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随筆(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) [文化]

随筆については、昨年10月17日に取上げた。今日は、(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が10月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「和田誠さんがまいたサブカルの種子」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00041/?P=1
・『和田誠さんが亡くなった。 どう言ってよいのやら、適切な言葉が見つからない。 この20年ほどは、メディアを通じて配信される記事や報道の中で、お名前を見かける機会がなくなっていた。それゆえ、私自身、和田誠さんのことを思い出さなくなって久しい。私は、忘れてはいけない人の名前とその作品を、本当に長い間、思い出すことさえせずに暮らしていた。何ということだろう。 訃報に触れて、あれこれ考えるに、自分がいかにこの人の作品から多大な影響と恩恵を受けていたのかを、あらためて思い知らされている。今回は、そのことを書く。 テレビや新聞の回顧報道を眺めながら、その回顧のされ方に時間の残酷さを感じることは、誰の訃報に触れる場合でも、毎度必ず起こる反応ではあるのだが、今回の和田誠さんの業績のまとめられ方には、ことのほか大きな違和感を覚えている。 何より、扱いが小さすぎる。 誰の訃報と比べてどんな風に小さいという話ではない。 和田誠という人が残した仕事の量と質と範囲の広さと、それらの作品を生み出した才能の非凡さに比べて、その死の扱われ方が、あまりにも軽く感じられるということだ。 私が和田誠という名前を初めて知ったのは、たぶん1977年のことだ。 「たぶん」という言い方をしているのは、訃報を知ってから検索やら何やらでかき集めた情報と、アタマの中に記憶として残っている知識の間に、かなり深刻な食い違いがあることが判明して、我がことながら、自分の記憶が信じられなくなっているからだ』、私は「和田誠」氏を知らなかったので、Wikipediaで見たところ、イラストレーター、エッセイスト、映画監督、音楽評論家で、料理家 平野レミの夫と多才な人だったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%AA%A0
・『私の頑迷な記憶の中では、私が和田誠さんの『倫敦巴里』を読んだのは高校時代の話ということになっている。 ところが、Wikipediaを見ると、『倫敦巴里』の出版は、77年だ。ということは、私はすでに大学に進んでいる。年齢で言えば、20歳だ。 どうしてこんな偽の記憶が育ったのだろうか。 想像するに、私は、『倫敦巴里』を初めて見た時、 「これこそ自分がやるはずの仕事だった」と思ったはずで、その強い思いが記憶をゆがめたのだろう。このセンは大いにあり得る。 というのも、『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだったからだ。 で、自分がやっていたそれらのお遊びのおふざけを、プロのクリエーターがプロの作品として世に問うた初めての書籍が『倫敦巴里』だったわけで、それゆえ、作品そのものの素晴らしさへの賛嘆の念はともかくとして、私が 「ああ、先を越された」と生意気にもそう考えたであろうことは容易に想像できる。 自信を持てない一方で思い上がった若者でもあった20歳のオダジマは 「おい、これはオレが高校生の時からやってた遊びだぞ」「パクリじゃないか」と考えた可能性さえある』、「『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった」、小田嶋氏もずいぶんマセた高校生だったようだ。
・『もちろん、東京の片隅にある高校のそのまた教室の片隅で密かにやり取りされていた稚拙な文体模写ごっこを、当時の和田誠さんが知っていたはずもなければ、パクる理由も必要も必然性もない。当然だ。が、それでもなお、20歳の私が 「ああ、やられた」と思った可能性はあるのだ。 くすぶっている20歳は、自分に似た優越者を見るたびに 「やられた」と思う。 まして、くすぶっている上に思い上がっている20歳は、手の届かない場所にある果実を見れば、必ずや 「あれはオレが取り逃がしたリンゴだ」という風に考えるものなのである。 もっとも、「やられた」と思う一方で、私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた。この時のこの感慨は、今でもありありと思い出すことができる。実際、私は、あの本に大いに勇気づけられた。このことについては、どれほど感謝しても足りないと思っている。 『倫敦巴里』以前は、面白随筆であれ冗談企画であれ、「笑い」に足場を置いた作品を書籍として出版するのは、いわゆる「文壇」の中にいる一握りの人々に限られていた。『倫敦巴里』が刊行された77年以前に文体模写や「もし◯◯が××だったら」式の「IF」を題材としたお笑い企画が存在していなかったわけではないが、それらは、もっぱら雑誌の読者投稿コーナーや深夜ラジオの投稿はがき企画として一部で盛り上がっているに過ぎない、いわば「素人企画」だった』、「私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた」、小田嶋氏に自信を植え付けた意味は大きそうだ。
・『その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だったわけで、あれを見て勇気を鼓舞された若者は、無論のこと、私だけではなかった。日本中の夢多き中高生やくすぶっている大学生が、あの本を見て、 「おい、オレもやれるぞ」と思ったはずなのだ。 極言すればだが、1980年代に花開く「サブカル」の種子は、実に、1977年に和田誠が『倫敦巴里』を世に問うた時に、全国津々浦々にまかれていたということだ。 私自身、もし『倫敦巴里』を読んでいなかったら、自分が本を書く人間になることを想像すらしなかったはずだ。 それまで、本を出すのは、小説を書く人間に限られていた。小説以外の文章は、言ってみれば「色物」みたいなもので、そんなものは、小説家が「余技」として取り組めば十分だ、と、少なくとも私はそう思い込んでいた。それゆえ、小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった。 和田誠さんは、自分自身をPRすることに長けた人ではなかった。 私が残念に思っているのは、ここのところだ。 和田さんに、もっと積極的な自己アピールを心がけてほしかったという意味ではない。 私が言いたいのは、和田誠さんのような、自己プロデュースに熱心でないクリエーターについて、作品本位で高く評価するメディアがもっと積極的に情報発信すべきだということだ。 いったいに、現代の商業メディアは、作品を制作している人間を遇するに当たって、クリエーター本人の「キャラクター」を消費する以外の術をあまりにも知らない。このことを、私は大変に残念な傾向だと考えている。 和田誠さんが、単にシャイな性格で、それゆえ人前に出ることを好まなかったのか、あるいは、作品で勝負すべきクリエーターが自己宣伝に労力を割く態度に反発を感じていて、それで、あえてメディアへの露出を避けていたのか、詳しいところは私には分からない。いずれにせよ、和田さんは、ほとんどまったく自分の顔やナマのしゃべりや、私生活上のエピソードを商業メディアに提供することをしない人だった。 引き比べて、1980年代以降に世に出たクリエーターは、おしなべて自己アピールの上手な人が多い。 というよりも、時代が進めば進むほど、作品が作品として評価されることよりも、作者の知名度が作品のオーラを高めるカタチで売り上げを伸ばしていくケースが目立つようになってきている。もう少し露骨な言い方をすれば、この国のエンターテインメント市場は、作品を売ることよりも、自分の名前を売ることに熱心な表現者が勝利をおさめる場所になってしまったということだ』、「素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった」、確かに1つのジャンルを切り開いたというのは大変なことだ。「小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった」、小田嶋氏の恩師といってもいいぐらいだ。
・『和田誠さんの訃報は、彼自身が有名であることに冷淡だったことの当然の帰結として、不当にひっそりと報じられて、すでに忘れられようとしている。それは残念なことでもあるのだが、同時に、和田さんらしい身の処し方の結果だと思えば、ふさわしい結末でもある。 この原稿を書いていてふと気づいたのだが、私は、映像の中で動いてしゃべっている和田誠さんの姿をついぞ見たことがなかった。それどころか、不思議な話なのだが、私は和田誠さんの顔を知らない。ご自身の肖像は今回の訃報に関連して初めて拝見した次第だ。 にもかかわらず、訃報に触れて以来の喪失感の大きさは、この数年の間にこの世を去った誰の時のそれと比べても、ひときわ大きく深い。 そんなわけなので、今は、顔も知らない人をこれほどまでに深く敬愛していた自分の純真さを、ほめてあげようと思っている』、最後のオチはなかなかよく出来ている。

次に、同じ小田嶋氏による12月13日付け日経ビジネスオンライン「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00049/?P=1
・『奇妙な夢を見た。 今回はその話をする。時事問題をいじくりまわしたところで、どうせたいして実のある原稿が書けるとも思えない今日このごろでもあるので、こういう時は身辺雑記を書き散らすことで当面の難局をしのぎたい。 夢の中で、私は、古い家族のメンバーとクルマに乗っている。私は明らかに若い。30歳より手前だと思う。運転はなぜなのか母親が担当している。クルマの少し前を父親の原付きバイクが走っている。父親は既に老人になっている。亡くなる少し手前。たぶん70歳前後ではなかろうか。 と、その父親の操縦する原付きバイクが交差点でモタついたせいで、右折してきた対向車とぶつかりそうになる。見たところ、トラブルの原因は父親の運転の危うさにある。 そこで、私が出ていって相手方に謝罪してその場をおさめる。行きがかり上、原付きバイクには私が乗って行くことになる。 すると、しばらく走ったところで、二人の警察官に呼び止められてバイクをその場に止めるように指示される。 警察官たちはニヤニヤ笑っていて態度を明らかにしない。どうやら私がヘルメットをかぶっていないことをとがめるつもりでいる。余裕の笑顔でこっちを見ている。 この時、私と母親の間で議論がはじまる。 「あなたがヘルメットをかぶっていないのが悪い。まったくなんということだ」「オレはあの事故寸前の現場を収拾することで精いっぱいだった。バイクの運転なんか想定していないのだから、ヘルメットを持って歩いているはずがないではないか」「それでも非はおまえにある。致命的なミスだ」私は激怒してこう宣言する。 「わかった。もうごちそうしてもらいたいとは思わない(←なぜか、この日は母のおごりでレストランで会食することになっていたようだ)。オレは一人で歩いて帰る」 で、その空き地のような場所から見知らぬ街路に向かって歩き始めると、何人かの人間(著名な芸能人が一人と妹の友人だというはっきりしない人物が二人ほど)が、私をなだめにかかる。 「こういう場面で怒りにまかせて行動すると、必ず後悔することになる」「お母様も年齢が年齢なのだから、あなたの方が折れてあげるのがスジだ」などと、彼らは、口々に私の軽挙をいましめ、再考を促す。 ここで私が再び激怒する。「何を言うんだ。オレは少しも悪くないぞ。どうしてオレばかりが責められなければならないんだ」と、大きな声をあげたところで目が覚めた。 心臓がドキドキしている。夢から覚めたことはわかっているのだが、しばらくのあいだ、怒りの感情がおさまらない。仕方がないので、未明の中、起き出してメールチェックやらツイッターの新着メッセージの確認やらを済ませて、再び床に就いたわけなのだが、おどろくことに、夢で目覚めた時点で、すでに9時間は眠っていたのに、そこからまた4時間ほど熟睡してしまう。 この一週間ほど、体力が衰えているからなのか、丸1日をマトモに起きていることができない。今週に入ってからは、毎日14時間以上眠っている。どうかしている。昔からそうなのだが、私は、過眠傾向に陥っている時期に、奇妙な夢を見ることが多い。たぶん、肉体のみならず、アタマも相応に疲れているのだろう。夢の中で激怒せねばならなかったのは、おそらく私が疲労しているからだ。 さて、再び目を覚ましてみて、あらためて思うのは、夢の中で爆発させた自分の怒りの激しさと、その後味の悪さについてだ。 あんなに怒ったのは何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりかもしれない。 いまでも、怒りの余韻がカラダの節々に残っている。この感じは、端的に言って不快だ。 ちょっと前に、ツイッターのタイムライン上でどこかの誰かが言っていた言葉を思い出す。 彼は、現代の日本人が「怒りを表明したり怒りに基づいて行動したりすることの快感に嗜癖している」ように見える旨を指摘していた。それというのも、怒りは、多くの人々にとって、不快さよりはむしろ快感をもたらすもので、特に激怒して大きな声を出した後には、ストレスがきれいに発散されているもので、だからこそ、人々は怒りに嗜癖する、と彼は言うのだ。 そうだろうか』、小田嶋氏が夢をよく覚えているのには驚かされた。「怒りに嗜癖する」との説には、私も違和感を覚えた。
・『私の抱いている感触は正反対だ。 私個人の観察の範囲では、自分自身が怒っていることや怒りを表明することに快感を覚える人間が、日本人の中で多数派を占めているようには思えない。 どちらかといえば、怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ。 事実、私は、夢の中で激怒して大声を上げたことに、目覚めてなおしばらくの間、後味の悪さを感じなければならなかった。怒鳴ることでストレスの発散を実現している人間がいないとは言わないが、そのタイプの人々にしたところで、怒鳴った後にすみずみまでスッキリしているわけではない。必ずや一定の居心地の悪さに苦しんでいるはずだ。 もう一つ思うのは、2019年の日本というのか、あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌しているということだ。 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録している事実を見ても明らかな通り、われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ。 ほんの少し前まで、怒りは、ごく自然な人間の感情の一つであると見なされていた。 いや、ほんの少し前ではない。年寄りの記憶は常に歪んでいる。怒りが、自然な感情として社会的に容認されていた時代の話をするためには、時計の針を最低でも30年分は巻き戻さなければならない。 以下、しばらくの間、昭和の時代の話をする。 30歳以下の人々には見当もつかないことだと思うのだが、われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった。 授業中に大きな声で恫喝したり、生徒に手を挙げたりする教師はそれこそ日本中のあらゆる学校に遍在していたし、部下を殴る上司や、駅員や店員のような人々に向かって怒鳴り散らす客もそこら中に散在していた。もちろん、怒鳴る駅員や客を叱りつける店主もいた。 私が大学に通っていた40年前は、学生の素行も現代の学生のそれと比べれば、明らかに粗野だった。のみならず、暴力的でもあれば直情的でもあり、どう手加減したところで、感情的と言ってあげるのが精いっぱいだった。 感情的であることが良いとか悪いとかの話をしたいのではない。 ただ、どういう理由でそうなったのかまではわからないのだが、この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実で、その事実を、まず読者のみなさんにお知らせするべく、私は昔話をほじくり出しにかかっている次第なのである。 昭和40年代の12月に歌舞伎町に飲みに行く機会があった場合、終電間際の帰り道では、かなり高い確率で路上で殴り合いをしているサラリーマンに遭遇することができた。 殴り合いは、駅のホームでも盛り場の暗がりでも、わりと日常的に勃発していて、そのほとんどは、警察沙汰になることもなく有耶無耶のうちに終結していた。そういう時代の空気の中で、われら昭和の人間たちは、誰かが大声で怒鳴ることや、課長待遇の社員が机を威圧的に叩く仕草を、そんなにびっくりすることなく横目で眺めながら暮らしていた。 何を言いたいのか説明しておく。 こういう話をすると、「ジジイがいきがってやがる」「はいはい殴り合いに動じなかった自慢ですね。続きをどうぞ」「へぇー、野蛮な時代に生まれ育ったとかそういうことでマウント取りに来るわけですか?」みたいな反応が返ってくる。そういう定番のやりとりのくだらなさに、私はうんざりしている。 違うのである。私は武勇伝を語っているのではない。自慢をしているのでもない』、「われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった」のが、「われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ」、と変質したのは確かなようだ。しかし、それは何故なのだろう。
