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リニア新幹線(その9)(「知性格差」5題:早稲田を出てオックスフォード大学で博士号を取得…静岡・川勝知事「職業差別」発言に隠された日本の「知性格差」という問題、「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」、日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態、「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年 GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証、多くの日本人は「確 [産業動向]

リニア新幹線については、本年1月4日に取上げた。今日は、(その9)(「知性格差」5題:早稲田を出てオックスフォード大学で博士号を取得…静岡・川勝知事「職業差別」発言に隠された日本の「知性格差」という問題、「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」、日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態、「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年 GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証、多くの日本人は「確率」という概念を正しく理解できない…日本社会にひそむ「教育水準の格差」の現実)である。明日は、川勝知事に関連したテーマを取上げる予定である。

先ずは、4月12日付け現代ビジネスが掲載した佐藤 喬氏による「早稲田を出てオックスフォード大学で博士号を取得…静岡・川勝知事「職業差別」発言に隠された日本の「知性格差」という問題」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/127652?imp=0
・『「差別発言」の内容を分解してみると…  静岡県の川勝平太知事が新規採用職員に向けて述べた訓示に、特定の職業を指して「知性が低い」などとする差別的発言が含まれていたとして広く批判された。川勝は、当初は新聞報道の「切り取り」のせいだなどと述べて頑張ったが、まもなく辞職を表明した。 訓示の全文を確認すると、「知性」のくだりで川勝が言いたかったらしいことは、大きく次の三点に要約できそうだ。 1(県庁勤務者は)勉強して知性を磨くべきである 2 知性の程度には個人差がある(「自分の知性がこの人に及ばないなと思っても……」) 3 第一・二次産業従事者は知性が低い(「野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです」) 問題になったのは3の発言で、批判されるのは当然である。だが、1と2についてはどうだろうか。 1について批判する者はいないだろう。知性に価値があることや勉強の必要性は常識とされ、すべての学校では勉強が推奨されている。2は公の場での発言としては微妙だが、内心でこう考えている人間は多そうだ。3の発言がなく、1と2だけだったら、おそらく辞任は免れたのではないか』、「3の発言がなく、1と2だけだったら、おそらく辞任は免れたのではないか」、なるほど。
・『そもそも「知性」とは何か  朝日新聞は4月5日の社説で川勝発言を批判したが、1の点はもちろん、2についても批判することを慎重に避けた印象を受ける。そして「社会の一員としてそれぞれの日々を懸命に生きる他者の知性のあり方に、敬意を持って欲しい。」と書いているが、この一文はむしろ、知性の質や量に個人差があることを匂わせている。 だが、もしそうだとしても、「他者の知性のあり方」とは具体的にどのようなものか。 川勝はもともとは経済学者で、学部と修士課程では早稲田大学で学び、その後オックスフォード大学で博士号を得ている。いかにも「知性」の高そうな経歴だが、そもそも知性とはなんだろうか。 知性に大きな価値があり、さらにもし知性に個人差があるなら、我々の中にも川勝と同じ、知性によって他者を差別する気分が潜んでいたりはしないか? あいまいであるにも関わらず、現代社会で圧倒的な価値を持ってしまった「知性」の実態に、客観的な資料から迫ってみよう。 たとえば、知的な能力の基盤ともいえる読み書き能力については、少しだけデータが残されているようだ。 『「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」』に続く』、「あいまいであるにも関わらず、現代社会で圧倒的な価値を持ってしまった「知性」の実態に、客観的な資料から迫ってみよう」、なるほど… 

