の”ハッタリ”達人」とは言い得て妙だが、きっと上達も早いのだろう。
・『言語を教えるのが難しい  一家でポルトガルに住むことになったとき、リスボン大学の学生に息子の家庭教師を頼みました。彼は外国人に言葉を教えることを専門に勉強していました。その学生いわく、最も言語を教えるのが難しい外国人が日本人、とのことでした。日本人は文法を間違えまいと慎重になりすぎて、なかなかしゃべろうとしない。文法の正しさにこだわるがため、かえって習得率が下がってしまうというのです。 私がかつて日本でイタリア語を教えていた生徒さんにも、とにかく文法の正しさにこだわる方がいて、会話をしたイタリア人が「君は間接代名詞を使うのが好きだねえ」と苦笑いをしつつ、戸惑っていたことがありました。すると途端に躊躇して、もう積極的に会話ができなくなってしまう。もちろん日本人であってもハッタリ力をおおいに発揮する人もいますが、真面目な人ほど表現に引っかかって、会話がブロックされる傾向がある。 逆の立場になればわかりますよね。きちんとした日本語を話せなくても、文法はめちゃくちゃでも、何かを伝えようとしている人なら、こちらも言わんとすることに耳を傾け、理解してあげようと思う。たしかに文法をしっかりと把握することの合理性はあります。しかし言語コミュニケーションでは「伝えたい」という意思と意欲が最優先なのです。) なお、この「失敗してはいけない」メンタルは、言語だけでなく、報道などを通じてもよく感じられます。たとえばイタリアの報道は、自分たちの国で起こることを常に俯瞰で捉え、批判にも容赦がないのがその特徴です。政府や行政によるずさんさが明るみに出れば「イタリアという国はこれだから……」と客観的に捉える。 失敗に対しても同じです。でも同じような報道を日本でやっていたら、きっと非国民的な扱いを受けてしまうでしょう。群れのなかでの一糸乱れぬ統率がとれて完璧な社会というイデオロギー、というか信念が日本には深く染み込んでいると思います。 1964年、オリンピックの東京大会に出場したマラソンの円谷幸吉選手は金メダルへの国民の期待という圧力と、ボロボロになってでもトレーニングを続けなければならないという義務感、好きな人との結婚も許されない立場に絶望し、自ら命を断ったとされます。増田明美さんも、ロサンゼルス大会での競技中に途中棄権したことで「非国民との罵声を浴びた」とお話しされているのをテレビで拝見しました』、「円谷幸吉」は、「オリンピックの東京大会」では日本人陸上界で唯一の銅メダルを獲得したが、所属する自衛隊体育学校の校長が婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず。オーバーワークで、腰痛が再発、椎間板ヘルニアを発症、メキシコ大会を控えて自殺(Wikipedia)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89
・『失敗や挫折するからこそ得られるものも  人間は失敗や挫折、屈辱から得られた苦々しい感情も経験しなければ、成熟しない生き物だと思うのです。それなのに現代の日本では、そうした感情の動きを「世間体」という実態のない戒律で規制してしまっている。それこそ極端な社会主義や、宗教的な戒律のなかで生きる人のごとく、「失敗」を規制されている。 しかし江戸時代まで戻れば様子は変わります。たとえば江戸の町民文化の象徴である落語では、人の失敗談や勘違い話が人気の噺になっています。人間ならではのすっとこどっこいなエピソードを皆でゲラゲラ笑うことで、自分の生き方のヒントにする。列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていたように思えるのです』、「列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていた」、とはさすが的確な指摘だ。

第三に、11月24日付け東洋経済オンラインが掲載した経済評論家の加谷 珪一氏による「日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる」を紹介しよう。
・『国際競争力の低下と少子高齢化が再三叫ばれる一方、多くの日本人は自国を「大国」であるとなぜか信じている。しかし、数々の統計やランキングは、日本が間違いなく「小国」になることを冷徹に示している。『日本は小国になるが、それは絶望ではない』を上梓した加谷珪一氏が、日本が小国に転じる未来と、「小国・日本」の進む道を論じる』、一般的にも身の丈に合わせた生き方が重要だ。
・『今後、日本の人口が増加することはない  日本の人口が急激に減りつつあることは多くの国民にとって共通認識だが、真の意味で人口減少がもたらす影響についてはあまり知られていない。 2020年、日本の総人口は約1億2600万人。2008年に1億2800万人を突破したのをピークに、人口は減少している。厚生労働省の調査によると、2019年に生まれた子どもの数は86万4000人で、統計開始以来初めて90万人を割った。このまま出生数の低下が続くと、2100年には4906万人にまで人口が減ってしまう。およそ80年で8000万人も減るのだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算だ。仙台市(109万人)や千葉市(98万人)などが毎年消えると言われれば、そのインパクトがわかるだろう。 この話を聞いて、多くの人が「少子化対策を充実させるべきだ」と考えるだろう。しかしこれを実現するのは容易ではない。人口動態というものは50年、100年という単位で動くものであり、今からではすでにタイミングが遅すぎるのだ。 今、社会では人口減少と高齢化が同時進行している。総人口が減る一方、高齢者の寿命は年々延びており、日本の人口は、老人が多く若者が少ない逆ピラミッド型にシフトしている。現役世代は、昭和時代と比較して、社会保険料や税金などの経済的負担が極めて重くなっていることは明らかである。 例えば、何らかの手段で人為的に出生率を上げたとすると、老人の数は変わらず子どもの数が増え、人口ピラミッドは中央がくぼんだ形となる。単純に出生率を上げるだけでは、子育て世代の国民に想像を絶する過度な負担がかかってしまうのだ。 こうした人口動態による制約条件を考えると、今後、出生率が高まり人口が増加に転じる可能性はほぼゼロに近いと考えたほうがよいだろう』、「2100年」まで「およそ80年で8000万人も減る」のだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算」、社会的摩擦も大きくならざるを得ないだろう。
・『「大国の条件」が証明する日本の小国化  全世界には200近くの国家が存在するが、5000万人以上の人口を持つ国は28カ国しかない。人口という点に限って言えば、5000万という数が大国の基準と言えるだろう。 もちろん人口が多ければ豊かとは限らないが、人口の多い国はGDPも大きくなる傾向が見られる。次に示す人口のランキングで上位を占めるのは中国とインドで、中国には約14億人、インドには13.5億人の人が住む。次いで、アメリカ、インドネシア、ブラジルと続き、日本は10位。 一方、2019年時点で全世界のGDPは約87兆ドルで、5000億ドル以上の規模を持つ国はたった25カ国。GDPという観点では、5000億ドル以上の規模を持つことが大国の条件と考えられる。 ドイツやイギリス、フランス、イタリアなどのいわゆる先進主要国は、人口は中国などと比較すると多くないが、それでも6000万人から8000万人の人口があり、人口という面においても大国に分類されている。一方、パキスタンやナイジェリア、バングラデシュのGDPは5000億ドルに迫る勢いで、人口の多寡はGDPの規模に大きく影響していると言える。 日本経済研究センターによると、2060年における日本のGDPは4.6兆ドルでほぼゼロ成長の見通しだが、アメリカは34.7兆ドル、中国は32.2兆ドル、インドは25.5兆ドルと日本の5.5~7.5倍にまで規模を拡大させることが予想されている。5000億ドルのボーダーラインを割るには至らないものの、日本の相対的な規模は著しく小さくなってしまう。 人口減少に加え、産業競争力の低下という問題にも直面している日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化するのである』、「日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化する」、やむうぃ得ないだろう。
・『小国になることは、不幸なことなのか  ここまでを読むと、もはや日本の未来に明るい材料はないと思ってしまうかもしれないが、これは「日本が何も変わらない」場合のことである。むしろ、小国となっても豊かな社会を実現できるポテンシャルを日本は持っているのだ。 現に、シンガポールやスウェーデンなど、世界には豊かな社会を実現している小国がいくつもあるが、これらの国々に共通するのは「高い生産性」である。人口が少なくても、国民それぞれが大きく稼ぐことで、豊かな社会を実現しているのだ。 日本の場合、まだ1億人以上の大きな人口(市場)という他国にないアドバンテージを持っている。人口減少は避けられないが、本格的な人口減少が現実のものとなる前に企業の生産性を高めれば、日本は豊かになれるのである。 いま、日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である。コロナ禍で世界が大きく変わりつつある現在、日本は最大の転換期を迎えているといっても過言ではないのだ』、「日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である」、同感である。「大国」幻想からは一刻も早く脱却すべきだ。
タグ:東洋経済オンライン 円谷幸吉 デービッド・アトキンソン ヤマザキ マリ 加谷 珪一 日本の構造問題 (その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる) 「日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは」 monopsony(モノプソニ―) 「モノプソニ―」を知らずに日本経済は語れない 労働市場において企業の交渉力が強く、労働者の交渉力が弱いため、企業が労働力を安く買い叩ける状態」を説明するために使われることが多くなっています 新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定 「モノプソニー」の存在は実証的に測定可能 これまでから「アトキンソン氏」は、最低賃金の引上げを主張してきたが、その背景にはこんな強力な理論的裏付けがあった 「モノプソニー」では、労働者は企業に「搾取」される 男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています 過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています 先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです 最低賃金を引き上げると雇用が増えるメカニズム 日本でも世界の先進国でも、過去数年、最低賃金を引き上げてきたのに、雇用はむしろ増えています。最低賃金を引き上げても、企業の倒産は起こらず、給料が増え、個人消費は膨らむのです 現実の「最低賃金」については、8月22日付け日経新聞は40県が上げ、東京など据え置きで決定したと伝えた。「アトキンソン氏」が政権に近いところにいながら、こうした結果になったのは誠に残念だ 「日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは」 『たちどまって考える』 「失敗したくない」というメンタリティー」は、「現代の日本人」に特徴的にみられるが、これが確かに「ゴール前の決定力の低さ」にもつながっていそうだ 語学学習から見える失敗したくない病 「言語の”ハッタリ”達人」 言語を教えるのが難しい 失敗や挫折するからこそ得られるものも 列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていた 「日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる」 「小国・日本」の進む道 今後、日本の人口が増加することはない 「2100年」まで「およそ80年で8000万人も減る」のだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算 「大国の条件」が証明する日本の小国化 日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化する 小国になることは、不幸なことなのか 日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である
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経済学(その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」) [経済政治動向]

経済学についてゃ、4月23日に取上げた。今日は、(その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」)である。

先ずは、4月12日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経産省出身の評論家、中野剛志氏による「世界はすでに、各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/231363
・『「いま世界は極めて危険な状態にある」と中野剛志氏は指摘する。アメリカの覇権パワーが衰退するとともに、リーマンショック以降、世界経済は停滞に向かっていたうえに、コロナ禍で世界経済は大恐慌以来の景気悪化になると予測されているからだ。にもかかわらず、日本はいまだに冷戦構造下の国家政策に安住しようとしているのは危険すぎる。この問題意識から、中野氏が『富国と強兵 地政経済学序説』で提唱するのが地政経済学の確立だ。 連載第1回https://diamond.jp/articles/-/230685
連載第2回 https://diamond.jp/articles/-/230690 連載第3回 https://diamond.jp/articles/-/230693 
連載第4回https://diamond.jp/articles/-/230841 連載第5回 https://diamond.jp/articles/-/230846 
連載第6回 https://diamond.jp/articles/-/230849 連載第7回 https://diamond.jp/articles/-/231332 
連載第8回 https://diamond.jp/articles/-/231347 連載第9回 https://diamond.jp/articles/-/231351 
連載第10回 https://diamond.jp/articles/-/231363 連載第11回 https://diamond.jp/articles/-/231365 連載第12回 https://diamond.jp/articles/-/231383 連載第13回(最終回) https://diamond.jp/articles/-/231385』、今日はこのうちの連載第1回である(Qは聞き手の質問)。
・『「リベラルな国際秩序」には、地政学的な下部構造がある  Q:前回、中野さんは、かつてのイギリスのように、食糧安全保障のために、日本も財政支出を惜しむべきではないと主張されました。しかし、日本は農業関連の財政支出を減らす一方、TPP、日米FTAで農業関税を大幅に下げていますね? 中野剛志(以下、中野) 非常に危険なことだと思います。アメリカやオーストラリアなどは国土に広大な平野を有していますから、平野の少ない日本よりも農業生産性ははるかに優れています。そのような国々と自由競争をすれば、すでに惨憺たる状況にある日本の食糧自給率を悪化させるのは火を見るより明らかです。 Q:たしかに……。 中野 そもそも、アメリカのグローバル覇権が衰退していくなかで、グローバリズムと称してTPPやFTAなどの急進的な自由主義経済を進めようとするのが時代錯誤というべきでしょう。 なぜなら、グローバルな覇権国家がなければ、自由な国際経済秩序は成立しないからです。これを明らかにしたのが、経済史家のチャールズ・キンドルバーガーが最初に提唱し、その後、国際政治経済学者のロバート・ギルピンらが発展させた「覇権安定理論」です。 Q:「覇権安定理論」とは? 中野 例えば、自由貿易秩序が成り立つためには、無差別原則や最恵国待遇原則のような自由貿易のルール、安定的な国際通貨制度、そして国際的安全といった環境がなければなりませんが、これらは経済学で言う「公共財」としての性格をもちます。 「公共財」とは、個々人が対価を払うことなく消費することができる財のことです。例えば、一般道路やきれいな空気が典型的な「公共財」ですね。人々は誰でも自由に一般道路を通行したり、きれいな空気を吸ったりしていますが、一般道路の整備やきれいな空気の維持のために必要な費用は、政府が強制しない限り、誰も支払いません。そのため、公共財の供給は、政府が介入しない自由市場に委ねると、不十分になるわけです。 これと同じように、国際貿易のルール、国際通貨、国際的な安全といった環境も「公共財」であり、個々の国家は、その維持に必要なコストを分担することなく、その恩恵を享受できるわけです。ところが、国内社会における「公共財」の供給には強制力をもつ政府が必要であるのと同じように、国際社会において「国際公共財」を供給するためには、本来は強制力をもつ「世界政府」が必要となるはずですが、現実には「世界政府」など存在しません。 そこで、他国に対して強制力を有する覇権国家が必要になるわけです。覇権国のリーダーシップがなければ、国際的な「公共財」の供給が不足し、国際市場経済の秩序を維持できないのです。つまり、自由主義経済による国際秩序の基礎には、地政学的な下部構造があるということ。言い換えれば、グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだということです。 Q:なるほど』、「グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだ」、経産省出身とは思えない保護主義的見方だ。
・『リーマン・ショックとコロナ禍で、世界は「危険な場所」になった  中野 そして、自由な世界経済を実現する覇権国家が存在したのは、歴史上、二度しかありません。19世紀において、その圧倒的な軍事力と経済力によって自由貿易の時代を開いたイギリスと、第二次世界大戦後に覇権国家となったアメリカの二度だけなんです。 とりわけ、第二次大戦後に比類なき軍事力と世界全体のGDPの約半分を占める経済力を誇っていたアメリカは、圧倒的な覇権的パワーで、冷戦期には西側世界の安全を保証し、冷戦後は自由主義経済を世界中に広げていったのです。 しかも、この覇権国家が存在した時期が、いわゆるグローバル化の時期と重なっているんです。ダブリン大学トリニティ・カレッジ経済学教授のケヴィン・オルークとハーヴァード大学経済学部教授のジェフリー・ウィリアムソンは、グローバル化がいつから始まったのかを検証した結果、それが1820年代であると特定しました。これは、イギリスという覇権国家が出現した時期とほぼ一致しているのです。 この研究は、グローバル化が進んだ背景には、覇権国家という政治的な存在があるとする「覇権安定理論」を裏付けるものと言えるでしょう。逆に言えば、覇権国家という世界を圧倒する権力が消滅すれば、グローバル化も同時に終焉するということになるわけです。 Q:だから、中野さんは「グローバル化は終わった」とおっしゃったのですね? 中野 ええ。これまで説明してきたように、2010年代に入って、アメリカの覇権的パワーが音を立てて崩れ始めました。地政学的な下部構造が崩壊したとなれば、その上部構造にあった自由主義的な国際秩序やグローバリゼーションもまた、終わりを告げることになるでしょう。 しかも、2008年にはリーマン・ショックによる世界金融危機が勃発しました。これは、アメリカの経済自由主義に基づく経済政策が生んだ資産バブルの崩壊が原因で、アメリカ主導の国際経済秩序の正統性が損なわれるとともに、グローバル化の進展によって世界経済は拡大するという楽観主義が一気に崩壊した瞬間でもありました。 そして、世界経済は停滞へと向かっていったわけです。いわば、世界中が“飢餓状態”に陥ったようなものです。アメリカの地政学的な覇権が崩れていく局面で、世界中が“飢餓状態”に陥るという非常に危険な状態になったのです。しかも、現下の「コロナ禍」によって、世界経済は大恐慌以来の景気悪化になると予測される状況に陥ってしまいました。世界はさらに危険な場所になったのです。 Q:各国が限られたパイを食い合うようになると? 中野 そういうことです。一般に、市場全体が成長している場合は、国家間の経済連携の深化は、比較的容易です。なぜなら、その場合は、関係国間で、利己的な行動をとって対立するよりも、協力的行動をとった方が、お互いに得られる利益がより大きいことが明らかだからです。 しかし、市場全体が停滞ないし縮小し、各国がお互いに協力行動をとったとしても、得られる取り分が大きくならない場合は、協力することによるメリットが見えにくくなります。また、市場全体が成長していないときには、自国の利益を増やそうとすると、他国の利益を奪うことになるので、自由貿易や経済連携による利益を共有し、互恵的な関係を構築することが極端に難しくなる。それは、1930年代の世界大恐慌後の歴史が物語っていることです。 このように世界経済が停滞すると、各国はより利己的にならざるを得なくなり、国家間の協力関係を成立させることは容易ではなくなります。とりわけ民主主義国家はエゴイスティックになります。自国の利益を優先しなければ、政治家たちは国民の支持を得ることができないですからね。 Q:民主主義国家はエゴイスティックにならざるを得ないというのは、少々ショッキングですが、たしかに否定できませんね』、「グローバル化が進んだ背景には、覇権国家という政治的な存在があるとする「覇権安定理論」を裏付けるもの・・・逆に言えば、覇権国家という世界を圧倒する権力が消滅すれば、グローバル化も同時に終焉するということになるわけです」、「逆に言えば」としているが、逆がそのまま成立しない場合もあるが、この場合はどうなのだろう。
・『日本は世界の“食い物”にされる!?  中野 ええ。そうなることは2008年に世界金融危機が起きた時点で、すでに見えていたわけです。にもかかわらず、日本は2010年になって「平成の開国」などと言って、その後、TPP交渉に参加すると表明しました。しかし、TPPは、オバマ大統領自身が横浜で開かれたAPEC首脳会議で明言したように、アメリカが輸出を倍増させることで国内の雇用を増やすという戦略の一環だったんです。オバマにとってのTPPは、他国の雇用を奪うための、一種の近隣窮乏化政策だったのです。 一般教書演説でも、オバマ大統領はそのことを繰り返す一方で、「自由貿易」という言葉を一度も使いませんでした。環太平洋にリベラルな経済秩序をつくろうなどという意思はかけらもなく、単に、日本市場を獲りに来ただけのことなんです。 それは、世界経済が縮小に向かうなかで、民主主義国家であるアメリカの大統領ならば当然考えることであって、生き残りをかけた残酷な国際政治において自国を守ろうとするのは当たり前のことです。しかし、日本は「世界の現実」を理解せず、「平成の開国」などと言っていたわけです。 Q:だから、中野さんは『TPP亡国論』を出版するなどTPP反対の論陣を張ったんですね? しかし、その後、トランプが当選し、TPPから離脱しました。あれは、想定外だったのでは? 中野 そうですね。アメリカでもTPPを支持しているのはエリート層で、中国などに「職」を奪われたと感じる一般の人々が「自由貿易」に辟易していることは認識していましたが、まさかトランプが大統領になるとは思っていませんでした。 ただ、トランプがTPPから離脱したのは、「オバマが雇用を奪い取ると言っていたが、俺のほうがもっといいディールができる」ということにすぎませんでした。 つまり、オバマもトランプも「他国から雇用を奪う」という意思に変わりはないわけです。オバマはそれを上品に表現し、トランプはそれを露骨に表現したというだけの違いです。アメリカは自国民を守るためになりふり構っていられる状況ではないのだから、これも当たり前のことなんです。 Q:実際、トランプ政権は日米FTA交渉で、「TPPと同水準かそれ以上」の市場開放を強硬に要求して、日本はかなりの譲歩を強いられたと聞いています。結局、中野さんが心配していたとおりになったようにも見えます。 中野 日米FTAのことは、細かく調べていませんが、「自由貿易を推進する」などと時代錯誤なことを考えるのではなく、真剣に自国の経済を守るためにどうすべきかを考えなければ、非常にマズいことになるでしょうね。 Q:なんとなく「グローバル化は善」といったイメージがありましたが、頭を切り替えないといけないですね……。 中野 そうなんですが、まぁ、でも、結局のところ、アメリカが自国の利益を犠牲にしてまで日本を豊かにしてくれた冷戦期に、日本がいちばんうまくいっていたわけで……そのときのやり方を続けたいということなんでしょうね。 ただ、冷戦のときにアメリカが、自国の利益を犠牲にしてでも日本が豊かになるのを助けてくれた理由は、共産化されたら困るからですよね。そして、冷戦が終わったら、アメリが自国を犠牲にして日本を助ける理由がなくなったわけです。この問題は、地政学的に考えなければいけないんです。 したがって、私は、日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではないと思っています。日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない。つまり、経済学と地政学は密接に関係しているということです。 この視点なくして、まともな国家政策などありえません。経済が地政学的環境にどのような影響を与えるのか、そして地政学的環境が経済をどのように変化させるのかについても考察しなければ、国際政治経済のダイナミズムを理解できず、国家戦略を立案することもできないのです。このことを訴えるために書いたのが、『富国と強兵 地政経済学序説』という本だったんです。 Q:地政経済学とは?』、「日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではない・・・日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない」、なるほど面白い見方だ。
・『「ガキっぽい情熱」を克服できない経済学  中野 私の造語ですが、経済力(富国)と政治力・軍事力(強国)との間の密接不可分な関係を解明しようとする社会科学です。地政学なくして経済を理解することはできず、経済なくして地政学を理解することはできない。だから、地政学と経済学を総合した「地政経済学」という思考様式が必要だと考えたんです。 でも、これは決して新しいものではありません。たとえば、E・H・カーは、国際関係論の古典とも言うべき1939年の『危機の二十年』で、「経済は所与の政治的秩序の上に成り立っているものであり、政治から切り離しては、有意義な研究をすることができない」と説いていました。このような思考様式は、かつては当たり前のものだったんです。 ところが、いま、地政学は経済に対する理解を欠き、経済学は地政学を無視するという状態にあります。おもしろいことに、これが日本だけで起きている現象ではなく、アメリカでも起きていることなんです。 Q:へぇ、そうなんですか。ちょっと意外ですね? 中野 ええ。さらに興味深いのは、地政学と経済学が分離した理由について、ダートマス大学教授のマイケル・マスタンドゥノが、冷戦構造の影響を指摘していることです。 冷戦下においては、アメリカにとって安全保障上の脅威はソ連でしたが、ソ連は経済的な競合相手ではありませんでした。一方、アメリカの経済上の脅威は西ドイツや日本だったけれど、これらの国々は同盟国であり、安全保証上の脅威ではありませんでした。そのため、対ソ連を想定した軍事研究から経済への関心が脱落し、経済研究は安全保障を無視したというわけです。 Q:なるほど、説得力がありますね。 中野 ええ。しかし、1998年の時点でマスタンドゥノは、冷戦が終結すれば、安全保障と経済は再び結びついていくであろうと論じていたのですが、それから20年がすぎても、依然として地政学は経済学との接点を欠落させたままです。 ただし、地政学者や国際政治学者の多くは国力の基礎に経済力があることは認めています。どうやら、彼らが経済に関する知識に乏しいのが原因となっているようなんです。 Q:うーん……なんとか頑張っていただきたいですね。 中野 ただですね、経済学の方は、地政学以上に狭隘な専門主義が進行していて、地政学はおろか、歴史学、政治学、社会学への接近すら拒否しているという無残なありさまなんです。 たとえば、フランスの経済学者であるトマ・ピケティは、『21世紀の資本』でこう述べました。 「率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題にばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。」 Q:辛辣ですね……』、「経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている」、極めて手厳しい経済学批判だ。
・『経済学は「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」?  中野 でも、私もまったく同感ですね。しかも、2008年の世界金融危機によって、主流派経済学が、経済自体についてすらも、ほとんど理解していなかったことが白日のもとにさらされたんです。 なぜなら、この世界金融危機を予想することができた主流派の経済学者は、ほとんどいなかったからです。というのも、ピケティが「科学っぽい」と揶揄した主流派経済学の理論モデルでは、世界金融危機のような事態は起きえないと想定されていたからです。 したがって当然のことながら、世界金融危機への対応にあたっても、主流派経済学は何の役にも立ちませんでした。こうして世界金融危機は、経済のみならず、経済学の信頼性にも大きな打撃を与えたんです。 Q:そうなんですか……。 中野 実際、主流派経済学者からも批判の声が上がっています。たとえば、IMFのチーフ・エコノミストであったサイモン・ジョンソンは、世界金融危機によって経済学もまた危機に陥ったとして、主流派経済学とは異なる新たな経済理論が必要であると論じました。 あるいは、ポール・クルーグマンは、過去30年間のマクロ経済学の大部分は、「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」と言い放って、物議を醸しました。 経済成長理論の発展に大きく貢献したという功績が認められて、2018年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーは、皮肉なことに、受賞の2年前の講演のなかで、主流派経済学を次のように批判していました。 主流派経済学の学者たちは画一的な学界の中に閉じこもり、きわめて強い仲間意識をもち、自分たちが属する集団以外の専門家たちの見解や研究にまったく興味を示さない。彼らは、経済学の進歩を権威が判定する数学的理論の純粋さによって判断するのであり、事実に対しては無関心である。その結果、マクロ経済学は過去30年以上にわたって進歩するどころか、むしろ退歩したと。 Q:容赦ないですね……。 中野 このように、いまや、アメリカの主導的な経済学者たちですら、主流派経済学の破綻を認めざるをえなくなっているんです。 ところが、主流派経済学の無効が明らかになったにもかかわらず、経済学界は、これまでのところ、従来の理論モデルを反省し、それを根本的に改めようとしているようには見えません。そのような主流派経済学のあり方を、オーストラリアの経済学者であるジョン・クイギンは「ゾンビ経済学」と呼んでいます。 だとすれば、恐るべきことに、地政学者だけでなく、経済学者自身も、経済についての正確な知識をもちえていないということになります。少なくとも主流派経済学に依拠している限りは、地政学と経済学を意味のある形で総合することは不可能です。そして、いま私たちが陥っている世界的な危機を克服することもできないんです。 Q:しかし、主流派経済学の何がそんなに間違っているというのですか?  中野 現在の主流派をなす経済学は、アダム・スミスを開祖とする「古典派」、およびその後継たる「新古典派」という系譜をもち、その歴史は200年以上に及びます。しかし、その発展のプロセスで「不確実性」という概念を喪失しました。私は、これが主流派経済学の根本的な間違いだと考えています。 Q:「不確実性」ですか? そういえば、このインタビューの最初のほうで、信用貨幣論を説明していただいたところで「不確実性」という言葉が出てきましたね。 中野 そうそう。信用貨幣論では、貨幣を創造するとは、負債を発生させることだけど、負債には常に、「デフォルト(債務不履行)」がありうるという「不確実性」が存在していると言いましたね Q:はい。だからこそ、その「不確実性」を最小限にするために、国家権力に裏付けられた「貨幣」が一般化していったというお話でしたね。 中野 ええ。しかし、その「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至ったのです。 Q:どういうことですか? もっと具体的に教えてください。 中野 わかりました。ちょっと長くなりますが、いいですか? Q:もちろんです。(次回に続く)』、「「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至った」、その通りなようだ。

