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アベノミクス(その4)「一億総活躍」~一億のイメージ [国内政治]

アベノミクスについては、前回は10月13日に取上げたが、今日は(その4)「一億総活躍」~一億のイメージ である。

フリーライター、もり ひろし氏によりる日経ビジネスオンラインへの連載した記事が大変面白かったので、紹介したい。先ずは、10月10日付けの「一億とは国民全体、総動員すべき人々を指した 一億のイメージ史を辿る(1)」のポイントは以下の通り(▽は小見出し)。
・安倍晋三首相は9月24日、アベノミクスの第2ステージとして「新3本の矢」を発表しました
・まず「旧」3本の矢の内容を復習すると「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」の3つ。これに対して新3本の矢は「希望を生み出す強い経済(GDP600兆円)」「夢をつむぐ子育て支援(希望出生率1.8)」「安心につながる社会保障(介護離職・待機児童ゼロ)」の3つになります
・そして安倍首相がこれらの新しい矢を総称するフレーズとして持ちだしたのが「一億総活躍社会」でした
・このフレーズを最初に聞いた時、筆者が感じたのは「安倍首相はずいぶんアナクロ(時代逆行的な)な表現を持ち出してきたな」ということ。これからじっくり解説しますが、国民全体を一億と総称する言語感覚は、バブル崩壊あたりを最後にほぼ廃れたと思っているからです。実際、一億を含む言葉には、一億玉砕とか、一億総白痴化とか、一億総中流といった言葉があるのですが、どれも古い言葉です
・今回の「社会を映し出すコトバたち」は、国民の総称としての一億という言葉について、そのイメージの変遷を辿ります。本稿が独自に命名した「国家総動員の時代」「社会批評の時代」「ニュートラルな時代」の3つについて、代表的な言葉を紹介しながら、一億のイメージを分析しましょう。3回に分けての掲載です。1回目の本編は「国家総動員の時代」(だいたい1935年から1945年ごろまで)について分析します
▽そもそも一億とは「誰」のことなのか?
・面白いことに、「一億」という項目を立てている辞書があります。例えば広辞苑・第6版(岩波書店)の一億の項目には、こんな説明が書いてありました。「1万の1万倍。1940年代、日本の人口を約1億人として、全国民の意に用いた。『-一心』『-玉砕』『-総懺悔』」
・同版が発行された2008年の時点で、すでに「用いた」と過去形の解説になっている点も非常に興味深いのですが、そこはひとまず置きましょう(ちなみに全国民の意味を「過去のもの」とするかどうかは辞書により異なります。例えば三省堂国語辞典・第7版は単に「日本国民全体。」と説明していました)
・ここで注目していただきたいのは、説明文中にある「1940年代」という記述です。この説明文は詳しく述べていませんが、一億と全国民の意味が強固に結びついていたのは、おおよそ戦中(とくに戦争末期)の話だったのです
・ではこの時期の日本の人口はどのくらいだったのでしょう? 以下に日本の人口推移を示したグラフを紹介します。総務省統計局がウェブで公開しているデータを元に筆者が作図したものです(リンク先参照)。 これを見ると分かるのですが、終戦前後の日本の人口はわずか7000万人台にすぎませんでした(例えば1945年は約7200万人)。1億人にはずいぶん足りません。ひょっとしたら一億は「盛った」表現だったのでしょうか
・勘の良い人は、もうお気づきでしょう。当時の一億には、日本の支配下にあった地域(朝鮮半島・台湾・樺太など)の人口も含んでいたのです。いわゆる外地の人口――主に朝鮮人・台湾人――を含む大日本帝国の総人口は1935年以降、1億人を突破していました
・このように単純に人口の話と言っても、時代ごとにその前提条件が異なるので、分析には注意が必要です。例えば戦後しばらくの人口統計では、沖縄県などの人口が対象外となっていました。米国に占領されていたためです。ちなみに前掲のグラフでも、戦後しばらくは沖縄県などの人口が除外されています
・いっぽう戦後、日本の人口が再び1億人を突破するのは、前掲のグラフによれば1967年のことでした。つまり「日本の人口は過去に2度、1億人を超えたことがある」わけです。このことが一億のイメージの変化にも影響を与えることになります
▽国家総動員の時代(1)一億一心