次に、4月12日付け現代ビジネスが掲載した佐藤 喬氏による「「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/127653?imp=0
・『江戸の庶民は文字が読めた?  まるで人間のような自然な作文をするAIが話題になった2023年、いくつかの新聞が、「読み書き」を巡る目立たないニュースを報じた。それは、国立国語研究所(東京)が、1948年以来実に75年ぶりに、全国的な識字率の調査を試みているというものだ。 誰もが読み書きできるはずのこの日本で、どうしてわざわざ識字率などを調べるのか。そう感じる日本人は多いと思われる。記事のひとつで国立国語研究所准教授の野山広が言うように、日本では「読み書きができない人はほぼいないと長く信じられてきた」からだ。 だが、野山も言うように、それは「共同幻想」である。 「日本人なら誰でも読み書きができるはず」という幻想は、極めて根強い。どのくらい根強いかというと、時間を遡り、歴史上の事実をも塗り替えたほどだ。 江戸時代や明治時代の日本人の識字率は高かったとか、大半が読み書きできたとか、大胆なものでは識字率が世界一だったとかいう言説をよく目にする。たとえば「江戸文化歴史研究家」を名乗る作家の瀧島有はこう書いている。 「江戸後期、日本は『江戸の町の人口』の他に、もう一つ、世界トップクラスを誇ったものがあります。それは『庶民』の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の『実際』は、おそらく約80%以上だろうと言われています」 こういった認識は半ば常識になっているが、結論を先に書けば、誤りである、もしくは著しく誇張されていることが研究によって明らかになっている。こういった俗論は主に1970年代以降、ロナルド・ドーアらによる寺子屋教育の過大評価などによって広まったらしいが、実はドーア本人は後にその見解を訂正している(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)』、「世界トップクラスを誇ったものがあります。それは『庶民』の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の『実際』は、おそらく約80%以上だろうと言われています」 こういった認識は半ば常識になっているが、結論を先に書けば、誤りである、もしくは著しく誇張されていることが研究によって明らかになっている」、なるほど。
・『「新聞」を読めたのはたったの1.7%  では、当時の日本人の読み書き能力はどのようなものだったのか。 江戸時代末期の日本人の8割以上は農民だったため、「普通の日本人」の識字能力を知るためには、農民についてのデータが欠かせない。だが、多くの研究者も認めるように、江戸時代はもちろん明治時代に入っても、農民の識字率に関する資料は極めて少ない。 しかし、過去の日本人の識字能力に関心がある者の間では有名な、極めて貴重な資料が一つ残されている。それは、1881年(明治14年)に長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)で、15歳以上の「男子」882人を対象に行われた調査である。 村民の読み書き能力を八段階に分けたこの調査によると、自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在したらしい。彼らには識字能力がないことになるが、では残りの65%の男子が読み書きできたかというと、まったくそうではない。 生活上の必要があっただろう出納帳を書けるものはなんとか14.5%いたが、「普通ノ書簡」および「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては、882人中15名、1.7%しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己など)。 しかも忘れてはならないのは、この調査は女性を対象外としていた点である。明治時代の識字率には地域によりかなりのばらつきがあるが、女性の識字能力が男性よりも大幅に劣っていた点は全国に共通している。したがって、当時の常盤村の住民全体の読み書き能力は、上の数値よりもかなり落ちる可能性が高い。女性を含めると、村で新聞を読めた人間は1%程度しかいなかったのではないだろうか。 日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態』に続く…』、「極めて貴重な資料が一つ残されている。それは、1881年(明治14年)に長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)で、15歳以上の「男子」882人を対象に行われた調査である。 