SSブログ

歴史問題(その18)(兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」、731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”、「クソどうでもいい仕事」著者の遺作 人類史の定説を覆す“5500円の本”の中身とは?) [社会]

歴史問題については、本年4月15日に取上げた。今日は、(その18)(兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」、731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”、「クソどうでもいい仕事」著者の遺作 人類史の定説を覆す“5500円の本”の中身とは?)である。

先ずは、5月29日付けPRESIDENT Onlineが掲載した軍事史研究家の藤井 非三四氏による「兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/69854
・『日本人の「恥の意識」は、非常事態において大変な損害をもたらすことがある。軍事史研究家の藤井非三四さんの著書『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)より、1941年の第二次長沙作戦で起きた悲劇を紹介しよう――』、興味深そうだ。
・『「恥の文化」は時に国家の破滅をもたらす  日本は「恥の文化」だと語られて久しい。普段は恥を知ることは美徳かもしれないが、戦争などの非常事態となるとそれは国家の破滅をもたらしかねない。 国難に直面した国家の指導者や高級指揮官の多くは、厚顔無恥で融通無碍であるのがごく普通で、勝利を収めさえすればそんな姿勢をあれこれ批判されることもない。ところが日本では、初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い。 どうして進んで自縄自縛となったり、意地になって行動の幅を狭めてしまったりするのかと考えると、そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする。 太平洋戦争中に限っても、こうした硬直した戦い方をして無意味な損害を被った例は数多くある。まず、昭和16年12月24日からの第二次長沙作戦だ』、「初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い・・・そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする」、なるほど。
・『日本軍は「不落」の長沙を制圧しにかかった  中国戦線の進攻作戦が一段落した昭和13(1938)年末、支那派遣軍の任務は占領地の治安確立と安定を図ることが主となった。しかし、それだけでは部隊の雰囲気が退嬰的になりかねないとされ、長江沿岸地域で限定的な進攻作戦を行ない、中国軍の戦力を減殺させることとなった。 ところが新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた。 昭和16年9月18日からの「加号」作戦(第一次長沙作戦)もこのピストン作戦だった。実施部隊は4個師団を基幹とする第11軍、軍司令官は阿南惟幾中将(大分、陸士18期、歩兵)だった。目標は中国が「不陥」(攻略不可能)と宣伝してきた湖南省の省都である長沙だ。ここを占領すれば中国に和平の気運が生まれるのではとの淡い期待もあった』、「新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた」、「ピストン作戦」である以上、避けられない事態だが、無駄な「作戦」のように思われる。
・『軍に広がる「完全占領ではなかった」との噂  第11軍の諸隊は、洞庭湖に注ぐ新墻河の線から一斉に攻勢を発起、100キロ南の長沙を目指した。そして早くも9月27日、先遣隊が長沙市街に突入し、翌日には第4師団(大阪)が入城した。予定していた通り、第11軍は10月1日から反転を始め、11月初旬までにもとの態勢に戻った。 ところがすぐに支那派遣軍の内で妙な話が交わされるようになった。中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ。また、長沙入城を第4師団に譲った形となった第3師団(名古屋)の豊嶋房太郎師団長(山口、陸士22期、歩兵)としても、「俺が長沙に行けば、こんな話にならなかったのに」という気持ちになったかもしれない』、「すぐに支那派遣軍の内で妙な話が交わされるようになった。中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、なるほど。
・『師団が転用される前に再び長沙を叩く  雪辱戦を行なうとなれば急がねばならない。第4師団は長沙入城で花道を飾って、フィリピンに転用された。これで支那派遣軍に残る精強な常設師団は第3師団と第6師団(熊本)だけとなり、これもまたほかの戦線に転用されるのは時間の問題と思われた。 そうなると支那派遣軍は警備師団、治安師団、独立混成旅団からなる治安軍となり、ピストン作戦すらも行なう戦力がなくなる。そこで第3師団と第6師団が残っているうちに、再び長沙作戦を行なわなければならないという話になった。 しかし、ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ。 だれもがエゴイストになりがちな戦場で、自ら進んで友軍のために動くというのだから、まさに徳義の作戦、「武人阿南」の面目躍如ということになる(佐々木春隆『長沙作戦 緒戦の栄光に隠された敗北』光人社NF文庫、2007年)』、「支那派遣軍は警備師団、治安師団、独立混成旅団からなる治安軍となり、ピストン作戦すらも行なう戦力がなくなる。そこで第3師団と第6師団が残っているうちに、再び長沙作戦を行なわなければならないという話になった。 しかし、ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ」、なるほど。
