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リベラリズム(その1)(日本の「リベラルの弱点」とは、カズオ・イシグロの警告が理解できない リベラルの限界 彼らはなぜ「格差」を無視し続けるのか、リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの) [国内政治]

今日は、リベラリズム(その1)(日本の「リベラルの弱点」とは、カズオ・イシグロの警告が理解できない リベラルの限界 彼らはなぜ「格差」を無視し続けるのか、リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの)を取上げよう。

先ずは、やや古いが、2018年7月31日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した評論家・ラジオパーソナリティの荻上チキ氏による「日本の「リベラルの弱点」とは」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/175791
・『TBSラジオ『Session-22』でパーソナリティを務め、日々、日本の課題に向き合い続けてきた荻上チキによる新刊『日本の大問題――残酷な日本の未来を変える22の方法』が7月19日に刊行された。【経済】【政治】【外交】【治安】【メディア】【教育】――どこをみても「問題だらけ」のいまの日本の現状と、その未来を変えるための22の対応策がまとめられた同書のエッセンスを紹介していきます』、興味深そうだ。
・『日本の財政状況の現状  まず財政の現状について簡単に概観しておきましょう。経済成長率の鈍化は、日本の財政に大きな影響を与えています。 1990年代以降、日本が、低成長期・デフレ不況期に突入していくと、如実に税収が減っていることがわかります(一般会計税収の推移)。その一方で、歳出(=政府の支出)が増えていることも見て取れるのがこの図です(一般会計歳出の推移)。収入は減っているのに、使うお金は増え続けてしまっているわけです』、なるほど。
・『日本の「リベラルの弱点」とは  政府の支出が増え続ける理由のひとつは、社会保障費の「自然増」によるものです。少子高齢化の現在、高齢者の数は毎年増え続けていきます。そのため、年金や医療費などの支出は、放っておいても自然に増大します。 そしてもうひとつは、景気が悪化し続けていることにより、「不況でみんな苦しくて収入が減っているから、助けなきゃいけない」という具合に、失業対策や貧困対策などの支出が増えてきたことが挙げられます。 90年代以降の日本は、税収は減っているのに、支出が増えるという傾向が続いています。そのバランスをどのように整えればいいのかというのが、大きな課題になっているということです』、消費税増税が「バランスを」「整え」る主要な手段というのが、与野党の基本合意だった。
・『日本の「リベラル」の弱点  日本では、再分配政策を唱えつつ、経済成長を促すという主張がなかなか出てこない。つまり、経済成長を求める人は、人権を守るための再分配政策には強い関心を示さず、人権に関心のある人は再分配を求めるものの、経済成長に関してはあまり議論をしたがらない。これは大問題です。 日本に多く見られる脱成長主義論者はまた、多文化主義の実現にも否定的になりがちです。たとえば、これは日本に限ったことではありませんが、右派にも左派にも反グローバリズムを唱える人が数多くいます。 右派は、自国の伝統や文化が外国人に破壊されることに反対して反グローバリズムを掲げるし、左派はグローバル企業によって貧困や格差が拡大することに反対してやはり反グローバリズムを謳う。反グローバリズムという点で、少なからぬ左派が右派と共通の主張をしているわけです。 それに対して、ポール・クルーグマン、アマルティア・セン、トマ・ピケティといった、政治的には左派で、日本でも左派に人気の経済学者も、ひとまず安倍政権の金融政策そのものは評価をする。労働者や移民の権利を守る必要性を唱えると同時に、市場は自由であるべきだと主張する。労働者の権利を守ることと経済成長は相反するものではありません。 そうしたなかで自民党は、今のところ相対的には経済成長と再分配政策の両方をうまくやっています。たとえば安倍政権は、左派がかつて言っていた女性の活躍や教育無償化を打ち出すようになった。これは、皮肉を込めていえば、左派の受動的な勝利であると同時に、プレゼンス上の敗北であるといえます。 10年前の第一次安倍政権であれば、女性の活躍を口にすることなど考えられませんでした。男女共同参画社会基本法に「ジェンダーフリー」という言葉が入ることや性教育を許さず、フェミニズムを叩いていた人ですが、今は女性に活躍してもらいましょうと言っている。