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人生論(その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ) [人生]

人生論については、3月29日に取上げた。今日は、(その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ)である。

先ずは、4月3日付け現代ビジネスが掲載した主婦の若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/92672?imp=0
・『若年性アルツハイマー病で、東京大学を早期退官した若井晋。沖縄での療養などを経て病を公表し、それがきっかけで「認知症当事者としての講演」という生きがいを見つけた彼だったが、症状の悪化からついに講演は不可能となった。妻とともに日常に戻った彼は、介護保険サービスを利用してデイサービスに通い始める。そこで明らかになった、認知症の当事者だからこその苦悩とは? 近刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子・著、講談社)よりお届けする。 【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」 【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実 【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩 【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか? 【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界 【第6回】元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」 【第7回】アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由』、興味深そうだ。
・『弱っていく体、澄んでいく心  講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました。 ■2010年  この年に介護保険を使い始めたことはすでに書きました。家で私たちは畳に布団を敷いて寝ていましたが、晋が立ち上がるのが難しくなったのがこの頃です。 幸い、ケアマネジャーさんが介護ベッドの導入を提案してくれたおかげで、解決することができました。 ■2012年  講演を通じて偶然知り合った医師の助言をきっかけに、デイサービス(デイ)に通い始めました(後で書く通り、うまくなじめず、いくつかのデイを転々とするのですが)。 この頃から、入浴に危険を感じるようになりました。滑りやすいタイル張りの浴室で、晋の大きな体を支えられるか、それだけの力が私に残っているか、不安になったのです。 ケアマネジャーさんに相談したところ、さっそく屈強なヘルパーさんを紹介してもらうことができ、見守りと介助を受けられるようになりました。 ■2015年(晋の要介護度は、最重度の「5」に引き上げられました。 そして、この年のある日、ついに晋が立ち上がれなくなります。 以前から足が上がりにくくなり、車にも乗れず、外出が減っていました。 ソファに座っても、自分の力だけでは立ち上がることができません。それでも、私が晋の前に立ち、両足で彼の足をしっかり踏んで固定し、手を握って全体重をかけて引っ張り上げれば、まだ立たせることができたのです。 しかし2015年のある冬の日、ついに手伝っても立てなくなりました。私が引っ張り上げるのに合わせて、晋も立とうとします。でも足に力が入らないのか、くにゃ、となってしまうのです。 それまでの「立てない」とは、明らかに様子が違いました。そこで私はまず、彼をなんとか座布団の上に座らせ、その座布団を引っ張って寝室へ移動し、ベッドの横に敷いた布団に彼を転がすように寝かせました。 私は力自慢ではありませんし、晋とはだいぶ体格差があるのですが、これが「火事場の……」というものでしょうか。 ともかく、翌朝ケアマネジャーさんに連絡をとると、さっそく訪問看護師が3人、我が家に飛んできて、晋を布団からベッドに移してくれました。 夏には誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)も経験し、1ヵ月半にわたって入院。 晋にとっては多難な年でした。 ■2016年(肺炎で再び入院。しかし前回の入院で、晋には病院での生活が負担になると痛感していたので、自宅での療養を選びました。抗生剤が効き前後10日ほどでデイサービスに通えるくらい回復したのは幸いでした。 こうして晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。 言葉を失い、寝たきりになった晋。 生きていて、幸せなのでしょうか。 尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています。その幸せそうな顔を見ていると、問うこと自体が無意味にも思えるのです。 ただ、この静けさに至るまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした』、「東大教授」から「寝たきり」になることを受け入れるには相当の時間が必要だった筈だ。
