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「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題(その12)(小田嶋氏の見方) [国内政治]

昨日に続いて、「安倍晋三記念小学校」(森友学園)への国有地払い下げ問題(その12)(小田嶋氏の見方) を取上げよう。なお、小田嶋氏がこの問題に関連して教育勅語論を述べたのを3月21日に取上げている。

コラムニストの小田嶋隆氏が3月31日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「森友学園報道が下世話な理由」を紹介しよう。
・連日メディアを騒がせている森友学園関連のニュースに、果たして、どんなスタンスで向き合ったら良いのかについて、この10日間ほど、あれこれ考えていたのだが、いまだに結論が出ない。 たぶん、うまい答えは見つからないのだと思っている。 とりあえず、今回は、この事件がどうしてこんなに騒がれているのかについて考えてみることにする。
・森友事件については、当初から 「あからさまな人格攻撃じゃないか」 「とてもじゃないがマトモな政治報道とは思えない。ただのスキャンダリズムだ」 「登場人物のキャラが立っているから、テレビ用の画面(え)になりやすいというだけのことで、ニュースとしてはベタ記事レベルのネタに過ぎない」 「こんな事件を掘り下げるより、もっと人員と予算を割り当てるべき取材先はほかにいくらでもあるんじゃないのか?」 「北朝鮮が大変なことになっているのに、こんなことに時間を費やすなど正気の沙汰ではない」 「国会議員にしても、こんな水掛け論にアタマを使うのではなくて、まっとうな政策論争をたたかわせるために選ばれたはずの人間で、だからこそ選良という言葉があったと思うわけだが、オレのこの見方は間違ってるか?」 といった感じのツッコミの声が、各方面から多数寄せられていた。
・いちいちごもっともだと思う。 たしかに、この事件についての報道は、はじめから、インパクトありきの、扇情的な画面構成がリードするテの、いかにもワイドショー好みな、曲馬団見世物小屋ライクな、どうにも品の無い、客引きのオヤジのダミ声が聞こえてきそうな劇場型スタジオライブバラエティとして視聴者に供給されていた。
・その意味では、森友関連報道は、第一に下世話だし、第二にスキャンダリズム横溢だし、以下順に、興味本位だし、扇情的でもあれば、覗き趣味でもあって、総体として、テレビの報道の悪いところをすべて集約したニュースであると決めつけて差し支えのない、稀代のゲテモノだった。 ただ、私自身は、このニュースを伝えるメディアの伝え方に品が無いのはその通りなのだとして、だからといって伝えることそのものに意味が無いとは思っていない。
・むしろ、このニュースの真骨頂は、その下世話さに宿っているのではなかろうかと思っている。 理由は、以下順次説明する。 思うに、このニュースの伝えられ方が下世話なのは、ニュース番組を制作している記者やディレクターが品性下品であったり、視聴者が悪趣味であるからというよりは、テレビカメラの向こう側で起こっていること自体が、どうにもこうにも俗悪であることの反映なのであって、とすれば、ありのままを映すというテレビの文法からして、俗悪で陋劣で野卑で下劣な出来事は、やはり真正直に、下品かつ下衆かつ低俗な手法で伝えるほかにどうしようもないはずなのだ。
・上品ぶっていれば済むというお話ではない。 きれいなカメラで撮ればゴミの山がイケてるイメージ映像に化けるわけではないし、高級な皿に載せることで腐った刺身がよみがえるものでもない。 やはり、汚いものは汚い言葉で伝えなければならない。 その意味で、森友報道は、おおむね適切な伝えられ方で伝えられている。
・ついでに言えば、このような下世話なニュースに視聴者の関心が集まっているのは、現在の政局を動かしているものが、真摯な政策論争や高尚な文化的議論ではなくて、えげつなくもいやらしい権力闘争やいじましくもみみっちい揚げ足取りの応酬であることを視聴者があらかじめ知っているからで、だからこそ、森友学園をめぐる一連の出来事の行間にあらわれている了見の狭さやケツメドの小ささに、私たちは、人が人を小突き回す営為たる政治のリアルを感じ取らずにおれないのであり、また、この胸が悪くなるような俗悪なコンテンツを直視し続けることの先にしか、自分たちの置かれている現実を把握する方法が無いことを、直感として理解しているわれら視聴者は、どうしてどうしてなかなかその視聴者を視聴している腐れインテリが思っているよりはずっと賢いのである。