村民の読み書き能力を八段階に分けたこの調査によると、自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在したらしい。彼らには識字能力がないことになるが、では残りの65%の男子が読み書きできたかというと、まったくそうではない。 生活上の必要があっただろう出納帳を書けるものはなんとか14.5%いたが、「普通ノ書簡」および「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては、882人中15名、1.7%しかいない』、「自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在・・・必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては・・・1.7%しかいない」、一般的に信じられている姿は全く信頼性に欠けるようだ。

第三に、4月12日付け現代ビジネスが掲載した佐藤 喬氏による「日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/127654?imp=0
・『「江戸時代の日本人の識字率は高かった」「大半が読み書きできた」さらには「日本は識字率が世界一」……こういった言説はネットだけでなく、書籍でも散見される。しかし、本当にそうだったのか。たとえば1881年(明治14年)、長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)にて15歳以上の男子882人を対象に行われた調査では、「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては1.7%しかいなかった。引き続き、日本人の「知性格差」についてみていこう。 『「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」』より続く…』、やはり伝承とは当てにならないものだ。
・『識字率が最も低かった鹿児島県  長野県の北安曇郡常盤村の調査の結果は、決して例外的ではない。当時の他の資料と照らし合わせると、常盤村の住人の読み書き能力は全国的には高い方だった可能性さえある。 常盤村の調査が貴重なのは、読み書き能力を細かく段階に分けた点にあるが、同時期の1890年前後に、当時の文部省が全国の数県で「自署率」、すなわち自分の名前を書けるかどうかの調査を行っている。この調査によると、近江商人の本拠地であり、調査の対象となった県でもっとも識字率が高い滋賀県の男性では90%近くが自分の名前を書けたが、女性では50%前後しかない。 逆に最も識字率が低い鹿児島県では、男子でも40%前後は自分の名前が書けず、女子に至っては、自分の名前が書けた者は4~8%前後しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己、「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄など)。また、読み書きができるものの割合は、士族階層や農村部の指導層など社会の上層ほど高く、農村内部にもかなりの格差があった可能性が高い(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)。 このように識字率にはかなりの階層差・地域差・男女差があったが、ある研究者は、識字レベルが滋賀県と鹿児島県のおよそ中間だった岡山県の数値(男子の50~60%、女子の30%前後が自分の名前を書けた)が全国平均に近かったのではないかと推測している(「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄)。先の長野県常盤村では男子の約65%が自分の名前を書けたので、常盤村の識字レベルは平均的か、むしろやや上回っていたかもしれない』、「調査の対象となった県でもっとも識字率が高い滋賀県の男性では90%近くが自分の名前を書けたが、女性では50%前後しかない。 逆に最も識字率が低い鹿児島県では、男子でも40%前後は自分の名前が書けず、女子に至っては、自分の名前が書けた者は4~8%前後しかいない・・・先の長野県常盤村では男子の約65%が自分の名前を書けたので、常盤村の識字レベルは平均的か、むしろやや上回っていたかもしれない」、なるほど。
