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バブル崩壊(その他)(『ザ・ラストバンカー』2:三井住友銀行・西川善文が対峙した、減らない不良債権と批判の目、『ザ・ラストバンカー』3:不良債権最後の山場「ダイエー危機」に三井住友銀・西川善文がとった策、住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断) [金融]

バブル崩壊については、昨年8月25日に取上げた。今日は、(その他)(『ザ・ラストバンカー』2:三井住友銀行・西川善文が対峙した、減らない不良債権と批判の目、『ザ・ラストバンカー』3:不良債権最後の山場「ダイエー危機」に三井住友銀・西川善文がとった策、住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断)である。

先ずは、昨年12月29日付け現代ビジネス「ベスト書再読『ザ・ラストバンカー』2:三井住友銀行・西川善文が対峙した、減らない不良債権と批判の目」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78842
・『「不良債権と寝た男」の異名を取った三井住友銀行元頭取・西川善文が不良債権問題にかかわった期間は、まさに異名通り、頭取の八年間を含めて三〇年に及んだ。とくに一九九〇年代から二〇〇〇年代前半にかけては、バブル経済の崩壊にともなう不良債権の激増に苦悶する毎日となった。西川善文の回顧録『ザ・ラストバンカー』から、その一端がわかるパートをお届けする』、興味深そうだ。
・『公的資金注入に向けられる世間の批判の目  世は平時ではなかった。金融界は、担保不動産と保有有価証券の資産価値下落に直面し、いつ果てるとも知れない破綻危機の恐怖や相次ぐ不祥事の発覚で騒然としていた。バブル崩壊によって日本経済はガタガタに崩れ、大企業も中小企業もどこも無傷ではいられなかった。大蔵省は一九九二(平成四)年秋に、大手二一行の九月末時点の不良債権額が一二兆三〇〇〇億円あるという試算を公表したが、それはかなり楽観的な見通しに過ぎなかった。後日談となるが、巽外夫さんが会長になった頃、私にこんな打ち明け話をしてくれた。 「実は九二年の八月に、宮澤(喜一)総理から軽井沢の別荘に招かれたことがあってね。行ってみると、そこには三菱、第一勧銀など大手行の頭取が全員、顔を揃えていた。不良債権を処理するための金融機関への公的資金注入についてどう思うか、内々の相談のようなものだったんだ」 「そんなことがあったのですか」 「頭取は皆、反対したよ。当時は財界も否定的だったからね。今思うと、あの時に決めておけば、こんな大騒ぎにならなかっただろうに」 宮澤首相は、軽井沢で開かれていた自民党の夏期セミナーで、「公的援助」という表現で公的資金投入に触れていたが、その前提として銀行首脳を呼んで極秘に会合を行っていたことはマスコミには一切漏れておらず、私もこのときが初耳だった。なぜ反対したのかについては聞かなかったが、公的資金が注入されるとトップの責任問題につながると懸念したのであろうし、世間はそれほど大手銀行に対して厳しい批判の目を向けていたのは間違いない。当時の巽頭取の忸怩(じくじ)たる思いが、このときの吐露につながったのかもしれない』、「宮澤首相」が「自民党の夏期セミナーで、「公的援助」という表現で公的資金投入に触れていた」、のまでは知っていたが、その前に、大手行代表に「軽井沢の別荘」で、「金融機関への公的資金注入について」打診したとは初めて知った。
・『いくら損失計上しても不良債権は減らない  一方、私はといえば「本当にその時に決めてくれれば、今になって毎日こんな苦労をしなくてもよかったのに」と密かにため息をついていた。 安宅産業とイトマンの破綻処理は銀行にとって大きな問題だったが、その後も建設、不動産関連融資を中心に数多くの不良債権が発生し、銀行は毎期毎期、その分の損失を計上していた。しかし、いくら損失計上しても、その処理は遅々として進まなかった。というのも当時はまだ大蔵省の不良債権償却証明制度が残っており、現在のように自己査定による引き当て処理ができなかったのだ。 当時の大蔵省は不良債権処理問題よりも税金の徴収のほうを優先していたので、銀行が勝手に不良債権か否かを判断するなどとんでもないという考え方であった。ある債権に損失発生リスクがあるかどうかを決めるのは大蔵省の専権事項で、同省の認可をもらってはじめて銀行は会計上、無税償却が可能となる。たしかに大蔵省に判断してもらうほうが公平性を担保する意味では理想的だと思う。