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イスラム教(その2)「イスラム原理主義」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係 [世界情勢]

昨日に続いて、イスラム教を取上げたい。今日は (その2)「イスラム原理主義」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係 である。

昨日と同様に、中東研究家の岩永尚子氏がダイヤモンド・オンラインに寄稿した記事のうち、先ずは2015年6月16日付け「教えて! 尚子先生 「イスラム原理主義」とはなんですか?【中東・イスラム初級講座・第24回】」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・イスラム原理主義とは、イスラム教徒(Islamic)と原理主義者(Fundamentalist)という2つの用語をたして作られた言葉ですが、現在ではひろく、聖典コーランやイスラム法に基づいて国家や社会を統制すべきと主張している人々の総称として使われています。
・イスラム原理主義者と呼ばれている集団としては、エジプトやヨルダンのムスリム同胞団や、パレスチナのハマス、レバノン・シリアのヒズボッラー、アフガニスタンのタリバン、イラクとシリアのIS(イスラム国)や世界各地のアルカイダ、ナイジェリアのボゴハラムなど、穏健的な集団から暴力行為を厭わない集団まで多様です。
▽原理主義はもともと、一部のキリスト教徒に対する批判を込めた言葉
・ここであえて「現在では」と限定し、英語表記まで説明した理由としては、もともとFundamentalism(原理主義)という言葉が、一部のキリスト教徒に対して使われていた用語で、しかもかなり否定的かつ批判的な意味合いが込められた言葉であったためです。
・原理主義という言葉が使われたのは1920年代のアメリカで、そもそもはキリスト教の神学用語でした。原理主義者と呼ばれた人々は近代的な進化論を否定し、学校で進化論を教えるべきではないと主張していました。
・こうした主張を支持する人々は福音派のプロテスタントに多く、進化論を否定しているだけでなく、妊娠中絶・生殖医療・同性愛の禁止や天文学や地球科学、生物学を天地創造説にもとづいて行なうべきと主張しています。キリスト教徒の中でも極端な主張として、批判や軽蔑の意味を込めて、「原理主義者」と呼ばれるようになったという経緯があります。
・日本では批判や侮蔑というニュアンスのないまま、1979年のイラン革命ころから、報道関係者が英語表現をそのまま訳してイスラム原理主義という言葉が使われています。日本のキリスト教神学では、主張をする福音派の人々について批判などを込めずに呼ぶ際には、「根本主義」という言葉が使われているようです。
・けれども、イスラム教徒の場合、すべてが「イスラム原理主義」と呼ばれているため、批判を込めていないと明らかにしたい場合は、イスラム・中東研究者はイスラム原理主義という言葉を使わず、イスラム主義者やイスラム復興主義という言葉を用います。
・アメリカでも同じで、批判的な立場をとらない場合は、Islam Fundamentalistとは言わず、Islamist(イスラム主義者)とかIslam Revivalist(復興主義者)という用語を用います。言葉の使い方ひとつで、話者もしくは書き手の立場がすぐわかるというわけです。
▽パレスチナではイスラエルの存在を認めないのが「過激派」、認めるのは「穏健派」
・現在、イスラム原理主義と呼ばれている集団には、穏健的な集団から暴力やテロを厭わない過激な集団まで、すべてが含まれて使われていることから、イスラム原理主義という用語が具体的にはいったい何を指すのか混乱をきたしているともいえるでしょう。
・暴力やテロを厭わない集団については、過激派(Extremism)やジハーディスト(Jihadist=ジハードを厭わない人から転じて暴力に訴えることを厭わない人として使われるが、ジハードの本来の意味は「奮闘努力」)なども使われています。
・けれども、この「過激派」という用語も、実際にはかなり恣意的な使われ方がされています。とくに、パレスチナ問題については注意が必要です。
・パレスチナのハマスは現在政権を取っていますが、ハマス(正式名称:イスラム抵抗運動、アラビア語の頭文字をとってハマス)についての説明がなされる際に日本では、イスラム原理主義組織ハマス、とまるで1つの用語か、「枕詞」のように説明されています。確かにハマスの母体はムスリム同胞団ですから、原理主義という呼称はまちがいありません。
・彼らが「過激派」と称されているのは、イスラエルの存在を認めているか否か、から判断されているのです。つまり、イスラエルの存在を認めていない=過激派(ハマス)、イスラエルの存在を認めている=穏健派(ファタハ)というレッテルの貼り方がなされているのです。
・ですから、実際のハマスの国内政策が穏健的なものであっても「過激派」、「原理主義」と評され、仮にファタハが過激な政策を取ったとしても、穏健派」というレッテルに変わりはありません。呼称だけで判断すると、現実を理解するのが難しくなってしまうのです。
・また、ハマスはEUやアメリカ、イスラエルではテロ組織として認識されていますが、ノルウェーやロシア、トルコ、エジプトなどではテロ組織と認識されてはいません(ただしエジプトでは、ムスリム同胞団系のムルスィー政権崩壊以後、ハマスとの関係は悪化しています)。
▽アラブ民族主義の失墜がイスラム原理主義の台頭を招いた
・では、このハマスなどのいわゆるイスラム原理主義運動は、近年、どのように変容、発展してきたのでしょうか?
