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歴史問題(18)(兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」、:731部隊 朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”、ハンムラビ法典「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」ではなかった…本来の意味は?) [社会]

歴史問題については、昨年4月15日に取上げた。今日は、(18)(兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」、:731部隊 朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”、ハンムラビ法典「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」ではなかった…本来の意味は?)である。

先ずは、昨年5月2日付けPRESIDENT Onlineが掲載sた軍事史研究家の藤井 非三四氏による「兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/69854
・『日本人の「恥の意識」は、非常事態において大変な損害をもたらすことがある。軍事史研究家の藤井非三四さんの著書『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)より、1941年の第二次長沙作戦で起きた悲劇を紹介しよう――』、興味深そうだ。
・『「恥の文化」は時に国家の破滅をもたらす  日本は「恥の文化」だと語られて久しい。普段は恥を知ることは美徳かもしれないが、戦争などの非常事態となるとそれは国家の破滅をもたらしかねない。 国難に直面した国家の指導者や高級指揮官の多くは、厚顔無恥で融通無碍であるのがごく普通で、勝利を収めさえすればそんな姿勢をあれこれ批判されることもない。ところが日本では、初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い。 どうして進んで自縄自縛となったり、意地になって行動の幅を狭めてしまったりするのかと考えると、そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする。 太平洋戦争中に限っても、こうした硬直した戦い方をして無意味な損害を被った例は数多くある。まず、昭和16年12月24日からの第二次長沙作戦だ』、「日本では、初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い。 どうして進んで自縄自縛となったり、意地になって行動の幅を狭めてしまったりするのかと考えると、そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする・・・こうした硬直した戦い方をして無意味な損害を被った例は数多くある。まず、昭和16年12月24日からの第二次長沙作戦だ」、なるほど。
・『日本軍は「不落」の長沙を制圧しにかかった 中国戦線の進攻作戦が一段落した昭和13(1938)年末、支那派遣軍の任務は占領地の治安確立と安定を図ることが主となった。しかし、それだけでは部隊の雰囲気が退嬰的になりかねないとされ、長江沿岸地域で限定的な進攻作戦を行ない、中国軍の戦力を減殺させることとなった。 ところが新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた。 昭和16年9月18日からの「加号」作戦(第一次長沙作戦)もこのピストン作戦だった。実施部隊は4個師団を基幹とする第11軍、軍司令官は阿南惟幾中将(大分、陸士18期、歩兵)だった。目標は中国が「不陥」(攻略不可能)と宣伝してきた湖南省の省都である長沙だ。ここを占領すれば中国に和平の気運が生まれるのではとの淡い期待もあった』、「新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた」、なるほど。
・『軍に広がる「完全占領ではなかった」との噂  第11軍の諸隊は、洞庭湖に注ぐ新墻河の線から一斉に攻勢を発起、100キロ南の長沙を目指した。そして早くも9月27日、先遣隊が長沙市街に突入し、翌日には第4師団(大阪)が入城した。予定していた通り、第11軍は10月1日から反転を始め、11月初旬までにもとの態勢に戻った。 ところがすぐに支那派遣軍の内で妙な話が交わされるようになった。中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ。また、長沙入城を第4師団に譲った形となった第3師団(名古屋)の豊嶋房太郎師団長(山口、陸士22期、歩兵)としても、「俺が長沙に行けば、こんな話にならなかったのに」という気持ちになったかもしれない』、「中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、「阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、軍事作戦でこのような捉え方をしたとは、その時代錯誤感に驚かされた。
