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人生論(その12)(「若年性アルツハイマー」になっった「元・東大教授」2題(「意外な楽しみ」 それまでとは違った世界が見えた、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは)、作家・林真理子が説く「成熟した大人」の流儀 もらっても心が動かなかった企画書とは) [人生]

人生論については、昨年3月29日に取上げた。今日は、(その12)(「若年性アルツハイマー」になっった「元・東大教授」2題(「意外な楽しみ」 それまでとは違った世界が見えた、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは)、作家・林真理子が説く「成熟した大人」の流儀 もらっても心が動かなかった企画書とは)である。

先ずは、昨年3月29日付け現代ビジネスが掲載した主婦の若井 克子氏による「元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」 それまでとは違った世界が見えた」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/92664?imp=0
・『病気になって「いいこと」などあるのだろうか。きっと多くの人が「ない」と考えるだろう。だが、若年性アルツハイマー病で早期退職を余儀なくされた、東京大学の元教授・若井晋は、あると言うのである。果たしてそれはなぜなのか? 失語の症状で言葉を失いゆくなか、若井は講演やインタビューで、自らの率直な気持ちを語ってきた。彼はなぜ、そんな心境に達することができたのか。妻・若井克子がその様子を備(つぶさ)に記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社)からお届けする。 【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」 【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実 【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩 【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか? 【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界』、「若年性アルツハイマー」で「失語症」になったとあっては、「東大教授」を「早期退職」せざるを得なくなったのは、本人にとってはさぞかしつらかったことだろう。 
・『「人の価値」について語る  「『生きる』ことを考える――若年性アルツハイマー病と共に生きて――」 そんな演題が掲げられた私たちの2度目の講演は、都村先生の見事なリードでスムーズに進み、ついに終盤にさしかかりました。 「これ(アルツハイマー病)だけはいやだ」という言葉にせよ、エイリアンという言葉にせよ、まさしく病を得た当事者である晋にしか言えないことだったと思います。 うまく波に乗れたのか、会場からの質疑にも、晋はうまく答えていました。たとえばある参加者からは、 「人の価値についてどう思いますか」 と、こんな質問が。とっさには答えにくい問いですが、晋は動じるふうもなく、こう応じたのです。 「人生で一番大切なことは何か、ということが分からない人、分かる人、いろいろあると思うんです。その中で一人一人が自分の生き様に合わせて絶えず歩み続ける。そういう中で私も生きてゆきたい。これからも、この後も生きていきたいなと思います」 神戸講演は成功に終わりました。 晋がすっかりリラックスした様子で笑い、語り、会場になじんでいたのが何より印象的でした。私自身、彼につられて笑ってしまうことがあったほどです。 リラックス……と言うと、いかにも軽く聞こえることでしょう。しかし、このリラックスこそが大事なのだと痛感しました。 思えば横浜講演のときは、講演自体は失敗でしたが、その後ひらかれた立食形式の懇親会での晋の様子は、まったく異なっていたのです。どこで聞きつけたのか、国際地域保健学教室の秘書さんと学生数人が参加していて、 「先生!」 こう声をかけてくださったのですが、その瞬間、晋の顔がパッと明るくなったのがわかりました。そのあとは、わりと普通に談笑していたのです。 打ち解けた雰囲気のなかであれば、彼はまだまだ話すことができる……。神戸講演では、都村先生の配慮のおかげで、晋は壇上にいながらリラックスできたのかもしれません』、「人の価値についてどう思いますか」といった答え難い「質問」をした質問者のセンスを疑う。ただ、「動じるふうもなく、こう応じたのです。 「人生で一番大切なことは何か、ということが分からない人、分かる人、いろいろあると思うんです。その中で一人一人が自分の生き様に合わせて絶えず歩み続ける。そういう中で私も生きてゆきたい。これからも、この後も生きていきたいなと思います」、と答えたのはさすがだ。
