核武装・核兵器(その2)(核兵器禁止条約に加入すれば 日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由、原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?) [安全保障]
核武装・核兵器については、昨年6月14日に取上げた。今日は、(その2)(核兵器禁止条約に加入すれば 日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由、原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?)である。
先ずは、昨年6月13日付け東洋経済オンライン「核兵器禁止条約に加入すれば、日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/595600
・『唯一の戦争被爆国である日本にとって核廃絶は悲願だ。しかし2021年に発効し、61カ国が締約した核兵器禁止条約に日本は背を向けている。この6月に核兵器禁止条約の第1回締約国会議、8月には核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が予定され、核廃絶・禁止への関心が高まる中、日本はこのままでいいのか(Qは聞き手の質問、Aは佐野氏の回答)』、興味深そうだ。
・『核兵器禁止条約は日本を守れるか Q:日本人の多くが、なぜ核兵器禁止条約に参加しないのかと思っているのではないでしょうか。 A:広島・長崎を経験し、核廃絶運動に共鳴してきた日本国民にとって同条約が人類の夢のように映り、加入しないことに義憤を感じる人も多いと思います。それゆえに同条約の正確な姿を伝え、日本がなぜ参加できないのかという疑問に答えようと筆を執りました。 Q:日本は中国とロシア、さらに北朝鮮と、核兵器を持つ国に囲まれています。 A:核武装国に囲まれた東アジアにおける日本の安全保障環境はとても厳しい。そのような状況に対処するのが防衛力であり、日米安全保障条約です。日米安保は米国の「核の傘」という核抑止力がコアになっています。ところが、核兵器禁止条約はその核抑止力を否定します。この条約に日本が入った途端、核の傘がなくなり、日本は「丸腰」の状態になってしまう。隣国の核の恫喝になすすべもなく、極めて危険な状況に陥るのです。日本を守れる代替策がない以上、核兵器禁止条約は、政策オプションにはなりえないのです』、「核兵器禁止条約はその核抑止力を否定します。この条約に日本が入った途端、核の傘がなくなり、日本は「丸腰」の状態になってしまう。隣国の核の恫喝になすすべもなく、極めて危険な状況に陥るのです。日本を守れる代替策がない以上、核兵器禁止条約は、政策オプションにはなりえない」、なるほど。
・『核兵器禁止条約は核抑止力を否定 Q:日本は核兵器国(米、ロ、英、仏、中)と核兵器禁止条約推進派との橋渡し役を果たし、6月の締約国会議にオブザーバーとして出席すべきだとの声があります。 A:「橋渡し」にはそれなりの実力と双方からの厚い信頼が必要です。「言うは易く行うは難し」で、日本にそれができると過信しないほうがよいと思います。核の傘の下にいる日本は、条約推進派とはすでにたもとを分かっており、決して「中間派」ではありません。 また、自国の安全を依存する核抑止を否定する同条約の締約国会議への参加は、基本的には自己矛盾であり、オブザーバーという形であれ慎重であるべきです。 Q:核兵器禁止条約が持つ欠点は何でしょうか。 A:前述のとおり日本が依存する核抑止を否定していること以外にも、何点かあります。 第1に、同条約は安全保障観の転換を求めます。条約推進派は核爆発の影響が国境を超えて地球規模に及ぶことから、「国家の安全保障より人類の安全保障を優先すべきだ」と主張します。しかし、国際社会は主権国家で成り立っており、核兵器から人類の安全を保障する統合的な機関はありません。結局、自国の安全は自らの手で守らざるをえない。ですから人類の安全保障を優先する安全保障観へ転換することは無理なのです。) 第2に、核兵器の禁止と廃絶は別物です。禁止しても核兵器国が乗ってこなければ核廃絶はありえません。実際、核兵器国は乗るどころか激しく反発しており、禁止条約はNPT加盟国間に亀裂をもたらしてしまいました。 第3に、核兵器廃棄の検証過程が中途半端です。核兵器国がこの条約に入っていないうえに、具体的な廃棄の検証に必要なノウハウを締約国は持っていません。米国とロシアは冷戦後、軍縮条約を結び、衛星情報や相互の現地査察などを通じて核解体を検証してきた歴史があります。そうしたノウハウを持たない条約締約国に、どこまで確実な廃棄の検証ができるでしょうか』、「核の傘の下にいる日本は、条約推進派とはすでにたもとを分かっており、決して「中間派」ではありません。 また、自国の安全を依存する核抑止を否定する同条約の締約国会議への参加は、基本的には自己矛盾であり、オブザーバーという形であれ慎重であるべきです」、「核兵器禁止条約が持つ欠点」としては、「第1に「核兵器から人類の安全を保障する統合的な機関はありません。結局、自国の安全は自らの手で守らざるをえない。ですから人類の安全保障を優先する安全保障観へ転換することは無理」、「第2に、核兵器の禁止と廃絶は別物です。禁止しても核兵器国が乗ってこなければ核廃絶はありえません」、「第3に、核兵器廃棄の検証過程が中途半端です。核兵器国がこの条約に入っていないうえに、具体的な廃棄の検証に必要なノウハウを締約国は持っていません」、なるほど。
・『核廃絶への王道はNPT Q:現在の日本にとって、北朝鮮の核兵器が脅威となっています。 A:核兵器禁止条約の成立を推進し、ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のベアトリス・フィン事務局長は、北朝鮮の脅威に対し核抑止が必要ならば、北朝鮮にとっても核兵器国の米国の脅威があるから自国を守るために核が必要だということになり、核兵器国がやっていることを他人にさせないという主張は通らない、と述べています。しかし、これには無理があります。 まず、核抑止力を認めることは北朝鮮の核保有を承認することではありません。北朝鮮の核保有が認められないのは、北朝鮮が法的な核不拡散義務を負っているにもかかわらず、それに違反しているからです。 03年に北朝鮮がNPTからの脱退を宣言して以降、北朝鮮がNPT加盟国かどうかについて解釈が分かれています。脱退は認められないとする立場からは、北朝鮮はNPT上の非核兵器国であり核不拡散の義務を負っています。他方で北朝鮮は国連の加盟国であり、安全保障理事会での数回にわたる北朝鮮に対する決議がありました。それゆえ、もはやNPT加盟国ではないとする立場からも、法的拘束力を持つ安保理決議に北朝鮮が違反しているがゆえに核保有は認められないのです。 Q:「自分がやっていることを他人にさせないという主張は通らない」という部分については? A:その主張は「通る」のです。核が拡散しないように、あえて5カ国の「核クラブ」による独占を認め、核兵器国に特別の地位を与えたのがNPTだからです。 NPTが成立したのは、各国が主権平等の原則を犠牲にしてまで核の拡散を防ごうとした「知恵」だったのです。それゆえに、自分がやっている核の保有を他人にさせないという核兵器国の主張は「通る」のです。 Q:北朝鮮の核開発や、最近ではロシアのプーチン大統領によるウクライナに対する「核使用」の可能性発言に影響を受け、日本の一部では「核武装論」が出ています。 A:核武装は論外です。過去半世紀にわたり、曲がりなりにも核の拡散を最小限に抑え、核廃絶へのベクトルを失わず、核秩序の礎となってきたのがNPTです。わが国が核武装をすれば、核軍縮・核不拡散に率先して努力してきた日本が、隣国を含む、世界的な核武装のドミノ現象を誘発してしまうでしょう。それは、1962年のキューバ危機の際、ケネディ米大統領が恐れた「核のカオス(混沌)」への引き金を日本自らが引いてしまうことを意味するのです』、「NPTが成立したのは、各国が主権平等の原則を犠牲にしてまで核の拡散を防ごうとした「知恵」だったのです。それゆえに、自分がやっている核の保有を他人にさせないという核兵器国の主張は「通る」のです」、「わが国が核武装をすれば、核軍縮・核不拡散に率先して努力してきた日本が、隣国を含む、世界的な核武装のドミノ現象を誘発してしまうでしょう。それは、1962年のキューバ危機の際、ケネディ米大統領が恐れた「核のカオス(混沌)」への引き金を日本自らが引いてしまうことを意味する」、「核武装は論外です」、なるほど。
