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コミュニケーション(その2)(伝言板世代が身に付けた「五箇条の御誓文」、「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? "なあなあ"の国・日本が「誇れるもの」もある、【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>) [文化]

コミュニケーションについては、2019年7月7日に取上げた。久しぶりの今日は、(その2)(伝言板世代が身に付けた「五箇条の御誓文」、「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? "なあなあ"の国・日本が「誇れるもの」もある、【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>)である。

先ずは、2020年5月15日付け日経ビジネスオンラインが掲載した現在は亡きコラムニストの小田嶋 隆氏による「伝言板世代が身に付けた「五箇条の御誓文」」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00070/
・『毎日新聞が伝えているところによれば、なんでもJR東神奈川駅の駅員が、 《新型コロナウイルスの感染拡大に伴う休校や外出自粛が長引く中、少しでも明るい気持ちになってもらおう》 ということで、改札の前にあの昔なつかしい黒板の伝言板を設置したのだそうで、これが、好評をもって迎えられているのだという。なるほど。 いきなりのヒマネタだ。やれ新型コロナだ検察庁法改正だで世間の空気が緊迫しているなかで持ち出すには、あまりにも能天気な話題にも思える。でも、「伝言板」というフレーズを何十年ぶりかで見て、いろいろな記憶がよみがえってしまった私の執筆脳は、もはや後戻りができないのだね。 今回は伝言板の話をする。 そもそも、こんなほのぼの系の街ネタがどうして私のアンテナにひっかかったのかというと、週イチで出演しているラジオのディレクターさんが拾ってきてくれたからだ。ディレクター氏は、毎週、私が出演する20分ほどのコーナーのために、トークの材料になりそうな新聞記事やネット上の話題を収集してくれている。ありがたいことだ。ここのところ、私は、気がつくと、その、彼が拾い集めてきたネタをあてにしていたりする。不思議なもので、自力で見つけた記事よりも、他人が発見して集めてきてくれた話題のほうにより強くひきつけられることが多い。あるいはこれは、私自身の世間を見る目が、経年劣化にともなって摩耗していることの表れなのかもしれない。 テレビでもラジオでも、あるいは雑誌、YouTubeでも同じことなのだが、番組なりページなりを制作しているスタッフは、常に有意義な話題や価値のある情報だけをサーチしているわけではない。むしろ、コンテンツの制作にたずさわる人間は、有意義な話や価値を持った情報を受け手にしっかり伝えるためにも、一定量の無駄話(まあ、「余白」ですよね)を希求している。番組枠のすべてがカタくてマジメなネタで埋められていると、視聴者がついてきてくれないし、なによりスタッフ自身が疲弊してしまうからだ。そういう意味でも、 「神奈川県の駅で伝言板が復活していて好評らしいですよ」 式のこぼれ話枠の話題は、貴重なのだ。 瞬間視聴率を採取してみると 「多摩川に流れ着いたアザラシのタマちゃんに地元の区役所から特別住民票が発行されて、このほど授与式がおこなわれました」 みたいな視聴者をバカにしている感じのニュースが、一番数字を稼いでいたりもする。ヒマネタはバカにできない』、小田嶋氏らしい軽妙なタッチだ。懐かしい。
・『私のこの連載にしても、有意義な話題にキャッチアップしようとする書き手の側のリキみが、アダになっている可能性は否定できない。毎度毎度、政局やら政治がらみの話題に拘泥し続けてきたことの結果が、こめかみに青筋を立てた無粋なコメント記入者を蝟集させることにしかなっていなかったのだとしたら、なんともむなしいことだ。 伝言板は、1980年代までに青年時代を過ごした人間にとっては、ある意味で、生命線だった。 もっとも、伝言板というブツを、たぶん40歳より若い世代の人々はリアルには知らないはずだ。仮に知識として知っていたのだとしても、その使われ方と存在意義を、当時の実感とともに想像することは、不可能だろう。 さてしかし、伝言板が昔の若者にとって不可欠なツールだったという言い方は、必ずしも正しい要約ではない。当時であっても伝言板を利用しなかった若者は少なくなかったはずだ。 