・『師団が転用される前に再び長沙を叩く  雪辱戦を行なうとなれば急がねばならない。第4師団は長沙入城で花道を飾って、フィリピンに転用された。これで支那派遣軍に残る精強な常設師団は第3師団と第6師団(熊本)だけとなり、これもまたほかの戦線に転用されるのは時間の問題と思われた。 そうなると支那派遣軍は警備師団、治安師団、独立混成旅団からなる治安軍となり、ピストン作戦すらも行なう戦力がなくなる。そこで第3師団と第6師団が残っているうちに、再び長沙作戦を行なわなければならないという話になった。 しかし、ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ。 だれもがエゴイストになりがちな戦場で、自ら進んで友軍のために動くというのだから、まさに徳義の作戦、「武人阿南」の面目躍如ということになる(佐々木春隆『長沙作戦 緒戦の栄光に隠された敗北』光人社NF文庫、2007年)』、「ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ」、なるほど。
・『軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…  まず問題となるのは、この作戦の効果だ。長沙と香港付近の広州とは粤漢線で結ばれているが、直線でも550キロ以上も離れている。長沙に圧力が加えられたからと、すぐさま反応するような敏感さを中国軍が持ち合わせているとは思えない。さらに第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。 第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将(福井、陸士26期、騎兵)は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将(神奈川、陸士28期、歩兵、航空転科)は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐(高知、陸士36期、歩兵)にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった』、「軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…」、さらに第一線指揮官の多くも懐疑的だったと、作戦自体に無理があったようだ。
・『「恥ずかしさ」が軍事的合理性を押し退けた  こうして長沙への再進攻はむずかしくなったが、阿南軍司令官は諦めなかった。ここで断念すれば恥ずかしい限りという意識が働いていたのだろう。加えて第3師団長の豊嶋房太郎も積極的だった。 この2人の関係だが、阿南が陸軍次官のときに豊嶋は憲兵司令官で直属の部下という形だった。そして豊嶋が第3師団長に転出すると、追いかける形で阿南が第11軍司令官となった。中央官衙で上司と部下、出征してからは軍司令官と師団長という関係は、そうあることではない。 豊嶋は第3師団長を昭和15年9月から務めているから、そろそろ転属の時期だ。本人としても花道を飾りたいという思いがあっただろうし、上官の阿南としても飾ってやりたいという気持ちになっても不思議ではない。また、第3師団は昭和12年8月以来、長らく中国戦線にあったから内地に帰還するか、ほかの戦線に転用される可能性が高まっていた。これまた大陸戦線の最後に快勝させて送り出してやりたいという気持ちにもなる。このような人情論が出てくると、軍事的な合理性が引っ込むことになりかねない。 友軍のための「徳義の作戦」という話が称賛の声とともに広まってしまった以上、第11軍としてもなにかしなければ格好がつかない。また、太平洋戦争が開戦となって香港攻略戦が始まると、第11軍正面の中国軍が動きだして南下しつつあることが偵知され、これを牽制することになった。具体的には兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ』、「徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ」、どういうことなのだろう。
