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教育勅語(その3)(中曽根内閣は「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた、小田嶋氏の教育勅語論2) [国内政治]

今日は、教育勅語(その3)(中曽根内閣は「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた、小田嶋氏の教育勅語論2) を取上げよう。 この問題は森友学園のなかで取上げてきたが、問題の大きさを考慮して、独立した項目とした。(その3)となっているのは、3月21日の小田嶋氏の教育勅語論を(その1)、3月22日の伊東氏の教育勅語論を(その2)と読み替えたためである。

先ずは、4月5日付け日刊ゲンダイ「中曽根内閣は「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた」を紹介しよう。
・安倍政権の「教育思想」は極めて危うい。大阪市の学校法人「森友学園」が運営する「塚本幼稚園」で、「教育勅語」を園児に素読させていた問題。軍国主義の象徴とも言える教育に対し、野党側は猛反発。異を唱える野党の質問主意書に対し、安倍政権は「(学校で)教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定したが、かつて教育勅語を生徒に朗読させていた私学に対し、当時の政府は問題を認め、是正勧告を出していた。
・中曽根内閣の1983年5月11日付の参院決算委の議事録によると、社会党の本岡昭次議員が、島根県の私立高で、建国記念日に学校行事で教育勅語が取り上げられていることを問題視。当時の瀬戸山三男文部大臣にこう詰め寄った。 「(教育勅語を)校長が単に読むだけでなく、校長の朗読に合わせて生徒が立って『朕惟フニ我カ皇祖皇宗』とずっと一緒に読んでいる」 「どのような措置を講じるおつもりか」
・これに対し、瀬戸山大臣は「率直に言って遺憾なこと」 「現在の憲法、教育基本法のもとでは不適切」と問題を認めつつ、「島根県を通じてそういうことのないように指導をしてくれと、勧告しておる」と答弁していたのだ。
・さらに、翌84年1月25日の同委員会でも、本岡議員はこの問題を指摘。きちんと是正勧告したのかどうか、説明を求め、文部省側は「島根県当局に対してこういう内容についての是正を指導してもらいたいということを指導して参った」 「是正をしていくようにという私学の当局者に指導を繰り返してきております」と報告していた。つまり、時の政府は教育勅語を明確に否定していたわけだ。
・過去の政府見解では、教育勅語を否定していたにもかかわらず、なぜ、今の安倍政権はスルーなのか。菅官房長官も3日、教育勅語を是認するような内容の閣議決定について「憲法や教育基本法に反しないよう適切な配慮の下で取り扱うことまでは否定しない」と言っていたが、こんなデタラメはない。
・本紙で「『教育勅語』を学校教育に導入するのは違憲」と断じていた憲法学者で慶大名誉教授の小林節氏はこう言った。 「安倍政権は『親孝行』や『兄弟は仲よく』といった教育勅語の徳目は教育上、役に立つ価値観であると説明している。しかし、そういった価値観は『世界の常識』と言えるもので、わざわざ教育勅語を持ち出すべきものではありません。危険なのは『一身を捧げて皇室国家の為につくせ』という文言。これは『天皇主権の下に基本的人権を認めない』という趣旨で、明確に現行の憲法に反しています」 時代に逆行している安倍政権である。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/202811

次に、コラムニストの小田嶋隆氏が4月8日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「教育勅語はなぜ必要か」を紹介しよう。
・今村雅弘復興相が4月4日の会見で記者に対して 「出ていきなさい」 「うるさい」 などと暴言を吐いたことが伝えられている。 発端は、東京電力福島第一原発事故で今も帰れない自主避難者について、国が責任を取るべきでは、との記者の問いに対して、今村大臣が 「本人の責任でしょう。(不服なら)裁判でも何でもやればいいじゃないか」 と発言したことだった。