なぜなら、そのほうが経済合理性があるからです。一方で、リベラルメディア叩きは加速させてはいますが。 フェミニストやリベラリストは、この状況に対して「女性が経済成長の資源として利用されている」と批判しています。その指摘は重要で、政権は「男女差別撤廃」とは掲げず、あくまで経済合理性の観点から「女性活躍推進」を叫ぶ。そのひとつの表出が、財務省のセクハラ疑惑に対する対応のまずさにも如実に表れていた。それでも、それまで経済政策については、「やらないよりまし」「やれないよりまし」ということで、安倍政権の経済政策は国民から一定の相対的支持を受けていました』、岸田首相は野党のお株を奪って「分配」重視の姿勢を打ち出した。
・『経済の「自由主義」と政治の「自由主義」は違う  さて、日本は政治制度としては議会制民主主義を、経済制度としては自由主義を採用しています。この自由主義という言葉は、経済学の文脈なのか、政治哲学の文脈なのかで、ニュアンスが変わってくる。 経済的自由主義ですと、国家が市場に対して過剰にコントロールすることのないことを意味します。要は「市場の国家からの自由」ですね。 ただし誤解されがちなのは、自由主義を語る名だたる経済学者は、市場を放置せよ、何もするな、とは主張していません。たとえば自由な市場を維持するためには、労働者の人権を侵害するようなことがあってはならないし、独占や、あるいは著作権侵害などがあっては、適切な価格変動や、必要なイノベーションが阻害される。だから、健全な成長のために必要な自由市場を守る、そのためにはどの程度のルール作りが妥当かというのを議論します。 対して政治的自由主義は、絶対王政や宗教国家ではない個人主義と、その個人が平等に自由を行使しつつ、他者からの不当な権利侵害を受けずに済むということを意味します。個人の国家からの自由、という具合でしょうか。 政治的自由主義は、その実現のため、さまざまなバリエーションを持ちます。当初は、絶対権力からの自由という意味で、国家は社会に介入すべきではないという思想として育ちました。これを自由権といいます。 しかしそれだけでは、貧困や格差の問題が改善されず、別の権力者=資本家が力を持つことになる。そこで、国家が適切に社会に介入することで、利害調整を行い、そのことで実質的な自由を確保することが重要だという考えが出てきます。これを社会権といいます』、なるほど。
・『経済-政治間の議論の往還を  日本の場合、経済的自由主義と政治的自由主義が、あまりマッチしていないように思えます。論壇的な思想分野で、ポストマルクス主義の影響も大きかったためか、あたかも両者は対立関係にあるのだと理解されている節がある。 しかし、金融政策による安定、財政政策によって景気刺激と適切な再分配を行うことは、経済的、政治的いずれの自由主義においても重要なアクションです。 他方で、保守主義のスタンスにも、経済的保守と政治的保守とがあります。機会の不均衡を是認する経済的保守と、社会秩序の変革に消極的な政治的保守。両者は、エスタブリッシュメント内でも、あるいは自らがリベラルへのカウンターパートであると自認する者にとっても、ある程度の重なりが見られる。 物事には、左右の対立だけでなく、上下の対立があるのですが、左右によって上下が覆い隠されることへの苛立ちが、トランプ現象という逆襲のアイデンティティポリティクスにもつながっていました。 そんななか、どういう課題が現在はあるのか。まずは、経済的、政治的自由主義間の豊かな対話と、労働者や住人たちへの幅広い包摂です』、「物事には、左右の対立だけでなく、上下の対立があるのですが、左右によって上下が覆い隠されることへの苛立ちが、トランプ現象という逆襲のアイデンティティポリティクスにもつながっていました」、「苛立ちが、トランプ現象という逆襲のアイデンティティポリティクスにもつながっていました」、とは難しい表現だ。
・『『日本の大問題』を書いた理由。  日本は〈今は〉国際的にも経済大国であり、政治的にも安定している先進国です。所得だけでなく、治安などの面でその豊かさを享受している人は多いでしょう。しかしこれからはどうなるか分かりません。GDPが中国に抜かれて3位に落ちたと騒がれていますが、すでに「一人あたりGDP」は2017年で25位。先進国の中でも非常に低い状況です。 そして日本には〈今も〉さまざまな問題点があります。貧困、格差、ジェンダー、人種差別といった問題に加え、政治やメディアなどの構造的な課題もある。そうした問題に目を背けることなく、社会的なバグを見つけては、ひとつずつ改善していくことが必要です。 「この国を、これからどこに向かわせましょうか」 これが、『日本の大問題』があなたに投げかける問いです。 「この国は、これからどこに向かうのでしょうか」 こうした問いかけはしません。