次に、本年7月26日付けNewsweek日本版が掲載した在米作家の冷泉彰彦氏による「クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2023/07/post-1319_1.php
・『<原爆開発をテーマにしたこの作品を、被爆国日本は当事者として評価する権利がある> 現在、世界で最も注目されている映画監督の1人、クリストファー・ノーラン監督(『ダークナイト』『インターステラー』)の最新作『オッペンハイマー』がアメリカで公開されました。7月21~23日という、最初の週末の興行収入は8250万ドル(約117億円)と、科学者の伝記映画としては例外的なヒットとなっています。 内容は、アメリカ陸軍による原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描くものですが、単に原爆開発のストーリーだけでなく、非常に複雑な構成が取られています。主人公の半生に加えて、後に「赤狩り」の犠牲者として追及を受けた尋問の様子、さらに彼を陥れた黒幕に対する議会の審議という3つの時間軸がモザイクのように散りばめられ、それぞれが緊張感のある対話劇になっているのです。 ちなみに、主人公を演じたキリアン・マーフィー、その夫人を演じたエミリー・ブラント、さらには陸軍のグローブス中将を演じたマット・デイモン、主人公を陥れようとしたストラウス(後の商務長官)を演じたロバート・ダウニー・ジュニアの4名の演技は、おそらく彼らのキャリアの頂点とも言うべきクオリティです。 ですが、作品として「マンハッタン・プロジェクト」を中心に据え、特に試作された核弾頭「トリニティ」の臨界実験を映像的なクライマックスに据えているのは事実です。ですから、被爆国である日本の人々には、当事者として、この作品を評価する権利があると思います。具体的には次の3点、重要な論点があります』、「原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描くものですが、単に原爆開発のストーリーだけでなく、非常に複雑な構成が取られています。主人公の半生に加えて、後に「赤狩り」の犠牲者として追及を受けた尋問の様子、さらに彼を陥れた黒幕に対する議会の審議という3つの時間軸がモザイクのように散りばめられ、それぞれが緊張感のある対話劇になっているのです」、「被爆国である日本の人々には、当事者として、この作品を評価する権利があると思います」、当然だろう。
・『臨界実験の描写のインパクト 1つは、原爆開発の倫理的責任の描き方です。作品の中では「ナチスが原爆で先行することを防ぐ」というのが主要な動機だとされています。また、降伏寸前の日本に投下して非戦闘員の大量殺戮を行うべきではないという表現もあります。その一方で、軍部、特にスチムソン陸軍長官や、トルーマン大統領は投下に積極的だったという描写がされています。作品の全体としては高いレベルの歴史的考証がされているというのですが、被爆国の立場から見て十分に正確で誠実な描写であるかは、検証が必要と思います。 特に試作弾頭「トリニティ」の臨界実験の描写は、凝りに凝ったCGと音響で圧倒的なインパクトがあります。それが、原爆の恐怖の表現として成功しているのか、それとも「開発成功の勝利感」と取られかねない表現になっているのかも、厳しい検証が求められます。なお、アメリカの配給会社は、この「火球の映像」をマーケティングに使っていますが、少なくとも、このことには被爆国として抗議の声を挙げてもいいと思います。 2つ目は、広島、長崎の惨状に関する描写です。作品では「明らかに違うサイズの2つの木箱」で、広島の攻撃に使用された「リトルボーイ」と、長崎に落とされた「ファットマン」が表現され、ロスアラモス研究所の職員たちが「実際に使われてしまうのでは」という不安な表情で「2つの木箱」の搬出を見守るシーンがあります。私はこの木箱のシーンに鳥肌の立つような戦慄を覚えました。 また、戦後になって広島の惨状を記録したフィルムがロスアラモス研究所で上映され、主人公がその内容に衝撃を受けるシーンがあります。ですが、肝心の広島、長崎の惨状に関するビジュアルの描写はありません。これは、今回2023年5月の広島G7でバイデン大統領が原爆資料館を訪問した際に「悲惨な展示は見なかった」とされ、報道も限定されていたことと関係があります。) 現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです。 3番目は、映画の構成です。ノーラン監督は、時間軸に沿って「原爆が開発され、使用され」た後に「オッペンハイマーが赤狩りで追及を受け」、その後に「その黒幕も追及を受ける」という順序で映画を構成しませんでした。先程申し上げたように、この3つの時間軸をバラバラにし、冒頭から「赤狩り疑惑」の要素を観客に突き付けます。要するに「オッペンハイマーはソ連のスパイで、だから水爆開発に反対するなど、反米的だったのか?」という疑問を映画の冒頭で提示しているのです。 これは、あくまで私の私見ですが、保守派もリベラルも含めた広範な観客を、一種のサスペンスに引き込むのが監督の作戦だったと思われます。最終的には「オッペンハイマーは広島・長崎で起きたことに衝撃を受けて、核兵器への疑問を強く持つようになった」という展開を観客に理解させて、「だから水爆開発に反対したのはアメリカへの裏切りではなかった」という「結論」に着地させるようにしています』、「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです」、「「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています」、というのは初めて知った。
