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日本の構造問題(その14)(「沈黙は金」を押し付けるワンチームならいらない、小田嶋氏:五輪で「全員団結!」しなくてもいい) [社会]

日本の構造問題については、昨年12月13日に取上げた。今日は、(その14)(「沈黙は金」を押し付けるワンチームならいらない、小田嶋氏:五輪で「全員団結!」しなくてもいい)である。

先ずは、イラン生まれで、留学で来日、日本人女性と結婚し日本国籍取得して異文化コミュニケーションアドバイザーとして活躍する石野シャハラン氏が本年1月11日付けNewsweek日本版に掲載した「「沈黙は金」を押し付けるワンチームならいらない」を紹介しよう。
https://www.newsweekjapan.jp/tokyoeye/2020/01/post-8_1.php
・『日本人になる条件として、意見を言わないで風習や前例に従うことを突き付けられた苦い経験  しばらく時間がたったが、ラグビーワールドカップは、本当に大成功を収めた。令和に入ってからの最も明るいニュースの1つだ。海外から日本にやって来たラグビーファンとメディアが、世界に日本の大会運営の素晴らしさやホスピタリティーを大いに広めてくれた。まさに日本と世界をつないだ素晴らしい大会だった。 前回のコラムで、さまざまなダイバーシティと個人、㆒人一人を尊重したコミュニケーションの重要さについて書いた。個人の相互理解の次に大事なのは、組織や社会が「ワンチーム」になることだ。過度な個人主義で勝手な行動を際限なくされては、秩序や社会は保てない。 ただ、イランという海外にルーツを持つ日本人である私はこの「ワンチーム」というスローガンに、実は少し複雑な気持ちを持った。なぜなら、しゃべらないこと、意見を言わないで風習や前例に従うことが、日本人になるための条件としてたびたび突き付けられてきたからだ。「沈黙は金」を強要され、息苦しさにあえいできた経験はなかなか忘れられない。 郷に入っては郷に(黙って)従えの「ワンチーム」だとしたら、とても怖い。滅私奉公や和を尊ぶという価値観が行き過ぎると、自分の可能性や世界を狭め、新しい人や新しいやり方を拒んでしまうリスクがある。私はそれを心配している。今回のラグビー日本代表のように、さまざまなルーツを持つ人々が、互いに認め合い、互いに助け合うための自己犠牲の美しさを意味する「ワンチーム」なら大歓迎だが』、「しゃべらないこと、意見を言わないで風習や前例に従うことが、日本人になるための条件としてたびたび突き付けられてきた」、大いにありそうな話だ。「郷に入っては郷に(黙って)従えの「ワンチーム」だとしたら、とても怖い」、同感だ。
・『押し売りサービスはもう要らない  私は「元外人」だからという理由だけでなく、世界中のさまざまな国の人と交流して友人になることができる。これはビジネスシーンの営業においても重要なスキルだ。 日本企業で「沈黙は金」を乱用し言論統制をする人は、社外の営業スキルゼロでもなぜか給料が高い。そのような人が高い給料をもらっている日本では、解決型の営業マンを育てるのはとても難しい。達成不可能な目標を押し付け、成功事例を水平展開――と、クライアントが求めてもいないのに無駄に売り付けてくる駄目セールスマンを量産してしまう。もう日本にそんな押し売りサービスを買う余裕も体力もない。 営業拡大は、減点ではなく加点を採点基準にする体質改善をしなくてはならない。イランにも古くからの格言やことわざが多くあるが、「沈黙は金」と同じ意味のことわざはすぐに思いつかない。「自分ができること、与えられた能力を精いっぱい鍛えて、最大限活用しなさい」という逆の意味のことわざは存在するが』、「日本では、解決型の営業マンを育てるのはとても難しい。達成不可能な目標を押し付け、成功事例を水平展開――と、クライアントが求めてもいないのに無駄に売り付けてくる駄目セールスマンを量産してしまう。もう日本にそんな押し売りサービスを買う余裕も体力もない」、さすが「元外人」だけあって、日本流の営業が抱える問題点を鋭く指摘している。