・『読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部  忘れてはならないのは、この調査の数字はあくまで自分の名前を書ける者の割合であって、「自由に読み書きできる者」の割合はずっと低くなる点だ。「識字率」の定義は実は難しいが、少なくとも今の一般的な文脈では、かろうじて自分の名前を書けるだけで、日常的な文章も新聞も読めないようでは「識字」に含まれないだろう。 明治期の識字について多くの研究がある東北大学の八鍬友広は、自署能力に加えて文通する能力についても調べた明治初期の和歌山県の調査の例をひき、そこでは文通可能なリテラシーを持っていた男子は自署できた者の1/4以下の約10%だったと述べている(「明治期滋賀県における自署率調査」八鍬友広)。 この割合は、自署できた男子の1割強だけが普通の書簡を読めたとする先の常盤村のデータよりもかなり高いが、当時の調査の正確さに限界がある以上、詳細な議論はあまり意味がないだろう。いずれにしても、自由に読み書きができた者は、自分の名前だけが読み書きできる者よりずっと少なかったと考えるのは自然ではある。 ということは、女性を含めると(日本人のリテラシーを考えるときに女性を排除する理由はない)半数前後が自分の名前さえ書けなかったと思われる明治初期の日本では、圧倒的多数は自由な読み書きができなかったことになる。特に、常盤村の調査からも分かるように、社会の動きを知る手段である新聞等を読めた人間の割合は、人口の数%に過ぎなかったのではないか。 読み書き能力は、知的な能力の基礎であると言わざるを得ない。だが、明治時代の初期でさえ、読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部の人間に限られていた。 本や新聞を読む/書くなどの知的な活動に参加する機会や能力には、前出のルビンジャーが繰り返し強調するように、社会階層・地域・性によって著しい格差があったのである。それはつまり、豊かさや身分に格差があったように、知的能力にも、本人の力ではどうしようもない格差があった可能性を示唆している。 では、その格差は、今日では解消されているのだろうか? 次回『「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年、GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証』に続く』、「明治時代の初期でさえ、読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部の人間に限られていた。 本や新聞を読む/書くなどの知的な活動に参加する機会や能力には、前出のルビンジャーが繰り返し強調するように、社会階層・地域・性によって著しい格差があったのである。それはつまり、豊かさや身分に格差があったように、知的能力にも、本人の力ではどうしようもない格差があった可能性を示唆している」、なるほど。

第四に、4月12日付け現代ビジネスが掲載した佐藤 喬氏による「「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年、GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/128138?imp=0
・『連載第1回『「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」』  日本語が読めない大学生たち  前回、日本人の大半は明治時代初期、つまりほんの数世代前までは読み書きができなかったことを資料によって確認した。読み書きの力や知的なものに触れる機会・能力はまったく平等ではなく、著しい格差があったのである。 しかし、それは明治時代の、しかも初頭の話ではある。戦後や現代ではどうだろうか? たしかに、近年は社会的な格差がよく話題になる。だが、そこで語られる「格差」の内容はほとんどが経済・金銭的なもので、文化的・知的な格差は見て見ぬふりをされている。 しかし、文化格差について研究を続けてきた社会学者が「日本社会は文化的には平等だ」という主張を「文化的平等神話」と切り捨てるように(※1)、経済以外でも重大な格差があることは、少なくとも専門家の間では知られているらしい。 知的格差がすっかり忘れ去られた2011年、全国の大学生を対象に数学能力の調査を行った数学研究者である新井紀子は、結果を見て愕然とした。数学の能力以前に、簡単な日本語で書かれた問題文を理解できなかったり、初歩的な論理展開もできない学生があまりにも多かったのである。そして、その力は大学の偏差値が低いほど低かった。 驚いた新井は全国の中高生を対象に読解力の調査を実施したが、結果は、上記の調査を後押しするものだった。「中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない」「学力中位の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない」などの惨憺たる実態が明らかになったのである』、「新井は全国の中高生を対象に読解力の調査を実施したが、結果は、上記の調査を後押しするものだった。「中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない」「学力中位の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない」などの惨憺たる実態が明らかになった」、「数学の能力以前に、簡単な日本語で書かれた問題文を理解できなかったり、初歩的な論理展開もできない学生があまりにも多かった」というのは驚くべきことだ。