・『軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…  まず問題となるのは、この作戦の効果だ。長沙と香港付近の広州とは粤漢線で結ばれているが、直線でも550キロ以上も離れている。長沙に圧力が加えられたからと、すぐさま反応するような敏感さを中国軍が持ち合わせているとは思えない。さらに第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。 第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将(福井、陸士26期、騎兵)は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将(神奈川、陸士28期、歩兵、航空転科)は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐(高知、陸士36期、歩兵)にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった』、「第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。 第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将・・・は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将・・・は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐・・・にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった」、なるほど。
・『「恥ずかしさ」が軍事的合理性を押し退けた  こうして長沙への再進攻はむずかしくなったが、阿南軍司令官は諦めなかった。ここで断念すれば恥ずかしい限りという意識が働いていたのだろう。加えて第3師団長の豊嶋房太郎も積極的だった。 この2人の関係だが、阿南が陸軍次官のときに豊嶋は憲兵司令官で直属の部下という形だった。そして豊嶋が第3師団長に転出すると、追いかける形で阿南が第11軍司令官となった。中央官衙で上司と部下、出征してからは軍司令官と師団長という関係は、そうあることではない。 豊嶋は第3師団長を昭和15年9月から務めているから、そろそろ転属の時期だ。本人としても花道を飾りたいという思いがあっただろうし、上官の阿南としても飾ってやりたいという気持ちになっても不思議ではない。また、第3師団は昭和12年8月以来、長らく中国戦線にあったから内地に帰還するか、ほかの戦線に転用される可能性が高まっていた。これまた大陸戦線の最後に快勝させて送り出してやりたいという気持ちにもなる。このような人情論が出てくると、軍事的な合理性が引っ込むことになりかねない。 友軍のための「徳義の作戦」という話が称賛の声とともに広まってしまった以上、第11軍としてもなにかしなければ格好がつかない。また、太平洋戦争が開戦となって香港攻略戦が始まると、第11軍正面の中国軍が動きだして南下しつつあることが偵知され、これを牽制することになった。具体的には兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ』、「兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ」、なるほど。
・『軍総司令部には一言もなく独断で作戦を決行  第二次長沙作戦に発展する「さ号」作戦は、香港陥落の前日の昭和16年12月24日に始まった。豊嶋は留守近衛師団長(出征した師団のあとを管理する部隊長)への異動内示を受け取っていたが、これを握り潰して第一線に立った。このときすでに豊嶋は長沙に突進する決心を固めており、阿南との暗黙の合意もあったと見てよいだろう。 作戦は順調に進展し、第11軍主力は12月29日までに汨水の南岸に渡河していた。そしてその日の夕刻、中国軍が長沙に向けて後退中と航空偵察で知った阿南軍司令官は、即刻、長沙への追撃を決心した。支那派遣軍総司令部には一言もなく、阿南のまったくの独断だったという。歩兵大隊22個基幹という戦力で長沙まで押しだせるのかという問題はさておき、そもそも補給幹線の準備は岳州から汨水までであり、汨水から長沙までの70キロには補給の準備がない。 昭和17年1月1日から3日にかけて、第3師団と第6師団は長沙市街に取り付いた。ところが中国軍は長沙死守の構えを見せた。そのため軍旗を集めて保管していた第3師団の指揮所までが戦闘に巻き込まれ、豊嶋師団長自らが旗護中隊長を務めるという難戦に追い込まれた。これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった』、「中国軍は長沙死守の構えを見せた。そのため軍旗を集めて保管していた第3師団の指揮所までが戦闘に巻き込まれ、豊嶋師団長自らが旗護中隊長を務めるという難戦に追い込まれた。これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった」、なるほど。