・イスラムに基づいた政治・社会改革は、つまりイスラム復興運動(以後、わかりにくくなるためイスラム原理主義で統一)は、そもそも1967年にイスラエルとの第3次中東戦争によってアラブ側が大敗し、アラブ民族主義が失墜してしまったことを契機として急速に広がったといわれています。
・ですが、イスラム原理主義は自然発生的に広がったわけではないとも指摘されています。アラブ民族主義はアラブ民族という国家を超えて民族を一体化させようとする運動で、植民地支配から脱する際に重要な役割を果たしました(第2回「アラブ」と「中東」の違いはなんですか?を参照のこと)。
・これは世俗主義的な思想であり、イスラム教徒だけでなく、他の宗教のアラブ人をも区別することなく運動に取り込むような考え方であったために、イスラムがこの考え方に入り込む余地はありませんでした。
・ところが、アラブ民族主義に陰りがみえはじめると、政権側が体制を維持し、支配を正当化するために、為政者たちはイスラムを積極的に取り込んでいったのです。この典型的な例がエジプトのサダト政権(1970~1981年)です。
・サダトは社会主義政策から転換して開放経済を導入するために、宗教勢力を政権内部の左派に対抗させようと試みます。そのため、1971年には憲法を改正してイスラム教を国教としたり、ナセル政権下では弾圧されていたムスリム同胞団の政治犯を釈放したりしました。
・こうした政権側がイスラムを支援するという動きは、エジプトだけでなく、時期は若干異なるものの、アルジェリア、モロッコ、サウジアラビアなど他の国でもみられました。つまり、政府の庇護のもとでイスラム原理主義運動は拡大していったのです。
▽政府とイスラム原理主義勢力との対立の激化
・政権側とイスラム原理主義勢力との蜜月は長くは続きませんでした。エジプトでは1979年のイスラエルとの平和条約の締結により、イスラム原理主義勢力からの政権批判は激しくなっていきました。
・こうした政府対イスラム原理主義勢力という構図は、エジプトでは1980年代から、その他の多くの国では1990年代から活発化していきます。その例としては、アルジェリアのイスラム救国戦線(FIS:Front Islamique du Salut)、チュニジアのナフダ党、ヨルダンのイスラム行動戦党などが挙げられます。
・彼らは体制批判を繰り返し、各地で大規模なデモを行ないました。こうして80年代後半から90年代にかけて、アラブ各国でイスラム原理主義組織をもとにした政党が大躍進していきました。こうしたイスラム原理主義運動の高まりは、「イスラムこそが解決手段である」というスローガンに象徴されていたといえるでしょう。
・この時期はエジプト、チュニジア、ヨルダンなどの非産油国でIMFによる構造調整が行なわれた時期でもありました。IMFは融資の条件として、各国政府にその支出を抑えるように要求したため、パンや砂糖などの基本的食料品に対する補助金が打ち切られる結果となりました。そのため、ムスリム同胞団などは貧困対策として、病院や学校を独自で設営したり、モスクのネットワークを通じて貧者救済を行なったりしたため、民衆からの支持が拡大することとなりました。
・要するに、政府がイスラム原理主義者の活動をある程度容認していた理由は、政府がカバーできなくなった貧困対策の代替案として、そして社会的不満のガスぬきとして、彼らを利用していたという背景があったのでした。
▽過激化と孤立化を進めたイスラム原理主義組織
・けれども、90年代後半からはしだいに「イスラムがすべての解決策である」というスローガンにも陰りが見え始め、イスラム主義政党の大躍進の勢いは明らかに低下していきました。
・これはイスラム主義政党が民衆からの支持を失ったというよりもむしろ、過大すぎる期待が寄せられなくなったということを意味していると考えられます。つまり、イスラム主義勢力の政治参加がいわば当然として受け止められるようになったのでした。
・しかし、一方で世俗政権もイスラム政権も、経済状態の悪化に対してはなす術がなく、あまり変わりはないと考える者たちもいました。そこに、ある種の失望が生じ、よりよい社会を実現するためには、もっと厳格にイスラムを追求するべきだとする動きも生まれたのです。
・こうした過程の中で、イスラム原理主義組織自体には過激化と孤立化が進んでいたといわれています。イスラム原理主義の中でも過激な集団は、自国の政権を批判するだけでは足りず、自らの思想を理解してくれない社会全体を攻撃の対象に広げていきました。