・『「字が読めない日本人は1.7%だけ」のウソ  この調査では、中学生のうちは歳とともに読解力が伸びる傾向があるのに、高校では伸びが止まることも確認された。それはつまり、かなりの成人も読解力に問題を抱えていることを示唆している。 また、読解力はやはり学校の偏差値と「極めて強い」正の相関があり、家庭の経済力と負の相関があった。つまり読解能力や論理的思考力には著しい社会的格差があることが判明したのだった。 新井は「(基礎的読解力調査は)これまで世界中で誰もやっていません」とも記しているが、少なくとも、前回書いたように読解力の調査は明治時代初頭にもあり、そこでも著しい格差が示されている。 明治と平成の日本社会には知的格差があるらしい。では、その間に位置する昭和ではどうか。 1948年に、GHQの指示によって15歳から64歳までの16,820名を対象にした大規模な読み書き能力の調査が全国で行われた(「日本人の読み書き能力調査」)。規模の大きさや科学的な手法を取り入れている点で、この調査の信頼性は高い。読み書き能力を広く扱う問題は全90問で、1問1点の90点満点だった。 結論を先に記すと、得点がゼロ点の者は1.7%しかいなかった。この結果はその後独り歩きし、「敗戦直後でも100%近い日本人が読み書きできた」とか「日本人の識字率の高さにGHQが驚愕した」といった神話となって今も生き残っているが、実は近年、その解釈が正しくなく、実態はむしろ逆だったことが専門家によって指摘されている。 まず、たしかに98.3%の日本人は一問以上正解できたわけだが、たとえば一問だけ正解して他はすべて不正解だった者を「識字能力がある」とすることには無理がある。さらに、全90問のうち65問は四択ないし五択の選択問題で、適当に回答しても一定の点数が得られてしまうため、ゼロ点をとることが極めて難しかったことがわかっている。この点に着目したある研究によると、この調査で得点がゼロになる確率は0.000015%しかないという。 したがってゼロ点だった1.7%は、はじめから回答しようとしなかった可能性が高い(※3)』、「GHQの指示によって15歳から64歳までの16,820名を対象にした大規模な読み書き能力の調査が全国で行われた(・・・)。規模の大きさや科学的な手法を取り入れている点で、この調査の信頼性は高い。読み書き能力を広く扱う問題は全90問で、1問1点の90点満点だった。 結論を先に記すと、得点がゼロ点の者は1.7%しかいなかった・・・98.3%の日本人は一問以上正解できたわけだが、たとえば一問だけ正解して他はすべて不正解だった者を「識字能力がある」とすることには無理がある。さらに、全90問のうち65問は四択ないし五択の選択問題で、適当に回答しても一定の点数が得られてしまうため、ゼロ点をとることが極めて難しかったことがわかっている」、なるほど。
・『日本人の半数は新聞が読めなかった!  また、言語政策を研究する角知行は調査対象者に送られた案内状が難解な漢字を含む文章で書かれていたため読み書き能力が低いものはその段階で脱落した疑いがあることや、心身にハンディキャップを持つ人々を排除していたことなども指摘している(※4)。さらに付け加えるなら、若い世代より識字能力が低かっただろう65歳以上の者も調査対象から外されている。 要するに、当時の日本人の本当の読み書き能力は、この調査から受ける印象よりかなり低い可能性が高い。 では、実態はどのようなものだったのか。識字能力は「ある/ない」と白黒つけられるものではなく程度問題なので定量化は難しいが、角は先の論文で、新聞の文章についての問いの正答率から、調査対象者の半数弱は新聞の読解にも困難を抱えていただろうと推測している。加えて先ほどの対象者の偏りを考慮すると、1948年の日本人の実に半数前後は、新聞をまともに読めなかった可能性が否定できない。 新聞を読めるものは人口の一割もいなかったと推測できる明治初期に比べると、約半世紀の教育の普及によって、日本人の読み書き能力がかなり向上したことがわかる。しかし、それでもなお、読み書きに不自由しない日本人はせいぜい2人に1人程度だったのである。 ちなみに、この調査は「日本人の識字率の高さを示したことでGHQが推進しようとしていた日本語のローマ字化を防いだ」という文脈で取り上げられることも多いが、先の論文の執筆者の一人である横山詔一によると、その主張の根拠は弱いという。 