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新国立競技場問題(その9) ザハ案買い取り提案

新国立競技場問題については、前回8月31日に取上げ、その後、隈研吾氏の案が採用された。今日は(その9) ザハ案買い取り提案 である。

先ずは、以前にも引用した中国人でベンチャー企業創業者の宋文洲氏が、昨日付けメールマガジンに投稿した「日本政府の契約精神の欠如」を紹介しよう。
・タイトルをみて「反日」だと思うならばここで読むのを止めましょうね。
・ご存じのように、英国デザイナーのザハ・ハディドさんの新国立競技場のデザインは撤回され、隈さんによる新しいデザインが発表されました。これまでの時間と費用はもったいないのですが、契約中止自体はよくあることです。契約書の中止条項に基き、各自が義務を果たせば何の問題もありません。
・しかし、今年になってハディドさんは「日本JSCは支払を拒否し私の著作権を奪取しようとしている・・・満足できる解決がなければ法的措置をとる」と世界のマスコミに訴えたのです。ザ・テレグラフ紙が入手した日本JSCの文書複製によると、日本JSCはハディドさんの元デザインを新デザインに「無制限な変更および再利用」ができるように、条項改変を要求したのです。
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・ここに日本JSCの契約精神の欠如を見ることができます。
・まず、契約に書いていない内容を後になって追加するのは相手にお願いすることです。それを理由に支払いを停止するのは契約違反です。
・次にハディドさんのデザインを止めて隈さんのデザインを採用した以上、隈さんのデザインにハディドさんのデザインを含めてはいけません。 含めるならば、事後ではなく事前の了解が必要でした。
・最後にもし、ハディドさんが指摘した新デザインのパクリ問題(腕状体、地上出入口、内部構造レイアウト、ランドスケープ、アクセス戦略、サービスアクセスなど)が本当であれば、日本JSCの契約変更要求は明らかにパクリ問題を隠すための口封じ作戦です。
・パクリに不払い。まさに契約精神の欠如の極まりです。 考えてみれば日本JSCのパクリとの縁はなかなか深いものがあります。
・審査過程を操作して選んだエンブレムはパクリの指摘でしぶしぶ撤回されました。スタジアムは「世界一」の建設費で国民の怒りを買って中止しましたが、その僅か14週間後に予算に合う新しいデザインが発表されました。
・ハディドさん達はデザインに二年間も費やしたことを考えると新デザインの速さはまたも「世界一」に見えたのですが、外形のデザインだけを変え、ハディドさんの内部設計とコスト削減案を流用すれば、確かに14週間で予算に合う「新デザイン」は可能です。やっぱりパクリの色が濃厚です。
・日本JSCは日本政府ではないという人もいますが、これは日本外務省が日本政府ではないというような台詞です。東京オリンピック招致の時から安倍総理が日本政府を代表して約束しました。すべての最終決定は政府高官が行っていますし、最終責任を持つのも日本政府です。
・インドネシア政府と中国企業との高速鉄道の契約を、日本の官房長官が激しく批判しました。この取れない契約への批判はまさに契約精神の欠如です。 契約しない権利は誰にでもあるからです。数カ月後、インドの日本新幹線方式の採用について問われた中国のスポークスマンは「インド政府には選択する権利がある。我々はそれを尊重する。」と回答しました。
・日本はインドネシアが中国企業に地質データを提供したことも批判しました。賄賂をもらったとの報道も流行りました。しかし、契約に使用制限条項がない限り、地質データはあくまでも地主(依頼主)のものです。店員が測った客の身体サイズは店のものではないのです。客が他の店で服を買った時に「俺が測ったサイズを使うな」と言ってはいけません。
・さて、今回のハディドさんの扱いについて、私の知っている限り、日本人の殆どが日本政府のやり方に恥ずかしい思いをしています。「まるで途上国のようだ」という方もいますが、賛成できません。契約精神が欠如する人はどんな国にもいるからです。
・途上国では民間人が多く、日本では政治家が多いようですが・・・。

次に、時々このブログで引用している作曲家=指揮者、ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督の伊東乾氏が、1月20日付けJBPressに寄稿した「世界に恥を晒した東京オリンピック関係者 あり得ないザハ案買い取り提案、これ以上の国辱を許すな」を紹介したい(▽は小見出し)。
・2020東京オリンピックのメインスタジアムとなるべき新国立競技場の問題で、白紙撤回となった旧プランを設計したイラク出身の英国の女性建築家ザハ・ハディド氏の事務所に、未納文の建築設計料を全額支払う代わりに、著作権を譲るよう、日本スポーツ振興センターが要請していた、という驚くべき報道がありました。
・見る人が見れば仰天せざるを得ない、驚くべき「国恥」の状況ですが、著作権に親しみのない方にはピンと来ない場合があるようです。 そこで、この問題を基点に、著作権と知的財産権の問題を「卓越」ベースで考えてみたいと思います。
▽制作料と著作権の分別
・建築家が依頼を受けて建物を設計した、その図面をきちんと納品して対価を受け取ったのだから「著作権」くらい譲り渡してもいいんじゃないか・・・?  そんなふうに考える方が、存外たくさんおられるのではないでしょうか?