・『ノーマンが仕掛けるマジック これは非常に高度な脚本、演出のチャレンジで、これによって「核兵器性悪説」を幅広い観客に「漠然と納得させる」というマジックを実現していると評価できます。保守系の映画評サイト「見る価値あり? それともポリコレ?("Worth it or Woke?")」が公開後、数日を経てから、「ポリコレでない」と断定して100点満点の79点をつけていますが、ノーラン監督のマジックに見事に騙されている(?)とも言えます。 ですが、ノーラン監督が巧妙に反核思想を仕込んだというのは、あくまで私個人の感想です。この映画が本当に反核メッセージを込めた作品なのか、この点こそ、被爆国日本、そして被爆者とその周囲の方々の厳しい評価に晒されるべきものと思います。 しかしながら現時点では、この『オッペンハイマー』の日本公開日は決まっていません。日本語字幕の付いた予告編も公になっていないのです。配給会社が政治的論争に巻き込まれるのを嫌っているとか、少なくとも原爆忌や終戦記念日をスルーした後で公開日を決めるのでは、などという憶測が流れています。もしかしたら、日本の観客が「原爆開発映画」を嫌って劇場に行かず、配給しても赤字ということをおそれているのかもしれません。 ですが、ここまで述べてきたように、この映画は明らかに被爆国日本の人々によって評価されるべき作品です。今すぐ公開して、しっかりと必要な論争を行うことが必要です。ノーラン監督も、おそらくはそれを望んでいると思いますし、日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません。とにかく、現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます』、「日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません」、「現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます」、その通りだ。
第三に、8月5日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したフリーライターの武藤弘樹氏による「原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/327249
・『アメリカで公開中の映画『オッペンハイマー』と『バービー』の上映開始日が同じだったことから「バーベンハイマー(Barbenheimer)」というネットミーム(※)が生まれた。これをめぐって、日本でひと騒動が巻き起こっている。 ※SNSなどで人々が模倣し拡散される、いわゆる「ネタ」要素の強い画像や文章のこと』、興味深そうだ。
・『「バーベンハイマー」誕生から映画『バービー』炎上 一連の流れおさらい 「バーベンハイマー」にまつわる騒動を、筆者は日本人として嫌な気分で見ていたが、ひょっとしたら必要以上に不快に感じられている部分があるかもしれないと気づいた。 バーベンハイマー」騒動に感じた嫌な気持ちを、わずかでも軽減させられるかもしれない可能性が本稿にはあるので、(風呂敷を広げておきながら、回収できなかったらとても申し訳ないが)心の健康を取り戻したい方には、ぜひご一読願いたい。筆者も必死に脳を稼働させて書き進めるつもりである。 まず、一連の出来事は次のとおりである。 「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーをモデルにした伝記映画『オッペンハイマー(原題:Oppenheimer)』(日本公開は未定)と、おもちゃの人形で有名なバービーが主人公となった実写コメディ映画『バービー』(8月11日に日本公開予定)が、米国で7月21日に同時公開された。 ともに大ヒットしていて、その盛り上げといった意味合いで、バービーとオッペンハイマーをかけ合わせた「バーベンハイマー(Barbenheimer)」という造語が誕生した。 さらに、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されてX(Twitter)に投稿された。これに映画『バービー』の米国公式アカウントが好意的なリプライをつけて反応した。 その様子を見ていた日本人ユーザーから批判が殺到して、映画『バービー』の日本公式アカウントが、配給元の子会社であるワーナー ブラザース ジャパン(以下、ワーナー日本法人)の声明として、7月31日に次のようなメッセージを発信した。 ・「バーベンハイマー」は公式の活動でない。 ・米国本社の公式アカウントの配慮にかけた反応は極めて遺憾。本社にしかるべき対応を求めている。 ・「不快な思いをされた方々には、お詫びを申し上げます」 その後、翌8月1日(現地時間では7月31日夜)、本社ワーナー・ブラザースは各メディアに寄せる形で遺憾と謝罪を表明する声明を発表した。炎上の発端となったTwitter上の一連の投稿は削除されたが、米国側の映画『バービー』Twitter公式アカウントでは発信はなく(8月3日時点)、やや見つかりにくい情報となっている。 8月2日、映画『バービー』のジャパンプレミアが開催され、監督とプロデューサーが来日、主演の吹き替えを担当した女優の高畑充希も出席した。高畑は出席前に、自身のInstagramでバーベンハイマーに関する複雑な思いを誠実な姿勢と言葉で語ったが、ジャパンプレミア本番において監督やプロデューサーがバーベンハイマーに触れることはなかった。これを受けて日本では、落胆や幻滅の声が広がっている。 ここまでが今である』、「バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されてX(Twitter)に投稿された。これに映画『バービー』の米国公式アカウントが好意的なリプライをつけて反応した。 その様子を見ていた日本人ユーザーから批判が殺到」、しかし、その後、「公式アカウント」は謝罪し、「画像」を削除したようだ。
・『<着眼点1>『オッペンハイマー』は原爆投下を肯定する映画なのか(不快感を軽減できるかもしれない着眼点その1は、映画『オッペンハイマー』に対する先入観の可能性である。 オッペンハイマーは原爆開発の中心的人物である。また日本人の多くは「米国は広島・長崎への原爆投下を正しいことだと考えている」という認識を共有している。だから「オッペンハイマーという人物も当然自国の正義を遂行するために原爆開発に携わっただろうし、映画『オッペンハイマー』は原爆投下を肯定するトーンを含んでいるだろう」と多くの日本人は捉えている(なお、近年は、米国内でも原爆投下の是非についての風向きはやや変わってきているようではある)。 また、ワーナー日本法人が「バーベンハイマー」の件で本社に異議を唱える姿勢を見せながら、まず謝罪を表明したのは非常に好ましかったと思う。しかし、それによって「謝罪したということは、映画『オッペンハイマー』はやっぱり日本人には到底受け入れられないような、原爆肯定映画なんだ」という印象が、意図せずして国内に広まってしまった部分があった。 ワーナー日本法人が謝罪をしたのは、「本社によるきのこ雲とバービーのかけ合わせ画像に対する好意的な反応が配慮を欠いていた」という点だ。しかし、ネットで出回る情報というのはトピックの表層だけで判断されていったりするものなので、正確な事実や意図が伝わらないことはままあり、この点でワーナー日本法人に過失や責任を求めるべきではない。 蛇足だが、一般ユーザーにも「原爆ファンアートは百歩譲って我慢するが、映画公式がそれに乗っかるのはありえない」という立ち位置を取る人は一定数いる。ギリギリのところまで相手国の文化を許容しようとする、理知的で寛容な姿勢である。 さて、「映画『オッペンハイマー』=原爆肯定映画なのだ」という着想があって、さらにその映画が米国で絶賛されているという事実は多くの日本人を暗たんたる気分にさせる。しかし、そもそも映画『オッペンハイマー』は、原爆肯定映画ではないかもしれないのだ。 というのも、すでにご存じの教養ある方々もおられようが、ロバート・オッペンハイマーは必ずしも原爆肯定派ではなかった。