・この後、記者と大臣の間で口論になり、大臣は冒頭で紹介した言葉を残した上で、会見を一方的に打ち切って退出している。 最近は、こういうことが起こると、即座に動画が出回る。 YouTubeで「復興大臣」を検索すると、7分ほどの会見の動画がヒットする(こちら)。
・見ると、最後の1分ほどのところで、大臣は、 「なんという君は無礼なことを言うんだ」 「撤回しなさい」 「二度と来ないでください君は」 「うるさい」 と、強い口調で記者を叱責している。 この時の模様は、いくつかのテレビ局からニュース映像として配信されている。
・なお、書き起こしのテキストは、復興庁のホームページに掲載されている(こちら)。 復興庁は、会見があったその日のうちに会見のやりとりを文字に起こしてネットにアップしたことになる。お役所としては異例の機敏さだ。 どうしてこんなに素早く対応したのかというと、会見の全文を知ってほしいと考えたからだと思う。 というのも、ニュース映像で短く編集された動画を見ると、大臣が声を荒げている場面だけが強調されるため、印象が悪くなってしまうからだ。
・復興庁としては、 「大臣が一方的に暴言を吐いたわけではない。その前段として、記者が執拗に同じ質問を繰り返していたことを織り込んだ上で理解してほしい」 「ほーら、こんなに挑発されてるんだから怒るのも無理ないよね?」 と、そういう意味をこめた全文アップだったわけだ。 たしかに、やりとりの全容をあらためて見直してみると、件の記者の質問の仕方は、質問というよりは記者自身の考えをぶつけている印象だ。「議論を吹っかけている」と言っても良い。
・大臣がアタマに来た気持ちはわかる。 とはいえ、記者に挑発されたからといって、暴言を吐いて勝手に会見を中断して帰って良いということにはならない。 政治家が備えているべき資質の中には、困難な場面で感情的に振る舞わないことも含まれている。 大臣である以上、記者の質問には回答せねばならない。答えられないのなら、その理由を伝えなければならない。仮に、質問者の態度が失礼であったのだとしても、そこは、冷静にたしなめるなりして、会見は会見として粛々と完了しておく必要がある。まあ、建前だが。
・ツッコミどころを整理すると
 1.怒鳴るのは論外。
 2.「自己責任」というのは、復興担当大臣が気軽に振り回して良い言葉ではない。 というのも、社会とは責任を分かち合うシステムであり、政治はその責任を調整する手続きだからだ。特に復興を担当する大臣は、被災地の人間をサポートする任務を担っている。とすれば、復興をサポートするはずの人間の口から出た「自己責任」という言葉は、レストランのシェフが「自分で料理しろ」と言ったり、学校の先生が「自習しろ」と言ったのと同じで、職務放棄と見なされても仕方がない。
 3.東京電力の株を8000株所有しているという報道があった。神経を疑う。
・といったあたりになるわけだが、これらについては、新聞各紙で既に指摘されているところでもあるので、ここでこれ以上深追いすることはしない。 当欄では、今村大臣が記者を怒鳴りつけたあとの意外な行動について考える。 個人的に、暴言そのものよりも、そっちの行動の方が強く印象に残ったからだ。
・会見があった4月4日の夜、私は暴言会見の動画を視聴した上で、以下のようなツイートを投稿した。 《今村復興相は、記者を怒鳴りつけた後、きちんと日の丸(だと思う。画面の左にある何か)にアタマを下げて、その後にまた記者を指差して怒鳴ってから退場している。なんというのか、人間に対する礼儀は踏み外しても、権威への服従のマナーを失っていないところに本物の奴隷根性を見た。感動した。》(こちら)
・このツイートには、大きな反響があった。 現時点で7000件以上リツイートされている。 評判が良かったというのとは少し違う。 どちらかといえば「荒れた」「炎上した」と言った方が正確だろう。 たくさんの反応が返ってくるツイートが優れたツイートだとは限らない。
・実際には、このツイートのような、挑発的だったり悪質だったりするツイートの方が表面上の注目度は高かったりする。 まあ、下品なダミ声の方が客を誘引する力は強いということに近い。 私自身、このツイートは言い過ぎだったと思っている。