・では本題に入ります。1935年から1945年にかけての「国家総動員の時代」に登場した、一億関連の言葉を観察しましょう。まずは「一億一心」を取り上げます
・前述した通り、戦前の日本で人口が1億人を突破したのは1935年のことでした。そこで出版の世界では、一億という題名を付けた書名が登場するようになりました。例えば「隨筆評論集・人口一億」(下村海南著・1936年)とか「一億民の常識」(安達大寿計著・1939年)といった具合です。つまり一億=全国民という図式は、1930年代後半には成立していたわけです
・この一億=全国民という図式に加えて、やがて一億=国民総動員という図式も成立するようになります。ちなみに国家総動員法が成立したのは1938年のことです
・例えば1939年には「一億一心百億貯蓄」(日本放送協会編)という題名の書籍が出版されました。内容を端的に言えば、国民が一丸になって貯蓄に励み、戦費調達に協力しようという内容です。この標語は内閣貯蓄奨励局が作ったもの(参考:大阪時事新報 1939年6月16日付)。筆者が今回調べた中で、一億一心を使用した最古の用例がこれでした。一億と国家総動員の意味が結びついた最初期の事例といえます
・同じく1939年の8月8日、内閣は「興亜奉公日」と名付けた生活運動を実施する旨、閣議決定を行っています。毎月1日、国民に対して国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕などを行うよう求めた内容でした。その閣議決定「興亜奉公日設定ニ関スル件」の冒頭にも「一億一心」が登場します。引用しましょう
・「当日全国民ハ挙ツテ(こぞって)戦場ノ労苦ヲ偲ビ(しのび)自粛自省之(これ)ヲ実際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亜ノ大業ヲ翼賛シテ『一億一心』奉公ノ誠ヲ効シ(いたし)強力日本建設ニ向ツテ(むかって)邁進シ以テ(もって)恒久実践ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」(カギ括弧とふりがなは筆者が追加)
・つまり兵士の苦労に思いを寄せながら、国民みんなで自粛・自省・奉公を行いましょう、と呼びかけているわけです。その中核をなす言葉が、一億一心でした
・ただ一億一心という言葉が本格的に注目されたのは、1940年のことでした。同年7月23日、近衛文麿首相(当時)がラジオ演説で次のような演説をしたのです。 「大御心(おおみこころ)を仰いで『一億一心』、真実の御奉公を期さねばならぬ」(参考:明治・大正・昭和の新語・流行語辞典/米川明彦著・三省堂・2002年)。ちなみに大御心とは「天皇の心」を意味します。この演説辺りから、一億一心はいよいよ本格的な戦時スローガンとなっていったわけです。 このように一億という言葉は、単に国民全体だけでなく、国家総動員体制を象徴する言葉としても機能するようになりました
▽国家総動員の時代(2)進め一億火の玉だ
・太平洋戦争が開戦したのは1941年12月8日のこと。その開戦を受けて戦時スローガンの中にも威勢のよいフレーズが増えていくことになります
・なかでも印象深いのが「進め一億火の玉だ」というスローガン。現代の視点で見ると「火の玉」の部分に「玉砕」(大義に殉じていさぎよく死ぬこと)のような末期的なニュアンスを感じないではありません。しかし実際には、太平洋戦争の開戦からまもない時期に登場したスローガンでした
・このスローガンはもともと軍歌の曲名(1942年)として登場したものです。作詞を担当したのは大政翼賛会(1940年~1946年)でした。威勢のよい歌詞の内容は、ぜひ、ウェブ上にある動画などで確認してみてください。間違いなく言えることは、国民全員を戦争体制の中に組み込もうとする強い意思を感じる歌詞であることです
・ところで「進め一億」について調査する中で個人的に興味を惹かれたのが、スローガンを題名に冠した子供向けの紙芝居(1942年)が存在したことです。タイトルは「進め一億、火の玉父さん」。やはり大政翼賛会が制作に絡んでいる作品です。その内容は、現代の視点で見るとなかなか刺激的。誤解を恐れずに言えば、北朝鮮の子供向けプロパガンダ(政治的宣伝)にそっくりです
・筆者なりにストーリーを要約しましょう。主人公は火の玉父さん。支那大陸(中国大陸)を耕しているのになぜか花が咲かないことを不思議がった父さんは、蒋介石というモグラの存在に気づきます。そのモグラを追いかけると赤鬼(米国)と青鬼(英国)の陰に隠れてしまうのです。 そこで火の玉父さんは赤鬼・青鬼に宣戦布告し、東南アジアでの勝利を収めます。そして、その戦果を伝えるラジオニュースで日本中が沸き立つことになります。ところがニュースを伝えるラジオ受信機のキャラクター(注:受信機が擬人化している)が「闘いはこれからなんだから、浮足立ってはダメだよ」と諌める、という内容です