むしろ原爆の使用には当初から懐疑的で、戦後「科学者は罪を知った」と発言したり、一生涯FBIにマークされながら水爆に反対するなど、一貫して核兵器に対してブレーキをかけるスタンスを取ったという。 その人物がモデルの映画なのだから、単純に原爆肯定がされている内容ではないのではないか、と考えられるのである。 日本公開が未定の作品なので、米国で鑑賞し、がっつり内容を解説してくれている日本人の記事を、筆者は複数読んだ。そこから得た範囲での情報を極力ネタバレしないように、ここにシェアするが、これまで米国で想定されてきた「原爆投下は正義」といったイデオロギーが、同作品内においては反省や葛藤なく描かれているわけではなさそうである。つまり、どうやら映画『オッペンハイマー』は単純な原爆肯定映画ではないようなのである。 これは、オッペンハイマーの人物像を知らずに今回の「バーベンハイマー」で、胸を痛める日本人にとっては、いくらか救いのある情報ではあるまいか。 原爆全肯定でないのであれば、日本人には到底受け入れがたい死体蹴りのごとき、米国の“正義”を押し付けられることは、少なくとも本件(映画そのもの)に関しては心配する必要がなさそうである。 さらにいえば、映画『オッペンハイマー』を通して、原爆投下の罪深さが米国内で改めて意識されることもあろう。この映画によって、日本人が望む形での原爆への理解が、米国内で、わずかばかりでも進むことが期待されうる』、「どうやら映画『オッペンハイマー』は単純な原爆肯定映画ではないようなのである」、「映画『オッペンハイマー』を通して、原爆投下の罪深さが米国内で改めて意識されることもあろう。この映画によって、日本人が望む形での原爆への理解が、米国内で、わずかばかりでも進むことが期待されうる」、なるほど。
・『着眼点3 「作品に罪はない」という思考 不快感を軽減できるかもしれない着眼点その3は、「作品に罪はない」である。これに関しては捉え方がさまざまなので、必ずしもこの考え方をした方がいいというわけではない。ここでは、思考の選択肢の一つとして、紹介する。 そもそも、両作品そのものに罪はなかった。 原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は? 作品の内容とほぼ関係ない(特に『バービー』は原爆とは全く関係ない)ところで起きた炎上が、作品の方まで飛び火した。作品にとっては完全なとばっちりである。『バービー』の公開を心待ちにしていた知人は、作品がすっかりいわくつきになってしまった今のこの状況に、悲しそうにしている。 炎上が作品の方に飛び火していったさまを同情的に観察する人は、「作品だけにフォーカスして、作品を評価しよう」と心がけるようである。 一方で、「ここまで話題になっているのに沈黙を貫くのは宣伝に利用しているということ――つまり加担している」との考え方もある。 また、「話題になった以上、関係者サイドから一言あってしかるべきだ」という考え方もある。映画『バービー』日本公式Twitterアカウントがジャパンプレミアを取り上げた投稿には、バーベンハイマーについての説明がなかったことに失望するファンたちのリプライで埋め尽くされている。中には、主演の「マーゴット・ロビーが出演する映画は金輪際見ない」という人もいて、とばっちりがすさまじいが、一般観客の心情としてはわからないでもない。そう思わされるくらいのショックが、この一連の騒動にはあったわけである。 さて、心の健康を保ちうるかもしれないいくつかの着眼点を紹介したが、わざわざそんなことを考えて自衛する必要が生じてきている展開がもとより非常事態である。 先に書いた通り、米国本社のワーナーは謝罪声明を出しているが、それでは不十分と考える人も多数いるようで、日本国内では事態はいまだ沈静化の兆しが見えない。 原爆投下を巡る国家間の認識の違いは、時折表面化して問題となり、今に始まったことではない。2018年には、人気K-POPグループBTSのメンバーが原爆投下を描いたTシャツを着ていたことを受けて、日本の音楽番組が出演を見送りにしたことがあった。 他国の原爆投下に対する認識は、日本人のそれとは大きく異なるという現実を突きつけられたとき、日本人は尊厳を踏みにじられるかのような絶望に直面する。国という巨大な共同体同士だから彼我それぞれに立場や正義があるのは当然なのだが、越えてはならない一線がいともたやすく越えられるような悲しさがつきまとう。 しかし他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである。 なお、「バーベンハイマー」は現在#NoBarbenheimerに対抗して、原爆投下肯定を含意する#YesBarbenheimerというハッシュタグが生まれている。個人的には気が狂いそうなくらい嫌な気分になるが、諸外国から日本を理解してもらうためのプロセスとしては痛みを伴うのも必要なのかもしれない。この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である』、「他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである」、「この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である」、同感である。
先ずは、昨年6月13日付け東洋経済オンライン「核兵器禁止条約に加入すれば、日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/595600
・『唯一の戦争被爆国である日本にとって核廃絶は悲願だ。しかし2021年に発効し、61カ国が締約した核兵器禁止条約に日本は背を向けている。この6月に核兵器禁止条約の第1回締約国会議、8月には核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が予定され、核廃絶・禁止への関心が高まる中、日本はこのままでいいのか(Qは聞き手の質問、Aは佐野氏の回答)』、興味深そうだ。
・『核兵器禁止条約は日本を守れるか Q:日本人の多くが、なぜ核兵器禁止条約に参加しないのかと思っているのではないでしょうか。 A:広島・長崎を経験し、核廃絶運動に共鳴してきた日本国民にとって同条約が人類の夢のように映り、加入しないことに義憤を感じる人も多いと思います。それゆえに同条約の正確な姿を伝え、日本がなぜ参加できないのかという疑問に答えようと筆を執りました。 Q:日本は中国とロシア、さらに北朝鮮と、核兵器を持つ国に囲まれています。 A:核武装国に囲まれた東アジアにおける日本の安全保障環境はとても厳しい。そのような状況に対処するのが防衛力であり、日米安全保障条約です。日米安保は米国の「核の傘」という核抑止力がコアになっています。ところが、核兵器禁止条約はその核抑止力を否定します。この条約に日本が入った途端、核の傘がなくなり、日本は「丸腰」の状態になってしまう。隣国の核の恫喝になすすべもなく、極めて危険な状況に陥るのです。日本を守れる代替策がない以上、核兵器禁止条約は、政策オプションにはなりえないのです』、「核兵器禁止条約はその核抑止力を否定します。この条約に日本が入った途端、核の傘がなくなり、日本は「丸腰」の状態になってしまう。隣国の核の恫喝になすすべもなく、極めて危険な状況に陥るのです。日本を守れる代替策がない以上、核兵器禁止条約は、政策オプションにはなりえない」、なるほど。