・具体的にどこが言い過ぎだったのかというと、「奴隷根性」という表現がよろしくなかった。 今村大臣が、日の丸にアタマを下げる一方で記者を怒鳴りつけていた態度は、私の個人的な趣味とは相容れないものだ。  が、そんな観察は私の側の一方的な思い込みに過ぎない。
・大臣が日の丸に一礼したことは、大臣個人の道徳観なり倫理観なりマナー意識の現れとして、尊重されてしかるべきものだ。赤の他人である私が、「奴隷根性」と決めつけて良いことではない。 なので、「奴隷根性」という言葉については、謝罪の上、撤回しておく。 すみませんでした。
・一国の大臣が、国旗に礼をすることを批判しているのではない。ただ、私がこれを書いたのは、今村大臣が、あんなに興奮して怒鳴っているようでいて、日の丸に一礼する時には落ち着いて見えたことが意外だったからだ。 しかも、大臣は、きちんとした態度で日の丸にアタマを下げた後、またあらためて記者を怒鳴りつけてから会見場を去っている。なんというのか、これは、私には、奇妙な仕草に見えたのである。
・ずっと昔、テレビで見た、あるプロ野球選手の不思議な態度を思い出した。 その元メジャーリーガーの選手は、アタマのあたりに危険球を投げられると、まず静かに持っていたバットを地面に置いて、それからやおらピッチャーを殴るために走って行った。
・テレビ放送の解説者が、選手の暴力に苦言を呈しつつも、バットを投げなかった態度を賞賛していたことを覚えている。 「さすがに一流の選手はバットを大事にします」 と。 おそらく、道具を大切に扱うという長年の野球生活の中でカラダにしみついた習慣が、ビーンボールを投げた投手を殴りに行く瞬間であっても、きちんと機能していたのだと思う。
・あるいは、バットを手に持ったまま投手を殴りに行ったら大事件になってしまうことがわかっていたからこそ、とにかくとりあえずバットを地面に置いてから行動を起こすことにしたのかもしれない。いずれにしても、立派な態度だったと思う。
・今村大臣も、あれだけ怒鳴っていたのだからして、冷静だったわけではなかろう。 とはいえ、半ば逆上した精神状態にあって、それでも、日の丸への一礼を忘れなかったのは、彼の中で国旗への敬意が、身体化されたマナーとして身に付いていたからだ。 
・別の解釈もできる。 今村大臣は、本人の自覚としては、逆上して怒鳴り散らしていたのではなかったのかもしれない。 だからこそ、ああいうふうに落ち着いて日の丸に一礼をすることができた。 大臣は、あくまでも非礼な記者を強くたしなめているぐらいな気持ちでいた。  つまり、本人としては、正当な物言いを冷静にぶつけていたに過ぎないのかもしれない。
・作家の百田尚樹さんが、こんなツイートを配信している。 《卑劣な記者の汚い挑発に乗ってしまった今村復興大臣は軽率だという声もあるが、私は、よくぞ怒鳴ってくれたと思う。 卑劣な野郎には怒って当然、怒鳴って当然だ。 なぜなら大臣である前に男であるからだ。大臣は辞めたってどうということはない。しかし男を辞めたら、終わりだ。》(こちら)
・記者を怒鳴りつけたことは、大臣の職責を考えるなら、良くない態度であるには違いない。 しかしながら、一個の男として考えるなら、無礼者を怒鳴りつけるのはあくまでも正しい態度だ、と、そういうことのようだ。 典型的なマッチョイズムだ。 私は、共感しない。 というよりも、このツイートはキモい。
・が、一方において、百田先生のこの意見に共感する人が少なくないであろうことも、なんとなく察知している。 ざっと考えて、日本の男性の半数は、百田先生のツイートに賛成するのではなかろうか。 残りの半分の大半も、薄笑いを浮かべつつ否定はしないかもしれない。
・しみじみと孤独を感じる。 おそらく、日本人の多数派は、怒鳴った態度は良くなかったのだとして、それでも怒鳴った気持ちには理解を示すはずで、そのあたりがわれわれの道徳観の最大公約数なのだと思う。 記者に対して声を荒げていながら、日の丸に対しては礼節を保っていた大臣の態度を、私自身は異様な振る舞い方だと感じている。