・『ただ、自分が見てきた時代の様相と、いま目の前で動いている社会の雰囲気があまりにもかけ離れているから、その違いを、できるだけわかりやすく伝えようとしているだけなのだ。 実際、われわれが若者だった時代の若者は、いまの若者に比べてずっと率直に喜怒哀楽を表現したものだし、そのことを(少なくとも当時は)特段に異常な振る舞い方だとは考えていなかった。 わりと簡単に暴力に訴えたことも事実だし、直情的であることを若さの特権であるぐらいに考えていたことも半分ほどはその通りだと思っている。 ただ、ぜひわかってほしいのは、私がこんな昔話をしているのは、昔の若者が本当の若者で、いまの若者は若者らしくないとかいった、そういう腐れマッチョな結論を提示したいからではないということだ。 なにより、私は当時の若者としては、滅多に喜怒哀楽を表現しない煮え切らない男であったわけで、その意味では、現代の20代の人々にずっと近いタイプだった。そのことを踏まえて、自分自身の好みの話をするなら、私は、昔の若者よりも、いまの若者のほうがずっと好きだし付き合いやすいとも思っている。 ただ、ここは良し悪しの話をしている場所ではない。 私は、ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振ったのである。 もう10年以上前になると思うのだが、BSの放送で、「男はつらいよ」の第一作が放送されたことがある。 その時、私は、あらためて目の前で動いている40年前(当時から数えて)の映像を鑑賞しながら、自分が多くのシーンに共感できなくなっていることに、あらためて衝撃を受けた。 40年前には、この同じ映画を笑いころげながら劇場で見ていた記憶がある。 それが、いま、シラけた気持ちで画面を眺めている。 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ。 映画の中で、寅次郎は、「その場の空気を読むことをせずに、自分自身の喜怒哀楽をそのまま表現してしまう、正直で不器用なトラブルメーカー」 として、ストーリーを活性化させる役割を担っている。 空気を読まない寅次郎が、立場や儀礼から外れた振る舞いを敢行することで、権威主義者は顔色を失い、気取り屋は顔をしかめ、間に立つ人間は立場を失い、寅の将来を案ずる妹と血縁の者は、ただただオロオロするという、そこのところの悲喜劇が、物語に血肉を与えている。 この物語の世界を共有できる観客は、映画を楽しむことができる。 おそらく、50年前の日本人は、この設定をわがことのように楽しめたはずだ』、「ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化」、なるほど。「男はつらいよ」を観た感想の変化は、社会の変化を雄弁に物語っている。
・『というのも、寅のような日本人は、街のあちこちに実在していたし、親戚中をひとわたり見回してみれば、「正直で裏表が無い半面、考えが浅くて、それがためにのべつトラブルを引き起こしている困ったおっさん」が、一人や二人は、必ずいたものだからだ。実際、昭和のある時期まで、親戚というのは、そういう「困ったおっさん」が持ち込む笑い話を織り込んだ上で運営されている、一種演劇的な集団であったと言っても言い過ぎではない。 しかし、時が流れて社会のデフォルト設定が変われば、寅次郎の物語は無効になる。 私が、10年前にこの作品を見て当惑したのは、この偉大な映像作品の前提のところにある「がさつで直情的な一方で、計算のない正直な愛すべき人柄」としての寅のキャラクターが、平成令和の日本人には、どうしてもハマらなくなってしまっていたからだ。 じっさい、一緒に映画を見ていたメンバーのうちの若い人々は、完全にドン引きしていた。 「なにこのヒト」「最悪じゃん」 じっさい、妹のサクラの見合いの席で酔っ払って下品なジョークを連発する寅の姿は、平成のスタンダードからすると 「最悪」以外のナニモノでもない。 妹の晴れ姿を見た嬉しさに思わずはしゃぐ寅、とかなんとか言うト書きの中の説明文は、言い訳にもならなければ免罪符にもならない。ただただ最悪。無神経で身勝手で浅慮で低能で最悪なうえにも最悪。二度と顔も見たくないタイプの親戚。絶縁モノである。 とはいえ、寅を弁護したくて言うのではないのだが、あの時代には、ああいう日本人が、たくさん生き残っていたのである。寅次郎ほど極端ではなかったにせよ、タイプとして寅次郎おじさんと同一集合の中に含められる人間は、私の親戚の中にも確実に3人は交じっていた。 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった。 ついでに言うなら、乱暴で不潔で押し付けがましい説教垂れの口臭持ちだった。 そこから比べれば、現代の日本人は、夢みたいに上品だ。このことは何度強調しても足りない。 で、ここにある令和と昭和の彼我の違いを踏まえた上で、上品さや賢さの話はともかくとして、昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった、と、私はそのことを申し上げたいのである 昔の方が良かったなんてことは、口が裂けても言いたくない。 実際、昭和はあらゆる意味で地獄だった。 ただ、欠点だらけの昭和の社会の中で、一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだったということは言えるように思うのだな。 昭和の人間は、おしなべて自分勝手だった。ついでに自分本位でもあれば、無神経かつ無遠慮でもあった。 で、それらの迷惑千万な性質の反作用として、彼らは、他人の喜怒哀楽やマナーの出来不出来に対して、おおむね寛大だった。 実際のところは、自分の考えや目論見でアタマがいっぱいで他人の言動には無関心だったというそれだけの話なのかもしれないわけだが、それでも、40年前の日本人が、他人の怒鳴り声をなんということもなく聞き流す人々であったということだけは、この場を借りて記録しておきたい。 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない。 この点においてのみ言うなら、私は、昭和の社会の方が住みやすかったと思っている。まあ、他人に迷惑をかけることの多い人間にとっては、ということなのだが。 最後に、どうして他人の怒鳴り声を聞き流す態度を好ましく思うのかについて、簡単に説明しておく。納得していない読者がたくさんいると思うので。 1カ月ほど前のことだが、ツイッターのタイムラインに以下の趣旨のツイートのスクリーンショットが流れてきた。 《twitter見てると毎日毎日なにかに怒っていて、しかもその怒りの内容が日替わりってヒトがけっこういて、そんなにいろんなことに毎日怒ってばかりいて、長い人生なのに健康大丈夫なのでしょうか。》 誰のツイートであるのかは、この際、たいした問題ではない。というのも、この種の、「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ』、「「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやき」の流行は、本当に困った風潮だ。
・『この種のつぶやきに「いいね」をつけることでやんわりとした支持を表明しているのは、「怒り」や「ギスギスしたもの言い」や「対抗的な言説」や「批判的な立場」を、内容の如何にかかわらず、「円満な人々による円滑なコミュニケーションをかき乱すノイズ」として排除しようとしている人々だ。 で、私の思うに、その人々は、自分のことを「上機嫌で、自足していて、あたりのやわらかい、上品で、裕福で、恵まれた」人間であるというふうに考えている人々でもある。今年の流行語で言えば、「上級国民」ということになるのかもしれない。 「ギスギスした人たちっていやですね」「うーん。議論ばっかりしている界隈ってあたしちょっとNGかな」「ものごとの良い面を見たいよね」「そうだね。誰かの悪い面だとかなにかの欠点をあげつらう前に、共通のうれしいポイントを見つけたいよね」「最低限ニコニコしてるってことが条件なんじゃないかな」「うんうん」「そうだよね。素敵になるためには素敵なことに敏感でなきゃね」てな調子で無限にうなずきあっている人たちだけで、この世界が動かせるとは私は思っていない。 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。 なんだか古典的な左翼の言い草に聞こえるかもしれないが、私は、デカい主語でなにかを語る時には、古典的な左翼の分析手法はいまもって有効だと思っている。 ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。 ちょっと前に《「いつもニコニコしていること」を自分自身の信条として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。》というツイートを投稿したのだが、いくつか届いたリプライが、私の真意をまったく理解していなかったことに、大きな失望を感じた。 自分が自分のためにニコニコすることは、抑圧ではない。 でも、他人にニコニコを求めることは、巨大な抑圧になる。 多くの日本人が正直で無遠慮だった昭和の時代、ニコニコしている人間は、おおむね機嫌の良い人だった。 令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。 私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。 もっとも、義務で笑っているのか心から笑っているのかは、外側からは判断できない。 あるいは、本人にも、わからないのかもしれない。 私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。 真顔ほど正直な表情はない。 真顔を不機嫌と解釈する人間が増えたのは、単に社会の不正直さの繁栄に過ぎない』、「彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ」、安倍政権の嘘、隠蔽にも拘らず、支持率が堅調なのは、国民が「飼いならされた」ためなのかも知れない。

第三に、同じ小田嶋 隆氏による1月10日付け日経ビジネスオンライン「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00052/?P=1
・『正月休みは何もしなかった。 2月刊行(予定)の書籍のゲラを3件と、正月に締め切り(建前上の締め切りはそのまたずっと前だったりするのだが)を設定されている単発の原稿をいくつかかかえていて、本来なら年末年始は仕事に専念しているはずだったのだが、何もできなかった。 私は、まるまる10日間ほど、機能不全のまま過ごしていたことになる。とすれば、少なくとも仕事をしていなかった期間分だけは休めていたはずなのだが、そういう実感はない。むしろ疲労している。何かに追いかけられながら立ち尽くしていた後味だけが体内に残っている感じだ。 おそらく、生来の貧乏性で、長い休みを心安く過ごすことが苦手なのだろう。 ところが、松が明けて、ほぼ10日ぶりに原稿を書き始めてみると、案の定、執筆のための手がかりが、まるで思い浮かばない。 うっかりものを考える人たちは、10日間も無為のままに過ごした後であるならば、それだけリフレッシュして、さぞやアイディアが自在に湧き出てくるはずだと考えたりする。 でも、違うのだ。 休めば休むだけ、アイディアは枯渇する。少なくとも、私の場合はそうだ。 アイディアは書けば書くほど湧き出してくるものだ、と、ポジティブに言えばそう言い換えることもできる。 実際、原稿のネタは、原稿を書いている最中でないと出てこないものだ。だからこそ、Aの原稿を書いていると、別のBの原稿のアイディアが、ふと思い浮かんできたりする。 ということはつまり、アイディアは、瓶の中に入っている有限な液体よりは、むしろ地下水脈に似ているわけだ。掘り進めば掘り進めるだけいくらでも湧いてくる半面、掘る手を休めると、その時点で枯渇してしまう、と、そう考えるのが、たぶん、勤勉な書き手であるための有効な考え方なのだろう。 別の言い方をすれば、勤勉な時間の過ごし方に快適さを感じる意識のあり方を、才能と呼ぶわけだ。 さてしかし、新年の最初の仕事は、怠惰な自分を起動する困難な作業から出発せねばならない。 思うに、正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ。 ポール・サイモンの古いアルバム(“Paul Simon”)の中の一曲に「Mother and Child Reunion」という歌がある。邦題は「母と子の絆」(直訳では「母と子の再結合」ぐらいか)ということになっている。 この歌が収録されているLPレコードを、私は高校生の時に手に入れて、それこそレコード盤が擦り切れるまで愛聴したものなのだが、当の「母と子の絆」については、長い間、母子の間の相克や葛藤を描いた思わせぶりな歌なのだろうくらいに思っていた』、「正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ」、面白い捉え方だ。
・『歌詞カードには、わりとぞんざいな訳詞が印字されていたのだが、全体として了解困難だった。 翻訳を担当した人間が、途中で作業を投げ出したのかもしれない。そういう感じの訳文だった。 英語の歌詞を自力で翻訳することにも挑戦してみたのだが、難解な単語こそ出てこないものの、書いてある内容の抽象性がどうにも手に負えない、やっかいな歌だった。なので、最後まで翻訳することはできなかった。 ところが、そのやっかいな曲について、何十年後かに、私は、インターネット上で、ある海外通の同好の士(つまりポール・サイモンのファンということ)のブログの中で、実に衝撃的な解釈を発見することになる。 ブログ主氏によれば、この歌は、ポール・サイモン氏が、ニューヨーク市内のとある中国料理店で見かけた「mother and child reunion」(←「母子再会」)という名前の中華料理のメニュー(鶏肉と鶏卵を使った料理ですね。日本にも「親子丼」というよく似た名前の料理がありますが)名を面白がって、それを題材に作詞した歌だというのだ。 なんと、わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである。 たしかに、ニワトリとタマゴが中華鍋の中で対話をしている場面を想定しつつ聴き直してみると、 「こんな奇妙な悲しみに満ちた日に、あたしはあんたたちに偽りの希望を語りはしないよ」 「あたしゃこんな低いところに寝かされるなんて思ってもみなかった」 とか「さらに深い悲しみがやってくるその日になれば、あの人らは、『あるがままであれ』とかなんとかいうに違いない」「だけど、そうは行かないよ。人生が続くかぎり、どうせ同じことが繰り返されるんだから」 といった調子の奇天烈で難解だった歌詞の断片が、いちいち得心のいく言葉として聴こえてくるではないか。なるほど。 詳しい歌詞の内容は、JASRACの顔を立てて紹介しない。上記のカギカッコ内の文も、歌詞の正確な翻訳ではない。あくまでもざっとした内容紹介にすぎない。なので、ジャスの人たちは摘発を思いとどまってほしい。 さて、「母と子の絆」の楽曲としての魅力は、本当に中国料理を題材にした歌であったのかは別にして、歌の中で、母親と思しきキャラクターが繰り返している言い分の身勝手さと素っ頓狂さが、母子がともに遭遇しているかに見える意味不明の悲劇の中で、いきいきと描写されている点だ。 その「かあちゃんっぽさ」に、私はいつも励まされたものだった。 なんというのか、母という存在の、圧倒的に理不尽でありながらそれでいてなおかつありがたい後ろ姿が、この歌にある崇高さをもたらしているということだ。 正月にも似たところがある。 ただ、その感触の順序は歌の感想とは逆になる』、「わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである」、事実か否かは別として、面白い。
・『基本的にありがたいものではあるものの、身に降りかかる実感としては、とにかくうっとうしくもめんどうくさい存在としての「家族」が、期間限定のロードショーとして上演されるのが、わたくしども日本の国の「正月」なのである。 1月1日の朝、私は《おせち料理は、「一番おいしいのがかまぼこ」である時点で、ほかのメニューのマズさが証明されている。今年はかまぼこしか食べなかった。もちろん、かまぼこだって、大好きなわけじゃない。かろうじて食べる気持ちになれる食材がかまぼこだけだったという話です。》2020年1月1日-7:33 《お正月は好きになれない。おせち料理、松飾り、年賀状、お年玉、振り袖……どれもこれも血縁と地縁から一歩も外に出ない閉鎖的な人間関係を反映した陋習に見える。でなくても、オレたちをクソ田舎のムラ社会に引き戻そうとする習俗ではある。そもそも全国民が一斉に休む設定がきもちわるい。》2020年1月1日-23:19  《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》2020年1月1日-23:36 《「田舎」という言葉を使うと、毎度のことながら過剰反応する人たちが湧いて出てくる。私としては、「東京とそれ以外の土地」を対比する意味ではなくて、単に「閉鎖的」ぐらいなニュアンスでこの言葉を使用しているのだが、わかってもらえないようだ。》2020年1月2日-0:05 といういくつかのツイートを書き込んだのだが、結果としては、正月早々、少なからぬ人々の感情を害することになってしまった。 原因は、「田舎」という言葉の使いかたが無神経だったからだと思っている。 実のところ、私は、同じミスを、過去にも何回か繰り返している。 「田舎」という言葉を説明抜きで持ち出す時、私は、「東京生まれ東京育ちの人間」と「地方出身者」を区別するための言葉としてそれを持ち出しているのではない。 だから、私自身は、この言葉を差別のための言葉であるとは思っていない。 とはいえ、「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない』、「《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》」、「「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない」、その通りなのだろう。
