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メディア(その22)(黒川前検事長の賭け麻雀問題で浮き彫りにされる“事件報道の危うさ”、文春流「政界スキャンダル」の追っかけ方 首相官邸からの圧力も!、文春砲と新聞社 決定的な違いは「ニュース感覚」 業界内の「特ダネ」競争から抜け出せない新聞社の体質、小田嶋氏:死ぬこと以外かすりキス?) [メディア]

メディアについは、4月20日に取上げた。今日は、(その22)(黒川前検事長の賭け麻雀問題で浮き彫りにされる“事件報道の危うさ”、文春流「政界スキャンダル」の追っかけ方 首相官邸からの圧力も!、文春砲と新聞社 決定的な違いは「ニュース感覚」 業界内の「特ダネ」競争から抜け出せない新聞社の体質、小田嶋氏:死ぬこと以外かすりキス?)である。

先ずは、5月24日付けデイリー新潮が掲載したライター、エディターの高堀冬彦氏による「黒川前検事長の賭け麻雀問題で浮き彫りにされる“事件報道の危うさ”」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/05240600/?all=1&page=1
・『東京高検の黒川弘務検事長(63)が、産経新聞社会部次長と同記者、さらに元検察担当記者の朝日新聞経営企画室社員の3人と、緊急事態宣言下の2020年5月1日、同13日に賭け麻雀をしていた問題は、新聞の事件報道の危うさを浮き彫りにした。検察と新聞の間に緊張感がなくなると、被告にとって不利な報道ばかりになりかねない。両者がタッグを組んだら、白いものでも黒にできてしまう。 「事件が起こると、新聞は警察と検察の情報に基づいて記事を書きます。裁判を始めてみると、新聞に書いてあることと事実が違うことが少なくありません」(元東京高裁総括判事の木谷明弁護士) 欧米先進国の事件報道と日本の新聞のそれは基本的に違う。欧米先進国の事件報道は事実を追求しようとするが、日本の新聞の場合、基本的には検察や警察から得た情報をいち早く書くことが正しいとされている。検察と警察が間違っていたら、お終いであり、古くから冤罪の温床になっている。 「後にオウム真理教の犯行と分かった1994年の松本サリン事件の場合、当初は無実の人に疑いの目が向けられました。一市民がサリンなんて作れるはずがないのに、警察情報に基づき、マスコミが一斉にその人を犯人扱いしたためでした」(木谷明弁護士) 検察や警察から得た情報をいち早く書くことが正しいとされているため、記者たちは検察関係者に食い込もうとする。「検察の捜査は間違っている」などと書く記者はまずいない。 裁判官が厳正中立な立場で公正な判決を下してくれればいいのだが……。「新聞が犯人扱いし、日本中が有罪だと思い込むと、その被告に無罪を言い渡せなくなる裁判官も中にはいます」(木谷明弁護士) 逆に言うと、検察側は新聞を利用すれば、都合のいいストーリーを世に流布できる。 2010年、英フィナンシャル・タイムズは「日本の検察は、リークしてメディアを利用している」と批判した。米ニューヨーク・タイムズも同時期、「日本の検察とメディアはいわば相互依存性」と指弾した』、「英フィナンシャル・タイムズ」や「米ニューヨーク・タイムズ」が10年前から指摘していたことを、この記事で漸く思い出した。
・『それから10年。残念ながら海外有力2紙の報道の正当性が認められてしまった。朝日新聞の報道によると、黒川氏と産経2人、朝日1人の計4人は、この4年間に月2、3回程度の頻度で麻雀卓を囲み、集まった時に翌月の日程も決めていたという。 これほど親密に付き合い、頻繁に会いながら、仕事の話は一切していないと言うのは無理がある。産経という会社が黒川氏の帰宅のためにハイヤーを用意したのも仕事の一環と考えたからに違いない。万一、仕事抜きで黒川氏と記者が麻雀を繰り返し、ハイヤーを使っていたら、そのほうが問題だろう。また、記者側が黒川氏や検察の批判をしていたら、この関係は維持できないはずだ。 1997年の東電OL殺人事件の場合、新聞は被告となったネパール人男性が「黒」だと印象付けるような記事を書き連ねた。 男性の初公判の記事を振り返る(朝日新聞1997年10月14日付夕刊)。「東京都渋谷区のアパートで今年3月、東京電力の女性社員(当時39)を殺して所持金を奪ったとして、強盗殺人の罪に問われたネパール国籍の■■被告(30、記事では実名)に対する初公判が14日、東京地裁(大渕敏和裁判長)で開かれた。罪状認否で■■被告は、『私はいかなる女性も殺していないし、お金も取っていない』と起訴事実を否認し、無罪を主張した。 検察側は冒頭陳述で、■■被告が事件当日、昨年12月に知り合った被害者の女性と偶然に出会い、現場のアパートで性的関係をもった後に現金を奪おうとして抵抗され、殺害に至ったと述べた。さらに、事件当時は、被告が一つしかない現場の部屋のかぎを持っていたが、同居人らにかぎを持っていないように口裏合わせをさせて証拠隠滅したことを明らかにした」。 注目の事件だったにもかかわらず、逮捕から初公判まで、朝日の記者が自分で事件を検証した下りは見当たらない。記事の大半を、検察と警察の情報に基づいて書いているように見える。 当時は東京高裁判事だった木谷弁護士はこう振り返る。「勤務先から犯行現場まで行くのは時間的に難しかった。ぎりぎりでした。その上、ネパール人男性の定期券が、彼の土地勘のない巣鴨で発見されていましたが、その理由が最後まで解明できませんでした」(木谷弁護士) 不自然な逮捕・起訴だったのだ。記者が自分で検証していたら、記事は違った内容になったのではないか。 結局、この裁判は一審無罪に。控訴審は木谷弁護士とは違う裁判官によって有罪(無期懲役)、最高裁は上告を棄却した。一審無罪後に東京地裁(大渕敏和裁判長)と東京高裁(木谷明裁判長)は男性を引き続き拘置することを認めなかったものの、東京高裁の別の判事(高木俊夫裁判長)が職権で拘置することを決めてしまい、法曹界で物議を醸した。 だが、のちに遺体から検出された体液と男性のDNAを比較したところ、不一致という結果が出る。横浜刑務所に収監されていた男性の再審請求を東京高裁が認め、再審開始が決定。2012年、男性は無罪が確定した。 再審無罪確定後、朝日新聞はこう書いている。「捜査段階から弁護を務めた神山啓史弁護士は会見で力を込めた。『捜査機関には犯人との思い込みがあった。