・いまから半月ほど前の、事件を伝えるメディアの声のトーンがまだそれほどカン高くなる前の3月14日の時点で、政府は民進党からの質問主意書に答えて「首相夫人は公人ではなく私人である」とする答弁書を閣議決定している。 私は、この時の閣議決定が、この後のニュースの伝えられ方に大きな影響を与えたのだと考えている。 もちろん、これは、後知恵で気づいたことで、閣議決定が発表された時点では、 「なんとまあ奇妙なことを言い出したものだ」 ぐらいにしか思っていなかった。
・それが、冷静に評価するだけの時間を経過したいまの時点から振り返ってみれば、現在、森友学園についての報道が、こんなふうにヒステリックな色彩を帯びているのは、あの時の閣議決定の強弁が招いた結果であるということに思い至るのである。 「首相夫人は私人である」 という閣議決定は、意地になった安倍さんの感情の亢進を感じさせる閣議決定だった。 というよりも、閣議決定として通用させるにはあまりにも無理筋な「強弁」に見えた。
・首相夫人は、「公人」であるとか「私人」であるとかいった形で、きっぱりと一方の側に定義できる立場の人間ではない。 普通に考えれば、誰にだってわかることだ。 場面によっては公人だし、そうでない時は私人だろう、と、そう考えれば良いだけの話だ。
・公費で雇われた首相夫人付きの公務員を伴って、公的な肩書を名乗って公務に随伴する仕事に従事する時は、当然「公人」と見なされるだろうし、プライベートの時間に買い物をしていたり、私的な友人とお茶を飲んでいる時は、「私人」としてふるまっているという、それ以上でも以下でもないではないか。
・政治家にしても同じことだ。 公人としてふるまう時もあれば、私人としてくつろいでいる瞬間もある。 ちなみに言えば、この議論は、ずっと昔から何度も繰り返されてきた定番の水掛け論でもある。
・よく蒸し返される話題としては、靖国神社に政治家が参拝する際に、私人として参拝したのか、公人として参拝したのかが、ずっと争われてきた。 その際、どんな肩書で記帳したのかが話題になり、玉串料を私費から出費したのか公費から出したのかが問われたりした。
・この議論の前提になっていたのは、政治家のようなおおむね公人として分類されている人間であっても、その構えや立場や取り組み方や状況次第で、「公人」と見なされる場合もあれば「私人」と見なされる場合もあって、一概にその肩書だけでその人間の機能や内実を判断することはできない、ということだった。
・だからこそ、「公人」か「私人」か、という議論は、その都度、ケースバイケースで、場面ごとに、シチュエーションを限定した上で議論されてきたのである。
・今回の安倍昭恵さんのケースでも、彼女が、どの場面で「公人」であり、どんな時に「私人」であるのかは、その時々の、安倍昭恵さん自身のその場への関与の仕方や、周囲の人々との関係や、出費されている金銭の出どころや、関わっている時に名乗った名前や肩書によって、それぞれに違ってくるはずで、どっちにしても、首相夫人が「あらゆる場面で公人」であったり「すべての機会において私人」であるといったような主旨の主張は、いくらなんでもあまりにもスジが悪すぎて、本来なら、大人同士が話をする場所には、持ち込むことさえ許されない話なのである。
・その意味で、首相夫人を「私人」とする閣議決定は、議論の前提のちゃぶ台をいきなりひっくり返すお話で、到底公的なチャンネルから出てきたお話とは思えない。 安倍昭恵さんが、森友学園を訪れて講演した時に「公人」であったのか「私人」であったのか、というピンポイントの議論をするなら、そこには、当然のことながら、議論の余地がある。
・つまり、昭恵夫人が私人として、森友学園を訪問し、私人として講演したという主張は、困難ではあるものの不可能ではないし、仮に閣議決定するのでも、この点に限っての判断を(つまり、「首相夫人は私人として講演をした」と)言い張るなら、それはそれでまるっきりあり得ない話でもなかった。
・ところが、政権は、「首相夫人は(どんな状況下でも)私人である」という恐れ入谷の強弁を閣議決定というのっぴきならない形で押し出してきた。 閣議決定とは、内閣の最高度の意思決定会議(=閣議)によるもので、意思統一を示すために全員一致が原則で、もし異論があればその人を罷免して採択、という、大変位取りが高いものだ。決定内容は皇居にも送られるという。
・この場合は、野党の質問主意書に答えるためのルールとして、閣議決定が必要になるのだが、そんな、これ以上はないくらい重たい会議で、安倍さんは閣僚全員にこんな無茶な言い分を認めさせて、「これが統一見解だ」と出してきたわけだ。
