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日本の構造問題(その20)(「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった、ワクチン接種の大混乱に浮かぶ日本の致命的弱点 政治家のリーダーシップや官僚の保身以外にも、日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走 このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか) [経済政治動向]

日本の構造問題については、5月19日に取上げた。今日は、(その20)(「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった、ワクチン接種の大混乱に浮かぶ日本の致命的弱点 政治家のリーダーシップや官僚の保身以外にも、日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走 このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか)である。

先ずは、5月20日付けPRESIDENT Onlineが掲載したジャーナリストの田原 総一朗氏と京都大学大学院工学研究科教授で元内閣官房の藤井 聡氏との対談「「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/46006
・『日本の財政は危機にあり、再建のためには消費税の増税が避けられないといわれている。それは本当なのか。京都大学大学院の藤井聡教授は「1997年の消費税増税がすべての間違い。失われた富は数千兆円規模になる」という。ジャーナリストの田原総一朗さんとの対談をお届けする――。(第3回/全4回) ※本稿は、田原総一朗・藤井聡『こうすれば絶対よくなる!日本経済』(アスコム)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『梶山官房長官は「俺は大蔵省にだまされた」と謝罪した  【田原】1997年に消費税増税があった。あの時、増税に反対した人はいなかったの? 【藤井】いました。橋本内閣の田中秀征しゅうせい経済企画庁長官は、鬼のように怒って反対したんです。経済企画庁には当時、マクロ経済がわかるエコノミスト、インテリが大勢いた。そのレクを受けていた田中・経企庁長官は「絶対やめろ」といった。ところが大蔵役人たちが橋本龍太郎さんのところに、「いや、絶対大丈夫です。増税してまったく問題ありません」とこぞって説明しにいった。 たとえば、官房長官だった梶山静六さんは当時を振り返って「大蔵省の説明を鵜呑みにした私たち政治家が(中略)財政再建に優先的に取り組むことを決断した」と語っています。 で、実際に増税したら経済がメチャクチャになった。それがわかってから、梶山さんは田中経済企画庁長官のところに行って、「俺は大蔵省にだまされた。この前はすまなかった。(消費税増税の確認をした)閣議のとき、あんたがいったとおりだった」と謝罪したという記録も残っています。 つまり、弱小官庁の経済企画庁エコノミストがダメだと口をそろえても、官庁の中の官庁、いちばん格上の役所の大蔵官僚が大丈夫だと請け合った。それでみんな「大蔵省のほうが正しいのだろう」と思って、“騙された”んです。それで増税した。 ところが、日本経済は1年でボロボロになった。1997年の消費税増税は日本の命運を分けました。太平洋戦争の命運が、ミッドウェー海戦の敗北で一気に尽きていったようなものだったんです』、1997年には消費税の他にも、社会保険料も引き上げ、さらに医療費自己負担増加も合わせ、合計9兆円もの国民負担増加をもたらし、アジア通貨危機、山一証券・北海道拓殖銀行の破綻を放置したことも相まって、日本経済は深刻な大不況に見舞われた。「大蔵官僚」の安請け合いが如何にいい加減であったかを如実に示した。
・『消費税5%から日本国民の“貧困化”が始まった  【藤井】1997年の消費税増税によって日本がダメになったことは、GDP成長率、家計消費、賃金などあらゆる尺度が実証的に示しています。 政府の資金供給量が急激に減って、実質賃金も激しく下落しました。つまり国民が“貧困化”してしまったんです。世帯所得が減ったこと、サラリーマン・サラリーウーマンの給与が減ったことを示すグラフをご覧ください(図表1、2)) 【田原】日本人の受け取り額は、絵に描いたように減り続けている。 【藤井】こうなることは、実証的のみならず理論的にも明白です。バブルが崩壊して成長が急速に鈍化した不況のとき増税すると、経済はさらに悪化してデフレーション、つまり経済規模の縮小が始まってしまう。 世の中でおカネがグルグル回って生産や消費をしているとき、貨幣循環のあらゆる局面でおカネを取ってしまうのが消費税。医療で体内にたまってしまった血・体液・うみなどを外に出すために入れる管や袋をドレーンといいますが、あれと同じです。あらゆる血管にドレーンをさして血を抜き続けていれば、そりゃ血も循環しなくなるでしょう。体力もどんどん弱くなっていく。 世帯所得は消費税増税の1997年から一本調子で下がっています。給与所得は消費税率を5%、8%、10%と上げるたびに、ガクガクと下がっています。 だから、デフレ脱却前には絶対に増税してはダメで大至急、消費税増税の凍結、つまり「消費税0%」を実現すべきだ、と申し上げています』、これまでの「消費税引き上げ」には問題があったとはいえ、これから「消費税0%」にするのには反対である。異次元緩和の下で、そこまでやると、日本売りとなって、円安、国債暴落が発生するリスクがあるためである。
・『財政を悪化させた真犯人は「消費税増税」  【田原】貧困化や格差の拡大を招いたのは、新自由主義をやった小泉純一郎・竹中平蔵コンビだという人が多いけど、これも違うね。小泉内閣は2001(平成13)年4月から2006(平成18)年9月までです。小泉時代は、むしろ下げかかったものの傾きを抑えているじゃないか。【藤井】まあ、それはたまたまアメリカが好景気で外需が伸びたからです。それはさておき、支えようとしていたので残念でなりませんが、実質賃金は第二次安倍晋三内閣のもとで激しく凋落しています。実質賃金を短期間でこれだけ低下させた内閣は、戦後においては安倍内閣以外にない。実質賃金が7%も減ってしまっています。 【田原】「貧すれば鈍する」というけれども、カネがなくなってくると、経済以外のものがダメになっていく。どうですか? 【藤井】おっしゃるとおりです。GDPが大きいのは、みんな所得が多く貧困が少ないということですから、国民に余裕が生まれ、芸術や文化もさらに発展していく。 あとで話が出ると思いますが、格段に強い外交力も発揮できる。研究開発投資も旺盛で、科学技術力も、もっと高まる。リニア新幹線も通っているし、都市開発も防災対策も進んでいる。ノーベル賞をもっとガンガン取れる国になっている。 【藤井】つまり、GDPが順調に成長していけば、日本はいまよりもはるかに経済大国、文化大国、生活大国になっていたはずです。ところが、現実は逆になった。1997年の消費税の増税が、そうしてしまった。みんながお金持ちになれば、税収も増えて、政府の財政もいまよりはるかにラクになったはずです』、その通りだ。
・『消費税増税でデフレ…日本だけが世界から取り残された  【藤井】「赤字国債」発行額の推移グラフを示しておきます(図表3)。日本は昔からガンガン赤字国債を出して、列島開発なんかをやったと思っている人がいるかもしれませんが、違います。 1997年までは10年間の平均でたった3兆円ちょっとしか出していません。それが増税してデフレになったことで、一気に10年平均で23兆円まで増えてしまった。したがって、財政を悪化させたのもまた消費税の増税なんです。いま国債発行額は30兆円から40兆円時代になっています。 【田原】日本がデフレで苦しんでいる間に、欧米はふつうに成長していたわけね。 【藤井】はい。日本だけが置いてけぼりになってしまった。日本、アメリカ、ヨーロッパ、中国、その他という五つに分けて、1985年から2015年まで30年間のGDPの推移を示したのが、下のグラフです(図表4)。 【図表】世界の中で日本だけが取り残された田原総一朗・藤井聡『こうすれば絶対よくなる!日本経済』(アスコム)より  まず目に付くのが、アメリカの一本調子の成長。そして2005年前後からの中国の急成長。これは6年前までのグラフですから、米中の差はさらに縮まっている。 【田原】アメリカは、何があってもへこまないんだ。すごいな。リーマンショックでも傾きが気持ち緩やかになっただけで、すぐ元通りになっている。 【藤井】その他は新興工業国や途上国で、2000年代になって急成長した。欧州と日本は、90年代後半に沈んだ点が似ていますが、その後、横ばいから下り坂は日本だけです。リーマンショック後の落ち込みも、欧州より日本のほうが激しい。 グラフの始まり時点で、日本のGDPの世界シェアは約20%でした。いまは6%以下。中国の半分以下で、アメリカの5分の1の国になってしまった』、GDP成長率の低さに加え、円安も大きく影響している。
・『「そんな国は日本だけ」過去20年でマイナス20%成長  【田原】消費税増税で、日本はここまでダメになった。 【藤井】はい。30年間で数千兆円規模というような大きな富を失った。税収も数百兆円規模で失った。日本のプレゼンスも著しく失われた。その結果、アメリカも中国もロシアも、日本を軽んじるようになってしまった。 最後にもう一つグラフを示します(図表5)。これはいま見た30年間のうしろ3分の2、20年間の各国のGDP成長率を、高い国から並べたものです。 世界平均は139%。中国は1400%というとんでもない成長をしていますが、当然ながら成熟国家は、それほど高い成長はしていません。先進国、とくにヨーロッパ各国は、だいたい世界平均より下に並んでいます。 【田原】南アジアやアフリカのように、国民が若くこれまで貧しかった国は当然、高成長する。高齢化が進んだ国は高成長しにくい。移民を受け入れるアメリカは、若く働き盛りの100万人くらいの集団が国内で毎年生まれるから成長する。 【藤井】この悲しいグラフでわかるように、世界でダントツに取り残されてしまった国がわが日本です。つぶれかけているんじゃないかといわれた南欧諸国すら、何十%か成長しています。いちばんダメな日本は、なんとマイナス20%成長なんです。 日本政府も財務省も、メディアも経済学者も、なぜこんなことになったのか説明すべきです。そして、日本の過去の経済政策が間違っていたことを認め、まともな政策に転換しなければなりません。 プライマリーバランス規律をはずしたうえでの「消費税0%」が、その大いなる一歩となる。日本は、いますぐそうすべきなんです』、前述の通り、異次元緩和という極めてリスキーな政策をやっているので、「消費税0%」はリスクが大き過ぎる。まずは、2%分を元に戻す程度で様子を見るべきだろ思う。

次に、5月30日付け東洋経済オンラインが掲載した経済ジャーナリストの岩崎 博充氏による「ワクチン接種の大混乱に浮かぶ日本の致命的弱点 政治家のリーダーシップや官僚の保身以外にも」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/430772
・『日本のワクチン接種が他国に比べて遅れている。先進国どころか、世界全体で見ても大きく遅れていると指摘されている。メディアは連日、ワクチン接種率が世界的に見てどん底に近いと報道し続けている。 実際にNHKの報道によると、世界のワクチン接種回数は累計で、中国の約4億5000万回(5月21日現在)を筆頭に、アメリカが2億7000万回、インドが1億8000万回なのに対して、日本は750万回と2桁も違うのが現実になっている。 こうしたワクチン接種の遅れを、メディアはさまざまな角度からさまざま方法で分析しているが、その大半が「国内ワクチン開発の遅れ」や「ワクチン接種の準備不足」「ワクチン接種の現場での混乱」「東京五輪を優先した弊害……」といったアプローチでの分析となっている。 とりわけ、メディアの格好の取材対象となっているのが、各自治体でのワクチン接種の混乱ぶりだ。余ったワクチンを捨ててしまう、行政のトップが医療関係者と称して先に接種するといった話題が、日々機関銃のように報道されている。 しかし、日本のワクチン接種の遅れは、もっと奥深いところ、根源的な部分にあるのではないだろうか……。一部メディアでは「日本人の完璧主義による弊害」や「法律の不備」といった曖昧な部分での指摘も相次ぐ。毎日毎日、同じニュースを流し続けるテレビや新聞に対する弊害を指摘する人もいる。 なぜ、「日本のワクチン接種は遅れたのか……」。今回のパンデミックによって、日本政府はむろんのこと、日本国民全体でも「リスク管理」がきちんとできていなかったことは間違いない。とはいえ、日本人全体が能天気に平和ボケしてきたわけでもない。現場は、いまでも24時間体制でコロナと戦い続けている。なぜ、こんな状況になったのを正しく分析することで、次の「有事」の糧としなければならないだろう』、興味深そうだ。
・『日本のワクチン接種が遅れた4つの要素  すでにさまざまなメディアで報道されているように、日本の新型コロナウイルスのワクチン接種が遅れた理由は、数多くが指摘されている。ざっとその内容を整理してみると、その本質が見えてくるはずだ。 ①ワクチンが調達できなかった ②ワクチン接種の準備が遅れた ③ワクチン接種で混乱が起きた ④ワクチン接種のロードマップが見えない 簡単に整理すると、こんなところだろうか。順番に見ていこう。 ワクチンが調達できなかった点について、大きく分けて日本には2つの問題がある。ひとつは、国内の製薬会社がいまだにワクチン開発に手こずっていること。これは、「日本のワクチン開発が企業任せで政府の後押しがなかったため」という一言で説明できる、という報道が多い。 ワクチンは「安全保障の切り札」にもかかわらず、政治家や行政に安全保障の認識が欠けていた、という視点だ。日経新聞によると、アメリカはトランプ政権が「ワープ・スピード作戦」と称して、バイオ医薬品開発の「ノババックス」に16億ドル(約1720億円)の助成金を出している。モデルナも、アメリカ生物医学先端研究開発機構(BARDA)から最大で4億8300憶ドル(約520億円)の助成金を受け取ることで合意したとウォール・ストリート・ジャーナルが報道している。 アメリカ政府が、ワクチン開発に補助金を出した金額はBARDAを通したものだけでも192億8300万ドル(2兆0825億円、2021年3月2日時点)に上ると、アメリカ議会予算局が公表した資料で報告されている。 イギリスも、2020年5月にオックスフォード大学に対してワクチン開発のために6億5500万ポンド(約1000億円)を支援すると発表している。ちなみに、ファイザーはトランプ政権から資金を受け取らなかったことはあまり知られていない。科学者を政治的な圧力から守るためにアメリカ政府の補助金を受け取らずに、研究開発費は全額自前で賄ったとニューズウィークが伝えている』、「ファイザーはトランプ政権から資金を受け取らなかった」、とは初めて知ったが、立派な心がけだ。
・『日本政府も補助金は出しているが…  一方、日本の厚生労働省はどうか。定期的に「新型コロナワクチンの開発状況について」というレポートを発表しているが、この3月22日の更新情報によると日本の国内ワクチン開発は、塩野義製薬、第一三共、アンジェス、kmバイオロジクスなどの各グループが開発を急いでいるが、いまだに実用化のめどは立っていないそうだ。日本最大の製薬会社である武田薬品はノババックスと委託業務契約を結び、今年の下半期から年間2億5000万回分以上のワクチン供給を実施する予定と報道されている。 塩野義製薬のグループには、生産体制等緊急整備事業から223億円が援助され、第一三共グループにも同じく60億3000万円の補助が行われている。アンジェスのグループは同93億8000万円、KMバイオロジクスは同60億9000万円が補助されている。日本政府も補助金は出してはいるものの、桁が1つ違う印象を受ける。NHKでは、こうした政府の対応を「平時対応」という言葉で、東大医科学研究所教授の言葉として取り上げている。 もっとも、本来製薬開発で日本は世界的に見ても、スイスと並んで優れた技術を持っているといわれる。にもかかわらず、スイスと日本はコロナのワクチン開発には揃って手こずった。今回のコロナのワクチン接種では、最速で開発したファイザーも、2番目となったモデルナも遺伝子分析による開発技術を使った「mRNA」ワクチンで成功した。日本の第一三共やアンジェスも、mRNAによる開発を試みているが、もともと日本は官民を挙げてワクチン開発には消極的だったと指摘・分析する見方も多い』、「本来製薬開発で日本は世界的に見ても、スイスと並んで優れた技術を持っているといわれる。にもかかわらず、スイスと日本はコロナのワクチン開発には揃って手こずった」、驕りが邪魔をしたのだろうか。
・『日本独自の薬事検査で2カ月の出遅れ?  日本には、1970年代に天然痘による副作用をめぐる集団訴訟があり、天然痘は絶滅に至るものの、政府自身が予防接種に消極的になったという経緯がある。 1990年代には、麻疹、おたふくかぜ、風疹の3種混合ワクチンが、小児無菌性髄膜炎の原因と指摘されて任意接種に切り替えた。さらに、子宮頚がんを予防するHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンも、海外ではその有効性が高く評価されているのに、現在の日本では集団訴訟に発展したために、積極的な摂取推奨を取り下げている。 ようするに、厚生労働省や政府は、訴訟のリスクを重視して、全体の利益=予防接種の方針を曲げてしまう。今回のコロナワクチンでも、なぜか日本は独自の薬事審査にこだわった。たとえば、ファイザーのワクチンに関しては、アメリカでは昨年12月10日にFDA(食品医薬品局)は、緊急使用の許可を出している。 イギリスでも2020年10月に承認申請が行われ、12月2日には承認が下りている。2カ月弱で承認申請にこぎつけたということだ。 日本はどうかというと、2020年12月18日に承認申請が行われたものの、ファイザー製ワクチンが正式に承認されたのは2021年2月14日となった。なぜイギリスで12月に承認が下りている同じ薬が、日本では2月になってしまったのかということだ。これについては、欧米とは違う基準での審査を日本でも行わなければならず、独自の審査が行われたとの報道がなされている。 通常、ワクチン開発の臨床実験では第1相から第3相までの段階に分かれて、それぞれ100人未満、数百人単位、数千人単位と段階を踏んでいくのだが、今回の審査では日本独自の審査として160人に対して臨床実験を行い安全性や有効性に関するデータを揃えたといわれる。 筆者は医療の専門家ではないことをまず断る。そのうえで、160人という数字が「とりあえず審査はやった」というアリバイ作りにしか思えないのは筆者だけだろうか。政府主導で、早期に積極的なワクチン接種を実施していれば、また違った展開になったはずだ。 もともとワクチンの有効性についての審査は、副反応の分も含めて数万人単位で実施してみてはじめてその実態がわかるものだ。後でなんらかの副反応がある可能性は高く、アストラゼネカのように100万人当たり4人に血栓ができるといった指摘も出てくる。 よく自国でワクチン開発ができなかったために、日本は遅れたという指摘を耳にするが、イタリアやフランス、スペインでも自国でワクチン開発はできていない。にもかかわらず、日本のワクチン接種率を大きく上回っている。それが、この2021年1~3月期のGDP成長率にも現れている。ワクチン接種が進んでいるアメリカや欧州は、大きくプラスに転じているにもかかわらず、日本はいまだに前年同期比で-5.1%とリーマンショックを下回る経済成長率しかない』、「今回のコロナワクチンでも、なぜか日本は独自の薬事審査にこだわった」、「イタリアやフランス、スペインでも自国でワクチン開発はできていない。にもかかわらず、日本のワクチン接種率を大きく上回っている」、厚労省の責任だ。
・『ワクチン接種の準備が遅かった  イギリスのオックスフォード大学などのグループが集計しているデータによると、5月10日時点で人口に占める1回目の接種を終えた人の割合は、イスラエル63%(NHKホームページより、以下同)、イギリス52%、アメリカ46%。日本はわずか2.91%で、世界で131番目となっている。発展途上国にも大きく遅れをとっているのが現状だ。 なぜ、これほどワクチン接種の開始が遅れたのか……。たとえば、イギリスは、昨年の夏にはワクチン接種の準備に取り掛かっていたと報道されている。菅政権の支持率がこうした報道で大きく下げたのはやむをえないにしても、8年も続いた安倍政権が、ほとんど何の準備もしなかったことが大きかったのではないか。他の国が、ワクチン接種に取り掛かっているときに、日本では呑気に「Go To トラベルキャンペーン」の準備にかかりきりだったとも言える。 海外で承認されたワクチンだからといってすぐに国内で認可されるものではない――という発想は、いってみれば「平時の発想」だ。しかし現在はコロナという「バンデミック=戦時下」にある。日本政府にはこうした「有事」の発想がなかったのかもしれない。「最悪の事態を想定して行動する」という有事の発想があれば、また違った展開があったはずだ。 ワクチン接種の準備が遅れたのはセキュリティーに対する意識が低かったといわれても仕方がないが、その後のワクチン接種のスタートでもさまざまな問題があった。予想された「混乱」や「トラブル」は、メディアも加担して大混乱となった。 自衛隊による大規模集団接種が始まった5月24日の新聞報道を見てみると、朝日新聞は「ワクチン予約サイト、プロが示す『最悪シナリオ』対処法」の中でワクチンの予約サイトがITのセキュリティーが弱く混乱に拍車をかけている。さらにサイバー攻撃の標的にされるのではないかと懸念も示している。) 日本経済新聞も「都市部で接種予約停滞計画前倒し、対応難しく」(2021年5月24日)の中で、政府は高齢者向けのワクチンを7月4日までに配送完了する計画を立てたといわれているが、大都市圏では滞りが目立っており、まだ接種券も届いていないというところが多い。なかには9月までかかると答えた自治体もあるといわれている。自治体が主催する大規模接種会場の進捗状況次第ではこれからも混乱が予想されるかもしれない。 なぜこれほどまでに、ワクチン接種が遅れ、しかも混乱しているのかと言えば、一言でいえば政府がすべてを「自治体任せ」にしたことに尽きるのではないか。厚生労働省全体の問題なのか、それともワクチン接種チームのせいなのか、はっきりはしないが、自治体任せにして一元的に管理するシステムが構築されていなかったことが大きい。 総務省が莫大な税金を使って進めてきた「マイナンバーカード」はなぜ使えなかったのか。厚生労働省と総務省という「タテ割り行政」の弊害に見えるが、いまだに日本政府はこんなに無駄なことを既得権を守るためにやっているのかと思うと、かなり情けない気持ちになる。 そもそも、自治体任せにするということで、国家公務員や政治家は、自分たちの責任を回避したように思えてならない。せめて混乱を避けて平等性を保つためには、国が強いリーダーシップを発揮して、ワクチン接種の「全国統一のプロセス」を示すことが必要だったと言える。 新潟県の上越市が実施して高い評価を得た方法のように、高齢者の自宅に「×月●何日14時、A会場」というように、時間と場所をあらかじめ指定すれば、そこにいけない人だけが、決められた連絡先にアクセスすることになり、少なくとも大混乱は避けられたように思えてならない』、「8年も続いた安倍政権が、ほとんど何の準備もしなかったことが大きかったのではないか。他の国が、ワクチン接種に取り掛かっているときに、日本では呑気に「Go To トラベルキャンペーン」の準備にかかりきりだったとも言える」、「自治体任せにするということで、国家公務員や政治家は、自分たちの責任を回避したように思えてならない」、その通りだ。
・『日本全体が「責任回避社会」に  日本全体が「責任回避社会」になっているとも言える。まさに、日本では「責任を持って物事を決めていくリーダーシップ」を発揮できる人材が、決定的に不足しているのではないか。 もっとも日本国民もそういう政治体制を支持してきたのだから責任は国民にもある。 こうした一連のワクチン接種が遅れた状況について、さまざまな分析が行われているが、その中に「ひとつのミスも許されない完璧主義」という雰囲気が日本のワクチン接種を遅らせたのではないか、という指摘があった。ある意味で当たっているのかもしれないが、完璧主義であるかどうかはかなり疑問だ。 ひとつのミスも許されない、という雰囲気になってしまっているのは、日本の場合はテレビや新聞、そして週刊誌に至るまで、同じ報道を繰り返し、繰り返し報道する傾向が指摘されるからだ。政治家や行政の失敗を批判するニュースが目立つ。それも通常のニュースだけではなく、「ニュースショー」と称するバラエティー番組で繰り返し、細かな点にまでミスをついてしまう傾向が強い。 ワクチン接種について、日本政府が消極的なのも、メディアが長年にわたってワクチンによる副反応をことさら強調する報道を繰り返してしまったのもひとつの要因といっていいのかもしれない。日本のメディアは、記者クラブ制があって、すべて横並びで報道するため、きちんとしたエビデンスや調査に基づく報道が弱い。感情的な報道をしたほうが視聴者や読者にも受けて収益も上がる。 こうした報道ができるのは、資金面で余裕のある大手メディアしかないのだが、残念ながら日本ではその大手メディアほど記者クラブで得た情報をだらだらと報道する傾向が高い。こうした傾向は日本だけの問題ではないが、日本のコロナ対策が後手に回っている要因のひとつといっていい』、「日本ではその大手メディアほど記者クラブで得た情報をだらだらと報道する傾向が高い」、確かに「メディア」の姿勢も問題だ。
・『ミスをした人間を容赦しない日本のメディア  そもそも、日本にはメディアに一度叩かれたらとことんやられてしまう、という恐怖心が官僚や公務員、政治家、そして一般の国民にあるのも事実だ。日本のメディアはとりわけ、ミスをした人間を容赦しない。タレントであろうが政治家であろうが一般人であろうが、どことなく許せないという雰囲気を作ってしまう。 こうしたメディアの姿勢が、パンデミックのような状況には大きな負の要因になってしまった傾向がある。日本は太平洋戦争のときにメディアも揃って政府・軍部の言いなりとなって、一直線に戦争に進んでしまった経緯がある。これと似たような状況が、現在のメディアには見え隠れする。 これは、ある意味でメディアの驕りなのだが、スポンサーである企業や視聴者である国民にもその責任の一端があるのではないか。感染症という病気と闘う以前の日本全体の雰囲気に原因があるような気がしてならない。日本の教育制度は、ある一定の枠の中に人間の個性を封じ込めて集団行動させることに大きな意味を見いだしている。個性を伸ばす教育が不足している。ある意味で、第2次世界大戦前の教育の方向性が本質的なところでは変わっていないと言ってもよい。そして、企業も個性を捨てた人間の集団をつくり続けている。 パンデミックという「有事」に巻き込まれている今、日本はこうした根源的な部分でももう一度立ち返ってみる必要があるのかもしれない』、同感である。
・『法的整備の不備は政治家の怠慢?  そして、もうひとつ忘れてならないのは、法律がないからという理由で何もしなかった政治の怠慢がある。法律がなかったのはどこの国もほとんど同じだ。しかし、イギリスではすぐに新しい法律を作って対応した。 日本では、そもそも議員立法という概念が希薄で、ほとんどの政治家がパンデミックの中で結局何もしなかった、といっても過言ではない。せっかく莫大な予算を使って立法府のシステムがあるのに、なぜ日本の政治家は法律を作らないのか……。ここにも制度上の欠陥がありそうだ。 そもそも、日本には「通達行政」という便利な制度がある。法律など改正しなくても、通達1本で国民の生活スタイルを変えてしまうことが何度かあった。官庁相手のみならず、民間企業である私立大学への通達などはそのいい例だ。 そして、最後に東京五輪の存在だ。オリンピック開催にこだわったことが、コロナ対策に大きな影響を与えた。政府与党が東京五輪開催によって、総選挙を有利に導こうとしていることは明らかだし、逆に総選挙で政権を明け渡すようなことだけは避けたいと考えている。“日本売り”が始まり、株式や円、国債をも売られることになるはずだ。 日本のワクチン接種が遅れた原因は日本が固有に抱えるさまざまな問題点を浮き彫りにした。政治家や行政だけではなく、国民自身も省みなければならない』、「国民自身も省みなければならない」というのは戦争責任の1億総懺悔のようで、違和感がある。やはり主因となる政府、マスコミの責任を追及すべきだ。

第三に、6月1日付け東洋経済オンラインが掲載した朝日新聞出身で アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長の船橋 洋一 氏と:、『失敗の本質』で旧日本軍の失敗を分析した戸部良一氏の対談「日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走 このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/431595
・『コロナ禍の対応で日本が迷走している。PCR検査体制、医療体制、ワクチン接種体制、緊急事態宣言など、どれをとっても政府・自治体の対応は後手を踏み、長期にわたる行動制限が我慢の限界に達しつつある民心には政府への不信が募っている。未曽有の危機に直面する日本の今に、何が求められ、何が足りないのか――。 約40年にわたり読み継がれている名著『失敗の本質』で旧日本軍の失敗を分析した戸部良一氏と、独立系シンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」(API)を率い、福島原発事故と新型コロナウイルス感染症対策の民間調査を実施した船橋洋一氏が、日本の課題を4回にわたって話し合う』、興味深そうだ。
・『「敗戦」とは呼びたくない  船橋 洋一(以下、船橋):今年の3月で東日本大震災と福島の原発事故から10年の節目を迎えましたが、今、日本だけでなく世界は新型コロナウイルス感染症のパンデミックの渦中にあります。先の戦争とフクシマ、そして今回のパンデミックはさまざまな意味において、私たちが経験した大きな危機ですが、私はまだ、日本のコロナとの戦いを「敗戦」とは呼びたくないと思っています。 今後、局面がどう変わるかまだ予断を許しません。この1年半、それこそオセロゲームのように、中国、イタリア、イギリス、アメリカ、ブラジルなど感染爆発の局面はその都度、変わり、今はインドが大変な状況に陥っています。 また、世界的に接種が進んだとしても、インド株をはじめとする変異株に対して今のワクチンの有効性はいつまで、どこまで持続するのかという問題も浮上しています。ワクチンはパンデミック収束の切り札とはならず、変異株とワクチン開発のいたちごっこになる可能性すらあります。ですから、そのような状況で、結論を出すのはまだ早いと思うのです。 しかし、これまでの日本政府の対応を見ていると、例えば、デジタル活用では後れを取ったと感じます。中国が感染対策にICT技術やAI技術を駆使したのに対し、日本ではトラッキング、隔離、通知・警告、データ収集・分析のいずれの分野でもデジタル技術のイノベーションを使いきれなかった。「デジタル敗戦」は否定できない。 また、残念ながらワクチンに関しても、開発・生産体制、承認体制、接種体制のいずれを見ても、「三周半遅れ」(民間臨調報告書)で喘いでいる。「ワクチン敗戦」と言われてもしょうがない。世界の日本を見る目もすっかり変わってしまっています。 1990年代の金融危機、2011年の福島原発危機、そして今回のコロナ危機と、国家的危機に対して政府が対応に失敗するたびに、読み返すのが『失敗の本質』です。この本は、戸部さんや野中郁次郎さんをはじめとする各分野の研究者の共同研究の成果です。1984年にダイヤモンド社から刊行された、日本軍の失敗を研究した名著ですが、その後、中央公論新社で文庫化され実に70刷を刻んでいます。 コロナ危機はまだ進行形ですが、フクシマの経験も含め、日本の危機対応について、戦前の日本軍の失敗に照らして、何が問われているのか。さまざまな観点から日本の課題について伺いたいと思います。 戸部 良一(以下、戸部):『失敗の本質』は40年近く前に出版した本ですが、実は福島の原発事故の際にもよく読まれました。そして、今回も思い出していただいたということで、著者の1人としては大変うれしいことなのですが、これほど多くの方々に読んでいただいているにもかかわらず、同じことが繰り返されているとすれば、こんなに悲しいことはないとも思います。 コロナやフクシマの話に入る前に、前もって申し上げておきますと、『失敗の本質』で取り上げているのは「目に見える」敵との戦いです。が、フクシマの場合も、コロナの場合も敵は目に見えません。もっとはっきり申し上げると、意志を持たない敵との戦いです。そこは、切り分けて考えなくてはならないと思います。 (戸部良一氏略歴はリンク先参照) 戦争の場合には相手も意志を持っていますから、ある程度、予想や予測を立てることができます。もちろん、相手に予想を裏切られる場合もありますが、相手の文脈で考えることができれば予想は立てられます。 しかし、意志を持たない敵の行動を予測することは難しいと思います。科学的な知見の蓄積で、ある程度は根拠を持って予想できるところもあるとは思いますが、ここが目に見える敵との戦いとは違うということは、前提として理解しておかなければなりません。 もう1つ、顕著な違いがあります。『失敗の本質』では6つのケースを扱っていますが、そのうち、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦の5つは自ら攻めていった戦いで、相手から攻められたケースは沖縄戦だけです。つまり、私たちが分析した日本軍の戦いの大半は自ら攻めた戦いです。 一方、コロナもフクシマも、ある意味で、攻められている戦いで、その違いはあるのだと思います。だからどうした、と問われると、それに対する回答を持ち合わせているわけではありませんが、違いがあることは考えておく必要があると思います』、『失敗の本質』の著者の1人との対談とは面白い企画だ。
・『官僚制の本質は戦前から変わっていない  船橋:私どものシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ=API」(当時、日本再建イニシアティブ=RJIF)は福島の原発事故の際に、民間事故調査委員会を立ち上げ、調査・検証し、報告書を作成しました。それとは別に私自身、その後も取材を続け、危機の現場の様々な姿を拙著『フクシマ戦記』(文芸春秋社刊)で描き、今年刊行しました。 そこで痛感したのは、日本のガバナンスには深刻な問題があるということでした。とくに、リスク評価とリスク管理のギャップ、各省庁の司司のタコツボ・縄張り、そしてリスクを引き受け、ガバナンスを効かすリーダーシップの不在といった問題です。戸部さんがご覧になって、どこに問題があるとお考えですか。 戸部:『フクシマ戦記』を拝読して、最も興味深かったのは「戦記」と表現されていたことです。確かにそうだな、という思いを強くしました。私の問題意識に添って申し上げると、最も関心を持ったのは、官僚制とリーダーシップの問題です。船橋さんも『フクシマ戦記』で言及しておられますが、官僚制の本質は戦前の日本軍の時代から変わっておらず、そこに問題があるということだろうと思います。) ただ、官僚制の弊害は、日本だけではなくどの国の官僚制にも付きまとう問題で、いわば官僚制の逆機能として発現するものだと思います。それが日本の場合、危機が最高潮に達している最も大切な場面で出てしまうという特徴があり、その原因を考えることが課題だろうと思います。 リーダーシップ論については、『フクシマ戦記』で当時の民主党政権の菅直人首相を厳しく批判しながらも、「彼がいたから持った」と指摘されているところが意外で、ちょっと菅さんを見直したというところがありました。 (船橋洋一氏の略歴はリンク先参照) もう1つ、余計なことかもしれませんが、日本の問題を考える際、文化論に落とし込むことの危険性を指摘しておきたいと思います。私は防衛大学校の国際関係学科で教鞭をとっていましたが、それは当時から学生に口を酸っぱくして指導していたことです。さまざまなケースを分析した後に、その原因を日本的な文化やその欠陥に求めたのでは、実は何も言っていないことと同じで、その結論は逃げでしかありません。 ところが、その後に国際日本文化研究センターに身を移しましたが、そこには、多くの研究者が「日本独特なもの」と口を揃える“文化”がありまして、大変なところに来てしまったと思いましたが、やはり、「日本的」「日本の文化」というところに逃げずに、問題の本質を突き詰めることが必要だと思います。 船橋さんも、『原発敗戦』(文春新書)で、文化決定論は無責任と敗北主義をもたらすだけだと警鐘を鳴らされていたと記憶しています』、「「日本的」「日本の文化」というところに逃げずに、問題の本質を突き詰めることが必要だと思います」、同感である。
・『文化に流し込むと教訓を得るのが難しい  船橋:以前に、昭和史家の半藤利一さんと『原発敗戦』について対談したことがあるんですが、私が失敗の本質は文化ではないと主張したのに対して、半藤さんは「いや、それでも日本の問題は、最後は文化だ」だとおっしゃっていましたね。私は、危機に当たってのガバナンスは、当事者と担当者の個々人の判断、役割、責任が重要で、それを文化のせいとするのは個人の役割や責任をあいまいにする危険があると思います。 どこの、どいつが、どうしたことが問題だった、ということを突き止めることが重要だと思います。文化に流しこむと、教訓を得るのが難しい。学習の芽を摘んでしまう危険がある。もちろん、組織としての対応の可否を問うときに組織文化の問題はあると思います。ただ、その場合も、人事制度、昇進制度、報奨制度、コンプライアンス制度、法制度、判例、メディアの取り上げ方などの組織文化を成り立たせる構造と状況があります。むしろ、そちらを分析することが重要だと思っています。 船橋:ここで、官僚制とリーダーシップという問題提起をいただきました。それに関連して、まず、コロナとの戦いについて伺います。 菅政権は7月末までに高齢者全員に対してワクチンの2回接種を終えると、大見得を切りました。1日、100万回の接種という大号令です。ただ、これまで1年間のPCR等検査の実施状況を見ても、こんな数字本当に達成できるのか、と国民も半信半疑なのではないでしょうか。私も高齢者の1人で、住まいは横浜の鶴見区ですが、接種券は届いたものの昨日(5月10日)50回ほど電話してもつながらない状態です。 そんな状況にもかかわらず、誰も菅首相に「総理、それは無理です」と言わなくなっているんじゃないか、「数合わせ」と「忖度」の危機管理になってしまっているのではないか、と危惧しています。 もう1つ、対策に優先順位が付けられていないのではないかとも感じます。PCR等検査とワクチンは最大限、必要な資源を投入して、断行する最優先順位課題ではなかったのか。またしても、「逐次投入、小出し」の様相を呈しているようです。この辺りは、どうご覧になっていますか』、「文化に流し込むと教訓を得るのが難しい」、同感である。
・『リーダーは危機を率直に語るべき  戸部:私は昔のことしかわかりませんので、その辺をわきまえて申し上げますが、今はテレビがあり、SNSがありということで、指導者は頻繁に国民の目にさらされています。戦前は、日本だけでなくどの国でもそんなことはありませんでした。せいぜいラジオがあったぐらいです。 で、議会の場やラジオを使って国民を説得するわけですが、例えば、チャーチルやルーズベルトの演説を文字で読む限り、指導者は数字を出して細かいことは言っていません。むしろ、今の状況がどれほど逼迫しているかということをストレートに話して、打ち克つために何をすべきかを端的に訴えています。その違いだと思います。 「血と涙と汗しか提供できるものはない」というチャーチルの有名な演説がありますが、そのときも、ドイツ軍は強いと言って、いかにイギリスが危機的な状況にあるかを率直に述べています。 船橋:「数字を出して細かいことは言わない」ですか。危機の時、リーダーが国民に伝えるべきは数字でもない、細部ではない、ということですね。 戸部:きちっと危機の状況を言わないと結局、説得力がないのではないでしょうか。数字は専門家が言えばいいのであって、リーダーは率直に危機について語るべきです。) 船橋:これは、リスク評価とリスク管理に関わるテーマですが、フクシマでもコロナでも、今は大変な状況なのだということを言うと、国民がパニックになるのではないかと恐れて、リーダーは危機の実体と有事の対応策を真正面から言うことをためらう傾向があります。福島原発事故前までの原子力安全規制側の決まり文句は「住民に不必要な不安と誤解を与える」ようなことはしない、というものでした。 戦中の大本営発表と同じだとまでは言いませんが、国民が不安になるようなことを言うのはできるだけ避け、「いい知らせ」だけを伝えようとする。国民に安全と安心を保証する政治は間違ってはいませんが、ややもすれば安心を優先させその結果安全を犠牲にしてしまっているということがあるのではないでしょうか』、「数字は専門家が言えばいいのであって、リーダーは率直に危機について語るべきです」、なるほど。
・『安心ポピュリズム  私はそれを「安心ポピュリズム」と名付けているのですが、与党も野党もメディアも、そしてほかならぬ国民も安心を要求します。そしてその結果、人々を不安にしかねない「リスク評価」、そうした「想定外」を織り込んだ訓練、有事に備えた法制度改正、「最悪のシナリオ」策定などのタフな案件は敬遠されるのです。この「安心ポピュリズム」、戦前はどうだったのでしょうか。 戸部:それは大変難しい問題ですが、恐らく、指導者が国民をどの程度信用しているかということに関係しています。船橋さんご指摘の「安心ポピュリズム」は、ある種の愚民観によって立っているのだと思います。国民を信用していれば、政府や指導者が持つ正確な情報をストレートに伝えるはずです。 私は、多くの国民は理解する、と楽観的に思うのですが、政府が正確に情報を伝え、国民が冷静にそれを受け止めるということを繰り返し、慣れていかなければ、何時まで経っても、政府が本当のことは隠すという状況は続くのだと思います。 またチャーチルの話になりますが、ドイツとの交戦中、ロンドンに夜間の爆撃が集中していったときのことです。このとき、ドイツの侵攻を食い止めるため、イギリス軍は航空機とパイロットを温存する必要があり、夜間の爆撃には全力で反撃していませんでした。 ある評伝によると、チャーチルが爆撃を受けた町を翌朝、慰問に訪れたとき、そこで多くの住民に囲まれてしまいました。チャーチルは一瞬、危険を感じましたが、住民は怒って首相を囲んだのではなく共感を示すために集まってきたというのです。帰りの車中でチャーチルは感涙したとも伝えられています。 このエピソードがどこまで事実なのかはわかりませんが、指導者が率直に状況を語ることの重要性をよく示していると思います。指導者が真実を率直に語っているからこそ、国民も状況を理解し受け容れたのではないでしょうか』、「安心ポピュリズム」とは、「ある種の愚民観によって立っているのだと思います」、「政府が正確に情報を伝え、国民が冷静にそれを受け止めるということを繰り返し、慣れていかなければ、何時まで経っても、政府が本当のことは隠すという状況は続くのだと思います」、その通りだろう。官首相も肩の力を抜いて、もっとフランクに思いや悩みを打ち明けてはどうだろう。
タグ:東洋経済オンライン 藤井 聡 戸部良一 田原 総一朗 PRESIDENT ONLINE 岩崎 博充 日本の構造問題 船橋 洋一 (その20)(「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった、ワクチン接種の大混乱に浮かぶ日本の致命的弱点 政治家のリーダーシップや官僚の保身以外にも、日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走 このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか) 「「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」京大教授がそう嘆くワケ 給料が減って、経済成長も止まった」 1997年には消費税の他にも、社会保険料も引き上げ、さらに医療費自己負担増加も合わせ、合計9兆円もの国民負担増加をもたらし、アジア通貨危機、山一証券・北海道拓殖銀行の破綻を放置したことも相まって、日本経済は深刻な大不況に見舞われた。「大蔵官僚」の安請け合いが如何にいい加減であったかを如実に示した これまでの「消費税引き上げ」には問題があったとはいえ、これから「消費税0%」にするのには反対である。異次元緩和の下で、そこまでやると、日本売りとなって、円安、国債暴落が発生するリスクがあるためである GDP成長率の低さに加え、円安も大きく影響している。 前述の通り、異次元緩和という極めてリスキーな政策をやっているので、「消費税0%」はリスクが大き過ぎる。まずは、2%分を元に戻す程度で様子を見るべきだろ思う。 「ワクチン接種の大混乱に浮かぶ日本の致命的弱点 政治家のリーダーシップや官僚の保身以外にも」 なぜ、こんな状況になったのを正しく分析することで、次の「有事」の糧としなければならないだろう』、興味深そうだ 日本のワクチン接種が遅れた4つの要素 ①ワクチンが調達できなかった ②ワクチン接種の準備が遅れた ③ワクチン接種で混乱が起きた ④ワクチン接種のロードマップが見えない 「ファイザーはトランプ政権から資金を受け取らなかった」、とは初めて知ったが、立派な心がけだ 「本来製薬開発で日本は世界的に見ても、スイスと並んで優れた技術を持っているといわれる。にもかかわらず、スイスと日本はコロナのワクチン開発には揃って手こずった」、驕りが邪魔をしたのだろうか。 「イタリアやフランス、スペインでも自国でワクチン開発はできていない。にもかかわらず、日本のワクチン接種率を大きく上回っている」、厚労省の責任だ。 「8年も続いた安倍政権が、ほとんど何の準備もしなかったことが大きかったのではないか。他の国が、ワクチン接種に取り掛かっているときに、日本では呑気に「Go To トラベルキャンペーン」の準備にかかりきりだったとも言える」、「自治体任せにするということで、国家公務員や政治家は、自分たちの責任を回避したように思えてならない」、その通りだ 「日本ではその大手メディアほど記者クラブで得た情報をだらだらと報道する傾向が高い」、確かに「メディア」の姿勢も問題だ。 パンデミックという「有事」に巻き込まれている今、日本はこうした根源的な部分でももう一度立ち返ってみる必要があるのかもしれない』、同感である。 「国民自身も省みなければならない」というのは戦争責任の1億総懺悔のようで、違和感がある。やはり主因となる政府、マスコミの責任を追及すべきだ。 「日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走 このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか」 『失敗の本質』の著者の1人との対談とは面白い企画だ。 「「日本的」「日本の文化」というところに逃げずに、問題の本質を突き詰めることが必要だと思います」、同感である。 「文化に流し込むと教訓を得るのが難しい」、同感である。 「数字は専門家が言えばいいのであって、リーダーは率直に危機について語るべきです」、なるほど。 「安心ポピュリズム」とは、「ある種の愚民観によって立っているのだと思います」、「政府が正確に情報を伝え、国民が冷静にそれを受け止めるということを繰り返し、慣れていかなければ、何時まで経っても、政府が本当のことは隠すという状況は続くのだと思います」、その通りだろう。官首相も肩の力を抜いて、もっとフランクに思いや悩みを打ち明けてはどうだろう。
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日本の構造問題(その19)(日本は豊かな国だと信じる人の「大いなる誤解」 日本型経営は数字を見ず合理的経営ができない、ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」、コロナよりも怖い日本人の「正義中毒」 和田秀樹×中野信子が解説、テレワークが命を救った? 和田秀樹の「自殺者急増」予想が外れた理由) [経済政治動向]