・『軍総司令部には一言もなく独断で作戦を決行  第二次長沙作戦に発展する「さ号」作戦は、香港陥落の前日の昭和16年12月24日に始まった。豊嶋は留守近衛師団長(出征した師団のあとを管理する部隊長)への異動内示を受け取っていたが、これを握り潰して第一線に立った。このときすでに豊嶋は長沙に突進する決心を固めており、阿南との暗黙の合意もあったと見てよいだろう。 作戦は順調に進展し、第11軍主力は12月29日までに汨水の南岸に渡河していた。そしてその日の夕刻、中国軍が長沙に向けて後退中と航空偵察で知った阿南軍司令官は、即刻、長沙への追撃を決心した。支那派遣軍総司令部には一言もなく、阿南のまったくの独断だったという。歩兵大隊22個基幹という戦力で長沙まで押しだせるのかという問題はさておき、そもそも補給幹線の準備は岳州から汨水までであり、汨水から長沙までの70キロには補給の準備がない。 昭和17年1月1日から3日にかけて、第3師団と第6師団は長沙市街に取り付いた。ところが中国軍は長沙死守の構えを見せた。そのため軍旗を集めて保管していた第3師団の指揮所までが戦闘に巻き込まれ、豊嶋師団長自らが旗護中隊長を務めるという難戦に追い込まれた。これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった』、「補給幹線の準備は岳州から汨水までであり、汨水から長沙までの70キロには補給の準備がない・・・これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった」、なるほど。
・『1591人の命が不合理な判断で奪われた  第二次長沙作戦の本番は、実はそれからだった。中国軍は退却する日本軍の縦隊を両側から叩き上げた。これを中国では「天炉戦法」という。こちらに十分な火力があれば対応できるのだが、日本軍の第一線に弾薬が補給されたのは1月11日が最初で、それまでは一切補給がなかったというから、天炉戦法の前に苦戦するのも無理はない。その結果、第11軍は戦死1591人、戦傷4412人という大損害を被った(図表1参照)。 「長沙を完全には占領できなかった」「占拠5日で逃げ帰った」といった噂話をまともに受け止めて、これは耐えがたい恥辱、雪辱するとなって強行されたのが第二次長沙作戦であり、その結果がこの大損害だった。高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれることをこの第二次長沙作戦は物語っている』、「第11軍は戦死1591人、戦傷4412人という大損害を被った・・・「長沙を完全には占領できなかった」「占拠5日で逃げ帰った」といった噂話をまともに受け止めて、これは耐えがたい恥辱、雪辱するとなって強行されたのが第二次長沙作戦であり、その結果がこの大損害だった。高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれることをこの第二次長沙作戦は物語っている」、信じ難くお粗末極まる軍事作戦だ。

次に、9月5日付け文春オンライン「731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/65538
・『あったことを無かったことにしたい人たちがいる。そんな怖さを感じた記事がこの夏にいくつかありました。 まずは「731部隊」についての企画記事を紹介します。信濃毎日新聞の「戦後78年 731部隊の記憶」です(8月11日~17日)。 第1回の記事は『県内元少年隊員2人にネット上で中傷の声 命懸けの証言「嘘」呼ばわり』。 戦時中、満州で細菌兵器開発や人体実験などの残虐行為を実行した731部隊について元隊員が命懸けで証言したら、ネットで「このジジイ、嘘ついてやがる。か、実在しない人物だな」などの誹謗中傷が少なくなかったという』、ネット右翼のいやがらせは、いつもながら自民党政府の意向を代弁した見苦しいものだ。
・『国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問  731部隊の「少年隊」に入隊した清水英男さん(93)は、人体実験で犠牲になった捕虜や、故郷から遠く離れた地で亡くなった仲間のために「命を懸けて証言している」と語る。 同じく元隊員の須永鬼久太さん(95)は部隊の撤退時に上官から「公職に就かない」「部隊について口外しない」「隊員同士連絡を取らない」と3つの禁止命令を受けた。須永さんは証言が積み重ねられているにも関わらず、いまだに部隊の活動実態を認めようとしない国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問を感じている。 そんななか、元隊員(清水さん)の体験談は昨年5月の飯田市平和祈念館のオープン時に展示が見送られた。その理由は「さまざまな意見がある」というものだった。 《「さまざまな意見」とは、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」とした2003年の小泉純一郎首相(当時)の国会答弁や、人体実験などの証言が「子どもたちには生々しすぎる」といった指摘を指す。》(8月16日) 「さまざまな意見」というが、清水さんは「みんなが本当のことを話してくれていたら、私の証言の展示が見送られることはなかったと思います」と述べる』、「証言が積み重ねられているにも関わらず、いまだに部隊の活動実態を認めようとしない国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問を感じている」、同感である。
