SSブログ

大学(その13)(25歳でフリーターからプロテニスへ…全国模試5位、開成ー東大卒の“天才“が歩んだ壮絶な学生時代「ガリ勉の極致みたいな世界だった」テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#1、「俺、人生間違ったわ」「マジで地獄を見た」貯金0でバイト生活…東大卒のエリート(39)はなぜいきなりテニスを始めたのか テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#2、「開成・東大の同期は港区のタワマンに…」年収200万円、未経験から世界ランクを獲得した男性(39)が送ったテニス一筋の14年間 テニス選手・市川誠一郎さんイ [社会]

大学については、本年8月13日に取上げた。今日は、(その13)(25歳でフリーターからプロテニスへ…全国模試5位、開成ー東大卒の“天才“が歩んだ壮絶な学生時代「ガリ勉の極致みたいな世界だった」テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#1、「俺、人生間違ったわ」「マジで地獄を見た」貯金0でバイト生活…東大卒のエリート(39)はなぜいきなりテニスを始めたのか テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#2、「開成・東大の同期は港区のタワマンに…」年収200万円、未経験から世界ランクを獲得した男性(39)が送ったテニス一筋の14年間 テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#3)である。つまり、大学そのものではなく、開成ー東大と典型的なエリートコースに乗っていながら、卒業後、趣味の音楽、さらにはテニスへと進路を選んだ人間を紹介することで、大学の意味を改めて考えさせるエピソードを取上げた。

先ずは、9月9日付け文春オンライン「25歳でフリーターからプロテニスへ…全国模試5位、開成ー東大卒の“天才“が歩んだ壮絶な学生時代「ガリ勉の極致みたいな世界だった」テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#1」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/65282
・『開成中学・高校から東大に進んで現代音楽家を目指すも、25歳で経験のなかったテニスの世界へ飛び込み、ヨーロッパを拠点に活動するテニス選手・市川誠一郎(39)。 今年5月にダブルス世界ランキングで2090位になった彼に、勉強や中学受験をゲームのように捉えていた少年期、音楽に魅せられた開成時代、あらゆる音楽を探求すべく世界を回った日々などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/続きを読む)(Qは聞き手の質問)』、興味深そうだ。
・『子供の教育に目を向ける余裕もなかった両親  Q:開成中学、開成高校、東大、テニスとなると、どうしても富裕層のイメージがあるのですが。 市川誠一郎(以下、市川) まぁ、そう思われますよね。実家は町のスーパー的な商店をやっていて、僕が中学生ぐらいまではそこそこうまくいっていたけど、全国チェーンの大きなスーパーの勢力がどんどん拡大してきて。それでうちのスーパーは、どんどん先細りになって他のスーパーに買収されて、父親はそこの社員になったので、ぜんぜんお金持ちではなかったです。 Q:両親は教育熱心だったのですか。 市川 ぜんぜんでしたね。スーパーの経営で忙しかったから、親はほとんど家にいなかったですし、子供の教育に目を向ける余裕もなかったというか。缶チューハイの空き缶とタバコの吸い殻が、キッチンのシンクに山積みになっている風景が当たり前の家だったので。それでも、塾には通わせてもらってました』、「両親は教育熱心だったのですか。 市川 ぜんぜんでしたね。スーパーの経営で忙しかったから、親はほとんど家にいなかったですし、子供の教育に目を向ける余裕もなかったというか・・・塾には通わせてもらってました」、「塾」が刺激になったようだ。
・『順位の競争が激しい日能研に入塾  Q:塾に通ったのは、自分の意志で? 市川 そうです。でも、勉強したいからって理由で塾に通ったんじゃないんです。小学校のとき、鉄ちゃんと呼べるほどじゃないけど、ものすごく電車が好きで。電車に乗って出掛けたいがために、ちょっと遠くの日能研に行かせてほしいと親にせがんだんです。 当時の日能研って、毎週やる全国模試みたいなのがあって。2万人ぐらい受けていたのかな。その順位表から各校の上位50人ぐらいが壁に貼り出されて、席順なんかも点数で決められるんです。だから、座っている場所を見ただけで、その子が何位なのかがわかっちゃう。 さらに全国の上位2000番ぐらいの子は冊子に名前が載って、上位50人になると名前が冊子の表紙にも載って。すっごくシビアな競争社会なんです。多くの人が想像するようなガリ勉の極致みたいな世界だけど、それよりもeスポーツに近しい世界なんです』、「当時の日能研って、毎週やる全国模試みたいなのがあって。2万人ぐらい受けていたのかな。その順位表から各校の上位50人ぐらいが壁に貼り出されて、席順なんかも点数で決められるんです。だから、座っている場所を見ただけで、その子が何位なのかがわかっちゃう。 さらに全国の上位2000番ぐらいの子は冊子に名前が載って、上位50人になると名前が冊子の表紙にも載って。すっごくシビアな競争社会なんです。多くの人が想像するようなガリ勉の極致みたいな世界だけど、それよりもeスポーツに近しい世界なんです」、なるほど。
・『「こいつら、マジでヤベえな」勉強ガチ勢の成績上位者に震える  Q:勉強にゲーム性を感じたと。 市川 シューティングゲームみたいな感覚で、そこに僕はハマったんですよ。スポーツとも近くて、相手と対戦する競技ではないけど、陸上みたいに自分で記録を伸ばしていく感じ。で、日本一の成績を取りたいなって。 そこにのめり込んじゃって。勉強自体がどうかじゃなく、席順を良くしたり、点数を上げていくことにすごく夢中になって。ほとんどの生徒は親に勉強をやらされてるけど、やっぱり上に行くほどガチで勉強していて、マジで強いヤツっているんですよ。 成績上位者の選抜クラスに呼ばれるんですけど、そこに順位表に名前が載っているヤツがいるわけです。すでに順位表で名前も点数も知っているから、顔を見て「こいつが、数学がすげえ〇〇か」とか「国語がすごい〇〇って、こいつか」なんて思って。で、そういう子たちが授業でとんでもない問題を解いているのを見て「こいつら、マジでヤベえな」って震えましたね。思わず「どうやって勉強してるの?」と聞いちゃいましたけどね。 もうどいつもこいつもガチ勢すぎて、もはや選手って感じでしたね』、「勉強にゲーム性を感じたと。 市川 シューティングゲームみたいな感覚で、そこに僕はハマったんですよ。スポーツとも近くて、相手と対戦する競技ではないけど、陸上みたいに自分で記録を伸ばしていく感じ。で、日本一の成績を取りたいなって。 そこにのめり込んじゃって。勉強自体がどうかじゃなく、席順を良くしたり、点数を上げていくことにすごく夢中になって。ほとんどの生徒は親に勉強をやらされてるけど、やっぱり上に行くほどガチで勉強していて、マジで強いヤツっているんですよ。 成績上位者の選抜クラスに呼ばれるんですけど、そこに順位表に名前が載っているヤツがいるわけです。すでに順位表で名前も点数も知っているから、顔を見て「こいつが、数学がすげえ〇〇か」とか「国語がすごい〇〇って、こいつか」なんて思って。で、そういう子たちが授業でとんでもない問題を解いているのを見て「こいつら、マジでヤベえな」って震えましたね。思わず「どうやって勉強してるの?」と聞いちゃいましたけどね。 もうどいつもこいつもガチ勢すぎて、もはや選手って感じでしたね』、できる子どもたちとの競争を「シューティングゲームみたいな感覚で、そこに僕はハマった」、とは本当にいい刺激になったようだ。
・『勉強だけにフォーカスするためにゲーム機やソフトを封印  Q:ガチ勢を前にひるむどころか、より闘志を燃やしてしまったんですね。 市川 そいつらに絶対勝てるように、週間計画表みたいなものを作って「毎日、この時間はこれを勉強する」って細かくスケジュールを立てて。 その子たちよりも多くの勉強量をこなさなきゃって、どんどんエスカレートしていって、ご飯を食べている最中にも勉強をしていました。親には「食べながら勉強なんかするな」とか「早く寝ろ」とか言われてましたけど。 Q:勉強をゲームのように捉えられるぐらいですから、実際のゲームにもハマったのでは。 市川 ゲームは、まぁまぁ好きだったかな。「東京ゲームショウ」でやっていた「ぷよぷよ」の大会に出て勝ったことがありますね。小6の頭までは、塾の友達の家に遊びに行ってゲームしていましたけど、小6の途中で封印しました。 なにかにのめり込むと「これ以外は絶対やっちゃ駄目」みたいなところがあって。勉強だけにフォーカスするために、ゲーム機やソフトもどこかにしまって本当に封印しちゃって。 Q:志望校は、開成一択でしたか。麻布中や武蔵中なども目指していましたか? 市川 日本一の成績を取りたいってところから始まっているので、受験に関しても偏差値が一番高い学校に一番の点数で合格したかったんです。試験日が同じ日に重なっていたら、そのなかで最も偏差値の高い学校を受けるようにして。) 開成、麻布、武蔵の御三家って、当時は同じ日に試験があったと思うんですけど。開成が一番強かったので、開成を受けることに決めたんです。“一番強かった”って発想が、もうおかしいんですけど(笑)。 場所よりも偏差値が重要だったので、親に灘とか栄光も受けたいと言ったけど、住んでいた千葉から遠すぎて却下されました。あと、麻布のほうがちょっと自由な校風なので、親に「こっちのほうが合ってるんじゃないの?」的なことを聞かれた覚えはありますけど、僕は偏差値しか考えてなかったです』、「小6の頭までは、塾の友達の家に遊びに行ってゲームしていましたけど、小6の途中で封印しました。 なにかにのめり込むと「これ以外は絶対やっちゃ駄目」みたいなところがあって。勉強だけにフォーカスするために、ゲーム機やソフトもどこかにしまって本当に封印しちゃって」、目的のためには、「ゲーム機やソフトもどこかにしまって本当に封印」とは、自制心がことのほか強いようだ。