・『デイサービスになじめない  少し話が戻りますが、晋がデイに行き始めたのは、些細なことがきっかけでした。2012年に招かれた日本老年精神医学会の講演で、M先生という医師から、 「ぜひ、診断に使ったMRIの画像を見せてほしい」と申し出がありました。さっそく一式お送りすると、しばらくしてお便りが届きます。 その手紙のなかでM先生は、晋は「緩徐進行性非流暢性失語症(かんじょしんこうせいひりゅうちょうせいしつごしょう)」かもしれないと指摘したうえで、それでも、 「アルツハイマー病の可能性は否定できない。言葉を出してください」と書いてあったのです。そのことを説明しながら、私は彼にこうすすめたのでした。 「晋さん、言葉のリハビリだと思って、デイサービスへ行ってみたら」 「行くよ」 即答でした。リハビリという言葉が気に入ったのでしょうか。あとで子どもたちにこの一部始終を話すと、 「やっぱり、医者に言われると行くんだねえ」と納得顔。さっそくケアマネジャーさんに相談し、とりあえずデイに週1回、半日通うところから始めます。 これまで晋とふたりきりで、あまりにも密な生活を続けていた私は、晋が留守の間どう過ごそうか、あれこれ考えて夢を膨(ふく)らませていました。 晋も当初は、デイを楽しんでいました。 早くから支度をして外に出て、迎えの車を待つ、なんてこともしていたほどです。気持ちよく入浴させてもらい、笑顔で帰ってくる日が続いていました。 ところが、通い始めて3ヵ月ほど過ぎたころから、時折、暗く険しい顔つきが目立つようになりました。ついにある日、送りのデイ職員から、 「今日は職員の髪をひっぱりました」という報告が――。 「どうしたの? 何があったの?」尋ねても、晋はうつむいたままです。それでもしつこく問うと、たどたどしくはありましたが、彼の言葉からようやく事情がつかめました。 同じデイを利用するお年寄りから、「あの人は何もできない」と言われたそうなのです。 「それくらいのことで、落ち込んじゃだめだよ」 「落ち込んじゃいけないね」――そう言う晋は、しかし、うなだれたままです。 「もう、無理して行かなくていいよ。行きたくなかったら、やめていいんだよ」 私はたまらずこう声をかけました。 ケアマネジャー経由でデイに聞いても、「悪口」があった事実は確認できませんでしたが、こうして晋は、初めてのデイを去ることになったのです』、本人が嫌がる事情を聴き出せないというのも、ケアする奥さんにはストレスだろう。
・『心に刻まれる苦しさ  この時期の晋は、ふだんから「何もできない」ことを気にしていました。小さな悪口にみえるかもしれませんが、本人にとっては「無能」の烙印(らくいん)を押されたようなもので、何にもまして屈辱的だったのではないでしょうか。 実際、デイでの一件は、彼の中でずっと尾を引いていたのです。ある夜、布団に入った晋が言います。 「僕は何もできない」 「何もできないのが病人じゃない? でも晋さんは散歩にも行ける。電車にも乗れる。歌も歌えるじゃない」 「ありがとう」 ようやく眠りに入るのでした。 また、こんなこともありました。デイをやめた少しあと、私が発熱して一日家で寝ていたことがありました。晋がそばに来て、おろおろしながら尋ねます。 「誰かに何か、言われたんじゃないの」 「誰も何も言わないよ」私はあわてて打ち消しましたが、内心、驚きでいっぱいでした。 晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした。 認知症は物忘れの病気だといわれます。確かに、具体的なことは時間とともに忘れてしまうのでしょう。でも、苦しさは深く心に刻みこまれるのだと痛感した出来事でした』、「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。
・『「ちがうんだよ」と騒いでしまう理由  それでも、しばらくすると晋は、また別のデイに通うようになりました。家で退屈そうにしているのを見かねて、私がすすめたのです。もちろん、私自身にも、骨休めしたいという気持ちがありました。 2つめのデイ。ここでも晋は、当初ごきげんで通っていました。職員からは「先生」と呼ばれ、ほかの利用者と歌ったり踊ったり、楽しめていたようです。 「僕って面白いでしょ」 これが当時の、彼の口癖でした。しかし残念ですが、いい時間は長く続きません。) デイは毎回、行った日の詳しい出来事を「連絡ノート」で報告してくれます。そのノートからは、晋が次第に疲れをためていることが伝わりました。 「うるさい!」 そう大声を出すようにもなっていきました。 通い始めて5ヵ月ほど過ぎた、6月のある日。ついにこんな電話が入ります。 「先生が興奮しているので、来てくれませんか」 デイからでした。急いで迎えに行き、連れ帰りました。 何があったのか……「連絡ノート」を開くと、こんなくだりが目に飛び込んできます。 ■6月×日 9時15分(ホーム着です。室内を歩かれています。「うるさい!」を連発して言っています。 ずっと、「ちがうんだよ、ちがうんだから」 「何度も言ってるじゃないか。わかってください。場所がちがうんだ、やめてくれ」と大きな声で言われています。 「人がちがうんだから、ボクはボクで一人でやってるの、わかった?」 「わかったか! やめてよ!」とずっと興奮されています。まわりのことは見えてないようです。 ■11時40分(早めの昼食にしました(鶏の天ぷら、春菊のごま和え、リンゴ、トマト、レタス)。鶏の天ぷら、トマトは完食です。リンゴは2人分食べました。ごはん、みそ汁、春菊は残っています。 ■12時(歩きながら食べています。だいたい食べると 「うるさーい!」を連発して歩いています。 「ちがうんだからやめてよ本当に!!」 「だからいいよ、もう」 デイで「ちがう」としきりに口にしていることがわかります。 