・『外国人にとって、日本が、文化的にも経済的にもキャリア的にも人間関係的にも魅力的な国であり続ければ、より多くの優秀な外国人が集まってくる。高齢化・少子化に伴う人口減少が予想される日本を、経済的に今後も維持発展させようとすれば、より多くの外国人を呼び寄せる魅力が必要である。 そして、日本に集まってきた「人財」(私はあえてこの言葉を使っている)を、ワンチームにする必要がある。私は、ラグビー日本代表の外国人選手たちはその先駆けだと思っている。 日本のパスポートは、世界一精密で格好が良い。それなのに、持っている人は国民の4人に1人しかいないそうだ。 私は、いつも自分の日本のパスポートを見ると日本人であることが誇らしく思える。パスポートを手に取れば、あの素晴らしいラグビー日本代表を見たときのように、日の丸を背負って世界を相手に戦いたくなるはずだ。そのような自覚が広まって初めて、世界の「人財」が集まるワンチームの日本になれる』、「日本人であることが誇らしく思える」「元外人」の言葉だけに、貴重な提言だ。「今回のラグビー日本代表のように、さまざまなルーツを持つ人々が、互いに認め合い、互いに助け合うための自己犠牲の美しさを意味する「ワンチーム」なら大歓迎」、強く同意したい。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が1月17日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「五輪で「全員団結!」しなくてもいい」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00053/?P=1
・『「全員団結プロジェクト」をごぞんじだろうか。 私は、つい昨日、その存在をはじめて知った。わがことながら、自分の情報感度の鈍さに落胆している。 毎日新聞が伝えているところによれば、このプロジェクトは、2019年の8月にはすでに始まっている。それが、なぜなのか、20年になってから、突如として、SNS上で賛否の声が渦巻く展開になっているのだという。 私自身は、賛否をどうこう言う以前に、なにより、そのデザインのチープさに心を打たれた。 特にキャンペーン公式サイトの、「全員団結について」と題された説明のページがすごい。 このデカいポップ体の赤文字がひしめき合う画面を一瞥して、最初に思い浮かべたのは、あの懐かしい大学の「立看」(タテカン)だった。 念のために解説しておく。 立看とは「立て看板」の略称で、1960~80年代の大学構内には当たり前のように見られた左翼学生による手製のアジテーション看板を指す。ベニヤ板と角材で作られた木枠に模造紙を貼って、その上に、朱色や黒色のペンキで政治的なスローガン(「米帝打倒!」とか「中教審粉砕!」だとか)を大書したものが多かった。私の世代の、学生運動のピークから5年ほど乗り遅れた学生たちは、その立看の中国共産党風の簡体字を駆使した独特の右肩上がりの角張った書体を「左翼文字」と呼んで、なにかと冗談のタネにしたものだった。 もっとも 「西洋史の◯◯先生とかは、レポートの中で闘争の闘の字を斗で書くと成績がワンランクアップするらしいぞ」という定番の軽口は、まるっきりの都市伝説でもなかった。いや、確認を取ったわけではないのだが。 大学のキャンパスが左翼学生による立看で埋め尽くされていたあの時代は、街宣右翼の活動が活発だった時代でもあった。で、その街宣右翼の皆さんが町中の電柱やガードレールに貼り付けるアジビラの中で躍っていた文字は、書体や用語法こそ左翼文字とは一線を画していたものの、赤文字と体言止めとビックリマークを多用するそのテイストにおいては、立看の中の左翼文字と選ぶところのない代物だった』、私も「全員団結プロジェクト」の「全員団結について」(下記)を見たが、確かに小田嶋氏の言う通りだ。電通などは一体、何をしているのだろう。
https://danketsu.jp/about/
・『つまり、なんというのか、私は、「全員団結プロジェクト」のホームページから、「政治宣伝の匂いのする」「スローガンっぽい」「アジテーションくさい」「マニピュレーション臭」それ自体を感じ取ったわけで、それゆえ、内容以前に、その「演説口調の」「大量の唾液が飛んできそうな」「絶叫調の」文体に、時代錯誤の印象を抱かざるを得なかった次第なのだ。 「おいおい、何を大音声で呼ばわってるんだ?」と。 ぜひ決めつけないでほしいのだが、私は、 「50年ぶりに迎える国家的なイベントである夏季オリンピックを、国民全員で、心をひとつにして盛り上げようではありませんか」という、このプロジェクトの趣旨そのものを、正面から全否定しようとたくらんでいるのではない。 私は、主催者がイベントを盛り上げたいと願うのは当然のことだと考えている。