日本の構造問題については、昨年11月29日に取上げた。今日は、(その19)(日本は豊かな国だと信じる人の「大いなる誤解」 日本型経営は数字を見ず合理的経営ができない、ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」、コロナよりも怖い日本人の「正義中毒」 和田秀樹×中野信子が解説、テレワークが命を救った? 和田秀樹の「自殺者急増」予想が外れた理由)である。

先ずは、本年1月9日付け東洋経済オンラインが掲載した APU(立命館アジア太平洋大学)学長 の出口 治明氏と東京大学名誉教授の上野 千鶴子氏との対談「日本は豊かな国だと信じる人の「大いなる誤解」 日本型経営は数字を見ず合理的経営ができない」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/398662
・『本人にとっての幸せになる働き方とは? 『日本人は「移民は優秀な人」だとわかっていない』(2020年12月25日配信)、「日本の男は自分の履く『ゲタの高さ』を知らない」(2021年1月1日配信)に続いて、出口治明さんと上野千鶴子さんが、語り合った新著『あなたの会社、その働き方は幸せですか? 』から一部を抜粋、再構成してお届けします』、興味深そうだ。
・『日本の1人当たりGDPはシンガポールに劣る  出口 治明(以下、出口):この30年間で日本の名目GDP(国内総生産)の世界シェアは最も高かった時の半分以下になりました。国民1人当たりの名目GDPも2000年には2位でしたが、このあとずっと下降し続けて2018年には26位まで落ちています。 日本がどんどん貧しくなっていることは確かなのですが、名目GDPではまだ世界3位だから、自分たちはお金持ちだと錯覚しています。名目GDPが大きくなるのは人口が多いからにすぎません。さらに労働生産性では、1970年に比較統計を取り始めてからずっとG7(主要7カ国)で最低です。 ある友人がシンガポールに行ったら、えらい物価が高くてびっくりしたと。「ホテルでアフタヌーンティーを頼んだら、5000円以上取られたけれど、外国人やからぼったくられたんやろか」と言うので、スマホで検索して、シンガポールの1人当たりのGDPを見せたら、すぐに納得しました。無意識にシンガポールより日本が上やと思っていたけれど、違うんやなと。 上野 千鶴子(以下、上野):1人当たりGDPは、すでにシンガポールに抜かれているんですね。 出口:より実態を表わす1人当たり購買力平価GDPを見ると、シンガポールはおろか、日本は香港にも台湾にも抜かれていて、お隣りの韓国とほぼ横一線の状態です。G7では最下位です。 上野:日本は人口小国になったらシンガポール型を目指せばいいというシナリオももはや実現可能性は低くなっている。つまり貧しくなっていくしかないのでしょうか。 出口:日本経済がこのように停滞しているのは、製造業の工場モデルに過剰適応した男性の長時間労働という働き方を変えることができなかったからだと思います。働き方が変わっていたら、日本はもっといい社会になって、生産性も上がっていたはずです。働き方がほとんど変わらなかったことが日本社会の根源的な問題ではないでしょうか。) 上野:言わせてください。女性にとっては、労働状況は変わっていないどころか悪化しています。 出口:その通りです。121位ショックが象徴的ですが、女性の地位は下がってきています。 上野:私と出口さんの共通認識は働き方が変わらなくては、働き方を変えなくては、です。出口さんはかねてから、新卒一括採用、終身雇用制、年功序列給、定年制をやめることを提言しておられます』、「日本経済がこのように停滞しているのは、製造業の工場モデルに過剰適応した男性の長時間労働という働き方を変えることができなかったからだ」、その通りだ。
・『日本型経営は人口増と高度成長なしに成り立たない  出口:このワンセットの労働慣行が日本型経営を支えたと認識しています。しかしこのガラパゴス的な慣行は、人口の増加と高度成長という2つの前提条件が揃わないと成り立たない仕組みでもあるのです。 上野:私はこれにもう1つ加えたい。企業内労働組合です。労働者を守るべき組合がそれぞれの企業内で組織されたことから、企業との共存共栄で生き残ってきました。労働者の味方というよりも企業の共犯者です。 出口:日本生命に入社した頃に、酒の席では、労働組合のことを考えすぎる会社と、会社以上に会社の経営を考えすぎる労働組合が団体交渉をしているのは、何か変ではないかとよく話していました。 上野:労働組合のリーダー経験者は企業の出世コースでしたね。人事管理が得意ですから、経営者に向いています。 出口:そういう面が間違いなくありますね。日本生命でも組合の幹部は出世コースです。 上野:労働組合はフェミニズムの敵でもありました。日本型経営は女性の犠牲のもとに成り立っていたと、ジェンダー研究では結論が出ています。女性を構造的・組織的に排除する効果があるからです。 労働組合は、人口が増えていた時期に失業率を抑えて、完全雇用に近い状態を達成したと言いますが、それができたのは、女を労働市場から排除したからです。女が労働市場から排除されていなければ、失業率はもっと高かったでしょう。 長時間労働や年功序列などの日本型雇用慣行がやめられないのは、過去に成功体験があるからだとおっしゃる人が多いのです。だからその頃と同じことを続けていると。 でも、本当にそうなんでしょうか?それだって誰にとっての成功だったのか。女性にとっては抑圧だったのかもしれません。 出口:成功体験だったかどうかは別として、人間は一度考えの枠組みができてしまうと、なかなか変えられないということだと思います。) 上野:惰性ですね。成功体験があると、自然とその状況に依存することは、日本に限らずどの国の社会にもあります。 出口:無意識の偏見がずっとあるような気がしています。たまたま戦後うまく復興ができたから、日本型経営が正しいという偏見が強化されたのではないでしょうか。 でも、戦後の日本の高度成長を計量的に分析すれば、ほとんどが人口増と、朝鮮戦争による特需などの偶然が重なったことが実は大きいのです。 上野:歴史の偶然のおかげですね。 出口:そうです。必ずしも日本型経営が優れていたからではありません。日本型経営が優れていたら、この30年間、正社員ベースで2000時間以上働いて平均1パーセントしか成長しないことの説明がつきません。 欧米は数百時間少ない労働時間で平均2.5パーセント成長しているわけですから、真実はむしろ日本型経営は劣っていると理解すべきです』、「労働組合はフェミニズムの敵でもありました。日本型経営は女性の犠牲のもとに成り立っていたと、ジェンダー研究では結論が出ています。女性を構造的・組織的に排除する効果があるからです」、初めて知った。「欧米は数百時間少ない労働時間で平均2.5パーセント成長しているわけですから、真実はむしろ日本型経営は劣っていると理解すべきです」、同感である。
・『数字を見ない、合理的経営ができない経営者  上野:経済学者の川口章さんが、差別型企業と平等型企業を比較した実証研究で、平等型企業のほうが売上高経常利益率は高いことを明らかにしました。他にも、女性差別が少なく女性役員がいるような企業のほうが、生産性が高く、パフォーマンスがいいという実証データが上がっています。 それなら差別型企業は内部改革をして平等型企業に移行するかというと、ノー。なぜなら、変わる動機がないからだと言います。 出口:僕が働いていた日本生命はずっと業界1位でした。でも一度だけ瞬間的に第一生命に抜かれたことがあって、その時、「これは看過できない」と役員がコメントしていました。 それで何をしたかというと、別の生命保険会社を買収して1位を取り戻したのです。そして伝統を守ったということでした。 上野:めちゃくちゃ内向きの発想ですね。企業は、経済合理性を追求するものではないのですか。 出口:これは僕自身よくわからないところもありますが、仮説の1つは、経営者はそれほど経済合理性を考えていないということです。 上野:それでは、企業は何をもとに動いているんでしょう? 出口:一般に企業は経済合理性、つまり数字(トップラインやボトムライン)を見て動くと考えられていますが、日本の経営者は、グローバル企業の経営者に比べれば、数字よりも業界内の序列やシェアに関心を向ける人が多いのではないでしょうか。 上野:企業のトップや管理職の人に、「どうしてこんな不合理な慣習が続いているのですか?」と聞いても、彼らには危機感があるとは思えない。それがどう考えても不思議です。) 出口:危機感がないのは、今までと同じことをやるほうが楽だからじゃないですか。今までと同じことをやって、同じ給与がもらえるのであれば人はなかなか変わらないように思います。 上野:追い詰められていることがわからないから? 出口:国際比較した数字をきちんと見ないからです。 上野:国内しか見ないということですか? 出口:はい。前年の売り上げが300億円で、今年は310億円。国内しか見ていなかったら、まあこんなもんやろと。働いている人たちも同じことをやり続けて同じ給与がもらえるのであれば仕事を変えようとはしない』、「日本の経営者は、グローバル企業の経営者に比べれば、数字よりも業界内の序列やシェアに関心を向ける人が多いのではないでしょうか」、確かに内弁慶な人が多いようだ。 
・『完全に閉じた世界しか見ていない  上野:実質所得は減り続けていますよ。 出口:その通りで、前述した1人当たり購買力平価GDPでみれば、絶対額がG7最下位であるばかりではなく、伸び率も小さい。つまりアメリカやドイツとの差は開いているのです。でも、そうしたデータを誰もみない。 加えて、物価も上がりませんから、そんなに痛みを感じないのでしょう。経営者は、業界何位とか業界シェア、社会的地位、たとえば経団連(日本経済団体連合会)企業だとか、そういうことを見て満足しています。 経常利益率や生産性の向上、あるいは従業員の給与を上げれば初めて合理的経営といえるのですが、そういう数字はあまり真剣に見ようとしないから、合理的な経営が行なえないのです。平等型企業のほうがはるかにパフォーマンスはよくても、不幸なことにそれほど大きくないので、大企業にとっては痛くもかゆくもないのでしょうね。 上野:平等型企業は新興のベンチャー等に多く、ビジネスの規模が小さいですね。 出口:アメリカのGAFAのように規模もガンガン伸びて、古い企業を淘汰していけばみんなが必死になるのですが、現状だと、ええことやっているけれどあれは小さい会社やからできることやで、と安心しきっています。 上野:おっしゃる通りだと思います。完全に閉じた世界しか見ていません。同じような話をある大企業の会長からも聞いたことがあるんです。彼も日本の大企業は横並びでお互いしか見ていない。グローバル企業の利益率は平均15パーセントだけど、日本の大企業の利益率は平均4~5パーセントと。比べものにならない。 出口:利益率はグローバル企業の3割にも満たない。 上野:それでも横並びでしか見ていないから、これでいいんだと。お互いに低位安定しているのが日本だ、とおっしゃっていました』、「日本の大企業は横並びでお互いしか見ていない。グローバル企業の利益率は平均15パーセントだけど、日本の大企業の利益率は平均4~5パーセントと。比べものにならない」、こんな経営者のダラシナイ姿勢が日本に低成長をもたらしているようだ。

次に、3月11日付けダイヤモンド・オンライン「ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/264098
・『日本の匿名掲示板として圧倒的な存在感を誇った「2ちゃんねる」や動画サイト「ニコニコ動画」などを手掛けてきて、いまも英語圏最大の匿名掲示板「4chan」や新サービス「ペンギン村」の管理人を続ける、ひろゆき氏。 そのロジカルな思考は、ときに「論破」「無双」と表現されて注目されてきたが、彼の人生観そのものをうかがう機会はそれほど多くなかった。『1%の努力』では、その部分を掘り下げ、いかに彼が今の立ち位置を築き上げてきたのかを明らかに語った。 「努力はしてこなかったが、僕は食いっぱぐれているわけではない。 つまり、『1%の努力』はしてきたわけだ」 「世の中、努力信仰で蔓延している。それを企業のトップが平気で口にする。 ムダな努力は、不幸な人を増やしかねないので、あまりよくない。 そんな思いから、この企画がはじまった」(本書内容より) そう語るひろゆき氏。インターネットの恩恵を受け、ネットの世界にどっぷりと浸かってきた「ネット的な生き方」に迫る――(こちらは2020年3月21日付け記事を再構成したものです)』、「世の中、努力信仰で蔓延している。それを企業のトップが平気で口にする。 ムダな努力は、不幸な人を増やしかねないので、あまりよくない」、とは面白い問題意識だ。
・『起業して必要だった「能力」  2000年代に、僕が運営をしていた「2ちゃんねる」というサイトは、どんどん大きくなっていった。 とはいえ、2ちゃんねるの事業で利益があがるわけではなく、トラブルが多くてビジネスとしては割に合わなかったかもしれない。 当時、月250万円のサーバー代を捻出するために、バナー広告や出版でお金をまかなっていた。起業してうまくいっている人は、派手な能力ではなく、地味なやりくり能力や総務のような事務処理能力が必要だ。 問題が起きたら、粛々と対処する。そこに、「好き嫌い」の私情を入れる余地はなかった。 そして、2008年には、2ちゃんねるのユーザーは1000万人を超えた。 平均年齢は30歳くらい。活字として消費されて、ネット広告も儲かり出し、僕の年収は1億円を超えた。 ただ、広告に頼るメディアは厳しくなる予感があった。新しいメディアが増えると、そのぶん食い合うことになり、薄利多売にならざるを得ない』、「2008年には、2ちゃんねるのユーザーは1000万人を超えた・・・僕の年収は1億円を超えた」、なるほど。
・『競争しないところまで行けるか?  たとえばユーチューブは、グーグルに買収されたことで、ある意味「何もしなくていい企業」になった。 潰れる心配もなく、競争して頑張る必要もない。 ユーチューブがここまでの規模になれたのは、「著作権侵害コンテンツを見られたから」という理由がある。もちろん、削除依頼を出せば消されてしまうが、そこにはタイムラグがあるため、一時的には見ることができてしまう。削除依頼が来ないものは、ずっと放置され続けてしまう。 あなたもきっと、最初に見たユーチューブ動画は、テレビや映画、音楽など、著作権違反の動画だっただろう。 それを自分たちの売り物であるかのようにして、いまや世界一の動画サイトとしてブランディングしてしまったわけだ。 動画サイトが大きくなるためには、グレーな部分をひたすら攻めるしかなかったのかもしれない』、「ユーチューブがここまでの規模になれたのは、「著作権侵害コンテンツを見られたから」、すごい本質を突いた発言だ。
・『スティーブ・ジョブズとグレーゾーン  また、スティーブ・ジョブズが高校生だった頃に、無料で電話が掛けられる装置「ブルーボックス」を発明して大儲けした話は有名だ。 電話会社のシステムをハッキングして、電話料金をタダにしてしまうという、まさにグレーゾーンを攻めたビジネスだった。というより、明らかに違法であることを本人も認めている。 ブルーボックスという装置は、デザイン性にも優れていて、持っているだけでもカッコよかったという。まさに、後のアップル製品にも通じる考え方が表れていた。 こうやってインターネット界の覇者たちを観察していると、1つの結論に結びつく。 「物事は大きくなりすぎると、『共存』する」ということだ。 「出る杭は打たれる」という言葉があるが、出すぎた杭は打たれなくなる。 会社の中の社員も、1人だけが騒いでいるだけなら退職に追い込むことができるかもしれないが、1人1人が組合として大きい存在になってしまうと、共存をするしかない。 「数」を優先させてしまうのは、ビジネスの戦略としても正しい』、「物事は大きくなりすぎると、『共存』する」」、なかなか深い言葉だ。
・『「機能優先」という病  なぜ、日本人の多くが検索サイトに「ヤフー」を使うかというと、一度、習慣として付いてしまっているからだ。 パソコンを買ってきて、インターネットにつないだら、最初はヤフーのトップ画像が表示される。だから、使い続ける。 ソフトバンクの孫正義さんは、携帯電話事業に参入したとき、「電波がつながりにくい」という機能性の問題をいったん脇に置いて、格安の使用料でシェア拡大を優先させた。 2ちゃんねるの利用者が増えたときの背景も、「匿名」という部分を変えなかったからだ。 匿名であることで、正直、やっかいな問題はたくさん増えた。しかし、やっかいな問題は置いておき、利用者が増えるほうを選んだのだ。 日本は「機能優先」の病がある。 電化製品を見ていても、新しい機能を付け足したりしているだけで、それでは世界では戦えない。 まず、シェアを拡大させ、叩かれないほどに大きくする。機能で勝負するのはそれからだ。 うまくいっているときは、慎重に問題を1つ1つ解決するより、規模拡大を選んだほうがいいのかもしれない。それも、「1%の努力」の道だろう』、「日本は「機能優先」の病がある・・・それでは世界では戦えない。 まず、シェアを拡大させ、叩かれないほどに大きくする。機能で勝負するのはそれからだ」、なるほど。
・『「1%の努力」とは何か  「99%の努力と1%のひらめき」というのは、発明家エジソンの有名な言葉だ。これの真意をみんな誤解している。本当は、「1%のひらめきがなければ、99%の努力はムダになる」ということだ。しかし、「努力すれば道が開ける」という表現で広まっている。 発明の世界では、出発点が大事だ。 「光る球のようなものを作ろう」という考えが先にあって初めて、竹や金属などの材料で実験をしたり、試行錯誤を重ねたりして努力が大事になってくる。 ひらめきもないまま、ムダな努力を積み重ねていっても意味がない。耳障りのいい言葉だけが広まるのは、不幸な人を増やしかねないので、あまりよくない。 そんな思いから、この本の企画は始まった』、「「99%の努力と1%のひらめき」というのは、発明家エジソンの有名な言葉だ・・・これの真意をみんな誤解している。本当は、「1%のひらめきがなければ、99%の努力はムダになる」ということだ」、確かにひろゆき氏の解釈の方に説得力がある。
・『「自分の頭で考える世代」の教え  僕は、1976年生まれの「就職氷河期世代」だ。 この世代の特徴は、「自分の頭で考えることができる」ということだと思う。 僕らより上の世代は、バブル世代であり、時代を謳歌してきた。会社からも守られてきただろう。 彼らの世代が、いま、早期退職でリストラの嵐に巻き込まれている。僕の世代は時代が悪かったぶん、考えることを余儀なくされ、おかげで能力が身についた。 僕より上の世代は、「昔はよかった」と話す人が多い。しかし、ちゃんとデータを見ることができれば、昭和の時代より平成のほうが、殺人事件や餓死が少なく幸せの総量は多いことがわかる。 人生で選択肢が目の前にあるときに、どういう基準で考えるのかは人それぞれ違う。そこには、「判断軸」が存在する。「考え方の考え方」みたいな部分だ。 これについては、僕の経験をもとに教えられるのではないかと思った。できるだけ長期的な目線を持ち、「よりよい選択肢をとる」というクセがつくように、根っこの部分を書いた。それが、この本だ』、興味深そうだ。
・『本書の内容  この本では、7つのエピソードを語る。「前提条件」「優先順位」「ニーズと価値」「ポジション」「努力」「パターン化」「余生」という7つの話だ。それぞれに、重要な「判断軸」をいくつか与える。 エピソード1 団地の働かない大人たち ―― 「前提条件」の話 「前提が違うんじゃないか?」「人は権利を守る生き物だ」「片手はつねに空けておけ」 エピソード2 壺に何を入れるか ―― 「優先順位」の話 「これはロジックの世界か、趣味の世界か?」「それは修復可能か?」「自分にとって何がストレスだろう?」 エピソード3 なくなったら困るもの ―― 「ニーズと価値」の話 「なくなったら困る体験は何か?」「やられたときだけ、やり返す」「誰しもがひと言だけ言いたい」 エピソード4 どこにいるかが重要 ―― 「ポジション」の話 「場所があれば、人は動きはじめる」「日本人、1億人に投げかける」「特殊なポジションに手を挙げる」 エピソード5 最後にトクをする人 ―― 「努力」の話 「最後に勝つにはどうすればいいか」「上の判断がよければ、下がテキトーでもうまくいく」「あなたは先輩に歯向かえるか?」 エピソード6 明日やれることは、今日やるな ―― 「パターン化」の話 「ゼロイチ以外でできることは何か?」「身近に支えたい人がいるだろうか?」「この1週間で、『新しいこと』はあっただろうか?」 エピソード7 働かないアリであれ ―― 「余生」の話 「調べる労力を惜しんでいないか?」「聞き分けのいい豚になっていないか?」「ブラックボックスの部分は持っているか?」』、時間が出来たら読んでみたい。

第三に、4月8日付けAERAdot「コロナよりも怖い日本人の「正義中毒」 和田秀樹×中野信子が解説」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/wa/2021040700009.html?page=1
・『新型コロナウイルスとの闘いが始まって、1年あまり。「新しい生活様式」のなかで自粛警察が横行するなど、この間に、日本が抱える問題点が浮き彫りになってきた。精神科医の和田秀樹氏と脳科学者の中野信子氏が分析する。 和田:新型コロナウイルスは、日本やアジアではインフルエンザと大して変わらないんですよ。日本でのインフルエンザでの死者数は、年に約1万人(注1)ですから。 中野:コロナで怖く感じたのは、むしろ営業を継続する店への嫌がらせとか、ちょっと出かけただけでバッシングするとか。そういう人間の行動です。本人は強い正義感でやっているつもりでしょうが、他人を攻撃することでドーパミンが放出され、快楽にはまってしまうんです。私はそれを「正義中毒」と呼んでいます。 和田:飲食店がどういう対策を取っているかが重要なのに、形式的に開けているか開けていないかで、悪いか良いかを決めて、叩く。 中野:日本人は「スパイト行動(注2)」を取りがちだという実験結果が出ています。自分以外の人間が得をしているのを見ると、許せないという気持ちが強い。そのため、皆が我慢をしているときに得をしている人がいると、その人を激しい攻撃対象にしてしまうんです。攻撃のターゲットにならないように、皆、より強く我慢を強いられます。マスクにしても、「自分はルールを遵守する人間ですよ」という象徴。ルールに従う人、従わない人を峻別する装置です。 和田:日本人は、ルールは絶対に守らないといけないという強迫観念が強い。そしていったん決まったルールを変えるのは、とても苦手なんです。 中野:敗戦という集団的な大きなトラウマ体験があると、自分たちがもともと持っていた価値観に自信を喪失してしまうということはあるのでしょうか? それで、自分で新しくルールを設定しにくいとか。 和田:日本のように長い歴史で1回しか負けたことがないと、「負けたら最後、相手の言うことを全面的に聞かないといけない」と刷り込まれる可能性があるでしょう。トラウマに関していえば、あまりにもひどいことをされたら、割と加害者の言うことを聞くんですよ。たとえば子どもが親からひどい虐待を受けると、親の機嫌を取るようになる。「サレンダー心理」といって、無抵抗の状態に陥ってしまうんです』、「コロナで怖く感じたのは、むしろ営業を継続する店への嫌がらせとか、ちょっと出かけただけでバッシングするとか。そういう人間の行動です。本人は強い正義感でやっているつもりでしょうが、他人を攻撃することでドーパミンが放出され、快楽にはまってしまうんです。私はそれを「正義中毒」と呼んでいます」、「日本人は「スパイト行動(注2)」を取りがちだという実験結果が出ています。自分以外の人間が得をしているのを見ると、許せないという気持ちが強い・・・攻撃のターゲットにならないように、皆、より強く我慢を強いられます」、困った性向だ。
・『中野:学習性無力感に類する心理ですね。 和田:ええ。日本は原爆を落とされ、アメリカにサレンダー状態にされてしまった。そのため従順になってしまったんだと思います。戦争の前、大正時代なんかは本当に自由だったのに。 中野:ヨーロッパの研究者が面白い実験をしました。被験者に対してルールを説明して、ゲームをさせるんです。でもそのルールには仕掛けがあり、ゲームを続けていくうちに「ルールがおかしい」ことに気づくようになっているんです。被験者の反応は、2種類に分かれます。「先生の言ったルールは間違っている。自分で考えたルールにのっとってやったほうがいい」という人と「先生が言ったんだから、最後までそのルールでやる」という人と。ふたつのグループの遺伝子を比べたら、ドーパミンの代謝酵素に変異があることがわかりました。国別にその変異の割合というのも調査されましたが、日本人はルールを変えない、つまり先生の言ったことに従いやすい人が多いんです。 和田:それに加えて僕は、日本の大学教育に致命的な欠陥があると思うんですよ。高等教育では、物事を疑うことが大切。教授とディスカッションするとか喧嘩をするくらいのほうがいい。 中野:同感です。人が決めた答えを選ぶのが、これまでの日本の大学入試であり大学教育でした。体制に合わせなければ生かしてもらえない。そういう教育で、不確実の時代を生き延びていけるのか……。 和田:日本では入試の面接は教授がやるでしょう。でもアメリカでは、教授ではなくアドミッションオフィス(入学事務局)の担当者が面接するんです。それで、教授に逆らいそうな生徒を採る。 中野:そうなんですか。日本では、優秀な人を採るというよりも、教授の手足となって働けそうな人を採っていますね。 和田:医者の世界ではその悪弊が強くて、上が言ったことには逆らってはいけないんです。1980年代に近藤誠先生が乳がん治療において乳房温存療法を提唱したら、権威から大バッシングを受けました。でも今では、乳房温存療法は標準治療になっています。近藤先生を叩いた人たちが定年退職したから』、「ヨーロッパの研究者が面白い実験」、「日本人はルールを変えない、つまり先生の言ったことに従いやすい人が多いんです」、「日本の大学教育に致命的な欠陥がある・・・人が決めた答えを選ぶのが、これまでの日本の大学入試であり大学教育でした。体制に合わせなければ生かしてもらえない」、確かにその通りだ。
・『中野:自分と違う考えを知ったことで自分はより豊かになった、と考えられないのは残念です。 和田:日本は失敗しないという前提で物事を進めます。アメリカとの戦争も、負けると思っていなかったわけです。原発も、事故が起きない前提でやっているでしょう。 中野:そうですよね。私が留学していたフランスでは、原発事故は「あってはならない」ことだけど、「事故ゼロ」もありえない。いざ事故が起きたときにどうすれば被害を最小限に抑えられるか、という考えがしっかりあったのは興味深いことでした。 和田:日本だと、いじめをなくそうとか、コロナをなくそうという方向で考える。いじめられた子がいたらどうしようかとか、コロナの患者をどうしようかということは、あまり。だから1年経っても、医療体制が逼迫なんて状態なんです。 中野:極言すれば、なかったことにするか、起きたときにどうするか対処法を準備しておくかの2択ですが、後者のほうが、建設的な方法だと思います。 和田:医療については、過度な専門化が進んだことも問題です。そのうえ、ある専門家が言ったことについては、他の分野の専門家は反対意見を言わないという不文律ができてしまいました。たとえば循環器内科の医者にとって、コレステロールは天敵です。動脈硬化を引き起こしやすいから。でもコレステロール値が高いほうが、免疫力は高い。免疫系の医者はそう主張すべきなのに、先に診た循環器系が減らすように言ったら黙っちゃう。 中野:たしかに。 和田:コロナ対策で、感染症学者は外出を控えるように訴えました。感染のことだけを考えたらそうだけど、精神科医の立場から考えると絶対にまずい。免疫学的にもまずいし、老年医学の見地でもサルコペニアの原因を作っているようなものでまずい。でも感染症学者だけが暴走し、他の科の先生方は何も言わない。 中野:領域横断的な議論がしにくいということは、ずっと前から言われてるんですよね。そのひずみが表面化したんですね。 (注1)インフルエンザによる直接死と、原疾患が悪化して死んだ間接死を合わせたインフルエンザ超過死亡の推計。 (注2)たとえ自分が損をしてでも、他人が得をしないように足を引っ張る行為。 中野信子氏、和田秀樹氏の略歴は省略 』、「コロナ対策で、感染症学者は外出を控えるように訴えました。感染のことだけを考えたらそうだけど、精神科医の立場から考えると絶対にまずい。免疫学的にもまずいし、老年医学の見地でもサルコペニアの原因を作っているようなものでまずい。でも感染症学者だけが暴走し、他の科の先生方は何も言わない」、「領域横断的な議論がしにくいということは、ずっと前から言われてるんですよね。そのひずみが表面化したんですね」、同感である。

第四に、この続き、4月8日付けAERAdot「テレワークが命を救った? 和田秀樹の「自殺者急増」予想が外れた理由」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/wa/2021040700010.html?page=1
・『精神科医の和田秀樹氏は、新型コロナウイルスの影響から自殺者が急増すると予測していた。ふたを開けてみれば、微増にとどまった。一体なぜなのか。脳科学者の中野信子氏と語り合った。 和田:コロナのために、日本の抱えている問題点が次々にあらわになりました。その中でひとつ、興味深いものがあって。僕は去年、自殺者が急増して、また3万人を突破する(注1)と考えていました。経済的な状況が悪化。家にこもることでセロトニンの出が悪くなる。他人に泣き言を言えない。一人酒が増える。治療が必要でも感染が怖くて病院に行かない……。これだけの悪条件がそろえば、自殺者が大幅に増えると心配したんです。 中野:でも実際は……。 和田:前年と比べて912人増えただけの2万1081人でした。なぜなんだろうと考えて、仮説を導きました。テレワークなどをすることで、対人ストレスから解放されたからではないか、と。 中野:自殺を試みる人が多いのは月曜の朝や月の初めと聞きます。会社や学校へ向かう苦痛から逃れるためだと考えられていますが、それがなくなったというのが先生の見立てですね。 和田:会社に行かなくていいことで、9千人が自殺を踏みとどまったというのであれば、働き方を根本的に変えればいい。会社で人と接するほうが好きだという人は、会社で働く。それが合わない人は、テレワークをする。そういう発想で働き方改革を進めてほしい。 中野:私はこの時期に本をたくさん読むことができました。この機会に、自分とは違う考えの人の書いた本をあえて読んだらいいと思うんです。ネットでも、関心のない分野の記事を読む。そうすることで、自分の考えが絶対正しいというわけではないことを理解できます。正義中毒から解放されるきっかけになるのではないでしょうか。 和田:コロナのワクチン接種が始まりましたが、ワクチンが普及しても、死者は出ると思うんですね。実際、インフルエンザがそうでしょう。感染症とはそういうものだと冷静に受け止めて、行動したいと思います。 (注1)日本の自殺者は、1998年から2011年まで3万人を超えていた。その後減少傾向が続き、19年は2万169人。20年は11年ぶりに増加し2万1081人に。』、「この時期に本をたくさん読むことができました・・・そうすることで、自分の考えが絶対正しいというわけではないことを理解できます。正義中毒から解放されるきっかけになるのではないでしょうか」、一般の人にそこまで期待するのは、無理な気がする。「自殺者が急増して、また3万人を突破すると考えていました」、現実には「前年と比べて912人増えただけの2万1081人でした。なぜなんだろうと考えて、仮説を導きました。テレワークなどをすることで、対人ストレスから解放されたからではないか」、面白い仮説だが、まだ粗削りな印象も受ける。いずれにしろ、2人の対談は全体としては、刺激的で大変参考になった。
タグ:東洋経済オンライン ダイヤモンド・オンライン 上野 千鶴子 出口 治明 AERAdot 日本の構造問題 (その19)(日本は豊かな国だと信じる人の「大いなる誤解」 日本型経営は数字を見ず合理的経営ができない、ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」、コロナよりも怖い日本人の「正義中毒」 和田秀樹×中野信子が解説、テレワークが命を救った? 和田秀樹の「自殺者急増」予想が外れた理由) 「日本は豊かな国だと信じる人の「大いなる誤解」 日本型経営は数字を見ず合理的経営ができない」 日本の1人当たりGDPはシンガポールに劣る 「日本経済がこのように停滞しているのは、製造業の工場モデルに過剰適応した男性の長時間労働という働き方を変えることができなかったからだ」、その通りだ。 「労働組合はフェミニズムの敵でもありました。日本型経営は女性の犠牲のもとに成り立っていたと、ジェンダー研究では結論が出ています。女性を構造的・組織的に排除する効果があるからです」、初めて知った 「欧米は数百時間少ない労働時間で平均2.5パーセント成長しているわけですから、真実はむしろ日本型経営は劣っていると理解すべきです」、同感である。 「日本の経営者は、グローバル企業の経営者に比べれば、数字よりも業界内の序列やシェアに関心を向ける人が多いのではないでしょうか」、確かに内弁慶な人が多いようだ。 「日本の大企業は横並びでお互いしか見ていない。グローバル企業の利益率は平均15パーセントだけど、日本の大企業の利益率は平均4~5パーセントと。比べものにならない」、こんな経営者のダラシナイ姿勢が日本に低成長をもたらしているようだ。 「ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」」 「世の中、努力信仰で蔓延している。それを企業のトップが平気で口にする。 ムダな努力は、不幸な人を増やしかねないので、あまりよくない」、とは面白い問題意識だ。 2008年には、2ちゃんねるのユーザーは1000万人を超えた・・・僕の年収は1億円を超えた」、なるほど。 「ユーチューブがここまでの規模になれたのは、「著作権侵害コンテンツを見られたから」、すごい本質を突いた発言だ 「物事は大きくなりすぎると、『共存』する」」、なかなか深い言葉だ。 「日本は「機能優先」の病がある・・・それでは世界では戦えない。 まず、シェアを拡大させ、叩かれないほどに大きくする。機能で勝負するのはそれからだ」、なるほど。 「「99%の努力と1%のひらめき」というのは、発明家エジソンの有名な言葉だ・・・これの真意をみんな誤解している。本当は、「1%のひらめきがなければ、99%の努力はムダになる」ということだ」、確かにひろゆき氏の解釈の方に説得力がある。 7つのエピソードを語る。「前提条件」「優先順位」「ニーズと価値」「ポジション」「努力」「パターン化」「余生」という7つの話 時間が出来たら読んでみたい。 「コロナよりも怖い日本人の「正義中毒」 和田秀樹×中野信子が解説」 「コロナで怖く感じたのは、むしろ営業を継続する店への嫌がらせとか、ちょっと出かけただけでバッシングするとか。そういう人間の行動です。本人は強い正義感でやっているつもりでしょうが、他人を攻撃することでドーパミンが放出され、快楽にはまってしまうんです。私はそれを「正義中毒」と呼んでいます」 「日本人は「スパイト行動(注2)」を取りがちだという実験結果が出ています。自分以外の人間が得をしているのを見ると、許せないという気持ちが強い・・・攻撃のターゲットにならないように、皆、より強く我慢を強いられます」、困った性向だ 「ヨーロッパの研究者が面白い実験」、「日本人はルールを変えない、つまり先生の言ったことに従いやすい人が多いんです」、「日本の大学教育に致命的な欠陥がある・・・人が決めた答えを選ぶのが、これまでの日本の大学入試であり大学教育でした。体制に合わせなければ生かしてもらえない」、確かにその通りだ 「コロナ対策で、感染症学者は外出を控えるように訴えました。感染のことだけを考えたらそうだけど、精神科医の立場から考えると絶対にまずい。免疫学的にもまずいし、老年医学の見地でもサルコペニアの原因を作っているようなものでまずい。でも感染症学者だけが暴走し、他の科の先生方は何も言わない」、「領域横断的な議論がしにくいということは、ずっと前から言われてるんですよね。そのひずみが表面化したんですね」、同感である 「テレワークが命を救った? 和田秀樹の「自殺者急増」予想が外れた理由」 「この時期に本をたくさん読むことができました・・・そうすることで、自分の考えが絶対正しいというわけではないことを理解できます。正義中毒から解放されるきっかけになるのではないでしょうか」、一般の人にそこまで期待するのは、無理な気がする。 「自殺者が急増して、また3万人を突破すると考えていました」、現実には「前年と比べて912人増えただけの2万1081人でした。なぜなんだろうと考えて、仮説を導きました。テレワークなどをすることで、対人ストレスから解放されたからではないか」、面白い仮説だが、まだ粗削りな印象も受ける いずれにしろ、2人の対談は全体としては、刺激的で大変参考になった。
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経済学(その4)(なぜ理系出身の財務官僚は 最強官庁財務省を辞めたのか 気鋭の経済学者が今注目の研究とは、宇沢弘文の「社会的共通資本」が今 響く理由 コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった、コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論) [経済政治動向]

経済学については、昨年11月14日に取上げた。今日は、(その4)(なぜ理系出身の財務官僚は 最強官庁財務省を辞めたのか 気鋭の経済学者が今注目の研究とは、宇沢弘文の「社会的共通資本」が今 響く理由 コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった、コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論)である。