「晋さん、どうしたの、何かあったの?」 「僕はひとりなんだよ」 「いったい、何が『ちがう』の?」 「僕は今までの僕とはちがうんだから、わかってほしい。相手の言うことを一生懸命理解しようとすると、頭が疲れてきて、何が何だかわからなくなる。わかるように話してほしい」 「『場所がちがうんだ、やめてくれ』っていうのは、どういうこと?」 「場所が我が家とちがったり、知らない人に何か言われても、さっと理解できないし、言葉が出ない」 ゆっくりとではありましたが、晋が理路整然と説明することに、私は驚きを隠せませんでした。 このとき彼から聞き取ったことを私なりにまとめると、次のようになります。 「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした。 最高学府の教授でもあった夫・若井晋。その彼が若年性認知症になるとき、本人は、そして家族は、どうしたのか。病を受け入れてもなお歩き続けた夫婦の軌跡を、妻・若井克子が克明に描き出す新刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』は、全国の書店・ネット書店にて好評発売!』、「「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、「東大教授」であっても、「若年性アルツハイマー」になると、ここまで苦しむということに、改めて驚かされた。

次に、7月9日付け文春オンラインが掲載した精神科医の和田秀樹氏による「「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する、80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/55489
・『「人生100年時代」と言われているが、心身ともに自立して健康でいられる「健康寿命」の平均は、男性72歳、女性75歳となっている。これは、「80歳の壁」を超える前に寝たきりや要介護になってしまう人が多いことを示しているのだ。 ここでは、30年以上にわたり、高齢者医療の現場に携わる精神科医・和田秀樹氏の著書『80歳の壁』(幻冬舎新書)から一部を抜粋。老化を防ぎながら「80歳の壁」を超えるために、和田氏が提唱する“我慢しなくていい生活方法”を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)』、「80歳からの“我慢しない愉しみ方”」とは興味深そうだ。
・『食事は我慢しない。食べたいものは食べる  食べたいものを我慢している人は多いでしょう。食べる量を減らす、塩辛いものや甘いものを避ける、脂っこいものを控えるなどは、よくあるケースです。 世間の常識では、太っていると健康が損なわれ、「塩分、糖分、脂質」は3大害悪のように言われているからです。 でも、本当にそうなのでしょうか? 「食べたい」と思うのは体が求めている、とも考えられます。高齢者は臓器の働きが落ちるため、これが欲求を生んでいる可能性があるのです。 たとえば、塩分がそうです。人間は、ナトリウム(塩)がないと生きていけませんが、高齢者の腎臓は塩分を排出し、血中の塩分不足を起こすことがあるのです。 腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです。 食事の量もそうです。くどいですが「少し太っている人のほうが長生き」というデータは世界中にあります。つまり、太り気味であるほうが好調だと体のほうが知っていて、脳を通して「食べたい」という信号を伝えているとも考えられるわけです』、「腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです」、「老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまう」、とは初めて知った。
・『「食べたいものを我慢してダイエット」は寿命を縮める?  たしかに60代くらいまでは、塩分の摂り過ぎも太り過ぎも、健康を損なう原因になるかもしれません。しかし80歳も目前の幸齢者(編注:書籍内では、80歳を超えた高齢者を「幸齢者」と呼ぶ)になったのなら、その常識は一度忘れたほうがいいと思います。 「食べたいものを我慢してダイエット」など自ら寿命を縮める行為です。栄養不足は、確実に老化を進めるからです。 もちろん、無理に食べる必要はありませんが「食べたい」と思うなら、我慢せずに食べたらいいのです。 体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です。 人間の体は、じつによくできています。それを信じればいいのです。 ちなみに、前述の低ナトリウム血症は、意識障害や痙けいれん攣などを引き起こします。 ふだんは逆走や暴走をしない高齢ドライバーによる逆走事故や暴走事故などは、もしかすると低ナトリウム血症が原因で意識が飛んだのではないか。あるいは、血糖値や血圧を下げ過ぎて頭がぼーっとしたのかも……などと、複数の原因が考えられるのです』、「体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です」、まだその年齢に達してはいないが、そのうち、「体の声を素直に聞」いてもよくなるとは、待ち遠しい気もする。
