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「あいちトリエンナーレ2019」問題(その3)(小田嶋氏2題:チキンなハートが招き入れるもの、アートという「避難所」が消えた世界は) [国内政治]

「あいちトリエンナーレ2019」問題については、8月15日に取上げた。今日は、(その3)(小田嶋氏2題:チキンなハートが招き入れるもの、アートという「避難所」が消えた世界は)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が9月27日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「チキンなハートが招き入れるもの」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00038/
・『あいちトリエンナーレ2019をめぐる一連の騒動に関して、これまで、私は、積極的な発言を避けてきた。 理由は、この話題が典型的な炎上案件に見えたからだ。 ヘタなカラみ方をすると火傷をする。だから、じっくり考えて、さまざまな角度から事態を観察しつつ、自分なりの考えがまとまるまでは、脊髄反射のリアクションは控えようと、かように考えて関与を回避してきた次第だ。 当人としては、これはこれで、妥当な判断だったと思っている。 とはいうものの、いま言ったことが、弁解に過ぎないと言われたら、実は、反論しにくい。 「単にビビっただけだろ?」という最もプリミティブなツッコミにも、うなだれるほかに、うまいリアクションがみつからない。 じっさい、私がビビっていたことは事実だからだ。 「私なりの考え」程度の直感的な見解は、問題が発生した当初から、頭の中にあれこれ浮かんでいた。 それを外に向けて表明しなかったのは、正直に告白すれば、殺到するであろう賛否のコメントや、無関係なところで発生するに違いない魔女狩りじみた欠席裁判に対応するのが面倒くさかったからだ。圧倒的な物量でもって押し寄せるクソリプの予感は、時に良心的な論者を黙らせる。これは、認めなければならない。 あいちトリエンナーレ(以下、「あいトリ」と略します)以外の、さまざまな出来事やニュースに対して、かねて、私は、軽率に発言することを旨としてやってきた人間だ。ここでいう「軽率」というのは、言葉のあやみたいなもので、もう少し丁寧な言い方で言えば、私は、どんな問題や出来事に対してであれ、専門家の分析や有識者の見解とは別の、「素人の感想」を述べておくことがコラムニストに課せられた役割のひとつであると考えているということだ。 素人のナマの感想は、往々にして勘違いや認識不足を含んでいる。それ以上に、素人が直感的な見解を表明することは、恥ずかしい偏見やあからさまな勉強不足を露呈する危険性と背中合わせだ。それでも、素朴な感想には素朴な感想ならではの価値があるはずだと私は考えている。というのも、愚かさや偏見や勉強不足も含めて、この世界を動かしている主要な動力は、つまるところ「素人の感想」の総和なのであって、そうであればこそ、それらをあえて表明することで恥をかく人間がいないと、言論の世界を賦活することはできないはずだからだ』、私もこの問題での小田嶋氏の沈黙を不思議に思っていたが、漸く発言することに踏み切ったようだ。
・『さてしかし 「もう少し事態が落ち着くのを待とう」「自分がいま感じているもやもやとした感慨が、よりはっきりとした見解として像を結ぶまでは、うかつな関与は禁物だ」とかなんとか思っているうちに、「あいトリ」をめぐる事態は、日を追って混迷を深め、さらに関与の難しい局面に立ち至っていたわけなのだが、つい昨日(9月25日)になって 《愛知県の大村秀章知事は25日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の在り方を検証する同県設立の有識者委員会で、中止した企画展「表現の不自由展・その後」について、会期終了の10月14日までに「条件を整えた上で再開を目指したい」との考えを明らかにした。》という記事が配信されてきた。 なるほど。膠着していた事態がようやく動きはじめたようだ。してみると、今後は、多少とも前向きな形でこの話題に言及する余地ができたのかもしれないな……などと、私は、愚かな楽観を抱きはじめていた。 ところが、昨晩のニュースにおっかぶせる形で、今朝になって 《文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金を不交付の方針》という驚天動地のニュースが流れてきた。 