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エンターテインメント(その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている) [文化]

今日は、エンターテインメント(その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている)を取上げよう。

先ずは、本年3月6日付けPRESIDENT Onlineが掲載した女の欲望ラボ代表・女性生活アナリストの山本 貴代氏による「「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/67004
・『沖縄本島の北東部に位置する“やんばるの森”にあるツリーハウスで作られたホテルが話題だ。美しいフォルムの螺旋階段を上った先、地上10mに居住空間がある。周囲は360度ジャングルだ。全くの建築の素人ながら、適切な大木を探し出し、ゼロから約8年かけて作った菊川曉さん(57)は「日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開し、このビジネスモデルを海外に輸出したい」という――』、「ツリーハウス」は多くの男の子の夢だ。
・『沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生  「この感動はサグラダ・ファミリア以来だ」「たいへんな感銘」「映画のような光景」「(大自然の中で滞在すると)素晴らしい孤独を見つけることができる」……。 那覇空港から車で2時間ほど。沖縄本島の北東部にある“やんばるの森”。ここに今、世界が注目する建築物がある。「建築主」は菊川曉さん(57)。といっても建築家ではない。東京都渋谷区に本社のある「ガーラ」の創業者でCEOだ。慶應義塾大学経済学部を卒業して広告代理店に5年勤務した後、1993年にベンチャー企業として同社を設立し、成長させた。現在は、メタバースやブロックチェーンなどWeb3.0を中心とするビジネスを展開している。 菊川さんが沖縄の手つかずの森の中に約8年の歳月をかけて作り上げた建築物とは、超本格的な“ツリーハウス”だ。これが国内外から称賛されている。 冒頭で紹介したのは、『ヴォーグ』『ナショナルジオグラフィック』といった海外メディアの菊川さんの“作品”に対する評価である。『フォーブス』は「ひとりの起業家の情熱的なプログラム」とその制作にかける熱量の高さや姿勢にスポットライトを当てた。 現在、3つの形の違うツリーハウスと地上の宿泊コテージ、そしてオープンテラスのレストランもあり、最大6人まで宿泊できる。2021年8月のオープン以来、多くの国内外の旅行者がやってくる。 2023年2月半ばには、国土交通省の和田浩一観光庁長官も「海事・観光立国フォーラム in 沖縄2023」で現地を訪れた際、菊川さんのツリーハウスも視察にやってきた。国のお墨付きももらい、その認知度は確実に高まっている。 基本的に1年のほとんどを、このやんばるの森で過ごすという菊川さんはこう熱く語る。 「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」 「自分の信条は、『この世に生まれた以上、世界一ではなく、世界初を目指す』ということ。そうしないと自分の生まれた意味がないと思っています。今、この夢を実現するために全力で走っています」 スケールの大きいビジョンだが、なぜ、建築のド素人がこんな壮大なプロジェクトを実現できたのか』、「沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生」、「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」、素晴らしい心構えだ。
・『建築のド素人がなぜツリーハウスをゼロから作れたのか  聞けば、幼少時に読んだ絵本に登場したツリーハウスへの憧れがそもそもの始まりだという。秘密基地のような存在にワクワクする経験は多くの子どもたちがしているが、たいていはそれで話は終わる。だが、菊川さんは見事に「形」にした。幼い頃の思いを、プランを立て、完成させるまでにはどんなプロセスがあったのだろうか。 「ベンチャーを立ち上げてからは仕事仕事の毎日。少し余裕ができた40代の終わりに、自分の中のウィッシュリストに、いつかツリーハウスホテルをやりたいという項目を入れたんです。 ちょうどその頃(16年前の2006年の年末)に、東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか。森のまま生かしたビジネスをして、自然と共存したい。そんなことをぼんやりと考えていました」 それから6年、ツリーハウスをゼロから作る思いが固まってきた頃(2013年)に、長女の万葉さんが学んでいたアメリカ・マイアミ大学の卒業式に参列したついでに中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた。 当時は、まだ日本にちゃんと人が寝泊まりできる本格的なツリーハウスはなかった。ましてやツリーハウスを洗練されたホテル仕様にしているところは世界でも珍しい、だから、自分が日本で初めてのツリーハウスホテルを作ろうと決心したという。 日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら不動産業者とやりとりし、大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた。 舞台は整った。だが、ここからが試練の連続だった』、「東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか」、「中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた」、「日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら・・・大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた」、凄い執念だ。
・『大工道具を使ったことなし、大きな毛虫の襲撃も  菊川さんは理系出身ではないが美術と数学が得意で、昔からアートとしての建物に興味があった。だから、「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」という。 ただ、机上で図面は引けるが、作るのは初めてだ。 大工道具の丸ノコも使ったことないし、水平・垂直・45度などを測定するツールである水平機という道具があることすら知らなかった。丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった。 「何度も絶望的な気持ちになりました。でも、いくら失敗しても、自分が諦めない限り、これは成功の途中であると言い聞かせました」 それでも作業中に泣きたいことは数えきれないほどあった。 「ツリーハウスの床張りをしていて、下を向いて作業していたとき、首筋にぽとっと見たこともないでかい毛虫が落ちてきて、泣きたくなりました。すごくただれちゃって。ぶよにも刺されパンパンに大きく膨れ上がりました」 作業がなかなか前に進まず、しょんぼりして東京に戻ったとき、「ここではお金を出せばなんでも買えるし、手に入る。なんて優しい街なんだ」とつくづく思ったという。エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった。 今は森の中にいることが多いせいか、視力が劇的に改善され、毎日が森林浴のおかげか、至って健康体なのだと笑う』、「「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」、「丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった」、「エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった」、執念には脱帽だ。
・『「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」  こうして道具の使い方も知らなかったズブの素人の手によって、最初のツリーハウスが完成した。名称は「スパイラルツリーハウス」。美しいフォルムのスパイラルツリーハウスの階段は、「伝説の螺旋階段」と呼ばれている。 通常のツリーハウスは樹上にあるものの、建築物は地面から支える構造になっている。しかし、このスパイラルツリーハウスは木の上からワイヤーで吊るす形状で、これまでは必須だった斜めの幹からのつっかえ棒も不要に。おかげでホストツリーに巻きつく螺旋階段で人が上がれるようになった。こうした仕組みも菊川さんが独自に考案した。 大アカギのグネグネとした有機的なフォルムと、幾何学的なツリーハウスが融合して、自然の力強さを強調している姿は、まさに、お互いがお互いを高め合っている。「デザイン力×技術的革新」「世界一かっこいいツリーハウス」と賞賛されるゆえんだ。 「設計も建築も自分でやったので、かかるのは材料費や道具代だけでした。スパイラルツリーハウスにかかった費用は150万円いくかどうかですね」 水の調達にも苦労した。最も近いコンビニでも車で30分はかかる山の中だ。水道が通っているはずがない。最初は、向こう岸の山から引いていたが、大雨が降ると水が茶色く濁るので、井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった。 作り始めてから、約8年。ツリーハウスはできたけれど、旅館業の許可が下りなかった。ツリーハウスとホテルとしてのインフラはできたが、難題はまだ残っていたのだ。 ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた。 宿泊物としての基準もクリアできたので、これで旅館業スタートの見込みが立った。旅館業の許可が出るまで2年。それを含め、全制作期間は、2014~2021年の足かけ7年8カ月。2021年夏にようやく開業にこぎつけた』、「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」、「井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった」、「ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた」、法律面のクリアもさぞ大変だったろうと同情する。
・『大手企業社員がアポなしで「働かせてほしい」と直訴  ツリーハウスホテルの運営を視野に入れつつプロジェクトをさらに進めるため、仲間を募った菊川さんは2020年に「ツリーフル」という会社も立ち上げた。社員は現在全13人、求人広告を出さない時も、その存在をインスタなどで知り、働かせてほしいと全国から優秀な人材が集まってきた。大手企業社員がアポなしでやってきたケースもある。ビルダーチーム、運営チーム、地上チームに分かれていて、今も新卒社員を募集中だ。ちなみに、草刈り係の正社員として、ヤギ(ドナちゃん)もいる。 菊川さんはどんな人かと聞くと、琉球大学で言語学と英語を学び、スイスのホテルやフロリダディズニーワールドでの勤務経験もある24歳のヒカリさん(運営チーム)はこう語った。 「常に新しいアイデアを生みだします。それを模索して実現させる力はすごい。本に載っていたらダメ。木を見ながら、みんなで考える。世界初ユニークなものをいつも求めています。私たち若い社員をがんばらせる力もあります」 テーマは、自然と人間との境界線をなくすこと。それは菊川さんとスタッフが共有するおきてだ。 現在、他のスタッフとともにホテル運営にたずさわっている菊川さん。もちろん本業の仕事もテレワークでしっかりこなしている。ツリーハウスを見上げながら現地を訪問した筆者にこう抱負を語った。 「ひとつ自慢があるんです。ここまで整備するのに、木をたったの1本しか切ってないんです。邪魔なものだと安易に排除せず、どうしたら森と仲良くできるか。それを常に考えています。自然と人間との境界線をなくすこと。太陽光を人間が独占しないこと。カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ(常にCO2吸収し、排出する二酸化炭素より吸収する二酸化炭素の方が多い状態)にすることを目指しています」 ビジネスであるからには儲けなければならない。しかし、自らに課したルールは守る。「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った。要は、土地を建物で塞がない。階段も建物をつなぐ通路もどこからも太陽光が入る仕組みになっている。したがって、雨水もたまらず地面に自然に染み入るようになっている』、「カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ・・・にすることを目指しています」、「「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った」、なるほど。「自らに課したルールは守る」、なかなか出来ないことだ。
・『リバートレッキングやバギーツアーも  「滞在してくださった方などを対象に環境教育もしています。日本はサスティナブルに対する取り組みが遅れています」 宿泊者はチェックイン後に、リバートレッキングに無料で連れて行ってもらえる。森について説明を聞き、ウェダー(レンタル)を着て川の中を歩き、滝を見る。1時間ほどの冒険体験ができる。 所有する別の敷地内(10万坪)では、8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意されている。赤土の岬を駆け登り、海を見下ろす絶景を見たかと思えば、今度は海辺へトレッキング。バギーで川へもずぶずぶ入り、本格的なジャングルクルーズのようだ。童心に帰るとともに、かなりのアドベンチャーが楽しめる。 昨夏できたばかりのツリーハウスサウナでは、その名の通り、サウナを楽しめる。崖の斜面に生えている木から吊られ、崖の下にある川の上の空間に浮いている。地上を0メートルとした時、サウナツリーハウスの一番下の部分はマイナス3.6mのため、世界で最も低いツリーハウスと公式にギネス世界記録に認められた。 少年時代のツリーハウスを作るという夢は、いつの間にか、地球の森を守るという壮大な夢へ切り替わった。今後、どんな仕掛けをするのか、その展開からは目が離せない。 最後になったが、筆者が実際にツリーハウスに宿泊した感想を少し。 宿泊可能な2つの施設のうち、エアロハウスはアジアのゴージャスなホテルのようで捨てがたがったが、迷った末に菊川さんが最初につくったスパイラルツリーハウスに2泊した。木の上に泊まるのは人生初だった。 これまでの人生でそれなりにゴージャスなホテルや、自然の中にあるホテルに宿泊体験があったが、ここまで360度、自然と一体になって眠りについたことはなかった。夜は雨がザーザー降っていたが、不思議とぐっすりと眠ることができた。森の中にすっぽりと自分が溶け込んだような体験は後にも先にもない。あの光景と空気を思い出すたびに癒やされている』、「8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意」、楽しそうだ。宿泊料金は1人1泊で12万円と安くはないようだ(同社ホームページ)https://treeful.net/ja/ 今後の展開が注目される。

次に、3月31日付けPRESIDENT Onlineが掲載したエンタメ社会学者・Re entertainment社長の中山 淳雄氏による「入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/67879
・『サンリオは東京都多摩市と大分県日出町の2カ所でテーマパーク事業を行っている。だが、開業以来、構造的な赤字が続いている。単純計算で来場者1人あたり3000円の赤字となっている事業を、なぜやめないのか。エンタメ社会学者の中山淳雄さんは「そこにはサンリオの長期的な戦略がある」という――』、私は創業間もない頃、家族連れで行ったが、室内だったこともあり暗い印象だったことしか覚えていない。
・『サンリオピューロランドは成功といえるのか  サンリオピューロランド(SPL)といえば、東京都多摩市に位置する、サンリオキャラクターのテーマパークである。 1990年12月にオープンした当時、日本初の「屋内型」で(世界では韓国ロッテワールドに次ぐ2番目の事例)、1960年設立のサンリオにとっては創立30周年記念事業でもあり、総工費650億円を賭けた一大事業であった。続く91年4月には大分県にハーモニーランド(HL)をオープンした。 折しも日本は1983年東京ディズニーランド(TDL)の大成功や1987年のリゾート法制定により、日本全国レベルでホテル・リゾート・ゴルフ場などとともに、テーマパークが乱立する時期である。 だがこの1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い。 ハウステンボスのように3度所有者が替わり、経営再建をされ続けた事例もあり、かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない』、「1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い」、「かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない」、なるほど。
・『30年でかかった費用は1320億円  だがよくよくその実績をみると、そんな生易しいものではなかった。赤字がとめどなく垂れ続けながらも、なんとか意地と本業の利益で持ちこたえてきた、といったほうが正しいかもしれない。 SPLは初年度195万人(入場者数は決算IR資料を基にしている。以下同)、これは順調な滑り出しだったといえるが、5年後には半減。 その後10年以上にもわたって売上・来客は減少を続け、コストカットで赤字幅こそ減らしていったが2008年にはSPL・HL合わせて101万人、売上62億、赤字14億円。 「ミラクルギフトパレード」をきっかけに123万人→152万人と集客が大きくあがったのが2015年。小巻亜矢社長の改革の下、「ぐでたま」「アグレッシブ烈子」など新規のライブキャラクターも登場し、ぐんぐん改善するなかで2017年度に悲願の黒字化達成。 2018年には来場者193万人と創業以来の数字にまで到達。こうして振り返ってみると、1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかないのだ』、「1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかない」、寂しい限りだ。
・『入場するごとに3000円の赤字  サンリオはこの32年間、2つのテーマパークを合わせて、延べ約4000万人の来場者を迎えてきた。 初期建設費770億円(SPL:700億円、HL:140億円の51%負担分)に加え、32年間で積みあがった累積営業赤字は550億円。 つまりサンリオは本業で稼いだ利益を費やして、単純計算で1320億円(※資金調達手段の違いや利子率、償却費は計測できないので含めず)もの赤字をかけて、この2つのテーマパークを守り続けてきた。 これは単純に計算すれば、ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である。 SPLが赤字で運営されていようと、その場に足を運んだ数千万人はよりサンリオを好きになり、サンリオのグッズを将来買ってくれるに違いない。そういった期待もあって、テーマパーク事業自体の赤字は受容されてきた。 特に初期の1992~94年あたりは売上80億円前後に対して毎年営業利益が50億円~60億円もマイナス、撤退という判断があってもおかしくはなかった数字だろう。 実はこれはサンリオに限った話ではない。 この時代、長崎オランダ村(1983年設立、2001年閉鎖)、スペースワールド(1990年設立、2017年閉鎖)、ナムコ・ワンダーエッグ(1992年設立、2000年閉鎖)、東京セサミプレイス(1990年設立、2006年閉鎖)、松竹の鎌倉シネマワールド(1995年設立、1998年閉鎖)、ウルトラマンランド(1996年設立、2013年閉鎖)と、多くのパークが初期の大型投資と、その後の周辺人口の来客数・顧客単価が合わず、最初の3~5年で大赤字、10年後には再建・撤退検討となっている事例が珍しくなかった。 それでもサンリオが継続できたのは、テーマパークが専業ではなく、あくまで本業を支援する事業としての位置づけがあったからだろう』、「初期建設費770億円」、「累積営業赤字は550億円」、合わせて「1320億円」の赤字、「ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である」、「未来への投資」とは苦しい印象も受ける。
・『なぜ世界中で店舗を運営したのか  サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出するため「ギフトゲート」(1971年~)、顧客層をより大人に向けた「vivitix」(1996年~)という直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた企業でもあった。 これはディズニー社が初めて直販事業を手掛けた「ディズニーストア」(1987年~)の10年以上前から手掛けてきた話だ。 2003年には国内で直営でも160店舗、百貨店・量販店・専門店も合わせると1470店舗(現在のゲオやTSUTAYAと同じくらいの国内店舗規模)。 北米を中心に海外にすら直営21店舗含む400店舗、取扱店にいたっては2万店舗という広大な流通・小売のネットワークを敷いていたことは20年経つ現在でも信じられない数字だ。 自社だけで1万2000種類の商品群に、毎月600種類ずつの新商品が出され、ライセンスでも2万1000種類の商品が展開された。果たして日本のキャラクターでこのレベルにまで海外の隅々に商品を届けられた事例は過去歴史上あったのだろうか。 1990年代のサンリオ破竹の勢いをみると、逆に前述のSPL・HLを赤字でも維持できた「王者の余裕」も垣間見える』、「サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出」、「直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた」、なるほど。
・『世界にいち早く進出したキャラクター  テーマパーク事業はアジアにも派生する。1992年にSPLの中国輸出のプロジェクトが始まった。 投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画された。 それは中国にとどまらず1993年には中国・深圳でもテーマパーク設立の打診を受けつつ、タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設されている。 現在残っているものは多くはないが、ポケモンやガンダム、少年ジャンプ作品などと比べても、ハローキティほど海外でテーマパークになったキャラクターは他に存在しない。 こうした外資からの投資呼び込みとともに、積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンでショーを展開、1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開された。 それに従いSPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画されていった』、「テーマパーク事業はアジアにも派生する・・・中国では投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画・・・タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設」、「積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンで・・・1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開・・・SPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画」、進出形態は様々なようだ。
・『あきらめの悪い会社  90年代後半に花開くが、実は1980年代から90年代初期に至る長い間、サンリオの海外展開は「冬眠状態」でもあった。 1976年とかなり早い時期に米国進出を果たし、流通もないなかでキティ人形を片手にセールスマンが個人宅を訪問して売り歩くようなドブ板から始め、ある程度人気は出た。 ハリウッド映画づくりからニューヨーク進出までさまざまな取り組みを行ってきた80年代、米国事業はずっと赤字のままだった。 そのくせ1990年になってもサンリオの海外売上高は全体の5%にも満たなかった。だがこのあきらめの悪い悪戦苦闘の中にこそ、その10年後に輝く種が眠っていたともいえる。 「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱。 シンガーソングライターのリサ・ローブを代表に、キティ好きアーティストは米国で多く登場し、遂にはレディー・ガガともタイアップも実現させている。 当時米国でキティは「おしゃれ」の代表となり、同時にマイノリティ人種やLGBTが反体制のシンボルとして使いだした。政治メッセージすら象徴する一大キャラクターとなった』、「「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱・・・」、極めて効果的かつ効率的だ。
・『世界中で起きたキティブームの仕掛け  SPLも1996年ごろから外国人観光客が増加、ディズニーランドの5%と比べると倍となる全体の10%が外国人観光客といった数字もたたき出しており、そこから20年後に起こる日本のインバウンドブームの先駆けともいえる。 もちろん日本でも1997年ごろから華原朋美が身に着け、女子高生の間で「キティラー」が多く誕生していたこの時期、実はサンリオも意識的にブランドPRを活用していた。 四半期ごとに50~70人の有名芸能人に自社商品を送り、間接的なPRは戦略的に行われていた。 日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている』、「日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている」、大したものだ。
・『ビジネスモデルの限界でやったこと  「日本国内」の売上は1998年の1400億円をピークに、現在の450億円までほとんど回復の機会がなかった。 これは新聞、出版、百貨店、アパレルなどの産業と同じくし、「モノを売る」というビジネスモデルの限界を示している。 対して、その後の20年間サンリオを支えたのは「海外」である。1990年代は70億円~80億円だった海外売上は、00年代に150億円前後、ピークの2013年300億円まで上がり続けていた。 米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える』、「米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える」、なるほど。
・『たった4年で黒字になったワケ  SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏、1983年にサンリオに入社し、結婚退職した後50歳を過ぎてから東大教育学の修士に入り卒業。2014年に子会社の顧問に就任し、2016年SPL館長となった。 2014年赴任時に役員会で出た次のセリフに衝撃を受ける。「この会社は黒字にならない。無理、無理」。そして冒頭で述べたように、黒字化はその後の2017年度に実現することになる。 小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功する。 黒字になると自然と施策の打ち手にも幅が広がり、イベントを増やしたり、新規でキャラクターフードを開発したり、イルミネーションショーを導入したり、コロナ前の2017~19年、SPLやHLはどんどん活気づいていた』、「SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏」、「小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功」、大したものだ。
・『投資の真価が問われるのはこれから  コロナ禍での2020年は当然テーマパーク事業も赤字転落、そしてサンリオ本体も含めて1994年以来の26年ぶりの赤字に陥る。 「底」を見た後、創業者・辻信太郎氏の孫である辻朋邦氏の社長就任に伴い、直営店の整理や商品数の削減など過去手が付けられなかった案件にもさまざまな構造改革の成果が見え、テーマパーク事業も再度黒字化のめどが立ちつつある。 今年でサンリオは創業63年、キティが誕生49年、もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。東京都心30分という地理のアドバンテージをまだ生かし切れているとはいえない。 果たしてこの1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい』、「もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。」、「1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい」、やはり「サンリオ」の今後は要注目だ。
タグ:「「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱・・・」、極めて効果的かつ効率的だ。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンで・・・1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開・・・SPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画」、進出形態は様々なようだ。 PRESIDENT ONLINE そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた」、法律面のクリアもさぞ大変だったろうと同情する。 「8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意」、楽しそうだ。宿泊料金は1人1泊で12万円と安くはないようだ(同社ホームページ)https://treeful.net/ja/ 今後の展開が注目される。 「テーマパーク事業はアジアにも派生する・・・中国では投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画・・・タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設」、「積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 「1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかない」、寂しい限りだ。 山本 貴代氏による「「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの」 「「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」、「丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった」、「エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった」、執念には脱帽だ。 「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」、「井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった」、 中山 淳雄氏による「入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている」 「カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ・・・にすることを目指しています」、「「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った」、なるほど。「自らに課したルールは守る」、なかなか出来ないことだ。 「ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。 エンターテインメント 「サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出」、「直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた」、なるほど。 私は創業間もない頃、家族連れで行ったが、室内だったこともあり暗い印象だったことしか覚えていない。 「1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い」、「かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない」、なるほど 「ツリーハウス」は多くの男の子の夢だ。 「沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生」、「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」、素晴らしい心構えだ。 「中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた」、「日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら・・・大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた」、凄い執念だ。 (その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている) 「初期建設費770億円」、「累積営業赤字は550億円」、合わせて「1320億円」の赤字、「ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である」、「未来への投資」とは苦しい印象も受ける。 「東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか」、 「日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている」、大したものだ。 「米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える」、なるほど。 「SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏」、「小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功」、大したものだ。 「もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。」、「1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい」、やはり「サンリオ」の今後は要注目だ。
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哲学(その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!) [文化]

哲学については、2020年5月26日に取上げた。久しぶりの今日は、(その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!)である。

先ずは、2020年5月17日付け東洋経済オンラインが掲載した京都大学こころの未来研究センター教授の広井 良典氏による「AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/349506
・『新型コロナは、日本そして世界の社会構造、とりわけ都市集中や格差・貧困の問題をこれまで以上にあらわにしているといえる。この構造は今後どうなっていくのか。 このたび『人口減少社会のデザイン』を上梓した広井良典氏が読み解く』、パンデミックで取上げる方が適切かとも思ったが、哲学として取上げる。
・『「コロナ後の世界」のビジョン  新型コロナウイルスの災禍で日本と世界の状況が一変した。今年の初めの時点で、誰がこうした事態の勃発と世界の変化を予想しただろうか。 一方、新型コロナウイルス(以下単に「コロナ」等と略すことがある)をめぐる状況を受けてさまざまな「論」が世に出されているが、それらの多くはいささか時流に便乗した近視眼的なものか、逆に大雑把すぎる?文明論”のいずれかであり、客観的な論証や中長期的な視座を踏まえた実のある洞察はまだ十分な形で提示されていないように思える。 本稿で論じたいのは、そうした問題意識を踏まえたうえでの?「コロナ後」の世界”のビジョンにほかならない。 この場合、少々手前味噌に響くことを承知のうえで確認したいのは、そうした「コロナ後」の世界の構想は、私が昨年10月に公刊した『人口減少社会のデザイン』において、AIを活用した未来シミュレーションも踏まえながら、これからの日本そして世界のあるべき展望として論じた内容と大きく重なるものになるという点である。 それは端的に述べれば以下のような柱に集約される日本・世界の方向性だ。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換 (2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想 (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ  これらは、上記の拙著の中で強調した論点であると同時に、そのまま「コロナ後の世界」のビジョンとして本質的な柱となるものである。 特に(1)の「「分散型システム」への転換」については、私たちの行ったAIシミュレーションが新型コロナ・パンデミックのもたらす課題を“予言”していたのではないかと思われるほど、今回の感染拡大で明らかになった問題と重なっているのである。 この場合、重要なのは次の点だ。すなわち、「コロナ」の問題はそれだけが切り離されて存在するのではなく、むしろ私たちがいま生きている社会システムのありよう──都市への人口集中、格差の拡大、際限ないグローバル化、「スーパー情報化」の幻想──それ自体がさまざまな矛盾をはらんでおり、今回のコロナ禍は、そうした矛盾が一気に露呈した局面の1つにすぎないという認識である。 こうした関心を踏まえ、上記(1)~(4)の論点について順次述べてみたい』、さすが哲学者らしく、捉える視点が広い。
・『「都市集中型」から「分散型システム」への転換  コロナウイルスの感染拡大とその災禍が際立って大きいのは、あらためて言うまでもなく、ニューヨーク、マドリード、パリ、ロンドンそして東京など、人口の集中度がとくに高い人口数百万人規模の大都市圏である。 これらの極端な「都市集中型」地域は、ほかでもなく?3密”が常態化し、環境としても劣化している場合が多く、感染症の拡大が容易に生じやすく、現にそうしたことが起こったのだ。 一方、後で格差の関連でも述べるように、ドイツにおいて今回のコロナによる死者数が相対的に少ない点は注目すべき事実であると私は考えている。 ドイツの場合、国全体が「分散型」システムとしての性格を強くもっており、ベルリンやハンブルクのような人口規模の大きい都市も存在するものの、全体として中小規模の都市や町村が広く散在しており、「多極」的な空間構造となっている。 そして、新型コロナの感染拡大が明らかにした課題をまるで予言するかのように、先ほどふれた拙著『人口減少社会のデザイン』の基軸をなしているのは、これからの日本や世界が持続可能であるためには、「都市集中型」のシステムから「分散型システム」への転換を図っていくことが急務であるというAI(人工知能)の分析だった。 この分析の基礎となる研究を、私は2016年に京大キャンパスに設置された日立京大ラボとの共同研究として行った。 そこでは、AIを活用して2050年の日本に関する2万通りの未来シミュレーションを実施したのだが、そのシミュレーション結果において、東京一極集中のような「都市集中型」のシステムよりも、「地方分散型」と呼びうるシステムのほうが、人口・地域の持続可能性や格差、健康、幸福といった点において優れているという内容が示されたのである(しかも、都市集中型か地方分散型かに関する、後戻りできない分岐が2025年から2027年頃に起こるという結果が示された)。 このAIシミュレーションは、直接的に今回のコロナのようなパンデミックを扱っているわけではないが、医療システムに関する諸要因はモデルの中で含まれている。そして今回のコロナ禍は、「都市集中型」社会のもたらす危険度の大きさを白日の下にさらしたと言うべきだろう。 日本の状況についてさらに踏み込んで考えると、しばしば誤解されている点だが、実は日本において現在進みつつあるのは?東京一極集中”ではない。 すなわち、札幌、仙台、広島、福岡等の人口増加率は首都圏並みに大きく、例えば2010年から2015年の人口増加率は、東京23区3.7%に対し福岡5.1%となっていて、福岡の人口増加率は東京を上回っている。 興味深いことに、今年3月に発表された令和2年地価公示でも同様の傾向が示されており、上記4都市の地下上昇率は平均で7.4%となっており、東京圏の2.3%を大きく上回っているのだ。 そしてコロナとの関連で言えば、全国で初めて(法的根拠に基づかない)「緊急事態宣言」を出した(2月28日)のが北海道であったのは記憶に新しく、また東京圏と大阪圏以外で緊急事態宣言(4月7日)の対象となったのは福岡県だった。) つまり現在の日本において進みつつあるのは?東京一極集中”ではなく、むしろ「少極集中」と呼ぶべき事態であり、しかしこれは感染症の伝播という点ではかなりリスクの大きい構造であって、現にこれらの?密”地域において感染が拡大した。 こうした構造を、より「分散型」のシステムに転換していくこと、具体的にはドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要であり、それはコロナのようなパンデミックへの対応においても極めて重要な意味をもつだろう。 加えて、ここで分散型システムというとき、それは以上にとどまらず、 ①リモート・ワークないしテレワーク等を通じて、自宅などで従来よりも自由で弾力的な働き方ができ、また余暇プランも立てやすく、仕事と家庭、子育てなどが両立しやすい社会のありよう ②地方にいてもさまざまな形で大都市圏とのコミュニケーションや協働、連携が行いやすく、オフィスや仕事場などの地域的配置も「分散的」であるような社会の姿 を広く指している。 これらは、人口や経済が拡大を続け、“東京に向かってすべてが流れる”とともに、いわば“集団で一本の道を上る時代”であった(昭和・平成の)時代の価値観や社会構造からの根本的な転換を意味する。 同時にそうした新たな方向は、個人がのびのびと各々の創造性の翼を伸ばしていくことや、多様なライフコースを可能にするとともに、結果としておそらく経済や人口にとってもプラスに働き、社会の持続可能性を高めていくだろう。 「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである』、「「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである」、「ドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要」、なるほど。
・『コロナの感染拡大と格差・貧困  以上、都市集中型から分散型システムへの転換について述べたが、同時に私がここで強調したいのが、今回のコロナウイルスの感染拡大と「格差、貧困」との関わりだ。 まず事実関係として確認したいのは、今回のコロナウイルスの感染拡大や被害をめぐる状況の国別比較である。 状況は刻々と変わっているので、ごく留保付きの指摘しかできないが、5月14日現在の時点において、とくに死者数が多いのが、アメリカ、イギリス、イタリア、スペインの4か国であることは確かな事実である(死者数は1位アメリカ[8.5万人]、2位イギリス[3.3万人]、3位イタリア[3.1万人]、4位スペイン[2.7万人]という状況。感染者数は1位アメリカ[143万人]、2位スペイン[27万人]、3位ロシア[24万人]、4位イギリス[23万人])。 ちなみに日本は死者数687人、感染者数1万6079人である。 実は、私はこの4国、つまりアメリカ、イギリス、イタリア、スペインに死者数および感染者数がとくに多いことは、ある意味で十分に予想されることと思ってきた。それは、これらの国々が、「格差」の面で世界で?トップクラス“の国であることと関係している。 いくつかの国々のジニ係数、つまり格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ(なお、意外に思う人もいるかもしれないが、日本は以前はこうした図の左のほうに位置しており、比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている。この点は後ほど立ち返りたい)。 このテーマ、つまり格差・貧困とコロナウイルスの蔓延や被害との関連については、例えばアメリカにおいて黒人層の死亡率が相対的に高い等といった一定の報道や指摘もなされているが、なお十分に認知されていない、しかし極めて重要な論点であると私は考えている』、「格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ」、「日本は以前は」「比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている」、改めて「日本」での格差拡大の深刻さを再認識させられた。「格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれる」、なるほど。
・『「公共空間の全体」の劣化が招いた感染拡大  そもそもなぜコロナのような感染症拡大と貧困・格差が深く関わってくるかという点についてあらためて確認すると、格差や貧困が大きい国や社会においては、おのずと貧困層の生活環境が極めて劣悪となり感染症の温床となるという点がもちろんある。 しかし同時に私が強調したいのは、そのような国ないし社会においては、貧困層の居住地域のみならず、中間層も行き来するような都市の「公共空間の全体」が劣化していき、都市全体に感染症が拡大しやすくなるという点だ。 実際、私はアメリカ(東海岸のボストン)に3年ほど住んだことがあるが、都市の中心部やその近辺に、窓ガラスが破壊されたまま放置されていたり、ごみが散乱したりしているようなスペースがごく普通に存在するのをよく見かけていた。細菌やウイルスにとっては“格好の住処”になるだろう。 さらに加えて、これらの国々(アメリカ、スペイン、イタリア等)では公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備で、そもそも医療保険に加入していない人々が多く存在することも、感染の発見そして治療の遅れを加速している。 私は医療政策や社会保障が専門領域の1つだが、イタリアやスペインは?南ヨーロッパ型福祉国家”と呼ばれていて、その特徴は、公的な医療制度や社会保障制度が不十分で、よくも悪くも家族や地域(教会など)に依存する度合いが大きいという点である。) アメリカはそれとはまた別の意味で市場経済への信仰が強い?小さな政府”の代表的存在であるわけだが、社会保障を専門領域とする私のような人間からすれば、アメリカ、イギリス、イタリア、スペインにおいて今回のコロナ被害がとくに大きいという点は、皮肉にもある種の必然性をもっているように理解されるのだ』、「イギリス」はさすがに「公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備」とはしなかったが、そうであれば、同国で感染が広がっている理由を別途指摘すべきだ。
・『日本の?特異性”と「持続可能な福祉社会」のビジョン  ちなみに日本について見るならば、上記のように、現在の日本は先進諸国の中でも格差の大きい部類の国になっている。 それでもなお、また多くの国々の大都市に見られる?ロックダウン”のような強制力の強い対応をとっていないにもかかわらず、5月半ば時点の状況において、他の国々に比べて?桁違い”に感染者数と死者数(特に後者)が少ないという事実は、それ自体掘り下げて分析されるべきテーマだろう。 これは経験的な推測にすぎないが、おそらくそこに、かなり日常的なレベルでの「衛生意識や都市の衛生環境」が関わっていることは間違いないと思われる。 私自身、これまで一定の数の国々を訪れてきたが、ごく卑近な例で言えば、例えばトイレの清潔さという点ではおそらく日本は群を抜いており、その他「住居等に入る時に靴を脱ぐ」といった習慣を含め、ある意味で日常的すぎるため定量的に測定しにくいような、素朴なレベルの衛生意識や都市の衛生環境が(上記の格差と並んで)パンデミック拡大の帰趨を分ける重要な要因として働いていると考えられる。 一方、医療システムそのものについて見るならば、日本の場合、人口当たりのICU(集中治療室)の数がアメリカやドイツに比べて大幅に少ないなど、患者数が増えてきた場合の体制が極めて脆弱であることは確かである。 あまり指摘されることがないが、この背景は、これも拙著『人口減少社会のデザイン』第5章(医療への新たな視点)で論じたように、日本の場合、診療所(開業医)や中小病院に医療費が優先的に配分されており、高次機能病院への医療費配分が極めて手薄であることである。ICU不足はまさにその象徴なのだ。 したがって、やや強調して言えば、日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある。 いずれにしても、今回のコロナ禍は、格差や貧困の問題そして医療や社会保障制度のあり方が、それ自体にとどまらず、社会全体の真の「強さ」や回復力、あるいは脆弱性に深く関わっていることを提起している。 以上が「コロナ後の世界」の展望として挙げた、前半の〈(1)『都市集中型』から『分散型システム』への転換、(2)格差の是正と『持続可能な福祉社会』のビジョン〉であり、後半の〈(3)『ポスト・グローバル化』の世界の構想、(4)科学の基本コンセプトは『情報』から『生命』へ〉については、稿をあらためてさらに考えてみたい』、「日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある」、その後、「日本」で一時的に事実上の「医療崩壊」に近い状態になった。