・『さて、私が自分の中で思っているニュアンスでは、あくまでも「因習的、閉鎖的な、地縁、血縁のコミュニティーから脱却できていない人々の集合」 に対して「田舎」という言葉を当てはめているつもりでいる。 であるからして、その意味での「田舎」に対する反義語の「都会」は、「故郷を捨ててきた人々が集っている場所」「固定的な地縁や血縁とは違う複数のコミュニティーの間を自在に行き来している人々が暮らしている空間」「複線的な人間関係を構築している自立した人々が暮らしている町」 てなことになる。 ということは、東京で暮らしている人々のうちの東京生まれの人間たちは、「自分の住処のすぐ近所に地縁や血縁を持っている人間」であるという意味で、「田舎者」ということになる。実際、東京にはそういう東京在所の閉鎖空間の中で暮らしている田舎者がそこそこ暮らしている。 わがことながら、変な理屈をふりまわしてしまったものだと思っている。 私が独自の意味をこめて使っている「都会人」「田舎者」という2つの言葉は、わかりにくいのみならず紛らわしい。なにより誤解を招きやすい。その点で、端的に申し上げて、愚かな用語法だと思う。その点はさすがに了解した。なので、今後は封印しようと考えている。 文脈にあわせて「閉鎖的な人」「オープンマインドな人」「島国根性」「コスモポリタン」あたりの言葉を代置していった方が賢明だし、それ以前に、多数派の人間に誤解されるような用語法は結局のところ独善にすぎないと思うからだ。 とはいえ、正月に連投した一連のツイートの顔を立てて、ここでは、正月という時間が、単なるカレンダー上の設定ではないことを強く主張しておきたい。正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい。 われわれは、年に一回は、必ずその場所(つまり、「個々の日本人の内なる田舎としての正月」)に立ち戻らなければならない。そういう決まりになっている。 もし、日本から正月がなくなったら、日本は日本でなくなってしまう。 私個人は、日本が日本でなくなったところでかまわないではないかと思っているのだが、どうやら、日本人の多数派は、日本が日本であるために、あるいは、日本人が日本人らしくあるために、せめて正月の三が日ぐらいは、正月らしく過ごさなければならないと、そんなふうに心に決めていたりする。そのわれわれ一人ひとりの悲壮な決意が、互いにとってうっとうしい圧力となって降りかかってくる、おそらくは、正月という習俗の正体なのである。 であるからして、われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか』、「正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい」、「われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか」、面白い捉え方だ。
・『個々の家族内のメンバーは、正月の間、現時点でのキャラクターとは別の古い役割を担わなければならない。 長男は長男として、次男は次男として、何十年か前に演じていたのと同じ家族内の役柄としての「子供」を演じ切らなければならない。そうでないと、「一家団欒」という群像劇の舞台が成立しないからだ。 とはいえ、家族芝居は、再会の挨拶をかわしてからこっちの2 時間で終わるショートムービーではない。紅白歌合戦を眺めながらの和気あいあいの2時間で無罪放免になるのであれば、こんなに楽な話はない。 が、家族芝居は、へたをすると三が日いっぱい上演される。 とてもじゃないが、やっていられない。 白々しい仲良しごっこを演じるノルマが致し方のない仕様なのだとして、本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない。 そうこうするうちに、アルコールの入ったメンバーが、酔いにかこつけて不穏なことを言い出す。そういう決まりになっている。というか、必ずそうなるのだ。 「えっ? 今年30歳て、マジ? なんで結婚しないの?」「兄さんのところはまだ子供ができないわけ?」「長男はそろそろ大学入試だろ? どこを受けるんだ?」「なに? 受けない? 何を考えてるんだ? ◯◯にでもなるつもりか?」 この種のめんどうくさい質問の後にやってくるよりめんどうくさい回答をなんとか回避させるべく、箱根駅伝の若者たちは一心に国道1号線を走っている。 こじつけだと思うかもしれないが、これは本当の話だ。 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている。 「今年は、法政がいきなり遅れちゃったね」「東京国際大っていつからこんなに強くなったんだ?」「青学はさすがにたいしたもんだなあ」などと、家族が共通に見つめる先に箱根駅伝が映る液晶画面がなかったら、日本の正月がどれほど荒廃したものになっていただろうか 奇妙な結論になった。 正月が田舎だったというのは、まあ、わりと迷い込みそうな筋書きではあったのだが、その田舎の地獄から家族を救済するのが箱根の天使たちだったという着地点は、さすがに私も想像がつかなかった。 なんと無責任な結論だろうか。 でもまあ、トシのはじめは毎度こんなものなのだ。 ダメな正月から少しずつ立ち直って行くことで、われわれは毎年自分を作り直している。 ダメな自分のダメな故郷に帰るべく、正月が設定されているのは、福音であるのかもしれない。 などと、無責任なことを申し述べつつタイプを終えたい。今年もよろしく』、「久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない」、現在の家族の仮面を鋭く指摘している。「箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている」、こじつけ的色彩はあるが、なかなか面白い捉え方でもある。
タグ:和田誠 随筆 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) 「和田誠さんがまいたサブカルの種子」 『倫敦巴里』 『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった 「サブカル」の種子 小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった 「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」 怒りに嗜癖する 怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌している 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録 われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実 われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振った 「男はつらいよ」 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった 昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった 一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだった 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない 「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す 平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている 彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ 「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」 正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね 「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ 正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか 本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている
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随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) [文化]

今日は、随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味)を取上げよう。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が5月17日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「書く人間に最も有害な態度」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00021/?P=1
・『先週はまたしてもお休みをいただいた。 名目は、表向き「検査のための入院」ということになっている。 この説明に間違いがあるわけではない。 ただ、今回の入院は、単に検査のためだけのものではない。 もう少しこみいった事情がある。 以前どこかに書いたことがあるのだが、書く仕事をする人間にとって最も有害な態度は隠し事をすることだ。 別の言い方をすれば、隠し事が苦手であることが、書く仕事にたずさわる人間にとって最も大切な資質だということでもある。 そんなわけなので、ここでは、今回の入院について情報公開をするつもりだ。 とは言っても、現時点ですべてを明らかにすることはできない。とりあえず、いまの段階で読者の皆さんに提供できる範囲の情報をお伝えするにとどめる。理由はいずれ説明することになると思う。 簡単に言えば、現在、私はある疾患を疑われている。 こんな事態になったのは、前回の(脳梗塞での)入院の折におこなったいくつかの検査のうちのひとつで、偶然、ある異変が見つかったからだ。 で、脳梗塞の治療を終えて退院した後、異変の原因である病気を見つけるために、私は、さらにいくつかの検査を受けることになった。 ここまでのところは、当欄の通知欄や、私個人のツイッターアカウントを通して説明していた情報に含まれている。 それが、5月8日に受診した折、採血の結果からちょっとやっかいな数値が見つかって、現在は、その数値が示唆する症状を改善するために入院している次第だ。 その数値が意味するところは、主に 1.どこかに病変があるぞ ということと 2.この症状をこのまま放置しておくことは望ましくないぞ ということなのだが、困ったことに、 3.この数値が示唆する症状は、その症状をもたらしている病因をさぐるための検査の障害になるぞ という、なんだかちょっと錯綜した状況を招いている。 で、医師団の当面の選択としては 4.とりあえず、対症療法で、当面の症状を改善して
5.その上で必要な検査を実施する。 そして 6.症状の原因となっている病気の正体を見極めつつ 7.1~6までの経緯を踏まえて治療方針を決定しようではないか と、現在はそういう話の運びになっている。 なんだかややこしい話なのだが、病気というのはどのみちややこしい出来事なのである。 ちなみに、現時点のオダジマは、上記のフローのうちの4番目あたりに位置している』、どう見ても健康的とは言えない生活を送ってきたらしい小田嶋氏が、「脳梗塞」をきっかけに、「異変が見つかった」のはある意味でラッキーだったのかも知れない。
・『抽象的で中身のない話だと思うかもしれないが、現段階でこれ以上の詳細を明かすことはできない。理由は、憶測を語ったところで誤解を広めるだけだし、結論が出ていない事態についての無用な情報漏えいは、単に混乱を招くだけだと考えるからだ。どうかご理解いただきたい。 大切なのは、私が現在、宙ぶらりんの状態にあり、診断のつかない段階で、診断の準備のための治療に専念しているということだ。 体調そのものは、だから、入院中とはいえ、そんなに悪くない。 というよりも、ここしばらくのあれこれで体重が落ちた分、軽快に動けているかもしれない。 ただ、検査や採血や採尿のスケジュールはずっと続いているし、点滴やモニタの管やらケーブルやらもカラダにぶら下がったままだ。 で、有線(ワイヤードな)の端末として最先端医療の恩恵にぶらさがっている状態のオダジマは、体調万全に見えて、事実上は無力だったりする。 というのも、何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ。 にもかかわらず、そんな不自由な状態で私が原稿を書いているのは、ありていに言えば原稿料が必要だからだ。 なんだかなまぐさい話をしてしまった。 治療にはそれなりのカネがかかる。 その一方で、病気で休んでしまうと、いきなり収入が途絶する。 フリーランスの泣き所というヤツだ。 もっとも、書き手の側が原稿料を欲しているからというだけの理由でコラムが掲載されて良い道理はない。 ウェブマガジンであれ、紙ベースの雑誌であれ、読者の側から見て、読むに値する文章でなければ、そのテキストは掲載されるべきではないし、それ以前に原稿料の対象になるべきではない。 そうやって考えてみると、ここまでの何十行かは、書き手であるオダジマの個人的な近況を報告したのみで、情報としての有用性に乏しい。個人的な知り合いなら、あるいは注目して読むかもしれないが、逆に知り合いであれば、上に箇条書きにしたような奥歯に医療用手袋がはさまったみたいなテキストには満足しないだろう』、「何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ」、場面が目に浮かび、思わず微笑んでしまった。
・『ではオダジマと直接の面識を持たない読者はどう思うだろうか。 たぶん、「何を言ってやがる」「お前のプライベート情報なんかオレには一文の価値もないぞ」「しかも、そのプライベート情報自体中身スカスカじゃねえか」と、おそらくその程度の感慨しか抱かないだろう。 そんなわけなので、以上、私の個人的な病状やこれから先の診療計画の話は、ひとまずおしまいにして、この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨を書き記しておくことにする。 この情報は、おそらく、中高年の読者に限らず、若い人たちにも役立つはずだ。 テーマとしては、人間と病気、入院と日常、あるいは人生と時間といった感じの、やや哲学的な話になろうかと思う。着地点は単なる悲鳴になるかもしれない。書き終わってみるまでは何が出てくるのかわからない。原稿はそうやって書かれるべきものだ。 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる。この点については入院という事態を経験した人のほとんどが同意してくれるはずだ。 まず曜日の感覚が曖昧になる。しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ(注:最後の「だ」は不要?)。 たとえば、日常の中で生活している人間は、1週間とか1ヶ月といった単位で時間を区切っている。 で、その、ひとかたまりの時間の長さを一単位として、自分の日常の時間を四則演算の可能なブロックみたいにして取り扱う。 だから、現実世界の中で日常を生きている人間は、日、週、月といった、いくつかの実用的な時間単位を使い分けながら時間を管理し、最終的にそれらを支配しているつもりになる』、「自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる」、私の場合の入院は3日程度だったが、長くなればそんなふうになるのだろう。
・『ところが病院という施設に閉じ込められて外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう。 と、彼は、もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる。もちろん、来週の月曜日に誰某が見舞いに来るとか、次の水曜日にMRIの検査があるといった感じの予定がないわけではないのだが、それらの予定は、こちらが主体となって仕事をしたり準備をするための予定ではなくて、単にカレンダーの進行とともに先方の意思で勝手に流れてくる出来事に過ぎなかったりする。 要するに、入院中の人間は通常の意味で言う「現実感」を喪失するわけだ。 しかしながら入院している当事者に言わせれば、彼は、「病院の中の現実」に適応しているに過ぎない。 というよりも、入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである。 であるから、入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる。 入院を別にすれば、私は、これまで、そんなふうに時間の感覚を喪失した時期を、二度ほど経験している。 そのうちのひとつは、大学に合格した直後に半年間ほど、極端な無気力状態に陥った時期だ。 いま風の言葉で言えば「バーンアウト」ということになるのかもしれない。 とにかく、受験生から大学生にいきなり立場が変わった時、私は、寝る間も惜しんで丸暗記の作業に没頭していたそれまでの数ヶ月間の生活が突然終了したことにうまく適応することができなかった。 おそらく、目先の課題とその日その日の勉強量とその成果にばかり囚われていた時期の、極度に近視眼的な視野が、大学生活という茫漠とした荒野をとらえきれなかったのだと思う。 ともあれ、その時、私は、自分が何をどうやって一日をしのいだら良いのかが皆目わからなくなって、ほとんど3ヶ月ほど外出もろくにできない状態に陥っていた』、「入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる」、まさに「目から鱗」の気分だ。これまで、このことを知らずに、入院患者の見舞いに行って、ひょっとして傷つけるようなことを言ったのではと、遅ればせながら自責の念を感じた。