いや、このニュースを受け止めるにあたって、「驚天動地」などという言葉を持ってきている態度が、そもそもヌルいのかもしれない。 なぜというに、いま起こっている事態は、これまでの経緯を注意深く観察してきた人間には、十分に予測できた展開だからだ。 私自身、この展覧会を契機に、あらゆる事態がとんでもない速度で悪化しつつあることは感じ取っていた。 じっさい、第一報を伝えたNHKのニュースも、この展開を事前に予測していた人間が書いたかのような体裁で書かれている。 本当は、みんなわかっていたのだ。 私自身も、実は、わかっていた。ただ、目をそらしていただけだ。深刻な事態が進行していることを、十分に感知していたからこそ、私は、何も言えなくなっていた。つまり、ビビっていた。そういうことだ。 ことここに至って、目が覚めた』、「文化庁・・・補助金を不交付の方針」を、「本当は、みんなわかっていたのだ。 私自身も、実は、わかっていた。ただ、目をそらしていただけだ。深刻な事態が進行していることを、十分に感知していたからこそ、私は、何も言えなくなっていた。つまり、ビビっていた」、文化庁がそこまでの暴挙をするとは考えてなかった私は、やはり甘過ぎるのだろう。
・『本当なら、8月2日の段階で、会場を訪れた河村名古屋市長が 「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」と述べた段階でもっと敏感に反応してしかるべきだった。あれは、いま思えば、最悪の事態がはじまったことを告げる明らかなホイッスルだった。その意味を、半ば以上正確に読み取っていたにもかかわらず、私はだらしなく黙っていた。なんとなさけないリアクションだろうか。 さらに、その河村市長の発言を受けた菅官房長官が、会見の中で、芸術祭への国の補助金について、事実関係を精査し、交付するかどうか慎重に検討する考えを示したことに対しては、跳び上がってびっくりしてみせるなり、怒鳴り散らしてでも憤りを表明するなりすることで、やがて訪れるであろう本当の危機への注意を喚起しておくべきだった。 なのに、私はそれをせずに 「炎上案件だから」てな調子の既製品の弁解を店頭に並べて知らん顔をしていた。 反省せねばならない。 今回の文化庁の決断は、一地方の首長が記者との談話の中で述べた私的な見解とは水準を異にするものだ。 というのも、市長の妄言と補助金の支給中止は、まるで重みの違う話で、妄言が「虚」なら補助金は「実」だからだ。 もちろん、河村市長の発言とて、あれはあれで、一定の権力を持った政治家の言葉としては論外以外のナニモノでもない。とはいえ、市長のあの発言は、しょせんは考えの足りない一地方首長が無自覚に漏らした私的な談話の断片に過ぎないと言えばそう言えないこともないわけで、その意味では、あの発言が、ただちに法的な強制力を持った実効的な弾圧であるとは言えない。 一方、文化庁が、補助金の交付を中止することは、展覧会や美術展を企画する自治体やキュレーターにとって、正しく死活問題だ。作品を制作しているクリエーターにとっても、具体的かつ直接的な弾圧として機能する。 しかも、文化庁は、いったん採択した補助金の交付を、問題が起こった後で、その問題への説明が不足だったという理由を以て「事後的に」中止する旨を明らかにしている。これはつまり、今後、彼らが、あらゆる企画展や文化事業に対して、随時、介入する決意を明らかにしたに等しい措置だ。おメガネにかなわない企画や作品に対して、いつでも懲罰的な形で補助金の引き上げを言い渡すつもりでいる金主が巡回している世界で、誰が自由なキュレーションや作品制作を貫徹できるだろうか。私は不可能だと思う』、恐ろしいことになったものだ。
・『「説明が不十分だった」みたいな難癖をつけるだけのことで、補助金をカットできるということは、「十分な説明」なる動作が利権化するということでもある。 今回、騒動の発火点となった「表現の不自由展」は、「あいトリ」という大きな枠組みの芸術祭のうちのほんの一部(←予算規模で400万円程度といわれている)に過ぎない。 してみると、7800万円の補助金が支給されるはずだった「あいトリ」は、そのうちの400万円ほどの規模で開催されるはずだった「表現の不自由展」をめぐるトラブルのおかげで、すべての補助金を止められたという話になる。 こんな前例ができた以上、この先、どこの自治体であれ、あるいは私企業や財団法人であれ、多少とも「危ない」あるいは「議論を呼びそうな」作品の展示には踏み切れなくなる。 