これは、体力に劣る銀行を潰さない大蔵省の「護送船団」行政の一面でもあった。しかし、そのために債権一件一件について精査しなければならず、どうしても時間がかかってしまう。そこで、ほとんどの銀行では無税償却と並行して有税償却も行っていた。 有税償却とは簡単に言えば赤字処理だ。これをすれば処理のスピードは上がるが、当然ながら当期利益は減る。この赤字分を埋めるために、簿価の低い保有株式を売却し、売却益を計上してマイナス分を軽減する、いわゆる益出しをする必要が出てくるのだが、売却対象になる株式は通常、持ち合い株式であるため、売却と同時に買い戻しをしなければならず、結果的には株式の評価替えのような効果が出てしまう。つまり、保有株式の簿価がそのたびに上がってしまうわけだ。 一九九四(平成六)年になると、株価や不動産価格が下がる一方で、住専(住宅金融専門会社)の危機が社会問題化していた。そんな切迫した状況になっても益出しと買い戻しを繰り返して保有株式の簿価を上げるのは、リスクが大きすぎた。来年も再来年も株価が下がり続ければ、今度は逆に株式評価損を計上することになり、これまでせっかく益出しをしてきたのに元の木阿弥に戻ってしまう。こんなことを続けていたらいつか必ず大変なことになると私は考えた。実際、この株式評価損は当時だけでなく二〇〇〇年代に入っても銀行や一般企業の自己資本を毀損して、経営を苦しめることになった』、その通りだ。
・『銀行の赤字決算はタブー中のタブー  もちろん、赤字分を株式の益出しで埋めなければ、自己資本は食われる。しかし、保有株式の簿価は変わらずに済むから、今後の株価下落による評価損増大リスクを避けることができる。将来の株価下落リスクに耐えられる。そこで私はこの際、益出しをやめて、赤字決算するしかないと判断した。 今でこそ銀行の赤字決算は珍しいことではないが、当時は市場に与える影響がどれほどのものになるのか想像もできず、タブー中のタブーだった。過去の例を見ても、日本の銀行が赤字決算をしたのは一九四六(昭和二一)年、終戦直後の混乱期の一度だけで、八〇年頃の「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかったのだ。 ロクイチの由来となる六・一パーセントの一〇年物国債は、今から見れば高利回りに感じると思うが、当時としては極めて低金利であり、それはつまり高価格の国債を意味する。大蔵省は大手銀行団を統合したいわゆるシンジケート団にこれを引き受けさせたため、住友銀行を含め、大手銀行のすべてが高い値段の国債を大量に保有することになった。そこに第二次オイルショックと金融引き締めが襲いかかり、ロクイチ国債は暴落し、大手銀行のすべてが巨大な含み損を抱えてしまった。額面一〇〇円の国債の価格が七四円まで下落したのだから、銀行にとっては大きな痛手だ。 その頃の国債は時価評価で決算するのが常であったが、この時ばかりは大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達してきた。半強制的に国債を引き受けさせたという負い目があったためだろう。しかし、住友銀行はちょっとへそ曲がりなところがあり、「いままで時価評価でやってきたのに、ちょっと損が出たからといって、いまさら取得原価で評価できるか」ということで、それまでと同様に時価評価にしていた。このときでさえ、住友銀行は赤字決算をせず、株式を売って損失を埋めていたのだ。 銀行にとって赤字決算というのは、日本経済に与える影響ももちろんだが、バンカーのプライドとして、やってはいけないものというのが、私たちの身体の中に染みこんでいる。しかし私は、それでもあえて赤字決算にしようと覚悟を決めた。当時ですでに約一〇年、不良債権処理をしてきたのに、いまだに出口がまったく見えてこない。そして益出しは事実上問題を先送りしているに過ぎないからだ』、「あえて赤字決算にしようと覚悟を決めた」、とはさすが大したものだ。
・『市場心理を見きわめた慎重な判断  一九九五(平成七)年の正月明け早々、私は巽会長と森川敏雄頭取のもとに向かい、「こんな状態を続けているとダメージが大きくなってしまいます。思い切って赤字決算しましょう」と進言した。すると、お二人とも即座に了承してくれた。そうなれば話は早い。一月一七日に業績修正の発表をしようと決まった。 ところが、その日の早朝、阪神・淡路大震災が起きた。一万九〇〇〇円台になんとか足をかけていた株価は、震災の影響でみるみる下落していき、一万七〇〇〇円台に入ってしまった。 「こんなときに銀行が赤字決算を出したら、どんなことになるか?」 それでなくても滅多にない銀行の赤字の発表だ。市場にこれ以上余計な心理的な影響を及ぼすことはすべきではないと判断した私たちは、その日の発表を見合わせることにした。