随筆(その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘) [人生]
随筆については、2020年2月22日に取上げたままだった。今日は、(その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘)である。同氏のコラムは、このブログでもたびたび紹介してきた。最近は、有料になったので、殆ど紹介できなくなっていたが、突然の訃報になす術もなく、ただ驚き、心を痛めている。ご冥福をお祈りしたい。
先ずは、本年6月24日付け日経ビジネスオンライン「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00162/
・『日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社会に対して、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」と喝破します。 体調が優れずにやむなく休載してからも、「キーボードを打てなくても、音声で入力できてこれがいいんだよ」と話した小田嶋さん。「まだまだ伝えたいことがある」「残さないといけない言葉がある」と連載再開の意欲に満ちあふれていらっしゃいました。 小田嶋さんが残したかったその言葉とは何だったのでしょうか。 謹んでご冥福をお祈りします。(日経ビジネス編集部) この原稿は、とある都内の病院のベッドサイドに設置された硬い椅子の上で書いている。というのも、私は、またしても入院しているからだ。 先週と今週の当欄は、だから、病院からの出稿ということになる。 自分ながらよく働く病人だと思っている。 病的な勤勉さと申し上げても良い。 じっさい、 「勤勉は貧困の一症状である」と言えば言えるわけで、十分な資産なり年収なりを手にしている人間は、病院で原稿を書くみたいな無茶はしない。 でもまあ、ものは考えようだ。 原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ。 そういう意味で、これまでのライター生活の40年が、おおむね適度な貧困に恵まれた月日であったことには感謝している。デビュー作がうっかりベストセラーになっていたりしたら、私はそれっきり何も書かずにアルコールに耽溺していたはずだ。だとすると、私はすでにこの世からいなくなっていたことだろう。感謝せねばならない』、「原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ」、「書き手の心身をすり減らすもの」とは再認識させられた。
・『今回の入院は救急車で搬送された緊急の入院ではない。 あくまでも治療のための入院だ。 新たに開始することになった治療は、通院でも対応可能なものなのだが、毎日病院に通う手間を考えると、いっそ入院したほうが楽だろうと考えた次第だ。その意味では、計画的な入院という言い方もできる。いずれにせよ、大きな心配はいらない。 とはいえ、8月に入院したばかりなのに、またしても病院のお世話になっている状況に心を痛めている読者もいらっしゃるはずだ。甲子園大会の言い方になぞらえるなら、2015年からの7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる。穏やかならぬ頻度だ。訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう。 ん? 私はすでに晩年を生きているのだろうか。 私がどう思っているのかにかかわらず、客観的に見れば、その可能性はある。晩年コラムニストの晩年コラム。多少ありがたみが増すだろうか。 今回は、晩年について考えていることを書いてみようと思う』、「7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる」、「訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう」、結果的にはなってしまったようだ。
・『書店の店頭を眺めてみればわかることなのだが、昨今の出版界では、意外なことに、このテーマ(晩年、老後の過ごし方、穏やかな老い方、死と向き合う方法)を扱った書籍に大いに依存している。であるから中規模以上の書店には、死生観やら老年やらを扱った特別なコーナーが設置されている。そのコーナーの中では、80歳を超えた老大家たちが、いずれも、人生に結末をつける方法について得々と語っていたりする。 さてしかし「晩年」は、観察者の言葉であって当事者の言葉ではない。 どういうことなのかというと、他人の人生を観察なり整理している人間が、生まれた時期と死んだ時点を確認した上で、死亡時から逆算した最後の数年間に「晩年」というタグを貼り付けているだけで、生きている当人は、特段に結末を意識していないということだ。 テニス選手の引退前の幾年かを「晩年」「末期」と呼ぶのは、ジャーナリストなり記者なりの評価であって、選手本人は、ルーキーイヤーであれ5年目であれ引退の前年であれ、同じ気持ちでコートに立っている(はずだ)。だから、事実として、全盛期より見劣りのするショットが行き来しているのだとしても、ひとの選手生活に対して、他人が「晩年」という言葉を使うのは失礼に当たる。 たとえば、研究室でマウスやモルモットの繁殖を担当している助手のことを考えてみれば良い。飼育担当者は万全な注意を払って動物を管理している。であるから、誕生から死に至るイベントを残らずデータとして記録している。その完全な観察者である人間からすれば、マウスの「晩年」はあらかじめわかっている。死んだ時期も、生まれたタイミングも、生存していた年数もすべて把握しているからだ。そこから「晩年」を算出するのはそんなに難しい作業ではない。 しかし、現実に生きている人間が自分の晩年を予断として決定するのは容易なことではない。 自分が何年の寿命を持っていて、あと何年生きるのかがわかっていないと、どのポイントを「晩年」の起点として良いのやら見当がつかない。 