・となれば、それを聞かされた方としても、ものの言い方が違ってくる。  つまり、一方が強弁で来るなら、それを押し付けられた方は、揚げ足を取りに行くということだ。 「ええええ? 私人なんだとすると、どうして専用の公務員が補佐してるんでしょうかねえ」 「5人もお付きが付く『私人』って、いったいどこのマリー・アントワネットだ?」 「ご自身のフェイスブックで、首相夫人付きの公務員を『秘書』と呼んでるけど、秘書として使役するつもりなら私費で私設秘書を雇用するのがスジだぞ」 「っていうか、百歩譲って『私人』なのだという主張を飲み込んであげるのだとして、でも、そこのところを前提にすると今度は『どうして私人が私用で出かける大阪出張に公務員が随伴しているのか』という問題が出て来るぞ」 「さらに百歩譲って『全面的に私人だけど、いろいろと公私混同している私人でしたテヘペロ』ってなことで理解してあげても良いんだけど、でも、お付きの公務員の首相夫人への随伴自体は『公務』だったことからは逃れられないんじゃないかな」 「夫人付きの公務員というのは名ばかりの肩書で、実際はマブダチでしたと考えればすべてに説明がつくぞ。マブダチなら自腹休日ツブしで付き合うのが当然なわけだから」 すまない。つい調子に乗った。
・何を言いたいのかというと、この度の森友関連報道が、重箱の隅をつつくような底意地の悪さと、あれこれと細かい食い違いや言い間違いを拾い上げてはネチネチと疑問を数え上げる揚げ足取りの報道に終始しているのは、そもそも、政府の側が、保管してあるはずの書類を「廃棄した」と言い張ったり、確認を求める野党議員の質問に「個別に確認をすることは差し控えさせていただきます」と木で鼻をくくったような答弁を繰り返してきたことへの反作用なのであって、つまり、一連の報道のタチの悪さは、政府の側の対応の悪さが招いた当然の帰結だということだ。
・3月28日になって、政府は、「安倍晋三首相の外遊に同行する昭恵夫人に対し、公用旅券である外交旅券を発給している」 という主旨の答弁書を決定している。 どうしてこんな閣議決定が唐突に出てきたのかというと、「私人」であるはずの首相夫人に、政府の公用旅券である外交旅券(←主に外交官などに発行されるパスポート)を出していることが明らかになったためで、これなどは、そもそも「首相夫人は私人だ」という強弁をしていなかったら、わざわざ説明するまでもない話だし、そもそもニュースにさえならない話題だ。
・というのも、首相に同行する首相夫人に外交旅券が発行されることを不自然に思う国民は、ほとんどいないはずで、なんとなれば、首相の外遊にファーストレディーとして随伴する首相夫人が「公人」であることは、誰もが普通にそう思っているごく自然ななりゆきだからだ。
・ところが、14日の閣議決定で、「首相夫人は私人だ」というあり得ない断定をやらかしてしまったおかげで、こんな当たり前なことに、わざわざくだくだしい説明をせねばならなくなった。 「政府は、総理大臣夫人について、公務員としての発令を要する公人ではないとしていて、安倍総理大臣の夫人の昭恵氏も、サミット=主要国首脳会議への同行など総理大臣の公務を補助する活動を私人として行っているという見解を示しています。」 と、NHKのニュースは、この間の事情を説明している(こちら)。
・つまり、首相夫人はあくまでも「私人」なのだが、「私人」として首相の「公務」を補助していて、その私人としての公務の補助のために旅券が必要なので外交旅券を支給しているというお話だ。 二重にも三重にも苦しい説明だ。
・「公務を補助するのって、公務じゃないの?」 「外交旅券って、公務に携わる公人だからという理由で支給される公用旅券の一種だったんじゃないの?」 という疑問に対して、無理矢理な論駁をした結果が、この閣議決定だということになる。
・なお、この日の閣議では、あわせて「大阪市の学校法人との関係を否定する」内容の答弁書も閣議決定している。 これも、アタマがどうかしているとしか思えない。
・「首相夫人は私人である」という、「見解」は、それがどれほど素っ頓狂であっても、実態とかけはなれていても、「見解」である限りにおいて、「閣議決定」ないしは「政府見解」の範囲で扱うことのできる話だ。 われわれの政府は、今後、誰がなんと言おうと首相夫人を「私人」として遇し、「私人」の立場で扱い、「私人」として処遇する決意であると受け止めれば、それは大変だろうなあとは思うものの、一応、彼らの意図を汲むことが不可能なわけではない。
・ところが、 《「森友学園」への国有地払い下げなどを巡り、財務省、国土交通省、文部科学省に対する政治家からの不当な働き掛けは「一切なかった」》 というのは、これは、「事実」を争う問題だ。 働きかけがあったのか無かったのかは、現在国会でその有無が争われており、メディアの中でも見方が分かれている、まさにその核心だ。 これに対して、政府が 「無かった」 と言い張れば、公式に無かったことになるとか、そういう問題ではない。