・実際私の周囲にいる若い人たちには、ぴんと来ないケースが少なくなかった。そういう人には、例えばこんな例を考えてほしいのです。
・今仮に、ベートーベンさんがラズモフスキー侯爵から委嘱を受けて、弦楽四重奏曲を納品したとしましょう。「大儀であった・・・」と、何百ギルダーとかの報酬を受け取ります。これが「制作料」ですね。 さて、ではその「ベートーベン作曲弦楽四重奏曲」が演奏されたとして、あるいはその譜面が発売されたとして、そのコピーライトは誰に入るべきものでしょう?
・仮にベートーベンに一銭も払わず、すべてラズモフスキー家が勝手に譜面を出版したり、CDを作って発売したりしたら・・・。時代考証がめちゃくちゃ、とか言わないでくださいね、分かりやすいよう、わざとそうしているので。どうでしょう?
・いや、実は大昔はこんなだったのです、著作権という概念ができる前は。実際、ベートーベンの時代、著作権という考え方はなかった。こういう未開な知的財産権の考え方を音楽の世界では「買取り」と呼ぶことがあります。
・この「買取り」例えばCMやゲームの音楽などでは現在でも普通に通用している商慣習にほかなりません。実のところ、第2次世界大戦後に「著作権」コピーライトという考え方が普及するまで、日本は知的財産権に関する考え方の普及が極めて遅れた社会でした。
・コピーすなわち複製に対する権利を考えるなら、台湾製や韓国製のブランド製品、バッグの模造品などを考えれば分かりやすいでしょう。要するに、遅れた社会でまかり通る知的財産権に関する低い意識を反映しているわけです。
・「ラズモフスキー侯爵がベートーベンに弦楽四重奏曲」で分かりにくければ、「JBPressが伊東さんに原稿を委嘱」という例で考えれば、より分かりやすいでしょう。今、皆さんが読んでいるこの原稿は、紛れもなくJBPressの委嘱で書いており、毎回原稿料をいただいています。
・では、仮に、変な例ですが、今ご覧いただいている私の連載を、JBPressが無断で書籍にし、新書として売り出したとしたら・・・。日本国内でどういう法律で裁かれるか、考えてみてください。非常に明確な著作権の干犯ということになります。
・同様に、仮に学生A君が私の原稿の一部を「コピーペースト」してリポートに無断転用したらどうなるでしょう・・・? 発覚すれば、学校から何らかの処分を免れません。
・つまり「著作権」という考え方が十分普及した社会、法で知的財産権が保障された社会において、それをなきがごとく振舞えば、当然ながら、民事・刑事の責任を問われることになります。
・仮に伊東さんが組んだコンピューターのプログラムをソフトウエアとして発売したとしましょう。それを無断でコピーして、つまりコピーライトを干犯して、あちこちのコンピューターにインストールして使用しているのが発覚すればどうなるか? 両手が後ろに回ることになるわけです。
▽作家の著作権を微塵も意識しない"土建屋的"感覚
・さて、これくらいまで準備しておけば「制作費」例えばデザイン料と著作権、コピーライトの違いはさすがに分かるようになるでしょう。
・やや特殊な例になりますが、今から100年前、私の祖父は米国デトロイトのGM(ゼネラル・モーターズ)のエンジニアをしていました。時は第1次世界大戦、初期の軍用車を設計していたのです。 外交官の家に生まれシカゴで育ちミシガン大学で学んだ祖父でしたが、血統的には日本人で高等学校だけは関西学院で学んでいます(そのとき2級後輩の山田耕筰氏と日本最初の民間合唱団「関西学院グリークラブ」というものを作りました)。
・大学は再び渡米してデトロイトで学びましたが、卒業して就職したGM、祖父が設計した「新時代の乗り物」「Vehicle」というもののエンジンを日本でも作りたい、と川崎重工業と二重社籍となり、さらに新時代の乗り物を作るために新会社設立、自分で引いた図面を本国に送り、100年前最初の「日本人が設計した国産自動車」を日米をまたいで作り出した。
・新会社は「ふそう」と言い、現在の三菱ふそうにつながりますが、この時代、つまりいまだ自動車という概念が全く新しく、社会にも根づいていなかった頃ならではの、長閑な話です。  ちなみに祖父が卒業した頃、ミシガン大学は「工学部工学科」1つしかなく、土木建築、真空管エレクトロニクスから水力発電所プラントの設計まで「必修演習」でやらされたノートが家に残っています。