・『核兵器禁止条約は核抑止力を否定 Q:日本は核兵器国(米、ロ、英、仏、中)と核兵器禁止条約推進派との橋渡し役を果たし、6月の締約国会議にオブザーバーとして出席すべきだとの声があります。 A:「橋渡し」にはそれなりの実力と双方からの厚い信頼が必要です。「言うは易く行うは難し」で、日本にそれができると過信しないほうがよいと思います。核の傘の下にいる日本は、条約推進派とはすでにたもとを分かっており、決して「中間派」ではありません。 また、自国の安全を依存する核抑止を否定する同条約の締約国会議への参加は、基本的には自己矛盾であり、オブザーバーという形であれ慎重であるべきです。 Q:核兵器禁止条約が持つ欠点は何でしょうか。 A:前述のとおり日本が依存する核抑止を否定していること以外にも、何点かあります。 第1に、同条約は安全保障観の転換を求めます。条約推進派は核爆発の影響が国境を超えて地球規模に及ぶことから、「国家の安全保障より人類の安全保障を優先すべきだ」と主張します。しかし、国際社会は主権国家で成り立っており、核兵器から人類の安全を保障する統合的な機関はありません。結局、自国の安全は自らの手で守らざるをえない。ですから人類の安全保障を優先する安全保障観へ転換することは無理なのです。) 第2に、核兵器の禁止と廃絶は別物です。禁止しても核兵器国が乗ってこなければ核廃絶はありえません。実際、核兵器国は乗るどころか激しく反発しており、禁止条約はNPT加盟国間に亀裂をもたらしてしまいました。 第3に、核兵器廃棄の検証過程が中途半端です。核兵器国がこの条約に入っていないうえに、具体的な廃棄の検証に必要なノウハウを締約国は持っていません。米国とロシアは冷戦後、軍縮条約を結び、衛星情報や相互の現地査察などを通じて核解体を検証してきた歴史があります。そうしたノウハウを持たない条約締約国に、どこまで確実な廃棄の検証ができるでしょうか』、「核の傘の下にいる日本は、条約推進派とはすでにたもとを分かっており、決して「中間派」ではありません。 また、自国の安全を依存する核抑止を否定する同条約の締約国会議への参加は、基本的には自己矛盾であり、オブザーバーという形であれ慎重であるべきです」、「核兵器禁止条約が持つ欠点」としては、「第1に「核兵器から人類の安全を保障する統合的な機関はありません。結局、自国の安全は自らの手で守らざるをえない。ですから人類の安全保障を優先する安全保障観へ転換することは無理」、「第2に、核兵器の禁止と廃絶は別物です。禁止しても核兵器国が乗ってこなければ核廃絶はありえません」、「第3に、核兵器廃棄の検証過程が中途半端です。核兵器国がこの条約に入っていないうえに、具体的な廃棄の検証に必要なノウハウを締約国は持っていません」、なるほど。
・『核廃絶への王道はNPT Q:現在の日本にとって、北朝鮮の核兵器が脅威となっています。 A:核兵器禁止条約の成立を推進し、ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のベアトリス・フィン事務局長は、北朝鮮の脅威に対し核抑止が必要ならば、北朝鮮にとっても核兵器国の米国の脅威があるから自国を守るために核が必要だということになり、核兵器国がやっていることを他人にさせないという主張は通らない、と述べています。しかし、これには無理があります。 まず、核抑止力を認めることは北朝鮮の核保有を承認することではありません。北朝鮮の核保有が認められないのは、北朝鮮が法的な核不拡散義務を負っているにもかかわらず、それに違反しているからです。 03年に北朝鮮がNPTからの脱退を宣言して以降、北朝鮮がNPT加盟国かどうかについて解釈が分かれています。脱退は認められないとする立場からは、北朝鮮はNPT上の非核兵器国であり核不拡散の義務を負っています。他方で北朝鮮は国連の加盟国であり、安全保障理事会での数回にわたる北朝鮮に対する決議がありました。それゆえ、もはやNPT加盟国ではないとする立場からも、法的拘束力を持つ安保理決議に北朝鮮が違反しているがゆえに核保有は認められないのです。 Q:「自分がやっていることを他人にさせないという主張は通らない」という部分については? A:その主張は「通る」のです。核が拡散しないように、あえて5カ国の「核クラブ」による独占を認め、核兵器国に特別の地位を与えたのがNPTだからです。 NPTが成立したのは、各国が主権平等の原則を犠牲にしてまで核の拡散を防ごうとした「知恵」だったのです。それゆえに、自分がやっている核の保有を他人にさせないという核兵器国の主張は「通る」のです。 Q:北朝鮮の核開発や、最近ではロシアのプーチン大統領によるウクライナに対する「核使用」の可能性発言に影響を受け、日本の一部では「核武装論」が出ています。 A:核武装は論外です。過去半世紀にわたり、曲がりなりにも核の拡散を最小限に抑え、核廃絶へのベクトルを失わず、核秩序の礎となってきたのがNPTです。わが国が核武装をすれば、核軍縮・核不拡散に率先して努力してきた日本が、隣国を含む、世界的な核武装のドミノ現象を誘発してしまうでしょう。それは、1962年のキューバ危機の際、ケネディ米大統領が恐れた「核のカオス(混沌)」への引き金を日本自らが引いてしまうことを意味するのです』、「NPTが成立したのは、各国が主権平等の原則を犠牲にしてまで核の拡散を防ごうとした「知恵」だったのです。それゆえに、自分がやっている核の保有を他人にさせないという核兵器国の主張は「通る」のです」、「わが国が核武装をすれば、核軍縮・核不拡散に率先して努力してきた日本が、隣国を含む、世界的な核武装のドミノ現象を誘発してしまうでしょう。それは、1962年のキューバ危機の際、ケネディ米大統領が恐れた「核のカオス(混沌)」への引き金を日本自らが引いてしまうことを意味する」、「核武装は論外です」、なるほど。
次に、本年7月26日付けNewsweek日本版が掲載した在米作家の冷泉彰彦氏による「クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2023/07/post-1319_1.php
・『<原爆開発をテーマにしたこの作品を、被爆国日本は当事者として評価する権利がある> 現在、世界で最も注目されている映画監督の1人、クリストファー・ノーラン監督(『ダークナイト』『インターステラー』)の最新作『オッペンハイマー』がアメリカで公開されました。7月21~23日という、最初の週末の興行収入は8250万ドル(約117億円)と、科学者の伝記映画としては例外的なヒットとなっています。 内容は、アメリカ陸軍による原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描くものですが、単に原爆開発のストーリーだけでなく、非常に複雑な構成が取られています。主人公の半生に加えて、後に「赤狩り」の犠牲者として追及を受けた尋問の様子、さらに彼を陥れた黒幕に対する議会の審議という3つの時間軸がモザイクのように散りばめられ、それぞれが緊張感のある対話劇になっているのです。 ちなみに、主人公を演じたキリアン・マーフィー、その夫人を演じたエミリー・ブラント、さらには陸軍のグローブス中将を演じたマット・デイモン、主人公を陥れようとしたストラウス(後の商務長官)を演じたロバート・ダウニー・ジュニアの4名の演技は、おそらく彼らのキャリアの頂点とも言うべきクオリティです。 ですが、作品として「マンハッタン・プロジェクト」を中心に据え、特に試作された核弾頭「トリニティ」の臨界実験を映像的なクライマックスに据えているのは事実です。ですから、被爆国である日本の人々には、当事者として、この作品を評価する権利があると思います。具体的には次の3点、重要な論点があります』、「原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描くものですが、単に原爆開発のストーリーだけでなく、非常に複雑な構成が取られています。主人公の半生に加えて、後に「赤狩り」の犠牲者として追及を受けた尋問の様子、さらに彼を陥れた黒幕に対する議会の審議という3つの時間軸がモザイクのように散りばめられ、それぞれが緊張感のある対話劇になっているのです」、「被爆国である日本の人々には、当事者として、この作品を評価する権利があると思います」、当然だろう。