・『興味あることは我慢しない。どんどんおやりなさい  本当はしたいのに「いい年をして」という言葉が頭に浮かび、我慢してしまうことはありませんか? でもやはり、したいことは我慢せず、やったらいいと思います。 たとえば、性的なこともその1つかもしれません。世間の常識では「年甲斐もなく」と非難されそうなことです。しかし健康面から言えば、積極的になっていいと思います。なぜなら、男性ホルモンが増えるからです。 数年前、歌舞伎町で違法なわいせつDVDを販売して、店員が逮捕される事件がありました。この事件で話題になったのが、常連客に高齢の男性が多かったこと。店には老眼鏡やルーペが常備されており、警察官が踏み込んだ際にも80歳を過ぎた男性客がいたと報道されています。この1月末にも同様の逮捕劇がありました。 「違法なDVD」は推奨できませんが、児童ポルノとは違い、欧米では合法のものです。それ以上にそれを見たいと思うのは健康の証です。また、このような性的映像は男性ホルモンの分泌を高めるので、「元気の源」になっている側面もあると思うのです。 もちろん「したいこと」は、エロティックなものだけではありませんし、男性に限った話でもありません。 「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです』、「「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです」、「ブレーキ」をかけるというつまらないことをする必要はない、というのは嬉しい限りだ。
・『男性ホルモンは元気の源。したいことをして脳も体も元気に  何かに興味を持つということは、脳が若い証拠です。実際、それを実行することで、脳は活性化し、体も元気になります。 それは男性ホルモンから見ても明らかです。年を取ると、体内の男性ホルモン量は自然に低下していきますが、多い人のほうが元気なことは、医学的にも証明されています。 男性ホルモンは、タンパク質の多い食事や運動習慣によっても、ある程度保つことができます。たとえば肉には、男性ホルモンの材料になるコレステロールが含まれており、肉をしっかり食べる人のほうが元気を維持できます。コレステロール値を下げる薬を飲み続けるとED(勃起障害)になりやすいのは、このためです。 80歳にしてエベレスト登山を成功させた三浦雄一郎さんは、まさに「元気」の代名詞のような方ですが、男性ホルモンの一種であるテストステロンを注入していることは有名な話です。 三浦さんは76歳のときにスキーで転倒し、大腿骨と骨盤を骨折する大ケガをします。入院で筋力も低下し、トレーニングの気力も削がれたそうですが、その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかったと語っておられます。シアリスやバイアグラのようなPDE5阻害剤は、動脈硬化を和らげる作用があることが知られています』、「三浦雄一郎さん」が、「大腿骨と骨盤を骨折する大ケガ・・・その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかった」、初めて知った。
・『衰えるに任せておけばどんどん衰退するが……  もちろん、トレーニング(運動)を継続していたことや、エベレスト登頂の目標を見失わなかったことも、三浦さんの元気の秘訣だったことは間違いありません。 年を取ると、筋力や臓器だけでなく、脳も老化します。認知症はそうした老化現象の1つです。なかでも一番多いのはアルツハイマー型で、「脳が縮む」と言われているタイプです。 実際に脳を解剖すると、海馬や前頭葉に萎縮が見られます。海馬は記憶を司つかさどる部分、前頭葉は思考や感情、行動や判断を司る部分です。人間が人間らしく生きるために、最も必要な部分が前頭葉なのです。 前頭葉の働きが衰えると、日常生活では次のような変化が生じてきます。 たとえば、考えることが面倒になる、感情をうまくコントロールできなくなる、 喜怒哀楽が激しくなる、意欲が衰える、集中できなくなる、などです。 人間の体はよくできており、使わない機能は退化していきますが(廃用性萎縮と言います)、使えば活性化していきます。とくに脳はその傾向が顕著です。 つまり、衰えるに任せておけばどんどん衰退しますが、奮起して使えば活性化させることができるわけです。 そして、最も効果があるのが「したいことをする」ということです。前頭葉にとって、それはとても刺激的なことで、脳が活性化するのです。 楽しいこと、面白そうだと思うことほど、脳にとっては刺激的です。反対に、つまらないことや、我慢を強いると、脳の働きは鈍ります。 我慢をして毎日をつまらなく生き、脳を萎しぼませていくか、したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていくか――。 したいことをすることは、脳の老化を防ぐためにも必要なのです』、言うまでもなく、「したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていく」方を選択したい。
・『エロティックは否定しない。いくつになっても刺激を求めていい  性欲についても再度話しておきましょう。日本人はタブー視しがちですが、本来、性欲は自然な欲求であり、とても大切なことです。 残念ながら、性欲は年齢と共に落ちていきます。とくに男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます。 性欲があることは、恥ずかしいことではありません。男性も女性も可能なら、積極的に性の営みをしたらいいと思っています。 少し前に新聞の「悩み相談」に、79歳の男性の投稿がありました。「毎日のように自慰をする自分は異常なのか?」という悩みでした』、「男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます」、こんなに男女差があるとは初めて知った。
