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歴史問題(その19)(満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」、コロポックルの住居か?日本のカッパドキアか?219の穴がひしめく 埼玉「吉見百穴」の真相【内部写真あり】 各地の奇景をめぐる旅、縄文人と弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?) [社会]

歴史問題については、本年1月21日に取上げた。今日は(その19)(満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」、コロポックルの住居か?日本のカッパドキアか?219の穴がひしめく 埼玉「吉見百穴」の真相【内部写真あり】 各地の奇景をめぐる旅、縄文人と弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?)である。

先ずは、本年1月23日付け現代ビジネス「満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/122826?imp=0
・『アヘン密売組織を結成し、満洲帝国を支えた  満洲事変、日中戦争、太平洋戦争と続いた昭和の戦乱下、満洲国を「裏工作」で支えたフィクサーがいた。「上海のアヘン王」と呼ばれた里見甫だ。 策謀渦巻く中国大陸で禁じられていたアヘン密売に手を染め、日本軍に資金を提供した。その収益は現在の紙幣価値で30兆円にも上るとされている。先の戦争における重要人物であるものの、里見が極端な秘密主義を貫いたこともあり、その「功罪」はあまり知られていない。謎に包まれた彼の生涯を紐解いていこう。 1896年に炭鉱医の子として生まれた里見は、福岡県・修猷館中学に通っていたときに来日中の革命家・孫文と交流した。この出会いをきっかけに、のちに「大東亜共栄圏」建設の大志を強く抱くようになる。 中学卒業後は上海にある東亜同文書院に留学し、中国語を習得。それから貿易会社を経て、在中邦人向けの新聞社に入る。この時期に蒋介石など中国要人や石原莞爾など関東軍の参謀の知遇を得た。 「里見は記者時代に取材活動で軍人や官吏、実業家のみならず裏社会の人間との繋がりを作っていました。彼の情報収集能力や人脈に目をつけたのが関東軍だったのです」(ノンフィクション作家の斎藤充功氏)』、「里見」氏の「情報収集能力や人脈に目をつけたのが関東軍」、さすが「関東軍」の目のつけどころは確かだ。
・『満州事変での里見  1931年に満洲事変が勃発すると関東軍に対満政策を担当する部署が組織され、里見は嘱託として採用された。そこでプロパガンダ活動を目的とした「満洲国通信社」を設立したことを軍部から評価され、'37年に上海で「アヘン売買」を依頼されるようになる。 軍需国策会社「昭和通商」が中東などから密輸したアヘンは、里見が実権を握る商社「宏済善堂」を通じて中国の犯罪組織「青幇」に流れ、末端のアヘン窟で売り捌かれる。この流通ネットワークは「里見機関」と呼ばれる。アヘンで生み出された裏金は関東軍の戦費に充てられ、一部は傀儡政権の汪兆銘南京政府へと流れていった。裏社会とパイプがある里見でなくては、成り立たないビジネスだったことは間違いない。 「アヘンは中毒性が高く利益率が良い。密売の利益がなかったら、関東軍の謀略工作は規模を縮小せざるを得なかったと思います」(斎藤氏) 稼いだ資金は日本軍に渡っても余るほどの巨額だったが、カネに関心のない里見は自らの私利私欲のためには使わなかったという。 一方で、無類の女好きとして知られている。酒を飲めないのに、上海の日本人租界にあるナイトクラブに出入りして、大好物のハムエッグをつつきながら女の子を口説いていた。 様々な顔を持っていたアヘン王・里見。その存在は、敗戦を機に明るみに出る』、「アヘンで生み出された裏金は関東軍の戦費に充てられ、一部は傀儡政権の汪兆銘南京政府へと流れていった。裏社会とパイプがある里見でなくては、成り立たないビジネスだったことは間違いない」、「関東軍」がこんな形で「戦費」を調達していたとは初めて知った。「稼いだ資金は日本軍に渡っても余るほどの巨額だったが、カネに関心のない里見は自らの私利私欲のためには使わなかったという」、大したものだ。
