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エンターテインメント(その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている) [文化]

今日は、エンターテインメント(その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている)を取上げよう。

先ずは、本年3月6日付けPRESIDENT Onlineが掲載した女の欲望ラボ代表・女性生活アナリストの山本 貴代氏による「「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/67004
・『沖縄本島の北東部に位置する“やんばるの森”にあるツリーハウスで作られたホテルが話題だ。美しいフォルムの螺旋階段を上った先、地上10mに居住空間がある。周囲は360度ジャングルだ。全くの建築の素人ながら、適切な大木を探し出し、ゼロから約8年かけて作った菊川曉さん(57)は「日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開し、このビジネスモデルを海外に輸出したい」という――』、「ツリーハウス」は多くの男の子の夢だ。
・『沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生  「この感動はサグラダ・ファミリア以来だ」「たいへんな感銘」「映画のような光景」「(大自然の中で滞在すると)素晴らしい孤独を見つけることができる」……。 那覇空港から車で2時間ほど。沖縄本島の北東部にある“やんばるの森”。ここに今、世界が注目する建築物がある。「建築主」は菊川曉さん(57)。といっても建築家ではない。東京都渋谷区に本社のある「ガーラ」の創業者でCEOだ。慶應義塾大学経済学部を卒業して広告代理店に5年勤務した後、1993年にベンチャー企業として同社を設立し、成長させた。現在は、メタバースやブロックチェーンなどWeb3.0を中心とするビジネスを展開している。 菊川さんが沖縄の手つかずの森の中に約8年の歳月をかけて作り上げた建築物とは、超本格的な“ツリーハウス”だ。これが国内外から称賛されている。 冒頭で紹介したのは、『ヴォーグ』『ナショナルジオグラフィック』といった海外メディアの菊川さんの“作品”に対する評価である。『フォーブス』は「ひとりの起業家の情熱的なプログラム」とその制作にかける熱量の高さや姿勢にスポットライトを当てた。 現在、3つの形の違うツリーハウスと地上の宿泊コテージ、そしてオープンテラスのレストランもあり、最大6人まで宿泊できる。2021年8月のオープン以来、多くの国内外の旅行者がやってくる。 2023年2月半ばには、国土交通省の和田浩一観光庁長官も「海事・観光立国フォーラム in 沖縄2023」で現地を訪れた際、菊川さんのツリーハウスも視察にやってきた。国のお墨付きももらい、その認知度は確実に高まっている。 基本的に1年のほとんどを、このやんばるの森で過ごすという菊川さんはこう熱く語る。 「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」 「自分の信条は、『この世に生まれた以上、世界一ではなく、世界初を目指す』ということ。そうしないと自分の生まれた意味がないと思っています。今、この夢を実現するために全力で走っています」 スケールの大きいビジョンだが、なぜ、建築のド素人がこんな壮大なプロジェクトを実現できたのか』、「沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生」、「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」、素晴らしい心構えだ。
・『建築のド素人がなぜツリーハウスをゼロから作れたのか  聞けば、幼少時に読んだ絵本に登場したツリーハウスへの憧れがそもそもの始まりだという。秘密基地のような存在にワクワクする経験は多くの子どもたちがしているが、たいていはそれで話は終わる。だが、菊川さんは見事に「形」にした。幼い頃の思いを、プランを立て、完成させるまでにはどんなプロセスがあったのだろうか。 「ベンチャーを立ち上げてからは仕事仕事の毎日。少し余裕ができた40代の終わりに、自分の中のウィッシュリストに、いつかツリーハウスホテルをやりたいという項目を入れたんです。 ちょうどその頃(16年前の2006年の年末)に、東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか。森のまま生かしたビジネスをして、自然と共存したい。そんなことをぼんやりと考えていました」 それから6年、ツリーハウスをゼロから作る思いが固まってきた頃(2013年)に、長女の万葉さんが学んでいたアメリカ・マイアミ大学の卒業式に参列したついでに中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた。 当時は、まだ日本にちゃんと人が寝泊まりできる本格的なツリーハウスはなかった。ましてやツリーハウスを洗練されたホテル仕様にしているところは世界でも珍しい、だから、自分が日本で初めてのツリーハウスホテルを作ろうと決心したという。 日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら不動産業者とやりとりし、大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた。 舞台は整った。だが、ここからが試練の連続だった』、「東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか」、「中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた」、「日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら・・・大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた」、凄い執念だ。