晩年を決定できるのは本人だけだという考え方もある。 少なくともかかわりのないひとの晩年を他人が決めるのは失礼に当たる。 「あのヒトもどうやら晩年に差し掛かっているようだな」「昨今の言い草に耳を傾けるに、あの男は晩年の相に突入して久しい」 といった観察ないし言明は、失礼であるのみならず傲慢でもある。 年齢を重ねているからといって、定年を迎えたからといって、晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ。ついでに申し添えれば、若い時代に急逝する人間は、いわゆる晩年に到達しない。彼ら彼女らはポキンと棒が折れるみたいにしてこの世を去る。幸運なことなのか不運なことなのかはたぶん本人にもわからない。 なるほど。 してみると、晩年の過ごし方という、なにやら普遍的に聞こえる話題も、ずいぶんと恣意的な話になる。結局のところ、いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない。 書店の「晩年コーナー」の充実ぶりは、われわれの社会の高齢化を反映したものなのだろう。おそらく、半世紀前に比べて達者で暮らしている70代や80代の高齢者を多く含む令和の日本社会は、それだけ、人生の幕の引き方を示唆する書籍への高い需要をかかえている』、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」、「いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない」、面白いひねりだ。
・『3年ほど前だったか、ある雑誌の企画でその種の「高齢者本」をまとめて10冊ほど読んだことがある。 その時に抱いた印象は、どの本もこちらの予断を裏切って、非常に楽観的な、明るい筆致で書かれていることだった。 いま思えばそもそもこちらの予断が間違っていたのだろう。 考えてみれば、80歳を過ぎて書籍を出版しようという書き手が悲観的な人生観を抱いているはずがないではないか。 出版社の側から見ても、昨今のせちがらい編集会議をくぐりぬけて出版にこぎつける企画である以上、著者として選ぶのはすでにネームバリューを持った人々だ。かつてベストセラーを連発していた小説家であるとか、恋愛スキャンダルで昭和の週刊誌を騒がせた女性であるとか、とにかく肩書だけで読者をひきつけることのできる著者が選ばれている。逆に言えば、編集者としては、書籍の内容よりも著者の知名度にもたれかかっていたほうが、効率的な本作りができるということだ。) かくして、各種老年本をひもといてみると、そこには若々しい希望に満ちた前向きな言葉が並んでいる。もう少し地味な諦観をキメてみせているであろうと思ったのはこちらの見当違いで、じっさいのところの「諦観」は印象として非常に明るいものだったわけだ。 もっとも、この「明るさ」は、半ば以上著者と編集者が結託して作り上げたフィクションというのか、演出上の必然なのだと思う。 死や老年や病苦を扱った書籍が暗い筆致で書かれていたのでは、誰も読む人がいなくなるはずだからだ。 つまり、ともすると暗い方に傾きがちな話題は、つとめて明るく語るきまりごとがあらかじめ設定されているのだろう。 というよりも、そもそも書き手の顔ぶれを並べてみれば、いずれもスーパーな高齢者ばかりで、このジャンルの書き手として選ばれた人間は、フィクションだの演出効果だのをディレクションするまでもなく、はじめから前向きで若々しいとびっきりの楽観老年に限られている。 読者としてこれらの書籍を購入している人々も、おそらくご老人ばかりではない。 個人的な思い込みであることをお断りした上で言うのだが、私は、この種の「晩年」を扱った出版物の読者の平均年齢は、業界の人間が考えているよりずっと若いのではないかと思っている。というのも、死や老年について思いを馳せるのは、むしろ若い人たちだからだ。行き先が見通しにくい世の中で暮らしているからこそ、若い人たちは一足飛びに老年を夢想する。そして、その夢想は、私の世代の者が若かった時代に思い描いていたにべもない老人蔑視とは違って、もう少し地に足のついた現実的な未来像で、必ずしも暗く閉ざされているわけでもない。 「私たち」という一人称複数の代名詞を使うと各方面から即座に「主語が大きい」というツッコミが入るお約束になっているので、ここから先、「私たちの世代」だとかいうフォーカスの甘い主語でものを言うのは控えよう。 少なくとも私は、若かった頃、自分の老年を想像したことなどなかったし、予測も見込みも何も立てていなかった。というのも、そもそも私は自分が40歳以上になるまで生きているとは考えていなかったからで、それゆえ、老年などという単語は徹頭徹尾自分とは無縁なのだと決めてかかっていた。 いま思えば幼稚な思い込みだ。 それ以上に、手前勝手な決めつけでもある。 しかしながら、念のために申し上げておくに、少なくとも昭和の半ば頃までは、若い人間が 「先のことなんか知ったことじゃねえよ」的な考え方で人生の飛び石を渡るのは、さほど珍しい景色ではなかった。というよりも、若者である以上、多かれ少なかれ、捨て鉢な方針を振りかざしていたいものなのだ。別の言い方をすれば、そういうふうに、未来にも過去にも無頓着かつ冷淡であることが「若さ」の真義であると、当時の若者は少なくともそう考えていたのである。 令和の若者は、30年来の不況下で生まれ育った不景気の申し子のような人たちだ。 だから、先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある。わたくしどもの目にはそんなふうに見える。 それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある。現在の若い人たちは、自分が老いることを「知って」いるのだ。なんと賢い若者たちであることだろうか』、「令和の若者は、・・・先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある・・・それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある」、彼らが「老年本」の重要な読者層だとすれば、その通りだ。