まだ意識は変わっておらず、今後も冤罪が起きる危険性はある』」(2012年10月30日朝刊) その思い込みを、夜討ち朝駆けや麻雀の場で得て、記事化しているのが新聞なのではないか? 「新聞は、容疑者や被告を真っ黒のように書きますが、無罪になると一転、『警察や検察は何をしている』と書き立てます。変わり身が早い」(木谷弁護士) 新聞や通信社と共に記者クラブに入っているテレビも体質はほぼ一緒だが、過去には日本テレビが警察と検察の捜査を根底から覆す、超弩級のスクープを放っている。 「足利事件」(1990年)で無期懲役が確定し、服役していた男性の、DNA鑑定の問題点を繰り返し指摘し、再審の原動力になった(2010年無罪確定)。これは欧米先進国型の報道のお手本だった。検察と警察に頼っていたら、できない』、「欧米先進国型の報道」が「足利事件」での「日本テレビ」だけ(有名な事件では)とは情けない。この他に、民主党幹事長だった小沢一郎氏と秘書に対し、政治資金規正法の虚偽記載罪で捜査、この間特捜部から垂れ流されるリーク記事で有罪がほのめかされたが、起訴され有罪になったのは秘書のみで、小沢氏は嫌疑不十分で不起訴処分となったが、政治的影響力を大きく失った事件は有名である。
・『記者クラブを見直すべき  では、まず何をあらためるべきかというと、社会部記者の中ではエリートとされる、司法記者のクラブ制度ではないか。 「司法記者クラブでは、検察にとって都合の悪いことを書いた記者には、情報が取れない仕組みになっていると聞きました。司法記者クラブという制度はなくせないものでしょうか」(木谷弁護士) どの記者クラブも相似形であるものの、クラブという仕組みはまず取材対象にとって好都合。加盟する新聞・通信・テレビの報道をある程度、操れるので、世論が作りやすいからだ。 逆らう記者がいたら、特落ち(その社にだけ情報を流さない)などの手で痛めつけられる。それを笑顔で許すデスクはまずいない。繰り返す記者は、ほぼ間違いなく異動を余儀なくされる。結果、取材対象は目障りな記者を難なく排除できるわけだ。 記者側にとってもクラブは便利。雑誌などクラブに加盟しないメディアは取材対象から資料をもらうのすら一苦労だが、クラブに加盟していれば資料の手配はもちろん、取材のコーディネートまでしてもらえる。省庁内などに快適なクラブ室も用意してくれる。賃料が発生するものの、ほんの形ばかりだ。前述のニューヨーク・タイムズの記事のとおり、「相互依存性」ではあるまいか。 2017年、ジャーナリストの伊藤詩織氏(31)にレイプ被害を与えたとして、ジャーナリスト・TBS出身の山口敬之氏(54)に準強姦容疑の逮捕状が出ながら、当時の警視庁刑事部長・中村格氏=現警察庁次長=が執行取り消しを指示していた問題が発覚した際、当初はどの新聞も報じなかった。やはり検察と警察の嫌がる記事は書きにくいのか? 伊藤氏の件は海外メディアのほうが早く反応した。 安倍晋三首相(65)を始め、政治家ベッタリの記者もいるのは御存じのとおり。厚労省など各省庁と昵懇で、まるで応援団のような存在の記者もいる。 新型コロナ禍に見舞われ、日本のさまざまなウイークポイントが浮き彫りになっている。これを奇貨とし、海外に類を見ない記者クラブ制度も見直すべきではないか?』、「政治家ベッタリの記者もいる」、「まるで応援団のような存在の記者もいる」、これでは権力の監視など本来の役割放棄も甚だしい。

次に、5月27日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した元週刊文春・月刊文芸春秋編集長で岐阜女子大学副学長の木俣正剛氏による「文春流「政界スキャンダル」の追っかけ方、首相官邸からの圧力も!」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/238420
・『文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。週刊誌の真骨頂ともいえる政治家スキャンダルを追う記者やカメラマンの、スパイ映画さながらの取材手法を紹介する』、興味深そうだ。
・『文春記者の張り込みのイロハとは?  文春記者はターゲットを徹底的にマークします。 週刊誌の本来の役目の1つは政治家の醜聞です。芸能人のスキャンダルと同等に見る人もいるでしょうが、本来、政治家は「自ら手を挙げて立候補した者」であり、「最大限にプライバシーも明かす」のが納税者である我々への義務ですから、これこそ、週刊誌の本来の仕事だと思います。 芸能人はともかくとして、政治家の場合、相当に防御も堅く、追及には手間がかかります。過去に、週刊文春で愛人問題を追及した自民党元幹事長をどうやって突き止めたか、その詳細を明らかにしましょう。 元幹事長が昔、文春に書かれた地元の愛人(愛人を議員宿舎に連れ込んでいたと報道された)を東京に連れてきたという情報を得たのが、取材の最初のきっかけです。 不思議な電話が私宛てにかかってきました。 「昔、元幹事長の愛人問題を文春で書いたでしょう。また復活しているんです。その証拠に議員宿舎の表札の側にある蛍光灯の電気を必ず消しています。前回、女性を連れ込んだときに写真を撮られて、写真に宿舎の表札が映り込み、『名前がはっきりわかったのには参った』と言っているんです」 こんな具体性のある証言はまずありません。すぐにチームを作ります。こういう場合、まず2人で組んで張り込みを行います。 議員が東京の生活拠点にしている議員宿舎の出口近くを車で張り込むのですが、刑事ドラマのように簡単には尾行できません。 張り込んでいると、議員の妙な行動がわかります。夜中に議員宿舎の駐車場を徒歩でぐるぐる回りだすのです。多分、尾行を警戒しているのでしょう。何度も回って周囲を確かめると、裏口から出ていきます。この段階で、最初の張り込みは終わりです。 次回は、裏口から出てくる道に人を2人か3人用意します。 同じ人間が尾行するとわかるので、数百メートルで交代し、またその先数百メートルで別の人間に。これを繰り返して、議員宿舎近くのマンションに議員が入るのを確認しました。 議員宿舎の駐車場を徒歩で歩き回るのも奇妙な行動ですが、編集部員とすれ違ったとき、封筒で顔を隠したのも不自然です。有名政治家は、基本的に顔を見せたがるものですから』、「政治家」には政敵も多いので、こうしたタレコミもあるのだろう。