・『自分の性欲を「不謹慎だ」と考える必要はない  回答者のコメントは忘れてしまいましたが、私が答えるならこうです。 「異常ではありません。素晴らしいことだと思います。男性ホルモンが十分分泌されている証拠です。恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながりますよ」 女性も同じです。「不謹慎だ」などと考える必要はありません。ある人も、まったくない人もいますが、それは個人差です。新たなパートナーを求めたり、年下を相手にしたりすることにも躊躇する必要はないと思います』、「恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながります」、誠に嬉しい限りだ。

第三に、9月22日付けPRESIDENT Onlineが掲載した一橋大学名誉教授の野中 郁次郎氏による「「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/60930
・『ビジネスパーソンに必要な能力とはいったいなにか。一橋大学の野中郁次郎名誉教授は「私は『知的バーバリアン(野蛮人)たれ』と繰り返してきた。学校秀才は予測不可能な変化や危機に対応できない。ビジネスの現場でこそ、人類が狩猟民族時代から発揮してきた『野性』の発揮が重要になる」という――。※本稿は、野中郁次郎『野性の経営 極限のリーダーシップが未来を変える』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです』、「野中」氏の見方とは興味深そうだ。
・『マニュアル頼りの“学校秀才”は突然の危機に弱い  昨今の世界情勢を念頭に置けば、予測不可能な変化や危機が次々と訪れる複雑性に満ちた世界を我々が生きていることは自明である。ロシアのウクライナ侵攻は、過去の常識や前例から見ればありえない、想定外の事象が起こりうる現実をわれわれに否応なく突きつけた。 突然の天災は、人間がコントロールすることはできない。しかしコロナ禍が示したように、極限状態において間違った対応の連鎖が続けば、それが人災になってしまうことがある。状況変化に応じた判断は、後戻りできない「一回性」という性質をもつ。ほんの一瞬の判断が、のちの大きな出来事の引き金につながり、将来の差異を生む。 足元の日本を見れば、世の中でもてはやされるのは手早く物事を解決してくれそうな「ハウツーもの」だ。極限の状況にあっても、流行の○○シンキングや○○思考、○○テクノロジーを駆使すれば、うまく対処できるのだろうか。 答えは否だ。むしろ、これらは人間が本来もっている直観や創造性を劣化させるかもしれない。 ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない。「ストリート・スマート」という言葉があるが、彼らは、その反対語である「ブック・スマート」や「アカデミック・スマート」で、日本語でいえば「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない』、「ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない」、「「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない」、その通りなのだろう。
・『分析・計画・統制の行き過ぎは野性を殺してしまう  混沌とした状況に対し、机上の空論や定石は役に立たない。一方の「ストリート・スマート」は、すべての現場・現実・現物にありのままに向き合う。一切の先入観を排除して、表象の背後にある意味を見抜き、臨機応変に対応する。思えば、人類は狩猟民族時代からそうやって生き抜いてきたのではないだろうか。 危機に絶対解はない。データ解析したところで、正解が得られるとは限らない。現場の文脈や質的な側面が削ぎ落とされた数値分析だけでは、暗黙的なものを含めた全体像を捉えられず、正しい判断はできない。刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう。合理や数値に還元できないものを封じ込めてはならない。 オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある。 「人的資本経営」がまた再注目されているが、人間を資本というモノとして扱っている限り、イノベーションは起きない。本来、人は未来に向かって意味をつくり出す動的存在だ。論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか』、「刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう」、「オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある」、「論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか」、その通りだ。