・『「私は私であることがやっとわかった」 それでも晋が、少しずつ、少しずつ、言葉を失っているのは明らかでした。 自分で原稿やメモを用意することは、だいぶ前からできなくなっていました。たとえ用意できたとしても、もう読めなかったでしょう。 でも、リラックスした雰囲気のなかでは十分に自分の言葉で話せるし、答えやすく工夫された質問であれば、やりとりは十分、可能でした。 神戸講演が行われた同じ年、私たちはDIPEx-Japan(ディペックス・ジャパン)というNPO法人のインタビューを受けることになりました。患者本人の語りを記録・保存する活動をしている団体です。 インタビューの場所は我が家の書斎。インタビュアーと晋のふたりだけで取材が行われ、私は物陰でそれを聞いていました。 一対一の会話がよかったのか、晋はとりわけ伸び伸びと自己を語っていました。当時は近くの公園に毎朝ラジオ体操をしに出かけていましたが、そのことにも触れています。 質問者(以下「質」) (クリスティーン・ブライデンは)「アルツハイマーとはどんどん余分なものが取り払われて本当の自分になっていく」とおっしゃっていたけれど、その感じはいかがですか。 晋 今まで自分が何かいいことをしたとか、そういうものが私たちではないんじゃないかと思うんです。 大切なことは私たちが本当の自分と出会うことじゃないかと。自分が自分になって他の人と一緒に歩んでいけるというところが大切なんじゃないかと思いますね。 質 病気になってよかったなあ、と思われることってありますか。 晋 いいですよ。友人がいろいろ来てくれたり、友人のなかにスッと入れるようになった。いろいろな人とも一緒に行けるようになったし、それはすごくよかったですね。 朝のラジオ体操はいつも一緒にしているんですよね。毎日。そういう中でもいろんな人たちがいて、そこで話をしながらやっている。そのへんがすごくいいですね。誰でも一緒に行ってエンジョイできるところではあるんですね。何でもいいわけですよね。そこのところでは。 質 というと、以前はそういう楽しみ方はできなかったのですか。 晋 そうですね。 質 何かそれを妨げるようなことが? 晋 どうだったんでしょうね。確かに何かを、何かがダメだったんでしょうね。 質 時間的にゆとりがなかったとか。 晋 それはありますね。東大の時からですからね。その時はカサカサしていましたね。何か忙しいし、そういうこともあって、あんまりよくなかったですね。 質 いろんな所でスッと人と接したり楽しめる? 晋 自分はアルツハイマーという話をしましたし、みなさんも話してくれる。それはよかったです。 質 アルツハイマーになったことの意味が、ご自身のなかにあると考えていらっしゃいますか。 晋 私がアルツハイマーになったということが、自分にとって最初は「何でだ」と思っていました。けれども私は私であることがやっとわかった。そこまでに至るまでに相当格闘したわけですけど。ときどき妻とけんかしたりしましたが、だんだんと一緒にやっていくということが、やっとできているというようなことを最近考えていますね。 質 同じ病にかかった方、その家族の方へのメッセージを。 晋 「こういう病気はどうしようもない、何もできない」、多くの人がそういうことでこの病気を考えていると思います。私がそのことに対して皆さんに「そうでないんだよ」と言えることができれば一番いいのではないかと思います』、「質 病気になってよかったなあ、と思われることってありますか。 晋 いいですよ。友人がいろいろ来てくれたり、友人のなかにスッと入れるようになった。いろいろな人とも一緒に行けるようになったし、それはすごくよかったですね。 朝のラジオ体操はいつも一緒にしているんですよね。毎日。そういう中でもいろんな人たちがいて、そこで話をしながらやっている。そのへんがすごくいいですね。誰でも一緒に行ってエンジョイできるところではあるんですね。何でもいいわけですよね。そこのところでは。 質 というと、以前はそういう楽しみ方はできなかったのですか。 晋 そうですね」、「病気になってよかったなあ、と思われることってありますか。 晋 いいですよ。友人がいろいろ来てくれたり、友人のなかにスッと入れるようになった。いろいろな人とも一緒に行けるようになったし、それはすごくよかったですね」、「病気」いなってよかったとは意外だ。
・『「苦悩と同一ではない何か」に向かい始めた晋  沖縄に住んでいたころ、晋は、 「自分は何もせずに朽ち果てるのか」と怒って、朝になっても寝床から起きてこないことがありました。自分の病についても、積極的には語ろうとしませんでした。 病を公にする活動は、そんな彼の苦悩に意味を与えてくれたようです。 クリスティーンが愛読していることを知って、私がふと手に取った本があります。オーストリアの精神科医、V・E・フランクルの著作『苦悩する人間』(春秋社)です。ナチス政権下でユダヤ人として収容所生活を経験したフランクルは、苦悩について次のように書いていました。 苦悩を志向し、有意味に苦悩することができるのは、何かのため、誰かのために苦悩するときだけなのです。(中略)意味に満ちた苦悩とは、「何々のための」苦悩なのです。私たちは苦悩を受容することによって、苦悩を志向するだけではなく苦悩を通り抜けて、苦悩と同一ではない何かを志向するのです。 「Go to the peopleだね」 講演に出かけるとき私がこう声をかけると、晋は必ず、 「そうだよ」と応えていました。 〈医者だったころは多くの患者さんを治したけれども、今はその何倍もの苦しんでいる人に慰め、励ましを与えている〉 そんなお便りをくれた晋の友人もいました。 晋は、脳外科医だったからこそ誰よりも認知症を恐れ、なかなかそれを受け入れられませんでした。ですが今、あえて病を公表し、恐れることはないというメッセージを誰かに届けることで、「苦悩と同一ではない何か」を目指せるようになったのかもしれません。 とはいえ正直に書けば、日々の晋のサポートや講演に同行するのは、私にとって楽なことではありません。そして晋は、徐々に衰えていきます。 ゆったりしたスローライフが、私たちの生活の基調となりました。 ふたりで遠出することはよくありましたが、必ず手をつなぐようにしたのも、このころです。 人ごみのなかでは晋の手に力が入ります。緊張するからでしょうか。あるときは新宿駅で、彼が突然、大声を上げたことがありました。駅の構内はアナウンスや足音、話し声など、騒音に満ちています。私は気にも留めませんが、晋は音に耐えかねたのでしょうか。 彼の脳裏には、どんな風景が広がっていたのでしょう。 足腰が丈夫だった晋。