・興味深いことにこの紙芝居の台本には、前述した軍歌版「進め一億火の玉だ」の歌詞が要所要所に登場します。おそらく紙芝居の演じ手はその箇所で「進め一億火の玉だ」を歌ったのでしょう。今でいうメディアミックスが図られた演出でした(参考:神奈川大学デジタルアーカイブ「進め一億、火の玉父さん」)。 こういった紙芝居や軍歌の存在からも分かる通り、「進め一億火の玉だ」というスローガンは、文字通り一億の国民――それも子供も含めた国民――に広く知らしめるべきスローガンだったわけです。ここでも一億は、国家総動員体制を象徴する言葉でした
▽国家総動員の時代(3)一億玉砕
・一億を含むスローガンには「進め一億火の玉だ」以外にも勇ましいものがまだまだありました。例えば「進め一億皆戦士」「一億一列一歩調」「一億が七つの海へ総進軍」「一億が皆科学者の心意気」「一億が一つ心で防諜団」といった具合です(参考「大衆操作の系譜」渋谷重光著/勁草書房/1991年)
・ただ戦況が悪化して終戦が近づく時期になると、戦時スローガンのフレーズに、やや末期的なニュアンスが漂うようになります。その代表例が「一億玉砕」でした
・書籍「明治・大正・昭和の新語・流行語辞典」(米川明彦著/三省堂/2002年)は一億玉砕についてこう説明しています。「(1944年)7月7日、サイパン島守備隊が全滅して、大本営は本土決戦を叫び、8月4日、一億国民総武装を決定した。そして国民の戦意を昂揚させるために『一億玉砕』を唱えた」
・玉砕という言葉については少し解説が必要でしょう。玉砕とは唐の時代の史書に由来する言葉で「玉のように美しく砕け散ること」を意味します。これは「名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと」を婉曲的に表現する言葉でもありました(史書に登場した時点で、すでに婉曲的な意味も持っていたことに注意してください)
・この玉砕という言葉を、大本営が「全滅」の婉曲表現として使用したのです。1943年5月、アッツ島守備隊の全滅を発表した時でした。一億玉砕という言葉が登場したのは、その全滅から約1年後の出来事でした。  おそらく当時の国民は、一億玉砕という言葉から尋常ならざる雰囲気を感じ取ったことでしょう。前述の「明治・大正・昭和の新語・流行語辞典」にはこんな解説も登場します。「1945年8月15日の玉音放送があると伝えられた時、一億玉砕の号令と考えた人がいた」
▽国家総動員の時代(4)一億総◯◯の誕生
・次回以降では「一億総◯◯」という語形をいくつか紹介する予定です。一億総懺悔、一億総白痴化、一億総中流といった言葉たちです。  その原型とも言える言葉が、実は戦時中に誕生していました。筆者はてっきり一億総懺悔(1945年8月)が元祖だと思っていたのですが、それは間違いだったのです
・筆者が見つけたなかで最も古い一億総◯◯は、大日本理容協会が推進した「一億総丸刈り」(1944年4月)というキャンペーンです。現代の視点で見ると少々滑稽なキャンペーンのように思えますが、当時の人は大真面目だったのでしょう(参考「増補版 昭和・平成家庭史年表」下川耿史著/河出書房新社/2001年)
・いっぽうで切迫した雰囲気を持つ一億総◯◯もありました。本稿の文中において「一億国民総武装」という言葉がさりげなく登場したことにお気づきだったでしょうか。サイパン島守備隊の全滅を受け、大本営が本土決戦を呼びかけた(1944年8月)、というところで登場しました。これも「一億総◯◯」の仲間と言っていいでしょう(「国民」の部分が余分ですが)
・また戦艦・大和が特攻作戦(1945年)に向かうことを決めた際も、その作戦が「一億総特攻の魁(さきがけ)」と称されました。このように一億は、国家総動員どころか、国民全滅のニュアンスすら漂わすようになったのです
▽第1回のまとめ「一億は国家総動員の象徴だった」
・ということで第1回はここまでとしましょう。ここまでの状況を簡単にまとめます。日本の人口が外地人口も含めて1億人を突破した1935年以降、一億は国民全体を意味する言葉として使われるようになりました。 そして国家総動員法が成立した1938年以降、一億という言葉は国家総動員のニュアンスも伴うようになりました。そして一億一心、進め一億火の玉だ、一億玉砕といったフレーズが浸透したわけです。そんななか一億総◯◯の元祖ともいえる一億国民総攻撃、一億総特攻なども登場。ついに国民全滅を思わせるニュアンスまで登場したことになります。 来週公開予定の第2回では「国家総動員の時代」の続きと「社会批評の時代」について紹介します。どうぞお楽しみに