・『大工道具を使ったことなし、大きな毛虫の襲撃も  菊川さんは理系出身ではないが美術と数学が得意で、昔からアートとしての建物に興味があった。だから、「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」という。 ただ、机上で図面は引けるが、作るのは初めてだ。 大工道具の丸ノコも使ったことないし、水平・垂直・45度などを測定するツールである水平機という道具があることすら知らなかった。丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった。 「何度も絶望的な気持ちになりました。でも、いくら失敗しても、自分が諦めない限り、これは成功の途中であると言い聞かせました」 それでも作業中に泣きたいことは数えきれないほどあった。 「ツリーハウスの床張りをしていて、下を向いて作業していたとき、首筋にぽとっと見たこともないでかい毛虫が落ちてきて、泣きたくなりました。すごくただれちゃって。ぶよにも刺されパンパンに大きく膨れ上がりました」 作業がなかなか前に進まず、しょんぼりして東京に戻ったとき、「ここではお金を出せばなんでも買えるし、手に入る。なんて優しい街なんだ」とつくづく思ったという。エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった。 今は森の中にいることが多いせいか、視力が劇的に改善され、毎日が森林浴のおかげか、至って健康体なのだと笑う』、「「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」、「丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった」、「エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった」、執念には脱帽だ。
・『「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」  こうして道具の使い方も知らなかったズブの素人の手によって、最初のツリーハウスが完成した。名称は「スパイラルツリーハウス」。美しいフォルムのスパイラルツリーハウスの階段は、「伝説の螺旋階段」と呼ばれている。 通常のツリーハウスは樹上にあるものの、建築物は地面から支える構造になっている。しかし、このスパイラルツリーハウスは木の上からワイヤーで吊るす形状で、これまでは必須だった斜めの幹からのつっかえ棒も不要に。おかげでホストツリーに巻きつく螺旋階段で人が上がれるようになった。こうした仕組みも菊川さんが独自に考案した。 大アカギのグネグネとした有機的なフォルムと、幾何学的なツリーハウスが融合して、自然の力強さを強調している姿は、まさに、お互いがお互いを高め合っている。「デザイン力×技術的革新」「世界一かっこいいツリーハウス」と賞賛されるゆえんだ。 「設計も建築も自分でやったので、かかるのは材料費や道具代だけでした。スパイラルツリーハウスにかかった費用は150万円いくかどうかですね」 水の調達にも苦労した。最も近いコンビニでも車で30分はかかる山の中だ。水道が通っているはずがない。最初は、向こう岸の山から引いていたが、大雨が降ると水が茶色く濁るので、井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった。 作り始めてから、約8年。ツリーハウスはできたけれど、旅館業の許可が下りなかった。ツリーハウスとホテルとしてのインフラはできたが、難題はまだ残っていたのだ。 ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた。 宿泊物としての基準もクリアできたので、これで旅館業スタートの見込みが立った。旅館業の許可が出るまで2年。それを含め、全制作期間は、2014~2021年の足かけ7年8カ月。2021年夏にようやく開業にこぎつけた』、「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」、「井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった」、「ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた」、法律面のクリアもさぞ大変だったろうと同情する。