そして一〇日後の二七日、株式市場が多少落ち着いたところで、三月期決算の業績予想の修正を発表し、都銀初の三三五四億円の赤字(当初予想は六〇〇億円の黒字)になると表明した。赤字決算の結果として発生する当期の未処理損失については、準備金の取り崩しで対応して来期に繰り越さない方針も示した。 業績予想の修正は、私自身が東京・日本橋の日銀内にある金融記者クラブで記者会見して発表した。この席ではまず、赤字決算を決断した理由を聞かれ、四つの理由を説明した。 第一は、バブル崩壊後の経営悪化を乗り越えるべく取り組んできた店舗の統廃合や経費の見直しなどが成果を出し始め、国内外共に業績が拡大する兆しが見えてきたこと。第二に、前年(一九九四年)に実施された流動性預金金利の自由化や証券子会社の設立など金融自由化の幕開けの年にあたるのだから、経営基盤の安定と財務体質の強化が重要になってきたこと。第三に、景気に回復の兆しが見られ、積極的に前向きの策を打ち出す時期に来ていること。そして第四に、九五(平成七)年一一月に創業一〇〇周年を迎えるので、新世紀への重要な節目となる、ということだった』、「赤字決算」への「業績予想の修正」の発表を、「阪神・淡路大震災」による「株式市場」への影響が多少落ち着くまで遅らせたというのは賢明だ。
・『赤字決算で投資家が銀行株買い  「以上の理由により、将来、損失処理が必要とみられる債権を可能な限り前倒しで処理することにした。償却額は年間でおよそ八〇〇〇億円であるが、これは見通しを三〇〇〇億円上回る。株式売却益への依存は極力抑制する」と、私は赤字決算が前向きな事業姿勢による決断であったことを強調した。 実は、四つの理由は、「なぜ今なのか」というタイミングについて説明したもので、経営の立場の本音は、早く株式売却益依存から抜け出したいという後半の部分にあった。だから、記者から「来年度以降の見通しは?」と聞かれても、「今後の償却負担の原資は期間利益で十分に賄え、株式の売却をしなくてもできる」という見通しを語ることができた。 住友銀行は、前年の一九九四(平成六)年九月末には一兆一九〇〇億円もの不良債権を抱えていたが、赤字決算により九五(平成七)年三月末には不良債権額は二〇パーセント程度減少し、引当率も前年九月末の二四パーセントから三月末には五〇パーセント近くになると算段していた。 マスコミは、素直に驚きをもって報道してくれた。事実関係だけでなく、私の記者会見の詳報を掲載してくれた新聞もあった。記事のニュアンスを探っても、ネガティブというよりは好意的であった。 そして、さらに予想外のことが起きた。私たちが赤字決算を出した途端、投資家が銀行株を買い始めたのだ。住友だけでなく他行まで軒並み買われ、金融関連株が高騰を始めたのである。マーケットは、赤字決算によって不良債権処理が進むと、プラスに捉えてくれた。 その象徴が、記者会見から一週間ほどして掲載された日経金融新聞の編集委員の署名記事で、私たちが「税効果会計」と呼ばれる手法を注意深く活用しながら赤字決算であるにもかかわらず配当を維持しようとしている点を指摘。そのうえで、株式売却の益出しは一種の粉飾決算であると断定し、株式の益出しと決別しようとする私たちの決断について「(益出しと)一線を画したことは、市場全体にのしかかる金融システム不安を確実に薄めるのも事実だろう。その意味で、『一歩前進』である。しかし、まだ『一歩』にしか過ぎない」と皮肉を交えつつ評価してくれた』、住友の「赤字決算発表」までは、日本の銀行は実態を隠していると批判されていたので、「赤字決算発表」が前向きに捉えられたようだ。
・『赤字金額を変えていなかったら……  ところが私自身は、値上がりする株価を横目で見ながら、内心「しまった!」と思っていた。発表を見合わせた一〇日間で、少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていたからだ。発表した業績予想の修正では赤字幅は三三〇〇億円であるけれども、実のところは五〇〇〇億円程度の赤字があったのである。できれば、その額で業績予想を修正したかった。 発表を遅らせたのはいい判断だったと今でも思っている。おそらく震災当日に発表していたら、株価が上がったかどうかかなり疑問だった。しかし、赤字金額まで変える必要はなかったのだ。もし最初に考えていたままの金額だったら、その後の不良債権処理の展開はずっと楽になっていたはずだった。 とはいえ、マーケットが赤字決算に好評価を与えてくれたことに、私はほっと胸をなでおろしていた。銀行にとってみれば、不良債権処理などあまり威張れたものではない。そこまで銀行の経営は悪いのかとマイナス要因として取られる可能性も十分あったわけだから、好意的に取ってくれたのはありがたいことだった』、もっと実態の悪さを正直に発表していればと、「内心「しまった!」と思ったというのは、多くを望み過ぎだろう。