・『「知らない」ままを望む人もいる  取材を終えた記者は、部隊による残虐行為に対する元幹部たちの反省なき態度を感じたと書いている(8月17日)。 そして、 《部隊の実態について証言できる関係者が亡くなり、記録は残されず、部隊の存在そのものが忘れ去られる――。敗戦時に残虐行為の証拠を徹底的に消し去り、戦後も口を閉ざし続けた部隊の元幹部が待ち望んでいたのは、まさにそうした社会だったのだろう。》 ゾッとする。私たちが「知らない」ままを望む人もいるのだ。検証や語り伝えが必要な理由がわかる。新聞やテレビの役割はここにあるのではないか』、「ゾッとする。私たちが「知らない」ままを望む人もいるのだ。検証や語り伝えが必要な理由がわかる。新聞やテレビの役割はここにあるのではないか」、その通りだ。
・『歴史から目を背ける小池知事  731部隊だけではない。先日、関東大震災から100年が経過したが、こんなニュースがあった。 『小池知事、今年も追悼文送らず 関東大震災の朝鮮人慰霊式典 東京』(時事通信9月1日) 《東京都の小池百合子知事は、1日に都内で行われた関東大震災の朝鮮人犠牲者を慰霊する式典に追悼文を送らなかった。送付の取りやめは2017年から7年連続。小池氏は同日の定例記者会見で、理由について「毎年(都慰霊協会が営む)大法要において、都知事として犠牲となった全ての方々への哀悼の意を表している」と述べた。》 朝鮮人による暴動が起きている、などのデマがきっかけで虐殺は起きた。あの石原慎太郎元知事でさえ送っていた追悼文だが、2017年からとりやめている小池都知事。その理由について大法要において「犠牲となった全ての方々へ」哀悼の意を表しているというがこれは話のすり替えだ。朝鮮人犠牲者は地震で亡くなったわけではない。デマによって起きた虐殺で亡くなったからだ。小池都知事は歴史の事実に向き合おうとしなくなったと言える』、「あの石原慎太郎元知事でさえ送っていた追悼文だが、2017年からとりやめている小池都知事・・・その理由について大法要において「犠牲となった全ての方々へ」哀悼の意を表しているというがこれは話のすり替えだ。朝鮮人犠牲者は地震で亡くなったわけではない。デマによって起きた虐殺で亡くなったからだ」、その通りだ。
・『2017年に都議会で起きたこと  では、追悼文を送付しなくなった2017年に何が起きたのか? 3月の都議会でのある自民党都議の質問がきっかけだった。『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(加藤直樹 著)という本によるとこの自民党都議は、 《私は、小池知事にぜひ目を通してほしい本があります。ノンフィクション作家の工藤美代子さんの『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』であります》 と語ったという。実は『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』では、工藤美代子・加藤康男夫妻が著した虐殺否定本を取り上げ、どのように間違っているかを検証し、仕掛けられた“トリック”の数々を明らかにしている。しかしネット上で広まる「虐殺は無かった」論は、工藤美代子氏らの言説を鵜呑みにしたものが多いのだ』、『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』といったデマゴーグを放置している「小池知事」の姿勢には腹が立つ。
・『「さまざまな説がある」と言うが…  先述した「731部隊」の記事でもそうだったが、公的な人間による「さまざまな説がある」という言葉はあたかも両論併記のように聞こえるが、それは事実から目をそらすことにつながる。しかし先週こんなニュースが。 『関東大震災の朝鮮人虐殺、松野官房長官「事実関係把握する記録見当たらない」』(読売新聞オンライン8月31日) 松野官房長官は30日の記者会見で、デマによって起きた朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べた。新たに事実関係を調査する考えはあるかとの問いには否定的な認識を示した。 