次に、5月7日付け東洋経済オンラインが掲載した 作家、研究者の佐々木 一寿氏による「コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/346470
・『異色のNHK経済教養ドキュメント「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」を基に、書き下ろしを加えた『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る」』が、このたび上梓された。 番組やこの本で岩井氏を知った方も多いかもしれないが、日本を代表する世界屈指の理論家である。同氏の歩みを通じて、経済学のこれまでの発展過程と、いま学ぶべき経済学的課題をひもといていく』、興味深そうだ。
・『「日の下に新しきものなし」  「太陽の下、この世には何も新しいものはありません」 これは岩井克人が自身の考察を述べる際によく言及される、旧約聖書の中の言葉(「日の下に新しきものなし」)である。 世の中の出来事は、もしまったく新しいもののように見えることであっても、実は本質的には共通する先例がすでに存在していて、それが形を変えて現れているだけである――。おそらくそのような世界観を言い表したものであろう。 そしてこの象徴的な言葉こそが、岩井克人という学者を理解するうえで非常に重要なものであるように私は思う。 岩井氏は経済学で多くの貴重な「再発見」をしてきた。そして、私たち(と多くの学者)が経済学を再発見することを可能にした。 学者、それも一流の学者と言われるためには、学術的な新しい発見を求められる。経済学であってもそれは例外ではなく、論文には新規性が求められ、その新規的な内容の完成度が高く、有用性が大きそうであればあるほど高く評価される。論考が高く評価されればされるほど、学者冥利に尽きるし、皆から期待され、出世もできる。 そう考えれば、学者の成功は、自身が所属する領域で誰も成し遂げていない新しい発見をいかに自身の手で形にするかにかかっていると言える。であれば、新しい発見を探究し続けることこそが学者の学者らしい過ごし方であり、学者の本能的欲求だと言ってもいいだろう。 ところが岩井氏は、冒頭のように「新しいものなど何もない」と、およそ学者の口から出るとは思えない言葉をさらりと言ってしまう。まるで学者としての野心があらかじめ欠如しているかのようである。) しかし氏の経済学の探究心は並外れており、理論的に主要な経済学を網羅的に見渡せる、今や世界でも数少ない碩学中の碩学である(「24時間、学者をやっているのかもしれない」とも語っている)。 また経済学以外の分野の論考でも高い評価を得る思索家(thinker)でもあるが、「学者として『没落』した」ともよく語っている。その言葉の端からは、逆説的に学者としての成功を求める気持ちも持っていることが漏れ伝わってくる。 ただ、学者としての成功以上に学者として大切にしているものがあるのかもしれない。もしそうだとすれば、それは何なのだろうか。 自身からは明示的に語られることのないその「何か」を、氏の学者としての歩みから探っていきたいと思う』、「岩井」氏が言う「新しいものなど何もない」は、極めて深い意味がありそうだ。
・『サイエンス好き、SF文学好きから経済学の道へ  岩井氏は自伝の中で、サイエンティストの原点として、小学1年生時の『学習理科図鑑』(子ども用の原色図鑑)との出合いを語っている。転校してきた友達の家に遊びに行ったときに見せてもらい衝撃を受け、その後に自身用の図鑑を買ったという。お小遣いを工面しつつ、昆虫図鑑、動物図鑑、植物図鑑、天文図鑑といったシリーズを興味の向くまま購入していき、鉱物図鑑まで行き着く。 図鑑では、自然界の構造全体が見渡せるようになっており、次にそれを構成する動物界や植物界といった各界を分類的に見渡すことができる。最後には図鑑で個体一つ一つを具体的に見る。岩井氏は世界を全体的、構造的、関連的に捉えるようになる。 「私は、図鑑を通して、大げさな言い回しになりますが、世界をいわば鳥瞰図的に知ることになったというわけです。(中略)いずれにせよ、私は科学少年になりました」(『経済学の宇宙』9ページ) 鉱物図鑑まで買った後、買いたい図鑑がなくなり、SFを読むようになった岩井氏は小学6年時に物理学者ジョージ・ガモフの著作に出合い、相対性理論や量子力学の概念とともに「無限大」の概念を知ることになる。これが後の代表的な研究となる「貨幣論」のきっかけとなったという。 また同時に、ガモフの“副作用”により学校で教えている数学や理科に刺激を感じなくなってしまい、その反動で文学作品に興味を持つようになる。多様な作品を読み、文学青年を自覚するようにもなった岩井氏は、「科学少年」と「文学青年」の間で進路に悩み、最終的に経済学部を選ぶ。) 「経済学を、文学と科学を足して二で割ったものととらえたのです。まあ、今から考えると、ずいぶんいい加減な理由で選んだと思いますが、経済学を専攻することにしました」(『経済学の宇宙』31ページ) 岩井氏の文章は、鋭利な理論展開と優美な表現力を併せ持つ。その独特の筆致は高い人気を得ているが、このような背景があるゆえなのかもしれない』、「私は、図鑑を通して、大げさな言い回しになりますが、世界をいわば鳥瞰図的に知ることになったというわけです」、確かに体系的に知識を得るには「図鑑」は恰好の教材だ。
・『「新古典派」の理論構築を嘱望された希代の逸材  岩井氏は東京大学の経済学部に進学する。入学当初は政治学にむしろ興味が向いていたが、大学2年時に受けた「近代経済学」(根岸隆)の授業に深い感銘を受ける。 「とりわけ、新古典派経済理論の数学的な美しさに驚きました。科学少年であったときの知的興奮がよみがえってきたのです。(中略)目標にできる人がここにいる、経済学者になってもよいと思いました」(『経済学の宇宙』38ページ) それとともに、当時の東京大学で優勢であり高校の頃から触れていたマルクス経済学に対し、学びながらも違和感を感じるようになっていく。 学部の後半では、学内で少数派だった近代経済学のゼミを選び、小宮隆太郎から「通説批判」の精神と経済成長に関する純粋理論を学ぶ。そして、理論に堪能だと気付いた小宮により、シカゴ大学から帰京したばかりの宇沢弘文に紹介される。 東京大学の数学科出身で、数理経済学の世界的な第一人者だった宇沢は、ベトナム戦争反対の立場から東京大学からの招聘に応じていた。 そして岩井氏は、宇沢から多大な影響を受ける。新古典派経済理論(数理的に基礎構築された自由主義経済の理論)の最先端の手法と、そして宇沢が密かに葛藤し続けていたその手法の限界性を、教室や酒場で間近に学び、学部生の終わりを迎える。 岩井氏は大学院進学を自然に考えるようになったが、いわゆる東大闘争の影響で大学院が封鎖されてしまう(封鎖はその後、数年続いた)。 東京大学の近代経済学教員チームは、岩井氏を含む4人の大学院志望者を直接アメリカの大学院に進学させることにする。岩井氏は最も数学が堪能ということでマサチューセッツ工科大学(MIT)に推薦される。 米国屈指の経済学者ポール・サムエルソンを招聘したMIT経済学部は、彼の尽力により米国最高位の地位を獲得、ロバート・ソロー、フランコ・モディリアニ、チャールズ・キンドルバーガーといった豪華講師陣を擁していた。いわば経済学の中心地で、岩井氏は新古典派経済学の粋を学ぶことになる。 そして早くも1年目の二学期に転機が訪れる。サムエルソンの講義中に提示された経済成長論の技術的課題に、数学的な解決手法のアイデア(「入れ子構造」でのモデル記述)を思いつき、一月ほどかけて「最適経済成長と静態的序数効用ーーフィッシャー的アプローチ」という論文にまとめる。 その論文はサムエルソンとソローに認められ、2年時にはサムエルソンの研究助手に迎えられ(前任はロバート・マートン)、その後、ソローの研究助手も務めることになる。 3年の時には、ジョセフ・スティグリッツからエール大学で行われる経済成長論のカンファレンスに誘われて出席し、院生でありながら発表を行なっているが、その背景に経済成長論の理論的大家であるチャリング・クープマンスの取り計らいがあったことは、米経済学界の経済成長論分野からの岩井氏への期待の大きさの現れだろう。 「まだ学者になるかならないかの頃でしたが、今振り返れば、このときが、私の学者人生における『頂点』であったのです」(『経済学の宇宙』68ページ) しかし、大学院の2年から3年にかけて、岩井氏は平行してケインズ経済学を読み直しつつ、新古典派経済学の根幹を見つめ直す作業を始めていた。そして、経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう。 「その瞬間、私の学者人生は、『頂点』から『没落』し始めてしまったのです。もちろん、私はそのようなことを知るよしもありません」(『経済学の宇宙』78ページ) 岩井氏はMIT時代の総仕上げとして、新古典派経済学の根幹部分を支える「神の見えざる手」のメカニズム検証に着手する。新古典派が依拠する自由放任下の完全競争による需給バランス均衡の到来、そしてそれによる資源の最適分配のメカニズムは「神の見えざる手」と呼ばれ、主流派経済学の最重要の基礎となっている。 ただ、それを厳密に追っていくと、論理に致命的な飛躍があることが他でもない新古典派経済学者から指摘されてもいた(ケネス・アロー、チャリング・クープマンスによる)。 完全競争下では価格は与件となるが、では、その価格は誰が動かすのか――。価格がもし皆で動かしうるのであれば 、完全競争による秩序はどのように実現し得るのか――。 そして、新古典派はそのことに目をつぶってしまったのではないか。残されてしまっていたその課題の検証を岩井氏は「見えざる手を見る」作業と呼び、試行錯誤の末に3年目の終わりまでに「不確実性のもとでの独占的競争企業の行動を分析した論文」として仕上げる。 「私は、主流派がその価格の調整メカニズムそれ自体は理論化してきていないことに不満を持ち、最初はその経済理論を内部から補強しようと思ったのです」(国際基督教大学HPでのインタビュー) 先行して仕上げていた2つの論文と合わせ、「経済動学に関する三つの試論」として博士論文として提出し、3年足らずで博士号を取得する。) ソローの誘いを断り、新古典派の重要課題に博士論文で一旦の結論を出した岩井氏は、以降、ケインズ経済学の研究に突き進む』、「東大闘争・・・東京大学の近代経済学教員チームは、岩井氏を含む4人の大学院志望者を直接アメリカの大学院に進学させることにする」、「東大闘争」の思わぬ効用だ。「経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう」、進路も違ったものになっていたろう。
・『新古典派が称賛する博士論文、そして宇沢弘文の背中  岩井氏はMITを卒した後、 自身の論文を高く評価され、エール大学の助教授に着任するが、その前の1年間、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として赴いている。 そこは数理経済学の牙城であり、経済成長理論を数学的に拡張することを求められながらも、ケインズ経済学の研究に没頭し、後の『不均衡動学』につながるアイデアを得ている。また、高名な理論経済学者ジョージ・アカロフとも交流を持った。 エール大学では、由緒あるコウルズ研究所に所属する。そこで数理経済学者クープマンスとともに研究所の二枚看板であるマクロ経済学者のジェームズ・トービンに出会う。 トービンは当初、数学か法律を学ぶつもりであったが、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を読んだことがきっかけで経済学に進んだという経緯もあり、岩井氏にとっては得難い理解者となる。 岩井氏は、クープマンスの期待を感じつつ、数理的な手法を磨きながらも、マクロ経済学に研究の軸足を移していく。まずはMITで書いた3本目の論文をマクロ経済学に拡張することに挑む。 「見えざる手を見る」作業、つまりミクロ的な経済主体の振る舞いのメカニズムから、マクロ経済的な現象を説明する(マクロ経済学のミクロ的基礎づけ)作業に着手する。 その過程において、当初の楽観的な見方から転換を余儀なくされる。3本目の論文では、新古典派の「神の見えざる手」がはらむ論理的な矛盾点を、現実的な前提を据え直すことによって、価格が均衡するメカニズムを新古典派経済学の範疇で示しえたが、それはミクロ経済学のなかでの話である。 しばらくして、岩井氏はミクロ的な価格決定メカニズムの説明がマクロ経済の場合ではそのままでは使えないことに気づく。「奇妙だ、矛盾だ」そう思い続けて悩んだ末、マクロ経済の場合は「合成の誤謬」(ミクロで成立することは必ずしもマクロで成立しない)が存在し、さらにそれは内生的かつ不可避であるという結論に達する。 個々の平均価格予想(平均価格は「個々(ミクロ)」が「全体(マクロ)」を予想することに相当)は、総需要と総供給が一致している場合以外は、予想の誤りを必然的に生み出す――。 つまり、個々が合理的な振る舞いをしても、(特殊な例外を除いて)予想の誤りが必然的に起こるため、理想的な価格に均衡しえない――。 こうして、マクロ経済においては、「神の見えざる手」は一般的な意味では存在しないことを、厳密な新古典派経済学の手続きによって否定的に論証してしまう。 「主流派経済学を理解して、主流派の理論を内部から、より厳密に追求していくうちに、その矛盾点を次々と見いだすようになり、次第に主流派経済学に疑問を感じるようになったのです。主流派の教えと矛盾した結果を導いたとき、最初は自身の理論化が誤っているのかと悩みました。3、4年におよぶ長い逡巡の末に、「矛盾こそが真実だ」と発想の転換をしたことを、今でもはっきりと覚えています」(国際基督教大学HPでのインタビュー) 「初めから異端を志したのではない」岩井氏ではあるが、「若さの気負いもあって」主流派経済学をひっくり返す仕事をしようと決める。それがエール大学のコウルズ研究所において7年の歳月をかけた『不均衡動学』の構築につながる。) ただそれは、論文の量産を宿命づけられた学者の出世プロセスにとっては、とてつもなく高いリスクを伴う選択でもあった。 とくにこの時期は、宇沢弘文の姿がよく脳裏に浮かんでいたのではないだろうか』、「主流派経済学を理解して、主流派の理論を内部から、より厳密に追求していくうちに、その矛盾点を次々と見いだすようになり、次第に主流派経済学に疑問を感じるようになったのです。主流派の教えと矛盾した結果を導いたとき、最初は自身の理論化が誤っているのかと悩みました。・・・「矛盾こそが真実だ」と発想の転換をした」、たいしたものだ。
・『「神の見えざる手は存在しない」という経済学の構築へ  「神の見えざる手」、専門的には新古典派経済学の「一般均衡理論」に代わる新たな市場観を理論化するにあたり、岩井氏は自身が考えてきた「予想の誤り」の考察が、クヌート・ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」の再発見であることにある日気づく。 総需要と総供給が均衡していない(どちらかが多い不均衡な)場合、価格は均衡せずエレベーターのように(累積的に)推移していく――。 総需要と総供給は、新古典派のモデル(セーの法則、物々交換の原理)の前提においては均衡するのが常態であるが、貨幣経済の前提を入れると、たちまちそれは不安定になってしまうことはケインズも指摘している(貨幣需要の分だけ総需要が減るため)。 ということは、新古典派の一般均衡理論は現代の経済においては実際的でないか、あるいは非常に限られたケースでしか機能しないのではないか。そして、それでも市場価格が均衡して決まる、その要因は何なのか――。 そこに及んで、岩井氏は、ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」とケインズの「有効需要原理」を接合することを思いつく。 テクニカルな説明は最小限にとどめるが、まずヴィクセルの累積過程論を現代的な数理経済的前提に基づいて修正し、ケインズが『一般理論』でヴィクセルの前提を理論的背景として踏襲していることを確認しつつ、新古典派の理論体系がケインズの“一般理論”の特殊ケース(不確実性がなく、流動性選好が十分に低く、総需要と総供給が等しい場合)なのだというケインズの真意を見いだす。 さらにケインズは、新古典派の依拠する処方箋(合理的な自由放任主義)がいかにヴィクセルの累積過程を伴う不安定をもたらすかを指摘しながらも、返す刀で、“悲惨“である不均衡累積過程は運命的必然などではなく止められるべきものだとヴィクセル派の経済学者らの運命論を牽制。 その安定のための市場の均衡化の処方箋は、「不合理的な振る舞い」「粘着性」「ノイズ」といった合理的でないもの「こそ」が担っているとケインズが示唆していることを岩井氏は明らかにする。 それらを数理的な基礎付けで統一的に理論化したことが岩井氏の画期的な功績だが、その実現にあたって、ミクロの不均衡な振る舞いがマクロ的な統計バランスの均衡をもたらしえること(岩井氏曰く“蚊柱理論”)、また予想される新古典派からの反論に即して、マクロ的な統計バランスを今度はミクロ的な不均衡として確率的に分解してみることで、長期においても新古典派経済学の均衡は実現しない(つまりギャップが永続する)可能性を示した。 とくに最後の功績は、ヴィクセルとケインズすら想定していない、岩井氏独自による新古典派批判の理論的決定打であり、のちにジョージ・アカロフから激賞されている。 ケインズ経済学と古典派経済学が経済学の双璧であるならば、ケインズ経済学をヴィクセル的な原理で数理的・ミクロ的に基礎付けた『不均衡動学』は、アダム・スミスの「神の手」の数理的・ミクロ的基礎付けである「一般均衡理論」と(少なく見積もっても)双璧をなす存在である。 歴史的・経緯的に一般均衡理論は多数の経済学者によって理論的に確立されてきたが、もう一方の不均衡動学に関しては、理論的先達はあるにせよ(「日の下に新きものなし」と岩井氏は言うかもしれないが)岩井氏1人が7年の歳月をかけて成し遂げたのである(1980年)』、「岩井氏独自による新古典派批判の理論的決定打であり、のちにジョージ・アカロフから激賞されている」、すごいことだ。
・『経済学界は「新古典派にあらずんば経済学者にあらず」  控えめに見て、経済学の世界の基礎の半分を作った岩井氏は、ただ、自身では「傲慢でした」と当時を振り返る。 「ナイーブにも独自の理論を構築し、その主流派である新古典派経済学の世界をひっくり返そうという野望を持っていました。この理論が世に出れば新古典派経済学はおしまいになると、意気込んでいたのです」(『経済学の宇宙』156ページ) 成し遂げたことの大きさを考えれば、それでも十分すぎるほどの謙虚さだと(とくにアメリカのモデラーたちと比べればなおさら)私には思えるが、それほどアメリカでは新古典派が主流派として盤石だったということでもあるだろう。 事実、アメリカではケインズ経済学は新古典派の“不況時のオプション”として扱われることが多く、ケインズとその直弟子たちの「新古典派こそがケインズ経済学の中の非常に特殊なケースでしかない」という世界観とは根本的に相いれないところがある。 そのような環境では、岩井氏の功績は感情を逆撫でするものだろうということも想像にかたくない。しかも数理的基礎においてその堪能さを自負する新古典派であるからこそ、その拠り所が数理的基礎によっておびやかされるという事態に、事実や真実を尊重する学術の世界の住人だとしても容易には耐えられないだろう。しかも相手はたった1人である。 「しばらくして、いくつかの専門誌に書評が載りましたが、その多くは敵意に満ちたものでした。」(『経済学の宇宙』158ページ))  さらに、時代が追い討ちをかける。大恐慌から第2次世界大戦を経て1960年代までは、自由の国アメリカであっても、その経済学の半分はケインズ経済学がその位置を占めていた(“ニューディーラー”つまりニューディール政策のブレーンたち)。 不況を救い好景気をもたらしたニューディール政策は、その成功ゆえに効果が徐々に飽和し始め、1970年代にはインフレに苦しむようになる。それを背景にして新古典派がケインズ批判の勢いを増し“主流派”を形成、1980年に「新自由主義」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが大統領に当選するに及び、経済学界の趨勢として[主流派=新古典派=一般均衡理論]の勝利が決定的となる。 これを岩井氏は経済学の「反革命」なのだと論じる。 「19世紀は、『自由主義の世紀』と呼ばれるように、自由放任主義思想が支配した世紀でした。だが、20世紀に入るとその思想に翳りが見られ始め、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして世界大恐慌が始まります。そのさなかの1936年、ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版し、いわゆる「ケインズ革命」が起こりました。 当時、アメリカ政府が大恐慌からの脱出のために積極的に市場に介入するニューディール(新規まき直し)策をおこなったこともあ り、その後しばらく学問的にも政策的にも、不均衡動学的な立場が大きな影響力を持ったのです。だが、その勢いも一時的でした。経済学のそもそもの父祖はアダム・ スミスです。ケインズ政策の成功により資本主義が安定性を取り戻すと、1960年代にはフリードマンをリーダーとする新古典派経済学の反革命が始まりました。 そして、1970年代には学界の主導権を握ってしまいます。さらに、フリードマンらの思想に大きな影響を受けたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権の下で、1980年代から、経済政策も自由放任主義の方向に大きく再転換していきました」(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』85ページ) くしくも岩井が『不均衡動学』を完成させた年に、経済学界と政治の世界では新古典派がその地位を確固たるものにしたのである』、「ナイーブにも独自の理論を構築し、その主流派である新古典派経済学の世界をひっくり返そうという野望を持っていました。この理論が世に出れば新古典派経済学はおしまいになると、意気込んでいたのです」、「1960年代にはフリードマンをリーダーとする新古典派経済学の反革命が始まりました。 そして、1970年代には学界の主導権を握ってしまいます。さらに、フリードマンらの思想に大きな影響を受けたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権の下で、1980年代から、経済政策も自由放任主義の方向に大きく再転換していきました」、潮流は「岩井」氏には逆風だったようだ。
・『唯一無二の理論家の「東京大学への帰還」  岩井氏はそれでもアメリカでの活動を考えていたというが、逆風の中で学者としての成功を望むのであれば、いま以上の政治的経営的な交渉力が必要になる。 「経済学の主流派に対抗する理論を主張してアメリカに居残るためには、多少大げさな言い方になりますが、学派を作らなければならない。学派を作るとは、中小企業のオーナーになるのと同じようなことです」(『経済学の宇宙』158ページ) 自身には不可能だ、そう考えていたところに、東京大学経済学部からの招聘状が届く。学部長の宇沢弘文からの招聘だった。日本に帰る潮時だと悟った岩井氏は帰国の決心をする。 帰国前に、理解者であったジェームズ・トービンはこう声を掛けている。 「カツ、おまえの仕事は、時代を20年先駆けている」(『経済学の宇宙』159ページ) おそらくトービンは新古典派全盛の時代が来ることを認めつつ、20年も経てば反革命が収まり、再びケインズ経済学が再評価され、その暁には『不均衡動学』はその中心として再評価されると考えていたのだろう。 しかし、トービンの見通しは甘かったのかもしれない。2000年前後のアジア金融危機とITバブル、2008年のリーマンショック、2010年の世界金融危機を経てもなお、ケインズ経済学が主流派に復帰することはなかった。 『不均衡動学』という“ケインズ経済学の図鑑”を作り終えた岩井氏は1981年に東京大学に職を得た。そして、その後の研究として、資本主義論と貨幣論をそのスコープに入れる。岩井氏の研究の特徴でもあるが、純粋理論としての追究を始める。 ケインズと同年に生まれ、早熟の天才として知られるヨーゼフ・シュンペーターが28歳のときに発表した主著『経済発展の理論』の驚異的な洞察力の秘密を探りたいと考えた。 「『経済発展の理論』は、驚くべき本です。資本主義的な経済発展について最も深い洞察を与えてくれるこの理論書が、二十八歳の青年によって書かれたということがまず驚きです。それ以上に驚くのは、この本が出版された一九一二年という年は、地球の上はまだごく一部しか資本主義化しておらず、(中略)しかもその(最も現代的な資本主義の形態の)本質をあますことなくとらえている」(『経済学の宇宙』167ページ) 資本が合理的かつ最適に投下されると、新古典派の均衡理論においては利潤は長期的にはなくなってしまう。しかし、企業はすべて利潤を生み出せないという事実はない。マルクスはその理由を資本家の労働者からの搾取に見いだしたが(その差分が利潤になっているという主張)、シュンペーターはそれを理論的に否定した。 シュンペーターは「イノベーション」(革新)をその理由に挙げたが、岩井氏はこの理論を動学モデルとして理解し再構築する。そして、岩井氏の「シュンペーター経済動学」のイノベーションの解釈は、絶えず生み出される「差異」にこそその本質があると結論づける。 動学的に差異を生み出し、差異によって動学的に利潤が永続する。差異が生み出され続けることによって、悲惨な長期的利潤ゼロの状況に陥ることから免れている。つまり、資本主義の本質は差異の絶え間ない生産とその動学的な作用である、と。 その自身の資本主義論を説明するために、岩井氏はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』が一例として題材に使えそうだと考えた。しかし、その直感は、意外な形で裏切られることになる』、「資本主義の本質は差異の絶え間ない生産とその動学的な作用である」、との「岩井」氏の仮説は説得力がある。
・『『ヴェニスの商人の資本論』  『ヴェニスの商人』が岩井氏の資本主義論の一例として使えるのは当然であった。イノベーションがもたらす差異を、遠隔地貿易の動機となる価格差(異なるコミュニティー=市場での価値形態の違い)に置き換えれば、理論的には同型であるのだから、成り立つのは必然だ。とくに理論家であれば、それに気づくのはたやすいことだろう。 しかし、岩井氏が理論家として非凡なところは、その理論的な同型性を見いだすに及び『ヴェニスの商人』の作品自体がすでに岩井氏がシュンペーターから読み取った資本主義論を解いてしまっている、と確信したところにある。 「そのテクストの中に、『資本主義論』がすでに埋め込まれている。さらに読み進むと『貨幣論』も埋め込まれている」(『経済学の宇宙』212ページ) 自身は単にそれを掘り起こしているだけだ、そのような感覚にとらわれ続けたという。このエピソードは、最近ではトマ・ピケティの『ゴリオ爺さん』にも通じるところだろう。 資本主義、貨幣の最も本質的なところが、歴史的な名著の物語が象徴するものとして解説されるという、世にも不思議な経済学的著作『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)がこうして誕生する。そしてこれは、岩井氏の日本語での初めての出版でもあった。) 蛇足だが、私自身はこの本を何かのきっかけで読んだことで、最終的に経済学部に進学することを決めた。以降、数ある経済学書を読み、経済学アカデミアをウォッチしてきたが、当時から今も変わらない感想を持っている。 それは、経済学とは学力偏差値でものすることができるような生易しい学術ではなく、それにも増してセンスが重要だ、という当たりまえの事実を前にしてのしみじみとした感心である』、XXX。
・『『貨幣論』に取り組む  そして、満を持して、岩井氏は貨幣論に取り組む。 問題意識としては、『不均衡動学』を執筆した際に、ケインズが強調していた貨幣経済がもたらす不安定性を、半ば所与として考察し理論構築をしたが、自身としてもきちんと腑に落ちる形で考えたい、というところにあった。 資本論、貨幣論はともに、新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学の別なくその根幹に存在するものである。資本主義論同様、その経済の根幹部を、岩井氏らしく純粋理論として論考を重ねていく。 岩井氏は、古今東西の貨幣論を読み漁る。「貨幣は商品である」(商品貨幣論)。「貨幣は法が定める」(貨幣法制説)。「貨幣は負債の記録である」(貨幣名目説)。しかし、そのどれもが腑に落ちない。 もちろん、経済学の教科書には貨幣の定義は載っている。岩井氏の疑問は「なぜ貨幣は貨幣として機能するのか」というところにあった。それが理解できれば、ケインズの考える不確実性がわかり、不均衡動学に残されていた大きなピースを埋められると考えた。 先行する貨幣論を一つひとつ、理論的矛盾や反証の事実を基に論駁(ろんばく)していく、その長い紆余曲折と試行錯誤を経て、岩井氏は「貨幣は貨幣として受け入れられるから貨幣として機能する」という結論に至る。 「だれに聞いても、『ほかの人が500円の価値がある貨幣として受け取ってくれるから、私も500円の価値がある貨幣として受け取るのです』と答えるだけなのです。だれもが、『ほかの人が貨幣として受け取ってくれるから、私も貨幣として受け取るのです』と答えるのです。<中略>思い切って縮めてしまうと、以下になります。『貨幣とは貨幣であるから貨幣である。』 これは、『自己循環論法』です。木で鼻をくくったような言い回しで申し訳ないのですが、別に奇をてらっているわけではありません。真理を述べているのです。貨幣の価値には、人間の欲望のような実体的な根拠は存在しません。それはまさにこの 「自己循環論法」によってその価値が支えられているのです。そして、この「自己循環論法」こそ、貨幣に関するもっとも基本的な真理です。」(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』47ページ) 岩井氏はこれを「貨幣の進化」の論文としてまとめ、それを下敷きにマルクスの「価値形態論」を読み解く作業を開始。1991年に『批評空間』という雑誌の連載として始まり、1993年に書籍『貨幣論』として刊行される。 マルクスの「価値形態論」は、それに則って純粋に徹底していくと、マルクス経済学がその基礎として依拠する「労働価値説」を破壊してしまう。つまり自己矛盾を起こしてしまうということを指摘しつつ、「貨幣の自己循環論法」によってそれが引き起こされることをマルクスのテクスト自体がいわば無意識に予見していた、と指摘する。 そのようにマルクスが無意識にも自身の体系を崩壊させるプロセスを理論的に精緻にたどり、その崩壊過程が「貨幣の自己循環論法」によってもたらされることを明快に論証することによって、いわば“背理法”的に貨幣の自己循環論的機能を証明したのである。 自己循環論は、岩井氏の最初の論文の重要アイデア(静態的序数効用つまり「入れ子構造」)にも通じるところがある。また、カリフォルニア大学バークレー校時代に読んだ、「クルト・ゲーデルの不完全性定理」にも通じるものだ。ガモフの無限大の概念と併せて、岩井氏の論証の特徴的な武器となる。 このような貨幣の性質から、貨幣の本来的な不安定性を示し、貨幣が受け入れられなくなったカタストロフとしての超インフレこそが資本主義の真の危機だと結論づける。それは、「恐慌」こそが資本主義の危機であるという古典派やマルクス経済学の結論を転換するものであった。 そしてこの『貨幣論』が、最も知られる岩井氏の仕事となる。また、「日の下に新きものなし」ということなのだろうか、仮想通貨に関しての理論的考察もこの頃にすでに先行的になされている』、「貨幣に関する」「自己循環論法」は余りにも有名だ。
・『会社統治論としての『会社は誰のものか』  ケインズ経済学に加えて経済学全体の基礎的部分の“図鑑”を編纂し終えた岩井氏は、いくつかの偶然から、「会社」に注目することになる。理論の世界の住人であった岩井氏らしからぬ世俗感ではあるが、その論考には氏の理論家らしいまなざしが随所に見られ、そのことにより非常にユニークな法人論につながっている。 経済学的、資本論的に言えば、会社は資本家の所有物である。実際的にはどうかという見方はあるにしろ、とくに欧米では建前的にも実際的にも基本的にはその原則が強く意識されている。 しかし、日本ではとくに顕著だが、会社が資本家の所有物とは思えない現象が頻繁に見られる。そのギャップはいったいどこから来ているのだろうか――。 資本の持ち合い構造という一般的な見方に加え、岩井氏は契約法の大原則「自己契約の不可能性」から、自己を所有するという「入れ子」を発見する。「契約」は自分と相手を縛るものである。資本家と経営者、経営者と労働者の関係性には基本的に契約が存在する。 しかし、資本の持ち合いにより資本家の軛(くびき)から逃れた経営者は、もちろんそれでも法人と経営者の契約関係がある。しかしこの場合、法人と経営者はほぼ同一となってしまう。労働組合があれば、労働者との契約関係が自らを縛るものになるが、労働組合を無力化できたとすれば、法人と経営者は実際的に等しい状態となる。 そのときに、法人と経営者の(義務を伴う)契約関係は可能であるかどうか。それは「自己契約」となり、経営者はいつでも法人として自らの契約を変更することができるがゆえに、もはや契約の意味を持たなくなる――。 当時の世情では、M&Aが盛んになっており、会社は経営者のものでなく株主のものだ、いや、会社は社員こそのものである、という議論が延々と繰り広げられている状況であったが、岩井氏の論考はその不毛な繰り返しを止めるに十分なインパクトを持った。 また、余談だが、ピケティが『21世紀の資本』で明快な答えを出せずにいた、資本家の富の増加以上の経営者の報酬の飛躍的な上昇も、岩井氏はすでにこの時点で、エージェンシー問題と絡めることで理論的にほぼ説明をし終えている。 そしてさらに自らの議論を延長したうえで、契約の不可能性が原理的に避けられないがゆえに、「契約」に代わる会社統治に必要なものとして「信任」の必要性をあぶり出す。それが、氏の『信任論』につながっていく。その法体系的な可能性を哲学者のイマヌエル・カントのテクストから示そうとする試みは今も現在進行形で続いている』、『信任論』の今後の発展が楽しみだ。
・『経済学から法学、そして社会科学へ  「経済学史」の授業を受け持つことをきっかけに、岩井氏は資本主義や貨幣経済の淵源を見つめ直すことになる。経済学はアダム・スミスを祖とすれば300年の歴史となるが、氏の理論家としての視点から、古今東西からその雛形(理念型)を探す作業に取りかかる。 『ヴェニスの商人の資本論』の拡張版ともいえるアプローチだが、どこかジョン・ヒックスの『経済史の理論』を思わせる、卓越した理論家でなければ発想することも難しい仕事だろう。 紆余曲折を経て、岩井氏はアリストテレス時代のポリスに注目する。アリストテレスの論考から、コミュニティーの存続と破壊の両面を持つ貨幣という存在をすでに明確に自覚していることを見いだし、最新の書籍『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』の中でも一部を披歴している。 また、重商主義時代のジョン・ローに、ケインズに先駆けての自己循環論法的な貨幣論を見いだし、現代の管理通貨制度や中央銀行制度の原型を確認している。 現在の岩井氏は、これまでの貨幣の考察を踏まえ、「法」に加え、「言語」にもその思考を広げている。「言語」も、媒介的、自己循環的な性質を持っており、また、この3つが「価値」「権利」「意味」という、社会科学を考察する際のエレメントでありうると岩井氏は直感しているのだろう。 これは2010年からリベラルアーツが中心のICU(国際基督教大学)に拠点を移したことと無関係ではないだろう。まだまだ時間がかかる、そのように笑顔で話す岩井氏の「社会科学の図鑑」の完成が待たれるところである』、「社会科学の図鑑」の完成が楽しみだ。

第三に、11月9日付けダイヤモンド・オンライン「GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由、狙いは「ビジネスの最強武器」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/253537
・『『週刊ダイヤモンド』11月14日号の第一特集は「最強の武器『経済学』」です。2020年ノーベル経済学賞を受賞したゲーム理論、それに行動経済学を中心として経済学の知見の応用が広がっています。企業の戦略決定、マーケティングなどビジネスの現場でも本格活用が始まりました。ビジネスパーソンは今こそ、この最強ツールを手に入れるべきです。基礎の基礎から応用実践編まで完全マスターするための特集です』、興味深そうだ。
・『世界中のオンライン広告は全てゲーム理論に支えられている  言わずと知れた世界の巨大テック企業、米GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・ドット・コム)。実はその強大なパワーの裏で、経済学が力を発揮していることをご存じだろうか。 何しろ、日本ではそうした動きは限られているのが現状だが、米国では経済学者がテック企業などに所属し、ビジネスに関わるのは決して珍しいことではない。 例えばアマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいるとされる。そして、「重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた」と、最近まで同社に勤務していた元社員は驚きと共に振り返る。 このほどダイヤモンド編集部の単独インタビューに応じた、米カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院のスティーブン・タデリス教授もその一人だ。 タデリス氏は2011〜13年、世界最大のオークション(競売)サイトを運営する米イーベイでエコノミストを務めた後、16〜17年にはアマゾンでVP(ヴァイスプレジデント)の職に就いていた。 同氏は「米国のテック企業の間では、経験豊富な一流経済学者の引き抜き合戦が起きている。企業は学者が教授職の報酬として大学から受け取る金額の約2〜5倍、時には10倍にも上る報酬を示して引き入れるケースが見られる」と、その激しい競争の実態を明かす。 企業側のニーズを引っ張るのが、現代経済学の2本柱、ゲーム理論と行動経済学。両分野が経済学を主導する様は、この四半世紀のノーベル経済学賞の実績を見れば一目瞭然だ(下表参照)。 今年もゲーム理論の応用分野、「オークション理論」を研究する米スタンフォード大学のロバート・ウィルソン名誉教授(下写真)らに贈られたように、二大分野の研究に受賞が集中しているのが分かる』、「アマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいる」、「重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた」、ここまで進んでいるとは脱帽だ。
・『フェイスブックはオークション理論 グーグルはマッチング理論を活用する  ではなぜ、テック系を中心とした世界のトップ企業の間で今、必死に経済学者を囲い込もうとする動きが広がっているのだろうか。 背景の一つに挙げられるのが、テクノロジー企業の急速な台頭だ。例えば前出のタデリス氏は「世界中のあらゆるオンライン広告は、まさに『オークション理論』に支えられている」と指摘する。 実際、フェイスブックではビジネスの主戦場であるオンライン広告において、オークション理論を大いに活用しているのだ。また、実はグーグルの検索連動型広告もその仕組みの大本にはオークション理論が根付いている。 さらに、グーグルでは、ゲーム理論のもう一つの代表的な応用分野、「マッチング理論」の仕組みを取り入れ、多士済々のテック人材の配置にも生かすなど、その活用の裾野は極めて広い。 そもそもゲーム理論とは、合理的なプレーヤーたちの間で繰り広げられる読み合い、せめぎ合いを分析するもの。そこで分析される状況は、企業の戦略を中心に幅広く応用されている。 一方の行動経済学は、人間の非合理的な面に着目し、リアルな意思決定の在り方を掘り下げるものだ。ゲーム理論も行動経済学も、実験によってデータを集め、検証が繰り返されることで知見を深めてきた。そして、両者にまたがるような実験経済学のアプローチは進化を続け、計量経済学のデータ分析手法と共に実社会へと活用の場を広げていった。 これら経済学の発展と併せ、現実のビジネス界で生じた見逃せない変化として、AI(人工知能)や機械学習、ビッグデータなどを活用する必要性が高まってきたことがある。一連の新たな技術をうまく活用するため、経済学上の重要なキーワードとなるのが、集めたデータの因果関係を推測する「統計的因果推論」だ。 因果推論は、大量のデータを分析してビジネスに生かす際、重要となる基本的な考え方だ。だが機械学習の場合、膨大なデータの間にある相関を見ることはできるものの、あるテック企業で活躍する工学部出身者は、「工学系の人は意外と因果関係を見落としがちなところがある」と話す。 そして、この因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ』、「因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ」、日本ではなく、米国での話だろう。
・『テック企業が経済学博士を青田買い社会人未経験でも年収1500万円も  テック企業が繰り広げる優秀人材の争奪戦は、今や若手にまで及ぶ。一昔前までは、エリート層に人気の花形の就職先といえば、米ゴールドマン・サックスをはじめとする投資銀行がその筆頭だった。 だが、約2年前まで同社のニューヨーク本社に勤めていたある元外資系金融マンは、経済学博士号を保有する30歳前後の若手〜中堅の人材が、日本円にして3000万円ほどの高額年俸を提示され、アップルやアマゾンに引き抜かれた例を幾つも目撃したと証言する。 そして最近では、社会人経験のない学生に対しても、経済学博士号の取得者であれば、テック企業がおよそ1500万円にも及ぶ好待遇をちらつかせるなど、過剰とも思える青田買いの動きが広がっているのだという。 そんな米国と比べ、日本では企業の意思決定などに経済学を生かそうとする取り組みで大きく後れを取っているのが現状だ。ただし足元では、アカデミックな知見とビジネスの間を結び付けようとする動きが、一部で活発化している。 その代表格が東京大学だ。今年8月に1億5000万円を出資して株式会社「東京大学エコノミックコンサルティング」を設立。企業が持つデータを分析し、価格設定の在り方などの助言に動きだしている。  また国内の企業においても、ZOZOやメルカリ、サイバーエージェントといったテック企業は経済学の活用にいち早く目を付け、テックとの融合の試みを加速させている。 経済学の活用でビジネスに勝つ! 仕事の最強ツールを手に入れよう(『リンク先参照)』、「東京大学エコノミックコンサルティング」などの動きは興味深い。日本でも「経済学」が実務にもっと取り入れられるようになってほしいものだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 ダイヤモンド・オンライン 中野剛志 佐々木 一寿 (その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」) 「世界はすでに、各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている」 「リベラルな国際秩序」には、地政学的な下部構造がある グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだ リーマン・ショックとコロナ禍で、世界は「危険な場所」になった 日本は世界の“食い物”にされる!? 日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではない 日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない 「ガキっぽい情熱」を克服できない経済学 経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている 経済学は「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」? 「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至った 「コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び」 「日の下に新しきものなし」 サイエンス好き、SF文学好きから経済学の道へ 「新古典派」の理論構築を嘱望された希代の逸材 経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう 新古典派が称賛する博士論文、そして宇沢弘文の背中 「神の見えざる手は存在しない」という経済学の構築へ 経済学界は「新古典派にあらずんば経済学者にあらず」 唯一無二の理論家の「東京大学への帰還」 『ヴェニスの商人の資本論』 『貨幣論』に取り組む 自己循環論法 会社統治論としての『会社は誰のものか』 経済学から法学、そして社会科学へ 「GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由、狙いは「ビジネスの最強武器」」 世界中のオンライン広告は全てゲーム理論に支えられている アマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいる 重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた フェイスブックはオークション理論 グーグルはマッチング理論を活用する 因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ テック企業が経済学博士を青田買い社会人未経験でも年収1500万円も 東京大学エコノミックコンサルティング
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日本型経営・組織の問題点(その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、2月23日に取上げた。今日は、(その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける)である。