それだと他人事っぽいからです。 この国には現在、多くの大問題があります。それらの問題を解決するために、あなたは具体的に何をはじめようと思いますか?人任せではいけません。ここは、あなた自身が暮らす社会なのですから。部屋が散らかっている。だから整理整頓する。それと同じようなことです。 もちろん片付けるのが苦手な人もいる。では、その部分は誰にどのような方法で任せますか。あるいは、自分の得意分野はなんでしょうか。 何かをするにしても、どういう問題があるのかわからない。そこで立ち止まる人もいると思います。そこで本書は、【政治】【経済・福祉】【外交】【メディア】【治安】【教育】の6つの分野について、今ある大問題の確認と、私なりのひとつの提案を示しています。 ぜひお手に取って頂ければ幸いです』、「提案」の骨格も示さずに、「ぜひお手に取って頂ければ幸いです」とは虫が良すぎる。

次に、3月22日付け現代ビジネスが掲載した会社員で文筆家の御田寺 圭氏による「カズオ・イシグロの警告が理解できない、リベラルの限界 彼らはなぜ「格差」を無視し続けるのか」を紹介しよう。
・『「横」を見るだけでは不十分  2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家カズオ・イシグロ氏の、あるインタビューが各所で大きな話題になった。 そのインタビューが多くの人から注目されたのはほかでもない――「リベラル」を標榜する人びとが自分たちのイデオロギーを教条的に絶対正義とみなし、また自身の感情的・認知的好悪と社会的正義/不正義を疑いもなくイコールで結びつける風潮の高まりに対して、自身もリベラリズムを擁護する立場であるイシグロ氏自身が、批判的なまなざしを向けていることを明言する内容となっていたからだ。 〈俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。 私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。(中略) 小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。 しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です〉(2021年3月4日、東洋経済オンライン『カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ』より引用) 平時には多様性の尊さや重要性を謳っているはずのリベラリストたちが、他者に向けて画一的な価値体系への同調圧力を向けていること、彼・彼女らと政治的・道徳的価値観を異にする者の言論・表現活動に対して「政治的ただしさ」を背景にした攻撃的で排他的な言動をとっていることなど、まさしく現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾を、イシグロ氏は端的に指摘している。 イシグロ氏の指摘は、私自身がこの「現代ビジネス」を含め各所で幾度となく述べてきたこととほとんど差異はなく、個人的には新味を感じない。しかしながら、こうした「政治的にただしくない」主張を私のような末席の文筆業者がするのではなく、世界に冠たるノーベル文学賞受賞者がすることにこそ大きな意味があるのだ。 ――案の定というべきか、イシグロ氏に「批判を受けた」と感じた人びとからは、氏の主張に対して落胆や反発の声が多くあがっているばかりか、中には「どうして自分たちにこのような批判が向けられているのかまるで理解できない」といった人もいるようだ。彼らはまさか自分たちがそのような「不寛容で排他的で、強い同調圧力を発揮している先鋭化集団」などと批判されるとは夢にも思わなかったらしい』、「平時には多様性の尊さや重要性を謳っているはずのリベラリストたちが、他者に向けて画一的な価値体系への同調圧力を向けていること、彼・彼女らと政治的・道徳的価値観を異にする者の言論・表現活動に対して「政治的ただしさ」を背景にした攻撃的で排他的な言動をとっていることなど、まさしく現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾を、イシグロ氏は端的に指摘」、こんな「自己矛盾」があったとは初めて知った。