かつては二段跳び・三段跳びで階段を駆け上がるので、置いてきぼりになるのは私でした。 今では晋は、注意深く一段一段上っています。そしてときどき、私にこんな抗議の声を上げます。 「君のペースにはついていけない」 「君は、やることが速すぎる」 どうしても上着を着られないことがありました。腹を立てた彼は、服を放り出してしまいました。思わずため息が漏れます。 「ああ……、もう少しで着られたのに」 「君は人のことを言いすぎる。僕は本当にアルツハイマーか? 死にたい」 一緒に寄り添って歩むことの難しさを、私はつくづく思い知らされるのでした。 最高学府の教授でもあった夫・若井晋。その彼が若年性認知症になるとき、本人は、そして家族は、どうしたのか。病を受け入れてもなお歩き続けた夫婦の軌跡を、妻・若井克子が克明に描き出す新刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』は、全国の書店・ネット書店にて好評発売!』、「足腰が丈夫だった晋。かつては二段跳び・三段跳びで階段を駆け上がるので、置いてきぼりになるのは私でした。 今では晋は、注意深く一段一段上っています。そしてときどき、私にこんな抗議の声を上げます。 「君のペースにはついていけない」 「君は、やることが速すぎる」 どうしても上着を着られないことがありました。腹を立てた彼は、服を放り出してしまいました。思わずため息が漏れます。 「ああ……、もう少しで着られたのに」 「君は人のことを言いすぎる。僕は本当にアルツハイマーか? 死にたい」 一緒に寄り添って歩むことの難しさを、私はつくづく思い知らされるのでした」、よくぞここまで「寄り添って歩む」ことをしてこられただけでも、立派だ。

次に、4月3日付け現代ビジネスが掲載した主婦の若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/92672?imp=0
・『若年性アルツハイマー病で、東京大学を早期退官した若井晋。沖縄での療養などを経て病を公表し、それがきっかけで「認知症当事者としての講演」という生きがいを見つけた彼だったが、症状の悪化からついに講演は不可能となった。妻とともに日常に戻った彼は、介護保険サービスを利用してデイサービスに通い始める。そこで明らかになった、認知症の当事者だからこその苦悩とは? 近刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子・著、講談社)よりお届けする。 これまでの記事はコチラ 【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」 【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実 【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩 【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか? 【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界 【第6回】元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」 【第7回】アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由』、「症状の悪化からついに講演は不可能となった。妻とともに日常に戻った彼は、介護保険サービスを利用してデイサービスに通い始める。そこで明らかになった、認知症の当事者だからこその苦悩とは?」、興味深そうだ。 
・『弱っていく体、澄んでいく心  講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました。 ■2010年 この年に介護保険を使い始めたことはすでに書きました。家で私たちは畳に布団を敷いて寝ていましたが、晋が立ち上がるのが難しくなったのがこの頃です。 幸い、ケアマネジャーさんが介護ベッドの導入を提案してくれたおかげで、解決することができました。 ■2012年 講演を通じて偶然知り合った医師の助言をきっかけに、デイサービス(デイ)に通い始めました(後で書く通り、うまくなじめず、いくつかのデイを転々とするのですが)。 この頃から、入浴に危険を感じるようになりました。滑りやすいタイル張りの浴室で、晋の大きな体を支えられるか、それだけの力が私に残っているか、不安になったのです。 ケアマネジャーさんに相談したところ、さっそく屈強なヘルパーさんを紹介してもらうことができ、見守りと介助を受けられるようになりました。 ■2015年 晋の要介護度は、最重度の「5」に引き上げられました。 そして、この年のある日、ついに晋が立ち上がれなくなります。 以前から足が上がりにくくなり、車にも乗れず、外出が減っていました。 ソファに座っても、自分の力だけでは立ち上がることができません。それでも、私が晋の前に立ち、両足で彼の足をしっかり踏んで固定し、手を握って全体重をかけて引っ張り上げれば、まだ立たせることができたのです。 しかし2015年のある冬の日、ついに手伝っても立てなくなりました。私が引っ張り上げるのに合わせて、晋も立とうとします。でも足に力が入らないのか、くにゃ、となってしまうのです。 それまでの「立てない」とは、明らかに様子が違いました。そこで私はまず、彼をなんとか座布団の上に座らせ、その座布団を引っ張って寝室へ移動し、ベッドの横に敷いた布団に彼を転がすように寝かせました。 私は力自慢ではありませんし、晋とはだいぶ体格差があるのですが、これが「火事場の……」というものでしょうか。 