先ずは、5月10日付け現代ビジネスが掲載した作家の小野 一起氏と経営共創基盤代表取締役CEOの 冨山 和彦氏による対談「日本企業で出世する人たち、じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71570?imp=0
・『かつては世界から称賛された「日本的経営」だが、もはや時代遅れの産物と化している。それにもかかわらず、多くの経営者はいまだ過去の成功体験にすがりつき、大きく会社を変化させることをできずにいる。日本企業はいまや世界の時価総額トップランキングに入れないほどに凋落したが、その原因は会社の上層部で決断できずにいる「だらしない」トップたち、社長や役員など幹部たちにあると指摘する声は多い。 いま日本のトップ層たちが直面している本質的な問題とはなにか。では、日本企業はいま本当はどんな改革に踏み出すべきなのか――。 今回、経営共創基盤代表取締役CEO(最高経営責任者)として様々な企業の再生や成長支援に取り組む日本を代表する経営コンサルタントで、新著『コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画』を上梓したばかりの冨山和彦氏と、新作小説『よこどり 小説メガバンク人事抗争』でメガバンクの未来や組織の在りようなどを独自の視点で描き出した作家の小野一起氏が緊急対談を敢行。日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」について語り尽くした』、「日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」」とは興味深そうだ。
・『「時代劇化」した日本企業  小野 日本的経営での成功体験がアダになって、バブル崩壊とともに経営危機が顕在化した代表例がカネボウやダイエーですね。冨山さんは、政府系の産業再生機構のCOO(最高執行責任者)として、日本的な経営の無残な失敗とリアルに向き合うことになりました。 冨山 特にカネボウは最も強固な日本的経営の会社で、日本的経営をつくった原型のひとつでもあるわけです。運命共同体みたいに日本型経営を信じていたので、新しい時代には不適合な会社だったわけです。 しかし、もっとも強烈に変革の波にさらされたのは三種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)や3C(自動車、カラーテレビ、クーラー)でかつて成功体験を味わったエレクトロニクス産業でしょう。半導体で日本が世界を席巻したのも成功体験になっていると思いますが、せいぜい1990年代の話です。もう時代劇の世界ですよ。 小野 そうした危機に直面したエレクトロニクス産業の中には変革の波に乗れないところも出てきていますが、一方、日立製作所などは中西宏明会長らのイニシアディブで強烈な改革が始まっていますね。中西さんは冨山さんとの共著『社長の条件』の中で日立の人事改革に言及されていますが、典型的な日本的大企業と思われていた日立で大胆な組織改革がここまで進んでいたのかと驚きました。 グローバル化に対応するために年功序列を廃止し、トップの選定も社外取締役が主導して、30代を含む50人近い候補者とやり取りしながら選定作業をしているという話は刺激的でした。 逆に言えば、日立のような企業でもこのくらいの改革に取り組まなければ生き残れないということですね』、確かに「日立」での「大胆な組織改革」は、これまでの「日本的経営」との決別だ。
・『社長が「次の社長」を決めるというムラ社  冨山 遅ればせながら、だと思います。こうした日本的経営の問題点については気づく人は気づき、分かっている人は分かっていました。たとえばスタンフォード大学名誉教授の故・青木昌彦さんは、以前から課題を指摘していた。それなのに、たとえばカネボウの経営が傾いたときなど、日本の経済界では「あれは変な経営者がいたからだ」と説明してしまう人が大半だったんです。 小野 日本的な経営が構造的な問題を抱えているとは考えずに、カネボウが個別に経営問題を抱えていると説明されてしまった。 冨山 日本的経営の普遍的な病理について経済界全体が認め始めたのは、本当にごく最近のことです。安倍晋三政権になってからようやく企業統治(コーポレート・ガバナンス)改革が本格的に始まりましたが、それまではすべて人のせいにしていた。 そもそも日本企業の低迷は、世界の時価総額ランキングをみると明らかです。平成元年はかなりの数の日本企業が上位50社に入っていました。でも平成の終わりには、せいぜいトヨタ自動車ぐらいじゃないですか。この平成の大敗北で、さすがに自覚が生まれた。 小野 「平成最後の時価総額ランキング。日本と世界その差を生んだ30年とは?」(https://media.startup-db.com/research/marketcap-global)によると平成元年(1989年)は、世界の時価総額ランキングで、トップ50の中に、日本企業は32社入っていて、トップはNTTでした。しかし、平成31年4月(2019年4月)になると、トップ50に入った日本企業はトヨタ自動車のみです。トップ3は、アップル、マイクロソフト、アマゾン・ドット・コムというデジタル革命の勝ち組のアメリカ企業ですね。 こうした危機感に直面してやっと、日本企業の中からコーポレートガバナンス改革で独立社会取締役を導入する企業も出てきました。そして社外取締役で構成される指名委員会でトップを決める仕組みにした会社も出始めています。これは、社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね。 冨山 一桁パーセントでしょうね』、「カネボウの経営が傾いたときなど、日本の経済界では「あれは変な経営者がいたからだ」と説明してしまう人が大半だった」、最近にって「危機感に直面してやっと・・・社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね」、やはり変化には時間を要するようだ。
・『日本のリーダーが「おかしな」理由  小野 日本企業にとって「社外取締役の導入」や「指名委員会の設置」が進むことは重要な動きですが、ここからはきちんと定着することが大切になってくるのだと思います。その点、せっかく仕組みを取り入れたにもかかわらず、きちんと機能していない企業も多いようです。 よくよく聞いてみると、社外取締役がみなさん社長の「お友達」みたいなケースがありますよね。形式は整っているけど、魂が入っていない。導入した企業の中にはそういう企業が多い印象があります。 冨山 最初は仕方がないでしょうね。まずは形式を先行させて、実質を整えていく。長い目で見れば実質が変わった会社だけが生き残り、実質が変わらない会社は消えていくということでしょう。 そもそもリーダーシップが必要というのは、いまや大半の経営者が口にしています。しかし、本質的に問題となるのはリーダーシップの中身であり、リーダーの在りようでしょう。古き良き日本のリーダー像ってありますよね。人望があって、みんなの気持ちがよくわかって、それで現場の状況を理解して……という良き上司像です。もちろんいまでもそうした上司像は否定されませんが、それだけで良いのか、ということが問われているわけです。 小野 日本企業のリーダーシップについて、ほかに冨山さんが問題だと思っていることはなんでしょうか。 冨山 日本の経営者がよく使う言葉に「現場主義」というのがありますが、これが本当の意味での現場主義でなく、「現場迎合主義」になっていることが多い。 たとえばある業界で破壊的イノベーションがやってくるとします。テレビを作っていればこれまで儲かっていたエレクトロニクス産業で、もはや新興国企業が台頭してきてテレビを組み立てていても儲からなくなるというようなケースです。その時に、テレビの製造現場の人たちに「テレビの組み立てを止めようか」と聞いたら、誰も「そうですね、止めましょう」とは言いませんよね。紙の新聞が売れないからと言って、「紙の新聞を止めるか」と言っても、紙の新聞を作っている人は誰も止めようとは言わないでしょう。こういう現場の声を重視する経営者は、現場主義とは言いません、単なる現場迎合主義です。 小野 苦しくても、現場の反対があっても、より収益の高いところに戦略的に事業をシフトしていく判断をするのが経営者。それができないのならば、会社は消滅へと向かいます。 冨山 そうです。しかし、日本企業にはそういう決断ができない経営者が多い。現場というのは、言い換えると競争の最前線です。最前線で何が起きているかをリアルに認識することが大事なのは当たり前です。それと現場の思いに引きずられて決断ができないことはまったく違う』、現場出身の「日本の経営者」が・・・「現場迎合主義」に陥ってしまうのは、必然でもあるが、より高いリターンを要求する機関投資家の姿勢がまだ弱いことも一因だろう。
・『「一億総玉砕」しないために  冨山 たとえば戦場を見に行って、海戦の状況を確認して、飛行機を導入すれば勝てると考えるのは現場主義です。一方で長年苦労している水夫さん、一生懸命に機銃操作している兵士の気持ちになって作戦を継続するのが現場迎合主義です。これは本当の現場主義ではありません。「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多いんですよ。 小野 終身雇用と年功序列を前提にすると、経営者は現場にいるひとの人生を背負っている気分になりますよね。現場迎合主義では、その瞬間はいい上司のようにふるまえるかもしれませんが、長期的には雇用を守ることはできません。 冨山 ずっと苦労して頑張っていることを知っているわけですから尚更なんでしょうね。現場の人たちの貢献で日露戦争に勝った、現場の人たちのおかげで高度成長に貢献した……。その思いはわかりますよ。成功体験があるので、それを支えた現場の気持ちに寄り添ってしまう。ただ、ビジネスという戦争の現実はもっと厳しい。そういう現場の情念を合理が超えていくのです。 中途半端に現場の情念に寄り添うと悲劇が起こります。だから、戦局が変われば水兵さんたちを船から降ろしてあげればいいわけでしょう。やる気と能力がある人には、パイロットになれよって言ってあげればいいわけです。 いま多くの日本企業がこうした課題に直面しているわけですが、まだおカネに余裕がある段階で早く組織転換をしたほうがいいと思います。改革しようとすると、その瞬間はすごく現場にストレスがかかります。しかし、それを恐れていては手遅れになってしまうのだから、タイミングは早ければ早いほうがいい。心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから。 実は日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです。「半導体玉砕」、「液晶玉砕」、「テレビ玉砕」……。さすがに、これ以上は無理でしょう。 小野 確かにそうですね。例えば東芝は半導体と原子力で玉砕しています。日立が、必死になるのは当然とも言えます』、「「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多い」、「心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから。 実は日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです」、同感だ。
・『「本当の学力」が評価されないニッポン  冨山 リーダーシップのモデルが、高度成長期からガラリと変わっているんです。いまは大きな変革期ですから、リーダーは「自分が言ったこと」を「やってもらわない」といけない。つまり、いまのリーダーは社員への影響力が重要なんです。 しかも、人事権を振りかざす、いわゆる「ハードパワー」だけでは組織は動きません。ソフトパワーとしての人望や人間性もまたとても大切です。そのソフトパワー的なものと、合理性をどう両立させるかがポイントです。 リーダーは必要な時は合理的で冷徹な決断をできなければいけない。ただ、人望がないと「この野郎!」って恨まれて、本能寺の変で暗殺されちゃう。だから、人望も必要です。この両立ができないといまの時代のリーダー務まらない。要は組織の中でリーダーをどう育成するか、どう選ぶかが重要になってくるわけです。 小野 リーダーの育成は、高等教育とセットで考える必要がありますよね。現状では「学歴主義」というより「学校名主義」になっています。 冨山 そうですね。合格歴ですよね。濁点が違っています。「高学歴」じゃなくて「合格歴主義」(笑)。 小野 社会学者の小熊英二さんは『日本社会のしくみ』という本の中で、学歴について非常に興味深い指摘をしています。いわく、日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている、と。 本来なら高学歴といえば、博士号や修士号を取得していることです。日本の場合、特に文系だと修士号や博士号を取得していると、逆に出世できなくなるケースすらある。ムラ社会だと修士号や博士号を持っていると「異端」に位置づけられて、「本流」から外されてしまうわけです。 欧米の場合、経営者を目指す人には必要な学位を求めますよね。修士号とか博士号です。そこで培われた知識やスキルが、仕事に必要だと考えられているからです。東大卒や京大卒という学校歴、合格歴が求められることはありません。 一方で、日本の終身雇用、年功序列だと、まずはムラ社会のメンバーに入ることが重要。経営陣を目指す人も、みな現場のオペレーショナルな業務から入って、少しずつステップアップしていくしか道がない』、「日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている」、言い得て妙だ。
・『早慶卒、体育会系出身が「最強」という現実  小野 日本企業で求められるのは潜在力を担保する有名大学の合格歴になるわけです。余計な知的な能力は必要ない。ムラの中で必要な知識や掟は、ムラに入ってから叩き込んでやるというわけです(笑)。 だから今のムラから別のムラに移る転職も難しく、会社が傾くと総玉砕に向かってしまうのではないでしょうか。 冨山 そうですね。この話は結局、全部つながっていますよ。産業の構造が比較的固定的で、オペレーションの優劣で業績の優劣が決まる時はそれで良かった。極論を言えば、一つの工場の中で、ずっとその仕事のオペレーションを高度化して合理化していくことが企業全体の競争力に直結していたわけです。一本のネジの完成度を高め、作業工程を一つずつ見直して合理化することが大切だったのです。 ただ、いまは産業構造がガラガラ変わる、競争構造もガラガラ変わる。要するに産業や社会がダイナミックに変化するようになればなるほど、特定の業務の中で作られるノウハウはすぐ陳腐化するのです。 日本の歴史を振り返ると、様々な組織の中で似たようなことが起こりやすい。 たとえば軍です。日本の軍隊というのは非常にスペシャリスト化、専門家していますが、わりと初期の段階ではみなジェネラリストで、何でも屋さんだったんです。まだ明治維新の名残があった明治期は特にそうでした。それが、どんどん機能特化していき、機能特化で技能を磨いていく人たちがそのまま偉くなっちゃう。そういう仕組みを日本人は作りやすい。 大学ということでいえば、典型的に就職に強かったのは体育会でしょ。早稲田、慶応に入れるだけの能力がありました。その上、「ラグビー部です」「野球部です」と言えば、日本的経営の企業であればどこでも内定がもらえるわけです。要するに地頭いい、体力がある、これが要件。それに加えて、上下の秩序にちゃんと従って行動できる。最高じゃないですか。オペレーショナルな業務を磨く、ムラ社会の一員としては……ということになるわけです。 小野 有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列のムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけですね。 冨山 そういう人材の良さをすべて否定するわけではありませんが、そういう人材有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列のムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけですね。 冨山 そういう人材の良さをすべて否定するわけではありませんが、そういう人材だけで構成されている組織は極めて脆いですよ。ちょうど平成に入ったころに、ベルリンの壁が壊れ、完全なグローバルな世界に突入しました。インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなったのです』、「有名大学の体育会系の人材・・・そういう人材だけで構成されている組織は極めて脆いですよ」、「インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなった」、その通りだ。
・『国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち  冨山 有名企業の経営者など経済界の人たちが集まる宴会で、大学時代の話になると、みな不思議なくらい自分がいかに勉強をしなかったかという自慢話になるわけです(笑)。俺は大学に行かずに麻雀ばかりやっていかとか、運動しかしていなかったとか、みな滔々と語るわけです。それでいて「最近の若い連中は、勉強していない」とか上から目線で言うから意味不明です(笑)。 ただ、そういう人材育成モデルがある段階まで機能して、実際に有名企業の経営陣まで登れたので成功モデルになってしまったのでしょうね。 残念ながら、日本社会の構造がこうした変化に対応できない経営者を生み出したといえるでしょう。なので、日本の政治家も官僚も経済人も、国際的にみると驚くほど低学歴になったしまったわけです。 小野 学力のピークが有名大学に合格した18歳というような人たちが、日本の政治や経済をリードしているわけですね(笑)。 冨山 いろんな組み換えや変化が起きる時、大事なことはものごとの中で何が一般、普遍的原理原則を持つか、何が普遍性を持たないかを区別することなのです。これがちゃんと自分の頭の中で整理できないと、急激な変化に対応できません。 つまり、自分が積み上げてきた個別的な体験だけで経営のかじ取りをしようとすると失敗します。少なくとも自分の経験の中で、普遍的に通用するものと通用しないものぐらいは仕分けできないと経営者失格です。 飛行機の性能にたとえれば、早く飛びたいのか、それともクルクルと回るのがいいのか。それともパイロットの命を守ることが最優先なのか。それを判断できないといけません。つまり、物事を一般化、抽象化して普遍の原理原則から演繹する思考法が、訓練されてないと、変化に対応できません。だからこそ、高い学歴が価値を持つのです。18歳の時に答えを丸暗記して対応できる試験に合格した、そのアプローチだけでは通用しなくなっている。高校までは、それでいいんです。日本は、そこまではむしろ教育がうまく機能している。 問題は、大学からです。一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです』、「一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです」、同感である。
・『「徹夜で麻雀できる人」が出世する社会  小野 実際に某メガバンクで、土日に頑張って論文を書いて博士号を取得して、そのことを人事部に報告した直後から昇進が止まったという話を聞いたことがあります(笑)。 冨山 結局、自分の頭で考える人はめんどくさい、と思われているんですよ。部下として使いにくい、と。 変化の時代に対応するために思考力を評価して、エリートを選抜しようとすると、それに見合った学力を付けなければいけない。これが、年功序列の仕組みと矛盾するわけです。 これまでの日本型経営のモデルでは、みんな一緒に横一線で競争する建前になっています。少なくとも正社員は、組織内の階級的格差なしで競争して、ちょっとした差でだんだん選抜をしていくのが、基本です。これが、組織全体のモチベーション維持にもうまく作用していた。 こうした組織に、高学歴の人が活躍できる舞台をつくるのは難しい。だから、だいたいアメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです(笑)。(この後の、小野一起氏による『よこどり 小説メガバンク人事抗争』のPRは省略)』、「某メガバンクで、土日に頑張って論文を書いて博士号を取得して、そのことを人事部に報告した直後から昇進が止まったという話を聞いたことがあります」、大いにありそうな話だ。「アメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです」、なんとも無駄な出世競争を繰り広げさせられたものだ。

第二に、7月22日付けNewsweek日本版が掲載した経済評論家の加谷珪一氏による「コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2020/07/post-94021_1.php
・『<日本企業が何年も放置してきた課題がコロナ禍で顕在化──今こそ生産性向上と復活を果たすべきときだ。本誌「コロナで変わる 日本的経営」特集より> ※日本的経営の7つの課題を指摘する加谷珪一氏によるコラムを2回に分けて掲載します。 新型コロナウイルス危機は、いわゆる日本的経営が抱える問題点を浮き彫りにした。バブル崩壊以降、30年にわたって世界で日本だけが成長から取り残されてしまったが、最大の理由は、安価な工業製品を大量生産する昭和型モデルから脱却できず、ビジネスのIT化やオープン化といったパラダイムシフトに対応できなかったことにある。 ペストやスペイン風邪の歴史からも分かるように、感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘されている。このタイミングで日本が変われなければ、諸外国との格差は致命的なものとなるだろう。 日本の労働生産性は先進諸外国の中では常に最下位だったが、特にその差が顕著になったのは90年代以降のことである。この時代は全世界的に産業のIT化が本格化するとともに、中国をはじめとする新興国への製造業シフトが一気に進んだ。ところが日本は一連の変化にうまく対応できず、諸外国との格差を広げてしまった。 コロナ危機をきっかけに、日本の企業社会には変化が求められているが、一斉出社や長時間残業、ハンコに代表されるIT化の遅れ、過当競争など、議論されているテーマのほとんどは、変化の必要性が叫ばれていたものばかりである。以下では日本企業が乗り越えるべき課題について主に7つの観点から議論していく』、「感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘」、興味深そうだ。
・『1. 需要変化への対応  新型コロナウイルスをきっかけとした「新しい生活」によって消費者の行動変化が予想されており、多くの業界においてビジネスモデルの転換が必須となっている。外食産業では店内のレイアウトを変更したり、店舗網を縮小するといった動きが活発になっているが、一連の変化は基本的に売上高の減少を伴う。最終的に高付加価値モデルにシフトできなければ、新しい時代を生き抜くことはできないだろう。 日本の外食産業は市場規模に対して店舗が過剰となっており、過当競争に陥っていると指摘されてきた。日本人の実質賃金が下がっていることから、値下げ競争が常態化しており、これが企業の低収益と従業員の過重労働の原因となっている。外食産業に限らず、過当競争からの脱却は時代の必然であり、コロナはきっかけにすぎないと解釈すべきだ』、「外食産業に限らず、過当競争からの脱却は時代の必然であり、コロナはきっかけにすぎないと解釈すべきだ」、そうなればいいが、筆者の願望に過ぎない可能性もある。
・『2. デジタルシフト  需要変化の多くはデジタルシフトを伴う。外食産業は店舗網の縮小と同時にデリバリーシフトが進んでいるが、この動きはコロナ前から顕著であった。アメリカでは数年前から外食のデリバリー化が進み、レストランの廃業が相次いだが、背景となっているのは業務のIT化である。 スマートフォンが普及したことで業務のIT化とパーソナル化が加速。皆で連れ立ってランチやディナーに行く回数が減ったことがデリバリーの利用を後押しした。つまり、デリバリーシフトは構造的なものであり、コロナ危機が終息すれば元に戻るという話ではないのだ。 日本企業におけるハンコ文化が無意味であることは、以前から指摘されてきたが、テレワークの拡大によってようやくその弊害の大きさが認知されるようになった。先進諸外国と比較して日本企業のIT化が遅れているのは事実であり、コロナはこれを変えるきっかけとなるだろう』、「デリバリーシフトは構造的なもの」は確かだろう。「ハンコ文化・・・テレワークの拡大によってようやくその弊害の大きさが認知されるようになった」、「ハンコ文化」がこれを機に変われば望ましいことだ。
・『3. ムラ社会的組織の終焉  IT化が進んだ企業の業務プロセスと、ムラ社会的な組織運営は相性が悪い。日本企業はチーム全員が一斉に出社し、お互いの様子を見ながら「あうん」の呼吸で業務を進めるという組織文化だった。責任の所在を事前に明確化する必要がなく、突発的な事態にも対応できるというメリットがあるが、こうした曖昧な業務プロセスはITシステムに移管しにくい。日本企業がIT化を進められないことには、こうした組織文化が深く関係している。 ムラ社会的な組織を維持するためには同質性が強く求められるので、メンバーも画一化する必要がある。新卒一括採用や年功序列といった日本型雇用はその結果として生まれたものと見なせるし、逆に日本型雇用が一連の硬直化した組織の原因と考えることも可能だ。 日本企業は1970年代以降、ひたすら管理職比率を増大させてきたが、管理職が肥大化した組織がうまく機能しないのは自明の理である。日本の企業社会には、会社に勤務していながら実質的に仕事がないという、いわゆる社内失業者が400万人も存在しているが、コロナによるテレワークへのシフトは、実質的に仕事をしていない社員をあぶり出す結果となってしまった』、「IT化が進んだ企業の業務プロセスと、ムラ社会的な組織運営は相性が悪い」、「コロナによるテレワークへのシフトは、実質的に仕事をしていない社員をあぶり出す結果となってしまった」、その通りなのかも知れない。
・『4. 下請けと中抜き  企業の組織形態と産業構造には密接な関係があり、ムラ社会的な組織運営を行う企業が多いと、産業全体の合理化も進まない。統計の取り方にもよるが、日本における人口当たりの企業数はアメリカよりも多く、全体的に経営規模が小さいという特徴が見られる。中小企業が多いのはドイツも同じだが、問題なのは日本の中小企業の収益性が著しく低いことである。 重層的な下請け構造や薄利多売のビジネスモデル、IT化の遅れなど複数の要因が考えられるが、最も影響が大きいのは下請け構造による中抜きだろう。 各種給付金などコロナ対策の政府事業を受託した組織が、外部企業に業務を丸投げするという「再委託」が問題となっているが、政府案件に限らず、日本の産業界にはこうした丸投げと中抜きという商習慣が蔓延している。中抜きされる企業が生み出す付加価値は低く、当然、そこで働く従業員の賃金は安くならざるを得ない。本来であれば、その労働力は別の生産に投入されるべきものであり、日本全体のGDPにもマイナスの影響を与えている』、ただ、「下請けと中抜き」がこれまで存続したのには、相応の理由があった筈で、それがどう変わるかを見る必要がありそうだ。

第三に、この続きを、7月23日付けNewsweek日本版「日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば、経済復活への道が開ける」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2020/07/post-94026_1.php
・『<日本企業が克服すべき課題、そしてその先にある日本経済の復活への道筋とは。本誌「コロナで変わる 日本的経営」特集より> 
・『5. 不十分な設備投資  一連の非効率な産業構造は生産性を引き下げ、最終的にはマクロ経済の成長鈍化という形で顕在化してくる。過去20年で日本の名目GDPは約6%しか増えていないが、GDPの2割を占める政府支出は約30%も増加するなど税金からの支出に依存する状況が続く。本来は企業の設備投資が経済を牽引し、消費を伸ばしていく必要があるが、企業の設備投資が成長に結び付いていない。 日本の輸出がGDPに占める割合はドイツと比べると圧倒的に低く、日本はもはや輸出立国ではない。だが産業構造は輸出主導型のままであり、国内需要を拡大させるための設備投資が十分に行われているとは言い難い。 国内向けの設備投資が不十分というのは企業の側にも自覚があるようで、あえて投資を絞っていると考えられる。その証拠に、実質金利の低下を通じて設備投資を増やす政策だった量的緩和策に対して企業は全く無反応であった。設備投資を有効活用するためには、産業構造の転換が不可欠であり、企業自身の体質転換が進まなければ、投資を増やすことはできない』、安部政権は企業減税をしたが、それは「設備投資」増加につながらず、内部留保の増加だけに終わったようだ。
・『6. サプライチェーンの縮小  産業の合理化が進み、企業の生産性が高まると、同じ付加価値を得るために必要な労働者数が減少する。余剰となった労働力を新しい製品やサービスの生産に振り向ければGDPの絶対値を増やすことができる。 今回のコロナ危機では、各企業のサプライチェーンが寸断され、一部では物資の調達が滞るという事態が発生した。企業は拡大したサプライチェーンの縮小を検討しており、一部製品の製造を国内に回帰させる可能性がある。国内で生産するには追加の労働力が必要となり、高いコストを負担するためには消費者の購買力を増やさなければならない(つまり賃金上昇)。産業合理化による労働力の捻出と賃金上昇を実現できなければ、国内回帰は机上の空論となってしまうだろう』、「サプライチェーン」の再編は、かなり時間をかけて行われる可能性がある。
・『7. 「異常な」住宅政策  コロナ後の社会はサプライチェーンが縮小し、全世界的に地産地消化が進むと考えられる。こうした時代において持続的な成長を実現するには、日本国内で製品やサービスを開発し、日本人自身の需要でこれらを消費するという内需型経済への転換が必須となる。 内需経済のカギを握るのは住宅の整備であり、内需経済が活発な国はほぼ例外なく住宅政策が充実している。日本はこれまで建設業界などからの強い要望もあり、新築物件の建設を最優先する政策を続けてきた。このため安価で粗悪な新築物件が大量供給され、造っては壊すという資源の浪費を繰り返す結果となった。日本は本格的な人口減少が始まっているにもかかわらず、流通する住宅の8割以上が新築物件という異常な市場環境である。 在宅勤務するビジネスパーソンが増えたことから、住環境の問題が改めて認識されているが、家の環境というのは政策でいくらでも変えることができる。内需で経済を回すためには、良質な中古住宅の流通を増やすと同時に、一生涯賃貸でも問題のないよう、都市部を中心に優良賃貸物件の整備を積極的に進める必要があるだろう』、「日本はこれまで建設業界などからの強い要望もあり、新築物件の建設を最優先する政策を続けてきた。このため安価で粗悪な新築物件が大量供給され、造っては壊すという資源の浪費を繰り返す結果となった」、「新築物件の建設を最優先」は必ずしも「建設業界などからの強い要望」に基づいたものではなく、「建設業界」にとっても儲かる筈だったからだ。「良質な中古住宅の流通を増やす」、「優良賃貸物件の整備を積極的に進める」、などは放っておいても、業界自らが取り組むだろう。
・『一連の課題が解決されれば、日本経済はどのような姿になるのか。組織の合理化やIT化が進めば、企業の生産性が向上するので、より少ない社員数で同じ付加価値を得られる。人員の再配置は必要だろうが、余剰となった社員が新しい製品やサービスの生産に従事することで付加価値の絶対額が増え、最終的には賃金の上昇につながる。これは実質GDPの増大を伴う賃金上昇なので、労働者の購買力を拡大させる結果となるだろう(つまり生活が豊かになる)。 企業における社員の評価も労働時間ではなく成果が基準となるので、社員が提供した職務に対して対価を支払うという、いわゆるジョブ型の組織形態へシフトする。採用された時期や採用形態によって、同じ職務でも賃金が異なるというアンフェアな状況は改善される可能性が高い。組織に忠誠を示す必要がなくなるので、強制転勤や単身赴任といった慣習も消滅するだろう。 生活にゆとりが生じ、家にいる時間も相対的に長くなるため、自分と向き合う時間や家族との時間が増える。結果として住設機器や家具、家庭用品、趣味、デジタルコンテンツといった消費が拡大し、これが新しい時代における成長の原動力となる。 もっともジョブ型の組織形態は、終身雇用、年功序列、新卒一括採用に代表される、いわゆる日本型雇用制度とは相いれない。ジョブ型の組織形態に移行するということは、日本型雇用との決別を意味していると考えるべきだろう。 一部の人は不安に思うかもしれないが、従来は一つの会社にしがみつくしか人生の選択肢がなく、こうした硬直的な制度の存在がプライベートな生活を犠牲にし、豊かな消費社会の形成を阻害してきた。一定のスキルさえ身に付ければ、自身のライフスタイルに合わせていくらでも勤務先を変えられるほうが、総合的な満足度は高いのではないだろうか。 今、日本が向かおうとしている新しい社会は、いわゆるグローバルスタンダードそのものである。日本では英語を話したり、外国で活躍することをグローバルスタンダードと見なす雰囲気があるが、それはグローバル社会のごく一面を切り取ったものにすぎない。長時間労働しなくても一定の賃金を稼ぐことができ、相応の豊かな生活を送れることこそが、本当の意味でのグローバルスタンダードであり、これは決して特別なことではないのだ』、「ジョブ型の組織形態に移行」、は時代の流れなのだろうが、日本の労働組合が弱すぎ、チェック役を果たせるのか、いささか心もとないのが心配だ。
タグ:対談 現代ビジネス 冨山 和彦 Newsweek日本版 加谷珪一 日本型経営・組織の問題点 (その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける) 小野 一起 「日本企業で出世する人たち、じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!」 日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」 「時代劇化」した日本企業 社長が「次の社長」を決めるというムラ社 社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね 日本のリーダーが「おかしな」理由 「現場迎合主義」に陥ってしまう 「一億総玉砕」しないために 日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです。「半導体玉砕」、「液晶玉砕」、「テレビ玉砕」 「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多い 心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから 「本当の学力」が評価されないニッポン 日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている 早慶卒、体育会系出身が「最強」という現実 インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなった 国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち 一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです 「徹夜で麻雀できる人」が出世する社会 アメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです 「コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは」 感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘 1. 需要変化への対応 2. デジタルシフト 3. ムラ社会的組織の終焉 4. 下請けと中抜き 「日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば、経済復活への道が開ける」 5. 不十分な設備投資 6. サプライチェーンの縮小 7. 「異常な」住宅政策 ジョブ型の組織形態に移行 日本の労働組合が弱すぎ、チェック役を果たせるのか、いささか心もとないのが心配だ
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日本の構造問題(その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか) [経済政治動向]

日本の構造問題については、3月20日に取上げた。今日は、(その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか)である。

先ずは、3月29日付け東洋経済オンラインが掲載した思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授 の内田 樹氏による「「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337483
・『日本社会が“サル化”している――。新著『サル化する世界』でそう鋭く指摘するのは思想家の内田樹氏だ。内田氏が言う「サル化」とは何か。コロナ危機に際して考えるべきこととは。編集部からの質問に回答してもらった。(Qは聞き手の質問、Aは内田氏の回答) Q:「サル化する世界」という挑発的なタイトル:に込めた思いを教えてください。 A:「サル」というのは「朝三暮四」(注)のサルのことです。サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないからです。 過去・現在・未来にわたる広々とした時間流の中に自分を位置づけることができない人間には確率、蓋然性、矛盾律、因果といった概念がありません』、「日本社会が“サル化”している」とはショッキングな小見出しだが、大いに興味をそそられた。「サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないから」、なるほど、ダイエットやウォーキングなどをするヒトはやはり高度な存在のようだ。
(注)朝三暮四:「列士」に収録。「目先の利益に目がいってしまい、結果的には利益が同じであることに気づかない」、または「言葉の上でうまく人をだますこと」などを意味(manapedia)
・『「文明史的危機」に際会している  「矛盾」も「守株待兎」も「刻舟求剣」も「鼓腹撃壌」も、いずれも時間意識が痩せ細った愚者についての物語ですが、おそらく、春秋戦国時代には「そういう人」が身の回りに実際にいたのでしょう。だから、荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件として人々に教えようとした。 それから2000年ほど経って、気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた。この「文明史的危機」に際会して、警鐘を乱打しようと思って、このような挑発的なタイトルを選びました。 Q:過去と未来をふくんだ視点で「今」を考察する力は、なぜ急激に失われてしまったのでしょうか。 A:最大の原因は基幹産業が農業から製造業、さらにはより高次の産業に遷移したことだと思います。農業の場合でしたら、人間は植物的な時間に準拠して暮らしていました。農夫は種子をまいている自分と、風水害や病虫害を防いで働いている自分と、収穫している自分が同一の自己であるという確信がないと日々の苦役には耐えられません。 でも、いま、最下層の賃労働者は今月の給与をもらっている自分より先の自分には、同一性を持つことができません。だって、1カ月後に自分がどうなっているかさえ予測がつかないから。 それは富裕層も同じです。株の取引はマイクロセコンド単位で行われている。それ以上タイムスパンを広げても意味がない。企業だってそうです。今から10年前にGoogleやAmazonが「こんなふう」になると予測した人はほとんどいなかった。10年後にどうなるかもわからない。長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい。 Q:近年、日本社会のどんな面に特にサル化の兆候は表れていると思いますか。 A:一番わかりやすいのは「うそをつくことについて罪の意識がなくなった」ということです。「Honesty pays in the long run」ということわざがありますけれど、「正直は長い目で見れば引き合う」というのは、「うそをつく方が短期的には引き合う」ということです。短期的な損得だけを考えれば、多くの場合、うそをつくほうが利益が大きい』、「荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件とし」た。「それから2000年ほど経って、気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた。この「文明史的危機」に際会して、警鐘を乱打しようと思って、このような挑発的なタイトルを選びました」、なるほど。「長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい」、その通りなのだろう。「うそをつくことについて罪の意識がなくなった」、首相が自らその先頭にいるようだ。
・『その場その場の自己利益を優先  政治家や官僚たちがすぐばれるうそをつき、前後矛盾することを平気で言い、その矛盾を指摘されても別に困惑する様子もないのは、彼らが「矛盾」の武器商人と同じレベルにまで退化しているからです。 その場その場において自己利益が最大化することを優先させて、おのれの言明をできるだけ長く維持することには特段の意味を感じない。「約束を守る、一言を重んじる」を英語では「keep one’s word」といいますが、keepする時間の幅がこれほど短縮されるとは、このことわざを考えた人も想像していなかったことでしょう。 Q:いま一連のコロナ騒動を見ていると、後手後手に場当たり的な対応をする政府から、不足物資を買い占めに走る人々の狂騒まで、まさに“サル化”する日本です。そこにはなにか日本特有の構造的要因もあるのでしょうか。 A:日本固有の現象ではないと思います。無能な政府であれば、どこでも対策は後手に回るでしょうし、トイレットペーパーの買い占めも世界のどこでも起きていますから。サル化しているのは日本人だけではないよと言われて安心されても困りますが。 Q:危機管理に真に必要な知性とは何でしょうか。 A:長いタイムスパンの中で、ものごとの理非や適否を判断する習慣のことだと思います。歴史的にものを見る習慣があれば、「危機だ」と騒がれる出来事の多くが「過去に何度も繰り返されていることの新版」であることがわかるはずです。それなら浮足立つ必要はない。どういう文脈で起きて、どう展開するか、だいたいわかるから。 そうやって「よくある危機」をスクリーニングしておかないと、本当の前代未聞の危機に遭遇したときに、適切に驚くことができません。 Q:失われた20年のあと、アベノミクスで株価こそ浮上したもの、一向に景況はよくなりません。日本人の労働生産性は、「1人当たり」「時間当たり」ともに先進7カ国中の最下位という状態が続いていますが、日本の組織を活性化するには何が必要だと思われますか。 A:管理部門に過大な資源を配分しないことです。今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています。労働者よりも監督のほうが多い現場とか、兵士よりも督戦隊(前線から逃げて来た兵士を射殺する後方部隊)が多い戦場のようなものです。それでは生産性が上がるはずがない。 「管理を最低限にする」「現場に自己裁量権を与える」「成果の短期的な査定をやめる」くらいで日本の組織は一気に活性化します。でも、管理部門の人たちはそう言われても「管理部門の肥大化を適正規模に抑制するための管理部門の増設」くらいしか思いつかないでしょうけど。 Q:”サル化した人間”にとって代わってAIが社会の中枢を担う日はくると思いますか?AI時代に人が学ぶ意味とは何でしょうか。 A:AI時代は「前代未聞」の事態ですから、「こうすれば何とかなる」という正解を知っている人はいません。「こうすれば救われる」と言い立てる人がいても、あまり信用しないほうがいいです。生き延び方は、各自で考えてください』、「今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています・・・それでは生産性が上がるはずがない」、面白い比喩だが、よくよく考えると、産業の高度化に伴い不可避的に「監視するセクター」が大きくなったと考えるべきではなかろうか。
・『イエスマンだけで固められた組織  Q:消費増税の影響もあり、新年度の「国民負担率」は44.6%と過去最高になる見通しです。国民は高い税負担を強いられながらも、人口減少、貧困問題をはじめ、医療・介護・年金といった分野が危機的状況にあるのはなぜだと思われますか。 A:平たく言えば、政策を起案し、実施する人たちが「あまり頭がよくない」からです。 この四半世紀ほど、日本のキャリアパスは「上位者に対する忠誠心」を「業務能力」よりも高く評価することで、円滑な組織マネジメントを実現してきました。お金が潤沢にあるときは、それでよかったのです。組織が「円滑に回る」ことをイノベーションやブレークスルーよりも優先させても、何とかなった。 でも、こういうイエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう。 医療、介護、年金さまざまな制度については「頭のいい人」が画期的な制度改革の提言をこれまでも繰り返ししてきていますけれど、日本の役所はまったく相手にしませんでした。上位者におもねらない人の意見は日本では採用されないんです。 Q:人口減少社会において、国民的資源を守り、日本人が共同体として生き残るためには何が必要でしょうか。 A:とにかく大人の頭数を増やすことですね。最低でも国民の15人に1人くらいが「他の人はどれほど利己的でも、自分1人くらいは公共に配慮しないと……」と思って暮らせば、ずいぶん世の中住みやすくなります。とりあえず道ばたに落ちてる空き缶を拾うとか、妊婦に席を譲ってあげるとかから始めたらいかがでしょうか』、「イエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう」、その通りだろう。 「画期的な制度改革の提言」を「日本の役所」が聞くようにするには、メディアにももっと頑張ってもらう必要がある。