次に、この続きを、2020年5月23日付け東洋経済オンラインが掲載した京都大学こころの未来研究センター教授の広井 良典氏による「コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/349507
・『新型コロナは、すでに限界に近づいていた「グローバル化」の終焉をあらわにしたともいえる。ではグローバル化以後の世界はどうなっていくのか。 このたび『人口減少社会のデザイン』を上梓した広井良典氏が、前回に引き続き読み解いていく』、どのような観点で「読み解いて」くれるのだろう。
・『パンデミックの歴史から見えるもの  前回は、私が昨年刊行した『人口減少社会のデザイン』での主張を踏まえつつ、「コロナ後の世界」の構想として、以下の4つの方向を提起した。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換(2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想 (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ このうち前半の(1)(2)について前回記事で述べた。続いてさらに、後半の(3)(4)の話題について考えてみよう。 まず前提的な確認となるが、今回の新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」等と略すことがある)のような感染症の爆発的な拡大、あるいはパンデミックは、決して今に始まったことではなく、さかのぼれば人類の歴史の中で繰り返し生じているという事実に目を向ける必要がある。 感染症の流行はさかのぼれば人類の誕生とともに存在し、とりわけ農耕の開始ないし定住化や、多くの人々が集住する都市の発生以降から随所で起こっているが、今回のコロナをめぐる問題を考えるにあたり、やはり起点としてとらえるべきは14世紀ヨーロッパにおけるペストの大流行だろう。 古い時代の記録なので厳密な把握ではないが、このときヨーロッパ全体の人口の4分の1から3分の1、実数にして2000万人から3000万人程度が死亡したとされる。) この場合、ペスト菌はチンギス・ハーン後のモンゴル軍のヨーロッパ遠征――ある種の?グローバリゼーション”――を契機に中国方面からユーラシア大陸経由で伝わったとする説が有力である。そしてこのペスト大流行は、ヨーロッパの中世世界を揺るがし、やがて近世そして近代を準備する遠因となった。 その後の歴史を駆け足で追うと、続く16世紀にはヨーロッパで梅毒が大流行したが、これはコロンブスの一団がアメリカ大陸から持ち帰ったとされている。 また同世紀から17世紀にかけては、逆にスペインからの征服者が中南米に天然痘を持ち込み、これによってアステカ文明が滅んだと言われる。 さらに19世紀にはインド発のコレラがヨーロッパなど世界で大流行したが、これは産業革命以降の工業化による都市の衛生状態の劣化や、労働者の貧困に伴う生活環境の悪化等も関与していた(20世紀に広がった肺結核なども同様である)。 また、今回のコロナの関連でよく引き合いに出される1918年から1920年のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)の大流行は、言うまでもなく第1次大戦における、大量の兵士の国境を越えたグローバルな移動(およびその置かれた環境の劣悪さ)が背景だった』、歴史は確かなようだ。
・『感染症をめぐる歴史から気づく2つのポイント  以上は感染症をめぐる歴史の一端の確認に過ぎないが、こうした概観だけからでも気づくこととして、以下の点があるだろう。それは第1に、感染症の勃発は何らかの意味の「グローバル化」と関係しているという点である。 感染症のもととなる細菌やウイルスは、もともと存在する地域においてはその場所の風土に適応する形でいわば“大人しく”人間ないし動物と共存している面があるが、遠距離あるいは大規模な人の移動に伴ってそれがまったく別の場所に移されると、その場所にいる人間には当該細菌ないしウイルスへの免疫がないこともあって、爆発的に広がる可能性があるのだ。 実際、現在に続くパンデミックの歴史の起点をなすのが14世紀のペスト大流行であり、これは先ほど見たように、モンゴル軍のユーラシア大陸横断と関わっており、後の近世(スペインのアメリカ進出)、近代(イギリス・フランス等のアフリカ、アジア進出)への?プレリュード”ないし「幕開け」のような位置にあるとも言える。 そして、こうした「グローバル化」の進展の流れの極に今回のコロナ・パンデミックがあるという把握が可能だろう。 第2に、以上の「グローバル化」とも関連するが、コレラや結核などの例に顕著なように、感染症の爆発は、格差・貧困およびそれに伴う都市の衛生状態あるいは生活環境の悪化と密接に結び付いている場合が多いという点である(この点は前回記事でもふれた)。 この背景には、近代以降の急速な工業化の進展、あるいは資本主義の展開ということが働いている。) 以上、大きな歴史の流れを振り返りつつ、感染症の爆発的拡大が生じやすい要因として、「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点を挙げたが、この両者が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界だろう。 そうした意味では、今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っているのである』、「「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点」、「が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界」、「今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っている」、その通りだ。
・『「ポスト・グローバル化」の2つの道  誤解のないよう述べると、私はここで、?今回コロナ・パンデミックが生じ、その背景にはグローバル化があるので、よってグローバル化を即刻停止すべきだ”といった単純な主張をしようとしているのではない。 状況はある意味でもっと根本的であり、つまりコロナの発生の有無とは独立に、現在の世界では「グローバル化の終わりの始まり」と呼べる大きな流れが生じており、あるいは「ポスト・グローバル化の世界」を構想すべき時期になっているのだ。 コロナ・パンデミックはそうした構造的変化を明るみに出した事象の1つ――あるいはそうした移行への?ハード・ランディング”を余儀なくさせた出来事――と言うべきだろう。 こうした「グローバル化の終わりの始まり」あるいは「グローバル化の先の?ローカル化”」という主張を、私は『創造的福祉社会』(2011年)、『ポスト資本主義』(2015年)そして『人口減少社会のデザイン』(2019年)等の一連の本の中で展開してきたが、そのポイントとなる事柄をここでごく簡潔に述べてみたい。 イギリスのEU離脱(いわゆる?Brexit”)と?トランプ現象“と呼ばれる動きを見てみよう。あらためて言うまでもなく、私たちが現在言うような意味での「グローバル化」を明示的に本格化させたのはイギリスである。 つまり同国において16世紀頃から資本主義が勃興する中で、例えば1600年創設の東インド会社に象徴されるように、イギリスは国際貿易の拡大を牽引し、さらに産業革命が起こって以降の19世紀には、“世界の工場”と呼ばれた工業生産力とともに植民地支配に乗り出していった。 その後の歴史的経緯は省くが、そうした?最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである。 イギリスを含め、ある意味でこうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう』、「最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである」、「こうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう」、その通りだ。
・『「ローカル化(ローカライゼーション)」が進む時代へ  しかし他方で、私は以上とは別の意味で「グローバル化の終わりの始まり」がさまざまに見え始めているのが現在の世界であり、今後はむしろ「ローカル化(ローカライゼーション)」が進んでいく時代を迎えると考えている。 すなわち、環境問題などへの関心が高まる中で、「地産地消」ということを含め、まずは地域の中で食糧やエネルギー(とくに自然エネルギー)をできるだけ調達し、かつヒト・モノ・カネが地域内で循環するような経済をつくっていくことが、地球資源の有限性という観点からも望ましいという考え方が徐々に広がり始めている。 言い換えれば、およそ「グローバルな問題」とされていることの実質は、結局のところ資源をめぐる紛争やエネルギーの争奪戦なのであり、だとすれば、できる限り「ローカル」なレベルで食料やエネルギー等を自給できるようにすることが、「グローバル」な問題の解決につながるという発想である。 私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では、「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへ」という方向で物事を考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある。 したがってやや単純化して対比すると、「グローバル化の終わり」あるいは「グローバル化の先の世界」には大きく異なる2つの姿があると言える。 1つは強い「拡大・成長」志向や利潤極大化、ナショナリズムとセットでのものであり、そこでは格差や貧困、環境劣化は大きく、トランプ現象はある意味でその典型である。 もう1つは環境あるいは「持続可能性」、そしてローカルな経済循環や共生から出発し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会の姿であり、上記のようにドイツ以北のヨーロッパに特徴的である。 その具体的なイメージとしては、先述の拙著『人口減少社会のデザイン』でも紹介したが、ドイツの地方都市の姿が挙げられる。 エアランゲンという人口約10万の中小都市は、日本の同規模の地方都市がほぼ間違いなくシャッター通り化しているのと異なり、中心部が賑わい、しかも自動車交通が排除されて誰もが「歩いて楽しめる」コミュニティ空間となっている。先ほど述べた「ローカルな経済循環や共生から出発」とはこうした姿を指している。 そして前回も述べたように、ドイツなどで今回のコロナ・パンデミックの被害が相対的に小さいのは、まさにこうした社会の姿と関係していると私は考えている』、「できる限り「ローカル」なレベルで食料やエネルギー等を自給できるようにすることが、「グローバル」な問題の解決につながるという発想である。 私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では、「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへ」という方向で物事を考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある」、「「グローバル化の終わり」あるいは「グローバル化の先の世界」には大きく異なる2つの姿があると言える。 1つは強い「拡大・成長」志向や利潤極大化、ナショナリズムとセットでのものであり、そこでは格差や貧困、環境劣化は大きく、トランプ現象はある意味でその典型である。 もう1つは環境あるいは「持続可能性」、そしてローカルな経済循環や共生から出発し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていくような社会の姿であり、上記のようにドイツ以北のヨーロッパに特徴的である』、私には「ドイツ以北のヨーロッパに特徴的」な姿の方が望ましいように思える。
・『「ポスト情報化」と「生命」の時代  さて、「コロナ後の世界」を論じている本稿の最後に述べたいのが、今回のパンデミックは、これから私たちが生きていく21世紀の時代が、「ポスト情報化」そして「生命」を基本コンセプトにする時代になっていくことを象徴的に示しているという点だ。 歴史を大きな視点でとらえ返すと、17世紀にヨーロッパで「科学革命」が生じて以降、科学の基本コンセプトは、大きく「物質」→「エネルギー」→「情報」という形で展開し、現在はその次の「生命」に移行しつつある時代であるととらえることができる(拙著『人口減少社会のデザイン』第3章参照)。 すなわち、17世紀の科学革命を象徴する体系としてのニュートンの古典力学は、基本的に物質ないし物体(matter)とその運動法則に関するものだった。 やがて、ニュートン力学では十分扱われていなかった熱現象や電磁気などが科学的探究の対象になるとともに、それを説明する新たな概念としての「エネルギー」が(ドイツのヘルムホルツらによって)19世紀半ばに考案され、理論化されていった。 これはほかでもなく、産業革命の展開あるいは工業化の進展と呼応しており、石油・電力等のエネルギーの大規模な生産・消費という経済社会の変化と表裏一体のものだった。 20世紀になると、(二度の世界大戦における暗号解読や「通信」技術の重要性とも並行して)「情報」が科学の基本コンセプトとして登場するに至る。具体的には、アメリカの科学者クロード・シャノンが情報量の最少単位である「ビット」の概念を体系化し、情報理論の基礎を作ったのが1950年頃のことだった。 重要な点だが、およそ科学・技術の革新は、「原理の発見・確立→技術的応用→社会的普及」という流れで展開していく。すなわち一見すると、「情報」に関するテクノロジーは現在爆発的に拡大しているように見えるが、その原理は上記のように20世紀半ばに確立したものであり、それはすでに技術的応用と社会的普及の成熟期に入ろうとしている。実際、インターネットの普及その他さまざまな情報関連指標も近年飽和してきている。 つまり、実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これからの21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていくということを、私自身は先述のような一連の本の中で論じてきたのだが、今回のコロナをめぐる災禍は、ある意味でそれをきわめて逆説的な形で提起したと言えるだろう』、「実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これからの21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていく」、なるほど。
・『「生命」は「情報」でコントロールできるか  この場合重要なのは次の点である。すなわち、昨今の「情報」をめぐる議論で、しばしば私たちは、膨大な「ビッグ・データ」やさまざまな「アルゴリズム」で世界のすべてを把握し、コントロールできるという世界観あるいは?幻想”にとらわれがちだ。 そして、「生命」それ自体も「情報」によってすべて理解し把握できると考えがちなのであり、私は以前からそれを「情報的生命観」と呼んできた(拙著『生命の政治学』参照)。 近年のその典型は、いわゆるシンギュラリティ論で有名なアメリカの未来学者レイ・カーツワイルであり、彼の主書『シンギュラリティは近い(Singularity is Near)』のサブタイトルは、いみじくも「人間が生物学を超えるとき(When Humans Transcend Biology)」となっている。 要するに、「生命」はすべて「情報」でコントロールできる、あるいは生命は情報に還元することができるというのがその基本思想である。 しかし、今回のコロナ・パンデミックは、「生命」はそれほど簡単に「情報」によってコントロールできるようなシロモノではないということを、私たちに冷厳な形で突き付けたのではないだろうか。細菌やウイルスはある種の?創発性”をもっており、人間が設計したアルゴリズムのコントロールをすり抜ける形でさらに進化していく。 さらに言えば、むしろ「情報」と「金融」と「集中化」と「グローバル化」で世界をコントロールし尽くそうとするという現在の流れこそが、皮肉にも今回のようなパンデミックをもたらし、しかもそうした流れの中で蓄積していた格差や貧困や環境劣化が、災禍を一層増幅させてしまうことが明るみになったのではないか。 ここでは、前回も含め、昨年出した拙著『人口減少社会のデザイン』の議論を踏まえつつ、「コロナ後の世界」の構想というテーマを、以下の4つの柱にそくして述べてきた。 (1)「都市集中型」から「分散型システム」への転換(2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン (3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想  (4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ  という4つの柱にそくして述べてきた。以上の議論からすでに明らかなように、これらの4つの論点は相互に深く関連し合っている。 現下の対応と並行しながら、社会システムのありようや人間と科学、生命との関わりを含め、「コロナ後の世界」の構想を根底から議論していくことが今こそ求められている』、なかなか意欲的な取り組みだ。今後の展開を大いに期待したい。

第三に、本年12月1日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した作家の橘玲氏による「「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!」を紹介しよう。なお、これは有料だが、私の場合、あと4本まで無料。
https://diamond.jp/articles/-/313649
・『東京五輪開幕式をめぐる辞任・解任騒動などで日本でも「キャンセルカルチャー」が注目されるようになった。これは、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ:政治的正しさ)に反する言動をした者をSNSなどで糾弾し、公的な地位からキャンセル(排除)することをいう。 欧米では2010年代から過激化するようになり、しばしば社会問題になった。フェイスブックの創業が2004年、ツイッターの誕生が06年、iPhoneの発売が07年だから、この社会運動がテクノロジーの強い影響を受けていることは明らかだ。 キャンセルカルチャーは「社会正義」の運動で、たんに気に食わない相手を寄ってたかって叩くわけではない。それが「正義」を掲げる以上、なんらかの思想的・政治的正当性がなければならない。 ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイの『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』(山形浩生、森本正史訳、早川書房)は、日本からはわかりにくい欧米(英語圏)の思想状況を案内し、「正義」がどのように複雑骨折しているかを教えてくれる。 原題は“Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity - And Why this Harms Everybody(シニカルな理論 アクティビストの人文科学はどのようにして人種、ジェンダー、アイデンティティについてのすべてをつくりあげ、なぜこれがすべてのひとに害をなすのか)”で、キャンセルカルチャーの思想的基盤となる“Critical Theories(批判理論)”への皮肉になっている』、「「正義」がどのように複雑骨折しているか」とは興味深そうだ。 
・『ポストモダン思想家の文体をまねた「デタラメ論文」を投稿し、高い評価を得て掲載された「ソーカル事件」  ヘレン・プラックローズはイギリスの著述家、ジェームズ・リンゼイはアメリカの数学者、文化評論家だが、哲学者で元ポートランド州立大学助教授でもあるピーター・ボゴシアンとともに、「第二のソーカル事件」とも呼ばれる「不満研究事件(Grievance studies affair)」の首謀者として知られている(以下、著者たちと呼ぶ)。 ちなみに「ソーカル事件」は、1995年にニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、現代思想系の学術誌に、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリのようなポストモダン思想家の文体をまね、科学用語と数式を無意味にちりばめた「デタラメ(疑似)論文」を投稿し、それが高い評価を得て掲載されたことを暴露した事件で、人文科学界隈では大きなスキャンダルになった(ソーカルはその後、ジャック・ブリクモンとの共著『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』〈田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳、岩波現代文庫〉に経緯と主張をまとめている)。 ソーカルがこの「実験(いたずら)」を行なった背景には、フランスから移殖され、80年代以降、アメリカの(人文系)知的世界で流行したポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる。 「不満研究(グリーバンス・スタディーズ)」とは、「客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先し、特定の結論のみが許容される学術分野」を総称する著者たちの造語で、「カルチュラル・スタディーズ 」「ジェンダー・スタディーズ」「CRT(批判的人種理論:Critical Rase Thery)」などを指している。本書では「批判理論(critical theory)」あるいは《理論》と略して呼ばれている。 ソーカルはポストモダン思想を「内実のない言葉遊び」だとしたが、それから10年以上たって、それは「社会正義の恫喝」へと変容した。そこで著者たちは、一般人が知らない学術の世界で、どれほど異様なことが起きているかを広く知らしめるために、社会正義を論ずる(その界隈では)著名な査読付き学術誌にデタラメ論文を投稿する「実験」を新たに行なったのだ』、「ポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる」、「アメリカ」の学者たちはとんでもなく面白いことをするものだ。 
・『「デタラメ論文」によって、わずか1年間に7本の論文を学術誌に掲載させることに成功した  2017年から18年にかけて、著者たちが1年間で20本の「デタラメ論文」を作成して投稿したところ、そのうち4本が査読を経てオンライン上に公開され、3本が承認された(訂正の要求はなく、著者たちの「実験」がメディアの報道で中断しなければ公開されていた)。「再提出」の2本も、査読を通る可能性が高かった(通常、指摘された部分を修正すれば掲載される)。「審査中」が1本で、それ以外の10本は「却下」もしくは査読の指摘を修正できないとして著者たちが辞退した。 アメリカのほとんどの主要大学では、7年間に7本の論文が学術誌に掲載されれば、テニュア(終身在職権)を取得するのにじゅうぶんな実績になるとされる。それを著者たちは、「デタラメ論文」によって、わずか1年間に(すくなくとも)7本の論文を学術誌に掲載させることに成功した。だとすれば、この分野の「学術」とはいったい何なのか? もっとも話題となった「デタラメ論文」は“ヘレン・ウィルソンHelen Wilson”を名乗る(ボゴシアンが勤務する)ポートランド州立大学の架空のジェンダー研究者が、「フェミニスト地理学(Feminist geography)」の著名な学術誌“Gender, Place & Culture(ジェンダー・場所・文化)”に投稿した「オレゴン州ポートランドのドッグパークにおける、レイプ文化とクイア行為遂行性への人間の反応」だ。著者たちが投稿した論文はすべてWEBに公開されているが、この「ドッグパーク論文」はパロディとしてとてもよくできている。 “ヘレン・ウィルソン”は、黒人犯罪学や(性暴力を批判的に検討する)ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする。そのために、2016年6月から1年間、ポートランドの3つのドッグパークに通い、「犬たちの周辺に座り、歩き、観察し、メモを取り、飼い主たちと話し、犬を観察し、目立たないように立ち去る」というアプローチを繰り返した。 “ウィルソン”がとりわけ注目したのは、犬同士の性暴力(相手に馬乗りになってレイプしようとする)に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬(2%は性別を特定できず)だった。興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった。そればかりか、飼い主の12%は逆にオス犬を励まし、18%は声を出して笑った。逆にオス犬同士の性交渉は飼い主の7%しか笑わず、「同性愛嫌悪」と一致する反応を見せた――とされる。 驚くのは、著名なフェミニズム雑誌の査読者たちがこの「(バカバカしい)論文」を絶賛したことだ。そればかりかこの雑誌の編集者は、創刊25周年の「記念論文」としてこの「研究」を掲載することを提案した……』、「犬同士の性暴力・・・に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬・・・だった。興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった」、「ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする」姿勢は微笑ましい。
・『「不満研究事件」の余波  「ドッグパーク論文」以外に査読を通って掲載された「デタラメ論文」には、筋肉ムキムキの身体を賞賛するのは文化的な差別であり、ボディビルディングの基準に脂肪も加えるべきだという「肥満のボディビルディング(Fat Bodybuilding)」、異性愛の男が性具(バイブレーター)を自分で肛門に挿入してマスターベーションすることで、同性愛嫌悪やトランスフォビアを減少させることができると論じる「性具(Dildos)」などがある。 査読を通ったが掲載が間に合わなかった論文のひとつ「フェミニスト版『我が闘争』(Feminist Mein Kampf)」は、ヒトラーの『我が闘争(Mein Kampf)』をフェミニズム用語で書き換え、「不満研究(批判理論)」風に仕立てたものだ。これらの「デタラメ論文」が高い評価を得たことで、著者たちは、他の研究者が書いた4本の(デタラメでない)論文の査読者になることを要請されたというオマケまでついた(「倫理的な理由」からこの依頼は断ったという)。 この興味深い「実験」は、「ドッグパーク論文」がSNSでバズり、メディアが「著者」を探しはじめたことで中断を余儀なくされた。この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した。 「不満研究事件」の余波は著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年、「さまざまな嫌がらせや報復にさらされた」ことを理由にポートランド州立大学を辞任した。  ヘレン・プラックローズはキャンセルカルチャーを批判するオンライン雑誌『アエロ・マガジン(Areo Magazine)』の編集長を務めていたが、21年に「カウンターウェイト(Counterweight)」という組織を立ち上げた。設立の趣旨は、左派(レフト)に偏りすぎた言論空間の重心(ウェイト)を正すことで、「文化戦争のための市民相談」を行なっている。 ジェームズ・リンゼイはオンライン雑誌『新しい言説(New Discourses)』の創設者で、「ウォーク(Woke)」と呼ばれる「目覚めたひとびと(社会的な「意識高い系」)」にしか理解できない「政治的に正しい難解用語」ではなく、対話が可能な言葉を取り戻すことを目指して活動している。 当然のことながら、ボゴシアン、プラックローズ、リンゼイは左派から「右翼」「極右」「差別主義者」と批判(あるいは罵倒)されている。その一方でリチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーなど、キャンセルカルチャーに批判的なリベラル知識人は『「社会正義」はいつも正しい』を絶賛している』、「この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した」、「著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年・・・ポートランド州立大学を辞任」、当然のことだ。
・『「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転  1968年の五月革命(パリで起きた学生と労働者の一斉蜂起)とプラハの春(改革を目指すチェコへのソ連軍の侵攻)によって「世界を変える」夢が挫折したあと、フランスから「ポストモダン」と呼ばれるようになる新しい思想潮流が登場した。ソシュールの言語論と、それを人類学に応用したレヴィ・ストロースの構造主義を源流とし、モダニズム(近代主義)が提示する大きな物語(革命や人権、自由、民主政)に異議を申し立てる思想運動と(とりあえずは)定義できるだろう。 ポストモダン思想は文学・映画や心理学(精神分析)、社会学(権力論)、経済学(消費資本主義の分析)などへと展開し、日本でも1970年代から知的流行に敏感な若者たちのあいだで広まり、やがて空前の「現代思想ブーム」が起きた(その後はサブカルチャー批評などに引き継がれた)。 プラックローズとリンゼイは、このポストモダン思想のなかで、とりわけミシェル・フーコーの権力論とジャック・デリタの「脱構築」の思想が、ポストコロニアル理論(カルチュラル・スタディーズ)、クィア理論、ジェンダー・スタディーズ、批判的人種理論(CRT)などの「《(批判)理論》」に大きな影響を与えたという。 応用ポストモダニズム(applied postmodernism)は1980年代から90年代にかけてアメリカで始まった新たな展開で、ポストモダン思想と社会正義を結びつけたところに特徴がある。だがこの組み合わせは、フランスの(元祖)ポストモダン思想に馴染んだひとは違和感を覚えるだろう。ポストモダンとは、モダン(西洋近代)が強要する真理や正義を拒絶し、確固たるものなどどこにもないという相対主義を徹底する思想運動だったからだ。 ところが応用ポストモダニズムでは、ここにふたたび「正義」が導入される。なぜこんなことができるかというと、それが「マイノリティの正義」だからだ。 構築」することだけだと主張した。 ところが「応用ポストモダニズム」では、フーコーとデリダの思想をさまざまな文化現象に当てはめ、植民地主義、人種差別、性差別、クイア差別などの痕跡を暴き出し、それを「脱構築」することで「差別」と闘うことができると論じた。これがポストモダンの一度目の「転回」だ。 ポストモダン思想では、人種や性別などはすべて「社会的構築物」だとする。この立場では、個人間には差異があったとしても、ヒト集団には実質的なちがいはなにもない。 ところが2010年代以降の「物象化ポストモダニズム(reified postmodernism)」になると、テキストに埋め込まれた差別が現実に存在(物象化)しているのだとされた(実在するのは「人種」や「性別」ではなく、この社会的構築物に対する「差別」だ)。 この二度目の転回によって、ポストモダン思想はたんなる文化批評から「社会正義」の運動になった。テキストのなかの差別が実在(リアルなもの)であるならば、それを取り出して、著者・制作者やメディア(プラットフォーム)を批判することで、差別をなくす(すくなくとも減じる)ことができるはずだ。 このようにして、「家父長制、白人至上主義、(男/女の性自認を正常とみなす)シスノーマティビティ、(異性愛者正常とみなす)ヘテロノーマティビティ、(障害者を排除する)健常主義、(肥満者を嫌悪する)ファットフォビア」などを、政治家や芸能人など著名人の言動から見つけ出し、それを糾弾・解体すべきだとされるようになった。この「社会正義運動」を、SNSなどのテクノロジーが増幅・拡散して狂乱状態に陥ったのだ。 こうして、「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転してしまった――というのが著者たちの主張になる』、「「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転」、笑えない皮肉だ。
・『「肥満が危険で治療可能な医学的状態なのだという研究すべて」がファットフォビア的  物象化ポストモダニズムがどれほど奇妙な主張か、ファット(肥満)スタディーズの例で見てみよう。ちなみに日本とアメリカでは「肥満」の定義が異なり、日本はBMI(体重を身長の2倍で割った体格指数)25.0以上が肥満だが、アメリカではBMI25.0~30.0が過体重、30.0超が肥満とされている。ここでいう「ファット(肥満)」とは、身長170センチ程度の平均的な日本人男性なら体重100キロを超えるようなケースだ。 ファット・スタディーズではポストモダンの様式どおり、肥満は社会的構築物だということになる。肥満への嫌悪(ファットフォビア)は、同性愛者やトランスジェンダーなどへの社会的な嫌悪(フォビア)と同じだ。 アメリカでは早くも1969年に「全米ファット受容促進協会(NAAFA)」が設立されているが、本格的に肥満者の権利運動が展開するのは1990年代で、ボディポジティブ運動が「太った身体」の受容と賞賛を目指し、「全サイズ健康運動」はどんなサイズの身体でも健康でいられると主張した。肥満についての否定的な意見は、人種や性別、性的指向などへの否定と同様に、変更不可能な特性に対する偏見なのだ。 だがその後、こうした肥満者の権利運動はファット・スタディーズによってさらに批判されることになる。ボディポジティブ運動は、「集合性ではなく個人性を強調する」からだ。 《理論》にとっては、差別の元凶となるのはあくまでも社会の権力関係であって、差別されている個人が問題なのではない。だがボディポジティブ運動は、「自分の身体を愛してそれに満足するという責任」を個人に負わせている。この「責任化」は、同性愛者を差別する社会を放置したまま、同性愛者に「もっと自分を愛しなさい」と説教するのと同じだというのだ。 だがこの主張には、きわめて危ういものがある。アメリカには同性愛者を強制的に「治療」した歴史があり、それはときにきわめて残酷なものになったが、現在では性的指向は生得的なもので治療対象ではないとの理解が広まった。肥満差別を同性愛差別と同じだとすると、肥満への「治療」も否定すべきだということになってしまう。そして実際に、このような主張がなされている。 体重の遺伝率は身長とほぼ同じで、太りやすいかどうかはかなりの程度、遺伝で決まっている。その意味で、肥満者を「意志が弱い」「やせる努力をしていない」と見なすことが差別的なのはその通りだが、だからといって肥満を放置しておいていいということにはならない。あらゆる医学データが、肥満は喫煙と同様かそれ以上に健康を損ね、寿命(および健康寿命)を短くすることを示しているからだ。 だがファット・スタディーズでは、「肥満が危険で(通常は)治療可能な医学的状態なのだという研究すべて」をファットフォビア的だと見なし、肥満者が医療支援を拒否し、「肯定的なコミュニティ『知識』」を受け容れるだけの力を与えようとする。だがこれは、ほんとうに肥満者の利益になっているのだろうか』、行き過ぎのような気がする。
・『「差別されている者(マイノリティ)はつねに正しく、差別する側にいる者(マジョリティ)はつねに間違っている」  ファット・スタディーズは極端な例だが、同じ論理は障害者研究にも登場する。そこでは、問題なのは障害者個人ではなく(これはその通りだ)、健常者を「正常」、障害者を「異常」と見なす「健常者主義(ableism)」なのだから、治療や治癒の試み(医療化)は拒絶すべきだと主張される。 プラックローズとリンゼイは、このような奇妙な(そして有害な)論理のねじれが、人種差別や性差別、性的少数者差別など、《理論》が取り上げるあらゆる領域に見られ、それは差別されている「被害者」を支援するよりも、むしろ問題の解決を困難にしていると批判している。 《理論》は難解な哲学用語を駆使するが、それだけでは社会運動として大衆を動員することはできない。その結果、必然的に「差別されている者(マイノリティ)はつねに正しく、差別する側にいる者(マジョリティ)はつねに間違っている」という極端に単純化された善悪二元論に陥ることになる。 CRT(批判的人種理論)では白人は「白人」であるというだけで人種差別の罪(原罪)を生涯背負わなければならないし、「交差性(インターセクショナリティ)」では、より多く差別されている者がより大きな正当性をもつ。白人女性のフェミニストよりブラックフェミニズム(黒人女性のフェミニズム)が重視されるべきだし、黒人女性の同性愛者(あるいはトランスジェンダー)はより大きな「正義」を主張できることになる。 これは「思想(あるいは理論)」というよりも、あらゆる反差別の闘争に見られる感情的な反発で、それが大きな影響力をもつようになったのは、誰もが直観的に理解できるからだろう。《理論》はこの感情的な怒りに、思想的な説明(らしきもの)を提供しているのだ。 あらゆる言説やテキストには「差別」が埋め込まれており、それを暴いて糾弾しなければならないという信念は、あらゆる権力機構がディープステイト(闇の政府)に侵食されており、それと闘わなくてはならないという右派の陰謀論に不気味なほどよく似ている。キャンセルカルチャーが「現代の魔女狩り」と呼ばれるのは、たんなる比喩ではなく、そこに宗教的熱狂のようなものを感じるからだろう。 日本ではこれまで、「社会正義」はリベラルな団体・知識人が担ってきた。そのため《理論》もリベラルな主張だと思われているが、いまやアメリカでは、「ラディカルレフト(過激な左派)」や「プログレッシブ(進歩派)」が、「社会正義」を掲げて(著者たちのような)リベラルと敵対している。この構図がわからないと、欧米(英語圏)で頻発する思想的・政治的な紛争を理解することはできないだろう。 著者たちの主張に説得力があると思うひとも、そうでないひともいるだろうが、日本でも本書が社会正義を論じる際の必読書となることは間違いない。 (橘玲氏の略歴等はリンク先参照)』、昔の学生運動も多くの分派が生じたが、「社会正義」を巡っても分派が生じているようだ。
タグ:東洋経済オンライン 哲学 (その4)(AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務、コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」、「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!) 広井 良典氏による「AIは「新型コロナ禍の悪夢」を予言したのか 少極集中から分散型システムへの転換が急務」 パンデミックで取上げる方が適切かとも思ったが、哲学として取上げる。 さすが哲学者らしく、捉える視点が広い。 「「コロナ後」の社会構想の第一の柱にあるのは、そうした包括的な意味での「分散型システム」への転換なのである」、「ドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要」、なるほど。 「格差の度合いを示す指数を比較すると、アメリカが筆頭であり、またイギリス、スペインやイタリアが上位に位置している。 要するに、格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれるのだ」、「日本は以前は」「比較的格差の小さいグループに属していたが、90年代頃から徐々に格差が大きくなり、近年では格差の大きいグループに入っている」、 改めて「日本」での格差拡大の深刻さを再認識させられた。「格差の度合いとコロナウイルスの感染拡大や死者数の間には、かなりの関連性がうかがわれる」、なるほど。 「イギリス」はさすがに「公的な医療保険制度ないし社会保障が未整備」とはしなかったが、そうであれば、同国で感染が広がっている理由を別途指摘すべきだ。 「日本の場合、医療システムの脆弱性ひいては政府の対応の不十分さを、国民の衛生意識や都市の衛生環境でかろうじて?カバーしている”という側面が確かにあるのであり、一度感染が拡大するとそうした脆さが一気に露呈する(=医療崩壊)おそれがある」、その後、「日本」で一時的に事実上の「医療崩壊」に近い状態になった。 広井 良典氏による「コロナが露わにしたビッグ・データという幻想 ポスト・グローバル化時代の「生命」と「情報」」 どのような観点で「読み解いて」くれるのだろう。 「「グローバル化」と「格差・貧困の拡大および都市環境の劣化」の2点」、「が極限的な形で進みつつあるのが現在の世界」、「今回の新型コロナウイルスの蔓延は、これまでの歴史の流れに照らして見るならば、ある種の必然的な出来事と言える面すら持っている」、その通りだ。 「最初にグローバル化を始めた国”であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、今度は逆にグローバル化に最初に「NO」を発信する国となったのが今回のEU離脱の基本的意味と言うべきである。 アメリカのトランプ現象も似た面を持っている。20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。 しかし新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、TPP離脱や移民規制など、まさに「グローバル化」に背を向ける政策を本格化させようとしているのである」、「こうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバル化で“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう」、その通りだ。 私には「ドイツ以北のヨーロッパに特徴的」な姿の方が望ましいように思える。 「実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。 そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。 こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これか の21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていく」、なるほど。 なかなか意欲的な取り組みだ。今後の展開を大いに期待したい。 ダイヤモンド・オンライン 橘玲氏による「「社会正義」が複雑骨折している欧米の思想状況を理解せよ!」 「「正義」がどのように複雑骨折しているか」とは興味深そうだ 「ポストモダン思想が、たんなる言語遊戯に堕しているとの不満があった。そこで、学術誌に無内容の論文を掲載させ、その「学術」自体が無内容であることを証明しようとしたのだ。 このスキャンダルによって、ポストモダン思想は科学(学術)から脱落し、その命脈は尽きた……とはぜんぜんならなかった。 アメリカでは逆に、その変種が人文系のあらゆる学術分野を侵食し、大きな影響力をもつようになったというのが著者たちの主張になる」、「アメリカ」の学者たちはとんでもなく面白いことをするものだ。 「犬同士の性暴力・・・に対して飼い主がどのような反応をするかだった。 「論文」によれば、ドッグパークでは60分に1回の割合で「レイプ」事件が、71分に1回の割合で「暴力」事件(ドッグファイト)が起きた。それが性暴力なのか、合意のうえでの性行為なのかは、「馬乗りにされた犬が明らかにその活動を楽しんでいないように見えた」かどうかで“ウィルソン”が判断した。 この「調査」の結果、性暴力の100%はオス犬によって行なわれ、「被害者」の86%がメス犬、12%がオス犬・・・だった。 興味深いのは飼い主の反応で、オス犬が別のオス犬を「レイプ」しようとしたときは97%の確率で介入したが、メス犬が「レイプ」されたときは32%しか介入しようとしなかった」、「ジェンダー・スタディーズの議論を「人間と動物が交差する独特の都市空間」に適用し、犬とその飼い主の相互作用から「ジェンダー的、人種的、同性愛的に深く根づいたシステム」を暴き出そうとする」姿勢は微笑ましい。 「この「学術スキャンダル」はウォールストリートジャーナルやニューヨークタイムズが大きく報じ、著者たちの「実験(いたずら)」にひっかかった学術誌は相次いでデタラメ論文を撤回した」、「著者たちにも及び、3人のなかでで唯一教職についていたピーター・ボゴシアンは2021年・・・ポートランド州立大学を辞任」、当然のことだ。 「「絶対的な正義」を否定したはずのポストモダン思想が、マイノリティを「絶対的な正義」とする思想へと反転」、笑えない皮肉だ。 行き過ぎのような気がする。 昔の学生運動も多くの分派が生じたが、「社会正義」を巡っても分派が生じているようだ。
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街並み・タウン情報(その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市) [文化]