・でも、私と同じ感想を抱く日本人は、そんなに多くないはずだ。 多くの人は、無礼者を怒鳴りつけるのは正しい態度で、一方、日の丸に礼節を尽くすことも正しい心構えだと考えている。 大きな溝がある。 私個人は、「日の丸」という表象や、「国家」という枠組みや、「国体」という概念のような、「形式」としてわれわれの前に立ちはだかる「権威」に対して礼儀正しくふるまうことよりも、生きて動いている生身の人間の生命や感情を尊重することの方がずっと道徳的だと考えている。
・権力の側にいる人が自らの依って立つ権威を大事にするのは当然で、であればなおのこと、その力の振るい方には慎重であって欲しい。 だから、今村大臣が、国旗に一礼しながら人間に対して乱暴な言葉を投げつけたことを、異様な倒錯した道徳観だと感じて、こっちも「奴隷根性」などという乱暴な言葉を使ってしまったわけなのだが、今村大臣の態度こそが本当の「道徳」であると考えている日本人は、実はとてもたくさんいる。
・しつこいようだが、もう一度教育勅語の話をする。 私は、このひと月ほど、これのことばかり考えている。それほど、私にとって、教育勅語の復活は、なんとも薄気味の悪い出来事なのだ。 教育勅語を再び教材として蘇らせようとしている人たちが、教育勅語を通して、なんとしても伝えようとしているのは、今村大臣が身をもって示したような、「対話の相手である記者」よりも「会見場に掲げられている日の丸」を大切にする心情およびマナーみたいなものなのだと私は考えている。
・教育勅語には、親を大切にすることや、人が謙虚に生きるべきであることや、仕事に励むことをはじめとする一般的な徳目が数多く列挙されている。 であるから、教育勅語を擁護する人たちは、もっぱらその点(教育勅語の中に人としての望ましい徳目が数多く挙げられていること)を強調することになっている。 でも実際のところ、教育勅語を称揚する人々が子供たちに本当に伝えたいと思っているのはその部分ではない。
・親孝行や友達と仲良くすることを教えるのだったら、何も教材は教育勅語でなくてもかまわない。そこいらへんの漫画でもショートストーリーでも、なんなら子供の書いた作文でも十分にその役割を果たすことができるはずだ。 というよりも、親孝行や謙虚さや勤勉さや協調性は、授業の中でとりたてて項目を立てて教えるより、子供たちが家族や共同体やクラスの中で普通に人間同士のやりとりをしていれば、自然に身に付くはずで、そのほうが社会としても望ましいはずなのだ。
・ではなぜ「教育勅語」を持ち出さなければならないのか。 それは、特別な道徳を語らなねばならないからだ。 たとえば、「天皇」への尊崇の念、「国家」への忠誠心といった、子供には難解な概念を彼らの第二の天性として身につけさせようと思ったら、その教材は、やはり教育勅語でなければならない。
・逆に言えば、教育勅語を教材に採用しようとしている人たちが、子供たちに伝えたいのは、「教育勅語の中の憲法に反する部分」だということだ。 最後の方にある 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」 という部分を子供たちの心に定着させることができるのは教育勅語だけだ。 自己犠牲。 挺身。 私心の排除。 その種の道徳は、教育勅語でなければ、その真髄を正しく伝えることができない。
・だからこそ、彼らは、勅語(天皇のお言葉)という形で提供される、その前提からして日本国憲法の精神にそぐわないあの文書を教育現場に召喚しようとしているのだ。 人間よりも、国家が大切であること。感情よりも形式が重んじられるべきであること。自己犠牲がなによりも美しい心情であるということ。国民のために利便を提供する国家を建設するのではなく、国家のために命を捧げることのできる国民を育てあげること。そういうことを、彼らは成し遂げようとしている。
・この先、他人を怒鳴りつける前と後に、日の丸に向かって粛然と一礼できる人間の割合が順次増加するのであれば、一旦緩急ある前に、できれば国を捨てたいと思う。 投げやりな結論になった。 せめて一礼して去ろう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/040600089/