次に、4月16日付け東洋経済オンラインが掲載した元外資系アナリストで 小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏による「コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/344358
・『オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。 退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、このままでは「①人口減少によって年金と医療は崩壊する」「②100万社単位の中小企業が破綻する」という危機意識から、新刊『日本企業の勝算』で、日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析している。 日本企業の「生産性が低い」問題の根源は「規模が小さい企業が多すぎる」産業構造にあることを明らかにしてきたこれまでの連載に続き、今回はコロナ問題で露呈した日本の産業構造の脆弱性を解説してもらった』、「アトキンソン氏」は忖度することなく、辛口の主張をするだけに、私も注目している。
・『小さい企業ほど「テレワーク導入」ができない  コロナウイルスの蔓延により、多くの日本企業が窮地に陥っています。特に中小企業の経営は厳しく、今後多くの中小企業が経営破綻することが危惧されています。 当然ですが、このような危機への対応力は一般に企業規模が大きいほど強く、小さいほど弱くなります。国全体で見ても同様に、企業の平均規模が大きいほど危機に強く、小さいほど危機に弱くなります。 また、このような有事の際には、「企業さえ潰れなければいい」というわけではありません。そこで働く従業員の命や健康を守ることも大切です。実はこの面で見ても、規模が小さい企業ほど従業員を危険に晒しやすい可能性があります。 東京商工会議所が2020年3月に実施した調査によると、テレワーク導入率は従業員数300人以上の企業が57.1%だったのに対して、50人以上300人未満の企業では28.2%、50人未満の企業では14.4%にとどまっていました。 50人未満の企業の経営者も、悪意をもって導入を先送りしているわけではないでしょう。規模が小さすぎて、時間的にも金銭的にも人員的にも余裕がなく、導入できないのだと推察できます。こういった企業が多い国ほど、当然、テレワークの導入率は構造的に低下しますので、「Stay at home」に悪影響を及ぼします。 さらに、小規模事業者が増えれば増えるほど、その国の生産性が低くなるので、財政が圧迫されます。すると、小規模事業者が多い分だけダメージが大きいのに、それに対応するための予算が限られてしまうのです。 このように見ていくと、「中小企業は国の宝だ」という日本の「常識」が本当に正しいのか、疑問に思えてきます。私は、今回のコロナ危機で日本の産業構造の弱さが露呈したと考えており、その原因は中小企業にあると見ています。 今回は、かつて「日本の宝」だった中小企業が、なぜ産業構造の弱さの原因といえるのかを解説していきます』、「中小企業は国の宝だ」というのは、政治家の単なるリップサービスだが、「産業構造の弱さの原因」とはどういうことだろう。
・『中小企業の価値は「人をムダに使う」ことにある  日本では、中小企業がやたらと大事にされています。「中小企業は国の宝だ」「日本の技術を守っているのは中小企業だ」という声を聞くことも少なくありません。 確かに、そういう一面もないことはないでしょう。一般的に、中小企業は大企業より顧客との距離感が近く、また、意思決定が早く、身動きがとりやすいのは確かです。 一方、中小企業は規模が小さくなるほど、人力に頼る傾向が強くなります。従業員が少なく、分業ができないので、専門性が高まらず、機械化もなかなか進みません。その結果、効率化が進まないので、その分、余計に労働力が必要になるのです。だからこそ、生産性が低いのです。 人口が増加し、労働力があふれている時代には、中小企業の存在は貴重です。なぜならば、中小企業は人間により多く依存する「労働集約型」で、ある意味、人をムダにたくさん使ってくれるからです。 中小企業自体の労働生産性が低くても、これらの企業が雇用を増やし、就業率が高まれば、国の全体の生産性も高まります。その意味では、中小企業の存在も生産性の向上に貢献していたと言えるのです。 生産性とは、GDPを総人口で割ったものです(生産性=GDP/総人口)。また、労働生産性とはGDPを就労人数で割ったものです(労働生産性=GDP/就労人数)。ここから、生産性は労働生産性に労働参加率をかけた値であることがわかります。 生産性=GDP/総人口=(GDP/就労人数)×(就労人数/総人口)​=労働生産性×労働参加率  この式からは、生産性を高めるためには「労働生産性」を高めるか、「労働参加率」を高めればいいことがわかります。 例えばある国の労働生産性が1000万円で、労働参加率が50%であれば、国全体の生産性は500万円です。この国で中小企業がたくさん生まれ、それらの企業が雇用を増やした結果、労働参加率が60%まで高まったとしましょう。すると、労働生産性がまったく伸びなかったとしても、生産性は500万円から600万円に上がるのです。) 人口が増加していた時代においては、中小企業は「労働参加率」を高める役割を果たしていました。その意味で、「国の宝」と言えないこともありませんでした。 しかし、日本はすでに人口減少の時代に突入し、この傾向は今後数十年にわたって続きます。人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります。 なぜならば、企。業というものは規模が小さければ小さいほど、労働生産性が低いからです。日本企業の99.7%は中小企業ですから、日本の生産性が低いという事実は、日本の中小企業の労働生産性が低いことをそのまま反映しているのです』、「日本はすでに人口減少の時代に突入・・・人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります」、その通りだ。
・『日本の中小企業の真の姿  中小企業庁によると、2016年時点で日本には357万社の中小企業があります。さきほども述べたとおり、全企業の99.7%を中小企業が占めています。 このように数多ある中小企業を一括りにして「中小企業は日本の宝だ」と考えるのは、そもそも乱暴すぎます。 もちろん357万社もあれば、玉石混淆なのは当たり前です。中には「玉=宝」もあるでしょうが、そうではない「石」もたくさん混じっているはずです。 確かに、日本の中小企業の中にも、宝といっていい企業も含まれているかもしれません。しかし、平均値で見ると日本の中小企業はあまりにも生産性が低く、払っている給料も極端に低いのです。仮に宝が含まれているとしても、全体としては、中小企業はとても宝だと評価するには当たらないのです。 「いやいや、私の知っている町工場は凄い技術を持っているんだよ。まさに宝だよ」 こういう、自分の知っている特殊事例を取り上げ、一般化して、それがあたかも日本の中小企業全体に当てはまるような物言いをする声も耳にしますが、まずは日本の中小企業全体の実態、エビデンスを直視すべきです。 先ほども紹介したように、日本には357万社の中小企業があります。 日本の中小企業のうち、中堅企業は53万社で、小規模事業者は305万社でした。平均従業員数は中堅企業が41.1人だったのに対し、小規模事業者はたったの3.4人です。驚くべきことに、1000万人もの労働者がこの豆粒のような小規模事業者で働いているのです。 実は、50%強の日本企業の売上は、1億円にも達していません。こういった企業は当然、経営に余裕がありませんから、有事のときにはすぐ経営が困難になります。 中小企業を「日本の宝」と言う人が想像しているのは、今紹介したような企業群とは異なる会社ではないかと推察します。おそらくは中堅企業を想定しているのではないでしょうか』、「小規模事業者はたったの3.4人・・・1000万人もの労働者が・・・働いている」、「3.4人」には経営者も含むが、このクラスでは労働者でもある。
・『小さい企業が多いとさまざまな弊害が起こる  従業員が3.4人しかいない小規模事業者では、到底輸出などできません。ドイツの学者の調査によると、継続的に海外に輸出をするには、従業員数158人の規模が必要であるとされています。 従業員数が3.4人の会社には、最先端技術も、キャッシュレス化も、ビッグデータも、イノベーションも、ほとんど無縁です。小さい企業ほど緊急時のテレワーク導入率が低いのは、この記事の冒頭で見たとおりです。日本だけではなく、世界的に見ても、企業の規模が小さくなるほど、最先端技術の普及率が低下することが報告されています。 また、企業の平均従業員数が少なくなるほど、有給休暇取得率が低下します。企業の規模が小さいほど、1人ひとりの社員にかかる負荷が重く、休みを取る余裕がなくなるからです。 同じ理由で、中小企業の占める割合が大きく、企業の平均規模が小さい国ほど、女性の活躍も進んでいません。これは世界中で確認できる傾向です。 人口減少と高齢化によって増加する現役世代の負担を緩和するためには、女性活躍の推進が極めて大切です。しかし、日本では女性活躍を進めたくても、小さい企業ばかりの産業構造になってしまっているため、なかなか進めることができないのです。 企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下します。企業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下します。結果として、支払える給料も減ってしまうのです。 小規模事業者が多い国ほど財政が悪化して、少子化が進んでしまうこともわかっています(この点については、この連載のなかで改めてご説明します)。 このように、「中小企業は国の宝」というには、中小企業が多いことの弊害が多すぎます。失業者が増えないように統合・合併を促進し、企業規模を拡大させる政策に舵を切ることが求められます』、「企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下します」、「企業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下します」、その通りだ。現在は、後継者難で事業承継のM&Aも増えているようだが、こうした形で「企業規模を拡大」が進んで欲しいものだ。

第三に、4月22日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したエッセンシャル・マネジメント・スクール代表の西條剛央氏による「コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理、旧日本軍の失敗を繰り返すか」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/235369
・『コロナ危機で見えた「プラン」変更の課題  危機に際しては、機能しない方法に固執することは即致命傷になり得ます。 感染防止対策の専門家である岩田健太郎氏は、4月初旬の段階で、感染経路がわからない人がこれだけ増えて市中感染が増えていると考えられる状況を踏まえれば、クラスター対策では追いつかず、検査数を増やして、優先順位をつけながらも疑いのある人は検査できるようにしたほうが良いと述べています(ただし、これは誰でも彼でも不安のある人をすべて検査すべきということではありません)。 その後、少しずつ検査数は増えているようですが、いまだに検査体制は整わず十分な検査は行われていません。岩田氏が指摘するように、日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手であり、次の戦略的フェーズへの移行は進んでいないのです。 これは組織行動の観点で見ると、日本の組織が「前例踏襲主義」に陥りがちなこととも関係していると考えられます。 もともと、真面目な国民性ゆえに方法が自己目的化(その方法を実行すること自体が目的にすり替わってしまうこと)しやすいこと、各省庁や暗黙裏に無謬主義(間違いをなかったことにするマネジメント)に立脚していること、そして責任回避バイアスが強いことなどがその傾向を強めていると思われます』、「日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手」、その背景に「前例踏襲主義」や「無謬主義」、「責任回避バイアスが強いこと」、などがあるとの指摘は、一考に値しよう。
・『埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍  方針変更ができない今の日本は、かつての日本軍が陥った“失敗の本質”そのものであり、第二次世界大戦末期の戦局の悪化に伴って戦略プランを変更できずに、被害を拡大させた姿とも重なっています。 たとえば、日本軍は水際で敵を撃滅する「水際作戦」を採用していました。もちろん上陸させないに越したことはありませんし、また戦力的に勝っているならば可能でした。 しかし、太平洋戦争では、圧倒的な戦力を擁するアメリカ軍と戦うなかで、水際に配置した兵力は圧倒的な火力による爆撃、艦砲射撃によって作戦初期段階で失われていきました。しかし、大本営は「断固として上陸を阻止せよ」と水際作戦を継続させ、さらに被害を拡大させ、貴重な兵力をいたずらに損耗させていきました。 なぜそうした不条理が起きたのでしょうか。埋没コスト(プランの変更、中止をしたときに取り返せないとされる費用)の観点からいえば、ここで方針を切り替えたら、今までの戦略が間違っていたと非を認めることになり、その作戦により死んでいった兵を無駄死にさせたことになってしまう、つまり埋没コストにしてしまうと考えたためと、考えられます。そのための責任を取ることは避けたいという、という「責任回避バイアス」も働いていた可能性があります。 それに対して異論を持つ人もいましたが、上司を説得するための「取引コスト」は膨大になり、しかも聞き入れてもらえる可能性はほぼゼロです。相手の機嫌を損ねればこれまで軍で積み上げてきた信頼も実績も失われる(埋没コスト化する)状況で、進言できる人はほとんどいませんでした。まれにいたとしても、そうした人は部下ごと激戦の最前線に送られることで、まっとうに進言できる人から組織にいなくなるという“逆淘汰”が起こり、膨大な数の命が無駄に失われていくという不条理が継続されてしまったのです。 しかし、例外もあります。太平洋戦争の戦況が悪化するばかりの1944年、本土防衛の最後ともいうべき硫黄島の戦いが始まります。小笠原方面最高指揮官、栗林忠道陸軍中将は、大本営の指令に従わず、水際作戦を内地持久戦による徹底抗戦に変更し、アメリカ軍を迎え撃つべくトンネルを掘り巡らせ、ゲリラ戦を展開しました。これによって絶望的な兵力差から5日間で終わるとみられていた硫黄島の戦いは、圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげたのです。 この連載の第2回で紹介した「方法の原理」――方法の有効性は目的と状況によって変わる――に沿っていえば、栗林中将は、圧倒的な戦力差があるという「状況」を踏まえたときに、本土防衛という「目的」を達成するために、前例や大本営の指令に従うのではなく、状況と目的にかなった新たな方法を考案、実施したのです』、「埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍」、例外的な「栗林忠道陸軍中将」が「硫黄島の戦いは、圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげた」、確かに「埋没コスト」に着目した筆者の見方は面白い。
・『「前例主義」が84人死亡の惨事につながった  9年前の東日本大震災でも、前例主義によりもたらされた悲劇は各所でみられました。 児童や教員の計84人が津波で亡くなった宮城県石巻市立大川小学校では、3月11日、校長が不在のなか、教頭が意思決定をする立場にありました。 震災の2日前、宮城県では震度5弱の地震があり、津波注意報が出ました。そのときには、校庭への一時避難はしたものの高台への二次避難はしませんでした(生存児童へのインタビューでは、そのまま「休み時間」のようになったと表現していました)。 つまり、津波注意報が出たときの校長の判断は校庭待機だったのです。そして、これが津波警報発令時の「前例」となりました。 さらに大川小には、津波警報が発令されたときにどうするか指針となるマニュアルも存在していませんでした。あったのは通常の地震のマニュアルをコピペしたもので、津波のときの二次避難先は「近所の空き地や公園」となっており、高台に避難するという方針は共有されていなかったのです。 教頭のほか、教務主任、安全担任といったトップ3の先生は「山に逃げたほうが良いのでは」と言っていたという証言があり、山はダメだといった教員は1人だけでした。スクールバスの運転手は、バスで逃げたほうが良いと主張していました。児童も保護者も山に逃げようと訴えていました。 しかし、2日前の校長が示した前例は校庭待機でした。また、避難方針はありませんでした。そうしたなかでさまざまな主張の板挟みとなり、1分で逃げられる裏山を目の前にしながら校庭待機を続け、50分の時間があったにもかかわらず、津波が目前に迫るまで動き出すことができず、結果84人が亡くなる惨事となってしまったのです。 前例に沿っていれば失敗しても「前例に沿っただけです」といえますが、前例にないことをやるときや、プラン(方針)変更をする際には責任が生じます。教頭にとってみれば、校長不在のなか、校庭待機の前例を覆し、裏山へ登らせて誰かが転んでけがをしたら自分の責任になってしまう。そういった「責任回避バイアス」が意思決定の停滞を招いた1つの要因にあったと考えられています。 即座の決断が求められる危機のマネジメントにおいては、前例に囚われることで、文字通り致命的な結果を招くことにもなるのです』、「2日前の校長が示した前例は校庭待機」に囚われたとは、「教頭」らの致命的な判断ミスは本来、刑事事件化して責任を問うべきだった。
・『新型コロナウイルスに日本の「前例主義」は通用しない  新型コロナウイルスの感染防止対策は、清潔好きで衛生環境が良く、高い協調性を備えた日本人には有利と考えられています。実際、法的な強制力がないにもかかわらず、ここまでなんとか感染爆発を抑えられているのは、この日本人の特性が大きいといえるでしょう。 ところが、日本の組織は、先に述べたように、官僚組織を筆頭に、前例主義、無謬主義、そして責任回避バイアスが強いことから、状況の変化に合わせて機能する方法に迅速に切り替えることが苦手なのです。 たとえば、西村康稔経済再生相は、4月13日の参院決算委員会で、「諸外国の例を見ても、事業者に対する休業補償はやっている例が見当たらない」と述べました。また、「諸外国でも見当たらず、我々としてやる考えは採っていない」とも発言。このことから、前例主義を根拠として休業補償をしないという議論を展開していたことがわかります(本当は海外にいくらでも前例もあったのですが)。 ここでの論点は、「前例がない」と言われると「それなら仕方がないか」と納得してしまう、日本人の前例主義バイアスが問題だということです。だからこそ、政府は前例がないということを説得のための論拠として言い出すのです。 しかし実際は、各国とも前例のない未曽有の事態に対して、前例のない施策を繰り出しているのですから、前例がないことは、日本が抜本的な施策をやらない根拠にはなり得ません。 新型コロナウイルスからすれば、こうした日本の「前例」にとらわれることで、迅速に思いきった施策を打ち出せない姿勢は、新型コロナウイルスに対する日本の「大きな弱点」となっています。日本の組織が得意とする手続主義、前例主義、忖度主義、形式主義が最も通用しない相手が、新型コロナウイルスという事象なのです』、「西村康稔経済再生相」の発言は、「前例主義」そのものではなく、初めから「休業補償をしない」という結論があって、「前例主義」を根拠付けに使ったと考えるべきだろう。
・『プラン変更への抵抗を小さくするには  ではスムーズなプラン変更のためにはどうすれば良いのでしょうか? まず先に述べたように、絶対に正しい方法はなく、状況と目的に応じて有効な方法は変わるという「方法の原理」を共有することです。そのうえで、最初からプランAが機能しなかった、あるいは状況が変わって機能しなくなった場合のプランB、プランC、プランDもあらかじめ準備しておき、それらをセットで作戦を立案しておくのです。 そして、状況aで機能していたプランAが、状況がbになったときに機能しなくなったならば、その状況で機能するプランBに移行すればよいのです。方法の原理によれば、状況と目的に応じて方法の有効性は変わるのですから、プランAや前任者を否定する必要がなく、プランAにつぎ込んだコスト(労力、費用、時間)が埋没コスト化することがありません。「状況が変わったためプランBに移行しましょう」というだけのことです。 そうすることで、プランAがうまくいかなくなったときの各所との「調整コスト」が最小化され、状況の変化を見定めながら迅速にさらに有効な方法にシフトしやすくなります。 このようにプランAのみでなく、様々な状況や進展に応じた、プランB、プランC、プランDと、ワーストシナリオを含めた事態を想定しあらかじめ用意しておけば、状況が変わったときには、「方法を変える」だけでよいのです。前任者や前のプランの否定という形になりにくく、またプランAにかけてきたコストを無駄にしてしまうという「埋没コスト」にとらわれたプラン変更への抵抗も生じにくくなります。 ただし、現象は常に想定を超えてくる可能性があるため、BもCもDも機能しないときは、あくまでも方法の有効性は状況によって変わるという方法の原理を軸として、その状況を打開する新たな方法を生み出して、対応していく必要があります。 危機のマネジメントでは、限られた時間の中でいかに適切な意思決定を重ねていけるかが鍵になります。方法の原理に沿った、しなやかで速やかな方法の選択、創出、実施こそが、危機のマネジメントに求められるのです』、説得力溢れた主張で、全面的に同意する。
タグ:東洋経済オンライン 朝三暮四 ダイヤモンド・オンライン 内田 樹 西條剛央 宮城県石巻市立大川小学校 デービッド・アトキンソン 日本の構造問題 (その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか) 「「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか」 日本社会が“サル化”している 『サル化する世界』 サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないから 「文明史的危機」に際会している 荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件とし」た 気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた 長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい うそをつくことについて罪の意識がなくなった その場その場の自己利益を優先 今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています それでは生産性が上がるはずがない イエスマンだけで固められた組織 イエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう 「コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ」 小さい企業ほど「テレワーク導入」ができない 「中小企業は国の宝だ」 中小企業の価値は「人をムダに使う」ことにある 生産性を高めるためには「労働生産性」を高めるか、「労働参加率」を高めればいい 日本はすでに人口減少の時代に突入し 人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります 日本の中小企業の真の姿 小規模事業者はたったの3.4人 小さい企業が多いとさまざまな弊害が起こる 企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下 業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下 「企業規模を拡大」 「コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理、旧日本軍の失敗を繰り返すか」 コロナ危機で見えた「プラン」変更の課題 クラスター対策では追いつかず、検査数を増やして、優先順位をつけながらも疑いのある人は検査できるようにしたほうが良い 日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手であり、次の戦略的フェーズへの移行は進んでいない 「前例踏襲主義」 「無謬主義」 「責任回避バイアスが強いこと」 埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍 栗林忠道陸軍中将 大本営の指令に従わず、水際作戦を内地持久戦による徹底抗戦に変更 圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげた 「前例主義」が84人死亡の惨事につながった 津波注意報が出たときの校長の判断は校庭待機だったのです。そして、これが津波警報発令時の「前例」となりました 1分で逃げられる裏山を目の前にしながら校庭待機を続け、50分の時間があったにもかかわらず、津波が目前に迫るまで動き出すことができず、結果84人が亡くなる惨事となってしまった 新型コロナウイルスに日本の「前例主義」は通用しない 西村康稔経済再生相 「諸外国の例を見ても、事業者に対する休業補償はやっている例が見当たらない」 前例主義を根拠として休業補償をしない プラン変更への抵抗を小さくするには
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グローバル化(その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」) [経済政治動向]

今日は、グローバル化(その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」)を取上げよう。

先ずは、4月14日付け東洋経済オンライン「コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/344088
・『昨年末に中国でその存在が問題となってから、新型コロナウイルスは3カ月程度で世界中に拡散してしまった。感染拡大の背景にはグローバリゼーションがある。イタリアに続き域内各国が感染爆発に見舞われたEU(欧州連合)は、まさにグローバリゼーションの実験場だった。モノ・サービス、資本ばかりでなく、シェンゲン協定によって国境での出入国審査なしに人が移動できる。これが感染拡大の一因ともなっただろう。 言論人や有識者の多くがコロナ危機に対抗するうえで、国際協力の重要性を説いている。人がグローバルに活動する現代社会では、ウイルスを国境で阻むことはできないため、ウイルスとの闘いには世界が連帯して協力すべきだという主張だ。 『サピエンス全史』などの著書で知られるユヴァル・ノア・ハラリ氏は『TIME』誌への緊急寄稿で「もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」と書いた(河出書房新社の「Web河出」で全文を読むことができる)』、「ハラリ氏」の「寄稿」は重要な指摘のようだ。
・『グローバリゼーションの反動が起きる  だが、現実に起きていることは国際協力ではなく国家間の対立だ。4月9日には新型コロナウイルスへの対応をめぐって国連安全保障理事会が開催されたものの、「中国発のウイルス」であると主張するアメリカに中国が反発し、何らの合意文書も出されなかった。 こうした状況だからこそ、国際協力の必要性が危機感をもって叫ばれているのだろう。世界中で国境の封鎖が広がり、感染爆発に見舞われた地域では都市間の往来を制限するロックダウンが展開され、外交活動も著しく縮小した。 ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張してきた。 現実に即して世界の人々はこちらの方向に動き始めているようにみえる。グローバリゼーションはもっぱら経済活動で進んだものであり、政治的・法的には国家との社会契約の下で生活しているからだ。 ロドリック教授は、今回のコロナ危機について、ハーバード大学の自身のホームページで、「エピデミック(感染症の流行)対策として、WHO(世界保健機関)がSARSに対応して修正した国際保健規制は、アメリカを含む196カ国が法的拘束力を受けるはずのものであるのに、無視されている。国際的な協力関係の構築に失敗した」と指摘している。 実際にWHOのテドロス事務局長の発言は、各国の統計や医学的研究の成果を後追いして迷走を続けており、これは世界の人々の目に明らかとなってしまった。) 振り返ると、リーマンショック後も「反グローバリゼーション」の雰囲気が広がった。 グローバルな経済活動のツケとして、世界がバブル崩壊による金融危機に見舞われたが、その後始末である不良債権処理は、それぞれの国家の財政負担、つまりは各国民の税負担によって行われたからだ。それがグローバリゼーションへの批判につながり、同時に、グローバリゼーションで利益を得た資本家や高額報酬を得た金融機関の経営トップも糾弾された。 グローバリゼーションの実験場である、EUと通貨ユーロは再び解体の危機を迎えそうだ。EUの出発点は不戦の誓いであり、原点は政治同盟ともされていた。しかし実際には経済の効率性ばかりが求められ、その矛盾点はリーマンショック後に、財政が大きく悪化した南欧の国々の債務危機という形で噴出した。 とくに統合通貨ユーロは大きな欠陥を持っていた。ドイツの強い競争力に比して、ユーロはつねに割安で、輸出に有利に働く。だが、その利益を調整する財政統合は実現できていない。 今回も同じことの繰り返しだ。4月9日のユーロ圏財務相会合は、ESM(欧州安定メカニズム)の信用枠活用や、第2次世界大戦後のマーシャルプランのような復興のための資金援助枠の準備作業を行うことで合意した。だが、復興基金の財源をめぐる加盟国間の溝は埋まらず、共通で発行する通称「コロナ債」には、これまでどおりドイツやオランダなどが反対した。 第一生命経済研究所の田中理・主席エコノミストは「結局、丸2日議論しても新たな重要な決定はできず、『一部の国が共同債の発行を主張している』といった曖昧な表現に終わった」と話す。EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ』、「ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張」、「政治的トリレンマ」とは言い得て妙だ。「EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ」、今からこれでは思いやられる。
・『金融・財政拡張は万能ではないとわかる  一方、今回の危機とリーマンショックには大きな違いがある。リーマンショックは金融危機に伴う景気後退だったので、日米欧の金融緩和と中国の4兆元に代表される各国の財政出動が効果を発揮した。需要喚起策が落ち込んだ景気を回復させ、雇用を大きく改善させた。このことは、再び企業がグローバル化を進める原動力になったし、人々の格差拡大への不満も多少は和らげてきた。 ところが、今回はまったく別種の危機で、経済活動を人為的に止めているため、金融・財政政策は効果が限定的だ。本来であれば、コロナ終息後にこうした政策の効果が望まれる。だが、リーマンショック後の10年間、日米欧がそろって金融緩和をだらだらと長期にわたって続けてきた結果、手段や効果が尽きてきていること、日本など一部の国は財政にも余裕がないことに、人々は不安を持っている。 BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」と指摘する。 実際、日本でも世界各国でも現在、グローバルな政策協調に人々はほとんど期待していない。注目されているのは自国の政府が発信するウイルス封じ込めのための対策と経済活動の停止による失業、倒産、所得の減少に対する経済政策だ。しかし、発展途上の独裁国家は別にして、かつてのような権威主義的なナショナリズム(国家主義)に回帰するわけではないだろう。 民主主義陣営においてはネット上で日々、政府の政策に対する意見が交換されている。例えば日本では、安倍首相の「全国民にマスク2枚を配布」する政策に批判が高まり、雇用調整助成金や現金給付の手続きの煩雑さが問題視されている。アメリカのトランプ大統領も2兆ドルをぶち上げた経済対策がさまざまな批判にさらされている。共産党一党独裁の中国といえども、政府批判を封じ込めておくことはできないようだ。 また国によって医療制度の違いや、感染症の専門家の見解の違いもあって、新型コロナウイルスとの闘い方は大きく異なる。その是非をめぐっては、専門家も一般の人も膨大なコメントをネット上に送り出している。その批判には政権の担い手も敏感だ。 金融危機や自然災害と違って、すべての人が身近に切実に感じている危機であり、インフォデミック(情報の感染拡大)ともいえる状況が出現している。根拠のないデマや誹謗中傷が広がっていることにも注意が必要だが、よい面を見ればインターネット民主主義が出現しており、悪い面を見れば、政治のポピュリズムがますます強まっていくのではないか』、「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」、との河野氏の指摘はその通りだろう。
・『自治体が注目されローカルシフトも始まる  さらに、今回のコロナ禍では、私たちがもっと自らの生活に近い知事たちの決断や行動に一喜一憂する毎日になったことが顕著な変化だ。小池百合子・東京都知事や吉村洋文・大阪府知事が政府と渡り合う姿にネット上では支持が集まっている。 これは世界的に起きており、アメリカでも大統領選の最中ながら、存在感を放つのはトランプ大統領でも対抗馬の民主党大統領候補のバイデン氏でもなく、奮闘するアンドリュー・クオモ・ニューヨーク州知事の姿だ。 今、日本で問題となっているのは、市区町村が生活者にとって行政の直接の窓口であるにもかかわらず、必要な決定権限や財源が地方自治体には付与されていないことだ。 最も重要な問題である緊急事態宣言後の7都府県の措置は決定に時間がかかり、人々の不安が募った。休業要請の方針がまとまらなかったからだが、休業を要請する事業者への補償をめぐって国との調整が難航したためだ。今後、自治体への権限委譲が再び大きなテーマとなってくるだろう。 コロナ危機はどうやら短期間では終息しそうにない。感染症専門家会議の医師の見解を聞いていると、経済活動の停止期間は限定的で済む(あるいは経済的な理由から、そうせざるをえない)かもしれないが、感染の第2波、再流行などのおそれもあり、従来とまったく同じ活動に戻れるとは思えない。 ポストコロナの中長期を見通してみる。人々は世界のモノやサービスを享受することに慣れているため、貿易量はある程度回復すると考えられるが、企業が安い労賃を求めて海外に拠点を置くオフショアの動きは縮小し、海外拠点を減らす方向になることは間違いない。 国際分業による効率性を享受できなくなって、コストがかさむことが懸念されるものの、一方で、テレワークの重要性や効率性が認識されることで、5G投資などが促進されるだろう。自治体行政や企業のITインフラの整備が飛躍的に進めば、ある程度の生産性向上を実現できるのではないか。 そうなれば、企業の拠点や外注先が海外から国内に戻ってくるリショアリングの動きが広がる。野村総合研究所の森健上席研究員は、さらに「国内の地方部に拠点を設ける“ニアショア”あるいはサテライトオフィスを検討する企業が増えるのではないか。IT企業ではすでに徳島県などでそれが進んでいる」と指摘する。 そうなれば、今度は企業側やそこで働く従業員などから、自治体への権限委譲を後押しする動きも強まるかもしれない。住民自治の意識が高まるとまでいったら、期待しすぎだろうか』、「今後、自治体への権限委譲が再び大きなテーマとなってくるだろう」、その通りだが、一方で、東京都のように知事の人気とりに利用される面もあることは留意すべきだ。
・『内需重視で労働分配率の向上を実現できるか  リーマンショック後には、先進国の潜在成長率が低下する中で所得格差の拡大が問題とされるようになった。その中でやり玉に挙がったのは、IT革命とグローバリゼーションである。人が機械に代替されることによる労働分配率の低下や、GAFAに代表される企業やその経営者が勝者総取りとなるような所得の歪みが、グローバリゼーションとともに、世界的に拡大し増幅されたという見方だ。 グローバリゼーションへの批判は、移民や難民を排撃する運動につながり、トランプ大統領の誕生やイギリスのEU離脱、EU域内での極右政党の台頭などの現象を生んだ。一方、リベラルな人々は大企業が安い労賃を求めて新興国に工場を作り、現地の人々を搾取していることや、地球規模での環境破壊が進んだことを批判している。 日本は欧米に比べれば、所得格差が大きくないほうだが、非正規雇用の拡大が問題視されてきた。しかし、テレワークなどで時間に縛られない働き方が広がれば、同一労働同一賃金の実現はしやすくなっていくだろう。 欧米と比べた日本の問題は、1990年代末のバブル崩壊以来、春闘における賃上げ交渉が機能しなくなってしまい、労働分配率が下がったことだ。日本では人口が減っていくので経済成長しない、という思い込みが流布している。そのため企業は内需に期待せず、賃上げにも及び腰で、成長期待の持てる海外に投資を続けてきた。しかし、日本の生産年齢人口(15歳~64歳)の減少率は年率2%以下であり、就業率の向上と生産性上昇によってカバーすることは可能だ。 日本総合研究所の山田久副理事長は「グローバル化の減速で外需に依存する度合いが低下するなら、内需拡大に注力する必要がある。付加価値生産性の向上、平均販売価格の上昇、賃金の引き上げの好循環を形成することによって、質的成長は可能になる」としている。今は感染拡大をくい止めることが優先する厳しい局面だが、中長期の潮流も展望しておくべきだろう』、「山田久副理事長」の主張はバランスがあり説得力に富むようだ。