・『もう一回は、アルコール依存の診断を受けて、断酒に取り組んでいた最初の数年間だ。 この時期、私は「いま・ここ」に集中せずにおれなかった。 ここでいう「いま・ここ」とは、「とりあえず今日一日酒を飲まない」ということだ。 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる。 これは、AA(アルコホリック・アノニマス)やその他の断酒のための組織で言われている一番最初の教条の受け売りに過ぎないのだが、実際に、困難の中で一歩を進める人間は、断酒者であれ、病人であれ、改悛した悪党であれ、誰もが同じように「いま・ここ」に集中するほかに現状を打開する方途を持っていないのだ。 さて、入院患者は、その日その日の細切れのスケジュールとは別に、ぼんやりとした頭の中で、「人生」という単位の時間で抽象的思考を遊ばせる習慣を持つ。 これも、実は現実生活には何ら寄与しない。 だから、入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある。 というのも、こんな世俗から遠ざけられた場所で、週に2回の会議と月に3回の地方出張をこなしている営業マンみたいな調子のタイムスケールを持ちこたえていたら、身が持たないからだ。 本当なら、日常人も、月に一度かそこらは、入院患者の目(つまり、極端に短いタイムスケールと、極端に長いタイムスケールで世界に対峙すること)を持つべきで、同じように、入院患者も、事情が許すタイミングで、外界の俗人たちが味わっているのと同じ試練を味わうべきなのだろう。 そういう意味で、この連載枠が、私の役に立ってくれることを願っている 読者の役に立つのかどうかは、これは、私の側からは、わからない。 目安としては、読み終わって頭がクラクラしているのであれば、少しは役立っているということだ。 理由は説明できない。 いつか、近い将来か遠い将来に、入院したタイミングで、思い当たるかもしれない』、「入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある」、言い得て妙だ。

次に、小田嶋氏が9月6日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「ライターが原稿を書くことの意味」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00035/?P=1
・『8月9日更新分の記事をアップして以来、当欄に原稿を書くのはおよそ1カ月ぶりだ。 その間は、形式上、夏休みをいただいたことになっている。 もっとも、「夏休み」というのは言葉のうえだけの話で、私自身は、必ずしものんびりしていたのではない。 むしろ、物理的に執筆が困難な環境の中で、もがいていたと言った方が正確だろう。 苦しんだことで何かを達成したわけではないし、特段に成長したこともなかったのだが、とにかく私は苦しんでいた。 「えっ? 8月中もいつもと変わらずにツイッターを更新してましたよね?」「ああいう頻度でツイートできていたのだから、原稿だって書けたんじゃないですか?」というのは、一見もっともなご指摘に聞こえる。というよりも、ほとんど図星ですらある。 しかし、実際に私の立場で、このセリフを聞かされてみればわかることだが、ツイッターと有料原稿は、読む側にとってどう見えるのであれ、書く人間の側の立場からすると、まるで性質の違うものだ。 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている。 多少言い回しの工夫に苦労する部分があるにしても、その苦労もまた気晴らしの一部だったりする。 というのも、文章を書くことを好む人間は、技巧的な努力(原稿執筆におけるテクニカルな部分での苦労)に嗜癖しているからだ。だから、書き方を工夫するための苦心には、ほとんどまったく辛さを感じない。まあ、ボールを蹴っている子供と一緒だということです。 引き比べて、ヒトサマから原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う。 この場を借りて、ぜひ強調しておきたいのは、原稿を書く人間を苦しめるものが、執筆前の取材や、執筆中の技巧上の煩悶ではなくて、なにより記事公開後に発生する責任の面倒臭さだということだ。 責任さえなければ、執筆ほど楽しい作業はないと申し上げてもよい。 商業的なメディアに署名原稿を提供する書き手は、事実誤認や誤記があれば、すぐさま謝罪のうえ訂正しなければならない。誰かの名誉を毀損したり、見も知らぬ他人の尊厳を傷つけたりする文章を公開してしまったケースでは、それなりの責任を取る必要が出てくる。 それでも、時には、読者のうちに一定の割合を占めるセンシティブな人々の感情を傷つけるリスクを、あえて冒さなければならない場面もある。 そういう時は、詫びる場合でも、謝罪しないケースでも、どっちにしても書き手が苦しむ選択肢を避けることはできない』、「ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている」、なるほどズバリ本質を言い当てている。
・『してみると、署名原稿に発生するギャランティーは、そうした回避できないリスクに対して支払われていると考えることも可能なわけで、そこからさかのぼって考えるに、原稿を書く作業が苦しみを伴わない可能性は、原理的にあり得ない話だということだ。 今回は、当欄の原稿が3回にわたって掲載されなかった事情を説明しつつ、この際なので、ライターが原稿を書くことの意味について考えてみようかと思っている。 時事的なニュースにいっちょかみをすれば、ネタはいくらでもある。そういう書き方に意義や正当性がないと考えているわけでもないのだが、今回はとりあえず、世間を騒がせている話題からは距離を置いて、自分の仕事について考えることを優先したい。 あらためて振り返ってみるに、一カ月近くまとまった原稿を書かずに過ごしたことは、私の人生の中では、何十年ぶりの経験ということになる。これだけ長い間、執筆という作業から遠ざかってみると、かえって書くことについて考えさせられる。 で、意外だったのは、自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だったということだ。 カンの鋭い読者はすでにある程度見当をつけておいでだと思うのだが、お察しの通り、私は、7月の半ばからしばらくの間、入退院を繰り返していた。 その、今回の入退院をめぐるあれこれは、4月上旬に脳梗塞を発症して以来続いているすったもんだの一部でもある。 より詳しく述べれば、4月の脳梗塞での入院中に発覚したある異変が、以来、断続的な60日間ほどの入院やら検査を呼び寄せていたわけだ。 で、7月の下旬に至って、さまざまな検査や二度にわたる手術を伴う生検の結果、ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ。 8月中の当連載の中断は、その新たに判明した疾患の治療が本格的に始まったことを受けてのものだ。 当然、治療は今後も続くことになる。 が、この治療がいつまで続くのか、先のことは分からない。 治るのかどうかも、当面は分からないというのが適切な言い方になると思う。 で、肝心要のその「病名」なのだが、私は、それを明らかにしないつもりだ。 理由は、ありていに言えば、読者(というよりも、インターネット上の無料メディア経由で拡散した情報をやり取りしている不特定多数の見物人たち)を信頼していないからだ。 私に関して、仮に、「ずっと昔からの忠良な読者」といったような人々が存在しているのだとすれば、その彼らは、どんな病名を知らされたところで、適切な対応を取ることができる人たちであるはずだ。このことに関して、私は疑いを持っていない。また、通りすがりの読者であっても、人としての当たり前の常識を備えた穏当な人間であれば、他人の病気に対して特別に奇妙な反応の仕方はしないだろう。このこともよく分かっている』、「ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた」、というのは何よりだ。
・『しかしながら、無料のウェブメディアに文字情報の形でアップされた特定個人の病名は、あらゆる個人情報がそうであるように、いずれ、文脈から切り離されたデータとして野放図に拡散する宿命のうちにある。その「娯楽情報」は、悪意ある第三者を含む不特定多数の群衆にとっての、格好の玩具に成り果てる。このなりゆきは誰にも阻止できない。 「病名」は、どんな人間のどんな病名であれ、ちょっとした誇張を施すだけで、特定の人間の悲惨な未来を示唆する凶悪な情報に変貌させることが可能だ。 ということになれば、悪意ある人間は、その誇張した部分によって引き起こされる騒動から利益を得ようと考えるはずだし、特段の悪意を持っていない人々も、ひとたび群れ集まって行動する段になると、他人の生老病死を玩弄するゲームへの熱中を制御できない。 とすれば、個人の病名を公共の場で公開するような愚かなマネは、絶対に避けなければならない。 さて、私が執筆意欲を半ば喪失していた理由は、体調と病名以外に、もう一つある。 それは、ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった。 もともと体調がすぐれなかった事情もあるといえばあるのだが、ほかならぬ同業者から 「偉いコラムニスト様にはわからないのでしょうが」 みたいな言い方をされてみると、なんだか、マジメに仕事に戻る気持ちになれなかったのだ。 私がこの言葉に気力をくじかれた理由のうちの半分までは、この「偉いコラムニスト様」という言い方の示唆する内容が、図星だったからだと思う。 実際、私のやっている仕事は、ある立場の書き手からすれば、 「偉いコラムニスト様」と形容するにふさわしい、お気楽な書き飛ばし仕事に見えているはずだ。 というのも、コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ。 私の立場からすれば、自分の書き方で書くほかにどうしようもないという、それだけの話ではあるのだが、一方、私とは違うタイプの書き手から見ると、オダジマの書き方と仕事ぶりは、まるで「地を這う取材みたいなヨゴレ仕事を軽蔑している貴族の書きっぷり」に見えている可能性はある。 実際、ツイッター上で、「それ、あなたの感想ですよね」という定番のツッコミ(←2ちゃんねる創設者であるH氏がこの言葉を発しているテロップ付きの静止画コミのリプライも含めて)を投げつけられた回数は、おそらく何百回を数える。 それほど、コラムニストの「感想」は、軽んじられている』、「「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった」、想像以上に小田嶋氏も繊細な神経の持ち主のようだ。もっとも、そうでなければ、コラムニストなど務まらないのかも知れないが・・・。
・『ちなみに付け加えれば、私は、この、「個人の感想を軽視する態度」が、21世紀に入ってからこっちの時代思潮と呼んでも過言ではない考え方なのだと思っている。 「ファクトに基づかない記事は無価値だ」「取材をしていない書き手による文章は女優さんのエッセーと選ぶところのないものだ」という感じの、漫画の中に出てくるジャーナリズム学校の先生が言いそうなセリフを、なぜなのかSNSに蝟集している素人が二言目には繰り返すのが、この20年ほどのネット上での論争でのおなじみの展開になっている。 してみると、私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ。 なぜというに、さきほども申し上げた通り、この指摘は、半分までは図星でもあるからだ。 ただ、この半月ほどの間、私が、図星を突かれてすっかりヘコんでいたのかというと、そうとばかりも言えない。 図星を突かれた残りの半分で、私は、「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた。 私は、自分を偉い人間だと思っているから、取材に出かけることを忌避しているのではない。 自分が特別な才能に恵まれた類いまれな書き手であるという自覚のゆえに、取材抜きの素朴な感想を書き起こして事足れりとしているのでもない。 私は自分を「偉い」ビッグネームだと考えたことは一度もない。むしろ、一介の売文業者にすぎないと思っている。無論「コラムニスト様」と呼ばれるに足る巨大な報酬を得ているわけでもない。 私の側から言わせてもらえるなら、私は、あるタイプの書き手がなにかにつけて持ち出す 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる。 もっと言えば、「取材もせずに文章を書いているあなたは、よほど自分の中にある才能やら知識やら技巧に自信がおありなのでしょうね」という感じの当てこすりの響きを聴き取ることさえある』、「私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ」、と自省しつつ、「「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた」、反撃に転じたところはさすがだ。
・『こっち側からは、逆に「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる。 この言い争いが不毛であることは分かっている。 だからこれ以上は言わない。この場ではとりあえず、個々の書き手には、それぞれの書き方があって、それは多くの場合、途中から変更できるものではないということだけを申し上げておくことにする。 ジャーナリズムの世界で働く人間は、取材結果を書き起こすことを何よりも重視する。であるから、記事の中に半端な「個人の感想」を付け加える態度を強く戒めてもいる。 「最後のパラグラフは、全削除な。理由? お前の感想なんか誰も聞いてないからだよ」「いいか。取材したことだけを書け。足とウデだけで書け。アタマなんか使うな。分かったかタコ」「お前がお前のアタマで考えたことなんかには毛ほどの価値もないということをよく覚えておけこの腐れ外道が」 てな調子で記者修行を積んできた人たちからすれば、個人の感想でメシを食っている人間は、よほど偉そうに見えるのだろう。 実際、新聞記者の世界で、「個人の感想」を書く人間は、競争を経て論説委員の座を勝ち取った人間か、でなければ「天声人語」みたいな新聞コラムの書き手として抜擢されたエリート記者に限られる。 そういう観点からすると、ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない。 とはいえ、当たり前の話だが、私には私にできることしかできない。だから、私は結局のところ、自分にできるやり方で仕事をすることになるはずで、それができないのであれば諦めるほかにないと思っている。 この半年ほどの闘病を経て、私は、自己決定と自己責任という物語にうんざりし始めている。 具体的に言えば、自分にかかわるすべてを自分が決めるべきだという考え方に、ある安っぽさを感じるようになったということだ。 とにかく、大事なことであれくだらないことであれ、なるようにしかならない。ということは、どうにもならないものはどうにもならないのだからどうしようもない。 奇妙な結論になってしまったが、自分としては、これはこれで前向きな態度だと思っている。 とにかく、私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ』、事実を取材などに基づいて書く記者の仕事と、コラムニストの仕事の本質的な違いを、入院生活で探り当てた姿勢は、さすがプロだ。「私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ」、ますます磨きがかかるであろうコラムに大いに期待したい。
タグ:随筆 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) 「書く人間に最も有害な態度」 今回の入院について情報公開 何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いている この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ 自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる 外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる 入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである 入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる 入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある 「ライターが原稿を書くことの意味」 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている 原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う 自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だった ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ ファクトに基づかない記事は無価値だ 私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ 「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる 「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない 私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ
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知的財産(権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか) [文化]

今日まで更新を休む予定だったが、今日から可能になったので、知的財産(権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか)を取上げよう。

先ずは、経産省出身で慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授の岸 博幸氏が3月15日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/196956
