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東京オリンピック(五輪)問題(小田嶋氏の森発言、オリンピックでの「夢」についてのコメント) [社会]

昨日に続いて東京オリンピック(五輪)問題を取上げよう。今日は、小田嶋氏の森発言、オリンピックでの「夢」についてのコメント である。

頻繁に引用しているコラムニストの小田嶋隆氏が7月8日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「夢はひとりで見るものだ」を紹介しよう。
・「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」  と、2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長は言ったのだそうですよ奥さん。 なるほど。懸念していた通りの展開だ。  五輪が政治利用され、国歌が制度利用され、代表選手が兵役利用されている。
・舞台は、リオデジャネイロのオリンピックに出場する日本代表選手団の、結団式と壮行会が行われた、代々木競技場だった。 「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか」 と、森会長は、直前の陸上自衛隊中央音楽隊・松永美智子陸士長による国歌独唱時の様子を振り返って、選手団に問いかけ、サッカー女子ワールドカップでは澤穂希さん、ラグビーのワールドカップでは五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した、と述べた。 そして、「表彰台に立ったら、口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、国歌を歌ってください」 と選手に呼びかけた。  ……そのように、記事は伝えている。
・注意深く読んだ読者が既にお気づきになっている通り、松永陸士長は、国歌を「独唱」している。ということは、ここで歌われた国歌は、選手たちに「斉唱」を求める設定ではなかったのであって、とすると、森元首相の五輪選手団への叱責は、お門違いであり、見当違いであり、筋違いであり、料簡違いであり、考え違いであり、間違いであり、■違い(自由に埋めて下さい)だったことになる。 まったくもってバカな話だ。
・問題は、森元首相が対応を誤ったことだけではない。 本来なら五輪代表選手に活躍をお願いする立場の人間であるはずの森氏が、何をどう勘違いしたものなのか、上から苦言を呈する構えで、300人の選手に説教を垂れたその根性が、あらゆる意味でどうかしている。そこが第一の問題だ。
・代表選手は、一人一人、それぞれ、個人として、また独立したアスリートとしての目標と夢を持っている。  私たち一般国民は、その彼ら彼女らのあくまでも個人的な努力と奮発の結果に便乗して、一瞬の興奮と娯楽を追体験させてもらう物乞いに過ぎない。当然、われわれは選手に命令する権利を持っていないし、注文をつけたり結果次第で断罪したり苦情を申し述べたりする資格を有しているはずもない。五輪組織委員長とて同じことだ。いや、組織委員長であれば、なおのこと選手には公平な姿勢で対処せねばならないはずだ。なんとなれば、五輪の成否の大きな部分が選手の活躍に負うものである以上、組織委員長は選手にお願いをする立場の人間だからだ。
・さてしかし、森元首相の勘違いに鉄槌を下し、その軽挙をたしなめる主旨で書かれている私のこのテキストは、おそらく、国民的な共感を呼ばない。 むしろ、森さんのささいな間違いをあげつらって騒ぎ立てているオダジマの狭量と生意気を問題視する人間の方が多数派であるかもしれない。 「森会長の国を思うからこその勇み足を、どうして笑って見過ごすことができないのだろうか」  「勘違いだったのだとしても、オレは森さんの志を感じて胸が熱くなった」  「選手だって熱い心意気を感じたはずだ」  「というよりも、空気を読み違えたのは、国歌を斉唱でなく独唱の設定にした式典の企画者だと思うぞ」  「だよな。選手団が声を揃えて国歌を歌うのでなかったら、壮行会の意義なんて無いようなものだ」 てな調子の人々は、たぶん、私が考えているよりずっと多いはずで、その彼らは、オリンピックを国民ならびに国家がひとつになるための壮大な「夢」なのだというふうに考えている。
・実際、「夢」という言葉を、集合名詞としてとらえている日本人は決して少なくない。 そう思う人がそう思うことを止めることはできない。 ただ、私は、同じ考えを持つ人間ではない。 私は、「夢」は、あくまでも個人に属するものだと考える。
・だから、五輪招致運動のキャッチコピーが 「いま、ニッポンには、この夢の力が必要だ」 と連呼している時点から、どうしてもそのフレーズになじむことができなかった。 なぜなら、ここでは「夢」を見る主体が「ニッポン」という国になっているからだ。 私には、国が見る夢というビジョンは受けいれがたい。 ついていけない。
・もちろん、国そのものは夢を見たりしない。 ということはつまり、五輪を招致しようとしていた人々が目論んでいたのは、五輪を通じて日本国民が、共通の集団的な「夢」を見ることだったと考えるべきなのであろう。