作品をつくる芸術家だって、自分の作品の反響が、美術展なり展覧会なりのイベントまるごとが中止なり補助金カットに追い込む可能性を持っていることを考えたら、うっかり「刺激的な」ないしは「挑戦的な」作風にはチャレンジしにくくなる。 別の角度から見れば、今回の事例を踏まえて、気に入らない作品を展示していたり、政治的に相容れない立場のクリエーターが関与している美術展を中止に追い込むためには、とにかく数をたのんでクレームをつけたり、会場の周辺で騒ぎを起こしたりすればよいということになる。そうすれば、トラブルを嫌う主催者は企画を投げ出すかもしれないし、文化庁は企画を投げ出したことについての説明が不十分てなことで、補助金を引き上げるかもしれない。 かくして、「あいトリ」をめぐる騒動は、画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている。 私自身の話をすれば、これまで、自分が書いた原稿に関して、用語の使い方や主題の選び方について修正を求められた経験は、全部合わせればおそらく20回ほどある。 そのうちの10回ほどは、新聞社への寄稿で、単に平易な言い回しを求められたものだ。 残りの10回のうちの8回までは、とある同じ雑誌の同じ編集長に要求された文字通りの言葉狩りだった。 その編集長の不可思議な要求に対しては、毎回必ず 「え? どうしてこんな言葉がNGなんですか?」「考えすぎじゃないですか?」と抵抗したのだが、結局は押し切られた。 その当時、まだ30代だった私より5年ほど年長だったに過ぎないその若い編集長(してみると、彼は出世が早かった組なのだな)は、とにかく、問題になりそうな言葉はすべてカットしにかかる、まれに見る「チキン」だった』、「「あいトリ」をめぐる騒動は、画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている」、一般のマスコミが事実関係だけの報道に留まり、政府・文化庁への批判を控えているのは残念だ。
・『で、そのチキンな編集長と何年か付き合ううちに、私は、「言論弾圧は、なによりもまずチキンハート(注)な人間の心の中ではじまるものなのだな」ということを学んだ。 今回、私は、8月以来、ほぼ丸々2カ月にわたって、「あいトリ」の問題に関して沈黙を守ってきた自分が、つまるところチキンだったことを思い知らされた。 私が黙っていたのは、私がチキンだったからだった。 いま私が思っているのは、あの8月はじめの河村市長のケチな妄言からはじまった小さな騒動を、これほどまでに将来に禍根を残すに違いない深刻な弾圧事案に成長させてしまったのは、私を含めたほとんどすべての日本人が、実にどうしようもないチキンだったからだということだ。 反省せねばならない。 今回は、実は、昨今のお笑い芸人があからさまな差別ネタを、「たたかってる」「トンがってる」「ギリギリのところ狙ってる」と思い込んでいる傾向やその事例について考察するつもりでいて、半分ほどまでは原稿も出来上がっていたのだが、あまりにもとんでもないニュースがはいってきたので、急遽テーマを差し替えることになった。 面白いのは、今回の記事の最終的な結論が、当初書くつもりでいた原稿の結論とそんなに違わないところだ。 おそらくあらゆる表現の限界は、国民の粗暴さと臆病さが交差する場所に着地することになっている。 厄介なのは、ある人々が粗暴になればなるほど、別の人々が臆病になることで、それゆえ、表現の限界は、どうかすると平和な時代の半分にも届かない範囲に狭められる。 私個人は、なるべく臆病にならないように注意したい。いまのような時代は特に。 臆病さを避けながら粗暴にならずにいることはなかなか難しいミッションなのだが、なんとか達成したいと思っている』、「厄介なのは、ある人々が粗暴になればなるほど、別の人々が臆病になることで、それゆえ、表現の限界は、どうかすると平和な時代の半分にも届かない範囲に狭められる」、大いに気を付けるべきだろう。(注)チキンハート:臆病者のこと。

次に、小田嶋氏の続編、10月11日付け日経ビジネスオンライン「アートという「避難所」が消えた世界は」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00040/?P=1