・『尾行、撮影のリアル 窮地のカメラマンは叫んだ!  さて、マンションは確認しました。しかし、住人の誰が愛人なのかを突き止める必要があります。 このマンションの中に、元幹事長の地元の有名料亭が所有する部屋がありました。どうもそこに出入りしているようなのですが、名前は確認できません。ならばと、朝、出てくるところを調べます。 朝、出てきた彼女は、モノレールに乗って羽田空港に向かい、地元に帰りました。実は、モノレールにも、飛行機にも文春の記者が複数乗っていました。彼女は、国内線のプレミアクラスに座って帰宅したのですが、実は2人がけの席の隣は文春記者。うしろにも文春記者が2人…。たまたま、その席しか空いていなかったということが理由ですが、フランス文学を静かに読む女性であるといった情報は入手できます。 もちろん、私たちは、そこでインタビューなどしません。一体彼女はどこの誰なのか、確認するため、飛行機を降りた後も追いかけるだけです。 こんな作業を経て、女性の身元が確認できました。もちろん、元幹事長の身内というわけではありません。 次は撮影です。しかし、2人の居場所が特定できたとしても、そう簡単には撮影はできないのです。名誉棄損裁判では、たとえば、マンションの敷地内で撮影したことがわかれば不法侵入した場所で撮影したとして、「文春は不法行為をして撮影した」と認定され、判決が先方に有利になることがあります。 かといって、公道で待ち伏せしての撮影は、相手に察知される可能性があります。 朝、何時頃に出てくるか、何度も行動パターンを確認してから、その時間にカメラマンが出動します。マンションの敷地近くになると、案の定、守衛さんが出てきて、「敷地内に入らないでください」。 カメラマンはそのとき、叫びました。 「私は昆虫カメラマンです。今、とても貴重な蝶々が飛んでいます。だから静かに!」』、機転が利いた「カメラマン」で、さすが文春だけある。
・『掲載するか否かの決定打は「証言」にあり  ひるむ守衛さんを差し置いて、カップルを連写撮影して一気に逃げる。いわゆる「証拠写真」は大変な努力が必要なのです。 撮影してから、政治家からの圧力はあるのか。実はドラマのように、記者には政治家からの圧力がかかります。料亭に招かれて、何とか穏便にという政治家に、お茶1杯も飲まずに帰ってきたケースもあれば、ホテルで仲介者を名乗る人物と話し合うことにしていたら、部屋にコワイ顔のヤクザさんが顔を出したこともありました。首相官邸から、何とかならないのか、という電話があったこともあります。 正直、そういう圧力は現場の記者を怒らせるだけですから無意味です。 しかし、取材する側も悩むことがあります。政治家が公費を使って愛人を囲うのは、正しいこととはいえません。ましてや、それが不倫であれば問題です。ただし、愛人関係とは、実は証明が難しいことなのです。たとえ、男女がベッドに入っていた写真があったからといって、2人が否定している限り、完全なる証拠とはいえません。 総理に一番近い男と言われた人気政治家とニュースキャスターの不倫を記事にしたことがありました。何度も密会の写真は撮影しています。2人がホテルに入って出てきた写真も撮りました。それでも、本人たちは「打ち合わせをしていた」と言い訳する可能性は大です。 結局、記事にするか否か。本当に確証を持てるのは、証言になります。この場合も、ニュースソースに確認することになりました(Qは聞き手の質問、Qは「ニュースソース」の回答)。 Q:密会写真は撮影したが、本当に男女関係にあるとあなたは確信しているのか? A:「出発する前にかばんの中を見ると避妊具が入っていましたが、帰った後はありませんでした」(リアルすぎる表現でした) Q:あなたが、そこまでのリスクを冒して証言するのはなぜですか? A:「私は彼が総理になるべき人物だと思っています。この程度のスキャンダルでつぶれるなら、その程度の男。しかし、この女性は切らないと総理になったときに困ります」 ここまでの証言だからこそ、記事にできました。 冒頭の元幹事長、尾行の詳細を書いた政治家についてはその後、情報提供者は別の愛人女性と元幹事長が裸でベッドに横たわっているナマナマしい写真を提供したいと言い出しました。ホンモノかどうかを確かめるため、撮影したホテルの同じ部屋を予約し、同じ角度で撮影して、同様の画像になるかを確かめました。 権力と対峙するにはそこまで必要なのです』、「「私は彼が総理になるべき人物だと思っています。この程度のスキャンダルでつぶれるなら、その程度の男。しかし、この女性は切らないと総理になったときに困ります」、と答えた「ニュースソース」もなかなかの政治家のようだ。やはり「文春砲」を飛ばすには、並外れた取材努力が必要なようだ。

第三に、6月4日付けJBPressが新潮社フォーサイト記事を転載した毎日新聞社の外信部・政治部記者出身で立命館大学国際関係学部教授の白戸圭一氏による「文春砲と新聞社、決定的な違いは「ニュース感覚」 業界内の「特ダネ」競争から抜け出せない新聞社の体質」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60744
・『検察官の定年延長問題の渦中にいた黒川弘務・東京高検検事長(5月22日付で辞職)の「賭け麻雀」報道は、新型コロナウイルスで自粛生活を強いられている国民の間に猛烈な反発を巻き起こした。同時に多くの人が、麻雀のメンツが『産経新聞』と『朝日新聞』のベテラン社員(1人は編集部門を離れて管理職)だった事実に呆れ、大手新聞社と権力の「癒着」を改めて見せつけられた気分になっただろう。 筆者は、今回の一件によって、日本の新聞社が長年、正面から向き合ってこなかった問題が改めて浮き彫りになったように感じている。 それは「ニュースとは何か」という、ジャーナリズムの根幹に関わる問題である』、白戸氏は外信畑なので、客観的に書き易いのだろう。
・『「取材」か「暇つぶし」とは思っていたが  今回の問題をスクープしたのは『週刊文春』である。同誌編集部は、多くの国民が営業自粛や失業によって経済的に困窮している最中に、政権中枢に近い検察ナンバー2が「3密」状態で違法性のある賭け事に興じている事実を掴み、「これはニュースだ」と判断したから記事化したのだろう。 その反対に、新聞記者たちは「黒川氏が賭け麻雀に興じている」という事実を知っていたどころか、自らも一緒に雀卓を囲み、同氏が帰宅するためのハイヤーも用意していたと報じられている。 つまり、彼らはこの状況で黒川氏と雀卓を囲む行為を「取材」か「暇つぶし」のどちらかだとは自覚していただろうが、「ニュース」になってしまう行為とは想像もしなかったのだろう。 だから「私は今日、渦中の検察ナンバー2と3密状態で雀卓を囲み、ハイヤーも提供した」などという新聞記事が彼ら自身の手で書かれることはなく、代わりに週刊誌が書いたのである。 要するに、今回の問題では、「文春砲」と言われるスクープ連発の週刊誌のニュース感覚と、大手新聞社のニュース感覚の決定的な違いが見えた。そして、国民の多くは週刊文春とニュース感覚を共有していたから賭け麻雀に怒った。 反対に、大新聞の社会部畑の記者のニュース感覚は、多数の国民のニュース感覚とは合致していなかった、ということである』、「スクープ連発の週刊誌のニュース感覚と、大手新聞社のニュース感覚の決定的な違い」、とは面白い切り口だ。