・『大手企業社員がアポなしで「働かせてほしい」と直訴  ツリーハウスホテルの運営を視野に入れつつプロジェクトをさらに進めるため、仲間を募った菊川さんは2020年に「ツリーフル」という会社も立ち上げた。社員は現在全13人、求人広告を出さない時も、その存在をインスタなどで知り、働かせてほしいと全国から優秀な人材が集まってきた。大手企業社員がアポなしでやってきたケースもある。ビルダーチーム、運営チーム、地上チームに分かれていて、今も新卒社員を募集中だ。ちなみに、草刈り係の正社員として、ヤギ(ドナちゃん)もいる。 菊川さんはどんな人かと聞くと、琉球大学で言語学と英語を学び、スイスのホテルやフロリダディズニーワールドでの勤務経験もある24歳のヒカリさん(運営チーム)はこう語った。 「常に新しいアイデアを生みだします。それを模索して実現させる力はすごい。本に載っていたらダメ。木を見ながら、みんなで考える。世界初ユニークなものをいつも求めています。私たち若い社員をがんばらせる力もあります」 テーマは、自然と人間との境界線をなくすこと。それは菊川さんとスタッフが共有するおきてだ。 現在、他のスタッフとともにホテル運営にたずさわっている菊川さん。もちろん本業の仕事もテレワークでしっかりこなしている。ツリーハウスを見上げながら現地を訪問した筆者にこう抱負を語った。 「ひとつ自慢があるんです。ここまで整備するのに、木をたったの1本しか切ってないんです。邪魔なものだと安易に排除せず、どうしたら森と仲良くできるか。それを常に考えています。自然と人間との境界線をなくすこと。太陽光を人間が独占しないこと。カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ(常にCO2吸収し、排出する二酸化炭素より吸収する二酸化炭素の方が多い状態)にすることを目指しています」 ビジネスであるからには儲けなければならない。しかし、自らに課したルールは守る。「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った。要は、土地を建物で塞がない。階段も建物をつなぐ通路もどこからも太陽光が入る仕組みになっている。したがって、雨水もたまらず地面に自然に染み入るようになっている』、「カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ・・・にすることを目指しています」、「「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った」、なるほど。「自らに課したルールは守る」、なかなか出来ないことだ。
・『リバートレッキングやバギーツアーも  「滞在してくださった方などを対象に環境教育もしています。日本はサスティナブルに対する取り組みが遅れています」 宿泊者はチェックイン後に、リバートレッキングに無料で連れて行ってもらえる。森について説明を聞き、ウェダー(レンタル)を着て川の中を歩き、滝を見る。1時間ほどの冒険体験ができる。 所有する別の敷地内(10万坪)では、8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意されている。赤土の岬を駆け登り、海を見下ろす絶景を見たかと思えば、今度は海辺へトレッキング。バギーで川へもずぶずぶ入り、本格的なジャングルクルーズのようだ。童心に帰るとともに、かなりのアドベンチャーが楽しめる。 昨夏できたばかりのツリーハウスサウナでは、その名の通り、サウナを楽しめる。崖の斜面に生えている木から吊られ、崖の下にある川の上の空間に浮いている。地上を0メートルとした時、サウナツリーハウスの一番下の部分はマイナス3.6mのため、世界で最も低いツリーハウスと公式にギネス世界記録に認められた。 少年時代のツリーハウスを作るという夢は、いつの間にか、地球の森を守るという壮大な夢へ切り替わった。今後、どんな仕掛けをするのか、その展開からは目が離せない。 最後になったが、筆者が実際にツリーハウスに宿泊した感想を少し。 宿泊可能な2つの施設のうち、エアロハウスはアジアのゴージャスなホテルのようで捨てがたがったが、迷った末に菊川さんが最初につくったスパイラルツリーハウスに2泊した。木の上に泊まるのは人生初だった。 これまでの人生でそれなりにゴージャスなホテルや、自然の中にあるホテルに宿泊体験があったが、ここまで360度、自然と一体になって眠りについたことはなかった。夜は雨がザーザー降っていたが、不思議とぐっすりと眠ることができた。森の中にすっぽりと自分が溶け込んだような体験は後にも先にもない。あの光景と空気を思い出すたびに癒やされている』、「8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意」、楽しそうだ。宿泊料金は1人1泊で12万円と安くはないようだ(同社ホームページ)https://treeful.net/ja/ 今後の展開が注目される。

次に、3月31日付けPRESIDENT Onlineが掲載したエンタメ社会学者・Re entertainment社長の中山 淳雄氏による「入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/67879
・『サンリオは東京都多摩市と大分県日出町の2カ所でテーマパーク事業を行っている。だが、開業以来、構造的な赤字が続いている。単純計算で来場者1人あたり3000円の赤字となっている事業を、なぜやめないのか。エンタメ社会学者の中山淳雄さんは「そこにはサンリオの長期的な戦略がある」という――』、私は創業間もない頃、家族連れで行ったが、室内だったこともあり暗い印象だったことしか覚えていない。