ともかく、翌朝ケアマネジャーさんに連絡をとると、さっそく訪問看護師が3人、我が家に飛んできて、晋を布団からベッドに移してくれました。 夏には誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)も経験し、1ヵ月半にわたって入院。 晋にとっては多難な年でした。 ■2016年 肺炎で再び入院。しかし前回の入院で、晋には病院での生活が負担になると痛感していたので、自宅での療養を選びました。抗生剤が効き前後10日ほどでデイサービスに通えるくらい回復したのは幸いでした。 こうして晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。 言葉を失い、寝たきりになった晋。 生きていて、幸せなのでしょうか。 尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています。その幸せそうな顔を見ていると、問うこと自体が無意味にも思えるのです。 ただ、この静けさに至るまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした』、「講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました」、「晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。 言葉を失い、寝たきりになった晋。 生きていて、幸せなのでしょうか。 尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています」、急速に悪化したようだ。
・『デイサービスになじめない  少し話が戻りますが、晋がデイに行き始めたのは、些細なことがきっかけでした。2012年に招かれた日本老年精神医学会の講演で、M先生という医師から、 「ぜひ、診断に使ったMRIの画像を見せてほしい」 と申し出がありました。さっそく一式お送りすると、しばらくしてお便りが届きます。 その手紙のなかでM先生は、晋は「緩徐進行性非流暢性失語症(かんじょしんこうせいひりゅうちょうせいしつごしょう)」かもしれないと指摘したうえで、それでも、 「アルツハイマー病の可能性は否定できない。言葉を出してください」 と書いてあったのです。そのことを説明しながら、私は彼にこうすすめたのでした。 「晋さん、言葉のリハビリだと思って、デイサービスへ行ってみたら」 「行くよ」 即答でした。リハビリという言葉が気に入ったのでしょうか。あとで子どもたちにこの一部始終を話すと、 「やっぱり、医者に言われると行くんだねえ」 と納得顔。さっそくケアマネジャーさんに相談し、とりあえずデイに週1回、半日通うところから始めます。 これまで晋とふたりきりで、あまりにも密な生活を続けていた私は、晋が留守の間どう過ごそうか、あれこれ考えて夢を膨(ふく)らませていました。 晋も当初は、デイを楽しんでいました。 早くから支度をして外に出て、迎えの車を待つ、なんてこともしていたほどです。気持ちよく入浴させてもらい、笑顔で帰ってくる日が続いていました。 ところが、通い始めて3ヵ月ほど過ぎたころから、時折、暗く険しい顔つきが目立つようになりました。ついにある日、送りのデイ職員から、 「今日は職員の髪をひっぱりました」 という報告が――。 「どうしたの? 何があったの?」 尋ねても、晋はうつむいたままです。それでもしつこく問うと、たどたどしくはありましたが、彼の言葉からようやく事情がつかめました。 同じデイを利用するお年寄りから、「あの人は何もできない」と言われたそうなのです。 「それくらいのことで、落ち込んじゃだめだよ」 「落ち込んじゃいけないね」――そう言う晋は、しかし、うなだれたままです。 「もう、無理して行かなくていいよ。行きたくなかったら、やめていいんだよ」 私はたまらずこう声をかけました。 ケアマネジャー経由でデイに聞いても、「悪口」があった事実は確認できませんでしたが、こうして晋は、初めてのデイを去ることになったのです』、「同じデイを利用するお年寄りから、「あの人は何もできない」と言われたそうなのです」、そんな「悪口」でも「落ち込む」とは繊細さに驚かされた。
・『心に刻まれる苦しさ  この時期の晋は、ふだんから「何もできない」ことを気にしていました。小さな悪口にみえるかもしれませんが、本人にとっては「無能」の烙印(らくいん)を押されたようなもので、何にもまして屈辱的だったのではないでしょうか。 実際、デイでの一件は、彼の中でずっと尾を引いていたのです。ある夜、布団に入った晋が言います。 「僕は何もできない」 「何もできないのが病人じゃない? でも晋さんは散歩にも行ける。電車にも乗れる。歌も歌えるじゃない」 「ありがとう」 ようやく眠りに入るのでした。 また、こんなこともありました。デイをやめた少しあと、私が発熱して一日家で寝ていたことがありました。晋がそばに来て、おろおろしながら尋ねます。 「誰かに何か、言われたんじゃないの」 「誰も何も言わないよ」 私はあわてて打ち消しましたが、内心、驚きでいっぱいでした。 晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした。 認知症は物忘れの病気だといわれます。確かに、具体的なことは時間とともに忘れてしまうのでしょう。でも、苦しさは深く心に刻みこまれるのだと痛感した出来事でした』、「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした。 認知症は物忘れの病気だといわれます。確かに、具体的なことは時間とともに忘れてしまうのでしょう。でも、苦しさは深く心に刻みこまれるのだと痛感した出来事でした」、「人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。