先ずは、昨年11月24日付けプレジデント(2020年10月2日号)が掲載した法政大学経済学部教授小黒 一正氏と経済評論家の浜田 敏彰氏による「なぜ理系出身の財務官僚は、最強官庁財務省を辞めたのか 気鋭の経済学者が今注目の研究とは」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/39515
・『気鋭の経済学者として注目を集めている小黒一正教授。財政再建を重視する元財務官僚らしく、マクロ経済のみでなく、財政赤字が恒常化するなか、日本財政の先行きにも危機感を募らせている。コロナ対策についても、償還の議論とセットになっていない国債発行に警鐘を鳴らす。もともとは理系の学者志望がなぜ経済の道へ、そして官の世界からなぜ研究者に転身したか。背景を聞いた』、同じ財務官僚から嘉悦大学教授になった高橋洋一氏は、内閣官房参与でありながら、新型コロナウイルスの感染状況について、ツイッターで「さざ波」などと表現、国会審議が中断する騒ぎで謝罪したが、小黒氏はもっと真面目な学者タイプのようだ。
・『根っからの理系学生が経済に関心を持った  石川県の山代温泉にホテル百万石という旅館があります。昭和天皇も宿泊されたその老舗旅館が私の祖父の生家です。兄弟姉妹は13人と多く、このうち祖父は双子なのですが、当時はその片方を養子に出す慣習があり、祖父は、硬質陶器などの経営をしていた小黒安雄氏(石川県出身)の養子になりました。このため、私も小黒姓です。祖父の双子の兄は戦後に「回転式黒板」「ホワイトボード」「電子黒板」を発明した日学の創業者で、吉田富雄という人物です。 祖父は戦前、陸軍士官学校を経て軍人になり、生家が資産家の祖母と結婚しましたが、太平洋戦争に突入して敗戦。戦後、俳優の上原謙氏がオーナーだった映画館の経営を依頼されたり、国際観光ホテルの取締役を務めながら帝国ホテル内にギャラリーを設立したと聞いています。その後、画廊は東京駅付近に移転しましたが、その傍ら瀬島龍三氏らが設立した同台経済懇話会の幹事もしていたそうです。なお、私の父は鹿島建設を経て祖父の画廊を継ぎました。 私自身は東京都国立市で育ちました。高校は自宅から自転車で10分の所にある都立国立高校でした。その頃から将来の進路として学者の世界を候補の1つにしていました。家系がビジネス系なので、なんとなく反骨心を抱いていたのかもしれません。 当時、興味を持っていたのが物理学と数学です。高校生のとき、数学界のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を獲った広中平祐先生が創始した「数理の翼」に応募して合格し、夏季セミナーに参加しました。参加者には数学オリンピックでメダルを獲った学生や、博士課程に進学中の10代のイギリス人女性もいて、私にはとてもいい刺激になりました。 広中先生が京大理学部の出身ということもあり、大学は京大に進学しました。現在も同様ですが、京大と東大に広中先生のサロンがあり、学生たちが自由に出入りできる交流の場になっていました。さまざまな分野の先生や先輩から最先端の話を聞けたことは、現在でもいい財産です。 専攻は物理でしたが、2回生までに卒業に必要な単位は9割ほど取得して学生生活の後半は余裕があったので、経済や法律・哲学などの勉強をしていました。特に経済学には興味をひかれました。経済にもメカニズムがあって理論や分析ツールで現実の社会を動かせることがわかって、これはおもしろいなと思ったのです。 そのタイミングで友人に大蔵省(現財務省)の説明会に誘われて参加しました。説明に来ていたのは田中一穂氏(後の財務省事務次官)で、氏の勧めもあり、大蔵省を受けたところ、入省が決まりました。研究者を志していたのですが、一方で現実の世界は生々しくて、理論どおりにいかないことがあるはず。それを1度自分の目で見たかったのです。また、過去には大蔵省から研究者に転身した方も多かった。そのことにも背中を押されて、97年に入省しました』、「高校生のとき、数学界のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を獲った広中平祐先生が創始した「数理の翼」に応募して合格し、夏季セミナーに参加」、「専攻は物理でしたが、2回生までに卒業に必要な単位は9割ほど取得して学生生活の後半は余裕があったので、経済や法律・哲学などの勉強をしていました。特に経済学には興味をひかれました」、極めて優秀だったようだ。
・『いま日本に必要なのは実体経済を強くすること  まず証券局に配属されたその年に山一証券、三洋証券が破綻しました。大臣官房の文書課に異動になった翌年には、大蔵省の接待汚職事件で省内は大騒ぎ。「地検がきたぞ」と誰かが叫んで、火事でもないのに4階の防火シャッターが閉められたことを覚えています。後にも先にも、大蔵省の防火シャッターが閉まったのはあのときだけではないでしょうか。 その後は理財局や関税局などにも配属されました。その頃の関税局は9.11後のテロ対策も落ち着いて大きな政治課題もなく、時間に余裕がありました。そこで個人的に関心があった財政や社会保障についてペーパーを書き、官房に送ったところ「財務総合政策研究所に行ってみないか」と打診を受けて、財務省の中で研究の道を歩むことになりました』、主計局には行ってないようだ。
・『研究者として生きていこうと決心  研究にフルに時間を充てるようになると、実務をやっているときには見えなかった課題がよりクリアに見えてきました。さらに研究を続けるため、中曽根康弘さんのシンクタンクである世界平和研究所を経て、一橋大学経済研究所の准教授になりました。そして、いよいよ研究者として生きていこうと決心し、2013年、39歳で法政大学に移り、現在は経済学部で教授を務めています。 私の研究テーマは財政と社会保障ですが、対象領域は広がり、最近は実体経済に関心を持っています。日本の経済が盤石だったころは、アセットサイド(バランスシートの左側)を気にせず、財政のデットサイド(財政のバランスシートの右側)を正しくコーディネートしていれば、投資の収益が上がるという認識でした。しかし、いまのように実体経済が弱いと、財政政策でいくら経済をブーストさせようとしても限界がある。日本には実体経済の足腰を強くするソリューションが必要で、それを分析して提言していくことが、研究者としての現在のチャレンジです。 それと別に、政治家や官庁、日銀の幹部を務めた方などを対象に、財政のオーラルヒストリーを記録する仕事に取り組んでいます。30年間、外に出さないという約束があり、世に出るのはずっと先です。しかし、現下の日本財政や経済は本当に厳しい状況で、その舵取りに関わった方々の証言は歴史的価値が高いはずです。後世に託す貴重な資料を残すため、ライフワークとして、しっかり取り組んでいきたいですね』、「財政のオーラルヒストリーを記録する仕事に取り組んでいます。30年間、外に出さないという約束があり、世に出るのはずっと先」、なかなか面白そうな取り組みだ。
・『▼浜ちゃん総研所長の目  現実の世界は、物理の法則どおりに動いている。もともと理系少年だった小黒さんがそのことを知って物理にのめり込んだのは、高校生の頃だった。しかし、知的な関心は物理にとどまらなかった。京大に進学して卒業に必要な単位を2年目でほぼ取り終え、片手間に他分野を学び始めたところ、経済の世界にも社会をマネジメントする理論があることを知り、おもしろさに目覚めた。そこから本格的に勉強を始めて大蔵省に入省。後にノーベル賞に繋がる素粒子を研究するゼミの教授に報告すると、「なぜ、そっちにいくのか」と惜しまれたという。分野を問わずに活躍できるスーパーマンだ。 官僚になったのは、旅館やギャラリー、硬質陶器の経営者が並ぶファミリーの影響があったようだ。小黒さんは「ビジネスで儲けるのはいいのですが、個別最適にしかならない。社会全体の最適化を手がけたかった」と明かしてくれた。大蔵省に入省後は、導かれるようにして研究者への道が拓けていく。退官して大学に籍を置くのも、理論派の小黒さんらしい。「趣味は?」と問うと、「分析ですかね」。本人の生真面目さがにじみ出る答えだ。損得を超えたところで公のために研究に打ち込む人がいるのは、とても心強いことである』、「損得を超えたところで公のために研究に打ち込む人がいるのは、とても心強いことである」、その通りだ。

次に、10月30日付け東洋経済オンラインが掲載した 内科医の占部 まり氏による「宇沢弘文の「社会的共通資本」が今、響く理由 コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/384561
・『2020年は新型コロナ感染症で世界の人々の生活が大きく変化した。金融危機以降に広がってきた資本主義を批判する論調はますます高まっている。そうした中、その著作がブームとなって再び注目を集めているのが、宇沢弘文(1928~2014年)だ。数理経済学で最先端の理論を構築しノーベル経済学賞に最も近い日本人とされただけでなく、公害問題や環境問題などにも取り組み、経済学が人間の幸福に資するものであるかを問い続け、「哲人経済学者」の異名を持つ。もし、生きていたら、現在の状況についてどんな発言をしただろうか。今回は、宇沢弘文氏の長女で宇沢国際学館取締役としてその思想の伝導にも努めている医師の占部まり氏に寄稿してもらった。 新型コロナウイルス感染症が蔓延したことで、世界観が大きく変わった方も多いと思います。とはいうものの、緊急事態宣言が出ていたあの頃は遠い昔のことのように感じられます。少しずつ新しい日常生活が戻ってきてはいますが、このウイルスが浮き彫りにした社会問題に向き合い続ける必要性を強く感じています』、「宇沢弘文氏の長女」による紹介とは興味深そうだ。
・『豊かな生活に欠かせないものを政府が支える  私の父は宇沢弘文という経済学者で、ノーベル経済学賞にいちばん近い日本人とも言われていました。大事なものは金銭に換算することはできない。そんな当たり前の視点から「社会的共通資本」という理論を構築しました。 豊かな社会に欠かせないものがあります。例えば、大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、司法、金融制度などの制度資本です。宇沢はこれらを社会的共通資本と考え、国や地域で守っていくこと、市場原理主義に乗せて利益をむさぼる対象にしないことで、人々がより生き生きと暮らせると考えていました。 J.S.ミルの提言した“定常状態”、経済成長をしていなくても、その人々の生活に入り込むと豊かな生活が営まれている、そんな社会を支えるのが社会的共通資本であるとしていました。経済成長と人間の幸せが相関しない時代に入った今の日本や世界の多くの地域で、この理論が共感を呼ぶようになってきています。 日本の4~6月の緊急事態宣言の中でも、電気、水道といった社会的インフラストラクチャーが機能していました。私は横浜市でかかりつけ医をしていますが、通勤で電車がいつもどおり動いていたことで、本当に助かりました。経済原理に従えば、これだけ需要が減った場合、減便などで対応することが議論されてもおかしくない状況でした。 医療や教育など社会が機能するうえで本当に必要なものが明らかになり、そうしたものは市場というシステムからはなかなか見えづらく、利益至上主義で考えないということの重要性が多くの方に認識されたのではないでしょうか。 同時に社会保障制度のあり方も見直しの必要があるとのことで、ユニバーサルベーシックインカム(UBI)が話題になっています。しかし、これは深く考えたいところです。 「国民全員にお金を配るという考えはどうなのか」を父に聞いてみたことがあります。答えは「うまくいかない」でした。「なぜ?」という私に返ってきた答えは「今月100円で買えた大根が来月は120円になる」でした。 みんなが必要としているもの、つまり需要が多いものは市場原理に任せると、価格が上がっていくのです。弱者がどんどん必要なものに手が届かなくなっていってしまうというのが父の解説でした。UBIを導入すると、教育や医療といったものの価格が大きく上昇していくというわけです。 宇沢と1964年から親しくしていたジョセフ・E・スティグリッツ・コロンビア大学教授は「政府の役割はお金を配ることではなく、働きたい人に仕事を与えることだ」といっています。お金が配られて、自由に好きなものが買えるという状況以上に、働きたい人がやりがいを持って働ける場があるということは価値があります。 同じような金額を得るにしても、仕事があることで、その人が社会参画している、社会から必要とされているという実感が得られ、社会、つまり人とのつながりも同時に構築されていくのです。人と人とのつながり、つまり「社会関係資本」が健康に及ぼす影響の大きさに関する分析も最近は多くなされるようになりました』、「政府の役割はお金を配ることではなく、働きたい人に仕事を与えることだ」、一般的にはその通りだが、「与える」「仕事」に適切なものが残っているのだろうか。
・『医療は雇用を生み出し社会を安定させる  宇沢はまた、社会的共通資本を担う専門家集団を国ないし地域がサポートするべきと言っていました。税金から賄われることが多い性質のものです。しばしば医療費は税金の無駄づかいという論調が展開されることもあります。しかし、医療費は医療に従事している人の給料となり、社会に還元されていきます。 医療を産業と呼ぶのには抵抗がありますが、医療分野には医師や看護師、薬剤師といった国家資格を有している人から、清掃や調理など資格がなくても働ける仕事もあり、このような幅の広い雇用を生み出すものは他に例を見ません。さらに病院はボランティアという金銭的なものを伴わない人とのつながりを生み出す社会装置でもあります。繰り返しになりますが、健康に対して一番大きな影響を与えるのは人とのつながり、社会関係資本なのです。 病院はそこにあるだけでもいいとも宇沢は言っていました。いつでも医療が受けられるという安心感は金銭的なものに還元はできないのです。 私が臨床をしている神奈川県では、神奈川モデルとして、新型コロナ感染症への対策が行われ、感染者数が爆発的に増えるかもしれないというような状況でも安心して臨床を行うことができました。その対策は、例えば在宅で介護をしている人が感染した場合に、介護を受けている方や親が感染してしまった際に子どもたちが過ごせる場所を提供するなど、視野が広い対策でした。金銭的に換算できない効果を実感しました。 より良い医療を提供するため、国民の健康に寄与するために、もっと工夫すべきことがあるのも事実です。 UCLAの津川友介さんらがまとめた日本における特定保健指導の分析が2020年10月5日付JAMA(The Journal of the American Medical Association)に掲載されています。通称「メタボ健診」の効果が限定的であるということを述べています。効果が限定的であるからすべてがダメだというわけではありません。より良い形に整えていくのが重要なのです。 建設的な議論が必要で、目標は人々の“健康”を守ることであって、健診を効率的に行うことではありません。そのためには軌道修正が必要なのです。この事実を踏まえ新たな健診制度を構築していく責務も専門家集団としての医療者に課せられた使命であると思っています。 健康という概念も、1947年にWHO憲章で採択された「健康とは、病気でないとか、弱っていないとうことではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」といったものから、オランダで提唱されている「ポジティブヘルス」、すなわち「社会的・身体的・感情的問題に直面したときに、適応し、本人主導で管理する能力」に変化していく時期に来ているのではないかと感じています(参考図書:『オランダ発ポジティヴヘルス』シャボットあかね著)』、日本でも「「ポジティブヘルス」、すなわち「社会的・身体的・感情的問題に直面したときに、適応し、本人主導で管理する能力」に変化していく時期に来ている」、その通りだろう。
・『在宅で社会とつながりながら、その人らしく生きる  これまでは病院が病気の主戦場であり、生活の場というものを無視しても成り立つ構図がありましたが、多くの病が乗り越えられる現代では生活の場である自宅が主体になっていきます。そういった視線から能力としての健康が重要視されていきます。「病気や障害を持っていても、不幸とは限らない」。医療関係者がこういった感覚を持っていくことも必要です(参考記事:「健康は“状態”でなく“能力”なのだ。ポジティヴヘルス。」 新型コロナウイルスの動態が明らかになり、無症状の人からの感染もありうるし、感染をゼロにすることは不可能であるということもわかってきました。日本では高齢者施設での感染症対策が適正に取られていたことなどから、死亡者数が低く抑えられていたと私は考えています。新型コロナの感染予防のために、社会とのつながりが断たれていることの弊害に鑑み、どのように社会をひらいていくのか、社会的コンセンサスが必要です。 そのためには宇沢の『自動車の社会的費用』で展開された理論が参考になるとも思います。1974年に出版されたものですがいまだに再版され、中国や韓国などでもここ数年、翻訳出版が相次いでいます。根元的なものにアプローチしているために古びることがないのだと思います。人の命をお金に換算しないですむ社会制度を構築していくためのヒントがたくさん詰まっています。 「公(おおやけ)」「みんなのため」という議論をする際に、実は弱い人にしわ寄せがいく構図についてもこの本で言及していました。例えば、道路を作る際には、路線価格が低いところに作られやすい、そして幹線道路ができた場所はさらに路線価格が下がるという構図があることを指摘しています。 この、新型コロナ感染症の際にも、感染予防という公のために弱い人々にしわ寄せがいっていることを忘れてはならないと思います。この感染症はその弱い人々を守らないと収束が難しいことも指摘されています。自分のまわりの「見えている環境」を整備するだけでは十分ではないのです。目に見えていない環境までカバーするのが社会的共通資本という理論なのではないでしょうか』、「目に見えていない環境までカバーするのが社会的共通資本という理論なのではないでしょうか」、なるほど。
・『古典派経済学が無視した「人の心」を見つめ直す  人間の心が動いてはじめて経済が動く。そんな当たり前のことも忘れられているような気がします。経済活動が必要なのはなぜなのか。人々が豊かに暮らすためです。それには、古典派経済学では無視されていた人間の心や自然環境を見つめ直す必要があるのです。 「よく生きる」を理念に掲げるベネッセの福武總一郎さんと宇沢は生前ご縁がありました(チャイルド・リサーチ・ネット「子どもを粗末にしない国にしよう〜社会的共通資本の視点」参照)。 福武さんは「自然こそが人間にとって最高の教師」「在るものを活かし無いものを創る」「経済は文化の僕」を標語にされています。すでにあるものを破壊し新しいものを創るほうが金銭的な経済活動は大きくなるかもしれません。しかし、破壊から始まる社会には限界が来ています。あるものを活かすことに主眼を置いて新しく創造することが豊かさの源泉となるのではないでしょうか。 この7月に福武財団と共催でフォーラムを開催しました。宇沢の理論をいかに次世代につないでいくかを考えるうえで非常に示唆に富んだものとなりました。ベネッセアートサイト直島のホームページで動画も公開されているのでご覧いただければと思います。 「環境を守る」という観点から、「生態系を拡張していく」という積極的な姿勢にシフトしていく必要性もあります。ともすると人間の存在が、地球温暖化の最大悪であるとされることもありますが、実は今までで一番、生態系に影響を与えたのは植物の出現です。植物が酸素を作り始めたために、今まで存在していた酸素がない環境を好む嫌気性の生物は絶滅の危機にさらされました。 今、環境に一番大きな影響を与えているのは人間ですが、植物ほどの影響力はありません。とはいうものの、温暖化を悪化させる方向性から脱却していくために生態系に積極的にアプローチできるものも、また人間しかいないのです。ソニーコンピュータサイエンス研究所の舩橋真俊さんが構築された「拡張生態系」の理論を基軸に、宇沢が考えていた比例型炭素税を基軸とした国際大気安定化基金を実働できないか、模索しています(舩橋真俊さんの理論、参考記事「「協生農法」がもたらす見えざる“七分の理”――未来世代から資源を奪い続けないために」)』、「実は今までで一番、生態系に影響を与えたのは植物の出現です」、意外だが、言われてみれば、その通りなのだろう。「「今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本~」レポートは、セッションごとに動画がついている。URLは
https://benesse-artsite.jp/story/20200929-1462.html
・『資本主義でも社会主義でもなく  宇沢は「資本主義も社会主義もどちらも人間の尊厳や自然環境に対する配慮が足りない」といっていました。 しかし、市場の持つ力というものも信じていました。一人の人間が認識したり想像したりできる範囲は限られています。世界の大部分が一人の人間が想像できないもので出来上がっているとも言えます。その想像が及ばないものまでをも守ろうとする社会こそが、新型コロナウイルス感染症に強い社会ではないでしょうか。 このウイルスが明らかにした社会問題を踏まえ、真の意味での豊かな社会を構築する大きなチャンスが来ているのではないか、そして、宇沢の理論がそれに大きな力を与えてくれると感じています』、なるほど。

第三に、宇沢氏の弟子である学習院大学経済学部教授の宮川 努氏が本年2月14日付け東洋経済オンラインに掲載した「コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/411579
・『新型コロナウイルスの感染拡大によって経済社会が大きなダメージを受ける中、独自の「社会的共通資本」論を唱え続けた経済学者、宇沢弘文(1928~2014)が脚光を浴びている。「社会的共通資本」は市場経済原理に任せないで社会的に管理される財・サービスの総称だが、宇沢は、医療サービスをこの「社会的共通資本」の重要な要素と してたびたび強調してきた。 このため東京財団政策研究所上席研究員で元日本銀行理事の早川英男氏は、ポストコロナの医療体制を考える中で、「社会的共通資本」に言及している。宇沢の経済学への姿勢について、膨大なインタビューと調査をもとに大著『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』をまとめあげた佐々木実氏は、宇沢が今日のコロナショックのような社会経済体制の危機を念頭に独自の経済学を構築してきたとする。 特に興味深かったのは、宇沢の長女である占部まり氏が、東洋経済オンラインに寄稿した『宇沢弘文の「社会的共通資本」が今、響く理由』において、宇沢がベーシックインカムの議論を必ずしもポジティブに評価していなかった点に言及していたことだ。 なぜ、宇沢は所得再分配政策の1つであるベーシックインカムを評価していなかったのか――。筆者はあらためて彼の著作『自動車の社会的費用』を読み直してみたが、ここでは新古典派理論の限界と社会的共通資本、所得再分配政策が併せて語られている。そこで、よりフォーマルに書かれた『経済解析(展開篇)』(岩波書店、2003年)の第17章「社会的不安定性と社会的共通資本」に依拠しながら、宇沢がなぜベーシックインカムを批判し、「社会的共通資本」の理論を展開するに至ったのかを、今回のコロナ禍での医療問題と関連付けて考えてみたい』、「ベーシックインカムを批判」を「よりフォーマルに書かれた『経済解析(展開篇)』から解題するとはさすがだ。
・『医療などの「必需財」の価格は上昇しやすい  『経済解析』の議論は数学的な抽象経済モデルを使って展開されている。まず世の中の財やサービスを「必需的な財・サービス」と「選択的な財・サービス」の2つに大別する。 「必需財」は、現在の医療サービスのように他の財・サービスでは代替のきかないもので、経済学的には需要の価格弾力性(価格に応じた需要の変化)が小さいと考えられる。病気になった場合は、いかにその財・サービスの価格が高額であっても必要である。同様のことは供給側についてもあてはまる。必需財供給の価格弾力性は小さい可能性が大きく、価格が高くなってもすぐには供給が増えないであろう。 例えばマスクは、昨年3月頃にはなかなか手に入らなかったが、5月頃からは市中に出回り始め、どんどんと価格が低下していった。こうした財は価格の高騰または品不足に対して、供給側が迅速に対応できる。これに対して医療サービスは第3波の際にも議論になったように、新型コロナウイルスを扱うための施設や人材がボトルネックになり、急速に供給を増加させることができない。 宇沢はこうした財・サービスの性質の違いを使って、経済全体の所得の増加に伴う価格上昇率において、必需財が選択財よりも高くなることを示している。 このような条件下で、ベーシックインカム(宇沢の著作では「ミニマムインカム」と呼んでいる)を実施するとどうなるだろうか。もしこの制度のもとで、経済全体の所得が上昇していくと、必需品の価格は選択品の価格を上回るスピードで上昇するため、必需品のシェアが高まり、ベーシックインカムの上昇率が経済全体の平均所得の上昇率を上回ることになる。 宇沢はこうした現象を「所得分配のメカニズムが社会的に不安定である(socially unstable)」としている。占部氏が述べているベーシックインカムに関する宇沢の批判的な見解は、こうした分析に基づいていると考えられる』、「財・サービスの性質の違いを使って、経済全体の所得の増加に伴う価格上昇率において、必需財が選択財よりも高くなる・・・このような条件下で、ベーシックインカム・・・を実施すると」、「必需品の価格は選択品の価格を上回るスピードで上昇するため、必需品のシェアが高まり、ベーシックインカムの上昇率が経済全体の平均所得の上昇率を上回ることになる」、確かに「ベーシックインカム」は上手く機能しないようだ。
・『金額ありきでない「消費の格差是正」が目的  宇沢の分析には2つの貢献がある。1つはベーシックインカムについて「消費者が最低限の満足度を維持することができるような所得」という厳密な定義を与えていることである。 格差の議論では「所得格差の議論」が中心になっているが、消費効用の最大化が中心課題となる経済学においては、「消費格差の是正」こそがオーソドックスなアプローチであり、宇沢の定義はこの標準的なアプローチを踏襲したものといえる。 昨今は格差是正の一手段としてベーシックインカムの議論が盛んだが、どれくらいの金額をベーシックインカムとして支給すればよいのか、はたして財政的に維持できるのかという金額の議論が中心になっている。しかし「消費における最低限の満足度」という厳密な定義のないベーシックインカムの議論は、その制度が果たして維持可能か、国民の経済厚生水準を今よりも大きく下げることはないのかということを、事前に検証する手段を欠いていることを、宇沢の議論は示している。 もう1つは「クズネッツ仮説」に対する1つの反証を示していることである。1971年にノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツは、資本主義経済では発展の初期段階でこそ所得格差は拡大するが、その後、格差は縮小するとした。これがクズネッツ仮説である。このクズネッツ仮説への反論としては、トマ・ピケティの著書『21世紀の資本』での反証が有名だが、宇沢の場合はベーシックインカムのような所得再分配政策をとったとしても、経済成長に伴って格差が縮小するということはないという意味で、ピケティ教授よりも厳しい条件を提示したといえる。 もっともここまでの宇沢の議論にも限界がないわけではない。自身が第17章の最終部分で明らかにしているようにここまでの議論は資本量を固定して、必需品の供給弾力性が低いという前提からこれまでの結論を導出している。しかし、昨年中国が新型コロナウイルスの感染拡大で封鎖された武漢でコロナ専門の病院を短期間で建設したように、資本の供給が柔軟に行われるのなら、必ずしも必需品の価格上昇率が選択品の価格上昇率を上回ることはなく、ベーシックインカムに関する議論も修正を余儀なくされる』、「「消費における最低限の満足度」という厳密な定義のないベーシックインカムの議論は、その制度が果たして維持可能か、国民の経済厚生水準を今よりも大きく下げることはないのかということを、事前に検証する手段を欠いていることを、宇沢の議論は示している」、「「クズネッツ仮説」に対する1つの反証を示している」、大したもののようだ。
・『ベーシックインカム論の前提は「必需品も市場供給」  とはいえ、現在の日本では物的資本が賄えたとしても、治療のための技能を備えた医療従事者を早急に準備することが難しい。その点は、新型コロナウイルスの感染第3波で明らかとなっている。おそらくこうした固定性は医療にかかわらず、日本の産業のいたるところに存在するのではないか。その意味で宇沢の所得分配に関する分析は、現在の日本経済については妥当すると考えられる。 そして社会的共通資本は、この社会的不安定性を防ぐ装置として位置づけられる。ベーシックインカムというのは、必需品も選択品と同じく市場経済の中で供給されることを前提としている。これに対し、むしろ必需品の供給は営利企業に任せるのではなく、社会的管理のもとにおき、その消費について格差が生じないようにすれば、選択品について効率的に資源を配分することも可能になるのではないか、というのが「社会的共通資本」の考え方である。 筆者からすると、この議論は、従来の「社会的共通資本」の議論よりもはるかに明快である。いくつかの前提に基づいてはいるものの、市場経済のもとでベーシックインカムの導入が必ずしも期待された結果をもたらさないという論理展開は、標準的なミクロ経済学の見事な応用であり、多くの経済学者の理解が得られると考えられる。 それにもかかわらず、なぜ宇沢は、「社会的共通資本」が「歴史的・社会的・経済的条件にもとづいて、社会的に決められる」(『自動車の社会的費用』)と述べ、これらの社会的共通資本の「社会的管理」を強調することから始めたのだろうか。 1つの理由は、これまで書いてきたような手続きを経ず社会的共通資本を語るほうが、一般にこの概念が受け入れられやすかったということがあるだろう。しかし第17章を読むと理由はそれだけでなかったことがわかる』、どいうことだろう。
・『何が「必需財」か、民主主義では合意が難しい  宇沢は、一度は標準的な経済学のアプローチによって社会的共通資本の理論的基礎を考えたように見える。しかし分権的な市場経済と多様な個人の価値基準を認めた前提のもとで、何を必需財と考えるかということについて社会的な合意形成を得ることは、民主主義的なルールのもとでは不可能であるとする、アローの有名な「不可能性定理」と矛盾することになる。 確かに今回の新型コロナの感染拡大に関して、民主主義を基本とする国々で、なかなか感染防止策が定まらない状況は、アローの「不可能性定理」が単なる形式論理による帰結ではないということを教えてくれる。 ここに至り、宇沢は、「社会という概念はすでに、それを構成する主体の持つ倫理的要件にかんして共通の理解を持ち、社会的価値基準の形成について、個別的な主観的価値基準をどのように集計するかについて、すでにあるルールの存在を想定している」と述べ、個々の社会の歴史的、制度的な蓄積の下で何を社会的共通資本とするかを決めることができるとしている。 ただしこの時点で効率的な市場経済の補完としての社会的共通資本という位置づけではなく、社会的共通資本の整備による社会的安定性を議論の中心に据え、市場経済を脇役として位置づけているので、経済学上の資源配分論からは遠ざかることになる。 筆者には、市場経済を中心とした社会制度を選ぶか、効率性では劣るが社会的共通資本を含む経済制度を選ぶかに際しては、その社会における必需財の選定だけでなく、その社会がどのくらいの時間的射程をもって安定性を望んでいるかにも依存しているように思う。 この点は今回の新型コロナウイルスの感染拡大で、世界中の国が試されているのではないか。アメリカは市場経済中心の経済体制を貫いて多くの犠牲者を出す一方で、独自にワクチンを開発し、おそらくは日本より早く経済的な回復を遂げるだろう。 日本は医療部門が公的医療保険制度で支えられているにもかかわらず、医薬品分野の技術開発では欧米や中国に遠く及ばず、かつ医療供給体制も十分に準備できずにいる。そして他の国以上に経済損失と現場の医療従事者の負担、国民の忍耐によって感染拡大を抑制している。こうした戦略的対応とも呼べない場当たり的な体制が、本当に国民の望んだ制度なのかどうかは、このコロナ禍が一段落した後であらためて検証されるべきだろう。 宇沢は、「ヒポクラテスの誓い」をたびたび引用するほど、医療従事者に対して敬意を払っていた。しかしながら宇沢が理想とする医療制度と現実の医療制度の間にはなお乖離があるように思う』、「日本は医療部門が公的医療保険制度で支えられているにもかかわらず、医薬品分野の技術開発では欧米や中国に遠く及ばず、かつ医療供給体制も十分に準備できずにいる。そして他の国以上に経済損失と現場の医療従事者の負担、国民の忍耐によって感染拡大を抑制している。こうした戦略的対応とも呼べない場当たり的な体制が、本当に国民の望んだ制度なのかどうかは、このコロナ禍が一段落した後であらためて検証されるべきだろう」、同感である。
・『日本の「開業医」中心の医療制度の改革を提起  社会的共通資本をわかりやすく解説した『経済解析(展開篇)』第21章「20世紀の経済学を振り返って」では、日本の医療機関が規模の小さい開業医で占められ、医師の技術的要素が医療報酬に十分反映されていない状況を憂えたうえで、「現行の開業医制度のもとでなされてきたさまざまな固定生産要素の蓄積、人的資源の配分、さらには医療従事者の要請などについて、総合的な、しかも長期的な視点に立った改革案がつくられなければならないであろう」と述べている。 いまわれわれがコロナ禍の中で実感している医療への期待ともどかしさを、宇沢は20年前、いや初出から考えると約半世紀前に持っていた。医療だけでなく分配政策も含めて、その先見性と洞察力にあらためて敬意を抱くとともに、宇沢から直接教えを受けた時期もありながら、今回のコロナ危機であらためて勉強をし直す自分自身を恥じるばかりである』、「いまわれわれがコロナ禍の中で実感している医療への期待ともどかしさを、宇沢は20年前、いや初出から考えると約半世紀前に持っていた」、確かに先見性の鋭さには脱帽である。「宇沢から直接教えを受けた時期もありながら、今回のコロナ危機であらためて勉強をし直す自分自身を恥じるばかりである」、との述懐もさもありなんだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 (その4)(なぜ理系出身の財務官僚は 最強官庁財務省を辞めたのか 気鋭の経済学者が今注目の研究とは、宇沢弘文の「社会的共通資本」が今 響く理由 コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった、コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論) プレジデント(2020年10月2日号) 小黒 一正 浜田 敏彰 「なぜ理系出身の財務官僚は、最強官庁財務省を辞めたのか 気鋭の経済学者が今注目の研究とは」 同じ財務官僚から嘉悦大学教授になった高橋洋一氏は、内閣官房参与でありながら、新型コロナウイルスの感染状況について、ツイッターで「さざ波」などと表現、国会審議が中断する騒ぎで謝罪したが、小黒氏はもっと真面目な学者タイプのようだ。 「高校生のとき、数学界のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を獲った広中平祐先生が創始した「数理の翼」に応募して合格し、夏季セミナーに参加」、「専攻は物理でしたが、2回生までに卒業に必要な単位は9割ほど取得して学生生活の後半は余裕があったので、経済や法律・哲学などの勉強をしていました。特に経済学には興味をひかれました」、極めて優秀だったようだ。 主計局には行ってないようだ。 「財政のオーラルヒストリーを記録する仕事に取り組んでいます。30年間、外に出さないという約束があり、世に出るのはずっと先」、なかなか面白そうな取り組みだ。 「損得を超えたところで公のために研究に打ち込む人がいるのは、とても心強いことである」、その通りだ。 占部 まり 「宇沢弘文の「社会的共通資本」が今、響く理由 コロナ禍で社会に本当に必要なものがわかった」 「宇沢弘文氏の長女」による紹介とは興味深そうだ。 「政府の役割はお金を配ることではなく、働きたい人に仕事を与えることだ」、一般的にはその通りだが、「与える」「仕事」に適切なものが残っているのだろうか。 日本でも「「ポジティブヘルス」、すなわち「社会的・身体的・感情的問題に直面したときに、適応し、本人主導で管理する能力」に変化していく時期に来ている」、その通りだろう。 「目に見えていない環境までカバーするのが社会的共通資本という理論なのではないでしょうか」、なるほど。 「実は今までで一番、生態系に影響を与えたのは植物の出現です」、意外だが、言われてみれば、その通りなのだろう。 「「今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本~」レポートは、セッションごとに動画がついている。URLは https://benesse-artsite.jp/story/20200929-1462.html。 宮川 努 「コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論」 「ベーシックインカムを批判」を「よりフォーマルに書かれた『経済解析(展開篇)』から解題するとはさすがだ。 「財・サービスの性質の違いを使って、経済全体の所得の増加に伴う価格上昇率において、必需財が選択財よりも高くなる・・・このような条件下で、ベーシックインカム・・・を実施すると」、「必需品の価格は選択品の価格を上回るスピードで上昇するため、必需品のシェアが高まり、ベーシックインカムの上昇率が経済全体の平均所得の上昇率を上回ることになる」、確かに「ベーシックインカム」は上手く機能しないようだ。 「「消費における最低限の満足度」という厳密な定義のないベーシックインカムの議論は、その制度が果たして維持可能か、国民の経済厚生水準を今よりも大きく下げることはないのかということを、事前に検証する手段を欠いていることを、宇沢の議論は示している」、「「クズネッツ仮説」に対する1つの反証を示している」、大したもののようだ どいうことだろう。 「日本は医療部門が公的医療保険制度で支えられているにもかかわらず、医薬品分野の技術開発では欧米や中国に遠く及ばず、かつ医療供給体制も十分に準備できずにいる。そして他の国以上に経済損失と現場の医療従事者の負担、国民の忍耐によって感染拡大を抑制している。こうした戦略的対応とも呼べない場当たり的な体制が、本当に国民の望んだ制度なのかどうかは、このコロナ禍が一段落した後であらためて検証されるべきだろう」、同感である。 「いまわれわれがコロナ禍の中で実感している医療への期待ともどかしさを、宇沢は20年前、いや初出から考えると約半世紀前に持っていた」、確かに先見性の鋭さには脱帽である。「宇沢から直接教えを受けた時期もありながら、今回のコロナ危機であらためて勉強をし直す自分自身を恥じるばかりである」、との述懐もさもありなんだ。
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日本の構造問題(その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる) [経済政治動向]

日本の構造問題については、9月7日に取上げた。今日は、(その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる)である。

先ずは、6月11日付け東洋経済オンラインが掲載した元外資系投資銀行のアナリストで小西美術工藝 社社長のデービッド・アトキンソン氏による「日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/355042
・『オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。 退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、このままでは「①人口減少によって年金と医療は崩壊する」「②100万社単位の中小企業が破綻する」という危機意識から、新刊『日本企業の勝算』で日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析し、企業規模の拡大、特に中堅企業の育成を提言している。 今回は、日本ではほとんど知られていないが日本経済を語るうえで欠かせない、「monopsony(モノプソニ―)」という考え方を解説してもらう』、現在は菅政権のブレーンの1人として、政府の成長戦略会議の議員も務めている。「モノプソニ―」とはどういうことなのだろう。
・『「モノプソニ―」を知らずに日本経済は語れない  「monopsony(モノプソニー)」という言葉を検索しても、日本語の検索エンジンではあまり多くヒットしません。この言葉は一部の研究者以外、日本ではあまり知られていないのだろうと推察しています。 しかし、実はこの「モノプソニー」は、日本の産業構造の問題と賃金の議論にあたって、最も重要な経済原則です。この言葉が一般的に知られていないことは、大きな問題だと感じています。 もともとモノプソニーという言葉は、「売り手独占」を意味するモノポリーの対義語で、「買い手独占」という意味で使われていました。 現在では、「労働市場において企業の交渉力が強く、労働者の交渉力が弱いため、企業が労働力を安く買い叩ける状態」を説明するために使われることが多くなっています。特に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授のアラン・マニングが2003年に発表した『Monopsony in Motion』という有名な本で、広く知られるようになりました。 日本で最低賃金の重要性がわからない人が多いのは、「モノプソニー」を知らず、従来の新古典派経済学の理論に固執してるからだと思います。 新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定しています。「完全競争」にはさまざまな意味があるのですが、たとえばあらゆる情報が労使双方に共有されていて、労働者は少しでも条件がいい雇用先があれば、即座にコストゼロで転職できるような状況を指します。 このような状況では、各企業の賃金は完全に横並びとなります。要は、企業と労働者は「完全に対等」だと考えられていたのです。 この仮定のもとでは、賃金は需給によって決まるので、最低賃金を引き上げるとその分だけ雇用が減ります。日本で「最低賃金を引き上げると、失業者が増える」と広く信じられているのは、どこかでこの理論を聞きかじった人が多いからでしょう。 しかし、この理論をそのまま現実に当てはめられないのは明らかです。労働市場で完全競争が成立しているならば、私が社長を務めている小西美術工藝社で、全社員の給料を1円でも下げるとただちに全員が辞めて、他社に転職してしまうはずです。しかし、そんなことは起こるはずありません』、「新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定」、確かに余りに現実離れした考え方のようだ。
・『「モノプソニー」の存在は実証的に測定可能  最近の分析では、「モノプソニー」の存在を実証的に測定しています。ここでは細かい説明は省きますが、賃金が1%変動したときに労働供給が何%変動するかを示す「労働供給の賃金弾力性」を測ることで、「モノプソニー」の存在と強さを確認できます。 「労働供給の賃金弾力性」が0に近くなればなるほどその業種の「モノプソニー」は強く、大きくなるほど弱いとされています。近年、ビッグデータを活用することで、さまざまな国のさまざまな業種で「モノプソニー」の力が働いていることが明らかになっています。 ここに大きなインプリケーションがあります。新古典派では、完全競争の下、労働の価格は常に適性であるとされます。この理屈では、低賃金で働いている人は「スキルがないから低賃金」なのであって、その賃金を国がむりやり上げさせようとすると、経営者はその人を解雇するとされます』、これまでから「アトキンソン氏」は、最低賃金の引上げを主張してきたが、その背景にはこんな強力な理論的裏付けがあったようだ。
・『「モノプソニー」では、労働者は企業に「搾取」される  対して「モノプソニー」とは、労働市場が完全競争ではなく、企業のほうが立場が強くなっているため、企業は本来払うべき給料より低い給料で人を雇うことができる状況を指します。つまり低賃金なのは一種の「搾取の結果」であり、必ずしもその人が低スキルだからではないと考えるのです。 「モノプソニー」の力は、特定の労働者層に特に強く働きます。例えば、低学歴、女性、高齢者、外国人労働者、移動が難しい人など、一般的に労働市場では弱者と考えられている人たちです。 特に、子どもを持った女性に「モノプソニー」の力が最も強く働いていることが、世界中の研究で確認されています。小さな子どもがいる女性は、現実として転職が難しい状況にあります。企業はその「足元を見る」ことができるため、賃金が相対的に低く抑えられるのです。 実は、男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています。女性労働者の「労働供給の賃金弾力性」が年齢とともに下がっていくことが、その証拠です。 先進国では近年、産業構造の変化によって、「モノプソニー」の力が強くなっていると分析されています。 労働組合の力が強ければ「モノプソニー」の力は制限されます。しかし、先進国では過去数十年間、労働組合の機能が低下してきました。そのため、「モノプソニー」の力が強くなっていったと分析されています。 労働者が労働組合に加入しなくなった理由の1つは、労働組合が製造業に最も向いた組織だからです。製造業の場合は、そもそも設備投資が大きく、企業の規模が大きくなる傾向があります。また労働者のスキルが明確で、他の企業でも通用することが多いので、雇用主に対する労働者の交渉力が強くなりやすいとされています。 逆に企業の規模が小さくなりやすいサービス業が発達し、全産業に占める製造業の割合が低下すると、労働組合加入率が低下して「モノプソニー」の力が強くなるとされており、そのとおりのことが現実の世界でも確認されています。 このように、過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています。 「モノプソニー」による搾取を抑止する手立てとして、先進各国は最低賃金政策を取り入れてきました。先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです』、「男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています」、「過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています」、「先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです」、なるほど、深く理解できた。。
・『最低賃金を引き上げると雇用が増えるメカニズム  日本では「最低賃金を引き上げると失業者が増える」という、根強い妄信があります。これは労働市場が完全競争なら確かに正しいのですが、「モノプソニー」の力が働いていると、まったく逆のことが起きます。「モノプソニー」の下では、最低賃金を適切に引き上げることで、失業者はむしろ減らせるのです。 これは、さまざまな国で実際に確認されている事実です。 以下のケースをご覧ください。最低賃金の引き上げによって企業が雇用を増やすメカニズムが明白になります。 時給1000円で1000人を雇用している企業があり、同じ仕事をする人をもう1人新たに雇用すると、1時間あたり1200円の収益が上がるとします。この場合、労働市場が完全競争だと1200円の時給を払わないといけないのですが、「モノプソニー」の力が働くと1000円で雇えるため、利益が200円も余計に増えます(この200円が「搾取」にあたります)。 労働市場の状況が変わって1000円で雇える人がいなくなり、新しい人を雇用するには時給1100円を払わなくてはいけなくなったとします。これでも、この新しい人は高い利益率を生み出すのですが、企業はこの人を雇わないと考えられます。 なぜなら、新しい人に時給1100円を支払うと、すでに雇用されて同じ仕事をしている1000人の時給も、1000円から1100円に引き上げなければならないからです。この場合の人件費の増加は、新しい人に支払う1100円だけではなく、1000人×100円+1100円=10万1100円となります。たとえ赤字にならないとしても、利益が大きく削られることになるので、新しい人が雇われることはありません。 このケースで、仮に政府が最低賃金を1100円に上げると、新しい人を雇うにせよ雇わないにせよ、既存の1000人の時給は1100円にしなくてはいけなくなります。この場合、経営者にとって、新しい労働者を雇うことで生まれる新たなコストは時給分の1100円だけです。1200円の収益は超えていませんから、削られた過剰利益を少しでも取り戻すために、新しく人を雇います。 これが、「モノプソニー」による搾取の範囲内なら、最低賃金を引き上げても、雇用が減るどころか増えることになるメカニズムです。 実際、日本でも世界の先進国でも、過去数年、最低賃金を引き上げてきたのに、雇用はむしろ増えています。最低賃金を引き上げても、企業の倒産は起こらず、給料が増え、個人消費は膨らむのです。 だからこそ私は、データ分析に基づいて「モノプソニー」の力を測り、その範囲内で適切に、毎年最低賃金を引き上げていくと同時に、中小企業の統廃合を進めて規模を拡大し、産業構造を強化するべきだと強調してきました。これこそが日本を救う道であり、韓国ができなかったことです。 次回は、日本が「モノプソニー」の力がきわめて強い「モノプソニー大国」であることを説明します』、現実の「最低賃金」については、8月22日付け日経新聞は40県が上げ、東京など据え置きで決定したと伝えた。「アトキンソン氏」が政権に近いところにいながら、こうした結果になったのは誠に残念だ。