・『1591人の命が不合理な判断で奪われた  第二次長沙作戦の本番は、実はそれからだった。中国軍は退却する日本軍の縦隊を両側から叩き上げた。これを中国では「天炉戦法」という。こちらに十分な火力があれば対応できるのだが、日本軍の第一線に弾薬が補給されたのは1月11日が最初で、それまでは一切補給がなかったというから、天炉戦法の前に苦戦するのも無理はない。その結果、第11軍は戦死1591人、戦傷4412人という大損害を被った(図表1参照)。 「長沙を完全には占領できなかった」「占拠5日で逃げ帰った」といった噂話をまともに受け止めて、これは耐えがたい恥辱、雪辱するとなって強行されたのが第二次長沙作戦であり、その結果がこの大損害だった。高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれることをこの第二次長沙作戦は物語っている』、「高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれる」、日本軍は全くお粗末だ。

第二に、9月5日付け文春オンライン「731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/65538
・『あったことを無かったことにしたい人たちがいる。そんな怖さを感じた記事がこの夏にいくつかありました。 まずは「731部隊」についての企画記事を紹介します。信濃毎日新聞の「戦後78年 731部隊の記憶」です(8月11日~17日)。 第1回の記事は『県内元少年隊員2人にネット上で中傷の声 命懸けの証言「嘘」呼ばわり』。 戦時中、満州で細菌兵器開発や人体実験などの残虐行為を実行した731部隊について元隊員が命懸けで証言したら、ネットで「このジジイ、嘘ついてやがる。か、実在しない人物だな」などの誹謗中傷が少なくなかったという』、さすがネット右翼は動きが早いようだ。
・『国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問  731部隊の「少年隊」に入隊した清水英男さん(93)は、人体実験で犠牲になった捕虜や、故郷から遠く離れた地で亡くなった仲間のために「命を懸けて証言している」と語る。 同じく元隊員の須永鬼久太さん(95)は部隊の撤退時に上官から「公職に就かない」「部隊について口外しない」「隊員同士連絡を取らない」と3つの禁止命令を受けた。須永さんは証言が積み重ねられているにも関わらず、いまだに部隊の活動実態を認めようとしない国の姿勢に「まだ隠そうとするのか」と疑問を感じている。 そんななか、元隊員(清水さん)の体験談は昨年5月の飯田市平和祈念館のオープン時に展示が見送られた。その理由は「さまざまな意見がある」というものだった。 《「さまざまな意見」とは、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」とした2003年の小泉純一郎首相(当時)の国会答弁や、人体実験などの証言が「子どもたちには生々しすぎる」といった指摘を指す。》(8月16日) 「さまざまな意見」というが、清水さんは「みんなが本当のことを話してくれていたら、私の証言の展示が見送られることはなかったと思います」と述べる。)』、「部隊の撤退時に上官から「公職に就かない」「部隊について口外しない」「隊員同士連絡を取らない」と3つの禁止命令を受けた」、初めて知ったが、記録が殆ど残ってないのも頷ける。
・『「知らない」ままを望む人もいる  取材を終えた記者は、部隊による残虐行為に対する元幹部たちの反省なき態度を感じたと書いている(8月17日)。 そして、 《部隊の実態について証言できる関係者が亡くなり、記録は残されず、部隊の存在そのものが忘れ去られる――。敗戦時に残虐行為の証拠を徹底的に消し去り、戦後も口を閉ざし続けた部隊の元幹部が待ち望んでいたのは、まさにそうした社会だったのだろう。》』、「敗戦時に残虐行為の証拠を徹底的に消し去り、戦後も口を閉ざし続けた部隊の元幹部が待ち望んでいたのは、まさにそうした社会だったのだろう」、腹立たしいが実現しそうだ。
・『2017年に都議会で起きたこと  では、追悼文を送付しなくなった2017年に何が起きたのか? 3月の都議会でのある自民党都議の質問がきっかけだった。『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(加藤直樹 著)という本によるとこの自民党都議は、 《私は、小池知事にぜひ目を通してほしい本があります。ノンフィクション作家の工藤美代子さんの『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』であります》 と語ったという。実は『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』では、工藤美代子・加藤康男夫妻が著した虐殺否定本を取り上げ、どのように間違っているかを検証し、仕掛けられた“トリック”の数々を明らかにしている。しかしネット上で広まる「虐殺は無かった」論は、工藤美代子氏らの言説を鵜呑みにしたものが多いのだ』、「ネット上で広まる「虐殺は無かった」論は、工藤美代子氏らの言説を鵜呑みにしたものが多いのだ」、歴史を否定する根拠としては、信頼性は低そうだ。