・「われわれは無かったと考えている」 ということだとしても、そう閣議で決定することに何か意味があるんだろうか。 「あるのかと聞かれたので、なかったと答えたんだ」 というだけのことなのかもしれないが、そんな閣議決定に意味があるのだとしたら、 「政府はこの件について働きかけが無かったという公式見解を押し通すことにしたので、今後、政権内の人間は絶対にこの点から外れたコメントをしないように」 と、政権内部に対して引き締めをはかる意味ぐらいだろうか。
・とすれば、これは、首相が閣僚に対して 「オレの言いなりになれ」 ということを宣言しただけの話になる。 そもそもの話をすれば、籠池泰典森友学園前理事長が受け取ったとしている安倍昭恵首相夫人からの寄付金の100万円についての話も、いま、こんなに大げさに騒がれているのは、首相自身が国会の答弁の中で、 「私や妻がですね、認可あるいは国有地払い下げにですね、勿論事務所も含めて一切関わっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もし関わっていたんであればですねこれはもう私は総理大臣を辞めるということでありますから、はっきりと申しあげたいとこのように思います」 「いずれに致しましてもですね、繰り返して申し上げますが私も妻もですね、一切認可にもですね、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして(中略)繰り返しになりますが私や妻が関係していたとなればこれはもう、まさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい」 と、大見得を切ってしまったからだ。
・寄付をしていないのならしていないで、普通に昭恵夫人なり夫人付きの官僚なりの口から説明(記者会見になるのか、参考人ないしは証人として国会で証言することになるのかはともかくとして)させれば良いことだし、万が一寄付をしていたのだとしても、その旨を正直に申告すれば、それほど大きな問題にはならなかったはずだ。 というのも、寄付自体は違法ではないし、そのことで政権が飛ぶような話ではない。
・あの非常に評判の良くない学校法人に個人的に寄付をしていたということになれば、当然、首相個人の印象が悪化することは避けられないとは思う。 でも、そのことを言うのなら、既に、首相夫人が新設するはずの小学校の名誉校長に就任し、首相ご自身も一度は講演を引き受けていることで、十分に印象をそこなっている。この上、寄付の有無が致命的な問題になるとは思えない。
・ところが、首相は、寄付の話を否定する流れで、土地取引への関与が発覚したのであれば、総理を辞めるということを口走ってしまった。 だから、こんな騒ぎになっている。 一般のテレビ視聴者は、個々のやりとりの中で争われている言った言わないの事実関係や、私人公人の線引きの細部をつつき回す報道そのものに注目しているのではない。
・視聴者が森友劇場に魅了されているのは、ムキになって否定したり白々しく知らぬ存ぜぬを繰り返したり露骨に隠蔽したり資料を廃棄したりしている側と、重箱の隅をつつきにかかっている追及側の感情をむき出しにした争い、それ自体が面白いからで、それというのも、そもそも政府の側の隠蔽と強弁に、感情的な反発を抱いているからだ。
・冒頭で指摘した通り、このニュースは、全体として感情的な反応に終始しているところのものだ。 というよりも、森友学園をめぐるあれこれは、報道に限った話ではなく、その発端から結末に至るまでのほとんどすべての出来事が、あからさまな感情の発露だったのかもしれない。
・大切なのは、いまわれわれが熱中している扇情的な報道の根っこのところにある「感情」を呼び覚ましたのが、政権の中枢にいる人たちであることだ。このことはつまり、テレビのしつこさと疑り深さと下世話さと、揚げ足の取りっぷりの醜さは、そもそも政府の上の方にいる人たちが質問者をバカにした態度と、国民への説明を鼻で笑うマナーから派生したものだということでもある。
・これらの事情に加えて、さらに、縁故主義(ネポティズム)にまみれて見える行政の進め方の怪しさが、テレビ視聴者の間に広がる「感情的」な反応の取水源になっている。
・私個人は、なるべく感情的に振る舞わないように心がけようと思っている。 ただ、感情的に判断することからは逃れられそうにない。 というのも、感情を抜きで評価してみると、この騒動には中味が無いからだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/033000088/?P=1 