横山は、実態とはかなり異なる伝説が広まった理由として、敗戦後の行き場を失ったナショナリズムを挙げている。「みんなで戦後の復興を頑張ろうとしていた当時、日本人がある意味で自信を持てる内容だったのだろうと思う。『自分たちには能力があるんだ』『頑張れば発展できるんだ』という発信は、国民の胸にストンと落ちる部分があったのではないか」(※5)。 後編『多くの日本人は「確率」という概念を正しく理解できない…日本社会にひそむ「教育水準の格差」の現実』に続く』、「1948年の日本人の実に半数前後は、新聞をまともに読めなかった可能性が否定できない。 新聞を読めるものは人口の一割もいなかったと推測できる明治初期に比べると、約半世紀の教育の普及によって、日本人の読み書き能力がかなり向上したことがわかる。しかし、それでもなお、読み書きに不自由しない日本人はせいぜい2人に1人程度だったのである・・・敗戦後の行き場を失ったナショナリズムを挙げている。「みんなで戦後の復興を頑張ろうとしていた当時、日本人がある意味で自信を持てる内容だったのだろうと思う。『自分たちには能力があるんだ』『頑張れば発展できるんだ』という発信は、国民の胸にストンと落ちる部分があったのではないか」、そんな時代背景も影響するとは奥が深いようだ。

第五に、4月12日付け現代ビジネスが掲載した佐藤 喬氏による「多くの日本人は「確率」という概念を正しく理解できない…日本社会にひそむ「教育水準の格差」の現実」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/128137?imp=0
・『「日本人の識字率は極めて高い」「経済格差はあっても、文化的には平等」といった言説は、ネットはもちろん書籍でもよく見られるものだ。こうした主張の根拠とされがちなのは1948年に16,820名を対象に実施された「日本人の読み書き能力調査」で、「完全文盲が1.7%」という結果が出ている。だが近年、この結果を再検証した研究によって、当時の日本人の識字率はもっと低い可能性があることがわかってきた。 『「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年、GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証』より続く』、興味深そうだ。…
・『知的格差から逃れられない日本社会  小熊英二は日本人の読み書き能力についてのこの調査結果を「都市と農村、上層と下層の知的階層格差」の表れだとしている(※1)が、たしかに成績には世代差以外にも、地域や学歴による差があった(※2)。 要するに、明治にも、昭和にも、そして2010年代にも日本社会には読み書き能力の格差があり、したがっておそらく、今もあるということだ。新井紀子は読解力の格差をはじめて見つけたのではなく、戦後長らく忘れられていた知的格差を、ようやく再発見したというべきかもしれない。 ここまで見てきたのは主に読み書きや言葉を扱う能力の格差だが、読み書き能力は広く知的な力の基盤だし、そもそも日本社会では教育水準にも格差があるため、日本社会での知的能力の格差が読解力だけに留まると考えることは難しい。たとえば最終学歴が高校の人間と、大学院で博士号を取った人間の知的パフォーマンスになにも差が出なかったら、むしろおかしい。 東日本大震災後の福島県を中心に、原発事故の影響について130回以上の講演をした被ばく医療の専門家である神谷研二は、住民との知的なコミュニケーションの難しさを感じたと振り返っている。 「(放射線の発がんリスクについて伝えるためには)確率の話になるわけですが、住民の側からすると理解が難しい。一般に危険か危険でないか、日常的には『あるかないか』で考えるわけですから、確率的に考えるということが今までの習慣の中にないんですよね」』、「原発事故の影響について130回以上の講演をした被ばく医療の専門家である神谷研二は、住民との知的なコミュニケーションの難しさを感じたと振り返っている。 「(放射線の発がんリスクについて伝えるためには)確率の話になるわけですが、住民の側からすると理解が難しい。一般に危険か危険でないか、日常的には『あるかないか』で考えるわけですから、確率的に考えるということが今までの習慣の中にないんですよね」、「住民の側からすると理解が難しい。一般に危険か危険でないか、日常的には『あるかないか』で考えるわけですから、確率的に考えるということが今までの習慣の中にないんですよね」、確かに「確率的に考える」のには慣れていない人は殆どだろう。