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/216653/100800013/?P=1

第2回の10月17日付け「総動員の「一億」から、批評の「一億」へ 一億のイメージ史を辿る(2)」のポイントを紹介しよう(▽は小見出し)。
▽国家総動員の時代(4)一億総懺悔
・第1回でも述べた通り、戦時中、一億という言葉は国家総動員を意味していました。国家総動員法の成立以後に登場した一億一心、太平洋戦争の開戦とともに登場した進め一億火の玉だ、戦争末期に登場した一億玉砕といった言葉たちです。この経緯から分かる通り、一億が絡む言葉のニュアンスは、徐々に悲壮感を増していきました
・1945年8月15日、玉音放送の日を迎えました。この放送により、ポツダム宣言の受諾が広く国民に知れ渡ったのです。前回も触れましたが、事前にこの放送のことを知った国民の中には「一億玉砕の号令がかかるのでは」と考えた人もいたそうです
・その2日後である8月17日、鈴木貫太郎に代わって首相に就任したのが東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)でした。宮家の一員で、陸軍大将、貴族院議員でもあった人物です。 この東久邇首相による発言がもとになり「一億総懺悔」という言葉が流行しました。そしてこの言葉が、国民からの反発を受けることになります。一億総懺悔という言葉が誕生した経緯を、ある文献から引用しましょう
・「東久邇首相はマッカーサーの厚木到着を前に八月二十八日、内閣記者団と初の会見をし、『国体の護持(注:天皇制の維持)は理屈や感情を超越した固いわれわれの信念である』と力説した。この席で有名な一億ざんげ論(原文ママ)が述べられたのである。『ことここに至ったのは、もちろん政府の政策もよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのも原因である。このさい軍官民、国民全体が徹底的に反省し、ざんげしなければならない』」(「昭和のことば―キーワードでたどる私たちの現代史―」雑喉潤ほか著/1988年/朝日ソノラマ)
・少し細かい話になりますが、東久邇首相の発言は「国民全体が(中略)ざんげしなければ」であり「一億総懺悔」と表現してはいない点に注意が必要です(注:なお他の文献では、東久邇首相が記者会見で「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」と発言した、とするものも多いようです。もっともこの場合も「一億」総懺悔とは表現していません。「全国民総懺悔」という表現は、同年9月5日の施政方針演説において登場しました)
・一億総懺悔という言葉を初めて持ち出したのは、以上の会見を受けて書かれた朝日新聞の社説だと思われます。1945年8月30日付の社説で「正(まさ)に一億総懺悔の秋(とき)、しかして相依り(あいより)相扶けて(あいたすけて)民族新生の途に前進すべきである」という1文がありました。この一億総懺悔が、当時の流行語となりました
・さて当時の政府にとって、最大の関心は国体護持、つまり天皇制の維持にありました。東久邇首相の発言には、天皇に対する戦争責任の追求を避けようとする目的があったものと見られます
・しかし国民から見ると、戦争中にはお上からさんざん「一億一心」だの「進め一億」だの「一億玉砕」だのと煽られた挙句、戦争に負けた途端に「一億総懺悔」と言われたことになります。しかも「一億」と表現されたことによって、政府の責任が曖昧になったように見えました。当時は、一億総懺悔という考え方に対する国民の反発も強かったようです
・ということで、ここまでが「国家総動員の時代」ということになります。この時代の一億は「政府やマスメディアが国民すべてを同じ方向に向かわせるための言葉」だったわけです)
・(途中省略し、4頁目)今回紹介した一億ワードについて簡単に復習しましょう。 まずは前回からの続きとして「国家総動員の時代」を紹介。戦中には一億一心、進め一億火の玉だ、一億玉砕と威勢のよい一億ワードが広まりましたが、敗戦すると突如「一億総懺悔」という自省的な言葉が取って代わりました。ただ一億総懺悔もまた、「お上」からの言葉だったという点で、戦前戦中の「一億~」と共通します。つまり一億総懺悔における「一億」も、引き続き「国家総動員」の気分を引きずっていたわけです