・『「ちがうんだよ」と騒いでしまう理由  それでも、しばらくすると晋は、また別のデイに通うようになりました。家で退屈そうにしているのを見かねて、私がすすめたのです。もちろん、私自身にも、骨休めしたいという気持ちがありました。 2つめのデイ。ここでも晋は、当初ごきげんで通っていました。職員からは「先生」と呼ばれ、ほかの利用者と歌ったり踊ったり、楽しめていたようです。 「僕って面白いでしょ」 これが当時の、彼の口癖でした。しかし残念ですが、いい時間は長く続きません。) デイは毎回、行った日の詳しい出来事を「連絡ノート」で報告してくれます。そのノートからは、晋が次第に疲れをためていることが伝わりました。 「うるさい!」 そう大声を出すようにもなっていきました。 通い始めて5ヵ月ほど過ぎた、6月のある日。ついにこんな電話が入ります。 「先生が興奮しているので、来てくれませんか」 デイからでした。急いで迎えに行き、連れ帰りました。 何があったのか……「連絡ノート」を開くと、こんなくだりが目に飛び込んできます。 ■6月×日 9時15分 ホーム着です。室内を歩かれています。「うるさい!」を連発して言っています。 ずっと、 「ちがうんだよ、ちがうんだから」 「何度も言ってるじゃないか。わかってください。場所がちがうんだ、やめてくれ」 と大きな声で言われています。 「人がちがうんだから、ボクはボクで一人でやってるの、わかった?」 「わかったか! やめてよ!」 とずっと興奮されています。まわりのことは見えてないようです。 ■11時40分 早めの昼食にしました(鶏の天ぷら、春菊のごま和え、リンゴ、トマト、レタス)。鶏の天ぷら、トマトは完食です。リンゴは2人分食べました。ごはん、みそ汁、春菊は残っています。 ■12時 歩きながら食べています。だいたい食べると 「うるさーい!」 を連発して歩いています。 「ちがうんだからやめてよ本当に!!」 「だからいいよ、もう」 デイで「ちがう」としきりに口にしていることがわかります。 「晋さん、どうしたの、何かあったの?」 「僕はひとりなんだよ」 「いったい、何が『ちがう』の?」 「僕は今までの僕とはちがうんだから、わかってほしい。相手の言うことを一生懸命理解しようとすると、頭が疲れてきて、何が何だかわからなくなる。わかるように話してほしい」 「『場所がちがうんだ、やめてくれ』っていうのは、どういうこと?」 「場所が我が家とちがったり、知らない人に何か言われても、さっと理解できないし、言葉が出ない」 ゆっくりとではありましたが、晋が理路整然と説明することに、私は驚きを隠せませんでした。 このとき彼から聞き取ったことを私なりにまとめると、次のようになります。 「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした。 最高学府の教授でもあった夫・若井晋。その彼が若年性認知症になるとき、本人は、そして家族は、どうしたのか。病を受け入れてもなお歩き続けた夫婦の軌跡を、妻・若井克子が克明に描き出す新刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』は、全国の書店・ネット書店にて好評発売!』、「問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、「週2回」では「いつも初めて会う気がするらしい」、ようやく謎が解けたっとはいえ、困ったことだ。

第三に、本年3月6日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した小説家・エッセイスト・日本大学理事長の林 真理子氏による「作家・林真理子が説く「成熟した大人」の流儀、もらっても心が動かなかった企画書とは」を紹介しよう。
・『「人に食事をおごってもらったらお礼はどうするべき?」「会食での支払いは?」「人を紹介してくれた相手にどこまで礼を尽くす?」人付き合いには正確な答えのないさまざまな疑問がつきまとい、いつまでも頭を悩ませます。日本大学の学生から、50年の時を経て日本大学の理事長に。数々の文学賞を受賞したベストセラー作家で、2022年に日本大学理事長に就任した林真理子氏の人生論新書『成熟スイッチ』(講談社現代新書)の一部を抜粋・編集して、林真理子流の世渡り作法を紹介します』、「林真理子流の世渡り作法」とは興味深そうだ。
・『感謝の流儀その1 自分も得をするお礼の仕方  親の教えの本当の意味とありがたさは若い時にはわからないものです。たとえば、母から教えられた、 「『~宛』とか『~係』を『~御中』と書き直さない人はみっともない」 ということも、ようやく身についたのは三十代も半ばを過ぎた頃でした。 やってあげたことはいつまでも覚えているけれど、やってもらったことはすぐに忘れてしまう――。これも、母から叩き込まれた教えです。つまりは意識的に感謝の気持ちを心に留めておかないと、自動的に「恩知らず」「礼儀知らず」になってしまう。相手からのお礼が無かったりすると、何かをやってあげた側は軽い失望とともに、ずっとそのことを忘れません。 年をとって若い人にご馳走する機会も増え、お礼を言われる側の正直な気持ちもいっそうわかるようになりました。あんまりうるさいことは言いたくないですが、気になるのは、食事を奢った次の日に会っても「昨日はご馳走さまでした」と言わない人たちです。 当日にお礼を言ったからもう義務は果たしたと思っているのかもしれませんが、私はたとえ3~4カ月たっても「あの時はありがとうございました」と必ず言うようにしています。時間をおいたぶん、「まだあの時のことを覚えてくれているんだ」という義理がたさへのプラス評価も加わりますから、忘れずに伝えた方が自分にとっても得だと思います。 やはり感謝されると嬉しいのが人情ですし、さらには、きちんとしたかたちでお礼を伝えられると、その人への評価も高まるのが世の道理というものです。 