・『日本社会にひそむ教育格差  神谷はもちろん、難関大学(広島大学医学部)を出て、博士号も取得している。研究者としては標準的な学歴かも知れないが、日本社会では例外的な高学歴だと言っていい。 一方で、日本人の過半数は大学を出ていない。2023年の大学進学率こそ過去最高の57・7%を記録しているが、これは若年層の数値である。日本の大学進学率は徐々に上昇してきたので、全日本人を対象にすると大卒率ははるかに低くなる。たとえば、社会学者の吉川徹は2019年時点では「日本人の7割近くが非大卒」と推定している。 さらには地方ほど非大卒層の割合は増える傾向があるため、神谷の講演を聞きに来た住人の相当数は大学を出ていなかっただろうし、ましてや博士号持ちなどほとんどいなかっただろう。 両者の間に教育水準の大きな差があったことと、「確率」という概念が住民に伝わらなかったこと。この二つの事実の間に、何らかの関係はないだろうか。 そのヒントは、日本社会にひそむ教育格差にあるかもしれない。次回に続く… 』、「社会学者の吉川徹は2019年時点では「日本人の7割近くが非大卒」と推定している。 さらには地方ほど非大卒層の割合は増える傾向があるため、神谷の講演を聞きに来た住人の相当数は大学を出ていなかっただろうし、ましてや博士号持ちなどほとんどいなかっただろう。 両者の間に教育水準の大きな差があったことと、「確率」という概念が住民に伝わらなかったこと。この二つの事実の間に、何らかの関係はないだろうか。 そのヒントは、日本社会にひそむ教育格差にあるかもしれない」、「次回に続く」とあるので、探したがまだ出版されてないようだ。このシリーズは「教育格差」を取上げ、本題の「リニア」とは関係がないので、ここでお許し頂きたい。ただ、次回は「リニア」と密接に関係しているので、大いにご期待を! 
タグ:リニア新幹線 (その9)(「知性格差」5題:早稲田を出てオックスフォード大学で博士号を取得…静岡・川勝知事「職業差別」発言に隠された日本の「知性格差」という問題、「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」、日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態、「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年 GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証、多くの日本人は「確 現代ビジネス 佐藤 喬氏による「早稲田を出てオックスフォード大学で博士号を取得…静岡・川勝知事「職業差別」発言に隠された日本の「知性格差」という問題」 「3の発言がなく、1と2だけだったら、おそらく辞任は免れたのではないか」、なるほど。 「あいまいであるにも関わらず、現代社会で圧倒的な価値を持ってしまった「知性」の実態に、客観的な資料から迫ってみよう」、なるほど… 佐藤 喬氏による「「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」」 「世界トップクラスを誇ったものがあります。それは『庶民』の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の『実際』は、おそらく約80%以上だろうと言われています」 こういった認識は半ば常識になっているが、結論を先に書けば、誤りである、もしくは著しく誇張されていることが研究によって明らかになっている」、なるほど。 「極めて貴重な資料が一つ残されている。それは、1881年(明治14年)に長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)で、15歳以上の「男子」882人を対象に行われた調査である。 村民の読み書き能力を八段階に分けたこの調査によると、自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在したらしい。彼らには識字能力がないことになるが、では残りの65%の男子が読み書きできたかというと、まったくそうではない。 生活上の必要があっただろう出納帳を書けるものはなんとか14.5%いたが、「普通ノ書簡」および「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては、882人中15名、1.7%しかいない』、「自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在・・・必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては・・・1.7%しかいない」、一般的に信じられている姿は全く信頼性に欠けるようだ。 佐藤 喬氏による「日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態」 やはり伝承とは当てにならないものだ。 「調査の対象となった県でもっとも識字率が高い滋賀県の男性では90%近くが自分の名前を書けたが、女性では50%前後しかない。 