次に、9月19日付け東洋経済オンラインが掲載した漫画家・文筆家のヤマザキ マリ氏による「日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/375574
・『世界を駆けてきた漫画家で文筆家のヤマザキマリ氏。1年の半分を東京で、残りの半分を夫の実家であるイタリアで過ごしているが、コロナ禍で約10カ月東京の自宅に閉じこもることを余儀なくされているそう。そして自宅からは、コロナそのものの症状に加えて、日本人にすでに蔓延していた別の”病”まで見出されたという。自著の『たちどまって考える』を一部抜粋・再構成しお届けする。 「日本のナショナルチームはなぜ、『いよいよゴールだ!』というときにボールをみんなで譲り合うのか、その理由を知りたい。失敗したら責められるのが嫌だからなのかい?」 少し前になりますが、駐日イタリア大使から日本代表のサッカーチームについてこんな質問を受けました。スポーツニュースなどを通じて、ゴール前の決定力の低さがよく指摘されていた頃のことです。 その真偽はその道のプロにお任せしますが、「失敗したくない」というメンタリティーは現代の日本人が抱える大きな病ではないでしょうか。実際、コロナ対策で日本政府が急に方針を変えたり、何かと右往左往している姿を見ていたりしても、失敗したくない、つまり責任を取らなきゃいけない状況をとにかく回避しようとしている気がしてなりません。 この日本人の”失敗したくない病”を、”語学学習”の話を例に考察したいと思います』、「「失敗したくない」というメンタリティー」は、「現代の日本人」に特徴的にみられるが、これが確かに「ゴール前の決定力の低さ」にもつながっていそうだ。
・『語学学習から見える失敗したくない病  私のイタリア語は、美術の学校の勉強やフィレンツェで出会った人たちと接するなかで身につけたものです。学生時代、イタリア語でレポートや論文を書いていましたが、当初スペルは間違いだらけ。 しかし、当時の私にとっては完璧なイタリア語の習得より、付き合っていたイタリア人たちに言いたいことを伝えるほうが大切だったため、とにかく聞き覚えのある言葉から覚え、言語化するのを優先していました。つまり「伝わること」こそ、言語を生かしたコミュニケーションで、文法やスペルの正しさは追いついてくるものと思っていた。実際、それでなんとかなってきました。 しかし、この世界にはそんな荒っぽい語学学習をする私の上をいく人がたくさんいます。イタリアももちろんそうですが、中東や南米など、おおむね積極的に会話する地域で、言語の”ハッタリ”達人に多く出会ってきました。 二言、三言でも知っている言葉があればもう十分で、男性なら「コンニチハ」「サヨウナラ」「アイシテマス」だけで、冗談ではなく日本女性と恋に落ちる。この場合、しゃべりたい意欲と相手への気持ちを少ない語彙に精一杯込めながら、雰囲気で相手に合わせていくわけです。彼らが伝えたいのは、言語よりコミュニケーション力であり、相手を知りたい、わかりたい、と思う気持ちなのでしょう。 言語はその国の文化や考え方を表すものですから、母国語にしている人々と付き合っていくうえで徐々に理解できる表現のニュアンスというものがあります。テキストだけでは学べない部分ですね。そこに暮らして恋愛し、喧嘩もし、仕事に生かして不条理を経験し……。真の言語力を身につけるには、やはり「経験」が不可欠です』、「言語の”ハッタリ”達人」とは言い得て妙だが、きっと上達も早いのだろう。
・『言語を教えるのが難しい  一家でポルトガルに住むことになったとき、リスボン大学の学生に息子の家庭教師を頼みました。彼は外国人に言葉を教えることを専門に勉強していました。その学生いわく、最も言語を教えるのが難しい外国人が日本人、とのことでした。日本人は文法を間違えまいと慎重になりすぎて、なかなかしゃべろうとしない。文法の正しさにこだわるがため、かえって習得率が下がってしまうというのです。 私がかつて日本でイタリア語を教えていた生徒さんにも、とにかく文法の正しさにこだわる方がいて、会話をしたイタリア人が「君は間接代名詞を使うのが好きだねえ」と苦笑いをしつつ、戸惑っていたことがありました。すると途端に躊躇して、もう積極的に会話ができなくなってしまう。もちろん日本人であってもハッタリ力をおおいに発揮する人もいますが、真面目な人ほど表現に引っかかって、会話がブロックされる傾向がある。 逆の立場になればわかりますよね。きちんとした日本語を話せなくても、文法はめちゃくちゃでも、何かを伝えようとしている人なら、こちらも言わんとすることに耳を傾け、理解してあげようと思う。たしかに文法をしっかりと把握することの合理性はあります。しかし言語コミュニケーションでは「伝えたい」という意思と意欲が最優先なのです。) なお、この「失敗してはいけない」メンタルは、言語だけでなく、報道などを通じてもよく感じられます。たとえばイタリアの報道は、自分たちの国で起こることを常に俯瞰で捉え、批判にも容赦がないのがその特徴です。政府や行政によるずさんさが明るみに出れば「イタリアという国はこれだから……」と客観的に捉える。 失敗に対しても同じです。でも同じような報道を日本でやっていたら、きっと非国民的な扱いを受けてしまうでしょう。群れのなかでの一糸乱れぬ統率がとれて完璧な社会というイデオロギー、というか信念が日本には深く染み込んでいると思います。 1964年、オリンピックの東京大会に出場したマラソンの円谷幸吉選手は金メダルへの国民の期待という圧力と、ボロボロになってでもトレーニングを続けなければならないという義務感、好きな人との結婚も許されない立場に絶望し、自ら命を断ったとされます。増田明美さんも、ロサンゼルス大会での競技中に途中棄権したことで「非国民との罵声を浴びた」とお話しされているのをテレビで拝見しました』、「円谷幸吉」は、「オリンピックの東京大会」では日本人陸上界で唯一の銅メダルを獲得したが、所属する自衛隊体育学校の校長が婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず。オーバーワークで、腰痛が再発、椎間板ヘルニアを発症、メキシコ大会を控えて自殺(Wikipedia)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89
・『失敗や挫折するからこそ得られるものも  人間は失敗や挫折、屈辱から得られた苦々しい感情も経験しなければ、成熟しない生き物だと思うのです。それなのに現代の日本では、そうした感情の動きを「世間体」という実態のない戒律で規制してしまっている。それこそ極端な社会主義や、宗教的な戒律のなかで生きる人のごとく、「失敗」を規制されている。 しかし江戸時代まで戻れば様子は変わります。たとえば江戸の町民文化の象徴である落語では、人の失敗談や勘違い話が人気の噺になっています。人間ならではのすっとこどっこいなエピソードを皆でゲラゲラ笑うことで、自分の生き方のヒントにする。列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていたように思えるのです』、「列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていた」、とはさすが的確な指摘だ。

第三に、11月24日付け東洋経済オンラインが掲載した経済評論家の加谷 珪一氏による「日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる」を紹介しよう。
・『国際競争力の低下と少子高齢化が再三叫ばれる一方、多くの日本人は自国を「大国」であるとなぜか信じている。しかし、数々の統計やランキングは、日本が間違いなく「小国」になることを冷徹に示している。『日本は小国になるが、それは絶望ではない』を上梓した加谷珪一氏が、日本が小国に転じる未来と、「小国・日本」の進む道を論じる』、一般的にも身の丈に合わせた生き方が重要だ。
・『今後、日本の人口が増加することはない  日本の人口が急激に減りつつあることは多くの国民にとって共通認識だが、真の意味で人口減少がもたらす影響についてはあまり知られていない。 2020年、日本の総人口は約1億2600万人。2008年に1億2800万人を突破したのをピークに、人口は減少している。厚生労働省の調査によると、2019年に生まれた子どもの数は86万4000人で、統計開始以来初めて90万人を割った。このまま出生数の低下が続くと、2100年には4906万人にまで人口が減ってしまう。およそ80年で8000万人も減るのだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算だ。仙台市(109万人)や千葉市(98万人)などが毎年消えると言われれば、そのインパクトがわかるだろう。 この話を聞いて、多くの人が「少子化対策を充実させるべきだ」と考えるだろう。しかしこれを実現するのは容易ではない。人口動態というものは50年、100年という単位で動くものであり、今からではすでにタイミングが遅すぎるのだ。 今、社会では人口減少と高齢化が同時進行している。総人口が減る一方、高齢者の寿命は年々延びており、日本の人口は、老人が多く若者が少ない逆ピラミッド型にシフトしている。現役世代は、昭和時代と比較して、社会保険料や税金などの経済的負担が極めて重くなっていることは明らかである。 例えば、何らかの手段で人為的に出生率を上げたとすると、老人の数は変わらず子どもの数が増え、人口ピラミッドは中央がくぼんだ形となる。単純に出生率を上げるだけでは、子育て世代の国民に想像を絶する過度な負担がかかってしまうのだ。 こうした人口動態による制約条件を考えると、今後、出生率が高まり人口が増加に転じる可能性はほぼゼロに近いと考えたほうがよいだろう』、「2100年」まで「およそ80年で8000万人も減る」のだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算」、社会的摩擦も大きくならざるを得ないだろう。
・『「大国の条件」が証明する日本の小国化  全世界には200近くの国家が存在するが、5000万人以上の人口を持つ国は28カ国しかない。人口という点に限って言えば、5000万という数が大国の基準と言えるだろう。 もちろん人口が多ければ豊かとは限らないが、人口の多い国はGDPも大きくなる傾向が見られる。次に示す人口のランキングで上位を占めるのは中国とインドで、中国には約14億人、インドには13.5億人の人が住む。次いで、アメリカ、インドネシア、ブラジルと続き、日本は10位。 一方、2019年時点で全世界のGDPは約87兆ドルで、5000億ドル以上の規模を持つ国はたった25カ国。GDPという観点では、5000億ドル以上の規模を持つことが大国の条件と考えられる。 ドイツやイギリス、フランス、イタリアなどのいわゆる先進主要国は、人口は中国などと比較すると多くないが、それでも6000万人から8000万人の人口があり、人口という面においても大国に分類されている。一方、パキスタンやナイジェリア、バングラデシュのGDPは5000億ドルに迫る勢いで、人口の多寡はGDPの規模に大きく影響していると言える。 日本経済研究センターによると、2060年における日本のGDPは4.6兆ドルでほぼゼロ成長の見通しだが、アメリカは34.7兆ドル、中国は32.2兆ドル、インドは25.5兆ドルと日本の5.5~7.5倍にまで規模を拡大させることが予想されている。5000億ドルのボーダーラインを割るには至らないものの、日本の相対的な規模は著しく小さくなってしまう。 人口減少に加え、産業競争力の低下という問題にも直面している日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化するのである』、「日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化する」、やむうぃ得ないだろう。
・『小国になることは、不幸なことなのか  ここまでを読むと、もはや日本の未来に明るい材料はないと思ってしまうかもしれないが、これは「日本が何も変わらない」場合のことである。むしろ、小国となっても豊かな社会を実現できるポテンシャルを日本は持っているのだ。 現に、シンガポールやスウェーデンなど、世界には豊かな社会を実現している小国がいくつもあるが、これらの国々に共通するのは「高い生産性」である。人口が少なくても、国民それぞれが大きく稼ぐことで、豊かな社会を実現しているのだ。 日本の場合、まだ1億人以上の大きな人口(市場)という他国にないアドバンテージを持っている。人口減少は避けられないが、本格的な人口減少が現実のものとなる前に企業の生産性を高めれば、日本は豊かになれるのである。 いま、日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である。コロナ禍で世界が大きく変わりつつある現在、日本は最大の転換期を迎えているといっても過言ではないのだ』、「日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である」、同感である。「大国」幻想からは一刻も早く脱却すべきだ。
タグ:東洋経済オンライン 円谷幸吉 デービッド・アトキンソン ヤマザキ マリ 加谷 珪一 日本の構造問題 (その18)(日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは、日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは、日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる) 「日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける この国の将来を決める「新monopsony論」とは」 monopsony(モノプソニ―) 「モノプソニ―」を知らずに日本経済は語れない 労働市場において企業の交渉力が強く、労働者の交渉力が弱いため、企業が労働力を安く買い叩ける状態」を説明するために使われることが多くなっています 新古典派の経済理論は、労働市場は完全競争であると仮定 「モノプソニー」の存在は実証的に測定可能 これまでから「アトキンソン氏」は、最低賃金の引上げを主張してきたが、その背景にはこんな強力な理論的裏付けがあった 「モノプソニー」では、労働者は企業に「搾取」される 男女の同一労働・同一賃金が実現しない原因のほとんどが「モノプソニー」だと説明されています。これもビッグデータによって確認されています 過去数十年間で「モノプソニー」の力が強くなり、労働者の交渉力が弱くなったことが、先進国で労働分配率が下がった原因だとも言われています 先進国が最低賃金を設けたり、その水準を継続的に引き上げている最大の理由は、労働組合の代わりに「モノプソニー」の力を抑えることで、企業が立場の弱い人を「安く買い叩く」のを防ぐためです 最低賃金を引き上げると雇用が増えるメカニズム 日本でも世界の先進国でも、過去数年、最低賃金を引き上げてきたのに、雇用はむしろ増えています。最低賃金を引き上げても、企業の倒産は起こらず、給料が増え、個人消費は膨らむのです 現実の「最低賃金」については、8月22日付け日経新聞は40県が上げ、東京など据え置きで決定したと伝えた。「アトキンソン氏」が政権に近いところにいながら、こうした結果になったのは誠に残念だ 「日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは」 『たちどまって考える』 「失敗したくない」というメンタリティー」は、「現代の日本人」に特徴的にみられるが、これが確かに「ゴール前の決定力の低さ」にもつながっていそうだ 語学学習から見える失敗したくない病 「言語の”ハッタリ”達人」 言語を教えるのが難しい 失敗や挫折するからこそ得られるものも 列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていた 「日本人が即刻捨てるべき「経済大国」という幻想 確実に「小国」になる未来がやってくる」 「小国・日本」の進む道 今後、日本の人口が増加することはない 「2100年」まで「およそ80年で8000万人も減る」のだから、これは100万人都市が毎年1つずつ消滅する計算 「大国の条件」が証明する日本の小国化 日本は、このままでは人口とGDPの両面で、ほぼ確実に小国化する 小国になることは、不幸なことなのか 日本に必要なのは、「日本は経済大国」「日本はものづくり大国」といった幻想から脱却し、生産性を高める産業構造へ変革することだ。それは、これまでの常識をリセットする、大変革である
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経済学(その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」) [経済政治動向]

経済学についてゃ、4月23日に取上げた。今日は、(その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」)である。

先ずは、4月12日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経産省出身の評論家、中野剛志氏による「世界はすでに、各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/231363
・『「いま世界は極めて危険な状態にある」と中野剛志氏は指摘する。アメリカの覇権パワーが衰退するとともに、リーマンショック以降、世界経済は停滞に向かっていたうえに、コロナ禍で世界経済は大恐慌以来の景気悪化になると予測されているからだ。にもかかわらず、日本はいまだに冷戦構造下の国家政策に安住しようとしているのは危険すぎる。この問題意識から、中野氏が『富国と強兵 地政経済学序説』で提唱するのが地政経済学の確立だ。 連載第1回https://diamond.jp/articles/-/230685
連載第2回 https://diamond.jp/articles/-/230690 連載第3回 https://diamond.jp/articles/-/230693 
連載第4回https://diamond.jp/articles/-/230841 連載第5回 https://diamond.jp/articles/-/230846 
連載第6回 https://diamond.jp/articles/-/230849 連載第7回 https://diamond.jp/articles/-/231332 
連載第8回 https://diamond.jp/articles/-/231347 連載第9回 https://diamond.jp/articles/-/231351 
連載第10回 https://diamond.jp/articles/-/231363 連載第11回 https://diamond.jp/articles/-/231365 連載第12回 https://diamond.jp/articles/-/231383 連載第13回(最終回) https://diamond.jp/articles/-/231385』、今日はこのうちの連載第1回である(Qは聞き手の質問)。
・『「リベラルな国際秩序」には、地政学的な下部構造がある  Q:前回、中野さんは、かつてのイギリスのように、食糧安全保障のために、日本も財政支出を惜しむべきではないと主張されました。しかし、日本は農業関連の財政支出を減らす一方、TPP、日米FTAで農業関税を大幅に下げていますね? 中野剛志(以下、中野) 非常に危険なことだと思います。アメリカやオーストラリアなどは国土に広大な平野を有していますから、平野の少ない日本よりも農業生産性ははるかに優れています。そのような国々と自由競争をすれば、すでに惨憺たる状況にある日本の食糧自給率を悪化させるのは火を見るより明らかです。 Q:たしかに……。 中野 そもそも、アメリカのグローバル覇権が衰退していくなかで、グローバリズムと称してTPPやFTAなどの急進的な自由主義経済を進めようとするのが時代錯誤というべきでしょう。 なぜなら、グローバルな覇権国家がなければ、自由な国際経済秩序は成立しないからです。これを明らかにしたのが、経済史家のチャールズ・キンドルバーガーが最初に提唱し、その後、国際政治経済学者のロバート・ギルピンらが発展させた「覇権安定理論」です。 Q:「覇権安定理論」とは? 中野 例えば、自由貿易秩序が成り立つためには、無差別原則や最恵国待遇原則のような自由貿易のルール、安定的な国際通貨制度、そして国際的安全といった環境がなければなりませんが、これらは経済学で言う「公共財」としての性格をもちます。 「公共財」とは、個々人が対価を払うことなく消費することができる財のことです。例えば、一般道路やきれいな空気が典型的な「公共財」ですね。人々は誰でも自由に一般道路を通行したり、きれいな空気を吸ったりしていますが、一般道路の整備やきれいな空気の維持のために必要な費用は、政府が強制しない限り、誰も支払いません。そのため、公共財の供給は、政府が介入しない自由市場に委ねると、不十分になるわけです。 これと同じように、国際貿易のルール、国際通貨、国際的な安全といった環境も「公共財」であり、個々の国家は、その維持に必要なコストを分担することなく、その恩恵を享受できるわけです。ところが、国内社会における「公共財」の供給には強制力をもつ政府が必要であるのと同じように、国際社会において「国際公共財」を供給するためには、本来は強制力をもつ「世界政府」が必要となるはずですが、現実には「世界政府」など存在しません。 そこで、他国に対して強制力を有する覇権国家が必要になるわけです。覇権国のリーダーシップがなければ、国際的な「公共財」の供給が不足し、国際市場経済の秩序を維持できないのです。つまり、自由主義経済による国際秩序の基礎には、地政学的な下部構造があるということ。言い換えれば、グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだということです。 Q:なるほど』、「グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだ」、経産省出身とは思えない保護主義的見方だ。
・『リーマン・ショックとコロナ禍で、世界は「危険な場所」になった  中野 そして、自由な世界経済を実現する覇権国家が存在したのは、歴史上、二度しかありません。19世紀において、その圧倒的な軍事力と経済力によって自由貿易の時代を開いたイギリスと、第二次世界大戦後に覇権国家となったアメリカの二度だけなんです。 とりわけ、第二次大戦後に比類なき軍事力と世界全体のGDPの約半分を占める経済力を誇っていたアメリカは、圧倒的な覇権的パワーで、冷戦期には西側世界の安全を保証し、冷戦後は自由主義経済を世界中に広げていったのです。 しかも、この覇権国家が存在した時期が、いわゆるグローバル化の時期と重なっているんです。ダブリン大学トリニティ・カレッジ経済学教授のケヴィン・オルークとハーヴァード大学経済学部教授のジェフリー・ウィリアムソンは、グローバル化がいつから始まったのかを検証した結果、それが1820年代であると特定しました。これは、イギリスという覇権国家が出現した時期とほぼ一致しているのです。 この研究は、グローバル化が進んだ背景には、覇権国家という政治的な存在があるとする「覇権安定理論」を裏付けるものと言えるでしょう。逆に言えば、覇権国家という世界を圧倒する権力が消滅すれば、グローバル化も同時に終焉するということになるわけです。 Q:だから、中野さんは「グローバル化は終わった」とおっしゃったのですね? 中野 ええ。これまで説明してきたように、2010年代に入って、アメリカの覇権的パワーが音を立てて崩れ始めました。地政学的な下部構造が崩壊したとなれば、その上部構造にあった自由主義的な国際秩序やグローバリゼーションもまた、終わりを告げることになるでしょう。 しかも、2008年にはリーマン・ショックによる世界金融危機が勃発しました。これは、アメリカの経済自由主義に基づく経済政策が生んだ資産バブルの崩壊が原因で、アメリカ主導の国際経済秩序の正統性が損なわれるとともに、グローバル化の進展によって世界経済は拡大するという楽観主義が一気に崩壊した瞬間でもありました。 そして、世界経済は停滞へと向かっていったわけです。いわば、世界中が“飢餓状態”に陥ったようなものです。アメリカの地政学的な覇権が崩れていく局面で、世界中が“飢餓状態”に陥るという非常に危険な状態になったのです。しかも、現下の「コロナ禍」によって、世界経済は大恐慌以来の景気悪化になると予測される状況に陥ってしまいました。世界はさらに危険な場所になったのです。 Q:各国が限られたパイを食い合うようになると? 中野 そういうことです。一般に、市場全体が成長している場合は、国家間の経済連携の深化は、比較的容易です。なぜなら、その場合は、関係国間で、利己的な行動をとって対立するよりも、協力的行動をとった方が、お互いに得られる利益がより大きいことが明らかだからです。 しかし、市場全体が停滞ないし縮小し、各国がお互いに協力行動をとったとしても、得られる取り分が大きくならない場合は、協力することによるメリットが見えにくくなります。また、市場全体が成長していないときには、自国の利益を増やそうとすると、他国の利益を奪うことになるので、自由貿易や経済連携による利益を共有し、互恵的な関係を構築することが極端に難しくなる。それは、1930年代の世界大恐慌後の歴史が物語っていることです。 このように世界経済が停滞すると、各国はより利己的にならざるを得なくなり、国家間の協力関係を成立させることは容易ではなくなります。とりわけ民主主義国家はエゴイスティックになります。自国の利益を優先しなければ、政治家たちは国民の支持を得ることができないですからね。 Q:民主主義国家はエゴイスティックにならざるを得ないというのは、少々ショッキングですが、たしかに否定できませんね』、「グローバル化が進んだ背景には、覇権国家という政治的な存在があるとする「覇権安定理論」を裏付けるもの・・・逆に言えば、覇権国家という世界を圧倒する権力が消滅すれば、グローバル化も同時に終焉するということになるわけです」、「逆に言えば」としているが、逆がそのまま成立しない場合もあるが、この場合はどうなのだろう。
・『日本は世界の“食い物”にされる!?  中野 ええ。そうなることは2008年に世界金融危機が起きた時点で、すでに見えていたわけです。にもかかわらず、日本は2010年になって「平成の開国」などと言って、その後、TPP交渉に参加すると表明しました。しかし、TPPは、オバマ大統領自身が横浜で開かれたAPEC首脳会議で明言したように、アメリカが輸出を倍増させることで国内の雇用を増やすという戦略の一環だったんです。オバマにとってのTPPは、他国の雇用を奪うための、一種の近隣窮乏化政策だったのです。 一般教書演説でも、オバマ大統領はそのことを繰り返す一方で、「自由貿易」という言葉を一度も使いませんでした。環太平洋にリベラルな経済秩序をつくろうなどという意思はかけらもなく、単に、日本市場を獲りに来ただけのことなんです。 それは、世界経済が縮小に向かうなかで、民主主義国家であるアメリカの大統領ならば当然考えることであって、生き残りをかけた残酷な国際政治において自国を守ろうとするのは当たり前のことです。しかし、日本は「世界の現実」を理解せず、「平成の開国」などと言っていたわけです。 Q:だから、中野さんは『TPP亡国論』を出版するなどTPP反対の論陣を張ったんですね? しかし、その後、トランプが当選し、TPPから離脱しました。あれは、想定外だったのでは? 中野 そうですね。アメリカでもTPPを支持しているのはエリート層で、中国などに「職」を奪われたと感じる一般の人々が「自由貿易」に辟易していることは認識していましたが、まさかトランプが大統領になるとは思っていませんでした。 ただ、トランプがTPPから離脱したのは、「オバマが雇用を奪い取ると言っていたが、俺のほうがもっといいディールができる」ということにすぎませんでした。 つまり、オバマもトランプも「他国から雇用を奪う」という意思に変わりはないわけです。オバマはそれを上品に表現し、トランプはそれを露骨に表現したというだけの違いです。アメリカは自国民を守るためになりふり構っていられる状況ではないのだから、これも当たり前のことなんです。 Q:実際、トランプ政権は日米FTA交渉で、「TPPと同水準かそれ以上」の市場開放を強硬に要求して、日本はかなりの譲歩を強いられたと聞いています。結局、中野さんが心配していたとおりになったようにも見えます。 中野 日米FTAのことは、細かく調べていませんが、「自由貿易を推進する」などと時代錯誤なことを考えるのではなく、真剣に自国の経済を守るためにどうすべきかを考えなければ、非常にマズいことになるでしょうね。 Q:なんとなく「グローバル化は善」といったイメージがありましたが、頭を切り替えないといけないですね……。 中野 そうなんですが、まぁ、でも、結局のところ、アメリカが自国の利益を犠牲にしてまで日本を豊かにしてくれた冷戦期に、日本がいちばんうまくいっていたわけで……そのときのやり方を続けたいということなんでしょうね。 ただ、冷戦のときにアメリカが、自国の利益を犠牲にしてでも日本が豊かになるのを助けてくれた理由は、共産化されたら困るからですよね。そして、冷戦が終わったら、アメリが自国を犠牲にして日本を助ける理由がなくなったわけです。この問題は、地政学的に考えなければいけないんです。 したがって、私は、日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではないと思っています。日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない。つまり、経済学と地政学は密接に関係しているということです。 この視点なくして、まともな国家政策などありえません。経済が地政学的環境にどのような影響を与えるのか、そして地政学的環境が経済をどのように変化させるのかについても考察しなければ、国際政治経済のダイナミズムを理解できず、国家戦略を立案することもできないのです。このことを訴えるために書いたのが、『富国と強兵 地政経済学序説』という本だったんです。 Q:地政経済学とは?』、「日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではない・・・日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない」、なるほど面白い見方だ。
・『「ガキっぽい情熱」を克服できない経済学  中野 私の造語ですが、経済力(富国)と政治力・軍事力(強国)との間の密接不可分な関係を解明しようとする社会科学です。地政学なくして経済を理解することはできず、経済なくして地政学を理解することはできない。だから、地政学と経済学を総合した「地政経済学」という思考様式が必要だと考えたんです。 でも、これは決して新しいものではありません。たとえば、E・H・カーは、国際関係論の古典とも言うべき1939年の『危機の二十年』で、「経済は所与の政治的秩序の上に成り立っているものであり、政治から切り離しては、有意義な研究をすることができない」と説いていました。このような思考様式は、かつては当たり前のものだったんです。 ところが、いま、地政学は経済に対する理解を欠き、経済学は地政学を無視するという状態にあります。おもしろいことに、これが日本だけで起きている現象ではなく、アメリカでも起きていることなんです。 Q:へぇ、そうなんですか。ちょっと意外ですね? 中野 ええ。さらに興味深いのは、地政学と経済学が分離した理由について、ダートマス大学教授のマイケル・マスタンドゥノが、冷戦構造の影響を指摘していることです。 冷戦下においては、アメリカにとって安全保障上の脅威はソ連でしたが、ソ連は経済的な競合相手ではありませんでした。一方、アメリカの経済上の脅威は西ドイツや日本だったけれど、これらの国々は同盟国であり、安全保証上の脅威ではありませんでした。そのため、対ソ連を想定した軍事研究から経済への関心が脱落し、経済研究は安全保障を無視したというわけです。 Q:なるほど、説得力がありますね。 中野 ええ。しかし、1998年の時点でマスタンドゥノは、冷戦が終結すれば、安全保障と経済は再び結びついていくであろうと論じていたのですが、それから20年がすぎても、依然として地政学は経済学との接点を欠落させたままです。 ただし、地政学者や国際政治学者の多くは国力の基礎に経済力があることは認めています。どうやら、彼らが経済に関する知識に乏しいのが原因となっているようなんです。 Q:うーん……なんとか頑張っていただきたいですね。 中野 ただですね、経済学の方は、地政学以上に狭隘な専門主義が進行していて、地政学はおろか、歴史学、政治学、社会学への接近すら拒否しているという無残なありさまなんです。 たとえば、フランスの経済学者であるトマ・ピケティは、『21世紀の資本』でこう述べました。 「率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題にばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずにすませているのだ。」 Q:辛辣ですね……』、「経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている」、極めて手厳しい経済学批判だ。
・『経済学は「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」?  中野 でも、私もまったく同感ですね。しかも、2008年の世界金融危機によって、主流派経済学が、経済自体についてすらも、ほとんど理解していなかったことが白日のもとにさらされたんです。 なぜなら、この世界金融危機を予想することができた主流派の経済学者は、ほとんどいなかったからです。というのも、ピケティが「科学っぽい」と揶揄した主流派経済学の理論モデルでは、世界金融危機のような事態は起きえないと想定されていたからです。 したがって当然のことながら、世界金融危機への対応にあたっても、主流派経済学は何の役にも立ちませんでした。こうして世界金融危機は、経済のみならず、経済学の信頼性にも大きな打撃を与えたんです。 Q:そうなんですか……。 中野 実際、主流派経済学者からも批判の声が上がっています。たとえば、IMFのチーフ・エコノミストであったサイモン・ジョンソンは、世界金融危機によって経済学もまた危機に陥ったとして、主流派経済学とは異なる新たな経済理論が必要であると論じました。 あるいは、ポール・クルーグマンは、過去30年間のマクロ経済学の大部分は、「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」と言い放って、物議を醸しました。 経済成長理論の発展に大きく貢献したという功績が認められて、2018年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーは、皮肉なことに、受賞の2年前の講演のなかで、主流派経済学を次のように批判していました。 主流派経済学の学者たちは画一的な学界の中に閉じこもり、きわめて強い仲間意識をもち、自分たちが属する集団以外の専門家たちの見解や研究にまったく興味を示さない。彼らは、経済学の進歩を権威が判定する数学的理論の純粋さによって判断するのであり、事実に対しては無関心である。その結果、マクロ経済学は過去30年以上にわたって進歩するどころか、むしろ退歩したと。 Q:容赦ないですね……。 中野 このように、いまや、アメリカの主導的な経済学者たちですら、主流派経済学の破綻を認めざるをえなくなっているんです。 ところが、主流派経済学の無効が明らかになったにもかかわらず、経済学界は、これまでのところ、従来の理論モデルを反省し、それを根本的に改めようとしているようには見えません。そのような主流派経済学のあり方を、オーストラリアの経済学者であるジョン・クイギンは「ゾンビ経済学」と呼んでいます。 だとすれば、恐るべきことに、地政学者だけでなく、経済学者自身も、経済についての正確な知識をもちえていないということになります。少なくとも主流派経済学に依拠している限りは、地政学と経済学を意味のある形で総合することは不可能です。そして、いま私たちが陥っている世界的な危機を克服することもできないんです。 Q:しかし、主流派経済学の何がそんなに間違っているというのですか?  中野 現在の主流派をなす経済学は、アダム・スミスを開祖とする「古典派」、およびその後継たる「新古典派」という系譜をもち、その歴史は200年以上に及びます。しかし、その発展のプロセスで「不確実性」という概念を喪失しました。私は、これが主流派経済学の根本的な間違いだと考えています。 Q:「不確実性」ですか? そういえば、このインタビューの最初のほうで、信用貨幣論を説明していただいたところで「不確実性」という言葉が出てきましたね。 中野 そうそう。信用貨幣論では、貨幣を創造するとは、負債を発生させることだけど、負債には常に、「デフォルト(債務不履行)」がありうるという「不確実性」が存在していると言いましたね Q:はい。だからこそ、その「不確実性」を最小限にするために、国家権力に裏付けられた「貨幣」が一般化していったというお話でしたね。 中野 ええ。しかし、その「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至ったのです。 Q:どういうことですか? もっと具体的に教えてください。 中野 わかりました。ちょっと長くなりますが、いいですか? Q:もちろんです。(次回に続く)』、「「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至った」、その通りなようだ。