・『臨界実験の描写のインパクト 1つは、原爆開発の倫理的責任の描き方です。作品の中では「ナチスが原爆で先行することを防ぐ」というのが主要な動機だとされています。また、降伏寸前の日本に投下して非戦闘員の大量殺戮を行うべきではないという表現もあります。その一方で、軍部、特にスチムソン陸軍長官や、トルーマン大統領は投下に積極的だったという描写がされています。作品の全体としては高いレベルの歴史的考証がされているというのですが、被爆国の立場から見て十分に正確で誠実な描写であるかは、検証が必要と思います。 特に試作弾頭「トリニティ」の臨界実験の描写は、凝りに凝ったCGと音響で圧倒的なインパクトがあります。それが、原爆の恐怖の表現として成功しているのか、それとも「開発成功の勝利感」と取られかねない表現になっているのかも、厳しい検証が求められます。なお、アメリカの配給会社は、この「火球の映像」をマーケティングに使っていますが、少なくとも、このことには被爆国として抗議の声を挙げてもいいと思います。 2つ目は、広島、長崎の惨状に関する描写です。作品では「明らかに違うサイズの2つの木箱」で、広島の攻撃に使用された「リトルボーイ」と、長崎に落とされた「ファットマン」が表現され、ロスアラモス研究所の職員たちが「実際に使われてしまうのでは」という不安な表情で「2つの木箱」の搬出を見守るシーンがあります。私はこの木箱のシーンに鳥肌の立つような戦慄を覚えました。 また、戦後になって広島の惨状を記録したフィルムがロスアラモス研究所で上映され、主人公がその内容に衝撃を受けるシーンがあります。ですが、肝心の広島、長崎の惨状に関するビジュアルの描写はありません。これは、今回2023年5月の広島G7でバイデン大統領が原爆資料館を訪問した際に「悲惨な展示は見なかった」とされ、報道も限定されていたことと関係があります。) 現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです。 3番目は、映画の構成です。ノーラン監督は、時間軸に沿って「原爆が開発され、使用され」た後に「オッペンハイマーが赤狩りで追及を受け」、その後に「その黒幕も追及を受ける」という順序で映画を構成しませんでした。先程申し上げたように、この3つの時間軸をバラバラにし、冒頭から「赤狩り疑惑」の要素を観客に突き付けます。要するに「オッペンハイマーはソ連のスパイで、だから水爆開発に反対するなど、反米的だったのか?」という疑問を映画の冒頭で提示しているのです。 これは、あくまで私の私見ですが、保守派もリベラルも含めた広範な観客を、一種のサスペンスに引き込むのが監督の作戦だったと思われます。最終的には「オッペンハイマーは広島・長崎で起きたことに衝撃を受けて、核兵器への疑問を強く持つようになった」という展開を観客に理解させて、「だから水爆開発に反対したのはアメリカへの裏切りではなかった」という「結論」に着地させるようにしています』、「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです」、「「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています」、というのは初めて知った。
・『ノーマンが仕掛けるマジック これは非常に高度な脚本、演出のチャレンジで、これによって「核兵器性悪説」を幅広い観客に「漠然と納得させる」というマジックを実現していると評価できます。保守系の映画評サイト「見る価値あり? それともポリコレ?("Worth it or Woke?")」が公開後、数日を経てから、「ポリコレでない」と断定して100点満点の79点をつけていますが、ノーラン監督のマジックに見事に騙されている(?)とも言えます。 ですが、ノーラン監督が巧妙に反核思想を仕込んだというのは、あくまで私個人の感想です。この映画が本当に反核メッセージを込めた作品なのか、この点こそ、被爆国日本、そして被爆者とその周囲の方々の厳しい評価に晒されるべきものと思います。 しかしながら現時点では、この『オッペンハイマー』の日本公開日は決まっていません。日本語字幕の付いた予告編も公になっていないのです。配給会社が政治的論争に巻き込まれるのを嫌っているとか、少なくとも原爆忌や終戦記念日をスルーした後で公開日を決めるのでは、などという憶測が流れています。もしかしたら、日本の観客が「原爆開発映画」を嫌って劇場に行かず、配給しても赤字ということをおそれているのかもしれません。 ですが、ここまで述べてきたように、この映画は明らかに被爆国日本の人々によって評価されるべき作品です。今すぐ公開して、しっかりと必要な論争を行うことが必要です。ノーラン監督も、おそらくはそれを望んでいると思いますし、日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません。とにかく、現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます』、「日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません」、「現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます」、その通りだ。
第三に、8月5日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したフリーライターの武藤弘樹氏による「原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/327249
・『アメリカで公開中の映画『オッペンハイマー』と『バービー』の上映開始日が同じだったことから「バーベンハイマー(Barbenheimer)」というネットミーム(※)が生まれた。これをめぐって、日本でひと騒動が巻き起こっている。 ※SNSなどで人々が模倣し拡散される、いわゆる「ネタ」要素の強い画像や文章のこと』、興味深そうだ。