・『A級戦犯として東京裁判に現れた「アヘン王」  終戦後、着の身着のままで帰国した里見は京都や東京で潜伏生活を送っていた。だが、'46年3月に民間人初のA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。 国際検察局(IPS)から取り調べを受けるなかで、里見に連なる「上海人脈」が詳らかになった。笹川良一や児玉誉士夫、阪田誠盛など戦後を代表するフィクサーの名前を挙げたほか、岸信介や甘粕正彦といった大物とも深く関わっていたことも明かしている。 その後、東京裁判に出廷して証言を行った里見だが、不起訴となり無条件で釈放されている。 この理由について、前出の斎藤氏はこう推測する。 「里見を起訴して中国のアヘン事情を追及すれば、戦勝国の一員である国民党の蒋介石政権とアヘンの関係にまで、踏み込まざるを得ません。当時、国民党は毛沢東率いる中国共産党と内戦の真っ只中です。アメリカは国民党を支援していたため、追及を避けたように考えられます」 里見の宏済善堂から流れたアヘンは、当時日本と敵対していた国民党政権にも渡っていたのだ。彼のアヘン利権がどれほど巨大だったかが窺えるエピソードだ。 だが、波乱に満ちた戦時中とは打って代わって、戦後の里見は社会の片隅でひっそりと暮らすようになる』、「東京裁判に出廷して証言を行った里見だが、不起訴となり無条件で釈放されている」、その理由は、「里見を起訴して中国のアヘン事情を追及すれば、戦勝国の一員である国民党の蒋介石政権とアヘンの関係にまで、踏み込まざるを得ません。当時、国民党は毛沢東率いる中国共産党と内戦の真っ只中です。アメリカは国民党を支援していたため、追及を避けたように考えられます」、悪運の強さには驚かされる。
・『戦後は静謐な生き方を選んだ  「終戦直後、父は自決することを考えていたようです。国家に対する奉仕を信条として、『大東亜共栄圏の建設』という大義のために命を張ったとはいえ、戦線拡大の一翼を担ったことに責任を感じていたのではないでしょうか」 こう振り返るのは、里見が63歳のときの子である長男の泰啓氏だ。里見は自らの行いは、いかなる弁解も許されないとして、身をつつしみ余生を過ごした。 「戦中に培った人脈を使って、戦後にまで暗躍することを毛嫌いしていました。児玉誉士夫さんや笹川良一さんのことを『俺はみっともなくて、あんな風にはなれないよ』とこぼしていたそうです」(泰啓氏) 釈放後は専門商社を構え、アジア諸国とODA(政府開発援助)に関わるビジネスに精を出した。たびたび訪中し、中国要人とは繋がりを持ち続けていたという。私生活では、神楽坂の小さな一軒家に住み、泰啓氏の幼稚園の送り迎えを欠かさず行うなど息子を溺愛し続ける日々を送っていた。 「自宅には笹川さんをはじめ多くの財界人が相談に来ていました。かといって派手な暮らしをしていた訳ではありません。金銭に執着がなかったので、里見家の生活は質素でした」(泰啓氏) '65年、家族と団欒中に心臓麻痺に襲われ里見は亡くなる。中国からは周恩来や蒋介石から弔電が届いた。 千葉にある墓の墓碑銘は岸信介が揮毫したものだ。加えて、碑の撰文には以下のように書かれている。 〈凡俗に堕ちて凡俗を超え 名利を追って名利を絶つ 流れに従って波を掲げ 其の逝く処を知らず〉 上海のアヘン王は、まさに撰文通りの生涯を送った』、「里見は自らの行いは、いかなる弁解も許されないとして、身をつつしみ余生を過ごした。 「戦中に培った人脈を使って、戦後にまで暗躍することを毛嫌いしていました。児玉誉士夫さんや笹川良一さんのことを『俺はみっともなくて、あんな風にはなれないよ』とこぼしていたそうです」、いさぎよさにも驚かされた。死んだ時に、「中国からは周恩来や蒋介石から弔電が届いた」、とは大したものだ。

次に、3月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したフリーライターの友清 哲氏による「コロポックルの住居か?日本のカッパドキアか?219の穴がひしめく、埼玉「吉見百穴」の真相【内部写真あり】 各地の奇景をめぐる旅」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/340391
・『斜面に広がる、おびただしい数の穴。まるでトルコのカッパドキアを思わせる奇妙な風景が、埼玉県にある。江戸時代から観光名所としてにぎわったという「吉見百穴」だ。これは一体何なのか?明治時代にはまことしやかにコロポックル(アイヌの伝承に残る小型の民族)の住居跡だと指摘されていたが、果たしてその正体は――』、興味深そうだ。