・『開成で全国模試1位~5位勢に会い、中3のなかばまで勉強に燃える  Q:開成のほかに受けた学校って。 市川 1月に試し受験といって、中学受験生はみんなどこかしら受けるんですね。あと、滑り止めもその時期に受けておく。僕は千葉在住だったので、市川学園、東邦、渋幕(渋谷教育学園幕張中学校)かな。 2月1日から都内の学校の試験が始まって、開成、栄光、海城、慶應を受けたかな。とりあえず、開成を含めてすべて受かりましたね。慶應は1次の後に面接があったはずだけど、面接は受けなかったんじゃないかな。 開成に合格したときは、嬉しくて親に抱きついたのを覚えていますね。帰りに、秋葉原でプレイステーションを買ってもらって。まぁ、開成には受かったものの、日本一にはなれなかったですけどね。小6の模試で全国の5位より上には行けなかった。 Q:ひょっとして、その上位5人も開成に。 市川 1番から5番勢に会うわけですよ。「こいつらか……この野郎」と思って、中3のなかばまで勉強に燃えていました』、「開成に合格したときは、嬉しくて親に抱きついたのを覚えていますね。帰りに、秋葉原でプレイステーションを買ってもらって。まぁ、開成には受かったものの、日本一にはなれなかったですけどね。小6の模試で全国の5位より上には行けなかった。 Q:ひょっとして、その上位5人も開成に。 市川 1番から5番勢に会うわけですよ。「こいつらか……この野郎」と思って、中3のなかばまで勉強に燃えていました」、さすが「開成」だ。
・『社会人音楽サークルでバンド活動に打ち込むように  Q:中3のなかばで、なにかあったのですか。 市川 普通、中1や中2あたりで「将来、なにをしたいんだろう」「なんで、こんなことやってるんだろう」とか考えるじゃないですか。僕は精神的に幼くて、それが中3でやってきたんです。「いま頑張ってやってる勉強も、大学受験で終わっちゃうよな」「よく考えたら、べつに勉強が好きじゃないんだよな」とか思い始めて、「なんで好きなことに、このエネルギーを割いてないんだろう。すごい時間の無駄じゃない?」ってところに行き着いて。 そう考えちゃうと、ピタッと勉強するのをやめました。僕は極端で、やりたくないことに対しては1分であろうとも時間を使うのがイヤなんですよ。一応、成績は開成中学のトップ10内に入ってたんですけど。 Q:そのタイミングで勉強を上回るものと出会う?) 市川 音楽ですね。ちょうど、「BUMP OF CHICKEN」とか出てきた頃で、「Hi-STANDARD」とかJ-POPのバンドを聴いて。そのまま開成高校に上がって、そんなに音楽のことを知ってもないのに社会人の音楽サークルに入ってバンドをやりだしました。で、バンド仲間が洋楽を聴いているので、僕も影響されて聴くようになって。 高3になって間もない頃、その社会人サークルのお兄さんたちに「音楽の専門学校に行って、ミュージシャンになろうかなと思って」と話したら、メチャクチャ止められて。「そんないい学校に行ってるなら、大学に進みなよ。大学に行ってからでも、ミュージシャンはなれるから」と言われて。高校生の当時、音楽で生きていける自信が持ちきれなくて、説得されているうちに「じゃあ、受験するか」と』、「僕は極端で、やりたくないことに対しては1分であろうとも時間を使うのがイヤなんですよ。一応、成績は開成中学のトップ10内に入ってたんですけど」、それでも「トップ10内」とは大したものだ。「「BUMP OF CHICKEN」とか出てきた頃で、「Hi-STANDARD」とかJ-POPのバンドを聴いて。そのまま開成高校に上がって、そんなに音楽のことを知ってもないのに社会人の音楽サークルに入ってバンドをやりだしました・・・高校生の当時、音楽で生きていける自信が持ちきれなくて、説得されているうちに「じゃあ、受験するか」と」、なるほど。
・『東大がダメだったら早稲田か慶應に行くつもりだった  Q:すんなりと勉強モードへ切り替えられましたか。 市川 大学まで行っちゃえばいいんだから、高3の1年だけは頑張ろうって思い切ることはできましたね。でも、最初に受けた模試とか偏差値35ぐらいしかなくて。最後の最後までE判定しか出てなくて、ギリギリで受かりましたね。 Q:東大一択で。 市川 滑り止めで、早稲田と慶應を受けてます。とにかく大学に入って音楽をやりたかったので、東大がダメだったら行くつもりでした。連続で早稲田と慶應を受けたけど、ものすごい熱が出ちゃって。東大のほうで追い込みすぎて体調を崩したと思うんですけど、両方とも受かってました。それで心置きなく、東大の受験に臨めましたね。 Q:滑り止めが、早稲田と慶應ですか。 市川 早稲田や慶應は寝ていても受かるレベルじゃないと、東大には受からないです。難易度的に、そのぐらい違います』、「早稲田や慶應は寝ていても受かるレベルじゃないと、東大には受からないです。難易度的に、そのぐらい違います」、なるほど。
・『東大入学後は音楽漬けの日々  Q:東大は、理1ですか? 市川 理2で入りました。理系の生物系です。物理はあんまり好きじゃなかったので興味を持てず、おのずと生物系を選ぶことになりましたね。 中学受験のときみたいに、eスポーツ的な感覚で理3を目指してみたい気持ちもあったけれど、僕は音楽をやってる間に成績も落ちて、そんな余裕はありませんでした。 理3はどんなに頭がよくても落ちることがありえるので。開成のトップ10にいたヤツでも、試験でちょっとミスったら落ちちゃうぐらいですから、そんなリスクは取れなかった。早く大学に入って音楽をしたかったので、浪人なんかしてる場合じゃなかったです。 Q:東大入学後は、音楽漬けで。 市川 ほとんど勉強してないですし、ぜんぜん成績もよくなかったです。というか、自分の成績を見てもないし、卒業もしてもしなくてもいいみたいな感じでした。) 入学してからは古い洋楽を遡って聴いて、ロックに関しては最終的にイギリスのロックが好きになりましたね。東大はジャズのミュージシャンを呼んだ講義もあるので受講して、ジャズがすごく好きになって渋谷のジャズ喫茶にも入り浸って。現代舞踊やバレエの講義もあったので、そこからクラシックとか民族音楽に触れて、パイプオルガンを弾いて、ベルカントってイタリアの伝統的な歌唱法のサークルに入って曲を作って。 そんな感じで、音楽の興味も一気に広がったんですよね。一通り知っておかないと、すごく浅い音楽しかできなくなるだろうなって。とにかく音楽のことを知らなすぎたので、広く音楽を聴いて、そのルーツも知りたいなと思ったんですね』、「理2で入りました。理系の生物系です・・・理3はどんなに頭がよくても落ちることがありえるので。開成のトップ10にいたヤツでも、試験でちょっとミスったら落ちちゃうぐらいですから、そんなリスクは取れなかった。早く大学に入って音楽をしたかったので、浪人なんかしてる場合じゃなかったです」、確実に東大に入るにはやはり「理2」のようだ。「入学してからは古い洋楽を遡って聴いて、ロックに関しては最終的にイギリスのロックが好きになりましたね。東大はジャズのミュージシャンを呼んだ講義もあるので受講して、ジャズがすごく好きになって渋谷のジャズ喫茶にも入り浸って。現代舞踊やバレエの講義もあったので、そこからクラシックとか民族音楽に触れて、パイプオルガンを弾いて、ベルカントってイタリアの伝統的な歌唱法のサークルに入って曲を作って。 そんな感じで、音楽の興味も一気に広がったんですよね」、なるほど。
・『ギターだけ持ち、あちこちの国を回って世界の音楽を追求  Q:東大の音楽サークルには入らなかったのですか? 市川 入りましたよ。最初はバンドサークルに入って、バンドをやって。「ジャズもやります」的なサークルだったので、サックスの入ったバンドで歌って。でも、サークルのクチャクチャした人間関係が好きじゃなかったので抜けて、自分でバンドをやりながらジャズや現代舞踊の講義を受けてたんです。 東大の講堂にパイプオルガンが置いてあって、同好会もあったので、そこに入って何時間も弾いてましたよ。ピアノを置いた部屋もあったので、夜の21時ぐらいから朝まで弾いてたり。 世界の音楽を追求するといって、ギターだけ持ってあちこちの国を回りましたしね』、「最初はバンドサークルに入って、バンドをやって。「ジャズもやります」的なサークルだったので、サックスの入ったバンドで歌って・・・東大の講堂にパイプオルガンが置いてあって、同好会もあったので、そこに入って何時間も弾いてましたよ。ピアノを置いた部屋もあったので、夜の21時ぐらいから朝まで弾いてたり。 世界の音楽を追求するといって、ギターだけ持ってあちこちの国を回りましたしね」、なるほど。
・『パリの音楽院に留学する予定だったが…  Q:探求の速度と深度が、凄まじいですね。 市川 ジャマイカでレゲエのレコードを掘りにいったら、ドレッドになって帰ってきました(笑)。キューバ音楽を聴きにキューバに行ったり、ギターを持ってヨーロッパをプラプラして路上で弾いてみたり。お金はないから、ヒッチハイク、野宿、ユースホステルで。ユースホステルだと「ご自由に」って食べ物が置いてあるから、それで食いつないでましたね。 あと、東京藝術大学で講師をされていた野口実という先生に師事したんですよ。開成高校でギターの授業があって、野口先生はその講師もされていて。大学に入って様々な音楽を知るうちに、実は野口先生が土方巽らが率いた暗黒舞踏という前衛的な現代舞踊の音楽を作っていた音楽家だったことを知り、再び先生を訪れました。実験的というか、聴く人によっては音楽だとすらわからない音楽です。 Q:現代音楽の世界に進んだそうですが、それは野口先生に師事したことも大きかったのですね。 市川 大学を卒業してからも音楽をやってて、パリの音楽院に留学をしようと。留学を認めてもらうには、6曲ぐらい曲を送らないといけないんですよ。先生にピアノや曲をチェックしてもらって、「これで大丈夫」ってクオリティにまで仕上げて、パリの音楽院に送ったら留学OKが出て。 あとはパリに行くだけだったんですけど、急遽取りやめてテニスを始めるんです』、「開成高校でギターの授業があって、野口先生はその講師もされていて。大学に入って様々な音楽を知るうちに、実は野口先生が土方巽らが率いた暗黒舞踏という前衛的な現代舞踊の音楽を作っていた音楽家だったことを知り、再び先生を訪れました。実験的というか、聴く人によっては音楽だとすらわからない音楽です・・・パリの音楽院に留学をしようと。留学を認めてもらうには、6曲ぐらい曲を送らないといけないんですよ。先生にピアノや曲をチェックしてもらって、「これで大丈夫」ってクオリティにまで仕上げて、パリの音楽院に送ったら留学OKが出て。 あとはパリに行くだけだったんですけど、急遽取りやめてテニスを始めるんです」、よく方向転換する姿勢には驚かされる。