・『前々回に引き続き、「あいちトリエンナーレ」(以下「あいトリ」と略記します)の問題を取り上げる。 補助金交付(あるいは不交付)の是非については、前々回の当欄で比較的詳しく論じたので、今回は、別の話をする。 別の話というよりも、そのものズバリ、最も基本的なとっかかりである「表現の自由」ないしは「アート」そのものについて書くつもりでいる。というのも、「あいトリ」問題は、各方面のメディアが取り上げた最初の瞬間から、ずっと、「表現の自由」それ自体を考えるべき事案であったにもかかわらず、なぜなのか、その最も大切な論点であるはずの「表現の自由」の議論をスルーして、「公金を投入することの是非」や「日韓の間でくすぶる歴史認識の問題」や「皇室への敬意」といった、より揮発性の高い話題にシフトする展開を繰り返してきたからだ。 ここのところを、まず、正常化しなければならない。 今回、私がつい2週間前に扱ったばかりのこの話題を、あえてほじくり返す気持ちになったきかっけは、この10月からさる民放局で朝の情報番組のMCを担当することになった立川志らく氏による、以下のツイートだった。《グッとラック。表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ。 23:02 - 2019年10月8日》 このツイートを見て、私は、志らく師匠のおかあさまに思いを馳せずにいられなかった。彼女は、自分の子供に、言ってもかまわないことと言わずに済ませておいた方が良いことの区別を教えなかったのだろうか。 もっとも、私は、自分のタイムライン上で、直接志らく氏のツイートを見かけたわけではない。というのも、私は、彼にブロックされているからだ。つまり、彼のツイートは、私のタイムライン上には表示されないのだ。 私が、上に引用したツイートに興味を持ったのは、件のツイートに苦言を呈しているある人のツイートを見たからだ。 で、当該の志らく氏のツイートのURLをコピーした上で、ブラウザーのシークレットウインドー(←ユーザー情報を公開しない設定でオープンするウインドー)上にそれをペーストして中身を確認した次第だ。 どうしてこんなに面倒臭い手順を踏んでまで、わざわざ自分をブロックしている人間の投稿を確認したのかというと、今回の「あいトレ」のような事案については、朝のワイドショーで司会を担当している人間の見解がとりわけ大きな意味を持っているはずだと考えたからだ。 というのも、ワイドショーは、主に脊髄反射でものを考える人々ためのメディアで、そういう人々にとっては、コメンテーターによる素朴な断定や、番組終了間際に司会者が苦笑交じりに漏らす見解が大きな意味を持っているものだからだ。 そういう意味で、「あいトリ」の評価を左右するのは、諸般に通じたインテリの先生方の持って回った見解や、現代アートに当事者として携わるトンがった見解ではなくて、なによりもまずワイドショーのMCの口から漏れる素朴な感想なのだ。 ついでに申し上げればだが、「脊髄反射でものを考える人々」というのは、もう少し踏み込んで言えば、「ものを考えない人々」のことだ。ワイドショーは、だから、その「ものを考えない人たち」のために、考えるきっかけを提供するメディアであらねばならないはずなのだ。 今回の場合でいえば、ワイドショーが「あいトリ」ないしは「表現の不自由展」について、いくつかの考え方のサンプルや、視聴者各自が各々の思考を展開するためのヒントに当たる情報を提供できているのであれば、一応、その役割を果たしていると言える』、「最も大切な論点であるはずの「表現の自由」の議論をスルーして、「公金を投入することの是非」や「日韓の間でくすぶる歴史認識の問題」や「皇室への敬意」といった、より揮発性の高い話題にシフトする展開を繰り返してきた」、私も同感で、釈然としなかった。
・『しかし、司会者自らがこんなツイートをしているようでは、志らく氏の番組は、視聴者を啓発する情報を発信できていないのだろうと判断せざるを得ない。 私は、件のツイートを見て 「ここまでさかのぼったところから話を始めないといけないわけか?」  という感慨を得た。 もう少し平たい言い方をすれば、あまりの無知さ加減にあきれたということだ。 勉強を見てあげることにした親戚の中学生が 「1たす1って……4…ですよね? あれ、6だっけ?」 と言い出した瞬間の大伯父の気持ちに近い。 「ん? まさか、オレは一桁の足し算までさかのぼって算数の勉強を見ないといけないのか?」と、彼は絶望するはずだ。 言うまでもないことだが、「表現の自由」なる概念は、作品の出来不出来や善悪快不快を基準に与えられる権益ではない。その一つ手前の、「あらゆる表現」に対して、保障されている制限なしの「自由」のことだ。 