・『同調しない者は「抹消」してもいいのか  「芸術・エンタテインメントの世界が、リベラル以外の声を反映することをできないでいる」というイシグロ氏の指摘はきわめて重要で、本質的であるだろう。 というのも、昨今における芸術・エンタテインメントの領域では、いままさにリベラリズムにその端緒を持つ社会正義運動「ポリティカル・コレクトネス」と「フェミニズム」と「キャンセル・カルチャー」が猖獗をきわめており、それらのイデオロギーに沿わないものを片っ端からバッシングして排除し、不可視化することに勤しんでいる最中だからだ。 彼らは、自分たちの世界観や価値体系にリベラル以外の声を反映するどころか、リベラル以外の価値観に基づく表現や存在そのものを、現在のみならず過去に遡ってまで抹殺しようとしている。 こうした同調圧力は、芸術やエンタテインメントのみならず、学術の世界――とりわけ人文学――でも顕著にみられる。学問の名を借りながら、実際にはラディカル・レフトの政治的主張を展開する人びとにとって、自分たちのイデオロギーに同調しない者などあってはならない。ましてや批判や抗議の声を上げようものなら、「社会正義に反する者」として徹底的に糾弾され、業界からの「追放」を求められることも珍しくはない。 リベラリストが語る「多様性」の一員とみなされ包摂されるのは、あくまでそのイデオロギーを受け入れ、これにはっきりと恭順の姿勢を示し、信奉していると表明した者だけだ。それ以外は「多様性」のメンバーの範疇ではなく、埒外の存在としてみなされる。 リベラリストが考える「多様性」に含まれないものは、社会的に寛容に扱われる必要もないし、内容によっては自由を享受することも許されるべきではない――それが彼らのロジックである。今日のリベラリストは「多様性」や「反差別」を謳うが、その実自身のイデオロギーを受け入れない者を多様性の枠組みから排除する口実や、特定の者を排除しても「差別に当たらない」と正当化するためのロジックを磨き上げることばかりにご執心のようだ。 「累積的な抑圧経験」「性的まなざし」「寛容のパラドックス」「マンスプレイニング」「トーンポリシング」などはその典型例だ。自分たちの独自裁量でもって「加害者」「差別者」「抑圧者」などと認定した者であれば、その対象に対する攻撃や排除は、自由の侵害や差別や疎外にあたらず、一切が正当化されるというのが彼らの主張である。 いち表現者として、またひとりのリベラリストとして、こうした風潮をイシグロ氏が憂慮するのはもっともだ。リベラル(自由主義)を標榜する人びとが、その実「リベラリズムのイデオロギーに賛同する芸術・エンタテインメント」以外を許容しない――イシグロ氏は自身も激しい反発にさらされるリスクを承知していながら、それでもなお、そうした形容矛盾とも言える状況を批判せずにいられなかったのだろう』、「リベラル(自由主義)を標榜する人びとが、その実「リベラリズムのイデオロギーに賛同する芸術・エンタテインメント」以外を許容しない」、そんな「形容矛盾」を起こしているとは、信じられないような話だ。
・『インテリの傲慢こそ「分断」の正体  リベラリストや人文学者のいう「多様性」「寛容性」「政治的ただしさ」など、局地的にしか通用しない虚妄にすぎない。それらは結局のところ、自分たちと政治的・経済的・社会的な水準がほとんど同じ人びとによって共有されることを前提にした規範にすぎないからだ。 つまりそれは、人間社会におけるヒエラルキーの階層を水平に切り取った――言い換えれば、経済力や社会的地位などが同質化された――いわば「横軸の多様性(イシグロ氏のいうところの《横の旅行》)」でしかない。 自分たちと同じような経済的・社会的ステータスをもつ人びとの間だけで、自分たちに都合の良いイデオロギーを拡大させていったところで、全社会的な融和や和解など起きるはずはない。むろん世界はいまより良くもならない。むしろさらに軋轢と分断を拡大させるだけだ。いまこの世界に顕在化する「分断」は、政治的・経済的・社会的レベルの異なる人びとの間にある格差によって生じる「縦軸の多様性《縦の旅行》」が無視されているからこそ起こっている。インテリでリベラルなエリートたちが、「横軸の多様性」をやたらに礼賛する一方で、この「縦軸の多様性」には見て見ぬふりを続けていることが、この「分断」をますます悪化させている。 金持ちで、実家も太く、高学歴インテリで、もちろん思想はリベラルで、つねに最新バージョンの人権感覚に「アップデート」し続ける人びとが、ポリティカル・コレクトネスやSDGsといった概念を称揚し、経済的豊かさや社会的地位だけでなく、ついには「社会的・道徳的・政治的ただしさ」までも独占するようになった。その過程で彼らは、知性でも経済力でも自分たちに劣る人びとを「愚かで貧しく人権意識のアップデートも遅れている未開の人びと」として糾弾したり嘲笑してきたりしてきた。その傲慢に対する怒りや反動が、いま「分断」と呼ばれるものの正体である。 「偏狭で、差別主義的で、知的に劣っていて、非科学的で、人権感覚の遅れた人びとが『分断』の原因である(そして我々はそのような連中を糾弾する正義の側である)」――という、リベラリストが論をまたずに自明としている奢り高ぶりこそが、世界に「分断」をもたらす根源となっている。この点を、自身もまたインテリ・リベラル・エリートの一員でありながら指摘したイシグロ氏の言葉には大きな意味があるが、しかし残念ながら肝心の「リベラリスト」の大半には届かないだろう』、「「偏狭で、差別主義的で、知的に劣っていて、非科学的で、人権感覚の遅れた人びとが『分断』の原因である(そして我々はそのような連中を糾弾する正義の側である)」――という、リベラリストが論をまたずに自明としている奢り高ぶりこそが、世界に「分断」をもたらす根源となっている」、「分断」の「根源」は「リベラリスト」の「奢り高ぶり」にあるとの指摘は衝撃的だ。