というよりも、伝言板と無縁な生活を送っていた人々からしてみると、当時の私のような伝言板経由の情報を積極活用しているテの学生は、「いつも大勢でツルんでやがるいけ好かない連中」に見えていたはずだ。 じっさい、伝言板が「リア充(注1)」のための、実に甘ったれたコミュニケーションツールだった側面はどうやっても否定できない。 私自身は、いまの言葉で言う「リア充」の青春を過ごした学生ではなかった。大勢の仲間に囲まれて学生生活を謳歌しているタイプのいわゆる「パリピ(注2)」でもなかった。 ただ、そんな草も生えない二十代を完走した私のような男にも、ひととおりの人との行き来はあったわけで、伝言板経由でたどりつくコンパの席に連なっていたことだって、まるでなかったわけでもない。 まわりくどい書き方をしてしまった。要約すれば、クソ甘ったれた年頃の男女が集まってちいちいぱっぱの青春ごっこをやらかすクソ甘ったれた学生サークルが、週末ごとに開催するクソ甘ったれた飲み会みたいなものの連絡事項をメンバーに広く知らしめるためには、大学の最寄りの駅の伝言板が不可欠だったということを、私は言おうとしている。でもって、その際、コンパ会場のあたりをつけて店の人間と価格交渉をする役割の二年生と、会合の日時と場所を伝言板に書き込みに行く係の一年生がコンビを組むのが通例だったわけなのだが、私は、幾度か、その一年坊の仕事をしたことがあったのである。 こんな些末な青春のメモリーを披露することで、私が読者の皆さんに何をお伝えしようとしているかを、あらかじめお知らせしておく。私は、以下の話を通じて、40年前の学生が、いまの若い人たちとは比べものにならないほど未熟な人間だったということをお知らせしたいと考えている。 「そんな話に何の意味があるんだ?」 と、ぜひ、そう喧嘩腰にならないでいただきたい。 私は、大切な話をしようとしている。 大筋の前提として、私は、自分たちが、日常を充実させるためにコミュニケーションをとっていた時代から、コミュニケーションを充実させるために日常を運営している時代にたどりついてしまったのだというふうに考えている。 で、そのことを立証するひとつの手がかりとして、自分が伝言板を使っていた時代の記憶を、いまこうして引っ張り出してきている次第なのである』、「大筋の前提として、私は、自分たちが、日常を充実させるためにコミュニケーションをとっていた時代から、コミュニケーションを充実させるために日常を運営している時代にたどりついてしまったのだというふうに考えている」、なるほど。
(注1)リア充:現実の生活が充実している
(注2)パリピ:集まって陽気に騒ぐのが好きな若者たち(goo辞書)
・『実際、駅の伝言板が果たしていた役割と、21世紀の必需品たるスマホの機能を比較し、また伝言板を利用していた1970~80年代の若者たちと、スマホとインターネットを駆使している現代の若者たちの情報感度ならびにコミュニケーション能力を見比べることで、自分たちがたどりついてしまったこの時代の意味を明らかにすることができたら、当稿は有意義なテキストになるはずだ。 そんなことが可能なものなのかどうかは、まだわからないが。 さて、伝言板係の一年生は、一応の心構えとして、その日のコンパ情報を外部の悪意ある人間が簡単に読み取れない形式で記述する職責を担っている。 「6時半さかえ通りコマツ先着30人締切:男2000円女子1000円早稲女3000円」 みたいな、あからさまな書き方はよろしくない。鼻の下をのばしたサラリーマンがまぎれこんできたりして、必ずや面倒なことになるからだ。 で、伝言板係としては 「フォーメーション1830清瀧斜め向かいコ◯◯秋のリーグ戦会議」 くらいな、適当にボカした書き方でデータを書き込むわけなのだが、私の場合、生まれ持ったサガゆえに、こういうところでもウケ狙いの一発ネタをもぐりこませずにはおれなかった。のみならず、文体のズラし方も、変に凝りすぎていて、ニブめの学生には伝わらなかったりした。 で、いまの言葉で言えば「炎上」したわけです。 「伝言、まるで意味わかんなかったんだけど」 「青木狼の夕べってどういう意味だ?」 「あれでさかえ通り見つけろってパズルでしょ」 もっとも、オダジマの書き込みに限らず、当時の伝言板に記されていた文字は、ほかの誰かが書いたほかの目的の書き込みも含めて、意味不明なものが多かった。 というよりもあれは、ガチなコミュニケーションツールであるよりは、サルの群れにとってのグルーミングみたいな「じゃれ合い」「もたれ合い」のための場所だった。 