・『最後に、まだ老年に差し掛かっていない若い人たちに、先行者としてアドバイスを残しておく。 私が自分ながら幸運だったと思っているのは、原稿を書く仕事とともに老年を迎えていることだ。 原稿執筆は、老年と相性が良い。 テキスト作成は、場所もとらないし、道具もさほどいらない。自分のウデとアタマとPCが一台あれば、たいていのことは間に合ってしまう。 だから病気をしても仕事ができるし、足腰が衰えてもなんとかなる。 そんなわけなので、将来の変わり身に向けて多彩な選択肢を持っているみなさんには、いまのうちに「書く技術」を身につけておくことを、強くおすすめする。 じっさい、書ける人間はヤマほどいる。 というよりもインターネット時代を迎えて、市井に生きる一般人が文章を作成する能力は、飛躍的に向上しつつある。いまやそこいらへんの高校生が、びっくりするほど破綻のない文章をテもなく書いてのける。ただただびっくりするばかりだ。 単純にテキストの出来不出来の話をするなら、プロ水準の原稿を生産する能力を備えた人間は、たぶん600万人(←筆者概算)ほどいるはずだ。 以前、いくつかアマチュアの人たちの書いた文章を添削する機会に恵まれたことがあるのだが、毎度毎度、趣味でものを書いている人たちの筆力の向上ぶりに驚かされたものだ。 一流企業のそれなりの地位にいる管理職のおっさんが、情感にあふれた珠玉のエッセーを書いてきたり、本職では医療事務にたずさわっている女性が、意表を突いた着眼でさらりと笑わせる小洒落たコラムをものしていたりして、プロであるはずの私にしてからが、直すところのなさに往生したものだった。 私のような職業的な書き手と彼らのようなアマチュアの凄腕に差があるのだとすれば、「職をなげうっているかどうか」だけだ。 つまり、文章を書くことを専業として食べて行けるのかどうかは、もはや才能や筆力の問題ではないということだ。ライターとして独立できるのかどうかは、ひとえに「いま食えている仕事を投げ出すことができるのか」にかかっている。 いかに達者な文章を書くからといって、ライターという稼業が、独立研究機関の研究職や航空会社の地上勤務の職を蹴飛ばしてまで挑む価値のある仕事であるのかといえば、はなはだ疑問だと申し上げざるを得ない。) しかしながら、時代は変わっている。 しばらく前から、ライティングにまつわる作業は、ライターの専業ではなくなってきている。 10年もたてば、文章を書くことだけで生計を立てている専業の書き手は、現在の半分ほどに減っているかもしれない。 ライティングの仕事が消滅するわけではない。 たぶん、業界は専業の書き手よりも「書ける素人」を希求している。 というのも、文章作成は、志を持った者が生涯をかけて取り組むべき課題である一方で、収入や作業時間といった諸条件から勘案すると、むしろ副業に向いた仕事だからだ。 問題はペイだ。 現在、ライターは、買い叩かれている。 特にデジタルの原稿料は、web上の有象無象のサイトが品質の低い似たようなテキストを大量に求めている現状を反映した地点に落着している。 クリック数を広告でマネタイズする現状の仕組みが続く限り、テレビ感想文や皇室スキャンダルの焼き直しをミートボールにして煮込んだみたいな低劣なテキストがアクセス数のランキングに並ぶ事態は変わらないだろう。 しかし、こんなバカなことが長く続くはずがない。 読者は質の高い文章を求めている。 そして、質の高い文章を書ける人材は巷にあふれている。 近い将来、文章の質に値段がつく時期がやってくるはずだ。 いずれにせよ、今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み(どうせGAFA頼りだとは思うのだが)が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある』、「今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み・・・が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある」、持って回った表現で、分かり難いが、「ライターの未来」をどうも明るくはみてないような印象を受けた。
次に、6月28日付け日刊ゲンダイ「反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/307399
・『24日に65歳で病死したコラムニストの小田嶋隆さんは「反骨精神の論客」として知られ、日刊ゲンダイにも度々コメントを寄せていた。哀悼の意を込めて、最近の発言を振り返りたい。 「医療従事者には、まるで『パラレルワールド』の出来事でしょう。人流を抑える緊急事態宣言の発令と、海外から数万人の関係者が訪れる五輪開催は大いなる矛盾。その上、『一生に一度の自国開催』とあおり、ブルーインパルスまで飛ばせば『一目見よう』という人が増えるのも無理はない。開会式では医療従事者を競技場内の聖火ランナーに起用するなど、形ばかりの『感謝の気持ち』に明け暮れましたが、おためごかしもいいところ。コロナ禍の大会は医療従事者イジメ。日本勢第1号の金メダリストへの直電で悦に入る菅首相の精神性は、辞任した開会式の楽曲担当者と同じ。単なる“イジメ自慢”です。誰かの犠牲の上に成り立つ五輪は、根本的に間違っています」(2021年7月=東京五輪開催について) 「菅首相は1964年の東京大会でバレー女子チームを金メダルに導いた、大松博文監督に感銘を受けているのでしょう。“鬼の大松”の指導方法をひと言で表せば『シゴキ』。今でいえば壮絶なパワハラで、当時は『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織に根付く負の体質を育むことにもなった。その風潮の変化には実に半世紀もかかったのに、『シゴキ』を今の世によみがえらせようとしているのが、菅首相です。大松監督は帝国陸軍の生き残り。東京五輪はよく『インパール作戦』に例えられますが、監督はその過酷な戦地からの生還者でもある。