・『「さまざまな説がある」と言うが…  先述した「731部隊」の記事でもそうだったが、公的な人間による「さまざまな説がある」という言葉はあたかも両論併記のように聞こえるが、それは事実から目をそらすことにつながる。しかし先週こんなニュースが。 『関東大震災の朝鮮人虐殺、松野官房長官「事実関係把握する記録見当たらない」』(読売新聞オンライン8月31日) 松野官房長官は30日の記者会見で、デマによって起きた朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べた。新たに事実関係を調査する考えはあるかとの問いには否定的な認識を示した。 31日の会見では、過去に政府の会議が報告書で朝鮮人虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」と述べた。 これらは「虐殺はなかった」論を擁護しているとは言わないまでも、野放しに加担してしまわないかという危惧を感じる。むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか? 過去の日本人が巨悪で現在の私たちは大丈夫というわけではないからだ。同じ人間だからである。情報不足に不安と興奮、それに偏見と無知が加われば時代は関係ない』、「公的な人間による「さまざまな説がある」という言葉はあたかも両論併記のように聞こえるが、それは事実から目をそらすことにつながる」、「松野官房長官は・・・デマによって起きた朝鮮人虐殺について・・・過去に政府の会議が報告書で朝鮮人虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」、苦しい言い訳だ。「むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか?」、その通りだ。
・『差別意識が生んだ悲劇  たとえばこの記事を見ていただきたい。 『記者の目 関東大震災と朝鮮人虐殺 差別意識を克服できたか=島袋太輔(東京社会部)』(毎日新聞 9月1日)  この記事では沖縄出身の男性ら3人が虐殺された「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる。震災当時に上京していた沖縄出身の歴史学者は「朝鮮人だろう」「言葉が少し違う」と詰問されるなどしたという。 沖縄出身の島袋記者は、《朝鮮人だから武装蜂起をしようとしている、知らない言葉を使うから、発音が滑らかでないから朝鮮人に違いない――。こんな思い込みは、どれも差別意識の産物に他ならない。》と書く』、「「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる。震災当時に上京していた沖縄出身の歴史学者は「朝鮮人だろう」「言葉が少し違う」と詰問されるなどしたという」、朝鮮人以外に日本人も虐殺されたとは初めて知った。
・『「無関心が行き着く先は差別だ」  昨年にはこんな出来事があった。 『ひろゆきさん「沖縄の人って文法通りしゃべれない」 配信動画の発言、また物議』(琉球新報10月12日) 『ひろゆき氏「沖縄の人って文法通りしゃべれない」 県民の“日本語”めぐり発言』(沖縄タイムス10月12日) 《辺野古新基地建設に対する抗議行動をやゆしているインターネット掲示板「2ちゃんねる」開設者のひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていたことが分かった。沖縄キリスト教学院大学の新垣誠教授(国際人権論)は「非常に危険だ。日本軍は『標準語』ではない沖縄の言葉を話す住民を虐殺した」と批判した。》(沖縄タイムス、前掲) 100年前は過去ではない。「差別意識がうかがえる出来事は今も散見される」「無関心が行き着く先は差別だ。教訓を学ばないから差別は繰り返されるのではないか」(毎日新聞、前掲)という言葉を考えたい』、「ひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていた」、飛んでもない話だ。「ひろゆき」には完全に幻滅した。

第三に、9月23日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授のデヴィッド・グレーバー氏とロンドン大学考古学研究所比較考古学教授・ニューヨーク大学客員教授のデヴィッド・ウェングロウ氏による「「クソどうでもいい仕事」著者の遺作、人類史の定説を覆す“5500円の本”の中身とは?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/329362
・『17世紀イギリスの哲学者ホッブズは言った。国家や法律のない自然状態における人間は、「万人の万人に対する戦い」から逃れようと、国家を作ったと。18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーは言う。自然状態の人間は平和であり闘争がなかったが、私有財産を持ち始めることで不平等が生まれ、強者が弱者を抑圧するルールとしての法律ができたと。いま広く流布されている人類史はほとんどが彼らの著作の延長上にあるものだが、人類学者と考古学者による世界的な大ベストセラーによれば、そうした議論は科学的に間違いだという。では真の人類史とは?本稿は、デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『私たちはいったい何者なのか? ほとんどが闇に埋もれた人類史  いうまでもなく、「ビッグ・ヒストリー」は、ここ最近の売れ線である。