今日は、街並み・タウン情報(その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市)を取上げよう。

先ずは、本年3月4日付け東洋経済オンラインが掲載したフリーランスライターの小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/535493
・『今年2月、西武グループの持ち株会社である西武ホールディングスは、プリンスホテルなど国内31の保有施設を売却すると発表した。同時期、セブン&アイホールディングスは西武池袋本店などを含む傘下の百貨店「そごう・西武」の売却に向けて調整に入ったと報じられた。 昭和初期から平成にかけて、西武は池袋駅を牙城にして発展してきた。1964年に西武の総帥・堤康次郎が没した後、鉄道事業などは堤義明へ、百貨店事業などは堤清二が率いる西武流通(後のセゾン)グループへと引き継がれた。歳月とともに両者は独立性を強めていくが、池袋駅東口には旗艦店となる西武百貨店と西武鉄道の駅が並び、“西武”を冠する両者は端から見れば同じグループであるように映った。 池袋駅や街の発展は、西武鉄道と西武百貨店の存在を抜きに語ることはできないが、そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかったが、それが街を発展させてきた』、「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかった」、「街」の発展は分からないものだ。
・『板橋や目白よりも遅かった開業  池袋駅を開設したのは、現在のJR東北本線や高崎線・常磐線などを建設した私鉄の日本鉄道だった。上野駅をターミナルに北関東や東北へと路線を広げる日本鉄道は、群馬県の富岡製糸場で生産される生糸を横浜港まで迅速に運搬することを主目的にしていた。 当時、上野駅と新橋(後の汐留)駅は一本の線路でつながっていない。そのため、上野駅で荷下ろしし、新橋駅で再び積み直すという手間が生じた。輸送効率を上げるべく、日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて品川駅までを結ぶ短絡線を建設。これは品川線と呼ばれる路線だが、現在の埼京線に相当する。 品川線には、中間駅として板橋駅・新宿駅・渋谷駅が開設されたが、この時点で池袋駅は開設どころか計画すら浮上していない。品川線の開業と同年には目白駅や目黒駅が、1901年には大崎駅が開設されたが、この時点でも池袋駅は開設されなかった。) その後も日本鉄道は路線網を広げていき、現在の常磐線にあたる区間を1898年に開業。常磐地方の石炭を輸送するという貨物輸送の役割が強かった同線は、繁華街にある上野ではなく田端駅をターミナルにした。田端駅には、太平洋沿岸で採掘される石炭などが多く運び込まれるようになる。 当時の日本は、工業化の進展とともに東京湾臨海部に工場が続々と誕生。田端駅から東京の南部や神奈川方面へ直通する列車の需要が生まれた。こうして同駅と品川線の目白駅とを結ぶ豊島線の構想が本格的に検討される。 豊島線は、田端駅と目白駅の間に駒込・巣鴨・大塚などの駅を開設し、大塚駅からは南西へと線路を建設して一直線に目白駅を目指す構想だった。しかし、目白駅の拡張は地形的な理由から難しく、さらに一直線で線路を建設すると、巣鴨監獄に線路を通すことになる。 巣鴨監獄は戦後にGHQが接収し、A級戦犯が収監された「巣鴨プリズン」の名で知られる。明治新政府は国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設した』、「巣鴨プリズン」は、「明治新政府」が「国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設」、そんな経緯があったとは初めて知った。
・『「監獄」を避けた線路  なぜ、政府が諸外国に対して人権意識の高さを示さなければならなかったのか。それは、諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた。政府はこれまでの囚人の扱いを改め、人権意識の高い国であることを示そうとした。 こうした取り組みや日清戦争の勝利により、西洋諸国は日本を一等国として遇するようになるが、巣鴨監獄を取り壊せば再び野蛮な国と見られてしまうかもしれない。そんな不安もあり、豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる。こうして豊島線と品川線の合流地点は変更され、1903年、新たな合流地点に池袋駅が開設された。 工業化が進展していた日本では、鉄道の貨物輸送量が年を経るごとに増加していた。日本鉄道は列車の運行本数を増やすべく、翌1904年に新宿駅―池袋駅間を複線化。日露戦争に勝利すると、政府はさらなる強国へと成長するべく軍事輸送の強化に乗り出す。1906年には「鉄道国有法」を施行し、品川線・豊島線などを含む多くの幹線を国有化。これにより、貨物輸送は政府の思惑が強く反映されることになる。 その後、現在の山手線にあたる区間の複線化が進められると同時に、1909年には電化にも着手。こうして現在の山手線の骨格が少しずつ組み上がっていく。) 池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。 東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。 だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した。 しかし、それでも街のにぎわいは大塚駅のほうが一枚上だった。この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた』、「豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる」、初めて知った。「諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた」、当時、「「人権意識」がそんなに重視されたとは興味深い。「この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた」、「池袋」の知名度はまだまだだったようだ。
・『豊島区発足、東口がにぎわいの中心に  時代が昭和に移ると、東京市は市域の拡張を検討。1932年、北豊島郡に属する巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が合併して豊島区が発足する。新区名は古くから栄える目白を採用して目白区とする案が有力で、将来性を考慮して池袋区とする案も出されたが、折衷案として郡名から豊島区に決まった。 新たな区役所は交通の便が考慮され、池袋駅付近に開庁することが異論なく決まった。区名になることは逃したものの、区役所が設けられたことで池袋は豊島区の中心的な街へと姿を変えていく。 それまでの池袋は、武蔵野鉄道や東武東上線など郊外へと通じる鉄道路線は開設されていたものの、都心部へと直結する鉄道網がなかった。 しかし、都心へとつながる路線がまったく計画されていなかったわけではない。武蔵野鉄道は1925年に池袋―護国寺間の路線免許を取得。昭和初期に立て続けに恐慌が発生していたこともあり未着工のままになっていた。同免許は東京市へ譲渡され、それが転用される形で1939年に市電の池袋線が開通。市電が都心部と直結したことで、池袋駅は東口ににぎわいが生まれていった。 東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。 池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ。) 武蔵野鉄道や東武東上線の沿線は農地が多く、終戦直後は多くの農家が池袋の闇市に食料を持ち込み、それを生活資金に換えていた。農家が持ち込む米や野菜を目当てに買い物へ来る客は多く、闇市が池袋に活況を与えた。 終戦直後の混乱期、闇市は黙認されていた。しかし、戦後のほとぼりが冷める頃から行政・警察当局による取り締まりが厳格化していく。とはいえ、やみくもに取り締まれば食料流通は停滞し、それは人々の日常生活に混乱を与える。 そこで、東京都は池袋駅東口から南東へと延びる大型道路(現・グリーン大通り)の南側一帯に着目。戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった。こうして東口に商店が立ち並んでいく。 池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった』、「戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった」、「根津山」が東口発展の基礎になったようだ。「池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、なるほど。
・『地下鉄開通でさらに発展  これらの動きと連動するように、1949年には池袋駅―神田駅間の地下鉄建設計画が決定。後に神田駅から御茶ノ水駅へとルート変更し、1954年に開業する。これが丸ノ内線の始まりだ。その後も同線は延伸された。 丸ノ内線の輸送能力が限界に達すると、それを補完する有楽町線の池袋駅―銀座一丁目駅間が1974年に開業。地下鉄も集積したことで、池袋は新宿・渋谷と比肩する繁華街へと変貌した。 実のところ、池袋駅の伸長は1960年代から兆しが現れていた。それを端的に表すのが、1964年に新宿・渋谷と池袋の商店街・行政・私鉄などによって結成された三副都心連絡協議会だ。同協議会は、明治通りの下に渋谷・新宿・池袋を結ぶ地下鉄を建設するように東京都へ働きかけている。 しかし、東京都は工費が莫大になることを理由に拒否。代替案として工費を10分の1に抑えられるモノレール構想が打診されたものの、こちらも実現することはなかった。東京都と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)という事業主体は異なるものの、1960年代から副都心線の萌芽ともいえる計画が持ち上がっていたことは注目に値する。 駅西口に目を移すと、運輸(現・国土交通)省が戦災復興で民衆駅を提案したことから戦後の駅前整備が始まっている。民衆駅とは民間資本によって駅舎を整備する資金調達スキームで、池袋駅西口はそのトップバッターに選ばれた。) 民衆駅計画は1947年に策定されたが、西口は権利関係が複雑で、なおかつ東口の根津山のような代替地がなかった。 国鉄や行政の意思だけでは整備ができず、西口に民衆駅を整備するには東武との調整が不可欠だった。闇市を移転する代替地もなかったことから民衆駅の計画は遅々として進まず、竣工に漕ぎ着けたのは1950年になってからだった。それらの影響もあり、民衆駅第1号の名誉はタッチの差で愛知県の豊橋駅となる。 ちなみに、ビックカメラのCMソングに歌われる、東口に西武、西口に東武の構図はこの時点で固まっていない。それどころか、1950年には東横百貨店(現・東急百貨店)が西口に出店。つまり、「東は西武で、西、東急」の時代があった。 東横が開店した同年、東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった。こうした経緯もあり、東武百貨店は一時的に東武会館のテナントとして入居している。その後、東武は地元商店街からも理解を得て、百貨店事業を拡大。隣接する東横百貨店を買収して南館とした。 東武会館が着工された頃から、それまで停滞していた西口の戦災復興は進み始めた。そして、西口の開発は現在に至るまで繰り返し実施されて街の移り変わりは激しい』、「東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、「東武百貨店」は「地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、そんな事情があったとは初めて知った。
・『2023年に開業120周年  池袋駅は、その後も鉄道によって多くの人を引きつけていく。1985年には池袋駅―赤羽駅間を往復していた赤羽線が発展的に埼京線へと姿を変え、埼玉都民と呼ばれる通勤者の流入を促した。 東上線沿線ではニュータウン開発が盛んになり、沿線人口は増加。住民の多くが東京へと通勤するサラリーマンだったことから東上線の混雑は年を追うごとに激化した。 混雑緩和を目的に、1987年には東上線の和光市駅―志木駅間を複々線化。有楽町線にも乗り入れを開始し、有楽町線と東上線が直通運転することで混雑の分散を図った。それでも池袋駅から山手線へと乗り継ぐ利用者が多く、山手線の混雑率が高止まりしていることから、山手線のバイパス機能を担う副都心線が2008年に開業することになった。 来年2023年、池袋駅は開業120年を迎える。地元の豊島区は2014年から池袋駅周辺の整備に着手し、歩行者主体のまちづくりへと舵を切った。これは2032年の豊島区誕生100年を意識した長期的な取り組みだ。 コロナ禍で鉄道を取り巻く環境や存在意義も改めて問われている。飛躍の原点ともいえる西武が揺れる中、池袋駅と街はどのような変化を遂げるのか』、「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる」、ファンドが経営権を取得しても、ファンドには新たな開発計画のようなリスクを負い難いため、開発計画は難航が予想される。

次に、昨年4月29日付け東洋経済オンライン「さらば「ファッションの聖地」、渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/574108
・『「渋谷は本当につまらない街になってしまった。自然と”谷底”にいろんな人が集まってくることが、渋谷の魅力だった。それなのに、大資本の会社が谷の真ん中に”山”を作り始めた時点で、終わりだなと感じましたよ」――。 セレクトショップなどを展開するアパレル企業の首脳は、駅周辺で大規模な再開発が進む渋谷の現状に失望感をあらわにする。 「渋カジ」や「コギャル」を生み出し、若者の流行の発信地として知られてきた渋谷。そのファッションの聖地が今、大きな岐路に立たされている』、「大資本」による「大規模な再開発」の華々しいPRの裏で、こんな変化が進んでいたとは興味深い。
・『セレクトショップが続々撤退  「渋谷マルイ」から「渋谷PARCO(パルコ)」に続く公園通りの裏側に広がる神南エリア。さまざまなセレクトショップが集積する、ファッションの街・渋谷を象徴する場所だ。「同じブランドでも、神南店の販売員は他店とステータスが違う」(アパレル関連企業の幹部)と言われたほど、各ブランドにとって重要な拠点だった。 そんな神南に建つ「アーバンリサーチ 神南店」が2020年10月に閉店した。ガラス張りの外観が目を引く同店は2013年に開業、地上3フロアにまたがる大型店だった。アーバンリサーチによると、撤退は「新型コロナが起こる前より進めていた不採算店整理」の一環だという。閉店から半年が経った今も1階はがらんどうで、2~4階のフロアには「テナント募集中」の貼り紙が寂しい。 同店だけではない。隣のビルの2階にあった「ビームス ウィメン 渋谷」も今年3月、アーバンリサーチの後を追うように営業を終了した。目と鼻の先にある別の通りでは、1980~1990年代の渋カジブームを牽引した老舗のアメカジショップ「バックドロップ」が、2020年12月に40年余りの歴史に幕を閉じた。 バックドロップはホームページ上で、新型コロナに伴う景気後退などが閉店の理由だと説明。「直営店が渋谷の街からなくなることは大変しのびない」と苦渋の思いをつづっている』、「渋谷」の「セレクトショップ」にとって、状況は大幅に悪化したようだ。
・『ファッション店舗の割合は減少  こうした渋谷の”異変”はコロナ禍より前から起きていた。 不動産サービス大手・CBREが実施した渋谷エリアの路面店の調査によると、2016年に54%を占めていたファッション店舗の比率は年々減少。2020年は43%となっている。アウトドア・スポーツ系の店舗やドラッグストアが増えた一方、以前は街の「主役」だった、若者向けのセレクトショップなどの存在感は徐々に低下してきたことが伺える。 渋谷が若者ファッションの街として認識されるようになったのは1980年前後から。渋谷区の区政資料コーナーで働く山田剛氏は「渋谷が流行の発信地となった背景として、(1973年に開業した)パルコの影響は大きかった」と分析する。加えて、同時期に創刊された『anan(アンアン)』や『non-no(ノンノ)』、『POPEYE(ポパイ)』などの雑誌が都会の流行を全国に拡散した。 最先端の「DCブランド」を集めた渋谷パルコに感度の高い若者が訪れ、周辺にはバックドロップやシップスなど、欧米から輸入したこだわりのアイテムを揃えたファッション店舗が続々と開業。近隣の高校・大学に通う学生や、地方から上京する人まで、多種多様な若者たちが公園通りやセンター街に自然と集まるようになった。 彼らの着こなすアメカジスタイルが1980年代には渋カジとしてブームになり、1990年代後半からは「SHIBUYA109」に集まる女子高生からギャル系ファッションが大流行した』、「渋谷パルコ」閉鎖の影響力は想像以上に大きかったようだ。
・『再開発で人の流れが駅周辺に集中  しかし2000年代後半から、街の発信力に陰りが見え始める。 H&MやForever21、ユニクロと、全国的に勢いを増していた国内外のカジュアルチェーンが渋谷中心部にも上陸。ネット通販やインスタグラムなどのSNSが浸透し、わざわざ渋谷に行かなくても、スマホ1つで流行に付いていける傾向も強まった。街を彩ってきた中小規模のファッション店舗やSHIBUYA109にとって、打撃は大きかった。 さらに街の姿を大きく変えたのが、東急グループを中心とした渋谷駅前の再開発だ。2012年に渋谷ヒカリエ、2018年に渋谷ストリーム、2019年には渋谷スクランブルスクエア東棟などが開業。この10年間、駅直結の大型複合ビルが次から次へと出来上がった。 東急グループは再開発により、渋谷に不足していたオフィスを大量供給し、JR線や国道で分断されていた原宿や代官山方面などとの回遊性も高めることをうたう。が、複数の小売業界関係者は「開発の過程で街の”個性”がなくなり、渋谷の重心は利便性の高い駅間近の地域に移った」と話す。トレンドの発信地とされた神南や公園通り周辺では、人の流れがだんだんと減少した。 昨年渋谷の店舗を閉めたアパレル企業の幹部は、渋谷の変貌ぶりに落胆する。「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」』、「「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」、こうしたヒトの動線変化があるようだ。
・『「実力以上」の賃料上昇も打撃に  再開発でオフィスが増えた影響で、店舗の賃料動向にも変化が起きている。 もともと若者をターゲットとした小売店や飲食店の多かった渋谷は、銀座や表参道と比べると路面店の平均賃料は低い。しかし、CBREの奥村眞史シニアディレクターは「ここ数年、渋谷ではIT系企業などで働く高所得のオフィスワーカーが増えた。彼らの需要を見込んで出店する店が増え、コロナ前まで渋谷駅周辺の中心部の募集賃料は上昇傾向が続いていた」と指摘する。 実際にCBREの調査を見ると、2015年末から2020年初めまでの間、渋谷エリアの路面店の平均募集賃料は右肩上がりだ。「渋谷では、ショールームの出店を検討しているIT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランドの引き合いも強い」(奥村氏)という。 賃料上昇は、若者向けのファッション店舗の出店のハードルを引き上げた。あるセレクトショップの幹部は「最近は商業地としての実力以上に賃料が上がってしまった。昔のように簡単に店を出せる場所ではなくなった」と漏らす。「渋谷エリアの路面店の平均募集賃料は右肩上がりだ。「渋谷では、ショールームの出店を検討しているIT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランドの引き合いも強い」(奥村氏)という。 賃料上昇は、若者向けのファッション店舗の出店のハードルを引き上げた。あるセレクトショップの幹部は「最近は商業地としての実力以上に賃料が上がってしまった。昔のように簡単に店を出せる場所ではなくなった」と漏らす』、「セレクトショップ」から「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」へと、こうしたいわば産業構造の変化も影響しているようだ。
・『坂を上る「わくわく感」が消えた  神南エリアは駅から離れていることもあり、センター街などの中心部のような路面店の賃料の上昇傾向は見られない。ただし、渋谷全体でオフィスの需給が逼迫していることから、神南の小規模ビルのフロアをオフィスとして借りる動きも出ている。こうした借り手がいる以上、高感度な若者の往来が減ったところで賃料相場の下落が起きるわけでもない。 2017年に神南から移転した大手セレクトショップ・ベイクルーズの本社跡地には、野村不動産が昨年10月に10階建てのレンタルオフィスビルを開業。かつてのトレンド発信地の様相はじわりと変化しつつある。 一部のファッション業界関係者の間では、2019年11月にリニューアルオープンしたパルコが、神南や公園通り周辺の人通りを復活させる起爆剤になると期待する向きもあった。が、開業から間もなくしてコロナ禍が直撃。人の流れは今も戻らないままだ。 「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」。デベロッパー関係者は渋谷の特徴をこう分析する。 坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ。大手アパレルの幹部は「ブランド強化の一環として、カルチャーを発信するような場所に路面店の出店は続けていく。でもその候補地に今の渋谷は入らない」と断言する。ファッションの街が復活する兆しは見えてこない』、「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」、「坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ」、「ファッションの街」から「「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」の街」へと変貌しつつあるのだろうか。

第三に、本年9月5日付けPRESIDENT Onlineが掲載したフリーライター・翻訳者の青葉 やまと氏による「だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市」を紹介しよう』、興味深そうだ。
・『外国人観光客が東京に惹かれるワケ  東京は不思議な街だ。清潔さと猥雑さが同居し、世界中のあらゆる旅行客を惹きつけている。その代表例が新宿だ。 高層ビルが並ぶ新宿副都心はモダンな街並みの最たる例だ。新宿駅の反対側、東口を出て歌舞伎町へと足を踏み入れれば、ネオンきらめく雑居ビルに囲まれた異空間が広がる。 表通りを抜けてさらに路地裏へと迷い込めば、瞬く間に碁盤の目は崩れ、縦横無尽に延びる路地に点在する小さなバーや商店との新たな出会いが待っている。 近年盛んな大規模再開発の事例を除き、東京の街並みの多くは自然発生的に発展してきた。新宿など大都市に限らず、比較的小さな東京の駅においても、ランダムに延びる入り組んだ道沿いに住宅と商店がないまぜになって存在している光景はおなじみだ。 これに外国人観光客は熱い視線を向けているようだ。 こうした東京の街並みは、都市計画に沿って整然と整備されたニューヨークやシカゴ、パリ、マドリードなどと比較すると、猥雑で暮らしにくいように見える。だが、無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている』、「無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている」、「東京」に似ているのがロンドンだ。
・『「東京は2つの顔をもつ都市である」  ブルームバーグは今年7月、東京のユニークな都市構造を分析する記事を掲載した。 東京は政府主導の計画によって鉄道網整備や安全な街づくりが進んだと同時に、入り組んだ薄暗い路地裏では自然発生的に店が発生し、都市を活気づけているとの分析だ。トップダウンの計画と無秩序な活気が同居することから、記事では「東京は2つの顔をもつ都市である」と指摘されている。 訪日外国人がこぞって足を運ぶ新宿・ゴールデン街は、後者の好例といえる。決して広くない敷地に個性豊かな店舗が200軒ほどひしめいており、日本酒をとことん楽しめる飲み屋やカレーに力を入れた店、そして猫と触れ合えるバーなどが所狭しと並ぶ。薄暗い路地を歩きながら興味津々に店を巡る観光客がいる一方、常連は慣れた足取りで2階のさらにディープな空間へと通う。) 東京の路地裏は、活気ある地元ビジネスの原点となっているようだ。慶應義塾大学のホルヘ・アルマザン准教授(空間・環境デザイン工学)らは、4月に刊行した新著『Emergent Tokyo(原題)』において、手狭なバーや商店がひしめく東京の路地裏を都市機能の観点から高く評価している』、具体的な説明は以下にあるようだ。
・『住宅地と近接する「裏路地」  書名にもある「エマージェント」は創発とも訳され、ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ。 アルマザン准教授はブルームバーグの取材に、東京には怪しくも魅力的な「横丁」と呼ばれる路地があり、バーやレストラン、ブティックや工房などが開かれていると説明している。2階に住む高齢のオーナーが1階を若者に貸してコーヒーショップとするなど、非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている。「アメリカに住む人にとっては突飛にも感じられるかもしれない」ほどユニークな施策だとの評価だ。このような「マイクロスペース」にひしめく柔軟な店舗こそが、都市を活性化しているのだという』、「ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ」、「非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている」、明確な「都市計画」がなく、「この形態は都市計画上許可されている」、要はなんでもありという無節操さだ。
・『飲食店が軒を連ねる雑然さと力強さ  ゴールデン街の極小スペースに詰め込まれた数々のバーも、雑然とした光景がただ海外客に衝撃を与えているだけではない。およそ大規模店を構えるには至らない地元のオーナーたちに、優れた商機を与えている。 厳密にはゴールデン街は、戦後の新宿に現れた無許可店舗を計画的に移設した経緯があり、完全な創発(自然発生)とは異なる。ただ、戦後当時の混乱のなかで立ちあがろうとした店舗が原点となっており、その雑然さと力強さの面影をいまも残す。 新宿の著名な路地としてはこのほか、西口の「思い出横丁」が挙げられる。こちらも戦後の闇市を出発点としており、現代でも細く入り組んだ路地裏に数十の飲食店が軒を連ねている。アンダーグラウンドながらどこか温かい空気が人々を惹き寄せるのだろう。パンデミックまでは新宿のオフィスワーカーに加え、多くの訪日客を集めていた。 こうした路地裏が日本独自の魅力を放っているほか、都市部ではよくみられる雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ。カナダ・トロント在住の建築家で都市計画家のナーマ・ブロンダー氏は、カナダの不動産ニュースサイト「ストーリーズ」に寄稿し、トロントの都市設計は東京のアプローチに学ぶべきだと主張している。トロントでは小さな土地が余ると、ただ空き地となる傾向が強いのだという。) 氏は一方で、東京は「革新的な設計」により狭小地にもかなり高さのあるビルが建つとし、「このコンセプトは東京などの場所で大変な成功を収めている」と論じている。幅のない雑居ビルが並ぶ光景は決して美しいものではないようにも思えるが、都市空間を活用する「クリエイティブなアプローチ」だとブロンダー氏は捉えたようだ』、「雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ」、ただ、使用条件を無視した結果、火災などで大量の死者を出す事故も珍しくない。 
・『自然発生した人間中心の街づくりへの評価  住宅のごく近隣にバーや商店が並ぶ光景は、海外客や商店主にのみ恩恵をもたらしているわけではないようだ。必ずしも碁盤の目に整備されておらず、地区利用も雑然としている日本の街並みは、時代と共に都市がボトムアップで発展してきたことの証左でもある。その街の住民がいきいきと暮らせる人間らしい街づくりを体現しているとして、オーストラリアの専門家の注目を集めている。 シドニー大学のレベッカ・クレメンツ研究助手(交通・インフラ運営学)は、豪ニュース・評論メディアの「カンバセーション」に寄稿し、オーストラリアの都市は日本の都市設計に学ぶべき点があるとの見解を発表している。 オーストラリアでは車通学が70%を占めるが、日本では徒歩と自転車通勤を合わせると全体の約98%に達するという大きな違いがあるという。このようなデータをもとに、日本では車が不要な範囲に、人間を中心とした街並みがまとまっていると論じている。 氏は、日本ではスーパーブロックが自然発生的に体現していると考えているようだ。スーパーブロックとは都市計画の概念のひとつであり、住宅、商店、公共サービス施設などを街区内に配置し、身近な範囲内で暮らしやすい都市を設計する手法だ。これは通学の利便性にもつながっている。子供がひとりで通学する姿は日本ではおなじみだが、オーストラリアでは徒歩通学は必ずしも多数派ではない。 今年は日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」(日本テレビ)がNetflixで配信され、海外の視聴者の間で注目を集めた。保護者が車で送迎する通学スタイルが主流の現地では、子供がひとりで街を歩き登校する様子に目を疑ったようだ。 日本の治安のよさも徒歩通学の要因となっているが、根本的には住宅と学校が生活圏内に近接しており、車を必ずしも必要としない人間中心の街が自然と出来上がっている影響が大きいだろう』、英国や米国では、小学生以下の子供だけで外出したり、留守番をすえるのも禁止されている。「日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」」は受け入れられない筈だ。
・『電車に乗ってどこでも行ける利便性  鉄道を中心とした公共交通の充実も、日本の都市の長所として認知されている。都市評論家のコリン・マーシャル氏はカルチャー情報サイトの「オープン・カルチャー」への寄稿を通じ、「しかし、日本の首都独特の際立った都市計画を地面の下から支えているのは、比喩的にも実際にも、その地下鉄網である」と解説している。 同氏は、アメリカでは自動車中心の街づくりが進み、都市の多くのスペースが駐車場に奪われたと述べ、公共交通の活用に成功した日本の事例と対比している。) 前掲のトロントの都市設計家であるブロンダー氏も、日本では発達した鉄道網に加え、鉄道駅が都市のハブとして機能していると評価している。東京など日本の都市は、駅を拠点としてオフィスやレストランなどを組み込んだ複合施設を開発する「Rail Integrated Communities(鉄道統合型コミュニティー)」の手法の成功例が豊富だと氏は述べる。 トロントの一部でも同様の開発手法が採用されはじめている模様だ。ブロンダー氏は、「トロントがこの分野をリードする東京に続き、正しい道を歩んでいるかもしれないという希望をもてる兆候だ」と前向きに評価している。 なお、トロントでは70%が車通勤だが、東京は30%に留まっていると氏は指摘する。高い公共交通の利用率が駅の利便性をさらに高める循環になっているようだ。 もっとも、駅ビルなど集積的な再開発は、『Emergent Tokyo』で主張されている創発的な都市像とは正反対の姿となる。しかし、公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さだと受け止められているようだ』、「駅ビルなど集積的な再開発」は「公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さ」、その通りだ。
・『雑然とした街にある合理性が魅力に  日本の都市は海外に比べてごみごみとした印象は拭えないが、日本を訪れる海外客にとっては、その雑然さこそが名だたる観光地・東京の魅力となっている。 ひしめくネオンが単に写真映えする光景を作り出しているだけではなく、新宿の路地裏などに代表される小さな店舗や住居一体型の商業スペースが都市にフレキシブルな空間を与え、スモールビジネスが活況を呈している。 雑然とした路地が続く住宅地においても魅力が海外で再評価されており、生活圏におよそすべてが揃う人間的な街として都市の専門家たちの関心を呼んでいるようだ。アメリカやオーストラリアではスーパーまで車を飛ばさなければならないような都市も多い。 一方、日本の都市部では駅を降りれば歩いて飲み屋街へ行くことができ、通勤も電車で済ませることが可能だ。このような生活スタイルは、どこか新鮮な感覚をもたらすようだ。 もちろん地下鉄はニューヨークなどにも走っており、電車通勤が日本だけの習慣ということではない。だが、政府や自治体が大掛かりな計画で鉄道網の整備を進めた一方、都市の細かいデザインは、戦後に自発的に延びていった路地や飲み屋街の跡を色濃く残している。 トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ』、「トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ」、同感である。ただ、場所や地名の表示については、英語が増えたとはいえ、もっと分かり易くする必要がある。
タグ:「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかった」、「街」の発展は分からないものだ。 「ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ」、「非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている」、明確な「都市計画」がなく、「この形態は都市計画上許可されている」、要はなんでもありという無節操さだ。 小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」 英国や米国では、小学生以下の子供だけで外出したり、留守番をすえるのも禁止されている。「日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」」は受け入れられない筈だ。 「無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている」、「東京」に似ているのがロンドンだ。 「「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」、こうしたヒトの動線変化があるようだ。 東洋経済オンライン「さらば「ファッションの聖地」、渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由」 (その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市) 街並み・タウン情報 東洋経済オンライン 「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」、「坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ」、「ファッションの街」から「「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」の街」へと変貌しつつあるのだろうか。 「トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ」、同感である。ただ、場所や地名の表示については、英語が増えたとはいえ、もっと分かり易くする必要がある。 青葉 やまと氏による「だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市」を紹介しよう』 PRESIDENT ONLINE 「セレクトショップ」から「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」へと、こうしたいわば産業構造の変化も影響しているようだ。 「駅ビルなど集積的な再開発」は「公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さ」、その通りだ。 「豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる」、初めて知った。「諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた」、当時、「「人権意識」がそんなに重視されたとは興味深い。「この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計 「渋谷」の「セレクトショップ」にとって、状況は大幅に悪化したようだ。 「渋谷パルコ」閉鎖の影響力は想像以上に大きかったようだ。 「戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった」、「根津山」が東口発展の基礎になったようだ。「池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、なるほど。 「東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、「東武百貨店」は「地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、そんな事情があったとは初めて知った。 「大資本」による「大規模な再開発」の華々しいPRの裏で、こんな変化が進んでいたとは興味深い。 「巣鴨プリズン」は、「明治新政府」が「国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設」、そんな経緯があったとは初めて知った。 「雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ」、ただ、使用条件を無視した結果、火災などで大量の死者を出す事故も珍しくない。 「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる」、ファンドが経営権を取得しても、ファンドには新たな開発計画のようなリスクを負い難いため、開発計画は難航が予想される。
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歴史問題(17)(ホモ・サピエンスが繁栄し ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」、「弥生人」の定説に待った ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説、東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由 コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習) [文化]

歴史問題については、2月25日に取上げた。今日は、(17)(ホモ・サピエンスが繁栄し ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」、「弥生人」の定説に待った ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説、東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由 コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習)である。

先ずは、7月25日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した作家の橘玲氏と人類学者の篠田謙一氏の対談(前編):ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/306758
・『人類の祖先(ホモ・サピエンス)は、なぜ世界を席巻できたのか。ネアンデルタール人などの旧人や、いまだ謎の多いデニソワ人を圧倒した理由はどこにあったのか。ゲノム(遺伝情報)の解析によって解明を進め、『人類の起源』(中央公論新社)などの著書がある人類学者・篠田謙一氏に、自然科学、社会科学にも詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、ユニークな観点からその謎に迫る』、興味深そうだ。
・『人類の祖先は水の中で暮らしていた!? 「水生人類説」の可能性は?  橘玲氏(以下、橘) 以前から遺伝人類学にはとても興味がありました。遠い過去のことは、これまでは化石や土器でしかわからなかった。ところが、篠田さんが『人類の起源』で詳しく描かれたように、古代の骨のゲノム解析ができるようになったことで、人類の歴史を大きく書き換える「パラダイム転換」が起きています。せっかくの機会なので、これまで疑問に思っていたことを全部お聞きしたいと思います。 私を含む多くの読者の興味として、人類の誕生と日本人の誕生があると思います。人類とパン属(チンパンジーとボノボ)が共通の祖先から分岐したのは、約700万年前のアフリカということでよいのでしょうか? 篠田謙一氏(以下、篠田) そうですね。化石が示しているのがそれくらいで、ヒトとチンパンジーのゲノムの比較でもだいたい700万年前ということがわかっています。ただ、その後も交雑を繰り返したと考える人もいて、最終的な分岐は500万年前ぐらいではないかという説もありますね。 この700万年前から500万年前の間は化石がほとんど見つかっていないので、なかなか確たることが言えないというのが現状です。 橘 人類の祖先が分岐したのは、環境の変化で森からサバンナに移り住み、二足歩行を始めたからだというのがこれまでの定説でした。しかし今、この常識も疑問視されていますよね。 篠田 地球環境がうんと変わって森がサバンナになってしまったので、地面に降りざるを得なかったんだというのが、一般的に考えられている学説です。ただ、よく調べると数百万年もの間、化石に木のぼりに適応できる形態が残っているので、実はそんなに劇的に環境が変わったわけじゃないじゃないかと。 地面に降りた説が一般に信じられている背景には、「環境が物事を決める」という現代の思想があると思います。テクノロジーに左右されるように、私たちは環境によってどんどん変わっていくんだと。社会が受け入れやすいものが、その時代の定説となっていくんです。逆に言うと、まだそれほど確実なことはわかってないということです。 橘 人類の祖先が樹上生活に適応していたとするならば、なぜ木から降りたのかという話になりますよね。 人類学では異端の考え方だと思うんですが、水生類人猿説(アクア説)に興味があるんです。人類の祖先は森の近くの河畔や湖畔などで長時間過ごすようになったという説で、これだと直立したことがシンプルに説明できます。四足歩行だと水の中に沈んでしまいますから。 体毛が喪失したのに頭髪だけが残ったことや、皮下脂肪を付けるようになったこともアクア説なら説明可能です。より面白いのは鼻の形で、においをかぐのが目的なら鼻腔は正面を向くはずなのに、人間は下向きになっている。なぜなら、鼻の穴が前を向いていると潜ったときに水が入ってきてしまうから。 さらに、今でも水中出産が行われているように、新生児は泳ぐことができる。という具合に、この水生類人猿説は、素人からするとかなり説得力があると思うんですが。 篠田 いただいた質問リストにその質問があったので、「困ったな」と思ったんです(笑)。1970年代、私が学生だったころ提唱された説ですね。当時、本で読んで面白いなと思ったのを覚えています。しかし人類学の仲間とも話をしたんですけども、みんな「これは追わないほうがいい」って言ってましたね。 というのも、この説は「なるほど」と思わせますが、化石の証拠が何もないんです。もちろん可能性としてはあるんですが、証拠のほうから追求することができない。だから研究者はみんなここに手を出さないんです。 橘 わかりました。ではこれ以上、先生を困らせないようにします(笑)。 700万年前に人類の祖先が分岐した後、250万年ほど前から石器が使われるようになり、200万年ほど前に原人が登場する。これも共通理解となっているのでしょうか。 篠田 今ある化石証拠によれば、そういう話になっています。基本的には、脳が大きくなって、直立二足歩行も現在の人間に近い状態になっていくわけですけれども、その理由はまだよくわかっていないんです。最近は、「火を使うようになったからだ」という説もあります。食生活が大きく変わったからだという話ですね。250万年前から200万年前の間は本当に重要な時代なんですけども、いろんな人類のグループがいて、なかなか整理がついていないんです。 橘 となると、そのさまざまなグループの中からどういう経路でヒトの祖先が出てきたのかというのは推測でしかない。 篠田 そうです。完全にスペキュレーション(推測、考察)です。) 橘 原人が1回目の出アフリカを敢行してユーラシア大陸に進出した後、西(ヨーロッパ)の寒冷地帯に住むネアンデルタール人だけでなく、中央アジアや東アジアにデニソワ人という別の旧人が存在していたというのは衝撃的な発見です。彼らはどこで、どういうふうに生まれてきたのでしょうか。 篠田 そこは現在、最も混沌(こんとん)としているところでもあるんです。人類進化の研究は、基本的に化石を調べることでした。何十年もの間、古い時代、古い時代へとさかのぼっていたんです。ですから、ほとんどの努力がアフリカ大陸で行われていました。旧人類についてはアフリカ大陸以外のところ、特にユーラシア大陸で骨を探すという努力になるんですが、これまでそれほど注目されていませんでした。最近になってDNA人類学がこの時代の進化のストーリーを提唱したばかりなんです。 橘 ホモ・サピエンスはこれまでアフリカで誕生したというのが定説でした。しかし、近年の遺伝人類学では、ネアンデルタール人やデニソワ人と同様、ユーラシア大陸で共通祖先から分岐した可能性が出てきたんですね。これこそまさに、最大のパラダイム転換です。 篠田 ホモ・サピエンスとネアンデルタール、デニソワ人が共通祖先から分かれたのがおよそ60万年前、最も古いホモ・サピエンスと認識できる化石が出てくるのが30万年ほど前になります。ですから私たちの進化の過程の最初の30万年間は謎に包まれているんです。祖先がどこにいたのか、今後より古いホモ・サピエンスの化石の探求は、アフリカだけでなく、ユーラシア大陸まで視野に入れたものになるでしょう』、「近年の遺伝人類学では、ネアンデルタール人やデニソワ人と同様、ユーラシア大陸で共通祖先から分岐した可能性が出てきた」、学説も想像以上に変化しているようだ。
・『ホモ・サピエンスはなぜ、生き残れたのか  橘 6万年ほど前にホモ・サピエンスによる出アフリカが起こり、アフリカ(サブサハラ)以外のヒトはみなその子孫というのが定説ですが、最新の研究ではどうなっているんでしょうか?) 篠田 それはある程度従来の予想通りといえそうです。7万年から5万年前、だいたい6万年前にアフリカ大陸を出た数千人のホモ・サピエンスのグループが、今のアフリカ人以外の人類の先祖であるという考え方、そこは揺らいでいないと思います。 ユーラシア大陸における初期拡散の様子(『人類の起源』より) 橘 それまで東アフリカと中近東の一部に押し込められていたサピエンスが、わずか2万年ほどでユーラシア大陸の東端まで到達し、ネアンデルタール人やデノソワ人などの先住民が絶滅していく。そこでいったい何があったのかは誰もが知りたいところです。 篠田 ネアンデルタール人のゲノムと、ホモ・サピエンスのゲノムとを比べていったとき、私たちに伝わらなかった部分があります。X染色体のある部分もそのひとつです。 そこは何に関係しているかというと、生殖能力だという話があるんです。つまり結局、サピエンスが世界を席巻できたのは、ネアンデルタール人より生殖能力が高かったからだと。繁殖能力が高かったという、そういう考え方です。 一方で、ご指摘のように彼らとは文化が違うんだと。それが席巻する理由になったんだという考え方ももちろんあります。ただ、今はそちらの旗色はあまりよくないんです。 というのは、ヨーロッパでネアンデルタール人が作った文化は、ホモ・サピエンスに近いレベルのものであったという証拠が出始めているんです。 ネアンデルタール人の位置づけは歴史的にすごく変遷していて、時代によって野蛮人だったり、我々に近かったりと捉え方もさまざまです。今は我々に近いところだと考えられているんですけども、だから彼らは滅んだというより、私たちサピエンスが吸収してしまったとみるほうが正しいんじゃないかという人もいます。 橘 単に生殖能力が違っていたということですか。 篠田 ヨーロッパのネアンデルタール人は人口比でサピエンスの10分の1くらいしかいなかっただろうといわれています。 彼らも進化の袋小路に入りかけていて、なかなか数が増やせなかったところに、とにかく多産なホモ・サピエンスが登場したので、吸収されたんだと。ネアンデルタール人との交雑によって、最初はホモ・サピエンスのゲノムに10%くらいネアンデルタール人のゲノムが入っていったと考えられていて、それはまさに両者の人口比そのものだったのではという説もあります』、「それまで東アフリカと中近東の一部に押し込められていたサピエンスが、わずか2万年ほどでユーラシア大陸の東端まで到達し、ネアンデルタール人やデノソワ人などの先住民が絶滅していく。そこでいったい何があったのかは誰もが知りたいところです」、「ヨーロッパのネアンデルタール人は人口比でサピエンスの10分の1くらいしかいなかっただろうといわれています。 彼らも進化の袋小路に入りかけていて、なかなか数が増やせなかったところに、とにかく多産なホモ・サピエンスが登場したので、吸収されたんだと」、なるほど。
・『橘 なるほど。 篠田 ネアンデルタール人とサピエンスは融合してゆくんですけれども、サピエンスのほうが結果的に人を増やすことができた。そこが一番大きいんじゃないかと私は思いますけどね。 橘 その一方で、サピエンスによるジェノサイド説がありますよね。チンパンジーは、自分たちと異なる群れと遭遇すると、オスと乳児を皆殺しにして、妊娠できるようになったメスを群れに加えます。 現在のロシアとウクライナの紛争を見ても、人間の本性だって同じようなものじゃないか。6万年前のホモ・サピエンスが、容姿の大きく異なるネアンデルタール人やデニソワ人と初めて遭遇したとき、「友達になりましょう」なんてことになるわけがないというのは、かなり説得力があると思うんですが。 篠田 今の社会状況を見れば、直感的に受け入れやすい学説かもしれません。 橘 サピエンスは言語や文化(祭祀や音楽、服や入れ墨)などを印(シンボル)として、1000人規模の巨大な社会を構成できるようになった。それに対してネアンデルタール人の集団はせいぜい数十人なので、抗争になればひとたまりもなかった。 生物学的に、男はできるだけ多くの女と性交して遺伝子を後世に残すように設計されているから、チンパンジーと同様に、先住民の女を自集団に取り込んで交雑が進んだ。リベラルの人たちには受け入れがたいでしょうが、納得してしまいますよね。 篠田 人類がなぜ進化したのかについて、第2次世界大戦が終わったころはそういう説が多かったんです。「キラーエイプ」という考え方です。今はそれがある意味、復権しているところもありますね。 ただ、もしそれが起きていたとしたら、ネアンデルタール人の(母親から受け継がれる)ミトコンドリアDNA系統が私たちの中に残っているはずなんです。それがないですから、やはりそんなふうには交雑していなかったんだろうと私は思いますね。 橘 少なくとも大規模な交雑はなかったと。 篠田 交雑の際、メスだけが選抜的に取り込まれたという証拠はないはずです。エビデンスがない領域の議論は結局、先ほど申し上げたようにスペキュレーションの世界なので、イデオロギーが入ってきてしまうのです。 社会状況によって、解釈しやすいものがみんなの頭の中にスッと入ってきちゃうんですよね。その中で真実を探すのは、とても難しいんです。) 橘 しかし、遺伝人類学の近年の知見では、その先祖より前に、ユーラシア大陸にはホモ・サピエンスがいたとされているわけですよね。 篠田 そうです。ある程度は出ていたのでしょう。それも難しいところでして。中国では10万年くらい前にサピエンスがいたという説があったんですが、それは化石の年代が間違っていたんだという話もあって。出たんだ、いや違うっていうところでせめぎ合っていますが、6万年前より前に出ていたという証拠が多くなってきています。ただし、彼らは現在の私たちにつながらなかったということになりますが。 橘 それ以前から中近東や北アフリカで細々と暮らしていたサピエンスは、かなり脆弱(ぜいじゃく)な種で、ほぼ絶滅してしまったということですか。 篠田 そういうふうに考えています。 橘 だとすると、6万年前に出アフリカしたサピエンスが、なぜ短期間で南極を除く地球上に繁殖したのか、という疑問が出てきますよね。それまでネアンデルタール人やデニソワ人に圧倒されていたのに、いきなり立場が大逆転してしまう。旧サピエンスに対して、ミュータント・サピエンスというか、「ニュータイプ」が現れたんじゃないかと思ってしまいます。 東アフリカのサピエンスの一部が突然変異で大きな前頭葉を持ち、知能が上がって複雑な言語を使うようになって、大きな社会を作るようになったからだという説もありますね。 篠田 『5万年前――このとき人類の壮大な旅が始まった』(ニコラス・ウェイド著、安田喜憲監修、沼尻由起子訳、イースト・プレス)という有名な本がありまして、まさにその発想で書かれているんです。ホモ・サピエンスには言葉や集団を束ねる力があったといった話をされているんですけれども。 ただ、文化の視点で見ていくと、例えばビーズを作ることは10万年以上前からやっているんですね。アフリカ大陸全体で。そういうことから考えると、サピエンスは徐々に変化していったんだろうと私は考えているんです。そのころ、サピエンスに知識革命が起こったんだっていう説は、今では信じていない人のほうが多くなっていると思います。 じゃあ、なんで6万年前に出たのかと言われると、ちょっと答えが見つからなくて。まさにそこ、サピエンスがアフリカを出たということ、世界を席巻したということがキーになっているんです』、「エビデンスがない領域の議論は結局、先ほど申し上げたようにスペキュレーションの世界なので、イデオロギーが入ってきてしまうのです。 社会状況によって、解釈しやすいものがみんなの頭の中にスッと入ってきちゃうんですよね。その中で真実を探すのは、とても難しいんです」、「ホモ・サピエンスには言葉や集団を束ねる力があった」、なるほど。では対談の続きを見てみよう。