そのために彼らが努力を傾けていることについても、ごく自然な態度だと思っている。 ただ、その努力の結果として完成したホームページが、どうしてこれほどまでに前時代的なデザインに着地したのかにいささか意表を突かれているわけで、それで、余計なお世話だとは思いながらも、JOCの中枢を占める人々の頭の中身を心配しているということだ。 あるいは、あの「全員団結」のデザインは、新しいとか古いとか、そういう物差しで評価すべき対象ではないのかもしれない。というのも、実のところ、あのデザイン(というよりも、事実上は「デザインの放棄」なのだが)は、21世紀の現時点に至ってなお、街頭やウェブ上のあらゆる場所に溢れかえっている王道の意匠でもあるからだ。 具体的には、価格なり商品名なりプロジェクト名なりを、目もあやな赤色太文字の安ピカPOP体で強調表記するそのデザイン思想は、スーパーの安売りチラシや家電量販店の店内ポップや霞が関の役人が内製するポンチ絵において、常に第一の選択肢になっている。とすれば、あれは古いとか新しいとかいうよりは、端的に「うるさい」と評価すべき物件なのであって、あの絶叫調の赤色極太ゴシック体はティッシュが5箱で247円だったりすることを強調するために利用されるべき書体だ、と、そういう話なのだろう。 サッカーやラグビーのW杯を思い出してもらえばわかる通り、この種の国際的なスポーツイベントは、期日が迫って競技が始まれば、いやでも盛り上がることになっている。なにも、お国や組織委員会がカネや太鼓で煽り立てなくても、夢中になって駆けずり回る人たちは必ずや大量発生する。 もちろん、競技やイベントに興味を示さない国民もいるはずだ。大会がもたらす喧騒や混雑に不快感を表明する人々も少数ながら現れるだろう。 とはいえ、総体としてみれば、国民の大多数は自国の選手を応援するはずだし、彼らは、そうやって大勢で自国開催のスポーツイベントを観戦することを心から楽しむに決まっているのだ。 それでいったい何が不満なのだろう。 このうえ、JOCはわれわれに何を望んでいるのだろうか』、さすが小田嶋らしい鋭い指摘だ。
・『以下、「全員団結」の説明のページに記されているボディーコピーを引用してみる。 《団結。それは人々が力を合わせ、強く結びつくこと。 みんなが待ち望んだ、東京2020オリンピック。 じっとしていても、何もはじまらない。 勇気を出して、オリンピックに参加しよう。 そうすればきっと、あなたの中で何かが変わる。 みんなで手を繋げばきっと、ものすごい力が生まれる。 心をひとつに、全員団結! さあ、いくぞ。がんばれ!ニッポン!》 この文章を読んで何を感じるのかは、それこそ人それぞれだ。 素直に共感する人もたくさんいるのだろう。 私は、体言止めの多用と、イクスクラメーションマーク(!)の連発に圧迫感を感じる。 もっと言えば、 「じっとしていても、何もはじまらない」という一行の説教くささには、辟易するし、 「勇気を出して、オリンピックに参加しよう」の部分に対しては、「どうして勇気が必要なのですか?」と、問い返したい気持ちを持つ。 「つまり、あなたたちは、われわれに、参加するのに勇気が必要であるような過酷なブラック労働ボランティアを期待しているのですか?」と。 「そうすればきっと、あなたの中の何かが変わる。」という部分には、当然のことながら 「うるせえ。余計なお世話だ」と反発しないわけにはいかない。 そして、最後の「心をひとつに、全員団結!」というアジテーションには、当然のことながら警戒感を抱くことになるし 「さあ、いくぞ。がんばれ!ニッポン!」という決め台詞には、恐ろしさをさえ感じる。だって、オレ、ニッポンの話なんかひとつもしていないのに、なぜなのかいつの間にやら大いなるニッポンの一部分として総決起しないといけないみたいな展開になってるわけだし。 類似のネタとして思い出すのは、1968年に制作された(日本での公開は翌1969年)ビートルズのアニメ映画『ビートルズ イエロー・サブマリン』だ。 私は、この映画を中学生の時に見た。色彩の素晴らしさと、音楽にただただ圧倒されたことを覚えている。 で、どうしてこれが「全員団結」なのかというと、この映画のエンディングで流された歌が「オール・トゥゲザー・ナウ」(←直訳すれば、「みんな一緒に」ぐらいですね)だったからだ』、「「さあ、いくぞ。がんばれ!ニッポン!」という決め台詞には、恐ろしさをさえ感じる。だって、オレ、ニッポンの話なんかひとつもしていないのに、なぜなのかいつの間にやら大いなるニッポンの一部分として総決起しないといけないみたいな展開になってるわけだし」、全く同感だ。