次に、この続きを9月9日つけ文春オンライン「「俺、人生間違ったわ」「マジで地獄を見た」貯金0でバイト生活…東大卒のエリート(39)はなぜいきなりテニスを始めたのか テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#2」、を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/65283
・『開成中学・高校から東大に進んで現代音楽家を目指すも、25歳で経験のなかったテニスの世界へ飛び込み、ヨーロッパを拠点に活動するテニス選手・市川誠一郎(39)。 今年5月にダブルス世界ランキングで2090位になった彼に、パリの音楽院留学をやめてまでテニスの世界に進んだ理由、テニスアカデミーで味わった屈辱、選手として一歩進み出すきっかけとなった東京オリンピックのトライアウトなどについて、話を聞いた』、興味深そうだ。
・『大学卒業はフリーターになり、バイトで生計を立てる  Q:東大卒業後は、現代音楽をやっていこうと。そもそも現代音楽って、どういったジャンルなのでしょう。 市川誠一郎(以下、市川) いま現代音楽と言われているものを、どう定義するかは難しいですけど。ここまでのさまざまな音楽の流れを踏まえて、そこからいままでにない新しい表現の形式や作曲の方法とかを作っていこうみたいな。すでにやりつくされている感もあるので、ノイズに走ったり、ドレミファソラシドの間にある音とかを使ってみたり、奇抜な方法を取ろうとするんだけど、なかなか突破口がなくて。 まぁ、音楽でなにか発明しようみたいなジャンルですかね。 Q:卒業してから、パリの音楽院留学を決意するまでの動きは? 市川 就職してサラリーマンになる気なんかまるでなかったし、そういう動機で大学に行ったわけじゃないので。なので、普通にフリーターに。 ホステルのバイト、家庭教師、塾の講師で稼ぎながら、音楽を作ったり、海外を回って音楽を掘ったり。それを1年やって、2年目にパリ留学に向けて動き出したんです』、「就職してサラリーマンになる気なんかまるでなかったし、そういう動機で大学に行ったわけじゃないので。なので、普通にフリーターに。 ホステルのバイト、家庭教師、塾の講師で稼ぎながら、音楽を作ったり、海外を回って音楽を掘ったり。それを1年やって、2年目にパリ留学に向けて動き出したんです」、なるほど。
・『白黒ハッキリしない世界に行くことに迷いが  Q:パリ留学直前でテニスに方向転換したとのことですが、一体なにがあったのでしょう。 市川 音楽をやりまくってはいたけど、やっているうちに迷いが出てきて。どことなく自信がなくて、音楽で生きていく覚悟が決まらなかったんですよ。だから、音楽以外に興味のあるものを探したりもしました。それでも「やっぱり、こっちだよな」と音楽を続けていたんですけど、いざパリの音楽院に行くことになったら、その不安が日を追うごとに大きくなったんですよね。 音楽を作っても、作品の良し悪しって聴いた人によって違うし、ましてや現代音楽なんて普通の人が聴いたら「なにこれ?」ってなる音楽ですから。そもそも音楽や芸術って、ハッキリするものではないじゃないですか。 Q:あらゆるものがモヤモヤしてグラついて、しかたがなかったと。) 市川 自分がやっていることに価値があるのか、いいものが作れているのか、すべてがわからないみたいな。さらにパリに行ったとしたら、それなりにお金もかかるし、そのお金を自分で稼がなきゃいけない。「覚悟はあるのか」とビビってしまったのもあったんですね。 「白黒ハッキリしない世界で、ゴチャゴチャ言ってるくらいなら、受験のときみたいに白黒ハッキリする世界に行ったほうがいいじゃん」って考えるようになって。でも「大人の世界で、そんな白黒つけられる場所ってある?」と悩みました』、「現代音楽なんて普通の人が聴いたら「なにこれ?」ってなる音楽ですから。そもそも音楽や芸術って、ハッキリするものではないじゃないですか・・・受験のときみたいに白黒ハッキリする世界に行ったほうがいいじゃん」って考えるようになって。でも「大人の世界で、そんな白黒つけられる場所ってある?」と悩みました」、なるほど。
・『スポーツの世界に足を踏み入れることを決意  Q:白黒ハッキリできそうと思えたものが、テニスだったと。 市川 勝つか負けるかに加えて、コネとか関係なし、一生懸命やればやるほど結果が出せる、人間関係を気にしなくていい、とか考えまくっていたら「それって、競技スポーツの世界じゃない?」とハッとして、さらに「競技でも個人競技だ」って。 白黒つけるにしても競争相手がたくさんいなければ、結局はぬるくなっちゃう。だからあえて一番メジャーでハードな競技にしようって。メジャーだと、勝てば勝つだけ注目されますから。そういった扱いの明暗でも白黒つきますし。 実際に、いろいろなスポーツを試したんですよ。個人競技じゃなくなっちゃうけど、結構な野球少年だったので野球も考えたんです。でも、すでにその時点で24歳でした。たとえ、採用してもらえそうなことがあっても、僕より若くて同じ能力の人がいたら、チーム競技では若い選手が選ばたりするわけで、僕が求めていた純粋な能力だけの世界ではないなと』、「白黒ハッキリできそうと思えたものが、テニスだったと。 市川 勝つか負けるかに加えて、コネとか関係なし、一生懸命やればやるほど結果が出せる、人間関係を気にしなくていい、とか考えまくっていたら「それって、競技スポーツの世界じゃない?」とハッとして、さらに「競技でも個人競技だ」って」、確かに「テニス」は条件を満たしている。
・『「誰かに迷惑を掛けなきゃいいんじゃない」  Q:野球少年だったゆえに「やるなら球技」、そこから「個人の球技ならテニス」といった具合に? 市川 個人競技というのが先にあって、その中で「テニスと野球って近いな」ってのが、インスピレーションとしてはあった。やはり、打つことが好きだったので。 ボールを使うのはもちろん、ボールを打つという動作も野球と似てるし。それもあって「テニス、いいかもしれないな」と思ってやってみたら、「これだ!」ってドンピシャで。 Q:パリ留学に尽力してくれた恩師の野口実先生は、テニスへの転向にどんな反応を。 市川 「君はそこからトッププロを目指すんだよね」と聞かれて、「それで飯を食えるぐらいにはなるかもしれないけど、いまからイチローみたいになろうってのは無理だろう」と、かなり呆れていたと思います。でも、今思うと当時他の人は全員、僕がテニスプロを目指すことを悪い冗談くらいにしか受け止めなかったのに、先生だけは唯一、僕が本気でトッププロを目指していると受け止めてくれていたかもしれません。 ブチ切れてもおかしくないわけで、なんとか呆れる程度の態度で接してくれました。最終的には「誰かに迷惑を掛けなきゃいいんじゃない」と、背中を押してくれて。いまでも先生とは連絡を取っていて、日本に戻るとお会いしています』、「パリ留学に尽力してくれた恩師の野口実先生は・・・なんとか呆れる程度の態度で接してくれました。最終的には「誰かに迷惑を掛けなきゃいいんじゃない」と、背中を押してくれて」、よく出来た「先生」だ。
・『お金をかけずに練習するため、テニスクラブへ入会  Q:ほかのインタビューによると、まずは横浜のテニスクラブに通ったそうですね。 市川 テニスを始めるにあたってググったら、普通の初心者はテニススクールに通うもので、選手はテニスアカデミーで練習をしているんだと。すぐに大きいアカデミーに電話したら「2ヶ月前に始めました。プロになりたいんです」「え? いや、ちょっと……」って感じで、迷惑電話と思われてしまって。 何軒か電話しているうちに、大きめのアカデミーから「日本ランキング200番からじゃないと受け付けてない」と言われて、「ああ、そういうものなんだ」と。じゃあ、そこまでなんとか自分で持っていかなきゃいけないと考えたんですよ。 マンツーマンでテニスを学ぶって選択肢もあったろうけど、バイト暮らしで経済的にムリだったし、実家も最初に話したようにぜんぜん金持ちじゃないですから。 Q:それでテニスクラブへ。 市川 とにかくお金をかけずに、練習を死ぬほどするしかないなって。そうしたらテニスクラブの存在を知ったんです。テニスクラブってヨーロッパでポピュラーなんですけど、会員になるとコートが使い放題ってシステムで。 日本でも、クラブによっては値段の高くない学生会員やヤング会員があって、月1万円ぐらいで入れるところが多いんですよ。月1万円なら、スクールの月謝とあまり変わらないので「こりゃいいや」と』、「日本でも、クラブによっては値段の高くない学生会員やヤング会員があって、月1万円ぐらいで入れるところが多いんですよ。月1万円なら、スクールの月謝とあまり変わらないので「こりゃいいや」と」、なるほど。
・『オーナーがレッスン代も取らずに毎日練習を見てくれた  「我流でもなんでも練習しまくってやる」と、近所のテニスクラブのオーナーに会いに行って。ドレッドヘアで、テニスラケットを持って「プロになりたいので、ここで練習したいんです」なんて話すもんだから、オーナーは「なんなんだ、コイツは?」って顔をしてましたけど。 「ちょっと考えさせて」と言われたけど、1日か2日そこで練習させてもらっていたら「うちでやるか?」ってOKが。そこは朝の9時から夜の10時までやっていたので、開いてから閉まるまで練習してました。 Q:オーナーの方は、市川さんになにかを感じたんでしょうね。 市川 当時60歳くらいでオープンな方で。コーチもやっていて、レッスン代も取らずに毎日練習を見てくれて。 トレーニングにもなるからって、家からリュックを背負って40分ほど走ってクラブに通ってたんですよ。夏に汗だくで走ってたら、オーナーが「使え」って自転車をくれて。テニスシューズもレンタル落ちのものをくれたし、僕を見ていた会員さんがラケットのおさがりもくれて』、「レッスン代も取らずに毎日練習を見てくれて。 トレーニングにもなるからって、家からリュックを背負って40分ほど走ってクラブに通ってたんですよ。夏に汗だくで走ってたら、オーナーが「使え」って自転車をくれて。テニスシューズもレンタル落ちのものをくれたし、僕を見ていた会員さんがラケットのおさがりもくれて」、熱心さで他人から好意を寄せてもらうのが得意なようだ。