次に、この続きを、7月26日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した作家の橘玲氏と人類学者の篠田謙一氏の対談(後編)「「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/306767
・『化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――』、興味深そうだ。
・『日本人のルーツは? 縄文人のDNAから考える(橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。 篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。) 大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。 橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。 篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。 橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。 篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども』、「大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています」、「モンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです」、「モンゴルは」、「すぐに遺伝子が伝わっていく」、さもありなんだ。
・『弥生人の定説が書き換えられつつある  橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。 篠田 そう思います。 橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?) 篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。 橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。 篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。 橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。 篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。 橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。) 篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。 橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。 篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。 橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。 篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。 橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。 篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。 橘 すごくロマンがありますね。 篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね』、「当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです」、確かに「ロマン」がある話だ。
・『弥生人の渡来に中国の動乱が関係?  橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。 篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。 橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。 篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います』、「これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです」、ところが、以下にみるような政治的な難しさがあるようだ。
・『政治的な思惑で調査が進まないプロジェクトも  橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。 篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。 橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。 篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。 橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。 篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。 橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。 篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。 橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。 篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。 橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください』、「古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。 篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います」、「当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。 橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。 篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです」、いまだにこんなことが政治的圧力で調査が難しいというのは困ったことだ。

第三に、8月18日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの窪田順生氏による「東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由、コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/308165
・『ロンドン大空襲と東京大空襲の差 日本でなぜ民間人が大勢亡くなったのか(諸説あるが、8月15日は「終戦の日」とされている。 毎年この日の前後になると、77年前に終わった戦争を忘れないために多くの報道があるが、大事な視点が欠けてしまっていると、いつも感じる。 それは「77年前も今も日本は実はそれほど大きく変わっていない」という視点だ。太平洋戦争は遠い昔の話などではなく、令和の今にも通じる、「日本社会の構造的な問題」が引き起こした“人災”なのだ。 一体どういうことか、日本の戦争被害を語るうえで避けては通れない「空襲」を例に説明しよう。 当初、連合国は軍事施設を狙っていたが、わずか数時間で10万人が亡くなった東京大空襲をきっかけに、全国の都市部でも無差別に行われて、死者は50万人以上ともされている。そのため、日本国内では「空襲」と聞くと、「連合国による民間人を狙った卑劣な戦争犯罪」というイメージを抱く方も少なくない。 ただ、この膨大な数の犠牲者は、「連合国側が日本の一般市民の命を軽くみた」とか「戦争とはそういう残酷なもの」なんて話だけでは説明ができない。日本という社会が持つ構図的な問題が被害を拡大させて、「本来は助かったはずの人の命を奪った」という側面もあるのだ。 例えば、この時期に無差別に空襲された都市部は、実は東京や大阪だけではない。1940年にはナチス・ドイツがイギリスのロンドンで連続57日間の夜間空襲をしている。いわゆるThe Blitz(ロンドン大空襲)だ。 東京はわずか数時間でも10万人規模の市民が亡くなっているのだから、57日も続けばはるかに上回る数のすさまじい数の犠牲者が出たと思うかもしれないが、この空襲で亡くなった民間人は4万3000人以上とされている。 なぜこんなに被害の違いがあるのか。「日本は木造家屋だから被害が拡大した」なんて上っ面の話ではなく、シンプルに国家としての対応の違いだ。イギリス政府は空襲に備えて「エアレイドシェルター」という防空壕を多く設置して、そこに入りきらない貧しい人々などは、地下鉄構内へ避難するように誘導した。 では、なぜ日本では同じようなことができなかったのか』、「イギリス政府は空襲に備えて「エアレイドシェルター」という防空壕を多く設置して、そこに入りきらない貧しい人々などは、地下鉄構内へ避難するように誘導」、当然のことだが、日本で出来なかった理由をみてみよう。
・『地下鉄構内に逃げることを禁止!? 日本社会が人命より重視しているものとは  1945年時点で、東京大空襲があった東京でも浅草―渋谷間の銀座線は運行されていたし、大阪でも梅田―天王寺の御堂筋線があった。しかし、空襲が起きた時に地下鉄構内に逃げ込むことは禁止された。空襲になると、駅のホームや車内にいた人は地上に追い出されて、入口は閉鎖された。 なぜ日本では、ロンドンで多くの市民の命を空襲から救った避難場所から追い出して、火の海の中を逃げ回らせるという、「人命軽視の空襲対策」をとったのか。 「そ…それはみんなが一気に地下鉄に押し寄せたらパニックになって将棋倒しになるからだろ!」という感じで、とにかく日本が国民の安全や命に配慮していたと考えたい人もいるだろうが、それは「後付け」の説明だ。 1941年2月、帝国議会貴族院で、ある議員が、ロンドン空襲での事例や、各国が地下鉄を空襲の避難場所として想定していることを引き合いに、日本もそうすべきではないかという質問をした。しかし、鉄道省監督局長はその方針に難色を示し、理由をこのように述べている。  「交通機関トシテノ機能ヲ害スル」(貴族院・帝都高速度交通営団法案特別委員会、1941年2月15日) 空襲になると、地上は火の海になるので、軍の物資や人員を運ぶことができなくなってしまう。つまり、空襲時に地下鉄は唯一の交通機関になるので、そのインフラの維持を優先すべきというわけだ。これを受けて、1944年7月に内務省・軍需省などが制定した「中央防空計画」にもこうしっかりと明記されるようになる。 <第一二七条 地下鉄道ノ施設ハ之ヲ待避又ハ避難ノ場所トシテ使用セシメザルモノトス>  さて、このように「人命よりも社会インフラ優先」という、イギリスと明らかに異なる国家の対応とみて「そういや、つい最近もなんかこんなことがなかったっけ?」とお気づきになった方はいないだろうか。 そう、新型コロナウイルス感染拡大による「医療崩壊」だ』、「人命よりも社会インフラ優先」という、イギリスと明らかに異なる国家の対応は、確かに「新型コロナウイルス感染拡大による「医療崩壊」」でも見られた。
・『人命より社会インフラ 政府や国民に根付いている意識  日本では新型コロナウイルス感染症は感染症法上の「2類相当」という扱いにしたことで当初、大きな病院や公立病院の現場は阿鼻叫喚の地獄と化した。症状が悪化した患者まで受け入れてくれる病院が見つからず、「たらい回し」にされて亡くなってしまうなんて悲劇も起きた。 しかしその一方、個人経営のクリニックなどのいわゆる「町医者」の多くは、「地域医療を守るという使命がある」ということから、コロナ患者を受け入れることは少なかった。中には、外出を控えるムードから診療も激減して、閑古鳥が鳴くようなクリニックもあった。 つまり、感染拡大で命の危険にさらされていた医療従事者や患者があふれていた一方で、地域医療は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったのである。 戦時中の日本の構造と照らし合わせてみると、空から焼夷弾の雨が降る中で、命からがら逃げ惑う人々がいた一方で、地下鉄は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったことと瓜二つだ。 では、なぜ日本の行政は「人命よりも社会インフラ優先」という方向に流れがちなのか。その謎を解く鍵も実は77年前の戦争にある。 先ほど鉄道省の局長が、貴族院で地下鉄を避難場所に使わせないということを明言したことを紹介したが、これは何もこの局長が個人の独断で決めているわけではない。国家の「大きな方針」に沿っている。 日本という国は、国民に「空襲から逃げず、恐れずみんなで消火せよ」と義務付けていた。スローガンや「お願いベース」などではなく、法律に基づいて「強制」していたのだ』、「日本という国は、国民に「空襲から逃げず、恐れずみんなで消火せよ」と義務付けていた。スローガンや「お願いベース」などではなく、法律に基づいて「強制」していた」、日本という国は個人よりも集団の利害を優先する恐ろしい国のようだ。
・『同調圧力による社会の空気 マスコミも不安に怯える国民を「叱責」  この時代、「防空法」という法律があり、戦局が厳しくなるにつれて改正されていくのだが、そこで一貫しているのが「都市部から逃げてはならない」「空襲で家屋が燃えたら防空壕から出て、隣組で協力をして消火活動をせよ」というものだ。 この法律についてまとめている労作「検証 防空法・空襲下で禁じられた避難」(法律文化社)を読めば、当時のマジメな日本国民が、「人命軽視」も甚だしいこの悪法に従わざるを得なかった理由もわかる。  <都市からの退去禁止(八条ノ三)に違反した場合、「六月以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金二処ス」と規定されていた(防空法一九条ノ二第二号)。(中略)実際にこの条項により処罰された例は少ないと思われるが、単なる努力義務ではなく罰則を伴う禁止規定とされたこと自体が、都市の住民に対して強い威嚇効果をもたらす>(同書、P.67) この威嚇効果はちょっと前の「マスク警察」を思い浮かべていただければわかりやすい。何の法律的な根拠も罰則もない「お願い」であるにもかかわらず、同調圧力が起きて、マスクをしていない人間は厳しくバッシングする人々が大量にあらわれた。法律で罰則規定があるということは、あれをはるかに上まわる「空襲から逃げるな」という同調圧力が社会にまん延してたいたということだ。 しかも、同じ時期に制定された戦時刑事特別法(10条1項)では、「防空ノ妨害」をした者は死刑・無期懲役と定められた。「みんな!空襲が来るから逃げようぜ」なんて隣近所に呼びかけたら死罪になっていたのだ。 この同調圧力をさらに悪化させたのが、マスコミだ。マスクやコロナパニック(トイレットペーパーが街から消えるなど混乱が起きた)の時も、マスコミ報道が人々の不安をあおったことがわかっているが、77年前も同じことが起きている。 例えば、「大阪毎日新聞」は「防空指導方針」を引き合いに、空襲の脅威に怯える国民はこのように叱責した。  「勝手に防空壕を掘るな 避難、退去は一切許さぬ」(大阪毎日新聞1941年10月2日)』、「マスコミ」がここまで激しく「国民」を「叱責した」とは改めて驚かされた。
・『戦時中のエリートたちの思想 人命軽視で戦う軍が「命」重視にできるか  さて、こういう「人命軽視」のクレイジーな国家の方針を聞くと、「当時の政府や軍部は完全に狂っていたのでは」と思うかもしれないが、そんなことはない。彼らの多くは国際情勢にも明るく、海外留学の経験もあって、日本の置かれている苦しい状況をよくわかっていた。 わかっていたけれど、こういう「人命軽視」の大方針を打ち出した。なぜかというと、社会インフラを守るためには、市民が一定数犠牲になってもしょうがない、という思想がエリートの間にまん延しているからだ。 1941年11月、衆議院で開かれた防空法改正の審議で、佐藤賢了・陸軍省軍務課長が述べた答弁に、当時の日本のエリートたちの思想がすべて集約されているので、紹介しよう。 「空襲を受けたる場合において実害そのものは大したものではないことは度々申したのであるが、周囲狼狽混乱に陥ることが一番恐ろしい、またそれが一時の混乱にあらずしてつひに戦争継続意志の破綻といふことになるのが最も恐ろしい」(衆議院防空法中改正法律案特別委員会、1941年11月20日) なぜここまで恐怖だったのかというと、「軍」というインフラが崩壊してしまうからだ。 ご存じのように、日本軍では「絶対に逃げずに死ぬまで持ち場を守れ」と現場に叩き込んでいた。連合国の兵士たちは負けそうだと自覚すると、祖国に生きて帰る確率が上がるので当たり前のように「投降」をしたが、日本軍では「生き恥を晒すな」「捕虜になるくらいなら鬼畜米英を1人でも巻き添えに自爆しろ」というのが常識だった。 軍隊がそのように人命軽視で戦っている中で、銃後の庶民に「空襲が来るから避難せよ」なんてぬるいことが言えるだろうか。 言えるわけがない。世界の一般的な国では、「軍人は戦争をして、市民を守る」という役割分担が明確になされているが、日本の場合、そのような役割分担はない。「いくぞ1億火の玉だ」という国威発揚スローガンがわかりやすいが、銃後の女性も子どももいざとなったら爆弾を抱えて、鬼畜米英に体当たりして一矢報いよという「総力戦」を唱えていた。 だから、市民も最前線の兵士と同様に、「絶対に逃げずに死ぬまで持ち場を守れ」ということが求められた。 軍隊と同じことを求められるので当然、市民の間でも、軍隊と同じような悲劇が起きる。人命無視をした悲劇といえば、神風特攻隊や人間魚雷「回天」が思い浮かべるだろうが、実は空襲の現場でも同じようなことが起きていた』、軍国主義の恐ろしいような成行きだ。
・『「空襲も焼夷弾も怖くない」というウソ 77年進化していない日本を見つめ直せ  1942年、国はそれまでは家から離れた庭先など屋外に防空壕をつくれと言っていたのを、「床下に簡素に作れ」という「屋内防空壕」という方針へと転換した。もちろん、これは「すぐに防空壕から飛び出して消火活動ができるから」からだ。 これを真に受けて、家の軒下に簡単な防空壕をつくった人はどうなるのかは言うまでもない。空襲を受けた家屋は燃えるので、一度逃げ込んだら逃げられない。柱なども崩壊するので生き埋めになって、むごい熱さの中で蒸し焼きにされて亡くなっていくのだ。 特攻隊や人間魚雷のことを「非人道的な作戦」というが、実は一般庶民も同じように「非人道的な作戦」によって、多くの人々が命を奪われていたのである。 また、焼夷弾の直撃を逃れたのに、燃え盛る家を消火しようという無謀なことをさせられて亡くなった人もたくさんいる。当時、日本政府は、焼夷弾はホウキなどで叩けば簡単に消火できるというデマを流して、国民に空襲は怖くないというプロパガンダをしていた。 東京大空襲の少し前、政府が発行する「週報」(第四二八号)には、軍部や政府関係者がどうやって空襲を乗り切るかということを議論する「決戦防空座談会」が掲載されているのだが、そこにはこんな感じで結論まとめられている。 「焼夷弾は恐ろしいもんぢゃないといふ感じを皆に持たせる。さうして、どうして消したらよいかといふことを徹底させることが一番必要だと思ひます」 インフラを守るためには、市民がある程度の犠牲を払うのはしょうがない――。これは現代でも脈々と引き継がれている日本のエリートたちの典型的な思考パターンである。 だから、コロナ感染者があふれても「2類相当」に固執をする。先進国の中でもダントツに低い賃金で、多くの労働者が年収200万以下で貧しさにあえいでいるのに、「地方の雇用を支える中小企業を守れ」なんてことを大真面目に訴えている。 やっていることが、医療や経済というだけで、基本的には77年前の戦争と方法論は何も変わっていない。国家のインフラを守るためには、弱い者はじっと我慢をせよ――というのは、今も昔も変わらない日本の基本的な考え方なのだ。 ということは、今のままでは、医療も経済もあの戦争と同じ道を歩むということだ。 「戦争の記憶を語り継げ」なんて悠長なことを言っている場合ではない。今こそ我々の社会が77年前と同じ破滅の道を歩んでいる事実を直視すべきだ』、強く同意する。 
タグ:「日本という国は、国民に「空襲から逃げず、恐れずみんなで消火せよ」と義務付けていた。スローガンや「お願いベース」などではなく、法律に基づいて「強制」していた」、日本という国は個人よりも集団の利害を優先する恐ろしい国のようだ。 「人命よりも社会インフラ優先」という、イギリスと明らかに異なる国家の対応は、確かに「新型コロナウイルス感染拡大による「医療崩壊」」でも見られた。 「イギリス政府は空襲に備えて「エアレイドシェルター」という防空壕を多く設置して、そこに入りきらない貧しい人々などは、地下鉄構内へ避難するように誘導」、当然のことだが、日本で出来なかった理由をみてみよう。 窪田順生氏による「東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由、コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習」 「古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。 篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います」、「当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。 橘 国家や民族のアイデンティテ 「これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです」、ところが、以下にみるような政治的な難しさがあるようだ。 「当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです」、確かに「ロマン」がある話だ。 「大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています」、「モンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです」、「モンゴルは」、「すぐに遺伝子が伝わっていく」、さもありなんだ。 橘玲氏と人類学者の篠田謙一氏の対談(後編)「「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説」 「エビデンスがない領域の議論は結局、先ほど申し上げたようにスペキュレーションの世界なので、イデオロギーが入ってきてしまうのです。 社会状況によって、解釈しやすいものがみんなの頭の中にスッと入ってきちゃうんですよね。その中で真実を探すのは、とても難しいんです」、「ホモ・サピエンスには言葉や集団を束ねる力があった」、なるほど。では対談の続きを見てみよう。 「それまで東アフリカと中近東の一部に押し込められていたサピエンスが、わずか2万年ほどでユーラシア大陸の東端まで到達し、ネアンデルタール人やデノソワ人などの先住民が絶滅していく。そこでいったい何があったのかは誰もが知りたいところです」、「ヨーロッパのネアンデルタール人は人口比でサピエンスの10分の1くらいしかいなかっただろうといわれています。 彼らも進化の袋小路に入りかけていて、なかなか数が増やせなかったところに、とにかく多産なホモ・サピエンスが登場したので、吸収されたんだと」、なるほど。 「近年の遺伝人類学では、ネアンデルタール人やデニソワ人と同様、ユーラシア大陸で共通祖先から分岐した可能性が出てきた」、学説も想像以上に変化しているようだ。 篠田謙一氏の対談(前編):ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」」 ダイヤモンド・オンライン 歴史問題 (17)(ホモ・サピエンスが繁栄し ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」、「弥生人」の定説に待った ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説、東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由 コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習) 「マスコミ」がここまで激しく「国民」を「叱責した」とは改めて驚かされた。 軍国主義の恐ろしいような成行きだ。 「戦争の記憶を語り継げ」なんて悠長なことを言っている場合ではない。今こそ我々の社会が77年前と同じ破滅の道を歩んでいる事実を直視すべきだ』、強く同意する。
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哲学(その2)(飲茶氏のシリーズ:「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い 説明できますか?、自由主義者は「自由」のために 殺人を肯定する?、「人殺しを悪とする」2つの考え方、正義は「ロジカル」に定義できる? ある哲学者の主張、ソクラテス『善い行いをしろと言ったら 嫌われて死刑になった』) [文化]

哲学については、昨年6月22日に取上げた。今日は、(その2)(飲茶氏のシリーズ:「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い 説明できますか?、自由主義者は「自由」のために 殺人を肯定する?、「人殺しを悪とする」2つの考え方、正義は「ロジカル」に定義できる? ある哲学者の主張、ソクラテス『善い行いをしろと言ったら 嫌われて死刑になった』)である。

先ずは、昨年7月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した会社経営者で哲学サロンを主催している飲茶氏による「「正義の教室」:「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い、説明できますか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/207986
・『哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?』、飲茶氏については、前回のブログでも紹介した。堅い話を平易にする舞台設定はさすがだ。どんな展開になるのだろう。
・『リベラリズム、リバタリアニズムの違いって?  前回記事『自由主義とは「富裕層からたくさん税金をとれ!」という思想でもある。』の続きです。 先生はそう言って、黒板にふたつの言葉を書き出した。 『リベラリズム、リバタリアニズム』 「キミたちはこれらの言葉を知っているだろうか。ちなみに、一方は、リベラルとも言うが、もしかしたらそっちの方が馴染みがあるかもしれない」 あ、たしかに。リベラルはニュースとかで聞いたことがある。……まあ、あまり意味はよくわかってはいないのだけども。 「リベラリズム、リバタリアニズム。両方とも自由主義の特定の立場を表す専門用語であり、両方とも日本語に訳すと『自由主義』という意味になる言葉であるのだが―誤解を恐れずざっくり言うと、さっきの、弱者に優しい福祉社会を作る考え方がリベラリズムであり、弱肉強食の自由競争を推進する考え方がリバタリアニズムである」 「多くの自由主義の入門書が、多種多様で混乱ぎみな自由主義の全体像を読者につかませようと、まずこのリベラリズムとリバタリアニズムの違いについて説明を試みるのだが―これが非常にわかりにくい! とっつきにくいと言ってもいい。実は、自由主義の学びを阻害する最大の障壁がここにある。その障壁、それは―」 先生は話を止めて一旦沈黙する。そして、十分に間を取ったあと、満を持して重々しく言った。 「名前が似ていることだ」 テレビのバラエティならここで椅子から滑り落ちて大ゴケするシーンなのかもしれないが、先生の真剣な顔つきから、どうやらウケ狙いで言ったわけではなく真面目に本当にそう思っているようだった。 「リベ……リバ……リベ……リバ。ほら、言い始めのところが特に似ているだろう。リバ……リベ……リバ……リベ。ほら、もうどっちが、どっちだか、わからない。いや、冗談みたいな話に聞こえるかもしれないが、実際に想像してみてほしい。たとえば、こんな文章」 『リベラリズムは、これこれについて賛成だが、リバタリアニズムでは反対である』 『この政策は、むしろリバタリアニズム寄りのリベラリズムと言ってよい』 「どうだろう。自由主義の入門書では、こんなふうに両者を対比、関連させて説明することが多いのだが、所詮、初学者には耳慣れない言葉だ。日常的に使う言葉ではないし、語感も似ているのだから、1ヵ月もしないうちに、どっちが、どっちだか、わからなくなる」』、「リバタリアニズム」は自由至上主義ともいわれるが、確かに分かり難い。
・『「リベラリズム」の意味は、国によって違う  いえ、先生、もうすでにわからなくなってます。今いきなり授業で「さっき説明したように、リベラリズムはリバタリアニズムと違って」と言われても、まったくついていけない自信があります。 「最初の章で用語の定義を説明し、次の章からその用語を駆使して深い説明を始めるというのは、本の書き方として定番であるが、しかし、用語同士が似すぎていると頭に入らず、その状態で先を読み進めるのはただ苦痛なだけである。しかもだ。せめて、その似ている用語がふたつだけであれば、まだ我慢できるが、さっきリベラリズムをリベラルと呼んだように、それぞれにさまざまな言い回しがある」 先生は、黒板に書いたふたつの単語の後ろに、さらにつけ足した。 『リベラリズム、リバタリアニズム、リベラル、リベラリスト、リバタリアン』 うわ、リベとリバがさらに増えたぞ。こんな用語が次々と出てくる入門書なら僕的にはもうお手上げだ。 「しかもだ」 え、まだあるの? 「『リベラリズム』という用語を使ったとき、最低でもそれの意味が、ひとつに固定されていればまだいい。それなら、ある程度時間をかけて用語に慣れていけばなんとかなるだろう」 「しかし、実際には、ヨーロッパとアメリカと日本で、リベラリズムの意味合いはそれぞれで全然違ってしまっており、だから、ある人の本を読んで、『リベラリズムってこういうものなんだ、福祉国家を目指すことなんだ』と理解したつもりになっても、別の人の本を読んだら、その理解とまったく違う、福祉国家の否定が書かれていたりすることがある」 「なぜなら、『リベラリズム』とは、それが『どこの国』の話なのかという文脈によって中身が変わってしまう用語だからだ」 ……難易度高っ! 「そういえば、忘れていたが、リベラリズムとひと口に言っても、ニュー・リベラリズム、ソーシャル・リベラリズム、ネオ・リベラリズム、モダン・リベラリズムと色々あるので、それぞれをごっちゃにしないようにして文章を読まなくてはならない」 ……戦意喪失。というか、ニューとネオをまぜるな……。 「だから、私はキミたちに自由主義を語るにあたって、これらの用語をすべて捨て去ろうと思う。通常、自由主義を初学者に教える場合、今述べたようなさまざまな種類の自由主義について、それぞれの違いや歴史を淡々と語っていくのがセオリーなのであるが、私は学びの最初に、そこに時間をかけることは間違っていると思っている」 「そうした用語の違いを網羅的に把握するよりも、本質……核心……。自由主義とは結局、何を正しいとする主張なのか? その本質をまずキミたちに伝えるべきだと思うのだ」 そう言って、先生は何やら図のようなものを描き始めた。 「さまざまなリベとリバは置いておこう。さっきの用語はもういっさい忘れ去ってよい。私は、自由主義を知りたい人は次のふたつだけを理解すればよいと考えている」』、「「リベラリズム」の意味は、国によって違う」、のも悩ましい。「自由主義を知りたい人は次のふたつだけを理解すればよい」、どんなことなのだろう。

次に、この続き、7月8日付けダイヤモンド・オンライン「「正義の教室」:自由主義者は「自由」のために、殺人を肯定する?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/207989
・・・「強い自由主義」と「弱い自由主義」とは?  前回記事『「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い、説明できますか?』の続きです。 先生が描いた図には、「強い自由主義」と「弱い自由主義」というふたつの文字が書かれていた。 ん? 強い、弱い? 今までと比べて急にわかりやすそうになったぞ。ただ、さすがに子どもっぽくなった感は否めないが。 「『強い自由主義』と『弱い自由主義』……。これは私オリジナルの言い回しであるが、とにかく、単純に、自由主義には強い方と弱い方の2種類があると思ってもらえばいい。私がこの授業で語りたいのは『強い自由主義』の方であり、こちらだけが真の自由主義であると最終的には主張したいのだが、それは後にして、まずは弱い自由主義とは何かというところから片づけていこう」』、「強い、弱い」での説明は初めて聞いた。
・『弱い自由主義とは?  「仮に地球上にいる人間全員に『キミは自由主義者か?』と問いかけて、『そうだ』と答えた者を1か所に集めたとしよう。その自由主義者の集まりは―あくまでも私の考えではだが―『弱い自由主義者』と『強い自由主義者』のふたつのグループに分けることができる」 「このうち『弱い自由主義者』というグループに分けられた者たち。彼らは、自由主義者全体の中でも大半を占めるほどの人数であり、しかも一見すると意見がバラバラ、何の類似性もない集まりのように見えるが、実は全員がある共通の、同じ思想を持っている」 「それは、『自由に生きることが人間の幸福であり、社会は個人の自由を尊重しなくてはならない』という思想だ」 「もっともらしく聞こえるかもしれない。しかし、自由主義としては、この思想はいまいち『弱い』と言わざるを得ない。なぜなら、自由よりも幸福を上位に置いているからだ。すなわち、『幸福 > 自由』。それは彼らの思想を分解すればよくわかる」 (1)幸福になるには自由が必要だ (2)よし、自由を尊重しよう 「これが彼らの思想のロジックであり、このような論理展開から自由を尊重している以上、彼らの最優先は『自由』ではなく、『幸福』であることは明らかだ」 「さて、我々は、これに似た主義をどこかで聞いたことがあるはずだが……正義くん」 「功利主義ですよね!」多少食い気味に僕は答えた。 「そう、その通りだ。弱い自由主義者たちが掲げる思想は、自由という単語を使ってはいるものの、その内実は功利主義そのものである。なぜなら、彼らの目的はハッピーポイントの増大、とどのつまり『人々の幸福度の増大』にあるからだ。したがって彼らにとって、自由はあくまでも、幸福度を増大させるための道具、手段のひとつにすぎない」 「だから、ある特定の自由が『人々の幸福度の減少につながる』としたら、彼らは平気でその自由を制限しようとするだろう。彼らにとって、あくまでも大切なのは人々の幸福の方であって、自由は、結局のところは二の次であるからだ」 「つまり、『弱い自由主義者』たちは、自由主義とは名ばかりで、その実、『自由主義の皮をかぶった功利主義者』にすぎないのである」 今までさんざん、微妙な自由主義の話を聞かされるたびに、「いや、それ功利主義だろ」と内心で突っ込んでいたので、そのカテゴリ分けは、かなりすっきりする』、「『弱い自由主義者』たちは、自由主義とは名ばかりで、その実、『自由主義の皮をかぶった功利主義者』にすぎない」、なるほどと納得した。
・『強い自由主義とは?  「さて、次は強い自由主義の話だ。さっき私は『幸福 > 自由』である者たちを『弱い自由主義者』と分類した。なぜ彼らが『弱い』かというと、幸福の方が大事である以上、状況次第でいつ手のひらを返して自由を制限してくるかわからないからだ。ゆえに、私はそれを自由主義として『弱い』思想だと定義する」 「では、その逆、『強い』とは、『強い自由主義』とは何だろうか? それは弱い自由主義のちょうど正反対、『自由 > 幸福』を旨とする者たちのことを言う。彼らにとって幸福はあまり関係ない、いやまったく関係ないと言っていい。強い自由主義者にとって重要なのは、人間に与えられたもっとも基本的な権利である『自由』を守ることであり、そこから生じる結果についてはいっさい問わない。その意味で強い自由主義者は、とてもシンプルだと言える」 『自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、 自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』 「そこに結果も事情も幸福も関係ない。いかなるケースにおいても、単純に、愚直に、たとえ誰が不幸になろうとも、自由を守ることが正義だと考える、それが強い自由主義だ」 想像以上に自由な自由主義だった。でも、それって大丈夫なのだろうか? ふと先生と目が合った。疑問があればどうぞと質問を促す目をしていたので、それにつられるように僕は手をあげた。 「そうすると、殺人とか、泥棒とか、明らかに不幸を生み出すことでも、強い自由主義は肯定するということでしょうか?」 「良い質問だ、正義くん。当然の疑問だろうね」 スキンヘッドを撫で回しながら、先生は言った。促されたとはいえ、生徒の自主的な質問にとても嬉しそうだ。 「正義くんのその質問への答えは、否だ。強い自由主義では、その手の不当行為については、やってはいけないこと、悪いことだと否定する。その理由は、先に述べたようにシンプル―『自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』からだ」 「功利主義であれば、人を不幸にするから、もしくは苦痛を生み出すから、という理由で殺人を否定するだろう。だが、強い自由主義にとって、殺人は人を不幸にするから悪なのではなく、他人の自由を奪うから、望まない痛みを強制するから、悪なのである」 「だから、強い自由主義については、次の標語、合い言葉で理解するといい」と言って、先生は黒板に短い文を書いた」 『自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて』、アメリカの「リバタリアニズム」には国家の役割を警察・国防に限定(夜警国家論)するような極端な一派もあるようだ。

第三に、この続き、7月27日付けダイヤモンド・オンライン「「人殺しを悪とする」2つの考え方」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/210022
・・・「宗教の正義」とは何か?  「宗教の正義。もしかしたら、この正義を主張する者は、自分が『宗教的である』という自覚を持っていないかもしれない。そもそも多くの場合、我々は宗教というと何か特定の神さまを信じることだと思っている。だから、神さまを信じてさえいなければ、自分が宗教とは何の関わりもない人間だと思ってしまっている人が多い」 「が、実際にはそうではない。『宗教的である』ということは、神さまを信じること、宗教団体に入ることとはまったく関係のない、別のことなのだ」 「では、『宗教的である』とは、もともとどういうことで、どう区別すべきものであるのか? 私は、『物質または理性を越えたところにある何かを信じていること』、それが宗教的であることの唯一の条件であり、その一点によって、宗教的かどうかの是非を見分けるべきであると考えている」 そう言って、先生は黒板に大きな丸い枠を描いた。 「今、黒板に書いた枠―これを、何でも包み込める巨大な袋だと思ってほしい。さて、何でも包み込めるのだから、せっかくだし、我々が住むこの宇宙全体をこの枠の中に入れてしまおう」 先生は、黒板に描いた枠の内側に「宇宙(物質の世界)」という文字を追加した。 「というわけで、宇宙のすべてがこの枠の内側に入ったわけだが……そうすると、今、我々の宇宙で何が起ころうと、今後どのような事象が発生しようと、それはすべてこの枠の『内側』での出来事ということになる」 そりゃまあ、そういうことになるだろうな。枠の中に宇宙があるわけだから。 「では次に、人間の思考について考えてみてほしい。仮に、ランダムに文章を作り出すコンピューターがあったとしよう。人間が使う言葉、単語をすべてインプットしておいて、適当にその組み合わせを作って出力する機械だ。その機械を動かすと、大半は無意味な文章が出力されるわけだが、繰り返せばいつかは意味のある文章が出てくる。いや、それどころか何度も繰り返すうちに、偶然シェイクスピアが書いた小説が出力されることだってあるだろう」』、単なる比喩だが、「コンピューター」が「偶然シェイクスピアが書いた小説が出力される」可能性はなくはないが、確率的には天文学的な確率でほぼゼロに近いといえる。
・『善や正義は言葉で説明できない?  どこかで聞いた話だな。キーボードの上で猫を歩かせたら、偶然シェイクスピアの作品が出来上がることもあるみたいな話だっけ? まあ、シェイクスピアの作品がどれだけ長いか知らないが、一応、言葉の組み合わせでできている以上、組み合わせを延々とやっていけば、いつかは同じものが出力されるのは当然のことではある。 「さて、もっとスケールを大きくしよう。このコンピューター、文章をランダムに作り出す機械を『無限』に動かしたと考えてみてほしい。すると、あらゆる言葉の組み合わせを網羅した文章……とんでもない量の文章が出力されるわけであるが……、この膨大な文章をすべて同じように枠の中に入れてしまおう」 先生は、再び枠の中に文字―今度は、「理性(言葉の世界)」という文字を書き入れた。「というわけで、人間がその思考活動によって生じうる、すべての文章が、今この枠の内側に入ったわけだが……そうすると、今後どんな知識人がどんな本を書こうが、どんな説明を、どんな論文を、どんな学説を作り出そうが、その文章はこの枠の内側にすでにあるということになる」 ランダムな文章を無限に生成したわけだから……、いま書店にある本もそうだし、将来、書店に並ぶであろう本もすべて、この枠の内側にすでに存在している……これもまあ、その通りだろうな。 「それだけじゃない。キミたちがまさに今考えていること、そして、今後、考えるであろうことも、無限の文章の組み合わせの中に含まれるのだから、枠の内側にすでにあると言える」 本当にスケールの大きな話だった。何が起ころうと、何を考えようと、とにかくそれらはすべて、枠の内側に必ずあるということか。 「では、ここで問おう。善とは、正義とは、どこにあるだろうか? 正義くん」 意図がよくわからなかった。でも、起こりうる、考えうる、すべての出来事が枠の中にあるのだから、当然、「枠の内側でしょうか?」と僕は答えた。左隣から視線を感じたので、ちらりと見ると、倫理が僕のことをにらんでいた。どうやら間違ったようだ。 「正義くんの左隣、副会長だったか、キミはどう思うかな?」 先生は倫理に問いかけた。ちなみに右隣は千幸。ミユウさんは、いつものように遠く後ろの席に座っている。 「はい。善や正義は、言葉や理屈で説明できるものではありません。だから、枠の内側にはなく、もしあるとしたら―それは枠の外側だと思います」』、確かに、「善や正義」は、「理性(言葉の世界)」に属さない。
・『人殺しに対する「2つの考え方」  「ふむ、そうだな。まさに『宗教の正義』では、そのように正義を捉えている」 そう言って、先生は枠の外側に小さな点線の丸を描き、その中に「善」「正義」という文字を書き入れた。 「いや、正義くんの答えも間違いではない。それは主義の違いの問題だ」 たとえば、功利主義―『全体の快楽の増加が正義である』という考え方において、快楽とは『脳の状態』という物理現象なのだから、当然、この巨大な枠の内側での出来事だと言える。 そして、功利主義の『快楽の増加が正義』という論も、文章すなわち思考活動であるわけだから、これも枠の内側に属するものであると言える。 このように功利主義は、すべて枠の内側で成立する主義主張であると言えるわけで、功利主義を採用する人にとって『正義』は、枠の内側の存在であると言える」 なるほど。で、一方、宗教の正義では「枠の外側」―つまり「物質の世界」や「言葉の世界」を超えたところに正義があると考えているわけか。 「さて、ちょっとここで、『なぜ人を殺してはいけないか?』という問題について考えてみてほしい。キミたちならこの質問に何と答えるだろうか?」 「たとえば、一例として、『他人から殺されるかもしれない社会では不安でオチオチ眠れない。そこで、みんなで殺人はダメという暗黙のルールを作った。だから、人を殺してはいけないのだ』という回答の仕方があるだろう」 「これは功利主義的な回答であるが、合理的な思考活動の結果であり、まさに枠の内側での回答と言える。もちろん、それ以外にも、さまざまな回答の仕方があるだろうが、いずれにせよ、この問いに何か合理的な答えを与えようと『考えた』時点で、それは共通して『枠の内側での回答』ということになる」 「では、『宗教の正義』の立場の人ならどう答えるだろうか? 簡単だ。彼にとっては議論も思考も必要ない。なぜなら、それらを行ったところで、それはただ、枠の中をグルグル回るだけにすぎないからだ。そして、枠の中には正義は存在しない。だとしたら、そんな行為は無意味である。だから、彼は、ただ黙って枠の外にある正義を直接『指差す』。そして、こう叫ぶだろう」 「『人殺しは悪いことだ! 正義に反する! そんなことは考えなくてもわかるはずだ!』と」 次回に続く』、「功利主義」の考え方と、『宗教の正義』の考え方には大きな違いがあることは理解できた。