・『「バーベンハイマー」誕生から映画『バービー』炎上 一連の流れおさらい 「バーベンハイマー」にまつわる騒動を、筆者は日本人として嫌な気分で見ていたが、ひょっとしたら必要以上に不快に感じられている部分があるかもしれないと気づいた。 バーベンハイマー」騒動に感じた嫌な気持ちを、わずかでも軽減させられるかもしれない可能性が本稿にはあるので、(風呂敷を広げておきながら、回収できなかったらとても申し訳ないが)心の健康を取り戻したい方には、ぜひご一読願いたい。筆者も必死に脳を稼働させて書き進めるつもりである。 まず、一連の出来事は次のとおりである。 「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーをモデルにした伝記映画『オッペンハイマー(原題:Oppenheimer)』(日本公開は未定)と、おもちゃの人形で有名なバービーが主人公となった実写コメディ映画『バービー』(8月11日に日本公開予定)が、米国で7月21日に同時公開された。 ともに大ヒットしていて、その盛り上げといった意味合いで、バービーとオッペンハイマーをかけ合わせた「バーベンハイマー(Barbenheimer)」という造語が誕生した。 さらに、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されてX(Twitter)に投稿された。これに映画『バービー』の米国公式アカウントが好意的なリプライをつけて反応した。 その様子を見ていた日本人ユーザーから批判が殺到して、映画『バービー』の日本公式アカウントが、配給元の子会社であるワーナー ブラザース ジャパン(以下、ワーナー日本法人)の声明として、7月31日に次のようなメッセージを発信した。 ・「バーベンハイマー」は公式の活動でない。 ・米国本社の公式アカウントの配慮にかけた反応は極めて遺憾。本社にしかるべき対応を求めている。 ・「不快な思いをされた方々には、お詫びを申し上げます」 その後、翌8月1日(現地時間では7月31日夜)、本社ワーナー・ブラザースは各メディアに寄せる形で遺憾と謝罪を表明する声明を発表した。炎上の発端となったTwitter上の一連の投稿は削除されたが、米国側の映画『バービー』Twitter公式アカウントでは発信はなく(8月3日時点)、やや見つかりにくい情報となっている。 8月2日、映画『バービー』のジャパンプレミアが開催され、監督とプロデューサーが来日、主演の吹き替えを担当した女優の高畑充希も出席した。高畑は出席前に、自身のInstagramでバーベンハイマーに関する複雑な思いを誠実な姿勢と言葉で語ったが、ジャパンプレミア本番において監督やプロデューサーがバーベンハイマーに触れることはなかった。これを受けて日本では、落胆や幻滅の声が広がっている。 ここまでが今である』、「バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されてX(Twitter)に投稿された。これに映画『バービー』の米国公式アカウントが好意的なリプライをつけて反応した。 その様子を見ていた日本人ユーザーから批判が殺到」、しかし、その後、「公式アカウント」は謝罪し、「画像」を削除したようだ。
・『<着眼点1>『オッペンハイマー』は原爆投下を肯定する映画なのか(不快感を軽減できるかもしれない着眼点その1は、映画『オッペンハイマー』に対する先入観の可能性である。 オッペンハイマーは原爆開発の中心的人物である。また日本人の多くは「米国は広島・長崎への原爆投下を正しいことだと考えている」という認識を共有している。だから「オッペンハイマーという人物も当然自国の正義を遂行するために原爆開発に携わっただろうし、映画『オッペンハイマー』は原爆投下を肯定するトーンを含んでいるだろう」と多くの日本人は捉えている(なお、近年は、米国内でも原爆投下の是非についての風向きはやや変わってきているようではある)。 また、ワーナー日本法人が「バーベンハイマー」の件で本社に異議を唱える姿勢を見せながら、まず謝罪を表明したのは非常に好ましかったと思う。しかし、それによって「謝罪したということは、映画『オッペンハイマー』はやっぱり日本人には到底受け入れられないような、原爆肯定映画なんだ」という印象が、意図せずして国内に広まってしまった部分があった。 ワーナー日本法人が謝罪をしたのは、「本社によるきのこ雲とバービーのかけ合わせ画像に対する好意的な反応が配慮を欠いていた」という点だ。しかし、ネットで出回る情報というのはトピックの表層だけで判断されていったりするものなので、正確な事実や意図が伝わらないことはままあり、この点でワーナー日本法人に過失や責任を求めるべきではない。 蛇足だが、一般ユーザーにも「原爆ファンアートは百歩譲って我慢するが、映画公式がそれに乗っかるのはありえない」という立ち位置を取る人は一定数いる。ギリギリのところまで相手国の文化を許容しようとする、理知的で寛容な姿勢である。 さて、「映画『オッペンハイマー』=原爆肯定映画なのだ」という着想があって、さらにその映画が米国で絶賛されているという事実は多くの日本人を暗たんたる気分にさせる。しかし、そもそも映画『オッペンハイマー』は、原爆肯定映画ではないかもしれないのだ。 というのも、すでにご存じの教養ある方々もおられようが、ロバート・オッペンハイマーは必ずしも原爆肯定派ではなかった。むしろ原爆の使用には当初から懐疑的で、戦後「科学者は罪を知った」と発言したり、一生涯FBIにマークされながら水爆に反対するなど、一貫して核兵器に対してブレーキをかけるスタンスを取ったという。 その人物がモデルの映画なのだから、単純に原爆肯定がされている内容ではないのではないか、と考えられるのである。 日本公開が未定の作品なので、米国で鑑賞し、がっつり内容を解説してくれている日本人の記事を、筆者は複数読んだ。そこから得た範囲での情報を極力ネタバレしないように、ここにシェアするが、これまで米国で想定されてきた「原爆投下は正義」といったイデオロギーが、同作品内においては反省や葛藤なく描かれているわけではなさそうである。つまり、どうやら映画『オッペンハイマー』は単純な原爆肯定映画ではないようなのである。 これは、オッペンハイマーの人物像を知らずに今回の「バーベンハイマー」で、胸を痛める日本人にとっては、いくらか救いのある情報ではあるまいか。 原爆全肯定でないのであれば、日本人には到底受け入れがたい死体蹴りのごとき、米国の“正義”を押し付けられることは、少なくとも本件(映画そのもの)に関しては心配する必要がなさそうである。 さらにいえば、映画『オッペンハイマー』を通して、原爆投下の罪深さが米国内で改めて意識されることもあろう。この映画によって、日本人が望む形での原爆への理解が、米国内で、わずかばかりでも進むことが期待されうる』、「どうやら映画『オッペンハイマー』は単純な原爆肯定映画ではないようなのである」、「映画『オッペンハイマー』を通して、原爆投下の罪深さが米国内で改めて意識されることもあろう。この映画によって、日本人が望む形での原爆への理解が、米国内で、わずかばかりでも進むことが期待されうる」、なるほど。
・『着眼点3 「作品に罪はない」という思考 不快感を軽減できるかもしれない着眼点その3は、「作品に罪はない」である。これに関しては捉え方がさまざまなので、必ずしもこの考え方をした方がいいというわけではない。ここでは、思考の選択肢の一つとして、紹介する。 そもそも、両作品そのものに罪はなかった。 原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は? 作品の内容とほぼ関係ない(特に『バービー』は原爆とは全く関係ない)ところで起きた炎上が、作品の方まで飛び火した。作品にとっては完全なとばっちりである。『バービー』の公開を心待ちにしていた知人は、作品がすっかりいわくつきになってしまった今のこの状況に、悲しそうにしている。 炎上が作品の方に飛び火していったさまを同情的に観察する人は、「作品だけにフォーカスして、作品を評価しよう」と心がけるようである。 一方で、「ここまで話題になっているのに沈黙を貫くのは宣伝に利用しているということ――つまり加担している」との考え方もある。 また、「話題になった以上、関係者サイドから一言あってしかるべきだ」という考え方もある。