・『捜査当局者に食い込むこと自体は重要  では一体、この新聞記者たちにとっての「ニュース」とは何だったのだろうか。 彼らが黒川氏と雀卓を囲んだのは、検察の最高幹部と人間関係を築けば事件に関する「特ダネ」を教えてもらえる可能性が高いからかもしれない。 あるいは、今回問題となった麻雀は単なる遊びだったとしても、かつての取材を通じて既に個人的な人間関係が構築されており、ともに遊ぶことを通じて関係を維持していけば、いつか後輩の検察担当記者たちが「特ダネ」を取るのに役立つと考えていたのかもしれない。 または、自社を除く全社に捜査情報を一斉にリーク(非公式な情報漏洩)される「特オチ」を防ぐための保険だったのかもしれない。 そのいずれにしても、捜査当局者との密接な関係を重視していたことは間違いないだろう。 こうした心理状態で働く新聞記者たちを嗤い、批判するのは容易い。取材という行為の難しさや複雑さを経験したことのない人の中には、しばしば記者が捜査当局者と接触すること自体を「日本メディア特有の問題」のように非難する人がいる。 だが、捜査当局者に食い込むこと自体は重要な取材手法であり、報道の自由がある国ならば世界中どこでも行われている。検察や警察など捜査機関の不正や冤罪を暴く際であっても、内部の協力者は必要だ』、「新聞記者」ならではの深い見方だ。
・『要求される「特ダネ」とはなんなのか  筆者も若い頃の数年間、九州の2つの県で警察取材(サツマワリ)を担当していた。 何かの事件について県警本部に取材に出向いても、「捜査中」のひと言で追い返されてしまう。夜間や休日に警察官の自宅をひそかに訪れ、個人的な関係を築かなければ、「特ダネ」は入ってこない。 だから盆も正月も返上し、深夜0時、1時まで住宅街で「ネタ元」の警察官の帰宅を待っていた。麻雀は嫌いなのでやらなかったが、親しくなった警察官とは時々酒を飲み、一緒に日帰り温泉に行ったり、パチンコに行ったりしたことも少なくなかった。 しかし当時、警察組織に食い込むことに血道を上げながら、どうしても拭えない1つの疑問があった。自分が日常的に上司から要求されている「特ダネ」とは、本当に「特ダネ」と言えるのか、という疑問である。 日本の新聞社内で記者に要求されてきた事件に関する「特ダネ」の典型は、「検察、○○の事件で今日、容疑者を逮捕へ」「逮捕された容疑者が××と供述していることが分かった」といった、捜査情報の先行報道である。 逮捕の事実はいずれ正式発表される事柄であり、容疑者の供述内容は公判が始まれば明らかになることである。 だが、そうした捜査の動きを少しでも早く察知することに、日本の新聞社は想像を絶するほどの膨大なエネルギーを注いできた』、「「特ダネ」の典型は」、「捜査情報の先行報道である」、読者が求めているというより、新聞社の自己満足のようだ。
・『人事がからむから捜査情報を重視せざるを得ない  20年以上昔の私が地方の警察官を相手にやっていた「取材」も、黒川氏と麻雀に興じた東京社会部のエリート司法記者がやっている「取材」も、こうした捜査情報の先行報道を「特ダネ」として追求している点は同じだ。 そして、それは「捜査当局が独占している情報(逮捕の事実、供述内容など)こそがニュースである」という感覚に無意識のうちに支えられている。 こうした捜査情報至上主義とも言えるニュース感覚に疑問を感じる記者も新聞社内には多く存在するが、なかなか組織の主流にはならない。捜査情報を重視するニュース感覚は新聞社内の人事システムと固く結びついており、社内出世コースを歩んだ人々の間で概ね継承されてきたからである。捜査情報至上主義に批判的な幹部もいたが、大勢ではない。 「警視庁か東京地検特捜部の取材キャップの経験者しか東京の社会部長になれない」「大阪府警キャップを務めた記者でなければ、大きな事件の取材を指揮できないので、大阪の社会部長にはなれない」といった、ある種の不文律は根強く残っている。 このような組織文化の下では、現場の記者は「希望のポストで働きたいなら、捜査当局に食い込み、特ダネを取ってこい。それができたらお前の希望を聞いてやる」という強い心理的圧力を受けながら働くことになる。 その逆に、世間の注目を浴びている事件で「○○今日逮捕へ」を同業他社にすっぱ抜かれ続けた記者は、しばしば閑職に左遷されたり、社内の希望部署への配属が叶わないといった事実上のペナルティーを受けたりすることがある。 記者にしてみれば、人事を人質に取られた形なので、捜査情報を崇め奉るニュース感覚に疑問を感じながらも、捜査情報の先行報道に邁進することになる。 だから日本では、捜査が冤罪の方向に進んだ場合、新聞社は冤罪に苦しむ人の味方ではなく、捜査当局発のリークを拡散し、冤罪を助長する役割をしばしば果たしてしまうのである』、「捜査情報を重視するニュース感覚は新聞社内の人事システムと固く結びついており、社内出世コースを歩んだ人々の間で概ね継承されてきたからである。捜査情報至上主義に批判的な幹部もいたが、大勢ではない」、「日本では、捜査が冤罪の方向に進んだ場合、新聞社は冤罪に苦しむ人の味方ではなく、捜査当局発のリークを拡散し、冤罪を助長する役割をしばしば果たしてしまう」、よく理解できた。