だからこそ『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調するにいたったのですが、このアナクロニズムこそ菅首相の原点。自称『叩き上げ』の強い自負心もあり、無謀な挑戦も精神力で乗り切れると鼓舞し、医療従事者に限らず国民に全員一丸を押しつける。コロナ禍の五輪開催でシゴキ抜き、国民を強く鍛え上げられると本気で考えているとしか思えません」(2021年7月=菅首相(当時)の「東洋の魔女」発言について) 「曲がりなりにも『一体性、多様性、男女平等』を基本原則に掲げる五輪のホスト国として、日本はふさわしいのか。その点に国際世論は批判の矛先を向けているのです。女性蔑視発言の翌日に組織委が森会長を更迭していれば、まだ個人の問題を正常に処理したとみなされたでしょう。ところが、組織委の武藤敏郎事務総長や遠藤利明副会長ら『わきまえた』幹部は慰留に努め、JOCの山下泰裕会長らもモノが言えない。世耕弘成参院幹事長は『余人をもって代えがたい』、萩生田光一文科相は『最も反省で逆にあの態度』と政府・与党内の取り巻きからも擁護論が飛び出す始末。日本の後進性を世界にアピールしてばかりで結局、更迭の形でけじめをつけられなかった。後任も、若く、清新で、森会長と対照的な精神の持ち主とは言い難い。ただでさえ、五輪は新型コロナ禍で開催すら危ぶまれているのに、この体たらく。日本に自浄能力は期待できないと、世界中の意識の高いアスリートたちがボイコットに動いても、おかしくありません」(2021年2月=JOCの森会長の女性蔑視発言で) 「安倍氏は国会で自信満々に答弁し、野党議員に説教までしていた。その発言が虚偽だったのです。国会で嘘をつくなんて、政治家として終わっている。普通なら恥ずかしくて、議場に座っていられない。すぐにでも議員辞職するような話ですよ。ところが、安倍氏は平然としている。国民の側が政治に対する失望に慣らされ、嘘がまかり通るようになってしまった面もあると思います。底知れぬ政治腐敗を覚えます」) 「ホテルが数百人もいる参加者一人一人と契約して参加費を払ってもらっているなんていう説明があり得ない話なのは、誰もが分かっていた。それでも安倍さんは平気で明らかな嘘をつく。当たり前の常識が通用しない規格外の人です。バレない嘘ならついていい。バレても証拠がなきゃいい、立件されなければいいと思っている。立件されても有罪にならなきゃいいとすら思っている。そういう人には牢屋に入ってもらって、臭いメシを食べてもらうしかないんじゃないでしょうか。そうでもしなければ、改心することはないでしょう」(2020年11月=安倍首相の虚偽答弁が118回に及んだことについて)』、本質を突いた手厳しい批判は胸がすくようだ。
・『「安倍政権で日本語が意味を喪失、行政文書が紙ゴミに」 「安倍さん自ら『結果を出すことが重要』と言っている以上、首相を辞めた理由はどうであれ、8年に及ぶ安倍政治はきちんと総括されなければなりません。病気だからといって、執政が批判されない理由にはならないのです。文書主義を否定し、行政を“私物化”した安倍政権とは何だったのか、ちゃんと検証しない限り、時の政権による行政支配が続いていくと思います」(2020年9月=安倍首相が2度目の首相辞任を決めたことについて) 「政権の罪は、むしろ、彼らの日常動作の中にある。たとえば、行政文書を前例通りに記録・保存するという行政の担当者としてのあたりまえの習慣を、安倍晋三氏とその追随者たちは、政権を担当したこの8年の間に完膚なきまでに破壊した。それだけではない。彼らは、自分たちの政治資金の出納をまっとうに報告するという、政治家としての最も基本的な義務すら果たしていない」 「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている。一刻も早くこの国から消えてもらいたいと思っている」(2020年2月=安倍政権について) 「年金法案など個別の政策には反対が多いし、アベノミクスも失敗した。普通なら安倍内閣の支持率は下がるはずです。それなのに上がる理由は、ひとつは民進党が信頼されず、代わりがいないから。そしてもうひとつは、政策ではなく『安倍首相』というキャラクターが支持されているからではないでしょうか。トランプ現象が代表例ですが、世界中でハッキリ物を言うリーダーが受けている。安倍さんが国会で民進党をディスる姿が、むしろたくましいと思われている。弱者を助け、人権を守るというような戦後民主主義のリベラル思想を切り捨て、『甘ったれるな』と弱者の尻を叩くのを、正直な人だと好感を持って捉える。そんな背景があるように感じています」 「このままでは、弱者のためのセーフティーネットがなくなってしまいかねない。そうなれば、結果的に社会から活力や生産性が失われる。年を取ったり病気など不幸なことで、誰もが弱者になる可能性があるのに、セーフティーネットがなければ二度と這い上がれません。これ以上、格差拡大や社会的分断が加速すれば、取り返しのつかないことになってしまいます」(2020年1月=安倍政権について)』、「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている」、こうした手厳しい批判者が欠けてしまうのも、寂しい限りだ。
先ずは、本年6月24日付け日経ビジネスオンライン「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00162/