・しかし、過激なイスラム原理主義集団がテロを起こせば起こすほど、当該社会から孤立していき、さらには政権からも追われることとなっていきました。政権から追われ、社会からはじき出された過激派たちは、90年代にはその多くが義勇兵としてアフガニスタンに向かい、2001年以降であればアルカイダを各地に誕生させ、現在ではISを支援するためにシリアに集わせているのです。
・こうしてイスラム原理主義という言葉は、イスラムに基づいた貧困救済のための草の根の社会活動から、テロに至るまであらゆる活動を含んでいるにもかかわらず、私たちがニュースとして知ることとなるのは、過激な暴力行為ばかりという事態に陥っているのです。
http://diamond.jp/articles/-/73295

次に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係について、2015月10日付けの「教えて! 尚子先生 エルサレムに複数の宗教の聖地が集まっているのはなぜですか?【中東・イスラム初級講座・第27回】」のうち、4頁目 を紹介しよう。
▽イスラム教徒にとってのエルサレム
・では、イスラム教徒にとっては、なぜエルサレムが重要なのでしょうか?
・そもそもこの3大宗教は姉妹宗教と考えられており、神の呼び方は異なるものの三者ともに同じ神を信仰しています。ユダヤ教がユダヤ民族だけの民族宗教であったのに対し、キリスト教はユダヤ教の改革(刷新)運動として登場しました。この改革によってユダヤ教はキリスト教となり、世界宗教へと変化します。
・さらに、イスラム教ではユダヤ教のモーゼもイエスキリストも預言者であると認めたうえで、ムハンマドが最後の預言者であり、イスラム教こそが2つの宗教を完全な形にした最終形であるとします。
・ですから、イスラム教ではユダヤ教のアブラハムが、最初の「イスラム教徒」であるイブラヒムとして登場しています。そのため、当然、イスラム教徒にとってもエルサレムも重要な土地となります。
・現在ではイスラム教徒はメッカの方角を向いて祈りを捧げますが、メッカが選ばれる以前は、祈りはエルサレムに向けてささげられていたほどです(のちに礼拝の方向は神の命によりメッカに変更されます。変更の理由は神が命じたためであり、理由を問うべきではないとされています)。
・そして、アブラハムが息子を殺そうとした場所(岩)は、イスラム教にとっては違う理由で重要なのです。ムハンマドが天使ガブリエルによってメッカから一夜にしてエルサレムのモスク(神殿)にやってきて、そのモスクにある岩から天馬に乗って神の御前に至ったという一説がコーランにあるためです。
・この岩にはムハンマドがつけた足跡があるとされ、この岩を中心に「岩のドーム」がめぐらされ、その横にアル・アクサモスク(アラビア語で遠隔のモスクという意味)が建設されているのです。
・ですが、このムハンマドの足跡については、十字軍がエルサレムを占領していた11世紀には、「キリストの足跡」とされ、岩のドームはキリスト教の礼拝所として、モスクは王の宮殿として転用されていたといいます。また、この岩のドームとアル・アクサモスクはユダヤの神殿の上に建設されているために、嘆きの壁を共有するような形になっており、イスラム教徒とユダヤ教徒の最も熾烈な対立の場となっているのです。
・比較的最近の争いとしては、2009年にアル・アクサモスクにイスラエルのシャロン外相が武装した側近1000名を伴って乗り込んだことから始まり、パレスチナ人との全面的衝突へと発展した第二次インティファーダ(民衆蜂起)があります。この対立によって1000名とも2000名ともいわれる犠牲者がでました。
・そもそも、旧市街地にあるすべての宗教的・歴史的建造物が、本当にエルサレムにあるべきであったのかについての確証はありません。つまり、アブラハムが息子を殺そうとした場所についても諸説あり、イエスキリストが亡くなったのも本当に聖墳墓教会の建設された場所であったのかについてもわかってはいません。
・もちろん、イスラム教の場合にも同じことが当てはまります。これらの3つの宗教以外の人々にとって、そしてたとえ3つの宗教を信じていたとしても熱烈な信仰心のない人々にとっては、聖地の持つ重要性はいまひとつピンとこないというのが本当のところではないでしょうか。
http://diamond.jp/articles/-/79610?page=4