・『会員の人たちも、ドレッドを揺らしながらラケットを振ってる僕を警戒してたんですよ。土砂降りの日でも、外でサーブを打ってるし。テニスって、雨が降ったらやらないんですよ。滑って危ないから。それでもブンブンやってるから「ちょっとおかしいけど、本気ではあるんだ」と思ってくれたようで、市民大会や県大会で優勝してる会員の方が練習の相手をしてくれるようにもなったんですよ』、「テニスって、雨が降ったらやらないんですよ。滑って危ないから。それでもブンブンやってるから「ちょっとおかしいけど、本気ではあるんだ」と思ってくれたようで、市民大会や県大会で優勝してる会員の方が練習の相手をしてくれるようにもなったんですよ」、これも並外れた熱心さが役立った例だ。
・『テニスアカデミーに移ったが、小・中学生の相手にならず  Q:テニスクラブにはどれくらい通ったのですか。 市川 1年ぐらいですね。とりあえず基礎はできただろうと思って、アカデミーに移りました。ランキングに入ってないと大手のアカデミーは入れてくれないから、ウェブサイトで「やる気があるヤツなら来てもいいよ」的なことをうたっているところに入ったんです。技術を育ててくれるアカデミーとして定評もあったので、なおさらいいかなって。 入って5分で、1年やってきたことに意味がなかったと悟りましたね。小学生、中学生のジュニアの子たちと打ち合ったけど、彼らはプロを目指してやってきてるので、僕なんかちっとも相手にならないんです。 初日のトレーニングでやる気だけは示そうと思って、ダッシュしまくってたら吐いちゃって。それでも、そこのヘッドコーチが「がんばってる感じは、ジュニアのいい見本になる」と入ることを許してくれました』、「テニスアカデミー・・・小学生、中学生のジュニアの子たちと打ち合ったけど、彼らはプロを目指してやってきてるので、僕なんかちっとも相手にならないんです。 初日のトレーニングでやる気だけは示そうと思って、ダッシュしまくってたら吐いちゃって。それでも、そこのヘッドコーチが「がんばってる感じは、ジュニアのいい見本になる」と入ることを許してくれました」、これも並外れた熱心さが役立ったさらなる例だ。
・『毎日怒鳴られていた日々のモチベーションになったのは…  Q:そこで技術をいろいろと学べた。 市川 そのヘッドコーチがすさまじく厳しくて、できるようにならない者にボロクソ言うんです。2球ぐらいミスったら「おまえ、全然できねえから、そこ立ってろ」と言われて、コーチが気に入ってるジュニアの選手が練習しているのをずーっと見学させられたり、延々と走らされたりして。 僕は25歳でテニスを始めたからどんくさいし、センスもなかったし。頭では「こうしたらいい」と理解できるんですけど、体でそれができないんですね。 「ジュニアの見本になる」なんて言われたけど、ジュニアたちの前で「こいつみたいには絶対なるな」と毎日怒鳴られるようになって。5年くらいアカデミーにいたけど、その5年間は毎日心がボロボロで、地獄を見ました。 Q:よく5年もいられましたね。 市川 自分でも「俺、これ、人生間違ったわ」とは思いました。大変な道だとはわかっていて始めたけど、「俺って、ここまでできないのか」「テニスって、ここまでキツいのか」って。客観的に見ても全然運動センスがなく、本当にできるようになりませんでした。 更に技術面もですが、とにかくコーチの指導が精神的に辛くて、毎日やめたいどころか死にたいと思っていました。でも、自分で覚悟して始めた道だとなんとか耐えて、コーチのいないところで誰よりも練習しようと、早出練習、居残り練習を続けました。 今思えば、違う練習場所を探しても良かったと思いますが、当時は下手な僕が他に行ける場所はないと感じていて。追い詰められてる人の発想ですね。) その長い5年間に僕の支えやモチベーションとなったのが、平下さんというアシスタントコーチの存在ですね。同い年ぐらいの方で、いつもトレーニングに付き合ってくれて。 雨の日は、河原にある2キロのランニングコースを走っていたんですけど、平下さんが傘を片手にタイムを計ってくれました。アカデミー以外のコートを借りて練習するときも来てくれて。僕は彼に払えるお金もなかったので、すべてボランティアでした。僕が続けられたのは平下さんのおかげです』、「ジュニアたちの前で「こいつみたいには絶対なるな」と毎日怒鳴られるようになって。5年くらいアカデミーにいたけど、その5年間は毎日心がボロボロで、地獄を見ました」、「その長い5年間に僕の支えやモチベーションとなったのが、平下さんというアシスタントコーチの存在ですね。同い年ぐらいの方で、いつもトレーニングに付き合ってくれて・・・僕は彼に払えるお金もなかったので、すべてボランティアでした。僕が続けられたのは平下さんのおかげです」、これも並外れた熱心さが役立ったさらなる例だ。
・『東京オリンピックのトライアウトの最終選考に残り、少しづつ注目されるように  Q:寝ても覚めてもテニスだったようですが、どうやって生計を立てていたのですか? 市川 月曜日から金曜日は、朝から夜まで練習。土曜日は、午前中まで練習。土曜日の午後と日曜日はフルで家庭教師と塾の講師を入れて。 家庭教師の時給が良かったので、なんとか生活が成り立っていましたね。まぁ、ギリギリではあるので、クレジットカードが止まったり、電気やガスを止められたこともありました。貯金なんて、10万円以上になったことないですね。 Q:東京オリンピックのトライアウトに挑んでいますが、それがプロになる足掛かりを掴むきっかけに? 市川 2014年に東京オリンピックへ向けて、身体能力に優れたアスリートを発掘してスポンサーするトライアウトがあって。実技試験で最終選考まで行ったんですけど、平下さんとずっとトレーニングしまくっていたおかげで、いつの間にかすごく走れるようになっていました。 そこで最終に残ったことで、開成から東大、25歳からテニスを始めたキャリアが異色だって日刊スポーツが記事にしてくれたんです。それで用具提供のスポンサーがついて、ちょっとずつ注目されるようになりましたね』、「土曜日の午後と日曜日はフルで家庭教師と塾の講師を入れて。 家庭教師の時給が良かったので、なんとか生活が成り立っていましたね」、「東京オリンピックへ向けて、身体能力に優れたアスリートを発掘してスポンサーするトライアウトがあって・・・そこで最終に残ったことで、開成から東大、25歳からテニスを始めたキャリアが異色だって日刊スポーツが記事にしてくれたんです。それで用具提供のスポンサーがついて、ちょっとずつ注目されるようになりましたね」、「用具提供のスポンサーがつい」たとは大したものだ。
・『自分でスポンサーを探し回って資金を調達  Q:トライアウトのときは、すでにテニスアカデミーを辞めていたのですか。 市川 いえ、当時もアカデミーにいて、厳しかったアカデミーのヘッドコーチが記事を見て用具提供のスポンサーを紹介してくれました。 ただ、僕は前々からヨーロッパに行きたいなと思っていて。やっぱりテニスは、ヨーロッパで盛んな競技なので、日本を出て勝負がしたかったんですよ。テニスを始めた頃から海外のアカデミーとコンタクトも取っていて、どのぐらいお金が掛かるのかとかいろいろと確認していたんです。行くつもり満々だったけど、踏ん切りがつかずにいて。 でも、トライアウトでスポンサーがついたし、その前後から試合でもちょっとだけ勝てるようになってきたんですよ。 Q:こんなこと言ってしまうと失礼ですが、貯金が10万円を切るような経済状況だったわけですから、海外に出るのは難しかったのでは。 市川 自分でスポンサーを探し回って、資金を集めました。 Q:いくら集まりました? 市川 450万円です』、「前々からヨーロッパに行きたいなと思っていて。やっぱりテニスは、ヨーロッパで盛んな競技なので、日本を出て勝負がしたかったんですよ・・・自分でスポンサーを探し回って、資金を集めました。 Q:いくら集まりました? 市川 450万円です」、大したものだ。

第三に、この続きを、9月9日付け文春オンライン「「開成・東大の同期は港区のタワマンに…」年収200万円、未経験から世界ランクを獲得した男性(39)が送ったテニス一筋の14年間 テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#3」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/65284
・『開成中学・高校から東大に進んで現代音楽家を目指すも、25歳で経験のなかったテニスの世界へ飛び込み、ヨーロッパを拠点に活動するテニス選手・市川誠一郎(39)。 今年5月にダブルス世界ランキングで2090位になった彼に、日本を飛び出した理由、海外での活動資金を得るためのスポンサー探し、世界ランカーたちに練習相手を務めさせてしまう術などについて、話を聞いた。(全3回の3回目/最初から読む)』、「現代音楽家」から「テニスの世界」とは凄い変身だ。
・『一刻も早くヨーロッパのどこかに行きたかった  Q:テニスを始めた当初から、海外を拠点にすることを考えていたとのことですが、海外のほうがテニスをめぐる環境が優れていると感じていたわけですか? 市川誠一郎(以下、市川) やはり日本国内に世界のトッププロは非常に少ないですし、日本のトップになっている大坂なおみちゃんと錦織圭君は実質アメリカ育ち。テニスはヨーロッパで生まれたスポーツで、ヨーロッパが中心です。 イタリア料理を本気で勉強したかったら、イタリアに行くじゃないですか。そこは僕が音楽をやっていたときに、レゲエを探求するためにジャマイカに行ったりしたのと同じ理屈だと思うんです。 テニス界の地図があったとして、僕はそれに載っているかどうかもわからない、ちいさなテニスアカデミーにいたんですよ。大海原を知らずに、ラケットを振っていた。それを自分でわかっていたからこそ、一刻も早くヨーロッパのどこかに行きたかったんだけど、お金がないじゃないですか』、「テニスはヨーロッパで生まれたスポーツで、ヨーロッパが中心です・・・一刻も早くヨーロッパのどこかに行きたかった」、なるほど。