第四に、1つ飛ばして、8月3日付けダイヤモンド・オンライン「ソクラテス『善い行いをしろと言ったら、嫌われて死刑になった』」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/210780
・・・相対主義VS絶対主義  前回記事『正義は「ロジカル」に定義できる? ある哲学者の主張』の続きです。 「今から哲学史の授業を始めたいと思う」 「本来、哲学史の授業は、古代ギリシアの時代から順番に、一人ひとりの哲学者の主張を細かく説明していくのが定番であるのだが……、それをやっていては間違いなく途中で飽きてしまう」 「歴史を学ぶときに重要なのは、まずざっくりと大まかな流れを把握すること。だから、今日は詳細を省き、概要だけ駆け足で一気に説明していきたいと思う」 「それから―これは歴史を学ぶ意義そのものでもあるのだが―これから私が説明する歴史の流れの中には、『時代が移り変わっても、変化しない人類の営み』、もう少し言えば『人類の普遍的な悩み事』『恒久的課題』が隠されている。それについても、ぜひ見つけ出してみてほしい」 いつの時代になっても、人類がずっと悩み続けていることか……。 時は移り、所は変われど、人類の営みに何ら変わることはない―そんな格言から始まるアニメが昔あったと思うけど、きっと歴史ってそういうものを学びとるためのものなんだろうな……、というか、そうであってほしい。意味なく出来事と年号を覚えさせられるのは、もううんざりだ。 「さて、いま私が黒板に書いたふたつの主義、相対主義と絶対主義……これは古代という遠い昔、およそ2500年ほど前に興った哲学思想であるが、線を挟んで左右に書いたことからわかるように、これらふたつの主義は対立関係にある。つまり、両者はまったく真逆の内容になっているということだ」 「では、まず右側、相対主義。これは、『物事の価値は、他との関係性によって決まるのだから、絶対的なものはない』という考え方のことである。たとえば、私が今持っているチョーク、これは『大きい』だろうか? それとも『小さい』だろうか? こうして指でつまめるのだから、私にとっては『小さい』と言えるかもしれない。だが、アリからすればとても『大きい』塊に見えることだろう」 「他には、私が今立っているこの地球、これは確実に『大きい』と言えるだろうか? いや、それもあくまでも、私にとって『大きい』のであって、たとえば太陽ですら、それこそ銀河系全体で比較したら砂粒のように、ものすごく『小さい』と言えるだろう」 「結局、大きい、小さい、熱い、冷たい、善い、悪い、何でもいいが、そういった価値判断は絶対的なものではなく、それを判断する相手との相対的な関係性によって決まるのであって、ようするに、人それぞれのものにすぎないのである」 なるほど。すごくよくわかる話だけど、でもこれって2500年前の話なんだよな?』、「歴史の流れの中には、『時代が移り変わっても、変化しない人類の営み』、もう少し言えば『人類の普遍的な悩み事』『恒久的課題』が隠されている」、その通りなのだろう。
・『なぜソクラテスは死刑になったか?  その頃って科学も発展してない時代だから、象が世界を支えてるとか、変な先入観で迷信や宗教を頑固に妄信してる人たちばかりだと思っていたけど、「価値観なんて人それぞれだよ」という現代的な視点が、そんな時代からもうあったのか。 「一方、それに対立するのが、絶対主義だ。これは、相対主義の逆で『絶対的に正しい、絶対的に善い、といったものが、ちゃんとこの世には存在するんだよ』という考え方のことである。この主義を唱えたのが、かの有名なソクラテスだ」 ソクラテス。 哲学の知識はゼロの僕でも、名前くらいは知っている。哲学者といえば、という連想で、一番最初に名前が出てくる人だよな。 「そのソクラテスが生きていた当時、世の中は相対主義が優勢だった。つまり『正義なんて国や人によって変わるのだから絶対的に正しいものなんてない』という考え方が流行っていた時代だったというわけだ」 「そこへソクラテスがやってきて、『いやいや、絶対的な正しさ、正義は存在するのだ』と強く訴えかけ、人々に『善く生きる』ことを勧める。これは端的に言えば『正義を志して生きろ』ということであるが、当時の風潮からすれば、少々暑苦しい説教話であり、結局、権力者たちから疎まれたソクラテスは無実の罪で投獄され、最終的には死刑となってしまう」 死刑……。善い行いをしろと言ったら、人から嫌われて死刑か。なんだか身につまされる話だな……。次回に続く』、「相対主義が優勢だった」なかで、「『善く生きる』ことを勧める」ソクラテスが、権力者たちから疎まれ・・・最終的には死刑となってしまう」、有名な話で漸く思い出した。ソクラテスを生み出したギリシャ文明は、西欧哲学の原点になった点でも、確かに素晴らしいものだ。飲茶氏のシリーズはこれ以降も続くが、紹介はここまでにしたい。著者略歴とシリーズ一覧は、下記。
https://diamond.jp/ud/authors/5d02f88177656117f6000000
タグ:飲茶 なぜソクラテスは死刑になったか? 「「正義の教室」:自由主義者は「自由」のために、殺人を肯定する?」 『自由に生きることが人間の幸福であり、社会は個人の自由を尊重しなくてはならない』という思想だ 「「正義の教室」:「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い、説明できますか?」 「歴史の流れの中には、『時代が移り変わっても、変化しない人類の営み』、もう少し言えば『人類の普遍的な悩み事』『恒久的課題』が隠されている 相対主義 『正義の教室 善く生きるための哲学入門』 人殺しに対する「2つの考え方」 「ソクラテス『善い行いをしろと言ったら、嫌われて死刑になった』」 善や正義は言葉で説明できない? リベラリズム、リバタリアニズムの違いって? 「リベラリズム」の意味は、国によって違う 弱肉強食の自由競争を推進する考え方がリバタリアニズムである ダイヤモンド・オンライン 「宗教の正義」とは何か? 「強い自由主義」と「弱い自由主義」とは? 権力者たちから疎まれたソクラテスは無実の罪で投獄され、最終的には死刑となってしまう ソクラテスがやってきて、『いやいや、絶対的な正しさ、正義は存在するのだ』と強く訴えかけ、人々に『善く生きる』ことを勧める ソクラテスが生きていた当時、世の中は相対主義が優勢だった 哲学 彼らの最優先は『自由』ではなく、『幸福』であることは明らかだ 強い自由主義とは? (その2)(飲茶氏のシリーズ:「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の違い 説明できますか?、自由主義者は「自由」のために 殺人を肯定する?、「人殺しを悪とする」2つの考え方、正義は「ロジカル」に定義できる? ある哲学者の主張、ソクラテス『善い行いをしろと言ったら 嫌われて死刑になった』) 「「人殺しを悪とする」2つの考え方」 物事の価値は、他との関係性によって決まるのだから、絶対的なものはない 弱者に優しい福祉社会を作る考え方がリベラリズム 『弱い自由主義者』たちは、自由主義とは名ばかりで、その実、『自由主義の皮をかぶった功利主義者』にすぎない 相対主義VS絶対主義 弱い自由主義者たちが掲げる思想は、自由という単語を使ってはいるものの、その内実は功利主義そのもの 弱い自由主義とは? 人間に与えられたもっとも基本的な権利である『自由』を守ることであり、そこから生じる結果についてはいっさい問わない 自由よりも幸福を上位に置いている 宗教の正義では「枠の外側」―つまり「物質の世界」や「言葉の世界」を超えたところに正義があると考えている 夜警国家論
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歴史(1)(塩野七生『新しき力』刊行記念インタビュー前編「私は二千五百年を生きた」、「私は惚れる相手 選ぶ男には自信がある」インタビュー後編、「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 "プロパガンダ"を徹底して使い倒した) [文化]

今日は、歴史(1)(塩野七生『新しき力』刊行記念インタビュー前編「私は二千五百年を生きた」、「私は惚れる相手 選ぶ男には自信がある」インタビュー後編、「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 "プロパガンダ"を徹底して使い倒した)を取上げよう。

先ずは、2018年1月27日付けBookBang: 新潮社「塩野七生『新しき力』刊行記念インタビュー前編「私は二千五百年を生きた」」を紹介しよう。
https://www.bookbang.jp/review/article/544523
・『「最後の歴史エッセイ」と決めて書いた作品が刊行されたばかりの塩野七生さん。選ばれた題材は、弱冠二十歳でマケドニアの王となり、三十二歳で夢のように消え去ってしまったアレクサンダー大王。なぜアレクサンダーを選んだのか、歴史を書く喜び、読む愉しみについて聞いた(Qは聞き手、編集者の伊藤幸人氏の質問)』、「塩野七生」の大ファンである私には、早く読みたくて気もそぞろだ。
・『Q:塩野さんが書いた文章がはじめて雑誌「中央公論」に掲載されたのが一九六八年。来年でデビュー五十年ということになります。今日はこの間のことをいろいろとお聞かせいただければと思っています。私がはじめて塩野さんと仕事をしたのは二十八歳のとき、三十五年前ということになります。 塩野 聞き手があなたでなければ言葉を選ぶところですが、今日はちょっとしゃべりすぎちゃうかもね。それにしても三十五年ですか。ずいぶんうまいこと続いたわね。喧嘩もせずに。 Q:どうしてでしょうね。私も至らないことがずいぶんありましたが。 塩野 私が外国にいたからよ。あんまり会わなかったっていうだけ(笑)。喧嘩もせず、非常にいい距離感で仕事をしながら、この三十五年を過ごしてきたわけです。 Q:歴史エッセイ、つまり塩野さんの定義するところの「調べて、考えて、歴史を再構築する作品」としては最後と決めてお書きになりました。 塩野 そう。これでおしまい。作家生命の終わりってわけ(笑)』、「歴史エッセイ」としては「これでおしまい」、冗談だろうが、「来年でデビュー五十年」、とはすごいエネルギーだ。
・『二十二年間、愛撫してきた  Q:最後の歴史エッセイ、編集作業を終えていかがですか。 塩野 これまでも一作ごと、「やった!」という感じで書いてきましたけれど、今度も「終わった!」という、ただそれだけです。あんまり私、過去は振り返らないので。振り返るほどの過去でもないし……。 Q:長大なマラソンを走り続けてきたみたいなものですよ。 塩野 まあ、そうかもしれません。誰も走らない道を。 Q:最後の作品をアレクサンダーでいくということは、ずいぶん前から伺っていました。一番最後に一番若い男を書く、と。有言実行ですね。先に宣言してしまって、それに向けて自分を追い込んできたということですか。 塩野 そんな格好のいいものじゃないんです。そんな真面目に考えていたら五十年も続かない。ただ書きたいなと、ずっとそう思っていたというだけ。イタリア語で「アカレツァーレ」っていうんです。「愛撫する」という意味。「書こうかな、書きたいな」という想いを愛撫し続けてきた。時にはコラムか何かでちょっと書いてみて、自分の気持ちを確かめたりして。そして、これ以上はもう待てないというところまで持っていくわけ。カエサルについて書こうかなと思っていたときなんて、カエサルの名前を耳にするだけで気分が昂ぶりました。そこまで行って、ようやく書ける。ずいぶん時間はかかりましたけれど、それでもきちんと書いたでしょう? 私、自分の人生はね、あんまりオーガナイズできないの。なんだか散らかった人生です。でも仕事はオーガナイズする。もう二十数年前のことだと思いますが、アレクサンダーを「書ける!」と思って、それからアカレツァーレ、愛撫してきた。愛撫はするけれども、ベッドインまではしていないという感じでね(笑)。 Q:ベッドインするまでに二十数年もかけたわけですね。 塩野 こんなこと言っちゃっていいのかしら、私。「波」の生真面目な読者には刺激的過ぎるかな。 Q:塩野さんらしい比喩です(笑)。 塩野 もともとアレクサンダーのことは、それほど好きではなかった。誰かの書いたものを読んで、なんだか優等生みたいなことばかり言うなという印象だった。しかしある時――『ローマ人の物語』の第四巻と第五巻でユリウス・カエサルを書き終えた直後の頃だと思いますが――大英博物館が企画したアレクサンダー展がローマに巡回してきて、それを昼下がりに見たんです。「イッソスの会戦」に代表される有名な戦闘を再現したミニチュアなんかを見ていて、「書ける!」と思った。「書きたい!」と。カエサルは「成熟した天才」でした。そのカエサルを書き終えた時だからこそ、「未完の大器」だった男を書きたい、書けると思ったんです。 Q:カエサルを書き終えた頃となると二十二年前ですね。 塩野 アレクサンダーという男は西洋史最大のスターの一人です。ヨーロッパ人であれば誰でも彼のことを知っている。それは彼が「永遠の青春」、その象徴だから。だけどおかしな話でね。『ローマ人の物語』だってはじめからローマの通史を書こうと思ってたんじゃないんです。ただカエサルが書きたかった。これは歴史家ブルクハルトの言葉ですけれど、歴史上にはなぜか過去がすべてその一人の人物の中に注ぎ込み、そのあとにやってくる時代のすべてがその一人の人間から流れ出すような、そういう人間がいるんです。 Q:カエサルがそうだったわけですね。 塩野 ソクラテスもそうかもしれない。イエス・キリストもそうです。卑近な例を挙げればエルヴィス・プレスリーもそう。黒人音楽やカントリー・ミュージック、ヒスパニックの音楽まで、何から何までもが彼に流れ込み、その後はすべて彼から始まる。ビートルズやローリング・ストーンズ――。だからカエサルを書こうと思ったら、彼の前の時代のローマを書かなければ話にならないと思ったし、彼のあとのローマも書かなきゃってことで、それであんな十五巻もの長い作品になったんですね。アレクサンダーも同じことです。うちの息子には「ママ、アレクサンダーだけを書くって話だったんじゃないの?」って言われましたけれど。いろいろとお勉強をしてみると、この人はマケドニア王ではあるけれど、やっぱり「ギリシア人」だと。となれば、ギリシア人の歴史すべてを書かないといけない。 Q:それで全三巻になったわけですね。 塩野 一巻のはずが三巻に増えちゃった(笑)』、「カエサルは「成熟した天才」でした。そのカエサルを書き終えた時だからこそ、「未完の大器」だった男を書きたい、書けると思ったんです」、「カエサルは「成熟した天才」でした。そのカエサルを書き終えた時だからこそ、「未完の大器」だった男を書きたい、書けると思ったんです」、長い年月、温めてきた上で、いよいよ著作になったのであれば、ますます読んでみたくなる。
・『ボーダーレスな生き方  Q:塩野さんは、単に「若い男」というよりは「精神が若い人」が好きですよね。つまり、若々しい精神。 塩野 粕谷一希(中央公論社の編集者。塩野さんのデビューのきっかけを作った)が言ったことだったかな。私の好きな男にはタイプがあるんですって。まずもってエリートであること。それでいて偏見から自由な男。つまり「ボーダーレス」な男が好きなんです。 Q:境界を越える男。アレクサンダーもその一人ですね。 塩野 通史を書く以上は、ボーダーを越えられなくてウジウジする男たちのことも書かなきゃならない場合もありますが、中心的な人物は必ずそういうタイプだった。神聖ローマ皇帝だったフリードリッヒ二世だってその典型ですよ。彼はドイツとイタリアのハーフですしね。 Q:逆に「純血主義」とか「頑迷固陋」とか、柔軟性の欠如した人々は許し難いともお考えですよね。 塩野 私が一番嫌いなのは、「狂信的」な人。なにしろ私自身がボーダーレスなんです。普通ならばお見合いして結婚するのが私の卒業した学習院大学の女の子の伝統なのに、ヨーロッパに行って、イタリア男と結婚し、子どもまで作っちゃった。これだけでも相当に型破りだったんです。今でも覚えています。最初にヨーロッパに向けて発ったとき、飛行機の座席に座って、「もう後戻りはできない。お見合いして、妥当に結婚するという道は、もはやない」と思った。当時はね、イタリア男は「ラテン・ラバー」とかって言われて、いたく悪名高くてね。そういう国に娘を送ることになったんだから、うちの両親もちょっとばかりは心配したかもしれない。 Q:それはご心配だったでしょう。 塩野 帰国して、お見合いしたとしても、「イタリアに一年いました」っていうだけで、なんというか、「傷がついてる」とまでは言わないけどね(笑)。そう思われたでしょう。しかし普通の道から外れることを、私は選んだ。だから境界を悠然と越える男たちが好きなんですよ。それにもう一つ、私はリスクを負う男が好きなんです。「一人で全責任を負う」という男が好き。 Q:アレクサンダーはまさにその典型ですね。今度の作品の中で僕らがもっとも魅了されるのは、常に戦闘の最前線に立つという点ですね。「ダイヤの切っ先」という比喩をお使いになっていましたけれど。 塩野 彼は部下たち、つまり兵士たちに愛されたんです。だって、いつだって誰よりも先にリスクを負って飛び出すのだから。人間ってみんな、そうじゃないかと思うんですね。リスクを負う人間を愛するんです。 Q:リーダーにとって絶対に必要な条件ですよね。リスクを取らないリーダー、常に自分の身の安全を図ろうとするリーダーには誰もついていかない。 塩野 アレクサンダーを書くということは、私自身がリスクを負うということでもあったんです。何しろこちらは八十歳で、二十代の男を書こうというのだから。最後まで安全な人生は選ばなかったつもりです。だから書き終えた今は少しくらい休んでもいいんじゃないのかなという気分です(笑)。うちの息子は信じませんけれど。「ママは書いているから生きてんだ」って言ってます。それで、あなたはこの作品はどうでした? 面白かった? Q:面白かった。胸がすく思いがしましたね。若さゆえに成し得た大偉業、若さゆえに駆け抜けた。まさに「永遠の青春」ですね。 塩野 私はもう老いぼれだけど、老いぼれた作家が老いぼれた主人公を書くというのはリスクを負っていないということになると思うんです。だってそれはごくごく自然なことじゃないですか。書評家たちは褒めてくれるかもしれないけれど。「ついに塩野七生も老境を書いた、枯淡の域に達した」とかいってね。でも私が最後の作品で背負うことができるリスクというのは何かといったらね、三十二歳で燃え尽きるように死んでしまったこの若い男を、八十歳になったこの私が書くということですよ』、「普通の道から外れることを、私は選んだ。だから境界を悠然と越える男たちが好きなんですよ。それにもう一つ、私はリスクを負う男が好きなんです」、なるほど。「私が最後の作品で背負うことができるリスクというのは何かといったらね、三十二歳で燃え尽きるように死んでしまったこの若い男を、八十歳になったこの私が書くということですよ」、ますます読みたくなった。
・『歴史を書く喜び、読む愉しみ  塩野 私は独自性とかオリジナリティなんて考えたこともないんです。かのアインシュタインが「われわれの仕事の成果は九十五パーセント以上、先人の業績に負っている」と言うんだから、私のような凡人は百パーセント近く先人の業績に負っているわけです。私はアレクサンダーを書きたいんであって、塩野七生を書きたいということではない。塩野七生の独自性がどこにあるかといえば、このアレクサンダーという人間を選んだという、それだけのことです。 Q:しかしこれで、古代・中世・ルネサンスと、地中海が西洋史の中心だった時代をすべて一人で書きましたね。 塩野 神話のような時代を含めれば二千五百年くらいですか。この仕事を始めた頃から数えれば五十年くらい生きてきたわけですが、しかし歴史を書くということは、その二千五百年を生きたということなんです。そしてそれは読者も同じことです。二千五百年を読むことで、二千五百年を生きることができる。これが歴史を書き、読む愉しみなの。私は読者にもそれを体験してもらいたいんです。 Q:塩野さんの後を追いかけて、歴史を追体験するようなものですからね。 塩野 私は「現代ビジネスマンのための世界史」というような本は死んでも書きたくありません。なぜなら、ビジネスマンのためになる史実、歴史だけをピックアップすることになってしまう。 Q:あとは捨象しちゃうことになります。 塩野 そう。それでは歴史を書いたことにはならない。それにもう一つ。作家としてはちょっとばかり打算的な計算もあるわけだ。 Q:打算的? 塩野 だって現代人のためだけに書いていたら、時代が変わってしまったときに困るじゃない。売れなくなっちゃうもの(笑)。そういうものって、必ずしも経済的に見ても利口なやり方ではないのではないですか? 時代に合ったものって、非常に早く時代遅れになりますから。 Q:しかし現代人のために加工した歴史は書かないとなると、読者に求める水準が高いとも言えませんか。 塩野 その通り。筋肉だってちょっと無理しないと強くならないじゃないですか。いつもできることばかりやっていたら筋肉は鍛えられない。頭脳もまったく同じなんです。 Q:でも塩野さんご自身は非常にビジネスマン的でもありますよね。 塩野 だってあなた、全力投球して書いた作品ですよ。いかに長い命を持たせるか考えるなんて、当たり前のことじゃないですか』、「二千五百年を読むことで、二千五百年を生きることができる。これが歴史を書き、読む愉しみなの。私は読者にもそれを体験してもらいたいんです」、「歴史エッセイ」を通して読む必要もありそうだ。
・『オープンな精神を持った人々に支えられてきた  塩野 といって私だって商売のことばかり考えているわけでもないんです。『アマデウス』という映画をご覧になりましたか。主人公のモーツァルトがお姑さんに何だか文句を言われているシーン。彼はそれをてきとうに聞き流しているわけですが、そんな時にあの『魔笛』の「夜の女王のアリア」のメロディが生まれる。ふっと……テイクオフするみたいに。「善悪の彼岸を超える瞬間」といってもいい。 Q:離陸する感じですか。ふっと。 塩野 いつまでも飛行場に留まっていては、私にとっては書く意味がない。テイクオフする瞬間がなければ、作家とは言えない。私の読者はみんなその瞬間を待ってくれているのですから。私の読者ってね、この五十年の経験から言えば、まずもって男女の別がない。年齢の別もない。地位の別もありません。大会社の社長がいるかと思うと看護婦さんがいたり、小さい町の町長さんもいるし、公務員もいれば、学者、学生もいる。もちろん主婦もいる。でも彼ら彼女らに共通するのは、自分の世界に安住しない人だということなんです。自分の知らない世界へとテイクオフする勇気を持っている人々。オープンな精神を持った人。そういう読者に私は支えられてきましたね。 Q:狂信的とは真逆の人々ですね。 塩野 私はこの五十年間、ボーダーを越える勇気を持った人々に支えられて書いてきたのです。(次号に続く/2018年1月27日頃配信)』、幅広い「読者」に「支えられて書いてきた」とは、小説家冥利に尽きるようだ。

次に、この続き、2018年2月5日付けBookBang: 新潮社「塩野七生「私は惚れる相手、選ぶ男には自信がある」――『新しき力』刊行記念インタビュー後編」を紹介しよう。
https://www.bookbang.jp/review/article/546156?all=1
・『50年もの長きにわたって作家生活を送ってきた塩野七生さん。歴史を書く上でもっとも大切なこととは何だったのか――。また、仕事をともにしてきた、忘れられぬ人々の横顔を語ってもらった。 Q:今作のあとがきにも書いておられますが、塩野さんは「中央公論」の編集長・粕谷一希さんと花形編集者だった塙嘉彦さんに見出される形でデビューを果たしたわけですが、お二人だけではなく、文藝春秋であれば社長にもなった田中健五さん、そして新潮社でいえば常務・新田敞(ひろし)という、私にとっては仰ぎ見るような大先輩と、塩野さんは仕事をしてきました。 塩野 彼らに加えて新潮社の先代の社長(佐藤亮一)ね。彼らはみんな私の年上なんです。だからちょっと甘ったれて付き合えるような感じがあった。新田さんに「売れない」ってボヤいたら、「だいたい君は売れるように書いているのか」なんて言い返されました。「いや、そういうわけでもないです」としか答えられなかった(笑)。「そのうち売れますよ」なんていなされましたね。粕谷さんにもよくお説教されました。デビュー作である『ルネサンスの女たち』には四人の女が登場するわけですが、その三人目「カテリーナ・スフォルツァ」の原稿を編集部に渡したところ、長いというので粕谷さんが二回に分けて掲載した。それで私が「あれは分断されたら困る」と抗議したら、「『中央公論』は原稿用紙にすれば全部で一千五百枚ぐらいだが、君の一篇は百五十枚もある。君に雑誌の十分の一をやるわけにはいかない。自分を中心にして世界が回っていると思ってはいけないよ」なんて叱られました。はじめはそういう編集者たちと仕事をしていた。そしたら、その人たちが全員なぜか同じ時期に社長になったり、偉くなったりしたものだから、各社とも若いのが担当になったというわけ。その中の一人があなたなんだけれど、困っちゃったわよね。 Q:そうでしょうね。まだ右も左もわからない若僧でしたから。前回も少し触れましたが、塩野さんとのお付き合いももう三十五年。私が二十八歳の時以来です。少し思い出話をさせて下さい』、ずいぶん優秀な編集者に囲まれていたのには驚いた。
・『編集者との悪戯  塩野 担当になった時、あなたはずいぶん年下でね。そのときに思ったのは、若い叔母さんと甥は何でも話せる仲だというけれど、その線でいくしかないと思いました。いまだにあなたのことを、クン付けで呼んでしまうのはそのせいね。あなたはいまや重役でもあるわけだけれど、まあ一人くらいはクン付けで呼ぶ人がいたっていいじゃないですか。 Q:親子というほどには離れていないし、弟にしては離れている年齢という間柄です。編集者とはいかにあるべきかをずいぶん教えられたと思います。当時は「新潮45+」という雑誌の編集部にいたのですが、初めて受け持ったのが塩野さんの「サイレント・マイノリティ」という連載コラム(現在は新潮文庫刊)。この連載で私は大ミステイクをしているんです。一九八三年三月のことですが。覚えていらっしゃいますか。 塩野 そんなこともあったわね。 Q:受け取った原稿に「凡なる一将は、非凡なる二将に優る」という言葉があったんです。ナポレオンの言葉ですが、指揮系統の一本化はそのくらい大事なことなんだと、ナポレオンは言いたかったわけです。ところが私は何を勘違いしたのか、変だなと思ってしまった。 塩野 それで、あなた、直したのよね。私に断らずに。「非凡なる一将は、凡なる二将に優る」と。 Q:その直後に「非凡なる一将は、凡なる二将に優る」とも書いておられるし、つい何かの書き損じかなと思ってしまったんですね。常識的に考えれば、この方が正しいに違いないと思いこんでしまったのです。国際電話をかければいいんだけれど、通信事情が今ほどよくない時代のことです。塩野さんも国際郵便で原稿を送ってくれていた。ファックスさえもまだない。 塩野 「凡なる頭脳で非凡なる文章を直すな」って怒ったわね(笑)。でも喧嘩は一度もしなかった。 Q:そうなんです。塩野さんはあまり怒りが長続きしない方なので(笑)、その大失敗をした後にも、いろいろと面白い仕事をしていただきました。まずは中曽根内閣の官房長官だった後藤田正晴氏に二人で会いに行って単独インタビューをしているんですね。後藤田さんは新聞の記者会見には応じるけれど、個別の対談やインタビューには一切応じない人で、ベールに包まれていた。 塩野 たしかイタリアから一時帰国している最中で、連載を休ませてほしいって言ったのよね。そしたらあなたが「それは困る」というから、「じゃあ対談ぐらいならばする」と。で、「じゃ、誰とやりましょう」とあなたが言うから、「うーん、そうね、後藤田さんあたりはどう?」って。 Q:ますます困ったのを覚えています。なにしろ個別取材には応じない恐い官房長官だというので有名でしたから。「そんな非現実的なこと言わないでください」って。 塩野 そうそう。でも会ってみるとけっこういろいろ話してくれたじゃない。 Q:後藤田さんがこんなに自分自身のことをあけすけに語ったのは珍しいと思います。 塩野 「新潮45+」ではほかにも対談をしたと思うんですが。 Q:そうです。当時の市民運動のプリンスだった江田五月氏と共産党の法律顧問だった弁護士の石島泰(ゆたか)氏。 塩野 石島氏の時はね、われわれはちょっとばかり策を練ったわけ。相手は共産党だと。よし、ならば舞台装置はブルジョアでいこうと。 Q:対談場所としてホテルオークラの部屋を用意しました。 塩野 シャンパンも用意しなさいって言ったんだったわね。 Q:なぜこの弁護士が注目を浴びたかというと、左派の弁護士にもかかわらず、田中角栄のロッキード裁判を批判したんです。ゴリゴリの共産党シンパが「田中角栄裁判というのは問題だ」と。実際あの裁判は確かに検察が無理をしているところがあった。で、その人に好きなように語らせたんですね。そしたら、しゃべり過ぎちゃったんです。共産党関係者としてはまずいことも、いろいろと。 塩野 そうだったわね。 Q:もう塩野さんに乗せられて、どんどんしゃべる。で、原稿ができて見せにいったら、ほとんどどこも使うな、ボツだって言い始めた。だけど、それはダメですと。実際にしゃべっているんだから。そんなのダメだと言って、載せました。 塩野 あのときは新田さんが英断を下したんですよね。「いや、このまま載せましょう」って。あれで当時の共産主義者の化けの皮を剥いだわよね(笑)』、「後藤田正晴」「官房長官」が初めて「単独インタビュー」に応じたり、「共産党の法律顧問だった弁護士の石島泰氏」が「しゃべり過ぎちゃった」、のも塩野氏の魅力のなせる技だろう。
・『仕事仲間に求めること  Q:私がまだ三十五歳で、編集長として「フォーサイト」という雑誌を創刊することになったときのことです。不安でいっぱいだったんですが、相談すると塩野さんは「あなた、部下を選んではいけない」とおっしゃった。で、その先がすごい。カエサルはまさにルビコンを越えんとするとき、彼がもっとも信頼する子飼いであるはずの第十軍団が来ていなかった。彼らを引き連れてルビコンを渡り、ローマに侵攻しようと考えていたんだけれど、現実には子飼いではない第十三軍団しかいない。しかし、もう時、満ちたりと。それで例の「賽は投げられた」となるわけです。ポンペイウスを中心にした反カエサル包囲網が作られていて、一刻もはやくローマに行かなければならないという状況ですから、カエサルは迷わず第十三軍団とともにルビコンを渡ったというんです。だからあなたも、部下を選んではいけない、と。この壮大な比喩には痺れましたね。塩野さんは若い人間へのアドバイスが本当にお上手です。 塩野 そんなことないですよ。私も楽しく仕事をしているわけだから、私の仕事に協力してくれる人たちにも楽しんでほしいと願っているだけのことです。楽しく、面白がって仕事をしていると、意外に成功しちゃうものですから。私もこうして五十年もこの仕事を続けられたのは、真面目なことばかりやってきたわけではないからかもね。 Q:相当な悪戯もしてきました。 塩野 編集者たちには悪いなとも思うのよ。なにしろこちらの頭がまだ整理されていないときに、長電話に付き合わせるでしょう? しかも長電話で話していたことが原稿になったときは、まったく違った形になっていることさえある。 Q:原稿にならないことだってありますしね。 塩野 でもね、対話っていうのはすごいものなんですよ。私があなたに話すわね。そして意が相手に通じる、それだけじゃないんです。自分の中で整理していくわけ、話しながら。司馬遼太郎先生はすごくおしゃべりだったと聞きますけれど、きっとご自分の中で考えを固めていったんじゃないかしら。黒澤明もおしゃべりだった。話しながら整理しているんだと思うんです。 Q:われわれは時には二時間、三時間と長電話することもありますね。 塩野 編集者はやっぱり原稿を書く上ではもっとも重要な協力者ですから。まだまだ粗の多い草稿を送った時なんかは、あなた方も文句があるでしょうけれど。でもいちいち粗探しをされるとゲンナリしちゃうわけ。だけど、パッと一つだけ何かいいことを言ってくれるだけでね、頑張ろうという気持ちになる。今でも覚えています。中央公論の塙さんの言葉ですが、「われわれは君が書いてる史実の結末を知っている。しかし、それでも読んでるうちに、サスペンスを感じる」と。そういうようなことを言われるとね、なんだか水をつけられたって感じで、お餅をつく手が元気づくのです。私にとっての一番いい編集者はそれです。餅つきの合いの手を入れてくれる人』、「カエサル・・・ルビコンを渡った」のにそんなエピソードがあったとは初めて知った。「われわれは時には二時間、三時間と長電話することもありますね・・・編集者はやっぱり原稿を書く上ではもっとも重要な協力者ですから・・・パッと一つだけ何かいいことを言ってくれるだけでね、頑張ろうという気持ちになる」、「編集者」の仕事は大変だが、重要なようだ。
・『完璧な白紙になる  Q:『ギリシア人の物語』に話を戻しましょうか。 塩野 最近思うことですが、理論的に言えばウィキペディアとAI(人工知能)を組み合わせればローマ史もギリシア史も書けるかもしれません。しかし、実際は書けないでしょう。というのは、ある資料をどう読み込み、解釈するかというのは、やっぱり書く人間次第なんです。なにしろ古代に関していえば資料というのはだいたいもう出揃っていて、上限は決まっている。つまり、決めるのはデータの量ではない。学者が書く歴史よりも作家が書く歴史が面白い理由はね、両者とも勉強することでは同じなんですが、学者たちはその過去のデータに囚われるからです。それに対して作家というのは過去のデータ、つまり資料の一行をどう読み込むかに自分の全精神、生命をかけるわけです。 A:学者でも作家でも人工知能でも、取り扱う資料データは一緒ですよね。公開されている情報です。 塩野 ええ。でも集めただけではダメ。読み込む必要がある。そして作家にとって一番面白い対象は人間です。でも学者はそうではない。人間に対して感情移入してはいけないことになっている。歴史の教科書から坂本龍馬だとかハンニバルが消されそうだと聞きますけれど、どうかしていると思います。歴史はやはり人です。 A:ハンニバルでいえば、彼は戦地で野営するときに、ほかの兵士たちとともに地べたで眠り、兵士たちがそっと彼に毛布をかけたという話が『ローマ人の物語』に登場します。これは公開資料に書かれていることですよね。学者は注目しないけれども、作家はそこからするどく何かを持ってくる。 塩野 佐藤優さんが言っていたことだと思うんだけれど、インテリジェンスも結局は公開資料がもっとも大事な情報源だって。歴史も同じです。 Q:大事なのは公開資料をどう読み込むかですね。 塩野 将棋の羽生善治さんがどこかで言っていましたが、われわれの頭脳と人工知能のどこが違うかというと、「汎用性」という言葉を彼は使っていました。つまりデータや資料が、誰にでもアクセスできる状態で、ある。しかし、そこに変なものをつなげたり、思いもよらないものと組み合わせることができるのが、われわれの頭脳だということなんです。歴史を書くときも同じです。大事なのは書く人間がどう公開資料を解釈し、組み合わせるかということです。 Q:なるほど。 塩野 とはいえ解釈ありきで資料そのものはないがしろにしていいということではありません。解釈を過信してはいけません。歴史や史実に対しては常に謙虚でなくてはいけない。「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る」という言葉があります。つまり、塩野七生なんてつまらない女なのだから、私に合った穴を掘っていたら、小型の蟹しか入ってこないことになっちゃうでしょう。だから私は、この男を書くということだけ決めたら、あとは白紙なんです。書きたい対象を前にして、私は完璧な白紙になるの。だから、塩野七生のオリジナリティだとか、塩野七生の文体とか、そんなことは知ったことではない。自分の独自性を発揮しなきゃと思うと、本当に苦労すると思います。 Q:若い作家が陥りがちなところかもしれません。 塩野 現代の美術はパワーがないと私は思っていますが、それは独自性を求め過ぎだからだと思います。私はすべてのものは独自性を求めたときに、純なるパワーが失われると思ってます。少しばかり刺激的な比喩を持ち出しますが、男と恋愛するのが嫌、ベッドインするのが嫌だっていう女性がいますよね。彼女たちの言い分は、そういう関係になると主導権を失って、自分の個性が損なわれるからということなんだと思うんですが、私から言わせたら、そんなことで損なわれるような個性は個性ではない。愛した男の前で白紙になることを畏(おそ)れてはいけません。それにね、「死んで生きる」という考え方があると思うんです。 Q:死んでこそ、生きるということですか。 塩野 ええ。死んでこそ生きる。私は自分、塩野七生を捨てるわけですよ、書くたびごとに。 Q:そうすることで対象が生きる。生かす。 塩野 そう。そしてその対象を生かすことによって、私がまた生き返るわけ。塩野七生なんてたいした女ではないけれども、惚れる相手、選ぶ男には少しばかり自信があります。だから、今度の男アレクサンダーも魅力的なはずですよ』、「塩野七生なんてつまらない女なのだから、私に合った穴を掘っていたら、小型の蟹しか入ってこないことになっちゃうでしょう。だから私は、この男を書くということだけ決めたら、あとは白紙なんです。書きたい対象を前にして、私は完璧な白紙になるの。だから、塩野七生のオリジナリティだとか、塩野七生の文体とか、そんなことは知ったことではない」、凄い覚悟で創作に臨んでいることを知って、改めて「塩野」氏の偉大さを再認識した。さあ、読んでみよう。