31日の会見では、過去に政府の会議が報告書で朝鮮人虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」と述べた。 これらは「虐殺はなかった」論を擁護しているとは言わないまでも、野放しに加担してしまわないかという危惧を感じる。むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか? 過去の日本人が巨悪で現在の私たちは大丈夫というわけではないからだ。同じ人間だからである。情報不足に不安と興奮、それに偏見と無知が加われば時代は関係ない』、「これらは「虐殺はなかった」論を擁護しているとは言わないまでも、野放しに加担してしまわないかという危惧を感じる。むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか?」、その通りだ。
・『差別意識が生んだ悲劇(たとえばこの記事を見ていただきたい。) 『記者の目 関東大震災と朝鮮人虐殺 差別意識を克服できたか=島袋太輔(東京社会部)』(毎日新聞 9月1日)  この記事では沖縄出身の男性ら3人が虐殺された「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる。震災当時に上京していた沖縄出身の歴史学者は「朝鮮人だろう」「言葉が少し違う」と詰問されるなどしたという。 沖縄出身の島袋記者は、 《朝鮮人だから武装蜂起をしようとしている、知らない言葉を使うから、発音が滑らかでないから朝鮮人に違いない――。こんな思い込みは、どれも差別意識の産物に他ならない。》 と書く』、「「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる」、歴史を正しくみる必要があり、「検見川事件」などについても改めて事実の検証を行うべきだ。
・『「無関心が行き着く先は差別だ」  昨年にはこんな出来事があった。 『ひろゆきさん「沖縄の人って文法通りしゃべれない」 配信動画の発言、また物議』(琉球新報10月12日) 『ひろゆき氏「沖縄の人って文法通りしゃべれない」 県民の“日本語”めぐり発言』(沖縄タイムス10月12日) 《辺野古新基地建設に対する抗議行動をやゆしているインターネット掲示板「2ちゃんねる」開設者のひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていたことが分かった。沖縄キリスト教学院大学の新垣誠教授(国際人権論)は「非常に危険だ。日本軍は『標準語』ではない沖縄の言葉を話す住民を虐殺した」と批判した。》(沖縄タイムス、前掲) 100年前は過去ではない。「差別意識がうかがえる出来事は今も散見される」「無関心が行き着く先は差別だ。教訓を学ばないから差別は繰り返されるのではないか」(毎日新聞、前掲)という言葉を考えたい』、「インターネット掲示板「2ちゃんねる」開設者のひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていたことが分かった」、「ひろゆき」氏には心底失望した。

第三に、本年1月17日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した歴史の謎研究会による「ハンムラビ法典「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」ではなかった…本来の意味は?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/337335
・『近年、世界を取り巻く状況は目まぐるしく変化しています。現在進行中のウクライナ問題にしても、パレスチナ問題にしても、じつは歴史的背景を知っているかどうかで、理解度は大きく変わってくるのです。世界史はダイナミズムに満ちた壮大な物語、興味深いエピソードの宝庫です。もちろん、「大人の教養」としても、世界史の重要ポイントくらい頭に入れておきたいもの。『読み出したら止まらない 世界史の裏面』(青春出版社)から、興味深い世界史のエピソードをご紹介します』、興味深そうだ。
・『古代ギリシアの彫刻群が大英博物館に大量にそろっている理由  世界最大を誇るロンドンの大英博物館には、「エルギン・マーブル」と呼ばれる古代ギリシアの彫刻群を展示した一角がある。 エルギン・マーブルは、アテネのパルテノン神殿を飾っていた大理石のレリーフや彫刻のコレクションで、大英博物館の超目玉展示物。このコレクションを「エルギン・マーブル」(マーブルは大理石のこと)と呼ぶのは、今から約200年前、これらをアテネからイギリスに持ち込んだのが、エルギン伯(1766~1841)だったからだ。 エルギン伯は、大英帝国の在トルコ大使をつとめていたとき、当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアを訪れて、パルテノン神殿を目のあたりにした。