・『“開成、東大、25歳からテニス始めました”をウリにスポンサー探し  Q:そこで、スポンサーを募った。 市川 東京オリンピックのトライアウトでスポンサーがついたことが自信になったのもあって、スポンサー集めに踏み切って。人からお金をもらいに行くっていうのもアレだし、金額も何百万になるので「こんなの集まるわけなくね?」と思ったけど、とにかくやるしかないなって。 2015年の年末と2016年の正月休みを使って、じっくり考えました。「スポンサーを集めるためには、どうすればいいのか?」ってのをノートにバーッと書いて整理して、スポンサー募集の案内文を書いて。 Q:友人や知人にも支援をお願いしましたか。 市川 知ってる人すべてに頭を下げました。背に腹は代えられないし、カッコつけてる場合じゃないなって。 だから“開成、東大、25歳からテニス始めました”を、全面的にウリにしました。それまでは、そんなこと言うのは好きじゃなかったんですよ。僕がウリにできるのはそこしかないし、それがなかったら単なるヘタクソなテニス選手なだけですから』、「知ってる人すべてに頭を下げました。背に腹は代えられないし、カッコつけてる場合じゃないなって。 だから“開成、東大、25歳からテニス始めました”を、全面的にウリにしました。それまでは、そんなこと言うのは好きじゃなかったんですよ。僕がウリにできるのはそこしかないし、それがなかったら単なるヘタクソなテニス選手なだけですから」、凄い割り切りようだ。
・『テニスに関係する会社という会社すべてにテレアポ  Q:それがうまくいったわけですよね。 市川 450万円、集まりました。50万も集まらないだろうと思ってたし、集まらなかったら借金しかないなとお金を借りる方法を考えていたぐらいだったんですよ。 でも、僕の異色な経歴だけでお金が集まったわけでもないんですよ。親友のバリバリのビジネスマンの方に、スポンサーを多く集めるための戦略を聞いたり、用意したプレゼン資料を添削してもらったり。ダメ出しが凄かったです(笑)。 南極冒険家の阿部雅龍という友達がいて、彼にも聞きに行きました。彼はホステルでバイトしてたときの仲間で、全くの無名から積み重ねて、何千万円もスポンサーを得て南極に行くほどになっていて。 テニス自体への努力は当然ですが、応援してくれる方々への細かな行動や地道に努力して足で稼ぐ方法を教えてもらいました。 Q:たとえばどんなことをしていたのでしょうか。 市川 テニスに関係する会社という会社すべてにテレアポして、ほとんど全ての友人に、自分が覚悟を決めて「こういう挑戦をするからどうしても助けが必要だ」ということを心の底から直接話して回りました。また、覚悟を示すために、成績のノルマが達成できなかった場合に返金する条件をつけました。 クラウドファンディングも考えていたけど、資金的な面でいうとクラファンは手数料で20%近く持っていかれちゃうんですよ。それと無名なアスリートのクラウドファンディングは自分の周辺からのサポートが多くなりがちで、それならば手数料を払ってプラットフォームを利用する必要はないと思い、直接自分でやりました。 身近なところから一つずつスポンサーの輪を広げるべきで、自分だけでなくスポンサーの人たちをハッピーにして、そこからひとつずつ輪を広げることを考えました』、「テニスに関係する会社という会社すべてにテレアポして、ほとんど全ての友人に、自分が覚悟を決めて「こういう挑戦をするからどうしても助けが必要だ」ということを心の底から直接話して回りました。また、覚悟を示すために、成績のノルマが達成できなかった場合に返金する条件をつけました・・・クラウドファンディングも考えていたけど・・・手数料で20%近く持っていかれちゃう・・・それならば手数料を払ってプラットフォームを利用する必要はないと思い、直接自分でやりました」、なるほど。
・『数珠つなぎに人や会社を紹介してもらい、資金450万円が集まる  Q:友人以外の周辺というと? 市川 僕が住んでいる近所にある会社を回って、1万円、3万円を提供してもらいました。そこから、他の人や会社を紹介してもらって、またスポンサーが増えていって。そうやって集まった450万円で、2016年の4月にスペインのテニスアカデミーに行かせていただきました。 比較的小さな場所で、やりとりしていて家族的な雰囲気を感じたのが決め手でした。またスペイン人は白人の中では比較的小柄で、体格の小さなアジア人に合うかもしれないと思ったのと、そこで日本代表のダニエル太郎君が練習しているのを知って、アジア人の指導のノウハウを持っているだろうと考えました。 アカデミーに入って最初の3日は寮にいたけど、寮費が高いので出ないとヤバくて。ルームメイトがいないコロンビア人がいるのを聞いて。テニスアカデミーって金持ちのヤツが多いから、月500ユーロするような高い部屋にも住んでいるんですけど、彼の部屋は家賃160ユーロだから月2万円以下。彼に接触して、シェアしました』、「数珠つなぎに人や会社を紹介してもらい、資金450万円が集まる・・・スペインのテニスアカデミーに行かせていただきました・・・テニスアカデミーって金持ちのヤツが多いから、月500ユーロするような高い部屋にも住んでいるんですけど、彼の部屋は家賃160ユーロだから月2万円以下。彼に接触して、シェアしました」、たくましい生活力だ。
・『常軌を逸したな練習量に周囲の外国人がザワつく  Q:たくましいですね。 市川 自分で言うのもアレなんですけど、わりとサバイバル能力に長けてるんですよ。これは海外生活で力になってますね。 でも、シェアしてたアパートも出なきゃいけなくなって、別のシェアアパートに移って。電気が点かなかったり、お湯も出なかったりで。冷房もないから窓を開けると、コウモリが飛び込んでくるんですよ。耳をつんざくような鳴き声で。そいつを殺して廊下に叩き出したら、今度はゴキブリがあちこちから湧いて出てくる。そんなとこに暮らしながら、土日も練習しまくって。 みんな午前に2時間、午後に1時間半くらいしか練習しないんですよ。しかもスペインだからシエスタがあって、3時間ぐらい昼寝したり休んだりする。僕は10分で飯を食って、すぐコートに出て1人でひたすらサーブ練習して。もう、練習相手がいないときは掃除のおっちゃんに球出しを頼んでました。おっちゃんもいつも練習してる僕を見て応援してくれていたので。 Q:スペインでも、尋常ならざる練習量にザワつかれたのでは? 市川 掃除のおっちゃんに球出ししてもらってるのがバレて注意されて、それをきっかけに「信じられないぐらい練習するクレイジーな日本人」ってことで知られるようになりました。そうしたらダニエル太郎君が僕のことを面白がってくれて、「家に住んでいいよ」と言ってくれたおかげで、極貧アパートを脱出しました。 太郎君はトップ選手なので、ツアーで家をほぼ空けていて。飼っている猫の面倒も見てほしいからって、猫の世話係の肩書で半年ほど住まわせてもらいました。太郎くんのご家族には本当にお世話になりました』、「別のシェアアパートに移って。電気が点かなかったり、お湯も出なかったりで。冷房もないから窓を開けると、コウモリが飛び込んでくるんですよ。耳をつんざくような鳴き声で。そいつを殺して廊下に叩き出したら、今度はゴキブリがあちこちから湧いて出てくる。そんなとこに暮らしながら、土日も練習しまくって。 みんな午前に2時間、午後に1時間半くらいしか練習しないんですよ。しかもスペインだからシエスタがあって、3時間ぐらい昼寝したり休んだりする。僕は10分で飯を食って、すぐコートに出て1人でひたすらサーブ練習して。もう、練習相手がいないときは掃除のおっちゃんに球出しを頼んでました。おっちゃんもいつも練習してる僕を見て応援してくれていたので・・・掃除のおっちゃんに球出ししてもらってるのがバレて注意されて、それをきっかけに「信じられないぐらい練習するクレイジーな日本人」ってことで知られるようになりました。そうしたらダニエル太郎君が僕のことを面白がってくれて、「家に住んでいいよ」と言ってくれたおかげで、極貧アパートを脱出しました。 太郎君はトップ選手なので、ツアーで家をほぼ空けていて。飼っている猫の面倒も見てほしいからって、猫の世話係の肩書で半年ほど住まわせてもらいました。太郎くんのご家族には本当にお世話になりました』、「ダニエル太郎君が僕のことを面白がってくれて、「家に住んでいいよ」と言ってくれたおかげで、極貧アパートを脱出しました。 太郎君はトップ選手なので、ツアーで家をほぼ空けていて。飼っている猫の面倒も見てほしいからって、猫の世話係の肩書で半年ほど住まわせてもらいました」、なるほど。