・でも、それでも十分に気味が悪い。 誰がいったい他人なんかと夢を共有できるというのだ? そもそも、最初に「夢」という言葉を持ち出したのは、五輪招致を言い出した当の本人である石原慎太郎元都知事だった。 私の記憶では、2016年の五輪に向けた最初の招致活動(←失敗に終わった)を立ち上げる時に、石原都知事(当時)は、あるインタビューの中で、 「最近、若い人たちが夢を持っていないことが心配でならない」 という意味のことを言い、さらにそのことが五輪招致に乗り出す大きな理由になっている旨を明かしている。
・ざっと検索して出てきたソースでは、全国知事会のホームページ(こちら)に、平成20年(2008年)12月12日に代々木第一体育館で開催された「東京オリンピック・パラリンピック招致サポーター大集合!」という会合の様子が記されている。 記事によれば、石原都知事は 「私は、日本の将来を預ける、これから育っていく若い人たちのために、この国の将来をかけて、大きな夢を、大きな贈り物をしたいと思います。オリンピック・パラリンピックの招致は、この日本に芯を入れて、外国にも存在感を示す大きなテコになると思います。力を合わせて、2016年東京オリンピック・パラリンピックを招致するために、みんなでがんばりましょう。」 と語っている。 「日本に芯を入れる」 というのが、具体的にどんなビジョンを思い描いた上での発言なのか、詳しいところはわからないが、とにかく、石原さんは、どうやら「大きな夢」という時の夢の「大きさ」を、共有する人数の大きさで判断している。
・結果として、この時の招致活動は失敗し、石原さんの思いは、2020年開催の五輪への招致活動を引き継いだ猪瀬直樹都知事に引き継がれることになるわけなのだが、招致の大義名分というのかコンセプトが「夢」と「経済効果」である点は、変わっていない。というよりも、東京五輪は、石原都知事がその決意を報道陣に語った一番最初の構想段階から一貫して「夢」という言葉を核とした国民運動だったのである。
・で、驚くべきことに、文科省は、2013年の招致成功を受け、2020年に向けて、「夢ビジョン2020」というコンセプトを掲げた、省内有志職員による運動を2014年から展開しはじめていた。 以下に、「夢ビジョン2020」の構想を図示した「ポンチ絵」を示す。 一見して私はのけぞった。 のけぞるというのは、昭和の流行語で、私はたぶん30年ぶりに使ったのだが、そういう言葉が思わず出てくるほど驚いたということだ。
・このポンチ絵のグロテスクさはどうだろう。 ちなみに「ポンチ絵」というのは、「役人や大学人が監督官庁や議員や上司に自分たちが関わっているプロジェクトや業務やスキームを説明するために作る1枚のパワポ資料の中に概要を書き込んだ図版資料」を指す言葉であるようで、以下のリンク先などを見ると、どうしてどうして、奥深い世界があるもののようだ。なかなか面白い。 文科省のホームページで「夢ビジョン2020」を検索すると、 「夢ビジョン2020とは、五輪開催の年である2020年を、新たな成長に向かうターゲットイヤーとして位置付け、日本社会を元気にするための取組を打ち出したものです。」 という定義を書いた説明ページにたどり着く。
・なるほど。 で、このページをさらに読み進めると、さきほどのものよりさらに詳しいポンチ絵が登場する。 ちなみに、この詳細版ポンチ絵の中には、「夢」という言葉が46回登場する。はいそうです。数えました。読み進めながら、あまりにもとんでもない頻度に思わずページ内検索を実行した次第です。 おわかりいただけるでしょうか。 46回。夢が46回です46回。夢夢夢夢夢です。 この頻度でこの言葉が使われているこのことは、当文書が、企画書や説明文であるよりは、まごうかたなきポエムであることを示唆している。 46回。 いくらなんでも安売りしすぎだ。
・ついでに数えてみると 『オリンピックの感動に触れる。私が変わる。社会が変わる。』 というキャッチコピー(「行動の指針となる標語」と位置づけられている)は、都合7回登場する。 このダサいキャッチを、凝りもせずに7回繰り返しているわけだ。 この文書を作った人は、バカなのだろうか? いや、違う。 バカでは、ここまで徹底した仕事はできない。 この文書を作った人間は、非常に専門的なスキルを傾けて、このおよそバカげたポンチ絵を制作している。 一流の寿司店の板前はだしの包丁さばきで大福を踏み潰してるみたいな仕事ぶりと言って良い。
・「夢ビジョン2020」というタイトルのこっ恥ずかしさもさることながら、その中心的なコンセプトとなっている標語の驚異的なダサさはいったいどう解釈すれば良いのだろうか。この「オリンピックの感動に触れる。私が変わる。社会が変わる」という致死的にダサい標語が、そのダサさにもかかわらず文書の中で執拗に繰り返されている理由は、もしかしたら、この標語の発案者が、文科省のお役人にとって決して軽く扱うことのできない人物(石原元都知事か、でなければ森元首相)である可能性をも感じさせるわけだが、そこのところの詮索はともかくとして、このビジョン全体から覆うべくもなく漂ってくるセンスの無さと、夢という言葉に頼り切った態度に、私は怒りよりむしろ哀れみを禁じ得ない。
・提案されている具体案の中には、 《各界著名人200名を2020「夢大使」に任命、2015年までに全中学校を訪問して 「オリンピックチルドレン」(中学1年。2020年に20歳)と交流し、彼らの夢探しとその実現を支援(2020年に、その「夢」を彼らの育った地域の文化や魅力とともに国内外に発信)。》 のような、恥ずかしさに走りだしたくなるようなプランがだらだらと並べられている。