・『明治20年、東大の教授が発掘調査に着手  「吉見百穴」について初めて本格的な調査が行なわれたのは、明治20(1887)年のことだ。 後に日本の人類学の先駆者として名をはせる坪井正五郎が、帝国大学(現東京大学)大学院の卒業論文の題材として発掘調査に着手したのがその端緒である。この時、周辺から人骨や土器類などが多数出土するなど、考古学的に大きな成果が得られたという。 岩壁に連なるおびただしい数の穴は古墳時代後期(6~7世紀)に掘られたもので、直径はいずれもおよそ1メートル。その数は今のところ219基とされているが、未発見の横穴が残っている可能性も指摘されている。 この吉見百穴が秀逸なのは、主だった穴が防護柵などで遮断されることなく開放されており、中に入れることである。しゃがんだ姿勢でくぐらなければならない入口のサイズと比べて内部は広く、成人男性が中腰で立てる程度の高さがあり、室内の形状は四角形や台形、円形などさまざまだ。 室内には10~20cmほどの段で囲われた、ベッドのようなスペースが1つもしくは2つ設えられていて、何やら生活感めいたものを感じさせる。 これは一体何なのか? 周辺に古代人の生活の痕跡が多数見つかっていることからすれば、当時何らかの目的をもって造られたものであるのは間違いないのだろう。しかし、住居とするにはサイズがあまりにも小さ過ぎるのだ』、「吉見百穴が秀逸なのは、主だった穴が防護柵などで遮断されることなく開放されており、中に入れることである。しゃがんだ姿勢でくぐらなければならない入口のサイズと比べて内部は広く、成人男性が中腰で立てる程度の高さがあり、室内の形状は四角形や台形、円形などさまざまだ。 室内には10~20cmほどの段で囲われた、ベッドのようなスペースが1つもしくは2つ設えられていて、何やら生活感めいたものを感じさせる。 これは一体何なのか?」、確かに何なのだろう。
・『飛び出した「コロポックル」の住居説  調査に当たった坪井正五郎の見解によれば、これは「コロポックル」の住居跡なのだという。 コロポックルとは、アイヌ民族の間で伝えられる小人のことだ。アイヌ語の発音の関係で、コロボックルともいう。その語源は“フキの下の人”を意味するアイヌ語にあり、今日では伝承上の非実在民族とされているが、昭和前期には宮本百合子や宇野浩二など、名だたる創作家たちが物語の題材に用い、寓話的な認知を得た。 しかし、時は明治の世。アイヌ以前の先住民族としてコロポックル論争が白熱する中、坪井正五郎は吉見百穴の調査を経て、日本にはもともと小型の民族が存在し、それを後からやって来たアイヌが北方へ駆逐したとの説を後押しした。 確かに、実際に穴の中に潜ってみれば、そこで小さな民族たちが暮らした様子は想像しやすい。これが無数のシングルルーム、ツインルームが集合する巨大住宅であったなら、往時はさぞにぎやかで楽しい集落だったことだろう。 しかし、このコロポックルの住居説は、時代とともに立ち消えていく。そもそも小型民族の実在が学術的に証明されることがなかったからで、近代に至る研究の中で、アイヌは縄文人の血を色濃く受け継いでいることが判明している』、「コロポックルの住居説は、時代とともに立ち消えていく。そもそも小型民族の実在が学術的に証明されることがなかったからで、近代に至る研究の中で、アイヌは縄文人の血を色濃く受け継いでいることが判明している」、なるほど。
・『真相に隠された古代人の秀逸な知恵  結論を言ってしまえば、吉見百穴の正体は、古墳時代に設けられた大規模な横穴墓群である。段で囲われたベッドのようなスペースは遺体を安置した場所で、複数の遺体を納められる構造を採っていることから、穴ごとに家族単位で埋葬された可能性も指摘されている。 ちなみに、横穴墓とは読んで字のごとし、横方向に掘った穴を墳墓とするもので、古代人の歴史的な発明の一つである。これより以前、3~4世紀に造られた墳墓は、地面を垂直に掘って遺体を安置し、埋めてふたをする縦穴式だった。しかしこの構造には、一度遺体を埋葬した後に、再び中へ立ち入ったり次の遺体を追加で埋葬したりするのが難しいというデメリットがあった。 そこで、盛られた土を横から掘って埋葬スペースを造り、扉を付けて開閉する仕様にアレンジすることで、同じ墳墓に後から他者を追葬できるよう工夫がされた。これが横穴墓である。 実際、この吉見百穴では穴の入り口部分に石のふたが立てられ、造営後の出入りを可能にする構造が確認されている。つまり吉見百穴は、墳墓の進化の変遷をたどる貴重な遺構でもあるのだ。 なお、斜面に並ぶ穴は、西から東へ行くほど整然と並んでいる。これは横穴群が西側から掘られ、次第に設計がブラッシュアップされていったことを意味している。 また、下層にある穴より上層にある穴の方が広く、穴と穴の間隔がゆったりと設計されている。これが埋葬される人物の身分の差によるものなのか、それとも単に年代や地質の都合によるものなのかは今のところ判明していない』、「盛られた土を横から掘って埋葬スペースを造り、扉を付けて開閉する仕様にアレンジすることで、同じ墳墓に後から他者を追葬できるよう工夫がされた。これが横穴墓である。 実際、この吉見百穴では穴の入り口部分に石のふたが立てられ、造営後の出入りを可能にする構造が確認されている。つまり吉見百穴は、墳墓の進化の変遷をたどる貴重な遺構でもあるのだ」、なるほど。