・『「権力の道具になる危険がある」  ジャーナリズム先進国の米国で2001年に出版された『The Elements of Journalism』(邦題『ジャーナリズムの原則』日本経済評論社)は、「ジャーナリズムとは何か」を考える書籍として国際的に高い評価を得ている。 同書の中で、著者のビル・コヴァッチとトム・ローゼンスティールは、調査報道には3つのタイプがあると指摘している。 第1は「本来の形の調査報道」。これは、記者がそれまで市民には知られていなかった新事実を暴露する報道である。今回の賭け麻雀を報じた『週刊文春』の報道は、一般の国民が知らない新事実を独自に調べて暴露したものであり、あえて分類すれば、このタイプに属すると言えるかもしれない。 第2は「解釈型の調査報道」。これは、特定の問題や概念を注意深く分析することによって、その問題についての市民の理解を深めたり、新しいものの見方を提示したりする報道である。例えば、新型コロナの感染拡大という事実を知らない市民はいない。だが、「日本の対策の強みと弱み」という問題を考えるには、世界各国の事例を集め、虚実を鑑別し、事実を分析し、多数の専門家に取材して分析結果を再構成する、膨大な作業が必要だ。1人の市民がこれを完遂するのは困難だが、時間と資金とノウハウのある新聞社であれば、その気になればできるではないか──ということである。 そして第3に、同書が皮肉を込めて挙げているのが「調査報道」ではなく「調査に関する報道」という報道スタイルである。これは、公的機関が既に進めている捜査・調査の内容をリークに基づいて報道することを指す。捜査当局の動向把握を最優先する日本の事件報道は、まさにこれだ。 「報道機関は権力に対する監視役ではなく、その道具になる危険がある」という同書の指摘はその通りというほかない。 サツマワリ記者だった若いころ、上司や先輩に向かって「こんな業界内競争ばかりでいいんですか」と疑問を口にし、散々叱られたことがある。彼らの大半はその後、部長か局長か役員になった。 あれからおよそ20年。「変わらないんだなあ」というのが賭け麻雀スキャンダルに接した筆者の率直な感想である』、「「調査に関する報道」という報道スタイル・・・捜査当局の動向把握を最優先する日本の事件報道は、まさにこれだ。 「報道機関は権力に対する監視役ではなく、その道具になる危険がある」という同書の指摘はその通りというほかない」、同感だ。さすが外信畑の記者らしいクールな記事で、先の分類では、「第2は「解釈型の調査報道」」に属するようだ。

第四に、5月22日付け日経ビジネスオンラインが掲載したコラムニストの小田嶋 隆氏による「死ぬこと以外かすりキス?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00071/
・『なんと、黒川弘務東京高検検事長が辞意を表明した。 2020年に入ってからというもの、毎日のようにびっくりすることばかりが続いていて、何かに驚く感受性自体が、たとえば去年の今頃に比べて、50%ほど鈍化した気がしているのだが、それでも今回のこのニュースには仰天した。 黒川氏は、5月21日発売の「週刊文春」誌がスクープしている新聞記者との賭け麻雀の事実関係を認めて、辞意を漏らしたもののようだ。 してみると、3日前(18日)に政府が検察庁法の改正案の今国会での可決成立を断念した理由も、安倍総理が説明していた「国民の皆様のご理解なくして前に進めて行くことはできない」という筋立ての話ではなかったことになる。 「ネット世論が政治を動かした」というわたくしども野良ネット民の受け止め方も、こうなってみると、ぬか喜びというのか、勘違いだった可能性が高い。 政府が法改正を断念した理由は、あらためて考えるに、黒川氏失脚の可能性が18日の段階で政権中枢に伝わっていた(週刊文春の記者が黒川氏に直接取材を持ちかけたのが17日だったと伝えられている)からなのだろう。そう考えた方がのみこみやすい。つまり、政府には、法改正を強行せねばならない理由がなくなったわけだ。というのも、総理周辺が検察庁法の改正を急いだのは、閣議決定で半ば脱法的に留任していた状態の黒川氏の定年延長を事後的に正当化(あるいは「合法化」)することと、もうひとつは黒川氏を検事総長に就任させるための道筋を作ることが彼らの急務だったからだ。 法改正の理由(あるいは「ターゲット」)であった黒川氏その人が、職にとどまることのかなわぬ人間になってしまった以上、法案は、根底から無効化することになる。目的の人間を目的のポストに導くことができない法律は、すなわち法案を起草した人間たちにとって、ものの役に立たない空文だからだ。 なんと。 これは、おそらく関係者の誰もがまるで予測していなかった結末だ。 少なくとも私は、ひとっかけらも想像すらしていなかった。 後知恵で個人的な空想を開陳すればだが、もしかしたら、当の黒川氏だけは、自分の近未来を半ば予知していたのかもしれない。 つまり、今回のストーリーが進行している中で 「オレがこの一蓮托生のがんじがらめのレールから脱線するためには、それこそ懲戒免職相当の何かをやらかすほかに方法がないのかもしれないな」と、どこかの時点で、黒川氏は、自分の行く末を自らの意思において選択する唯一の方法として、危険牌を切りに行ったのかもしれないということだ。 ……というこのお話は、もちろん私が面白がって考えているアナザーストーリーにすぎない。この筋立てで考えると、黒川氏の役柄に人間的な苦悩が付け加えられる分だけドラマとしての深みが増す気がする……ということで、こんな与太話に信憑性があると考えているわけではない。 真相は、依然として、まるでわからない。 独自取材の事実をつかんでいるわけでもない私が、これ以上、報道済みの記事をネタに空想を書き並べたところでさしたる意味はない。 なので、この件についてはこれ以上書かない。事実関係が明らかになって、事件の背景がよりはっきりしてから、あらためて触れる機会があるかもしれないが、どっちにしても、それまではおあずけだ。 ここから先は、話題を変えて、私が個人的に注目している案件について、個人的に考えている内容を書き起こすことにする。 これも黒川氏の案件と同じく「文春砲」が明らかにしたスキャンダルだ。 前にもちょっと書いた気がしているのだが、私は、この「文春砲」という言い方に、ずっと反発を感じている。いち雑誌の編集部が自ら名乗る名称として、いくらなんでも生意気だと思うからだ。僭称というのか、夜郎自大に見える。 しかし、この何年かのなりゆきを見て、私は、彼らが「文春砲」を名乗ることは、もはや誰にも阻止できないことを悟るに至った。 私の負けだ。あなたたちは、「文春砲」なる調子ぶっこいた名前を名乗るに足る仕事をしている。 実際、週刊文春の編集部は、この国の政治経済社会芸術ノンセクションのあらゆる分野において、めざましい実績を積み重ね続けている。日本の事件報道のおよそ半分は週刊文春一誌が動かしていると言っても過言ではないかもしれない。おかげで、20世紀の報道をリードしていた新聞各紙ならびにテレビ各局は、文春砲のおこぼれで拾い食いをしているていたらくだ』、「黒川氏だけは・・・今回のストーリーが進行している中で 「オレがこの一蓮托生のがんじがらめのレールから脱線するためには、それこそ懲戒免職相当の何かをやらかすほかに方法がないのかもしれないな」と、どこかの時点で、黒川氏は、自分の行く末を自らの意思において選択する唯一の方法として、危険牌を切りに行ったのかもしれない」、との「アナザーストーリー」を、我が女房がいち早く指摘していたので、当否はともかく女性の直感の鋭さに驚かされた。