次に、5月7日付け東洋経済オンラインが掲載した 作家、研究者の佐々木 一寿氏による「コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/346470
・『異色のNHK経済教養ドキュメント「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」を基に、書き下ろしを加えた『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る」』が、このたび上梓された。 番組やこの本で岩井氏を知った方も多いかもしれないが、日本を代表する世界屈指の理論家である。同氏の歩みを通じて、経済学のこれまでの発展過程と、いま学ぶべき経済学的課題をひもといていく』、興味深そうだ。
・『「日の下に新しきものなし」  「太陽の下、この世には何も新しいものはありません」 これは岩井克人が自身の考察を述べる際によく言及される、旧約聖書の中の言葉(「日の下に新しきものなし」)である。 世の中の出来事は、もしまったく新しいもののように見えることであっても、実は本質的には共通する先例がすでに存在していて、それが形を変えて現れているだけである――。おそらくそのような世界観を言い表したものであろう。 そしてこの象徴的な言葉こそが、岩井克人という学者を理解するうえで非常に重要なものであるように私は思う。 岩井氏は経済学で多くの貴重な「再発見」をしてきた。そして、私たち(と多くの学者)が経済学を再発見することを可能にした。 学者、それも一流の学者と言われるためには、学術的な新しい発見を求められる。経済学であってもそれは例外ではなく、論文には新規性が求められ、その新規的な内容の完成度が高く、有用性が大きそうであればあるほど高く評価される。論考が高く評価されればされるほど、学者冥利に尽きるし、皆から期待され、出世もできる。 そう考えれば、学者の成功は、自身が所属する領域で誰も成し遂げていない新しい発見をいかに自身の手で形にするかにかかっていると言える。であれば、新しい発見を探究し続けることこそが学者の学者らしい過ごし方であり、学者の本能的欲求だと言ってもいいだろう。 ところが岩井氏は、冒頭のように「新しいものなど何もない」と、およそ学者の口から出るとは思えない言葉をさらりと言ってしまう。まるで学者としての野心があらかじめ欠如しているかのようである。) しかし氏の経済学の探究心は並外れており、理論的に主要な経済学を網羅的に見渡せる、今や世界でも数少ない碩学中の碩学である(「24時間、学者をやっているのかもしれない」とも語っている)。 また経済学以外の分野の論考でも高い評価を得る思索家(thinker)でもあるが、「学者として『没落』した」ともよく語っている。その言葉の端からは、逆説的に学者としての成功を求める気持ちも持っていることが漏れ伝わってくる。 ただ、学者としての成功以上に学者として大切にしているものがあるのかもしれない。もしそうだとすれば、それは何なのだろうか。 自身からは明示的に語られることのないその「何か」を、氏の学者としての歩みから探っていきたいと思う』、「岩井」氏が言う「新しいものなど何もない」は、極めて深い意味がありそうだ。
・『サイエンス好き、SF文学好きから経済学の道へ  岩井氏は自伝の中で、サイエンティストの原点として、小学1年生時の『学習理科図鑑』(子ども用の原色図鑑)との出合いを語っている。転校してきた友達の家に遊びに行ったときに見せてもらい衝撃を受け、その後に自身用の図鑑を買ったという。お小遣いを工面しつつ、昆虫図鑑、動物図鑑、植物図鑑、天文図鑑といったシリーズを興味の向くまま購入していき、鉱物図鑑まで行き着く。 図鑑では、自然界の構造全体が見渡せるようになっており、次にそれを構成する動物界や植物界といった各界を分類的に見渡すことができる。最後には図鑑で個体一つ一つを具体的に見る。岩井氏は世界を全体的、構造的、関連的に捉えるようになる。 「私は、図鑑を通して、大げさな言い回しになりますが、世界をいわば鳥瞰図的に知ることになったというわけです。(中略)いずれにせよ、私は科学少年になりました」(『経済学の宇宙』9ページ) 鉱物図鑑まで買った後、買いたい図鑑がなくなり、SFを読むようになった岩井氏は小学6年時に物理学者ジョージ・ガモフの著作に出合い、相対性理論や量子力学の概念とともに「無限大」の概念を知ることになる。これが後の代表的な研究となる「貨幣論」のきっかけとなったという。 また同時に、ガモフの“副作用”により学校で教えている数学や理科に刺激を感じなくなってしまい、その反動で文学作品に興味を持つようになる。多様な作品を読み、文学青年を自覚するようにもなった岩井氏は、「科学少年」と「文学青年」の間で進路に悩み、最終的に経済学部を選ぶ。) 「経済学を、文学と科学を足して二で割ったものととらえたのです。まあ、今から考えると、ずいぶんいい加減な理由で選んだと思いますが、経済学を専攻することにしました」(『経済学の宇宙』31ページ) 岩井氏の文章は、鋭利な理論展開と優美な表現力を併せ持つ。その独特の筆致は高い人気を得ているが、このような背景があるゆえなのかもしれない』、「私は、図鑑を通して、大げさな言い回しになりますが、世界をいわば鳥瞰図的に知ることになったというわけです」、確かに体系的に知識を得るには「図鑑」は恰好の教材だ。
・『「新古典派」の理論構築を嘱望された希代の逸材  岩井氏は東京大学の経済学部に進学する。入学当初は政治学にむしろ興味が向いていたが、大学2年時に受けた「近代経済学」(根岸隆)の授業に深い感銘を受ける。 「とりわけ、新古典派経済理論の数学的な美しさに驚きました。科学少年であったときの知的興奮がよみがえってきたのです。(中略)目標にできる人がここにいる、経済学者になってもよいと思いました」(『経済学の宇宙』38ページ) それとともに、当時の東京大学で優勢であり高校の頃から触れていたマルクス経済学に対し、学びながらも違和感を感じるようになっていく。 学部の後半では、学内で少数派だった近代経済学のゼミを選び、小宮隆太郎から「通説批判」の精神と経済成長に関する純粋理論を学ぶ。そして、理論に堪能だと気付いた小宮により、シカゴ大学から帰京したばかりの宇沢弘文に紹介される。 東京大学の数学科出身で、数理経済学の世界的な第一人者だった宇沢は、ベトナム戦争反対の立場から東京大学からの招聘に応じていた。 そして岩井氏は、宇沢から多大な影響を受ける。新古典派経済理論(数理的に基礎構築された自由主義経済の理論)の最先端の手法と、そして宇沢が密かに葛藤し続けていたその手法の限界性を、教室や酒場で間近に学び、学部生の終わりを迎える。 岩井氏は大学院進学を自然に考えるようになったが、いわゆる東大闘争の影響で大学院が封鎖されてしまう(封鎖はその後、数年続いた)。 東京大学の近代経済学教員チームは、岩井氏を含む4人の大学院志望者を直接アメリカの大学院に進学させることにする。岩井氏は最も数学が堪能ということでマサチューセッツ工科大学(MIT)に推薦される。 米国屈指の経済学者ポール・サムエルソンを招聘したMIT経済学部は、彼の尽力により米国最高位の地位を獲得、ロバート・ソロー、フランコ・モディリアニ、チャールズ・キンドルバーガーといった豪華講師陣を擁していた。いわば経済学の中心地で、岩井氏は新古典派経済学の粋を学ぶことになる。 そして早くも1年目の二学期に転機が訪れる。サムエルソンの講義中に提示された経済成長論の技術的課題に、数学的な解決手法のアイデア(「入れ子構造」でのモデル記述)を思いつき、一月ほどかけて「最適経済成長と静態的序数効用ーーフィッシャー的アプローチ」という論文にまとめる。 その論文はサムエルソンとソローに認められ、2年時にはサムエルソンの研究助手に迎えられ(前任はロバート・マートン)、その後、ソローの研究助手も務めることになる。 3年の時には、ジョセフ・スティグリッツからエール大学で行われる経済成長論のカンファレンスに誘われて出席し、院生でありながら発表を行なっているが、その背景に経済成長論の理論的大家であるチャリング・クープマンスの取り計らいがあったことは、米経済学界の経済成長論分野からの岩井氏への期待の大きさの現れだろう。 「まだ学者になるかならないかの頃でしたが、今振り返れば、このときが、私の学者人生における『頂点』であったのです」(『経済学の宇宙』68ページ) しかし、大学院の2年から3年にかけて、岩井氏は平行してケインズ経済学を読み直しつつ、新古典派経済学の根幹を見つめ直す作業を始めていた。そして、経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう。 「その瞬間、私の学者人生は、『頂点』から『没落』し始めてしまったのです。もちろん、私はそのようなことを知るよしもありません」(『経済学の宇宙』78ページ) 岩井氏はMIT時代の総仕上げとして、新古典派経済学の根幹部分を支える「神の見えざる手」のメカニズム検証に着手する。新古典派が依拠する自由放任下の完全競争による需給バランス均衡の到来、そしてそれによる資源の最適分配のメカニズムは「神の見えざる手」と呼ばれ、主流派経済学の最重要の基礎となっている。 ただ、それを厳密に追っていくと、論理に致命的な飛躍があることが他でもない新古典派経済学者から指摘されてもいた(ケネス・アロー、チャリング・クープマンスによる)。 完全競争下では価格は与件となるが、では、その価格は誰が動かすのか――。価格がもし皆で動かしうるのであれば 、完全競争による秩序はどのように実現し得るのか――。 そして、新古典派はそのことに目をつぶってしまったのではないか。残されてしまっていたその課題の検証を岩井氏は「見えざる手を見る」作業と呼び、試行錯誤の末に3年目の終わりまでに「不確実性のもとでの独占的競争企業の行動を分析した論文」として仕上げる。 「私は、主流派がその価格の調整メカニズムそれ自体は理論化してきていないことに不満を持ち、最初はその経済理論を内部から補強しようと思ったのです」(国際基督教大学HPでのインタビュー) 先行して仕上げていた2つの論文と合わせ、「経済動学に関する三つの試論」として博士論文として提出し、3年足らずで博士号を取得する。) ソローの誘いを断り、新古典派の重要課題に博士論文で一旦の結論を出した岩井氏は、以降、ケインズ経済学の研究に突き進む』、「東大闘争・・・東京大学の近代経済学教員チームは、岩井氏を含む4人の大学院志望者を直接アメリカの大学院に進学させることにする」、「東大闘争」の思わぬ効用だ。「経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう」、進路も違ったものになっていたろう。
・『新古典派が称賛する博士論文、そして宇沢弘文の背中  岩井氏はMITを卒した後、 自身の論文を高く評価され、エール大学の助教授に着任するが、その前の1年間、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として赴いている。 そこは数理経済学の牙城であり、経済成長理論を数学的に拡張することを求められながらも、ケインズ経済学の研究に没頭し、後の『不均衡動学』につながるアイデアを得ている。また、高名な理論経済学者ジョージ・アカロフとも交流を持った。 エール大学では、由緒あるコウルズ研究所に所属する。そこで数理経済学者クープマンスとともに研究所の二枚看板であるマクロ経済学者のジェームズ・トービンに出会う。 トービンは当初、数学か法律を学ぶつもりであったが、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を読んだことがきっかけで経済学に進んだという経緯もあり、岩井氏にとっては得難い理解者となる。 岩井氏は、クープマンスの期待を感じつつ、数理的な手法を磨きながらも、マクロ経済学に研究の軸足を移していく。まずはMITで書いた3本目の論文をマクロ経済学に拡張することに挑む。 「見えざる手を見る」作業、つまりミクロ的な経済主体の振る舞いのメカニズムから、マクロ経済的な現象を説明する(マクロ経済学のミクロ的基礎づけ)作業に着手する。 その過程において、当初の楽観的な見方から転換を余儀なくされる。3本目の論文では、新古典派の「神の見えざる手」がはらむ論理的な矛盾点を、現実的な前提を据え直すことによって、価格が均衡するメカニズムを新古典派経済学の範疇で示しえたが、それはミクロ経済学のなかでの話である。 しばらくして、岩井氏はミクロ的な価格決定メカニズムの説明がマクロ経済の場合ではそのままでは使えないことに気づく。「奇妙だ、矛盾だ」そう思い続けて悩んだ末、マクロ経済の場合は「合成の誤謬」(ミクロで成立することは必ずしもマクロで成立しない)が存在し、さらにそれは内生的かつ不可避であるという結論に達する。 個々の平均価格予想(平均価格は「個々(ミクロ)」が「全体(マクロ)」を予想することに相当)は、総需要と総供給が一致している場合以外は、予想の誤りを必然的に生み出す――。 つまり、個々が合理的な振る舞いをしても、(特殊な例外を除いて)予想の誤りが必然的に起こるため、理想的な価格に均衡しえない――。 こうして、マクロ経済においては、「神の見えざる手」は一般的な意味では存在しないことを、厳密な新古典派経済学の手続きによって否定的に論証してしまう。 「主流派経済学を理解して、主流派の理論を内部から、より厳密に追求していくうちに、その矛盾点を次々と見いだすようになり、次第に主流派経済学に疑問を感じるようになったのです。主流派の教えと矛盾した結果を導いたとき、最初は自身の理論化が誤っているのかと悩みました。3、4年におよぶ長い逡巡の末に、「矛盾こそが真実だ」と発想の転換をしたことを、今でもはっきりと覚えています」(国際基督教大学HPでのインタビュー) 「初めから異端を志したのではない」岩井氏ではあるが、「若さの気負いもあって」主流派経済学をひっくり返す仕事をしようと決める。それがエール大学のコウルズ研究所において7年の歳月をかけた『不均衡動学』の構築につながる。) ただそれは、論文の量産を宿命づけられた学者の出世プロセスにとっては、とてつもなく高いリスクを伴う選択でもあった。 とくにこの時期は、宇沢弘文の姿がよく脳裏に浮かんでいたのではないだろうか』、「主流派経済学を理解して、主流派の理論を内部から、より厳密に追求していくうちに、その矛盾点を次々と見いだすようになり、次第に主流派経済学に疑問を感じるようになったのです。主流派の教えと矛盾した結果を導いたとき、最初は自身の理論化が誤っているのかと悩みました。・・・「矛盾こそが真実だ」と発想の転換をした」、たいしたものだ。
・『「神の見えざる手は存在しない」という経済学の構築へ  「神の見えざる手」、専門的には新古典派経済学の「一般均衡理論」に代わる新たな市場観を理論化するにあたり、岩井氏は自身が考えてきた「予想の誤り」の考察が、クヌート・ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」の再発見であることにある日気づく。 総需要と総供給が均衡していない(どちらかが多い不均衡な)場合、価格は均衡せずエレベーターのように(累積的に)推移していく――。 総需要と総供給は、新古典派のモデル(セーの法則、物々交換の原理)の前提においては均衡するのが常態であるが、貨幣経済の前提を入れると、たちまちそれは不安定になってしまうことはケインズも指摘している(貨幣需要の分だけ総需要が減るため)。 ということは、新古典派の一般均衡理論は現代の経済においては実際的でないか、あるいは非常に限られたケースでしか機能しないのではないか。そして、それでも市場価格が均衡して決まる、その要因は何なのか――。 そこに及んで、岩井氏は、ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」とケインズの「有効需要原理」を接合することを思いつく。 テクニカルな説明は最小限にとどめるが、まずヴィクセルの累積過程論を現代的な数理経済的前提に基づいて修正し、ケインズが『一般理論』でヴィクセルの前提を理論的背景として踏襲していることを確認しつつ、新古典派の理論体系がケインズの“一般理論”の特殊ケース(不確実性がなく、流動性選好が十分に低く、総需要と総供給が等しい場合)なのだというケインズの真意を見いだす。 さらにケインズは、新古典派の依拠する処方箋(合理的な自由放任主義)がいかにヴィクセルの累積過程を伴う不安定をもたらすかを指摘しながらも、返す刀で、“悲惨“である不均衡累積過程は運命的必然などではなく止められるべきものだとヴィクセル派の経済学者らの運命論を牽制。 その安定のための市場の均衡化の処方箋は、「不合理的な振る舞い」「粘着性」「ノイズ」といった合理的でないもの「こそ」が担っているとケインズが示唆していることを岩井氏は明らかにする。 それらを数理的な基礎付けで統一的に理論化したことが岩井氏の画期的な功績だが、その実現にあたって、ミクロの不均衡な振る舞いがマクロ的な統計バランスの均衡をもたらしえること(岩井氏曰く“蚊柱理論”)、また予想される新古典派からの反論に即して、マクロ的な統計バランスを今度はミクロ的な不均衡として確率的に分解してみることで、長期においても新古典派経済学の均衡は実現しない(つまりギャップが永続する)可能性を示した。 とくに最後の功績は、ヴィクセルとケインズすら想定していない、岩井氏独自による新古典派批判の理論的決定打であり、のちにジョージ・アカロフから激賞されている。 ケインズ経済学と古典派経済学が経済学の双璧であるならば、ケインズ経済学をヴィクセル的な原理で数理的・ミクロ的に基礎付けた『不均衡動学』は、アダム・スミスの「神の手」の数理的・ミクロ的基礎付けである「一般均衡理論」と(少なく見積もっても)双璧をなす存在である。 歴史的・経緯的に一般均衡理論は多数の経済学者によって理論的に確立されてきたが、もう一方の不均衡動学に関しては、理論的先達はあるにせよ(「日の下に新きものなし」と岩井氏は言うかもしれないが)岩井氏1人が7年の歳月をかけて成し遂げたのである(1980年)』、「岩井氏独自による新古典派批判の理論的決定打であり、のちにジョージ・アカロフから激賞されている」、すごいことだ。
・『経済学界は「新古典派にあらずんば経済学者にあらず」  控えめに見て、経済学の世界の基礎の半分を作った岩井氏は、ただ、自身では「傲慢でした」と当時を振り返る。 「ナイーブにも独自の理論を構築し、その主流派である新古典派経済学の世界をひっくり返そうという野望を持っていました。この理論が世に出れば新古典派経済学はおしまいになると、意気込んでいたのです」(『経済学の宇宙』156ページ) 成し遂げたことの大きさを考えれば、それでも十分すぎるほどの謙虚さだと(とくにアメリカのモデラーたちと比べればなおさら)私には思えるが、それほどアメリカでは新古典派が主流派として盤石だったということでもあるだろう。 事実、アメリカではケインズ経済学は新古典派の“不況時のオプション”として扱われることが多く、ケインズとその直弟子たちの「新古典派こそがケインズ経済学の中の非常に特殊なケースでしかない」という世界観とは根本的に相いれないところがある。 そのような環境では、岩井氏の功績は感情を逆撫でするものだろうということも想像にかたくない。しかも数理的基礎においてその堪能さを自負する新古典派であるからこそ、その拠り所が数理的基礎によっておびやかされるという事態に、事実や真実を尊重する学術の世界の住人だとしても容易には耐えられないだろう。しかも相手はたった1人である。 「しばらくして、いくつかの専門誌に書評が載りましたが、その多くは敵意に満ちたものでした。」(『経済学の宇宙』158ページ))  さらに、時代が追い討ちをかける。大恐慌から第2次世界大戦を経て1960年代までは、自由の国アメリカであっても、その経済学の半分はケインズ経済学がその位置を占めていた(“ニューディーラー”つまりニューディール政策のブレーンたち)。 不況を救い好景気をもたらしたニューディール政策は、その成功ゆえに効果が徐々に飽和し始め、1970年代にはインフレに苦しむようになる。それを背景にして新古典派がケインズ批判の勢いを増し“主流派”を形成、1980年に「新自由主義」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが大統領に当選するに及び、経済学界の趨勢として[主流派=新古典派=一般均衡理論]の勝利が決定的となる。 これを岩井氏は経済学の「反革命」なのだと論じる。 「19世紀は、『自由主義の世紀』と呼ばれるように、自由放任主義思想が支配した世紀でした。だが、20世紀に入るとその思想に翳りが見られ始め、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして世界大恐慌が始まります。そのさなかの1936年、ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版し、いわゆる「ケインズ革命」が起こりました。 当時、アメリカ政府が大恐慌からの脱出のために積極的に市場に介入するニューディール(新規まき直し)策をおこなったこともあ り、その後しばらく学問的にも政策的にも、不均衡動学的な立場が大きな影響力を持ったのです。だが、その勢いも一時的でした。経済学のそもそもの父祖はアダム・ スミスです。ケインズ政策の成功により資本主義が安定性を取り戻すと、1960年代にはフリードマンをリーダーとする新古典派経済学の反革命が始まりました。 そして、1970年代には学界の主導権を握ってしまいます。さらに、フリードマンらの思想に大きな影響を受けたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権の下で、1980年代から、経済政策も自由放任主義の方向に大きく再転換していきました」(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』85ページ) くしくも岩井が『不均衡動学』を完成させた年に、経済学界と政治の世界では新古典派がその地位を確固たるものにしたのである』、「ナイーブにも独自の理論を構築し、その主流派である新古典派経済学の世界をひっくり返そうという野望を持っていました。この理論が世に出れば新古典派経済学はおしまいになると、意気込んでいたのです」、「1960年代にはフリードマンをリーダーとする新古典派経済学の反革命が始まりました。 そして、1970年代には学界の主導権を握ってしまいます。さらに、フリードマンらの思想に大きな影響を受けたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権の下で、1980年代から、経済政策も自由放任主義の方向に大きく再転換していきました」、潮流は「岩井」氏には逆風だったようだ。
・『唯一無二の理論家の「東京大学への帰還」  岩井氏はそれでもアメリカでの活動を考えていたというが、逆風の中で学者としての成功を望むのであれば、いま以上の政治的経営的な交渉力が必要になる。 「経済学の主流派に対抗する理論を主張してアメリカに居残るためには、多少大げさな言い方になりますが、学派を作らなければならない。学派を作るとは、中小企業のオーナーになるのと同じようなことです」(『経済学の宇宙』158ページ) 自身には不可能だ、そう考えていたところに、東京大学経済学部からの招聘状が届く。学部長の宇沢弘文からの招聘だった。日本に帰る潮時だと悟った岩井氏は帰国の決心をする。 帰国前に、理解者であったジェームズ・トービンはこう声を掛けている。 「カツ、おまえの仕事は、時代を20年先駆けている」(『経済学の宇宙』159ページ) おそらくトービンは新古典派全盛の時代が来ることを認めつつ、20年も経てば反革命が収まり、再びケインズ経済学が再評価され、その暁には『不均衡動学』はその中心として再評価されると考えていたのだろう。 しかし、トービンの見通しは甘かったのかもしれない。2000年前後のアジア金融危機とITバブル、2008年のリーマンショック、2010年の世界金融危機を経てもなお、ケインズ経済学が主流派に復帰することはなかった。 『不均衡動学』という“ケインズ経済学の図鑑”を作り終えた岩井氏は1981年に東京大学に職を得た。そして、その後の研究として、資本主義論と貨幣論をそのスコープに入れる。岩井氏の研究の特徴でもあるが、純粋理論としての追究を始める。 ケインズと同年に生まれ、早熟の天才として知られるヨーゼフ・シュンペーターが28歳のときに発表した主著『経済発展の理論』の驚異的な洞察力の秘密を探りたいと考えた。 「『経済発展の理論』は、驚くべき本です。資本主義的な経済発展について最も深い洞察を与えてくれるこの理論書が、二十八歳の青年によって書かれたということがまず驚きです。それ以上に驚くのは、この本が出版された一九一二年という年は、地球の上はまだごく一部しか資本主義化しておらず、(中略)しかもその(最も現代的な資本主義の形態の)本質をあますことなくとらえている」(『経済学の宇宙』167ページ) 資本が合理的かつ最適に投下されると、新古典派の均衡理論においては利潤は長期的にはなくなってしまう。しかし、企業はすべて利潤を生み出せないという事実はない。マルクスはその理由を資本家の労働者からの搾取に見いだしたが(その差分が利潤になっているという主張)、シュンペーターはそれを理論的に否定した。 シュンペーターは「イノベーション」(革新)をその理由に挙げたが、岩井氏はこの理論を動学モデルとして理解し再構築する。そして、岩井氏の「シュンペーター経済動学」のイノベーションの解釈は、絶えず生み出される「差異」にこそその本質があると結論づける。 動学的に差異を生み出し、差異によって動学的に利潤が永続する。差異が生み出され続けることによって、悲惨な長期的利潤ゼロの状況に陥ることから免れている。つまり、資本主義の本質は差異の絶え間ない生産とその動学的な作用である、と。 その自身の資本主義論を説明するために、岩井氏はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』が一例として題材に使えそうだと考えた。しかし、その直感は、意外な形で裏切られることになる』、「資本主義の本質は差異の絶え間ない生産とその動学的な作用である」、との「岩井」氏の仮説は説得力がある。
・『『ヴェニスの商人の資本論』  『ヴェニスの商人』が岩井氏の資本主義論の一例として使えるのは当然であった。イノベーションがもたらす差異を、遠隔地貿易の動機となる価格差(異なるコミュニティー=市場での価値形態の違い)に置き換えれば、理論的には同型であるのだから、成り立つのは必然だ。とくに理論家であれば、それに気づくのはたやすいことだろう。 しかし、岩井氏が理論家として非凡なところは、その理論的な同型性を見いだすに及び『ヴェニスの商人』の作品自体がすでに岩井氏がシュンペーターから読み取った資本主義論を解いてしまっている、と確信したところにある。 「そのテクストの中に、『資本主義論』がすでに埋め込まれている。さらに読み進むと『貨幣論』も埋め込まれている」(『経済学の宇宙』212ページ) 自身は単にそれを掘り起こしているだけだ、そのような感覚にとらわれ続けたという。このエピソードは、最近ではトマ・ピケティの『ゴリオ爺さん』にも通じるところだろう。 資本主義、貨幣の最も本質的なところが、歴史的な名著の物語が象徴するものとして解説されるという、世にも不思議な経済学的著作『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)がこうして誕生する。そしてこれは、岩井氏の日本語での初めての出版でもあった。) 蛇足だが、私自身はこの本を何かのきっかけで読んだことで、最終的に経済学部に進学することを決めた。以降、数ある経済学書を読み、経済学アカデミアをウォッチしてきたが、当時から今も変わらない感想を持っている。 それは、経済学とは学力偏差値でものすることができるような生易しい学術ではなく、それにも増してセンスが重要だ、という当たりまえの事実を前にしてのしみじみとした感心である』、XXX。
・『『貨幣論』に取り組む  そして、満を持して、岩井氏は貨幣論に取り組む。 問題意識としては、『不均衡動学』を執筆した際に、ケインズが強調していた貨幣経済がもたらす不安定性を、半ば所与として考察し理論構築をしたが、自身としてもきちんと腑に落ちる形で考えたい、というところにあった。 資本論、貨幣論はともに、新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学の別なくその根幹に存在するものである。資本主義論同様、その経済の根幹部を、岩井氏らしく純粋理論として論考を重ねていく。 岩井氏は、古今東西の貨幣論を読み漁る。「貨幣は商品である」(商品貨幣論)。「貨幣は法が定める」(貨幣法制説)。「貨幣は負債の記録である」(貨幣名目説)。しかし、そのどれもが腑に落ちない。 もちろん、経済学の教科書には貨幣の定義は載っている。岩井氏の疑問は「なぜ貨幣は貨幣として機能するのか」というところにあった。それが理解できれば、ケインズの考える不確実性がわかり、不均衡動学に残されていた大きなピースを埋められると考えた。 先行する貨幣論を一つひとつ、理論的矛盾や反証の事実を基に論駁(ろんばく)していく、その長い紆余曲折と試行錯誤を経て、岩井氏は「貨幣は貨幣として受け入れられるから貨幣として機能する」という結論に至る。 「だれに聞いても、『ほかの人が500円の価値がある貨幣として受け取ってくれるから、私も500円の価値がある貨幣として受け取るのです』と答えるだけなのです。だれもが、『ほかの人が貨幣として受け取ってくれるから、私も貨幣として受け取るのです』と答えるのです。<中略>思い切って縮めてしまうと、以下になります。『貨幣とは貨幣であるから貨幣である。』 これは、『自己循環論法』です。木で鼻をくくったような言い回しで申し訳ないのですが、別に奇をてらっているわけではありません。真理を述べているのです。貨幣の価値には、人間の欲望のような実体的な根拠は存在しません。それはまさにこの 「自己循環論法」によってその価値が支えられているのです。そして、この「自己循環論法」こそ、貨幣に関するもっとも基本的な真理です。」(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』47ページ) 岩井氏はこれを「貨幣の進化」の論文としてまとめ、それを下敷きにマルクスの「価値形態論」を読み解く作業を開始。1991年に『批評空間』という雑誌の連載として始まり、1993年に書籍『貨幣論』として刊行される。 マルクスの「価値形態論」は、それに則って純粋に徹底していくと、マルクス経済学がその基礎として依拠する「労働価値説」を破壊してしまう。つまり自己矛盾を起こしてしまうということを指摘しつつ、「貨幣の自己循環論法」によってそれが引き起こされることをマルクスのテクスト自体がいわば無意識に予見していた、と指摘する。 そのようにマルクスが無意識にも自身の体系を崩壊させるプロセスを理論的に精緻にたどり、その崩壊過程が「貨幣の自己循環論法」によってもたらされることを明快に論証することによって、いわば“背理法”的に貨幣の自己循環論的機能を証明したのである。 自己循環論は、岩井氏の最初の論文の重要アイデア(静態的序数効用つまり「入れ子構造」)にも通じるところがある。また、カリフォルニア大学バークレー校時代に読んだ、「クルト・ゲーデルの不完全性定理」にも通じるものだ。ガモフの無限大の概念と併せて、岩井氏の論証の特徴的な武器となる。 このような貨幣の性質から、貨幣の本来的な不安定性を示し、貨幣が受け入れられなくなったカタストロフとしての超インフレこそが資本主義の真の危機だと結論づける。それは、「恐慌」こそが資本主義の危機であるという古典派やマルクス経済学の結論を転換するものであった。 そしてこの『貨幣論』が、最も知られる岩井氏の仕事となる。また、「日の下に新きものなし」ということなのだろうか、仮想通貨に関しての理論的考察もこの頃にすでに先行的になされている』、「貨幣に関する」「自己循環論法」は余りにも有名だ。
・『会社統治論としての『会社は誰のものか』  ケインズ経済学に加えて経済学全体の基礎的部分の“図鑑”を編纂し終えた岩井氏は、いくつかの偶然から、「会社」に注目することになる。理論の世界の住人であった岩井氏らしからぬ世俗感ではあるが、その論考には氏の理論家らしいまなざしが随所に見られ、そのことにより非常にユニークな法人論につながっている。 経済学的、資本論的に言えば、会社は資本家の所有物である。実際的にはどうかという見方はあるにしろ、とくに欧米では建前的にも実際的にも基本的にはその原則が強く意識されている。 しかし、日本ではとくに顕著だが、会社が資本家の所有物とは思えない現象が頻繁に見られる。そのギャップはいったいどこから来ているのだろうか――。 資本の持ち合い構造という一般的な見方に加え、岩井氏は契約法の大原則「自己契約の不可能性」から、自己を所有するという「入れ子」を発見する。「契約」は自分と相手を縛るものである。資本家と経営者、経営者と労働者の関係性には基本的に契約が存在する。 しかし、資本の持ち合いにより資本家の軛(くびき)から逃れた経営者は、もちろんそれでも法人と経営者の契約関係がある。しかしこの場合、法人と経営者はほぼ同一となってしまう。労働組合があれば、労働者との契約関係が自らを縛るものになるが、労働組合を無力化できたとすれば、法人と経営者は実際的に等しい状態となる。 そのときに、法人と経営者の(義務を伴う)契約関係は可能であるかどうか。それは「自己契約」となり、経営者はいつでも法人として自らの契約を変更することができるがゆえに、もはや契約の意味を持たなくなる――。 当時の世情では、M&Aが盛んになっており、会社は経営者のものでなく株主のものだ、いや、会社は社員こそのものである、という議論が延々と繰り広げられている状況であったが、岩井氏の論考はその不毛な繰り返しを止めるに十分なインパクトを持った。 また、余談だが、ピケティが『21世紀の資本』で明快な答えを出せずにいた、資本家の富の増加以上の経営者の報酬の飛躍的な上昇も、岩井氏はすでにこの時点で、エージェンシー問題と絡めることで理論的にほぼ説明をし終えている。 そしてさらに自らの議論を延長したうえで、契約の不可能性が原理的に避けられないがゆえに、「契約」に代わる会社統治に必要なものとして「信任」の必要性をあぶり出す。それが、氏の『信任論』につながっていく。その法体系的な可能性を哲学者のイマヌエル・カントのテクストから示そうとする試みは今も現在進行形で続いている』、『信任論』の今後の発展が楽しみだ。
・『経済学から法学、そして社会科学へ  「経済学史」の授業を受け持つことをきっかけに、岩井氏は資本主義や貨幣経済の淵源を見つめ直すことになる。経済学はアダム・スミスを祖とすれば300年の歴史となるが、氏の理論家としての視点から、古今東西からその雛形(理念型)を探す作業に取りかかる。 『ヴェニスの商人の資本論』の拡張版ともいえるアプローチだが、どこかジョン・ヒックスの『経済史の理論』を思わせる、卓越した理論家でなければ発想することも難しい仕事だろう。 紆余曲折を経て、岩井氏はアリストテレス時代のポリスに注目する。アリストテレスの論考から、コミュニティーの存続と破壊の両面を持つ貨幣という存在をすでに明確に自覚していることを見いだし、最新の書籍『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』の中でも一部を披歴している。 また、重商主義時代のジョン・ローに、ケインズに先駆けての自己循環論法的な貨幣論を見いだし、現代の管理通貨制度や中央銀行制度の原型を確認している。 現在の岩井氏は、これまでの貨幣の考察を踏まえ、「法」に加え、「言語」にもその思考を広げている。「言語」も、媒介的、自己循環的な性質を持っており、また、この3つが「価値」「権利」「意味」という、社会科学を考察する際のエレメントでありうると岩井氏は直感しているのだろう。 これは2010年からリベラルアーツが中心のICU(国際基督教大学)に拠点を移したことと無関係ではないだろう。まだまだ時間がかかる、そのように笑顔で話す岩井氏の「社会科学の図鑑」の完成が待たれるところである』、「社会科学の図鑑」の完成が楽しみだ。

第三に、11月9日付けダイヤモンド・オンライン「GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由、狙いは「ビジネスの最強武器」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/253537
・『『週刊ダイヤモンド』11月14日号の第一特集は「最強の武器『経済学』」です。2020年ノーベル経済学賞を受賞したゲーム理論、それに行動経済学を中心として経済学の知見の応用が広がっています。企業の戦略決定、マーケティングなどビジネスの現場でも本格活用が始まりました。ビジネスパーソンは今こそ、この最強ツールを手に入れるべきです。基礎の基礎から応用実践編まで完全マスターするための特集です』、興味深そうだ。
・『世界中のオンライン広告は全てゲーム理論に支えられている  言わずと知れた世界の巨大テック企業、米GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・ドット・コム)。実はその強大なパワーの裏で、経済学が力を発揮していることをご存じだろうか。 何しろ、日本ではそうした動きは限られているのが現状だが、米国では経済学者がテック企業などに所属し、ビジネスに関わるのは決して珍しいことではない。 例えばアマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいるとされる。そして、「重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた」と、最近まで同社に勤務していた元社員は驚きと共に振り返る。 このほどダイヤモンド編集部の単独インタビューに応じた、米カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院のスティーブン・タデリス教授もその一人だ。 タデリス氏は2011〜13年、世界最大のオークション(競売)サイトを運営する米イーベイでエコノミストを務めた後、16〜17年にはアマゾンでVP(ヴァイスプレジデント)の職に就いていた。 同氏は「米国のテック企業の間では、経験豊富な一流経済学者の引き抜き合戦が起きている。企業は学者が教授職の報酬として大学から受け取る金額の約2〜5倍、時には10倍にも上る報酬を示して引き入れるケースが見られる」と、その激しい競争の実態を明かす。 企業側のニーズを引っ張るのが、現代経済学の2本柱、ゲーム理論と行動経済学。両分野が経済学を主導する様は、この四半世紀のノーベル経済学賞の実績を見れば一目瞭然だ(下表参照)。 今年もゲーム理論の応用分野、「オークション理論」を研究する米スタンフォード大学のロバート・ウィルソン名誉教授(下写真)らに贈られたように、二大分野の研究に受賞が集中しているのが分かる』、「アマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいる」、「重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた」、ここまで進んでいるとは脱帽だ。
・『フェイスブックはオークション理論 グーグルはマッチング理論を活用する  ではなぜ、テック系を中心とした世界のトップ企業の間で今、必死に経済学者を囲い込もうとする動きが広がっているのだろうか。 背景の一つに挙げられるのが、テクノロジー企業の急速な台頭だ。例えば前出のタデリス氏は「世界中のあらゆるオンライン広告は、まさに『オークション理論』に支えられている」と指摘する。 実際、フェイスブックではビジネスの主戦場であるオンライン広告において、オークション理論を大いに活用しているのだ。また、実はグーグルの検索連動型広告もその仕組みの大本にはオークション理論が根付いている。 さらに、グーグルでは、ゲーム理論のもう一つの代表的な応用分野、「マッチング理論」の仕組みを取り入れ、多士済々のテック人材の配置にも生かすなど、その活用の裾野は極めて広い。 そもそもゲーム理論とは、合理的なプレーヤーたちの間で繰り広げられる読み合い、せめぎ合いを分析するもの。そこで分析される状況は、企業の戦略を中心に幅広く応用されている。 一方の行動経済学は、人間の非合理的な面に着目し、リアルな意思決定の在り方を掘り下げるものだ。ゲーム理論も行動経済学も、実験によってデータを集め、検証が繰り返されることで知見を深めてきた。そして、両者にまたがるような実験経済学のアプローチは進化を続け、計量経済学のデータ分析手法と共に実社会へと活用の場を広げていった。 これら経済学の発展と併せ、現実のビジネス界で生じた見逃せない変化として、AI(人工知能)や機械学習、ビッグデータなどを活用する必要性が高まってきたことがある。一連の新たな技術をうまく活用するため、経済学上の重要なキーワードとなるのが、集めたデータの因果関係を推測する「統計的因果推論」だ。 因果推論は、大量のデータを分析してビジネスに生かす際、重要となる基本的な考え方だ。だが機械学習の場合、膨大なデータの間にある相関を見ることはできるものの、あるテック企業で活躍する工学部出身者は、「工学系の人は意外と因果関係を見落としがちなところがある」と話す。 そして、この因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ』、「因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ」、日本ではなく、米国での話だろう。
・『テック企業が経済学博士を青田買い社会人未経験でも年収1500万円も  テック企業が繰り広げる優秀人材の争奪戦は、今や若手にまで及ぶ。一昔前までは、エリート層に人気の花形の就職先といえば、米ゴールドマン・サックスをはじめとする投資銀行がその筆頭だった。 だが、約2年前まで同社のニューヨーク本社に勤めていたある元外資系金融マンは、経済学博士号を保有する30歳前後の若手〜中堅の人材が、日本円にして3000万円ほどの高額年俸を提示され、アップルやアマゾンに引き抜かれた例を幾つも目撃したと証言する。 そして最近では、社会人経験のない学生に対しても、経済学博士号の取得者であれば、テック企業がおよそ1500万円にも及ぶ好待遇をちらつかせるなど、過剰とも思える青田買いの動きが広がっているのだという。 そんな米国と比べ、日本では企業の意思決定などに経済学を生かそうとする取り組みで大きく後れを取っているのが現状だ。ただし足元では、アカデミックな知見とビジネスの間を結び付けようとする動きが、一部で活発化している。 その代表格が東京大学だ。今年8月に1億5000万円を出資して株式会社「東京大学エコノミックコンサルティング」を設立。企業が持つデータを分析し、価格設定の在り方などの助言に動きだしている。  また国内の企業においても、ZOZOやメルカリ、サイバーエージェントといったテック企業は経済学の活用にいち早く目を付け、テックとの融合の試みを加速させている。 経済学の活用でビジネスに勝つ! 仕事の最強ツールを手に入れよう(『リンク先参照)』、「東京大学エコノミックコンサルティング」などの動きは興味深い。日本でも「経済学」が実務にもっと取り入れられるようになってほしいものだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 ダイヤモンド・オンライン 中野剛志 佐々木 一寿 (その3)(世界はすでに 各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている、コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び、GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由 狙いは「ビジネスの最強武器」) 「世界はすでに、各国が「利己的」にならざるを得ない危険な状況に陥っている」 「リベラルな国際秩序」には、地政学的な下部構造がある グローバル化は自然現象などではなく、グローバル覇権国家が自由主義的な経済秩序を構築することを志向した結果なのだ リーマン・ショックとコロナ禍で、世界は「危険な場所」になった 日本は世界の“食い物”にされる!? 日本の経済成長の低迷し始めた時期と、冷戦終結のタイミングが一致しているのは偶然ではない 日本の高度経済成長は冷戦構造という下部構造の上に実現し、日本の経済停滞は冷戦終結という下部構造と関係があるというふうに見ておかなければならない 「ガキっぽい情熱」を克服できない経済学 経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている 経済学は「よくて華々しく役に立たなく、悪くてまったく有害」? 「不確実性」を排除することなしに、現在の主流派経済学は成立しなかったと言ってもいいでしょう。その結果、主流派経済学は、「現実世界」とはかけ離れた精緻な理論体系をつくり上げるに至った 「コロナ後に「ニューディール政策」復活の可能性 岩井克人「新古典派経済学」超克の野望、再び」 「日の下に新しきものなし」 サイエンス好き、SF文学好きから経済学の道へ 「新古典派」の理論構築を嘱望された希代の逸材 経済成長理論の分野での将来を嘱望していたソローからの提案を、大胆にも断ってしまう 新古典派が称賛する博士論文、そして宇沢弘文の背中 「神の見えざる手は存在しない」という経済学の構築へ 経済学界は「新古典派にあらずんば経済学者にあらず」 唯一無二の理論家の「東京大学への帰還」 『ヴェニスの商人の資本論』 『貨幣論』に取り組む 自己循環論法 会社統治論としての『会社は誰のものか』 経済学から法学、そして社会科学へ 「GAFAが経済学者を高額報酬で囲い込む理由、狙いは「ビジネスの最強武器」」 世界中のオンライン広告は全てゲーム理論に支えられている アマゾンでは、グローバルで約200人に及ぶ経済学の博士号取得者がいる 重要な意思決定を行うときには、ほぼ必ずといっていいほど経済学者の知見を生かしていた フェイスブックはオークション理論 グーグルはマッチング理論を活用する 因果推論法が歴史的に最も洗練され、確立している学問こそが経済学。そんな背景もあって、経済学者には続々とテック企業からの引き合いが増えている実態があるのだ テック企業が経済学博士を青田買い社会人未経験でも年収1500万円も 東京大学エコノミックコンサルティング
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日本型経営・組織の問題点(その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、2月23日に取上げた。今日は、(その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける)である。