次に、この続きを、12月30日付け現代ビジネス「ベスト書再読『ザ・ラストバンカー』3:不良債権最後の山場「ダイエー危機」に三井住友銀・西川善文がとった策」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78886
・『「不良債権と寝た男」の異名を取った三井住友銀行元頭取・西川善文が不良債権問題にかかわった期間は、まさに異名通り、頭取の八年間を含めて三〇年に及んだ。とくに一九九〇年代から二〇〇〇年代前半にかけては、バブル経済の崩壊にともなう不良債権の激増に苦悶する毎日となった。西川善文の回顧録『ザ・ラストバンカー』から、土地神話の破綻から生まれたダイエー危機への対応の舞台裏をご紹介しよう』、前編に続き興味深そうだ。
・『  金融業界の構造改革と不良債権の処理問題が重なる形で押し寄せてくるので、仕事に息つく暇がない日々が続いた。不良債権問題は依然として深刻だった。 不良債権処理で私たちの頭を最も悩ませたのがダイエーだった。ダイエーは一九五七(昭和三二)年に中内㓛(なかうち・いさお)さんが創業し、「価格破壊」を謳って九五(平成七)年二月期には連結売上高が三兆二〇〇〇億円にも及んだ。しかし、その一方で、巨額の有利子負債がバブル崩壊や売上減によってダイエーを大きく蝕んでいた。「バブル時代の負の遺産」とまで言われた同社には、二〇〇一(平成一三)年二月には二兆五六〇〇億円もの金融債務があった。このため、三井住友を含めた主力行三行は〇二(平成一四)年一月、五二〇〇億円の債権放棄に応じた。しかしそれでも依然として危機は収まらなかった。 ダイエー危機が長引いた最大の原因は、ダイエーが大量の不動産を持っていたことだ。同じ業態のイトーヨーカ堂が、ディベロッパーが開発したショッピングセンターに出店するなどして店舗を借りていたのに対して、ダイエーの店舗はすべて用地まで取得し自前のものだった。 これは一九八〇年代までの土地神話に根ざしたビジネスモデルだったと言える。不動産の価値が上がれば、それを担保にして銀行からお金を借り、次の店舗展開ができる。その不動産も価値が上がればさらに次へという好循環が続けば、どんどん店舗を出すことができる。その頃のダイエーはとにかく新しい店舗用不動産を次々に手に入れていた』、確かに「ダイエー」の「ビジネスモデル」は、「土地神話に根ざした」ものだった。
・『難局には西川が打ってつけ  この好循環がバブル崩壊によって完全に悪循環に逆回転を始めた。不動産の含み損が加速度的に膨らんでいき、その泥沼からいつまで経っても這い上がることができないでいた。しかも、本業が好調ならその収益でカバーできたかもしれないが、「安いけれど買いたいものがない」と揶揄されるほど品揃えに魅力がなかった。早晩、完全に行き詰まるのは目に見えていた。金融庁としては、竹中平蔵さんの金融再生プログラムの一環で、預金保険機構を主要株主として設立した産業再生機構に持ち込んで早く処理したい意向が強かったのだが、ダイエーの高木邦夫社長が頑強に抵抗していて弱り果てていた。 高木社長がなかなか説得を聞き入れなかったのは、自主再建したいという強い思いがあったのはもちろんなのだが、その裏には経済産業省内の暗闘があったようだ。産業再生機構送りにしたいグループと、ダイエーの自主再建路線を進めたいグループが省内で真っ向から対立していた。後のことになるが産業再生機構入りの最終回答期限直前に経産省の自主再建派が高木社長を「拉致」して行方不明にするという、信じられないような暴挙にまで出て、当時マスコミで大変な騒ぎになったほどだった。 高木社長の抵抗姿勢に困った金融庁の竹中大臣は、ある経済人との会合に一緒に出た折に私を傍らに呼んで、こう言った。 「ダイエーはいまや日本の不良債権問題の象徴的な存在になっています。だから、なんとしてでも産業再生機構に持ち込みたい。産業再生機構に持ち込まれて処理されれば、日本の不良債権問題に決着をつけたことになるんです。西川さん、高木社長を説得してもらえませんか」 こういう難局には西川が打ってつけと竹中さんは思ったのかもしれないが、何よりダイエー問題に一刻も早く決着をつけたかったのは主力行をなす私たちのほうだった。単に竹中大臣に頼まれたからではなかった。私は高木社長との直談判に及んだ。 三井住友銀行の応接室で、私と高木社長の一対一の談判だった。しかし高木社長はいっこうに首を縦に振ってくれなかった。 「どうしても取締役会を開いて決めてもらわないと困る。でなければ社長を代わってもらうしかないんです」とまで私がにじり寄ると、ようやく、「わかりました。取締役会に諮ります」 と返事をしてくれた』、「産業再生機構」への持ち込みに賛成していたのは、「三井住友銀行」だけで、UFJ銀行などは反対していた。「産業再生機構」は銀行側に債権放棄をさせ、財務面は立ち直ったが、肝心の事業面では「再生」できないまま、イオンの子会社化しただけに終わった。