私はものをもらったりご馳走されたりしたら、すぐに自筆のお礼状を書きます。もちろん、メールなどでもお礼を伝えないよりはマシですが、自筆で丁寧に書かれた手紙の方がいっそう気持ちを届けられるでしょう。手紙を書く人がほとんどいない世の中ですから、印象にも残ります。 お礼状ではありませんが、先日、会ったこともない編集者から、単行本企画の執筆依頼が届きました。ワープロソフトで数行だけ打ってある企画書を見て、 「なぜ見ず知らずのあなたのために、私がこんなことしなくちゃいけないの……」 と無視しました。たとえ実現は難しい内容でも、真剣さが伝わる自筆で書かれた依頼の手紙が封書で届いたら、断るにしても申し訳ないなと思ってその人のことはすごく心に残ったと思います。 知らない相手に「当たるも八卦(はっけ)」みたいな気持ちで何かをお願いするのなら、なおさら心を込めて手紙を書きなさい、と言いたいです。人の心を動かそうとすることを何もしないで、「万が一」など起きるはずはありません。私が自分でよく手紙を書くのは、その効果をよく知っているからでもあります。 お礼状をまめに書く人になるためには、まず形から入ること。私は鳩居堂で季節ごとに便せんを揃え、春・夏・秋・冬と書いた封筒に入れて分類しています。そしてお気に入りの万年筆を用意する。書きたくなったらすぐに手紙を書ける態勢から整えます。 お礼状の文面は短く、ごくありきたりでいいと思います。一文だけ自分らしい文章が入っていたりすると、なおいいですね。 手書きの礼状を送ること自体を楽しめるようになると、もうこっちのものです』、「知らない相手に「当たるも八卦(はっけ)」みたいな気持ちで何かをお願いするのなら、なおさら心を込めて手紙を書きなさい、と言いたいです。人の心を動かそうとすることを何もしないで、「万が一」など起きるはずはありません。私が自分でよく手紙を書くのは、その効果をよく知っているからでもあります」、「お礼状をまめに書く人になるためには、まず形から入ること。私は鳩居堂で季節ごとに便せんを揃え、春・夏・秋・冬と書いた封筒に入れて分類しています。そしてお気に入りの万年筆を用意する。書きたくなったらすぐに手紙を書ける態勢から整えます。 お礼状の文面は短く、ごくありきたりでいいと思います。一文だけ自分らしい文章が入っていたりすると、なおいいですね」、「お礼状をまめに書く人になるためには、まず形から入ること」、私のような筆無精にとっては、有難いアドバイスだ。
・『感謝の流儀その2 お返しは独自のテリトリーから  さて、目上の人から、けっこうなご馳走になってしまった場合、どのように感謝の気持ちを伝えたらよいでしょうか。値段も格もとても高い店だったり、まともにお返ししようとすることが無理だったりする場合です。 そんな時は、前述のとおり自筆のお礼状は必須として、私がおすすめするのが自分の出身地の名産品をお返しに贈ることです。 私もよく山梨の桃や干し柿を贈ります。お礼状には「地元のもので恐縮ですけど……」と書き添えておく。あたたかみも感じられますし、こうしたお返しの仕方はとても好感度が高いと思います。 東京出身の人なら、自分の近所にある、知る人ぞ知る名店の品などでもいいでしょう。あるいは、旅先で知ったおいしいものを「休暇で訪れた先で、とても美味しかったので」と贈ったり。覚えておきたいのは、東京のお金持ちに銀座の和光のお菓子を贈ってもあまり意味がないということ。「独自のテリトリーで見つけて自分がよいと思ったもの」を贈ることが重要です。 関連することでは、お店に招待してもらった時に、誘ってくれた人も初めて行く店で、「本で見て知りました」なんて言われると少しがっかりします。可能であればの話ですが、人をお店に招待する時には、人気店でもまずは自分で訪れて雰囲気もわかってからの方が望ましいでしょう。 お返しの話でつけ加えると、やはり花をもらって嬉しくない人はいないのではないでしょうか。ある会食の場を取り持ったお礼に、若手の女性作家からとてもセンスのいい花のアレンジメントが届いた時には「さすがだな」と感心しました。常日ごろからお世話になっている人になら、毎年のお正月に大きなお花を贈るのもいいと思います』、「可能であればの話ですが、人をお店に招待する時には、人気店でもまずは自分で訪れて雰囲気もわかってからの方が望ましいでしょう」、その通りだ。
・『品性が試される時その1 「支払うのは誰か」に敏感であれ  さて、今夜は面白いメンバーが揃う会食に出かけるとします。場所はなかなか予約が取れない高級日本料理店。そこで「わーい、楽しみー」と無邪気に浮かれているだけなら未熟者のそしりを免(まぬか)れないでしょう。成熟した大人の心得として、「支払うのは誰か」という問題に敏感であるのは当然のことです。 友人・知人同士で明らかにワリカンという場合――現金で細かくワリカンというのはみっともないのでやめるべきだと思いますが――は問題ありません。気をつかわなければいけないのは、メンバー間に何らかの力関係が働いている時です。 まず支払いの基本ルールとして、求められて来た側が正客として奢られて、来ることを求めた側が支払うということがあると思います。しかし、その応用編のルールもあるから、事態はややこしいのです。 たとえば、こんなことがありました。私がお呼ばれして3人でやるはずだった会食に、芸能人A氏が会いたがっていた人がいるので、A氏を誘ってお連れしたケース。A氏を紹介された2人も大喜びでしたが、A氏は私の知り合いですから、その会食の支払いは合計を2で割った分を私が支払いました。友人や知人を連れて行ったら、自分が支払いを持つのが当然だからです。もう1つの方法としては、「じゃあ、二次会をお支払いさせてくださいな」というやり方もありますね。――いずれにしても「誰がどのように支払うのか」ということは常に頭を悩ます、非常にナーバスな問題なのです。 