・『イシグロ氏の限界  ――だが、イシグロ氏のこうした言明にも、やはり限界が見える。というのも、氏にはいまだに「歴史のただしい側」に立つことへの未練があるように思えてならないからだ。 たしかに、現状のリベラルの問題点を殊勝に列挙してはいるものの、しかし「リベラリズムがただしいことには疑いの余地もない」というコンテクストそれ自体を批判することはできないままなのである。冒頭で引用したインタビュー内の言明でも、あくまで「リベラリズムのただしさ」は自明としたうえで「リベラル派も(よりよいリベラルを目指すために)反省するべき点がある」と述べるにとどまっている。 ようするに、「私たちが知的にも道徳的にも政治的にもすぐれており、なおかつ『歴史のただしい側』に立っていることは明らかだ。だが、前提として間違っている彼らの側にも、一定の『言い分』があることを、我々はもっと寛容に想像しなければならないのではないか」というスタンスを取るのが、やはりノーベル文学賞受賞者という西欧文明の価値体系のど真ん中にいる人物にとって、踏み込めるぎりぎりのラインなのだろう。それを非難するつもりはない。これ以上攻めると、イシグロ氏自身も当世流行の「キャンセル・カルチャー」の餌食となってしまいかねない。氏にもまだまだ生活や人生がある。ためらって当然だ。) しかしながら「まず前提として私たちリベラルはただしい。だが、間違っている愚かで遅れた彼らにも、まずは居場所を与えてやろう。そして、彼らにも勉強させる(≒私たちのただしさを納得させる)ことが必要だ」という傲慢で侮蔑的なコンテクストこそが、アメリカではトランプとその支持者を、ヨーロッパでは極右政党を台頭させる最大の原因のひとつとなったのではないか。このコンテクスト自体を批判的に再評価することなく、いま世界中で顕在化している「分断」を癒すことなどできない。 私たちの主張をよく勉強して理解すれば、いずれは彼らも自らの間違いを認めて、世界はきっとよくなる――という善悪二元論的で、単純明快な勧善懲悪の物語を信じてやまないがゆえに、リベラリストの問題意識はいつだって的外れなのだ。 「ひょっとして、自分たちも、世界に分断や憎悪をもたらす『間違い』の一員なのではないか」という内省的な考えを――イシグロ氏ほどでなくともよいから――持つようになれば、彼らの望みどおり、世界はいまよりずっとよくなるのだが』、「世界はきっとよくなる――という善悪二元論的で、単純明快な勧善懲悪の物語を信じてやまないがゆえに、リベラリストの問題意識はいつだって的外れなのだ」、手厳しい批判だ。本当に当たっているのか否か、今後、時間をかけて検討したい。

第三に、9月22日付けNewsweek日本版が掲載した右派の若手文筆家の古谷経衡氏による「リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの」を紹介しよう』、興味深そうだ。
・『野党支持率が伸びないのは、自民党内にメタ的野党構造があるから  右を見ても左を見ても、テレビ・新聞・ラジオ・雑誌の大メディア・ネット空間も自民党総裁選一色。菅政権はその末期になって支持率3割前後のままだが、自民党の対抗軸になるはずの立憲民主党の政党支持率はわずか3.0%。公明党にも後塵を拝することとなっている。 なぜ自民党政権が不人気なのにその受け皿が立憲民主党などの野党に及ばないのか。リベラル政党の支持者は、そのジレンマに日々懊悩しているのであろう。答えは簡単である。今次自民党総裁選を見てわかる通り、自民党の中に野党的対抗軸が存在しているからだ。つまり、メタ的に自民党の中に「党内野党」という極が無数に存在するからである。よって立憲民主党に支持が及ばないのは、自民党の構造上、必然の成り行きなのである。 かつて中選挙区時代、この構造はもっと鮮明であった。自民党内の派閥間の対立が、そのまま反自民票を吸収した。自民党A派閥への批判を自民党B派閥が受け皿になることによって、「自民党への批判を自民党が吸収する」という摩訶不思議な現象が起こり、少なくとも1993年の細川連立政権誕生まで自民党はその命脈を保ってきた。