・こんな時代でしたから、工業的な知的財産権といった考え方も非常に幼稚だった。 今、仮にフォルクスワーゲンの最新型エンジンの図面がBMWに横流しされていたとしたら何が起こるか? 仮に「私」が設計したエンジンでも、「私」が勝手にそれを複製して他社に回せば、ただごとでは済まないことが分かるでしょう。
・工学的な設計の「知的財産権」つまりデザインのコピーライトは、デザイン委嘱料と全く別のレベルに属する強力な権利で、あだや疎かにすれば法廷に訴えられ、ま100%敗訴することは間違いありません。
・で「ザハ案」です。 「競技場の設計図なんだから『複製』なんかしないんじゃないか?」 という方がもしおられれば、上の文意をきちんと読み取れていないことになります。
・(しばしば文意が読めないままツイッターなどに評を書いてくださる方があり、ちょうどいい題材になるようで、今年も何校か、私の文章を使って試験問題が作られる様子です。今年は特殊なものについて事前の問い合わせもありました) 
・よろしいでしょうか? 「設計料を全部払うから、出来上がった図面のコピーライトを渡せ」というのは、CMその他の音楽商慣習に見られる拙劣な「買取り」を建築作家に求めているという、凄まじいど田舎根性で日本の恥を世界にさらしているのにほかなりません。
・つまり「金を払うから、この図面の権利を寄越せ。それを適当に変えてA案B案K案など別のものに転用するが、それについては黙ってろ」という種類のことを、この恥ずかしい施主は言っているらしい。 いったいザハ・ハディドをどういう作家と思って、オリンピックの名のもと、この情けない醜態を世界に晒しているのでしょう?
▽ディコンストラクティヴィズムとジャック・デリダ
・ザハ・ハディドという名前で、左のようなカタカナでも「zahahadid」と横文字でもいい、グーグルで画像検索してみてください。 金髪のオバサンが登場しますが、この人はヨーロッパ人ではない。今まさに荒れに荒れているイラクのバクダードで1950年に生まれ、サダム・フセイン率いるバース党が力を持つと家族で欧州に脱出、英国で学んだ人物です。
・イスラム女性建築家ザハが設計する、ヴェールのような曲線的な建築物を、「特異」(あるいは「珍奇」)と見 る人もおられることでしょう。 彼女を含む一群の建築家の設計スタイルを「脱構築主義(ディコンストラクティヴィズム)」と呼びます。「気持ち悪い変な形」と思われるかもしれません。実は私も四半世紀ほど昔は「気持ち悪い変な音」でNHKニュースのテーマなどを作っていました。
・自分自身も「ディコンストラクティヴィズム」にかぶれて作曲していた時期があり、ザハのみならずダニエル・リベスキント、ピーター・アイゼンマンあるいはやや世代が上がりますが磯崎新の建築から多くのヒントを得て、1990年代初頭、芸術音楽家として仕事を始めた経緯があります。
・何を言いたいかと言えば、ザハにしろアイゼンマンにしろ、ゼネコンの陳腐な分業再生産ではない、形の0の0から作り出していく高度な作家性を持って建築設計をしているということです。)
・ザハで言うなら、斬新過ぎるその形は初期には多くが実際の建築に至らず「アンビルドの女王」などと呼ばれ、30数年前から米ハーバード大学、コロンビア大学などの教壇に立ち、大英帝国勲章コマンダー、女性としては初となるプリッカー賞なども受けています。
・ザハやアイゼンマン、リベスキントなどの作風に関連して使われる「脱構築」という言葉は、フランスの哲学者ジャック・デリダの思想に端を発します。 ここで「脱構築」に深く踏み込むつもりはありません(私のこの関連の見解にもしもご興味の方があれば1990年代に青土社「現代思想」などに記した拙稿類をどうぞご参照下さい)が、1990年代、私が書いてオンエアされていたNHKのニュースや教育テレビ「芸術劇場」オープニングテーマ、などの日常の感覚からすれば「歪んだ」響きや音楽のすべては、商用で蔓延するサウンドの「脱構築」という転倒戦略をもって芸術人として手間と時間をかけて作曲したもので、当然ながら著作権はすべて私の手元に残ります。
・全く同じことが、作家性を持って看板を掲げ闘っている建築家にも言えます。
・ここで重要なことは、ザハたちの建築が、単に注文主に「スタジアムを作ってほしい」と言われ「喜んで!」と形だけ作ってギャラをもらう、大手ゼネコンの設計請負屋の類ではなく「スタジアム」というものはいったい何であるか、それを一度徹底して突き詰め「脱臼させ」その結果として得られた形を作品として結実させる、高度な作家性、思想性、哲学的な深みを持つ「作品」だということです。  そこに、いったい日本のド田舎土建屋根性は何を言ったのか?