明らかにその日の会計を支払ってくれそうな人がいる場合は、お酒の持ち込みが可能なお店であれば、ワインを持参するという手を使うこともあります。ただ、相手が相当なお金持ちだったり、超高級店だったりすると、持参するワインの格も求められますから非常に難易度が高い。若い人であれば、前述のように自筆のお礼状をお送りすれば十分です。 支払ってもらうことが明らかな会食の当日、先回りしてお礼の品を持って行くのも、スマートな方法だと思います。ほんのちょっとした“気持ちばかりの品”でいいのですが、支払う人にだけ渡すのも露骨なので、全員分を用意して帰りぎわに皆に渡すようにするのがいいでしょう。) お礼に心を尽くさなければならないのは、もちろん会食にかぎりません。基本的に、頼みごとをしてタダですむということは世の中にはないと思ってください。何かを頼んだ相手が動いてくれたら、たとえそれが叶わなくても、食事を奢ったりシャンパンを贈ったりということを忘れてはならないと思います。 息子さんのことで頼まれごとをしたお母さんからエルメスのスカーフをいただき、それを包みなおして自分がお世話になった方にまわしたこともあります。九州の産物をもらったら、お世話になった北海道の人へ贈る。逆に北から南へとか……。「地球上で感謝の気持ちをまわす」ことだって、SDGsの一環と考えられなくもありません(違うか)。 人に物事を頼むということは、大きな責任を伴うということを忘れないようにしたいものです』、「支払ってもらうことが明らかな会食の当日、先回りしてお礼の品を持って行くのも、スマートな方法だと思います。ほんのちょっとした“気持ちばかりの品”でいいのですが、支払う人にだけ渡すのも露骨なので、全員分を用意して帰りぎわに皆に渡すようにするのがいいでしょう」、「全員分を用意」とは驚いた。確かにその方がいいだろうが。人数にもよるだろう。
・『品性が試される時その2 紹介後のモヤモヤに「3回ルール」  もう1つ、ちょっと気になることがあります。紹介して引き合わせたばかりの人たちが私が知らないうちに何回も会って距離を縮めていると、「聞いてない!」と思ってモヤモヤしてしまうのです。 「いろいろと心が狭すぎる」「成熟なんて程遠いじゃん」という声がそろそろ聞こえてくるような気がしますが、「こういうことで腹を立てる人もいるんだから、成熟したいと思う人は気をつけようよ」という話だと思ってください。 先日もこんなことがありました。 Aさんに大金持ちのBさんを紹介しました。ちなみに、Bさんを紹介したその会食は私がご馳走しています。それ以降、AさんはBさんと何回も会ってグイグイ仲よくなっていったのです。しばらくしてAさんが「最近、Bさんと随分親しくしているんだよね」という話をしていたと別の人から聞き、「それって私が紹介したんだけど……」と心がざわつきました。 そしてある日、某社のトップCさんから「AさんがBさんと仲よくなったらしくて3人で食事をするけど、来ない?」と誘われます。「AさんにBさんを紹介したのって私ですよ」と言いかけましたが、ハッとして言葉を呑み込みました。よくよく思い出してみれば、大金持ちのBさんを私に紹介してくれたのはCさんだったのです……。 こうしてまとめてみると、ちょっとした小噺のようですね。本章の冒頭で「やってあげたことはいつまでも覚えているけれど、やってもらったことはすぐに忘れる」という法則に触れましたが、人に人を紹介するということも、見事にこの法則に準じていることがよくわかります。 「人にされて嫌だと思ったことはしない」のが私の矜持です。そのために自分に課しているのが「3回ルール」というもの。その内容は基本的に「紹介された人と3回会うまでは、紹介者に報告する」ということ。4回目以降は、断りなく会って差し支えないというルールです。 3回どころか数十年を経ても、大事な局面では紹介者にお礼を言う必要があります。宮内義彦さん(オリックスグループ前CEO)を日大の顧問にお迎えする際も、20数年前に宮内さんを紹介してくれた奥谷禮子さん(元ザ・アール会長)に「ご縁を繋いでくださって感謝します」と、しっかり仁義を切りました。 人を紹介するという行為には、人間関係の繊細な部分が絡み合っています。紹介してくれた人への配慮を常に欠かさないようにしたいものです。 ちなみに私のマイルールをあと2つお教えしましょう。「その場に招待されていない人がいた場合に、『このあいだは楽しかった』などと言わない」と「もらいものは2人になった時にお礼を言う」。――人間関係のルールは案外、根本のところでは子ども時代とさほど変わらないものなのかもしれません』、「3回ルール」、「「紹介された人と3回会うまでは、紹介者に報告する」ということ。4回目以降は、断りなく会って差し支えないというルール」、合理的だ。「私のマイルールをあと2つお教えしましょう。「その場に招待されていない人がいた場合に、『このあいだは楽しかった』などと言わない」と「もらいものは2人になった時にお礼を言う」。――人間関係のルールは案外、根本のところでは子ども時代とさほど変わらないものなのかもしれません」、なかなかよく練られた「ルール」で、さすが「林」氏だ。 