・『古墳王国・埼玉には3114もの埋蔵文化財 吉見百穴を超える横穴墓群も  コロポックルの住居であるとする説には一定のロマンを感じるものの、令和の視点からすれば、学術的に無理があるのは自明。それでも吉見百穴が古代の貴重な物証であることに変わりはなく、大正12(1923)年には国指定史跡に認定されている。 埼玉県は知る人ぞ知る古墳王国で、文化庁の調べによれば、今日までに3114もの埋蔵文化財が確認されている。現代人が暮らしやすい地形は古代人にとっても同様で、今も昔も多くの人々がこの近隣で生活していたわけだ。 だからおそらく、こうした横穴墓群は吉見百穴だけではないはずだ。現に、同じ吉見町内では他に、「黒岩横穴墓群」が見つかっている。まだ吉見百穴の正体が定かではなかった明治10(1877)年に、地域の有志によって発掘された横穴墓群だ。 通年、観光客でにぎわう吉見百穴とは対照的に、八丁湖という人工沼のほとりにひっそりと眠る黒岩横穴墓群は、発掘当時は16基の穴が確認されていたが、その後の調査により、これまで30基以上の横穴墓の存在が明らかになっている。 明治時代にはオーストリア公使のヘンリー・シーボルトや、大森貝塚の発見者として名高いエドワード・モースが視察にこの地を訪れるなど、歴史的価値は早くから認められ、こちらも大正14(1925)年には埼玉県の史跡に指定された。 ただ、案内板こそ一応用意されているものの、吉見百穴のように整備されておらず、訪れる人もほぼいない。そのため入り口は生い茂る雑草に覆われてしまっている。 そのせいなのか、周辺にはどうにも近寄り難い雰囲気があり、やぶの深さと相まって筆者もこちらは穴の内部までは確認できていない。 資料によれば、黒岩横穴墓群はこの一帯の百穴谷、首切り谷、地獄谷、茶臼谷、神代谷の5カ所に分布しているそうで、そのおどろおどろしい地名が何やら意味深い。地名は何らかの由来を持つものだから、吉見百穴が「陽」なら、こちらは「陰」の横穴墓群なのかもしれない。 現在までに発掘されている30基の穴は、実は黒岩横穴墓群のごく一部に過ぎず、一説によると、未発掘の穴がこの一帯に500基以上も埋没しているという。人が立ち入らないため、吉見百穴よりもはるかに良好な状態のまま保存されているそうで、本格的な調査が進めばさらに貴重な遺物が見つかるかもしれない。いつの日か、その全容が明らかにされる時を心待ちにしたい』、「現在までに発掘されている30基の穴は、実は黒岩横穴墓群のごく一部に過ぎず、一説によると、未発掘の穴がこの一帯に500基以上も埋没しているという。人が立ち入らないため、吉見百穴よりもはるかに良好な状態のまま保存されているそうで、本格的な調査が進めばさらに貴重な遺物が見つかるかもしれない。いつの日か、その全容が明らかにされる時を心待ちにしたい』、「いつの日か、その全容が明らかにされる時」、私も楽しみに「心待ちにしたい」。

第三に、.4月14日付け東洋経済オンラインが掲載した国立科学博物館長の篠田 謙一 氏による「縄文人と弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/741996
・『「えっ?最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。 2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします』、興味深そうだ。
・『日本人の起源はどうなのか  ゲノム研究の発展以前は、日本人の起源も発掘された人骨の形態をもとに研究され、日本列島集団には2つの大きな特徴があると考えられてきました。 1つ目は、縄文時代と弥生時代という時代が異なる人骨の間の明確に認識できる違い。2つ目は、北海道のアイヌ集団と、琉球列島集団、本州・四国・九州を中心とした本土日本人という3つの集団に姿形に区別しうる特徴があることです。 このような違いを説明する原理として、「二重構造モデル」という学説が定説とされてきました。 この学説は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。 しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています』、「二重構造モデル」、とは「旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。 しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています」、なるほど。