・『日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社会に対して、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」と喝破します。 体調が優れずにやむなく休載してからも、「キーボードを打てなくても、音声で入力できてこれがいいんだよ」と話した小田嶋さん。「まだまだ伝えたいことがある」「残さないといけない言葉がある」と連載再開の意欲に満ちあふれていらっしゃいました。 小田嶋さんが残したかったその言葉とは何だったのでしょうか。 謹んでご冥福をお祈りします。(日経ビジネス編集部) この原稿は、とある都内の病院のベッドサイドに設置された硬い椅子の上で書いている。というのも、私は、またしても入院しているからだ。 先週と今週の当欄は、だから、病院からの出稿ということになる。 自分ながらよく働く病人だと思っている。 病的な勤勉さと申し上げても良い。 じっさい、 「勤勉は貧困の一症状である」と言えば言えるわけで、十分な資産なり年収なりを手にしている人間は、病院で原稿を書くみたいな無茶はしない。 でもまあ、ものは考えようだ。 原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ。 そういう意味で、これまでのライター生活の40年が、おおむね適度な貧困に恵まれた月日であったことには感謝している。デビュー作がうっかりベストセラーになっていたりしたら、私はそれっきり何も書かずにアルコールに耽溺していたはずだ。だとすると、私はすでにこの世からいなくなっていたことだろう。感謝せねばならない』、「原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ」、「書き手の心身をすり減らすもの」とは再認識させられた。
・『今回の入院は救急車で搬送された緊急の入院ではない。 あくまでも治療のための入院だ。 新たに開始することになった治療は、通院でも対応可能なものなのだが、毎日病院に通う手間を考えると、いっそ入院したほうが楽だろうと考えた次第だ。その意味では、計画的な入院という言い方もできる。いずれにせよ、大きな心配はいらない。 とはいえ、8月に入院したばかりなのに、またしても病院のお世話になっている状況に心を痛めている読者もいらっしゃるはずだ。甲子園大会の言い方になぞらえるなら、2015年からの7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる。穏やかならぬ頻度だ。訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう。 ん? 私はすでに晩年を生きているのだろうか。 私がどう思っているのかにかかわらず、客観的に見れば、その可能性はある。晩年コラムニストの晩年コラム。多少ありがたみが増すだろうか。 今回は、晩年について考えていることを書いてみようと思う』、「7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる」、「訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう」、結果的にはなってしまったようだ。
・『書店の店頭を眺めてみればわかることなのだが、昨今の出版界では、意外なことに、このテーマ(晩年、老後の過ごし方、穏やかな老い方、死と向き合う方法)を扱った書籍に大いに依存している。であるから中規模以上の書店には、死生観やら老年やらを扱った特別なコーナーが設置されている。そのコーナーの中では、80歳を超えた老大家たちが、いずれも、人生に結末をつける方法について得々と語っていたりする。 さてしかし「晩年」は、観察者の言葉であって当事者の言葉ではない。 どういうことなのかというと、他人の人生を観察なり整理している人間が、生まれた時期と死んだ時点を確認した上で、死亡時から逆算した最後の数年間に「晩年」というタグを貼り付けているだけで、生きている当人は、特段に結末を意識していないということだ。 テニス選手の引退前の幾年かを「晩年」「末期」と呼ぶのは、ジャーナリストなり記者なりの評価であって、選手本人は、ルーキーイヤーであれ5年目であれ引退の前年であれ、同じ気持ちでコートに立っている(はずだ)。だから、事実として、全盛期より見劣りのするショットが行き来しているのだとしても、ひとの選手生活に対して、他人が「晩年」という言葉を使うのは失礼に当たる。 たとえば、研究室でマウスやモルモットの繁殖を担当している助手のことを考えてみれば良い。飼育担当者は万全な注意を払って動物を管理している。であるから、誕生から死に至るイベントを残らずデータとして記録している。その完全な観察者である人間からすれば、マウスの「晩年」はあらかじめわかっている。死んだ時期も、生まれたタイミングも、生存していた年数もすべて把握しているからだ。そこから「晩年」を算出するのはそんなに難しい作業ではない。 しかし、現実に生きている人間が自分の晩年を予断として決定するのは容易なことではない。 自分が何年の寿命を持っていて、あと何年生きるのかがわかっていないと、どのポイントを「晩年」の起点として良いのやら見当がつかない。 晩年を決定できるのは本人だけだという考え方もある。 少なくともかかわりのないひとの晩年を他人が決めるのは失礼に当たる。 「あのヒトもどうやら晩年に差し掛かっているようだな」「昨今の言い草に耳を傾けるに、あの男は晩年の相に突入して久しい」 といった観察ないし言明は、失礼であるのみならず傲慢でもある。 年齢を重ねているからといって、定年を迎えたからといって、晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ。ついでに申し添えれば、若い時代に急逝する人間は、いわゆる晩年に到達しない。彼ら彼女らはポキンと棒が折れるみたいにしてこの世を去る。幸運なことなのか不運なことなのかはたぶん本人にもわからない。 なるほど。 してみると、晩年の過ごし方という、なにやら普遍的に聞こえる話題も、ずいぶんと恣意的な話になる。結局のところ、いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない。 書店の「晩年コーナー」の充実ぶりは、われわれの社会の高齢化を反映したものなのだろう。おそらく、半世紀前に比べて達者で暮らしている70代や80代の高齢者を多く含む令和の日本社会は、それだけ、人生の幕の引き方を示唆する書籍への高い需要をかかえている』、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」、「いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない」、面白いひねりだ。