・『サンリオピューロランドは成功といえるのか  サンリオピューロランド(SPL)といえば、東京都多摩市に位置する、サンリオキャラクターのテーマパークである。 1990年12月にオープンした当時、日本初の「屋内型」で(世界では韓国ロッテワールドに次ぐ2番目の事例)、1960年設立のサンリオにとっては創立30周年記念事業でもあり、総工費650億円を賭けた一大事業であった。続く91年4月には大分県にハーモニーランド(HL)をオープンした。 折しも日本は1983年東京ディズニーランド(TDL)の大成功や1987年のリゾート法制定により、日本全国レベルでホテル・リゾート・ゴルフ場などとともに、テーマパークが乱立する時期である。 だがこの1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い。 ハウステンボスのように3度所有者が替わり、経営再建をされ続けた事例もあり、かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない』、「1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い」、「かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない」、なるほど。
・『30年でかかった費用は1320億円  だがよくよくその実績をみると、そんな生易しいものではなかった。赤字がとめどなく垂れ続けながらも、なんとか意地と本業の利益で持ちこたえてきた、といったほうが正しいかもしれない。 SPLは初年度195万人(入場者数は決算IR資料を基にしている。以下同)、これは順調な滑り出しだったといえるが、5年後には半減。 その後10年以上にもわたって売上・来客は減少を続け、コストカットで赤字幅こそ減らしていったが2008年にはSPL・HL合わせて101万人、売上62億、赤字14億円。 「ミラクルギフトパレード」をきっかけに123万人→152万人と集客が大きくあがったのが2015年。小巻亜矢社長の改革の下、「ぐでたま」「アグレッシブ烈子」など新規のライブキャラクターも登場し、ぐんぐん改善するなかで2017年度に悲願の黒字化達成。 2018年には来場者193万人と創業以来の数字にまで到達。こうして振り返ってみると、1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかないのだ』、「1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかない」、寂しい限りだ。
・『入場するごとに3000円の赤字  サンリオはこの32年間、2つのテーマパークを合わせて、延べ約4000万人の来場者を迎えてきた。 初期建設費770億円(SPL:700億円、HL:140億円の51%負担分)に加え、32年間で積みあがった累積営業赤字は550億円。 つまりサンリオは本業で稼いだ利益を費やして、単純計算で1320億円(※資金調達手段の違いや利子率、償却費は計測できないので含めず)もの赤字をかけて、この2つのテーマパークを守り続けてきた。 これは単純に計算すれば、ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である。 SPLが赤字で運営されていようと、その場に足を運んだ数千万人はよりサンリオを好きになり、サンリオのグッズを将来買ってくれるに違いない。そういった期待もあって、テーマパーク事業自体の赤字は受容されてきた。 特に初期の1992~94年あたりは売上80億円前後に対して毎年営業利益が50億円~60億円もマイナス、撤退という判断があってもおかしくはなかった数字だろう。 実はこれはサンリオに限った話ではない。 この時代、長崎オランダ村(1983年設立、2001年閉鎖)、スペースワールド(1990年設立、2017年閉鎖)、ナムコ・ワンダーエッグ(1992年設立、2000年閉鎖)、東京セサミプレイス(1990年設立、2006年閉鎖)、松竹の鎌倉シネマワールド(1995年設立、1998年閉鎖)、ウルトラマンランド(1996年設立、2013年閉鎖)と、多くのパークが初期の大型投資と、その後の周辺人口の来客数・顧客単価が合わず、最初の3~5年で大赤字、10年後には再建・撤退検討となっている事例が珍しくなかった。 それでもサンリオが継続できたのは、テーマパークが専業ではなく、あくまで本業を支援する事業としての位置づけがあったからだろう』、「初期建設費770億円」、「累積営業赤字は550億円」、合わせて「1320億円」の赤字、「ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である」、「未来への投資」とは苦しい印象も受ける。
・『なぜ世界中で店舗を運営したのか  サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出するため「ギフトゲート」(1971年~)、顧客層をより大人に向けた「vivitix」(1996年~)という直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた企業でもあった。 これはディズニー社が初めて直販事業を手掛けた「ディズニーストア」(1987年~)の10年以上前から手掛けてきた話だ。 2003年には国内で直営でも160店舗、百貨店・量販店・専門店も合わせると1470店舗(現在のゲオやTSUTAYAと同じくらいの国内店舗規模)。 北米を中心に海外にすら直営21店舗含む400店舗、取扱店にいたっては2万店舗という広大な流通・小売のネットワークを敷いていたことは20年経つ現在でも信じられない数字だ。 自社だけで1万2000種類の商品群に、毎月600種類ずつの新商品が出され、ライセンスでも2万1000種類の商品が展開された。果たして日本のキャラクターでこのレベルにまで海外の隅々に商品を届けられた事例は過去歴史上あったのだろうか。 1990年代のサンリオ破竹の勢いをみると、逆に前述のSPL・HLを赤字でも維持できた「王者の余裕」も垣間見える』、「サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出」、「直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた」、なるほど。