次に、4月21日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した法政大学大学院教授の真壁昭夫氏による「コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/235155
・『新型コロナウイルスの感染拡大が世界的な混乱を招いている  新型コロナウイルスの感染拡大によって世界的に大混乱が発生している。その混乱が、これまで国際社会が抱えてきた多くの問題や無理の一部を顕在化している。コロナショックがトリガー(引き金)となり、グローバル化の「負の側面」を浮き彫りにしていることだ。 その一つに、通商を中心とする米中の覇権争いがある。本年1月に両国は第1段階の通商合意に至ったが、感染をめぐり互いの批判が激化している。トランプ大統領が中国の影響力が強まっているWHOへの資金拠出停止を表明したのは、その象徴的な出来事といえる。 今後、米中の対立はより激化する恐れがある。それによって、これまでの国際社会のグローバル化に対する反動はさらに勢いがつくことになるだろう。 世界の経済・金融市場は大きく混乱せざるを得ないとみられる。 また、コロナショックが引き金となって、欧米や新興国では医療体制の不備や、低所得層が医療サービスにアクセスできないことが浮き彫りとなった。それは人々の不安心理をかき立て社会心理は悪化している。グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべきだ。 今後、世界経済が未曽有の景気後退に陥る可能性は軽視できない。4月中旬の時点で米国を中心に株価は反発しているが、そうした動きを本当の意味で信用できない。世界経済が大きな変化の局面を迎えていることは冷静に考える必要がある』、「グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべき」、その通りだろう。
・『世界経済の成長を支えたグローバル化とその反動  第2次世界大戦後の世界経済の安定を支えた大きな要因の一つがグローバル化だ。米国は政治、安全保障の覇権を強め、冷戦後の世界経済の基盤を整備した。それが、旧社会主義国や新興国の経済成長を支えた。米国独り勝ちの期間がかなり長く続いたといえる。過去数年間の世界経済を振り返っても、戦後最長の景気回復を達成した米国経済に支えられた側面は大きい。 米国を基軸とするグローバル化の進行によって、先進国の中間層は、遠心分離機にかけられたかのように、一握りの富裕層と、その他多数の低所得層に振り分けられた。これが、経済格差の拡大、環境問題、米国の医療問題など、さまざまな問題を深刻化させた。しかし、リーマンショックまでは、そうしたグローバル化の負の側面への関心が高まることはあっても、それが世界全体を揺さぶるまでには至らなかった。 リーマンショック後、徐々に、米国主導によるグローバル化への反発が表面化し始めた。言い換えれば、米国の覇権は弱まり始め、中国の存在感が高まり始めた。さらに、2016年11月の米大統領選挙では、独断専行型の考えを持つトランプ大統領が誕生した。それは米国でさえ、グローバル化の無理に耐えられなくなりつつあることを示す象徴的な出来事だった。 2018年3月以降、トランプ大統領は対中貿易赤字の削減やIT分野での覇権を目指し、中国に制裁関税をかけ始めた。世界の工場としての地位を高めてきた中国からベトナムやインドなどに生産拠点が移管され、世界各国が整備してきた供給網が寸断された。それは、グローバル化の反動というべき動きの一つだったといえる。 一方、中国は米国を批判すると同時に、東南アジアを中心とする新興国、さらには中国の需要に依存してきた欧州各国との連携を目指した。2019年3月にはイタリアがG7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した。 これは、主要先進国の利害の多極化を示す出来事の一つだ。視点を変えれば、中国は米国が主導してきたグローバル化とは異なる価値観を各国に提示したり、トランプ大統領の言動を批判したりすることで発言力を高めようとしている』、「G7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した」「イタリア」が、欧州で最も深刻な「コロナショック」に見舞われているのは、今後、同国「一帯一路」への姿勢に影響を与えるかは注目点の1つだ。
・『グローバル化反動のきっかけとなったコロナショック  1月、中国の湖北省武漢市で新型コロナウイルスが発生し、感染は日米欧をはじめとする世界全体に拡大している。米国では外出制限の緩和が模索され始めた。金融市場参加者の多くが日々の各国の感染者の増減や為政者の見解に注目している。そうした見方は、コロナウイルスの感染の影響に焦点を当てたものだ。 同時に、コロナショックによって、これまで以上の勢いでグローバル化の無理、課題、リスクなどが表面化している。各国の資本主義のあり方が大きく変容しつつある。その意味で、日々の感染動向や対策に関する議論だけでなく、コロナショックがグローバル化の反動を勢いづかせ、現在、世界経済は大きな変化の局面を迎えているといえる。 その一つの要素に、世界全体での人の移動(動線)の遮断がある。 中国は武漢を封鎖するなどして、ひとまずは感染を抑えることができた。足元、中国の感染には一服感が出ており、経済の活動水準は急速に回復している。中国でのiPhone出荷台数は2月の50万台から3月には250万台に回復した。今後、中国は補助金支給などによって雇用を守るとともに、何とか国民の不満を押しとどめる政策をとることになるだろう。 一方、日米欧はウイルスの影響が一段と深刻化するとみられる。欧米では、都市封鎖などにより経済活動が止まってしまった。一時的に経済活動を犠牲にしてウイルスの拡散を止めなければならない。世界のモノ・サービスの取引が大幅に停滞する中、今のところ、中国の供給力を賄うだけの需要は見当たらない。原油についても、OPECプラスの減産合意に関して不十分との見方が出始めている。 さらに感染拡大が世界各国の課題や問題も浮き彫りにした。 米国ではトランプ政権がオバマケアの廃止を目指したこともあり、医療保険に加入していない(所得事情などからできない)人が増え、感染拡大に拍車がかかってしまった。イタリアや韓国では中国との関係を重視するために感染対策が遅れたとの見方もある。南米、アジア、アフリカなど防疫体制が十分ではない地域でも感染が拡大している』、「コロナショックによって、これまで以上の勢いでグローバル化の無理、課題、リスクなどが表面化している。各国の資本主義のあり方が大きく変容しつつある。その意味で、日々の感染動向や対策に関する議論だけでなく、コロナショックがグローバル化の反動を勢いづかせ、現在、世界経済は大きな変化の局面を迎えているといえる」、鋭い指摘だ。
・『“大恐慌”に匹敵する世界経済の落ち込みリスク  グローバル化の反動によって、今後、世界経済は1930年代に米国を中心に発生した“大恐慌”に匹敵する落ち込みを迎える恐れがある。前述したように、トランプ政権は中国がウイルスを世界に拡散させたと非難している。コロナ禍による中国経済の減速から、第1弾合意にまとめられた米国の農畜産物などの輸入目標も達成が難しい。状況によっては、大統領再選を狙うトランプ氏が中国にさらなる圧力をかけ、サプライチェーンの混乱などグローバル経済の寸断が深刻化するリスクは軽視できない。 一方、米国を中心に企業経営は非常事態に突入しつつある。米金融大手のJPモルガンは深刻な景気後退に備え引当金を積み増し始めた。この対応は、4〜6月期の米実質GDP成長率が前期比年率で25%落ち込み、失業率は10%に達するシナリオに基づいている。 問題は、感染終息にどのくらいの時間がかかるかが読めないことだ。現在、米労働市場は過去に例を見ない勢いで悪化しており、企業業績が想定以上に悪化するリスクは高まっている。仮に経済活動が再開されたとしても正常に戻るにはかなりの時間がかかる。早期の経済活動再開が、感染を再拡大させるリスクもある。 そうした中で株価が反発していることは冷静に見るべきだ。先が読めないため、多くの投資家のリスクに対する忌避感はかなり強い。日米の国債価格の不安定さはそれを示す材料の一つだ。米国では一部の投機筋が急速に株式のショート(空売り)ポジションを巻き戻し、それにつられた投資家が株を買い、株価上昇が支えられている面もありそうだ。 一方、多くの市場参加者は、グローバル化の反動や大恐慌以来の景気後退に落ち込むリスクに目をつぶりたいと考えているようにみえる。そのため、市場参加者は先行きの明るさを求めて、目先の経済活動再開に向かっているとも考えられる。 しかし、現実には、今後、世界経済の落ち込みはより深刻化する可能性が高い。グローバル化の反動の先に、世界経済に大きな変化が出始めていることを虚心坦懐に感じ取る必要がある。今は、そうした視点で世界経済を謙虚に考えるべき時だ』、トランプ大統領は米国では最悪期は過ぎたとして、「経済活動再開」に舵を切りだしたようだが、大統領選挙を意識して早や過ぎるとの批判もあるようだ。ここはより慎重な「真壁昭夫氏」の見解を重視したい。
タグ:イタリア グローバル化 東洋経済オンライン 河野龍太郎 ダイヤモンド・オンライン 真壁昭夫 ユヴァル・ノア・ハラリ (その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」) 「コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を」 EU(欧州連合)は、まさにグローバリゼーションの実験場 『TIME』誌 「もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう グローバリゼーションの反動が起きる ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張 グローバリゼーションの実験場である、EUと通貨ユーロは再び解体の危機を迎えそうだ EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ 金融・財政拡張は万能ではないとわかる 経済活動を人為的に止めているため、金融・財政政策は効果が限定的だ 「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」 インフォデミック(情報の感染拡大)ともいえる状況が出現している。根拠のないデマや誹謗中傷が広がっていることにも注意が必要だが、よい面を見ればインターネット民主主義が出現しており、悪い面を見れば、政治のポピュリズムがますます強まっていくのではないか 自治体が注目されローカルシフトも始まる 内需重視で労働分配率の向上を実現できるか 山田久副理事長 「グローバル化の減速で外需に依存する度合いが低下するなら、内需拡大に注力する必要がある。付加価値生産性の向上、平均販売価格の上昇、賃金の引き上げの好循環を形成することによって、質的成長は可能になる」 「コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」」 新型コロナウイルスの感染拡大が世界的な混乱を招いている グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべき 世界経済の成長を支えたグローバル化とその反動 G7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した グローバル化反動のきっかけとなったコロナショック “大恐慌”に匹敵する世界経済の落ち込みリスク グローバル化の反動の先に、世界経済に大きな変化が出始めていることを虚心坦懐に感じ取る必要がある。今は、そうした視点で世界経済を謙虚に考えるべき時だ
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経済学(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) [経済政治動向]

経済学については、昨年7月23日に取上げた。今日は、(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い)である。

先ずは、昨年11月29日付けNewsweek日本版が掲載したフォーリン・ポリシー誌上級特派員のマイケル・ハーシュ氏による「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/11/post-13509_1.php
・『<グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した> ノーベル賞の受賞者でコラムニストとしても知られる経済学者のポール・クルーグマンは、論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調で名をはせてきた。 1990年代初めから精力的に著書や論説を発表。急速に進むグローバル化に疑義を唱える論客には片っ端から「経済音痴」のレッテルを貼ってきた。特に中国との競争を危惧する議論を聞くと、「バカらしい」のひとことで切って捨てる。心配ない、自由貿易が自国経済に及ぼす負の影響など取るに足らない。それがお決まりのセリフだった。 そのクルーグマンが突如、宗旨変えした。今年10月、「経済学者(私も含む)はグローバル化の何を見誤ったか」と題した論説を発表。自分をはじめ主流派の経済学者は「一連の流れの非常に重要な部分を見落としていた」と自己批判したのだ。 クルーグマンによれば、経済学者たちはグローバル化が「超グローバル化」にエスカレートし、アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた、というのだ。 ラストベルト(さびついた工業地帯)の衰退ぶりを見ると、ようやく認めてくれたか、と言いたくもなる。謙虚になったクルーグマンは、さらに重大な問いに答えねばならない。彼をはじめ主流派の経済学者が歴代の政権に自由貿易をせっせと推奨したために、保護主義のポピュリスト、すなわちドナルド・トランプが大統領になれたのではないか、という問いだ。 公平を期すなら、クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた。彼は経済学者でありながら経済学者に手厳しいことでも知られる。2008年の金融危機後には、過去30年のマクロ経済学の多くの予測を「良くても驚くほど役に立たず、最悪の場合、明らかに有害」だったと総括した。 クリントン政権で労働長官を務めた経済学者のロバート・ライシュは、国際競争の激化を懸念し、良質の保護主義的な政策と製造業の労働者の再訓練を推進しようとした。このライシュについて、クルーグマンは1990年代当時、私に「気の利いた言い回しが得意なだけで、物事を深く考えない嫌な奴」と評したものだ。 クルーグマンの宗旨変えについてライシュにコメントを求めると、「彼が貿易の何たるかをやっと理解してくれてよかった」とメールで答えてくれた。クルーグマンもメールで「ライシュについて言ったことは後悔している」と述べたが、「もっとも彼が超グローバル化を予測し、チャイナショックの影響を最小限にとどめようとしたと言うのなら、それは初耳だが」と嫌みも付け加えた。 経済学者たちはようやく自分たちの傲慢ぶりを認め、2009年にクルーグマン自身が書いたように「数学という素敵な衣装をまとった美しい理論を真実と思い込んでいた」ことに気付いたが、時すでに遅しの感もある。 経済学者たちは1960年代末から連邦政府の政策立案に大きな影響を与えるようになり、アメリカを間違った方向に導き、社会の分断を助長したと、ジャーナリストのビンヤミン・アッペルボームは指摘している。多くの経済学者が福祉を犠牲にし、効率性を最優先して「高賃金の雇用を切り捨て、低コストの技術産業に未来を託した」というのだ』、「ポール・クルーグマン」の「論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調」を私は好んでいたので、「突如、宗旨変えした」ことで楽しみが1つなくなったとすれば、寂しい気がする。
・『「修正を試みても手遅れだ」  マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、デービッド・オートーは、中国の急成長がアメリカの労働市場に及ぼした影響をデータで示してきた。オートーによればより大きな問題は、多くの経済学者が自由貿易は善だと無条件で信じていたことだ。「貿易は万人にとって有益だと政策立案者に助言するのが自分たちの務めだと思い込んでいた」 ハーバード大学の経済学者、ダニ・ロドリックは1997年に『グローバル化は行き過ぎか』という著書を発表した。当時は異端と見なされたこの本を書いたのは「経済学者がグローバル化に全く危機感を持っていなかったから」だと、彼は言う。今ではロドリックの見方が主流になっている。 さしもの経済学者たちも、自分たちが引き起こした事態に対処すべく重い腰を上げ始めた。ロドリックも元IMFチーフエコノミストのオリビエ・ブランシャールと共に格差をテーマにした会議を主宰したばかりだが、もう手遅れかもしれないと言う。トランプ政権下では、まともな議論すらできないからだ。 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」と、アッペルボームは嘆く。 それでもトランプは、中国の台頭に対するアメリカ人の不安を背景に、史上最大の貿易戦争に打って出た。不安が広がったのは、経済学者の読み違いのせいでもある。中国の急成長でアメリカの製造業の雇用がこれほど迅速かつ大量に失われるとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クルーグマンも指摘しているように、「2000年以降、製造業の雇用は恐ろしいほど急減」し、その急カーブはアメリカの貿易赤字、特に対中赤字拡大の急カーブと一致していた。こうしたデータが、ただのデタラメにすぎないトランプの主張に信憑性を与えたのだ。 貿易問題や所得格差、労働者のための適切な保護策に関する「まともな議論を完全に消し去ったことが、最も理不尽なトランプ効果の1つだ」と、ロドリックは言う。 クルーグマンに、彼自身も含めて経済学者がトランプ政権の誕生を助けたのではないか、と聞いてみた。「それについては、まだ議論している最中だ」と、彼は答えた。「これは私の考えだが、トランプの(保護主義的な)貿易政策はさほど支持されておらず、トランプ人気に貢献したとは思えない。その意味でトランプ現象を経済学者たちのせいにするのはいささか酷ではないか」』、「トランプは・・・貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ」、超一流経済学者が多いアメリカでよりにもよってこんな大統領が出現したとは、経済学の無力さを露呈したのかも知れない。
・『レッテル貼りと締め出しと  そうは思わない人もいるだろう。問題の一端は、グローバル化は善だというコンセンサスが姿を現しつつあった1990年代、経済学者たちは貿易問題を「自由貿易主義」か「保護主義」かの2つに1つという単純な図式で捉える傾向があったことだ。 クルーグマンもおおむね自由貿易論者の立場を取った。ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていたことを思うと皮肉な話だ。 一方で政策論争に関わった人々の中には、急速なグローバル化にクルーグマンよりずっと強い懸念を抱いた人々もいた。その代表格が、ロドリックやライシュ、クリントン政権で国家経済会議議長を務めたローラ・タイソンといった人々だ。彼らは自由貿易こそ善という考え方に異議を唱えたり、タイソンのようにアメリカの競争力を高めるための産業政策を推進したりした。クルーグマンはこうした考え方も忌み嫌った。 クルーグマンは、自身の読み違えは貿易が労働者や経済格差に与えた影響に関するものであり、あくまでも「限定的なものだった」と言う。確かにその言い分は間違っていない。 だが冷戦終結後、貿易をめぐる議論は、自由市場vs政府による介入という、より幅広い議論の「代理戦争」となっていた。クルーグマンは「戦略的貿易論者の、経済学に対する無知の表れ」と彼の目に映ったものを大々的に攻撃した。戦略的貿易論者とは、人件費の安い途上国との競争で、アメリカの雇用と賃金は深刻な影響を受けると主張する人々だ。 ジャーナリストのウィリアム・グレイダーは著書の中で、途上国の攻勢により「アメリカが勝つ分野と負ける分野」が出てくるだろうと警告したが、クルーグマンからは「全くバカげた本」と評された。シンクタンク、ニューアメリカ財団のマイケル・リンド共同創立者が、アメリカの生産性が伸びても「世界の搾取工場である国々」にはかなわないかもしれないと指摘した際も、クルーグマンは経済の「事実」を知らない門外漢のくせに、と一蹴した。 クルーグマンに言わせれば、この手の議論はいわゆる「悪い経済学」だった。他の国の動向など気にし過ぎてはならない。あらゆる国が開かれた貿易から利益を得ることができるという新古典派経済学の概念が安定をもたらすはずだ──。自由貿易よりも市場への政府の介入に類するものや公正貿易(関税や失業保険、労働者保護の拡充と同義だ)を支持する人は、「保護主義者」の烙印を押され議論から締め出された。 確かにクルーグマンは、医療保険制度や教育の改革といった中間層に対する保護政策は大切だと常に考えてきた。また、貿易問題での見誤りを認めたからといって、いわゆるワシントン・コンセンサスを正しいと言っていたことにはならないとも述べている。ワシントン・コンセンサスとは、財政規律と急速な民営化、規制緩和を支持するネオリベラル(つまり自由貿易主義)的な考えだ。 「私たちを批判していた人全てが正しかったわけではない。肝心なのは彼らが何を言ったかだ。私の知る限り、これほど(中国などが)貿易で台頭することを予見した人も、それが一部地域に与える悪影響について注目していた人もほとんどいなかった」と、クルーグマンは言う。 だがグローバル化を善とする考え方はさらに深い問題もはらんでいた。やはりノーベル賞を受賞した経済学者のジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告していた。彼は「標準的な新古典派的分析」の問題点は「調整に全く無頓着だったところだ」と述べた。「労働市場の調整コストは驚異的なほど少ない」』、「クルーグマン」自身も「ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた」、のに単純化して自由貿易推進派になったのは、確かに矛盾している。「ジョセフ・スティグリッツ」や「ロドリック」のように、「貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告」していた人々もいたことを知って、少しは安心した。
・『大統領選では左派候補を支持  スティグリッツはクリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長を務め、国際的な資本の流れにブレーキをかけることを訴えるなどした(が実現しなかった)。つまり彼はタイソンやライシュと同じ非主流派だったのだ。また彼は「通常、雇用の破壊は新たな雇用の創出よりもずっと速く進む」と主張していた。 スティグリッツはフォーリン・ポリシー誌でこう論じている。「(グローバル化の)コストを背負うのは明らかに、特定のコミュニティー、特定の場所になるだろう。製造業が立地していたのは賃金の安い地域だった。つまりこうした地域では調整コストが大きくなりがちだった」 また、グローバル化の負の影響は一過性のものでは終わらない可能性も明らかになってきている。アメリカ政府が途上国との貿易を急速に自由化し、投資に関する合意を交わしたために「(労働組合の弱体化や労働規制の変化の影響も相まって)労働者の交渉力は劇的に変わってしまった」とスティグリッツは指摘した。 最大の負け組はやはり、アメリカの労働者だ。経済学者はかつて、好況下では労働者は自分たちの賃金を引き上げる力を持つと考えていた。だが最近の見方はちょっと違う。多国籍企業が全世界を自らの縄張りに収めて四半世紀がたち、グローバル化した資本は国内に縛られたままの労働者よりも優位に立った。 主流派の経済学者たちがこれほど急に左寄りになったことに驚いているのは当の経済学者たちだ。多くは前述の格差問題に関する会議でこのことに気付かされた。来年の米大統領選挙では、経済学者たちの支持は中道のジョー・バイデン前副大統領よりもエリザベス・ウォーレン上院議員やバーニー・サンダース上院議員などの革新派候補に流れているとの声も参加者からは聞かれた。 「私はフランスでは社会主義者なのに、ここに来たら中道だった」と、ブランシャールは冗談を飛ばした。これぞ1990年代の読み違えが残した「置き土産」かもしれない。 タイソンは言う。「みんな、いかに状況が急激に変わり得るかに気付いていなかった」 From Foreign Policy Magazine)』、「自由貿易」や「グローバル化」論議は、EUの市場統合、英国のEU離脱にも影響を与える幅広い問題で、今後の展開が1つの注目点だ。

次に、本年3月20日付け東洋経済オンラインが掲載した作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏による「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337633
・『今から20年前の2000年を超えたあたりから、アメリカ流の新自由主義的な考え方が日本に流れ込んできました。そのとき、セットで取り上げられたのが「自己責任論」です。 実はこの「自己責任論」が大手を振るう中で、それに振り回される形でさまざまなものを抱え込み、心を病んでしまう人が少なくありません。「自己責任論」が持つ矛盾と、それを振りかざす論者たちの本当の思惑を知ることで、心の病に陥るスパイラルから脱することが大切です。拙著『メンタルの強化書』をもとに解説します』、興味深そうだ。
・『一見、まともに見える自己責任論  まず「自己責任」が声高に言われ始めたのが金融業界でした。金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります。そしてリテール部門、つまり個人顧客の開拓に力点が置かれるようになりました。 ここで「自己責任論」が出てくるのです。要は、顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題です。当時、金融機関はバブル処理がまだ完全に終わっていないところもあり、決して安定している状況ではありませんでした。 まして護送船団方式が解除され、諸外国の金融機関も含めた競争の激化が予想されました。リテール部門での責任をいちいち追及されたらたまったものではありません。先手を打って自己責任という言葉を出してきたと思われます。 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理でした。 一見、至極当然のようにも聞こえるところがミソなのです。しかし、言葉の意味をしっかりと吟味したら、この「自己責任論」がおかしいことがわかります。 まず、彼らの言う「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違うものです。own riskとは「自分で利益を求めようとして自分で決定した場合には、予期せぬ不利益(リスク)も併せて背負わなければいけない」という考え方です。 これは、株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです』、「貯蓄から投資へ」の流れも「自己責任論」が強まった背景だ。
・『「自己責任」は不自然な言葉だ  そもそも「自己責任」という言葉自体がおかしな言葉です。まず、「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳されますが、そのもとはラテン語のrespondereだとされます。その本来の意味は、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指しているとされます。 また、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされました。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました。 先ほどのラテン語の意味と合わせると、「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方です。 ですから欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提とされます。なぜなら説明義務が生じるのは本人であることは自明ですから、改めて「自己」をつける必要がないからです。 さらに言えば、「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味です。このような言葉をあえて掲げなければならない状況自体がすでに不自然であり、おかしいのです。 この不自然な言葉である「自己責任」が、やたらと使われた場面がもう1つありました。それが非正規雇用の拡大の場面です。小泉内閣のときに行われた労働法の改正で、非正規雇用の枠組みが広げられました。それによって非正規雇用が一気に増え、ワーキングプアなどの問題が噴出しました。 当時、年末の日比谷公園などに、ネットカフェで寝泊まりする非正規雇用者や路上生活者などが集まり、ボランティアの人たちから炊き出しを受けている光景がニュースになったのを覚えているでしょうか? そのときにしきりに論じられたのが「自己責任」という言葉です。彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした。 当時は、職場でもプライベートでも「自己責任でやってくれ」とか、「自己責任をきちんと果たしてください」などと、猫も杓子も「自己責任」という言葉を使っていました。 その言葉とともに使われるようになったのが「努力」という言葉でした。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために非正規雇用で働かざるをえなかったのだから、それは「自己責任」だという論理です。 「自己責任」はいつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになりました。いかにも新自由主義的な発想だと考えますが、ここにこの問題のすり替えがあります』、「彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした」、日本国民としての仲間意識などは微塵も感じられない非常に冷たい見方だ。
・『労働者に責任を転嫁する人たち  そもそも「責任」という概念は「自由」という概念とはつながっていますが、「努力の有無」とはまったく関係のない概念です。「努力しなかったことの責任が問われる」としたら、それはいったいどういう社会なのでしょう?もちろん「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立っても、そこに「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があります。 新自由主義的な競争社会においては、まさにそのような考え方がフィットするのだと思いますが、本質をはき違えた論理だと思います。努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。 「責任」は「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度が高いでしょうか?マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っていると言います。自由と責任は表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるということは当然の帰結です。 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはずです。 私は、非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます。むしろ「自己責任」を追及されるべきは雇用者側ではないでしょうか? 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。 ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか?少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います』、「「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます」、同感だ。
・『神の前で反省し、悔い改めればいい  ちなみに、先ほどの「責任」という考えは、キリスト教ではまったく違った捉え方をします。キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられるべき存在ではありません。 「自由」がもともと与えられていないのですから、「責任」など人間には最初からないということになります。逆に、自分のしたことに対して「責任」を取ろう、あるいは取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢なのです。 人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。 では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう?それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。 そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか?詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、愚かな人間は互いに手を取り合うことなく、取ることもできない責任を勝手に作り出し、それによって同胞をおとしめ、自分だけが這い上がろうと足掻いているのです。なんとも哀れで滑稽な姿に見えてきます。 現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまいます。しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつくでしょう』、『メンタルの強化書』が、「新自由主義」的な「自己責任論」に苦しめられている人々に救いになることは確かなようだ。

第三に、4月17日付けダイヤモンド・オンライン「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/234917
・『日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録  「貨幣とは何か?」「その価値の根拠はどこにあるのか?」 これは誰でも一度は考えてみたことがあり、古代ギリシアの哲人アリストテレス以来、多くの哲学者や経済学者によって考察がなされてきた、シンプルでありながら実は極めて難解な問いである。マルクスの言葉を借りれば、貨幣とは「形而上学的な不思議さに満ち満ちた存在」なのである。 本書『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』は、日本を代表する経済学者で、稀代の教養人である岩井克人が、アリストテレスからアダム・スミス、カント、モンテスキュー、ゲーテ、シュンペーター、ケインズ、ハイエク、フリードマンに至るまで検証し、30年以上にわたってこの問題に挑み続けてきた全記録である。 岩井は、正統派の近代経済学からスタートして、東京大学、イエール大学、プリンストン大学などの超一流大学で教鞭をとる傍ら、『ヴェニスの商人の資本論』『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるのか』『経済学の宇宙』といった著書を通じて、貨幣や会社など様々な社会問題について思想的考察を行なってきた。 岩井が貨幣の本質に迫った『貨幣論』を書いたのは1993年だが、貨幣の研究を本格的に始めたのは1980年代の初め頃である。それ以来、岩井の貨幣論の基本は全く変わっていない。それどころか、グローバル化の進展によって地球全体がひとつの資本主義社会になり、より純化したことで、現実の方が『貨幣論』で描いていた理論的な世界にどんどん近づいてきている。 貨幣がおカネとしての価値を持つ根拠として、「貨幣商品説」と呼ばれるものがある。金銀がおカネとして使われるのは、それが多くの人が手に入れたがる価値の高い商品だからという説明である。しかしながら、これは、「あるモノがおカネとして流通しているときには、おカネとしての価値はモノとしての価値を必ず上回っている」という事実に反している。 これに対して、国家や君主や共同体などにその根拠を見いだそうとするのが、「貨幣法制説」である。法律や命令などで貨幣として定めたからおカネは流通するのだという説明であり、今日では、この貨幣法制説が経済学者の間での通説になっている。今話題の「現代貨幣理論(MMT)」は、正にこの貨幣法制説に依拠しているのだが、岩井に言わせれば、この説もやはり不十分である。 1741年にオーストリアで発行されたマリア・テレジア銀貨はヨーロッパ全土で流通し、更には時代を超えて、中東や東アフリカで使われ続けた。ハプスブルク家が支配した帝国は1918年に滅んだにも関わらず、エチオピアのカファ地方では、1970年代までコーヒー取引のための貨幣として流通していた。これは、貨幣が貨幣として流通するためには、法律や命令は必ずしも必要がないということを示している』、確かに「マリア・テレジア銀貨」が、今に至るまで「中東や東アフリカで使われ続けた」、というのは、「貨幣法制説」の「不十分」さを示している。
・『貨幣と商品とはどこが違うのか  岩井に言わせれば、我々がおカネを受け取るのは、「ほかの人」がその価値があるおカネとして次に受け取ってくれると信じているからである。つまり、貨幣の価値というのは、商品と同様に社会が与えているのである。 それでは、貨幣と商品とはどこが違うのか。おカネには、人間のモノに対する欲望のような実体的な根拠は存在しない。誰もが貨幣として受け取るから貨幣なのであり、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法になっているのである。 貨幣商品説だけでなく貨幣法制説をも明確に否定して、人類がこの自己循環論法にまでたどり着くには、 17世紀末にスコットランドで生まれ、フランスの中央銀行総裁と財務大臣にまで登り詰め、世界三大バブルのひとつ「ミシシッピバブル」を招いた、ジョン・ローというトリックスターの登場を待たなければならなかった。 ジョン・ローは、『貨幣と商業』という著作の中で、のちに「ローのシステム」と呼ばれることになる、中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している。現代の金融システムは、この「ローのシステム」そのものであり、経済の効率性を大いに高めると同時に、経済の不安定性をも大いに高めるという、「効率性と安定性の二律背反」を背負ったものなのである。 「自分がモノとして使うためではなく、将来、ほかの人に売るために何かを買うこと」というのが投機の定義である。その意味で、おカネを使うこと、即ち、それ自体何の使い道もないおカネをおカネとして流通させるという行為こそが、実は最も純粋な投機だと言える。 我々が生きているのはおカネに全面的に依拠した社会であり、そのおカネを使うことが純粋な投機なのだとすれば、資本主義社会は本質的に不安定性を抱え込んでいることになる。なぜなら、投機は必ずバブルを生み出し、膨れ上がったバブルは必ず崩壊し、それは必ず混乱とパニックを招くからである。 ▽法だけではなく、おカネの下でも人間は平等(マルクスは『資本論』の中で、「貨幣はレヴェラーズだ」と言っている。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で、17世紀半ばのピューリタン革命の時に、法の下での平等を唱えた急進的な政治グループのことを指す。マルクスが言おうとしたのは、人間は貨幣を持つことにより匿名性を獲得する、つまり、法だけではなく、おカネの下でも人間は平等だということである。 貨幣は、互酬的交換によってお互いが緊密に結びつけられた共同体的な束縛から個人を自由にし、一人一人が独立した市民として投票する民主制の発展を促した。つまり、おカネの下の平等が、法の下の平等を生み出したのである。 このように、貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる。そして、その行き着く先は、ポピュリズムや全体主義という悪夢である。このように、貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的であり、自由を守るためには自由放任主義と決別しなければならないのである。 アリストテレスは、今から2300年以上も前にこの貨幣の不思議に気づき、『政治学』の中で次のような言葉を残している。 「貨幣による財獲得術から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲するからだ。生きる欲望に果てはないのだから、彼らは満たしうる際限のない財を欲することになる。貨幣は元々交換のための手段。しかし、次第にそれを貯めること自体が目的化する。」 あらゆるモノを手に入れる「手段」である貨幣が、具体的なモノと切り離されて、それ自体がひとつの「目的」に転化した。終極点が新たな出発点になり、新たな終極点が更に新たな出発点となっていくこのプロセスに終わりはない。ここで、より多くの貨幣を絶えず求め続ける「貨幣の無限の増殖活動」としての資本主義が始まることになる。アリストテレスが嘆いたように、人々は「善く生きることではなく、ただ生きることに熱中する」ようになるのである』、「貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる」、「貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的」、その通りなのだろう。。
・『「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成  『欲望の資本主義』シリーズに登場する哲学者マルクス・ガブリエルは、今日の資本主義を、「商品生産に伴う活動全体」と再定義している。そして、資本主義は「商品の生産」そのものになり、これ自体が見せるためのショーになっているという。ただ差異を生み続けるためだけの果てしない資本の運動、つまり、絶対的な価値を見出すことよりも相対的な価格競争が勝ってしまい、差異を生むこと自体が自己目的化していく世界である。 そして今や、「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成つつある。繰り返される金融危機、拡大する所得格差、そして急速に進む地球温暖化といった形で、資本主義に本来的に内在している不安定性や不平等性や不可逆性が一気に顕在化してきている。 こうした際限のない貨幣への欲望に対抗し、社会の不安定性を抑えるために、岩井は、アメリカ独立やフランス革命などの動乱期のヨーロッパにあって、大陸合理論とイギリス経験論を調停したと言われる哲学者カントの倫理学に着目する。即ち、「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によって行動せよ」と命ずる、カントの道徳律である。 ここでもう一度繰り返すと、貨幣は人間を自由にする。自由とは、自分自身の領域を持っていて、自分で自分の目的を決定できることである。そして、これが「人間の尊厳」なのである。しかし、自由と安定は両立せず、常に二律背反的である。 岩井に言わせれば、資本主義というのは人類の歴史の中から生み出された普遍的な存在である。その中で人間の尊厳を守り続けるためには、同情、共感、連帯、愛情といった個々の感性に依拠するのではない、より普遍的な原理を持ってくる必要がある。それが、他者を邪魔しない最低限の義務としての「規範」なのである。そして、人はその規範を守る限りにおいて、誰からも侵されることのない領域である「人間としての尊厳」を保てるのである』、「哲学者カントの倫理学」は「大陸合理論とイギリス経験論を調停した」、初めて知った。なかなか巧みな「調停」のようだ。
・『世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる  岩井は『貨幣論』の中で、資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。」 こうした不安定さの中においても、岩井は資本主義そのものを否定することはしない。岩井が思い描く「規範」に基づく資本主義の新しい姿というのは、「倫理」という言葉で表されるものである。それは、2018年の京都大学経済研究所でのシンポジウムをベースにした近著『資本主義と倫理:分断をこえて』の中で垣間見ることができるが、その全貌を一刻も早く我々に見せてもらいたい。 新型コロナウィルスがグローバル経済を一気に破壊していく様を見ながら、皆、改めて世界が一体となったグローバル資本主義社会に生きていることを実感していると思う。世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる正にこの瞬間にこそお勧めしたい一冊である』、「資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである」、この「対応関係」を詳しく知るには、『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』を読むしかなさそうだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 タイソン ダイヤモンド・オンライン 佐藤 優 Newsweek日本版 (その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) マイケル・ハーシュ 「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」 グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した 論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調 クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた 「修正を試みても手遅れだ」 ダニ・ロドリック 『グローバル化は行き過ぎか』 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」 レッテル貼りと締め出しと 「自由貿易主義」か「保護主義」か ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた ロドリック ライシュ ジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告 大統領選では左派候補を支持 「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」 新自由主義的な考え方 セットで取り上げられたのが「自己責任論」 一見、まともに見える自己責任論 金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります 顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理 「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違う 株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです 「自己責任」は不自然な言葉だ 「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました 責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方 欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提 「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味 非正規雇用の枠組みが広げられました 彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした 労働者に責任を転嫁する人たち 「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます 神の前で反省し、悔い改めればいい 「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」 日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録 岩井克人「欲望の貨幣論」を語る マリア・テレジア銀貨 中東や東アフリカで使われ続けた 「貨幣法制説」の「不十分」 貨幣と商品とはどこが違うのか ジョン・ロー 中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している 貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる 貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的 「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成 哲学者カントの倫理学 大陸合理論とイギリス経験論を調停した 世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる 人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである
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日本型経営・組織の問題点(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、昨年11月6日に取上げた。今日は、(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている)である。

先ずは、作家・経済ジャーナリストの渋谷 和宏氏が昨年11月23日付けPRESIDENT Onlineに掲載した「外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/30036
・『日本人はなぜロボットを友達だと思うのか  「日本人ほど『日本人論』が好きな国民はいない」と著者の佐藤智恵氏は言う。そうかもしれないと思う。私自身、外国の識者が語る日本論、日本人論にはつい耳をそばだててしまう。本書『ハーバードの日本人論』は、そんな外国人の視点で見た日本論、日本人論の中でもとりわけ異彩を放つ一冊だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――本書はこうした「日本人のなぜ」について、メディア論やマネジメント論などそれぞれの分野で第一人者として知られるハーバード大学の教授陣に著者がインタビューし、わかりやすくまとめている。専門領域のみならず、日本や日本人について深い知識を持つ教授陣の話は示唆に富み、かつ新鮮だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」――メディア論を専門とするアレクサンダー・ザルテン准教授は言う。「日本人が歴史的にテクノロジーを『理想的な社会を実現するのに不可欠なもの』ととらえてきたことと深い関係がある」。 明治維新後、日本は西洋の技術を取り入れ、近代化に成功した。戦後の高度成長を支えたのも絶えざる技術進歩だった。テクノロジーへの信頼が、日本人のロボット観の根っこにあると指摘するのだ』、「佐藤智恵氏」は元NHKディレクターでコロンビア大学MBA取得、ボストン・コンサルティング・グループ勤務などを経てげ、作家/プロデューサー/コンサルタント。このブログでも2017年8月19日付け「原爆投下」で紹介している。確かに「外国の識者が語る日本論、日本人論」は、日本人が気付かない点を指摘してくれるので、興味深いものも多い。
・『日本のアニメが国境を超えて愛される理由  さらにザルテン准教授は日本のアニメが国境を超えて愛される理由についても独創的な分析を披露する。日本のアニメは日本の物語だけでなく、ディズニーのアニメや近代のSF文学などからも影響を受けており、その表現にも様々な技法が取り入れられている。こうした特徴が、インターネットによって文化の混合を日常的に体験している世界の若者の感覚に合致したと言うのだ。 「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――マネジメント論が専門のウィリー・C・シー教授は「かんばん」に代表されるトヨタ生産方式を例に挙げ、それを可能にしているのは継続して学習し、問題を解決する企業文化であり、その土台には「完璧な品質を追求する」「継続して改善を行う」という日本人の国民性があると解説する。 トヨタ生産方式は「日本の経済風土にあったオリジナルな方法を」という考えから開発されたと言われる。世界のものづくりに革命を起こした生産方式がなぜ日本企業によって生み出されたのか。答えの一端を垣間見た気がする。 本書が取り上げる「日本人のなぜ」は、もちろんこれらだけではない。「日本人はなぜ『場』を重んじるのか」「日本人はなぜものづくりと清掃を尊ぶのか」――ほかにも気になる命題が取り上げられ、その分析には思わず同僚や友人にひけらかしたくなる指摘がちりばめられている』、「佐藤智恵氏」が専門家から見解を引き出す能力は、豊富な職歴の上に築かれたのだろう。暇を見つけて、読んでみたくなる本だ。