念の為に申し添えれば「あらゆる表現」の「あらゆる」は「優れた作品であっても、劣った作品であっても」ということでもあれば「美しい作品であれ、美しくない作品であれ」ということでもある。つまり、表現の自由は、「人々に不快感を与える作品」にも「見る者をうっとりさせる作品」にも等しく与えられる。そう考えなければならない。また、「正しい」作品にも「正しくない作品」にも、当然平等に保障されてもいれば、「上手な表現」にも「下手くそな表現」に対しても、全く同じように認められている。 なぜこれほどまでに野放図な自由が必要なのかというと、ここの時点でのこの自由が絶対的に認められていることこそが、結果としての人間の表現が、自由に展開されるための絶対の大前提だからだ。 美しい表現以外が許されないのだとすると、美しい表現のみならず、すべての表現の前提が企図段階で死んでしまう。なんとなれば、結果として表現された作品が、美しいのかどうかは、しょせん結果であり、見る者の恣意にまかせた偶然に過ぎないのに対して、人間が何かを表現する意図と欲求と必然性は、美や善や倫理に先行する生命の必然だからだ。 なんだか難しいことを言ってしまった気がするのだが、要は、「美醜」や「善悪」や「巧拙」は、他人による事後的な(つまり「表現」が「作品」として結実した後にやってくる)評価に過ぎないということを私は言っている。これに対して、「表現の自由」は、作品ができあがる以前の、表現者のモチーフやアイデアならびに創作過程における試行錯誤を支配する、より重要な前提条件だ。 例えばの話、安打以外の結果を許されないバッターは、打席に立つことができるだろうか。 あるいは、当たる馬券しか買ってはいけないと言われている競馬ファンは、競馬を楽しむことができるだろうか。 うん。これはちょっと違う話だったかもしれない。 ともあれ、「こんな不快な表現に『表現の自由』が保障されて良いはずがないではないか」「日本人の心を傷つけるアートは『表現の自由』の枠組みから外れている」という、「あいトレ」問題が話題になって以来、様々な場所で異口同音に繰り返されてきたこれらの主張が、完全に的外れであることだけは、この場を借りて断言しておきたい。 表現の自由は、不快な表現や、倫理的に問題のある作品や、面倒臭い議論を巻き起こさずにおかない展示についてこそ、なお全面的に認められなければならない。 というのも、「多くの人々にとって不快な表現であるからこそ」その作品を制作、展示する自由は、公の権力によって守られなければならず、為政者はそれを制限してはならない、というのが、「表現の自由」というややわかりにくい概念のキモの部分だからだ。 実際、今回の「表現の不自由展」に向けて出品された作品の中には、一部の(あるいは大部分の)日本人の素朴な心情を傷つける部分を持った表現が含まれている。 しかし、もともと「アート」というのは、そういうものなのだ』、「「美醜」や「善悪」や「巧拙」は、他人による事後的な(つまり「表現」が「作品」として結実した後にやってくる)評価に過ぎないということを私は言っている。これに対して、「表現の自由」は、作品ができあがる以前の、表現者のモチーフやアイデアならびに創作過程における試行錯誤を支配する、より重要な前提条件だ」、「「多くの人々にとって不快な表現であるからこそ」その作品を制作、展示する自由は、公の権力によって守られなければならず、為政者はそれを制限してはならない、というのが、「表現の自由」というややわかりにくい概念のキモの部分だからだ」、混乱した概念をここまでスッキリ整理できるとは、さすが小田嶋氏だ。
・『そういうものというのは、つまり、観る者の心をざわつかせるものだということだ。 「へえ、アートって、人の心をざわつかせるものなのか。初めて聞く定義だな」と、嘲笑している読者が何人かいるはずだ。 私のような門外漢が、ここで「アート」なるものについて個人的な定義を振り回してみせたところでたいした意味はないし、またそんなことをするつもりもない。というよりも、こういう場所では、いっそ「アート」とは、そもそも「定義できないもの」だとでも定義しておくのが正しいはずだ。 ともあれ、アートは、必ずしも美しいものではない。 と、こんな調子で 「アートは必ずしも◯◯なものではない」という否定命題を200個ほど並べてみれば、おそらく、事態はよりはっきりとしてくるはずだが、だからといって、それでアートの定義が完了するわけではない。 これが商品なら話は簡単だ。 顧客に愛されない商品は市場から追放される。 美しくない商品は、思惑通りの売上高を達成することができない。 