先ずは、5月10日付け現代ビジネスが掲載した作家の小野 一起氏と経営共創基盤代表取締役CEOの 冨山 和彦氏による対談「日本企業で出世する人たち、じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71570?imp=0
・『かつては世界から称賛された「日本的経営」だが、もはや時代遅れの産物と化している。それにもかかわらず、多くの経営者はいまだ過去の成功体験にすがりつき、大きく会社を変化させることをできずにいる。日本企業はいまや世界の時価総額トップランキングに入れないほどに凋落したが、その原因は会社の上層部で決断できずにいる「だらしない」トップたち、社長や役員など幹部たちにあると指摘する声は多い。 いま日本のトップ層たちが直面している本質的な問題とはなにか。では、日本企業はいま本当はどんな改革に踏み出すべきなのか――。 今回、経営共創基盤代表取締役CEO(最高経営責任者)として様々な企業の再生や成長支援に取り組む日本を代表する経営コンサルタントで、新著『コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画』を上梓したばかりの冨山和彦氏と、新作小説『よこどり 小説メガバンク人事抗争』でメガバンクの未来や組織の在りようなどを独自の視点で描き出した作家の小野一起氏が緊急対談を敢行。日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」について語り尽くした』、「日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」」とは興味深そうだ。
・『「時代劇化」した日本企業  小野 日本的経営での成功体験がアダになって、バブル崩壊とともに経営危機が顕在化した代表例がカネボウやダイエーですね。冨山さんは、政府系の産業再生機構のCOO(最高執行責任者)として、日本的な経営の無残な失敗とリアルに向き合うことになりました。 冨山 特にカネボウは最も強固な日本的経営の会社で、日本的経営をつくった原型のひとつでもあるわけです。運命共同体みたいに日本型経営を信じていたので、新しい時代には不適合な会社だったわけです。 しかし、もっとも強烈に変革の波にさらされたのは三種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)や3C(自動車、カラーテレビ、クーラー)でかつて成功体験を味わったエレクトロニクス産業でしょう。半導体で日本が世界を席巻したのも成功体験になっていると思いますが、せいぜい1990年代の話です。もう時代劇の世界ですよ。 小野 そうした危機に直面したエレクトロニクス産業の中には変革の波に乗れないところも出てきていますが、一方、日立製作所などは中西宏明会長らのイニシアディブで強烈な改革が始まっていますね。中西さんは冨山さんとの共著『社長の条件』の中で日立の人事改革に言及されていますが、典型的な日本的大企業と思われていた日立で大胆な組織改革がここまで進んでいたのかと驚きました。 グローバル化に対応するために年功序列を廃止し、トップの選定も社外取締役が主導して、30代を含む50人近い候補者とやり取りしながら選定作業をしているという話は刺激的でした。 逆に言えば、日立のような企業でもこのくらいの改革に取り組まなければ生き残れないということですね』、確かに「日立」での「大胆な組織改革」は、これまでの「日本的経営」との決別だ。
・『社長が「次の社長」を決めるというムラ社  冨山 遅ればせながら、だと思います。こうした日本的経営の問題点については気づく人は気づき、分かっている人は分かっていました。たとえばスタンフォード大学名誉教授の故・青木昌彦さんは、以前から課題を指摘していた。それなのに、たとえばカネボウの経営が傾いたときなど、日本の経済界では「あれは変な経営者がいたからだ」と説明してしまう人が大半だったんです。 小野 日本的な経営が構造的な問題を抱えているとは考えずに、カネボウが個別に経営問題を抱えていると説明されてしまった。 冨山 日本的経営の普遍的な病理について経済界全体が認め始めたのは、本当にごく最近のことです。安倍晋三政権になってからようやく企業統治(コーポレート・ガバナンス)改革が本格的に始まりましたが、それまではすべて人のせいにしていた。 そもそも日本企業の低迷は、世界の時価総額ランキングをみると明らかです。平成元年はかなりの数の日本企業が上位50社に入っていました。でも平成の終わりには、せいぜいトヨタ自動車ぐらいじゃないですか。この平成の大敗北で、さすがに自覚が生まれた。 小野 「平成最後の時価総額ランキング。日本と世界その差を生んだ30年とは?」(https://media.startup-db.com/research/marketcap-global)によると平成元年(1989年)は、世界の時価総額ランキングで、トップ50の中に、日本企業は32社入っていて、トップはNTTでした。しかし、平成31年4月(2019年4月)になると、トップ50に入った日本企業はトヨタ自動車のみです。トップ3は、アップル、マイクロソフト、アマゾン・ドット・コムというデジタル革命の勝ち組のアメリカ企業ですね。 こうした危機感に直面してやっと、日本企業の中からコーポレートガバナンス改革で独立社会取締役を導入する企業も出てきました。そして社外取締役で構成される指名委員会でトップを決める仕組みにした会社も出始めています。これは、社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね。 冨山 一桁パーセントでしょうね』、「カネボウの経営が傾いたときなど、日本の経済界では「あれは変な経営者がいたからだ」と説明してしまう人が大半だった」、最近にって「危機感に直面してやっと・・・社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね」、やはり変化には時間を要するようだ。
・『日本のリーダーが「おかしな」理由  小野 日本企業にとって「社外取締役の導入」や「指名委員会の設置」が進むことは重要な動きですが、ここからはきちんと定着することが大切になってくるのだと思います。その点、せっかく仕組みを取り入れたにもかかわらず、きちんと機能していない企業も多いようです。 よくよく聞いてみると、社外取締役がみなさん社長の「お友達」みたいなケースがありますよね。形式は整っているけど、魂が入っていない。導入した企業の中にはそういう企業が多い印象があります。 冨山 最初は仕方がないでしょうね。まずは形式を先行させて、実質を整えていく。長い目で見れば実質が変わった会社だけが生き残り、実質が変わらない会社は消えていくということでしょう。 そもそもリーダーシップが必要というのは、いまや大半の経営者が口にしています。しかし、本質的に問題となるのはリーダーシップの中身であり、リーダーの在りようでしょう。古き良き日本のリーダー像ってありますよね。人望があって、みんなの気持ちがよくわかって、それで現場の状況を理解して……という良き上司像です。もちろんいまでもそうした上司像は否定されませんが、それだけで良いのか、ということが問われているわけです。 小野 日本企業のリーダーシップについて、ほかに冨山さんが問題だと思っていることはなんでしょうか。 冨山 日本の経営者がよく使う言葉に「現場主義」というのがありますが、これが本当の意味での現場主義でなく、「現場迎合主義」になっていることが多い。 たとえばある業界で破壊的イノベーションがやってくるとします。テレビを作っていればこれまで儲かっていたエレクトロニクス産業で、もはや新興国企業が台頭してきてテレビを組み立てていても儲からなくなるというようなケースです。その時に、テレビの製造現場の人たちに「テレビの組み立てを止めようか」と聞いたら、誰も「そうですね、止めましょう」とは言いませんよね。紙の新聞が売れないからと言って、「紙の新聞を止めるか」と言っても、紙の新聞を作っている人は誰も止めようとは言わないでしょう。こういう現場の声を重視する経営者は、現場主義とは言いません、単なる現場迎合主義です。 小野 苦しくても、現場の反対があっても、より収益の高いところに戦略的に事業をシフトしていく判断をするのが経営者。それができないのならば、会社は消滅へと向かいます。 冨山 そうです。しかし、日本企業にはそういう決断ができない経営者が多い。現場というのは、言い換えると競争の最前線です。最前線で何が起きているかをリアルに認識することが大事なのは当たり前です。それと現場の思いに引きずられて決断ができないことはまったく違う』、現場出身の「日本の経営者」が・・・「現場迎合主義」に陥ってしまうのは、必然でもあるが、より高いリターンを要求する機関投資家の姿勢がまだ弱いことも一因だろう。
・『「一億総玉砕」しないために  冨山 たとえば戦場を見に行って、海戦の状況を確認して、飛行機を導入すれば勝てると考えるのは現場主義です。一方で長年苦労している水夫さん、一生懸命に機銃操作している兵士の気持ちになって作戦を継続するのが現場迎合主義です。これは本当の現場主義ではありません。「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多いんですよ。 小野 終身雇用と年功序列を前提にすると、経営者は現場にいるひとの人生を背負っている気分になりますよね。現場迎合主義では、その瞬間はいい上司のようにふるまえるかもしれませんが、長期的には雇用を守ることはできません。 冨山 ずっと苦労して頑張っていることを知っているわけですから尚更なんでしょうね。現場の人たちの貢献で日露戦争に勝った、現場の人たちのおかげで高度成長に貢献した……。その思いはわかりますよ。成功体験があるので、それを支えた現場の気持ちに寄り添ってしまう。ただ、ビジネスという戦争の現実はもっと厳しい。そういう現場の情念を合理が超えていくのです。 中途半端に現場の情念に寄り添うと悲劇が起こります。だから、戦局が変われば水兵さんたちを船から降ろしてあげればいいわけでしょう。やる気と能力がある人には、パイロットになれよって言ってあげればいいわけです。 いま多くの日本企業がこうした課題に直面しているわけですが、まだおカネに余裕がある段階で早く組織転換をしたほうがいいと思います。改革しようとすると、その瞬間はすごく現場にストレスがかかります。しかし、それを恐れていては手遅れになってしまうのだから、タイミングは早ければ早いほうがいい。心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから。 実は日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです。「半導体玉砕」、「液晶玉砕」、「テレビ玉砕」……。さすがに、これ以上は無理でしょう。 小野 確かにそうですね。例えば東芝は半導体と原子力で玉砕しています。日立が、必死になるのは当然とも言えます』、「「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多い」、「心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから。 実は日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです」、同感だ。
・『「本当の学力」が評価されないニッポン  冨山 リーダーシップのモデルが、高度成長期からガラリと変わっているんです。いまは大きな変革期ですから、リーダーは「自分が言ったこと」を「やってもらわない」といけない。つまり、いまのリーダーは社員への影響力が重要なんです。 しかも、人事権を振りかざす、いわゆる「ハードパワー」だけでは組織は動きません。ソフトパワーとしての人望や人間性もまたとても大切です。そのソフトパワー的なものと、合理性をどう両立させるかがポイントです。 リーダーは必要な時は合理的で冷徹な決断をできなければいけない。ただ、人望がないと「この野郎!」って恨まれて、本能寺の変で暗殺されちゃう。だから、人望も必要です。この両立ができないといまの時代のリーダー務まらない。要は組織の中でリーダーをどう育成するか、どう選ぶかが重要になってくるわけです。 小野 リーダーの育成は、高等教育とセットで考える必要がありますよね。現状では「学歴主義」というより「学校名主義」になっています。 冨山 そうですね。合格歴ですよね。濁点が違っています。「高学歴」じゃなくて「合格歴主義」(笑)。 小野 社会学者の小熊英二さんは『日本社会のしくみ』という本の中で、学歴について非常に興味深い指摘をしています。いわく、日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている、と。 本来なら高学歴といえば、博士号や修士号を取得していることです。日本の場合、特に文系だと修士号や博士号を取得していると、逆に出世できなくなるケースすらある。ムラ社会だと修士号や博士号を持っていると「異端」に位置づけられて、「本流」から外されてしまうわけです。 欧米の場合、経営者を目指す人には必要な学位を求めますよね。修士号とか博士号です。そこで培われた知識やスキルが、仕事に必要だと考えられているからです。東大卒や京大卒という学校歴、合格歴が求められることはありません。 一方で、日本の終身雇用、年功序列だと、まずはムラ社会のメンバーに入ることが重要。経営陣を目指す人も、みな現場のオペレーショナルな業務から入って、少しずつステップアップしていくしか道がない』、「日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている」、言い得て妙だ。
・『早慶卒、体育会系出身が「最強」という現実  小野 日本企業で求められるのは潜在力を担保する有名大学の合格歴になるわけです。余計な知的な能力は必要ない。ムラの中で必要な知識や掟は、ムラに入ってから叩き込んでやるというわけです(笑)。 だから今のムラから別のムラに移る転職も難しく、会社が傾くと総玉砕に向かってしまうのではないでしょうか。 冨山 そうですね。この話は結局、全部つながっていますよ。産業の構造が比較的固定的で、オペレーションの優劣で業績の優劣が決まる時はそれで良かった。極論を言えば、一つの工場の中で、ずっとその仕事のオペレーションを高度化して合理化していくことが企業全体の競争力に直結していたわけです。一本のネジの完成度を高め、作業工程を一つずつ見直して合理化することが大切だったのです。 ただ、いまは産業構造がガラガラ変わる、競争構造もガラガラ変わる。要するに産業や社会がダイナミックに変化するようになればなるほど、特定の業務の中で作られるノウハウはすぐ陳腐化するのです。 日本の歴史を振り返ると、様々な組織の中で似たようなことが起こりやすい。 たとえば軍です。日本の軍隊というのは非常にスペシャリスト化、専門家していますが、わりと初期の段階ではみなジェネラリストで、何でも屋さんだったんです。まだ明治維新の名残があった明治期は特にそうでした。それが、どんどん機能特化していき、機能特化で技能を磨いていく人たちがそのまま偉くなっちゃう。そういう仕組みを日本人は作りやすい。 大学ということでいえば、典型的に就職に強かったのは体育会でしょ。早稲田、慶応に入れるだけの能力がありました。その上、「ラグビー部です」「野球部です」と言えば、日本的経営の企業であればどこでも内定がもらえるわけです。要するに地頭いい、体力がある、これが要件。それに加えて、上下の秩序にちゃんと従って行動できる。最高じゃないですか。オペレーショナルな業務を磨く、ムラ社会の一員としては……ということになるわけです。 小野 有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列のムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけですね。 冨山 そういう人材の良さをすべて否定するわけではありませんが、そういう人材有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列のムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけですね。 冨山 そういう人材の良さをすべて否定するわけではありませんが、そういう人材だけで構成されている組織は極めて脆いですよ。ちょうど平成に入ったころに、ベルリンの壁が壊れ、完全なグローバルな世界に突入しました。インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなったのです』、「有名大学の体育会系の人材・・・そういう人材だけで構成されている組織は極めて脆いですよ」、「インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなった」、その通りだ。
・『国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち  冨山 有名企業の経営者など経済界の人たちが集まる宴会で、大学時代の話になると、みな不思議なくらい自分がいかに勉強をしなかったかという自慢話になるわけです(笑)。俺は大学に行かずに麻雀ばかりやっていかとか、運動しかしていなかったとか、みな滔々と語るわけです。それでいて「最近の若い連中は、勉強していない」とか上から目線で言うから意味不明です(笑)。 ただ、そういう人材育成モデルがある段階まで機能して、実際に有名企業の経営陣まで登れたので成功モデルになってしまったのでしょうね。 残念ながら、日本社会の構造がこうした変化に対応できない経営者を生み出したといえるでしょう。なので、日本の政治家も官僚も経済人も、国際的にみると驚くほど低学歴になったしまったわけです。 小野 学力のピークが有名大学に合格した18歳というような人たちが、日本の政治や経済をリードしているわけですね(笑)。 冨山 いろんな組み換えや変化が起きる時、大事なことはものごとの中で何が一般、普遍的原理原則を持つか、何が普遍性を持たないかを区別することなのです。これがちゃんと自分の頭の中で整理できないと、急激な変化に対応できません。 つまり、自分が積み上げてきた個別的な体験だけで経営のかじ取りをしようとすると失敗します。少なくとも自分の経験の中で、普遍的に通用するものと通用しないものぐらいは仕分けできないと経営者失格です。 飛行機の性能にたとえれば、早く飛びたいのか、それともクルクルと回るのがいいのか。それともパイロットの命を守ることが最優先なのか。それを判断できないといけません。つまり、物事を一般化、抽象化して普遍の原理原則から演繹する思考法が、訓練されてないと、変化に対応できません。だからこそ、高い学歴が価値を持つのです。18歳の時に答えを丸暗記して対応できる試験に合格した、そのアプローチだけでは通用しなくなっている。高校までは、それでいいんです。日本は、そこまではむしろ教育がうまく機能している。 問題は、大学からです。一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです』、「一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです」、同感である。
・『「徹夜で麻雀できる人」が出世する社会  小野 実際に某メガバンクで、土日に頑張って論文を書いて博士号を取得して、そのことを人事部に報告した直後から昇進が止まったという話を聞いたことがあります(笑)。 冨山 結局、自分の頭で考える人はめんどくさい、と思われているんですよ。部下として使いにくい、と。 変化の時代に対応するために思考力を評価して、エリートを選抜しようとすると、それに見合った学力を付けなければいけない。これが、年功序列の仕組みと矛盾するわけです。 これまでの日本型経営のモデルでは、みんな一緒に横一線で競争する建前になっています。少なくとも正社員は、組織内の階級的格差なしで競争して、ちょっとした差でだんだん選抜をしていくのが、基本です。これが、組織全体のモチベーション維持にもうまく作用していた。 こうした組織に、高学歴の人が活躍できる舞台をつくるのは難しい。だから、だいたいアメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです(笑)。(この後の、小野一起氏による『よこどり 小説メガバンク人事抗争』のPRは省略)』、「某メガバンクで、土日に頑張って論文を書いて博士号を取得して、そのことを人事部に報告した直後から昇進が止まったという話を聞いたことがあります」、大いにありそうな話だ。「アメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです」、なんとも無駄な出世競争を繰り広げさせられたものだ。

第二に、7月22日付けNewsweek日本版が掲載した経済評論家の加谷珪一氏による「コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2020/07/post-94021_1.php
・『<日本企業が何年も放置してきた課題がコロナ禍で顕在化──今こそ生産性向上と復活を果たすべきときだ。本誌「コロナで変わる 日本的経営」特集より> ※日本的経営の7つの課題を指摘する加谷珪一氏によるコラムを2回に分けて掲載します。 新型コロナウイルス危機は、いわゆる日本的経営が抱える問題点を浮き彫りにした。バブル崩壊以降、30年にわたって世界で日本だけが成長から取り残されてしまったが、最大の理由は、安価な工業製品を大量生産する昭和型モデルから脱却できず、ビジネスのIT化やオープン化といったパラダイムシフトに対応できなかったことにある。 ペストやスペイン風邪の歴史からも分かるように、感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘されている。このタイミングで日本が変われなければ、諸外国との格差は致命的なものとなるだろう。 日本の労働生産性は先進諸外国の中では常に最下位だったが、特にその差が顕著になったのは90年代以降のことである。この時代は全世界的に産業のIT化が本格化するとともに、中国をはじめとする新興国への製造業シフトが一気に進んだ。ところが日本は一連の変化にうまく対応できず、諸外国との格差を広げてしまった。 コロナ危機をきっかけに、日本の企業社会には変化が求められているが、一斉出社や長時間残業、ハンコに代表されるIT化の遅れ、過当競争など、議論されているテーマのほとんどは、変化の必要性が叫ばれていたものばかりである。以下では日本企業が乗り越えるべき課題について主に7つの観点から議論していく』、「感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘」、興味深そうだ。
・『1. 需要変化への対応  新型コロナウイルスをきっかけとした「新しい生活」によって消費者の行動変化が予想されており、多くの業界においてビジネスモデルの転換が必須となっている。外食産業では店内のレイアウトを変更したり、店舗網を縮小するといった動きが活発になっているが、一連の変化は基本的に売上高の減少を伴う。最終的に高付加価値モデルにシフトできなければ、新しい時代を生き抜くことはできないだろう。 日本の外食産業は市場規模に対して店舗が過剰となっており、過当競争に陥っていると指摘されてきた。日本人の実質賃金が下がっていることから、値下げ競争が常態化しており、これが企業の低収益と従業員の過重労働の原因となっている。外食産業に限らず、過当競争からの脱却は時代の必然であり、コロナはきっかけにすぎないと解釈すべきだ』、「外食産業に限らず、過当競争からの脱却は時代の必然であり、コロナはきっかけにすぎないと解釈すべきだ」、そうなればいいが、筆者の願望に過ぎない可能性もある。
・『2. デジタルシフト  需要変化の多くはデジタルシフトを伴う。外食産業は店舗網の縮小と同時にデリバリーシフトが進んでいるが、この動きはコロナ前から顕著であった。アメリカでは数年前から外食のデリバリー化が進み、レストランの廃業が相次いだが、背景となっているのは業務のIT化である。 スマートフォンが普及したことで業務のIT化とパーソナル化が加速。皆で連れ立ってランチやディナーに行く回数が減ったことがデリバリーの利用を後押しした。つまり、デリバリーシフトは構造的なものであり、コロナ危機が終息すれば元に戻るという話ではないのだ。 日本企業におけるハンコ文化が無意味であることは、以前から指摘されてきたが、テレワークの拡大によってようやくその弊害の大きさが認知されるようになった。先進諸外国と比較して日本企業のIT化が遅れているのは事実であり、コロナはこれを変えるきっかけとなるだろう』、「デリバリーシフトは構造的なもの」は確かだろう。「ハンコ文化・・・テレワークの拡大によってようやくその弊害の大きさが認知されるようになった」、「ハンコ文化」がこれを機に変われば望ましいことだ。
・『3. ムラ社会的組織の終焉  IT化が進んだ企業の業務プロセスと、ムラ社会的な組織運営は相性が悪い。日本企業はチーム全員が一斉に出社し、お互いの様子を見ながら「あうん」の呼吸で業務を進めるという組織文化だった。責任の所在を事前に明確化する必要がなく、突発的な事態にも対応できるというメリットがあるが、こうした曖昧な業務プロセスはITシステムに移管しにくい。日本企業がIT化を進められないことには、こうした組織文化が深く関係している。 ムラ社会的な組織を維持するためには同質性が強く求められるので、メンバーも画一化する必要がある。新卒一括採用や年功序列といった日本型雇用はその結果として生まれたものと見なせるし、逆に日本型雇用が一連の硬直化した組織の原因と考えることも可能だ。 日本企業は1970年代以降、ひたすら管理職比率を増大させてきたが、管理職が肥大化した組織がうまく機能しないのは自明の理である。日本の企業社会には、会社に勤務していながら実質的に仕事がないという、いわゆる社内失業者が400万人も存在しているが、コロナによるテレワークへのシフトは、実質的に仕事をしていない社員をあぶり出す結果となってしまった』、「IT化が進んだ企業の業務プロセスと、ムラ社会的な組織運営は相性が悪い」、「コロナによるテレワークへのシフトは、実質的に仕事をしていない社員をあぶり出す結果となってしまった」、その通りなのかも知れない。
・『4. 下請けと中抜き  企業の組織形態と産業構造には密接な関係があり、ムラ社会的な組織運営を行う企業が多いと、産業全体の合理化も進まない。統計の取り方にもよるが、日本における人口当たりの企業数はアメリカよりも多く、全体的に経営規模が小さいという特徴が見られる。中小企業が多いのはドイツも同じだが、問題なのは日本の中小企業の収益性が著しく低いことである。 重層的な下請け構造や薄利多売のビジネスモデル、IT化の遅れなど複数の要因が考えられるが、最も影響が大きいのは下請け構造による中抜きだろう。 各種給付金などコロナ対策の政府事業を受託した組織が、外部企業に業務を丸投げするという「再委託」が問題となっているが、政府案件に限らず、日本の産業界にはこうした丸投げと中抜きという商習慣が蔓延している。中抜きされる企業が生み出す付加価値は低く、当然、そこで働く従業員の賃金は安くならざるを得ない。本来であれば、その労働力は別の生産に投入されるべきものであり、日本全体のGDPにもマイナスの影響を与えている』、ただ、「下請けと中抜き」がこれまで存続したのには、相応の理由があった筈で、それがどう変わるかを見る必要がありそうだ。

第三に、この続きを、7月23日付けNewsweek日本版「日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば、経済復活への道が開ける」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2020/07/post-94026_1.php
・『<日本企業が克服すべき課題、そしてその先にある日本経済の復活への道筋とは。本誌「コロナで変わる 日本的経営」特集より> 
・『5. 不十分な設備投資  一連の非効率な産業構造は生産性を引き下げ、最終的にはマクロ経済の成長鈍化という形で顕在化してくる。過去20年で日本の名目GDPは約6%しか増えていないが、GDPの2割を占める政府支出は約30%も増加するなど税金からの支出に依存する状況が続く。本来は企業の設備投資が経済を牽引し、消費を伸ばしていく必要があるが、企業の設備投資が成長に結び付いていない。 日本の輸出がGDPに占める割合はドイツと比べると圧倒的に低く、日本はもはや輸出立国ではない。だが産業構造は輸出主導型のままであり、国内需要を拡大させるための設備投資が十分に行われているとは言い難い。 国内向けの設備投資が不十分というのは企業の側にも自覚があるようで、あえて投資を絞っていると考えられる。その証拠に、実質金利の低下を通じて設備投資を増やす政策だった量的緩和策に対して企業は全く無反応であった。設備投資を有効活用するためには、産業構造の転換が不可欠であり、企業自身の体質転換が進まなければ、投資を増やすことはできない』、安部政権は企業減税をしたが、それは「設備投資」増加につながらず、内部留保の増加だけに終わったようだ。
・『6. サプライチェーンの縮小  産業の合理化が進み、企業の生産性が高まると、同じ付加価値を得るために必要な労働者数が減少する。余剰となった労働力を新しい製品やサービスの生産に振り向ければGDPの絶対値を増やすことができる。 今回のコロナ危機では、各企業のサプライチェーンが寸断され、一部では物資の調達が滞るという事態が発生した。企業は拡大したサプライチェーンの縮小を検討しており、一部製品の製造を国内に回帰させる可能性がある。国内で生産するには追加の労働力が必要となり、高いコストを負担するためには消費者の購買力を増やさなければならない(つまり賃金上昇)。産業合理化による労働力の捻出と賃金上昇を実現できなければ、国内回帰は机上の空論となってしまうだろう』、「サプライチェーン」の再編は、かなり時間をかけて行われる可能性がある。
・『7. 「異常な」住宅政策  コロナ後の社会はサプライチェーンが縮小し、全世界的に地産地消化が進むと考えられる。こうした時代において持続的な成長を実現するには、日本国内で製品やサービスを開発し、日本人自身の需要でこれらを消費するという内需型経済への転換が必須となる。 内需経済のカギを握るのは住宅の整備であり、内需経済が活発な国はほぼ例外なく住宅政策が充実している。日本はこれまで建設業界などからの強い要望もあり、新築物件の建設を最優先する政策を続けてきた。このため安価で粗悪な新築物件が大量供給され、造っては壊すという資源の浪費を繰り返す結果となった。日本は本格的な人口減少が始まっているにもかかわらず、流通する住宅の8割以上が新築物件という異常な市場環境である。 在宅勤務するビジネスパーソンが増えたことから、住環境の問題が改めて認識されているが、家の環境というのは政策でいくらでも変えることができる。内需で経済を回すためには、良質な中古住宅の流通を増やすと同時に、一生涯賃貸でも問題のないよう、都市部を中心に優良賃貸物件の整備を積極的に進める必要があるだろう』、「日本はこれまで建設業界などからの強い要望もあり、新築物件の建設を最優先する政策を続けてきた。このため安価で粗悪な新築物件が大量供給され、造っては壊すという資源の浪費を繰り返す結果となった」、「新築物件の建設を最優先」は必ずしも「建設業界などからの強い要望」に基づいたものではなく、「建設業界」にとっても儲かる筈だったからだ。「良質な中古住宅の流通を増やす」、「優良賃貸物件の整備を積極的に進める」、などは放っておいても、業界自らが取り組むだろう。
・『一連の課題が解決されれば、日本経済はどのような姿になるのか。組織の合理化やIT化が進めば、企業の生産性が向上するので、より少ない社員数で同じ付加価値を得られる。人員の再配置は必要だろうが、余剰となった社員が新しい製品やサービスの生産に従事することで付加価値の絶対額が増え、最終的には賃金の上昇につながる。これは実質GDPの増大を伴う賃金上昇なので、労働者の購買力を拡大させる結果となるだろう(つまり生活が豊かになる)。 企業における社員の評価も労働時間ではなく成果が基準となるので、社員が提供した職務に対して対価を支払うという、いわゆるジョブ型の組織形態へシフトする。採用された時期や採用形態によって、同じ職務でも賃金が異なるというアンフェアな状況は改善される可能性が高い。組織に忠誠を示す必要がなくなるので、強制転勤や単身赴任といった慣習も消滅するだろう。 生活にゆとりが生じ、家にいる時間も相対的に長くなるため、自分と向き合う時間や家族との時間が増える。結果として住設機器や家具、家庭用品、趣味、デジタルコンテンツといった消費が拡大し、これが新しい時代における成長の原動力となる。 もっともジョブ型の組織形態は、終身雇用、年功序列、新卒一括採用に代表される、いわゆる日本型雇用制度とは相いれない。ジョブ型の組織形態に移行するということは、日本型雇用との決別を意味していると考えるべきだろう。 一部の人は不安に思うかもしれないが、従来は一つの会社にしがみつくしか人生の選択肢がなく、こうした硬直的な制度の存在がプライベートな生活を犠牲にし、豊かな消費社会の形成を阻害してきた。一定のスキルさえ身に付ければ、自身のライフスタイルに合わせていくらでも勤務先を変えられるほうが、総合的な満足度は高いのではないだろうか。 今、日本が向かおうとしている新しい社会は、いわゆるグローバルスタンダードそのものである。日本では英語を話したり、外国で活躍することをグローバルスタンダードと見なす雰囲気があるが、それはグローバル社会のごく一面を切り取ったものにすぎない。長時間労働しなくても一定の賃金を稼ぐことができ、相応の豊かな生活を送れることこそが、本当の意味でのグローバルスタンダードであり、これは決して特別なことではないのだ』、「ジョブ型の組織形態に移行」、は時代の流れなのだろうが、日本の労働組合が弱すぎ、チェック役を果たせるのか、いささか心もとないのが心配だ。
タグ:対談 現代ビジネス 冨山 和彦 Newsweek日本版 加谷珪一 日本型経営・組織の問題点 (その10)(日本企業で出世する人たち じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!、コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは、日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば 経済復活への道が開ける) 小野 一起 「日本企業で出世する人たち、じつは「超低学歴」ばかりになっていた…!」 日本企業に蔓延する「偉い人たちのおかしさ」 「時代劇化」した日本企業 社長が「次の社長」を決めるというムラ社 社長が次の社長を決めるというムラ社会の掟の心臓部を変える改革です。ただ、こうした制度を入れている大企業は、まだ少数ですね 日本のリーダーが「おかしな」理由 「現場迎合主義」に陥ってしまう 「一億総玉砕」しないために 日本企業はそんな一億億総玉砕を何度も繰り返しているんです。「半導体玉砕」、「液晶玉砕」、「テレビ玉砕」 「現場主義」と「現場迎合主義」を混同している経営者が日本的大企業には、やたらと多い 心を鬼にして、むしろ早すぎるくらいのタイミングで転換を図れるようなリーダーじゃないと、結果的により多くの人を失業に追い込んでしまう。最後は絶対に一億総玉砕になりますから 「本当の学力」が評価されないニッポン 日本的経営は「学歴抑制効果」が働いている 早慶卒、体育会系出身が「最強」という現実 インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなった 国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち 一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。そういう思考訓練をきちんとできないといけない。いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです 「徹夜で麻雀できる人」が出世する社会 アメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、経営陣から言われるわけです。それで徹夜で麻雀に付き合えと。そうしないと本当に出世できなかったわけです 「コロナ危機を乗り切れる? 日本企業の成長を妨げる「7大問題」とは」 感染症の流行は変化のスピードを加速させる作用を持っており、コロナ危機によって、10年かかると思われていた変化が3~4年で実現する可能性も指摘 1. 需要変化への対応 2. デジタルシフト 3. ムラ社会的組織の終焉 4. 下請けと中抜き 「日本的経営の「永遠の課題」を克服すれば、経済復活への道が開ける」 5. 不十分な設備投資 6. サプライチェーンの縮小 7. 「異常な」住宅政策 ジョブ型の組織形態に移行 日本の労働組合が弱すぎ、チェック役を果たせるのか、いささか心もとないのが心配だ
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日本の構造問題(その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか) [経済政治動向]

日本の構造問題については、3月20日に取上げた。今日は、(その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか)である。

先ずは、3月29日付け東洋経済オンラインが掲載した思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授 の内田 樹氏による「「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337483
・『日本社会が“サル化”している――。新著『サル化する世界』でそう鋭く指摘するのは思想家の内田樹氏だ。内田氏が言う「サル化」とは何か。コロナ危機に際して考えるべきこととは。編集部からの質問に回答してもらった。(Qは聞き手の質問、Aは内田氏の回答) Q:「サル化する世界」という挑発的なタイトル:に込めた思いを教えてください。 A:「サル」というのは「朝三暮四」(注)のサルのことです。サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないからです。 過去・現在・未来にわたる広々とした時間流の中に自分を位置づけることができない人間には確率、蓋然性、矛盾律、因果といった概念がありません』、「日本社会が“サル化”している」とはショッキングな小見出しだが、大いに興味をそそられた。「サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないから」、なるほど、ダイエットやウォーキングなどをするヒトはやはり高度な存在のようだ。
(注)朝三暮四:「列士」に収録。「目先の利益に目がいってしまい、結果的には利益が同じであることに気づかない」、または「言葉の上でうまく人をだますこと」などを意味(manapedia)
・『「文明史的危機」に際会している  「矛盾」も「守株待兎」も「刻舟求剣」も「鼓腹撃壌」も、いずれも時間意識が痩せ細った愚者についての物語ですが、おそらく、春秋戦国時代には「そういう人」が身の回りに実際にいたのでしょう。だから、荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件として人々に教えようとした。 それから2000年ほど経って、気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた。この「文明史的危機」に際会して、警鐘を乱打しようと思って、このような挑発的なタイトルを選びました。 Q:過去と未来をふくんだ視点で「今」を考察する力は、なぜ急激に失われてしまったのでしょうか。 A:最大の原因は基幹産業が農業から製造業、さらにはより高次の産業に遷移したことだと思います。農業の場合でしたら、人間は植物的な時間に準拠して暮らしていました。農夫は種子をまいている自分と、風水害や病虫害を防いで働いている自分と、収穫している自分が同一の自己であるという確信がないと日々の苦役には耐えられません。 でも、いま、最下層の賃労働者は今月の給与をもらっている自分より先の自分には、同一性を持つことができません。だって、1カ月後に自分がどうなっているかさえ予測がつかないから。 それは富裕層も同じです。株の取引はマイクロセコンド単位で行われている。それ以上タイムスパンを広げても意味がない。企業だってそうです。今から10年前にGoogleやAmazonが「こんなふう」になると予測した人はほとんどいなかった。10年後にどうなるかもわからない。長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい。 Q:近年、日本社会のどんな面に特にサル化の兆候は表れていると思いますか。 A:一番わかりやすいのは「うそをつくことについて罪の意識がなくなった」ということです。「Honesty pays in the long run」ということわざがありますけれど、「正直は長い目で見れば引き合う」というのは、「うそをつく方が短期的には引き合う」ということです。短期的な損得だけを考えれば、多くの場合、うそをつくほうが利益が大きい』、「荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件とし」た。「それから2000年ほど経って、気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた。この「文明史的危機」に際会して、警鐘を乱打しようと思って、このような挑発的なタイトルを選びました」、なるほど。「長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい」、その通りなのだろう。「うそをつくことについて罪の意識がなくなった」、首相が自らその先頭にいるようだ。
・『その場その場の自己利益を優先  政治家や官僚たちがすぐばれるうそをつき、前後矛盾することを平気で言い、その矛盾を指摘されても別に困惑する様子もないのは、彼らが「矛盾」の武器商人と同じレベルにまで退化しているからです。 その場その場において自己利益が最大化することを優先させて、おのれの言明をできるだけ長く維持することには特段の意味を感じない。「約束を守る、一言を重んじる」を英語では「keep one’s word」といいますが、keepする時間の幅がこれほど短縮されるとは、このことわざを考えた人も想像していなかったことでしょう。 Q:いま一連のコロナ騒動を見ていると、後手後手に場当たり的な対応をする政府から、不足物資を買い占めに走る人々の狂騒まで、まさに“サル化”する日本です。そこにはなにか日本特有の構造的要因もあるのでしょうか。 A:日本固有の現象ではないと思います。無能な政府であれば、どこでも対策は後手に回るでしょうし、トイレットペーパーの買い占めも世界のどこでも起きていますから。サル化しているのは日本人だけではないよと言われて安心されても困りますが。 Q:危機管理に真に必要な知性とは何でしょうか。 A:長いタイムスパンの中で、ものごとの理非や適否を判断する習慣のことだと思います。歴史的にものを見る習慣があれば、「危機だ」と騒がれる出来事の多くが「過去に何度も繰り返されていることの新版」であることがわかるはずです。それなら浮足立つ必要はない。どういう文脈で起きて、どう展開するか、だいたいわかるから。 そうやって「よくある危機」をスクリーニングしておかないと、本当の前代未聞の危機に遭遇したときに、適切に驚くことができません。 Q:失われた20年のあと、アベノミクスで株価こそ浮上したもの、一向に景況はよくなりません。日本人の労働生産性は、「1人当たり」「時間当たり」ともに先進7カ国中の最下位という状態が続いていますが、日本の組織を活性化するには何が必要だと思われますか。 A:管理部門に過大な資源を配分しないことです。今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています。労働者よりも監督のほうが多い現場とか、兵士よりも督戦隊(前線から逃げて来た兵士を射殺する後方部隊)が多い戦場のようなものです。それでは生産性が上がるはずがない。 「管理を最低限にする」「現場に自己裁量権を与える」「成果の短期的な査定をやめる」くらいで日本の組織は一気に活性化します。でも、管理部門の人たちはそう言われても「管理部門の肥大化を適正規模に抑制するための管理部門の増設」くらいしか思いつかないでしょうけど。 Q:”サル化した人間”にとって代わってAIが社会の中枢を担う日はくると思いますか?AI時代に人が学ぶ意味とは何でしょうか。 A:AI時代は「前代未聞」の事態ですから、「こうすれば何とかなる」という正解を知っている人はいません。「こうすれば救われる」と言い立てる人がいても、あまり信用しないほうがいいです。生き延び方は、各自で考えてください』、「今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています・・・それでは生産性が上がるはずがない」、面白い比喩だが、よくよく考えると、産業の高度化に伴い不可避的に「監視するセクター」が大きくなったと考えるべきではなかろうか。
・『イエスマンだけで固められた組織  Q:消費増税の影響もあり、新年度の「国民負担率」は44.6%と過去最高になる見通しです。国民は高い税負担を強いられながらも、人口減少、貧困問題をはじめ、医療・介護・年金といった分野が危機的状況にあるのはなぜだと思われますか。 A:平たく言えば、政策を起案し、実施する人たちが「あまり頭がよくない」からです。 この四半世紀ほど、日本のキャリアパスは「上位者に対する忠誠心」を「業務能力」よりも高く評価することで、円滑な組織マネジメントを実現してきました。お金が潤沢にあるときは、それでよかったのです。組織が「円滑に回る」ことをイノベーションやブレークスルーよりも優先させても、何とかなった。 でも、こういうイエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう。 医療、介護、年金さまざまな制度については「頭のいい人」が画期的な制度改革の提言をこれまでも繰り返ししてきていますけれど、日本の役所はまったく相手にしませんでした。上位者におもねらない人の意見は日本では採用されないんです。 Q:人口減少社会において、国民的資源を守り、日本人が共同体として生き残るためには何が必要でしょうか。 A:とにかく大人の頭数を増やすことですね。最低でも国民の15人に1人くらいが「他の人はどれほど利己的でも、自分1人くらいは公共に配慮しないと……」と思って暮らせば、ずいぶん世の中住みやすくなります。とりあえず道ばたに落ちてる空き缶を拾うとか、妊婦に席を譲ってあげるとかから始めたらいかがでしょうか』、「イエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう」、その通りだろう。 「画期的な制度改革の提言」を「日本の役所」が聞くようにするには、メディアにももっと頑張ってもらう必要がある。

次に、4月16日付け東洋経済オンラインが掲載した元外資系アナリストで 小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏による「コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/344358
・『オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。 退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、このままでは「①人口減少によって年金と医療は崩壊する」「②100万社単位の中小企業が破綻する」という危機意識から、新刊『日本企業の勝算』で、日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析している。 日本企業の「生産性が低い」問題の根源は「規模が小さい企業が多すぎる」産業構造にあることを明らかにしてきたこれまでの連載に続き、今回はコロナ問題で露呈した日本の産業構造の脆弱性を解説してもらった』、「アトキンソン氏」は忖度することなく、辛口の主張をするだけに、私も注目している。
・『小さい企業ほど「テレワーク導入」ができない  コロナウイルスの蔓延により、多くの日本企業が窮地に陥っています。特に中小企業の経営は厳しく、今後多くの中小企業が経営破綻することが危惧されています。 当然ですが、このような危機への対応力は一般に企業規模が大きいほど強く、小さいほど弱くなります。国全体で見ても同様に、企業の平均規模が大きいほど危機に強く、小さいほど危機に弱くなります。 また、このような有事の際には、「企業さえ潰れなければいい」というわけではありません。そこで働く従業員の命や健康を守ることも大切です。実はこの面で見ても、規模が小さい企業ほど従業員を危険に晒しやすい可能性があります。 東京商工会議所が2020年3月に実施した調査によると、テレワーク導入率は従業員数300人以上の企業が57.1%だったのに対して、50人以上300人未満の企業では28.2%、50人未満の企業では14.4%にとどまっていました。 50人未満の企業の経営者も、悪意をもって導入を先送りしているわけではないでしょう。規模が小さすぎて、時間的にも金銭的にも人員的にも余裕がなく、導入できないのだと推察できます。こういった企業が多い国ほど、当然、テレワークの導入率は構造的に低下しますので、「Stay at home」に悪影響を及ぼします。 さらに、小規模事業者が増えれば増えるほど、その国の生産性が低くなるので、財政が圧迫されます。すると、小規模事業者が多い分だけダメージが大きいのに、それに対応するための予算が限られてしまうのです。 このように見ていくと、「中小企業は国の宝だ」という日本の「常識」が本当に正しいのか、疑問に思えてきます。私は、今回のコロナ危機で日本の産業構造の弱さが露呈したと考えており、その原因は中小企業にあると見ています。 今回は、かつて「日本の宝」だった中小企業が、なぜ産業構造の弱さの原因といえるのかを解説していきます』、「中小企業は国の宝だ」というのは、政治家の単なるリップサービスだが、「産業構造の弱さの原因」とはどういうことだろう。
・『中小企業の価値は「人をムダに使う」ことにある  日本では、中小企業がやたらと大事にされています。「中小企業は国の宝だ」「日本の技術を守っているのは中小企業だ」という声を聞くことも少なくありません。 確かに、そういう一面もないことはないでしょう。一般的に、中小企業は大企業より顧客との距離感が近く、また、意思決定が早く、身動きがとりやすいのは確かです。 一方、中小企業は規模が小さくなるほど、人力に頼る傾向が強くなります。従業員が少なく、分業ができないので、専門性が高まらず、機械化もなかなか進みません。その結果、効率化が進まないので、その分、余計に労働力が必要になるのです。だからこそ、生産性が低いのです。 人口が増加し、労働力があふれている時代には、中小企業の存在は貴重です。なぜならば、中小企業は人間により多く依存する「労働集約型」で、ある意味、人をムダにたくさん使ってくれるからです。 中小企業自体の労働生産性が低くても、これらの企業が雇用を増やし、就業率が高まれば、国の全体の生産性も高まります。その意味では、中小企業の存在も生産性の向上に貢献していたと言えるのです。 生産性とは、GDPを総人口で割ったものです(生産性=GDP/総人口)。また、労働生産性とはGDPを就労人数で割ったものです(労働生産性=GDP/就労人数)。ここから、生産性は労働生産性に労働参加率をかけた値であることがわかります。 生産性=GDP/総人口=(GDP/就労人数)×(就労人数/総人口)​=労働生産性×労働参加率  この式からは、生産性を高めるためには「労働生産性」を高めるか、「労働参加率」を高めればいいことがわかります。 例えばある国の労働生産性が1000万円で、労働参加率が50%であれば、国全体の生産性は500万円です。この国で中小企業がたくさん生まれ、それらの企業が雇用を増やした結果、労働参加率が60%まで高まったとしましょう。すると、労働生産性がまったく伸びなかったとしても、生産性は500万円から600万円に上がるのです。) 人口が増加していた時代においては、中小企業は「労働参加率」を高める役割を果たしていました。その意味で、「国の宝」と言えないこともありませんでした。 しかし、日本はすでに人口減少の時代に突入し、この傾向は今後数十年にわたって続きます。人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります。 なぜならば、企。業というものは規模が小さければ小さいほど、労働生産性が低いからです。日本企業の99.7%は中小企業ですから、日本の生産性が低いという事実は、日本の中小企業の労働生産性が低いことをそのまま反映しているのです』、「日本はすでに人口減少の時代に突入・・・人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります」、その通りだ。
・『日本の中小企業の真の姿  中小企業庁によると、2016年時点で日本には357万社の中小企業があります。さきほども述べたとおり、全企業の99.7%を中小企業が占めています。 このように数多ある中小企業を一括りにして「中小企業は日本の宝だ」と考えるのは、そもそも乱暴すぎます。 もちろん357万社もあれば、玉石混淆なのは当たり前です。中には「玉=宝」もあるでしょうが、そうではない「石」もたくさん混じっているはずです。 確かに、日本の中小企業の中にも、宝といっていい企業も含まれているかもしれません。しかし、平均値で見ると日本の中小企業はあまりにも生産性が低く、払っている給料も極端に低いのです。仮に宝が含まれているとしても、全体としては、中小企業はとても宝だと評価するには当たらないのです。 「いやいや、私の知っている町工場は凄い技術を持っているんだよ。まさに宝だよ」 こういう、自分の知っている特殊事例を取り上げ、一般化して、それがあたかも日本の中小企業全体に当てはまるような物言いをする声も耳にしますが、まずは日本の中小企業全体の実態、エビデンスを直視すべきです。 先ほども紹介したように、日本には357万社の中小企業があります。 日本の中小企業のうち、中堅企業は53万社で、小規模事業者は305万社でした。平均従業員数は中堅企業が41.1人だったのに対し、小規模事業者はたったの3.4人です。驚くべきことに、1000万人もの労働者がこの豆粒のような小規模事業者で働いているのです。 実は、50%強の日本企業の売上は、1億円にも達していません。こういった企業は当然、経営に余裕がありませんから、有事のときにはすぐ経営が困難になります。 中小企業を「日本の宝」と言う人が想像しているのは、今紹介したような企業群とは異なる会社ではないかと推察します。おそらくは中堅企業を想定しているのではないでしょうか』、「小規模事業者はたったの3.4人・・・1000万人もの労働者が・・・働いている」、「3.4人」には経営者も含むが、このクラスでは労働者でもある。
・『小さい企業が多いとさまざまな弊害が起こる  従業員が3.4人しかいない小規模事業者では、到底輸出などできません。ドイツの学者の調査によると、継続的に海外に輸出をするには、従業員数158人の規模が必要であるとされています。 従業員数が3.4人の会社には、最先端技術も、キャッシュレス化も、ビッグデータも、イノベーションも、ほとんど無縁です。小さい企業ほど緊急時のテレワーク導入率が低いのは、この記事の冒頭で見たとおりです。日本だけではなく、世界的に見ても、企業の規模が小さくなるほど、最先端技術の普及率が低下することが報告されています。 また、企業の平均従業員数が少なくなるほど、有給休暇取得率が低下します。企業の規模が小さいほど、1人ひとりの社員にかかる負荷が重く、休みを取る余裕がなくなるからです。 同じ理由で、中小企業の占める割合が大きく、企業の平均規模が小さい国ほど、女性の活躍も進んでいません。これは世界中で確認できる傾向です。 人口減少と高齢化によって増加する現役世代の負担を緩和するためには、女性活躍の推進が極めて大切です。しかし、日本では女性活躍を進めたくても、小さい企業ばかりの産業構造になってしまっているため、なかなか進めることができないのです。 企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下します。企業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下します。結果として、支払える給料も減ってしまうのです。 小規模事業者が多い国ほど財政が悪化して、少子化が進んでしまうこともわかっています(この点については、この連載のなかで改めてご説明します)。 このように、「中小企業は国の宝」というには、中小企業が多いことの弊害が多すぎます。失業者が増えないように統合・合併を促進し、企業規模を拡大させる政策に舵を切ることが求められます』、「企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下します」、「企業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下します」、その通りだ。現在は、後継者難で事業承継のM&Aも増えているようだが、こうした形で「企業規模を拡大」が進んで欲しいものだ。