次に、在米作家の冷泉 彰彦氏が12月24日付けNewsweek日本版に掲載した「忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/12/post-1132.php
・『<社内での打ち合わせや会議のための「社内出張」や、転勤、単身赴任などスルーすべきビジネス慣行が日本の会社には多い>  30年ぐらい前に止めていれば良かったのにいまさら感がありますが、「忘年会スルー」という言い方で、職場における半強制的で楽しくない宴会のために、貴重な年末の時間を使う習慣が批判されているのは良いことだと思います。 ですが、悪いのは忘年会だけではありません。日本の職場風土をもっと風通しの良いものにすると同時に、先進国中最低レベルとなっている生産性を向上させるためには、他にもスルーすべきことがあります。 1つ目は「社内出張」です。出張というと、セールスや業務提携など重要な目的があったり、あるいは見本市への出店や、反対に見本市や国際会議への参加による情報収集や人脈形成など、企業としての業務に欠かせないものがあるのは事実だと思います。 ですが、出張には大きな負荷がかかります。期間中は家事、育児、介護といった家族における責任を放棄して、遠隔地に行かねばなりません。問題は、どうしても必要な対外交渉、調査といったものではなく、日本の場合はまだまだ同じ会社の中での打ち合わせや会議のために出張する、つまり「社内出張」の機会が多いということです』、テレビ会議導入などで多少減ったとはいえ、「社内出張」は本当に無駄の最たるものだ。
・『「社内会議のための出張」はほとんどムダ  例えば、一定の職位以上の管理職は定期的に本社に集めて、全社の動きを知らせるという会社は多いと思います。また、海外など遠隔地に駐在させて勤務させている社員を呼び返して報告させる会議などもあります。さらには、何か突発的な問題が生じた場合には、役員などに報告と謝罪のために出張しなくてはならないということもあるでしょう。 こうした「社内会議のための出張」というのは、ほとんどがムダだと思います。まず、多くの社員を集めて「全社の動きを知らせる」会議というのは、単に参加者を社内政治の評論家にするだけで、個人のスキルの向上、そして会社全体の業績の向上には役にも立ちません。もっと言えば、社内世論を形成して意思決定の参考にしようなどという弱いリーダーでは通用しない時代でもあります。全社の動きを幅広く知らせれば社員の育成になるというのも、社員のモラル向上になるというのも限定的です。 海外に人を出していると「浦島太郎」になるので、ときどき呼び返してコミュニケーションしたほうが良いという習慣もありますが、根拠は怪しいと思います。日本の産業界は、国際化の遅れからこのような低迷に到ったのですから、変わらねばならないのは日本側であって、せっかく最前線に出ている人間には伸び伸びチャレンジさせるべきでしょう。 一番悪いのは、トラブルの発生時に「報告と謝罪」を対面式コミュニケーションでやるために呼び寄せることです。初動が大事であれば、現場の問題解決を本社は支援するべきところですが、ふんぞり返って「不始末は来て報告せよ、対応はそれからだ」というような姿勢の企業はどんどん淘汰されていくでしょう』、海外駐在の拠点長を定期的に呼び寄せるのも無駄だ。「トラブルの発生時」の本社の「ふんぞり返った」対応も酷いものだ。
・『2つ目にスルーすべきなのは、転勤です。せっかく身に着いたスキルを捨てさせて、全く違う分野に異動させる、あるいは別の土地へ異動させるという「人事ローテーション」と「ゼネラリスト育成」というのが、日本型人事だとされてきました。ですが、共働きが当然となる一方で、あらゆる業務内容が高度化し、専門性が問われるようになった現在、転勤のメリットは薄れており、残っているのは個人の人生設計を壊す弊害だけのように思います。 転勤に伴う単身赴任という習慣も、核家族の求心力を奪い、次世代に親となるべきロールモデルを与えることができなかった罪は重いと思います。まわりまわって非婚少子化の後押しをしているという観点から、社会的に止める時期に来ていると考えていいでしょう。 忘年会に象徴されるような、公私混同体質を伴った封建的ヒエラルキーで人間性を束縛するのが「忠誠心」だとか、何かに付けて「社内会議」をするのが育成やスキル向上になると思い込んだり、国中、世界中のどこへでも辞令一枚で社員と家族を飛ばせると考えたり、これでは、まるで「お国替え」と「参勤交代」です。封建主義そのものであり非人間的であると同時に、21世紀の高度な生産性とは全く馴染みません。これらの慣習も、スルーでいいのではないでしょうか』、アメリカで日本人駐在員たちの悲哀を見ているらしい冷泉氏ならではの鋭い指摘で、諸手を挙げて同意する。

第三に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が2月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「何をいまさら経団連、日本型雇用は10年前に終わっている」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00062/?P=1
・『久しぶりに春闘が話題だ。 きっかけは経団連が「日本型雇用の見直し」なるものを求めたこと。年末に行われた定例の記者会見で中西宏明会長は、こう訴えた。「新卒一括採用、終身雇用、年功序列型賃金が特徴の日本型雇用は効果を発揮した時期もあったが、矛盾も抱え始めた。今のままでは日本の経済や社会システムがうまく回転しない。雇用制度全般の見直しを含めた取り組みが重要だ」と。 その上で、「賃上げの勢いを保つことは大前提だ。ただ製品やサービスの付加価値向上に必要なスキルや意欲のある人が活躍できる環境づくりも大事だ。そのためには賃金体系や人事制度についてもしっかり対応すべきだ」──。 この発言は1月21日に発表された「2020年版 経営労働政策特別委員会報告(経労委報告)」の中で、「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言葉に置き換わった。「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と、盛んにアピールしているのだ。 しかも、組合側も組合側で、経団連の指針に“素直”に応じるような要求が相次いでいる。 自動車メーカーなどの各労働組合が12日、経営側に提出した要求書には……、・給与を1人当たり月額1万100円の引き上げを求める一方で、ベアについて人事評価に応じて差をつける新たな方法を提案(by トヨタ自動車の労働組合) ・新たな仕事に挑戦した社員に賃金を上乗せする制度の拡充を求める(by ホンダの労働組合)など、賃上げにめりはりをつけてほしいと書かれているらしい』、「労働組合」が「賃上げにめりはりをつけてほしい」、とは信じられないような要求だ。「めりはりをつけ」るのは、あくまで経営側であり、こんな要求で、組合員の団結が維持できると思っているのだろうか。或いは、団結など不要と割り切っているのかも知れない。御用組合化もここに極まれりだ。
・『2008年の「派遣村」が象徴していた日本型雇用の崩壊  これらの経緯を受け、テレビなどでは「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言語明瞭意味不明のフレーズを繰り返している。 ……ふむ。「日本型雇用システムが転換期を迎えている」って? 中西会長含め、経済界を代表する重鎮たちは、昨年から度々この言葉を繰り返しているけど、この言葉に私は違和感を抱き続けている。 だって、とっくの昔に日本型雇用システムは転換期を迎えていたじゃないか。10年前に、重鎮たちだってしかと、その目で、見たはずである。 まさか、忘れたってことだろうか? 経団連もメディアも、2008年の年末の「派遣村」のことを忘れてしまったのか?当時、メディアは連日連夜日比谷の派遣村から中継していたのに……。いったいどうしてしまったんだ? あの「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない。 忘れてしまった“経済界の重鎮”のために、あのときの出来事を簡単におさらいしておく。 08年秋に起きたリーマン・ショックにより、大手の製造業などで働く非正規の人たちがリストラされ、寮からも追い出される事態となった。いわゆる「派遣切り」だ。 そんな人たちを受け入れようと、労働組合関係者、法律家、生活困窮者支援NPOのメンバーらにより、日比谷公園に「年越し派遣村」がつくられ、全国から500人近くが集結。当時は“ワーキングプア”や“ネットカフェ難民”など、不安定な雇用形態である非正規雇用で働く人が急増した時期だったので、社会の関心も高かった。 中には「ホームレスも含まれているじゃないか!」「政治的な陰謀じゃないか」など、批判的な意見もあったが、派遣村の最大の功績は「貧困の可視化」だった。派遣村をきかっけに格差問題は貧困問題になり、非正規と正社員という単なる雇用形態の違いが「身分格差」になっていることが周知されたのだ。 それは“経営の三種の神器”として日本企業を支えてきた「終身雇用、年功制、社内組合」の崩壊であり、米国の経営とは異なる日本独自の極めて優れた経営戦略として世界から称賛された「日本型雇用システム」の終焉(しゅうえん)を意味するものだった。 つまり、経団連はやたらと「日本型雇用システムの限界」だの「日本型雇用システムの転換期」だの昨年から言い続けているけど、10年も前に“日本型雇用システム”の転換期を迎えていたのだ』、「「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない」、思い出したが、確かにその通りだ。
・『にもかかわらず「日本型雇用システムの転換期」という言葉を多用するのは、非正規にしたくでもできない正社員の賃金を減らしたい。コストをとにかく減らしたい。ただそれだけのこととみえる。 情けないことに経済界の司令塔である経団連が、あからさまに「コストカット」を訴え続けているのである。 こちらの図をご覧いただきたい。改めて書くまでもなく、日本の労働人口の年齢構成は高齢化が進み、60歳を過ぎても働くのが当たり前となった。共働きも当たり前で、働く女性も増えた。ところが「増えた属性=60代&女性の人たち」は日本型雇用システムでは雇用されていない(http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-07.html)。 年齢階級別非正規雇用労働者の割合の推移(男女別)(男女共同参画局『男女共同参画白書 令和元年度版』より) 女性は34歳以下をのぞくすべての年代で半数以上が非正規、男性では65歳以上の7割以上、55~64歳の約3割が非正規だ。25~34歳では14.4%と割合はさほど高くないが、全体として非正規雇用が増加傾向にあることは注視すべきだ。 一方、35~54歳は小泉政権の時に一旦増えたが、その後はほぼ横ばいが続いている。 要するに、この世代こそが経団連が言うところの“日本型雇用システム”の恩恵を受けている世代だ』、「35~54歳」の「男性」だけが「“日本型雇用システム”の恩恵を受けている」、とは初めて知った。しかし、ここにもいよいよ「経団連」はメスを入れようとしているようだ。
・『経団連の使命とは何だったのか  これまでも経団連の重鎮たちは、あの手この手で40代、50代の働く人たちをお荷物扱いするような発言をしてきたけど、今回は“子飼いにした組合”を巻き込み、この世代のコストカットに踏み切った。 連合の神津里季生会長がどんなに、「そもそも(経団連が指摘するような日本型)雇用システムはこの20年、確立していない。中小・零細企業の労働者や正社員以外の雇用形態で働く労働者への視点が欠けている」と指摘しても、重鎮たちはどこ吹く風だ。 「そんなこと分かってるよ! でもね、まださ、日本型雇用システムの恩恵を受けている層がいるのよ。その人たちのコストをカットしないことには日本の未来はないのさ」ってこと。……あまりに露骨だ。 かつてトヨタの会長だった奥田碩氏が、機会ある度に「解雇は企業家にとって最悪の選択。株価のために雇用を犠牲にしてはならない」と語り、経団連会長として「人間の顔をした市場経済」という言葉を掲げたのに、今の経団連のお偉い人たちの視界に「人間の顔」はない。 経団連のウエブサイトには経団連の使命として、「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与することにあります」と記されている。 「稲山嘉寛経団連会長(1980-86)は『我慢の哲学』、平岩外四経団連会長(1990-94)は『共生』、豊田章一郎経団連会長(1994-98)は『魅力ある日本』といったコンセプトを打ち出し、国際社会の中でよき企業市民として日本企業が受け入れられるように取り組みました」とも書かれている。 今の経団連から発せられる文言のどこに、「個人や地域の活力を引き出す」メッセージがあるのか? 日本型雇用システムを悪の根源のごとく叩きまくっているけど、それを生かす経営を今の経団連はしてきたのだろうか?』、従来の「経団連」とは大きく異なり、大所高所の議論よりも、目先の利害中心になってきたようだが、これも時代の流れとしたら、余りに寂しい。
・『2018年、日経新聞が“異例”の経団連批判をしたと話題になった記事を覚えているだろうか。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31995500Q8A620C1X12000/ 「経団連、この恐るべき同質集団」と大きな見出しがついた記事には、 ・19人の正副会長全員のだれ一人として転職経験がない  ・全員サラリーマン経営者 ・全員男性 ・全員日本人 ・一番若くて62歳 ・中西会長以下12人が東大卒、次いで一橋大3人、京大、横浜国大、慶応大、早稲田大が各1人で、首都圏以外の大学を出たのは山西健一郎・三菱電機取締役相談役ただ1人(京大工卒)と、異様なまでの同質性が指摘されていた。 フツーに考えれば、これだけ働く女性が増えたご時世で、なんでこの集団には女性がいない? 外国人労働者を増やすといっているのに、なんで外国人もいない? 経団連が大好きな「世界の市場」では多様性が当たり前なのに、今の経団連は多様性の「たの字」もない集団である。中西会長は会長に就任する前に、多様性の重要性を訴えていたはずなのに……いったいなぜ? お偉い人たちに叱られることを覚悟で言わせていただければ、経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている。そう思えてならないのである。 もし、本当に経団連の使命が「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与すること」であるなら、組合のあり方そのものも変えなくてはならないはずだ。 ところが、経団連は「業界横並びの集団的な賃金交渉は、実態に合わなくなっている」と明記し、春闘の意義そのものに疑問を呈した。社会的対話の象徴である「春闘」を、必要ないのでは?と指摘したのだ。 ふむ。これは大問題である』、「日経新聞が“異例”の経団連批判」、は誠に手厳しいが、その通りだ。「経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている」、との河合氏の批判は正鵠を突いている。
・『世界がディーセント・ワークを目指す時代に  社会対話は自由、平等、保障、人間の尊厳といった条件の下で、男女を問わずすべての人々がディーセント・ワークを得る機会を促進するというILO(国際労働機関)の目的達成においてカギとなる役割を果たしている。 ディーセント・ワークについては、今年最初の元日コラムで書いたとおり(働きがい問われる年、シニアのリストラが若者にも悪影響)、1999年のILO総会で初めて用いられた概念である。 「権利が保障され、十分な収入を生み出し、適切な社会的保護が与えられる生産的な仕事」であるディーセント・ワークを、ILOでは「すべての人にディーセント・ワークを(Decent Work for All)」を目指し活動している。 その仕事とは、「労働基準及び働く上での権利」「雇用」「社会的保護」「社会対話」の4つの柱で成立する。 社会対話をILOは、「政府、使用者、労働者の代表が、経済・社会政策に関わる共通の関心事項に関して行うあらゆる種類の交渉、 協議、あるいは単なる情報交換」と定義している。 そして、社会対話を可能にする条件として、以下を掲げている。 ・社会対話に参加する技術的能力を備え、関連する情報を入手できる機会が与えられた、強く、独立した労使団体 ・社会対話に従事しようとという政治的意思と決心が全当事者に存在すること ・結社の自由と団体交渉の基本的な権利の尊重 ・適切な制度的支援 ・社会的パートナーの代表が互いに平等なパートナーとして認識されること こうした社会対話の形態の1つが、春闘のような労使の二者構成だ。 その社会対話を経営の司令塔である経団連が「いらない」と言っているのだ。 労働組合からに講演会に呼ばれると、大抵聞こえてくるのは「組合に若い人が入りたがらない」「非正規の人が多いのに組合では正社員のことしか議論しないので、実態に合っていない」といった、組合のあり方への懸念であり、疑問だ』、「ディーセント・ワーク」の柱の多くは、ほぼすべて条約化されているが、日本は批准していないものが多い(Wikipedia)。日本は労働法制の面では後進国並みのようだ。
・『中西会長の出身母体である日立製作所の組合の雑誌に、私は数年間連載を持たせてもらったことがある。子会社や関連会社も多い日立グループにはたくさんの組合があり、活動が実に活発だった。いくつかの組合からは講演会に呼ばれたし、本体の日立製作所に呼んでいただいたこともある。 そのときの感想は「組合と会社がとてもいい関係にある」という、極めてポジティブなものだった。 なので、私は中西さんが経団連の会長に就任したときに、ものすごく期待した。あの日立のトップだった中西さんなら、時代遅れになっている経団連を変えてくれるのではないか、と。 働く人たちの視点で、カネではなく「人」を見てくれるんじゃないか、と。心から期待したのだ。 いったいどうしてしまったんだ? もっと働く人たちのやる気が湧くメッセージを、経団連の会長として出してくれよ!と、本当に残念でたまらないのである。 価値が多様化し、技術が日新月歩する予測不能な厳しい市場で生き残るには、企業が存在する意義を経営者がきちんと考え、自分たちの会社の価値判断を重視し、働く人たちが「誇りを持って働ける職場」とは何か?を考える経営をすることだ。 たとえばジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条(Our Credo)」のような、「自分たちのなすべきことは何か」の原点に立ち戻る経営について、経済界の司令塔としてメッセージを出すことじゃないのか。会長さん!私、間違ってますか?』、「経団連会長」に対する手厳しくも暖かい叱咤激励だ。
タグ:日経ビジネスオンライン PRESIDENT ONLINE 河合 薫 Newsweek日本版 佐藤智恵 日本型経営・組織の問題点 冷泉 彰彦 (その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている) 渋谷 和宏 「外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある」 日本人はなぜロボットを友達だと思うのか 「日本人のなぜ」について、メディア論やマネジメント論などそれぞれの分野で第一人者として知られるハーバード大学の教授陣に著者がインタビューし、わかりやすくまとめている 『ハーバードの日本人論』 日本のアニメが国境を超えて愛される理由 「忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習」 社内での打ち合わせや会議のための「社内出張」や、転勤、単身赴任などスルーすべきビジネス慣行が日本の会社には多い 「社内出張」 日本の場合はまだまだ同じ会社の中での打ち合わせや会議のために出張する、つまり「社内出張」の機会が多い 「社内会議のための出張」はほとんどムダ トラブルの発生時に「報告と謝罪」を対面式コミュニケーションでやるために呼び寄せることです。初動が大事であれば、現場の問題解決を本社は支援するべきところですが、ふんぞり返って「不始末は来て報告せよ、対応はそれからだ」というような姿勢の企業はどんどん淘汰されていくでしょう 2つ目にスルーすべきなのは、転勤 「人事ローテーション」と「ゼネラリスト育成」というのが、日本型人事 あらゆる業務内容が高度化し、専門性が問われるようになった現在、転勤のメリットは薄れており、残っているのは個人の人生設計を壊す弊害だけ 転勤に伴う単身赴任 忘年会に象徴されるような、公私混同体質を伴った封建的ヒエラルキーで人間性を束縛するのが「忠誠心」 国中、世界中のどこへでも辞令一枚で社員と家族を飛ばせると考えたり、これでは、まるで「お国替え」と「参勤交代」です 封建主義そのものであり非人間的であると同時に、21世紀の高度な生産性とは全く馴染みません 「何をいまさら経団連、日本型雇用は10年前に終わっている」 経団連が「日本型雇用の見直し」なるものを求めた 雇用制度全般の見直しを含めた取り組みが重要だ 賃金体系や人事制度についてもしっかり対応すべきだ 転換期を迎えている日本型雇用システム 専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要 組合側も組合側で、経団連の指針に“素直”に応じるような要求が相次いでいる 賃上げにめりはりをつけてほしい 2008年の「派遣村」が象徴していた日本型雇用の崩壊 非正規にしたくでもできない正社員の賃金を減らしたい。コストをとにかく減らしたい 「35~54歳」の「男性」だけが「“日本型雇用システム”の恩恵を受けている」 経団連の使命とは何だったのか 奥田碩 「人間の顔をした市場経済」 今の経団連から発せられる文言のどこに、「個人や地域の活力を引き出す」メッセージがあるのか? 日本型雇用システムを悪の根源のごとく叩きまくっているけど、それを生かす経営を今の経団連はしてきたのだろうか? 日経新聞が“異例”の経団連批判 経団連、この恐るべき同質集団 今の経団連は多様性の「たの字」もない集団 経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている 世界がディーセント・ワークを目指す時代に 社会対話は自由、平等、保障、人間の尊厳といった条件の下で、男女を問わずすべての人々がディーセント・ワークを得る機会を促進するというILO(国際労働機関)の目的達成においてカギとなる役割を果たしている ほぼすべて条約化されているが、日本は批准していないものが多い ジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条(Our Credo)」のような、「自分たちのなすべきことは何か」の原点に立ち戻る経営について、経済界の司令塔としてメッセージを出すことじゃないのか
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日本型経営・組織の問題点(その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、8月18日に取上げた。今日は、(その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義)である。

先ずは、東京工業大学教授・リベラルアーツ研究教育院長の上田紀行氏が9月10日付けダイヤモンド・オンラインに掲載した「仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/214248
・『相次ぐ企業の偽装事件、ストレスで心身を病む会社員、続く役人の文書改竄・不適切調査、そして長すぎる老後への不安――。なぜ、こんな世の中になってしまったのか。スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークをおこない、「癒し」の観点を早くから提示し、日本仏教の再生に向けた運動にも取り組む上田紀行・東京工業大学教授・リベラルアーツ研究教育院長は、いまの日本人には、したたかに「立て直していく力」が乏しいと言う。日本は何を捨て去ってしまったのか? 上田教授の著書『立て直す力』(中公新書ラクレ)から、悩みを消し去り幸福に生きるためのヒントをお伝えする』、「悩みを消し去り幸福に生きるためのヒント」とは興味深そうだ。
・『今の日本を覆う失敗を語れない雰囲気  満員電車を前にして、時折立ち尽くしてしまうことはないでしょうか。 通勤時間帯で、しかも人身事故でダイヤが乱れて、いつもより混雑しているときがあります。 人が引きちぎられるようにして降りてきて、人があたかもモノのような形で押し込まれていくさまを見ていると、立ち尽くしてしまうのです。残された隙間に突進していく力が湧いてこない。 それはおそらく、社会状況が変わってしまったからだと思うのです。昭和の頃は、ギューギュー詰めになった車内にからだを預けて、ともかく乗ってしまえば、からだはキツいかもしれないけれど、終着駅にはそれなりの幸せが待っていると思えた。 経済は右肩上がりだったし、終身雇用制度が維持されている会社も多かった。給与のベースアップも多少なりともあった。少なくとも、昭和から平成の最初の頃までは、漠然とした安心感があったわけです。多くの人がそういう感覚だったので、一体感のようなものがあったような気もします。「経済神話」「企業信仰」というものに守られている心強さもありました。 しかしバブル経済が崩壊し、リーマンショックという大波を受ける中で時代状況は変わりました。多くの企業に導入された成果主義は一層研ぎ澄まされ、ハードルの高いノルマがのしかかり、達成できないと厳しい上司から説教されたり、ネジを巻かれたりする。目標未達の月が続くと、いつ肩をたたかれるかと、針のむしろの状態が続くことになる。 生きづらい社会になっていったのです』、確かにその通りだ。
・『人間はとても壊れやすい いつの時代もこぼれ落ちる人はいる  寛容な社会であれば、まだ精神的に何とか持ちこたえられるのですが、飲みながら愚痴をこぼせた日常は、古き良き時代の趣きさえあります。 お能をみると、妖怪になって夜な夜な旅人を襲うような化け物がでてきます。ところがその化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです。そしてそのこころの内を旅の僧が聞いてやると、妖怪は天上に昇っていきます。誰でも突然不幸な境遇となることがあり、傷ついて妖怪となってしまう。そういうものがこころなのであって、常にピンピンしているものではありません。 時代が変わったとしても、人間のこころが強靭になるわけではありません。傷つきやすい、フラジャイルなものです。 高度経済成長の時代、経済神話、企業信仰があった時代、身分は企業という“御本尊”に守られていたので、会社に依存していればさほど問題はありませんでした。「安心」や「信頼」は、ある意味タダのようなもの、空気のようなものだと思い込んでいました。気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです。 そのことを痛感した、印象深いエピソードを紹介したいと思います』、「競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです。 スリランカで11年間大統領として君臨したジャヤワルダナ氏の逸話です。彼はまだ大蔵大臣だった1951年、サンフランシスコ講和会議にスリランカ代表として出席しました。 この会議では、第2次世界大戦後の領土問題や日本への賠償請求などについて話し合われました。日本に痛めつけられた国々からは、日本への厳しい意見が相次ぎました。「多額の賠償金を日本に求めるべきだ」「日本の自由を奪ってしまえばいい」というムードが漂っていました』、「サンフランシスコ講和会議にスリランカ代表として出席」、日本擁護をしたというのは覚えているが、詳細は忘れたので、以下をみてみたい。
・『日本の印象をがらりと変えたジャヤワルダナ大統領の演説  そんな中、「私たちは日本に対する賠償請求権を放棄する。ぜひ日本には寛大な措置をお願いする」と演説したのがジャヤワルダナだったのです。少し長くなりますが、以下、引用します。 「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます。これはビルマ(現ミャンマー)、ラオス、カンボジア、シャム(現タイ)、インドネシア、セイロン(現スリランカ)を通じて中国、日本にまで広まって、共通の文化と遺産をわれわれは受け継いできました。 この会議に出席するために途中、日本を訪問しました。その際に私が見いだしたように、この共通の文化はいまだに存在しているのであります。そして、日本の指導者たち、すなわち民間人のみならず、諸大臣から、また寺院の僧侶から、私は一般の日本人はいまだにあの偉大な平和の教師の影響を受けており、さらにそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。われわれは彼らにその機会を与えなければいけません」(『次世代に伝えたい日本人のこころ』) あまりに感動的な演説であったため、各国の日本に対する雰囲気はずいぶん変わったと言われています。そして注目すべきは、ジャヤワルダナが、日本の指導者を含め、民間人、諸大臣、一般の人までもが、平和の教えを説くブッダの影響を受け、それに従おうとしている、とみていたことです。 なぜ彼はそう思ったのでしょう。ジャヤワルダナが、先の講和会議に出席するためサンフランシスコへ向かう際、日本に立ち寄り、ある人物と会っていたのが明らかになっています。 当時、スリランカからサンフランシスコへの直行便はなく、日本を経由した際に鎌倉に立ち寄りました。会ったのは、禅をアメリカに広めた仏教思想家、鈴木大拙です。大拙と話して感動した話を、1979年に日本を再訪した際、天皇陛下の前で語っています』、「「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます」、さすがブッダだけあって、いいことを言ったものだ。
・『鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆  1951年当時の日本は、東京の半分ほどが破壊され、まだ戦争の惨禍に苦しんでいる状況でした。彼はそんな日本にあるいくつかの寺を訪問し、仏教指導者と面会しますが、なかでも大拙との邂逅は印象深かったそうです。ジャヤワルダナは次のように続けます。 「私は鈴木教授に、日本の方が信仰している大乗仏教と、私たちが信仰している小乗仏教はどう違うのかを尋ねました。すると教授はこう言いました。なぜあなたは違いを強調しようとするのでしょうか。それよりも、私たちはどちらも仏法僧(仏道における三宝、仏=ご本尊、法=経典、僧=仏道を歩む人)を護持することで共通しており、無常、苦、無我を悟るための八正道(涅槃に至るための八つの修行方法)を信奉しているではありませんか。私は日本の仏教徒とスリランカの仏教徒を結びつける強い絆があることを感じました」(同書) ジャヤワルダナは鈴木大拙や日本の僧侶たちに会って感動し、日本に流れている仏教の伝統を絶対に消してはいけない、われわれは仲間なのだと思い、日本を助けようということを説かれました。 しかし日本は、その後大きく変化していきます。 高度経済成長を遂げ、終身雇用制度を採る企業の数が増え、社員が安心して働ける環境が整うと、宗教になど頼る必要はなくなったと思ったのでしょう。仏教を捨て、単一化を推し進めていきました。 そのことをジャヤワルダナは、鋭く察知します。1968年に彼が日本を再訪したときのこと。大阪の万国博覧会を2年後に控えた当時の日本には、立派なビルや商業施設ができ、繁栄を遂げていました。それを目の当たりにした彼は驚きます。 17年前と同じように、彼は再び日本の僧侶たちに会います。それはジャヤワルダナたっての願いだったようです。各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います。経済的な繁栄の中で、仏教教団にも戦後すぐの緊迫感が失われていったのです。 そのことを1979年の宮中晩餐会でジャヤワルダナは次のように語っています。 「私が1968年に再び日本を訪れたとき、あなた方は以前と変わって物質的にとても繁栄していました。今日では日本国民は奇跡の復活を遂げ、国は富み、経済的には世界をリードする国のひとつとなりました。 しかし、私たちが知っているように、それだけが文明ではありません。私たちの周りにある、人によって建てられた偉大な建造物がひとかけらもなく消え去ったとしても、私たちがちょうど28年前に、サンフランシスコにおける演説で引用したブッダの言葉は、人々に記憶されていることでしょう。 ほかのあらゆる国々と同様に、日本においても壮大な権力がその必然的な終わりを迎えたとしても、あなた方の寺院から広まった理想や、あなた方の僧侶が実践した瞑想と敬虔な言葉は記憶され、そして、来たるべき世代の人類の型をつくっていくことでしょう」(同書)』、「鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆」、「ジャヤワルダナ」氏に強い印象を与えた「鈴木大拙」氏はさすがだ。しかし、1968年の再訪時に、「各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います」、高度成長が日本の「僧侶たち」から「宗教性」を失わせたのであれば、残念なことだ。
・『経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」  これはものすごい皮肉です。「日本がこんなに発展したのは喜ばしい。しかしあのときの鈴木大拙の言葉ははたして活かされているのか。自分を感動させ、サンフランシスコ講和会議で一大演説をさせた、日本の深い精神性はどうなってしまったのか?」というわけです。 当時はすでに日本人は海外から「エコノミック・アニマル」と呼ばれるようになっていました。1970年代、80年代の経済成長、そしてバブルに至る道を思い返してみれば、そこには明らかに経済至上主義による社会の単一化がありました。 ジャヤワルダナのエピソードをたどっても、やはり日本にも、昭和20年代前半には、複線の社会(経済人としての線、徳を積んで人間的な成長を人生において求める宗教人としての線)があったことがわかります。しかしその後、経済成長とともに、宗教を手放していったのです。 日本では、宗教や精神性がもっと身近にあったし、こころの中心にもあったのです。 しかしそれが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦らせるのに遅すぎることはありません。ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います』、「経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」、というのは問題だが、無宗教の私には、「日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います」には違和感がある。経済VS宗教、以外にももっと軸があるような気がする。

次に、筑波大学名誉教授の河合 忠彦氏が10月30日付けPRESIDENT Onlineに掲載した「サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/30027
・『「失われた30年」で、日本企業は敗北したのか?  日本経済にとって、平成時代は「失われた30年」でした。1989(平成元)年の日本の1人当たり名目GDPは世界第4位でしたが、2018(平成30)年には第26位に後退。この間の増加率は約58%で、同期間に約174%も増加したアメリカに比べ、率直に言って見劣りするものでした。 その要因は複合的ですが、目につくのは日本の大企業の没落です。89年には世界の企業の時価総額ランキング上位50社の中に、日本企業は32社ありました。それが18年、ランキング入りしていたのはトヨタ自動車の1社だけです。 そのひとつの象徴が、日本のエレクトロニクス産業の敗北でした。私の考える「敗北」とは、事業の赤字が続くこと、ないしは事業を縮小・撤退することです。スマホで負け、有機ELで負け、GAFAには及びもつかない。5G技術にしても、蚊帳の外です。 こうした現状が生じたのは、1990年代から2010年ごろにかけての薄型テレビ戦争で、日本メーカーが敗れてお金がなくなったことに起因します。結果、薄型テレビに続くスマホや有機ELなどの次世代製品の開発で後れをとり、GAFAのようなプラットフォームビジネスや、5Gのようなさらに次世代のテクノロジー競争にも置き去りにされてしまいました』、確かに電機業界の「敗北」ぶりは目を覆いたくなるほどだ。
・『「失敗の本質」を分析・把握し、克服する  日本経済が再び輝きを取り戻すためには、各企業が薄型テレビ戦争における「失敗の本質」を分析・把握し、克服する必要があります。一言で言えばそれは、トップ・マネジメント層の戦略の失敗(とりわけ、環境の変化に適切に対応する「ダイナミック戦略」の失敗)と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です。 まず、前者の失敗について説明しましょう。薄型テレビにおける日本企業の戦略の失敗は、大きく2つのカテゴリーに分けられます。1つは、最初はうまくいっていたのに、環境変化に伴う戦略の転換に失敗したパターンで、シャープとパナソニックがそれにあたります。もう1つは最初から苦労し、その後も傷が深くなるばかりだったパターンで、ソニー、東芝、日立製作所、パイオニアが該当します。 シャープは液晶の開拓者であり、当初は技術的に業界の先端を走っていました。一方で企業規模は比較的小さく、大量生産のための設備投資を機動的に行えるほどの体力はありません。そこで同社は技術力による差別化を戦略の核に置き、「亀山モデル」に象徴されるような大画面化や画質の向上に邁進しました。当初のうちはうまくいきましたが、他社もだんだん技術的にキャッチアップし、結局は価格競争に巻き込まれることを避けられませんでした。 パナソニックは液晶技術で後れを取っていたため、大型画面では液晶より有利とされていたプラズマディスプレイに経営資源を集中し、大規模生産でコストダウンを行って勝負に出ました。ところが、シャープをはじめとする液晶メーカーが徐々に大画面化に成功したため、消費電力や価格競争力で勝る液晶との競合が始まってしまいます。 そして両社に共通するのが、薄型テレビ市場がまさに飽和しつつあったタイミングで、それまでの戦略を転換すべく、大規模な工場を造ってしまったことです。その投資が重荷になっていたところに、08年のリーマン・ショック、さらに12年の家電エコポイント終了による需要減が起きたことで、より「負け」の傷を深くしました。 この2社以外の企業は、参入戦略の誤りや技術的な出遅れ、過去の成功体験や自社の技術力への過信、市場環境の変化に合わせた戦略転換の失敗などから、終始勝ち目の薄い戦いを強いられ続けました。そしてすべての日本の薄型テレビメーカーに共通することとして、先任社長が後継社長を選任した結果、前社長の影響力が残り続けるというコーポレート・ガバナンス上の問題が、戦略の適切な転換を妨げたことも指摘せざるをえません。「赤字続きだが前社長からのプロジェクトだから継続せざるをえない」といった案件が、どれだけ日本のメーカーの体力を削いできたことでしょうか』、「「失敗の本質」を・・・一言で言えばそれは、トップ・マネジメント層の戦略の失敗・・・と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です」、その通りだろう。
・『サムスンが覇権を握った理由  一方で、日本企業が苦闘する中、薄型テレビ戦争で覇権を握ったのが韓国のサムスンでした。サムスンは当初、シャープのように技術的に先行していたわけではなく、薄型テレビへの参入時は生産能力の増強による低価格戦略を基本としていました。では、何がその後の明暗を分けたのでしょうか。 液晶技術の進歩によって、業界全体が価格競争に巻き込まれ、先進国の需要がほぼ飽和しつつあった、という市場環境はサムスンにとっても共通でした。しかし、日本企業が低価格戦略(パナソニック)か技術による差別化戦略(シャープ)のいずれかに固執し、機動的な戦略転換に失敗したのに対し、サムスンはデザインやマーケティングによる差別化を含めた、柔軟な競争戦略を行いました。欧州市場で大ヒットしたワイングラス形シルエットの製品や、省エネをうたうLEDバックライト(技術的には比較的単純で、コストも大してかかりません)の製品などを開発し、市場で勝利したのです。 日本企業が無謀な設備拡大に走ったのに対して、ソニーと合弁でパネル生産会社を設立し、新興国市場向けの中型画面製品の需要拡大に合わせ、あえて最先端でない(ただし生産効率が高くて設備投資も安くすむ)生産設備の拡充を行うなど、パネル戦略の転換についても柔軟でした。日本とせいぜいアメリカ市場ばかりを見ていた日本企業に対し、サムスンが中国や南アジア、ブラジルなどを含む、よりグローバルな市場をとらえて戦略を立案していたことも一因でしょう。 この差が何から生まれるかといえば、やはりマネジメント層の戦略立案能力が、日本企業に比べてきわめて高かったからだと言わざるをえません。技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いたことがあります。一方、サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません。サムスンが日本企業との合弁や日本人技術者のヘッドハンティングを通じて、日本メーカーの技術を相当に吸収したのは事実です。しかし、薄型テレビ市場でシェアトップに押し上げたのは、最終的には経営戦略の優位性にあったと私は考えます』、「技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いたことがあります」、事実であれば救いようがない。「サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません」、彼我の差は極めて大きそうだ。
・『モノとプラットフォームを組み合わせて戦略  今後、日本のメーカーが再び輝きを取り戻すためには、これまで苦手としてきた企業戦略の部分、具体的には市場環境の変化に柔軟に対応する「ダイナミック戦略」の強化が不可欠です。競争戦略理論の古典であるポーター理論では、コストリーダーシップ戦略と差別化戦略は二律背反とされていますが、その両方を柔軟に組み合わせることは可能です。安くて品質がよく、ブランディングも巧みなユニクロは、その好例でしょう。また、GAFAのようにモノではなくプラットフォームベースで戦略をつくっていく、あるいはモノとプラットフォームを組み合わせて戦略を立てる方向もあるはずです。 そのためには、サムスンのように戦略立案に特化した参謀本部をつくるのも1つの手です。また、コーポレート・ガバナンスを強化して、前社長の戦略が惰性で継続されるような状況を防ぐことも必要でしょう。少なくとも中堅レベル以上の社員が競争戦略を理解するような土壌ができれば、そうした社員に見られている経営陣の緊張感も変わり、日本企業の戦略力は大きく向上していくはずです』、このほかにも日本企業が「カイゼン」という逐次的改革を重視し過ぎ、「競争戦略」を軽視してきた咎が出ているようだ。一刻も早く競争力を取り戻してほしいものだ。