人々を不快な気持ちにする商品は店頭から排除される。 であるから、仮に「商品販売の自由」といったようなものがあったのだとして、そんなものは市場の要請と顧客の需要によって全否定されてしまうだけの話でもある。市場というのはそういうものだし、商品もまた実にシンプルな存在だ。 であるから、例えば商業美術品は、アートであることよりも商品であることの運命に従う。 評価されなければ売れないし、画商が扱いたがらなければ市場にさえ参入できない。 それはそれでかまわない。 しかしアートは違う。アートは商品ではない。 「あいトレ」に展示されているアート作品について、少なからぬ人たちが誤解しているのはこの点だ。 というよりも、商品を評価する以外の目でものを見ることができない人たちが多数派であることが、結局のところ、今回の騒動の正体だったということだ。 ともあれ、アートは商品ではない。 ここのあたりの区別は、ちょっと微妙ではあるのだが、私の個人的な解釈では、商品として制作されていないアートは、アートとしての役割を担っていると考えている。 アートは、アートであることによって、社会に貢献しているというふうに言い換えても良い。 どういうことなのかというと、つまり、個々の作品が個別に社会に貢献しているということではなくて、この世界に「アート」と呼ばれる分野の芸術作品があるというそのこと自体が、世界を相対化する意味で、社会に貢献しているということだ』、「アートは商品ではない」にも拘らず、「商品を評価する以外の目でものを見ることができない人たちが多数派であることが、結局のところ、今回の騒動の正体だったということだ」、切れ味の鋭い分析だ。
・『その意味で、アートに「効能」や「役割」を求める人たちが繰り返し持ち出す「個々のアートが、個々の作品として社会に貢献すべきだ」というのはまさに本末転倒の主張なのであって、時には社会に対して挑戦的であったり否定的であったりする内容を含むからこそ、アートは社会への批評的な位置を確保できているというふうに考えなければならない。 またしても、わかりにくい話をしている。 これは、美術館に通う習慣を持っている人ならある程度は共有している感覚だと思うのだが、あるタイプのアート作品は、私たちが世界に対峙する時の世界の見方に微妙な「揺らぎ」をもたらす。 どの作品が、誰のどんな感覚に響くのかは、作品に直面してみないとわからないし、実際に直面してその「揺らぎ」を実感してみたところで、その感覚を言葉に変換して他人に伝えることは、いま私自身がやろうとして失敗しているのをご覧になればわかる通り、ほとんど不可能に近い。 しかし、アートは、それに直面した人間の脳内に、様々な波紋をもたらす。そして、鑑賞する人間をあてどない思考の迷路にいざなうことによって、社会に貢献している。少なくとも私はそう思っている。 もっとも、ここで言っているアートが社会に貢献しているというお話は、理屈の上での設定に過ぎない。しかもその理屈自体、私がそう思っているというだけの話で、やや説得力には欠ける。その点は自覚している。 こんな話をしている私にしてからが、美術館に足を運ぶようになったのは、この10年ほどのことだ。 40歳になる手前まで、現代アートには、むしろ敵意を持っていたと言って良い。お恥ずかしい話だが、けっこうなおっさんの年ごろになるまで、私は、理解を絶したもののすべてを敵認定して攻撃しにかかる人間だったのである。 であるから、例えばオペラなどもごく自然に敵視していた。 人前であからさまに罵倒するようなことはしなかったものの、なにかの事情でオペラの映像を見なければならない機会に遭遇すると、自分が笑い出したり怒り出したりしないか心配で、終始困惑していたものだった。 それが、ある日、きっかけは忘れてしまったのだが、なにかの拍子で 「ああ、これは素晴らしいものだ」ということを電撃的に察知して、以来、金切り声にイラつくこともなくなった。不思議なことだ。であるから、この20年ほどは、オペラの中継を見ても、大げさな歌唱に笑いをこらえる必要を感じなくなった。むしろ楽しんでいる。たぶん、若かった頃の私は、あまりにもわからなくて混乱していただけだったのだろう。 アートに関しても同様だ。 知り合いが関わっている美術展や、義理で出かける作品展を訪れる経験を積み重ねるうちに、いつしか作品と対峙する間合いのようなものを身につけたのだと思っている。すべての美術館のあらゆる展示に感動するわけではないし、芸術だのアートだのの本質をつかんだとかとらえたとか、必ずしもそういう大仰な話ではない。 それでも、今回の「あいトリ」をめぐる顛末に心を痛める程度には、アートの味方でいるつもりだ』、「私にしてからが、美術館に足を運ぶようになったのは、この10年ほどのことだ。 40歳になる手前まで、現代アートには、むしろ敵意を持っていたと言って良い。お恥ずかしい話だが、けっこうなおっさんの年ごろになるまで、私は、理解を絶したもののすべてを敵認定して攻撃しにかかる人間だったのである」、小田嶋氏も若い頃はアートとは無縁だったことを知って、一安心した。