▽もうやめたらどうか?
・要するに何も知らない。という以前に、何の思想もない。安藤忠雄も何一つ思想のない建築と私は思いますが(だから成功したのですが)、リベスキントのような徹底したユダヤ思考の塊、あるいはザハという女性イスラムのある極限にいるような怪物を捕まえて、「設計料は予定通り出すから、図面のコピーライトは全部譲って、本当はザハ案基礎ということも一切黙っていてほしい」
・いったいこれは何ですか? もし仮に、これがトヨタ自動車の技術陣からホンダのエンジン開発チームへの話で、「エンジンの設計料を全額出すから、図面のコピーライトは全部譲って。見かけはトヨタだけど実はホンダだというのは一切黙っていてほしい」なんていうことが考えられますか? トヨタにもホンダにも、意地もプライドもあります。転地がひっくり返っても、そんな恥さらしなことはしないでしょう。と言うかできるはずがない。
・それを平気でするということは、天地がひっくり返る以前に、意地もプライドも何もない連中が「スポーツと文化の祭典」と称して大きな金額を回していたということでしょう。
・関係した人間は、全員即座にまず辞職、そして二度と、こうした仕事に近づかないことでしょう。様々な責任も問われ得る事態です。本当に「愛国」を思う人から考えれば、日本の顔にこれくらいハッキリ泥を塗ったケースも昨今珍しい。
・万死どころで済むレベルではありません。 全世界に日本の知的財産権の意識が低劣の極みにあることを、高らかに宣言した今回の大失態、単に関係者すべてを解雇するだけでは済みません。全員更迭は必須不可欠、こんな根性の人たちを現場に張りつかせて、これ以上の失墜などあり得ないことです。
・最悪の「知財干犯未遂事件」と正確に理解される必要があるこの体たらく、エンブレムのパクリ問題といい、もうこの国の偽クリエーションの現状・・・。終わっています。
・もうやめた方がいいんじゃないか? と言うよりオリンピック自体、こんな低俗な倫理レベルで。どの顔で「スポーツと文化の祭典開催」などと言うつもりなのでしょうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45798

日本のマスコミは、日本JSCの言い分だけを報道しているので、私も恥ずかしながら、ザハ氏が怒っているのはイスのデザインが似ていた程度のため、といった極めて低いレベルの理解しかしていなかった。宋氏が英国の新聞記事の紹介を通じて指摘している「契約精神の欠如」は、誠に恥ずかしい限りだ。
伊東乾氏は、さらにザハたちの「脱構築主義」に音楽面で同調していた経験も踏まえ、より深い角度から日本の知的財産権意識の低さを鋭く指摘している。「ザハたちの建築が、単に注文主に「スタジアムを作ってほしい」と言われ「喜んで!」と形だけ作ってギャラをもらう、大手ゼネコンの設計請負屋の類ではなく「スタジアム」というものはいったい何であるか、それを一度徹底して突き詰め「脱臼させ」その結果として得られた形を作品として結実させる、高度な作家性、思想性、哲学的な深みを持つ「作品」だということです」ということは、施主の言いなりにながちな日本の建築界の常識は通じないということだ。その意味では、ザハ氏のことを十分承知している筈の隈研吾氏が、JSCの言いなりに危ない橋を渡ったことになる。ザハ氏側は巨額の損害賠償請求を検討中とされる。国際紛争になるのを回避すべく和解に持ち込む場合でも、和解金は巨額になるだろうし、裁判になれば日本の恥が白日にさらされることにもなる。
この問題の他にも、東京オリンピック(五輪)予算膨張は1月10日に取上げたように、問題が続出している以上、「もうやめたらどうか?」に賛成せざるを得ない。
なお、このブログ自体も、各種の記事を転載するのに際に、筆者の了解を取っている訳ではないので、厳密に言えば著作権法などに触れている可能性があるが、記事をPRする効果もあるので、大丈夫だろうと割り切っている次第である。
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