交際初期の恋人同士によるあられもない愛の告白 暴走族のツーリング告知 待ちぼうけを食って帰宅する男の愚痴 謎の商材屋集団による謎のマーキング 祈り などなど、関係者以外には解読できない暗号文も含めて、伝言板のメッセージは、情報として要約される以前のコミュニケーションの体温そのものを伝えているテのものが多かった。 これは20世紀の人間が、それほど相互に孤立していたということでもある。 随時の連絡が簡単でなかったからこそ、われわれは、顔を合わせる機会では、おどろくほどベタベタしていた。実家に遊びにきた下宿学生は、夕飯を食べさせても帰ろうとしなかった。というのも、YouTubeもスマホもない時代の下宿学生の夜はどうにも時間のつぶしように困る呪われた空白だったからだ。一事が万事こんなふうで、われわれは、いまの若い人たちが二言目には冷笑する「必死な」「ベタベタした」「お花畑の」「しつこい」人々だった』、「伝言板のメッセージは、情報として要約される以前のコミュニケーションの体温そのものを伝えているテのものが多かった。 これは20世紀の人間が、それほど相互に孤立していたということでもある。 随時の連絡が簡単でなかったからこそ、われわれは、顔を合わせる機会では、おどろくほどベタベタしていた」、その通りだ。
・『伝言板は情報の向きが「一対多」で、なおかつ、書き手と読み手が基本的に匿名だった。それゆえ、書き込まれる情報は、その内容も、拡散方向も、すべてが不確かで曖昧だった。 のみならず、私がときどき利用していた高田馬場駅の伝言板は、内容の如何にかかわらず、3時間だか6時間だかが経過したら必ず消されることになっている、テンポラリー(一時的)な情報空間だった。 ん? とすると、 「基本的に匿名」「発信者は一人。受け手は複数」 時間の経過とともに消える」 って、これ、ツイッターとそっくりではないか。 なるほど。私がこの10年ほどツイッター廃人になっているのもむべなるかな、という話ではある。私は、はるか40年前から、不特定多数相手の匿名発信ネタに異様な情熱を傾ける若者だった。さらにさかのぼれば、ほんの小学生だった時代から、授業中に思いついた小ネタを小さな紙に書いて回し読みさせる作業に熱中している哀れな子供だった。 話を戻す。 大切なポイントは、機能としての伝言板が機能としてのツイッターに似ていることではない。 むしろ現代人たるわれわれが重視せねばならないのは、本来の機能としてはよく似たメディアであるはずの伝言板とツイッターのツールとしての扱われ方が、まるでかけ離れてしまっている現状だ。 たとえば、ツイッターは、登場した当初こそ、そのトラフィックの多くを無邪気なネタ見せ(あるいは大喜利)と、リアルな知り合い同士のグルーミングに費やしていたものだったが、じきに、タイムライン全般を罵倒や中傷やデマやプロパガンダが埋め尽くすようになり、そこから先は、一定のタイミングでやってくる大きな炎上案件を通じて、もっぱらタイムラインで暮らす人間たちにメディア・リテラシーの教育をほどこすアイテムとして、社会に貢献している。 そのツイッターがもたらしているメディア・リテラシー教育とは、おおよそ 「自分の発言には責任を持て」 「不確かな情報をうっかり拡散するな」 「犯罪に結びつく話題にさわるな」 「自他のプライバシー情報をうっかり発信するな」 「思っていることを全部口にするのは子供だぞ」 といったようなお話だ。 「当然じゃないか」 と思う人が多いはずだ。特に若い世代の人々にとっては、私がいまここに挙げたような注意事項は 「いうまでもないこと」 に属する話であるはずだ』、「ツイッターがもたらしているメディア・リテラシー教育とは、おおよそ 「自分の発言には責任を持て」 「不確かな情報をうっかり拡散するな」 「犯罪に結びつく話題にさわるな」 「自他のプライバシー情報をうっかり発信するな」 「思っていることを全部口にするのは子供だぞ」 といったようなお話だ」、なるほど。
・『君たちにぜひ知ってほしいのは、伝言板世代の人間であるわれわれ  オダジマを含めた50歳以上の男たち)にとって、上記の自己責任に基づいたメディア・リテラシーの五箇条の御誓文は、何回か実際に痛い目を見た経験を通じて、やっとのことで身につけて、いやいやながら従っている、およそめんどうくさくもよそよそしいきまりごとに過ぎないということだ。 ことコミュニケーション作法に限った話をすれば、わたくしども20世紀の若者は、今の若い人たちには想像もつかないほど甘ったれた人間たちだった。 われわれは、胸のうちで思ったことをさしたる抵抗なく口に出したものだし、そうすることで起こったトラブルにもおおむね鈍感だった。 「なんだ。やけに神経質なヤツだなあ」 てな調子で自分がひどいことを言ったにもかかわらずにやにや笑っていた。 他人の秘密をあばくことにも、自分のプライバシーを開陳することにも、犯罪告白にもおよそ無頓着だった。 