・『「二重構造モデル」の限界  二重構造モデル」は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進入した集団を基層集団(縄文人)とし、その後、新石器時代に北東アジアから朝鮮半島経由で渡来した集団(弥生人)が入ってきたという単一的な視点が特徴です。 縄文人と弥生人という枠(「二重構造モデル」では、東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。 弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています。 つまり、縄文人と弥生人の違いは、集団の由来が異なることに起因するという単一的な視点で説明しているのです』、「東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。 弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています」、なるほど。
・『地域ごとに集団形成の過程が異なる!  地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています。 「地域」という視点の重要性(下の図は、都道府県別の核ゲノムSNP解析を表したもので、近畿・四国などの本土日本の「へそ」の部分と、九州や東北の間に違いが見えます(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。 畿内(きだい)を中心とした地域では、渡来系集団の遺伝的な影響が強く、周辺域では縄文人の遺伝的な影響が強く残っており、それを敷衍(ふえん)して、北海道と琉球列島では縄文系の比率が高いはずだと考えるのが二重構造モデル。) しかし、「縄文人」や「弥生人」といった枠が先にあり、地域ごとの歴史や集団の成立過程を考える発想がありません。(核ゲノムの都道府県別SNP解析 の図はリンク先参照)』、「地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています」、なるほど。
・『ホモ・サピエンスはいつ日本へ?  3つの異なる文化系統(日本列島にホモ・サピエンスがやってきたのは約4万年前。 二重構造モデルでは、彼らが均一な形質の縄文人となって列島内に広がったと仮定されていますが、ゲノム解析によって、縄文人はさまざまな地域から入ってきた集団であり、地域によって遺伝的特徴が異なる集団が居住していたことがわかってきました。 下の図は、日本列島における3つの異なる文化系統です。地域が違えば、歴史も文化も異なり、集団の成立過程にも大きな違いがあるのは自然なことといえるでしょう。 (日本列島の3つの異なる文化系統の図はリンク先参照)) 日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代。旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません』、「日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代。旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません」、なるほど。
・『海を渡ってやってきた旧石器時代人  日本列島への流入のルートとして考えられるのは主に3つ。朝鮮半島から対馬を経由してくるルート、台湾から琉球列島を渡るルート、シベリアから北海道を通るルートです。 この時期は最終氷期に当たるため、現在より海水面が低く、本州や九州、四国、沖縄には船で渡ってきたものと考えられます。 二重構造モデルでは、縄文人は均一な集団と考えられてきましたが、ミトコンドリアDNAの解析によると、旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団で形成され、遺伝的特徴が異なる集団が居住していたようです。 (3つのルートの図はリンク先参照)