・『世界にいち早く進出したキャラクター  テーマパーク事業はアジアにも派生する。1992年にSPLの中国輸出のプロジェクトが始まった。 投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画された。 それは中国にとどまらず1993年には中国・深圳でもテーマパーク設立の打診を受けつつ、タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設されている。 現在残っているものは多くはないが、ポケモンやガンダム、少年ジャンプ作品などと比べても、ハローキティほど海外でテーマパークになったキャラクターは他に存在しない。 こうした外資からの投資呼び込みとともに、積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンでショーを展開、1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開された。 それに従いSPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画されていった』、「テーマパーク事業はアジアにも派生する・・・中国では投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画・・・タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設」、「積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンで・・・1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開・・・SPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画」、進出形態は様々なようだ。
・『あきらめの悪い会社  90年代後半に花開くが、実は1980年代から90年代初期に至る長い間、サンリオの海外展開は「冬眠状態」でもあった。 1976年とかなり早い時期に米国進出を果たし、流通もないなかでキティ人形を片手にセールスマンが個人宅を訪問して売り歩くようなドブ板から始め、ある程度人気は出た。 ハリウッド映画づくりからニューヨーク進出までさまざまな取り組みを行ってきた80年代、米国事業はずっと赤字のままだった。 そのくせ1990年になってもサンリオの海外売上高は全体の5%にも満たなかった。だがこのあきらめの悪い悪戦苦闘の中にこそ、その10年後に輝く種が眠っていたともいえる。 「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱。 シンガーソングライターのリサ・ローブを代表に、キティ好きアーティストは米国で多く登場し、遂にはレディー・ガガともタイアップも実現させている。 当時米国でキティは「おしゃれ」の代表となり、同時にマイノリティ人種やLGBTが反体制のシンボルとして使いだした。政治メッセージすら象徴する一大キャラクターとなった』、「「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱・・・」、極めて効果的かつ効率的だ。
・『世界中で起きたキティブームの仕掛け  SPLも1996年ごろから外国人観光客が増加、ディズニーランドの5%と比べると倍となる全体の10%が外国人観光客といった数字もたたき出しており、そこから20年後に起こる日本のインバウンドブームの先駆けともいえる。 もちろん日本でも1997年ごろから華原朋美が身に着け、女子高生の間で「キティラー」が多く誕生していたこの時期、実はサンリオも意識的にブランドPRを活用していた。 四半期ごとに50~70人の有名芸能人に自社商品を送り、間接的なPRは戦略的に行われていた。 日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている』、「日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている」、大したものだ。
・『ビジネスモデルの限界でやったこと  「日本国内」の売上は1998年の1400億円をピークに、現在の450億円までほとんど回復の機会がなかった。 これは新聞、出版、百貨店、アパレルなどの産業と同じくし、「モノを売る」というビジネスモデルの限界を示している。 対して、その後の20年間サンリオを支えたのは「海外」である。1990年代は70億円~80億円だった海外売上は、00年代に150億円前後、ピークの2013年300億円まで上がり続けていた。 米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える』、「米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える」、なるほど。