・『なにより悲しく思うのは、日本人の多数派が、本心ではアートに心を許していないことだ。 JNNが実施した世論調査によれば、「あいトリ」への文化庁による補助金の不交付の決断については「適切だった」とする回答が「不適切だった」を上回って46%に達したのだという。 なんと寂しい結論だろうか。 私は、この結果を見て、しばらくしょんぼりしてしまった。 とはいえ、世論調査をすれば、こういう結果が出ることは、あらかじめわかりきっていた話でもあるわけで、私としては、むしろアートに「世論」を対峙させる形の設問をあえて世論調査の中に含めてきた報道機関の意図のありかたに、底知れぬ気持ちの悪さを感じている。 商品市場は多数者による支配であってかまわない。 選挙もレギュレーション次第ではあるが、多数者が少数者を抑えるべきステージなのだろう。 しかし、アートは、そもそもが少数者のためのものだ。 美術館に日常的に通う日本人は、たぶん、総人口の5%にも届かないはずだ。 オペラも同様だ。 文楽や浄瑠璃や歌舞伎にしても地唄舞でも同じことだろう。 95%の日本人は、オペラがこの世界から消えてたところで何も感じないし、現代アートという分野がまるごと根こそぎ焼け跡になってもひとっかけらも悲しい思いを抱かないだろう。 でも、残りの5%の人間は、生きるための手がかりを失って途方に暮れることになるはずだ。 そして、ここが大切なところなのだが、誰であれ、自分が心から愛情を捧げている対象に関しては、世間の多数派から見て5%に当たる少数派に分類されてしまうものなのである。 表現の自由は、美しい表現や正しい主張を守るために案出された概念ではない。多数派に属する大丈夫な人たちの権益を守るための規定でもない。むしろ、美しくない作品に心惹かれる必ずしも正しくない異端の人々の生存にかかわるギリギリの居場所を確保するために設けられている避難所のようなものだ。 その避難所を、私たちは、自分たちの手で閉鎖しようとしている。 そしてあらゆるタイプの少数者の娯楽をすべてにおいて、95%に属する側の人間たちが焼き尽くした時、多様性を失った世界は、穴をあけられた混沌と同じく、突然死することだろう。 あまりに不吉な近未来なので、いっそ口に出して明言しておくことにしました。 予感が当たった時に、ちょっとだけうれしいかもしれないので』、「アートに「世論」を対峙させる形の設問をあえて世論調査の中に含めてきた報道機関の意図のありかたに、底知れぬ気持ちの悪さを感じている」、同感だ。「あらゆるタイプの少数者の娯楽をすべてにおいて、95%に属する側の人間たちが焼き尽くした時、多様性を失った世界は、穴をあけられた混沌と同じく、突然死することだろう」、「あまりに不吉な近未来なので、いっそ口に出して明言しておくことにしました。 予感が当たった時に、ちょっとだけうれしいかもしれないので」、よく出来たオチだ。「あいちトリエンナーレ2019」問題で、2回にわたるコラムは大いに考えさせられるものだった。
タグ:これまで、私は、積極的な発言を避けてきた。 理由は、この話題が典型的な炎上案件に見えたからだ 「チキンなハートが招き入れるもの」 日経ビジネスオンライン 画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている 「こんな不快な表現に『表現の自由』が保障されて良いはずがないではないか」「日本人の心を傷つけるアートは『表現の自由』の枠組みから外れている」という、「あいトレ」問題が話題になって以来、様々な場所で異口同音に繰り返されてきたこれらの主張が、完全に的外れである けっこうなおっさんの年ごろになるまで、私は、理解を絶したもののすべてを敵認定して攻撃しにかかる人間だったのである この先、どこの自治体であれ、あるいは私企業や財団法人であれ、多少とも「危ない」あるいは「議論を呼びそうな」作品の展示には踏み切れなくなる 「表現の自由」は、作品ができあがる以前の、表現者のモチーフやアイデアならびに創作過程における試行錯誤を支配する、より重要な前提条件だ 私にしてからが、美術館に足を運ぶようになったのは、この10年ほどのことだ。 