 日本列島内には、旧石器時代の遺跡は1万箇所ほどありますが、人骨は琉球列島以外ではほとんど見つかっていません。沖縄本島や石垣島で発見された人骨は、ミトコンドリアDNAの分析が行われ、旧石器時代人の系統などが明らかになっています。 遺跡や沖縄の化石人骨のデータ(琉球列島の主な旧石器時代遺跡としては、「港川遺跡」「サキタリ洞遺跡」「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」「山下町洞穴遺跡」などがあり、近年旧石器時代の人骨が続々と見つかっています。 ちなみに、現在のところ琉球列島以外の旧石器時代の人骨は静岡県の根堅(ねがた)遺跡のものだけ。 港川人以外は、まだ次世代シークエンサを使った解析は行われていませんが、ゲノム情報を得ることができれば、琉球列島の人類史の解明に新たな展開をもたらすことができるはずです。) 沖縄の旧石器人は滅んでしまった可能性も?(沖縄本島で発見された約2万年前の人骨「港川1号」は、次世代シークエンサを用いたミトコンドリアDNAの解析も行われています。この人物は現代人につながらずに消滅した系統であると考えられています。 実は、琉球列島集団の現代人を対象とした大規模なゲノム解析によって、沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています。 この結果は、港川人のミトコンドリア系統が現代人につながらないとする解釈と整合性があります』、「沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています」、なるほど。
・『縄文人の地域差が意味するものとは?  形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。 さまざまな地域から入ってきた集団(縄文人のミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。 一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。 現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます。 (縄文人の主なミトコンドリア系統 の図はリンク先参照) (現代日本人と縄文人のミトコンドリアDNAハプログループ割合の比較 の図はリンク先参照)』、「形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。 さまざまな地域から入ってきた集団(縄文人のミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。 一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。 現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます」、「ミトコンドリアDNA」は母性をたどることしかできないとはいえ、現状では最適な方法だ。 
タグ:「里見」氏の「情報収集能力や人脈に目をつけたのが関東軍」、さすが「関東軍」の目のつけどころは確かだ。 現代ビジネス「満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」」 (その19)(満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」、コロポックルの住居か?日本のカッパドキアか?219の穴がひしめく 埼玉「吉見百穴」の真相【内部写真あり】 各地の奇景をめぐる旅、縄文人と弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?) 歴史問題 「アヘンで生み出された裏金は関東軍の戦費に充てられ、一部は傀儡政権の汪兆銘南京政府へと流れていった。裏社会とパイプがある里見でなくては、成り立たないビジネスだったことは間違いない」、「関東軍」がこんな形で「戦費」を調達していたとは初めて知った。「稼いだ資金は日本軍に渡っても余るほどの巨額だったが、カネに関心のない里見は自らの私利私欲のためには使わなかったという」、大したものだ。 「東京裁判に出廷して証言を行った里見だが、不起訴となり無条件で釈放されている」、その理由は、「里見を起訴して中国のアヘン事情を追及すれば、戦勝国の一員である国民党の蒋介石政権とアヘンの関係にまで、踏み込まざるを得ません。当時、国民党は毛沢東率いる中国共産党と内戦の真っ只中です。アメリカは国民党を支援していたため、追及を避けたように考えられます」、悪運の強さには驚かされる。 