・『ダウンロード違法化の範囲を拡充 著作権法改正法案はなぜ見送られたか  文科省がダウンロード違法化の範囲を拡充する著作権法改正法案を今国会に提出しようとしましたが、世論の強い反発が収まらずに自民党で法案が了承されず、国会提出は見送られることとなりました。 違法コンテンツに対する規制強化は当然ですが、同時にそれに対する懸念の声もよくわかります。ダウンロード違法化について両者が満足できる最適解は、存在するのでしょうか。 今回の著作権法改正法案には、違法コンテンツ対策として2つの柱があります。1つの柱は違法コンテンツが置かれているウェブサイトのURLをまとめ、ユーザをそれら海賊版サイトに誘導する“リーチサイト”や“リーチアプリ”に対する規制の導入です。 具体的には、リーチサイトの運営者やリーチアプリの提供者には刑事罰(非親告罪)を科し、またリーチサイトやリーチアプリにリンク情報などを提供した者に対しては、権利者の民事措置(差止請求、損害賠償請求)を可能にするとともに、刑事罰(親告罪)も科しています。 著作権者に無断でアップロードされた違法コンテンツは、リーチサイトにリンクが貼られることで62倍も多く視聴されてしまう(電気通信大調査)という現実を踏まえると、リーチサイトやリーチアプリへの規制の導入は当然の措置です。実際、この点については識者や世論の反発もほとんどありません。 これに対して、違法コンテンツ対策のもう1つの柱であるダウンロード違法化については、弁護士や漫画家といった方々から強い懸念と反対の声が上がり、結果として法案の国会提出が見送られることになりました。そこで、このダウンロード違法化についてすべての人が満足する最適解が存在するかを考えてみたいと思います』、なかなか興味深そうだ。
・『どこまでが違法なのか 文科省は悪影響に配慮も  その前に、おそらく多くの方が今回のダウンロード違法化の詳しい内容をご存じないと思いますので、説明しておきましょう。 ダウンロード違法化とは、ネット上に違法にアップロードされたものだと知りながら違法コンテンツをダウンロードすることを、それが私的使用目的であっても違法とし、特に正規版が有償で提供されているもののダウンロードを継続的に、または反復して行う場合には、刑事罰(親告罪)の対象とするものです。 音楽と映像については、すでにこのダウンロード違法化が行われているのですが、ネット上では漫画や雑誌など幅広い分野で違法ダウンロードの被害が生じていることから、今回の法改正では、音楽・映像に限らず違法にアップロードされたすべての著作物をダウンロード違法化の対象としようとしています。 ただ、ネットが情報収集の最大のツールとして活用され、かつネット上のコンテンツが違法にアップロードされたかどうかを見極めるのが困難である現実を考えると、無闇になんでも違法とすべきではありません。 そこで、違法にアップロードされたコンテンツだと知らずに(適法か違法かの判断がつかずに)ダウンロードした場合は違法とならないし、またネット上で適法に引用されたものと思ってダウンロードしたけれど実際は違法な引用だった場合など、適法・違法の評価を誤った場合も違法とならない旨が明確化されました。 また、そもそも当たり前の話ですが、違法にアップロードされたコンテンツであっても、ダウンロードせずに視聴するだけなら違法となりません。  加えて、刑事罰についても、それを科されるのは継続的にまたは反復して行われるという常習性がある場合に限られ、かつ二次創作者が原作者の許諾なくアップロードした二次創作物のダウンロードは対象外とされています。 このように、ある意味、ダウンロード違法化の具体策を検討した審議会での有識者の反対意見なども踏まえ、文科省はダウンロード違法化の対象を著作物全般に拡大する悪影響にかなり配慮した、と言うこともできます』、「ダウンロード違法化の対象」はかなり限定されたようだが、それでも問題があるようだ。
・『不利益を被っているはずの漫画家でさえ反対するのはなぜか  それでも、今回の著作権法改正に対しては、弁護士や有識者、さらには違法ダウンロードにより不利益を被っているはずの漫画家の組織である日本漫画家協会も、強い反対を表明しました。 反対の主要なポイントは、ネット上の情報収集ではスクリーンショットなどが当たり前に行われている中でネット利用の萎縮につながる、漫画などの研究や創作を阻害する、といった点になるかと思います。すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます。 ただ、だからといってダウンロード違法化の範囲を音楽と映像以外に拡充しないという選択肢もないと思います。クリエイターが全知全能を振り絞ってつくり上げた作品がネット上で違法に享受され、クリエイターが正当な報酬を得られないようでは、クリエイターは生活のために別の仕事をせざるを得なくなるので、文化の衰退につながりかねないからです。 それでは、どうすればいいのでしょうか。現実的な制度設計が可能かどうかを度外視して考えると、やはりダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか。 たとえば、スクリーンショットは基本的にダウンロード違法化の例外としてもよいのではないかと思います。レコードやCDの音楽をカセットテープに複製するのは、著作権違反ではありません。これは、カセットにダビングするのは基本的に自分で楽しむためという私的利用が目的であることに加え、カセットというアナログ媒体に複製したら音質が劣化するという面もあるからです。 いくらデジタルのネット上でも、スマホの画面を撮影するスクリーンショットだと画質が多少は劣化することと考えれば、スクリーンショットはカセットへのダビングと同列に扱える部分もあるのではないでしょうか。 また、ダウンロード違法化の刑事罰が親告罪であることを考えると、ダウンロード違法化の対象となることを望まないコンテンツのジャンルごとの業界団体なり個別の作者なりがいる場合に、刑事罰を親告する権利を明示的に放棄する、または繰り返し複製するなど悪質性が高い場合のみに親告するといった条件を宣言しやすくする仕組みを、導入する手もあるのではないでしょうか』、「すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます」、ただ「ダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか」、との筆者の考え方も理解できる。
・『ダウンロード違法化の最適解はあり得るか  過去に“creative commons”など、同様に著作権を自ら放棄する取り組みもありましたが、それらを参考にダウンロード違法化に反対するクリエイターなどが、自らの作品をその対象外であると宣言しやすくするのです。 個人的には、このように柔軟な対応を考えることで、基本的には違法なコンテンツのダウンロードはダメ、でもその例外を制度的に多く担保することでネット利用の萎縮などの悪影響を最小限に抑えるようにする、というアプローチでしか、最適解は見出せないのではと思います。 著作権法改正法案の国会提出が先送りになったことで、文科省はダウンロード違法化の制度設計を再検討することになると思います。このような柔軟な対応をどう検討していくのか、見守っていきましょう』、その通りだろう。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が7月12日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「JASRACは何と戦っているのだろうか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00030/?P=1
・『音楽著作権をめぐる問題は、当欄でもこれまでに何回か取り上げている。 この問題は、私が「テクニカルライター」という肩書きで、IT(当時はまだ「IT」という言葉は発明されていませんでしたが)まわりの原稿を書いていた1980年代から90年代にかけて、いくつかの媒体で記事化している。 当時から私の立場はわりと一貫している。 この20年ほど、私は、日本音楽著作権協会(=JASRAC。以下「ジャスラック」と表記します)が著作権使用料を要求する対象が拡大の一途をたどってきたことに、その都度 「行き過ぎじゃないか?」「その要求は無理筋だと思うが」と、違和感ないしは疑義を表明してきた。 もちろん、ジャスラックから回答なり反応なりが返ってきたことはない。 私が一方的にいいがかりをつけてきただけの話だ。 一時期は、「ジャスラック」という単語を自分の原稿の中に書く時に、必ず「シャイロック、じゃなかったジャスラック」というふうに、わざと一度言い間違えてから言い直すメソッドを採用していた。 ネタとしては「ベニスの商人」(シェイクスピア作)の中に出てくる、強欲な金貸しであるシャイロックとジャスラックの混同を狙ったセコいやり口なのだが、しばらくの間はそれなりに有効だったと思っている。 余談だが、つい先日、安倍晋三首相が、参院選の選挙の応援演説の中で、「民主党の、あ、すいません、民主党じゃなくて立憲民主党ですね。どんどん政党が変わるから分からなくなってしまいました。その立憲民主党の枝野さんは党首討論で…… ―略―」と、立憲民主党の枝野幸男氏について言及する際に、「民主党の」と言い間違えたあとに、あらためて訂正する内容の演説を繰り返しているというニュース が流れてきた。 ハフポストがまとめたところによると、首相の「言い間違い演説」は、6日午後の滋賀県草津市での街頭演説で確認されてから後、翌7日は、千葉県内と東京都内で行った計6カ所すべての街頭演説で同じように反復されたのだそうだ。 意外なところに「シャイロック、じゃなかった、ジャスラック」手法の追随者を発見したカタチだ。 もちろん私は、安倍首相のスピーチライターに「故意の言い間違いによるダブルイメージ拡散手法」に関しての著作権使用料を請求するようなことはしない。なんとなれば、文化とは先人の優れた業績を踏まえたところから出発する何かで、その意味からして、自分の仕事が誰かに模倣されたと感じた時、怒りよりは、むしろ晴れがましさを感じるのが本当の人間だと考えるからだ。 話を元に戻す。 ジャスラックは、この30年ほどの間に、著作権使用料の請求先を、演奏家、歌手、レコードCDの制作者、放送、雑誌、新聞、書籍のような商業的なマスの媒体から、有線放送、飲食店の店内音楽、さらにはダンス教室、商店街のBGMに至るまでの、およそありとあらゆる個人に拡大してきている。加えて、彼らは、音楽がファイル化して流通するようになって以来、音楽ファイルが記録され得る媒体(つまり「想定し得るあらゆるすべての媒体」ということになる)に、音楽が乗せられることを想定して、CD-RやDVD-Rのような記憶媒体、ハードディスク、果てはスマホやパソコン本体にあらかじめ補償金を徴収するシステムの確立を画策していると言われる。 いささか古いソースだが、リンク先の記事 にこのあたりのいきさつが詳しく紹介されている』、「首相の「言い間違い演説」、確かに私にも鼻についた。
・『さて、このたび、われらがシャイロック、じゃなかったジャスラックは、音楽教室に職員を潜入させることで教室内での音楽の扱われ方を調査する手段を採用した。 リンク先の記事によれば 《―略― JASRAC側が東京地裁へ提出した陳述書によると、職員は2017年5月に東京・銀座のヤマハの教室を見学。その後、入会の手続きを取った。職業は「主婦」と伝え、翌月から19年2月まで、バイオリンの上級者向けコースで月に数回のレッスンを受け、成果を披露する発表会にも参加した。 ―略―》ということになっている。 びっくり仰天だ。 いったいいつの時代のゲシュタポのやりざまだろうか。 でなければ、ずっと昔にある漫画で読んだ「柳生の草」(←ググってください)の現代版とでも考えたものなのだろうか。 私は、民主的だと言われているわが国の戦後社会の中で60年以上生きてきた人間だが、これほどまでにあからさまなスパイ活動を堂々と敢行して恥じない組織が、自分たちの主張に耳を傾けてもらえると信じている姿を、いまはじめて見た気がしている。 思うに、ジャスラックが潜入職員を立ててまで立証せんとしていたのは、 1.ヤマハの音楽教室では、「音楽」がまるでコンサート会場でそうされているように、生徒によって「鑑賞」され、「享受」され、金銭を媒介する手段として「流通している」 ということなのだろう。 というのも、ジャスラックとヤマハの間で争われている訴訟では、現在、教室内で演奏される音楽が、演奏技術を伝えるためのものなのか、それとも「鑑賞目的」なのかという点と、もう一つは、教室に通っている生徒が、営利目的で演奏を聴かせる対象としての「公衆」に当たるのかであるからだ。 ちなみにヤマハとジャスラックが争っている訴訟の争点については、以下の記事 が詳しい。興味のある向きは熟読して内容を吟味してほしい。 さて、潜入職員は、レッスンでの演奏の様子について、「とても豪華に聞こえ、まるで演奏会の会場にいるような雰囲気を体感しました」と主張している。 演奏を聴いていた生徒たちについては、「全身を耳にして講師の説明や模範演奏を聞いています」という言い方で描写している。 つまり彼ら(ジャスラックとその潜入職員たちのことだが)は、レッスン時に試奏されている音楽が、「事実上コンサートの音楽として」流通しており、生徒たちも、「有料入場者たる聴衆に近い聴き方で」その音楽に向き合っているということを主張しているわけだ。 なぜというに、彼らの側の理屈からすれば、作曲者の存在が明示的に共有されている特定の楽曲が、金銭の授受を伴う音楽として流通しているのだとすると、そこには当然、著作権使用料が発生するはずだという理屈になるからだ』、JASRACが音楽教室に「潜入職員」でスパイさせていたというのは、私もそこまでやるのかと、驚かされた。彼らの主張もいささか手前勝手な印象を受けた。
・『さてしかし、音楽教室の側の立場からすれば、講師が全力を尽くして最高の演奏を披露しようとするのは、教育者として当然の姿勢だ。 というよりも、どんな分野であれ、他人に何かを教える人間が、全身全霊でその任に力を尽くすのは、「教育」という行為の大前提だ。 同様の理路から、生徒が「全身を耳にして模範演奏を聞く」態度も、同じく、音楽を学ぼうとする人間としての最も基本的な態度だ。 というよりも、そもそも教える側がぞんざいな演奏をしていたり、学ぼうとする側が、いいかげんな態度で聞いていたのでは演奏技術はもとより、「音楽」のエッセンスそのものが伝わらない。 野球でもフィギュアスケートでも、コーチは全力の模範演技を見せて、生徒に競技の真髄を伝えようとする。 「鑑賞」のうえ拍手をしてもらいたいからではない。八分の力で投げるピッチングフォームや、3回転から2回転にグレードダウンした模範演技では、伝えようとするところの最も大切なスキルやテクニックが伝わらないからでもあれば、100パーセントの集中をもって競技に臨まない態度は、故障につながりかねないからだ。 山岳警備隊のトレーニングがザイルの代わりにビニール紐を代用として敢行できるはずもなければ、料亭の板前が発泡スチロールを切り刻むことで包丁さばきを学ぶわけにもいかない。音楽を学び伝えるためには、本物の音楽を、本気の集中力でやりとりしなければならない。あたりまえの話ではないか。 おそらく、ジャスラックは、「教育目的で音楽が演奏されている」場所に、著作権使用料が発生していない現状が不満で訴訟を起こしたのだろう。 彼らにしてみれば、「教育目的、レッスン目的であれ、一定数の聴衆が音楽を聴き、その人々に向けて、楽曲が演奏されている事実は変わらない。だとすれば、教育という隠れ蓑の裏で、やりとりされている闇流通の音楽に対してもわれわれは支払いを要求する」 てなところなのだろう。 しかし、そもそも、生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入している。その楽譜の出版にあたっては、すでに著作権使用料が支払われている。さらに生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている。これらの音源についても当然のことながら著作権使用料がのせられている。 その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか。 理屈の話をすれば、もっと細かい話だってできる。 もっとも、ジャスラックの側からも、別の論点からの違った細かい話が出てくるだろうとは思う。 ただ、今回の報道で私がなによりも衝撃を受けたのは、音楽教室に潜入捜査員を送り込んで訴訟のための資料を収集しようとしたジャスラックの、その取り組み方の異様さに対してだ』、「生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入・・・すでに著作権使用料が支払われている。さらに生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている・・・著作権使用料がのせられている。その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか」、JASRACの主張は余りに一方的だ。