さすが小田嶋氏だ。これだけこじれた問題を、一刀両断のもと、見事に整理してくれた。 『このニュースの真骨頂は、その下世話さに宿っているのではなかろうかと思っている』、 『きれいなカメラで撮ればゴミの山がイケてるイメージ映像に化けるわけではないし、高級な皿に載せることで腐った刺身がよみがえるものでもない。 やはり、汚いものは汚い言葉で伝えなければならない』、 『「首相夫人は私人である」 という閣議決定は、意地になった安倍さんの感情の亢進を感じさせる閣議決定だった。 というよりも、閣議決定として通用させるにはあまりにも無理筋な「強弁」に見えた』、などの指摘はさすが切れ味が鋭い。しかも、2週間後に、『「安倍晋三首相の外遊に同行する昭恵夫人に対し、公用旅券である外交旅券を発給している」 という主旨の答弁書を決定』、と整理して伝えられると、改めて安部政権が閣議決定をいいかげんな権威付けに使った結果、むしろ本来の権威を傷つけていることがわかる。本来は、閣議決定に馴染むのかどうかを冷静に判断すべき官房長官まで、安部首相の怒りの前には異議を申立てられなかったのかも知れない。安部首相の『大見得』、といい、どうもその場しのぎで発言しているようで、「言葉」に「重み」が感じられない。 『森友関連報道が・・・揚げ足取りの報道に終始しているのは、そもそも、政府の側が、保管してあるはずの書類を「廃棄した」と言い張ったり、確認を求める野党議員の質問に「個別に確認をすることは差し控えさせていただきます」と木で鼻をくくったような答弁を繰り返してきたことへの反作用なのであって、つまり、一連の報道のタチの悪さは、政府の側の対応の悪さが招いた当然の帰結だということだ』、との指摘もその通りだ。最後の『感情を抜きで評価してみると、この騒動には中味が無いからだ』、とのオチには微笑んでしまった。
タグ:国有地払い下げ問題 小田嶋隆 森友学園 首相夫人は、「公人」であるとか「私人」であるとかいった形で、きっぱりと一方の側に定義できる立場の人間ではない 意地になった安倍さんの感情の亢進を感じさせる閣議決定だった。 というよりも、閣議決定として通用させるにはあまりにも無理筋な「強弁」に見えた 「首相夫人は公人ではなく私人である」とする答弁書を閣議決定 ありのままを映すというテレビの文法からして、俗悪で陋劣で野卑で下劣な出来事は、やはり真正直に、下品かつ下衆かつ低俗な手法で伝えるほかにどうしようもないはずなのだ このニュースの真骨頂は、その下世話さに宿っているのではなかろうかと思っている 森友学園報道が下世話な理由 日経ビジネスオンライン (その12)(小田嶋氏の見方) 安倍晋三記念小学校 靖国神社に政治家が参拝する際に、私人として参拝したのか、公人として参拝したのかが、ずっと争われてきた テレビのしつこさと疑り深さと下世話さと、揚げ足の取りっぷりの醜さは、そもそも政府の上の方にいる人たちが質問者をバカにした態度と、国民への説明を鼻で笑うマナーから派生したものだということでもある 場面によっては公人だし、そうでない時は私人だろう 縁故主義(ネポティズム)にまみれて見える行政の進め方の怪しさが、テレビ視聴者の間に広がる「感情的」な反応の取水源 私や妻が関係していたとなればこれはもう、まさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい」 と、大見得を切ってしまったからだ 《「森友学園」への国有地払い下げなどを巡り、財務省、国土交通省、文部科学省に対する政治家からの不当な働き掛けは「一切なかった」》 というのは、これは、「事実」を争う問題 首相夫人はあくまでも「私人」なのだが、「私人」として首相の「公務」を補助していて、その私人としての公務の補助のために旅券が必要なので外交旅券を支給しているというお話だ。 二重にも三重にも苦しい説明だ 安倍晋三首相の外遊に同行する昭恵夫人に対し、公用旅券である外交旅券を発給している」 という主旨の答弁書を決定 そもそも、政府の側が、保管してあるはずの書類を「廃棄した」と言い張ったり、確認を求める野党議員の質問に「個別に確認をすることは差し控えさせていただきます」と木で鼻をくくったような答弁を繰り返してきたことへの反作用なのであって、つまり、一連の報道のタチの悪さは、政府の側の対応の悪さが招いた当然の帰結だということだ 森友関連報道が、重箱の隅をつつくような底意地の悪さと、あれこれと細かい食い違いや言い間違いを拾い上げてはネチネチと疑問を数え上げる揚げ足取りの報道に終始しているのは 一方が強弁で来るなら、それを押し付けられた方は、揚げ足を取りに行くということだ 、「首相夫人は(どんな状況下でも)私人である」という恐れ入谷の強弁を閣議決定 きれいなカメラで撮ればゴミの山がイケてるイメージ映像に化けるわけではないし、高級な皿に載せることで腐った刺身がよみがえるものでもない。 やはり、汚いものは汚い言葉で伝えなければならない
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