第三に、歴史キュレーターの尾登 雄平氏が本年1月4日付け東洋経済オンラインに掲載した「「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 "プロパガンダ"を徹底して使い倒した」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/321139
・『「勝つためには手段を選ばない」「敵対する者は全員容赦なく抹殺する」と噂され、11世紀に「最強で最も血に飢えた征服者」として名を馳せたチンギス・ハン。しかし実は、彼は「戦わずして勝つ」という戦略を積極的に用いて、大モンゴル帝国を築き上げていました。 戦いの天才とも言われたチンギス・ハンの「戦う前に勝利する」方法。ビジネスマンの教養として知っておいて損はありません。『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』より抜粋してご紹介します』、「戦わずして勝つ」とは実に巧妙な戦略だ。
・『軍事力で支配を拡大する遊牧民族  東はモンゴル高原から西は西北ユーラシア草原(キプチャク草原)にいたるまで、ユーラシア大陸には広大な乾燥地帯が広がっています。うっすらと草が生えているものの全体的には乾燥し、樹木があまり生えない地帯です。この広大な草原地帯で活躍したのは、匈奴(きょうど)や突厥(とっけつ)、ウイグル、タタール、モンゴルといった遊牧民族でした。 遊牧という生き方は半砂漠地帯で必要最小限の生産力で人間生活を営むもので、馬や羊といった家畜が生み出す富に頼った経済的には非常に不安定な社会です。そのため、ひとたび野火や旱害によって草原が消滅したり、大雪や寒波が到来したりして食料が得られなくなると、一族を食わせるために農耕民が定住する村を襲って食料を調達してくる必要が生じます。 遊牧民は狩りや牧畜、そして掠奪が生活の一部だったので、そのまま個々が優秀な戦士でした。子どもの頃から馬を乗りこなし正確に矢を射る戦士と、しょうがなく鍬から槍や矛に持ち替えた農民兵の対決だと初めから勝負になりません。遊牧民は軍事的には農耕民族に対して圧倒的に優位な立場に立っていました。 一方で富は農耕民族が住む地帯から乾燥地帯にもたらされます。この二者は歴史的に、対決しつつも相互に依存する関係を成り立たせました。 初めて遊牧民を国家として統合したのは、紀元前8世紀頃に黒海北岸の南ロシア草原一帯を本拠地にしたスキタイです。スキタイは遊牧民族スキタイ人を支配者にして、農村や都市を含んだ地域連合国家でした。遊牧民だけで構成されるのではなく、遊牧民が国家に必要な農業生産機能や交易機能、物産生産機能を支配することで成り立つ遊牧国家の基本形をスキタイは作ったのでした。 ところ変わって、草原地帯の東方であるモンゴル高原で初めて成立した遊牧国家は匈奴です。匈奴が出現したのは、中国で秦の始皇帝が6国を制圧して初めて統一国家を作った時代。急速に軍事化する遊牧民族の脅威に対抗し、始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)を主将とする軍を草原地帯に派遣し匈奴を追いました。蒙恬は陰山山脈沿いに遊牧民族の中原への侵入を防ぐ長城を築いて帰還します。これがいわゆる「万里の長城」です。 その後、秦が滅びて漢の時代になり、冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)の下で匈奴は統一して強大化。漢と匈奴の戦争の結果、漢は匈奴に貢物を毎年納めることで和平を得ることになります。漢は匈奴の属国となったわけです。漢は匈奴の軍事力に頼り、匈奴は漢の経済力に頼るという体制が確立し、これは漢が滅び匈奴が分裂するまで続きます。 これはまさに、スキタイが作った「遊牧民の軍事力と農耕民の経済力が相互に依存する」という体制にほかなりません。 匈奴が分裂した後、モンゴル高原は鮮卑(せんぴ) 、柔然(じゅうぜん)、突厥といた遊牧民族が支配します。 その中で台頭していったのがテュルク系遊牧民族で、10世紀にアフガニスタンから北インドを押さえるガズナ朝を成立させ、カラ・ハン朝は西トルキスタンを支配下に収め、11世紀以降にはさらに西進して西アジアの中心都市バクダードを制圧。セルジューク朝を成立させました。遊牧民族の世界は中央アジアから西アジア世界まで広がっていったのです。 そんな中でユーラシア乾燥地帯の大統合を果たしたのがモンゴルでした』、「漢は匈奴の属国となった」、とは初めて知った。「スキタイが作った「遊牧民の軍事力と農耕民の経済力が相互に依存する」という体制にほかなりません」、なるほど。
・『遊牧世界を統合した「恐怖の大魔王」チンギス・ハン  13世紀の初めに東方草原に突如出現したモンゴルは、わずかな時間で東はサハリンから西はドナウ河口までを支配下に収め、ユーラシア大陸の政治・経済の大部分を手に入れました。これまで遊牧民族が駆け抜けた地帯をたどる形で、モンゴルは各地の既存の支配者・既得権益者を容赦なく滅ぼし、その上にユーラシア大陸全体がつながる巨大な経済圏を築き上げたのです。「パクス・モンゴリカ(モンゴルによる平和)」の時代の到来です。 モンゴル軍が破竹の勢いでユーラシア大陸を席巻できた理由は、もちろんモンゴル軍が強かったためです。騎馬を用いた機動力の高さ、最新テクノロジー兵器の導入、個々の兵の質の高さ、そして勝ち負けにこだわる遊牧民の気質にあります。 遊牧民は戦い方に恥という概念を持ちませんでした。前進して勝とうが退却して勝とうが不意打ちをして勝とうが勝ちは勝ち。逆に敗北することは恥となります。負けたが立派に戦った、という考えはありません。勝たねば意味がないわけです。 さらにもう1つモンゴル軍の強さの秘密が、徹底した情報戦にありました。モンゴル軍は次に攻略する都市に侵攻する前に、事前に使者を派遣し、いかにチンギス・ハンとその配下の兵たちが人間離れした連中かを宣伝させました。 「1人のモンゴル兵が大勢の住民がいる街に入り、街の住民を殺していくが誰も手出しができなかった!」 このような荒唐無稽な話を語らせることで降伏を求めるのです。そして素直に降伏した者は公正に扱うが、それでもなお抵抗した者は徹底的に殺戮します。大部分の者は殺し、すべての富を奪った後、一部の者は次の都市に送り出し、いかにモンゴル兵が恐ろしいか語らせるのです。) チンギス・ハンは「ペンは剣よりも強し」を経験から学んでおり、自分が恐怖の大王であることを宣伝し広めることで敵に恐慌を起こし、攻める前から士気を下げることに努めました。 例えばイスラムの年代記編者は、チンギス・ハンはこのように語ったと伝えています。 「男が味わえる最大の喜びは、敵を征服して自分の前に引きずりだすことである。敵の馬に乗り、敵の所有物を奪うこと。敵が愛する者たちの目を涙でぬらすこと。そして敵の妻や娘を、自分の腕にかたく抱きしめることだ」 チンギス・ハンはこの種の言説を、自分の品位を傷つけるとは考えずにむしろ奨励し、言葉や文字によって伝聞させる戦略を採りました。 このようなプロパガンダは後の世にも語り継がれ、「モンゴル兵=暴力・破壊・残虐・無知・野蛮」というイメージが、現在に至るまで染み付くことになってしまうのです。このような恐怖のイメージがつきまとう一方、モンゴル帝国はかつてない巨大な経済圏をユーラシア大陸全体に作り上げ、経済でもって世界を支配しようとしました』、「自分が恐怖の大王であることを宣伝し広めることで敵に恐慌を起こし、攻める前から士気を下げることに努めました」、確かに世界帝国を築く上で、誠に巧みな戦略だ。
・『次の大国の礎となって消えたモンゴル帝国  モンゴル帝国は大都(現北京)を都とする大元(だいげん)ウルスを中心に、中央アジアを支配するチャガタイ・ウルス(通称チャガタイ・ハン国)、イラン高原を支配するフレグ・ウルス(通称イル・ハン国)、ユーラシア西北草原を支配するジョチ・ウルス(通称キプチャク・ハン国)により構成された緩やかな形の連邦国家を構成し、陸上と海上の流通を掌握して世界交易圏を確立しました。 モンゴル帝国はユーラシア各地に都市・港湾・運河・道路を建設して流通網の整備を図り、銀を基本とする通貨体制を確立させて自由経済と通商振興策を採り、税率はほぼ一律に3.3%に抑えられました。 統治の面では宗教や社会など在地の勢力を単位にしてそれぞれ自治にゆだねモンゴルの慣習を強制することはありませんでした。宗教面でもモンゴル帝国は大変寛容で、キリスト教、仏教、イスラム教、その他諸々の宗教を人々は自由に信仰できました。モンゴル帝国は民衆の生活を保障するような統治はしませんでしたが、一方で生活にも干渉をせず、多文化・多人種・多宗教・多言語がそのまま帝国内にあることを認める社会体制でした。 初めて1つの経済圏として結び付けられたユーラシア大陸は、1310年から1380年まで続く長期の異常気象に襲われます。地震や洪水、疫病などの厄災が帝国各地を襲い、土台である経済が破綻し、次第に帝国は解体していくことになります。 大元ウルスは1368年に中原からモンゴル高原に戻って「北元(ほくげん)」として、明清帝国と並立することになります。フレグ・ウルスからはアク・コユンル(白羊朝)、カラ・コユンル(黒羊朝)、サファヴィー朝、そしてオスマン帝国が生まれていきます。 ジョチ・ウルスからはウズベク国家やカザフ遊牧国家、カザン・ハン国やクリム・ハン国、そして彼らと戦う中で力をつけてやがてシベリア一帯をのみ込んでいくロシア帝国が生まれていくことになるのです』、「生活にも干渉をせず、多文化・多人種・多宗教・多言語がそのまま帝国内にあることを認める社会体制」、世界帝国にふさわしい柔軟な体制だったようだ。「オスマン帝国」や「ロシア帝国」など「次の大国の礎となって消えたモンゴル帝国」だが、ロシアではいまだに「タタールのくびき」として、屈辱の歴史となっているようだ(Wikipedia)。
タグ:タタールのくびき 普通の道から外れることを、私は選んだ。だから境界を悠然と越える男たちが好きなんですよ。それにもう一つ、私はリスクを負う男が好きなんです 「塩野七生『新しき力』刊行記念インタビュー前編「私は二千五百年を生きた」」 「最強で最も血に飢えた征服者」として名を馳せたチンギス・ハン われわれは時には二時間、三時間と長電話することもありますね・・・編集者はやっぱり原稿を書く上ではもっとも重要な協力者ですから しゃべり過ぎちゃった 「「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 "プロパガンダ"を徹底して使い倒した」 東洋経済オンライン 尾登 雄平 共産党の法律顧問だった弁護士の石島泰 スキタイが作った「遊牧民の軍事力と農耕民の経済力が相互に依存する」という体制にほかなりません オープンな精神を持った人々に支えられてきた ボーダーレスな生き方 カエサルは「成熟した天才」でした。そのカエサルを書き終えた時だからこそ、「未完の大器」だった男を書きたい、書けると思ったんです 二千五百年を読むことで、二千五百年を生きることができる。これが歴史を書き、読む愉しみなの。私は読者にもそれを体験してもらいたいんです 来年でデビュー五十年 遊牧世界を統合した「恐怖の大魔王」チンギス・ハン ロシア帝国 オスマン帝国 私が最後の作品で背負うことができるリスクというのは何かといったらね、三十二歳で燃え尽きるように死んでしまったこの若い男を、八十歳になったこの私が書くということですよ 次の大国の礎となって消えたモンゴル帝国 後藤田正晴氏に二人で会いに行って単独インタビュー 歴史を書く喜び、読む愉しみ 「最後の歴史エッセイ」 『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』 編集者との悪戯 カエサルは迷わず第十三軍団とともにルビコンを渡った ユーラシア大陸全体がつながる巨大な経済圏 自分が恐怖の大王であることを宣伝し広めることで敵に恐慌を起こし、攻める前から士気を下げることに努めました 漢は匈奴の属国となった 徹底した情報戦 歴史 軍事力で支配を拡大する遊牧民族 完璧な白紙になる 「戦わずして勝つ」 「賽は投げられた」 カエサルはまさにルビコンを越えんとするとき、彼がもっとも信頼する子飼いであるはずの第十軍団が来ていなかった パッと一つだけ何かいいことを言ってくれるだけでね、頑張ろうという気持ちになる 塩野七生なんてつまらない女なのだから、私に合った穴を掘っていたら、小型の蟹しか入ってこないことになっちゃうでしょう。だから私は、この男を書くということだけ決めたら、あとは白紙なんです。書きたい対象を前にして、私は完璧な白紙になるの。だから、塩野七生のオリジナリティだとか、塩野七生の文体とか、そんなことは知ったことではない パクス・モンゴリカ BookBang 仕事仲間に求めること 「塩野七生「私は惚れる相手、選ぶ男には自信がある」――『新しき力』刊行記念インタビュー後編」 (1)(塩野七生『新しき力』刊行記念インタビュー前編「私は二千五百年を生きた」、「私は惚れる相手 選ぶ男には自信がある」インタビュー後編、「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 "プロパガンダ"を徹底して使い倒した)
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随筆(その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに) [文化]

随筆については、1月18日に取上げた。今日は、(その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに)である。

先ずは、1月12日付け現代ビジネス「養老孟司「おもしろい発見」が生まれる、記録のススメ 人生最高の10冊」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69514
・『飼い犬のごまかし  まず、動物を題材にした面白い本ということで、『人イヌにあう』を紹介します。 著者のローレンツは「動物行動学」という動物の行動を研究する学問を切り開いた人物で、ノーベル生理学医学賞も受賞しています。これは研究書ではなく、身近な犬を題材にしたエッセイですが、さすがの観察眼というか、面白い発見がたくさんあるのです。 ローレンツの飼っている犬が、彼が帰ってきたら変なやつが侵入してきたと吠え出した。少し近づいたら、主人だと気づいて、今度は全然関係ない方向に吠えた。つまり、別な人に吠えていたんだという、ごまかしをしているわけです。犬にもこんな側面があるんだと、笑いながらその内容の豊かさに驚かされます。 『ファーブル昆虫記』は言わずと知れた虫の観察記録です。まず、単純な虫の習性に魅了されます。ひとつはタマオシコガネ。糞を丸めるという習性があるんですけど、そのきれいな丸さにびっくりします。ほとんど芸術に近い。そういった驚きには事欠きません。 「記録する」ことの重要性も痛感させられます。日本人はよく日記や手記を書きます。たとえば戦争で、兵士の遺体から日々を綴ったメモが出てきたりもする。ただ、「記録する」ことは、日本人はうまくない。事実の記述よりも、まず感想が先に来るんです。 欧米圏では、より記録が重視されます。それは民族というより言語の問題ですけど、この本には「記録」の面白さがたくさんあります。 ファーブル自身もまさに「記録」の人で、一日中、畑のわきでずっとハチを見ている。朝、近所のおばさんたちがそばを通って、夕方に戻ってきてもまだ見ていて、笑われたりもする。そんなファーブルだからこそ発見できたものの大きさを実感します』、「飼い犬のごまかし」には微笑んでしまった。犬は自尊心が強いので、大いにありそうなことだ。「欧米圏では、より記録が重視されます。それは民族というより言語の問題ですけど」、「民族というより言語の問題」、やや抽象的過ぎて、分かり難い。
・『脳みそが騙される  『脳のなかの幽霊』は脳の仕組みや働きについて探求する一冊です。ひとつには幻肢痛です。たとえば、事故や戦争でなくした手の「痛み」を訴える患者さんがいます。問題は脳にあります。 実際に手がなくなっていても、脳のデータには手が残っていて、混乱が起こる。脳は面白いことに、自分の具合がおかしいという信号を出せず、なくなったはずの手が「痛い」という信号を出すんです。 では、治療のためにはどうすればいいか。この本で書かれているのは、患者さんの残っている手を、ある箱に入れて動かしてもらう方法です。 中に鏡があって、手がふたつあるように見える。つまり、両手があって動いているように見えるのですが、脳はこれで安心し、不調がおさまるのです。単純なようで意外な発見が、この本にはたくさん詰まっています。 『夜と霧』は精神科医のフランクルが、自らのナチス強制収容所体験を綴った一冊です。文字通り、想像を絶する体験でした。フランクルは奥さんや子ども、両親を失い、また自身もいつ死んでもおかしくないような状況にさらされます。 しかし、『夜と霧』は単に戦争の悲劇について語る作品ではありません。人間そのものについての思索を巡らせる作品なんです。 何の理由もなく収容所に放り込まれて、毎日のようにまわりの人が殺されていく。なぜ、監督官たちはこのような残忍な仕打ちを平気でできるのか。収容者たちはなぜ死ななければならないのか。ひいては、なぜ人間はこの世界に存在するのか。 極限の状況だからこそ、問いかけは真摯で切実なものにならざるを得ない。その書き手の真摯さ、またそこから生み出された思惟の深さに打たれるんですね。 『モモ』は「時間が奪われる」ことをテーマとしたファンタジーです。時間をきっかけにして、本当の豊かさとは何かについて論じている。この本は、今だからこそ響くものがあると思います。 今は、「現在」はあっても「未来」がない。半年後までにこの仕事を終わらせるとか、現在の延長線上で先のことをとらえていて、不確かな、だからこそ豊かな「未来」がなくなっているんです。 特に子どもへの影響は大きい。いい学校に行くために予定をぎっちり決めるとか、これからの豊富な「不確かさ」こそが子どもにとって最大の財産なのに、それが奪われている。 本作では、奪われた時間を取り戻すのがモモという大人の論理に染まっていない少女なんですが、そのことも象徴的だと思います。 本は、机に向かってではなく、電車での移動中とか、暇つぶしに読みます。ただ、これまでずっとそばにいたという意味では、やはり私の人生のかけがえのない友ですね』、「幻肢痛」は知っていたが、治療方法は知らなかった。ただ、二回目、三回目となると、「脳みそが騙され」なくなるのではなかろうか。『夜と霧』は、子供時代に映画で観て、ショックを受けた記憶がある。
・『養老孟司さんのベスト10冊
第1位『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房 1500円 「フランクルは、他者が“生きる意義”を見つけることへの手伝いに、自分の使命を見出した人であると感じています」
第2位『人イヌにあう』コンラート・ローレンツ著 小原秀雄訳 ハヤカワ文庫NF 800円 「犬に対する、動物学的な考察の深さはもちろん、ローレンツの犬に対する愛情の深さにも心を打たれる一冊です」
第3位『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー著 山下篤子訳 角川文庫 920円 「脳は、自分の不調を体のほかの部分のせいにする。たとえば腰痛も、多くは脳が原因であると言われています」
第4位『完訳 ファーブル昆虫記』(全20冊)ジャン=アンリ・ファーブル著 奥本大三郎訳 集英社 3600円(第一巻・上) 「SNS時代ではみんな“感想”を口にするけど、まず“記録”の大切さをここで学んでほしい」
第5位『積みすぎた箱舟』ジェラルド・ダレル著 セイバイン・バウアー画 羽田節子訳 福音館文庫 入手は古書のみ さまざまな苦難と驚きに満ちた、英領時代のカメルーンにおける野生動物収集の記録
第6位『モモ』ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳 岩波少年文庫 800円 少女モモと時間泥棒との戦い。「“不確かさ”を愛することの喜びと意義を教えられます」
第7位『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』オリヴァー・サックス著 吉田利子訳 ハヤカワ文庫NF 940円 「脳神経科医の著者と個性的な患者たち。色覚異常の画家のエピソードは特に面白い」
第8位『呪われた町』(上・下巻)スティーヴン・キング著 永井淳訳 集英社文庫 入手は古書のみ 「キングの初期のヒット作。まだ作風は確立していない頃ですが、これも十分に怖い」
第9位『めぞん一刻』(全10巻)高橋留美子著 小学館文庫 各600円 「ノスタルジック。'80年代の下宿が持っていた、人情味あふれる感じがよく出ています」
第10位『イタリアン・シューズ』ヘニング・マンケル著 柳沢由実子訳 東京創元社 1900円 「人生のどこかで、必ず過去のつけは回ってくる。なかなか“世捨て人”にはなれません」
さすが養老先生が選んだだけあって、濃い内容のものばかりのようだ。図書館で借りて読んでみたい。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が2月14日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「「はまらなかった」ピースの悲しみに」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00057/?P=1
・『先週末以来、体調がよろしくない。定期的な治療を受ける身になってみると、投薬のタイミングやら検査のあれこれでカラダのコンディションが変わりやすくなる。と、その変化に呼応して、気分や人生観がわりとカジュアルに変わってしまう。これはもう、どうすることもできない。 そんなわけで、病を得てからこっち、自分が、思考の主体である前に、まず生き物であるという事実に直面している次第だ。 生き物である限りにおいて、ものの考え方や感じ方は、外的な客観状況よりは、ほかならぬ自分自身の健康状態や体調に、より端的に左右される。そういう意味で、いま私がとらわれている憂悶は、あまりマトモに取り合うべきではないのだろうとも思っている。 とはいえ、本人にしてみれば、アタマで思うことよりはカラダで感じることのほうが切実でもあれば現実的でもあるわけで、ということはつまり、うんざりした気分の時に、啓発的な原稿を書くみたいなうさんくさい仕事ぶりは、技術的に困難である以上に、作業として胸糞が悪いので、取り組む気持ちになれない。 週に一遍やってくる原稿執筆の機会を、私は、客観的であることよりは正直であることに重心を置きつつ、粛々とこなしていきたいと考えている。ありていに言えば、気分次第で書きっぷりが変わってしまうことを、自分の側からコントロールするつもりはないということだ。 コラムニストは、エビデンスやファクトを材料に思考を積み上げて行くタイプの書き手ではない。 別の言い方をすれば、私の文章は、私の思想や信条よりも、より多く気分や感情を反映しているということでもある。読者には、ぜひそこのところを勘案してほしいと思っている。 「ああ、オダジマは機嫌が良くないのだな」と思ってもらえれば半分は真意が伝わったことになる。 残りの半分はどうでもよいといえばどうでもよろしい。蛇足の残余のおまけの付け足しに過ぎない。 先週末にまず私を失望させたのは、7月に開幕する東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を委ねられている狂言師の野村萬斎氏が、五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏を採用しない旨を発表したニュースだった。 思うに、これは、単に演出上の制約からアイヌの伝統舞踏をプログラムに組み入れることができなかったという筋のお話ではない。 そもそも、アイヌの踊りを開会式の舞台に推す声は、インスタ映えや演出効果とは別次元の要望だ。 アイヌ舞踏の開会式プログラムへの編入は、朝日新聞が3月3日に配信した記事(「五輪開会式でアイヌの踊りを『オリパラ精神にかなう』」で紹介している通り、 《リオデジャネイロやシドニー、バンクーバーなど過去の五輪では先住民が開会式に登場した。》というこれまでの国際社会の取り組みを踏まえた、先住民としての自覚の反映だったといってよい』、当初、「五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏」を使おうとしたのは、誰のアイデアだったのだろう。「過去の五輪では先住民が開会式に登場した」、ので今回もとなったのだろうか。
・『そのアイヌの人々の思いを 「はまらなかった」という浅薄きわまりないコメントとともに不採用とした野村萬斎氏の判断に、私は、失望以前に、ほとほとあきれ返った。 なぜというに、 「はまらなかった」という説明は、説明ではなくて、説明放棄だからだ。 これは、期限内にリポートを提出できなかった学生が、書けなかった理由を質す声に対して 「書けなかった」と回答したに等しい捨て台詞だ。 事情を説明するつもりなら、書けなかった理由を明らかにしなければならない。 「病気で寝ていた」でもよいし、 「実家で不幸があって忙殺されていた」でもかまわない。 とにかく、結果としてリポート不提出の事態に至った理由を相手に伝えないと、誠実に説明をしたことにはならない。 ところが、野村萬斎氏は 「はまらなかった」と言って、それ以上の言及をしていない。これでは 「やる気が出なかった」「どうでもよいと思ったので別段の努力はしなかった」「めんどうくさかったので放置した」と言っているのとなにも変わらない。 このコメントから伝わってくるのは、野村萬斎氏にとって、アイヌの人々の要望が、取るに足らない些事に過ぎなかったのだろうということだけだ。 で、私は、Asahi.comの記事を読んだ直後に 《これ、演出的にはまらなかったのではなくて、「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった、ということではないのだろうか。 五輪開会式、アイヌ舞踊は不採用「はまらなかった」:朝日新聞デジタル - 2020年2月8日0時34分》 《「アイヌ利権」がどうしたとかいったお話を大真面目な顔で拡散しにやってくるアカウントが大量発生しているところから見ても、「はまらなかった」のは、演出上の理由というよりは、政治的な判断だったのだろうね。震災からこっちのたった10年ほどの間に、本当にバカな国になってしまったものだよ。- 2020年2月8日午後2時5分》 《文化的な多様性に配慮しつつアイヌの踊りを「はまるように」演出する力量がないのなら、あるいは、圧力をはねかえすだけの覚悟を持っていないのであれば、はじめから引き受けるべきではなかったのではないか。結果として、少なからぬ人々を失望させ、自分自身も恥をかくことになった。 - 2020年2月8日午後5:20》 という3つのtwを連投した』、「「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった」、などのtwはいい線を突いているようだ。
・『ちなみに、上記tw内で引用した、 「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」という麻生太郎副総理兼財務大臣による発言は、後に「お詫びのうえ訂正」されている。 しかし、この時の「お詫び&訂正」は、例によって 「誤解が生じているのならお詫びのうえ訂正する」 という文言を伴ったものだった。 この謝罪マナーは、現政権の閣僚が、失言をした時の毎度お約束の弁明のパターンで、要するに、麻生さんは、マトモに謝ってはいない。というのも、この謝罪語法 「誤解が生じているのなら」という IF~THEN の条件構文を踏まえた、「条件付きの謝罪」に過ぎないからだ。 それ以上に、この言い方は、「誤解」という言葉を持ち出すことによって、暴言被害の原因を被害者の側の読解力の不足に帰責している。言ってみれば 「オレの側には、悪意もなければ差別の意図もなかったわけなんだが、頭の悪いテレビ視聴者や被害妄想にとらわれた一部の新聞読者が記事をヨメば、その文言の中から差別的なニュアンスを嗅ぎ取ることもあり得るので、ここは一番オトコギを出して謝罪してやることにするぞ」と開き直った形だ。 麻生さんの歴史歪曲コメントの真の問題点は、言葉の選び方の無神経さや不適切さで説明のつく話ではない。 「誤解」がどうしたとかいった、コミュニケーション過程で発生した不具合の問題でもない。 麻生さんの発言が問題視され、人々を傷つけ、失望させ、憤らせたのは、彼の思想そのものが差別的で、その歴史理解が根本的な次元において完全に間違っているからだ。ここのところを率直に認めて、自分の言葉で正確に訂正したうえで、今後の生き方をあらためる旨の決意表明とワンセットで謝罪するのでなければ、本当の謝罪にはならない。 ところが、麻生さんは、こころもちふんぞりかえった姿勢で誤解した人間の理解力の貧困を嘲笑してみせたのみで、きちんとした謝罪の態度はいまだに示していない。メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない。 さて、野村萬斎氏が開会式にアイヌ舞踏を採用しない旨を述べた記事が公開されて間もなく、五輪組織委が開閉会式の選手入場時にグラウンドで選手らの出迎えや誘導を行う「アシスタントキャスト」を延べ2200人募集する旨を発表したという記事を確認した。 記事は、野村萬斎氏のコメントとして 《開閉会式の演出を統括する狂言師の野村萬斎さんは「多くの人に参画して頂き、未来につなげていく。個人主義が増える中で、多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」と役割を説明。開閉会式の準備については「骨格はできている。7、8合目までいっているのでは」と述べた。》というやり取りを紹介している。 このコメントにもあきれた』、「メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない」、その通りだ。安部首相も最近は謝罪を一切せずに逃げ回っているようだ。
・『なので 《「個人主義が増える中で、多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」という野村萬斎氏のコメントの意図が心底から理解できない。「多種多様」な世界や生き方を許容するのがつまりは「個人主義」なんじゃないの? 違うの? 「滅私奉公」が多様な世界なわけ - 2020年2月9日午後3時18分》 《「多種多様な世界」てなことを言っておけばとりあえず「動員」臭を緩和できると思ってるとしか思えない。 - 2020年2月9日午後3時21分》 《だからこそ、一方の口で「多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」と言っておきながら、別の口で「個人主義が広がっているなかで」てな調子で、「個人主義」をやんわりとディスることが可能なのだね。- 2020年2月9日午後3時23分》 《五輪に関係している人たちは、なぜなのか、ことあるごとに「個人主義」への疑義を表明しがたる。もしかするとオリンピックへの熱狂を演出しようとしている人たちの心底には、この国に個人主義が蔓延することへの危機感があらかじめ共有されているということなのだろうか。- 2020年2月9日午後3時35分》 という、4つのtwを連投した。 いまさら申すまでもないことだが、アイヌの伝統舞踏を開会式のプログラムから排除することは、普通に考えて「多種多様な世界をみんなで受け止める」態度とは、正反対のスタンスだ。 ところが、野村萬斎氏のアタマの中では、これらが矛盾しない。 というのも、彼にとっての「多種多様な世界」は、「世界中の様々な国から様々な文化を背負った多様な人々がやってくること」を意味していて、それは、「一つに団結した、単一の文化と歴史と民族と王朝を2000年にわたって持ちこたえてきた私たちのニッポン」とは、対極に位置する、まったく別の概念だからだ。 それゆえ、多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる。 書いていて気持ちが萎えてきた。 たぶん、わたくしども日本人は、たやすく一つになることだろう。 そういう時、典型的な日本人と見なされない日本人は、「はまらなかった」という言葉とともに、冷たく排除されることになるはずだ。 私自身、はまることができるものなのかどうか、自分を疑っている。 私はつぶされるかもしれない』、「多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる」、ズバリ本質を突いた鋭い指摘だ。
・『もう一つがっかりしたのは、野村萬斎氏が政権中枢の人々に媚びる文脈の中で個人主義を腐してみせたコメントについて、古典文学や古典芸能にたずさわっている有識者が、一人として抗議の声を上げていない(←私の観察範囲では)ことだ。 お国の補助金で食いつないでいる古典業界(←あえて「業界」という言葉を使わせてもらうことにしました)の人々にとって、政権批判はご法度だと、そういうことなのかと思うと、なんだか生きているのがめんどうくさくなってくる。 実際、ツイッターの中でも、ふだんから古典の話ばかりしているアカウントは、絶対に政治的だったり党派的だったりする話題には絡もうとしない。 つまり、それが彼らの処世なのだね。 古典びいきだから事なかれ主義に終始しているのではなくて、むしろ、論争的で政治的で物議をかもしがちな話題や、現実的で生臭くて世俗的で面倒でアクチュアルな出来事や考え方とは距離を置いて、ひたすらに王朝的で貴族的で浮世離れした、優雅で高踏的な要素に逃避することを願っているからこそ、古典の花園に逃げ込んでいると、そういうことなわけだ。 不機嫌な結論になった。 個人的には、ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだニュースにも毒気を抜かれた。 がっかりしたとか失望したよりも、自分がかねがね抱いていた疑念が、あまりにもドンピシャリに正鵠を射ていたことに茫然自失している。 なんでも、ツイッタージャパンと手に手をとってメディア・リテラシー向上のために活動していく旨を宣言している日本青年会議所が、メディア・リテラシーの啓発を目的として始めたツイッターアカウントは、早速、ジャーナリストの津田大介氏が「発狂している」旨を投稿したのだそうだ。 コメントする気力も湧かない。 本来なら、ツイッターのようなメディアは、多様性と個人主義に足場を置いているということになっている。 それが、どういうことなのか、愚かで短絡的な人たちの玩具になりさがろうとしている。 私個人としては、いまさら発狂する年齢でもないので、身の振り方を真剣に考えなければいけないのだろうと思っている。 「はまらなかった」てなことで、黙って消える末路も覚悟しておかねばならない。 まとまらない原稿になってしまった。 読者にはすまなかったと思っている。 もしかすると、私の書き方が断片的になっているのは、この数年来のツイッター依存と関係があるのかもしれない。 そういう意味では、いっそ縁を切るのも悪くない選択だ。 自分自身の人格が多種多様になっているようなら、そりゃ発狂かもしれないわけだから』、「ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだ」、私も驚かされたが、ツイッタージャパン社がこの程度のものだったと知って、ガッカリした。
タグ:随筆 (その3)(養老孟司「おもしろい発見」が生まれる 記録のススメ 人生最高の10冊、「はまらなかった」ピースの悲しみに) 現代ビジネス 「養老孟司「おもしろい発見」が生まれる、記録のススメ 人生最高の10冊」 飼い犬のごまかし 脳みそが騙される 養老孟司さんのベスト10冊 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「「はまらなかった」ピースの悲しみに」 野村萬斎氏が、五輪の開会式にアイヌ民族の伝統舞踏を採用しない旨を発表したニュース これ、演出的にはまらなかったのではなくて、「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」という政権中枢の思想にはまらなかった、ということではないのだろうか メディアの人間たちも、麻生さんが誰に何を謝るべきであるのかを然るべき言葉で追及していない。番記者たちは、テレビカメラの前で恫喝されてニヤニヤしている。論外と申し上げなければならない 多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる ツイッタージャパン社が、日本青年会議所とメディア・リテラシーの確立に向けてパートナーシップ契約を結んだ
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随筆(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) [文化]

随筆については、昨年10月17日に取上げた。今日は、(その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が10月18日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「和田誠さんがまいたサブカルの種子」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00041/?P=1
・『和田誠さんが亡くなった。 どう言ってよいのやら、適切な言葉が見つからない。 この20年ほどは、メディアを通じて配信される記事や報道の中で、お名前を見かける機会がなくなっていた。それゆえ、私自身、和田誠さんのことを思い出さなくなって久しい。私は、忘れてはいけない人の名前とその作品を、本当に長い間、思い出すことさえせずに暮らしていた。何ということだろう。 訃報に触れて、あれこれ考えるに、自分がいかにこの人の作品から多大な影響と恩恵を受けていたのかを、あらためて思い知らされている。今回は、そのことを書く。 テレビや新聞の回顧報道を眺めながら、その回顧のされ方に時間の残酷さを感じることは、誰の訃報に触れる場合でも、毎度必ず起こる反応ではあるのだが、今回の和田誠さんの業績のまとめられ方には、ことのほか大きな違和感を覚えている。 何より、扱いが小さすぎる。 誰の訃報と比べてどんな風に小さいという話ではない。 和田誠という人が残した仕事の量と質と範囲の広さと、それらの作品を生み出した才能の非凡さに比べて、その死の扱われ方が、あまりにも軽く感じられるということだ。 私が和田誠という名前を初めて知ったのは、たぶん1977年のことだ。 「たぶん」という言い方をしているのは、訃報を知ってから検索やら何やらでかき集めた情報と、アタマの中に記憶として残っている知識の間に、かなり深刻な食い違いがあることが判明して、我がことながら、自分の記憶が信じられなくなっているからだ』、私は「和田誠」氏を知らなかったので、Wikipediaで見たところ、イラストレーター、エッセイスト、映画監督、音楽評論家で、料理家 平野レミの夫と多才な人だったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%AA%A0
・『私の頑迷な記憶の中では、私が和田誠さんの『倫敦巴里』を読んだのは高校時代の話ということになっている。 ところが、Wikipediaを見ると、『倫敦巴里』の出版は、77年だ。ということは、私はすでに大学に進んでいる。年齢で言えば、20歳だ。 どうしてこんな偽の記憶が育ったのだろうか。 想像するに、私は、『倫敦巴里』を初めて見た時、 「これこそ自分がやるはずの仕事だった」と思ったはずで、その強い思いが記憶をゆがめたのだろう。このセンは大いにあり得る。 というのも、『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだったからだ。 で、自分がやっていたそれらのお遊びのおふざけを、プロのクリエーターがプロの作品として世に問うた初めての書籍が『倫敦巴里』だったわけで、それゆえ、作品そのものの素晴らしさへの賛嘆の念はともかくとして、私が 「ああ、先を越された」と生意気にもそう考えたであろうことは容易に想像できる。 自信を持てない一方で思い上がった若者でもあった20歳のオダジマは 「おい、これはオレが高校生の時からやってた遊びだぞ」「パクリじゃないか」と考えた可能性さえある』、「『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった」、小田嶋氏もずいぶんマセた高校生だったようだ。
・『もちろん、東京の片隅にある高校のそのまた教室の片隅で密かにやり取りされていた稚拙な文体模写ごっこを、当時の和田誠さんが知っていたはずもなければ、パクる理由も必要も必然性もない。当然だ。が、それでもなお、20歳の私が 「ああ、やられた」と思った可能性はあるのだ。 くすぶっている20歳は、自分に似た優越者を見るたびに 「やられた」と思う。 まして、くすぶっている上に思い上がっている20歳は、手の届かない場所にある果実を見れば、必ずや 「あれはオレが取り逃がしたリンゴだ」という風に考えるものなのである。 もっとも、「やられた」と思う一方で、私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた。この時のこの感慨は、今でもありありと思い出すことができる。実際、私は、あの本に大いに勇気づけられた。このことについては、どれほど感謝しても足りないと思っている。 『倫敦巴里』以前は、面白随筆であれ冗談企画であれ、「笑い」に足場を置いた作品を書籍として出版するのは、いわゆる「文壇」の中にいる一握りの人々に限られていた。『倫敦巴里』が刊行された77年以前に文体模写や「もし◯◯が××だったら」式の「IF」を題材としたお笑い企画が存在していなかったわけではないが、それらは、もっぱら雑誌の読者投稿コーナーや深夜ラジオの投稿はがき企画として一部で盛り上がっているに過ぎない、いわば「素人企画」だった』、「私は、「こういうものが評判を取っているということは、オレのやってきたこともそうそう捨てたもんじゃないってことで、つまり、オレも案外この分野でやっていけないわけでもないんではなかろうか」とも感じていた」、小田嶋氏に自信を植え付けた意味は大きそうだ。
・『その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だったわけで、あれを見て勇気を鼓舞された若者は、無論のこと、私だけではなかった。日本中の夢多き中高生やくすぶっている大学生が、あの本を見て、 「おい、オレもやれるぞ」と思ったはずなのだ。 極言すればだが、1980年代に花開く「サブカル」の種子は、実に、1977年に和田誠が『倫敦巴里』を世に問うた時に、全国津々浦々にまかれていたということだ。 私自身、もし『倫敦巴里』を読んでいなかったら、自分が本を書く人間になることを想像すらしなかったはずだ。 それまで、本を出すのは、小説を書く人間に限られていた。小説以外の文章は、言ってみれば「色物」みたいなもので、そんなものは、小説家が「余技」として取り組めば十分だ、と、少なくとも私はそう思い込んでいた。それゆえ、小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった。 和田誠さんは、自分自身をPRすることに長けた人ではなかった。 私が残念に思っているのは、ここのところだ。 和田さんに、もっと積極的な自己アピールを心がけてほしかったという意味ではない。 私が言いたいのは、和田誠さんのような、自己プロデュースに熱心でないクリエーターについて、作品本位で高く評価するメディアがもっと積極的に情報発信すべきだということだ。 いったいに、現代の商業メディアは、作品を制作している人間を遇するに当たって、クリエーター本人の「キャラクター」を消費する以外の術をあまりにも知らない。このことを、私は大変に残念な傾向だと考えている。 和田誠さんが、単にシャイな性格で、それゆえ人前に出ることを好まなかったのか、あるいは、作品で勝負すべきクリエーターが自己宣伝に労力を割く態度に反発を感じていて、それで、あえてメディアへの露出を避けていたのか、詳しいところは私には分からない。いずれにせよ、和田さんは、ほとんどまったく自分の顔やナマのしゃべりや、私生活上のエピソードを商業メディアに提供することをしない人だった。 引き比べて、1980年代以降に世に出たクリエーターは、おしなべて自己アピールの上手な人が多い。 というよりも、時代が進めば進むほど、作品が作品として評価されることよりも、作者の知名度が作品のオーラを高めるカタチで売り上げを伸ばしていくケースが目立つようになってきている。もう少し露骨な言い方をすれば、この国のエンターテインメント市場は、作品を売ることよりも、自分の名前を売ることに熱心な表現者が勝利をおさめる場所になってしまったということだ』、「素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった」、確かに1つのジャンルを切り開いたというのは大変なことだ。「小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった」、小田嶋氏の恩師といってもいいぐらいだ。
・『和田誠さんの訃報は、彼自身が有名であることに冷淡だったことの当然の帰結として、不当にひっそりと報じられて、すでに忘れられようとしている。それは残念なことでもあるのだが、同時に、和田さんらしい身の処し方の結果だと思えば、ふさわしい結末でもある。 この原稿を書いていてふと気づいたのだが、私は、映像の中で動いてしゃべっている和田誠さんの姿をついぞ見たことがなかった。それどころか、不思議な話なのだが、私は和田誠さんの顔を知らない。ご自身の肖像は今回の訃報に関連して初めて拝見した次第だ。 にもかかわらず、訃報に触れて以来の喪失感の大きさは、この数年の間にこの世を去った誰の時のそれと比べても、ひときわ大きく深い。 そんなわけなので、今は、顔も知らない人をこれほどまでに深く敬愛していた自分の純真さを、ほめてあげようと思っている』、最後のオチはなかなかよく出来ている。