・『技術的な面で苦しみ、引退も考えたが…  Q:スペインのアカデミーにいた期間は。 市川 1年です。スポンサーには1年で帰るという公約をしていて。さらにスペイン滞在中に世界ランキング獲得、もしくは帰国後に大会に出て優勝できなかったら全額返済という条件にもしていて。ふたつとも達成できなくて、借金生活となりました。正直、レベル的には日本にいた頃と変わっていませんでしたね。 Q:レベルが向上しなかった要因はなんだと思いますか? 市川 根本的な基礎技術の土台が足りませんでした。ヨーロッパの練習はシンプルで実践的なものが多いですが、それ以前の土台がないから積み上がりませんでした。 でも、向こうに行って世界のトップレベルを知り、テニスという世界の全体像が分かったのは大きかったですし、追いつけないものではないと感じました。 目標達成できず引退もチラついて1週間ぐらい考えたけど、なんとかして続けようって。で、あっちに行ってみて、日本のほうが技術を細やかに教えてくれるなと感じたんです。それで前と違うテニスアカデミーに入って、相変わらず練習しまくりながら技術をとことん学んでいって。) そのアカデミーには2017年から2020年の頭までいて。そこのコーチとトレーナーに、ガッツリ基礎的なところから取り組んでもらって、今まで全然出来なかったのに、2〜3年目あたりのある時から急にボールがしっかり打てるようになったんですよ。 あまり試合の結果には表れませんでしたが、スペインに行った時に感じた基礎技術の問題がクリアされてきたと感じました。これは大きなブレイクスルーでしたね』、「スペイン滞在中に世界ランキング獲得、もしくは帰国後に大会に出て優勝できなかったら全額返済という条件にもしていて。ふたつとも達成できなくて、借金生活となりました。正直、レベル的には日本にいた頃と変わっていませんでしたね・・・根本的な基礎技術の土台が足りませんでした。ヨーロッパの練習はシンプルで実践的なものが多いですが、それ以前の土台がないから積み上がりませんでした」、「日本のほうが技術を細やかに教えてくれるなと感じたんです。それで前と違うテニスアカデミーに入って、相変わらず練習しまくりながら技術をとことん学んでいって。) そのアカデミーには2017年から2020年の頭までいて。そこのコーチとトレーナーに、ガッツリ基礎的なところから取り組んでもらって、今まで全然出来なかったのに、2〜3年目あたりのある時から急にボールがしっかり打てるようになったんですよ・・・ペインに行った時に感じた基礎技術の問題がクリアされてきたと感じました。これは大きなブレイクスルーでしたね」、なるほど。
・『もう日本に帰っちゃダメだ…世界ランカーに声をかけて練習  Q:そのアカデミーにいたのが2020年頭までとのことですが、なにかしらコロナ禍の影響が? 市川 コロナで大変になってきて、東京で練習するのが難しくなるんじゃないかって予感がしたんです。で、県外のテニスクラブで練習をして、また違うアカデミーに入って。そうしたら、そのアカデミーに在籍しているジュニアの子がセルビアで開かれるジュニアの国際大会に出るので、帯同コーチとして一緒に来てくれと。 ちょうど、もう一回ヨーロッパに行こうと考えてたので即「行きます!」って。それが2020年の9月ですね。セルビアってジョコビッチとか強豪を出してる国だし、ジュニアの国際大会にはいろんな国のコーチも集まるじゃないですか。大会の開催中、他の帯同コーチにコンタクトしまくったら、いい人と知り合えて。僕だけセルビアに残って、12月まで彼と練習してました。日本で基礎が固められてたこともあって、またまた技術がレベルアップしたのを感じて。 Q:改めて「やっぱり海外のほうがいい」と。 市川 日本の体育会系って、なんでも上から下にじゃないですか。ヨーロッパは、自分の思ったことをガンガン言えちゃうフラットな雰囲気で、それが自分にすごく合っていて。あと、変わったヤツでも面白がってくれて、とりあえず相手をしてくれる。海外に来たことで、日本にいた頃のストレスがなくなり、一気に世界が開けてテニスが良くなりました。だから、ヨーロッパというか海外にいるしかないなって。 もう日本に帰っちゃダメだと悟って、そのままトルコの国際大会に出て。でも、その時点では試合自体が第一の目的ではなく、世界ランカーがいっぱい出るから、声をかけまくったら練習相手をしてくれる選手がいてレベルアップできるんじゃないかと考えたんです。 その予想は的中して、声をかけてみると相手してくれる世界ランカーって結構いるんですよ。「選手をとっかえひっかえして、5時間も6時間も練習してるヤツがいる」と噂になって、逆に声をかけられたりして』、「アカデミーに在籍しているジュニアの子がセルビアで開かれるジュニアの国際大会に出るので、帯同コーチとして一緒に来てくれと。 ちょうど、もう一回ヨーロッパに行こうと考えてたので即「行きます!」って。それが2020年の9月ですね。セルビアってジョコビッチとか強豪を出してる国だし、ジュニアの国際大会にはいろんな国のコーチも集まるじゃないですか。大会の開催中、他の帯同コーチにコンタクトしまくったら、いい人と知り合えて。僕だけセルビアに残って、12月まで彼と練習してました。日本で基礎が固められてたこともあって、またまた技術がレベルアップしたのを感じて。 Q:改めて「やっぱり海外のほうがいい」と。 市川 日本の体育会系って、なんでも上から下にじゃないですか。ヨーロッパは、自分の思ったことをガンガン言えちゃうフラットな雰囲気で、それが自分にすごく合っていて。あと、変わったヤツでも面白がってくれて、とりあえず相手をしてくれる。海外に来たことで、日本にいた頃のストレスがなくなり、一気に世界が開けてテニスが良くなりました。だから、ヨーロッパというか海外にいるしかないなって。 もう日本に帰っちゃダメだと悟って、そのままトルコの国際大会に出て・・・世界ランカーがいっぱい出るから、声をかけまくったら練習相手をしてくれる選手がいてレベルアップできるんじゃないかと考えたんです。 その予想は的中して、声をかけてみると相手してくれる世界ランカーって結構いるんですよ。「選手をとっかえひっかえして、5時間も6時間も練習してるヤツがいる」と噂になって、逆に声をかけられたりして」、なるほど。
・『去年、一時帰国した際に新しいスポンサーを獲得  Q:どのような方々と練習を。 市川 みんな各国では世代トップで、これまで絶対練習できなかったような強い選手ばかりです。当時下部ツアーを回っていましたが、今はウィンブルドンとか全仏オープンとか、グランドスラムの予選に出るようになった選手もいます。 例えばいま世界ランク100番あたりにいるカルロス・タベルナや、300番ぐらいのビリー・ハリスやエバン・ズー。日本人だと、ウィンブルドンや全米の本選まであがった島袋将くんなども練習してくれたり。各国の選手はもちろん、日本人のプロ選手もたくさん練習してくれて、世界中の選手やコーチとの繋がりもできました。) Q:セルビア以降、ずっとヨーロッパに。 市川 国際大会に出まくって、練習しまくってというのを、2年間続けてます。トルコ、チュニジア、エジプトに、毎週同じ大会をやっているリゾートホテルがあるんです。出場者はそのホテルに泊まらないといけないんだけど、割高なんですよね。なので、大会運営の人たちと仲良くなって、仕事を手伝ったりして宿泊代を安くしてもらったりして、なんとか。 去年、一時帰国した際に新しいスポンサーもついて。節約すれば、なんとかギリギリやっていけています』、「セルビア以降、ずっとヨーロッパに。 市川 国際大会に出まくって、練習しまくってというのを、2年間続けてます。トルコ、チュニジア、エジプトに、毎週同じ大会をやっているリゾートホテルがあるんです。出場者はそのホテルに泊まらないといけないんだけど、割高なんですよね。なので、大会運営の人たちと仲良くなって、仕事を手伝ったりして宿泊代を安くしてもらったりして、なんとか。 去年、一時帰国した際に新しいスポンサーもついて。節約すれば、なんとかギリギリやっていけています」、なるほど。
・『何歳からだってなんだって挑戦できる  Q:そして今年の5月に、ダブルスの世界ランキングで2090位になったと。 市川 そうです。チュニジアの大会で。 Q:25歳からテニスを始めたメリットって、ありますか。 市川 始めたのが遅いから下手だし、伸びるのも時間がかかるし、ほかの選手よりすべてのことのハードルが高い。けど、そのおかげで俺はユニークな存在になっている。むしろ子供の頃から始めていたら、他の選手と同じなんですよ。 でも、僕がなにか成し遂げたら前人未到の記録になるわけで。僕の挑戦というか、やっていることに社会的な価値も生まれているんですよね。きれいなことを言わせてもらえば、何歳からだってなんだって挑戦できるってことを見せられるとは思うんです。 Q:それが今後の展望でもあると。 市川 自分的には挑戦の意味合いが変わってきていて。テニスを続けてきて、僕は人を負かすとか人と戦う競争心はないことに気づいたんですよ。自分と向き合って、それを極限まで突き詰めるのが得意で好きなんだって。 だから勝敗そのものというより、トッププロがプレーしている瞬間の研ぎ澄まされた感覚を知りたいんです。そのレベルに到達しなければわからないからこそ、そこまで行きたいなって。 Q:開成、東大時代の同期には会社を経営されていたり、結婚して家庭を築いている方もいると思いますが、他の人と自分を比べることはないですか。 市川 ないですね。たぶんそこが僕がこの挑戦をできている根本的な理由で。僕は小学生の時から、そういう未来を頭の中に描いたことがあんまりなかったんです。おそらく残念ながら、幼少期から幸せな家庭を持ってなかったことがスタート地点にあったかもしれない。 友達のちょっと裕福な家庭に行っても別に何も思わなかったですし。自分がそうなりたいとかも思わなかった。外資系のコンサル会社とか投資銀行とか、マッキンゼーとかそういうところに勤めて何千万プレーヤーになっている人たちの住む港区のタワーマンションにたまに行ったりしましたけど、それが幸せだとは感じなかったです。 みんな全然いいやつらだし、すごくリスペクトしてますけど、お金があること自体が幸せというわけではないと思っていて。彼らは彼らが見ている幸せを手に入れていると思うので。僕が僕なりの幸せを持っているのと同じで、彼らは彼らの幸せを持っているということです』、「開成、東大時代の同期・・・外資系のコンサル会社とか投資銀行とか、マッキンゼーとかそういうところに勤めて何千万プレーヤーになっている人たちの住む港区のタワーマンションにたまに行ったりしましたけど、それが幸せだとは感じなかったです。 みんな全然いいやつらだし、すごくリスペクトしてますけど、お金があること自体が幸せというわけではないと思っていて。彼らは彼らが見ている幸せを手に入れていると思うので。僕が僕なりの幸せを持っているのと同じで、彼らは彼らの幸せを持っているということです」、「音楽家」、「テニスプレイヤー」ど進路は変わったが、強固な自分を持っているようだ。