・『文春に関しては、そんなわけで、あっぱれと申し上げるほかにないのだが、その一方で、文春以外のメディアが、どうしてこれほどまでに弱体化してしまったのかについて、思いを馳せずにおれない。 そして、その答えのひとつが、これまた文春砲の記事の行間に書いてあったりする。なんという運命のめぐりあわせだろうか。既存メディアはもはや文春砲の標的であるのみならず、火薬供給源にその身を落としているのだ。 新聞が御用告知機関に成り下がり、テレビが馬鹿慰安箱に転落したのは、これはもはや時代の必然というのか自業自得以外のナニモノでもないわけなのだが、私が個人的に残念に思っているのは、自分自身がその周縁で糊口をしのいでいる出版の世界が、全体としてゆっくりと死滅しつつあることだ。 今回の文春砲は、そのわれらが出版業界の醜態を撃ち抜いている。私は自分の心臓を撃ち抜かれたような苦い痛みをおぼえながら、当該の記事を読んだ。 記事は、文春オンラインに掲載されている。ネット上から閲覧することができる。ぜひ一読してみた上で、当稿に戻ってきてほしい。 詳細はリンク先の記事の本文に譲るが、要するに大手出版社の社員編集者が、女性フリーライターにセクハラを仕掛けたあげくに、ボツにした原稿料を踏み倒したというお話だ。 ここまでのところで 「なるほど、よくある話だ」 と思ったあなたは、業界の現状をよく知っている事情通なのだろう。 しかしながら、この話を「よくある話」として聞き流してしまえる人間は、世間の常識から考えれば、非常識な人物でもある。 別の言い方をすれば、わたくしどもが暮らしているこの出版業界という場所は、世間のあたりまえな常識とは別の、狂ったスタンダードがまかり通っている、狂った世界だということだ。 私が、世間的にはずっと大きいニュースである黒川検事長の辞任問題よりも、この小さな出版界で起こったちっぽけで異様でケチくさくてみっともない下品な箕輪厚介氏の話題を今回のテーマに選んだのは、箕輪セクハラ案件の扱いが「あまりにも小さい」と思ったからだ。もう少し丁寧な言い方で説明すれば、文春砲以外のメディアがこの事件を扱う態度が、あまりにもお座なりだったからこそ、私は、自分が微力ながら力を尽くして原稿を書かなければいけないと決意した次第なのである。 当初、私の頭の中にあったのは、「ナインティナイン」の岡村隆史氏が、つい先日、女性蔑視発言で四方八方から盛大に叩かれていた事件との比較だ。 岡村氏の事件についてあらためて説明する行数はないので、各自ごめんどうでも検索してください。 とにかく、私が思ったのは、岡村氏の発言が、どれほど不適切かつ無神経かつ不穏当かつ不潔であったのだとしても、あれは、直接のフィジカルな被害者のいない、言葉の問題にすぎなかったということだ。 一方、箕輪氏の今回のセクハラ案件は、言葉の上の問題ではない。概念上の不具合でもない。生身の肉体を持った実在の女性に向けて発動された具体的な行動としてのセクハラ行為だ。犯罪として直接に立件可能な性被害としてはギリギリ未遂に終わっているものの、企図は明確だ。繰り返し明示的に被害者たる女性ライターを脅かした事件でもある。証拠も揃っているとみられる。 とすれば、どちらが悪質であるのかは明白ではないか。 しかしながら、世間の扱いは逆だ。 岡村氏の事件は、発言の直後から複数の新聞紙上で記事化され、様々な回路を通じて盛大に報道された。しかも、生放送のラジオ番組を通じて、本人が公式に謝罪したにもかかわらず、いまだにSNS上での組織的なバッシングが続いている。番組の降板運動も沈静化していない。 一方、箕輪氏のケースは、徐々に黙殺されようとしている。 なにより、箕輪氏は、文春オンラインがこの件の記事を配信(5月16日)した3日後(同19日)のテレビ番組(「スッキリ」NTV系)に、リモート出演の形ではあるものの火曜日のレギュラーコメンテーターとして生出演している。 刑事司法の世界において「疑わしきは罰せず」という原則が重視されているのは承知している。しかし、テレビの出演者に関しては、これまで、慣例として、司法の判決を待つことなく、なんであれスキャンダルが報じられれば、その時点で出演を見合わせるのが不文律になっているはずだ。 とすれば、あれほど衝撃的な内容の記事が出て、判断に費やすことのできる日数が3日もあったのに、それでもテレビ局側が出演を容認したことは、普通に考えて、テレビ局側が、当該の事件を 「不問に付した」と考えて差し支えなかろう。つまり、「スッキリ」は、 「箕輪さんは言いがかりをつけられているだけで、無実です」ということを、全国の視聴者に向けて告知したに等しいわけだ。 本人が生放送のテレビ番組に顔出しで生出演したことも、 「自分は濡れ衣を着せられていますが、視聴者の皆様に対して後ろめたく思うところはまったくございません」と宣言したのと同じ意味を持っている。 この点も見逃せない』、「既存メディアはもはや文春砲の標的であるのみならず、火薬供給源にその身を落としているのだ。 新聞が御用告知機関に成り下がり、テレビが馬鹿慰安箱に転落・・・私が個人的に残念に思っているのは、自分自身がその周縁で糊口をしのいでいる出版の世界が、全体としてゆっくりと死滅しつつあることだ。 今回の文春砲は、そのわれらが出版業界の醜態を撃ち抜いている」、なかでも「新聞が御用告知機関に成り下がり、テレビが馬鹿慰安箱に転落」は傑作だ。