次に、同じ小田嶋氏による12月13日付け日経ビジネスオンライン「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00049/?P=1
・『奇妙な夢を見た。 今回はその話をする。時事問題をいじくりまわしたところで、どうせたいして実のある原稿が書けるとも思えない今日このごろでもあるので、こういう時は身辺雑記を書き散らすことで当面の難局をしのぎたい。 夢の中で、私は、古い家族のメンバーとクルマに乗っている。私は明らかに若い。30歳より手前だと思う。運転はなぜなのか母親が担当している。クルマの少し前を父親の原付きバイクが走っている。父親は既に老人になっている。亡くなる少し手前。たぶん70歳前後ではなかろうか。 と、その父親の操縦する原付きバイクが交差点でモタついたせいで、右折してきた対向車とぶつかりそうになる。見たところ、トラブルの原因は父親の運転の危うさにある。 そこで、私が出ていって相手方に謝罪してその場をおさめる。行きがかり上、原付きバイクには私が乗って行くことになる。 すると、しばらく走ったところで、二人の警察官に呼び止められてバイクをその場に止めるように指示される。 警察官たちはニヤニヤ笑っていて態度を明らかにしない。どうやら私がヘルメットをかぶっていないことをとがめるつもりでいる。余裕の笑顔でこっちを見ている。 この時、私と母親の間で議論がはじまる。 「あなたがヘルメットをかぶっていないのが悪い。まったくなんということだ」「オレはあの事故寸前の現場を収拾することで精いっぱいだった。バイクの運転なんか想定していないのだから、ヘルメットを持って歩いているはずがないではないか」「それでも非はおまえにある。致命的なミスだ」私は激怒してこう宣言する。 「わかった。もうごちそうしてもらいたいとは思わない(←なぜか、この日は母のおごりでレストランで会食することになっていたようだ)。オレは一人で歩いて帰る」 で、その空き地のような場所から見知らぬ街路に向かって歩き始めると、何人かの人間(著名な芸能人が一人と妹の友人だというはっきりしない人物が二人ほど)が、私をなだめにかかる。 「こういう場面で怒りにまかせて行動すると、必ず後悔することになる」「お母様も年齢が年齢なのだから、あなたの方が折れてあげるのがスジだ」などと、彼らは、口々に私の軽挙をいましめ、再考を促す。 ここで私が再び激怒する。「何を言うんだ。オレは少しも悪くないぞ。どうしてオレばかりが責められなければならないんだ」と、大きな声をあげたところで目が覚めた。 心臓がドキドキしている。夢から覚めたことはわかっているのだが、しばらくのあいだ、怒りの感情がおさまらない。仕方がないので、未明の中、起き出してメールチェックやらツイッターの新着メッセージの確認やらを済ませて、再び床に就いたわけなのだが、おどろくことに、夢で目覚めた時点で、すでに9時間は眠っていたのに、そこからまた4時間ほど熟睡してしまう。 この一週間ほど、体力が衰えているからなのか、丸1日をマトモに起きていることができない。今週に入ってからは、毎日14時間以上眠っている。どうかしている。昔からそうなのだが、私は、過眠傾向に陥っている時期に、奇妙な夢を見ることが多い。たぶん、肉体のみならず、アタマも相応に疲れているのだろう。夢の中で激怒せねばならなかったのは、おそらく私が疲労しているからだ。 さて、再び目を覚ましてみて、あらためて思うのは、夢の中で爆発させた自分の怒りの激しさと、その後味の悪さについてだ。 あんなに怒ったのは何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりかもしれない。 いまでも、怒りの余韻がカラダの節々に残っている。この感じは、端的に言って不快だ。 ちょっと前に、ツイッターのタイムライン上でどこかの誰かが言っていた言葉を思い出す。 彼は、現代の日本人が「怒りを表明したり怒りに基づいて行動したりすることの快感に嗜癖している」ように見える旨を指摘していた。それというのも、怒りは、多くの人々にとって、不快さよりはむしろ快感をもたらすもので、特に激怒して大きな声を出した後には、ストレスがきれいに発散されているもので、だからこそ、人々は怒りに嗜癖する、と彼は言うのだ。 そうだろうか』、小田嶋氏が夢をよく覚えているのには驚かされた。「怒りに嗜癖する」との説には、私も違和感を覚えた。
・『私の抱いている感触は正反対だ。 私個人の観察の範囲では、自分自身が怒っていることや怒りを表明することに快感を覚える人間が、日本人の中で多数派を占めているようには思えない。 どちらかといえば、怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ。 事実、私は、夢の中で激怒して大声を上げたことに、目覚めてなおしばらくの間、後味の悪さを感じなければならなかった。怒鳴ることでストレスの発散を実現している人間がいないとは言わないが、そのタイプの人々にしたところで、怒鳴った後にすみずみまでスッキリしているわけではない。必ずや一定の居心地の悪さに苦しんでいるはずだ。 もう一つ思うのは、2019年の日本というのか、あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌しているということだ。 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録している事実を見ても明らかな通り、われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ。 ほんの少し前まで、怒りは、ごく自然な人間の感情の一つであると見なされていた。 いや、ほんの少し前ではない。年寄りの記憶は常に歪んでいる。怒りが、自然な感情として社会的に容認されていた時代の話をするためには、時計の針を最低でも30年分は巻き戻さなければならない。 以下、しばらくの間、昭和の時代の話をする。 30歳以下の人々には見当もつかないことだと思うのだが、われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった。 授業中に大きな声で恫喝したり、生徒に手を挙げたりする教師はそれこそ日本中のあらゆる学校に遍在していたし、部下を殴る上司や、駅員や店員のような人々に向かって怒鳴り散らす客もそこら中に散在していた。もちろん、怒鳴る駅員や客を叱りつける店主もいた。 私が大学に通っていた40年前は、学生の素行も現代の学生のそれと比べれば、明らかに粗野だった。のみならず、暴力的でもあれば直情的でもあり、どう手加減したところで、感情的と言ってあげるのが精いっぱいだった。 感情的であることが良いとか悪いとかの話をしたいのではない。 ただ、どういう理由でそうなったのかまではわからないのだが、この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実で、その事実を、まず読者のみなさんにお知らせするべく、私は昔話をほじくり出しにかかっている次第なのである。 昭和40年代の12月に歌舞伎町に飲みに行く機会があった場合、終電間際の帰り道では、かなり高い確率で路上で殴り合いをしているサラリーマンに遭遇することができた。 殴り合いは、駅のホームでも盛り場の暗がりでも、わりと日常的に勃発していて、そのほとんどは、警察沙汰になることもなく有耶無耶のうちに終結していた。そういう時代の空気の中で、われら昭和の人間たちは、誰かが大声で怒鳴ることや、課長待遇の社員が机を威圧的に叩く仕草を、そんなにびっくりすることなく横目で眺めながら暮らしていた。 何を言いたいのか説明しておく。 こういう話をすると、「ジジイがいきがってやがる」「はいはい殴り合いに動じなかった自慢ですね。続きをどうぞ」「へぇー、野蛮な時代に生まれ育ったとかそういうことでマウント取りに来るわけですか?」みたいな反応が返ってくる。そういう定番のやりとりのくだらなさに、私はうんざりしている。 違うのである。私は武勇伝を語っているのではない。自慢をしているのでもない』、「われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった」のが、「われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている。であるから、怒りは芽のうちに摘むのか、あるいは、抑圧して摺り潰すのか、いずれにせよ、なんらかのマネジメントの力を発揮して雲散霧消させるべき呪われた対象であると見なされている。 つまり、怒りは、どうやら文明人にとっての恥辱であるらしいのだ」、と変質したのは確かなようだ。しかし、それは何故なのだろう。
・『ただ、自分が見てきた時代の様相と、いま目の前で動いている社会の雰囲気があまりにもかけ離れているから、その違いを、できるだけわかりやすく伝えようとしているだけなのだ。 実際、われわれが若者だった時代の若者は、いまの若者に比べてずっと率直に喜怒哀楽を表現したものだし、そのことを(少なくとも当時は)特段に異常な振る舞い方だとは考えていなかった。 わりと簡単に暴力に訴えたことも事実だし、直情的であることを若さの特権であるぐらいに考えていたことも半分ほどはその通りだと思っている。 ただ、ぜひわかってほしいのは、私がこんな昔話をしているのは、昔の若者が本当の若者で、いまの若者は若者らしくないとかいった、そういう腐れマッチョな結論を提示したいからではないということだ。 なにより、私は当時の若者としては、滅多に喜怒哀楽を表現しない煮え切らない男であったわけで、その意味では、現代の20代の人々にずっと近いタイプだった。そのことを踏まえて、自分自身の好みの話をするなら、私は、昔の若者よりも、いまの若者のほうがずっと好きだし付き合いやすいとも思っている。 ただ、ここは良し悪しの話をしている場所ではない。 私は、ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振ったのである。 もう10年以上前になると思うのだが、BSの放送で、「男はつらいよ」の第一作が放送されたことがある。 その時、私は、あらためて目の前で動いている40年前(当時から数えて)の映像を鑑賞しながら、自分が多くのシーンに共感できなくなっていることに、あらためて衝撃を受けた。 40年前には、この同じ映画を笑いころげながら劇場で見ていた記憶がある。 それが、いま、シラけた気持ちで画面を眺めている。 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ。 映画の中で、寅次郎は、「その場の空気を読むことをせずに、自分自身の喜怒哀楽をそのまま表現してしまう、正直で不器用なトラブルメーカー」 として、ストーリーを活性化させる役割を担っている。 空気を読まない寅次郎が、立場や儀礼から外れた振る舞いを敢行することで、権威主義者は顔色を失い、気取り屋は顔をしかめ、間に立つ人間は立場を失い、寅の将来を案ずる妹と血縁の者は、ただただオロオロするという、そこのところの悲喜劇が、物語に血肉を与えている。 この物語の世界を共有できる観客は、映画を楽しむことができる。 おそらく、50年前の日本人は、この設定をわがことのように楽しめたはずだ』、「ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化」、なるほど。「男はつらいよ」を観た感想の変化は、社会の変化を雄弁に物語っている。
・『というのも、寅のような日本人は、街のあちこちに実在していたし、親戚中をひとわたり見回してみれば、「正直で裏表が無い半面、考えが浅くて、それがためにのべつトラブルを引き起こしている困ったおっさん」が、一人や二人は、必ずいたものだからだ。実際、昭和のある時期まで、親戚というのは、そういう「困ったおっさん」が持ち込む笑い話を織り込んだ上で運営されている、一種演劇的な集団であったと言っても言い過ぎではない。 しかし、時が流れて社会のデフォルト設定が変われば、寅次郎の物語は無効になる。 私が、10年前にこの作品を見て当惑したのは、この偉大な映像作品の前提のところにある「がさつで直情的な一方で、計算のない正直な愛すべき人柄」としての寅のキャラクターが、平成令和の日本人には、どうしてもハマらなくなってしまっていたからだ。 じっさい、一緒に映画を見ていたメンバーのうちの若い人々は、完全にドン引きしていた。 「なにこのヒト」「最悪じゃん」 じっさい、妹のサクラの見合いの席で酔っ払って下品なジョークを連発する寅の姿は、平成のスタンダードからすると 「最悪」以外のナニモノでもない。 妹の晴れ姿を見た嬉しさに思わずはしゃぐ寅、とかなんとか言うト書きの中の説明文は、言い訳にもならなければ免罪符にもならない。ただただ最悪。無神経で身勝手で浅慮で低能で最悪なうえにも最悪。二度と顔も見たくないタイプの親戚。絶縁モノである。 とはいえ、寅を弁護したくて言うのではないのだが、あの時代には、ああいう日本人が、たくさん生き残っていたのである。寅次郎ほど極端ではなかったにせよ、タイプとして寅次郎おじさんと同一集合の中に含められる人間は、私の親戚の中にも確実に3人は交じっていた。 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった。 ついでに言うなら、乱暴で不潔で押し付けがましい説教垂れの口臭持ちだった。 そこから比べれば、現代の日本人は、夢みたいに上品だ。このことは何度強調しても足りない。 で、ここにある令和と昭和の彼我の違いを踏まえた上で、上品さや賢さの話はともかくとして、昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった、と、私はそのことを申し上げたいのである 昔の方が良かったなんてことは、口が裂けても言いたくない。 実際、昭和はあらゆる意味で地獄だった。 ただ、欠点だらけの昭和の社会の中で、一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだったということは言えるように思うのだな。 昭和の人間は、おしなべて自分勝手だった。ついでに自分本位でもあれば、無神経かつ無遠慮でもあった。 で、それらの迷惑千万な性質の反作用として、彼らは、他人の喜怒哀楽やマナーの出来不出来に対して、おおむね寛大だった。 実際のところは、自分の考えや目論見でアタマがいっぱいで他人の言動には無関心だったというそれだけの話なのかもしれないわけだが、それでも、40年前の日本人が、他人の怒鳴り声をなんということもなく聞き流す人々であったということだけは、この場を借りて記録しておきたい。 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない。 この点においてのみ言うなら、私は、昭和の社会の方が住みやすかったと思っている。まあ、他人に迷惑をかけることの多い人間にとっては、ということなのだが。 最後に、どうして他人の怒鳴り声を聞き流す態度を好ましく思うのかについて、簡単に説明しておく。納得していない読者がたくさんいると思うので。 1カ月ほど前のことだが、ツイッターのタイムラインに以下の趣旨のツイートのスクリーンショットが流れてきた。 《twitter見てると毎日毎日なにかに怒っていて、しかもその怒りの内容が日替わりってヒトがけっこういて、そんなにいろんなことに毎日怒ってばかりいて、長い人生なのに健康大丈夫なのでしょうか。》 誰のツイートであるのかは、この際、たいした問題ではない。というのも、この種の、「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ』、「「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやき」の流行は、本当に困った風潮だ。
・『この種のつぶやきに「いいね」をつけることでやんわりとした支持を表明しているのは、「怒り」や「ギスギスしたもの言い」や「対抗的な言説」や「批判的な立場」を、内容の如何にかかわらず、「円満な人々による円滑なコミュニケーションをかき乱すノイズ」として排除しようとしている人々だ。 で、私の思うに、その人々は、自分のことを「上機嫌で、自足していて、あたりのやわらかい、上品で、裕福で、恵まれた」人間であるというふうに考えている人々でもある。今年の流行語で言えば、「上級国民」ということになるのかもしれない。 「ギスギスした人たちっていやですね」「うーん。議論ばっかりしている界隈ってあたしちょっとNGかな」「ものごとの良い面を見たいよね」「そうだね。誰かの悪い面だとかなにかの欠点をあげつらう前に、共通のうれしいポイントを見つけたいよね」「最低限ニコニコしてるってことが条件なんじゃないかな」「うんうん」「そうだよね。素敵になるためには素敵なことに敏感でなきゃね」てな調子で無限にうなずきあっている人たちだけで、この世界が動かせるとは私は思っていない。 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。 なんだか古典的な左翼の言い草に聞こえるかもしれないが、私は、デカい主語でなにかを語る時には、古典的な左翼の分析手法はいまもって有効だと思っている。 ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。 ちょっと前に《「いつもニコニコしていること」を自分自身の信条として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。》というツイートを投稿したのだが、いくつか届いたリプライが、私の真意をまったく理解していなかったことに、大きな失望を感じた。 自分が自分のためにニコニコすることは、抑圧ではない。 でも、他人にニコニコを求めることは、巨大な抑圧になる。 多くの日本人が正直で無遠慮だった昭和の時代、ニコニコしている人間は、おおむね機嫌の良い人だった。 令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。 私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。 もっとも、義務で笑っているのか心から笑っているのかは、外側からは判断できない。 あるいは、本人にも、わからないのかもしれない。 私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。 真顔ほど正直な表情はない。 真顔を不機嫌と解釈する人間が増えたのは、単に社会の不正直さの繁栄に過ぎない』、「彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ」、安倍政権の嘘、隠蔽にも拘らず、支持率が堅調なのは、国民が「飼いならされた」ためなのかも知れない。

第三に、同じ小田嶋 隆氏による1月10日付け日経ビジネスオンライン「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00052/?P=1
・『正月休みは何もしなかった。 2月刊行(予定)の書籍のゲラを3件と、正月に締め切り(建前上の締め切りはそのまたずっと前だったりするのだが)を設定されている単発の原稿をいくつかかかえていて、本来なら年末年始は仕事に専念しているはずだったのだが、何もできなかった。 私は、まるまる10日間ほど、機能不全のまま過ごしていたことになる。とすれば、少なくとも仕事をしていなかった期間分だけは休めていたはずなのだが、そういう実感はない。むしろ疲労している。何かに追いかけられながら立ち尽くしていた後味だけが体内に残っている感じだ。 おそらく、生来の貧乏性で、長い休みを心安く過ごすことが苦手なのだろう。 ところが、松が明けて、ほぼ10日ぶりに原稿を書き始めてみると、案の定、執筆のための手がかりが、まるで思い浮かばない。 うっかりものを考える人たちは、10日間も無為のままに過ごした後であるならば、それだけリフレッシュして、さぞやアイディアが自在に湧き出てくるはずだと考えたりする。 でも、違うのだ。 休めば休むだけ、アイディアは枯渇する。少なくとも、私の場合はそうだ。 アイディアは書けば書くほど湧き出してくるものだ、と、ポジティブに言えばそう言い換えることもできる。 実際、原稿のネタは、原稿を書いている最中でないと出てこないものだ。だからこそ、Aの原稿を書いていると、別のBの原稿のアイディアが、ふと思い浮かんできたりする。 ということはつまり、アイディアは、瓶の中に入っている有限な液体よりは、むしろ地下水脈に似ているわけだ。掘り進めば掘り進めるだけいくらでも湧いてくる半面、掘る手を休めると、その時点で枯渇してしまう、と、そう考えるのが、たぶん、勤勉な書き手であるための有効な考え方なのだろう。 別の言い方をすれば、勤勉な時間の過ごし方に快適さを感じる意識のあり方を、才能と呼ぶわけだ。 さてしかし、新年の最初の仕事は、怠惰な自分を起動する困難な作業から出発せねばならない。 思うに、正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ。 ポール・サイモンの古いアルバム(“Paul Simon”)の中の一曲に「Mother and Child Reunion」という歌がある。邦題は「母と子の絆」(直訳では「母と子の再結合」ぐらいか)ということになっている。 この歌が収録されているLPレコードを、私は高校生の時に手に入れて、それこそレコード盤が擦り切れるまで愛聴したものなのだが、当の「母と子の絆」については、長い間、母子の間の相克や葛藤を描いた思わせぶりな歌なのだろうくらいに思っていた』、「正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ」、面白い捉え方だ。
・『歌詞カードには、わりとぞんざいな訳詞が印字されていたのだが、全体として了解困難だった。 翻訳を担当した人間が、途中で作業を投げ出したのかもしれない。そういう感じの訳文だった。 英語の歌詞を自力で翻訳することにも挑戦してみたのだが、難解な単語こそ出てこないものの、書いてある内容の抽象性がどうにも手に負えない、やっかいな歌だった。なので、最後まで翻訳することはできなかった。 ところが、そのやっかいな曲について、何十年後かに、私は、インターネット上で、ある海外通の同好の士(つまりポール・サイモンのファンということ)のブログの中で、実に衝撃的な解釈を発見することになる。 ブログ主氏によれば、この歌は、ポール・サイモン氏が、ニューヨーク市内のとある中国料理店で見かけた「mother and child reunion」(←「母子再会」)という名前の中華料理のメニュー(鶏肉と鶏卵を使った料理ですね。日本にも「親子丼」というよく似た名前の料理がありますが)名を面白がって、それを題材に作詞した歌だというのだ。 なんと、わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである。 たしかに、ニワトリとタマゴが中華鍋の中で対話をしている場面を想定しつつ聴き直してみると、 「こんな奇妙な悲しみに満ちた日に、あたしはあんたたちに偽りの希望を語りはしないよ」 「あたしゃこんな低いところに寝かされるなんて思ってもみなかった」 とか「さらに深い悲しみがやってくるその日になれば、あの人らは、『あるがままであれ』とかなんとかいうに違いない」「だけど、そうは行かないよ。人生が続くかぎり、どうせ同じことが繰り返されるんだから」 といった調子の奇天烈で難解だった歌詞の断片が、いちいち得心のいく言葉として聴こえてくるではないか。なるほど。 詳しい歌詞の内容は、JASRACの顔を立てて紹介しない。上記のカギカッコ内の文も、歌詞の正確な翻訳ではない。あくまでもざっとした内容紹介にすぎない。なので、ジャスの人たちは摘発を思いとどまってほしい。 さて、「母と子の絆」の楽曲としての魅力は、本当に中国料理を題材にした歌であったのかは別にして、歌の中で、母親と思しきキャラクターが繰り返している言い分の身勝手さと素っ頓狂さが、母子がともに遭遇しているかに見える意味不明の悲劇の中で、いきいきと描写されている点だ。 その「かあちゃんっぽさ」に、私はいつも励まされたものだった。 なんというのか、母という存在の、圧倒的に理不尽でありながらそれでいてなおかつありがたい後ろ姿が、この歌にある崇高さをもたらしているということだ。 正月にも似たところがある。 ただ、その感触の順序は歌の感想とは逆になる』、「わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである」、事実か否かは別として、面白い。
・『基本的にありがたいものではあるものの、身に降りかかる実感としては、とにかくうっとうしくもめんどうくさい存在としての「家族」が、期間限定のロードショーとして上演されるのが、わたくしども日本の国の「正月」なのである。 1月1日の朝、私は《おせち料理は、「一番おいしいのがかまぼこ」である時点で、ほかのメニューのマズさが証明されている。今年はかまぼこしか食べなかった。もちろん、かまぼこだって、大好きなわけじゃない。かろうじて食べる気持ちになれる食材がかまぼこだけだったという話です。》2020年1月1日-7:33 《お正月は好きになれない。おせち料理、松飾り、年賀状、お年玉、振り袖……どれもこれも血縁と地縁から一歩も外に出ない閉鎖的な人間関係を反映した陋習に見える。でなくても、オレたちをクソ田舎のムラ社会に引き戻そうとする習俗ではある。そもそも全国民が一斉に休む設定がきもちわるい。》2020年1月1日-23:19  《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》2020年1月1日-23:36 《「田舎」という言葉を使うと、毎度のことながら過剰反応する人たちが湧いて出てくる。私としては、「東京とそれ以外の土地」を対比する意味ではなくて、単に「閉鎖的」ぐらいなニュアンスでこの言葉を使用しているのだが、わかってもらえないようだ。》2020年1月2日-0:05 といういくつかのツイートを書き込んだのだが、結果としては、正月早々、少なからぬ人々の感情を害することになってしまった。 原因は、「田舎」という言葉の使いかたが無神経だったからだと思っている。 実のところ、私は、同じミスを、過去にも何回か繰り返している。 「田舎」という言葉を説明抜きで持ち出す時、私は、「東京生まれ東京育ちの人間」と「地方出身者」を区別するための言葉としてそれを持ち出しているのではない。 だから、私自身は、この言葉を差別のための言葉であるとは思っていない。 とはいえ、「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない』、「《なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね。》」、「「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ。このことを強く自覚しなければならない」、その通りなのだろう。
・『さて、私が自分の中で思っているニュアンスでは、あくまでも「因習的、閉鎖的な、地縁、血縁のコミュニティーから脱却できていない人々の集合」 に対して「田舎」という言葉を当てはめているつもりでいる。 であるからして、その意味での「田舎」に対する反義語の「都会」は、「故郷を捨ててきた人々が集っている場所」「固定的な地縁や血縁とは違う複数のコミュニティーの間を自在に行き来している人々が暮らしている空間」「複線的な人間関係を構築している自立した人々が暮らしている町」 てなことになる。 ということは、東京で暮らしている人々のうちの東京生まれの人間たちは、「自分の住処のすぐ近所に地縁や血縁を持っている人間」であるという意味で、「田舎者」ということになる。実際、東京にはそういう東京在所の閉鎖空間の中で暮らしている田舎者がそこそこ暮らしている。 わがことながら、変な理屈をふりまわしてしまったものだと思っている。 私が独自の意味をこめて使っている「都会人」「田舎者」という2つの言葉は、わかりにくいのみならず紛らわしい。なにより誤解を招きやすい。その点で、端的に申し上げて、愚かな用語法だと思う。その点はさすがに了解した。なので、今後は封印しようと考えている。 文脈にあわせて「閉鎖的な人」「オープンマインドな人」「島国根性」「コスモポリタン」あたりの言葉を代置していった方が賢明だし、それ以前に、多数派の人間に誤解されるような用語法は結局のところ独善にすぎないと思うからだ。 とはいえ、正月に連投した一連のツイートの顔を立てて、ここでは、正月という時間が、単なるカレンダー上の設定ではないことを強く主張しておきたい。正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい。 われわれは、年に一回は、必ずその場所(つまり、「個々の日本人の内なる田舎としての正月」)に立ち戻らなければならない。そういう決まりになっている。 もし、日本から正月がなくなったら、日本は日本でなくなってしまう。 私個人は、日本が日本でなくなったところでかまわないではないかと思っているのだが、どうやら、日本人の多数派は、日本が日本であるために、あるいは、日本人が日本人らしくあるために、せめて正月の三が日ぐらいは、正月らしく過ごさなければならないと、そんなふうに心に決めていたりする。そのわれわれ一人ひとりの悲壮な決意が、互いにとってうっとうしい圧力となって降りかかってくる、おそらくは、正月という習俗の正体なのである。 であるからして、われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか』、「正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい」、「われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか」、面白い捉え方だ。
・『個々の家族内のメンバーは、正月の間、現時点でのキャラクターとは別の古い役割を担わなければならない。 長男は長男として、次男は次男として、何十年か前に演じていたのと同じ家族内の役柄としての「子供」を演じ切らなければならない。そうでないと、「一家団欒」という群像劇の舞台が成立しないからだ。 とはいえ、家族芝居は、再会の挨拶をかわしてからこっちの2 時間で終わるショートムービーではない。紅白歌合戦を眺めながらの和気あいあいの2時間で無罪放免になるのであれば、こんなに楽な話はない。 が、家族芝居は、へたをすると三が日いっぱい上演される。 とてもじゃないが、やっていられない。 白々しい仲良しごっこを演じるノルマが致し方のない仕様なのだとして、本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない。 そうこうするうちに、アルコールの入ったメンバーが、酔いにかこつけて不穏なことを言い出す。そういう決まりになっている。というか、必ずそうなるのだ。 「えっ? 今年30歳て、マジ? なんで結婚しないの?」「兄さんのところはまだ子供ができないわけ?」「長男はそろそろ大学入試だろ? どこを受けるんだ?」「なに? 受けない? 何を考えてるんだ? ◯◯にでもなるつもりか?」 この種のめんどうくさい質問の後にやってくるよりめんどうくさい回答をなんとか回避させるべく、箱根駅伝の若者たちは一心に国道1号線を走っている。 こじつけだと思うかもしれないが、これは本当の話だ。 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている。 「今年は、法政がいきなり遅れちゃったね」「東京国際大っていつからこんなに強くなったんだ?」「青学はさすがにたいしたもんだなあ」などと、家族が共通に見つめる先に箱根駅伝が映る液晶画面がなかったら、日本の正月がどれほど荒廃したものになっていただろうか 奇妙な結論になった。 正月が田舎だったというのは、まあ、わりと迷い込みそうな筋書きではあったのだが、その田舎の地獄から家族を救済するのが箱根の天使たちだったという着地点は、さすがに私も想像がつかなかった。 なんと無責任な結論だろうか。 でもまあ、トシのはじめは毎度こんなものなのだ。 ダメな正月から少しずつ立ち直って行くことで、われわれは毎年自分を作り直している。 ダメな自分のダメな故郷に帰るべく、正月が設定されているのは、福音であるのかもしれない。 などと、無責任なことを申し述べつつタイプを終えたい。今年もよろしく』、「久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない」、現在の家族の仮面を鋭く指摘している。「箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている」、こじつけ的色彩はあるが、なかなか面白い捉え方でもある。
タグ:「和田誠さんがまいたサブカルの種子」 和田誠 随筆 小田嶋 隆 (その2)(小田嶋氏3題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味、箱根の天使が走って救う 三が日の不仲な家族たち) 日経ビジネスオンライン 『倫敦巴里』 その素人のお遊びを完成形の作品に結実させて世間の評価をひっくり返すに至った画期的な書籍が、あの見事な『倫敦巴里』だった 『倫敦巴里』の中で展開されていた文体模写やおとぎ話の翻案ネタは、まさに私自身が高校時代に夢中になって取り組んでいたことだった 小説を書くつもりも才能も持っていない自分のような者は、書籍の出版とは一生涯縁のない人間なのだと、20歳になるまでは完全にそう思い込んでいた。 その思い込みを、洒脱な魔法とともに解除してくれたのは、あの素晴らしい『倫敦巴里』の自在さだった 怒りに嗜癖する 「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」 「サブカル」の種子 怒りという感情に対して居心地の悪さを感じる人間の方が多いはずだ あの大震災以来の現在のわが国が、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌している 「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録 われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している この30年か50年ほどの間に、わたくしども日本人が、自分たちの怒りを抑圧するマナーを身に付けたことは事実 怒りは、恥ずべき逸脱であり、未熟な人格の現れであり、知的であることから最も遠い感情であると、われら現代人は、そんなふうに考えている ある時点から、わたくしども日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会にもたらしている変化について語る目的で、以上の話を振った われら日本人は、ほんの半世紀前までは、かなり怒りっぽい人々だった 一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだった 昭和の時代の人間の感情は令和平成の人間の感情よりもずっと正直だった 昭和の日本人は、無遠慮で、不作法で、直情的で、なおかつ偏見丸出しで差別意識のカタマリでもあった 「男はつらいよ」 ほとんどのシーンは、笑えない悪ふざけにしか見えない。 変わったのは映画ではない。 変わってしまったのは、映画を見ている私のアタマの中身だったのだ 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す 現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない 「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ なにかと話題の「同調圧力」の基本設定は、たぶん「お正月」から発生している。つまり、「周囲の人々と同じような人間としてふるまうこと」へのやんわりとした強制を、「正月を正月らしく過ごすあらまほしき日本人の姿」として、目に見える形で規範化したのが、お正月という習俗だったりするわけだね 平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている 彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ わが偏愛するところのヒットソング「母と子の絆」は、親子丼ソングだったのである 「箱根の天使が走って救う、三が日の不仲な家族たち」 正月は、令和の日本の中に残された古い日本の名残というのか、昭和の呪いだ。 日本の正月は、古い血族が実家に参集するところからはじまる。というのも、正月は、カレンダーに刻印されたスケジュールである以上に「血族の紐帯」が綾なす重苦しい意図をはらんだ、一連の儀式であるからだ 「田舎」という言葉に差別のニュアンスを感じる人たちがいる以上、私の側に差別の意図があろうがなかろうが、実際にそこに差別が生じていると考えなければならない。 ことほどさように、差別は、微妙なものだ 正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。 正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい 箱根駅伝の選手たちは、自分たちの記録のためにだけ走っているのではない。 彼らは、日本中の不仲な三が日の家族たちが、要らぬ口論をはじめないためにこそ走っている われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか 本当のところ、久しぶりに会う家族たちは、互いに尋ねてはいけない質問を山ほどかかえながら、相手に無神経な質問をされることに辟易してもいれば、自分が本当に訊きたいことを言い出せずにいることにも飽き飽きしている。 こんな状態が3日間ももちこたえられるはずはない
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随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) [文化]

今日は、随筆(その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味)を取上げよう。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が5月17日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「書く人間に最も有害な態度」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00021/?P=1
・『先週はまたしてもお休みをいただいた。 名目は、表向き「検査のための入院」ということになっている。 この説明に間違いがあるわけではない。 ただ、今回の入院は、単に検査のためだけのものではない。 もう少しこみいった事情がある。 以前どこかに書いたことがあるのだが、書く仕事をする人間にとって最も有害な態度は隠し事をすることだ。 別の言い方をすれば、隠し事が苦手であることが、書く仕事にたずさわる人間にとって最も大切な資質だということでもある。 そんなわけなので、ここでは、今回の入院について情報公開をするつもりだ。 とは言っても、現時点ですべてを明らかにすることはできない。とりあえず、いまの段階で読者の皆さんに提供できる範囲の情報をお伝えするにとどめる。理由はいずれ説明することになると思う。 簡単に言えば、現在、私はある疾患を疑われている。 こんな事態になったのは、前回の(脳梗塞での)入院の折におこなったいくつかの検査のうちのひとつで、偶然、ある異変が見つかったからだ。 で、脳梗塞の治療を終えて退院した後、異変の原因である病気を見つけるために、私は、さらにいくつかの検査を受けることになった。 ここまでのところは、当欄の通知欄や、私個人のツイッターアカウントを通して説明していた情報に含まれている。 それが、5月8日に受診した折、採血の結果からちょっとやっかいな数値が見つかって、現在は、その数値が示唆する症状を改善するために入院している次第だ。 その数値が意味するところは、主に 1.どこかに病変があるぞ ということと 2.この症状をこのまま放置しておくことは望ましくないぞ ということなのだが、困ったことに、 3.この数値が示唆する症状は、その症状をもたらしている病因をさぐるための検査の障害になるぞ という、なんだかちょっと錯綜した状況を招いている。 で、医師団の当面の選択としては 4.とりあえず、対症療法で、当面の症状を改善して
5.その上で必要な検査を実施する。 そして 6.症状の原因となっている病気の正体を見極めつつ 7.1~6までの経緯を踏まえて治療方針を決定しようではないか と、現在はそういう話の運びになっている。 なんだかややこしい話なのだが、病気というのはどのみちややこしい出来事なのである。 ちなみに、現時点のオダジマは、上記のフローのうちの4番目あたりに位置している』、どう見ても健康的とは言えない生活を送ってきたらしい小田嶋氏が、「脳梗塞」をきっかけに、「異変が見つかった」のはある意味でラッキーだったのかも知れない。
・『抽象的で中身のない話だと思うかもしれないが、現段階でこれ以上の詳細を明かすことはできない。理由は、憶測を語ったところで誤解を広めるだけだし、結論が出ていない事態についての無用な情報漏えいは、単に混乱を招くだけだと考えるからだ。どうかご理解いただきたい。 大切なのは、私が現在、宙ぶらりんの状態にあり、診断のつかない段階で、診断の準備のための治療に専念しているということだ。 体調そのものは、だから、入院中とはいえ、そんなに悪くない。 というよりも、ここしばらくのあれこれで体重が落ちた分、軽快に動けているかもしれない。 ただ、検査や採血や採尿のスケジュールはずっと続いているし、点滴やモニタの管やらケーブルやらもカラダにぶら下がったままだ。 で、有線(ワイヤードな)の端末として最先端医療の恩恵にぶらさがっている状態のオダジマは、体調万全に見えて、事実上は無力だったりする。 というのも、何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ。 にもかかわらず、そんな不自由な状態で私が原稿を書いているのは、ありていに言えば原稿料が必要だからだ。 なんだかなまぐさい話をしてしまった。 治療にはそれなりのカネがかかる。 その一方で、病気で休んでしまうと、いきなり収入が途絶する。 フリーランスの泣き所というヤツだ。 もっとも、書き手の側が原稿料を欲しているからというだけの理由でコラムが掲載されて良い道理はない。 ウェブマガジンであれ、紙ベースの雑誌であれ、読者の側から見て、読むに値する文章でなければ、そのテキストは掲載されるべきではないし、それ以前に原稿料の対象になるべきではない。 そうやって考えてみると、ここまでの何十行かは、書き手であるオダジマの個人的な近況を報告したのみで、情報としての有用性に乏しい。個人的な知り合いなら、あるいは注目して読むかもしれないが、逆に知り合いであれば、上に箇条書きにしたような奥歯に医療用手袋がはさまったみたいなテキストには満足しないだろう』、「何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いているからだ」、場面が目に浮かび、思わず微笑んでしまった。
・『ではオダジマと直接の面識を持たない読者はどう思うだろうか。 たぶん、「何を言ってやがる」「お前のプライベート情報なんかオレには一文の価値もないぞ」「しかも、そのプライベート情報自体中身スカスカじゃねえか」と、おそらくその程度の感慨しか抱かないだろう。 そんなわけなので、以上、私の個人的な病状やこれから先の診療計画の話は、ひとまずおしまいにして、この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨を書き記しておくことにする。 この情報は、おそらく、中高年の読者に限らず、若い人たちにも役立つはずだ。 テーマとしては、人間と病気、入院と日常、あるいは人生と時間といった感じの、やや哲学的な話になろうかと思う。着地点は単なる悲鳴になるかもしれない。書き終わってみるまでは何が出てくるのかわからない。原稿はそうやって書かれるべきものだ。 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる。この点については入院という事態を経験した人のほとんどが同意してくれるはずだ。 まず曜日の感覚が曖昧になる。しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ(注:最後の「だ」は不要?)。 たとえば、日常の中で生活している人間は、1週間とか1ヶ月といった単位で時間を区切っている。 で、その、ひとかたまりの時間の長さを一単位として、自分の日常の時間を四則演算の可能なブロックみたいにして取り扱う。 だから、現実世界の中で日常を生きている人間は、日、週、月といった、いくつかの実用的な時間単位を使い分けながら時間を管理し、最終的にそれらを支配しているつもりになる』、「自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる」、私の場合の入院は3日程度だったが、長くなればそんなふうになるのだろう。
・『ところが病院という施設に閉じ込められて外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう。 と、彼は、もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる。もちろん、来週の月曜日に誰某が見舞いに来るとか、次の水曜日にMRIの検査があるといった感じの予定がないわけではないのだが、それらの予定は、こちらが主体となって仕事をしたり準備をするための予定ではなくて、単にカレンダーの進行とともに先方の意思で勝手に流れてくる出来事に過ぎなかったりする。 要するに、入院中の人間は通常の意味で言う「現実感」を喪失するわけだ。 しかしながら入院している当事者に言わせれば、彼は、「病院の中の現実」に適応しているに過ぎない。 というよりも、入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである。 であるから、入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる。 入院を別にすれば、私は、これまで、そんなふうに時間の感覚を喪失した時期を、二度ほど経験している。 そのうちのひとつは、大学に合格した直後に半年間ほど、極端な無気力状態に陥った時期だ。 いま風の言葉で言えば「バーンアウト」ということになるのかもしれない。 とにかく、受験生から大学生にいきなり立場が変わった時、私は、寝る間も惜しんで丸暗記の作業に没頭していたそれまでの数ヶ月間の生活が突然終了したことにうまく適応することができなかった。 おそらく、目先の課題とその日その日の勉強量とその成果にばかり囚われていた時期の、極度に近視眼的な視野が、大学生活という茫漠とした荒野をとらえきれなかったのだと思う。 ともあれ、その時、私は、自分が何をどうやって一日をしのいだら良いのかが皆目わからなくなって、ほとんど3ヶ月ほど外出もろくにできない状態に陥っていた』、「入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる」、まさに「目から鱗」の気分だ。これまで、このことを知らずに、入院患者の見舞いに行って、ひょっとして傷つけるようなことを言ったのではと、遅ればせながら自責の念を感じた。
・『もう一回は、アルコール依存の診断を受けて、断酒に取り組んでいた最初の数年間だ。 この時期、私は「いま・ここ」に集中せずにおれなかった。 ここでいう「いま・ここ」とは、「とりあえず今日一日酒を飲まない」ということだ。 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる。 これは、AA(アルコホリック・アノニマス)やその他の断酒のための組織で言われている一番最初の教条の受け売りに過ぎないのだが、実際に、困難の中で一歩を進める人間は、断酒者であれ、病人であれ、改悛した悪党であれ、誰もが同じように「いま・ここ」に集中するほかに現状を打開する方途を持っていないのだ。 さて、入院患者は、その日その日の細切れのスケジュールとは別に、ぼんやりとした頭の中で、「人生」という単位の時間で抽象的思考を遊ばせる習慣を持つ。 これも、実は現実生活には何ら寄与しない。 だから、入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある。 というのも、こんな世俗から遠ざけられた場所で、週に2回の会議と月に3回の地方出張をこなしている営業マンみたいな調子のタイムスケールを持ちこたえていたら、身が持たないからだ。 本当なら、日常人も、月に一度かそこらは、入院患者の目(つまり、極端に短いタイムスケールと、極端に長いタイムスケールで世界に対峙すること)を持つべきで、同じように、入院患者も、事情が許すタイミングで、外界の俗人たちが味わっているのと同じ試練を味わうべきなのだろう。 そういう意味で、この連載枠が、私の役に立ってくれることを願っている 読者の役に立つのかどうかは、これは、私の側からは、わからない。 目安としては、読み終わって頭がクラクラしているのであれば、少しは役立っているということだ。 理由は説明できない。 いつか、近い将来か遠い将来に、入院したタイミングで、思い当たるかもしれない』、「入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある」、言い得て妙だ。