・『テニスは35歳で選手生命を終えてるだろうと踏んでいた  Q:お話をうかがって、ふいにテニスをやめて違う世界に進む可能性もなくはないような気がしたのですが。 市川 そういう人やものに出会っちゃったら、行っちゃうとは思います。そうなったとしても、受験でもテニスでもやってきたから、たぶん突破できる気もします。実際、やりたいことがふたつあるんです。 Q:なんですか? 市川 置き去りにしちゃった音楽と脳神経の研究ですね。これもテニスを続けてきて改めてわかったんですけど、やっぱり音楽が大好きだったなと強く思ったんです。あと、理2の生物系で東大に入ったぐらいなので、脳の仕組みとかにも興味があって。 もともとテニスは35歳で選手生命を終えてるだろうと踏んでいて、残った人生を音楽と脳の研究に費やそうと考えていたけど、予想に反して39歳になってもテニスをやれちゃっているんでね。 とりあえず、死ぬまで予定がいっぱいです』、「やりたいことがふたつあるんです。 Q:なんですか? 市川 置き去りにしちゃった音楽と脳神経の研究ですね。これもテニスを続けてきて改めてわかったんですけど、やっぱり音楽が大好きだったなと強く思ったんです。あと、理2の生物系で東大に入ったぐらいなので、脳の仕組みとかにも興味があって。 もともとテニスは35歳で選手生命を終えてるだろうと踏んでいて、残った人生を音楽と脳の研究に費やそうと考えていたけど、予想に反して39歳になってもテニスをやれちゃっているんでね。 とりあえず、死ぬまで予定がいっぱいです』、「テニス」と、「音楽と脳の研究」、で今後の活躍を期待したい。
タグ:とりあえず、死ぬまで予定がいっぱいです』、「テニス」と、「音楽と脳の研究」、で今後の活躍を期待したい。 「やりたいことがふたつあるんです。 Q:なんですか? 市川 置き去りにしちゃった音楽と脳神経の研究ですね。これもテニスを続けてきて改めてわかったんですけど、やっぱり音楽が大好きだったなと強く思ったんです。あと、理2の生物系で東大に入ったぐらいなので、脳の仕組みとかにも興味があって。 もともとテニスは35歳で選手生命を終えてるだろうと踏んでいて、残った人生を音楽と脳の研究に費やそうと考えていたけど、予想に反して39歳になってもテニスをやれちゃっているんでね。 ー」ど進路は変わったが、強固な自分を持っているようだ。 「開成、東大時代の同期・・・外資系のコンサル会社とか投資銀行とか、マッキンゼーとかそういうところに勤めて何千万プレーヤーになっている人たちの住む港区のタワーマンションにたまに行ったりしましたけど、それが幸せだとは感じなかったです。 みんな全然いいやつらだし、すごくリスペクトしてますけど、お金があること自体が幸せというわけではないと思っていて。彼らは彼らが見ている幸せを手に入れていると思うので。僕が僕なりの幸せを持っているのと同じで、彼らは彼らの幸せを持っているということです」、「音楽家」、「テニスプレイヤ 「セルビア以降、ずっとヨーロッパに。 市川 国際大会に出まくって、練習しまくってというのを、2年間続けてます。トルコ、チュニジア、エジプトに、毎週同じ大会をやっているリゾートホテルがあるんです。出場者はそのホテルに泊まらないといけないんだけど、割高なんですよね。なので、大会運営の人たちと仲良くなって、仕事を手伝ったりして宿泊代を安くしてもらったりして、なんとか。 去年、一時帰国した際に新しいスポンサーもついて。節約すれば、なんとかギリギリやっていけています」、なるほど。 未経験から世界ランクを獲得した男性(39)が送ったテニス一筋の14年間 テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#3) だから、ヨーロッパというか海外にいるしかないなって。 もう日本に帰っちゃダメだと悟って、そのままトルコの国際大会に出て・・・世界ランカーがいっぱい出るから、声をかけまくったら練習相手をしてくれる選手がいてレベルアップできるんじゃないかと考えたんです。 その予想は的中して、声をかけてみると相手してくれる世界ランカーって結構いるんですよ。「選手をとっかえひっかえして、5時間も6時間も練習してるヤツがいる」と噂になって、逆に声をかけられたりして」、なるほど。 日本で基礎が固められてたこともあって、またまた技術がレベルアップしたのを感じて。 Q:改めて「やっぱり海外のほうがいい」と。 市川 日本の体育会系って、なんでも上から下にじゃないですか。ヨーロッパは、自分の思ったことをガンガン言えちゃうフラットな雰囲気で、それが自分にすごく合っていて。あと、変わったヤツでも面白がってくれて、とりあえず相手をしてくれる。海外に来たことで、日本にいた頃のストレスがなくなり、一気に世界が開けてテニスが良くなりました。 「小6の頭までは、塾の友達の家に遊びに行ってゲームしていましたけど、小6の途中で封印しました。 なにかにのめり込むと「これ以外は絶対やっちゃ駄目」みたいなところがあって。勉強だけにフォーカスするために、ゲーム機やソフトもどこかにしまって本当に封印しちゃって」、目的のためには、「ゲーム機やソフトもどこかにしまって本当に封印」とは、自制心がことのほか強いようだ。 みたいな感覚で、そこに僕はハマった」、とは本当にいい刺激になったようだ。 「アカデミーに在籍しているジュニアの子がセルビアで開かれるジュニアの国際大会に出るので、帯同コーチとして一緒に来てくれと。 ちょうど、もう一回ヨーロッパに行こうと考えてたので即「行きます!」って。それが2020年の9月ですね。セルビアってジョコビッチとか強豪を出してる国だし、ジュニアの国際大会にはいろんな国のコーチも集まるじゃないですか。大会の開催中、他の帯同コーチにコンタクトしまくったら、いい人と知り合えて。僕だけセルビアに残って、12月まで彼と練習してました。 成績上位者の選抜クラスに呼ばれるんですけど、そこに順位表に名前が載っているヤツがいるわけです。すでに順位表で名前も点数も知っているから、顔を見て「こいつが、数学がすげえ〇〇か」とか「国語がすごい〇〇って、こいつか」なんて思って。で、そういう子たちが授業でとんでもない問題を解いているのを見て「こいつら、マジでヤベえな」って震えましたね。思わず「どうやって勉強してるの?」と聞いちゃいましたけどね。 もうどいつもこいつもガチ勢すぎて、もはや選手って感じでしたね』、できる子どもたちとの競争を「シューティングゲーム 「開成に合格したときは、嬉しくて親に抱きついたのを覚えていますね。帰りに、秋葉原でプレイステーションを買ってもらって。まぁ、開成には受かったものの、日本一にはなれなかったですけどね。小6の模試で全国の5位より上には行けなかった。 Q:ひょっとして、その上位5人も開成に。 市川 1番から5番勢に会うわけですよ。「こいつらか……この野郎」と思って、中3のなかばまで勉強に燃えていました」、さすが「開成」だ。 「勉強にゲーム性を感じたと。 市川 シューティングゲームみたいな感覚で、そこに僕はハマったんですよ。スポーツとも近くて、相手と対戦する競技ではないけど、陸上みたいに自分で記録を伸ばしていく感じ。で、日本一の成績を取りたいなって。 そこにのめり込んじゃって。勉強自体がどうかじゃなく、席順を良くしたり、点数を上げていくことにすごく夢中になって。ほとんどの生徒は親に勉強をやらされてるけど、やっぱり上に行くほどガチで勉強していて、マジで強いヤツっているんですよ。 「当時の日能研って、毎週やる全国模試みたいなのがあって。2万人ぐらい受けていたのかな。その順位表から各校の上位50人ぐらいが壁に貼り出されて、席順なんかも点数で決められるんです。だから、座っている場所を見ただけで、その子が何位なのかがわかっちゃう。 さらに全国の上位2000番ぐらいの子は冊子に名前が載って、上位50人になると名前が冊子の表紙にも載って。すっごくシビアな競争社会なんです。多くの人が想像するようなガリ勉の極致みたいな世界だけど、それよりもeスポーツに近しい世界なんです」、なるほど。 「両親は教育熱心だったのですか。 市川 ぜんぜんでしたね。スーパーの経営で忙しかったから、親はほとんど家にいなかったですし、子供の教育に目を向ける余裕もなかったというか・・・塾には通わせてもらってました」、「塾」が刺激になったようだ。 文春オンライン「25歳でフリーターからプロテニスへ…全国模試5位、開成ー東大卒の“天才“が歩んだ壮絶な学生時代「ガリ勉の極致みたいな世界だった」テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#1」 ど。 「日本のほうが技術を細やかに教えてくれるなと感じたんです。それで前と違うテニスアカデミーに入って、相変わらず練習しまくりながら技術をとことん学んでいって。) そのアカデミーには2017年から2020年の頭までいて。そこのコーチとトレーナーに、ガッツリ基礎的なところから取り組んでもらって、今まで全然出来なかったのに、2〜3年目あたりのある時から急にボールがしっかり打てるようになったんですよ・・・ペインに行った時に感じた基礎技術の問題がクリアされてきたと感じました。これは大きなブレイクスルーでしたね」、なるほ 「スペイン滞在中に世界ランキング獲得、もしくは帰国後に大会に出て優勝できなかったら全額返済という条件にもしていて。ふたつとも達成できなくて、借金生活となりました。正直、レベル的には日本にいた頃と変わっていませんでしたね・・・根本的な基礎技術の土台が足りませんでした。ヨーロッパの練習はシンプルで実践的なものが多いですが、それ以前の土台がないから積み上がりませんでした」、 太郎君はトップ選手なので、ツアーで家をほぼ空けていて。飼っている猫の面倒も見てほしいからって、猫の世話係の肩書で半年ほど住まわせてもらいました。太郎くんのご家族には本当にお世話になりました』、「ダニエル太郎君が僕のことを面白がってくれて、「家に住んでいいよ」と言ってくれたおかげで、極貧アパートを脱出しました。 太郎君はトップ選手なので、ツアーで家をほぼ空けていて。飼っている猫の面倒も見てほしいからって、猫の世話係の肩書で半年ほど住まわせてもらいました」、なるほど。 僕は10分で飯を食って、すぐコートに出て1人でひたすらサーブ練習して。もう、練習相手がいないときは掃除のおっちゃんに球出しを頼んでました。おっちゃんもいつも練習してる僕を見て応援してくれていたので・・・掃除のおっちゃんに球出ししてもらってるのがバレて注意されて、それをきっかけに「信じられないぐらい練習するクレイジーな日本人」ってことで知られるようになりました。そうしたらダニエル太郎君が僕のことを面白がってくれて、「家に住んでいいよ」と言ってくれたおかげで、極貧アパートを脱出しました。 