・『たった4年で黒字になったワケ  SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏、1983年にサンリオに入社し、結婚退職した後50歳を過ぎてから東大教育学の修士に入り卒業。2014年に子会社の顧問に就任し、2016年SPL館長となった。 2014年赴任時に役員会で出た次のセリフに衝撃を受ける。「この会社は黒字にならない。無理、無理」。そして冒頭で述べたように、黒字化はその後の2017年度に実現することになる。 小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功する。 黒字になると自然と施策の打ち手にも幅が広がり、イベントを増やしたり、新規でキャラクターフードを開発したり、イルミネーションショーを導入したり、コロナ前の2017~19年、SPLやHLはどんどん活気づいていた』、「SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏」、「小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功」、大したものだ。
・『投資の真価が問われるのはこれから  コロナ禍での2020年は当然テーマパーク事業も赤字転落、そしてサンリオ本体も含めて1994年以来の26年ぶりの赤字に陥る。 「底」を見た後、創業者・辻信太郎氏の孫である辻朋邦氏の社長就任に伴い、直営店の整理や商品数の削減など過去手が付けられなかった案件にもさまざまな構造改革の成果が見え、テーマパーク事業も再度黒字化のめどが立ちつつある。 今年でサンリオは創業63年、キティが誕生49年、もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。東京都心30分という地理のアドバンテージをまだ生かし切れているとはいえない。 果たしてこの1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい』、「もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。」、「1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい」、やはり「サンリオ」の今後は要注目だ。
タグ:「「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。 モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱・・・」、極めて効果的かつ効率的だ。 1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンで・・・1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開・・・SPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画」、進出形態は様々なようだ。 PRESIDENT ONLINE そこで大アカギの木を不動産として登記し、その木の上の工作物だから「建築物にはならない」ということが、理論的なバックアップとなりようやく認められた」、法律面のクリアもさぞ大変だったろうと同情する。 「8輪車の水陸両用バギーで絶景ツアー(有料)のアクティビティも用意」、楽しそうだ。宿泊料金は1人1泊で12万円と安くはないようだ(同社ホームページ)https://treeful.net/ja/ 今後の展開が注目される。 「テーマパーク事業はアジアにも派生する・・・中国では投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画・・・タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設」、「積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。 「1990年からの32年間の運営において、黒字だったのは17~19年の3年間しかない」、寂しい限りだ。 山本 貴代氏による「「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの」 「「建築の構造計算は独学で修得し、今回のツリーハウスも自分で設計した」、「丸ノコでまっすぐな直線を引く際には欠かせない「丸ノコガイド90度」の存在も知らなかったので、原始的なL字定規で、鉛筆で印をして切ったそうだ。取説片手に四苦八苦して、工具とその使い方を手探りで学び、失敗を繰り返しながら、一歩ずつ前進していった」、「エネルギッシュに日々進化する都会の姿を目の当たりにして「俺、沖縄の森で何やっているんだ」と惨めな気持ちになることが何度もあった。それでも諦めなかった」、執念には脱帽だ。 「設計も建築も自分でやった。コストは150万円だけ」、「井戸を掘る決断をした。「川の近くだから、掘っていけばきっと水が出るだろう」。そう考え、矢倉を組み、手掘りで掘っていったら3.5メートルの地点で水が出た。紫外線を通す機械でUV殺菌をしていて、筆者も飲んだが、とてもおいしい水だった」、 中山 淳雄氏による「入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている」 「カーボンニュートラルよりもさらに環境にいいカーボンネガティブ・・・にすることを目指しています」、「「野生動物が地面を歩けるように、そして植物も生えるようにしなければいけない」という決め事を厳守するために、建築物は全て地上から1.2メートル離して作った」、なるほど。