ハラリ(※編集部注、『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の著者)、ジャレド・ダイアモンド(同、『銃・病原菌・鉄』)、スティーヴン・ピンカー(同、『暴力の人類史』)などなど。かれらの本はどれも専門家の関心を超え、国際的ベストセラーとなって、世界中の書店に並んでいる。これはなにを意味しているのだろう? おそらく、だれもがじぶんたちの生きている現在を世界史の転換点、ひょっとすると世界史(人類史)のトータルな消滅をすら予感しているといったような感触がひとつ。それにくわえて、DNA解析などの諸技術の急速な発展による、考古学/人類学領域の新発見の続出がひとつ。どうも、わたしたち人類の歴史は大きく書き換えられているようだ。 それはだれもがニュースに接していれば薄々感じるところだろう。いったいそれがわたしたちの過去をどう変貌させているのか?わたしたちはいったい、なにものなのか、本当はどこからきたのか、そしていったいどこにむかっているのか? 人類史のほとんどは、手の施しようもなく、闇に埋もれてしまっている。なるほど、われらがホモ・サピエンスは、すくなくとも20万年前から存在している。だが、いったいその20万年のあいだになにが起きていたのか、わたしたちにわかっているのは、ごくごくわずかの期間にすぎないのだ。 たとえば、スペイン北部のアルタミラ洞窟では、紀元前2万5000年から前1万5000年のあいだ、すくなくとも1万年以上かけて絵画や彫刻が制作されている。おそらく、この時代にも、たくさんのドラマティックな出来事が起きたはずだ。ところが、それがどんな出来事だったのか、わたしたちはほとんどなにも知らないのである。 もし人類史にまつわる大きな問いが浮上してくるとしたら、ふつう、人がこう自問をするようなときである。どうして世界はこうも混乱しているのか、どうして人間はかくも傷つけ合うのか、どうして戦争や貪欲、搾取があるのか、どうして他者の痛みに対する徹底した無関心がはびこるのか。わたしたちは太古の昔からそうだったのか、それともどこかの時点でなにかひどくまちがってしまったのか?) 人が先史時代から教訓をえようとするとき、ほとんど例外なく、この種の問いに舞い戻ってくるのだ。 なかでもなじみ深いのは、かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまったという、キリスト教による解答である。人間は、神のごとき存在にならんと欲し、そのために罰を受けた。いまや堕落の状態にありながら、将来の救済を待ち望みながら生きている、といった具合だ。 ジャン=ジャック・ルソーは、1754年に『人間不平等起源論』という著作を執筆したが、まさにこの著作のアップデート版の数々こそ、いまこのストーリーを普及させている主役である。 むかしむかし、わたしたちが狩猟採集民だった頃。人類は、大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです。 この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。これが「文明」と「国家」の先触れでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。 と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどなどです、と。 もちろん、これはとても乱暴な単純化ではある。とはいえ、産業心理学者から革命的理論家までのだれもが、「しかし、もちろん人類は、その進化の歴史の大部分を10人か20人の集団で暮らしていた」とか「農業はおそらく人類の最悪のあやまちだった」などといった発言をするたびに、浮上してくる基本的ストーリーが、おおよそこれなのだ』、「わたしたちが狩猟採集民だった頃。人類は、大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです」、「「この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。これが「文明」と「国家」の先触れでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。 と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどなどです、と」、なるほど。
・『人類は文明によって抑圧されている? その主張は正しいのか?  1651年に公刊されたホッブズの『リヴァイアサン』は、多くの意味で、近代政治理論の基礎となった書物である。人間が利己的生物である以上、初源的自然状態での生活はけっして無垢なものではなく、「孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」もの――基本的には、万人が万人と争い合う戦争状態――であるはずだ。) ホッブズ主義者なら、こう論じるだろう。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、それはおよそ、まさにルソーが不満を抱いていた抑圧的機構――すなわち政府、裁判所、官僚機構、警察――のおかげであった、と。 この考え方によれば、人間社会は人間の卑しい本能を集団で抑圧することで成り立っているのであり、多数の人間がおなじ場所で生活しているようなとき、そんな抑圧がいっそう必要になる。