のみならず、昨日言ったこととまるで違うことを今日口に出すことを恥じなかった。ダブルスタンダードなんていう言葉は、そんな言葉があることすら知らなかった。発言の記録が残ることもなかったし、失言一発で職を失うようなリスクとも無縁だったからだ。 だから、学生といわずサラリーマンといわず、昭和の人間たちは、いつも不穏当な失言をしたい放題に発信して、それで問題が起こっても、 「ごめんごめん」 で済ませていた。 「めんご」 という謝罪法さえ開発されていた。これは、 「オレは、本当は反省なんかしていないけど、ここは一応おまえらの顔を立てて謝罪のカタチだけ見せてやることにする。めんごめんご」 というアレで、最近では麻生さんくらいしか使わない奥のテだ。 話を元に戻してそろそろ結論を述べよう。 当稿は、伝言板が、不正確かつ曖昧でどうにも不徹底かつ無責任なクソ甘ったれたコミュニケーションツールであった旨を振り返ったテキストだったわけだが、その理由について、私は、伝言板そのものの機能の貧弱さにその責を求めるべき話ではないと思っている。あれがあんなふうであったのは、われわれがそんなふうであったからだ。つまり、わたくしども20世紀の人間は、少なくともコミュニケーションに関しては、およそ野放図で信用ならない人々であったということだ。 ひるがえって、ツイッターが厄介で剣呑で重箱の隅をつつくみたいで、口うるさくてひがみっぽくてうそつきなのは、それを使っているわれわれがそんなふうな人たちだからであると考えなければならない。 つまり伝言板とツイッターの間にある気の遠くなるような距離は、ツールとしての性質の違いに起因する違いではなくて、どちらかといえば、それらを扱う人間たちのこの40年間の変容を反映しているということだ。 われわれは、賢く、慎重になった。 そして、それ以上に臆病になってもいる。 結果として、昨今の若い人たちは、非常に行き届いたコミュニケーション作法を身につけている。 彼らはなにより、ほとんどまったく他人に甘えていない。感情的になることもないし、バカなことも言わない。出過ぎたマネもしない。いつも冷静な、実にハードボイルドな人たちだと思う。 見ていて、人間としての品質の高さに驚きつつ、ちょっとかわいそうになるときもある。ほんとうのところ、彼らは大丈夫なのだろうか。 ともあれ、最終的にわたくしども21世紀の情報至上主義ピーポーは携帯火炎放射器みたいな情報ツールを使いこなすに足る、極度に慎重な姿勢を身につけるに至っている。あっぱれなことだと思う。 ただ、それでわれわれが幸せになったのかどうかは、誰にもわからない。 私個人としては、伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、いくら支払ってもかまわないと思っている』、「伝言板とツイッターの間にある気の遠くなるような距離は、ツールとしての性質の違いに起因する違いではなくて、どちらかといえば、それらを扱う人間たちのこの40年間の変容を反映しているということだ・・・われわれは、賢く、慎重になった。 そして、それ以上に臆病になってもいる。 結果として、昨今の若い人たちは、非常に行き届いたコミュニケーション作法を身につけている。 彼らはなにより、ほとんどまったく他人に甘えていない。感情的になることもないし、バカなことも言わない。出過ぎたマネもしない。いつも冷静な、実にハードボイルドな人たちだと思う。 見ていて、人間としての品質の高さに驚きつつ、ちょっとかわいそうになるときもある。ほんとうのところ、彼らは大丈夫なのだろうか。 ともあれ、最終的にわたくしども21世紀の情報至上主義ピーポーは携帯火炎放射器みたいな情報ツールを使いこなすに足る、極度に慎重な姿勢を身につけるに至っている。あっぱれなことだと思う・・・私個人としては、伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、いくら支払ってもかまわないと思っている」、「伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、、いくら支払ってもかまわないと思っている」、やはり懐古趣味的なところがあるようだ。

次に、本年3月28日付け東洋経済オンラインが掲載した総合エンターテインメントプロデューサーのつんく♂氏と Mistletoe Founderの 孫 泰蔵氏による対談「「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? "なあなあ"の国・日本が「誇れるもの」もある」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/729691