「自らに課したルールは守る」、なかなか出来ないことだ。 「ツリーハウスをホテルにするためには旅館業の許可が必要だが、生きている木を建築物の一部に使っているので、これが違法建築だと申請が下りなかったのだ。クリアするためには、「ツリーハウスは、建築物ではない」と証明する必要があったが、いろいろと調べていくと、「立木りゅうぼく法」という1909年にできた古い法律にたどり着いた。 生きている木と土地は別の物と考え「生きている木は不動産として登記できる」というものだ。 エンターテインメント 「サンリオは「空間演出」に重きを置いてきた企業だ。単にモノを置いて売る場所ではなく、ユーザーが心の充足感を味わえる空間を演出」、「直営店舗そのものにもコンセプト別に店舗にブランドをもたせた展開をしてきた。 提携店舗であっても同様で、伊勢丹の「ギフトイン」や高島屋「いちごプラザ」など、百貨店ごとにすらブランドを付け替え、20世紀にいち早く“身近なテーマパーク的空間”を先駆けてきた」、なるほど。 私は創業間もない頃、家族連れで行ったが、室内だったこともあり暗い印象だったことしか覚えていない。 「1980~90年代前半に建設された36ものパークのうち、事業継続しているのは17と生存率は半分以下。それも東武ワールドスクウェアや肥前夢街道など比較的小規模なものが多く、長崎オランダ村、ナムコ・ワンダーエッグ、新潟ロシア村など事業規模が大きければ大きいほど失敗事例も多い」、「かなり大型投資だったSPLは30年間以上維持継続ができているだけでも、「成功例」といえるレベルなのかもしれない」、なるほど 「ツリーハウス」は多くの男の子の夢だ。 「沖縄の山深くに世界注目のツリーハウスホテル誕生」、「私は、日本初の森を活用したツリーハウスリゾートを全国展開したいと考えています。森を守ることを絶対ルールとしながら、人々が宿泊でき、ダイナミックな自然体験もできるリゾート施設を完成させ、その森を運営して儲かる仕組みもつくりたい。ゆくゆくは、このビジネスモデルを東南アジアなど世界へ輸出したいと思っています」、素晴らしい心構えだ。 「中米コスタリカにあると聞いたツリーハウスホテルを訪ねた」、「日本に戻って最初にしたこと、それはホストツリーとなる大木探しだ。建物を支えるような大木は、山奥にしかない。東京と沖縄を行き来しながら・・・大木と土地を足を棒にして探し歩いた。何度も原生林を歩き回った結果、ようやくすばらしい大アカギの木が見つかり、1万坪の土地も手に入れた」、凄い執念だ。 (その1)(「これはガウディ級だ」建築のド素人57歳が沖縄の深い森の中に8年かけてツリーハウスホテルを作ったワケ 「世界一ではなく世界初を」本業の傍ら泣きそうになりながら作り上げたもの、入場者1人あたり3000円の赤字…サンリオが大赤字事業「ピューロランド」を32年間も続けている理由 5000円の支払いに8000円分のサービスをしている) 「初期建設費770億円」、「累積営業赤字は550億円」、合わせて「1320億円」の赤字、「ファン1人あたり平均2000円の入場券とグッズや飲食費3000円で合計5000円を使っているが、実際そのサービスには8000円のコストがかかっている、ということになる。 このファン1人ずつに「サンリオが支払っている余分な3000円」は未来への投資である」、「未来への投資」とは苦しい印象も受ける。 「東南アジア・ボルネオ島のコタキナバルへ野生のオラウータンを見に家族で旅行したとき、原生林をパームヤシ畑に変えてビジネスする姿をみて強い衝撃を受けました。 『これではいずれ熱帯雨林がなくなり、地球の温暖化促進され、生態系も崩れてしまう』と感じたんです。それを防ぐためにも、森を利用したツリーハウスリゾートをつくろう。森も守ることができるし、雇用も生むことができる。これで世界は救われるのではないか」、 「日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。 2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている」、大したものだ。 「米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。 だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。 皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える」、なるほど。 「SPLのV字回復の立役者は小巻亜矢氏」、「小巻氏の施策は、コミュニケーション&モチベーション(朝礼でのナレッジ共有、女性トイレの整備、スタッフ感謝デー導入)とターゲット拡大(大人も楽しめるイケメン俳優2.5次元ミュージカル導入、松竹と歌舞伎ショーを共同開発、シナモン男祭りなどの男性限定イベント)の2つの面が功を奏し、2010年代のテーマパーク市場全体の好景気の波に乗ることに成功」、大したものだ。 「もはや「ショップ体験によるサンリオ商品コレクション」が中心のビジネスモデルではなくなっているが、「体験」をユーザーに訴求する“原点”としているところは今後も変わることはないだろう。 その意味ではショップやテーマパークのもつ可能性は、いまだ大きいといえる。」、「1000億円以上をかけ続けた壮大な事業の「真の成果」がどう表れてくるか。2023年以降の動きに注目したい」、やはり「サンリオ」の今後は要注目だ。
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