40歳になる手前まで、現代アートには、むしろ敵意を持っていたと言って良い 「美醜」や「善悪」や「巧拙」は、他人による事後的な(つまり「表現」が「作品」として結実した後にやってくる)評価に過ぎない 表現の自由は、「人々に不快感を与える作品」にも「見る者をうっとりさせる作品」にも等しく与えられる。そう考えなければならない 小田嶋 隆 7800万円の補助金が支給されるはずだった「あいトリ」は、そのうちの400万円ほどの規模で開催されるはずだった「表現の不自由展」をめぐるトラブルのおかげで、すべての補助金を止められたという話になる グッとラック。表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ。 (その3)(小田嶋氏2題:チキンなハートが招き入れるもの、アートという「避難所」が消えた世界は) おメガネにかなわない企画や作品に対して、いつでも懲罰的な形で補助金の引き上げを言い渡すつもりでいる金主が巡回している世界で、誰が自由なキュレーションや作品制作を貫徹できるだろうか。 「個々のアートが、個々の作品として社会に貢献すべきだ」というのはまさに本末転倒の主張なのであって、時には社会に対して挑戦的であったり否定的であったりする内容を含むからこそ、アートは社会への批評的な位置を確保できているというふうに考えなければならない 作品を制作しているクリエーターにとっても、具体的かつ直接的な弾圧として機能する 文化庁が、補助金の交付を中止することは、展覧会や美術展を企画する自治体やキュレーターにとって、正しく死活問題だ 商品を評価する以外の目でものを見ることができない人たちが多数派であることが、結局のところ、今回の騒動の正体だったということだ 市長の妄言と補助金の支給中止は、まるで重みの違う話で、妄言が「虚」なら補助金は「実」だからだ 立川志らく氏 「多くの人々にとって不快な表現であるからこそ」その作品を制作、展示する自由は、公の権力によって守られなければならず、為政者はそれを制限してはならない、というのが、「表現の自由」というややわかりにくい概念のキモの部分だからだ 最も大切な論点であるはずの「表現の自由」の議論をスルーして、「公金を投入することの是非」や「日韓の間でくすぶる歴史認識の問題」や「皇室への敬意」といった、より揮発性の高い話題にシフトする展開を繰り返してきた 最悪の事態がはじまったことを告げる明らかなホイッスルだった どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない 「アートという「避難所」が消えた世界は」 河村名古屋市長 あまりに不吉な近未来なので、いっそ口に出して明言しておくことにしました。 予感が当たった時に、ちょっとだけうれしいかもしれないので 私自身も、実は、わかっていた。ただ、目をそらしていただけだ。深刻な事態が進行していることを、十分に感知していたからこそ、私は、何も言えなくなっていた。つまり、ビビっていた。そういうことだ。 ことここに至って、目が覚めた 文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金を不交付の方針 素朴な感想には素朴な感想ならではの価値があるはずだと私は考えている 「あいちトリエンナーレ2019」問題 あらゆるタイプの少数者の娯楽をすべてにおいて、95%に属する側の人間たちが焼き尽くした時、多様性を失った世界は、穴をあけられた混沌と同じく、突然死することだろう その避難所を、私たちは、自分たちの手で閉鎖しようとしている。 厄介なのは、ある人々が粗暴になればなるほど、別の人々が臆病になることで、それゆえ、表現の限界は、どうかすると平和な時代の半分にも届かない範囲に狭められる 表現の自由は、美しい表現や正しい主張を守るために案出された概念ではない。多数派に属する大丈夫な人たちの権益を守るための規定でもない。むしろ、美しくない作品に心惹かれる必ずしも正しくない異端の人々の生存にかかわるギリギリの居場所を確保するために設けられている避難所のようなものだ アートは、そもそもが少数者のためのものだ アートに「世論」を対峙させる形の設問をあえて世論調査の中に含めてきた報道機関の意図のありかたに、底知れぬ気持ちの悪さを感じている アートは商品ではない
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