・『音楽家、プロデューサーのつんく♂さん、連続起業家としてさまざまな事業を手がける孫泰蔵さんの対談。 2023年、つんく♂さんが『凡人が天才に勝つ方法 自分の中の「眠れる才能」を見つけ、劇的に伸ばす45の黄金ルール』、孫泰蔵さんが『冒険の書 AI時代のアンラーニング』をそれぞれ刊行。お互いの著書を読み、仕事論からAI時代の話まで、深い話は尽きることなく盛り上がりました。 今回は、日本と海外の仕事のとらえ方の違いや、そこから生まれるメリット、デメリットについて話し合います。第4回目(全6回)。*この対談の1回目:「仕事で成功するのはプロか天才か?」意外な結論 *この対談の2回目:AI時代「子どもが不登校でも"問題"ない」本当の訳 *この対談の3回目:日本の会社員が「世界中から嫌われる」納得の理由』、興味深そうだ。
・『ネイティブ同士は「なあなあ」「ふわっと」なりやすい  孫:日本は特に同調圧力を感じ取りやすいと思います。 相手を慮って、気を遣い合って……というのは決して悪いことではないけれど、気を遣いすぎた結果、「既存の範疇外のことをしたらまずい」という空気があるんですよね。 つんく♂:たしかに、何をするにも周りを見てから、ですよね。 孫:日本で仕事をしていると、基本的に日本人とばかり会って、日本語でやりとりしますよね。 ネイティブ同士の世界にいると、みなまで言わなくても「いつもの感じでさ。うまくやろうよ」「わかりました。うまくやりますわ」みたいに進むでしょう。 つんく♂:いわゆる「なあなあ」の世界ですね。 孫:外国人がいたら「うまくやりましょうってどういうことですか?」と聞かれますから、きちんと説明しなきゃいけないですよね。 ネイティブ同士の世界だと、ふわっと進んでやりやすい面もあるでしょうが、いざうまくいかないときに、なぜうまくいかないのか、どこを変えたらいいのかが見えないんです。 だから、うまくいかなくても「よくわかんないっすねー」みたいに相変わらずふわっとして、結局、停滞してしまうんですよね』、「日本で仕事をしていると、基本的に日本人とばかり会って、日本語でやりとりしますよね。 ネイティブ同士の世界にいると、みなまで言わなくても「いつもの感じでさ。うまくやろうよ」「わかりました。うまくやりますわ」みたいに進むでしょう。 つんく♂:いわゆる「なあなあ」の世界ですね・・・やりやすい面もあるでしょうが、いざうまくいかないときに、なぜうまくいかないのか、どこを変えたらいいのかが見えないんです。 だから、うまくいかなくても「よくわかんないっすねー」みたいに相変わらずふわっとして、結局、停滞してしまうんですよね」、なるほど。
・『○言い出しっぺが悪者になる世界  つんく♂:うまくいっているときは、「古いやり方はやめよう」「もっといい方法がある」なんて言い出した人が悪者になりますよね。もっとよくしようと思って言っているのに、「あいつが言ったからめんどうくさいことになった」みたいな感じで。 孫:そうですよね。みんな言い出した人のせいにして、「自分は関係ないです」みたいな感じになりがちですよね。そうしたらみんな言わなくなりますよ。言うだけ損だから』、「言い出しっぺが悪者になる世界」とは困ったことだ。
・『アメリカでは、要求しないと水は飲めない  つんく♂:たとえばアメリカ人だってみんながみんな積極的ではないですが、日本のような忖度はありませんよね。 孫:アメリカ人だって気を遣う人もたくさんいるけど、さすがに「それを言うとまずいんじゃないか」という雰囲気までにはならないんですよ。 つんく♂:僕が今住んでいるハワイは「多言語社会」でいろいろな民族がいるから、日本のように「のどが渇いたかも」と言っても飲み物は出てこないんです。ちゃんと「水が1杯ほしい」と言う必要があるわけですよね。 それは気を遣ってくれないわけじゃなくて、いろんな言語の人がいるから、要望があればわかりやすく英語に置き換えて伝える必要がある。日ま本人のようにニュアンスでは通じない。 孫:たしかにそうですね』、「日本のように「のどが渇いたかも」と言っても飲み物は出てこないんです。ちゃんと「水が1杯ほしい」と言う必要があるわけですよね。 それは気を遣ってくれないわけじゃなくて、いろんな言語の人がいるから、要望があればわかりやすく英語に置き換えて伝える必要がある」、その通りだ。