第二次安倍政権の7年8か月における長期政権で「安倍一強」が言われたが、ふたを開ければ安倍元総理の出身派閥である清和会は衆参自民党国会議員の1/4に満たず、それでいて他派閥が付き従っていたのは「選挙に勝てるから」、という理由でしかない。 よって菅総理では選挙に勝てぬと算段すると、途端に抑圧されていた多極が動き出す。今次総裁選では岸田派(宏池会)以外は自主投票とされるが、現実的には派閥の力学が作用し、もし決選投票となった場合は議員票の偏重から、より派閥間の駆け引きが熾烈となろう。つまりは小選挙区制となって以降も、自民党の派閥政治は何ら衰えておらず、自民党の中にメタ的反政権が存在する以上、野党がその受け皿になることは難しいのである』、「自民党内の派閥間の対立が、そのまま反自民票を吸収した。自民党A派閥への批判を自民党B派閥が受け皿になることによって、「自民党への批判を自民党が吸収する」という摩訶不思議な現象が起こり、少なくとも1993年の細川連立政権誕生まで自民党はその命脈を保ってきた」、これでは「野党」は確かにやり難いだろう。
・『朝日新聞「リベラル派が陥る独善」の衝撃  さて2021年9月9日の朝日新聞に、私としては極めて衝撃的な記事が掲載された。"(インタビュー)リベラル派が陥る独善 政治学者・岡田憲治さん"である。要点をまとめると次の通り。 1)リベラルは不寛容で教条的であるから、有権者広範の支持を受けない 2)よってリベラルは不寛容を捨てて、大同団結するべきである 3)リベラルの「正しい主張」が必ずしも人々に受け入れられるとは限らない) 云々である。くり返すように私はこの記事を読んで衝撃を受けた。インタビューを受けた政治学者の岡田氏はリベラル派の学者・言論人として知られるが、その内容はリベラルへの自虐ともとれる内容で、「こんなにもリベラルは自分自身に絶望しているのか」と、私自身保守の立場からショックを受けたのである。岡田氏はどうインタビューの中で、リベラルの誤謬をこう断定する。 「身近な同志たちは、民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望(後略)」 岡田氏はこう表現している。ここで言う、"民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望"というのは、すなわち前述第二次安倍政権が7年8か月にわたって続いたことの圧倒的絶望を示すものであろう(菅政権は、衆参における国政選挙の"審査"を受けていないので除くとしても)。 「なぜ、第二次安倍政権のような"民主国家のルールを平然と無視する"政権が、有権者からの信任を受けているのか。やはり私たち(リベラル)は、やり方が間違っていたのではないか」 こういった声を、ここ数年で幾度となく嫌になるほど私は聞いてきた。リベラル系と思われる新聞記者や雑誌記者、言論人や政治家たちは、皆一様にこれと同じか、はたまたこれに準じた「絶望」を語る。「なぜこんなむちゃくちゃな政権(第二次安倍)が国民から信任を受けているのか」。彼らは時として苦渋に満ちた表情で結句として、こう判決する。 「我々リベラルのやり方が間違っていたに違いない」と。最近はリベラル側からリベラル側の誤謬を指摘するのが流行っているのかもしれないが、とかくこういう論調が多い。「有権者に訴求できない以上、リベラルの戦法は間違いであった」。皆それを言うのだが、保守である私には全く理解できない。なぜ自分たちが間違っていると早々に結論して自虐に走るのか、意味が分からない』、確かに、「リベラル側が」「自分たちが間違っていると早々に結論して自虐に走るのか、意味が分からない」、私も分からない。
・『ロッキード時代と相違ない議席数  「この間に、日本の政治家のモラル水準はどんどん低下しつづけた。いつ収賄罪などで逮捕されてもおかしくないような人々が、次々と総理大臣の座についたり、政府、党の要職についたりするようになった。」 この言葉は、現在の政治状況を皮肉ったものでは無い。田中金権腐敗政治を鋭く糾弾した、ジャーナリストの立花隆氏がその著書『巨悪VS言論』(文藝春秋)で、田中角栄をぶった切った際の文章である。立花は、田中政治を「民主主義のルール破りだった」と断罪する。 言うまでもないが、田中角栄は自衛隊機を含む「ロッキード疑惑」に関係して、1976年7月に逮捕された。元総理の逮捕という前代未聞の事件に日本はもとより世界中も注目した。長い裁判の後、田中は1983年10月に第一審の東京地方裁判所で懲役4年の有罪判決を受けた。世論は、田中角栄はクロだ、という印象が強くなった。このような田中批判の中で行われたのが、1983年衆議院総選挙だった。正しく立花の言う「民主主義のルール破り」を行った自民党への国民の審判が問われた。 当時、「"田"中曽根内閣」と揶揄された中曽根康弘率いる自民党は、歴史的大敗を喫した。