・『なぜアナログがいま再評価されているのか  いまやコンピュータ・テクノロジーは我々の生活を激変させ、インターネットは生活に深く入り込んでいる。今世紀に入るとバイオテクノロジーや人工知能(AI)などが日々発展し、メタバース、デジタルツインなど、仮想現実や疑似現実の世界も生まれ、空飛ぶクルマや宇宙旅行など、ひと昔前のSF小説に描かれた空想も現実となってきている。現代に生きる我々の生活が、科学やテクノロジーに依存していることは間違いない。 デジタルの波が押し寄せる一方で、一度は廃盤になったアナログな製品やサービスが復活し、若い人にも売れている。フィルムカメラは、現像に時間がかかり、どう映っているかわからないが、ワクワクする。レコードには、デジタル音源にはない味わいがある。フィジカルなモノと経験(コト)は、身体感覚を揺さぶるのだ。そこには、デジタルの世界では体験できない質感(クオリア)がある。アナログは、不便で不安定であり、不完全だ。アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか』、「アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか」、なるほど。
・『失敗や葛藤こそが人間の創造性を高める  人間は、生身の身体で五感を使って身体知を得ている。気配や空気感、という言葉があるが、それは数値化できない世界だ。日常生活のなか、全身で無意識に浴びているものすべてが暗黙知を豊かにし、感覚を磨いてくれる。「あうんの呼吸」も野性の最たるものだ。人間には自然に間合いを計る創造的な知が身についている。いわばクオリアを互いにやりとりしながら、「いま・ここ」の絶好のタイミングで呼吸を合わせる野性が人間には存在する。 人間は情報処理マシンではない。行間を読み、ニュアンスを感じられる人間とは異なり、AIは情報を機械的に処理することしかできない。人間は無限に広がる世界のなかで、環境と無意識のレベルも含めて相互作用し、共鳴しながら、全身で浴びた経験や感覚を主体的に意味づけられる。永遠の命が保証されない限りある人生のなかで、「過去・現在・未来」という流れを生き、創造性を発揮するのが人間だ。人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する』、「人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する」、その通りのようだ。
・『集合知化していくために必要なこと  アップル創業者スティーブ・ジョブズは、かの有名なスタンフォード大学卒業式でのスピーチで、「点と点をつなぐ」ことの大切さを説いた。人間は、まったく無関係の点であったはずの経験や知識をつなぎ合わせ、「いま・ここ」での文脈に応じて何かに転換する力をもっている。身体知など過去から蓄積してきた豊かな暗黙知が無意識に結びつくことによってブレークスルーが起きる「セレンディピティ」の力である。「フレーム問題」を持ち認識枠の限界があるAIとは大きく異なる点だ。AIには不可能な、共感と本質直観を同時にこなすことを、人間は「いま・ここ」で自然に行なっている。 人間は一人では生きていけない。一人ひとり(一人称)が感じたクオリアや直観を言語化・形式知化し、既存の科学もテクノロジーも含めてあらゆる知を総動員して集合知にしないと、社会や組織(三人称)で価値あるものとして共有できない。人間は、出会ったものとの関係性を一つひとつ育み、そのかかわりを通じて、一人ではなしえないことを共創し、達成してきた。一人称と三人称を媒介するのは、他者や環境の存在との相互作用における「共感」(二人称)だ。 しかし、真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである』、「真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである」、余り簡単なことではなさそうだ。
・『真の共感を生むことが組織の基盤になる  前例・慣例や手続きを優先したり、セクショナリズムで権限や既得権益にこだわったりすると、健全な議論は起こらず、機動的な対応は阻害される。同調圧力を退け、役職や立場や出自を超え、みなが知恵を持ち寄って徹底的に対話しなければならない。同じものが重なり合っても何も生まれないのは当然だ。異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう』、「異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう」、「野中先生」の理想とする姿だ。
・『正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた  筆者は、長らく「知的バーバリアン(野蛮人)たれ」と訴えてきた。「知的バーバリアン」は「知性」と「野蛮」を総合する「野性」を有する。正解もなく、定石が通じないこの世の中で、「知的バーバリアン」として必要なのは、二項動態(dynamic duality)思考と実践であろう。アナログとデジタル、暗黙知と形式知、安定と変化、アートとサイエンス、理想と現実など一見相反する事象の狭間で思い悩むことがあるかもしれない。対立項を対立項のまま扱って、どちらを棄却したり、予定調和で中途半端に妥協するべきでもない。もっと言えば、対立軸は意図的に作り出していることがあることも見抜かなければならない。本当は、これらは両極のあいだで、グラデーションで緩やかにつながっている。 まずは、ありのままに現実の只中で、先入観なく「感じる」ことだ。考えるのではなく、全身全霊で感じるのだ。そこで生まれる共感を媒介に、忖度なしに徹底的に対話する。共感を基盤とした知的コンバットという二項動態の方法論は、弁証法を超えるものではないだろうか。 矛盾や葛藤、不均衡は、新たな知へと変革(transformation)する契機になる。「あれかこれか」の二元論(dichotomy)ではなく、「あれもこれも」と突き詰めるなかで、ちょうどよいバランスが取れる、突破口となる跳ぶ発想が降りてくる。一度決めたら機動的に実践し、やり抜いてみる。その試行錯誤のなかで変化を察知し、「いま・ここ」で直観し、決定的瞬間を逃さずに柔軟に対応する。 こうして瞬時に局面が変化しても臨機応変な打開策を繰り出し、現実的に試行錯誤しながらも、理想高くより善い方向へ向かおうとする組織や人間が生き残ってきた。「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ』、「正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた」、「「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ」、実践するのは難しそうだが、その通りなのだろう。