映画『バービー』日本公式Twitterアカウントがジャパンプレミアを取り上げた投稿には、バーベンハイマーについての説明がなかったことに失望するファンたちのリプライで埋め尽くされている。中には、主演の「マーゴット・ロビーが出演する映画は金輪際見ない」という人もいて、とばっちりがすさまじいが、一般観客の心情としてはわからないでもない。そう思わされるくらいのショックが、この一連の騒動にはあったわけである。 さて、心の健康を保ちうるかもしれないいくつかの着眼点を紹介したが、わざわざそんなことを考えて自衛する必要が生じてきている展開がもとより非常事態である。 先に書いた通り、米国本社のワーナーは謝罪声明を出しているが、それでは不十分と考える人も多数いるようで、日本国内では事態はいまだ沈静化の兆しが見えない。 原爆投下を巡る国家間の認識の違いは、時折表面化して問題となり、今に始まったことではない。2018年には、人気K-POPグループBTSのメンバーが原爆投下を描いたTシャツを着ていたことを受けて、日本の音楽番組が出演を見送りにしたことがあった。 他国の原爆投下に対する認識は、日本人のそれとは大きく異なるという現実を突きつけられたとき、日本人は尊厳を踏みにじられるかのような絶望に直面する。国という巨大な共同体同士だから彼我それぞれに立場や正義があるのは当然なのだが、越えてはならない一線がいともたやすく越えられるような悲しさがつきまとう。 しかし他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである。 なお、「バーベンハイマー」は現在#NoBarbenheimerに対抗して、原爆投下肯定を含意する#YesBarbenheimerというハッシュタグが生まれている。個人的には気が狂いそうなくらい嫌な気分になるが、諸外国から日本を理解してもらうためのプロセスとしては痛みを伴うのも必要なのかもしれない。この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である』、「他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである」、「この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である」、同感である。
タグ:核武装・核兵器 (その2)(核兵器禁止条約に加入すれば 日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由、原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?) 東洋経済オンライン「核兵器禁止条約に加入すれば、日本は「丸腰」に 『核兵器禁止条約は日本を守れるか』著者・佐野利男氏」 「核兵器禁止条約はその核抑止力を否定します。この条約に日本が入った途端、核の傘がなくなり、日本は「丸腰」の状態になってしまう。隣国の核の恫喝になすすべもなく、極めて危険な状況に陥るのです。日本を守れる代替策がない以上、核兵器禁止条約は、政策オプションにはなりえない」、なるほど。 「核の傘の下にいる日本は、条約推進派とはすでにたもとを分かっており、決して「中間派」ではありません。 また、自国の安全を依存する核抑止を否定する同条約の締約国会議への参加は、基本的には自己矛盾であり、オブザーバーという形であれ慎重であるべきです」、「核兵器禁止条約が持つ欠点」としては、「第1に「核兵器から人類の安全を保障する統合的な機関はありません。結局、自国の安全は自らの手で守らざるをえない。ですから人類の安全保障を優先する安全保障観へ転換することは無理」、 「第2に、核兵器の禁止と廃絶は別物です。禁止しても核兵器国が乗ってこなければ核廃絶はありえません」、「第3に、核兵器廃棄の検証過程が中途半端です。核兵器国がこの条約に入っていないうえに、具体的な廃棄の検証に必要なノウハウを締約国は持っていません」、なるほど。 「NPTが成立したのは、各国が主権平等の原則を犠牲にしてまで核の拡散を防ごうとした「知恵」だったのです。それゆえに、自分がやっている核の保有を他人にさせないという核兵器国の主張は「通る」のです」、 「わが国が核武装をすれば、核軍縮・核不拡散に率先して努力してきた日本が、隣国を含む、世界的な核武装のドミノ現象を誘発してしまうでしょう。それは、1962年のキューバ危機の際、ケネディ米大統領が恐れた「核のカオス(混沌)」への引き金を日本自らが引いてしまうことを意味する」、「核武装は論外です」、なるほど。 Newsweek日本版 冷泉彰彦氏による「クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由」 「原子爆弾開発計画「マンハッタン・プロジェクト」のリーダーを務めた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描くものですが、単に原爆開発のストーリーだけでなく、非常に複雑な構成が取られています。主人公の半生に加えて、後に「赤狩り」の犠牲者として追及を受けた尋問の様子、さらに彼を陥れた黒幕に対する議会の審議という3つの時間軸がモザイクのように散りばめられ、それぞれが緊張感のある対話劇になっているのです」、 「被爆国である日本の人々には、当事者として、この作品を評価する権利があると思います」、当然だろう。 「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。 この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです」、「「現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています」、というのは初めて知った。 「日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません」、「現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます」、その通りだ。 ダイヤモンド・オンライン 武藤弘樹氏による「原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は?」 「バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されてX(Twitter)に投稿された。これに映画『バービー』の米国公式アカウントが好意的なリプライをつけて反応した。 その様子を見ていた日本人ユーザーから批判が殺到」、しかし、その後、「公式アカウント」は謝罪し、「画像」を削除したようだ。 「どうやら映画『オッペンハイマー』は単純な原爆肯定映画ではないようなのである」、「映画『オッペンハイマー』を通して、原爆投下の罪深さが米国内で改めて意識されることもあろう。この映画によって、日本人が望む形での原爆への理解が、米国内で、わずかばかりでも進むことが期待されうる」、なるほど。 「他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである」、「この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である」、同感である。
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