タグ:人生論 (その12)(「若年性アルツハイマー」になっった「元・東大教授」2題(「意外な楽しみ」 それまでとは違った世界が見えた、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは)、作家・林真理子が説く「成熟した大人」の流儀 もらっても心が動かなかった企画書とは) 現代ビジネス 若井 克子氏による「元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」 それまでとは違った世界が見えた」 『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社) 「若年性アルツハイマー」で「失語症」になったとあっては、「東大教授」を「早期退職」せざるを得なくなったのは、本人にとってはさぞかしつらかったことだろう。 「人の価値についてどう思いますか」といった答え難い「質問」をした質問者のセンスを疑う。ただ、「動じるふうもなく、こう応じたのです。 「人生で一番大切なことは何か、ということが分からない人、分かる人、いろいろあると思うんです。その中で一人一人が自分の生き様に合わせて絶えず歩み続ける。そういう中で私も生きてゆきたい。これからも、この後も生きていきたいなと思います」、と答えたのはさすがだ。 「病気」いなってよかったとは意外だ。 「足腰が丈夫だった晋。かつては二段跳び・三段跳びで階段を駆け上がるので、置いてきぼりになるのは私でした。 今では晋は、注意深く一段一段上っています。そしてときどき、私にこんな抗議の声を上げます。 「君のペースにはついていけない」 「君は、やることが速すぎる」 どうしても上着を着られないことがありました。腹を立てた彼は、服を放り出してしまいました。思わずため息が漏れます。 「ああ……、もう少しで着られたのに」 「君は人のことを言いすぎる。僕は本当にアルツハイマーか? 死にたい」 一緒に寄り添って歩むことの難しさを、私はつくづく思い知らされるのでした」、よくぞここまで「寄り添って歩む」ことをしてこられただけでも、立派だ。 若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」 「症状の悪化からついに講演は不可能となった。妻とともに日常に戻った彼は、介護保険サービスを利用してデイサービスに通い始める。そこで明らかになった、認知症の当事者だからこその苦悩とは?」、興味深そうだ。 「講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました」、「晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。 言葉を失い、寝たきりになった晋。 生きていて、幸せなのでしょうか。 尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています」、急速に悪化したようだ。 「同じデイを利用するお年寄りから、「あの人は何もできない」と言われたそうなのです」、そんな「悪口」でも「落ち込む」とは繊細さに驚かされた。 「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした。 認知症は物忘れの病気だといわれます。確かに、具体的なことは時間とともに忘れてしまうのでしょう。でも、苦しさは深く心に刻みこまれるのだと痛感した出来事でした」、「人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。 新刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』 「問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、「週2回」では「いつも初めて会う気がするらしい」、ようやく謎が解けたっとはいえ、困ったことだ。 ダイヤモンド・オンライン 林 真理子氏による「作家・林真理子が説く「成熟した大人」の流儀、もらっても心が動かなかった企画書とは」 林真理子氏の人生論新書『成熟スイッチ』(講談社現代新書) 「林真理子流の世渡り作法」とは興味深そうだ。 感謝の流儀その1 自分も得をするお礼の仕方 「知らない相手に「当たるも八卦(はっけ)」みたいな気持ちで何かをお願いするのなら、なおさら心を込めて手紙を書きなさい、と言いたいです。人の心を動かそうとすることを何もしないで、「万が一」など起きるはずはありません。私が自分でよく手紙を書くのは、その効果をよく知っているからでもあります」、 「お礼状をまめに書く人になるためには、まず形から入ること。私は鳩居堂で季節ごとに便せんを揃え、春・夏・秋・冬と書いた封筒に入れて分類しています。そしてお気に入りの万年筆を用意する。書きたくなったらすぐに手紙を書ける態勢から整えます。 お礼状の文面は短く、ごくありきたりでいいと思います。一文だけ自分らしい文章が入っていたりすると、なおいいですね」、「お礼状をまめに書く人になるためには、まず形から入ること」、私のような筆無精にとっては、有難いアドバイスだ。 感謝の流儀その2 お返しは独自のテリトリーから 「可能であればの話ですが、人をお店に招待する時には、人気店でもまずは自分で訪れて雰囲気もわかってからの方が望ましいでしょう」、その通りだ。 品性が試される時その1 「支払うのは誰か」に敏感であれ 「支払ってもらうことが明らかな会食の当日、先回りしてお礼の品を持って行くのも、スマートな方法だと思います。ほんのちょっとした“気持ちばかりの品”でいいのですが、支払う人にだけ渡すのも露骨なので、全員分を用意して帰りぎわに皆に渡すようにするのがいいでしょう」、「全員分を用意」とは驚いた。確かにその方がいいだろうが。人数にもよるだろう。 品性が試される時その2 紹介後のモヤモヤに「3回ルール」 「3回ルール」、「「紹介された人と3回会うまでは、紹介者に報告する」ということ。4回目以降は、断りなく会って差し支えないというルール」、合理的だ。「私のマイルールをあと2つお教えしましょう。「その場に招待されていない人がいた場合に、『このあいだは楽しかった』などと言わない」と「もらいものは2人になった時にお礼を言う」。 ――人間関係のルールは案外、根本のところでは子ども時代とさほど変わらないものなのかもしれません」、なかなかよく練られた「ルール」で、さすが「林」氏だ。
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