第三に、4月22日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したエッセンシャル・マネジメント・スクール代表の西條剛央氏による「コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理、旧日本軍の失敗を繰り返すか」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/235369
・『コロナ危機で見えた「プラン」変更の課題  危機に際しては、機能しない方法に固執することは即致命傷になり得ます。 感染防止対策の専門家である岩田健太郎氏は、4月初旬の段階で、感染経路がわからない人がこれだけ増えて市中感染が増えていると考えられる状況を踏まえれば、クラスター対策では追いつかず、検査数を増やして、優先順位をつけながらも疑いのある人は検査できるようにしたほうが良いと述べています(ただし、これは誰でも彼でも不安のある人をすべて検査すべきということではありません)。 その後、少しずつ検査数は増えているようですが、いまだに検査体制は整わず十分な検査は行われていません。岩田氏が指摘するように、日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手であり、次の戦略的フェーズへの移行は進んでいないのです。 これは組織行動の観点で見ると、日本の組織が「前例踏襲主義」に陥りがちなこととも関係していると考えられます。 もともと、真面目な国民性ゆえに方法が自己目的化(その方法を実行すること自体が目的にすり替わってしまうこと)しやすいこと、各省庁や暗黙裏に無謬主義(間違いをなかったことにするマネジメント)に立脚していること、そして責任回避バイアスが強いことなどがその傾向を強めていると思われます』、「日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手」、その背景に「前例踏襲主義」や「無謬主義」、「責任回避バイアスが強いこと」、などがあるとの指摘は、一考に値しよう。
・『埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍  方針変更ができない今の日本は、かつての日本軍が陥った“失敗の本質”そのものであり、第二次世界大戦末期の戦局の悪化に伴って戦略プランを変更できずに、被害を拡大させた姿とも重なっています。 たとえば、日本軍は水際で敵を撃滅する「水際作戦」を採用していました。もちろん上陸させないに越したことはありませんし、また戦力的に勝っているならば可能でした。 しかし、太平洋戦争では、圧倒的な戦力を擁するアメリカ軍と戦うなかで、水際に配置した兵力は圧倒的な火力による爆撃、艦砲射撃によって作戦初期段階で失われていきました。しかし、大本営は「断固として上陸を阻止せよ」と水際作戦を継続させ、さらに被害を拡大させ、貴重な兵力をいたずらに損耗させていきました。 なぜそうした不条理が起きたのでしょうか。埋没コスト(プランの変更、中止をしたときに取り返せないとされる費用)の観点からいえば、ここで方針を切り替えたら、今までの戦略が間違っていたと非を認めることになり、その作戦により死んでいった兵を無駄死にさせたことになってしまう、つまり埋没コストにしてしまうと考えたためと、考えられます。そのための責任を取ることは避けたいという、という「責任回避バイアス」も働いていた可能性があります。 それに対して異論を持つ人もいましたが、上司を説得するための「取引コスト」は膨大になり、しかも聞き入れてもらえる可能性はほぼゼロです。相手の機嫌を損ねればこれまで軍で積み上げてきた信頼も実績も失われる(埋没コスト化する)状況で、進言できる人はほとんどいませんでした。まれにいたとしても、そうした人は部下ごと激戦の最前線に送られることで、まっとうに進言できる人から組織にいなくなるという“逆淘汰”が起こり、膨大な数の命が無駄に失われていくという不条理が継続されてしまったのです。 しかし、例外もあります。太平洋戦争の戦況が悪化するばかりの1944年、本土防衛の最後ともいうべき硫黄島の戦いが始まります。小笠原方面最高指揮官、栗林忠道陸軍中将は、大本営の指令に従わず、水際作戦を内地持久戦による徹底抗戦に変更し、アメリカ軍を迎え撃つべくトンネルを掘り巡らせ、ゲリラ戦を展開しました。これによって絶望的な兵力差から5日間で終わるとみられていた硫黄島の戦いは、圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげたのです。 この連載の第2回で紹介した「方法の原理」――方法の有効性は目的と状況によって変わる――に沿っていえば、栗林中将は、圧倒的な戦力差があるという「状況」を踏まえたときに、本土防衛という「目的」を達成するために、前例や大本営の指令に従うのではなく、状況と目的にかなった新たな方法を考案、実施したのです』、「埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍」、例外的な「栗林忠道陸軍中将」が「硫黄島の戦いは、圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげた」、確かに「埋没コスト」に着目した筆者の見方は面白い。
・『「前例主義」が84人死亡の惨事につながった  9年前の東日本大震災でも、前例主義によりもたらされた悲劇は各所でみられました。 児童や教員の計84人が津波で亡くなった宮城県石巻市立大川小学校では、3月11日、校長が不在のなか、教頭が意思決定をする立場にありました。 震災の2日前、宮城県では震度5弱の地震があり、津波注意報が出ました。そのときには、校庭への一時避難はしたものの高台への二次避難はしませんでした(生存児童へのインタビューでは、そのまま「休み時間」のようになったと表現していました)。 つまり、津波注意報が出たときの校長の判断は校庭待機だったのです。そして、これが津波警報発令時の「前例」となりました。 さらに大川小には、津波警報が発令されたときにどうするか指針となるマニュアルも存在していませんでした。あったのは通常の地震のマニュアルをコピペしたもので、津波のときの二次避難先は「近所の空き地や公園」となっており、高台に避難するという方針は共有されていなかったのです。 教頭のほか、教務主任、安全担任といったトップ3の先生は「山に逃げたほうが良いのでは」と言っていたという証言があり、山はダメだといった教員は1人だけでした。スクールバスの運転手は、バスで逃げたほうが良いと主張していました。児童も保護者も山に逃げようと訴えていました。 しかし、2日前の校長が示した前例は校庭待機でした。また、避難方針はありませんでした。そうしたなかでさまざまな主張の板挟みとなり、1分で逃げられる裏山を目の前にしながら校庭待機を続け、50分の時間があったにもかかわらず、津波が目前に迫るまで動き出すことができず、結果84人が亡くなる惨事となってしまったのです。 前例に沿っていれば失敗しても「前例に沿っただけです」といえますが、前例にないことをやるときや、プラン(方針)変更をする際には責任が生じます。教頭にとってみれば、校長不在のなか、校庭待機の前例を覆し、裏山へ登らせて誰かが転んでけがをしたら自分の責任になってしまう。そういった「責任回避バイアス」が意思決定の停滞を招いた1つの要因にあったと考えられています。 即座の決断が求められる危機のマネジメントにおいては、前例に囚われることで、文字通り致命的な結果を招くことにもなるのです』、「2日前の校長が示した前例は校庭待機」に囚われたとは、「教頭」らの致命的な判断ミスは本来、刑事事件化して責任を問うべきだった。
・『新型コロナウイルスに日本の「前例主義」は通用しない  新型コロナウイルスの感染防止対策は、清潔好きで衛生環境が良く、高い協調性を備えた日本人には有利と考えられています。実際、法的な強制力がないにもかかわらず、ここまでなんとか感染爆発を抑えられているのは、この日本人の特性が大きいといえるでしょう。 ところが、日本の組織は、先に述べたように、官僚組織を筆頭に、前例主義、無謬主義、そして責任回避バイアスが強いことから、状況の変化に合わせて機能する方法に迅速に切り替えることが苦手なのです。 たとえば、西村康稔経済再生相は、4月13日の参院決算委員会で、「諸外国の例を見ても、事業者に対する休業補償はやっている例が見当たらない」と述べました。また、「諸外国でも見当たらず、我々としてやる考えは採っていない」とも発言。このことから、前例主義を根拠として休業補償をしないという議論を展開していたことがわかります(本当は海外にいくらでも前例もあったのですが)。 ここでの論点は、「前例がない」と言われると「それなら仕方がないか」と納得してしまう、日本人の前例主義バイアスが問題だということです。だからこそ、政府は前例がないということを説得のための論拠として言い出すのです。 しかし実際は、各国とも前例のない未曽有の事態に対して、前例のない施策を繰り出しているのですから、前例がないことは、日本が抜本的な施策をやらない根拠にはなり得ません。 新型コロナウイルスからすれば、こうした日本の「前例」にとらわれることで、迅速に思いきった施策を打ち出せない姿勢は、新型コロナウイルスに対する日本の「大きな弱点」となっています。日本の組織が得意とする手続主義、前例主義、忖度主義、形式主義が最も通用しない相手が、新型コロナウイルスという事象なのです』、「西村康稔経済再生相」の発言は、「前例主義」そのものではなく、初めから「休業補償をしない」という結論があって、「前例主義」を根拠付けに使ったと考えるべきだろう。
・『プラン変更への抵抗を小さくするには  ではスムーズなプラン変更のためにはどうすれば良いのでしょうか? まず先に述べたように、絶対に正しい方法はなく、状況と目的に応じて有効な方法は変わるという「方法の原理」を共有することです。そのうえで、最初からプランAが機能しなかった、あるいは状況が変わって機能しなくなった場合のプランB、プランC、プランDもあらかじめ準備しておき、それらをセットで作戦を立案しておくのです。 そして、状況aで機能していたプランAが、状況がbになったときに機能しなくなったならば、その状況で機能するプランBに移行すればよいのです。方法の原理によれば、状況と目的に応じて方法の有効性は変わるのですから、プランAや前任者を否定する必要がなく、プランAにつぎ込んだコスト(労力、費用、時間)が埋没コスト化することがありません。「状況が変わったためプランBに移行しましょう」というだけのことです。 そうすることで、プランAがうまくいかなくなったときの各所との「調整コスト」が最小化され、状況の変化を見定めながら迅速にさらに有効な方法にシフトしやすくなります。 このようにプランAのみでなく、様々な状況や進展に応じた、プランB、プランC、プランDと、ワーストシナリオを含めた事態を想定しあらかじめ用意しておけば、状況が変わったときには、「方法を変える」だけでよいのです。前任者や前のプランの否定という形になりにくく、またプランAにかけてきたコストを無駄にしてしまうという「埋没コスト」にとらわれたプラン変更への抵抗も生じにくくなります。 ただし、現象は常に想定を超えてくる可能性があるため、BもCもDも機能しないときは、あくまでも方法の有効性は状況によって変わるという方法の原理を軸として、その状況を打開する新たな方法を生み出して、対応していく必要があります。 危機のマネジメントでは、限られた時間の中でいかに適切な意思決定を重ねていけるかが鍵になります。方法の原理に沿った、しなやかで速やかな方法の選択、創出、実施こそが、危機のマネジメントに求められるのです』、説得力溢れた主張で、全面的に同意する。
タグ:東洋経済オンライン 朝三暮四 ダイヤモンド・オンライン 内田 樹 西條剛央 宮城県石巻市立大川小学校 デービッド・アトキンソン 日本の構造問題 (その16)(「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか、コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ、コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか) 「「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか」 日本社会が“サル化”している 『サル化する世界』 サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないから 「文明史的危機」に際会している 荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件とし」た 気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた 長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい うそをつくことについて罪の意識がなくなった その場その場の自己利益を優先 今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています それでは生産性が上がるはずがない イエスマンだけで固められた組織 イエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう 「コロナで露呈した「日本経済の脆弱性」の根因 「危機への対応」でも中小企業の弱さが目立つ」 小さい企業ほど「テレワーク導入」ができない 「中小企業は国の宝だ」 中小企業の価値は「人をムダに使う」ことにある 生産性を高めるためには「労働生産性」を高めるか、「労働参加率」を高めればいい 日本はすでに人口減少の時代に突入し 人をムダに多く雇う中小企業の存在は、強みではなくなり、逆に弱みに変わります 日本の中小企業の真の姿 小規模事業者はたったの3.4人 小さい企業が多いとさまざまな弊害が起こる 企業の規模が小さくなると、労働者の専門性が低下 業数が増えれば増えるほど、国全体の設備投資の重複が増えて、生産性が低下 「企業規模を拡大」 「コロナ危機の日本に見る「前例主義」の病理、旧日本軍の失敗を繰り返すか」 コロナ危機で見えた「プラン」変更の課題 クラスター対策では追いつかず、検査数を増やして、優先順位をつけながらも疑いのある人は検査できるようにしたほうが良い 日本の組織は「プランA」が機能しなくなったときの、「プランB」への移行が極めて苦手であり、次の戦略的フェーズへの移行は進んでいない 「前例踏襲主義」 「無謬主義」 「責任回避バイアスが強いこと」 埋没コストにとらわれ被害を拡大させた太平洋戦争下の日本軍 栗林忠道陸軍中将 大本営の指令に従わず、水際作戦を内地持久戦による徹底抗戦に変更 圧倒的な戦力を持つアメリカ兵のほうが日本兵の死傷者数を上回るという戦果をあげた 「前例主義」が84人死亡の惨事につながった 津波注意報が出たときの校長の判断は校庭待機だったのです。そして、これが津波警報発令時の「前例」となりました 1分で逃げられる裏山を目の前にしながら校庭待機を続け、50分の時間があったにもかかわらず、津波が目前に迫るまで動き出すことができず、結果84人が亡くなる惨事となってしまった 新型コロナウイルスに日本の「前例主義」は通用しない 西村康稔経済再生相 「諸外国の例を見ても、事業者に対する休業補償はやっている例が見当たらない」 前例主義を根拠として休業補償をしない プラン変更への抵抗を小さくするには
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グローバル化(その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」) [経済政治動向]

今日は、グローバル化(その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」)を取上げよう。

先ずは、4月14日付け東洋経済オンライン「コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/344088
・『昨年末に中国でその存在が問題となってから、新型コロナウイルスは3カ月程度で世界中に拡散してしまった。感染拡大の背景にはグローバリゼーションがある。イタリアに続き域内各国が感染爆発に見舞われたEU(欧州連合)は、まさにグローバリゼーションの実験場だった。モノ・サービス、資本ばかりでなく、シェンゲン協定によって国境での出入国審査なしに人が移動できる。これが感染拡大の一因ともなっただろう。 言論人や有識者の多くがコロナ危機に対抗するうえで、国際協力の重要性を説いている。人がグローバルに活動する現代社会では、ウイルスを国境で阻むことはできないため、ウイルスとの闘いには世界が連帯して協力すべきだという主張だ。 『サピエンス全史』などの著書で知られるユヴァル・ノア・ハラリ氏は『TIME』誌への緊急寄稿で「もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」と書いた(河出書房新社の「Web河出」で全文を読むことができる)』、「ハラリ氏」の「寄稿」は重要な指摘のようだ。
・『グローバリゼーションの反動が起きる  だが、現実に起きていることは国際協力ではなく国家間の対立だ。4月9日には新型コロナウイルスへの対応をめぐって国連安全保障理事会が開催されたものの、「中国発のウイルス」であると主張するアメリカに中国が反発し、何らの合意文書も出されなかった。 こうした状況だからこそ、国際協力の必要性が危機感をもって叫ばれているのだろう。世界中で国境の封鎖が広がり、感染爆発に見舞われた地域では都市間の往来を制限するロックダウンが展開され、外交活動も著しく縮小した。 ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張してきた。 現実に即して世界の人々はこちらの方向に動き始めているようにみえる。グローバリゼーションはもっぱら経済活動で進んだものであり、政治的・法的には国家との社会契約の下で生活しているからだ。 ロドリック教授は、今回のコロナ危機について、ハーバード大学の自身のホームページで、「エピデミック(感染症の流行)対策として、WHO(世界保健機関)がSARSに対応して修正した国際保健規制は、アメリカを含む196カ国が法的拘束力を受けるはずのものであるのに、無視されている。国際的な協力関係の構築に失敗した」と指摘している。 実際にWHOのテドロス事務局長の発言は、各国の統計や医学的研究の成果を後追いして迷走を続けており、これは世界の人々の目に明らかとなってしまった。) 振り返ると、リーマンショック後も「反グローバリゼーション」の雰囲気が広がった。 グローバルな経済活動のツケとして、世界がバブル崩壊による金融危機に見舞われたが、その後始末である不良債権処理は、それぞれの国家の財政負担、つまりは各国民の税負担によって行われたからだ。それがグローバリゼーションへの批判につながり、同時に、グローバリゼーションで利益を得た資本家や高額報酬を得た金融機関の経営トップも糾弾された。 グローバリゼーションの実験場である、EUと通貨ユーロは再び解体の危機を迎えそうだ。EUの出発点は不戦の誓いであり、原点は政治同盟ともされていた。しかし実際には経済の効率性ばかりが求められ、その矛盾点はリーマンショック後に、財政が大きく悪化した南欧の国々の債務危機という形で噴出した。 とくに統合通貨ユーロは大きな欠陥を持っていた。ドイツの強い競争力に比して、ユーロはつねに割安で、輸出に有利に働く。だが、その利益を調整する財政統合は実現できていない。 今回も同じことの繰り返しだ。4月9日のユーロ圏財務相会合は、ESM(欧州安定メカニズム)の信用枠活用や、第2次世界大戦後のマーシャルプランのような復興のための資金援助枠の準備作業を行うことで合意した。だが、復興基金の財源をめぐる加盟国間の溝は埋まらず、共通で発行する通称「コロナ債」には、これまでどおりドイツやオランダなどが反対した。 第一生命経済研究所の田中理・主席エコノミストは「結局、丸2日議論しても新たな重要な決定はできず、『一部の国が共同債の発行を主張している』といった曖昧な表現に終わった」と話す。EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ』、「ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張」、「政治的トリレンマ」とは言い得て妙だ。「EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ」、今からこれでは思いやられる。
・『金融・財政拡張は万能ではないとわかる  一方、今回の危機とリーマンショックには大きな違いがある。リーマンショックは金融危機に伴う景気後退だったので、日米欧の金融緩和と中国の4兆元に代表される各国の財政出動が効果を発揮した。需要喚起策が落ち込んだ景気を回復させ、雇用を大きく改善させた。このことは、再び企業がグローバル化を進める原動力になったし、人々の格差拡大への不満も多少は和らげてきた。 ところが、今回はまったく別種の危機で、経済活動を人為的に止めているため、金融・財政政策は効果が限定的だ。本来であれば、コロナ終息後にこうした政策の効果が望まれる。だが、リーマンショック後の10年間、日米欧がそろって金融緩和をだらだらと長期にわたって続けてきた結果、手段や効果が尽きてきていること、日本など一部の国は財政にも余裕がないことに、人々は不安を持っている。 BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」と指摘する。 実際、日本でも世界各国でも現在、グローバルな政策協調に人々はほとんど期待していない。注目されているのは自国の政府が発信するウイルス封じ込めのための対策と経済活動の停止による失業、倒産、所得の減少に対する経済政策だ。しかし、発展途上の独裁国家は別にして、かつてのような権威主義的なナショナリズム(国家主義)に回帰するわけではないだろう。 民主主義陣営においてはネット上で日々、政府の政策に対する意見が交換されている。例えば日本では、安倍首相の「全国民にマスク2枚を配布」する政策に批判が高まり、雇用調整助成金や現金給付の手続きの煩雑さが問題視されている。アメリカのトランプ大統領も2兆ドルをぶち上げた経済対策がさまざまな批判にさらされている。共産党一党独裁の中国といえども、政府批判を封じ込めておくことはできないようだ。 また国によって医療制度の違いや、感染症の専門家の見解の違いもあって、新型コロナウイルスとの闘い方は大きく異なる。その是非をめぐっては、専門家も一般の人も膨大なコメントをネット上に送り出している。その批判には政権の担い手も敏感だ。 金融危機や自然災害と違って、すべての人が身近に切実に感じている危機であり、インフォデミック(情報の感染拡大)ともいえる状況が出現している。根拠のないデマや誹謗中傷が広がっていることにも注意が必要だが、よい面を見ればインターネット民主主義が出現しており、悪い面を見れば、政治のポピュリズムがますます強まっていくのではないか』、「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」、との河野氏の指摘はその通りだろう。
・『自治体が注目されローカルシフトも始まる  さらに、今回のコロナ禍では、私たちがもっと自らの生活に近い知事たちの決断や行動に一喜一憂する毎日になったことが顕著な変化だ。小池百合子・東京都知事や吉村洋文・大阪府知事が政府と渡り合う姿にネット上では支持が集まっている。 これは世界的に起きており、アメリカでも大統領選の最中ながら、存在感を放つのはトランプ大統領でも対抗馬の民主党大統領候補のバイデン氏でもなく、奮闘するアンドリュー・クオモ・ニューヨーク州知事の姿だ。 今、日本で問題となっているのは、市区町村が生活者にとって行政の直接の窓口であるにもかかわらず、必要な決定権限や財源が地方自治体には付与されていないことだ。 最も重要な問題である緊急事態宣言後の7都府県の措置は決定に時間がかかり、人々の不安が募った。休業要請の方針がまとまらなかったからだが、休業を要請する事業者への補償をめぐって国との調整が難航したためだ。今後、自治体への権限委譲が再び大きなテーマとなってくるだろう。 コロナ危機はどうやら短期間では終息しそうにない。感染症専門家会議の医師の見解を聞いていると、経済活動の停止期間は限定的で済む(あるいは経済的な理由から、そうせざるをえない)かもしれないが、感染の第2波、再流行などのおそれもあり、従来とまったく同じ活動に戻れるとは思えない。 ポストコロナの中長期を見通してみる。人々は世界のモノやサービスを享受することに慣れているため、貿易量はある程度回復すると考えられるが、企業が安い労賃を求めて海外に拠点を置くオフショアの動きは縮小し、海外拠点を減らす方向になることは間違いない。 国際分業による効率性を享受できなくなって、コストがかさむことが懸念されるものの、一方で、テレワークの重要性や効率性が認識されることで、5G投資などが促進されるだろう。自治体行政や企業のITインフラの整備が飛躍的に進めば、ある程度の生産性向上を実現できるのではないか。 そうなれば、企業の拠点や外注先が海外から国内に戻ってくるリショアリングの動きが広がる。野村総合研究所の森健上席研究員は、さらに「国内の地方部に拠点を設ける“ニアショア”あるいはサテライトオフィスを検討する企業が増えるのではないか。IT企業ではすでに徳島県などでそれが進んでいる」と指摘する。 そうなれば、今度は企業側やそこで働く従業員などから、自治体への権限委譲を後押しする動きも強まるかもしれない。住民自治の意識が高まるとまでいったら、期待しすぎだろうか』、「今後、自治体への権限委譲が再び大きなテーマとなってくるだろう」、その通りだが、一方で、東京都のように知事の人気とりに利用される面もあることは留意すべきだ。
・『内需重視で労働分配率の向上を実現できるか  リーマンショック後には、先進国の潜在成長率が低下する中で所得格差の拡大が問題とされるようになった。その中でやり玉に挙がったのは、IT革命とグローバリゼーションである。人が機械に代替されることによる労働分配率の低下や、GAFAに代表される企業やその経営者が勝者総取りとなるような所得の歪みが、グローバリゼーションとともに、世界的に拡大し増幅されたという見方だ。 グローバリゼーションへの批判は、移民や難民を排撃する運動につながり、トランプ大統領の誕生やイギリスのEU離脱、EU域内での極右政党の台頭などの現象を生んだ。一方、リベラルな人々は大企業が安い労賃を求めて新興国に工場を作り、現地の人々を搾取していることや、地球規模での環境破壊が進んだことを批判している。 日本は欧米に比べれば、所得格差が大きくないほうだが、非正規雇用の拡大が問題視されてきた。しかし、テレワークなどで時間に縛られない働き方が広がれば、同一労働同一賃金の実現はしやすくなっていくだろう。 欧米と比べた日本の問題は、1990年代末のバブル崩壊以来、春闘における賃上げ交渉が機能しなくなってしまい、労働分配率が下がったことだ。日本では人口が減っていくので経済成長しない、という思い込みが流布している。そのため企業は内需に期待せず、賃上げにも及び腰で、成長期待の持てる海外に投資を続けてきた。しかし、日本の生産年齢人口(15歳~64歳)の減少率は年率2%以下であり、就業率の向上と生産性上昇によってカバーすることは可能だ。 日本総合研究所の山田久副理事長は「グローバル化の減速で外需に依存する度合いが低下するなら、内需拡大に注力する必要がある。付加価値生産性の向上、平均販売価格の上昇、賃金の引き上げの好循環を形成することによって、質的成長は可能になる」としている。今は感染拡大をくい止めることが優先する厳しい局面だが、中長期の潮流も展望しておくべきだろう』、「山田久副理事長」の主張はバランスがあり説得力に富むようだ。

次に、4月21日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した法政大学大学院教授の真壁昭夫氏による「コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/235155
・『新型コロナウイルスの感染拡大が世界的な混乱を招いている  新型コロナウイルスの感染拡大によって世界的に大混乱が発生している。その混乱が、これまで国際社会が抱えてきた多くの問題や無理の一部を顕在化している。コロナショックがトリガー(引き金)となり、グローバル化の「負の側面」を浮き彫りにしていることだ。 その一つに、通商を中心とする米中の覇権争いがある。本年1月に両国は第1段階の通商合意に至ったが、感染をめぐり互いの批判が激化している。トランプ大統領が中国の影響力が強まっているWHOへの資金拠出停止を表明したのは、その象徴的な出来事といえる。 今後、米中の対立はより激化する恐れがある。それによって、これまでの国際社会のグローバル化に対する反動はさらに勢いがつくことになるだろう。 世界の経済・金融市場は大きく混乱せざるを得ないとみられる。 また、コロナショックが引き金となって、欧米や新興国では医療体制の不備や、低所得層が医療サービスにアクセスできないことが浮き彫りとなった。それは人々の不安心理をかき立て社会心理は悪化している。グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべきだ。 今後、世界経済が未曽有の景気後退に陥る可能性は軽視できない。4月中旬の時点で米国を中心に株価は反発しているが、そうした動きを本当の意味で信用できない。世界経済が大きな変化の局面を迎えていることは冷静に考える必要がある』、「グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべき」、その通りだろう。
・『世界経済の成長を支えたグローバル化とその反動  第2次世界大戦後の世界経済の安定を支えた大きな要因の一つがグローバル化だ。米国は政治、安全保障の覇権を強め、冷戦後の世界経済の基盤を整備した。それが、旧社会主義国や新興国の経済成長を支えた。米国独り勝ちの期間がかなり長く続いたといえる。過去数年間の世界経済を振り返っても、戦後最長の景気回復を達成した米国経済に支えられた側面は大きい。 米国を基軸とするグローバル化の進行によって、先進国の中間層は、遠心分離機にかけられたかのように、一握りの富裕層と、その他多数の低所得層に振り分けられた。これが、経済格差の拡大、環境問題、米国の医療問題など、さまざまな問題を深刻化させた。しかし、リーマンショックまでは、そうしたグローバル化の負の側面への関心が高まることはあっても、それが世界全体を揺さぶるまでには至らなかった。 リーマンショック後、徐々に、米国主導によるグローバル化への反発が表面化し始めた。言い換えれば、米国の覇権は弱まり始め、中国の存在感が高まり始めた。さらに、2016年11月の米大統領選挙では、独断専行型の考えを持つトランプ大統領が誕生した。それは米国でさえ、グローバル化の無理に耐えられなくなりつつあることを示す象徴的な出来事だった。 2018年3月以降、トランプ大統領は対中貿易赤字の削減やIT分野での覇権を目指し、中国に制裁関税をかけ始めた。世界の工場としての地位を高めてきた中国からベトナムやインドなどに生産拠点が移管され、世界各国が整備してきた供給網が寸断された。それは、グローバル化の反動というべき動きの一つだったといえる。 一方、中国は米国を批判すると同時に、東南アジアを中心とする新興国、さらには中国の需要に依存してきた欧州各国との連携を目指した。2019年3月にはイタリアがG7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した。 これは、主要先進国の利害の多極化を示す出来事の一つだ。視点を変えれば、中国は米国が主導してきたグローバル化とは異なる価値観を各国に提示したり、トランプ大統領の言動を批判したりすることで発言力を高めようとしている』、「G7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した」「イタリア」が、欧州で最も深刻な「コロナショック」に見舞われているのは、今後、同国「一帯一路」への姿勢に影響を与えるかは注目点の1つだ。
・『グローバル化反動のきっかけとなったコロナショック  1月、中国の湖北省武漢市で新型コロナウイルスが発生し、感染は日米欧をはじめとする世界全体に拡大している。米国では外出制限の緩和が模索され始めた。金融市場参加者の多くが日々の各国の感染者の増減や為政者の見解に注目している。そうした見方は、コロナウイルスの感染の影響に焦点を当てたものだ。 同時に、コロナショックによって、これまで以上の勢いでグローバル化の無理、課題、リスクなどが表面化している。各国の資本主義のあり方が大きく変容しつつある。その意味で、日々の感染動向や対策に関する議論だけでなく、コロナショックがグローバル化の反動を勢いづかせ、現在、世界経済は大きな変化の局面を迎えているといえる。 その一つの要素に、世界全体での人の移動(動線)の遮断がある。 中国は武漢を封鎖するなどして、ひとまずは感染を抑えることができた。足元、中国の感染には一服感が出ており、経済の活動水準は急速に回復している。中国でのiPhone出荷台数は2月の50万台から3月には250万台に回復した。今後、中国は補助金支給などによって雇用を守るとともに、何とか国民の不満を押しとどめる政策をとることになるだろう。 一方、日米欧はウイルスの影響が一段と深刻化するとみられる。欧米では、都市封鎖などにより経済活動が止まってしまった。一時的に経済活動を犠牲にしてウイルスの拡散を止めなければならない。世界のモノ・サービスの取引が大幅に停滞する中、今のところ、中国の供給力を賄うだけの需要は見当たらない。原油についても、OPECプラスの減産合意に関して不十分との見方が出始めている。 さらに感染拡大が世界各国の課題や問題も浮き彫りにした。 米国ではトランプ政権がオバマケアの廃止を目指したこともあり、医療保険に加入していない(所得事情などからできない)人が増え、感染拡大に拍車がかかってしまった。イタリアや韓国では中国との関係を重視するために感染対策が遅れたとの見方もある。南米、アジア、アフリカなど防疫体制が十分ではない地域でも感染が拡大している』、「コロナショックによって、これまで以上の勢いでグローバル化の無理、課題、リスクなどが表面化している。各国の資本主義のあり方が大きく変容しつつある。その意味で、日々の感染動向や対策に関する議論だけでなく、コロナショックがグローバル化の反動を勢いづかせ、現在、世界経済は大きな変化の局面を迎えているといえる」、鋭い指摘だ。
・『“大恐慌”に匹敵する世界経済の落ち込みリスク  グローバル化の反動によって、今後、世界経済は1930年代に米国を中心に発生した“大恐慌”に匹敵する落ち込みを迎える恐れがある。前述したように、トランプ政権は中国がウイルスを世界に拡散させたと非難している。コロナ禍による中国経済の減速から、第1弾合意にまとめられた米国の農畜産物などの輸入目標も達成が難しい。状況によっては、大統領再選を狙うトランプ氏が中国にさらなる圧力をかけ、サプライチェーンの混乱などグローバル経済の寸断が深刻化するリスクは軽視できない。 一方、米国を中心に企業経営は非常事態に突入しつつある。米金融大手のJPモルガンは深刻な景気後退に備え引当金を積み増し始めた。この対応は、4〜6月期の米実質GDP成長率が前期比年率で25%落ち込み、失業率は10%に達するシナリオに基づいている。 問題は、感染終息にどのくらいの時間がかかるかが読めないことだ。現在、米労働市場は過去に例を見ない勢いで悪化しており、企業業績が想定以上に悪化するリスクは高まっている。仮に経済活動が再開されたとしても正常に戻るにはかなりの時間がかかる。早期の経済活動再開が、感染を再拡大させるリスクもある。 そうした中で株価が反発していることは冷静に見るべきだ。先が読めないため、多くの投資家のリスクに対する忌避感はかなり強い。日米の国債価格の不安定さはそれを示す材料の一つだ。米国では一部の投機筋が急速に株式のショート(空売り)ポジションを巻き戻し、それにつられた投資家が株を買い、株価上昇が支えられている面もありそうだ。 一方、多くの市場参加者は、グローバル化の反動や大恐慌以来の景気後退に落ち込むリスクに目をつぶりたいと考えているようにみえる。そのため、市場参加者は先行きの明るさを求めて、目先の経済活動再開に向かっているとも考えられる。 しかし、現実には、今後、世界経済の落ち込みはより深刻化する可能性が高い。グローバル化の反動の先に、世界経済に大きな変化が出始めていることを虚心坦懐に感じ取る必要がある。今は、そうした視点で世界経済を謙虚に考えるべき時だ』、トランプ大統領は米国では最悪期は過ぎたとして、「経済活動再開」に舵を切りだしたようだが、大統領選挙を意識して早や過ぎるとの批判もあるようだ。ここはより慎重な「真壁昭夫氏」の見解を重視したい。
タグ:イタリア グローバル化 東洋経済オンライン 河野龍太郎 ダイヤモンド・オンライン 真壁昭夫 ユヴァル・ノア・ハラリ (その1)(コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を、コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」) 「コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰 内需重視や労働分配率向上へITの活用を」 EU(欧州連合)は、まさにグローバリゼーションの実験場 『TIME』誌 「もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう グローバリゼーションの反動が起きる ダニ・ロドリック教授はかねて『グローバリゼーション・パラドクス』などの著書で、「政治的トリレンマ」として、「グローバリゼーション」と「国家主権」「民主主義」を同時に追求することはできず、「グローバリゼーション」をある程度制限して「国家主権」と「民主主義」を守ったほうがよい、と主張 グローバリゼーションの実験場である、EUと通貨ユーロは再び解体の危機を迎えそうだ EU首脳や域内各国首脳の口にする「連帯」はかけ声倒れだ 金融・財政拡張は万能ではないとわかる 経済活動を人為的に止めているため、金融・財政政策は効果が限定的だ 「新型コロナウイルスをきっかけに、国境の内側では人々が連帯に目覚め、強い求心力が働くが、国境の外側に対しては強い遠心力が働き、国際的な分断が広がるのではないか」 インフォデミック(情報の感染拡大)ともいえる状況が出現している。根拠のないデマや誹謗中傷が広がっていることにも注意が必要だが、よい面を見ればインターネット民主主義が出現しており、悪い面を見れば、政治のポピュリズムがますます強まっていくのではないか 自治体が注目されローカルシフトも始まる 内需重視で労働分配率の向上を実現できるか 山田久副理事長 「グローバル化の減速で外需に依存する度合いが低下するなら、内需拡大に注力する必要がある。付加価値生産性の向上、平均販売価格の上昇、賃金の引き上げの好循環を形成することによって、質的成長は可能になる」 「コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」」 新型コロナウイルスの感染拡大が世界的な混乱を招いている グローバル化を前提にした経済・社会の運営にはかなりの支障が出始めたと考えるべき 世界経済の成長を支えたグローバル化とその反動 G7で初めて中国の「一帯一路」に参加すると表明した グローバル化反動のきっかけとなったコロナショック “大恐慌”に匹敵する世界経済の落ち込みリスク グローバル化の反動の先に、世界経済に大きな変化が出始めていることを虚心坦懐に感じ取る必要がある。今は、そうした視点で世界経済を謙虚に考えるべき時だ
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経済学(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) [経済政治動向]

経済学については、昨年7月23日に取上げた。今日は、(その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い)である。

先ずは、昨年11月29日付けNewsweek日本版が掲載したフォーリン・ポリシー誌上級特派員のマイケル・ハーシュ氏による「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/11/post-13509_1.php
・『<グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した> ノーベル賞の受賞者でコラムニストとしても知られる経済学者のポール・クルーグマンは、論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調で名をはせてきた。 1990年代初めから精力的に著書や論説を発表。急速に進むグローバル化に疑義を唱える論客には片っ端から「経済音痴」のレッテルを貼ってきた。特に中国との競争を危惧する議論を聞くと、「バカらしい」のひとことで切って捨てる。心配ない、自由貿易が自国経済に及ぼす負の影響など取るに足らない。それがお決まりのセリフだった。 そのクルーグマンが突如、宗旨変えした。今年10月、「経済学者(私も含む)はグローバル化の何を見誤ったか」と題した論説を発表。自分をはじめ主流派の経済学者は「一連の流れの非常に重要な部分を見落としていた」と自己批判したのだ。 クルーグマンによれば、経済学者たちはグローバル化が「超グローバル化」にエスカレートし、アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた、というのだ。 ラストベルト(さびついた工業地帯)の衰退ぶりを見ると、ようやく認めてくれたか、と言いたくもなる。謙虚になったクルーグマンは、さらに重大な問いに答えねばならない。彼をはじめ主流派の経済学者が歴代の政権に自由貿易をせっせと推奨したために、保護主義のポピュリスト、すなわちドナルド・トランプが大統領になれたのではないか、という問いだ。 公平を期すなら、クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた。彼は経済学者でありながら経済学者に手厳しいことでも知られる。2008年の金融危機後には、過去30年のマクロ経済学の多くの予測を「良くても驚くほど役に立たず、最悪の場合、明らかに有害」だったと総括した。 クリントン政権で労働長官を務めた経済学者のロバート・ライシュは、国際競争の激化を懸念し、良質の保護主義的な政策と製造業の労働者の再訓練を推進しようとした。このライシュについて、クルーグマンは1990年代当時、私に「気の利いた言い回しが得意なだけで、物事を深く考えない嫌な奴」と評したものだ。 クルーグマンの宗旨変えについてライシュにコメントを求めると、「彼が貿易の何たるかをやっと理解してくれてよかった」とメールで答えてくれた。クルーグマンもメールで「ライシュについて言ったことは後悔している」と述べたが、「もっとも彼が超グローバル化を予測し、チャイナショックの影響を最小限にとどめようとしたと言うのなら、それは初耳だが」と嫌みも付け加えた。 経済学者たちはようやく自分たちの傲慢ぶりを認め、2009年にクルーグマン自身が書いたように「数学という素敵な衣装をまとった美しい理論を真実と思い込んでいた」ことに気付いたが、時すでに遅しの感もある。 経済学者たちは1960年代末から連邦政府の政策立案に大きな影響を与えるようになり、アメリカを間違った方向に導き、社会の分断を助長したと、ジャーナリストのビンヤミン・アッペルボームは指摘している。多くの経済学者が福祉を犠牲にし、効率性を最優先して「高賃金の雇用を切り捨て、低コストの技術産業に未来を託した」というのだ』、「ポール・クルーグマン」の「論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調」を私は好んでいたので、「突如、宗旨変えした」ことで楽しみが1つなくなったとすれば、寂しい気がする。
・『「修正を試みても手遅れだ」  マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、デービッド・オートーは、中国の急成長がアメリカの労働市場に及ぼした影響をデータで示してきた。オートーによればより大きな問題は、多くの経済学者が自由貿易は善だと無条件で信じていたことだ。「貿易は万人にとって有益だと政策立案者に助言するのが自分たちの務めだと思い込んでいた」 ハーバード大学の経済学者、ダニ・ロドリックは1997年に『グローバル化は行き過ぎか』という著書を発表した。当時は異端と見なされたこの本を書いたのは「経済学者がグローバル化に全く危機感を持っていなかったから」だと、彼は言う。今ではロドリックの見方が主流になっている。 さしもの経済学者たちも、自分たちが引き起こした事態に対処すべく重い腰を上げ始めた。ロドリックも元IMFチーフエコノミストのオリビエ・ブランシャールと共に格差をテーマにした会議を主宰したばかりだが、もう手遅れかもしれないと言う。トランプ政権下では、まともな議論すらできないからだ。 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」と、アッペルボームは嘆く。 それでもトランプは、中国の台頭に対するアメリカ人の不安を背景に、史上最大の貿易戦争に打って出た。不安が広がったのは、経済学者の読み違いのせいでもある。中国の急成長でアメリカの製造業の雇用がこれほど迅速かつ大量に失われるとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クルーグマンも指摘しているように、「2000年以降、製造業の雇用は恐ろしいほど急減」し、その急カーブはアメリカの貿易赤字、特に対中赤字拡大の急カーブと一致していた。こうしたデータが、ただのデタラメにすぎないトランプの主張に信憑性を与えたのだ。 貿易問題や所得格差、労働者のための適切な保護策に関する「まともな議論を完全に消し去ったことが、最も理不尽なトランプ効果の1つだ」と、ロドリックは言う。 クルーグマンに、彼自身も含めて経済学者がトランプ政権の誕生を助けたのではないか、と聞いてみた。「それについては、まだ議論している最中だ」と、彼は答えた。「これは私の考えだが、トランプの(保護主義的な)貿易政策はさほど支持されておらず、トランプ人気に貢献したとは思えない。その意味でトランプ現象を経済学者たちのせいにするのはいささか酷ではないか」』、「トランプは・・・貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ」、超一流経済学者が多いアメリカでよりにもよってこんな大統領が出現したとは、経済学の無力さを露呈したのかも知れない。
・『レッテル貼りと締め出しと  そうは思わない人もいるだろう。問題の一端は、グローバル化は善だというコンセンサスが姿を現しつつあった1990年代、経済学者たちは貿易問題を「自由貿易主義」か「保護主義」かの2つに1つという単純な図式で捉える傾向があったことだ。 クルーグマンもおおむね自由貿易論者の立場を取った。ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていたことを思うと皮肉な話だ。 一方で政策論争に関わった人々の中には、急速なグローバル化にクルーグマンよりずっと強い懸念を抱いた人々もいた。その代表格が、ロドリックやライシュ、クリントン政権で国家経済会議議長を務めたローラ・タイソンといった人々だ。彼らは自由貿易こそ善という考え方に異議を唱えたり、タイソンのようにアメリカの競争力を高めるための産業政策を推進したりした。クルーグマンはこうした考え方も忌み嫌った。 クルーグマンは、自身の読み違えは貿易が労働者や経済格差に与えた影響に関するものであり、あくまでも「限定的なものだった」と言う。確かにその言い分は間違っていない。 だが冷戦終結後、貿易をめぐる議論は、自由市場vs政府による介入という、より幅広い議論の「代理戦争」となっていた。クルーグマンは「戦略的貿易論者の、経済学に対する無知の表れ」と彼の目に映ったものを大々的に攻撃した。戦略的貿易論者とは、人件費の安い途上国との競争で、アメリカの雇用と賃金は深刻な影響を受けると主張する人々だ。 ジャーナリストのウィリアム・グレイダーは著書の中で、途上国の攻勢により「アメリカが勝つ分野と負ける分野」が出てくるだろうと警告したが、クルーグマンからは「全くバカげた本」と評された。シンクタンク、ニューアメリカ財団のマイケル・リンド共同創立者が、アメリカの生産性が伸びても「世界の搾取工場である国々」にはかなわないかもしれないと指摘した際も、クルーグマンは経済の「事実」を知らない門外漢のくせに、と一蹴した。 クルーグマンに言わせれば、この手の議論はいわゆる「悪い経済学」だった。他の国の動向など気にし過ぎてはならない。あらゆる国が開かれた貿易から利益を得ることができるという新古典派経済学の概念が安定をもたらすはずだ──。自由貿易よりも市場への政府の介入に類するものや公正貿易(関税や失業保険、労働者保護の拡充と同義だ)を支持する人は、「保護主義者」の烙印を押され議論から締め出された。 確かにクルーグマンは、医療保険制度や教育の改革といった中間層に対する保護政策は大切だと常に考えてきた。また、貿易問題での見誤りを認めたからといって、いわゆるワシントン・コンセンサスを正しいと言っていたことにはならないとも述べている。ワシントン・コンセンサスとは、財政規律と急速な民営化、規制緩和を支持するネオリベラル(つまり自由貿易主義)的な考えだ。 「私たちを批判していた人全てが正しかったわけではない。肝心なのは彼らが何を言ったかだ。私の知る限り、これほど(中国などが)貿易で台頭することを予見した人も、それが一部地域に与える悪影響について注目していた人もほとんどいなかった」と、クルーグマンは言う。 だがグローバル化を善とする考え方はさらに深い問題もはらんでいた。やはりノーベル賞を受賞した経済学者のジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告していた。彼は「標準的な新古典派的分析」の問題点は「調整に全く無頓着だったところだ」と述べた。「労働市場の調整コストは驚異的なほど少ない」』、「クルーグマン」自身も「ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた」、のに単純化して自由貿易推進派になったのは、確かに矛盾している。「ジョセフ・スティグリッツ」や「ロドリック」のように、「貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告」していた人々もいたことを知って、少しは安心した。
・『大統領選では左派候補を支持  スティグリッツはクリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長を務め、国際的な資本の流れにブレーキをかけることを訴えるなどした(が実現しなかった)。つまり彼はタイソンやライシュと同じ非主流派だったのだ。また彼は「通常、雇用の破壊は新たな雇用の創出よりもずっと速く進む」と主張していた。 スティグリッツはフォーリン・ポリシー誌でこう論じている。「(グローバル化の)コストを背負うのは明らかに、特定のコミュニティー、特定の場所になるだろう。製造業が立地していたのは賃金の安い地域だった。つまりこうした地域では調整コストが大きくなりがちだった」 また、グローバル化の負の影響は一過性のものでは終わらない可能性も明らかになってきている。アメリカ政府が途上国との貿易を急速に自由化し、投資に関する合意を交わしたために「(労働組合の弱体化や労働規制の変化の影響も相まって)労働者の交渉力は劇的に変わってしまった」とスティグリッツは指摘した。 最大の負け組はやはり、アメリカの労働者だ。経済学者はかつて、好況下では労働者は自分たちの賃金を引き上げる力を持つと考えていた。だが最近の見方はちょっと違う。多国籍企業が全世界を自らの縄張りに収めて四半世紀がたち、グローバル化した資本は国内に縛られたままの労働者よりも優位に立った。 主流派の経済学者たちがこれほど急に左寄りになったことに驚いているのは当の経済学者たちだ。多くは前述の格差問題に関する会議でこのことに気付かされた。来年の米大統領選挙では、経済学者たちの支持は中道のジョー・バイデン前副大統領よりもエリザベス・ウォーレン上院議員やバーニー・サンダース上院議員などの革新派候補に流れているとの声も参加者からは聞かれた。 「私はフランスでは社会主義者なのに、ここに来たら中道だった」と、ブランシャールは冗談を飛ばした。これぞ1990年代の読み違えが残した「置き土産」かもしれない。 タイソンは言う。「みんな、いかに状況が急激に変わり得るかに気付いていなかった」 From Foreign Policy Magazine)』、「自由貿易」や「グローバル化」論議は、EUの市場統合、英国のEU離脱にも影響を与える幅広い問題で、今後の展開が1つの注目点だ。