・『ジャスラックは、何と戦っているのだろうか。 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか。 ヤマハは、日本にはじめて西洋の音楽が入ってきた時代から、一貫して、楽器を作り、楽譜を出版し、音楽教室を展開し、音楽ホールを設計し、レコードやCDを制作し、コンサートを企画し、新人の音楽家を発掘してきた企業だ。 もちろん、彼らとて営利企業である限りにおいて、音楽をカネに変える活動をしてきていると言えばそうも言えるだろう。しかし、総体として、ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。 私は疑問に思っている。 彼らは、音楽家の権利を守ると言っている。 しかし、音楽家の中にも、自分たちの権利を守ってくれている団体であるのかどうかについて疑問を持っている人々がたくさんいる。 この話はまた別の議論になるので、ここでは深く追究しない。 ただ、私は、今回、 私の目から見て、ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない。 訴訟で争われている事例では、音楽講師と生徒が「美女と野獣」という楽曲を交互に演奏したことになっている。 で、その演奏と鑑賞の相互作用の中に音楽著作権を不当に侵害する行為が含まれていたのかどうかが争われているわけなのだが、仮に「美女と野獣」という個別の楽曲に含まれる作曲者の意図や工夫が、音楽講師の卓越した演奏を通じて、生徒に伝えられていたのだとして、「音楽を学ぶ」という文脈から見れば、教える者から教わる者に伝えられているのは、単独の著作者による個別の楽曲の細部ではなくて、「音楽そのもの」とでも言うべき技法なり演奏術なりの真髄であるはずだ。 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている。 ただ、その苦しいレッスンの抑圧的な記憶はともかく、私の身体の中には、わずかながら「音楽そのもの」が伝えられている。それは、特定の作曲家の個別の作品とは別のものだ。その、もっと普遍的な「音楽なるもの」を伝え、再現し、楽しむために、われわれは、楽器を発明し、楽譜を書き、レコードを回し、ストリーミング配信のための環境を整えている。そこにおける主役はあくまでも「音楽そのもの」であって、「特定の楽曲に含有されている誰かの権利」みたいなみみっちいものではない。 音楽は、そうやって人から人に伝えられていくものだ。 カネや著作権は、そうした音楽の流れの周辺に発生するノイズにすぎない。 ジャスラックは、人が人に音楽を教えている現場にスパイを送り込んだ。このことは、同時に、人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。 これはとても罪深いことだ』、「ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない」、「人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。 これはとても罪深いことだ」、などというのは同感だ。「私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている」、との告白の意外さに驚かされたが、この問題へのコメントにも深みが出た気がする。
・『そのスパイ行為を通じて、彼らがどんな情報を収集しようとしていたのかということとは別に、身分を偽った訴訟相手の手先による情報収集というそのやりざまのあまりといえばあまりな醜さが、音楽そのものを根本的な次元で台無しにしてしまっている。 音楽から何かを取り出すために、音楽そのものを殺してしまっては元も子もないと思うのだが、ジャスラックはまさにそれをやろうとしている。私にはそのようにしか見えない。 たとえばの話、おたまじゃくしをつかまえたいと思った子供がいたのだとして、私は、あの可憐な生き物を自分の手の中の小さな池で泳がせてみたいと考える童心を、責めようとは思わない。 でも、その子供が、おたまじゃくしをつかまえるために、春の小川にガソリンを流し込んで火をつけたのだとしたら、私は、その子供の行為を決して容認しないだろう。 問題は意図ではない。どんな崇高な意図(音楽を守りたい)に基づいているのだとしても、それを実現するための手段が破壊的であったら、何の意味もない。 野の花を摘むための手段がブルドーザーだったら押し花も恋文も無効になる。当然だ。 シャイロックは、生きている人間から心臓だけを取り出すことができると考えた男だった。 ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか。 抽象的な話になってしまった。結論は無い。各自考えてください。 私の子供時代のピアノの先生は、今年の3月に90歳で亡くなった。 レッスン自体にはあまり良い思い出はないのだが、私の中に根付いたいくばくかのものをもたらしてくれた先生の貢献にはいまでも感謝している。ご冥福をお祈りしたい』、「ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか」、というのは最大限の嫌味だ。JASRACのHPでは事業目的は、「音楽の著作物の著作権を保護し、あわせて音楽の著作物の利用の円滑を図り、もって音楽文化の普及発展に寄与すること」とあるが、著作権保護に偏り過ぎて、最終目的の「音楽文化の普及発展に寄与」が疎かになっているのだろう。
タグ:知的財産 音楽著作権 日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン 岸 博幸 小田嶋 隆 (権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか) 「権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解」 著作権法改正法案を今国会に提出しようとしましたが、世論の強い反発が収まらずに自民党で法案が了承されず、国会提出は見送られることとなりました 違法コンテンツ対策として2つの柱 1つの柱は違法コンテンツが置かれているウェブサイトのURLをまとめ、ユーザをそれら海賊版サイトに誘導する“リーチサイト”や“リーチアプリ”に対する規制の導入です この点については識者や世論の反発もほとんどありません もう1つの柱であるダウンロード違法化については、弁護士や漫画家といった方々から強い懸念と反対の声が上がり、結果として法案の国会提出が見送られる 今回の法改正では、音楽・映像に限らず違法にアップロードされたすべての著作物をダウンロード違法化の対象としようとしています 不利益を被っているはずの漫画家でさえ反対するのはなぜか すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます やはりダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか ダウンロード違法化の最適解はあり得るか 「JASRACは何と戦っているのだろうか」 著作権使用料を要求する対象が拡大の一途 「シャイロック、じゃなかったジャスラック」 安倍晋三首相が 立憲民主党の枝野幸男氏について言及する際に、「民主党の」と言い間違えたあとに、あらためて訂正する内容の演説を繰り返しているというニュース 「言い間違い演説」 音楽教室に職員を潜入させることで教室内での音楽の扱われ方を調査する手段を採用 これほどまでにあからさまなスパイ活動を堂々と敢行して恥じない組織が、自分たちの主張に耳を傾けてもらえると信じている姿を、いまはじめて見た気がしている 立証せんとしていたのは、 1.ヤマハの音楽教室では、「音楽」がまるでコンサート会場でそうされているように、生徒によって「鑑賞」され、「享受」され、金銭を媒介する手段として「流通している」 ということなのだろう 訴訟では、現在、教室内で演奏される音楽が、演奏技術を伝えるためのものなのか、それとも「鑑賞目的」なのかという点 もう一つは、教室に通っている生徒が、営利目的で演奏を聴かせる対象としての「公衆」に当たるのかであるからだ 生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入している。その楽譜の出版にあたっては、すでに著作権使用料が支払われている 生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている。これらの音源についても当然のことながら著作権使用料がのせられている その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。 私は疑問に思っている ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている スパイ行為を通じて、彼らがどんな情報を収集しようとしていたのかということとは別に、身分を偽った訴訟相手の手先による情報収集というそのやりざまのあまりといえばあまりな醜さが、音楽そのものを根本的な次元で台無しにしてしまっている ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか 著作権保護に偏り過ぎて、最終目的の「音楽文化の普及発展に寄与」が疎かになっている
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英語(楽天は英語公用化でどう変わった?担当者に直撃、厚切りジェイソン「WHY英語を話せない?」 出世のために勉強しても絶対に上達はしない、翻訳AIの進化でこれ以上の英語学習は不要? 専門家NICT隅田氏に聞く) [文化]

今日は、英語(楽天は英語公用化でどう変わった?担当者に直撃、厚切りジェイソン「WHY英語を話せない?」 出世のために勉強しても絶対に上達はしない、翻訳AIの進化でこれ以上の英語学習は不要? 専門家NICT隅田氏に聞く)を取上げよう。出所は日経ビジネスオンラインの特集である。

先ずは、12月4日付け「楽天は英語公用化でどう変わった?担当者に直撃 海外不振は公用語化失敗ではない。今はノウハウ外販も」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問、+は回答内の段落)
・2010年に英語公用語化を宣言し、第一次英語ブームの口火を切った楽天。全社員へTOEIC800点取得を要求し、国内向け部署でも英語会議を義務化するなど、その施策は他の公用語化企業と比べても最も急進的な内容だった。
・あれから7年で社内はどう変わったのか、公用語化の果実は得られたのか。社内の制度設計に関わり、現在は公用語化のノウハウを生かした教育事業などに携わる葛城崇・教育事業部ジェネラルマネージャーと、葛城氏の後任として英語推進を担う周藤俊昭・人材開発課シニアマネージャーに話を聞いた。
Q:2010年から英語公用語化の準備を始め、12年から実施。これまでの成果を聞かせてください。  葛城崇・教育事業部ジェネラルマネージャー(以下、葛城):10〜13年に英語公用語化の推進役を務めました。宣言から7年経って、会社の一番の変化はダイバーシティ(多様性)だと思います。公用語化前は国内の外国人比率が2%。今は20%を超え、エンジニアでは50%近くになります。世界70カ国以上から社員が集まってきていますが、エンジニアでいえばインド、中国が多い。両国の有名大学から優秀な学生を新卒採用できるようになりました。
+個人レベルでの大きな変化は、キャリアの選択肢が広がったということでしょう。現在TOEICの点数は、帰国子女などを除いた平均で830点超。海外の展示会や研修の派遣にほぼ全員が参加できるようになっています。海外赴任も身近になったし、海外子会社の社員も英語で仕事ができるので日本に来やすくなりました。
▽次の一手は異文化理解
Q:どんな課題が残されていますか。
葛城:TOEICはあくまで一つの目安です。基礎力をつける段階が終わり、今後は具体的に全世界でビジネスを加速させていく段階に入っていきます。そのための準備として、異文化理解を深める研修も10月から新たに始めました。
周藤俊昭・人材開発課シニアマネージャー:異文化理解の研修は専門の外国人講師を呼び、ベーシックとアドバンスの2種類の講座を開いています。研修で伝えたいことは、外国人との違いを理解し、受け入れるということです。文化の違いは肌感覚でわかっていることもあるでしょうが、体系だった学問として学んでもらいます。
+ベーシックでは「日本人は行間を読み多くを語らない」といった国毎のコミュニケーションの特徴を学び、自身がどの文化に近いかを考察します。その上で、文化の違いを乗り越えてうまくコミュニケーションをとるアイデアを出し合う。アドバンスでは、ベーシックの内容を踏まえ、実際に業務で抱えている問題の解決方法を議論してもらいます。
Q:英語塾の開講や英語アプリの開発にも取り組んでいます。外部企業へ公用語化のノウハウを伝授するコンサルティング事業も始めていますね。
葛城:ダイハツ工業などにコンサルサービスを導入していただいています。クライアントの数は10社ぐらいですね。公用語化を既に宣言している企業、一部の部署だけで実験的に導入しようという企業、取り組みの方法は様々です。
+英語は学習時間が大事です。毎日15分でもいかにコツコツやるか。いかに全員でやりきるか。英語学習を歯磨きのようにやらなくては気持ち悪い生活習慣にしてしまう。そのノウハウを伝えたり、制度設計のサポートをしたりしています。
Q:楽天流の英語推進のポイントは何でしょうか。
葛城:まず、グローバルな部署はもちろんドメスティックな部署でも関係なく対象にしたこと。社員それぞれの学習量や到達レベルを見える化して、経営陣まで共有したこと。そして、人事部でトレーニングを考案するなど全面的なサポートをしてムーブメントに昇華させたことだと考えます。
Q:全員を巻き込むというのは難しいことですよね。業務に普段から使わなければ、モチベーションも湧かないのではないでしょうか。
葛城:楽天は若い社員が多かったこともあるでしょうが、必要性を理解している人が多かったと思います。少子高齢化の日本だけで勝負し続けるのが限界なのは明らかです。社員も、英語は苦手だけどやらなきゃいけない、という思いを持っていたようです。
Q:楽天は国内でもM&A(合併・買収)を多く手がけています。ドメスティックな文化に馴染んでいた買収企業の社員は辛かったのでは。
葛城:今は英語はいらないかもしれない。でも人事異動でグローバルな部署に行けば、その日から英語が必要になります。また、インターネットで日本語と英語のサイトの数を比較すると、実に10倍にもなります。つまり、英語ができる人はできない人の11倍の情報収集能力を持つことになる。このことは社員もわかっていたんです。英語を学ぶよう納得させたというよりは、社員が思っていたことを改めて伝えたという方が正しいでしょう。
▽「英語の成長は階段状」
Q:そのモチベーションを維持するポイントは何でしょうか。
葛城:スポーツと一緒で、英語の能力は右肩上がりの直線ではなく、階段のように伸びていきます。しばらくは成長の実感がなかなか得られないが、あるとき突然伸びる。この最初の一段を登るまでサポートするのが重要です。そのためにはトップダウンの命令だけでなく、英語の勉強を楽しんでもらう仕掛けも必要。楽天ではゲーム形式で英語を学べるトレーニングを開発しました。
Q:TOEICの目標を達成するまで居残る合宿なども開催していました。これだけ投資をかけて見合う効果はあったのでしょうか。
周藤:英語公用語は企業としての戦略です。通常の人事予算とは違う枠組みで投資をしました。こうした形で組織が活性化することもあります。日本において英語で働ける企業といえば楽天、というイメージもできました。人材獲得にかける広告費を削減できた側面もあります。
Q:英語公用語化のKPI(重要業績評価指標)はどのように設定したのでしょうか。
葛城:最初期はアンケートで会議やメールがどれだけ英語化されているのかをモニタリングしていました。そのあとはTOEICなどのスコアと学習時間で管理しました。人材育成の課題なので、どれだけ投資効果があったのかを厳密に見極める指標を設定するのは難しい。
Q:英語公用語化の目的は事業のグローバル化でした。直接的に海外事業に貢献したとはいえるのでしょうか。特に昨年度は英国など海外事業の撤退が相次ぎました。
葛城:楽天は海外M&Aで手堅い案件には手を出さない。買収企業とシナジー効果を出しながら一緒に成長していくという方針です。だから、苦労する事業も当然出てくる。これは英語公用語とは関係のない話です。
+英語公用語化のメリットを強調する楽天だが、7年前は「日本で働く社員まで英語を話すなんて無駄だ」などと批判の声も多かった。その懸念は一部で現実になっている。英語公用語化による副作用としては、社内の雰囲気の悪化や、外国人技術者の草刈り場になったという声が聞こえてくる。そうした現場の様子は本誌の特集記事の中で詳しく解説している。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/113000186/113000002/?P=1

次に、12月5日付け「厚切りジェイソン「WHY英語を話せない?」 出世のために勉強しても絶対に上達はしない」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問)。
・「Why Japanese People!」という決めセリフで知られる芸人の厚切りジェイソン氏。実は米ゼネラル・エレクトリック(GE)などでの勤務経験があり、現在はITベンチャーの経営にも関わるビジネスマンだ。12年前、旭化成のインターンとして日本に1年間滞在、その後、独学で日本語を習得。今も毎日、日本語の勉強を欠かさないというジェイソンさんに、外国語の学び方について聞いた。
▽出世のための勉強では英語はできるようにならない
Q:日本では管理職になるにはTOEICで700点以上、といったルールを定めている企業も多く、それを目標に多くのビジネスマンが英語を学んでいます。はたして、そのような勉強をしても、英語を話せるようになるのでしょうか。
厚切りジェイソンさん(以下、ジェイソン):それ、おかしいですよね。出世のために勉強するのですか。勉強のインセンティブにはなっても、最終的に、求めた結果にはならないと思いますよ。
Q:実際に、TOEICの点はよくても話せない人という人も少なくありません。
ジェイソン:それはね、話そうと思っていないんです。
Q:いえ、みんな話せるようになりたいとは思っていると思います。
ジェイソン:そうですか? 話せるようになりたいなら、そうなるように勉強すると思いますよ。決して、勉強をしている人を否定するつもりはないのですが。
Q:話せるようにならないとまずい、と思っている人は間違いなく増えています。海外企業に買収されたり、海外に進出したりする日本企業も多いので。
ジェイソン:全員ができるようになる必要はないと思いますが、英語を話せることでチャンスは広がるでしょうね。勉強すると決めたら、やるしかないでしょう。
▽1日5分でいい。楽しめば続けられる
Q:必要な人は覚悟を決めて、やればいいと。
ジェイソン:米国でゼネラル・エレクトリック(GE)に勤めていたとき、ロシア人や中国人、インド人と一緒に働いていましたが、何を言っているか分からないレベルの英語の人もいたんです。でも、その人がスキルを持っているから、誰も気にしませんでした。 だから、英語ができなくても、すごく優秀な人になるか、能力もあって英語も上手になることを目指すか、その人次第ではないですか。
Q:ジェイソンさんも日本語を相当勉強されてこられたのですよね。
ジェイソン:10年間、1日5分でも、毎日欠かさず続けています。 10年勉強すれば、英語は話せるようになりますよ。自分が10年後、どうなりたいか、考えてみてください。
Q:なるほど。10年間、毎日ですか。強い決意が必要ですね。
ジェイソン:強い決意はいらないよ。歯磨きするのに、決意する?