タグ:人生論 (その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ) 現代ビジネス 若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」 「東大教授」から「寝たきり」になることを受け入れるには相当の時間が必要だった筈だ。 本人が嫌がる事情を聴き出せないというのも、ケアする奥さんにはストレスだろう。 「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。 「「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、 「東大教授」であっても、「若年性アルツハイマー」になると、ここまで苦しむということに、改めて驚かされた。 文春オンライン 和田秀樹氏による「「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する、80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2」 和田秀樹氏の著書『80歳の壁』(幻冬舎新書) 「80歳からの“我慢しない愉しみ方”」とは興味深そうだ。 「腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです」、 「老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまう」、とは初めて知った。 「体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です」、まだその年齢に達してはいないが、そのうち、「体の声を素直に聞」いてもよくなるとは、待ち遠しい気もする。 「「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです」、「ブレーキ」をかけるというつまらないことをする必要はない、というのは嬉しい限りだ。 「三浦雄一郎さん」が、「大腿骨と骨盤を骨折する大ケガ・・・その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかった」、初めて知った。 言うまでもなく、「したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていく」方を選択したい。 「男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます」、こんなに男女差があるとは初めて知った。 「恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながります」、誠に嬉しい限りだ。 PRESIDENT ONLINE 野中 郁次郎氏による「「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ」 野中郁次郎『野性の経営 極限のリーダーシップが未来を変える』(KADOKAWA) 「野中」氏の見方とは興味深そうだ。 「ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない」、「「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない」、その通りなのだろう。 「刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう」、 「オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある」、 「論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか」、その通りだ。 「アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか」、なるほど。 「人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する」、その通りのようだ。 「真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである」、余り簡単なことではなさそうだ。 「異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう」、「野中先生」の理想とする姿だ。 「正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた」、「「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ」、実践するのは難しそうだが、その通りなのだろう。
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