・『つまり、あわせて考えると、日本テレビならびに幻冬舎および箕輪氏は、このたびの週刊文春の報道について、 「この件はおしまいです」「箕輪は大丈夫です」という態度で臨んだわけで、今後、メジャーなマスコミのスタンダードは、この態度を踏まえた上で動きはじめるということだ。 こんなバカなことが許されて良いのだろうか。 「スッキリ」が放送された当日、私は 《タイムラインに流れている情報では、箕輪厚介氏が今朝の「スッキリ」にリモート出演していたらしいのだが、マジか? そういう基準なのか? おまえらどこまで身内大事なんだ? 自分たちがそんなふうでどうして安倍さんを批判できるんだ?》2020年5月19日午前9:57 《幻冬舎箕輪厚介氏のセクハラ&原稿料踏み倒し案件を、どうやらテレビは追いかけていない。もしかして編集者と記者とディレクターとレポーターは、「相互非取材協定」でも締結しちゃってるわけなのか? 「お互い殺傷力のある武器を持った者同士、穏便にやりましょうや」ってか?》2020年5月19日午前9:33 というツイートを投稿しているのだが、おそらく、この事件は、裁判所に持ち込まれて明らかな結果が出ない限り、うやむやにされて終わるはずだ。それほど、社員編集者を守る業界の力は大きい。 念のために付言しておけば、岡村氏が盛大に叩かれている一方で、箕輪氏がなんとなく免罪される理由の最も大きな部分は、両者の知名度の違いにある。 誰もが知る有名人である岡村氏を叩くことは、視聴率やページビューを稼ぐ材料になる。不快に思っている人間がたくさんいる一方で、擁護したいと考えているファンも少なくない。とすれば、岡村氏の話題を扱うことは、どっちにしても人々の注目を集める。記事としては巨大なページビューが期待できる。 一方、箕輪氏は、しょせんローカル有名人にすぎない。 「箕輪って誰だ?」と思う人間が、50%を超える状況下で、そんなマイナー著名人のスキャンダルを扱ったところで、部数もページビューも視聴率も期待できない。 大筋は、まあ、そういうことだ。 ただ、私は、メディア業界の人間たちが、同じメディア企業の社員にあたる人間のスキャンダルに対して及び腰になる構造は、明らかに存在しているというふうに考えている。それほど、社員編集者の地位は高く、メディア企業従事者同士の互助会の力は強烈なものなのだ。彼らは互いを責めない。当然だ。なぜなら、明日は我が身だからだ。 以下、その社員編集者たちへの思いを、一介のライターの立場から発信した5月17日の一連のツイートをご紹介する。 《表舞台に出たがる編集者と六方を踏む黒子はろくなもんじゃないってじっちゃんが言ってた。》2020年5月17日午前9:15 《大手出版社の社員編集者の中には著者をアシストするのではなく、ライターを「見つけ出し」て「育て」ている気分の人間が含まれている。でもって、自分が「人事権」と「企画権」を持ったプロデューサーであり、鵜飼の鵜匠でありオーケストラのコンダクターでありレストランのシェフだと思っている》2020年5月17日午前9:24 《ってことはつまりアレか? 書き手は皿の上のジャガイモで、あんたらが腕をふるって味をつけて熱を通さないと食えない代物だってことか?》2020年5月17日午前9:26 《実際のところ、うちの国はフリーランスで何かを作っている末端の個人より、その作品のマネタイズを担当する会社の社員のほうが優遇される(あるいは「より高い社会的地位を保証される」)社会なので、大手出版社の編集者というのは「准文化人」くらいな枠組みに編入されるのだね。》2020年5月17日午前9:32 《「メディアはメッセージだ」と、マクルーハンだかがフカした(←オレは読んでない)お話が、「水道管は水より偉いんだぞ」てな話に変換されて、勘違いした編集者だのディレクターだのプロデューサーだのが肩で風を切って歩くようになったのが1970~90年代のメディア業界の空気だったわけで……》2020年5月17日午前9:51 《で、21世紀にはいると業界がまるごと沈没しはじめたんでメディアもメッセージもひとっからげにおわらいぐさになっています。現場からは以上です。》2020年5月17午前9:52)』、「メディア業界の人間たちが、同じメディア企業の社員にあたる人間のスキャンダルに対して及び腰になる構造は、明らかに存在しているというふうに考えている。それほど、社員編集者の地位は高く、メディア企業従事者同士の互助会の力は強烈なものなのだ。彼らは互いを責めない。当然だ。なぜなら、明日は我が身だからだ」、大いにあり得る話だ。
・『長い引用になってしまった。 本来なら、ツイートの内容をあらためて記事のためのひとつながりの文章として書き起こすのがライターとして誠実な仕事ぶりなのだろうが、もはや私は、その作業をこなすだけの根気を持っていない。というのも、このテーマについて書くことは、私を限りなく疲弊させるからだ。 だからこそ、勇気をもって週刊文春の編集部に告発の記事を持ち込んだA子さんには最大限の敬意と称賛を表明したい。この告発が、彼女をどれほど疲弊させているのかは、想像するに余りあることだ。私は彼女を尊敬する。彼女の行動は、単に彼女が自分自身を守るために役立つだけではない。出版業界の狂った常識を世に知らしめるために、彼女が今回明らかにした経緯は、大きな意味を持っている。 同じようななりゆきで原稿料を踏み倒されたライターの話は、常に業界に流れている。私もいくつか聞いたことがある。セクハラも、日常茶飯事と言って良い。まさか、などと驚いてはいけない。出版業界は、古い体質を強く残した封建的で大時代な、愚かな業界だ。その古さは、出版という仕事を昔からあるカタチのまま現代に引き継ぐために不可欠な部分もあるのだが、それはそれとして、いつも大きな弊害をもたらしている。 彼女の告発を「チクり」「密告」「タレコミ」「言いつけ口」「売名行為」と評する輩が、今後、大量に現れるはずだが、どうか気にしないでほしい。 彼らは、出版業界における社員編集者の横暴と思い上がり(具体的には踏み倒しとセクハラと文化人ヅラ)を裏から支えてきた権力の尖兵にすぎない。 ライターは本当にひどい目に遭っている。 特に、21世紀に入ってから、業界関係者のすべてが貧窮化する中で、末端に位置するライターの地位と収入と自由度と再就職可能性は、極限まで縮小しつつある。 私自身の話をすれば、私は、1980年代にデビューした幸運なライターだった。私以外にも業界が膨張過程にあった状況下で参入した当時の書き手には、下積みの苦労を経験しないままデビューした幸運な書き手が少なくない。 というのも、雑誌が次々と創刊され、書籍の売り上げが年々増大しつつあった上昇局面の中の書き手は、さしたる実績がなくても仕事を見つけることができたからだ。 であるから、最初の雑誌に連載を持った時点では、私は、ほとんどまったく実績を持っていないブラブラ者の失業者にすぎなかった。たまたま雑誌を創刊した編集長とその周辺のメンバーが、同じゲームセンターに通う遊び仲間だったからという縁で、いきなり連載枠を与えられたカタチだ。 