Q:しません。
ジェイソン:ですよね。楽しく続ければいいんですよ。
Q:勉強するときに、終わりを決めていませんか。TOEIC何点が目標だから、それが取れたら終わりとか、取れなかったら、悔しいからもうやめるとか。 ジェイソンさんはどうやって勉強を楽しんでいますか。
ジェイソン:漢字を勉強するとき、日本の人に勉強法を聞いたんです。そうしたら、同じ漢字を繰り返し、何度も書くと言われました。それはあまり楽しそうじゃないし、効率がよくないなと思ったんです。 それで、電車の中で、漢字の部首や意味を考えストーリーを作ったりしながら覚えます。書くのは1回。僕なりに面白おかしく考えてます。ネタの源にもなってるし。逆に、つまらない勉強をすると、英語が嫌いになると思う。
▽言い訳をする人は結局、話せない
Q:英語を話せない日本人に向けて、まずは簡単な単語を使って、話してみるといい、とアドバイスする人もいます。
ジェイソン:話してみるのはいいと思います。 でも、単語を使っているだけでは、英語のニュアンスを理解するのは難しいでしょうね。つまり「お疲れ様」と言っているつもりでも「お前、疲れた顔しているな」と受け取られることもあるかもしれません。
Q:難しいですね。
ジェイソン:3歳の娘がTV番組の「おさるのジョージ」が好きなんですが、日本語版で見ると、黄色い帽子のお兄さんが、少しイヤなヤツに見えるんです。でも、英語版だと何をやっても許す、気のいい人なんです。 ニュアンスが理解できれば、どちらが原作に近いか、分かるでしょう。
Q:どうすれば、そのようになれますかね。
ジェイソン:場数です。日本で生まれた赤ちゃんは日本語が話せるようになるし、アメリカの赤ちゃんは英語が話せるようになります。なぜだと思います? 場数を踏むからですよ。 僕は、日本語の練習をするとき、できるだけ日常生活の中で日本語に触れるようにしました。今の時代、日本にいても、英文はたくさんあふれているし、インターネットで英語のラジオも聴くことができます。
+もし1日10時間英語に触れたら、1年後にはかなり話せるようになりますよ。やらない人は言い訳をしているだけです。
▽ムダが嫌いだから芸人とIT企業の仕事を両立
Q:ジェイソンさんは飛び級で大学に入ったくらい、優秀だったそうですね。
ジェイソン:テレビゲームが大好きで。早くゲームがしたいから、学校が終わると、迎えの車が来る前に、宿題を終わらせて提出していました。
Q:優秀ですね。勉強が好きでしたか?
ジェイソン:嫌いでした。だから早く終わらせたかったのです。それなのに、先生が僕をほめるので、両親は怒っていました。「こんな勉強の仕方でほめられるから、勉強をしなくなる」と言って。  Q:時間を有効に使ってはいますね。
ジェイソン:もともとムダはきらいなんです。だからGEに務めながら、修士号をとり、今もIT企業で働きながら、芸人として働いています。
Q:確かにムダがないですね。
ジェイソン:どういう生き方をしたいか、なんですね。僕は、ある程度、お金を稼いだら後はゆっくりしたいと考えるほうなんです。そのために、今、何をやるべきか、考えます。
Q:いわゆるアーリーリタイアメントという考え方ですね。何かやりたいことがあるんですか。
ジェイソン:娘が3人いるのですが、子どもとゆっくり過ごしたいと思います。
Q:ちなみにお嬢さんたちとは日本語で話すのですか。
ジェイソン:英語です。娘たちは学校では日本語なので、家では英語です。日本語で話すと、英語で何というの?と確認するんです。だから、僕が出ているテレビ番組を見ると、娘たちが「パパ、日本語話せるんだ!」って驚くんですよ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/113000186/113000001/?P=1

第三に、12月11日付け「翻訳AIの進化でこれ以上の英語学習は不要? 専門家NICT隅田氏に聞く、AI時代に必要な英語力」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問、+h回答内の段落)。
・翻訳AI(人工知能)の技術が急速に進化している。ビジネス会議で同時通訳をしてくれる世界が目前に迫っている。英語を話すのが苦手な日本人にとっては朗報だが、そうした世界ではこれまでとは全く異なるコミュニケーションの力も必要になりそうだ。AI時代に必要な英語力や英語学習のやり方はどのように変わるのか。自動翻訳技術の第一人者、情報通信研究機構(NICT)フェローの隅田英一郎氏に話を聞いた。
Q:まず、機械翻訳の研究の世界では、どのようなことが起こっているのか、教えてください。
隅田英一郎・NICTフェロー(以下、隅田):今、AI(人工知能)の時代ということで、自動翻訳の世界でもニューラルネットワークを使うのが主流になっています。人間の脳の働きを機械に置き換える、深層学習とも言われるものですね。例えば、日本語で「あ、い、う」と言ったら、英語で「A、B、C」になりますよといった翻訳例文をどんどん覚えてさせていくと、少しずつ賢くなっていきます(関連記事:深層学習AIで自動翻訳にパラダイムシフト)
Q:覚えさせる例文が多ければ多いほど、正確に訳せるようになるというわけですね。
隅田:そうです。こんな単純な仕組みで、どうして翻訳が上手くいくのか不思議に思われるかもしれませんが、この仕組みで翻訳精度が飛躍的に向上しています。 例えば、次のような日本語の文章を従来の方法で翻訳すると、いかにも機械が翻訳したような感じの、よろしくない文章になるんです。
■日本語(原文)近年のNMTの進展により、従来は自動翻訳が非常に困難だった日本語文章の英語への自動翻訳精度が飛躍的に向上した。
■従来技術(統計翻訳=SMT)で英訳 The Development of NMT in recent years, conventional automatic translation was very difficult to machine translation accuracy of Japanese sentences in English has improved  ところが、これをニューラルで翻訳すると、すごく流暢な訳文になります。
■AI時代の技術(ニューラル翻訳=NMT)で英訳  With the recent development of NMT, the automatic translation accuracy of Japanese sentences that had previously been very difficult to translate has improved significantly.
+ただし、ニューラルによる翻訳にも欠点があって、100%の答えを出せるわけではないんです。この例文では、ニューラルによる翻訳だと「英語への」というフレーズが抜け落ちてしまっています。正確に訳すのなら、「translate into English」といったフレーズが入らないとダメですよね。 これが時々重要な単語が抜け落ちてしまうという、ニューラルの典型な誤りです。それが今、大きな課題になっていて、世界中の研究者がこの問題を解決すべく競争しています。
Q:覚えさせるデータを増やせばいいという問題ではないのですか。
隅田:アルゴリズムをもうちょっと整理していく必要があると思います。覚えさせる量が増えればより流暢になるのですが、たくさん覚えさせても、こういう誤りは起きてしまいます。そこは、アルゴリズムの改良が必要と思われています。
+ただし、それでも非常に良い翻訳ができるようになったことは事実です。NICTの音声翻訳システムもニューラルに移行したことで、タクシーや買い物などで使った時に意味が通じる翻訳をする率が2割くらい向上しました。非常に効果が出ています。
▽米グーグルが変えた自動翻訳の競争環境
Q:NICTは「VoiceTra(ボイストラ)」という自動翻訳のスマートフォンのアプリを提供している。  NICTではニューラルの研究はいつ頃から取り組んできたのですか。
隅田:2013年からずっとやっていたんですが、先ほど申し上げていなかった欠点が実はもう1つありまして、本格的に移行できていませんでした。それは、非常に大きな計算量が必要だということです。  その計算をするには、GPU(画像処理半導体)という計算機を使うわけですが、非常に値段が高い。システムを作るのに大きなコストがかかるだけではなく、それを一般の人に使ってもらうときにも高いサービスになりかねません。そのため、タイミングを迷っていました。
+それなのになぜ、我々もニューラルに移行したかというと、昨年秋に米グーグルがニューラルを使ったサービスを出し、米マイクロソフトもその動きに即座に追随して、我々も負けてはいられないと判断したのです。
+実は、中国の検索大手バイドゥは数年前からニューラルを使った翻訳サービスを出していたんですよ。しかし、日本人の我々にはほとんどインパクトがないので、誰も気にしていませんでした。ところが、グーグルが出すと、みんなその精度の高さにショックを受けたというわけです。
Q:「グーグル翻訳(Google Translate)」ですね。
隅田:はい。それまでグーグルの翻訳は、必ずしも精度の高いものではありませんでした。機械翻訳に典型的な誤訳も多いという印象でした。ところが、ニューラルでやると、これほど翻訳精度が向上するのかと、翻訳関係の人たちはびっくりしたわけです。そこで我々も、最新の技術に取り組んでいるということを皆様にも理解してもらうために、今年6月にニューラルを使った翻訳を出しました。
+我々が独自に技術を開発する意義は、誰もがグーグルのようなクラウドサービスを使うわけにはいかないからです。情報の秘匿性を考えると、ビジネスではグーグルの翻訳サービスを使えないという企業もあるはずです。日本の国立研究所としては、そうしたニーズにもしっかりと対応する必要があります。
Q:日本独自に自動翻訳の技術を向上しておかないと、情報を海外企業に持っていかれるリスクもあるということですね。
隅田:絶対に情報を外に出せないというケースもあります。個人情報の塊である病院のカルテのような情報とか、防衛関連の情報とかはその典型でしょう。特許やIRに関連する情報も、企業の外には出しにくい。秘密を守りながら翻訳しなければならない分野は、数多くあります。
隅田:日本では、自動翻訳の研究を何十年も前からやってきた歴史があります。2014年には、当時の新藤総務大臣が我々の自動翻訳のシステムをご覧になって、これを2020年の東京オリンピックに向けてぜひ多言語化して、海外から来る人たちに使ってもらおうということになりました。それから総務省の予算を集中的に投下してきています。
+NICTの中に先進的音声翻訳研究開発推進センター(ASTREC)を作り、日本の企業から出向で研究員に来ていただいて、40人くらいのチームを作りました。出向元の企業はパナソニックやNEC、富士通、日立製作所、東芝、ソニー、NTT、KDDIなど多岐にわたります。翻訳エンジンはNICTで作り、そのエンジンを企業にいろいろな形で使ってもらうというものです。
+技術の進歩はここに来て急速に速くなっています。自動翻訳は、人間の通訳や翻訳に比べて圧倒的に低コストですし、24時間365日休まず働いてくれます。しかも、多言語対応が容易です。既に、日本人の平均的な語学力は完全に超えているレベルに達しています。
▽TOEIC800点レベルは超えている
Q:TOEICで換算すると、NICTの翻訳エンジンは800点レベルと聞いたこともあります。
隅田:TOEIC800点レベルというのは誰かが想像で言っているのですが、私も800点はいっているだろうと思っています。
Q:800点なら、日本人の平均のかなり上ですよね。
隅田:非常に流暢な英語力ですね。海外駐在に最低限必要な水準も…… 
隅田:超えていると思いますね。 既にご説明したように、データ量が増えれば性能は良くなりますし、アルゴリズムも世界中で開発競争が起きていますので、どんどん進化します。 近い将来、自動翻訳は人間にとってもう手放せないツールになるというか、頼っていくような状況になると思います。
▽会議の同時通訳をAIがやる世界がすぐそこに
Q:ビジネスにおける会議に外国人が入る場合、同時通訳に頼る場合も多いですが、会議の同時通訳を翻訳AIが担うような世界も、身近に来ているのでしょうか。
隅田:自動翻訳の究極のビジネス・アプリケーションは同時通訳だと考えています。会議のような雑音が入りやすい場所は苦手なのですが、一人ひとりマイクを付けるような方法なら、非常に近い将来、十分に実現できるのではないかと思います。
Q:10年後にはもうかなり?