・『私は、当時、この歌を偏愛していた。 理由は、たぶん、この作品が、歌詞といい、歌いっぷりといい、ノイズとして収録されているスタッフの笑い声といい、どうにもユルいツクリだったからだと思う。 1968年から69年にかけてのビートルズは、世界の音楽をひっくり返す革命の中心にいる、神の如き存在だった。 その彼らがリリースする楽曲は、どれもこれも、パラノイアック(偏執的)なほどに異様な集中力で作られた緻密な工芸品ばかりだった。 だからこそ私は、スタジオ作業のお遊びの中で生まれた感じのする、即興的な、思いつきっぽい「オール・トゥゲザー・ナウ」に魅了されたのだと思う。 私は、昔から、大家だったり天才だったりする人たちが、片手間でこしらえた感じのやっつけ仕事に目がない。たとえば三島由紀夫で言えば「肉体の学校」だとか「絹と明察」あたりの軽めの読み物が好きだし、そのほか、ピカソによる牛のスケッチだとかにも強い愛着を感じる。 話をもとに戻す。 「オール・トゥゲザー・ナウ」は、テーマだけを取り出すなら「全員団結」を呼びかけた歌ではある。 とはいえ、そのテイストは、JOCによる「全員団結!」とは、まるで違う。 というのも、ビートルズの「オール・トゥゲザー・ナウ」は、そもそも「てんでんばらばら」で、「ごちゃごちゃ」で「サイケデリック」な、世界中のファンに向けて歌われた、即興の祝祭歌だからだ。 それゆえ、歌い出しもバラバラなら、エンディングも適当で、コーラスさえピタリと合っていない。 で、この歌は、映画『ビートルズ イエロー・サブマリン』のエンドロールが流れる中、全世界の何十という言語による"All together now"の翻訳字幕を代わる代わる表示しながら、日本語字幕での 「それでは皆さんご一緒に」という表示を最後に、あくまでも楽しげに、酔っぱらいっぽく、演奏・歌唱される。 ごらんの通り、「オール・トゥゲザー・ナウ」は、世界中に散らばる人間の多様さとその彼らの間にある不一致をまるごと受容したうえで、その混乱した世界の中の矢鱈滅鱈に素っ頓狂な人々(歌詞の中では、「数」や「文字」や「色」を順次列挙することで、世界の多様性を表現している)に向けて、 「一緒に歌おうよ」と呼びかけていたわけで、これは、どう見ても「挙国一致」だったり「一億総決起」だったりのスローガンとは似ても似つかない「斉一性」よりは「多様性」を志向した歌なのである』、「ビートルズ イエロー・サブマリン」との対比は、違いを際立たせて秀逸だ。
・『『ビートルズ イエロー・サブマリン』という映画を見ればわかる通り、あれは、愛と平和と音楽と黄色い潜水艦の力で、この腐り切った世界を救おうではありませんかという、あくまでもお気楽なお花畑のおとぎ話だ。 とすれば、その映画の中で歌われる「みんな一緒に」もまた、おとぎ話の中のお花畑で歌われる鼻歌以上のものではない。 引き比べて、JOCの言っている「全員団結!」は、そもそもが画一的、斉一的、集団主義的であると言われがちなわが国の国民に向けて発令されている中央からの号令である点で、「オール・トゥゲザー・ナウ」とは、真逆の運動原理に基づいたものだと申し上げてよい。 なにしろ、財務大臣兼副総理たる人間が、 「ひとつの民族ひとつの王朝が2000年続いている国はほかにない」と明言(あとで取り消したのだそうですが)している国の「全員団結」だ。 こんなスローガンが、脅迫的に響かない道理がどこにあるというのだろうか。 麻生太郎大臣やJOCの中の人たちは、うっかり忘れているのかもしれないが、そもそもオリンピックは、多様性の祭典だ。 世界中の200を超える地域と国から、何百もの民族が一堂に会するところに、その意義がある……と、私は、前回の東京オリンピックに先立つあれこれの宣伝の中で、その種のお説教をさんざん聞かされた世代の者なのだからして、この点は間違いない。オリンピックは、「ひとつになる」ことより「多様である」ことを寿ぐべく開催される祝典だ。少なくとも五輪憲章にはその意味のことが書かれている。 であるからして、こういう舞台で達成されるべき「オール・トゥゲザー」は、「互いの違いを認めつつ、ともあれひとつの場所を共有する」ということであって、 「全員がひとつの旗のもとに結集して、個々の自我を捨てて完全に一致する」ということではない。 麻生副総理は賛成してくれないかもしれないが、日本は、日本生まれ日本育ちの日本人が暮らしている国である一方で、日本の外の様々な国にルーツを持つ日本人が住んでいる国でもある。