・いっぽう戦後に入ると、一億を冠した言葉の中には「社会批評」のための言葉が登場するようになりました。例えばテレビ番組の低俗性を指摘した「一億総白痴化」、国民が持つ主観的な中流意識を指摘した「一億総中流」といった言葉たちです。ここでの一億は「批評の対象としての全国民」と位置づけることができるでしょう。戦争時代の一億とは、ずいぶん趣が異なります
・次回は一億イメージ史の最終回となります。「社会批評の時代」の続きを紹介したうえで、最後の「ニュートラルな時代」について紹介することにしましょう。どうぞ、お楽しみに
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/216653/101600014/?P=1

第3回の10月24日付け「一億は「一億人」と呼ばれて初めてニュートラルに 一億のイメージ史を辿る(3)」についても、最終的な結論部分である4頁目の「言葉としての「一億総活躍社会」をどう評価する?」だけを紹介しよう。
・今回は3回にわたって、国民全体を意味する「一億」という表現について、そのイメージの変遷をたどりました。本稿では「国家総動員の時代」「社会批評の時代」「ニュートラルな時代」という3つの時代区分を設けて、一億のイメージを分析しました
・以上のうち「社会批評の時代」と「ニュートラルな時代」は、現在も続いています。実際「一億総◯◯」とか「一億人の◯◯」という表現は、例えば書籍のタイトルとして現在も登場するのです
・ただ個人的には、国民全体を「一億」と括る言語感覚は、すでに古びていると思います。おそらく筆者は「一億総中流」が実質的に死語化している状況をもって、そう感じているのでしょう
・さて翻って、安倍晋三首相が持ち出した「一億総活躍社会」のお話です。この表現は、一億が従来から持つイメージのいずれにも「当てはまらない」ところが、非常に興味深く思えます。まず一億総活躍社会は、国家総動員の言葉でも、社会批評の言葉でもありません。そして「一億“人”」という形でもないので、ニュートラルな印象も薄いのです。また余談ながら、個人的には「一億」自体が時代遅れの言葉に見えます
・ただ好意的に見れば「一億総活躍社会」という政策が「一億」の新しいイメージを作り出す可能性もゼロではありません。果たしてこの政策は、将来どのように評価されるのでしょうか。また「一億」に新しいニュアンスが加わるとしたら、それはどんなニュアンスなのでしょうか?
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/216653/102100015/?P=4

これだけ、「一億」に徹底的にこだわって、深く掘り下げた記事は珍しいと考え紹介した次第である。
40年代の一億には、外地の朝鮮・台湾の人口も含んでいたとは、初めて知った。勘が悪い方なので、これを読んで初めて、7千万人程度なのに「一億」とすることへの疑問が、漸く氷解した。
子供向けの紙芝居の「進め一億、火の玉父さん」については、こんなものまであったのかと、改めて国家主義の恐ろしさを痛感させられた。
「一億総懺悔」のもとになった東久邇首相の『ことここに至ったのは、もちろん政府の政策もよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのも原因である。このさい軍官民、国民全体が徹底的に反省し、ざんげしなければならない』には、心底驚かされた。敗戦の要因に「国民の道義のすたれ」を持ち出す厚顔無恥さは、東久邇首相だけでなく、当時の支配層の考えであったのだろう。
「全滅」を「玉砕」と婉曲表現できることが示すように、方便に便利な日本語は高度な言語だ。こうした言語をもつ国民は騙されないよう十分に気をつける必要がありそうだ。
「国民から見ると、戦争中にはお上からさんざん「一億一心」だの「進め一億」だの「一億玉砕」だのと煽られた挙句、戦争に負けた途端に「一億総懺悔」と言われたことになります」との指摘を待つまでもなく、私自身は、「一億」にマイナスのイメージを持ってきた。あえてそれを使った安部首相は、「美しい国」の影の部分が理解できなかったのかも知れない。
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