「里見は自らの行いは、いかなる弁解も許されないとして、身をつつしみ余生を過ごした。 「戦中に培った人脈を使って、戦後にまで暗躍することを毛嫌いしていました。児玉誉士夫さんや笹川良一さんのことを『俺はみっともなくて、あんな風にはなれないよ』とこぼしていたそうです」、いさぎよさにも驚かされた。死んだ時に、「中国からは周恩来や蒋介石から弔電が届いた」、とは大したものだ。 ダイヤモンド・オンライン 友清 哲氏による「コロポックルの住居か?日本のカッパドキアか?219の穴がひしめく、埼玉「吉見百穴」の真相【内部写真あり】 各地の奇景をめぐる旅」 「吉見百穴が秀逸なのは、主だった穴が防護柵などで遮断されることなく開放されており、中に入れることである。しゃがんだ姿勢でくぐらなければならない入口のサイズと比べて内部は広く、成人男性が中腰で立てる程度の高さがあり、室内の形状は四角形や台形、円形などさまざまだ。 室内には10~20cmほどの段で囲われた、ベッドのようなスペースが1つもしくは2つ設えられていて、何やら生活感めいたものを感じさせる。 これは一体何なのか?」、確かに何なのだろう。 「コロポックルの住居説は、時代とともに立ち消えていく。そもそも小型民族の実在が学術的に証明されることがなかったからで、近代に至る研究の中で、アイヌは縄文人の血を色濃く受け継いでいることが判明している」、なるほど。 「盛られた土を横から掘って埋葬スペースを造り、扉を付けて開閉する仕様にアレンジすることで、同じ墳墓に後から他者を追葬できるよう工夫がされた。これが横穴墓である。 実際、この吉見百穴では穴の入り口部分に石のふたが立てられ、造営後の出入りを可能にする構造が確認されている。つまり吉見百穴は、墳墓の進化の変遷をたどる貴重な遺構でもあるのだ」、なるほど。 「現在までに発掘されている30基の穴は、実は黒岩横穴墓群のごく一部に過ぎず、一説によると、未発掘の穴がこの一帯に500基以上も埋没しているという。人が立ち入らないため、吉見百穴よりもはるかに良好な状態のまま保存されているそうで、本格的な調査が進めばさらに貴重な遺物が見つかるかもしれない。いつの日か、その全容が明らかにされる時を心待ちにしたい』、「いつの日か、その全容が明らかにされる時」、私も楽しみに「心待ちにしたい」。 東洋経済オンライン 篠田 謙一 氏による「縄文人と弥生人で分けられない「日本人のルーツ」 祖先はいつ、どうやって日本列島へやってきた?」 『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一 『図解版 人類の起源』 「二重構造モデル」、とは「旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。 しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています」、なるほど。 「東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。 弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています」、なるほど。 「地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています」、なるほど。 「日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代。旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません」、なるほど。 「沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています」、なるほど。 「形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。 さまざまな地域から入ってきた集団(縄文人のミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。 一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。 現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます」、「ミトコンドリアDNA」は母性をたどることしかできないとはいえ、現状では最適な方法だ。
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