次に、本年3月20日付け東洋経済オンラインが掲載した作家・元外務省主任分析官の佐藤 優氏による「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/337633
・『今から20年前の2000年を超えたあたりから、アメリカ流の新自由主義的な考え方が日本に流れ込んできました。そのとき、セットで取り上げられたのが「自己責任論」です。 実はこの「自己責任論」が大手を振るう中で、それに振り回される形でさまざまなものを抱え込み、心を病んでしまう人が少なくありません。「自己責任論」が持つ矛盾と、それを振りかざす論者たちの本当の思惑を知ることで、心の病に陥るスパイラルから脱することが大切です。拙著『メンタルの強化書』をもとに解説します』、興味深そうだ。
・『一見、まともに見える自己責任論  まず「自己責任」が声高に言われ始めたのが金融業界でした。金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります。そしてリテール部門、つまり個人顧客の開拓に力点が置かれるようになりました。 ここで「自己責任論」が出てくるのです。要は、顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題です。当時、金融機関はバブル処理がまだ完全に終わっていないところもあり、決して安定している状況ではありませんでした。 まして護送船団方式が解除され、諸外国の金融機関も含めた競争の激化が予想されました。リテール部門での責任をいちいち追及されたらたまったものではありません。先手を打って自己責任という言葉を出してきたと思われます。 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理でした。 一見、至極当然のようにも聞こえるところがミソなのです。しかし、言葉の意味をしっかりと吟味したら、この「自己責任論」がおかしいことがわかります。 まず、彼らの言う「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違うものです。own riskとは「自分で利益を求めようとして自分で決定した場合には、予期せぬ不利益(リスク)も併せて背負わなければいけない」という考え方です。 これは、株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです』、「貯蓄から投資へ」の流れも「自己責任論」が強まった背景だ。
・『「自己責任」は不自然な言葉だ  そもそも「自己責任」という言葉自体がおかしな言葉です。まず、「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳されますが、そのもとはラテン語のrespondereだとされます。その本来の意味は、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指しているとされます。 また、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされました。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました。 先ほどのラテン語の意味と合わせると、「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方です。 ですから欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提とされます。なぜなら説明義務が生じるのは本人であることは自明ですから、改めて「自己」をつける必要がないからです。 さらに言えば、「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味です。このような言葉をあえて掲げなければならない状況自体がすでに不自然であり、おかしいのです。 この不自然な言葉である「自己責任」が、やたらと使われた場面がもう1つありました。それが非正規雇用の拡大の場面です。小泉内閣のときに行われた労働法の改正で、非正規雇用の枠組みが広げられました。それによって非正規雇用が一気に増え、ワーキングプアなどの問題が噴出しました。 当時、年末の日比谷公園などに、ネットカフェで寝泊まりする非正規雇用者や路上生活者などが集まり、ボランティアの人たちから炊き出しを受けている光景がニュースになったのを覚えているでしょうか? そのときにしきりに論じられたのが「自己責任」という言葉です。彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした。 当時は、職場でもプライベートでも「自己責任でやってくれ」とか、「自己責任をきちんと果たしてください」などと、猫も杓子も「自己責任」という言葉を使っていました。 その言葉とともに使われるようになったのが「努力」という言葉でした。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために非正規雇用で働かざるをえなかったのだから、それは「自己責任」だという論理です。 「自己責任」はいつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになりました。いかにも新自由主義的な発想だと考えますが、ここにこの問題のすり替えがあります』、「彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした」、日本国民としての仲間意識などは微塵も感じられない非常に冷たい見方だ。
・『労働者に責任を転嫁する人たち  そもそも「責任」という概念は「自由」という概念とはつながっていますが、「努力の有無」とはまったく関係のない概念です。「努力しなかったことの責任が問われる」としたら、それはいったいどういう社会なのでしょう?もちろん「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立っても、そこに「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があります。 新自由主義的な競争社会においては、まさにそのような考え方がフィットするのだと思いますが、本質をはき違えた論理だと思います。努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもありませんし、努力しなければいけないという義務など存在しないのです。当然そこに責任など生じるものではありません。 「責任」は「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度が高いでしょうか?マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っていると言います。自由と責任は表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるということは当然の帰結です。 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはずです。 私は、非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます。むしろ「自己責任」を追及されるべきは雇用者側ではないでしょうか? 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。 ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか?少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います』、「「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます」、同感だ。
・『神の前で反省し、悔い改めればいい  ちなみに、先ほどの「責任」という考えは、キリスト教ではまったく違った捉え方をします。キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられるべき存在ではありません。 「自由」がもともと与えられていないのですから、「責任」など人間には最初からないということになります。逆に、自分のしたことに対して「責任」を取ろう、あるいは取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢なのです。 人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。 では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう?それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。 そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか?詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、愚かな人間は互いに手を取り合うことなく、取ることもできない責任を勝手に作り出し、それによって同胞をおとしめ、自分だけが這い上がろうと足掻いているのです。なんとも哀れで滑稽な姿に見えてきます。 現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまいます。しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつくでしょう』、『メンタルの強化書』が、「新自由主義」的な「自己責任論」に苦しめられている人々に救いになることは確かなようだ。

第三に、4月17日付けダイヤモンド・オンライン「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/234917
・『日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録  「貨幣とは何か?」「その価値の根拠はどこにあるのか?」 これは誰でも一度は考えてみたことがあり、古代ギリシアの哲人アリストテレス以来、多くの哲学者や経済学者によって考察がなされてきた、シンプルでありながら実は極めて難解な問いである。マルクスの言葉を借りれば、貨幣とは「形而上学的な不思議さに満ち満ちた存在」なのである。 本書『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』は、日本を代表する経済学者で、稀代の教養人である岩井克人が、アリストテレスからアダム・スミス、カント、モンテスキュー、ゲーテ、シュンペーター、ケインズ、ハイエク、フリードマンに至るまで検証し、30年以上にわたってこの問題に挑み続けてきた全記録である。 岩井は、正統派の近代経済学からスタートして、東京大学、イエール大学、プリンストン大学などの超一流大学で教鞭をとる傍ら、『ヴェニスの商人の資本論』『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるのか』『経済学の宇宙』といった著書を通じて、貨幣や会社など様々な社会問題について思想的考察を行なってきた。 岩井が貨幣の本質に迫った『貨幣論』を書いたのは1993年だが、貨幣の研究を本格的に始めたのは1980年代の初め頃である。それ以来、岩井の貨幣論の基本は全く変わっていない。それどころか、グローバル化の進展によって地球全体がひとつの資本主義社会になり、より純化したことで、現実の方が『貨幣論』で描いていた理論的な世界にどんどん近づいてきている。 貨幣がおカネとしての価値を持つ根拠として、「貨幣商品説」と呼ばれるものがある。金銀がおカネとして使われるのは、それが多くの人が手に入れたがる価値の高い商品だからという説明である。しかしながら、これは、「あるモノがおカネとして流通しているときには、おカネとしての価値はモノとしての価値を必ず上回っている」という事実に反している。 これに対して、国家や君主や共同体などにその根拠を見いだそうとするのが、「貨幣法制説」である。法律や命令などで貨幣として定めたからおカネは流通するのだという説明であり、今日では、この貨幣法制説が経済学者の間での通説になっている。今話題の「現代貨幣理論(MMT)」は、正にこの貨幣法制説に依拠しているのだが、岩井に言わせれば、この説もやはり不十分である。 1741年にオーストリアで発行されたマリア・テレジア銀貨はヨーロッパ全土で流通し、更には時代を超えて、中東や東アフリカで使われ続けた。ハプスブルク家が支配した帝国は1918年に滅んだにも関わらず、エチオピアのカファ地方では、1970年代までコーヒー取引のための貨幣として流通していた。これは、貨幣が貨幣として流通するためには、法律や命令は必ずしも必要がないということを示している』、確かに「マリア・テレジア銀貨」が、今に至るまで「中東や東アフリカで使われ続けた」、というのは、「貨幣法制説」の「不十分」さを示している。
・『貨幣と商品とはどこが違うのか  岩井に言わせれば、我々がおカネを受け取るのは、「ほかの人」がその価値があるおカネとして次に受け取ってくれると信じているからである。つまり、貨幣の価値というのは、商品と同様に社会が与えているのである。 それでは、貨幣と商品とはどこが違うのか。おカネには、人間のモノに対する欲望のような実体的な根拠は存在しない。誰もが貨幣として受け取るから貨幣なのであり、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法になっているのである。 貨幣商品説だけでなく貨幣法制説をも明確に否定して、人類がこの自己循環論法にまでたどり着くには、 17世紀末にスコットランドで生まれ、フランスの中央銀行総裁と財務大臣にまで登り詰め、世界三大バブルのひとつ「ミシシッピバブル」を招いた、ジョン・ローというトリックスターの登場を待たなければならなかった。 ジョン・ローは、『貨幣と商業』という著作の中で、のちに「ローのシステム」と呼ばれることになる、中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している。現代の金融システムは、この「ローのシステム」そのものであり、経済の効率性を大いに高めると同時に、経済の不安定性をも大いに高めるという、「効率性と安定性の二律背反」を背負ったものなのである。 「自分がモノとして使うためではなく、将来、ほかの人に売るために何かを買うこと」というのが投機の定義である。その意味で、おカネを使うこと、即ち、それ自体何の使い道もないおカネをおカネとして流通させるという行為こそが、実は最も純粋な投機だと言える。 我々が生きているのはおカネに全面的に依拠した社会であり、そのおカネを使うことが純粋な投機なのだとすれば、資本主義社会は本質的に不安定性を抱え込んでいることになる。なぜなら、投機は必ずバブルを生み出し、膨れ上がったバブルは必ず崩壊し、それは必ず混乱とパニックを招くからである。 ▽法だけではなく、おカネの下でも人間は平等(マルクスは『資本論』の中で、「貨幣はレヴェラーズだ」と言っている。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で、17世紀半ばのピューリタン革命の時に、法の下での平等を唱えた急進的な政治グループのことを指す。マルクスが言おうとしたのは、人間は貨幣を持つことにより匿名性を獲得する、つまり、法だけではなく、おカネの下でも人間は平等だということである。 貨幣は、互酬的交換によってお互いが緊密に結びつけられた共同体的な束縛から個人を自由にし、一人一人が独立した市民として投票する民主制の発展を促した。つまり、おカネの下の平等が、法の下の平等を生み出したのである。 このように、貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる。そして、その行き着く先は、ポピュリズムや全体主義という悪夢である。このように、貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的であり、自由を守るためには自由放任主義と決別しなければならないのである。 アリストテレスは、今から2300年以上も前にこの貨幣の不思議に気づき、『政治学』の中で次のような言葉を残している。 「貨幣による財獲得術から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲するからだ。生きる欲望に果てはないのだから、彼らは満たしうる際限のない財を欲することになる。貨幣は元々交換のための手段。しかし、次第にそれを貯めること自体が目的化する。」 あらゆるモノを手に入れる「手段」である貨幣が、具体的なモノと切り離されて、それ自体がひとつの「目的」に転化した。終極点が新たな出発点になり、新たな終極点が更に新たな出発点となっていくこのプロセスに終わりはない。ここで、より多くの貨幣を絶えず求め続ける「貨幣の無限の増殖活動」としての資本主義が始まることになる。アリストテレスが嘆いたように、人々は「善く生きることではなく、ただ生きることに熱中する」ようになるのである』、「貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる」、「貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的」、その通りなのだろう。。
・『「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成  『欲望の資本主義』シリーズに登場する哲学者マルクス・ガブリエルは、今日の資本主義を、「商品生産に伴う活動全体」と再定義している。そして、資本主義は「商品の生産」そのものになり、これ自体が見せるためのショーになっているという。ただ差異を生み続けるためだけの果てしない資本の運動、つまり、絶対的な価値を見出すことよりも相対的な価格競争が勝ってしまい、差異を生むこと自体が自己目的化していく世界である。 そして今や、「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成つつある。繰り返される金融危機、拡大する所得格差、そして急速に進む地球温暖化といった形で、資本主義に本来的に内在している不安定性や不平等性や不可逆性が一気に顕在化してきている。 こうした際限のない貨幣への欲望に対抗し、社会の不安定性を抑えるために、岩井は、アメリカ独立やフランス革命などの動乱期のヨーロッパにあって、大陸合理論とイギリス経験論を調停したと言われる哲学者カントの倫理学に着目する。即ち、「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によって行動せよ」と命ずる、カントの道徳律である。 ここでもう一度繰り返すと、貨幣は人間を自由にする。自由とは、自分自身の領域を持っていて、自分で自分の目的を決定できることである。そして、これが「人間の尊厳」なのである。しかし、自由と安定は両立せず、常に二律背反的である。 岩井に言わせれば、資本主義というのは人類の歴史の中から生み出された普遍的な存在である。その中で人間の尊厳を守り続けるためには、同情、共感、連帯、愛情といった個々の感性に依拠するのではない、より普遍的な原理を持ってくる必要がある。それが、他者を邪魔しない最低限の義務としての「規範」なのである。そして、人はその規範を守る限りにおいて、誰からも侵されることのない領域である「人間としての尊厳」を保てるのである』、「哲学者カントの倫理学」は「大陸合理論とイギリス経験論を調停した」、初めて知った。なかなか巧みな「調停」のようだ。
・『世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる  岩井は『貨幣論』の中で、資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。」 こうした不安定さの中においても、岩井は資本主義そのものを否定することはしない。岩井が思い描く「規範」に基づく資本主義の新しい姿というのは、「倫理」という言葉で表されるものである。それは、2018年の京都大学経済研究所でのシンポジウムをベースにした近著『資本主義と倫理:分断をこえて』の中で垣間見ることができるが、その全貌を一刻も早く我々に見せてもらいたい。 新型コロナウィルスがグローバル経済を一気に破壊していく様を見ながら、皆、改めて世界が一体となったグローバル資本主義社会に生きていることを実感していると思う。世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる正にこの瞬間にこそお勧めしたい一冊である』、「資本主義における最悪の状況である「恐慌」(おカネのバブル)と「ハイパーインフレーション」(おカネのパニック)に関して、次のように語っている。 「人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである」、この「対応関係」を詳しく知るには、『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』を読むしかなさそうだ。
タグ:東洋経済オンライン 経済学 タイソン ダイヤモンド・オンライン 佐藤 優 Newsweek日本版 (その2)(グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔グローバル化の弊害を見落とし トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔、自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した、岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」 シンプルで難解な問い) マイケル・ハーシュ 「グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔」 グローバル化の行き過ぎと米製造業の空洞化を見抜けず、結果的にトランプ政権誕生を助けたポール・クルーグマンがついに自己批判した 論敵をコテンパンにこき下ろす激辛の論調 クルーグマンはここ数年、過去の見解の誤りを率直に認めるようになっていた 「修正を試みても手遅れだ」 ダニ・ロドリック 『グローバル化は行き過ぎか』 トランプは、アダム・スミスの時代の重商主義者もかくやの短絡的な保護主義を信奉している。貿易をゼロサムゲームと見なし、貿易黒字は利益で、貿易赤字は損失だと思い込んでいるようだ。経済学のイロハも知らない無知ぶりは「現代アメリカの大統領の中でも際立ってお粗末だ」 レッテル貼りと締め出しと 「自由貿易主義」か「保護主義」か ノーベル経済学賞の受賞理由となった(グローバル化の悪影響も指摘した)論文が、(自由貿易を推進する)彼の著書やコラムに比べると微妙に矛盾するニュアンスを帯びていた ロドリック ライシュ ジョセフ・スティグリッツは90年代、ロドリックと同様に貿易や投資の障壁を急激に取り払えば破壊的な影響をもたらすと警告 大統領選では左派候補を支持 「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した」 新自由主義的な考え方 セットで取り上げられたのが「自己責任論」 一見、まともに見える自己責任論 金融自由化で銀行をはじめ金融機関はさまざまな商品を扱えるようになります 顧客が購入した金融商品が元本割れをした際、その責任を誰が取るのかという問題 商品にリスクがあることを自分たちはしっかりと説明する責任を果たす。購入する方はその説明を聞いたうえで、自分で判断する。だから結果に対しては「自己責任」を取らなければいけないという論理 「自己責任」とは、英語で言うところの「own risk」です。すなわち「危険の負担」であって、責任の概念とは違う 株式投資などで資本を調達する資本主義の大前提であり、改めて自己責任などという、いかめしい言葉を出す必要などありません。「商品購入の際はリスクも併せて負担しましょう」ということでいいのです 「自己責任」は不自然な言葉だ 「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました 責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方 欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提 「own responsibility」という言葉もありますが、日本語の責任とはニュアンスを異にする独断という意味 非正規雇用の枠組みが広げられました 彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされました。あるいは正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だというものでした 労働者に責任を転嫁する人たち 「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならないと考えます 神の前で反省し、悔い改めればいい 「岩井克人が挑む「貨幣とは何か?」、シンプルで難解な問い」 日本を代表する経済学者が30年以上にわたって挑み続けてきた全記録 岩井克人「欲望の貨幣論」を語る マリア・テレジア銀貨 中東や東アフリカで使われ続けた 「貨幣法制説」の「不十分」 貨幣と商品とはどこが違うのか ジョン・ロー 中央銀行による「銀行貨幣制度」を提案し、そこで貨幣の自己循環論法を提示している 貨幣は人間に自由を与えたが、人間は言語によって今ここに存在しない事物についても思考できるから、人間に想像力がある限り、可能性に対する欲望は満たされることはない。人間は「あらゆるモノを手に入れられる可能性」を与えてくれるものとして、貨幣それ自体を欲望するようになる。 従って、こうした無限の欲望に拠って立つ貨幣社会は本質的に不安定であり、人間の自由そのものが社会の危機をもたらすことになる 貨幣をめぐる個人の自由と社会の安定は二律背反的 「自由放任主義的な資本主義」の形が地球規模で完成 哲学者カントの倫理学 大陸合理論とイギリス経験論を調停した 世界が静止している今、自分自身を振り返ることができる 人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである
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日本型経営・組織の問題点(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている) [経済政治動向]

日本型経営・組織の問題点については、昨年11月6日に取上げた。今日は、(その9)(外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある、忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習、何をいまさら経団連 日本型雇用は10年前に終わっている)である。

先ずは、作家・経済ジャーナリストの渋谷 和宏氏が昨年11月23日付けPRESIDENT Onlineに掲載した「外国の識者が語る"日本人論"が核心をつくワケ 日本人の日本人論にない視点がある」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/30036
・『日本人はなぜロボットを友達だと思うのか  「日本人ほど『日本人論』が好きな国民はいない」と著者の佐藤智恵氏は言う。そうかもしれないと思う。私自身、外国の識者が語る日本論、日本人論にはつい耳をそばだててしまう。本書『ハーバードの日本人論』は、そんな外国人の視点で見た日本論、日本人論の中でもとりわけ異彩を放つ一冊だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――本書はこうした「日本人のなぜ」について、メディア論やマネジメント論などそれぞれの分野で第一人者として知られるハーバード大学の教授陣に著者がインタビューし、わかりやすくまとめている。専門領域のみならず、日本や日本人について深い知識を持つ教授陣の話は示唆に富み、かつ新鮮だ。 「日本人はなぜロボットを友達だと思うのか」――メディア論を専門とするアレクサンダー・ザルテン准教授は言う。「日本人が歴史的にテクノロジーを『理想的な社会を実現するのに不可欠なもの』ととらえてきたことと深い関係がある」。 明治維新後、日本は西洋の技術を取り入れ、近代化に成功した。戦後の高度成長を支えたのも絶えざる技術進歩だった。テクノロジーへの信頼が、日本人のロボット観の根っこにあると指摘するのだ』、「佐藤智恵氏」は元NHKディレクターでコロンビア大学MBA取得、ボストン・コンサルティング・グループ勤務などを経てげ、作家/プロデューサー/コンサルタント。このブログでも2017年8月19日付け「原爆投下」で紹介している。確かに「外国の識者が語る日本論、日本人論」は、日本人が気付かない点を指摘してくれるので、興味深いものも多い。
・『日本のアニメが国境を超えて愛される理由  さらにザルテン准教授は日本のアニメが国境を超えて愛される理由についても独創的な分析を披露する。日本のアニメは日本の物語だけでなく、ディズニーのアニメや近代のSF文学などからも影響を受けており、その表現にも様々な技法が取り入れられている。こうした特徴が、インターネットによって文化の混合を日常的に体験している世界の若者の感覚に合致したと言うのだ。 「日本人のオペレーションはなぜ簡単に真似できないのか」――マネジメント論が専門のウィリー・C・シー教授は「かんばん」に代表されるトヨタ生産方式を例に挙げ、それを可能にしているのは継続して学習し、問題を解決する企業文化であり、その土台には「完璧な品質を追求する」「継続して改善を行う」という日本人の国民性があると解説する。 トヨタ生産方式は「日本の経済風土にあったオリジナルな方法を」という考えから開発されたと言われる。世界のものづくりに革命を起こした生産方式がなぜ日本企業によって生み出されたのか。答えの一端を垣間見た気がする。 本書が取り上げる「日本人のなぜ」は、もちろんこれらだけではない。「日本人はなぜ『場』を重んじるのか」「日本人はなぜものづくりと清掃を尊ぶのか」――ほかにも気になる命題が取り上げられ、その分析には思わず同僚や友人にひけらかしたくなる指摘がちりばめられている』、「佐藤智恵氏」が専門家から見解を引き出す能力は、豊富な職歴の上に築かれたのだろう。暇を見つけて、読んでみたくなる本だ。

次に、在米作家の冷泉 彰彦氏が12月24日付けNewsweek日本版に掲載した「忘年会だけじゃない! スルーすべき日本の会社のムダな慣習」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/12/post-1132.php
・『<社内での打ち合わせや会議のための「社内出張」や、転勤、単身赴任などスルーすべきビジネス慣行が日本の会社には多い>  30年ぐらい前に止めていれば良かったのにいまさら感がありますが、「忘年会スルー」という言い方で、職場における半強制的で楽しくない宴会のために、貴重な年末の時間を使う習慣が批判されているのは良いことだと思います。 ですが、悪いのは忘年会だけではありません。日本の職場風土をもっと風通しの良いものにすると同時に、先進国中最低レベルとなっている生産性を向上させるためには、他にもスルーすべきことがあります。 1つ目は「社内出張」です。出張というと、セールスや業務提携など重要な目的があったり、あるいは見本市への出店や、反対に見本市や国際会議への参加による情報収集や人脈形成など、企業としての業務に欠かせないものがあるのは事実だと思います。 ですが、出張には大きな負荷がかかります。期間中は家事、育児、介護といった家族における責任を放棄して、遠隔地に行かねばなりません。問題は、どうしても必要な対外交渉、調査といったものではなく、日本の場合はまだまだ同じ会社の中での打ち合わせや会議のために出張する、つまり「社内出張」の機会が多いということです』、テレビ会議導入などで多少減ったとはいえ、「社内出張」は本当に無駄の最たるものだ。
・『「社内会議のための出張」はほとんどムダ  例えば、一定の職位以上の管理職は定期的に本社に集めて、全社の動きを知らせるという会社は多いと思います。また、海外など遠隔地に駐在させて勤務させている社員を呼び返して報告させる会議などもあります。さらには、何か突発的な問題が生じた場合には、役員などに報告と謝罪のために出張しなくてはならないということもあるでしょう。 こうした「社内会議のための出張」というのは、ほとんどがムダだと思います。まず、多くの社員を集めて「全社の動きを知らせる」会議というのは、単に参加者を社内政治の評論家にするだけで、個人のスキルの向上、そして会社全体の業績の向上には役にも立ちません。もっと言えば、社内世論を形成して意思決定の参考にしようなどという弱いリーダーでは通用しない時代でもあります。全社の動きを幅広く知らせれば社員の育成になるというのも、社員のモラル向上になるというのも限定的です。 海外に人を出していると「浦島太郎」になるので、ときどき呼び返してコミュニケーションしたほうが良いという習慣もありますが、根拠は怪しいと思います。日本の産業界は、国際化の遅れからこのような低迷に到ったのですから、変わらねばならないのは日本側であって、せっかく最前線に出ている人間には伸び伸びチャレンジさせるべきでしょう。 一番悪いのは、トラブルの発生時に「報告と謝罪」を対面式コミュニケーションでやるために呼び寄せることです。初動が大事であれば、現場の問題解決を本社は支援するべきところですが、ふんぞり返って「不始末は来て報告せよ、対応はそれからだ」というような姿勢の企業はどんどん淘汰されていくでしょう』、海外駐在の拠点長を定期的に呼び寄せるのも無駄だ。「トラブルの発生時」の本社の「ふんぞり返った」対応も酷いものだ。
・『2つ目にスルーすべきなのは、転勤です。せっかく身に着いたスキルを捨てさせて、全く違う分野に異動させる、あるいは別の土地へ異動させるという「人事ローテーション」と「ゼネラリスト育成」というのが、日本型人事だとされてきました。ですが、共働きが当然となる一方で、あらゆる業務内容が高度化し、専門性が問われるようになった現在、転勤のメリットは薄れており、残っているのは個人の人生設計を壊す弊害だけのように思います。 転勤に伴う単身赴任という習慣も、核家族の求心力を奪い、次世代に親となるべきロールモデルを与えることができなかった罪は重いと思います。まわりまわって非婚少子化の後押しをしているという観点から、社会的に止める時期に来ていると考えていいでしょう。 忘年会に象徴されるような、公私混同体質を伴った封建的ヒエラルキーで人間性を束縛するのが「忠誠心」だとか、何かに付けて「社内会議」をするのが育成やスキル向上になると思い込んだり、国中、世界中のどこへでも辞令一枚で社員と家族を飛ばせると考えたり、これでは、まるで「お国替え」と「参勤交代」です。封建主義そのものであり非人間的であると同時に、21世紀の高度な生産性とは全く馴染みません。これらの慣習も、スルーでいいのではないでしょうか』、アメリカで日本人駐在員たちの悲哀を見ているらしい冷泉氏ならではの鋭い指摘で、諸手を挙げて同意する。

第三に、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が2月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「何をいまさら経団連、日本型雇用は10年前に終わっている」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00062/?P=1
・『久しぶりに春闘が話題だ。 きっかけは経団連が「日本型雇用の見直し」なるものを求めたこと。年末に行われた定例の記者会見で中西宏明会長は、こう訴えた。「新卒一括採用、終身雇用、年功序列型賃金が特徴の日本型雇用は効果を発揮した時期もあったが、矛盾も抱え始めた。今のままでは日本の経済や社会システムがうまく回転しない。雇用制度全般の見直しを含めた取り組みが重要だ」と。 その上で、「賃上げの勢いを保つことは大前提だ。ただ製品やサービスの付加価値向上に必要なスキルや意欲のある人が活躍できる環境づくりも大事だ。そのためには賃金体系や人事制度についてもしっかり対応すべきだ」──。 この発言は1月21日に発表された「2020年版 経営労働政策特別委員会報告(経労委報告)」の中で、「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言葉に置き換わった。「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と、盛んにアピールしているのだ。 しかも、組合側も組合側で、経団連の指針に“素直”に応じるような要求が相次いでいる。 自動車メーカーなどの各労働組合が12日、経営側に提出した要求書には……、・給与を1人当たり月額1万100円の引き上げを求める一方で、ベアについて人事評価に応じて差をつける新たな方法を提案(by トヨタ自動車の労働組合) ・新たな仕事に挑戦した社員に賃金を上乗せする制度の拡充を求める(by ホンダの労働組合)など、賃上げにめりはりをつけてほしいと書かれているらしい』、「労働組合」が「賃上げにめりはりをつけてほしい」、とは信じられないような要求だ。「めりはりをつけ」るのは、あくまで経営側であり、こんな要求で、組合員の団結が維持できると思っているのだろうか。或いは、団結など不要と割り切っているのかも知れない。御用組合化もここに極まれりだ。
・『2008年の「派遣村」が象徴していた日本型雇用の崩壊  これらの経緯を受け、テレビなどでは「転換期を迎えている日本型雇用システム」という言語明瞭意味不明のフレーズを繰り返している。 ……ふむ。「日本型雇用システムが転換期を迎えている」って? 中西会長含め、経済界を代表する重鎮たちは、昨年から度々この言葉を繰り返しているけど、この言葉に私は違和感を抱き続けている。 だって、とっくの昔に日本型雇用システムは転換期を迎えていたじゃないか。10年前に、重鎮たちだってしかと、その目で、見たはずである。 まさか、忘れたってことだろうか? 経団連もメディアも、2008年の年末の「派遣村」のことを忘れてしまったのか?当時、メディアは連日連夜日比谷の派遣村から中継していたのに……。いったいどうしてしまったんだ? あの「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない。 忘れてしまった“経済界の重鎮”のために、あのときの出来事を簡単におさらいしておく。 08年秋に起きたリーマン・ショックにより、大手の製造業などで働く非正規の人たちがリストラされ、寮からも追い出される事態となった。いわゆる「派遣切り」だ。 そんな人たちを受け入れようと、労働組合関係者、法律家、生活困窮者支援NPOのメンバーらにより、日比谷公園に「年越し派遣村」がつくられ、全国から500人近くが集結。当時は“ワーキングプア”や“ネットカフェ難民”など、不安定な雇用形態である非正規雇用で働く人が急増した時期だったので、社会の関心も高かった。 中には「ホームレスも含まれているじゃないか!」「政治的な陰謀じゃないか」など、批判的な意見もあったが、派遣村の最大の功績は「貧困の可視化」だった。派遣村をきかっけに格差問題は貧困問題になり、非正規と正社員という単なる雇用形態の違いが「身分格差」になっていることが周知されたのだ。 それは“経営の三種の神器”として日本企業を支えてきた「終身雇用、年功制、社内組合」の崩壊であり、米国の経営とは異なる日本独自の極めて優れた経営戦略として世界から称賛された「日本型雇用システム」の終焉(しゅうえん)を意味するものだった。 つまり、経団連はやたらと「日本型雇用システムの限界」だの「日本型雇用システムの転換期」だの昨年から言い続けているけど、10年も前に“日本型雇用システム”の転換期を迎えていたのだ』、「「年越し派遣村」こそが、日本型雇用システム崩壊の象徴に他ならない」、思い出したが、確かにその通りだ。
・『にもかかわらず「日本型雇用システムの転換期」という言葉を多用するのは、非正規にしたくでもできない正社員の賃金を減らしたい。コストをとにかく減らしたい。ただそれだけのこととみえる。 情けないことに経済界の司令塔である経団連が、あからさまに「コストカット」を訴え続けているのである。 こちらの図をご覧いただきたい。改めて書くまでもなく、日本の労働人口の年齢構成は高齢化が進み、60歳を過ぎても働くのが当たり前となった。共働きも当たり前で、働く女性も増えた。ところが「増えた属性=60代&女性の人たち」は日本型雇用システムでは雇用されていない(http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-07.html)。 年齢階級別非正規雇用労働者の割合の推移(男女別)(男女共同参画局『男女共同参画白書 令和元年度版』より) 女性は34歳以下をのぞくすべての年代で半数以上が非正規、男性では65歳以上の7割以上、55~64歳の約3割が非正規だ。25~34歳では14.4%と割合はさほど高くないが、全体として非正規雇用が増加傾向にあることは注視すべきだ。 一方、35~54歳は小泉政権の時に一旦増えたが、その後はほぼ横ばいが続いている。 要するに、この世代こそが経団連が言うところの“日本型雇用システム”の恩恵を受けている世代だ』、「35~54歳」の「男性」だけが「“日本型雇用システム”の恩恵を受けている」、とは初めて知った。しかし、ここにもいよいよ「経団連」はメスを入れようとしているようだ。
・『経団連の使命とは何だったのか  これまでも経団連の重鎮たちは、あの手この手で40代、50代の働く人たちをお荷物扱いするような発言をしてきたけど、今回は“子飼いにした組合”を巻き込み、この世代のコストカットに踏み切った。 連合の神津里季生会長がどんなに、「そもそも(経団連が指摘するような日本型)雇用システムはこの20年、確立していない。中小・零細企業の労働者や正社員以外の雇用形態で働く労働者への視点が欠けている」と指摘しても、重鎮たちはどこ吹く風だ。 「そんなこと分かってるよ! でもね、まださ、日本型雇用システムの恩恵を受けている層がいるのよ。その人たちのコストをカットしないことには日本の未来はないのさ」ってこと。……あまりに露骨だ。 かつてトヨタの会長だった奥田碩氏が、機会ある度に「解雇は企業家にとって最悪の選択。株価のために雇用を犠牲にしてはならない」と語り、経団連会長として「人間の顔をした市場経済」という言葉を掲げたのに、今の経団連のお偉い人たちの視界に「人間の顔」はない。 経団連のウエブサイトには経団連の使命として、「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与することにあります」と記されている。 「稲山嘉寛経団連会長(1980-86)は『我慢の哲学』、平岩外四経団連会長(1990-94)は『共生』、豊田章一郎経団連会長(1994-98)は『魅力ある日本』といったコンセプトを打ち出し、国際社会の中でよき企業市民として日本企業が受け入れられるように取り組みました」とも書かれている。 今の経団連から発せられる文言のどこに、「個人や地域の活力を引き出す」メッセージがあるのか? 日本型雇用システムを悪の根源のごとく叩きまくっているけど、それを生かす経営を今の経団連はしてきたのだろうか?』、従来の「経団連」とは大きく異なり、大所高所の議論よりも、目先の利害中心になってきたようだが、これも時代の流れとしたら、余りに寂しい。
・『2018年、日経新聞が“異例”の経団連批判をしたと話題になった記事を覚えているだろうか。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31995500Q8A620C1X12000/ 「経団連、この恐るべき同質集団」と大きな見出しがついた記事には、 ・19人の正副会長全員のだれ一人として転職経験がない  ・全員サラリーマン経営者 ・全員男性 ・全員日本人 ・一番若くて62歳 ・中西会長以下12人が東大卒、次いで一橋大3人、京大、横浜国大、慶応大、早稲田大が各1人で、首都圏以外の大学を出たのは山西健一郎・三菱電機取締役相談役ただ1人(京大工卒)と、異様なまでの同質性が指摘されていた。 フツーに考えれば、これだけ働く女性が増えたご時世で、なんでこの集団には女性がいない? 外国人労働者を増やすといっているのに、なんで外国人もいない? 経団連が大好きな「世界の市場」では多様性が当たり前なのに、今の経団連は多様性の「たの字」もない集団である。中西会長は会長に就任する前に、多様性の重要性を訴えていたはずなのに……いったいなぜ? お偉い人たちに叱られることを覚悟で言わせていただければ、経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている。そう思えてならないのである。 もし、本当に経団連の使命が「企業と企業を支える個人や地域の活力を引き出し、日本経済の自律的な発展と国民生活の向上に寄与すること」であるなら、組合のあり方そのものも変えなくてはならないはずだ。 ところが、経団連は「業界横並びの集団的な賃金交渉は、実態に合わなくなっている」と明記し、春闘の意義そのものに疑問を呈した。社会的対話の象徴である「春闘」を、必要ないのでは?と指摘したのだ。 ふむ。これは大問題である』、「日経新聞が“異例”の経団連批判」、は誠に手厳しいが、その通りだ。「経団連の上層部こそが、日本型雇用システムの恩恵を受けまくった人たちで、自分たちが変わることを置き去りにしている」、との河合氏の批判は正鵠を突いている。
・『世界がディーセント・ワークを目指す時代に  社会対話は自由、平等、保障、人間の尊厳といった条件の下で、男女を問わずすべての人々がディーセント・ワークを得る機会を促進するというILO(国際労働機関)の目的達成においてカギとなる役割を果たしている。 ディーセント・ワークについては、今年最初の元日コラムで書いたとおり(働きがい問われる年、シニアのリストラが若者にも悪影響)、1999年のILO総会で初めて用いられた概念である。 「権利が保障され、十分な収入を生み出し、適切な社会的保護が与えられる生産的な仕事」であるディーセント・ワークを、ILOでは「すべての人にディーセント・ワークを(Decent Work for All)」を目指し活動している。 その仕事とは、「労働基準及び働く上での権利」「雇用」「社会的保護」「社会対話」の4つの柱で成立する。 社会対話をILOは、「政府、使用者、労働者の代表が、経済・社会政策に関わる共通の関心事項に関して行うあらゆる種類の交渉、 協議、あるいは単なる情報交換」と定義している。 そして、社会対話を可能にする条件として、以下を掲げている。 ・社会対話に参加する技術的能力を備え、関連する情報を入手できる機会が与えられた、強く、独立した労使団体 ・社会対話に従事しようとという政治的意思と決心が全当事者に存在すること ・結社の自由と団体交渉の基本的な権利の尊重 ・適切な制度的支援 ・社会的パートナーの代表が互いに平等なパートナーとして認識されること こうした社会対話の形態の1つが、春闘のような労使の二者構成だ。 その社会対話を経営の司令塔である経団連が「いらない」と言っているのだ。 労働組合からに講演会に呼ばれると、大抵聞こえてくるのは「組合に若い人が入りたがらない」「非正規の人が多いのに組合では正社員のことしか議論しないので、実態に合っていない」といった、組合のあり方への懸念であり、疑問だ』、「ディーセント・ワーク」の柱の多くは、ほぼすべて条約化されているが、日本は批准していないものが多い(Wikipedia)。日本は労働法制の面では後進国並みのようだ。
・『中西会長の出身母体である日立製作所の組合の雑誌に、私は数年間連載を持たせてもらったことがある。子会社や関連会社も多い日立グループにはたくさんの組合があり、活動が実に活発だった。いくつかの組合からは講演会に呼ばれたし、本体の日立製作所に呼んでいただいたこともある。 そのときの感想は「組合と会社がとてもいい関係にある」という、極めてポジティブなものだった。 なので、私は中西さんが経団連の会長に就任したときに、ものすごく期待した。あの日立のトップだった中西さんなら、時代遅れになっている経団連を変えてくれるのではないか、と。 働く人たちの視点で、カネではなく「人」を見てくれるんじゃないか、と。心から期待したのだ。 いったいどうしてしまったんだ? もっと働く人たちのやる気が湧くメッセージを、経団連の会長として出してくれよ!と、本当に残念でたまらないのである。 価値が多様化し、技術が日新月歩する予測不能な厳しい市場で生き残るには、企業が存在する意義を経営者がきちんと考え、自分たちの会社の価値判断を重視し、働く人たちが「誇りを持って働ける職場」とは何か?を考える経営をすることだ。 たとえばジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条(Our Credo)」のような、「自分たちのなすべきことは何か」の原点に立ち戻る経営について、経済界の司令塔としてメッセージを出すことじゃないのか。会長さん!私、間違ってますか?』、「経団連会長」に対する手厳しくも暖かい叱咤激励だ。
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