隅田:ええ、もうできているでしょう。 実際、既にそうしたアプリケーションを作る場合のインターフェースはどのようなものがいいのか、実験できる技術レベルには達していると思います。イヤホン内蔵型のマイクでやるのがいいのか、会議の参加者が翻訳された内容を文字でも確認できるように、それぞれの席の前にモニターを置いたほうがいいのかといった、具体的なアプリケーションを考えられる段階に来ています。
Q:インターフェースとしてはまだこなれていませんが、まさに作り始めているといった状況ですね。 音声と文字で同時に確認できるというのは、翻訳AIならではの仕組みですね。
隅田:テレビ会議には、非常に適したツールになるでしょう。アジアに工場を持っている日本企業は多いですよね。これまででは、お互いに第2言語である英語を使ってコミュニケーションする場合がほとんどだったと思いますが、これからは、自動翻訳システムを介してお互いに母国語でコミュニケーションができるようになります。そうなれば、お互いに不得意な英語で会話をするよりも、ずっと効率的なコミュニケーションができると思います。お互い第2言語で話すと、言いたいことが言えない、伝えたいことの何割かしか話せないといったことが起こりますから。
Q:そうした状況になると、TOEIC800点などテストで高得点を取ることを目指して勉強するのが、意味がないようにも思えてきます。むしろ、英語は翻訳AIに任せて、人類は他のスキルを磨いてより高い次元のコミュニケーションを目指した方がいいという考え方もあるかもしれませんね。
隅田:絶対にそうだと思いますね。使える道具が出てきたら、使ったほうがいいでしょう。人類の移動手段が馬車からクルマに移行したのと同じことです。馬車とクルマとでは、生産効率が全く違いますよね。英語も、同じだと思います。
+ビジネスをやるうえで英語はツールです。ビジネスで重要なのは、そのツールに乗せて相手に伝える質のいいコンテンツ、中身でしょう。全てのビジネスパーソンが英語を上手くなる必要は、必ずしもないはずです。
+ビジネスの中心も今後、英語圏から中国圏に移るかもしれない。東南アジアの国々とのビジネスも、これからますます重要になるでしょう。そのたびに、現地の言葉を話せるようになることを目指すよりは、機械に任せるという選択肢もあった方がいいと思うんです。
+もちろん、それぞれの言葉を専門とする通訳者や翻訳者の仕事はなくならないでしょうが、誰もが通訳者や翻訳者を雇えるわけではないですよね。コストを安く抑えるには、自動翻訳・通訳システムを使った方が良いのではないでしょうか。もう、翻訳精度が箸にも棒にもかからなかった時代は終わったのですから。
▽もう「英語ができない」と文句を言わなくて良くなる
Q:近い将来、翻訳AIがビジネスで本格的に使えるようになるということが、よく分かりました。ですが、最低限の英語力というのは、やはり必要なのではないでしょうか。
隅田:ええ、基礎的な英語力はあった方がいいと思います。ただし、その英語力は、現状のままでいいと思います。特に、これまでより高い水準を目指す必要はないでしょう。 日本人の多くは、英語を中学、高校と勉強して、一部の人は大学でも勉強しています。既にかなりの時間を英語学習に割いていますよね。ところが、これまで多くの人が、こんなに勉強したのに英語ができない、話せないと嘆いてきました。これからは、そうした状況に文句を言うのではなくて、それで十分という世界になるのではないでしょうか。
+例えば、文書を翻訳する場合、まず自動翻訳に下訳を作ってもらって、その後に人間が中学や高校、大学で学んだ英語を使って、必要があれば加筆・修正して、さらに良い翻訳を作るということが、当たり前になるのではないでしょうか。冒頭にお話しした通り、機械翻訳は100%正しいわけではありませんから。
+こうすることで、文書が自分の専門外の分野であっても、自動翻訳を使えばどんどん翻訳できるようになります。例えば、医療分野は私の専門外ですが、試しに医療関係の論文を自動翻訳を使って訳してみたんです。そうすると、少し時間はかかっても、全く医療分野の知識がない私でも、難しい論文でもちゃんと翻訳できるんですね。それは、私という人間の能力が、自動翻訳によって拡張したことを意味します。こうしたことが、あらゆる人に起こり得ると考えています。
Q:まあ、英語の場合は多くの日本人が勉強していますが、中国語などそれ以外の言語については、ほとんどの人にとって、自動翻訳に頼り切ってしまう状況になるかとは思いますが。 先ほど、翻訳のアルゴリズムは世界の研究者が開発競争を繰り広げているので、どんどん進化していくとおっしゃられました。一方、翻訳精度を高めるために必要なAIに覚え込ませるデータについては、NICTはどのように集めているのですか。
隅田:「翻訳バンク」という取り組みを2~3年前から始めています。それまでNICTは、ウェブ上にある翻訳を使っていました。例えば、大企業では日本語のページと英語のページがありますよね。しかし、それだけではデータが足りません。
Q:NICTの「翻訳バンク」は民間企業に協力を依頼し、社内にある日本語の文書と、それが英語に翻訳された文書の両方を提供してもらい、それをAIに覚え込ませて翻訳精度の向上を目指している。
隅田:そこで、民間企業に社内にあるデータを提供してくださいとお願いしています。現在は29組織が協力してくれています。NICTはパブリックセクターですから、ライバル関係にある会社でも、翻訳という競争領域ではない分野では協力しやすい。むしろ、協調し合って自動翻訳の精度を高めていきましょうと話をしています。自動翻訳の精度が高まって海外からの情報を得やすくなれば、国全体のためになります。
+現在、日本全体で年間2000億~3000億円が翻訳作業に費やされています。それを、文章の数に換算すると、だいたい5億文くらいに相当します。仮に5億文のデータを学習させることができれば、今と段違いの高精度の自動翻訳ができるようになります。それを10年間継続すれば50億文ですから、さらにもう一段、ジャンプできると思います。
Q:現在、どれくらいの数の文章を覚え込ませているんですか。
隅田:それは言えません。ライバルのグーグルやマイクロソフトも、そこは一切、開示していないですね。
Q:そこが今、競争の肝になっているからですね。
隅田:そうです。
Q:グーグルはウェブ上にサービスとしてグーグル翻訳を提供していて、そこで使ってもらうことで例文を集めているようにも見えます。
隅田:はい。ただ、間違った翻訳結果を、どれくらいのユーザーが正しく直して、グーグルにフィードバックしているでしょうか。逆に言えば、悪意があるユーザーがいれば間違った翻訳をグーグルに覚え込ませることもできるわけです。
+我々は翻訳バンクを通じて、グーグルもマイクロソフトもやっていない手法でデータを集め、精度を高めていきたいと考えています。
▽「中国語・英語」の翻訳精度が最も良くなるかもしれない
Q:AIに覚え込ませるデータ量が精度向上のカギの1つだとすると、例えば、その言語を話す人口が多い国の方が、良い自動翻訳システムを手にできるということにはなりませんか。つまり、例えば、中国語・英語は飛躍的に精度が上がるけれども、日本語・英語の精度はそれに追い付けないということが起き得るのではないでしょうか。
隅田:それは正しい指摘かもしれませんね。翻訳の精度がデータ量に依存するシステムですので、データが集まらない以上、システムの性能は高まりません。そのため、日常的に多くのデータが生産されている国のシステムがどんどん強くなっていくというのは、その通りだと思います。
+実際、中国圏と英語圏の人口が一番多いですし、経済規模も大きいですよね。しかも、中国語と英語は文法が似ていますので、比較的、翻訳するのは簡単なんですよ。 我々のシステムでも、日英、日中、日韓と比べると、実は日韓の性能が一番良くて、日中がその次で、日英が一番、翻訳精度が良くないんです。
Q:英が一番、難しいんですか。
隅田:一番難しい。 その理由は、単語を翻訳する順序に関係があるんです。例えば、英語から日本語に訳すのは、比較的やりやすいんですね。まず英語の音声認識は、ネイティブスピーカーのように、ほぼ100%正しくテキスト化できるようになっていますから。さらに、英語の語順はS(主語)、V(動詞)、O(目的語)ですので、機械も十分に落ち着いて翻訳できます。
+一方、日本語から英語に訳すのは難しい。日本語を聞き取り理解するというのは、十分に高いレベルまで来ていますが、訳すのが難しいのです。語順がSVOの英語に対し、日本語はS、O、VでVが最後に出てきます。つまり、同時通訳をやろうとすると、一番重要な動詞を聞く前に訳し始めなくてはいけないわけです。この、動詞を推測しながら翻訳するのが、すごく難しいんです。
Q:つまり、より高度なアルゴリズムが必要になるということですね。
隅田:そうです。日本語から英語に翻訳するのが難しいというのは、人間でも機械でも一緒なんですね。ある種の真理と言いますか、やっぱりそうかと言う感じですね。
Q:自動翻訳が進化することで、日本人にとっての英語の必要性や、英語学習のやり方も変わってきそうですね。
隅田:これからも、機械を一切使わずに自分ですべてをやるんだという選択肢も、当然あります。その一方で、機械の使い方を習熟して、それをうまく使いこなすという選択肢は確実に重要になってくるでしょう。 例えば、日本人の多くが英語を話せない理由の1つに、「全然、伝えたいことを話せなかった」というような失敗体験が心理的な壁になっているという見方も良く聞きます。しかし、ゼロから外国人と英語で話そうとして失敗して落ち込むより、機械が訳してくれたものをちょっと話してみたり、機械も使って伝えたいことを補足したりして、「外国人と英語で話せた」という成功体験を積み重ねるのも、上達の近道になるかもしれません。
+また、機械が正しく訳してくれるような日本語を話す、書くという訓練を積むのも、これからの語学学習では重要になる可能性もあります。日本語を話す時も、主語をしっかり明確にするとか。そうすれば、論理的に物事を考える訓練にもなりますし、機械だけではなく、自分で英語を話すときも、英語に訳しやすくなります。当然、機械も英語に訳しやすいだけではなく、中国語や韓国語も正確に訳してくれます。
Q:計算するのにも、算盤から電卓、コンピューターへとツールが変わってきました。コミュニケーションも、翻訳AIが出てきたことで、いよいよツールを積極的に活用していく時代に入るということですね。
隅田:算盤を時間かけて覚えるというのも、頭の中でいろいろと計算ができるようになるので、それは素晴らしいことです。しかし、多くの人にとっては、電卓を使って計算した方が早いし、効率的ですよね。
+これからの英語学習も、結局は何のために英語を使えるようになりたいのか、という目的次第だと思います。英語をすべて自分で話すことが必要な人は、そういう勉強をすればいいし、そうでない人は、自動翻訳を積極的に活用して、浮いた時間を別のスキルの習得に回すという発想もあっていいでしょう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/113000186/120800004/?P=1

第一の記事で、『基礎力をつける段階が終わり、今後は具体的に全世界でビジネスを加速させていく段階に入っていきます。そのための準備として、異文化理解を深める研修も10月から新たに始めました』、『公用語化前は国内の外国人比率が2%。今は20%を超え、エンジニアでは50%近くになります。世界70カ国以上から社員が集まってきていますが、エンジニアでいえばインド、中国が多い。両国の有名大学から優秀な学生を新卒採用できるようになりました』、というのは結構なことだ。他方で、『英語公用語化による副作用としては、社内の雰囲気の悪化や、外国人技術者の草刈り場になったという声が聞こえてくる』というのも、あり得る話だ。
第二の記事で、10年間、毎日ですか。強い決意が必要ですね。との問いかけに対し、『強い決意はいらないよ。歯磨きするのに、決意する?・・・ですよね。楽しく続ければいいんですよ』、『電車の中で、漢字の部首や意味を考えストーリーを作ったりしながら覚えます。書くのは1回。僕なりに面白おかしく考えてます。ネタの源にもなってるし』、などというのは如何にも要領良さそうなジェイソン氏らしい。
第三の記事で、『情報の秘匿性を考えると、ビジネスではグーグルの翻訳サービスを使えないという企業もあるはずです。日本の国立研究所としては、そうしたニーズにもしっかりと対応する必要があります』というので、日本で独自に開発する必要性が理解できた。 『自動翻訳は、人間の通訳や翻訳に比べて圧倒的に低コストですし、24時間365日休まず働いてくれます。しかも、多言語対応が容易です。既に、日本人の平均的な語学力は完全に超えているレベルに達しています(TOEIC800点レベルは超えている)』というのは、頼もしい限りだ。 『機械が正しく訳してくれるような日本語を話す、書くという訓練を積むのも、これからの語学学習では重要になる可能性もあります。日本語を話す時も、主語をしっかり明確にするとか。そうすれば、論理的に物事を考える訓練にもなりますし、機械だけではなく、自分で英語を話すときも、英語に訳しやすくなります』、というのは確かに多くの日本人の悪いクセを指摘している。これが治るきっかけになれば意義は極めて大きい。
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