長らく海外で暮らした経験を持つ国民も少なくないし、異国からやってきたパートナーや混血の子供たちを家族に持つ日本人もたくさんいる。 そういう人々は、競技によっては、父や母の国の選手を応援するかもしれない。昨今の状況からすれば、海外在住時になじみのあった特定の選手を応援する人だってそんなに珍しくはないはずだ。 こういう時代に、JOCは、いったい、誰を指して「全員」と言い、何をもって「団結」と考えているのだろうか。 多様な外国人が集う国際競技大会で、多様な日本人がそれぞれ多様な価値観に基づいて多様な楽しみ方をすることのどこがいったい彼らにとって残念であるのか、そこのところが私にはどうしてもわからない。 私個人は、せっかくなので、勇気を出して、外国人と交流する機会を持てればよろしかろうと考えている』、「JOCの言っている「全員団結!」は、そもそもが画一的、斉一的、集団主義的であると言われがちなわが国の国民に向けて発令されている中央からの号令である点で、「オール・トゥゲザー・ナウ」とは、真逆の運動原理に基づいたものだ」、「オリンピックは、「ひとつになる」ことより「多様である」ことを寿ぐべく開催される祝典だ。少なくとも五輪憲章にはその意味のことが書かれている。 であるからして、こういう舞台で達成されるべき「オール・トゥゲザー」は、「互いの違いを認めつつ、ともあれひとつの場所を共有する」ということであって、 「全員がひとつの旗のもとに結集して、個々の自我を捨てて完全に一致する」ということではない」、その通りで、JOCや麻生副総理は猛省すべきだ。
タグ:日本の構造問題 (その14)(「沈黙は金」を押し付けるワンチームならいらない、小田嶋氏:五輪で「全員団結!」しなくてもいい) 石野シャハラン Newsweek日本版 「「沈黙は金」を押し付けるワンチームならいらない」 しゃべらないこと、意見を言わないで風習や前例に従うことが、日本人になるための条件としてたびたび突き付けられてきた 郷に入っては郷に(黙って)従えの「ワンチーム」だとしたら、とても怖い。滅私奉公や和を尊ぶという価値観が行き過ぎると、自分の可能性や世界を狭め、新しい人や新しいやり方を拒んでしまうリスクがある 今回のラグビー日本代表のように、さまざまなルーツを持つ人々が、互いに認め合い、互いに助け合うための自己犠牲の美しさを意味する「ワンチーム」なら大歓迎 押し売りサービスはもう要らない 達成不可能な目標を押し付け、成功事例を水平展開――と、クライアントが求めてもいないのに無駄に売り付けてくる駄目セールスマンを量産してしまう。もう日本にそんな押し売りサービスを買う余裕も体力もない 日本人であることが誇らしく思える 小田嶋 隆 日経ビジネスオンライン 「五輪で「全員団結!」しなくてもいい」 全員団結プロジェクト 全員団結について デザインのチープさに心を打たれた 立看の中の左翼文字と選ぶところのない代物 内容以前に、その「演説口調の」「大量の唾液が飛んできそうな」「絶叫調の」文体に、時代錯誤の印象を抱かざるを得なかった この種の国際的なスポーツイベントは、期日が迫って競技が始まれば、いやでも盛り上がることになっている。なにも、お国や組織委員会がカネや太鼓で煽り立てなくても、夢中になって駆けずり回る人たちは必ずや大量発生する 「さあ、いくぞ。がんばれ!ニッポン!」という決め台詞には、恐ろしさをさえ感じる。だって、オレ、ニッポンの話なんかひとつもしていないのに、なぜなのかいつの間にやら大いなるニッポンの一部分として総決起しないといけないみたいな展開になってる 『ビートルズ イエロー・サブマリン』 JOCの言っている「全員団結!」は、そもそもが画一的、斉一的、集団主義的であると言われがちなわが国の国民に向けて発令されている中央からの号令である点で、「オール・トゥゲザー・ナウ」とは、真逆の運動原理に基づいたものだ オリンピックは、「ひとつになる」ことより「多様である」ことを寿ぐべく開催される祝典だ。少なくとも五輪憲章にはその意味のことが書かれている こういう舞台で達成されるべき「オール・トゥゲザー」は、「互いの違いを認めつつ、ともあれひとつの場所を共有する」ということであって、 「全員がひとつの旗のもとに結集して、個々の自我を捨てて完全に一致する」ということではない
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