はじめての単著も、交通事故みたいな調子で書いたものだ。 さる銀行の電算室でパソコン(当時は「マイコン」と呼ばれていましたね)の入門書をいくつか書いていた人物に、とあるライブハウスの楽屋で、アマチュアロックバンドの対バンのメンバーとして紹介された時、 「キミ、大学出てぶらぶらしてるんならコンピュータの本書かない?」 「え? オレ、そんなもの知りませんよ」 「知らないから入門書が書けるんじゃないか(笑)」と、おおよそ、そういういいかげんななりゆきで、この道に入ったわけだ。 何を言いたいのかというと、私のような50歳を超えたライターは、21世紀の若いライターさんたちが味わっている苦境を本当には知らないということで、だから、不況下の出版業界で苦しんでいる若いライターは、先輩を敬う必要なんかないぞということだ。 ライターにとって何が一番むずかしいかというと、実績を持たない素人の立場から脱して、最初に活字の原稿を書くためのきっかけをつかむことだ。 つまり、書くことそのものよりも、デビューのための入り口を見つけることの方が死活的に重要だということだ。このことはまた、多くのライター志望者にとって、デビューすることが最大の障壁になっていることを意味してもいる。 そこのところさえなんとかクリアすれば、あとは、実績を少しずつ積み上げながら、自分の世界を少しずつでも、広げて行くことができる。 この事態を逆方向から観察すると、ライター志望者もしくは、駆け出しのライターの目から見て、大手出版社の社員編集者は、生殺与奪の権をすべて備え持った神の如き存在に見えているということでもある。 特段に威張り散らすまでもなく、編集者は編集者だというだけで、若いライターにとっては、すでにして全能の神なのである。 私は、その最初の苦労を経験していない。 いきなり、コネと顔なじみの力だけで、しかるべき「座席」におさまった至極ラッキーな参入者だった。 ついでに申せばライターの「実力」と言われているものの半分以上は、その「座席」の力だったりする。 ここのところの話は、ちょっとわかりにくいかもしれない』、「私は、その最初の苦労を経験していない。 いきなり、コネと顔なじみの力だけで、しかるべき「座席」におさまった至極ラッキーな参入者だった」、普通は「最初の苦労」を針小棒大に語る人が多いが、小田嶋氏は例外的に「ラッキーな参入者だった」、ようだ。
・『テレビタレントの例を引くと、ずっと直感的にわかりやすくなると思うので、以下、芸能人の「実力」の話をする。 芸能人の「実力」は、そのほとんどすべてを「知名度」に負っている。で、その「知名度」の源泉となるのは、メディアへの露出度で、メディアへの露出量を担保するのは、そのタレントの「実力」ということになっている。 ん? この話はいわゆる「ニワトリとタマゴ」じゃないかと思ったあなたは正しい。 1.知名度があるからみんなが知っている 2.みんなが知っているから愛される 3.愛されるからタレントとしての実力が認められる 4.タレントとしての実力があるから出演のオファーが来る 1に戻る つまり、最初に誰かのおまけでも何でも良いからテレビに出て顔を売れば、その顔を売ったという実績が自分の商品価値になるということだ。 ライターも実は似たようなものだ。商業誌に連載を持っているからといって、そのライターがとびっきりに文章の上手な書き手であるわけでもなければ、人並みはずれて頭が良いわけでもない。正直なところを述べれば、一流の雑誌に書いているライターの中にも、取りえのない書き手はいくらでもいる。 それでも、一度業界に「座席」を占めたライターが仕事を失わないのは、業界の編集者たちが「◯◯誌に書いている」という実績を重視する中で、「実力」と称されるものが仮定されているからだ。 行列のできるラーメン屋の構造と同じだ。誰もが行列のケツにつきたがる。そういうくだらない話だ。 そんなわけで、キャスティング権を握っているテレビのプロデューサーや、編集権を手の内に持つ雑誌の編集者は、言ってみれば、タレントやライターの「実力」を自在に生産・配布する利権そのものなのである。 長い原稿になってしまった。 本当は書きたいことは、まだまだこの3倍くらいある。 別の機会に書くことになるかもしれない。 体力が戻ったら、あらためて取り組んでみたい。 当面の結論として、私はとりあえず、出版社の未来には絶望している。 絶望というより、うんざりしている。 出版エージェントだとか、オンラインサロンだとか、ユーチューブのチャンネルだとか、箕輪氏の周辺には、出版という古くさい業態を、新しいマネタイズのチャンネルとして再定義せんとするニヤニヤ顔の野心家たちが群れ集まっている。その様子に、私は強烈な嫌悪感をおぼえている。 出版業界の古さには良い面と悪い面がある。 出版業界の新しい試みにも期待できる面と明らかにうさんくさい面の二通りの印象を抱いている。 報道が本当ならば、箕輪氏は、出版業界の古い体質が容易にぬぐいきれずにいる醜さと、出版をアップデートしようと新しい人々が共通してその身のうちに備えている薄汚さを併せ持ったクズの中のクズだと思っている。 A子さんと箕輪氏の間に何があったのかは、この先、文春砲の第2弾になるのか、あるいは裁判という経路を通じて明らかになるのかはわからないが、いずれ、天下の知るところとなるはずだ。 この原稿では、事実関係の細かいところを追うことはあえてしなかったが、ともあれ、私は、天才編集者を名乗る人間が、一方では、出版のマネタイズを近代化する方法を提案しているように見せかけながら、他方では、およそ前近代的な奴隷出版の手口でライターを使役していたことが、今回の事件の本質だと思っている。 長い原稿になってしまった。 私はとても疲弊している』、「一度業界に「座席」を占めたライターが仕事を失わないのは、業界の編集者たちが「◯◯誌に書いている」という実績を重視する中で、「実力」と称されるものが仮定されているからだ」、そんなものなのだろう。「天才編集者を名乗る人間が、一方では、出版のマネタイズを近代化する方法を提案しているように見せかけながら、他方では、およそ前近代的な奴隷出版の手口でライターを使役していたことが、今回の事件の本質だと思っている」、私はこの記事を読むまでは「箕輪氏」を全く知らなかった。今後も知りたいとは思えない人物のようだ。
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