・『○「業者もゆるい」のがハワイカルチャー  つんく♂:反面、ハワイで感じたのは「責任者って誰?」みたいな言葉が伝わらないことです。  ハワイでは「責任者、誰?」が伝わらない  つんく♂:たとえば家にトラブルがあって業者を呼んだとき「これって、どこに責任があるの?」と聞くと、「えっ? じゃあ直さないんですか?」と言われる。 「いや、直すけど、誰が責任をとるの?」「保険会社です」「いやいやお金を払うのは保険会社だけど、このトラブルの責任はどこにあるの?」「いやあ……」というやりとりになるんですよ。 孫:ハワイのカルチャーもあるかもしれませんね。僕もハワイで水道漏れの業者を呼んだら、直せないっていう。「あなたはプラマー(配管工)なのになぜ直せないのか」と聞けば「いや、部品が今ないから」って。 つんく♂:そういうの、めっちゃあります(笑)。 孫:「いつ直るの?」と聞いても「部品が来るまで直らないよね」と言われて、「いや、誰かちゃんと責任持ってよ」と言っても「いや、部品が来るまでは難しいよね」としか言われない(笑)。 孫:たとえばシリコンバレーだと、問題が起こる前に「ここ、ちょっとまずくない?」と言う人が出てきて、「たしかにここは事前に対策しておかないとまずいね」「じゃあ、俺が言い出したから俺がやるわ」という感じです。) つんく♂:その的確さがあるのもシリコンバレー特有な気もします。そうすることで評価されて、報酬もきちんと上がっていくわけですよね』、「「あなたはプラマー(配管工)なのになぜ直せないのか」と聞けば「いや、部品が今ないから」って」、日本でも「部品」がない場合は同様だ。
・『シリコンバレーで「足の引っ張り合い」が少ない理由  孫:シリコンバレーは事業がうまくいけばストックオプションにもろ反映されますから、ボーナス2割アップとかいうレベルじゃなく、将来、何億、何十億という差になっていく。だから足の引っ張り合いじゃなく、全体の利益を考えるんです。 「お前より俺のほうがうまくできる」と思えるなら、積極的に仕事をとりに行く人もいる。そのとき「それは俺の仕事だ。お前にとられる筋合いはない」なんて言われないわけですよ。 「たしかにこの仕事はお前のほうが向いている。じゃあ俺はこっちやるわ」というコラボレーションになる。全体がうまくいけばみんなが潤うことがわかっているからです。 つんく♂:個人のレベルが高いからこそでしょうね。めちゃくちゃうまい人たちが野球をしている感じで、ランナー2塁でピッチャーゴロだったら、誰が捕ってどこに投げるかをチーム全員が脳で考える前に体が完璧にわかっているような。 孫:そうです。そもそもプロフェッショナルな人材が集まっているので、人材を育成しようという雰囲気がないんです。 でも、すごい人たちだらけだから、お互いに学び合うし「それすごいから自分にも教えて」「どうぞどうぞ」、「その件なら知り合いの詳しい人を紹介するよ」「ありがとう」みたいに、自然と高め合っていく感じですよね。) つんく♂:でも、僕が日本っていいなと思うのは、やはり接客力というか「おもてなし文化」ですよ。ホテルや空港、ちょっとしたカフェだってかゆいところに手が届くサービスをしてくれる。あれは世界に誇れるものだと思うんだけどなあ』、「僕が日本っていいなと思うのは、やはり接客力というか「おもてなし文化」ですよ。ホテルや空港、ちょっとしたカフェだってかゆいところに手が届くサービスをしてくれる」、私個人は「おもてなし文化」は余り評価しないが、高く評価する人が多数だろう。
・『日本の「おもてなし文化」は世界に誇れるか!?  孫:他国は接客について重要視していないとか、ホスピタリティにまったく興味がないのかも。だから「僕に言われても困るよ」みたいな感じになりがちですよね。 おもてなし文化とシリコンコンバレーの話でわかるのが、全体的に平均が高いけど突出した人がいない日本と、数少ないすごい人たちが突出して二極化しているアメリカということかもしれませんね。 つんく♂:たしかに、日本人の平均的なレベルは高いですよ。 孫:シリコンバレーを理想とすれば「日本はつまらない」と感じるでしょうし、一方おもてなし文化に感銘を受けると「日本最高」と感じるでしょうね。 おもてなしについては、僕もつんく♂さんと同感です。どちらがいいかと言われると、なんとも言えませんが。 つんく♂:「なあなあ」や過度な忖度はビジネスの世界では悪手でしょうが、一方、日本人の気遣い文化みたいなものも、評価されてほしいですよね。 *この対談の1回目:「仕事で成功するのはプロか天才か?」意外な結論 *この対談の2回目:AI時代「子どもが不登校でも"問題"ない」本当の訳 *この対談の3回目:日本の会社員が「世界中から嫌われる」納得の理由 対談場所:Rinne.bar/リンネバー(お酒を飲みながら、カジュアルにものづくりが楽しめる大人のためのエンタメスポット。廃材など、ゴミになってしまうはずだった素材をアップサイクル作品に蘇らせる日本発のバー』、「「なあなあ」や過度な忖度はビジネスの世界では悪手」、その通りだ。私は「おもてなし」は評価せず、「シリコンバレーを理想」とする方だ。