第三に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が10月29日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00046/?P=1
・『ワールドカップ ラグビー日本代表はカッコよかった。鍛え抜かれた強靭(きょうじん)な肉体と自分たちを信じる力。本当にカッコよかった。「どこの国籍だかわからないヤツらばかりで、応援する気がしない」「見た目がね…」とディスっていた人も、きっと感動したはず(参考 「世界最低レベルの外国人受け入れ寛容度、ニッポンの末路」)。 しょっぱなから個人的な話になってしまうけど、父がラグビーを大学時代にやっていたので子供のときからゲーム観戦に連れていかれたり、私の母校が花園にも出場するラグビーの強豪校だったたりしたのでワールドカップは最初から見る気満々だったけど、ここまでのめり込むとは……自分でも驚いている。 録画したゲームを繰り返し見ても飽きないし、スコットランド戦の後半20分を見るたびに勇気がでる。よし、頑張ろう! まだまだできる!とやる気スイッチが押されるのだ。 いかなるスポーツの祭典も私たちに感動と勇気をくれるものだが、なぜ、ここまで日本代表に魅了されてしまうのか?』、河合氏がもともと「ラグビー」と縁があったとは初めて知った。
・『ラグビー日本代表に理想の信頼関係を見た  私は「ONE TEAM」「信頼」という、私たちの内部に組み込まれた人類の原点を彼らが具体的に見せてくれたからだと考えている。 メンバーが一丸となり、それぞれのメンバーすべてがMAXの力を発揮して活躍し、互いに信頼し合っているのを肌で感じ、たとえスーパースターになれなくとも、自分もあんな風にMAXの力を発揮したい。皆、ああいうチームのメンバーになりたい。そう願ったのではあるまいか。 状況が厳しければ厳しいほど、誰もが自分ができることを探し、互いが依存しあいながらも、それぞれが自立して動く。少々大げさな解釈になってしまうけど、そういった人類の歴史は私たちの深部に刷り込まれていて、日本代表の勇姿が「その部分」を刺激したのだ。 昨今の競争社会では「個の確立」だの「自立」だのという言葉ばかりが飛び交うけれど、人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する。 会社=COMPANY(カンパニー)はそのために存在し、個と個のつながりを育むのが、会社での“時間”であり“空間”である。 “The whole is greater than the sum of its parts.(直訳:全体は部分の総和に勝る)”というアリストテレスの名言は、まさに人間の本質なのだ。 というわけで今回は「チームと信頼」についてあれこれ考えてみようと思う』、「人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する」、その通りだろう。「全体は部分の総和に勝る」、が「アリストテレスの名言」だったというのは初めて知ったが、噛みしめがいがある言葉だ。
・『チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマンだ。 敗戦国でありながら、次々と「メイド・イン・ジャパン」の技を創出。世界の人々を驚かせた日本企業はどんどん成長し、日本は経済大国の一つになった。 それまでは研究者の関心はもっぱら個人主義、独立志向が高い米国だった。ところが、欧米のストレス研究者たちは「なぜ、日本のサラリーマンはあんなに元気なのか? なぜ、あんな技を次々と生み出しているのか?」と日本企業への関心を高めた。 その一人が日本企業を支える“経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレンだ。終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとしたのである。 アベグレン博士が日本型経営のプラス面を世界に発信した背景には、人をコストと考え、レイオフを当たり前のように行っていた競争第一主義の米国企業に「本当にそれでいいのか? もっと人の強みを引き出す経営手法があるのではないか?」と警鐘を鳴らすことが目的だったとされている』、「チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマンだ」、「日本企業を支える“経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレンだ。終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとした」、確かに思い出した。
・『米国流雇用の見直しから始まったチームワーク研究  いずれにせよ「終身雇用」のもともとの言葉は「Lifetime Commitment」。終身雇用から受けるイメージとは、ちょっとばかり異なる。「雇用」だとパワーが圧倒的に雇う側に委ねられている感じだが、「Lifetime commitment」だと「あなたの人生に関わらせてね」といった優しいニュアンスがある。 つまるところ、アベグレンは「企業」の本質は単なる市場労働の場ではなく、社会組織であり、リソースであり、そこで働く人たちが安全に暮らせるようにすることが最大の目的だと説いたのである。 もっとも米国ではそれからも働く人を非人格化した経営手法を続ける企業が後を絶たなかったわけだが、確実に「チームワーク」に着目する研究者は増えた。社会学や政治学などの分野で研究されていたソーシャル・キャピタル(社会関係資本)という概念が、企業経営で注目されるようになったのもその延長線上にある。 企業のソーシャル・キャピタルの重要性を説いたドン・コーエンとローレンス・プルサックによる「IN GOOD COMPANY」(邦題『人と人の「つながり」に投資する企業』)は日本の大部屋主義や給湯室など、日本企業にかつて存在した「人がつながる空間」に言及し、さらには来るべきSNS社会での働き方にまで思慮を巡らせた名著だ。 そういったチームワーク礼賛主義の流れの中で、「人はチームワークが苦手」という、これまた「確かに!」と多くの人がうなずく論説を打ち出したのが、チームワーク研究の第一人者の一人、リチャード・ハックマン博士である。 ハックマン博士いわく「ただ単にチームのこだわりだけではチーム力は発揮できない。メンバーたちのポテンシャルを生かすことができない」と。「世間ではチームをめぐる問題の原因と結果の順序を逆にとらえている」と指摘した』、どういうことなのだろう。
・『目標共有と達成感がチームを進化させる  具体例として挙げたのが、交響楽団を対象にした調査だ。 ハックマン博士いわく、個々がチームに多少の不満を抱えているオーケストラの演奏の方が、メンバー全員が満足しきっているオーケストラのパフォーマンスよりも優れていることが分かった。チームメンバーたちが「最高の結果を残したい」という目標を共有できていると、「もっと自分にできることはないか?」とおのおのが努力する。その結果として、いい演奏ができた時に「このチームのメンバーでよかった」と満足感が得られ、さらに「チーム力」は進化していたのである。 もちろんその前提条件として、リーダーが「チームづくり」にこだわり、絶対的な方向性を示すことが必要不可欠。リーダーは「チームとしていい結果を出すこと」にこだわり続ける必要があり、その熱がメンバーに伝わったときに初めて、個々人が自分に足りないこと、自分がやるべきことに向き合うことができる。 それはまさにラグビー日本代表を率いたジェイミー・ジョセフHCが掲げた「ONE TEAM」であり、「ベスト8進出」という日本代表の目標だった。リーダーの一貫した揺るぎない姿勢は、チームの価値観とルールになる。 同時に、チームメンバー全員に「自分が参加している」という感覚を持たせることもリーダーの大切な仕事だ。 ワールドカップ日本代表チームのロッカールームには、ジェイミーHC(ヘッドコーチ)からのメッセージが、メンバー一人ひとりのロッカーに張られていた。おそらく彼は彼がHCに就任してからも常に、リーダーとして、個々のメンバーと向き合い「アナタは必要な存在だ」というメッセージを送り続けたのではないだろうか。 とはいえ、メンバーが増えれば増えるほど、リーダーの思いは届きづらくなるという側面もある。人が「一人の人」と日常的に向きあえるのはせいぜい10人。最適な人数は6人という調査結果もある。 日本代表はその点もクリアしているのが、これまたすごい。 報道されているとおり、リーチ・マイケル主将を筆頭に、プロップの稲垣啓太選手、ナンバーエイトの姫野和樹選手、フランカーのピーター・ラブスカフニ選手、スクラムハーフの田中史朗選手、スタンドオフ田村優選手、ウイングの松島幸太朗選手らに、リーダーとしてチームのかじ取りを任せた。 そして、それぞれのリーダーのもと、少人数のミーティングを繰り返し行い、メンバー一人ひとりが発言し、現状の問題点や今後の課題を話し合うことで、「ONE TEAM」という価値観を浸透させていったのだ』、オーケストラでは「チームメンバーたちが「最高の結果を残したい」という目標を共有できていると、「もっと自分にできることはないか?」とおのおのが努力する。その結果として、いい演奏ができた時に「このチームのメンバーでよかった」と満足感が得られ、さらに「チーム力」は進化していた」、ラグビー日本代表は、「それぞれのリーダーのもと、少人数のミーティングを繰り返し行い、メンバー一人ひとりが発言し、現状の問題点や今後の課題を話し合うことで、「ONE TEAM」という価値観を浸透させていったのだ」、ここでラグビーに結び付けた筆力はさすがだ。
・『「もの言える空気」は上から下へと伝わる  自分の意見を聞いてくれる「人」がいるからこそ人は発言する。「こんなこと言っちゃいけないんじゃないか」という心配をしなくてもいい「空気」があるからこそ、人は言いづらいことや失敗を言うことができる。 そういった空気が生まれるのはリーダーがメンバーをリスペクトするからであり、そのリスペクトをその下の小グループのリーダーが肌で感じることで、小グループのメンバーにもリスペクトが生まれる。上から下、下から横に「いい空気」が伝染し、初めてチーム全体の空気感が出来上がっていくのである。) 10年ほど前になるが、清宮克幸氏(現日本ラグビーフットボール協会副会長)をインタビューさせていただいたことがあった。 数々の金字塔を打ち立ててきた清宮氏だが、そのきっかけは早稲田からサントリーに入り、キャプテン失格になったことだと話してくれた。 清宮氏はサントリーに入社後、「こんな練習をやっていたら日本一なんかなれない。俺にキャプテンをやらせろ!」と25歳のときにキャプテンに就任する。 ところが出る試合出る試合負けばかり。27歳までキャプテンをやり続けたが一度も勝てなかった。で、キャプテンをやめた翌年、全国社会人ラグビーでサントリーは優勝する。 「やっと俺が間違っていた、俺に足りないものがあったと受け入れられました。結局、『俺が俺が』ってとにかく独りよがりだった。なんでも自分でできると過信していたんです。チームは組織。組織が機能するチームにしないとダメ。自分でできることは限界があることに気づいたんです」(清宮氏)。 どんなにリーダーが優秀でも、リーダーシップを発揮するにはフォロワーであるメンバーたちの力が不可欠。チームにはチームワークを発揮させる仕組みが必要であり、チームの力はリーダーの価値観がクモの巣のようにチームに張り巡らされ、クモの巣から誰一人として漏れない組織がつくられて発揮できる』、清宮氏がこんな挫折を経験していたとは初めて知った。
・『真の競争力は個々が信頼されるチームから生まれる  どんなに能力があろうとも、周囲と「いい関係」がない限り、その能力が生かされることはない。 人から信頼されている、愛されている、見守られている、認められていると認識できたとき初めて、人は安心して目の前の難題に全力で取り組むことができる。自らの行動に責任を持ち、自分の力を極限まで引き出す胆力が育まれる。 ラグビー日本代表はそんな人の本質を教えてくれたのだ。 そういえば、かの松下幸之助氏は、「和の精神とは、人と対立することを避けて、表面的に仲良くやっていくという意味での和ではありません。私たちが考える和の精神とは、まず皆が自由に正直に話し合い、お互いの意見や価値観に違いがあることを認め、その違いを尊重したうえで、共通の目標のために協力し合うという、相違や対立の存在を前提とする和なのです」と説いたが、これも真のチーム力の言葉ではないか。 最後に……。今回の日本代表の躍進をさらに理解するためにオススメの映画を2つ。「ブライトンミラクル」と「インビクタス」。映画界の回し者ではありませんが、学びが多い映画なのでこの機会にぜひ』、松下幸之助氏の「和の精神」もなかなか含蓄のある言葉だ。
タグ:スリランカ ソーシャル・キャピタル 日経ビジネスオンライン 上田紀行 ダイヤモンド・オンライン お能 PRESIDENT ONLINE 河合 薫 日本型経営・組織の問題点 (その8)(仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン、サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質、チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義) 「仏教国・スリランカ大統領が嘆いた「精神性」なき経済大国ニッポン」 『立て直す力』 悩みを消し去り幸福に生きるためのヒント 今の日本を覆う失敗を語れない雰囲気 昭和から平成の最初の頃までは、漠然とした安心感があった 「経済神話」「企業信仰」というものに守られている心強さも バブル経済が崩壊し、リーマンショックという大波 成果主義は一層研ぎ澄まされ、ハードルの高いノルマがのしかかり、達成できないと厳しい上司から説教されたり、ネジを巻かれたりする。目標未達の月が続くと、いつ肩をたたかれるかと、針のむしろの状態が続くことになる。 生きづらい社会になっていった 人間はとても壊れやすい いつの時代もこぼれ落ちる人はいる 化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです 傷つきやすい、フラジャイルなものです 気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。 そのセーフティネットの1つが宗教なのです 11年間大統領として君臨したジャヤワルダナ氏 サンフランシスコ講和会議 日本の印象をがらりと変えたジャヤワルダナ大統領の演説 「私たちは日本に対する賠償請求権を放棄する。ぜひ日本には寛大な措置をお願いする」 「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を私たちも信じます 日本の指導者たち、すなわち民間人のみならず、諸大臣から、また寺院の僧侶から、私は一般の日本人はいまだにあの偉大な平和の教師の影響を受けており、さらにそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。われわれは彼らにその機会を与えなければいけません 日本を経由した際に鎌倉に立ち寄りました 会ったのは、禅をアメリカに広めた仏教思想家、鈴木大拙 鈴木大拙との面会が転機に 日本とスリランカを結んだ仏教の絆 1968年の再訪時 各宗派のトップの僧侶が集められたのですが、ジャヤワルダナがいくら仏教的な話をしても、僧侶たちの反応は芳しくありません。宗教性を感じられず、彼はひどく落胆したと言います 経済至上主義による単一化で崩れてしまった日本の「複線社会」 それが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦らせるのに遅すぎることはありません。ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います 河合 忠彦 サムソン覇権を許した日本大企業の真の"戦犯" "失われた30年"日本企業の失敗本質」 「失われた30年」で、日本企業は敗北したのか? 89年には世界の企業の時価総額ランキング上位50社の中に、日本企業は32社ありました。それが18年、ランキング入りしていたのはトヨタ自動車の1社だけ 日本のエレクトロニクス産業の敗北 「失敗の本質」を分析・把握し、克服する トップ・マネジメント層の戦略の失敗(とりわけ、環境の変化に適切に対応する「ダイナミック戦略」の失敗)と、経営者の選任等におけるコーポレート・ガバナンスの欠如です サムスンが覇権を握った理由 日本企業が低価格戦略(パナソニック)か技術による差別化戦略(シャープ)のいずれかに固執し、機動的な戦略転換に失敗 サムスンはデザインやマーケティングによる差別化を含めた、柔軟な競争戦略を行いました 技術畑出身の経営者が多く、戦略の話をしたら上司に叱られたという話を日本メーカーの方から聞いた サムスンにはMBA取得者らによる「参謀本部」のようなものがあり、戦略立案とその遂行能力は日本企業の比ではありません モノとプラットフォームを組み合わせて戦略 「チームワーク至上主義の誤解と「ONE TEAM」の奥義」 ラグビー日本代表に理想の信頼関係を見た 全体は部分の総和に勝る)”というアリストテレスの名言は、まさに人間の本質 人類は他者と協働することで生き残ってきた。社会的人間である人間にとって、唯一無二の「個」などファンタジー。「個」と「依存」を対極に取って捉えるのではなく、共存させることで真のチームは成立する チームワークやチーム力が、社会学や組織心理学で礼賛されるようになったのは1970年代後半以降とされている。 その火つけ役の一つが、日本のサラリーマン “経営の三種の神器”として、「終身雇用、年功制、社内組合」を挙げた米国の経営学者ジェームズ・C・アベグレン 終身雇用や年功制は、今では諸悪の根源のごとく言われているけど、実はこれらがすべての人間に宿る「たくましさ」を引き出す経営手法だとした 米国流雇用の見直しから始まったチームワーク研究 「人はチームワークが苦手」 ハックマン博士いわく「ただ単にチームのこだわりだけではチーム力は発揮できない。メンバーたちのポテンシャルを生かすことができない」と。「世間ではチームをめぐる問題の原因と結果の順序を逆にとらえている」と指摘した 目標共有と達成感がチームを進化させる 「もの言える空気」は上から下へと伝わる 真の競争力は個々が信頼されるチームから生まれる
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政府財政問題(その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!) [経済政治動向]

昨日に続いて、政府財政問題(その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!)を取上げよう。

先ずは、三井住友DSアセットマネジメント ファンドマネージャーの山崎 慧氏が4月9日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「日本版MMT」の効果が疑わしい理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/199318
・『議論を呼ぶ「MMT」日本で実質的に行なわれている  昨今、経済論壇でMMT(Modern Monetary Theory/現代金融理論)が話題となっている。MMTとは、自国通貨の発行権を持つ国では自国通貨建てで国家債務のデフォルト(債務不履行)が起こらず、政府は無限に信用を供与できるという主張である。 これまで話題に上ることは少なかったが、政治経験がない元ウェイトレスの経歴を持ちながら、昨年の米下院議員選挙に史上最年少で当選した民主党のオカシオコルテス氏が、自身が推し進めるグリーンニューディール政策(環境・再生可能エネルギー関連の財政支出拡大)の財源としてMMTを提唱したことで注目を集めた。 同氏は、ブログにて、「オリジナルのニューディール政策、第二次世界大戦、2008年の銀行救済、量的緩和、私たちの現在のすべての戦争と同じように、連邦準備制度理事会(FRB)は信用を供与することでグリーンニューディールの財源を手当てすることができる」と主張している。 これに対し、ジェローム・パウエルFRB議長、黒田東彦・日本銀行総裁など主な各国中央銀行首脳らは「危険な考え方だ」と異を唱えており、欧州中央銀行(ECB)の次期総裁の有力候補であるフランソワ・ビルロワドガロー仏中銀総裁は「ハイパーインフレになる大きなリスクがある」とMMTを強く批判した。 ただ、MMTのように、政府の債務を中央銀行が引き受けることによって財政政策を拡大させるという考えは決して突飛なものではなく、むしろオカシオコルテス氏の言うように、有史において幾度も用いられてきたオーソドックスな考え方だ。それどころか、この政策はすでに日本で行われているとも言える。 2013年に量的・質的金融緩和が導入され、2016年にマイナス金利付き量的・質的金融緩和にてイールドカーブコントロールが導入されるまで、日銀の国債購入額は新規発行額を大幅に上回っていた。一方、財政政策はこの間、アベノミクスの三本の矢のうちの第二の矢として大規模化していた。これは、財政政策の財源となる国債を日銀が引き受けていると明示されていないだけで、アベノミクスにおける金融緩和と財政支出拡大のポリシーミックスは、オカシオコルテス氏の目指しているものに非常に近い。 こうした、「日本版MMT」の結果はどうであろうか。2013年から2016年までの消費者物価は、生鮮食品とエネルギー、消費税を除くベースで前年比+0.5%(年率)にとどまっており、日銀は現在に至るまで2%の物価安定目標の達成に苦慮している。ハイパーインフレが生じるどころか、政府はデフレ脱却宣言すら行えておらず、「日本版MMT」を用いてもなお物価の押し上げに失敗している』、確かに目新しいものではなく、「日本版MMT」を行っているが、実効性に乏しいようだ。
・『劇薬どころかかなり疑わしい日本版ヘリコプターマネーの効果  今後も財政と金融の協調の議論が続くのであれば、これまで講じられてきた政策が不十分だとして、さらに踏み込んだ信用供与に話題が移ることになるだろう。具体的には、政府による日銀保有国債のデフォルトだ。 日銀保有国債の永久債化や、日銀引き受けによる政府紙幣の発行も同種の考えで、これらはヘリコプターマネーなどとして定期的に話題に上っている。たとえば、若田部昌澄・日銀副総裁は、副総裁に就任する前の2015年2月5日の朝日新聞のインタビューで、「政府と一体と考えられる日銀が持っている国債260兆円は国のバランスシートから落とせる」と発言しており、政府と日銀の間で資金を貸し借りしているのだから、両者を合わせた組織(統合政府)として考えれば、債務は相殺され消えるという理論として語られることが多い。 一般に、こうした政策・考え方は劇薬・禁じ手と言われているが、実際には劇薬どころか効果がかなり疑わしい。簡略化して考えると、日銀のバランスシートにおける保有国債(資産)の裏付けは、当座預金(負債)であり、これは民間銀行のバランスシートにおける当座預金(資産)を通じて国民の預金(負債)と繋がっている。 すなわち、日銀の保有国債をデフォルトさせることは、国民の預金をデフォルトさせることと同義となる。これは政治的にほぼ不可能であり、仮に実施されたとしても国民負担による財政再建となるため、増税による財政再建となんら変わらない。 保有国債をデフォルトさせても、国民の預金は保護すればいいという考えもある。ただし、この場合、日銀は債務超過となり、政府債務が日銀債務に置き換わっただけとなる。政府が借金しているのはあくまでも民間部門に対してなので、日銀の保有国債をデフォルトさせたところで、統合政府の債務は消えないのだ。政府債務が減る同額だけ日銀債務が増えたところで、何か変化が起こるのだろうか。 中央銀行が債務超過になったことで、多少のインパクトがある可能性は残るものの、同額の政府債務も減少することを考えると、財政再建の前進とも後退とも捉えられず、これによって物価に何らかの影響が及ぶとは考えにくい』、「若田部昌澄・日銀副総裁は、副総裁に就任する前」とはいえ、MMTを評価する発言をしていたとは初めて知ったが、日銀副総裁としての適格性を大いに疑わせる発言だ。
・『杞憂に終わる日本版MMT 物価上昇モメンタムが途切れる恐れも  まとめると、これまで行われていた「日本版MMT」は物価に対して影響を与えておらず、より踏み込んだ政策をとっても影響は薄いように思える。結局のところ、財政政策の拡大が物価に影響を与えるかどうかは、財源の調達方法ではなくその規模と使途に依存する。歴史上、ハイパーインフレのほとんどが放漫財政ではなく、大規模な国家予算の投入が将来の利益につながらなかった敗戦が原因となって生じてきたことがその証左だろう。 MMTに対しては懸念が表明されているものの、その議論が日本に及ぼす影響は良くも悪くも限定的だろう。むしろ現段階では、MMTがハイパーインフレを招くリスクを心配するよりも、景気が腰折れし、日銀の言う物価の上昇モメンタムが途切れるリスクをより心配すべきではないだろうか。 名目GDPの伸びがここ1年半にわたって完全に停止し、足元で景気動向指数が「下方への局面変化」を示しているにもかかわらず、消費増税を強行することになれば、2014年と同様の結果になるのが目に見えている』、景気腰折れの「リスクをより心配すべき」というのはその通りだろう。