逆に最も識字率が低い鹿児島県では、男子でも40%前後は自分の名前が書けず、女子に至っては、自分の名前が書けた者は4~8%前後しかいない・・・先の長野県常盤村では男子の約65%が自分の名前を書けたので、常盤村の識字レベルは平均的か、むしろやや上回っていたかもしれない」、なるほど。 「明治時代の初期でさえ、読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部の人間に限られていた。 本や新聞を読む/書くなどの知的な活動に参加する機会や能力には、前出のルビンジャーが繰り返し強調するように、社会階層・地域・性によって著しい格差があったのである。それはつまり、豊かさや身分に格差があったように、知的能力にも、本人の力ではどうしようもない格差があった可能性を示唆している」、なるほど。 佐藤 喬氏による「「日本人の識字率は極めて高かった」という「神話」はなぜ生まれたのか…1948年、GHQが命じた「大規模調査」の結果を再検証」 「新井は全国の中高生を対象に読解力の調査を実施したが、結果は、上記の調査を後押しするものだった。「中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない」「学力中位の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない」などの惨憺たる実態が明らかになった」、「数学の能力以前に、簡単な日本語で書かれた問題文を理解できなかったり、初歩的な論理展開もできない学生があまりにも多かった」というのは驚くべきことだ。 「GHQの指示によって15歳から64歳までの16,820名を対象にした大規模な読み書き能力の調査が全国で行われた(・・・)。規模の大きさや科学的な手法を取り入れている点で、この調査の信頼性は高い。読み書き能力を広く扱う問題は全90問で、1問1点の90点満点だった。 結論を先に記すと、得点がゼロ点の者は1.7%しかいなかった・・・ 98.3%の日本人は一問以上正解できたわけだが、たとえば一問だけ正解して他はすべて不正解だった者を「識字能力がある」とすることには無理がある。さらに、全90問のうち65問は四択ないし五択の選択問題で、適当に回答しても一定の点数が得られてしまうため、ゼロ点をとることが極めて難しかったことがわかっている」、なるほど。 「1948年の日本人の実に半数前後は、新聞をまともに読めなかった可能性が否定できない。 新聞を読めるものは人口の一割もいなかったと推測できる明治初期に比べると、約半世紀の教育の普及によって、日本人の読み書き能力がかなり向上したことがわかる。しかし、それでもなお、読み書きに不自由しない日本人はせいぜい2人に1人程度だったのである・・・敗戦後の行き場を失ったナショナリズムを挙げている。 「みんなで戦後の復興を頑張ろうとしていた当時、日本人がある意味で自信を持てる内容だったのだろうと思う。『自分たちには能力があるんだ』『頑張れば発展できるんだ』という発信は、国民の胸にストンと落ちる部分があったのではないか」、そんな時代背景も影響するとは奥が深いようだ。 佐藤 喬氏による「多くの日本人は「確率」という概念を正しく理解できない…日本社会にひそむ「教育水準の格差」の現実」 「原発事故の影響について130回以上の講演をした被ばく医療の専門家である神谷研二は、住民との知的なコミュニケーションの難しさを感じたと振り返っている。 「(放射線の発がんリスクについて伝えるためには)確率の話になるわけですが、住民の側からすると理解が難しい。一般に危険か危険でないか、日常的には『あるかないか』で考えるわけですから、確率的に考えるということが今までの習慣の中にないんですよね」、 「住民の側からすると理解が難しい。一般に危険か危険でないか、日常的には『あるかないか』で考えるわけですから、確率的に考えるということが今までの習慣の中にないんですよね」、確かに「確率的に考える」のには慣れていない人は殆どだろう。 「社会学者の吉川徹は2019年時点では「日本人の7割近くが非大卒」と推定している。 さらには地方ほど非大卒層の割合は増える傾向があるため、神谷の講演を聞きに来た住人の相当数は大学を出ていなかっただろうし、ましてや博士号持ちなどほとんどいなかっただろう。 両者の間に教育水準の大きな差があったことと、「確率」という概念が住民に伝わらなかったこと。この二つの事実の間に、何らかの関係はないだろうか。 そのヒントは、日本社会にひそむ教育格差にあるかもしれない」、 「次回に続く」とあるので、探したがまだ出版されてないようだ。このシリーズは「教育格差」を取上げ、本題の「リニア」とは関係がないので、ここでお許し頂きたい。ただ、次回は「リニア」と密接に関係しているので、大いにご期待を!
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