・『ローソンという宝  しかし、取締役会に諮るだけで終わっては困る。きちんと決議してもらわないといけない。大変失礼だったかもしれないが、取締役会にオブザーバーとして三井住友の人間を入れさせてもらう提案まで出した。 ダイエー本体の痛みは深刻だったが、子会社には素晴らしい優良会社があった。コンビニのローソンだ。私はこれを少しでも高く売却しようとしたのだが、ダイエー側はずいぶん抵抗した。説得の末、売却には応じてもらえたが、今度は売却先で揉める。三菱商事や丸紅が手をあげてくれており、銀行とすれば三菱商事しかないと踏んでいたが、ダイエーは、一九九四(平成六)年に提携関係を結んでダイエーの大株主になっていた丸紅がいいという。しかし当時の丸紅もダイエーを抱え込むほどの力はなく、丸紅が売却先ではローソンの企業価値が上がらないし、そもそも高く売れない。三菱商事なら高く売れる上に、商事の信用力で株価(企業価値)も上がる。 本音をいえば、ライバル行系列の三菱商事に味方する理由など何もない。しかしダイエー処理を有利に運ぶのが第一だった。こうしてダイエーが保有するローソン株を三菱商事に三〇パーセント以上売却したのは二〇〇一(平成一三)年二月のことだ。 実は私は、ダイエーの経営が問題になった当初から、水面下でダイエー創業者の中内㓛氏と極秘裏に会っていた。月に一回、ホテルの部屋で朝に一時間程度だ。当時すでに八〇代になっていた中内さんは二〇〇一(平成一三)年一月にトップの座を退いて表には出ていなかったが、ダイエーに対する影響力は隠然として残っていた。 中内さんが最初に社外からスカウトして社長に据えた人が流通畑ではない方だったこともあって、いくらその社長と話をしても、うまく進まなかった。そのため私は中内氏と接点を持つことにしたのだ。社長が高木氏に替わってからもそれは続いた。 話の内容を具体的に書くことはできないが、債権放棄後のダイエーにあってもなお経営の状況は厳しく、思い切ったビジネスモデルの転換が必要であることなどを話し合っていた。中内さんは私が頭取を退任した三ヵ月後、二〇〇五(平成一七)年九月に八三歳で亡くなった』、「西川」氏が「中内㓛氏と極秘裏に会っていた。月に一回、ホテルの部屋で朝に一時間程度だ」、というのは初めて知った。
・『私のどこが独断か  頭取最後の年となった二〇〇四(平成一六)年度は結局、下方修正の赤字転落となってしまった。ダイエー問題があった上に、旧三井銀行が主力だったカネボウの処理やフジタや熊谷組といった中堅ゼネコンの処理が重なった。頭取最後の決算が赤字となったこと自体は実に残念であるし、悔しい。しかし、これまでの私のバンカー人生を振り返れば、ある意味、私らしい幕引きだったのかもしれない。 政府の金融再生プログラムで定められたように、二〇〇三(平成一五)年度から〇四(平成一六)年度にかけて不良債権処理をやり切らなければ銀行は生き残れなかった。その結果として生じた赤字である。組織のトップの中には、過去の不良資産は自分で作ったものではない、自分が担当役員として出したものでもないとして、任期中の処理を避けて責任を回避するような人がいる。しかし私はどうしても自分の手で、長年にわたって難題として銀行を苦しめてきた不良債権処理に終止符を打ちたかったのだ。 赤字の責任を取った形の引責辞任ではないかとマスコミなどはさかんに報道したが、お門違いも甚だしかった。その一年前から頭取退任を心に決めていたからだけではない。不良債権の処理など、トップ自ら動かずとも担当者に任せて上から見ているだけにしておけば、そんなことを言われず無難に済んだかもしれないが、それでは下がついてこないだろう。自分が火の粉をかぶってでも、いまやらなければならないことを先送りせず、率先垂範、先頭に立ってやる。それを見て部下たちも進んで仕事をする。経営の責任者とはそういうものではないだろうか。 リーダーシップの要諦を理解しないマスコミの記者たちは、私のようにトップが自ら動くと「西川の独断」などと言って批判する。「西川プレミアム」という言葉にも、頭取の私がトップダウンで独断的にものごとを決める住友銀行は特別だという含意があったと思う。しかしそうではないのだ。行内で最初に言い出すのが、たまたま私だったというだけの話なのである』、「率先垂範」の姿勢は、欧米では当たり前だが、日本の殆どの銀行には欠けていたようだ。