第三に、3月28日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した元フジテレビアナウンサーの松尾紀子氏による「【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/341218
・『「“自分らしくいること”が、コミュニケーションがうまくいく一番の秘訣」 つい周りに合わせて無理をしてしまったり、自分の言いたいことをうまく言えなかったり…そうして、悩んだ経験はありませんか? 『感じがいい、信頼できる 大人のちょうどいい話し方』は、そんないつも周りを気遣うことのできる人に向けて作られた書籍として注目を集めている。 アナウンサー歴30年超でありながら、実はもともと極度の人見知りで「人前で話すのがずっと苦手」だった著者による、「大人にふさわしい会話のテクニック」が多数掲載されている。 自分と相手が調和するコミュニケーションの秘密がわかる本書。 今回はその中から特別に「相手に端的に意見を伝える方法」を紹介します。 【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>』、興味深そうだ。
・『「リアクション」の達人になろう  相手に心地よく話してもらう最大のコツ。それは、「リアクション」です。 これは、声を大にして言いたいくらい重要です。自分は話し下手だと思っている人は、まずリアクションの達人を目指しましょう。 たとえばあなたが話している時、相手がお地蔵様のように無表情で何も反応しなかったらどうでしょう。「私の話、大丈夫かな」と不安になりますよね。まして、目も合わせてくれなかったら「怒っているのかも」と心配になります』、「まずリアクションの達人を目指しましょう」、意外な感もあるが、よくよく考えれば、「相手」が話易くすることも必要だ。
・『気の利いた言葉が出なくても気持ちが伝われば大丈夫  世の中にはさまざまな「リアクション」の方法があふれていますが、実はどんな言葉でも、相手を心から思い、発した言葉は人の支えになる力を持っているのです。 特に言葉がなくても、「気にかけている」と示すだけでも十分なときがあります。 以前、友人のお母様が急逝した時のこと。どれほどのショックか、彼女の胸中を思うとそっとしておくべきかと迷いましたが、やはり電話だけでも……と思い切って連絡を取ってみました。しかし私は、電話口で泣く彼女に対して何も言うことができませんでした。ただ「本当に寂しいね」と、私も一緒に涙することしかできなかったのです。 しかしその友人は、会うといまだに「あの時、一緒に泣いてくれたことは今でも忘れられない。感謝している」と言ってくれます』、これは女性ならではの武器で、男性の場合は通用しないだろう。
・『言葉は「気持ち」を伝えるもの  気の利いた言葉や名言を言えなくてもいいのです。相手の気持ちに寄り添い、そこから出た一言が人を助けることもあります。 大切なのは、あなたを思っているという気持ちを自分なりの言葉で伝えていくこと。言葉は気持ちを伝えるツールに過ぎません。大切なのは、必ずしも何か気の利いた言葉やリアクションだけではなく、自分と相手が、ちょうどよく調和するコミュニケーションなのです。 (本記事は、『感じがいい、信頼できる 大人のちょうどいい話し方』の一部を抜粋・編集・加筆したものです)』、「大切なのは、必ずしも何か気の利いた言葉やリアクションだけではなく、自分と相手が、ちょうどよく調和するコミュニケーションなのです」、その通りなのだろう。
タグ:コミュニケーション (その2)(伝言板世代が身に付けた「五箇条の御誓文」、「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? "なあなあ"の国・日本が「誇れるもの」もある、【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>) 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆氏による「伝言板世代が身に付けた「五箇条の御誓文」」 小田嶋氏らしい軽妙なタッチだ。懐かしい。 「大筋の前提として、私は、自分たちが、日常を充実させるためにコミュニケーションをとっていた時代から、コミュニケーションを充実させるために日常を運営している時代にたどりついてしまったのだというふうに考えている」、なるほど。 (注1)リア充:現実の生活が充実している (注2)パリピ:集まって陽気に騒ぐのが好きな若者たち(goo辞書) 「伝言板のメッセージは、情報として要約される以前のコミュニケーションの体温そのものを伝えているテのものが多かった。 これは20世紀の人間が、それほど相互に孤立していたということでもある。 随時の連絡が簡単でなかったからこそ、われわれは、顔を合わせる機会では、おどろくほどベタベタしていた」、その通りだ。 「ツイッターがもたらしているメディア・リテラシー教育とは、おおよそ 「自分の発言には責任を持て」 「不確かな情報をうっかり拡散するな」 「犯罪に結びつく話題にさわるな」 「自他のプライバシー情報をうっかり発信するな」 「思っていることを全部口にするのは子供だぞ」 といったようなお話だ」、なるほど。 「伝言板とツイッターの間にある気の遠くなるような距離は、ツールとしての性質の違いに起因する違いではなくて、どちらかといえば、それらを扱う人間たちのこの40年間の変容を反映しているということだ・・・われわれは、賢く、慎重になった。 そして、それ以上に臆病になってもいる。 結果として、昨今の若い人たちは、非常に行き届いたコミュニケーション作法を身につけている。 彼らはなにより、ほとんどまったく他人に甘えていない。感情的になることもないし、バカなことも言わない。出過ぎたマネもしない。いつも冷静な、実にハードボイルドな人たちだと思う。 見ていて、人間としての品質の高さに驚きつつ、ちょっとかわいそうになるときもある。ほんとうのところ、彼らは大丈夫なのだろうか。 ともあれ、最終的にわたくしども21世紀の情報至上主義ピーポーは携帯火炎放射器みたいな情報ツールを使いこなすに足る、極度に慎重な姿勢を身につけるに至っている。あっぱれなことだと思う・・・ 私個人としては、伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、いくら支払ってもかまわないと思っている」、「伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、、いくら支払ってもかまわないと思っている」、やはり懐古趣味的なところがあるようだ。 東洋経済オンライン つんく♂氏 孫 泰蔵氏による対談「「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? "なあなあ"の国・日本が「誇れるもの」もある」 「日本で仕事をしていると、基本的に日本人とばかり会って、日本語でやりとりしますよね。 ネイティブ同士の世界にいると、みなまで言わなくても「いつもの感じでさ。うまくやろうよ」「わかりました。うまくやりますわ」みたいに進むでしょう。 つんく♂:いわゆる「なあなあ」の世界ですね・・・やりやすい面もあるでしょうが、いざうまくいかないときに、なぜうまくいかないのか、どこを変えたらいいのかが見えないんです。 だから、うまくいかなくても「よくわかんないっすねー」みたいに相変わらずふわっとして、結局、停滞してしまうんですよね」、なるほど。 「言い出しっぺが悪者になる世界」とは困ったことだ。 「日本のように「のどが渇いたかも」と言っても飲み物は出てこないんです。ちゃんと「水が1杯ほしい」と言う必要があるわけですよね。 それは気を遣ってくれないわけじゃなくて、いろんな言語の人がいるから、要望があればわかりやすく英語に置き換えて伝える必要がある」、その通りだ。 「「あなたはプラマー(配管工)なのになぜ直せないのか」と聞けば「いや、部品が今ないから」って」、日本でも「部品」がない場合は同様だ。 「僕が日本っていいなと思うのは、やはり接客力というか「おもてなし文化」ですよ。ホテルや空港、ちょっとしたカフェだってかゆいところに手が届くサービスをしてくれる」、私個人は「おもてなし文化」は余り評価しないが、高く評価する人が多数だろう。 「「なあなあ」や過度な忖度はビジネスの世界では悪手」、その通りだ。私は「おもてなし」は評価せず、「シリコンバレーを理想」とする方だ。 ダイヤモンド・オンライン 松尾紀子氏による「【気の利いた言葉が言えない】人がコミュニケーションで軽視している超大事なこと<元フジ女子アナが教える>」 「まずリアクションの達人を目指しましょう」、意外な感もあるが、よくよく考えれば、「相手」が話易くすることも必要だ。 これは女性ならではの武器で、男性の場合は通用しないだろう。 「大切なのは、必ずしも何か気の利いた言葉やリアクションだけではなく、自分と相手が、ちょうどよく調和するコミュニケーションなのです」、その通りなのだろう。
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