次に、小田嶋氏が9月6日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「ライターが原稿を書くことの意味」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00035/?P=1
・『8月9日更新分の記事をアップして以来、当欄に原稿を書くのはおよそ1カ月ぶりだ。 その間は、形式上、夏休みをいただいたことになっている。 もっとも、「夏休み」というのは言葉のうえだけの話で、私自身は、必ずしものんびりしていたのではない。 むしろ、物理的に執筆が困難な環境の中で、もがいていたと言った方が正確だろう。 苦しんだことで何かを達成したわけではないし、特段に成長したこともなかったのだが、とにかく私は苦しんでいた。 「えっ? 8月中もいつもと変わらずにツイッターを更新してましたよね?」「ああいう頻度でツイートできていたのだから、原稿だって書けたんじゃないですか?」というのは、一見もっともなご指摘に聞こえる。というよりも、ほとんど図星ですらある。 しかし、実際に私の立場で、このセリフを聞かされてみればわかることだが、ツイッターと有料原稿は、読む側にとってどう見えるのであれ、書く人間の側の立場からすると、まるで性質の違うものだ。 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている。 多少言い回しの工夫に苦労する部分があるにしても、その苦労もまた気晴らしの一部だったりする。 というのも、文章を書くことを好む人間は、技巧的な努力(原稿執筆におけるテクニカルな部分での苦労)に嗜癖しているからだ。だから、書き方を工夫するための苦心には、ほとんどまったく辛さを感じない。まあ、ボールを蹴っている子供と一緒だということです。 引き比べて、ヒトサマから原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う。 この場を借りて、ぜひ強調しておきたいのは、原稿を書く人間を苦しめるものが、執筆前の取材や、執筆中の技巧上の煩悶ではなくて、なにより記事公開後に発生する責任の面倒臭さだということだ。 責任さえなければ、執筆ほど楽しい作業はないと申し上げてもよい。 商業的なメディアに署名原稿を提供する書き手は、事実誤認や誤記があれば、すぐさま謝罪のうえ訂正しなければならない。誰かの名誉を毀損したり、見も知らぬ他人の尊厳を傷つけたりする文章を公開してしまったケースでは、それなりの責任を取る必要が出てくる。 それでも、時には、読者のうちに一定の割合を占めるセンシティブな人々の感情を傷つけるリスクを、あえて冒さなければならない場面もある。 そういう時は、詫びる場合でも、謝罪しないケースでも、どっちにしても書き手が苦しむ選択肢を避けることはできない』、「ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている」、なるほどズバリ本質を言い当てている。
・『してみると、署名原稿に発生するギャランティーは、そうした回避できないリスクに対して支払われていると考えることも可能なわけで、そこからさかのぼって考えるに、原稿を書く作業が苦しみを伴わない可能性は、原理的にあり得ない話だということだ。 今回は、当欄の原稿が3回にわたって掲載されなかった事情を説明しつつ、この際なので、ライターが原稿を書くことの意味について考えてみようかと思っている。 時事的なニュースにいっちょかみをすれば、ネタはいくらでもある。そういう書き方に意義や正当性がないと考えているわけでもないのだが、今回はとりあえず、世間を騒がせている話題からは距離を置いて、自分の仕事について考えることを優先したい。 あらためて振り返ってみるに、一カ月近くまとまった原稿を書かずに過ごしたことは、私の人生の中では、何十年ぶりの経験ということになる。これだけ長い間、執筆という作業から遠ざかってみると、かえって書くことについて考えさせられる。 で、意外だったのは、自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だったということだ。 カンの鋭い読者はすでにある程度見当をつけておいでだと思うのだが、お察しの通り、私は、7月の半ばからしばらくの間、入退院を繰り返していた。 その、今回の入退院をめぐるあれこれは、4月上旬に脳梗塞を発症して以来続いているすったもんだの一部でもある。 より詳しく述べれば、4月の脳梗塞での入院中に発覚したある異変が、以来、断続的な60日間ほどの入院やら検査を呼び寄せていたわけだ。 で、7月の下旬に至って、さまざまな検査や二度にわたる手術を伴う生検の結果、ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ。 8月中の当連載の中断は、その新たに判明した疾患の治療が本格的に始まったことを受けてのものだ。 当然、治療は今後も続くことになる。 が、この治療がいつまで続くのか、先のことは分からない。 治るのかどうかも、当面は分からないというのが適切な言い方になると思う。 で、肝心要のその「病名」なのだが、私は、それを明らかにしないつもりだ。 理由は、ありていに言えば、読者(というよりも、インターネット上の無料メディア経由で拡散した情報をやり取りしている不特定多数の見物人たち)を信頼していないからだ。 私に関して、仮に、「ずっと昔からの忠良な読者」といったような人々が存在しているのだとすれば、その彼らは、どんな病名を知らされたところで、適切な対応を取ることができる人たちであるはずだ。このことに関して、私は疑いを持っていない。また、通りすがりの読者であっても、人としての当たり前の常識を備えた穏当な人間であれば、他人の病気に対して特別に奇妙な反応の仕方はしないだろう。このこともよく分かっている』、「ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた」、というのは何よりだ。
・『しかしながら、無料のウェブメディアに文字情報の形でアップされた特定個人の病名は、あらゆる個人情報がそうであるように、いずれ、文脈から切り離されたデータとして野放図に拡散する宿命のうちにある。その「娯楽情報」は、悪意ある第三者を含む不特定多数の群衆にとっての、格好の玩具に成り果てる。このなりゆきは誰にも阻止できない。 「病名」は、どんな人間のどんな病名であれ、ちょっとした誇張を施すだけで、特定の人間の悲惨な未来を示唆する凶悪な情報に変貌させることが可能だ。 ということになれば、悪意ある人間は、その誇張した部分によって引き起こされる騒動から利益を得ようと考えるはずだし、特段の悪意を持っていない人々も、ひとたび群れ集まって行動する段になると、他人の生老病死を玩弄するゲームへの熱中を制御できない。 とすれば、個人の病名を公共の場で公開するような愚かなマネは、絶対に避けなければならない。 さて、私が執筆意欲を半ば喪失していた理由は、体調と病名以外に、もう一つある。 それは、ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった。 もともと体調がすぐれなかった事情もあるといえばあるのだが、ほかならぬ同業者から 「偉いコラムニスト様にはわからないのでしょうが」 みたいな言い方をされてみると、なんだか、マジメに仕事に戻る気持ちになれなかったのだ。 私がこの言葉に気力をくじかれた理由のうちの半分までは、この「偉いコラムニスト様」という言い方の示唆する内容が、図星だったからだと思う。 実際、私のやっている仕事は、ある立場の書き手からすれば、 「偉いコラムニスト様」と形容するにふさわしい、お気楽な書き飛ばし仕事に見えているはずだ。 というのも、コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ。 私の立場からすれば、自分の書き方で書くほかにどうしようもないという、それだけの話ではあるのだが、一方、私とは違うタイプの書き手から見ると、オダジマの書き方と仕事ぶりは、まるで「地を這う取材みたいなヨゴレ仕事を軽蔑している貴族の書きっぷり」に見えている可能性はある。 実際、ツイッター上で、「それ、あなたの感想ですよね」という定番のツッコミ(←2ちゃんねる創設者であるH氏がこの言葉を発しているテロップ付きの静止画コミのリプライも含めて)を投げつけられた回数は、おそらく何百回を数える。 それほど、コラムニストの「感想」は、軽んじられている』、「「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた。 この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった」、想像以上に小田嶋氏も繊細な神経の持ち主のようだ。もっとも、そうでなければ、コラムニストなど務まらないのかも知れないが・・・。
・『ちなみに付け加えれば、私は、この、「個人の感想を軽視する態度」が、21世紀に入ってからこっちの時代思潮と呼んでも過言ではない考え方なのだと思っている。 「ファクトに基づかない記事は無価値だ」「取材をしていない書き手による文章は女優さんのエッセーと選ぶところのないものだ」という感じの、漫画の中に出てくるジャーナリズム学校の先生が言いそうなセリフを、なぜなのかSNSに蝟集している素人が二言目には繰り返すのが、この20年ほどのネット上での論争でのおなじみの展開になっている。 してみると、私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ。 なぜというに、さきほども申し上げた通り、この指摘は、半分までは図星でもあるからだ。 ただ、この半月ほどの間、私が、図星を突かれてすっかりヘコんでいたのかというと、そうとばかりも言えない。 図星を突かれた残りの半分で、私は、「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた。 私は、自分を偉い人間だと思っているから、取材に出かけることを忌避しているのではない。 自分が特別な才能に恵まれた類いまれな書き手であるという自覚のゆえに、取材抜きの素朴な感想を書き起こして事足れりとしているのでもない。 私は自分を「偉い」ビッグネームだと考えたことは一度もない。むしろ、一介の売文業者にすぎないと思っている。無論「コラムニスト様」と呼ばれるに足る巨大な報酬を得ているわけでもない。 私の側から言わせてもらえるなら、私は、あるタイプの書き手がなにかにつけて持ち出す 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる。 もっと言えば、「取材もせずに文章を書いているあなたは、よほど自分の中にある才能やら知識やら技巧に自信がおありなのでしょうね」という感じの当てこすりの響きを聴き取ることさえある』、「私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ」、と自省しつつ、「「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた」、反撃に転じたところはさすがだ。
・『こっち側からは、逆に「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる。 この言い争いが不毛であることは分かっている。 だからこれ以上は言わない。この場ではとりあえず、個々の書き手には、それぞれの書き方があって、それは多くの場合、途中から変更できるものではないということだけを申し上げておくことにする。 ジャーナリズムの世界で働く人間は、取材結果を書き起こすことを何よりも重視する。であるから、記事の中に半端な「個人の感想」を付け加える態度を強く戒めてもいる。 「最後のパラグラフは、全削除な。理由? お前の感想なんか誰も聞いてないからだよ」「いいか。取材したことだけを書け。足とウデだけで書け。アタマなんか使うな。分かったかタコ」「お前がお前のアタマで考えたことなんかには毛ほどの価値もないということをよく覚えておけこの腐れ外道が」 てな調子で記者修行を積んできた人たちからすれば、個人の感想でメシを食っている人間は、よほど偉そうに見えるのだろう。 実際、新聞記者の世界で、「個人の感想」を書く人間は、競争を経て論説委員の座を勝ち取った人間か、でなければ「天声人語」みたいな新聞コラムの書き手として抜擢されたエリート記者に限られる。 そういう観点からすると、ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない。 とはいえ、当たり前の話だが、私には私にできることしかできない。だから、私は結局のところ、自分にできるやり方で仕事をすることになるはずで、それができないのであれば諦めるほかにないと思っている。 この半年ほどの闘病を経て、私は、自己決定と自己責任という物語にうんざりし始めている。 具体的に言えば、自分にかかわるすべてを自分が決めるべきだという考え方に、ある安っぽさを感じるようになったということだ。 とにかく、大事なことであれくだらないことであれ、なるようにしかならない。ということは、どうにもならないものはどうにもならないのだからどうしようもない。 奇妙な結論になってしまったが、自分としては、これはこれで前向きな態度だと思っている。 とにかく、私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ』、事実を取材などに基づいて書く記者の仕事と、コラムニストの仕事の本質的な違いを、入院生活で探り当てた姿勢は、さすがプロだ。「私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ」、ますます磨きがかかるであろうコラムに大いに期待したい。
タグ:何をするにも、ケーブルがつながった人間は、古い時代のダイヤル式の黒電話みたいに鈍重で、最終的に個人としての尊厳を欠いている 今回の入院について情報公開 ツイッター上の些細なやりとりの中で頂戴することになった 「偉いコラムニスト様」というレッテルだ。 これは、こたえた ついに原疾患と見られる病名を特定するところにこぎつけた次第だ 「書く人間に最も有害な態度」 日経ビジネスオンライン 自分にとって「書かない生活」が予期していたよりはずっと重苦しい時間だった 小田嶋 隆 (その1)(小田嶋氏2題:書く人間に最も有害な態度、ライターが原稿を書くことの意味) 随筆 原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う 私は自分のできることを、できる範囲で粛々とこなしていく所存だ ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。 それゆえ、準備も推敲も要さない。 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている ひとっかけらの記者修行も経ていないまるっきりのド素人が、個人の感想を書き散らして糊口をしのいでいる姿は、見ていてムカつくものなのかもしれない 「ライターが原稿を書くことの意味」 「取材しないと一行も書けないのだとすると、あなたのしている取材というのは、そりゃ拾い食いとどこが違うんですか?」と言いたくもなる 入院患者は、次第に浮世離れして行く。 われわれが浮世離れするのは、番外地に暮らす者としての適応過程でもある 断酒をはじめたアルコホリックは、今日一日以上の長い単位での目論見や計画はとりあえず視界から除外して、ひたすら、その日その日を無事に過ごすことに注力する。そうすることで、ようやく断酒のための最初の一歩を踏み出すことができるようになる 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる 入院患者にとって「一週間後に何をする」とか「1ヶ月後にどうする」といった「計画」や「野心」は、むしろ邪魔になる。そうしたことを考えれば、焦りがつのることになる コラムニストの仕事は、「取材」や「文献渉猟」や「研究」を伴わない、「個人の感想」にすぎないと言ってしまえばそれまでの、「腕一本の安易な作文」だからだ 入院中の人間は、「いま・ここ」に集中する以外に選択の余地を持っていないのであって、むしろ彼に必要な現実感覚は、時間を無化することなのである もっぱら極端に長いタイムスケール(たとえば「人の一生」とか「オレの30年」だとか)か、でなければ極端に短い尺度(「5分前」とか「次の検温までに」とか「次の食事は」だとか)でしか世界と関わらなくなる 「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた 外部の世界との接触を失うと、人はまず週単位での約束事や月単位での計画から見離されてしまう 自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくる しばらくするうちに、昨日と一昨日の区別がはっきりしなくなる。 別の言い方をすれば、自分と世界との間に流れている時間を測定する尺度が、娑婆世界にいた時と違ってくるというだ 入院すると、わりとすぐに、目に見える変化として、時間の感覚が失われる この言葉を浴びせられた瞬間から10日間ほど、私は、すっかり意気阻喪してしまった 私のような取材をしない書き手は 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。 これは、なかなか辛い境涯だ ファクトに基づかない記事は無価値だ この5年間に4回の入院生活を経験した62歳の男として、入院生活から感知し得た感慨
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知的財産(権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか) [文化]

今日まで更新を休む予定だったが、今日から可能になったので、知的財産(権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか)を取上げよう。

先ずは、経産省出身で慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授の岸 博幸氏が3月15日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/196956
・『ダウンロード違法化の範囲を拡充 著作権法改正法案はなぜ見送られたか  文科省がダウンロード違法化の範囲を拡充する著作権法改正法案を今国会に提出しようとしましたが、世論の強い反発が収まらずに自民党で法案が了承されず、国会提出は見送られることとなりました。 違法コンテンツに対する規制強化は当然ですが、同時にそれに対する懸念の声もよくわかります。ダウンロード違法化について両者が満足できる最適解は、存在するのでしょうか。 今回の著作権法改正法案には、違法コンテンツ対策として2つの柱があります。1つの柱は違法コンテンツが置かれているウェブサイトのURLをまとめ、ユーザをそれら海賊版サイトに誘導する“リーチサイト”や“リーチアプリ”に対する規制の導入です。 具体的には、リーチサイトの運営者やリーチアプリの提供者には刑事罰(非親告罪)を科し、またリーチサイトやリーチアプリにリンク情報などを提供した者に対しては、権利者の民事措置(差止請求、損害賠償請求)を可能にするとともに、刑事罰(親告罪)も科しています。 著作権者に無断でアップロードされた違法コンテンツは、リーチサイトにリンクが貼られることで62倍も多く視聴されてしまう(電気通信大調査)という現実を踏まえると、リーチサイトやリーチアプリへの規制の導入は当然の措置です。実際、この点については識者や世論の反発もほとんどありません。 これに対して、違法コンテンツ対策のもう1つの柱であるダウンロード違法化については、弁護士や漫画家といった方々から強い懸念と反対の声が上がり、結果として法案の国会提出が見送られることになりました。そこで、このダウンロード違法化についてすべての人が満足する最適解が存在するかを考えてみたいと思います』、なかなか興味深そうだ。
・『どこまでが違法なのか 文科省は悪影響に配慮も  その前に、おそらく多くの方が今回のダウンロード違法化の詳しい内容をご存じないと思いますので、説明しておきましょう。 ダウンロード違法化とは、ネット上に違法にアップロードされたものだと知りながら違法コンテンツをダウンロードすることを、それが私的使用目的であっても違法とし、特に正規版が有償で提供されているもののダウンロードを継続的に、または反復して行う場合には、刑事罰(親告罪)の対象とするものです。 音楽と映像については、すでにこのダウンロード違法化が行われているのですが、ネット上では漫画や雑誌など幅広い分野で違法ダウンロードの被害が生じていることから、今回の法改正では、音楽・映像に限らず違法にアップロードされたすべての著作物をダウンロード違法化の対象としようとしています。 ただ、ネットが情報収集の最大のツールとして活用され、かつネット上のコンテンツが違法にアップロードされたかどうかを見極めるのが困難である現実を考えると、無闇になんでも違法とすべきではありません。 そこで、違法にアップロードされたコンテンツだと知らずに(適法か違法かの判断がつかずに)ダウンロードした場合は違法とならないし、またネット上で適法に引用されたものと思ってダウンロードしたけれど実際は違法な引用だった場合など、適法・違法の評価を誤った場合も違法とならない旨が明確化されました。 また、そもそも当たり前の話ですが、違法にアップロードされたコンテンツであっても、ダウンロードせずに視聴するだけなら違法となりません。  加えて、刑事罰についても、それを科されるのは継続的にまたは反復して行われるという常習性がある場合に限られ、かつ二次創作者が原作者の許諾なくアップロードした二次創作物のダウンロードは対象外とされています。 このように、ある意味、ダウンロード違法化の具体策を検討した審議会での有識者の反対意見なども踏まえ、文科省はダウンロード違法化の対象を著作物全般に拡大する悪影響にかなり配慮した、と言うこともできます』、「ダウンロード違法化の対象」はかなり限定されたようだが、それでも問題があるようだ。
・『不利益を被っているはずの漫画家でさえ反対するのはなぜか  それでも、今回の著作権法改正に対しては、弁護士や有識者、さらには違法ダウンロードにより不利益を被っているはずの漫画家の組織である日本漫画家協会も、強い反対を表明しました。 反対の主要なポイントは、ネット上の情報収集ではスクリーンショットなどが当たり前に行われている中でネット利用の萎縮につながる、漫画などの研究や創作を阻害する、といった点になるかと思います。すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます。 ただ、だからといってダウンロード違法化の範囲を音楽と映像以外に拡充しないという選択肢もないと思います。クリエイターが全知全能を振り絞ってつくり上げた作品がネット上で違法に享受され、クリエイターが正当な報酬を得られないようでは、クリエイターは生活のために別の仕事をせざるを得なくなるので、文化の衰退につながりかねないからです。 それでは、どうすればいいのでしょうか。現実的な制度設計が可能かどうかを度外視して考えると、やはりダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか。 たとえば、スクリーンショットは基本的にダウンロード違法化の例外としてもよいのではないかと思います。レコードやCDの音楽をカセットテープに複製するのは、著作権違反ではありません。これは、カセットにダビングするのは基本的に自分で楽しむためという私的利用が目的であることに加え、カセットというアナログ媒体に複製したら音質が劣化するという面もあるからです。 いくらデジタルのネット上でも、スマホの画面を撮影するスクリーンショットだと画質が多少は劣化することと考えれば、スクリーンショットはカセットへのダビングと同列に扱える部分もあるのではないでしょうか。 また、ダウンロード違法化の刑事罰が親告罪であることを考えると、ダウンロード違法化の対象となることを望まないコンテンツのジャンルごとの業界団体なり個別の作者なりがいる場合に、刑事罰を親告する権利を明示的に放棄する、または繰り返し複製するなど悪質性が高い場合のみに親告するといった条件を宣言しやすくする仕組みを、導入する手もあるのではないでしょうか』、「すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます」、ただ「ダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか」、との筆者の考え方も理解できる。
・『ダウンロード違法化の最適解はあり得るか  過去に“creative commons”など、同様に著作権を自ら放棄する取り組みもありましたが、それらを参考にダウンロード違法化に反対するクリエイターなどが、自らの作品をその対象外であると宣言しやすくするのです。 個人的には、このように柔軟な対応を考えることで、基本的には違法なコンテンツのダウンロードはダメ、でもその例外を制度的に多く担保することでネット利用の萎縮などの悪影響を最小限に抑えるようにする、というアプローチでしか、最適解は見出せないのではと思います。 著作権法改正法案の国会提出が先送りになったことで、文科省はダウンロード違法化の制度設計を再検討することになると思います。このような柔軟な対応をどう検討していくのか、見守っていきましょう』、その通りだろう。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が7月12日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「JASRACは何と戦っているのだろうか」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00030/?P=1
・『音楽著作権をめぐる問題は、当欄でもこれまでに何回か取り上げている。 この問題は、私が「テクニカルライター」という肩書きで、IT(当時はまだ「IT」という言葉は発明されていませんでしたが)まわりの原稿を書いていた1980年代から90年代にかけて、いくつかの媒体で記事化している。 当時から私の立場はわりと一貫している。 この20年ほど、私は、日本音楽著作権協会(=JASRAC。以下「ジャスラック」と表記します)が著作権使用料を要求する対象が拡大の一途をたどってきたことに、その都度 「行き過ぎじゃないか?」「その要求は無理筋だと思うが」と、違和感ないしは疑義を表明してきた。 もちろん、ジャスラックから回答なり反応なりが返ってきたことはない。 私が一方的にいいがかりをつけてきただけの話だ。 一時期は、「ジャスラック」という単語を自分の原稿の中に書く時に、必ず「シャイロック、じゃなかったジャスラック」というふうに、わざと一度言い間違えてから言い直すメソッドを採用していた。 ネタとしては「ベニスの商人」(シェイクスピア作)の中に出てくる、強欲な金貸しであるシャイロックとジャスラックの混同を狙ったセコいやり口なのだが、しばらくの間はそれなりに有効だったと思っている。 余談だが、つい先日、安倍晋三首相が、参院選の選挙の応援演説の中で、「民主党の、あ、すいません、民主党じゃなくて立憲民主党ですね。どんどん政党が変わるから分からなくなってしまいました。その立憲民主党の枝野さんは党首討論で…… ―略―」と、立憲民主党の枝野幸男氏について言及する際に、「民主党の」と言い間違えたあとに、あらためて訂正する内容の演説を繰り返しているというニュース が流れてきた。 ハフポストがまとめたところによると、首相の「言い間違い演説」は、6日午後の滋賀県草津市での街頭演説で確認されてから後、翌7日は、千葉県内と東京都内で行った計6カ所すべての街頭演説で同じように反復されたのだそうだ。 意外なところに「シャイロック、じゃなかった、ジャスラック」手法の追随者を発見したカタチだ。 もちろん私は、安倍首相のスピーチライターに「故意の言い間違いによるダブルイメージ拡散手法」に関しての著作権使用料を請求するようなことはしない。なんとなれば、文化とは先人の優れた業績を踏まえたところから出発する何かで、その意味からして、自分の仕事が誰かに模倣されたと感じた時、怒りよりは、むしろ晴れがましさを感じるのが本当の人間だと考えるからだ。 話を元に戻す。 ジャスラックは、この30年ほどの間に、著作権使用料の請求先を、演奏家、歌手、レコードCDの制作者、放送、雑誌、新聞、書籍のような商業的なマスの媒体から、有線放送、飲食店の店内音楽、さらにはダンス教室、商店街のBGMに至るまでの、およそありとあらゆる個人に拡大してきている。加えて、彼らは、音楽がファイル化して流通するようになって以来、音楽ファイルが記録され得る媒体(つまり「想定し得るあらゆるすべての媒体」ということになる)に、音楽が乗せられることを想定して、CD-RやDVD-Rのような記憶媒体、ハードディスク、果てはスマホやパソコン本体にあらかじめ補償金を徴収するシステムの確立を画策していると言われる。 いささか古いソースだが、リンク先の記事 にこのあたりのいきさつが詳しく紹介されている』、「首相の「言い間違い演説」、確かに私にも鼻についた。
・『さて、このたび、われらがシャイロック、じゃなかったジャスラックは、音楽教室に職員を潜入させることで教室内での音楽の扱われ方を調査する手段を採用した。 リンク先の記事によれば 《―略― JASRAC側が東京地裁へ提出した陳述書によると、職員は2017年5月に東京・銀座のヤマハの教室を見学。その後、入会の手続きを取った。職業は「主婦」と伝え、翌月から19年2月まで、バイオリンの上級者向けコースで月に数回のレッスンを受け、成果を披露する発表会にも参加した。 ―略―》ということになっている。 びっくり仰天だ。 いったいいつの時代のゲシュタポのやりざまだろうか。 でなければ、ずっと昔にある漫画で読んだ「柳生の草」(←ググってください)の現代版とでも考えたものなのだろうか。 私は、民主的だと言われているわが国の戦後社会の中で60年以上生きてきた人間だが、これほどまでにあからさまなスパイ活動を堂々と敢行して恥じない組織が、自分たちの主張に耳を傾けてもらえると信じている姿を、いまはじめて見た気がしている。 思うに、ジャスラックが潜入職員を立ててまで立証せんとしていたのは、 1.ヤマハの音楽教室では、「音楽」がまるでコンサート会場でそうされているように、生徒によって「鑑賞」され、「享受」され、金銭を媒介する手段として「流通している」 ということなのだろう。 というのも、ジャスラックとヤマハの間で争われている訴訟では、現在、教室内で演奏される音楽が、演奏技術を伝えるためのものなのか、それとも「鑑賞目的」なのかという点と、もう一つは、教室に通っている生徒が、営利目的で演奏を聴かせる対象としての「公衆」に当たるのかであるからだ。 ちなみにヤマハとジャスラックが争っている訴訟の争点については、以下の記事 が詳しい。興味のある向きは熟読して内容を吟味してほしい。 さて、潜入職員は、レッスンでの演奏の様子について、「とても豪華に聞こえ、まるで演奏会の会場にいるような雰囲気を体感しました」と主張している。 演奏を聴いていた生徒たちについては、「全身を耳にして講師の説明や模範演奏を聞いています」という言い方で描写している。 つまり彼ら(ジャスラックとその潜入職員たちのことだが)は、レッスン時に試奏されている音楽が、「事実上コンサートの音楽として」流通しており、生徒たちも、「有料入場者たる聴衆に近い聴き方で」その音楽に向き合っているということを主張しているわけだ。 なぜというに、彼らの側の理屈からすれば、作曲者の存在が明示的に共有されている特定の楽曲が、金銭の授受を伴う音楽として流通しているのだとすると、そこには当然、著作権使用料が発生するはずだという理屈になるからだ』、JASRACが音楽教室に「潜入職員」でスパイさせていたというのは、私もそこまでやるのかと、驚かされた。彼らの主張もいささか手前勝手な印象を受けた。
・『さてしかし、音楽教室の側の立場からすれば、講師が全力を尽くして最高の演奏を披露しようとするのは、教育者として当然の姿勢だ。 というよりも、どんな分野であれ、他人に何かを教える人間が、全身全霊でその任に力を尽くすのは、「教育」という行為の大前提だ。 同様の理路から、生徒が「全身を耳にして模範演奏を聞く」態度も、同じく、音楽を学ぼうとする人間としての最も基本的な態度だ。 というよりも、そもそも教える側がぞんざいな演奏をしていたり、学ぼうとする側が、いいかげんな態度で聞いていたのでは演奏技術はもとより、「音楽」のエッセンスそのものが伝わらない。 野球でもフィギュアスケートでも、コーチは全力の模範演技を見せて、生徒に競技の真髄を伝えようとする。 「鑑賞」のうえ拍手をしてもらいたいからではない。八分の力で投げるピッチングフォームや、3回転から2回転にグレードダウンした模範演技では、伝えようとするところの最も大切なスキルやテクニックが伝わらないからでもあれば、100パーセントの集中をもって競技に臨まない態度は、故障につながりかねないからだ。 山岳警備隊のトレーニングがザイルの代わりにビニール紐を代用として敢行できるはずもなければ、料亭の板前が発泡スチロールを切り刻むことで包丁さばきを学ぶわけにもいかない。音楽を学び伝えるためには、本物の音楽を、本気の集中力でやりとりしなければならない。あたりまえの話ではないか。 おそらく、ジャスラックは、「教育目的で音楽が演奏されている」場所に、著作権使用料が発生していない現状が不満で訴訟を起こしたのだろう。 彼らにしてみれば、「教育目的、レッスン目的であれ、一定数の聴衆が音楽を聴き、その人々に向けて、楽曲が演奏されている事実は変わらない。だとすれば、教育という隠れ蓑の裏で、やりとりされている闇流通の音楽に対してもわれわれは支払いを要求する」 てなところなのだろう。 しかし、そもそも、生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入している。その楽譜の出版にあたっては、すでに著作権使用料が支払われている。さらに生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている。これらの音源についても当然のことながら著作権使用料がのせられている。 その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか。 理屈の話をすれば、もっと細かい話だってできる。 もっとも、ジャスラックの側からも、別の論点からの違った細かい話が出てくるだろうとは思う。 ただ、今回の報道で私がなによりも衝撃を受けたのは、音楽教室に潜入捜査員を送り込んで訴訟のための資料を収集しようとしたジャスラックの、その取り組み方の異様さに対してだ』、「生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入・・・すでに著作権使用料が支払われている。さらに生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている・・・著作権使用料がのせられている。その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか」、JASRACの主張は余りに一方的だ。
・『ジャスラックは、何と戦っているのだろうか。 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか。 ヤマハは、日本にはじめて西洋の音楽が入ってきた時代から、一貫して、楽器を作り、楽譜を出版し、音楽教室を展開し、音楽ホールを設計し、レコードやCDを制作し、コンサートを企画し、新人の音楽家を発掘してきた企業だ。 もちろん、彼らとて営利企業である限りにおいて、音楽をカネに変える活動をしてきていると言えばそうも言えるだろう。しかし、総体として、ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。 私は疑問に思っている。 彼らは、音楽家の権利を守ると言っている。 しかし、音楽家の中にも、自分たちの権利を守ってくれている団体であるのかどうかについて疑問を持っている人々がたくさんいる。 この話はまた別の議論になるので、ここでは深く追究しない。 ただ、私は、今回、 私の目から見て、ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない。 訴訟で争われている事例では、音楽講師と生徒が「美女と野獣」という楽曲を交互に演奏したことになっている。 で、その演奏と鑑賞の相互作用の中に音楽著作権を不当に侵害する行為が含まれていたのかどうかが争われているわけなのだが、仮に「美女と野獣」という個別の楽曲に含まれる作曲者の意図や工夫が、音楽講師の卓越した演奏を通じて、生徒に伝えられていたのだとして、「音楽を学ぶ」という文脈から見れば、教える者から教わる者に伝えられているのは、単独の著作者による個別の楽曲の細部ではなくて、「音楽そのもの」とでも言うべき技法なり演奏術なりの真髄であるはずだ。 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている。 ただ、その苦しいレッスンの抑圧的な記憶はともかく、私の身体の中には、わずかながら「音楽そのもの」が伝えられている。それは、特定の作曲家の個別の作品とは別のものだ。その、もっと普遍的な「音楽なるもの」を伝え、再現し、楽しむために、われわれは、楽器を発明し、楽譜を書き、レコードを回し、ストリーミング配信のための環境を整えている。そこにおける主役はあくまでも「音楽そのもの」であって、「特定の楽曲に含有されている誰かの権利」みたいなみみっちいものではない。 音楽は、そうやって人から人に伝えられていくものだ。 カネや著作権は、そうした音楽の流れの周辺に発生するノイズにすぎない。 ジャスラックは、人が人に音楽を教えている現場にスパイを送り込んだ。このことは、同時に、人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。 これはとても罪深いことだ』、「ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない」、「人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。 これはとても罪深いことだ」、などというのは同感だ。「私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている」、との告白の意外さに驚かされたが、この問題へのコメントにも深みが出た気がする。
・『そのスパイ行為を通じて、彼らがどんな情報を収集しようとしていたのかということとは別に、身分を偽った訴訟相手の手先による情報収集というそのやりざまのあまりといえばあまりな醜さが、音楽そのものを根本的な次元で台無しにしてしまっている。 音楽から何かを取り出すために、音楽そのものを殺してしまっては元も子もないと思うのだが、ジャスラックはまさにそれをやろうとしている。私にはそのようにしか見えない。 たとえばの話、おたまじゃくしをつかまえたいと思った子供がいたのだとして、私は、あの可憐な生き物を自分の手の中の小さな池で泳がせてみたいと考える童心を、責めようとは思わない。 でも、その子供が、おたまじゃくしをつかまえるために、春の小川にガソリンを流し込んで火をつけたのだとしたら、私は、その子供の行為を決して容認しないだろう。 問題は意図ではない。どんな崇高な意図(音楽を守りたい)に基づいているのだとしても、それを実現するための手段が破壊的であったら、何の意味もない。 野の花を摘むための手段がブルドーザーだったら押し花も恋文も無効になる。当然だ。 シャイロックは、生きている人間から心臓だけを取り出すことができると考えた男だった。 ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか。 抽象的な話になってしまった。結論は無い。各自考えてください。 私の子供時代のピアノの先生は、今年の3月に90歳で亡くなった。 レッスン自体にはあまり良い思い出はないのだが、私の中に根付いたいくばくかのものをもたらしてくれた先生の貢献にはいまでも感謝している。ご冥福をお祈りしたい』、「ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか」、というのは最大限の嫌味だ。JASRACのHPでは事業目的は、「音楽の著作物の著作権を保護し、あわせて音楽の著作物の利用の円滑を図り、もって音楽文化の普及発展に寄与すること」とあるが、著作権保護に偏り過ぎて、最終目的の「音楽文化の普及発展に寄与」が疎かになっているのだろう。
タグ:知的財産 (権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解、小田嶋氏:JASRACは何と戦っているのだろうか) 岸 博幸 ダイヤモンド・オンライン 「権利を守りたい漫画家でさえ反対する「ダウンロード違法化」の最適解」 著作権法改正法案を今国会に提出しようとしましたが、世論の強い反発が収まらずに自民党で法案が了承されず、国会提出は見送られることとなりました 違法コンテンツ対策として2つの柱 1つの柱は違法コンテンツが置かれているウェブサイトのURLをまとめ、ユーザをそれら海賊版サイトに誘導する“リーチサイト”や“リーチアプリ”に対する規制の導入です この点については識者や世論の反発もほとんどありません もう1つの柱であるダウンロード違法化については、弁護士や漫画家といった方々から強い懸念と反対の声が上がり、結果として法案の国会提出が見送られる 今回の法改正では、音楽・映像に限らず違法にアップロードされたすべての著作物をダウンロード違法化の対象としようとしています 不利益を被っているはずの漫画家でさえ反対するのはなぜか すべての文化がそうですが、特に漫画は模倣を通じて発展してきた部分もあることを考えると、漫画家の方々が反対するのもある意味で納得できます やはりダウンロード違法化の対象をすべての著作物に拡大することを基本とした上で、ネット利用などの萎縮を招かないよう、その例外措置も拡充すべきではないでしょうか ダウンロード違法化の最適解はあり得るか 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「JASRACは何と戦っているのだろうか」 音楽著作権 著作権使用料を要求する対象が拡大の一途 「シャイロック、じゃなかったジャスラック」 安倍晋三首相が 立憲民主党の枝野幸男氏について言及する際に、「民主党の」と言い間違えたあとに、あらためて訂正する内容の演説を繰り返しているというニュース 「言い間違い演説」 音楽教室に職員を潜入させることで教室内での音楽の扱われ方を調査する手段を採用 これほどまでにあからさまなスパイ活動を堂々と敢行して恥じない組織が、自分たちの主張に耳を傾けてもらえると信じている姿を、いまはじめて見た気がしている 立証せんとしていたのは、 1.ヤマハの音楽教室では、「音楽」がまるでコンサート会場でそうされているように、生徒によって「鑑賞」され、「享受」され、金銭を媒介する手段として「流通している」 ということなのだろう 訴訟では、現在、教室内で演奏される音楽が、演奏技術を伝えるためのものなのか、それとも「鑑賞目的」なのかという点 もう一つは、教室に通っている生徒が、営利目的で演奏を聴かせる対象としての「公衆」に当たるのかであるからだ 生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入している。その楽譜の出版にあたっては、すでに著作権使用料が支払われている 生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている。これらの音源についても当然のことながら著作権使用料がのせられている その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。 私は疑問に思っている ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている スパイ行為を通じて、彼らがどんな情報を収集しようとしていたのかということとは別に、身分を偽った訴訟相手の手先による情報収集というそのやりざまのあまりといえばあまりな醜さが、音楽そのものを根本的な次元で台無しにしてしまっている ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか 著作権保護に偏り過ぎて、最終目的の「音楽文化の普及発展に寄与」が疎かになっている
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