・『ビッグビジネスこうして動く  世の中が順調で穏やかであれば、経営が保守的であることにも、それはそれで意味はあるだろう。ところが、私の頭取時代は外部環境が日々刻々変化していた時期だった。それに対応していくにはこちらも日々刻々の変化、スピードが要求される。組織が危機に瀕した際にはとりわけスピーディーな経営判断が必要になる。スピーディーにものごとを進めるためにはトップが率先して動くしかない。 これは世界の常識で、アメリカでもヨーロッパでも同じである。前の章で書いたような資本調達の協議ともなれば、ゴールドマン・サックスの会長が自ら交渉のテーブルに出てきて私と直接、話をするのだ。トップ同士がフェイス・トゥ・フェイスで向き合わなければ、本当の信頼関係は築けない。あの人は誠実に仕事をする、彼なら大丈夫だという信頼があるからビッグビジネスは動くのである』、「ゴールドマン・サックス」からの「資本調達」の条件が、余りに厳し過ぎるとの批判も一部にあったが、それが当時の「三井純友」の実力だったのだろう。

第三に、2月9日付けYahooニュースが転載したエコノミストOnlineのジャーナリスト、デモクラシータイムズ同人の山田厚史氏による「住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/130b96b72dbf10cbd0c6318db0169a8cd39c9ecd?page=1
・『住友銀行(現・三井住友銀行)で頭取を務めた巽外夫氏が1月31日、老衰で死去した。大掛かりな不正経理が問題となった「イトマン事件」の処理を頭取として指揮した。マツダの再建にも尽力した。 ◇反社会勢力による支配との決別 「反社会的な勢力がうちの銀行を支配下に置こうとしたことが、今度の事件の本質です。影響力のある男を頭取にして、支配しようと考えていたのではないか」 不正経理が問題となった「イトマン事件」が一区切りついた1991年7月、頭取だった巽外夫さんは、事件を振り返ってこう語った。「暴力団による支配」とは穏やかではない。「書いていいか」と念を押すと、「私の名前は勘弁してください」。銀行を去ったとは言え、当事者はまだ周辺にいた。巽さんの念頭にあったのはある元副頭取だった。 1990年10月、仕手集団「光進」の経済犯罪に住友銀行青葉台支店(横浜市)が加担していたことが発覚した。 これを受け磯田会長が突如、辞任を表明。巽は面食らった。引責辞任なら、会長でなくまず頭取だろう。 意表を突いた辞任表明は「おまえも辞めろ」と言っているに等しい。後任の頭取を決めるのは「住友銀行の天皇」磯田である』、「「光進」の経済犯罪に住友銀行青葉台支店が加担」、そんな事件もあったのを思い出した。
・『◇“磯田子飼いの部下”が暗躍したイトマン事件  背景には「イトマンを巡る内紛」があった。 暴走するイトマンの河村良雄会長は住銀時代、磯田子飼いの部下だった。河村が不動産担当としてイトマンに呼びよせた伊藤寿永光常務は、反社会的勢力と関係する地上げ屋。磯田が溺愛する長女を取り込み、住銀中枢に食い込んでいた。 イトマン処理は住銀の懸案だが、磯田の権威が壁となっていた。銀行内の改革派からは、磯田を諫めることもできない頭取に苛立ちさえ出ていた』。
・『◇マツダ再建を果たした剛腕専務  巽さんに初めて会ったのは1980年、東洋工業(現マツダ)担当の専務の頃だった。 私は自動車担当記者で、マツダとフォードとの関係をメーンバンクである住銀から取材しようと磯田頭取を訪ねた。「巽専務に聞けばいい。今の社長は工場長みたいなもの。巽くんが実際の社長だ」と紹介してくれた。 言葉通り、巽さんは東洋工業の全権を握っていた。 フォードから出資を引き出し、石油ショックで沈んでいたマツダの再建を果たした。磯田―巽ラインの采配で復活したマツダの快進撃は住銀の収益に貢献していた』、確かに「マツダの再建」の手際は素晴らしかった。
・『◇“言うことを聞く頭取”を後釜に添えた  東京の常宿は芝のプリンスホテルで、夜回り取材はここのロビーだった。「地味で物静か、国際的な視野を持つ実務派」という雰囲気で、権力闘争が盛んな住銀で頭取を目指す人という印象は薄かった。 それが1987年、頭取に抜擢された。小松康雄頭取が2期4年を待たずに辞めたのは驚きだったが、後任が巽さんだったことは銀行内外で驚きをもって受け止められた。 磯田天皇が、意に沿わぬ小松頭取を外し、言うことを聞く巽を後釜に据えた人事と、言われた』、「巽」氏の「頭取」就任は確かに意外だった。