・『3年ほど前だったか、ある雑誌の企画でその種の「高齢者本」をまとめて10冊ほど読んだことがある。 その時に抱いた印象は、どの本もこちらの予断を裏切って、非常に楽観的な、明るい筆致で書かれていることだった。 いま思えばそもそもこちらの予断が間違っていたのだろう。 考えてみれば、80歳を過ぎて書籍を出版しようという書き手が悲観的な人生観を抱いているはずがないではないか。 出版社の側から見ても、昨今のせちがらい編集会議をくぐりぬけて出版にこぎつける企画である以上、著者として選ぶのはすでにネームバリューを持った人々だ。かつてベストセラーを連発していた小説家であるとか、恋愛スキャンダルで昭和の週刊誌を騒がせた女性であるとか、とにかく肩書だけで読者をひきつけることのできる著者が選ばれている。逆に言えば、編集者としては、書籍の内容よりも著者の知名度にもたれかかっていたほうが、効率的な本作りができるということだ。) かくして、各種老年本をひもといてみると、そこには若々しい希望に満ちた前向きな言葉が並んでいる。もう少し地味な諦観をキメてみせているであろうと思ったのはこちらの見当違いで、じっさいのところの「諦観」は印象として非常に明るいものだったわけだ。 もっとも、この「明るさ」は、半ば以上著者と編集者が結託して作り上げたフィクションというのか、演出上の必然なのだと思う。 死や老年や病苦を扱った書籍が暗い筆致で書かれていたのでは、誰も読む人がいなくなるはずだからだ。 つまり、ともすると暗い方に傾きがちな話題は、つとめて明るく語るきまりごとがあらかじめ設定されているのだろう。 というよりも、そもそも書き手の顔ぶれを並べてみれば、いずれもスーパーな高齢者ばかりで、このジャンルの書き手として選ばれた人間は、フィクションだの演出効果だのをディレクションするまでもなく、はじめから前向きで若々しいとびっきりの楽観老年に限られている。 読者としてこれらの書籍を購入している人々も、おそらくご老人ばかりではない。 個人的な思い込みであることをお断りした上で言うのだが、私は、この種の「晩年」を扱った出版物の読者の平均年齢は、業界の人間が考えているよりずっと若いのではないかと思っている。というのも、死や老年について思いを馳せるのは、むしろ若い人たちだからだ。行き先が見通しにくい世の中で暮らしているからこそ、若い人たちは一足飛びに老年を夢想する。そして、その夢想は、私の世代の者が若かった時代に思い描いていたにべもない老人蔑視とは違って、もう少し地に足のついた現実的な未来像で、必ずしも暗く閉ざされているわけでもない。 「私たち」という一人称複数の代名詞を使うと各方面から即座に「主語が大きい」というツッコミが入るお約束になっているので、ここから先、「私たちの世代」だとかいうフォーカスの甘い主語でものを言うのは控えよう。 少なくとも私は、若かった頃、自分の老年を想像したことなどなかったし、予測も見込みも何も立てていなかった。というのも、そもそも私は自分が40歳以上になるまで生きているとは考えていなかったからで、それゆえ、老年などという単語は徹頭徹尾自分とは無縁なのだと決めてかかっていた。 いま思えば幼稚な思い込みだ。 それ以上に、手前勝手な決めつけでもある。 しかしながら、念のために申し上げておくに、少なくとも昭和の半ば頃までは、若い人間が 「先のことなんか知ったことじゃねえよ」的な考え方で人生の飛び石を渡るのは、さほど珍しい景色ではなかった。というよりも、若者である以上、多かれ少なかれ、捨て鉢な方針を振りかざしていたいものなのだ。別の言い方をすれば、そういうふうに、未来にも過去にも無頓着かつ冷淡であることが「若さ」の真義であると、当時の若者は少なくともそう考えていたのである。 令和の若者は、30年来の不況下で生まれ育った不景気の申し子のような人たちだ。 だから、先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある。わたくしどもの目にはそんなふうに見える。 それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある。現在の若い人たちは、自分が老いることを「知って」いるのだ。なんと賢い若者たちであることだろうか』、「令和の若者は、・・・先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある・・・それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある」、彼らが「老年本」の重要な読者層だとすれば、その通りだ。
・『最後に、まだ老年に差し掛かっていない若い人たちに、先行者としてアドバイスを残しておく。 私が自分ながら幸運だったと思っているのは、原稿を書く仕事とともに老年を迎えていることだ。 原稿執筆は、老年と相性が良い。 テキスト作成は、場所もとらないし、道具もさほどいらない。自分のウデとアタマとPCが一台あれば、たいていのことは間に合ってしまう。 だから病気をしても仕事ができるし、足腰が衰えてもなんとかなる。 そんなわけなので、将来の変わり身に向けて多彩な選択肢を持っているみなさんには、いまのうちに「書く技術」を身につけておくことを、強くおすすめする。 じっさい、書ける人間はヤマほどいる。 というよりもインターネット時代を迎えて、市井に生きる一般人が文章を作成する能力は、飛躍的に向上しつつある。いまやそこいらへんの高校生が、びっくりするほど破綻のない文章をテもなく書いてのける。ただただびっくりするばかりだ。 単純にテキストの出来不出来の話をするなら、プロ水準の原稿を生産する能力を備えた人間は、たぶん600万人(←筆者概算)ほどいるはずだ。 以前、いくつかアマチュアの人たちの書いた文章を添削する機会に恵まれたことがあるのだが、毎度毎度、趣味でものを書いている人たちの筆力の向上ぶりに驚かされたものだ。 