このとき衆議院の定数は今より多い511議席だったが、自民党は250議席を獲得して第一党の地位を堅守したものの、単独過半数を割れこんだ。これでは政権が維持できないから、無所属当選議員を勧誘して何んとか自民党政権を維持した。この時、野党第一党である社会党の獲得議席は112議席であった。この数は、現在の立憲民主党の議席数と大差ない。 ロッキード疑獄は、第二次安倍政権下に於ける「桜を見る会」の疑惑とは金額的には比較にならない規模であった。丸紅ルート・全日空ルートなど、数億以上のカネが動いたとされる戦後最大の疑獄である。よってそれを「民主主義のルール破り」「いつ収賄罪などで逮捕されてもおかしくないような人々が、次々と総理大臣の座についた」り、と評することはなんら不思議は無いが、こんな元総理の逮捕と起訴、有罪判決が出て田中金権政治への不満が頂点に達した1983年末の総選挙でさえ、逆に言えば自民党は過半数ぎりぎりに踏ん張り、対抗軸たる社会党は伸びたとは言え衆議院の1/5強を確保するにとどまったのである。 事程左様に、「民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望」は、21世紀に入って突如として起こった事ではない。実は、戦後の日本政治の中で常に繰り返されてきた歴史である。今更になって、「絶望した」というのは、私からすると奇異に感じる。ロッキード疑獄を以てしても自民党政権が続いたときの絶望の方が、よほど比較的に絶望の度合いが濃い。野党が弱いのは、冒頭で述べた通りに、「自民党の中にメタ的な野党構造がある」からで、今に始まった事ではない。なぜこんなにも簡単にリベラルは世論から「拒否された」と思い込み、「リベラルの不寛容さがこの状況を招いた」と自虐するのか。短慮に過ぎると思う』、「野党が弱いのは、冒頭で述べた通りに、「自民党の中にメタ的な野党構造がある」からで、今に始まった事ではない。なぜこんなにも簡単にリベラルは世論から「拒否された」と思い込み、「リベラルの不寛容さがこの状況を招いた」と自虐するのか。短慮に過ぎると思う」、同感である。
・『今こそマックス・ウェーバーに学ぶべき  おそらくリベラルは、2009年の劇的な政権交代(麻生自民党から鳩山民主党へ)の成功体験が忘れられないのだろう。1993年における細川連立内閣は、その政権交代劇の首魁である小沢一郎氏、細川護熙氏、羽田孜氏らが揃いも揃って元自民党議員であったように、自民党Aと自民党A´(ダッシュ)の分裂であり、狭義の意味での政権交代とは程遠い。そういった意味では、真に「55年体制の崩壊」が達成されたのは2009年の民主党鳩山内閣成立であったとすることもできる。しかしリーマンショック・東日本大震災などの時代的背景のため、鳩山→菅→野田と続いた民主党政権は3年強で瓦解した。 現在のリベラルは、この鳩山政権誕生時代の政権交代の成功体験を引きずっているが、それは日本の戦後政治史の中で極めて特異な事象であったとするよりほかない。なぜ一度の「挫折」で「リベラルはまちがっていたのではないか。不寛容に過ぎたのではないか」と自虐する理由になるのか。 マックス・ウェーバーはその不朽の名著『職業としての政治』の中で次のように書く。 "政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なこの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。(マックス・ウェーバー著、『職業としての政治』,脇圭平訳,岩波書店,強調筆者)) こういった不屈の精神が、リベラルには足らないのではないか。たった一回の政権交代(鳩山政権)の成功体験とその後の挫折を後顧して、「私たちはまちがっていた、不寛容であった」と自虐するのは早計ではないか、と言っているのだ。 事実、本稿で引用した朝日新聞の岡田憲治氏の言によると、「リベラルの正しさが必ずしも受け入れられるわけではない」と述べているが、実際に過去10年間を切り取っても、性的少数者や女性差別について、主にリベラル側から提起され続けてきた問題について、現在ではそれが大メディアのコンプライアンス基準となり、実際の番組制作や表現を動かしているではないか。まさに、マックス・ウェーバーの言う、"堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業"が、奏功したのが現代社会ではないのか。そういった地道な、刹那的に注目されない政治活動を「無意味」「(リベラル以外に対し)不寛容で訴求しない」と決めつけて自虐を行い、すぐに主張を修正しようとする恰好そのものが、リベラルの弱点だと言っても差し支えはない』、「"堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業"が、奏功したのが現代社会ではないのか。そういった地道な、刹那的に注目されない政治活動を「無意味」「(リベラル以外に対し)不寛容で訴求しない」と決めつけて自虐を行い、すぐに主張を修正しようとする恰好そのものが、リベラルの弱点だと言っても差し支えはない」、同感である。