「別のシェアアパートに移って。電気が点かなかったり、お湯も出なかったりで。冷房もないから窓を開けると、コウモリが飛び込んでくるんですよ。耳をつんざくような鳴き声で。そいつを殺して廊下に叩き出したら、今度はゴキブリがあちこちから湧いて出てくる。そんなとこに暮らしながら、土日も練習しまくって。 みんな午前に2時間、午後に1時間半くらいしか練習しないんですよ。しかもスペインだからシエスタがあって、3時間ぐらい昼寝したり休んだりする。 「数珠つなぎに人や会社を紹介してもらい、資金450万円が集まる・・・スペインのテニスアカデミーに行かせていただきました・・・テニスアカデミーって金持ちのヤツが多いから、月500ユーロするような高い部屋にも住んでいるんですけど、彼の部屋は家賃160ユーロだから月2万円以下。彼に接触して、シェアしました」、たくましい生活力だ。 「テニスに関係する会社という会社すべてにテレアポして、ほとんど全ての友人に、自分が覚悟を決めて「こういう挑戦をするからどうしても助けが必要だ」ということを心の底から直接話して回りました。また、覚悟を示すために、成績のノルマが達成できなかった場合に返金する条件をつけました・・・クラウドファンディングも考えていたけど・・・手数料で20%近く持っていかれちゃう・・・それならば手数料を払ってプラットフォームを利用する必要はないと思い、直接自分でやりました」、なるほど。 「知ってる人すべてに頭を下げました。背に腹は代えられないし、カッコつけてる場合じゃないなって。 だから“開成、東大、25歳からテニス始めました”を、全面的にウリにしました。それまでは、そんなこと言うのは好きじゃなかったんですよ。僕がウリにできるのはそこしかないし、それがなかったら単なるヘタクソなテニス選手なだけですから」、凄い割り切りようだ。 「テニスはヨーロッパで生まれたスポーツで、ヨーロッパが中心です・・・一刻も早くヨーロッパのどこかに行きたかった」、なるほど。 「現代音楽家」から「テニスの世界」とは凄い変身だ。 文春オンライン「「開成・東大の同期は港区のタワマンに…」年収200万円、未経験から世界ランクを獲得した男性(39)が送ったテニス一筋の14年間 テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#3」 「前々からヨーロッパに行きたいなと思っていて。やっぱりテニスは、ヨーロッパで盛んな競技なので、日本を出て勝負がしたかったんですよ・・・自分でスポンサーを探し回って、資金を集めました。 Q:いくら集まりました? 市川 450万円です」、大したものだ。 「僕は極端で、やりたくないことに対しては1分であろうとも時間を使うのがイヤなんですよ。一応、成績は開成中学のトップ10内に入ってたんですけど」、それでも「トップ10内」とは大したものだ。「「BUMP OF CHICKEN」とか出てきた頃で、「Hi-STANDARD」とかJ-POPのバンドを聴いて。そのまま開成高校に上がって、そんなに音楽のことを知ってもないのに社会人の音楽サークルに入ってバンドをやりだしました・・・高校生の当時、音楽で生きていける自信が持ちきれなくて、説得されているうちに「じゃあ、受験する 「土曜日の午後と日曜日はフルで家庭教師と塾の講師を入れて。 家庭教師の時給が良かったので、なんとか生活が成り立っていましたね」、「東京オリンピックへ向けて、身体能力に優れたアスリートを発掘してスポンサーするトライアウトがあって・・・そこで最終に残ったことで、開成から東大、25歳からテニスを始めたキャリアが異色だって日刊スポーツが記事にしてくれたんです。それで用具提供のスポンサーがついて、ちょっとずつ注目されるようになりましたね」、「用具提供のスポンサーがつい」たとは大したものだ。 か」と」、なるほど。 「ジュニアたちの前で「こいつみたいには絶対なるな」と毎日怒鳴られるようになって。5年くらいアカデミーにいたけど、その5年間は毎日心がボロボロで、地獄を見ました」、「その長い5年間に僕の支えやモチベーションとなったのが、平下さんというアシスタントコーチの存在ですね。同い年ぐらいの方で、いつもトレーニングに付き合ってくれて・・・僕は彼に払えるお金もなかったので、すべてボランティアでした。僕が続けられたのは平下さんのおかげです」、これも並外れた熱心さが役立ったさらなる例だ。 大学(その13)(25歳でフリーターからプロテニスへ…全国模試5位、開成ー東大卒の“天才“が歩んだ壮絶な学生時代「ガリ勉の極致みたいな世界だった」テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#1、「俺、人生間違ったわ」「マジで地獄を見た」貯金0でバイト生活…東大卒のエリート(39)はなぜいきなりテニスを始めたのか テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#2、「開成・東大の同期は港区のタワマンに…」年収200万円、 「テニスアカデミー・・・小学生、中学生のジュニアの子たちと打ち合ったけど、彼らはプロを目指してやってきてるので、僕なんかちっとも相手にならないんです。 初日のトレーニングでやる気だけは示そうと思って、ダッシュしまくってたら吐いちゃって。それでも、そこのヘッドコーチが「がんばってる感じは、ジュニアのいい見本になる」と入ることを許してくれました」、これも並外れた熱心さが役立ったさらなる例だ。 「テニスって、雨が降ったらやらないんですよ。滑って危ないから。それでもブンブンやってるから「ちょっとおかしいけど、本気ではあるんだ」と思ってくれたようで、市民大会や県大会で優勝してる会員の方が練習の相手をしてくれるようにもなったんですよ」、これも並外れた熱心さが役立った例だ。 「レッスン代も取らずに毎日練習を見てくれて。 トレーニングにもなるからって、家からリュックを背負って40分ほど走ってクラブに通ってたんですよ。夏に汗だくで走ってたら、オーナーが「使え」って自転車をくれて。テニスシューズもレンタル落ちのものをくれたし、僕を見ていた会員さんがラケットのおさがりもくれて」、熱心さで他人から好意を寄せてもらうのが得意なようだ。 「日本でも、クラブによっては値段の高くない学生会員やヤング会員があって、月1万円ぐらいで入れるところが多いんですよ。月1万円なら、スクールの月謝とあまり変わらないので「こりゃいいや」と」、なるほど。 「パリ留学に尽力してくれた恩師の野口実先生は・・・なんとか呆れる程度の態度で接してくれました。最終的には「誰かに迷惑を掛けなきゃいいんじゃない」と、背中を押してくれて」、よく出来た「先生」だ。 「白黒ハッキリできそうと思えたものが、テニスだったと。 市川 勝つか負けるかに加えて、コネとか関係なし、一生懸命やればやるほど結果が出せる、人間関係を気にしなくていい、とか考えまくっていたら「それって、競技スポーツの世界じゃない?」とハッとして、さらに「競技でも個人競技だ」って」、確かに「テニス」は条件を満たしている。 「現代音楽なんて普通の人が聴いたら「なにこれ?」ってなる音楽ですから。そもそも音楽や芸術って、ハッキリするものではないじゃないですか・・・受験のときみたいに白黒ハッキリする世界に行ったほうがいいじゃん」って考えるようになって。でも「大人の世界で、そんな白黒つけられる場所ってある?」と悩みました」、なるほど。 「就職してサラリーマンになる気なんかまるでなかったし、そういう動機で大学に行ったわけじゃないので。なので、普通にフリーターに。 ホステルのバイト、家庭教師、塾の講師で稼ぎながら、音楽を作ったり、海外を回って音楽を掘ったり。それを1年やって、2年目にパリ留学に向けて動き出したんです」、なるほど。 文春オンライン「「俺、人生間違ったわ」「マジで地獄を見た」貯金0でバイト生活…東大卒のエリート(39)はなぜいきなりテニスを始めたのか テニス選手・市川誠一郎さんインタビュー#2」、 先生にピアノや曲をチェックしてもらって、「これで大丈夫」ってクオリティにまで仕上げて、パリの音楽院に送ったら留学OKが出て。 あとはパリに行くだけだったんですけど、急遽取りやめてテニスを始めるんです」、よく方向転換する姿勢には驚かされる。 「開成高校でギターの授業があって、野口先生はその講師もされていて。大学に入って様々な音楽を知るうちに、実は野口先生が土方巽らが率いた暗黒舞踏という前衛的な現代舞踊の音楽を作っていた音楽家だったことを知り、再び先生を訪れました。実験的というか、聴く人によっては音楽だとすらわからない音楽です・・・パリの音楽院に留学をしようと。留学を認めてもらうには、6曲ぐらい曲を送らないといけないんですよ。 「最初はバンドサークルに入って、バンドをやって。「ジャズもやります」的なサークルだったので、サックスの入ったバンドで歌って・・・東大の講堂にパイプオルガンが置いてあって、同好会もあったので、そこに入って何時間も弾いてましたよ。ピアノを置いた部屋もあったので、夜の21時ぐらいから朝まで弾いてたり。 世界の音楽を追求するといって、ギターだけ持ってあちこちの国を回りましたしね」、なるほど。 「入学してからは古い洋楽を遡って聴いて、ロックに関しては最終的にイギリスのロックが好きになりましたね。東大はジャズのミュージシャンを呼んだ講義もあるので受講して、ジャズがすごく好きになって渋谷のジャズ喫茶にも入り浸って。現代舞踊やバレエの講義もあったので、そこからクラシックとか民族音楽に触れて、パイプオルガンを弾いて、ベルカントってイタリアの伝統的な歌唱法のサークルに入って曲を作って。 そんな感じで、音楽の興味も一気に広がったんですよね」、なるほど。 「理2で入りました。理系の生物系です・・・理3はどんなに頭がよくても落ちることがありえるので。開成のトップ10にいたヤツでも、試験でちょっとミスったら落ちちゃうぐらいですから、そんなリスクは取れなかった。早く大学に入って音楽をしたかったので、浪人なんかしてる場合じゃなかったです」、確実に東大に入るにはやはり「理2」のようだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感