・どうして文科省というお役所は、本気を出せば出すほどバカな仕事を残す結果に陥るのであろうか。 実はこの「夢ビジョン2020」のページは、すでに更新が止まっている。が、安心してはいけない。2015年8月に、このチームを引き継ぐ形で「文部科学省レガシープロジェクトチーム」が設置されている。
・来たる2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開会式が、どれほど国辱的なイベントになるのか。 個人的には、既に答は出ている。 私は、この夏から、オリンピックがやってくるまでの4年の間、コツコツ働いて貯金をするつもりでいる。 で、開催期間中は、できれば南の島でバカンスを過ごしたいものだと思っている。 貯金が目標額に届かなかったら、2週間分の睡眠薬を手に入れて、夢を見ながらやりすごす所存だ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/070700050/?P=1&rt=nocnt
「夢ビジョン2020」のポンチ絵のリンク先:http://www.mext.go.jp/a_menu/yumevision/__icsFiles/afieldfile/2014/04/25/1347287_01.pdf
詳細版ポンチ絵のリンク先:
http://www.mext.go.jp/a_menu/yumevision/__icsFiles/afieldfile/2014/04/25/1347287_02.pdf
文科省のチーム全体についてのリンク先:
http://www.mext.go.jp/a_menu/mextlegacy/index.htm

森発言はテレビでも取上げられたが、私は森氏らしいおちょこちょいな「お門違い」発言と感じた。
問題は、石原元知事以降の『「夢」という言葉を核とした国民運動』である。文科省の「夢ビジョン2020」は、ここまでやるのかと、むしろ東京オリンピックの政治的な利用に腹が立つとともに、これが国際的にも発信されることに恥ずかしさを覚えた。小田嶋氏が指摘する『文科省というお役所は、本気を出せば出すほどバカな仕事を残す結果に陥るのであろうか』、はその通りだ。こんな馬鹿な「レガシープロジェクトチーム」も、ひょっとすると電通などの広告代理店に「乗せられている」のではなかろうか。
タグ:東京オリンピック(五輪)問題 (小田嶋氏の森発言、オリンピックでの「夢」についてのコメント) 小田嶋隆 日経ビジネスオンライン 夢はひとりで見るものだ 国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長 五輪が政治利用され、国歌が制度利用され、代表選手が兵役利用 日本代表選手団の、結団式と壮行会 陸上自衛隊中央音楽隊・松永美智子陸士長による国歌独唱時の様子 サッカー女子ワールドカップでは澤穂希さん、ラグビーのワールドカップでは五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した 、選手たちに「斉唱」を求める設定ではなかったのであって、とすると、森元首相の五輪選手団への叱責は、お門違い 本来なら五輪代表選手に活躍をお願いする立場の人間であるはずの森氏 上から苦言を呈する構えで、300人の選手に説教を垂れたその根性が、あらゆる意味でどうかしている。そこが第一の問題 代表選手は、一人一人、それぞれ、個人として、また独立したアスリートとしての目標と夢を持っている 一般国民は、その彼ら彼女らのあくまでも個人的な努力と奮発の結果に便乗して、一瞬の興奮と娯楽を追体験させてもらう物乞いに過ぎない 当然、われわれは選手に命令する権利を持っていないし、注文をつけたり結果次第で断罪したり苦情を申し述べたりする資格を有しているはずもない 五輪組織委員長とて同じことだ。いや、組織委員長であれば、なおのこと選手には公平な姿勢で対処せねばならないはずだ オリンピックを国民ならびに国家がひとつになるための壮大な「夢」なのだというふうに考えている 五輪招致運動のキャッチコピー いま、ニッポンには、この夢の力が必要だ 五輪を招致しようとしていた人々が目論んでいたのは、五輪を通じて日本国民が、共通の集団的な「夢」を見ることだったと考えるべきなのであろう 石原慎太郎元都知事 「夢」という言葉を持ち出したのは 日本に芯を入れて、外国にも存在感を示す大きなテコになると 一番最初の構想段階から一貫して「夢」という言葉を核とした国民運動 文科省 夢ビジョン2020 ポンチ絵 詳細版ポンチ絵 、「夢」という言葉が46回登場 当文書が、企画書や説明文であるよりは、まごうかたなきポエム オリンピックの感動に触れる。私が変わる。社会が変わる ビジョン全体から覆うべくもなく漂ってくるセンスの無さと、夢という言葉に頼り切った態度に、私は怒りよりむしろ哀れみを禁じ得ない どうして文科省というお役所は、本気を出せば出すほどバカな仕事を残す結果に陥るのであろうか
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