それゆえ、現代のホッブズ主義者は、以下のように主張することになろう。 なるほど、人間は進化の歴史のほとんどを小集団というかたちで生存してきた。そしてその小集団は、主に子孫を残すという関心事を共有するおかげで、いっしょにやっていくことができた。 ところが、このような集団も、けっして平等を土台としていたわけではない。ここにはつねに、「ボス男性」(アルファ・オス)であるリーダーが存在していた。ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、つねに人間社会の基礎だったのだ。 とはいえ、集団として短期的な本能よりも長期的な利益を優先するほうがじぶんたちの有利になる、もっと正確にいえば、最悪の衝動を経済のような社会的に有用な領域に限定し、それ以外の場所では禁じることを強制する法をつくることが、じぶんたちの有利になると学んできたのだ、云々。 だが、これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、 1、端的に真実ではない。 2、不吉なる政治的含意をもっている。 3、過去を必要以上に退屈なものにしている。 考古学、人類学、そしてその他の関連分野で蓄積された証拠(エビデンス)は、おおよそ過去3万年のあいだに人類社会がどのように発展してきたかについて、まったくあたらしい切り口から照明を当ててきた。 いま浮上しはじめている世界像がこれまでのものとどう異なっているか、ちょっとだけ紹介してみよう。農耕開始以前の人類社会が平等主義的な小集団にとどまっていなかったことは、いまやあきらかである。 それどころか、農耕開始以前の狩猟採集民の世界は、大胆な社会的実験の世界でもあり、進化論のような貧しい抽象の提示するイメージより、政治形態のカーニヴァル・パレードこそふさわしいといった具合である。) かたや農耕も、それが私有財産の誕生のきっかけをつくったわけでも、不平等への不可逆的なステップを画したわけでもなかった。実際、最初の農耕共同体の多くは、身分やヒエラルキーから相対的に解放されていたのだ。 また、世界最古の都市の多くが、確固たる階級的区分を有していたどころか、強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた。権威主義的な統治者や野心的な戦士=政治家、あるいはボス然とした役人すらも必要としていなかったのだ。 このような論点にかかわる情報が、世界のあらゆる場所から寄せられている。その結果、世界中の研究者が民族誌や歴史資料をあたらしい見地から検証するようになった。まったく異なる世界史をつくりだすことのできる断片がいま、積み重なっているのだ。 農耕の発明がまず私有財産をもたらし、財産がそれを保護するための市民政府の必要をもたらすことを説明したうえで、ルソーはつぎのように述べている。 「すべての人は、じぶんの自由を確保するつもりで、みずからを縛る鎖に飛びついたのである。かれらは政治制度の利点を理解するだけの理性はそなえていたが、それがどんな危険をもたらすかを予測するだけの経験を積んではいなかった」。 ルソーの想像した自然状態は、なによりもこれを説明するための方法として設定されている。たしかに、自然状態という概念を発明したのはかれではない。 修辞の手段としての自然状態は、すでに1世紀前からヨーロッパの哲学で使用されていた。自然法論者が広く使っていたもので、推測の足場を与えることで、政府の起源に関心をもつすべての思想家(ロック、グロティウスなど)に、神のごとくふるまうことを可能にした。こうして、かれらは人類の初源の状態についておのおの独自の考えを開陳することになるのである』、「修辞の手段としての自然状態は、すでに1世紀前からヨーロッパの哲学で使用されていた。自然法論者が広く使っていたもので、推測の足場を与えることで、政府の起源に関心をもつすべての思想家(ロック、グロティウスなど)に、神のごとくふるまうことを可能にした。こうして、かれらは人類の初源の状態についておのおの独自の考えを開陳することになるのである」、なるほど。
・『ホッブズの「自然状態」はデタラメ 人間は弱者へのケアができる生き物  ホッブズも『リヴァイアサン』で、ほぼおなじことをやっている。人間社会の原初的な状態は、必然的に「万人の万人に対する戦争」Bellum omnium contra omnes である、としているのがそうだ。それを克服できるのは、絶対的な主権権力のみである。ホッブズは、そのような原初的状態でだれもが生活していた時代が実在したとはいっていない。)  にもかかわらず、現代の著述家たちの多数が『リヴァイアサン』を扱うやりかたは、ルソーの『不平等起源論』が扱われるやりかたとおなじである。つまり、あたかも『リヴァイアサン』が進化論的歴史研究の基礎を築いたかのように扱っているのである。そして、両者の出発点はまったく異なっているのだが、その結果はかなり似通ったものになる。 心理学者のスティーヴン・ピンカーはこう述べている。「前国家的状態にある人びとの暴力という点では、ホッブズとルソーの言うことはでたらめだ。2人とも文明以前の人間の生活については何ひとつ知らないからである」。 この点では、ピンカーはまったくただしい。しかしながら、かれはただちに、読者につぎのようにもとめる。1651年のホッブズはともかくもただしい推論をおこない、「今日のどのような分析にもひけをとらない」人類史における暴力とその原因の分析にいたった、と。しかし、これからみるように、そんなことはまったくない。 