・『「昭和の日改定運動」と保守の草の根  私は永年保守界隈に居を構えてきた。保守界隈は第二次安倍政権が誕生するはるか前の段階で、"堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業"をずっとおこなってきた。例を挙げるとキリが無いが、例えば「昭和の日改定運動」である。昭和の日とは、昭和天皇の誕生日である4月29日の祝日を指すが、これは2007年までの話で、それ以前は単に「みどりの日」と呼ばれていた。 これに強硬な保守層は怒っていた。昭和天皇誕生日を「昭和の日」としないで「みどりの日」と呼称するのは何事であるか。是非「みどりの日」の呼称を「昭和の日」に改定するべきである―。ゼロ年代後半の保守界隈やネット界隈では、俄かにこの「昭和の日改定運動」が盛り上がったのだが、特に彼ら在野の保守系活動家は孤立無援であった。「昭和天皇誕生日を"みどりの日"と呼称することの違和感」と題したパンフレットを、彼ら活動家はまったくの自費で、新宿駅や池袋駅、渋谷駅で配布した。彼らの大半は自営業者だったが、「昭和の日」実現を目指して全部私費を投じた。仕事が終わるや否や、損得を度外視して新宿駅の街頭に立って、「昭和の日」の正統性を訴えた。 勿論彼らは保守系の国会議員や地方議員にも訴えたが、保守系論壇誌ですら「昭和の日改定運動」は優先度が低く、そこまで注目されなかった。40歳を過ぎたいい歳のおじさんが、損得を度外視して、身内からも注目されることなく、コンビニのコピー機で刷った一枚10円のビラを雨の日も風の日も、台風の日も配布するとき、その主張が正しいか正しくないかを別として私は涙が出た。これが草の根の保守運動というやつであった。彼らの声が届いたかは判然としないが、結果として「みどりの日」は、彼らの望む通り「昭和の日」になって現在を迎えている。 くだんの朝日新聞における岡田憲治氏のインタビューには、現在のリベラル派が認識している支持層を「上顧客」とする記述がある。自分たちの思想への支持層を「客」と呼んで憚らない岡田氏の世界観には賛否があるだろうが、少なくとも保守運動にはそういった意識は無かった。「昭和の日改定運動」に携わった保守系の活動家のほとんど全部は、自らへの支持者を「客」とは見做さず、「同志」として歓迎した。 客観的にみて、その主張が如何に政治的に偏っていようとも、彼らは自らの主張が絶対に正しいと信じ、多数派工作を行わなかった。なぜ行わなかったのかと言えば、自分たちの主張は絶対に正しい。いつかは届くと信じたので、多数派工作を行う必要性を感じなかったからだ。彼らは愚直なまでに自らの信念を貫き通し、その活動で出会った人々を「客」という周縁に追いやることをせず「同志」として平等に連帯した。 これが「保守」にあって「リベラル」に無い根本精神ではないのか。「上顧客」「固定客」などという、いわば見下した他者への存在がある限り、リベラルの復権は絶対にない。強固な保守は、過去にも、現在にも、未来でも、「同じ志を有する者は同志として見做して平等に扱う」をその根本精神とする。間違っても「客である」等とは言わない。そして絶対に信念を曲げない。 「自分たちが受け入れられないのは、メディアのせいであり、反日勢力の陰謀であるから、自分たちはまちがっていない」という直進性を有する。その点リベラルは、たった一回の実質的政権交代に味を占め、それが再現できなくなると「私たちが間違っていたのではないか」という自虐に走る。これがリベラルが保守に劣後する最大の理由だ。今こそマックス・ウェーバーの故事を思いだし、たった一度の挫折にひるむことなく自身の主張を剛毅不屈に貫徹してもらいたい。それができず、単に主義のない「多数派工作」を展開し、自らの支持者を「客」と蔑むなら、リベラルに未来などないのではないか』、「強固な保守は、過去にも、現在にも、未来でも、「同じ志を有する者は同志として見做して平等に扱う」をその根本精神とする。間違っても「客である」等とは言わない。そして絶対に信念を曲げない・・・その点リベラルは、たった一回の実質的政権交代に味を占め、それが再現できなくなると「私たちが間違っていたのではないか」という自虐に走る。これがリベラルが保守に劣後する最大の理由だ」、手厳しい「リベラル批判」で全く同感である。
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