パルテノン神殿は、オスマン帝国の弾薬庫として利用されていた関係で、ヴェネチア軍の砲撃を受けて大破していたが、それでもその美しさは失われていなかった。) エルギン伯は、たちまちその建築に魅了され、トルコ政府の許可を得て、神殿の周囲にある大理石の彫像やレリーフの模造品を作った。さらに、1801年、エルギン伯は、トルコ政府要人との人脈を使って「アクロポリスでの測量、調査、発掘、さらに彫刻や碑文の持ち出しを認める」という勅許状を手にし、模造品を作るためといって彫像を掘り起こし、壁面をはぎとった。そして、それらを強引にイギリスまで運んでしまったのだ。 彼のやったことは泥棒同然の行為だったが、トルコ政府は、異民族・異教徒のギリシア文化を重視していなかったため、この略奪行為を黙認した。 しかし、イギリスで「他国の重要な文化遺産を盗むとはけしからん」という声が高まり、エルギン伯はついに議会で非難されるにいたった。 結局、彼は議会に命じられるままに、コレクションを大英博物館に売却せざるをえなくなった。買取価格は、わずか3万5000ポンド。大英博物館は、ずいぶんおトクな買い物をしたことになる。 ちなみに、大英博物館は、このコレクションのほかにも、エジプトのミイラやロゼッタストーンなど、旧植民地などから持ち帰ったものが多数所蔵されている』、「エルギン・マーブル」の帰属問題はまだギリシャ・英国間でもめている。例えば、AFPの2023年11月23日付けでは「英、ギリシャとの首脳会談ドタキャン 大英博物館の遺物返還めぐり」となったようだ。
・『ハンムラビ法典の「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」とは違う意味だった?  ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」というフレーズで知られる。 この「目には目を」、今は「やられたら、やり返せ!」という意味で使われることが多いが、本来の意味は少しちがう。 紀元前1770年頃のバビロニアでは、暴力行為が互いの報復によってエスカレートすることがしばしばあった。とくに、殺人に対する報復は、むしろ神聖な行為とみなされたので、報復が報復を呼び、互いに当事者がいなくなるまで繰り返された。 そこで、ハンムラビ王は、社会秩序を維持するために、「同害報復」の原則を定めた。報復する相手は当事者のみとし、同等の処罰を与えるというものだ。つまり、「やられたら、やり返せ!」ではなく、「やられても、必要以上にやり返したらダメですよ」というのが、「目には目を」の本来の意味である。) ハンムラビ法典は、すべての条文が完全なかたちでのこっている法典としては、世界最古のものだ。 ということもあって、さぞ立派な法律と思っている人も多いだろうが、それは誤解に近い。なにしろ、4000年も前の社会通念・モラルに基づいて成立した法律、現代の目からみれば、驚くような条文が並んでいる。 たとえば、全237条の第1条は、「人を死刑に価すると訴えて立証されなければ、死刑に処す」。まるで、トランプゲームの「ダウト」のようなシステムだ。しかも、立証する手段がないときは、被告者を水に投げ込んで溺れて死ねば有罪。生きて浮かんでくれば無罪で、逆に原告が死刑になる、というように、現代の目からみれば、乱暴きわまる法律が並んでいる』、「ハンムラビ法典では、「同害報復」の原則を定めた。報復する相手は当事者のみとし、同等の処罰を与えるというものだ。つまり、「やられたら、やり返せ!」ではなく、「やられても、必要以上にやり返したらダメですよ」というのが、「目には目を」の本来の意味である」、なるほど。
・『「黄巾の乱」「赤壁の戦い」…  三国時代の人口を激減させた『三国志』の背景  後漢末から、魏、呉、蜀が分立して晋が統一をはたすまでの三国時代は、大勢のヒーローが登場した時代である。蜀の劉備、魏の曹操、呉の孫権のほか、諸葛孔明、関羽、張飛らの活躍は、『三国志』でおなじみだろう。 彼らが登場した後漢末は、外戚と宦官の勢力が大きくなり、大土地所有が進行して、農民の生活がひじょうに苦しくなった時代だった。そして、184年に「黄巾(こうきん)の乱」と呼ばれる農民反乱が起きると、各地で立て続けに反乱が起こるようになり、地方の治安はメチャクチャになった。 だが、すでに末期症状を呈していた漢王朝には、その反乱を鎮圧するだけの力はなく、兵力をもつ豪族に官位を与えてこの事態を乗り切るしかなかった。 そのなかから、頭角を現したのが魏、呉、蜀の3国である。とくに、華北を支配した魏は3国のうち最大最強で、曹操は天下統一まであと少しのところにいた。 ところが、208年の「赤壁の戦い」で、蜀の劉備と呉の孫権の連合軍に、曹操は大敗を喫する。 もし、曹操がこの戦いに勝っていたら、まちがいなく天下を手にしていただろうが、歴史はそうならなかった。