次に、SMBC日興証券 チーフ金利ストラテジストの森田 長太郎氏が3月26日付け東洋経済オンラインに寄稿した「MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/275326
・『財政赤字の積極的な拡大を推奨する「現代金融理論(MMT、Modern Monetary Theory)」をめぐり、米国では経済学者たちがメディアを巻き込み、論争を展開している。その論争の内容は、われわれ日本人にとっては失笑を禁じえないところがある。また、ある種のデジャビュを感じるものでもある。 MMTを主張する経済学者たちは、経済学コミュニティにおいては少数派だ。批判する経済学者のほうが数も多いうえ、地位や名声もはるかに高い。この数カ月間で、ポール・クルーグマン、ラリー・サマーズ、ケネス・ロゴフといったそうそうたる面々がMMTを批判する議論を展開しており、ジェローム・パウエルFRB(米国連邦準備制度理事会)議長や黒田東彦日本銀行総裁をはじめ現役の中央銀行幹部も批判の弁を述べている。メディアはこの論争を「主流派経済学 vs 非主流派経済学」という描き方で盛り上げている。 印象から言えば「非主流派」がずいぶんと威勢よく攻勢をかけているのに対し、「主流派」の反論は何やら昔ながらの教科書を紐解くような内容で、今ひとつ歯切れが悪い。経済学コミュニティの外野からは、小勢ながら果敢に攻める「非主流派」に「ヤンヤ」の声が掛かる状況だ。MMTは現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝されており、米国では特にポピュリスト政治家やトランプ政権を政治的に攻めあぐねている野党民主党の政治家の中にこの理論の信奉者が少なからずいる』、米国で「現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝」というのは誇大喧伝だ。
・『日本における「リフレ派vs反リフレ派」にそっくり  筆者が「失笑を禁じえない」というのは、MMTと主流派経済学者たちのヒステリックな議論に、「どっちもどっちではないか」と思わせるところがあるためだ。特に、1990年代後半以降、日本の経済政策を最も声高に批判してきたポール・クルーグマンが、「財政政策は金利がゼロ%の下限に達してからのみ意味がある」というようなMMTに対する批判を述べているのを聞くと、「五十歩百歩だろう」とつっこみたくなる。 また、「デジャビュを感じる」というのは、「MMTvs主流派経済学者」の論争は、過去20年超も続いているわが国における「リフレ派 vs 反リフレ派」の論争と完全にオーバーラップするからである。当のクルーグマンはベン・バーナンキ元FRB議長と並んで、日本のリフレ派論者たちに盛んに援用されてきた「リフレ派の理論的支柱」とも言うべき経済学者だ。「極論を主張するリフレ派に対して正論を述べる反リフレ派論者」というわが国の構図が完全に攻守逆転する形で、「極論のMMTに対して正論を述べるクルーグマン」という形になっているのが何とも皮肉である。 ここで、日本の「リフレ派 vs 反リフレ派」論争の最大のインプリケーションを述べておくと、「正論必ずしも勝たず」ということであろう。リフレ派は決して議論に勝ったわけではないが、主張した政策を実現する機会をつかんだ。米国における「MMTvs主流派経済学」も、MMTをポピュリスト政治家が支援しているため、同じ構図に見えてならない。 さて、米国の経済論壇を騒がせているMMTなるものの本質は何なのか。 クルーグマン先生も解説してくれているように、アバ・ラーナーの「機能的ファイナンス」といった古めかしい経済議論にその淵源があるようだ。当のMMTを主張する学者たちもまた、そう認めている。ラーナーの議論を踏襲するMMTの主張を簡単にまとめると、①金融政策が民間の経済活動に対して適切な水準に金利をコントロールしてさえいれば、あとは財政政策で完全雇用とインフレ目標を100%達成できる、②財政赤字はどれだけ拡大させても問題は起きない、という2点に尽きる。 このMMTの主張に対して、クルーグマンなどは先に述べたように、「金利がゼロ%の下限に達した場合には財政拡大はOK」と言っているので、その論は「MMT批判」のようでいて、実際にはMMTの「限定容認」になってしまっている。クルーグマンの場合、「ある段階までは金融政策、ある段階からは財政政策」という2段階の政策を主張しているのだが、完全雇用を達成するまでは政府と中央銀行が需要を無制限に創出すべきであり、政府も中央銀行もその能力を持っていると主張していることにおいては本質的に変わらない。 「主流派経済学者」といっても、現代の米国においてはかつてのようなガリガリの新古典派、新自由主義信奉者はすでに多数派ではない。市場調整機能の限界を所与とした上で政府や中央銀行の積極的な需要創出を支持するいわゆる「ニュー・ケインジアン」が現代の主流派といってよい。 ニュー・ケインジアンは公的部門の経済への介入を積極的に容認するのだから、政治的には「リベラル」との親和性が高い。そのため、彼らがMMTを批判してもしょせん迫力に欠けるのだ。ましてやクルーグマンなどは、主流派の範疇からもやや外れており、主張そのものはオールド・ケインジアンに近い。そのクルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽なのだ』、「失笑を禁じえない」、「デジャビュを感じる」、「クルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽」などというのは手厳しい批判だ。
・『MMTは会計上の資産負債の一致を述べているだけ  こう言ってしまうと、MMTをめぐる論争は、現代の主流派経済学者のうち多数派を構成するケインジアン(=ニュー・ケインジアン)と、もっと古風で先鋭的なケインジアン(=MMT)の「五十歩百歩対決」なのだと結論づけてしまってもよいように思えるが、実際にはもう少し複雑な要素を含んでいる。 アバ・ラーナーに端を発するところの「財政赤字はいくら増やしても何も問題ない」という主張だけを取り出していえば、これはレーガン減税の理論的根拠にもなった「ラッファー・カーブ(=減税すれば経済成長によって減税額以上に税収が増えるという主張)」のような「ブードゥー経済学」のようにも聞こえるのだが、さすがにそれでは議論が粗すぎる。 ラーナーが主張し、MMTが受け継いでいる最も重要なコンセプトは、「誰かの負債は必ず誰かの資産」ということである。どういうことかというと、「財政赤字(=政府の負債)によって減税を実施すれば、国民は減税によって貯蓄(=資産)が増えるので、つねに発行された国債の額と国民の資産増加額は会計的に一致する」ということである。そうであれば、財政赤字によってどれだけ政府の債務が積み上がったとしても、それに見合った国民の資産は増加しているのだから問題はない、というのである。 このロジックを聞いて、「だまされている」ような感覚を持つ人は少なくないだろう。けれども、少し考えてみると、このロジック自体は簡単には論破できないものであることにも気づくはずだ。 「誰かの借金は誰かの資産」→「国の借金は国民の資産」→「政府債務がいくら増えても会計上は帳尻が合っている」というMMTのロジックは、この限りにおいては間違いではない。そこから、彼らは「主流派経済学者は歯止めなき財政拡張はいずれハイパーインフレをもたらすと批判するが、そんなことはない」→「財政赤字はどんどん拡大すべきである」という結論を導き出すのである。 しかし、このロジックは、「金融政策万能論」に近い考え方を採る現代の主流派経済学である「ニュー・ケインジアン」と、その牙城となっている主要中央銀行(FRB、日銀、ECB)からすると、とてもそのままでは容認できないものである。 なぜならば、「財政赤字を拡大すると国民の資産が増える」というのが事実であるならば、「財政政策がマネーサプライ(=国民の金融資産)を決定するのであり、中央銀行が決定するのではない」と言っているのに等しいからである。若干マイルドな言い方に変えれば、「中央銀行もマネーサプライの決定に関与するものの、財政政策はそれと同じかそれ以上に強く関与する」ということになってしまうのである』、これでは、「主要中央銀行」が目の敵にするのも頷ける。
・『「財政政策が決める」とするMMTの根拠  ここで少し冗長にはなるが、政府が財政赤字を拡大して国債を発行した時に実際に起きていることを正確に描写してみたい。 「政府が1億円の減税を決定して1億円の国債を発行」→「銀行Aが準備預金を取り崩して国債1億円を購入」→「中央銀行の管理する政府預金が1億円増加し、銀行Aの準備預金が1億円減少」→「中央銀行は銀行Aから国債1億円を購入して資金を供給し、銀行Aの準備預金は元の水準に戻る」 さらに「政府は増加した預金勘定の1億円で国民Bに対して減税を実施」→「国民Bは減税資金を受け取りそのまま銀行Aに1億円預金」→「政府預金が1億円減少して銀行Aの準備預金が1億円増加」→「中央銀行は銀行Aに1億円の国債を売却して資金を吸収」→「銀行Aの準備預金は1億円減少して元の水準に戻る」→「最終的に銀行Aの準備預金は変化せずに国債保有が1億円増加し、国民Bの預金は1億円増加」 さて、この長ったらしいプロセスを注意深く見ると、中央銀行はただ銀行の準備預金の水準を一定に維持するためだけに行動している。その結果、政府が国債を1億円発行して減税を実施したことで何が起きたかというと、銀行Aの国債保有が1億円増加し、国民Bの預金が1億円増加している。 そして、政府の財政赤字の額(=政府負債の増加額)と銀行の国債保有(=資産増加)が一致し、銀行の資産増加は国民の資産増加(=預金増加)に見合ったものになっている。ここでは財政政策が国民の金融資産(=マネーサプライ)を増加させているわけであり、中央銀行の働きはひたすら受動的ということになる。 このプロセスをもってMMTの論者は、中央銀行が経済の水準(ここではマネーサプライが重要であるという前提)を決めるのではなく、財政政策が決めているのだと主張している。同時に、財政赤字をいくら増加させても国民の負担にはならないとの議論が展開される。MMTの論者は、そもそも中央銀行はマネーサプライを増減させる能力はないとまで主張するわけだが、上記のプロセスを見る限り、結果として中央銀行はマネーサプライの増減に対して受動的に行動していることは確かである。 しかし、MMTを主張する人々よりもはるかに前から、この議論を行なっていたのは、実は日本銀行であったということを忘れてはならない。 1990年代前半に経済学者の岩田規久男(前日銀副総裁)と日銀スタッフだった翁邦雄が『週刊東洋経済』で繰り広げた「翁-岩田論争」である。ここでは、翁が中央銀行は準備預金を能動的に増減させることはできず、マネーサプライに与えられる影響力も限定的であると主張していた。MMTが声高に主張している議論は、すでに20年以上前に日本で行われていたわけである。そして、当時、日銀の「受動的な金融政策」は間違いだと主張した岩田らの論が、2000年代以降に日銀の政策として段階的に採用され、実験されていくことになるのである。 この実験の結果、中央銀行のマネーサプライ管理能力については、おおむね翁の主張に沿った結果が出ており、MMT論者の主張も、その面においては支持されている。ただし、話はこれでは終わらない。 上記の「財政赤字→国債発行」のプロセスを根拠にMMT論者が「財政赤字は誰の負担も増やさない」という結論を単線的に導こうとするのであれば、この結論を論破するのは簡単である。単純な話だが、「減税された資金をまったく使わずにそのまま預金するのであれば、そもそも何も変わらないのは当たり前」なのである。国債の金利支払いも財政赤字でまかなわれると考えれば、その分も減税と同じ扱いにできる』、「翁-岩田論争」まで引用するとは筆者の博識ぶりに驚かされた。
・『「リカード中立」を前提にするなら乗数効果はゼロだ  実は、ラーナーやMMTの使っているトリックはここにあるわけだが、「誰かの負債は誰かの資産」なので誰の負担にもなっていないというのは、あくまでも「バランスシート」もしくは「ストック」の議論である。前述の例では、「国民Bは減税資金を受け取りそのまま銀行Aに1億円預金する」としているが、これはつまり、財政政策の乗数効果が「ゼロ」である状況を想定している。「完全なリカードの中立命題が成立している」という言い方にもなる。「リカード中立」は「財政赤字を拡大しても、国民が将来の増税を予想してしまうと一切資金を使用しない」という状況を指す。 しかし、実際には減税資金のうちいくらかを消費に回すからこそ経済効果があるわけであり、そもそもラーナーもMMTもその効果に期待して「財政政策でいくらでも雇用やインフレをコントロールできる」と主張しているわけである。結局、「誰かの負債は誰かの資産」あるいは「財政赤字は誰の負担にもなっていない」というのは、「恒等式」の関係を述べている、「会計上、バランスシートの右と左は釣り合っている」と言っているにすぎないのである。 トリックとはいえ、ラーナーやMMTの言っている議論も、ある時代、ある局面においては、現実に起こっている経済状況を的確に説明できていたりもする。例えば、1990年代後半から2000年代半ば頃にかけての日本の国債市場のケースなどである。 この時期、日本政府が景気対策として財政赤字拡大政策を採るたびに、過大な国債発行が長期金利の上昇を招くのでないか、それがむしろ経済にネガティブな影響をもたらすのではないかとの懸念が高まった。だが、実際に国債発行による本格的な長期金利上昇は起きなかった。この事象を振り返って、「ほら見ろMMTの正しさは2000年前後の日本で証明済みだ」などとわけ知り顔で語る論者もいる。 だが、当時から日本の債券ストラテジストたちは、このメカニズムについて正確に把握、指摘していた。すなわち、。財政赤字による国債発行はマネーサプライを増加させ、それは銀行の預金を増加させる。あるいは、「預貸ギャップの拡大」を招き「貸出に対する預金超過」を生む。それは、銀行の国債保有を促す形となり、結局、長期金利の上昇をもたらさないだろう――。このように予想していた者が少なくなかったのである。つまり国債発行が貸出の大幅な増加に結びつかない、財政による乗数効果の低いことが景気対策の効果が細っている理由でもある。 なお、「翁-岩田論争」は、中央銀行のマネーサプライ・コントロール能力に焦点を当てた議論であったが、財政政策、金融政策を共通の土俵で扱い、マネーサプライとの関係を分析するという作業を古くから行なっていたのも、世界の中央銀行のなかで実は日銀であった(末尾のコラム参照のこと)』、「財政赤字による国債発行は」「長期金利の上昇をもたらさないだろう」との債券ストラテジストたち見方は正しかったことになる。
・『MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている  MMTの論者は、中央銀行が雇用やインフレに及ぼす影響力はなく、すべてを創出するのは財政政策だと主張するが、この主張は「明確な誤り」である。金融政策は、局面によってはほとんど無力に近い時もあるが、メカニズムとしては民間部門債務と海外債務の変動を通じてマネーサプライを増減させ、雇用やインフレに影響を及ぼすことがある程度はできる。 しかし、「マネタリスト的」な金融政策万能論を振りかざすタイプのニュー・ケインジアンによる「金融政策こそがすべて」という主張も、同じくらい「明確な誤り」である。2000年代の日本のケースなどは、翁邦雄が主張したように、マネーサプライの変化を通じて中央銀行が雇用やインフレに影響を及ぼす経路が非常に細っていたのである。どちらの議論も、リアルな経済と資金の流れをあまりにも「単純化」しすぎていると言わざるを得ない。 確かに「財政」によるマネーサプライ増減のメカニズムは「シンプル、直接的」ではある。しかし、それでも減税資金が100%預金されてしまうのか100%支出されるのかによって、実体経済へのインパクトは大きく変わってくる。一方、「金融政策」によるマネーサプライ増減のメカニズムは、民間部門債務が増減する複雑なメカニズムのある部分しか担っていないという意味で、その波及経路はより分かりにくい。 しかし、いずれにせよ、「将来の成長期待」「競争環境」「技術革新」「金融規制」さらには「社会全体のセンチメント」まで実に多岐にわたる要素が影響するのである。こういった複雑な要素を捨象して、「財政政策がすべてだ」「いや金融政策だ」と経済学者や評論家たちが主張をぶつけ合っている姿自体があまりにも現実離れしており、空想世界に生きているように見える。それこそクルーグマン流に言うならば、「はるかに多様な要素が影響しているんだ、バカ!」ということになる。 アバ・ラーナーが「機能的ファイナンス」というコンセプトで語ったのは、「財政赤字を善悪で判断するのではなく、雇用とインフレに影響を及ぼしうる唯一のツールとして、その結果あるいは効果で判断すべきだ」ということであった。しかし、現実には「財政政策」は唯一のツールなどではない。それどころか、その政策が効果に結びついていく経路には「リカード中立の程度」という非常に想定が難しい要素が介在するのである。「財政政策」は一つの「機能」なのだから、出てきた効果と結果だけを見てその適用可否を判断すればよいなどと安直に扱える、コントローラビリティのある(制御可能な)代物ではないのである。 ここで、「政府債務」、「民間債務」、「海外債務」というマネーサプライ創出の3部門におけるコントローラビリティとは、いったいどういうことなのかという点について、最も重要な視点を提示しておこう。 先ほども述べたが、例えば「政府債務」について、「財政赤字を出して国債発行を行っても、民間資産の増加も伴うため誰の負担にもならない」というMMTの理屈は「両建て」でのバランスシート拡大のことを指している。しかし、問題は「レバレッジ」、つまりリスクの拡大にあるのだ。「信用創造」=「レバレッジ」という、金融実務においては当然すぎる議論の整理を、経済学者も行なう必要がある。 「両建て取引では負債に見合う資産があるので大丈夫」というのは30年前、1980年代後半のバブル期の日本で盛んに流行ったロジックである。「借金をしても見合う資産がある」、それどころか「むしろ資産には含み益があるので、それを担保にもっと借金ができる」といった具合である。つまり、「政府債務」でも「民間債務」でも、「両建て取引」あるいは「レバレッジ」はそれ自体では「会計上」はつねに「中立」に見えるのである』、「MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている」というのはその通りだ。モデル化のため単純化する過程で、多くの前提を置いて細かな要素を捨象しているため、「現実離れ」は不可避なようだ。
・『「レバレッジ拡大政策」を空疎な理論で決定するな  しかし、これを無制限に拡大させていった場合に、過去に何が起こったのか、先に何が起こりうるかといったイマジネーションを広げてみる必要がある。リーマン危機も然りだが、「レバレッジ」の拡大はどこかで「リスク感覚」を麻痺させる。「両建てで負債に見合った資産ならば」ということで、経済主体は「過大なリスク」を取りがちである。これを政府部門のケースでいえば、まったくムダに終わる公的事業に資金を費やすようなことが平気で行われる。簿価評価の負債に対して時価評価の資産が大幅に毀損していく事態が生じれば、「誰かの借金は誰かの資産」ではなくなってくるのである。 もちろん、現在の日本を含めた先進諸国においてこの「過大なレバレッジ」が問題を引き起こす段階にあるのか、と言えばそうではないかもしれない。国ベースで言えば、レバレッジの極端な拡大は、1980年代の日本で生じ、これに1990年代後半から2000年代にかけて米国が続き、2000年代にはユーロ圏が追随した。そして、リーマン危機後から2010年代にかけては中国のレバレッジがとんでもない水準に達している。2019年現在ということでいえば、先進諸国においてはむしろ「レバレッジが過小」であるとの指摘はおそらく正しいのだろう。 しかし、時期は予想できないものの中国のレバレッジ崩壊のリスクがこれほど高まっている中で、安直に先進諸国がレバレッジ拡大を志向していくべきなのかといえば、長期的な観点からは疑問符が付く。そもそも、既に述べたように財政政策であれ金融政策であれ、「レバレッジ」の水準(=これが要はマネーサプライの水準を決定する)を完全にコントロールすることなどはできない。過大になれば抑制し過小になれば拡大すればよい、というほど簡単な話ではまったくないのである。 その意味で、レバレッジ拡大政策を取るかどうかの判断は、「理論」の領域ではなく、「グローバルな経済状況」、「国ごとのさまざまな事情」、「経済政策決定における政治プロセス」など、広範にわたる「現実」の領域が決定的に影響してくるということを踏まえたものでなければならない。不確かな「理論」が政治的に「つまみ食い」されるリスクもつねに存在しており、「理論上」の論争で勝ち負けを決めることほど無意味なことはない。 この点において、経済学者の議論は、主流派経済学者もMMT論者も五十歩百歩、どっちもどっちだと言わざるをえない。「あなた方にはそんなことを決める能力はない、バカ!」と声を大にして言いたいところである。(コラムは省略)』「レバレッジ拡大政策を取るかどうかの判断は、「理論」の領域ではなく・・・広範にわたる「現実」の領域が決定的に影響してくるということを踏まえたものでなければならない」、というのはさすが現実を長年見てきた金利ストラテジストならではの鋭い見方だ。その通りなのだろう。
タグ:東洋経済オンライン ダイヤモンド・オンライン 政府財政問題 (その2)財政拡大理論「MMT」(「日本版MMT」の効果が疑わしい理由、MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!) 山崎 慧 「「日本版MMT」の効果が疑わしい理由」 MMT(Modern Monetary Theory/現代金融理論) 自国通貨の発行権を持つ国では自国通貨建てで国家債務のデフォルト(債務不履行)が起こらず、政府は無限に信用を供与できるという主張 民主党のオカシオコルテス氏が、自身が推し進めるグリーンニューディール政策(環境・再生可能エネルギー関連の財政支出拡大)の財源としてMMTを提唱したことで注目 各国中央銀行首脳らは「危険な考え方だ」と異を唱えており すでに日本で行われている アベノミクスにおける金融緩和と財政支出拡大のポリシーミックスは、オカシオコルテス氏の目指しているものに非常に近い 「日本版MMT」を用いてもなお物価の押し上げに失敗している 劇薬どころかかなり疑わしい日本版ヘリコプターマネーの効果 若田部昌澄・日銀副総裁 「政府と一体と考えられる日銀が持っている国債260兆円は国のバランスシートから落とせる」と発言 劇薬・禁じ手 日銀の保有国債をデフォルトさせることは、国民の預金をデフォルトさせることと同義となる。これは政治的にほぼ不可能であり、仮に実施されたとしても国民負担による財政再建となるため、増税による財政再建となんら変わらない 国民の預金は保護すればいいという考えもある。ただし、この場合、日銀は債務超過となり、政府債務が日銀債務に置き換わっただけとなる 杞憂に終わる日本版MMT 現段階では、MMTがハイパーインフレを招くリスクを心配するよりも、景気が腰折れし、日銀の言う物価の上昇モメンタムが途切れるリスクをより心配すべきではないだろうか 森田 長太郎 「MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!」 MMTを主張する経済学者たちは、経済学コミュニティにおいては少数派 「主流派経済学 vs 非主流派経済学」 MMTは現状打破のための最終兵器であるかのように喧伝 ポピュリスト政治家やトランプ政権を政治的に攻めあぐねている野党民主党の政治家の中にこの理論の信奉者が少なからずいる 日本における「リフレ派vs反リフレ派」にそっくり 「失笑を禁じえない」 「デジャビュを感じる」 日本の「リフレ派 vs 反リフレ派」論争の最大のインプリケーションを述べておくと、「正論必ずしも勝たず」ということであろう。リフレ派は決して議論に勝ったわけではないが、主張した政策を実現する機会をつかんだ クルーグマンがMMTのような議論を批判するのは、どこか滑稽 MMTは会計上の資産負債の一致を述べているだけ アバ・ラーナー 「財政赤字はいくら増やしても何も問題ない」 最も重要なコンセプトは、「誰かの負債は必ず誰かの資産」ということ 現代の主流派経済学である「ニュー・ケインジアン」と、その牙城となっている主要中央銀行(FRB、日銀、ECB)からすると、とてもそのままでは容認できないもの 財政政策がマネーサプライ(=国民の金融資産)を決定するのであり、中央銀行が決定するのではない」と言っているのに等しい 「財政政策が決める」とするMMTの根拠 中央銀行の働きはひたすら受動的 翁-岩田論争 「リカード中立」を前提にするなら乗数効果はゼロだ 実際には減税資金のうちいくらかを消費に回すからこそ経済効果がある 「誰かの負債は誰かの資産」あるいは「財政赤字は誰の負担にもなっていない」というのは、「恒等式」の関係を述べている、「会計上、バランスシートの右と左は釣り合っている」と言っているにすぎない 財政赤字による国債発行はマネーサプライを増加させ、それは銀行の預金を増加させる。 長期金利の上昇をもたらさないだろう MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている 金融政策は、局面によってはほとんど無力に近い時もあるが、メカニズムとしては民間部門債務と海外債務の変動を通じてマネーサプライを増減させ、雇用やインフレに影響を及ぼすことがある程度はできる 「金融政策こそがすべて」という主張も、同じくらい「明確な誤り」 「将来の成長期待」「競争環境」「技術革新」「金融規制」さらには「社会全体のセンチメント」まで実に多岐にわたる要素が影響するのである 複雑な要素を捨象して、「財政政策がすべてだ」「いや金融政策だ」と経済学者や評論家たちが主張をぶつけ合っている姿自体があまりにも現実離れしており、空想世界に生きているように見える 「レバレッジ拡大政策」を空疎な理論で決定するな
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政府財政問題(さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ、日本の「腐敗指数」は先進国で中の下 独立財政機関が必要!?、基礎的財政収支の黒字化 1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する) [経済政治動向]

今日は、政府財政問題(さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ、日本の「腐敗指数」は先進国で中の下 独立財政機関が必要!?、基礎的財政収支の黒字化 1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する)を取上げよう。

先ずは、ジャーナリストの磯山 友幸氏が昨年3月2日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「さすが財務省!官製誤報はこうして繰り返される 「国民負担率2年連続減」の大ウソ」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/238117/030100071/
・『記者が「だまされる」いわく付きの発表  国会では「裁量労働制」を巡って政府が提出したデータの不備が、野党や大手メディアに追及され、安倍晋三首相は今国会に提出する働き方改革関連法案から裁量労働制を削除せざるを得ないところまで追い込まれている。議論する前提のデータがインチキでは真っ当な政策決定が行えないという野党の主張は当然である。 ところが、野党も大手メディアもまったく問題視しないデータ不備が存在する。日本はまだまだ税金も社会保険料も負担が軽いと主張するそのデータは、国民生活を直撃する「増税」を進めるための1つの論拠になっているのだから、裁量労働制に劣らない重要なデータと言える。にもかかわらず、毎年同じ「恣意的」とも言えるデータが発表され続けている。 国民負担率。国税と地方税の「税負担」や、年金掛け金・健康保険料といった「社会保障負担」が国民所得の何%を占めるかというデータである。 「国民負担率18年度42.5% 2年連続減、所得増映す」 2月24日付の日本経済新聞はこう報じていた。「負担率が前年度を下回るのは2年連続。景況感の回復で所得が増え、負担率を押し下げた」としている。 この記事は2月23日に財務省が発表した「2018年度(平成30年度)の国民負担率」を基に書かれた、いわゆる発表記事だ。財務省内にある記者クラブに詰めている若手記者が、財務官僚の説明をそのまま記事にしたのだろう。1年前に自分たちの新聞がどんな記事を書いたかチェックしなかったのだろうか。 「17年度の国民負担率、横ばい42.5%」これが日本経済新聞の2017年2月10日付(電子版)の記事だ。つまり2016年度も2017年度も42.5%だとしていたのだ。「横ばい」と書いていたはずなのに、なぜそれが「2年連続減」になるのか。 実は、この発表データは記者クラブの記者たちが何度も“だまされ”てきた、いわく付きの発表なのだ』、「いわく付きの発表」にも拘らず、「財務官僚の説明をそのまま記事に」するとは、お粗末極まる。
・『国民負担率を小さく見せようという「意図」  今年発表された年度推移のデータ一覧表を見ると、2016年度は42.8%、2017年度は42.7%、そして2018年度は42.5%となっている。この表をベースに記者は「2年連続減」と書いているのだが、ここに「罠」が仕掛けられている。 欄外に細かい文字でこう書かれている(年号を西暦に修正)。 「2016年度までは実績、2017年度は実績見込み、2018年度は見通しである」 2017年度も2018年度も確定的な数字ではない、と言っているわけだ。その財務省の「推計」を基に記事を書くので、辻褄が合わなくなっている。つまり、毎年「見通し」がおかしいのだ。 実績として確定した2016年度の国民負担率は6年連続で過去最高を更新した。2010年度は37.2%だったので、6年で5.6ポイントも上昇した。この国民負担率にそれぞれその年度の国民所得をかけて計算すると、何と33兆円も負担は増えているのだ。 ではかつて、日本経済新聞は2016年度の「見通し」をどう記事にしていたか。 「16年度の国民負担率、7年ぶり低下」である。財務省は、負担は軽くなるというデータを毎年のように示しながら、「実績」となると過去最高を続けているわけだ。記者はまんまと財務省の「印象操作」にはまっているのである。これは日本経済新聞だけの問題ではなく、朝日新聞ほかの大手メディアは概ね「引っかかって」いる。 今年の発表では2017年度は42.7%と、最高だった2016年度の42.8%に比べて0.1ポイント低下することになっている。2017年度は「実績見込み」だから大きくは狂わないだろうと多くの読者は思うに違いない。だが毎年、「実績」数字は、「実績見込み」を上回る結果になっている。昨年の発表で2016年度の「実績見込み」は42.5%だったが、蓋を開けてみると42.8%と0.3ポイントも上回っていたのだ。 過去何年にもわたって発表されてきた「見通し」や「実績見込み」は、決まって「実績」よりも小さく見積もられてきた。明らかに、予想ベースを過小に公表して、国民負担率を小さく見せようという「意図」が働いている。それを知ってか知らずか大手メディアは、財務省の意図通りに「見通し」ベースで記事を書き続けているのだ。 これこそ、霞が関による「情報操作」、「データ偽装」ではないか。本来、新聞が書くべきは、2016年度の国民負担率が42.8%と過去最高になった「事実」ではないのだろうか。役所の誘導に引っかかって、結果的に誤報を繰り返す、「官製誤報」が繰り返されている。野党も国民の給与が増えないと繰り返すならば、こうした増税論議の前提になる「データの不備」を追及すべきではないのか。 財務省の発表を見て経済データを見慣れた記者ならば、「実績見込み」も「見通し」もかなり前提が「緩い」ことに気がつくはずだ。2017年度実績見込みの前提になっている国民所得は「402兆9000億円」。2016年度は391兆7000億円なので、2.9%増える「見込み」になっている。さらに2018年度は414兆1000億円という「見通し」で、これは前年度比2.8%の増加である。高い経済成長を前提にして、国民所得が増えるので、その分、負担は減りますと言っているわけだ』、「「実績見込み」も「見通し」もかなり前提が「緩い」」ので、国民負担率の「実績」では大幅に上方修正され、負担が増えていた、というのは余りに見え透いた手口だ。きっと記者クラブのメンバーたちはそれを承知の上で「官製誤報」に協力しているのだろう。、
・『目白押しの増税プランが負担率を押し上げる  余談だが、実は、国民負担率が44.4%という過去最高を記録したことがある。2015年度だ。ところが政府がGDP(国内総生産)の計算方式を変更したため、国民所得が大きく増えることになった。これを受けて財務省は国民負担率の一覧表も過去に遡って修正した。2015年度は42.6%になったので、1.8ポイント分低く見えるようになった。 アベノミクスで景気回復に期待がかかる。GDPが徐々に増えていくことは間違いないだろう。だが、現実には国民負担率は過去最高を更新し続けるに違いない。 何せ、増税プランが目白押しなのだ。2019年度以降は所得増税と消費税率の10%への引き上げが決まっている。2018年度税制改正大綱では、給与所得控除の縮小によって年収850万円以上の給与所得者は増税となることが決まった。基礎控除が拡大されるため自営業やフリーランスは減税になるとしているが、トータルでは増税だ。さらに、出国税や森林環境税などの導入も決まった。 いくらアベノミクスで国民所得が増えても、それを上回るペースで税金が増えていけば、実際に使えるおカネ、可処分所得はマイナスになってしまう。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、訪日外国人観光客などが増え、消費が盛り上がると期待されているが、その「特需」の規模は不透明だ。増税によるマイナス効果を吸収できなければ、せっかく明るさが見え始めた日本経済に再び水がさされることになりかねない。 日本のGDPの過半は消費によって生み出されている。安倍首相は2012年末の第2次安倍内閣発足以降、「経済の好循環」を訴えている。アベノミクスによって円高が是正され企業収益が大幅に改善されたが、それを従業員に積極的に配分することで、冷え込んだままになっている消費に火をつけようというわけだ。安倍首相は繰り返し経済界に賃上げを求めており、今年は「3%の賃上げ」を働きかけている。消費に火がつけば、再び企業収益にプラスとなり、循環が始まるわけだ。 「経済の好循環」が回り始めるには、国民の可処分所得が増え、実際に消費にお金が回る必要がある。税負担や社会保険料負担を増やせば、国民の可処分所得はその分減ってしまうことになる。 それだけに増税議論には「正確なデータ」が不可欠なはずだ。「まだまだ日本の税金は安いですよ」「社会保障負担も増えてきましたが、大したことはありません」という印象操作をベースに議論をしていれば、実態を見誤ることになりかねない』、その通りだ。記者もクラブの悪しき伝統を脱却して、真の姿を記事にしてほしい。野党もトリックを追及すべきだ。

次に、東短リサーチ代表取締役社長の加藤 出氏が昨年4月19日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本の「腐敗指数」は先進国で中の下、独立財政機関が必要!?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/167319
・『今年2月に世界の「腐敗認識指数2017」(トランスペアレンシー・インターナショナル)が公表された。世界180の国と地域において、専門家とビジネスパーソンにアンケートを行い、「公的部門が腐敗していると感じている」と答えた人の割合を指数化したものである。ランキングが上位ほど清潔で、下がるほど腐敗度が高い。 清潔度1位はニュージーランドだったが、日本は20位だ(5年前は17位)。経済協力開発機構(OECD)加盟35カ国では18位、主要7カ国(G7)では5位。つまり、世界全体では上位にいるが、先進国では真ん中よりやや下に位置している。日本の公的部門の清潔度は悪くはないが、国際的に称賛されるほどではないといえる。 ランキングの下位を見ると、中国77位、インド81位、ブラジル96位、ロシア135位、北朝鮮171位、ソマリア180位だ。下位の国々の国民は、日本の昨今の「森友・加計問題」を聞いたら、「何をそんなに騒いでいるのか」と不思議に感じるかもしれない。しかし、上位国の国民は不適切な動きが起きていると思うだろう。 ところで、清潔度上位ベスト6の中に、北欧の福祉国家が4カ国入っている。デンマーク2位、フィンランド同率3位、ノルウェー同率3位、スウェーデン6位だ。 それら4カ国の昨年の名目国内総生産(GDP)に対する一般政府の収入(主に税収)は平均で52%、支出は51%だ。日本の比率はそれぞれ33%と37%(国際通貨基金〈IMF〉推計)。つまり北欧4カ国は「大きな政府」であり、「高負担・高福祉」となっている。 4カ国の消費税率は24~25%と、日本よりはるかに高い。それにもかかわらず、国民は大きな不満を抱いていない。政府の清潔度が高く、税金は社会保障などに適切に使われていると、国民が政府を信頼しているからである。 そう考えると、今回の「森友問題」における財務省の公文書改ざんは悪影響を及ぼすと懸念される。「財務省がこのような不祥事を起こしては、2019年10月の消費税率引き上げは難しい」という声を、市場関係者から最近よく聞く。 増税は本来財務省のためのものではないが、信認が低下した役所の財政見通しを国民に説得性を持って伝えるのは確かに難しい』、新しい「腐敗認識指数2018」によれば、日本は18位と僅かに上がったようだが、先進国での地位は低いままだ。北欧4カ国は、「高負担・高福祉」で、「国民は大きな不満を抱いていない。政府の清潔度が高く、税金は社会保障などに適切に使われていると、国民が政府を信頼しているから」というのはその通りだ。
・『こうなってくると、長期的な対策として、OECDが強く推奨している独立財政機関の設置を日本でも真剣に検討する必要があるだろう。政府や政党からの影響を受けずに、中立的な立場で経済や財政の中長期的な見通しを作成する機関のことである。OECD加盟国の中ではすでに27カ国以上が導入している。G7で採用していないのは実は日本だけだ。 米国の独立財政機関である議会予算局(CBO)は、4月9日に新たな経済見通しを発表した。実質GDPの成長率は今年と来年こそ高めだが、18~28年の平均は1.9%だった。米政権の同期間の見通しは3.0%だ。CBOは政府に忖度していない。政府債務の累増に関しても政府に強い警鐘を鳴らしている。こうした姿勢により、CBOは市場でもリスペクトされている。 しかも、CBOに限らず多くの国で独立財政機関は30~75年前後の財政見通しを公表している。日本政府(内閣府)の見通しは10年弱と極めて近視眼的だ。将来世代のための建設的な財政再建議論を進めるには、たたき台となる中立的で信頼に足る長期の財政見通しが必要である』、説得力溢れた主張で、大賛成だ。独立財政機関が出来れば、第一の記事でみた財務省の小細工などもなくなり実態が開示されることになる。ただ、財務省は猛反対するので、よほど本腰を入れて改革する必要があるだろう。

第三に、慶應義塾大学 経済学部教授の土居 丈朗氏が2月4日付け東洋経済オンラインに寄稿した「基礎的財政収支の黒字化、1年前倒しの謎 5年に1度の「年金財政検証」にも影響する」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/263535
・『内閣府は1月30日、毎年恒例の「中長期の経済財政に関する試算」(中長期試算)を公表した。 中長期試算は年に2回更新することになっているが、今回は2つの意味で重要である。1つは、2019年度政府予算案の閣議決定を受けて、今後の財政収支の見通しを確認すること。もう1つは、今年予定されている5年に1度の公的年金の財政検証で中長期試算がどう使われるかである』、なるほど。
・『異例の閣議決定やり直し  まず、今後の財政収支の見通しについて、2019年度政府予算案は、毎月勤労統計の不正の影響を受けて1月18日に閣議決定をやり直すという極めて異例の展開となった。一般会計の歳出総額は101兆4571億円と、当初予算としては過去最高額となった。「来年度予算案の『101兆円』はバラマキ予算か」で言及したとおり、消費増税対策や防衛費、公共事業費などの歳出増で歳出が膨張したことから、財政健全化目標の達成は遠のいたような印象を与えた。 毎年1~2月頃に公表される中長期試算の更新版は、次年度予算案の内容を踏まえて改訂される。次年度予算に盛り込まれた歳出改革は反映するが、翌々年度以降の歳出見通しには追加の歳出改革は織り込まないという試算の前提が踏襲されている。 したがって、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革が織り込まれていない2018年7月公表の試算と、今回の中長期試算(2019年1月試算)を比べれば、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革が財政収支の改善にどう影響したかを見極めることができる。 中長期試算の1つの重要な焦点となるのが、2025年度に国と地方を合わせた基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)がどうなるかという点だ。安倍内閣は、2025年度の国と地方を合わせたPBの黒字化を財政健全化目標として閣議決定している。PBは、税収等から政策的経費(基礎的財政収支対象経費)を差し引いた収支である。 2018年7月試算では、より高い経済成長率のシナリオである成長実現ケースで、2025年度のPBは2.4兆円の赤字だった。黒字化目標を達成するにはさらなる政策努力が求められるという試算結果だ。2019年1月試算の成長実現ケースで、2025年のPBは1.1兆円の赤字となった。2018年7月試算から収支が1.3兆円改善する結果だが、収支がなぜこれだけ改善したのだろうか』、放漫財政にしておきながら、改善するとは不思議だ。要因は何なんだろう。
・『収支の改善は、歳出側と歳入側の双方の要因が作用する。歳出が抑えられたり歳入が増えたりすれば、収支は改善する。内閣府の資料では、あいにくそのすべてが分解できる形で公表されていないが、公表されている部分から4つの要因に分解してみる。1つ目は国の一般会計歳出、2つ目は地方普通会計(地方財政を代表する会計)の歳出、3つ目は国と地方の税収総額、4つ目は残りの要因(すべてが公表されていないため前三者では説明できない部分)である。 まず、2019年度の国の一般会計歳出は、2018年7月試算では総額が99.0兆円だった。このうち国債費を除いた政策的経費(PB対象経費)は76.9兆円と見込んでいた。ところが、2019年度政府予算案では、歳出総額が101.5兆円、うち政策的経費が77.9兆円と、2018年7月試算より膨らんでいる。 2019年度予算案では、消費増税対策などで臨時的な歳出増が多いのも事実である。2019年1月試算では、臨時的な歳出増の部分は恒久的な歳出増とならない扱いにしている。2020年度までの臨時的な歳出増が終わると、2021年度以降は恒久的な制度や政策に基づく歳出だけになる。そこには、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果までは含むが、2020年度以降は追加の歳出改革を行わない前提で試算されている』、「臨時的な歳出増の部分は恒久的な歳出増とならない扱いにしている」が、それでも「政策的経費」は1兆円膨らんだようだ。
・『大きい社会保障見直しの効果  そこで、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果を、それを織り込んでいない2018年7月試算と、織り込んでいる2019年1月試算を比較してみると、その差異がわかる。 財政健全化目標の達成年次である2025年度において、成長実現ケースで、国の一般会計の政策的経費の試算結果はどうなっているか。2018年7月試算では88.7兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では88.4兆円と、0.3兆円ほど減っている。これは2025年度における収支改善要因となる。とくに、2018年7月試算では、2025年度の社会保障関係費を41.2兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では40.5兆円と、0.7兆円ほど減っている点が大きい。2019年度予算などで実施される社会保障の見直しの効果といえよう。 地方普通会計の歳出は、2025年度の政策的経費(PB対象経費)について、2018年7月試算では94.4兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では93.4兆円と、1兆円ほど減っている。1つ目と2つ目の要因を合計すると、1.3兆円ほどの収支改善要因となっている。国からの補助金を財源に地方自治体が政策的経費を投じている部分があるから、本来は重複を除かなければならないが、筆者の独自の推計でそれを考慮しても、おおむね同規模の収支改善効果が生じているといえる』、「社会保障の見直し」や「地方普通会計の政策的経費」圧縮で「1.3兆円ほどの収支改善要因」といわれても、数字上のトリックではないかと疑いたくなる。
・『3つ目の要因が国と地方の税収総額だ。2025年度の税収総額(国の一般会計の税収等+地方普通会計の税収)が、2018年7月試算では137.0兆円と見込んでいたが、2019年1月試算では136.8兆円と、0.2兆円ほど減っている。2018年7月試算と2019年1月試算とでは、名目経済成長率はほとんど変わらない見通しとしていて、経済成長に伴う税の自然増収も同程度と見込んでいることから、経済見通しの更新に伴い自然増収が追加的に増えるという効果は、2019年1月試算では含まれていないとみられる。 2025年度のPBは、4つ目の残りの要因を含めると赤字が1.3兆円減る試算結果となって、今回の中長期試算では1.1兆円の赤字となった。今回の試算結果は、歳出抑制効果が主たる要因となって、2025年度のPBが改善する見通しになったと考えられる。これらが影響して、PB黒字化の年次が、2018年7月試算で2027年度だったのが、2019年1月試算では2026年と1年前倒しされる結果につながった。 2018年7月試算と2019年1月試算の歳出面での主たる差異は、2019年度予算案に盛り込まれた歳出改革の効果である。改革努力を毎年度積み重ねてゆくことで、2025年度の黒字化を実現していく必要がある。 努力すれば実現できる金額だが、道のりは険しい。2021年度以降、臨時的な歳出増を行わないことが前提となっているが、2020年の東京オリンピックに財政出動を求める政治的圧力が高まらないとも限らない。さらに、成長実現ケースでは、2020年代前半の名目成長率を3.4%程度と見込んでいるが、その成長率が実現しなければ、税収増は捕らぬ狸の皮算用となる』、「臨時的な歳出増を行わないことが前提」というのは、実現は難しそうだ。名目成長率も2018年実績0.7%からみると、3.4%とはどうみても高過ぎる。やはり、安部政権の大盤振る舞いの予算の影響を軽く見せるための「忖度」が大いに盛り込まれた架空の試算のようだ。
・『財政再建は早期の実行が効果的  今回の中長期試算から得られる1つの示唆は、歳出改革を早期に実施すれば、5年ほど経つと兆円単位の収支改善効果が出るということだ。経済成長を促すことは重要だが、財政再建には早期に歳出改革を実行することが効果的である。 そして、今回の中長期試算のもう1つの見どころは、成長実現ケースとは別に用意されたベースラインケースの試算内容である。それは、今年予定されている年金の財政検証を左右する。 5年に1度行われる年金の財政検証では、今後の経済前提の置き方が問われる。楽観的過ぎる経済前提を置けば、年金財政は一見安泰に見えるが、絵に描いた餅になってしまう。保守的な経済前提でも、年金給付がどうなるかを正直に国民に示す必要がある。 5年前の2014年の財政検証のときには、経済前提として内閣府の中長期試算が大いに参照された。当時の中長期試算では、より高い成長率のシナリオを「経済再生ケース」、より低い成長率のシナリオを「参考ケース」と呼んでいた。年金の財政検証では、経済再生ケースを前提とした推計をケースA~E、参考ケースを前提としたケースF~Hの計8通りの検証結果を公表した。 「年金の検証、またも安倍内閣の鬼門になるか」で詳述したように、ケースA~Eは楽観的な経済成長を前提に、所得代替率(注)が50%を割らずに100年後にも年金積立金が払底しない、いわゆる「100年安心」であるとの検証結果となった。ところが、ケースF~Hは成長率が低いことも影響し、所得代替率が50%を割る結果となった。 これを厚生労働省が正直に公表した点は良心を示したといえるが、低成長だと、年金改革を行わないと「100年安心」ではないことを示唆している』、低成長では「所得代替率が50%を割る」とは、やはり年金改革が必要なようだ。(注)所得代替率とは、厚生年金で、現役世代の平均的なボーナス込みの手取り賃金に対する新規裁定時の年金額の割合を、給付水準設定の基準としており、50%を上回ることが目標。
・『保守的な経済前提を使うとどうなるか  そして、今年の財政検証。前回を踏襲するなら、経済前提は中長期試算の2019年1月試算を参照することになろう。前回検証の経済再生ケースは、今回検証では前掲の成長実現ケースが対応する。前回の参考ケースは、今回はベンチマークケースである。 焦点はそのベンチマークケースの経済前提である。2018年7月試算のベンチマークケースでは、全要素生産性(TFP)上昇率(いわゆる技術進歩の進捗率)を1.0%と置いていた。1.0%は、前回の財政検証で使われた参考ケースと同じであり、1983年2月から2009年3月までの平均値である。TFP上昇率を高く仮定すると経済成長率も高く推計される。これを、2019年1月試算のベンチマークケースでは、0.8%に下方修正した。0.8%とは、2002年1月以降の平均値である。 直近の日本経済の状況を適切に反映し、保守的な経済前提を示したという意味でこの点は評価できる。今年の財政検証にこれをそのまま用いるとよい。ただ、経済成長率はその分低く推計されることになるから、年金の財政検証の結果はより厳しいものになる可能性がある。虚心坦懐に検証結果が国民に示されるのを待ちたい』、こうした試算が政治的にねじ曲げられることを防ぐためには、第二の記事にある「独立財政機関」がやはり必要なようだ。
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