・『◇自分にとって「かわいい」が評価基準  磯田会長は、部下を評価する時「かわいい」という言葉をよくつかった。 物差しは3つ。仕事が「できるか、できないか」、性格が「明るいか、暗いか」、自分にとって「かわいいか、かわいくないか」 例えば「小松(頭取)はできる奴だが、暗い。私もどちらかと言えば暗い。暗い頭取が2代続いてしまってよかったのか」。夜回りで自宅を訪れると、そんな話をする。 小松頭取を「かわいくない」と暗に語っていた。 小松路線が気に入らないようだった。磯田がイトマンの河村社長を通じて進める平和相互銀行との合併に懐疑的で、国内より海外業務に力を入れていた。 そこで実務派で忠実な巽にお鉢が回ってきた』、なるほど。
・『◇「その筋とつながる」副頭取  「できる・明るい」で、頭取候補とされた玉井英二も「かわいくない」へと分類されていった。直言が嫌われた。 「できる・明るい・かわいい」と評されていたのが西貞三郎副頭取だった。支店長のころの部下で、磯田が引き立てた。イトマン処理でも磯田を支え、青葉台支店で事件化した光進の小谷氏とも繋がっていた。 事件の罪は支店長が全て被ったが、背後にいたのは西副頭取で「その筋とのつながり」が銀行内で噂されていた。 巽は、磯田が西に無防備であることを心配していた』、「「その筋とのつながり」が銀行内で噂されていた」のが「副頭取」とはやり闇世界との関係が少なからずあったようだ。
・『◇「磯田会長に引導」で決起した西川常務  イトマン処理は住銀上層部の亀裂を鮮明にした。 辞任を表明しながら人事権を握る会長に忖度する守旧派、「磯田会長に引導を」と動く玉井副頭取―西川善文常務ら改革派。巽は改革派に与しながらも「恩人磯田」に逆らえない。 そんななかで90年10月13日土曜、部長会が決起した。 西川の呼びかけで東京・信濃町の住友銀行会館に本部の部長たちが集まり、4時間かけてそれぞれが思いを語った。「磯田会長に退任を求める」と決議し、代表が大阪に向かい「連判状」を巽頭取に手渡した』、「西川常務」の「呼びかけで」「部長会」が「連判状」を巽頭取に手渡した」、ここまでドラマチックなことがあったとは初めて知った。
・『◇「恩人磯田」解任を決めた67歳の決断  「僕はその期待に添わなければならないね」と巽は西川に告げたという。巽が動き、3日後の16日、経営会議で磯田は会長から退いた。 同時に西副頭取の解任が決まった。西副頭取の排除は「住銀を守る」と決めた巽にとって欠かせない仕事だった。 67歳の10月13日は人生の転機となった。 頭取になっても「磯田の忠実な部下」だったが、呪縛は解け、住友銀行のトップに生まれ変わった』、「磯田」のような天皇の下では、後輩の役員は「磯田の忠実な部下」から出てこざるを得ないが、そこから弓を弾く人間も出てくるようだ。
・『◇地味な頭取を後任に選んだ思い  磯田が進めた「向こう傷は問わない」とする拡大路線の軌道修正に全力を注ぎ、93年に頭取の座を森川敏雄に譲った。森川も国際畑が長い実務派。巽と同様、下馬評に上がらなかった地味な頭取だった。「日頃は物静かでも危機に直面すると肝力を発揮する人がいる」と巽は森川を評したが、自らを語っているようにも思えた。
・『◇動乱期を引き継いだ西川氏も鬼籍に  巽が会長を退いた97年、西川善文が頭取に就任。その直後、山一証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻が起き、金融危機が火を噴いた。住銀はさくら銀行と合併し生き残りを図るなど銀行は再び動乱期に入る。 巽・森川時代は、バブルにまみれた住銀が不良債権の処理に追われた時期でもあった。住銀が得意とした違法すれすれの収益第一主義が反社会勢力の介在を許した反省から、穏やかな経営者が組織の傷を癒す「調整期」だった。磯田が築いた「収益ナンバー1銀行」の残滓を片付け西川に託す。それが住友銀行史での巽の役回りとなった。 磯田の流れをくむ果敢な経営に挑んだ西川も、一時代を築きながら、最後は不良債権処理で引責辞任した。巽はどんな思いで見守っていただろう』、「住友銀行」の徹底したやり方、そのブレの大きさ、などを改めて思い知らされた。