考古学者がロミート2(Romito2)と呼んでいる(発見されたカラブリアの岩屋の名にちなんで)遺体は、1万年前に埋葬された男性のものである。この遺体は、重度の低身長症である希少な遺伝子疾患(先端骨形成不全症)を有しており、そのため、生前、共同体内では変則的な存在とみなされていただろうし、かつ、かれらの生存に必要な高地での狩猟に参加することもできなかっただろう。 ところが、かれの病理についての研究は、概して健康状態や栄養状態が悪かったにもかかわらず、おなじ狩猟採集民の共同体は、この人物を乳児期から成人期まで苦心して支え、他の人間とおなじように肉を分け与え、最終的には丁寧に保護して埋葬していたことを示している。 ロミート2は、孤立した特殊事例ではない。考古学者が旧石器時代の狩猟採集民の埋葬をバランスよく検証すると、健康上の障害が高い頻度で発見されるいっぽうで、死の直前まで(なかにはきわめて豪華な埋葬を示すものもあり、その意味では死後も)、おどろくほど高いレベルのケアがおこなわれていたことがわかるのである。 古代の埋葬された遺体からえられた健康指標の統計的な頻度にもとづいて、人間社会が原初的にどのような形態をとっていたのかについて一般的な結論をくだすとすれば、ホッブズ(やピンカー)のそれとは真逆のものになるだろう。 つまり、原初にあって、人間の暮らしが、いとわしく、残忍で、短いものである必然性は端的に存在しない。それよりも人間という種は育成やケアをする生物種であった、と、このような結論になるだろう』、「心理学者のスティーヴン・ピンカーはこう述べている。「前国家的状態にある人びとの暴力という点では、ホッブズとルソーの言うことはでたらめだ。2人とも文明以前の人間の生活については何ひとつ知らないからである」、なるほど。「考古学者が旧石器時代の狩猟採集民の埋葬をバランスよく検証すると、健康上の障害が高い頻度で発見されるいっぽうで、死の直前まで(なかにはきわめて豪華な埋葬を示すものもあり、その意味では死後も)、おどろくほど高いレベルのケアがおこなわれていたことがわかるのである。 古代の埋葬された遺体からえられた健康指標の統計的な頻度にもとづいて、人間社会が原初的にどのような形態をとっていたのかについて一般的な結論をくだすとすれば、ホッブズ(やピンカー)のそれとは真逆のものになるだろう。 つまり、原初にあって、人間の暮らしが、いとわしく、残忍で、短いものである必然性は端的に存在しない。それよりも人間という種は育成やケアをする生物種であった、と、このような結論になるだろう」、「人間という種は育成やケアをする生物種であった」との結論には、納得させられると共に、安心させられた。
タグ:つまり、原初にあって、人間の暮らしが、いとわしく、残忍で、短いものである必然性は端的に存在しない。それよりも人間という種は育成やケアをする生物種であった、と、このような結論になるだろう」、「人間という種は育成やケアをする生物種であった」との結論には、納得させられると共に、安心させられた。 「考古学者が旧石器時代の狩猟採集民の埋葬をバランスよく検証すると、健康上の障害が高い頻度で発見されるいっぽうで、死の直前まで(なかにはきわめて豪華な埋葬を示すものもあり、その意味では死後も)、おどろくほど高いレベルのケアがおこなわれていたことがわかるのである。 古代の埋葬された遺体からえられた健康指標の統計的な頻度にもとづいて、人間社会が原初的にどのような形態をとっていたのかについて一般的な結論をくだすとすれば、ホッブズ(やピンカー)のそれとは真逆のものになるだろう。 「心理学者のスティーヴン・ピンカーはこう述べている。「前国家的状態にある人びとの暴力という点では、ホッブズとルソーの言うことはでたらめだ。2人とも文明以前の人間の生活については何ひとつ知らないからである」、なるほど。 「公的な人間による「さまざまな説がある」という言葉はあたかも両論併記のように聞こえるが、それは事実から目をそらすことにつながる」、「松野官房長官は・・・デマによって起きた朝鮮人虐殺について・・・過去に政府の会議が報告書で朝鮮人虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」、苦しい言い訳だ。 「ネット上で広まる「虐殺は無かった」論は、工藤美代子氏らの言説を鵜呑みにしたものが多いのだ」、歴史を否定する根拠としては、信頼性は低そうだ。 「修辞の手段としての自然状態は、すでに1世紀前からヨーロッパの哲学で使用されていた。自然法論者が広く使っていたもので、推測の足場を与えることで、政府の起源に関心をもつすべての思想家(ロック、グロティウスなど)に、神のごとくふるまうことを可能にした。こうして、かれらは人類の初源の状態についておのおの独自の考えを開陳することになるのである」、なるほど。 ダイヤモンド・オンライン す」、「「この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。これが「文明」と「国家」の先触れでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。 と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどなどです、と」、なるほど。 「ひろゆき(西村博之)氏が、自らのユーチューブ配信で「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとヘイトスピーチをしていた」、飛んでもない話だ。「ひろゆき」には完全に幻滅した。 