この敗北で曹操は中国統一をあきらめ、中国の分裂は決定的になった。)220年、曹操が没して息子の曹丕(そうひ)が跡を継ぐと、細々とつづいていた後漢の皇帝から帝位を譲られ、魏王朝が成立する。 だが、劉備や孫権はそれを認めず、翌年、劉備は蜀の皇帝に、229年には孫権は呉の皇帝に即位した。以後、三つ巴の戦いが続くが、一国が抜きん出ると、他の二国がそれを阻止する格好になったため、結局この中から天下をとる者は現れなかった。 戦乱が続くなか、飢饉による餓死者があいつぎ、後漢末には約5000万人だった人口が、この頃になると、魏・呉・蜀あわせても500万人までに激減していたという説もある。 三国時代とは、それくらい厳しい時代だったのである』、「後漢末には約5000万人だった人口が、この頃になると、魏・呉・蜀あわせても500万人までに激減していたという説もある」、凄い「飢饉」だったようだ。
・『ロシアの歴史は侵略の歴史か 広大な国のはじまりは北海道ほどの広さのモスクワ大公国  ロシアの国土面積は、約1710万平方キロメートル。日本の国土の約45倍、世界の陸地の8分の1に相当する広さを誇る。 そのロシアの歴史は、面積わずか8万平方キロメートル、北海道ほどの広さのモスクワ大公国からはじまった。 モスクワ大公国は当初、東方から侵攻してきたモンゴルのキプチャク・ハン国の支配下にあったが、イワン1世が他のロシア諸侯国に対する宗主権を獲得し、イワン3世の時代の1480年、キプチャク・ハン国から独立した。 そして、同3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、自らをローマ帝国の後継者という意味で、「ツァーリ」(皇帝)の称号を用いた。1453年、東ローマ帝国が滅び、ギリシア正教の中心もロシアへ移ってきていた。 このイワン3世の孫にあたるのが、「雷帝(らいてい)」こと、イワン4世だ。彼は「全ロシアのツァーリ」を自認し、東方へ勢力を伸ばし、モンゴルの残存勢力から、シベリアの土地を次々と奪いとっていく。 そして、不凍港を求めて、黒海地方にも進出する。そうして、ロシアは東、そして南へと、国土を拡大していった。いずれも、強力な勢力がいないエリアだったので、かつて東方から攻めこんだモンゴルが大帝国を築いたように、今度はロシアが西から侵略を開始して、世界最大の国を築くことになったのだ』、「イワン3世の孫にあたるのが、「雷帝(らいてい)」こと、イワン4世だ。彼は「全ロシアのツァーリ」を自認し、東方へ勢力を伸ばし、モンゴルの残存勢力から、シベリアの土地を次々と奪いとっていく。 そして、不凍港を求めて、黒海地方にも進出する。そうして、ロシアは東、そして南へと、国土を拡大していった。いずれも、強力な勢力がいないエリアだったので、かつて東方から攻めこんだモンゴルが大帝国を築いたように、今度はロシアが西から侵略を開始して、世界最大の国を築くことになったのだ」、「イワン雷帝」を描いたエイゼンシュタイン監督の映画を観た記憶がある。ロシアの黄金期だったのだろう。
タグ:歴史問題 (18)(兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」、:731部隊 朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”、「黒船」が日本にきたとき 実は「ペリー」もまた「驚愕」していた…彼が「日本人」について語った「驚くべき内容」) PRESIDENT ONLINE 藤井 非三四氏による「兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」」 「日本では、初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い。 どうして進んで自縄自縛となったり、意地になって行動の幅を狭めてしまったりするのかと考えると、そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする・・・こうした硬直した戦い方をして無意味な損害を被った例は数多くある。まず、昭和16年12月24日からの 第二次長沙作戦だ」、なるほど。 「新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた」、なるほど。 「中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、「阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、軍事作戦でこのような捉え方をしたとは、その時代錯誤感に驚かされた。 「ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ」、なるほど。 「軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…」、さらに第一線指揮官の多くも懐疑的だったと、作戦自体に無理があったようだ。 「徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ」、どういうことなのだろう。 「補給幹線の準備は岳州から汨水までであり、汨水から長沙までの70キロには補給の準備がない・・・これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった」、なるほど。 「第11軍は戦死1591人、戦傷4412人という大損害を被った・・・「長沙を完全には占領できなかった」「占拠5日で逃げ帰った」といった噂話をまともに受け止めて、これは耐えがたい恥辱、雪辱するとなって強行されたのが第二次長沙作戦であり、その結果がこの大損害だった。高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれることをこの第二次長沙作戦は物語っている」、信じ難くお粗末極まる軍事作戦だ。 文春オンライン「731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”」 ネット右翼のいやがらせは、いつもながら自民党政府の意向を代弁した見苦しいものだ。 「証言が積み重ねられているにも関わらず、いまだに部隊の活動実態を認めようとしない国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問を感じている」、同感である。 「ゾッとする。私たちが「知らない」ままを望む人もいるのだ。検証や語り伝えが必要な理由がわかる。新聞やテレビの役割はここにあるのではないか」、その通りだ。 「あの石原慎太郎元知事でさえ送っていた追悼文だが、2017年からとりやめている小池都知事・・・その理由について大法要において「犠牲となった全ての方々へ」哀悼の意を表しているというがこれは話のすり替えだ。朝鮮人犠牲者は地震で亡くなったわけではない。デマによって起きた虐殺で亡くなったからだ」、その通りだ。 『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』といったデマゴーグを放置している「小池知事」の姿勢には腹が立つ。 「これらは「虐殺はなかった」論を擁護しているとは言わないまでも、野放しに加担してしまわないかという危惧を感じる。むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか?」、その通りだ。 「「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる」、歴史を正しくみる必要があり、「検見川事件」などについても改めて事実の検証を行うべきだ。 「インターネット掲示板「2ちゃんねる」開設者のひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていたことが分かった」、「ひろゆき」氏には心底失望した。 ダイヤモンド・オンライン 歴史の謎研究会による「ハンムラビ法典「目には目を」は「やられたら、やり返せ!」ではなかった…本来の意味は?」 『読み出したら止まらない 世界史の裏面』(青春出版社) 「エルギン・マーブル」の帰属問題はまだギリシャ・英国間でもめている。例えば、AFPの2023年11月23日付けでは「英、ギリシャとの首脳会談ドタキャン 大英博物館の遺物返還めぐり」となったようだ。 「ハンムラビ法典では、「同害報復」の原則を定めた。報復する相手は当事者のみとし、同等の処罰を与えるというものだ。つまり、「やられたら、やり返せ!」ではなく、「やられても、必要以上にやり返したらダメですよ」というのが、「目には目を」の本来の意味である」、なるほど。 「後漢末には約5000万人だった人口が、この頃になると、魏・呉・蜀あわせても500万人までに激減していたという説もある」、凄い「飢饉」だったようだ。 「イワン3世の孫にあたるのが、「雷帝(らいてい)」こと、イワン4世だ。彼は「全ロシアのツァーリ」を自認し、東方へ勢力を伸ばし、モンゴルの残存勢力から、シベリアの土地を次々と奪いとっていく。 そして、不凍港を求めて、黒海地方にも進出する。そうして、ロシアは東、そして南へと、国土を拡大していった。いずれも、強力な勢力がいないエリアだったので、かつて東方から攻めこんだモンゴルが大帝国を築いたように、今度はロシアが西から侵略を開始して、世界最大の国を築くことになったのだ」、 「イワン雷帝」を描いたエイゼンシュタイン監督の映画を観た記憶がある。ロシアの黄金期だったのだろう。
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