一流企業のそれなりの地位にいる管理職のおっさんが、情感にあふれた珠玉のエッセーを書いてきたり、本職では医療事務にたずさわっている女性が、意表を突いた着眼でさらりと笑わせる小洒落たコラムをものしていたりして、プロであるはずの私にしてからが、直すところのなさに往生したものだった。 私のような職業的な書き手と彼らのようなアマチュアの凄腕に差があるのだとすれば、「職をなげうっているかどうか」だけだ。 つまり、文章を書くことを専業として食べて行けるのかどうかは、もはや才能や筆力の問題ではないということだ。ライターとして独立できるのかどうかは、ひとえに「いま食えている仕事を投げ出すことができるのか」にかかっている。 いかに達者な文章を書くからといって、ライターという稼業が、独立研究機関の研究職や航空会社の地上勤務の職を蹴飛ばしてまで挑む価値のある仕事であるのかといえば、はなはだ疑問だと申し上げざるを得ない。) しかしながら、時代は変わっている。 しばらく前から、ライティングにまつわる作業は、ライターの専業ではなくなってきている。 10年もたてば、文章を書くことだけで生計を立てている専業の書き手は、現在の半分ほどに減っているかもしれない。 ライティングの仕事が消滅するわけではない。 たぶん、業界は専業の書き手よりも「書ける素人」を希求している。 というのも、文章作成は、志を持った者が生涯をかけて取り組むべき課題である一方で、収入や作業時間といった諸条件から勘案すると、むしろ副業に向いた仕事だからだ。 問題はペイだ。 現在、ライターは、買い叩かれている。 特にデジタルの原稿料は、web上の有象無象のサイトが品質の低い似たようなテキストを大量に求めている現状を反映した地点に落着している。 クリック数を広告でマネタイズする現状の仕組みが続く限り、テレビ感想文や皇室スキャンダルの焼き直しをミートボールにして煮込んだみたいな低劣なテキストがアクセス数のランキングに並ぶ事態は変わらないだろう。 しかし、こんなバカなことが長く続くはずがない。 読者は質の高い文章を求めている。 そして、質の高い文章を書ける人材は巷にあふれている。 近い将来、文章の質に値段がつく時期がやってくるはずだ。 いずれにせよ、今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み(どうせGAFA頼りだとは思うのだが)が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある』、「今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み・・・が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある」、持って回った表現で、分かり難いが、「ライターの未来」をどうも明るくはみてないような印象を受けた。
次に、6月28日付け日刊ゲンダイ「反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/307399
・『24日に65歳で病死したコラムニストの小田嶋隆さんは「反骨精神の論客」として知られ、日刊ゲンダイにも度々コメントを寄せていた。哀悼の意を込めて、最近の発言を振り返りたい。 「医療従事者には、まるで『パラレルワールド』の出来事でしょう。人流を抑える緊急事態宣言の発令と、海外から数万人の関係者が訪れる五輪開催は大いなる矛盾。その上、『一生に一度の自国開催』とあおり、ブルーインパルスまで飛ばせば『一目見よう』という人が増えるのも無理はない。開会式では医療従事者を競技場内の聖火ランナーに起用するなど、形ばかりの『感謝の気持ち』に明け暮れましたが、おためごかしもいいところ。コロナ禍の大会は医療従事者イジメ。日本勢第1号の金メダリストへの直電で悦に入る菅首相の精神性は、辞任した開会式の楽曲担当者と同じ。単なる“イジメ自慢”です。誰かの犠牲の上に成り立つ五輪は、根本的に間違っています」(2021年7月=東京五輪開催について) 「菅首相は1964年の東京大会でバレー女子チームを金メダルに導いた、大松博文監督に感銘を受けているのでしょう。“鬼の大松”の指導方法をひと言で表せば『シゴキ』。今でいえば壮絶なパワハラで、当時は『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織に根付く負の体質を育むことにもなった。その風潮の変化には実に半世紀もかかったのに、『シゴキ』を今の世によみがえらせようとしているのが、菅首相です。大松監督は帝国陸軍の生き残り。東京五輪はよく『インパール作戦』に例えられますが、監督はその過酷な戦地からの生還者でもある。だからこそ『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調するにいたったのですが、このアナクロニズムこそ菅首相の原点。自称『叩き上げ』の強い自負心もあり、無謀な挑戦も精神力で乗り切れると鼓舞し、医療従事者に限らず国民に全員一丸を押しつける。コロナ禍の五輪開催でシゴキ抜き、国民を強く鍛え上げられると本気で考えているとしか思えません」(2021年7月=菅首相(当時)の「東洋の魔女」発言について) 「曲がりなりにも『一体性、多様性、男女平等』を基本原則に掲げる五輪のホスト国として、日本はふさわしいのか。その点に国際世論は批判の矛先を向けているのです。女性蔑視発言の翌日に組織委が森会長を更迭していれば、まだ個人の問題を正常に処理したとみなされたでしょう。ところが、組織委の武藤敏郎事務総長や遠藤利明副会長ら『わきまえた』幹部は慰留に努め、JOCの山下泰裕会長らもモノが言えない。世耕弘成参院幹事長は『余人をもって代えがたい』、萩生田光一文科相は『最も反省で逆にあの態度』と政府・与党内の取り巻きからも擁護論が飛び出す始末。日本の後進性を世界にアピールしてばかりで結局、更迭の形でけじめをつけられなかった。後任も、若く、清新で、森会長と対照的な精神の持ち主とは言い難い。ただでさえ、五輪は新型コロナ禍で開催すら危ぶまれているのに、この体たらく。