タグ:バブル崩壊(その他) (『ザ・ラストバンカー』2:三井住友銀行・西川善文が対峙した、減らない不良債権と批判の目、『ザ・ラストバンカー』3:不良債権最後の山場「ダイエー危機」に三井住友銀・西川善文がとった策、住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断) 現代ビジネス 「ベスト書再読『ザ・ラストバンカー』2:三井住友銀行・西川善文が対峙した、減らない不良債権と批判の目」 「不良債権と寝た男」 公的資金注入に向けられる世間の批判の目 九二年の八月に、宮澤(喜一)総理から軽井沢の別荘に招かれた そこには三菱、第一勧銀など大手行の頭取が全員、顔を揃えていた 不良債権を処理するための金融機関への公的資金注入についてどう思うか、内々の相談のようなものだったんだ 宮澤首相は、軽井沢で開かれていた自民党の夏期セミナーで、「公的援助」という表現で公的資金投入に触れていた いくら損失計上しても不良債権は減らない 大蔵省の不良債権償却証明制度 ある債権に損失発生リスクがあるかどうかを決めるのは大蔵省の専権事項で、同省の認可をもらってはじめて銀行は会計上、無税償却が可能となる ほとんどの銀行では無税償却と並行して有税償却も行っていた。 有税償却とは簡単に言えば赤字処理だ。これをすれば処理のスピードは上がるが、当然ながら当期利益は減る 当期利益は減る。この赤字分を埋めるために、簿価の低い保有株式を売却し、売却益を計上してマイナス分を軽減する、いわゆる益出しをする必要 結果的には株式の評価替えのような効果が出てしまう。つまり、保有株式の簿価がそのたびに上がってしまう 銀行の赤字決算はタブー中のタブー 「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかった 大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達 住友銀行 それまでと同様に時価評価にしていた 「あえて赤字決算にしようと覚悟を決めた」、とはさすが大したものだ 市場心理を見きわめた慎重な判断 「赤字決算」への「業績予想の修正」の発表を、「阪神・淡路大震災」による「株式市場」への影響が多少落ち着くまで遅らせたというのは賢明だ 赤字決算で投資家が銀行株買い 住友の「赤字決算発表」までは、日本の銀行は実態を隠していると批判されていたので、「赤字決算発表」が前向きに捉えられたようだ 赤字金額を変えていなかったら…… 少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていた 赤字幅は三三〇〇億円であるけれども、実のところは五〇〇〇億円程度の赤字があった もっと実態の悪さを正直に発表していればと、「内心「しまった!」と思ったというのは、多くを望み過ぎだろう 「ベスト書再読『ザ・ラストバンカー』3:不良債権最後の山場「ダイエー危機」に三井住友銀・西川善文がとった策」 二兆五六〇〇億円もの金融債務 巨額の有利子負債がバブル崩壊や売上減によってダイエーを大きく蝕んでいた 土地神話に根ざしたビジネスモデル 難局には西川が打ってつけ 「産業再生機構」への持ち込みに賛成していたのは、「三井住友銀行」だけで、UFJ銀行などは反対していた。 「産業再生機構」は銀行側に債権放棄をさせ、財務面は立ち直ったが、肝心の事業面では「再生」できないまま、イオンの子会社化しただけに終わった ローソンという宝 実は私は、ダイエーの経営が問題になった当初から、水面下でダイエー創業者の中内㓛氏と極秘裏に会っていた。月に一回、ホテルの部屋で朝に一時間程度だ。 私のどこが独断か 「率先垂範」の姿勢は、欧米では当たり前だが、日本の殆どの銀行には欠けていたようだ。 ビッグビジネスこうして動く 「率先垂範」の姿勢は、欧米では当たり前だが、日本の殆どの銀行には欠けていたようだ 「ゴールドマン・サックス」からの「資本調達」の条件が、余りに厳し過ぎるとの批判も一部にあったが、それが当時の「三井純友」の実力だったのだろう yahooニュース エコノミストOnline 山田厚史 「住友銀行を震撼させたイトマン事件で天皇「磯田会長」を退任に追い込んだ地味な頭取の67歳の決断」 「光進」の経済犯罪に住友銀行青葉台支店が加担」、そんな事件もあったのを思い出した 磯田子飼いの部下”が暗躍したイトマン事件 マツダ再建を果たした剛腕専務 確かに「マツダの再建」の手際は素晴らしかった 言うことを聞く頭取”を後釜に添えた 「巽」氏の「頭取」就任は確かに意外だった 自分にとって「かわいい」が評価基準 その筋とつながる」副頭取 「「その筋とのつながり」が銀行内で噂されていた」のが「副頭取」とはやり闇世界との関係が少なからずあったようだ。 「磯田会長に引導」で決起した西川常務 「西川常務」の「呼びかけで」「部長会」が「連判状」を巽頭取に手渡した」、ここまでドラマチックなことがあったとは初めて知った 「恩人磯田」解任を決めた67歳の決断 地味な頭取を後任に選んだ思い 動乱期を引き継いだ西川氏も鬼籍に 「住友銀行」の徹底したやり方、そのブレの大きさ、などを改めて思い知らされた。
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