なお、「教えて! 尚子先生・・・【中東・イスラム初級講座】」の全体の目次は以下のリンクにある。
http://diamond.jp/category/zt-arab

原理主義とは、もともとキリスト教の一派を指し、言葉の使い方で立場が分かる。イスラム原理主義も幅広い概念で、イスラエルの存在を認めているか否かより、「過激派」か、「穏健派」が分けられた。「政府がイスラム原理主義者の活動をある程度容認していた理由は、(IMFの緊縮要求で)政府がカバーできなくなった貧困対策の代替案として、そして社会的不満のガスぬきとして、彼らを利用していたという背景があった」などの指摘は、私には新鮮だった。
エルサレムの神聖な「岩」についている「ムハンマドの足跡」は、十字軍占領下では「キリストの足跡」とされていたのには、思わず笑ってしまった。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係については、私は既に概ね知っていたが、明日取上げる予定の「欧米で増えるイスラム教への改宗」への予備知識として紹介した次第である。
タグ:イスラム教 (その2)「イスラム原理主義」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係 岩永尚子 ダイヤモンド・オンライン 「教えて! 尚子先生 「イスラム原理主義」とはなんですか?【中東・イスラム初級講座・第24回】 現在ではひろく、聖典コーランやイスラム法に基づいて国家や社会を統制すべきと主張している人々の総称として使われています ムスリム同胞団 パレスチナのハマス レバノン・シリアのヒズボッラー アフガニスタンのタリバン イラクとシリアのIS ナイジェリアのボゴハラム 原理主義はもともと、一部のキリスト教徒に対する批判を込めた言葉 1920年代のアメリカ 近代的な進化論を否定し、学校で進化論を教えるべきではないと主張 福音派のプロテスタントに多く 批判や軽蔑の意味を込めて、「原理主義者」 批判を込めていないと明らかにしたい場合 イスラム主義者やイスラム復興主義 パレスチナではイスラエルの存在を認めないのが「過激派」、認めるのは「穏健派」 アラブ民族主義の失墜がイスラム原理主義の台頭を招いた 政府の庇護のもとでイスラム原理主義運動は拡大 政府とイスラム原理主義勢力との対立の激化 IMFは融資の条件として、各国政府にその支出を抑えるように要求 パンや砂糖などの基本的食料品に対する補助金が打ち切られる結果 ムスリム同胞団などは貧困対策として、病院や学校を独自で設営したり、モスクのネットワークを通じて貧者救済を行なったりしたため、民衆からの支持が拡大 政府がイスラム原理主義者の活動をある程度容認していた理由は、政府がカバーできなくなった貧困対策の代替案として、そして社会的不満のガスぬきとして、彼らを利用していたという背景 過激化と孤立化を進めたイスラム原理主義組織 政権から追われ、社会からはじき出された過激派たちは、90年代にはその多くが義勇兵としてアフガニスタンに向かい 2001年以降であればアルカイダを各地に誕生させ、現在ではISを支援するためにシリアに集わせているのです 教えて! 尚子先生 エルサレムに複数の宗教の聖地が集まっているのはなぜですか?【中東・イスラム初級講座・第27回】 3大宗教は姉妹宗教 三者ともに同じ神を信仰 ユダヤ教がユダヤ民族だけの民族宗教 キリスト教はユダヤ教の改革(刷新)運動として登場しました。この改革によってユダヤ教はキリスト教となり、世界宗教へと変化 イスラム教ではユダヤ教のモーゼもイエスキリストも預言者であると認めたうえで ムハンマドが最後の預言者であり、イスラム教こそが2つの宗教を完全な形にした最終形であるとします イスラム教ではユダヤ教のアブラハムが、最初の「イスラム教徒」であるイブラヒムとして登場 メッカが選ばれる以前は、祈りはエルサレムに向けてささげられていた アブラハムが息子を殺そうとした場所(岩) イスラム教にとっては違う理由で重要なのです。ムハンマドが天使ガブリエルによってメッカから一夜にしてエルサレムのモスク(神殿)にやってきて、そのモスクにある岩から天馬に乗って神の御前に至ったという一説がコーランにあるためです
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