「「検見川事件」についても書かれている。沖縄出身の男性が殺された理由について「ウチナーンチュ(沖縄の人)はなまりがあるから、朝鮮人と思い込まれたのでは」と研究者は推測する。残る2人は秋田、三重両県の出身で2人もなまりを理由に殺されたとみる。震災当時に上京していた沖縄出身の歴史学者は「朝鮮人だろう」「言葉が少し違う」と詰問されるなどしたという」、朝鮮人以外に日本人も虐殺されたとは初めて知った。 デヴィッド・グレーバー氏 デヴィッド・ウェングロウ氏による「「クソどうでもいい仕事」著者の遺作、人類史の定説を覆す“5500円の本”の中身とは?」 「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。 と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどなどです、と。 もちろん、これはとても乱暴な単純化ではある。とはいえ、産業心理学者から革命的理論家までのだれもが、「しかし、もちろん人類は、その進化の歴史の大部分を10人か20人の集団で暮らしていた」とか「農業はおそらく人類の最悪のあやまちだった」などといった発言をするたびに、浮上してくる基本的ストーリーが、おおよそこれなのだ』、「わたしたちが狩猟採集民だった頃。人類は、大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからで デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社) 藤井非三四さんの著書『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書) 文春オンライン「731部隊、朝鮮人虐殺…不都合な歴史を「なかったことにしたい人たち」に感じた“怖さ”」 藤井 非三四氏による「兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ 日本の破滅を招いた「恥の文化」」 PRESIDENT ONLINE 「初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い・・・そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする」、なるほど。 軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ」、なるほど。 「新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた」、「ピストン作戦」である以上、避けられない事態だが、無駄な「作戦」のように思われる。 「すぐに支那派遣軍の内で妙な話が交わされるようになった。中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。 侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ」、なるほど。 「支那派遣軍は警備師団、治安師団、独立混成旅団からなる治安軍となり、ピストン作戦すらも行なう戦力がなくなる。そこで第3師団と第6師団が残っているうちに、再び長沙作戦を行なわなければならないという話になった。 しかし、ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。 開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11 「第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。 第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将・・・は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将・・・は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐・・・にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった」、なるほ ど。 「兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ」、なるほど。 「中国軍は長沙死守の構えを見せた。そのため軍旗を集めて保管していた第3師団の指揮所までが戦闘に巻き込まれ、豊嶋師団長自らが旗護中隊長を務めるという難戦に追い込まれた。これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった」、なるほど。 「高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれる」、日本軍は全くお粗末だ。 さすがネット右翼は動きが早いようだ。 「敗戦時に残虐行為の証拠を徹底的に消し去り、戦後も口を閉ざし続けた部隊の元幹部が待ち望んでいたのは、まさにそうした社会だったのだろう」、腹立たしいが実現しそうだ。 「部隊の撤退時に上官から「公職に就かない」「部隊について口外しない」「隊員同士連絡を取らない」と3つの禁止命令を受けた」、初めて知ったが、記録が殆ど残ってないのも頷ける。 「むしろ率先しておこなうべきは検証と反省ではないか?」、その通りだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感