日本に自浄能力は期待できないと、世界中の意識の高いアスリートたちがボイコットに動いても、おかしくありません」(2021年2月=JOCの森会長の女性蔑視発言で) 「安倍氏は国会で自信満々に答弁し、野党議員に説教までしていた。その発言が虚偽だったのです。国会で嘘をつくなんて、政治家として終わっている。普通なら恥ずかしくて、議場に座っていられない。すぐにでも議員辞職するような話ですよ。ところが、安倍氏は平然としている。国民の側が政治に対する失望に慣らされ、嘘がまかり通るようになってしまった面もあると思います。底知れぬ政治腐敗を覚えます」) 「ホテルが数百人もいる参加者一人一人と契約して参加費を払ってもらっているなんていう説明があり得ない話なのは、誰もが分かっていた。それでも安倍さんは平気で明らかな嘘をつく。当たり前の常識が通用しない規格外の人です。バレない嘘ならついていい。バレても証拠がなきゃいい、立件されなければいいと思っている。立件されても有罪にならなきゃいいとすら思っている。そういう人には牢屋に入ってもらって、臭いメシを食べてもらうしかないんじゃないでしょうか。そうでもしなければ、改心することはないでしょう」(2020年11月=安倍首相の虚偽答弁が118回に及んだことについて)』、本質を突いた手厳しい批判は胸がすくようだ。
・『「安倍政権で日本語が意味を喪失、行政文書が紙ゴミに」 「安倍さん自ら『結果を出すことが重要』と言っている以上、首相を辞めた理由はどうであれ、8年に及ぶ安倍政治はきちんと総括されなければなりません。病気だからといって、執政が批判されない理由にはならないのです。文書主義を否定し、行政を“私物化”した安倍政権とは何だったのか、ちゃんと検証しない限り、時の政権による行政支配が続いていくと思います」(2020年9月=安倍首相が2度目の首相辞任を決めたことについて) 「政権の罪は、むしろ、彼らの日常動作の中にある。たとえば、行政文書を前例通りに記録・保存するという行政の担当者としてのあたりまえの習慣を、安倍晋三氏とその追随者たちは、政権を担当したこの8年の間に完膚なきまでに破壊した。それだけではない。彼らは、自分たちの政治資金の出納をまっとうに報告するという、政治家としての最も基本的な義務すら果たしていない」 「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている。一刻も早くこの国から消えてもらいたいと思っている」(2020年2月=安倍政権について) 「年金法案など個別の政策には反対が多いし、アベノミクスも失敗した。普通なら安倍内閣の支持率は下がるはずです。それなのに上がる理由は、ひとつは民進党が信頼されず、代わりがいないから。そしてもうひとつは、政策ではなく『安倍首相』というキャラクターが支持されているからではないでしょうか。トランプ現象が代表例ですが、世界中でハッキリ物を言うリーダーが受けている。安倍さんが国会で民進党をディスる姿が、むしろたくましいと思われている。弱者を助け、人権を守るというような戦後民主主義のリベラル思想を切り捨て、『甘ったれるな』と弱者の尻を叩くのを、正直な人だと好感を持って捉える。そんな背景があるように感じています」 「このままでは、弱者のためのセーフティーネットがなくなってしまいかねない。そうなれば、結果的に社会から活力や生産性が失われる。年を取ったり病気など不幸なことで、誰もが弱者になる可能性があるのに、セーフティーネットがなければ二度と這い上がれません。これ以上、格差拡大や社会的分断が加速すれば、取り返しのつかないことになってしまいます」(2020年1月=安倍政権について)』、「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている」、こうした手厳しい批判者が欠けてしまうのも、寂しい限りだ。
タグ:「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」、「いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない」、面白いひねりだ。 「7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる」、「訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう」、結果的にはなってしまったようだ。 「原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ」、「書き手の心身をすり減らすもの」とは再認識させられた。 日経ビジネスオンライン「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」 随筆 (その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘) 「令和の若者は、・・・先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある・・・それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある」、彼らが「老年本」の重要な読者層だとすれば、その通りだ。 「今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み・・・が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある」、持って回った表現で、分かり難いが、「ライターの未来」をどうも明るくはみてないような印象を受けた。 日刊ゲンダイ「反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘」 本質を突いた手厳しい批判は胸がすくようだ。 「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている」、こうし
コメント 0