中曽根氏自身は自民党内では右派だったが、それでも瀬戸山三男文部大臣が、『「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた』、というのは隔世の感がある。政治家だけでなく、社会も右傾化したことを反映しているのだとすれば、恐ろしいことだ。
小田嶋氏はこの記事のあと、今村復興相の辞任の問題を取上げ、このブログでは5月2日に紹介した。今回の記事でいえば 『復興をサポートするはずの人間の口から出た「自己責任」という言葉は、レストランのシェフが「自分で料理しろ」と言ったり、学校の先生が「自習しろ」と言ったのと同じで、職務放棄と見なされても仕方がない』、というのはまさに至言だ。 『ではなぜ「教育勅語」を持ち出さなければならないのか。 それは、特別な道徳を語らなねばならないからだ。 たとえば、「天皇」への尊崇の念、「国家」への忠誠心といった、子供には難解な概念を彼らの第二の天性として身につけさせようと思ったら、その教材は、やはり教育勅語でなければならない。 逆に言えば、教育勅語を教材に採用しようとしている人たちが、子供たちに伝えたいのは、「教育勅語の中の憲法に反する部分」だということだ。 最後の方にある 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」 という部分を子供たちの心に定着させることができるのは教育勅語だけだ。 自己犠牲。 挺身。 私心の排除。 その種の道徳は、教育勅語でなければ、その真髄を正しく伝えることができない』、との指摘は本質を突いた正論だ。
これだけ大きな問題を含んだ「教育勅語」については、今後とも世の中の動きを注視していきたい。
タグ:今村雅弘復興相 教育勅語はなぜ必要か 小田嶋隆 瀬戸山三男文部大臣 日経ビジネスオンライン 島根県当局に対してこういう内容についての是正を指導してもらいたいということを指導して参った 正をしていくようにという私学の当局者に指導を繰り返してきております 危険なのは『一身を捧げて皇室国家の為につくせ』という文言。これは『天皇主権の下に基本的人権を認めない』という趣旨で、明確に現行の憲法に反しています 日刊ゲンダイ 中曽根内閣は「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた 安倍政権は「(学校で)教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定 中曽根内閣 百田尚樹 島根県の私立高で、建国記念日に学校行事で教育勅語が取り上げられていることを 時の政府は教育勅語を明確に否定 教育勅語 (その3)(中曽根内閣は「教育勅語」を否定し是正勧告を出していた、小田嶋氏の教育勅語論2) 4月4日の会見で記者に対して 「出ていきなさい」 「うるさい」 などと暴言を吐いた 怒鳴るのは論外 .「自己責任」というのは、復興担当大臣が気軽に振り回して良い言葉ではない レストランのシェフが「自分で料理しろ」と言ったり、学校の先生が「自習しろ」と言ったのと同じで、職務放棄と見なされても仕方 東京電力の株を8000株所有しているという報道があった。神経を疑う 記者を怒鳴りつけた後、きちんと日の丸(だと思う。画面の左にある何か)にアタマを下げて、その後にまた記者を指差して怒鳴ってから退場している 今村大臣が、あんなに興奮して怒鳴っているようでいて、日の丸に一礼する時には落ち着いて見えたことが意外だったからだ 教育勅語を再び教材として蘇らせようとしている人たちが、教育勅語を通して、なんとしても伝えようとしているのは、今村大臣が身をもって示したような、「対話の相手である記者」よりも「会見場に掲げられている日の丸」を大切にする心情およびマナーみたいなものなのだと私は考えている 卑劣な野郎には怒って当然、怒鳴って当然だ。 なぜなら大臣である前に男であるからだ。大臣は辞めたってどうということはない。しかし男を辞めたら、終わりだ 日本の男性の半数は、百田先生のツイートに賛成するのではなかろうか。 残りの半分の大半も、薄笑いを浮かべつつ否定はしないかもしれない ではなぜ「教育勅語」を持ち出さなければならないのか。 それは、特別な道徳を語らなねばならないからだ。 たとえば、「天皇」への尊崇の念、「国家」への忠誠心といった、子供には難解な概念を彼らの第二の天性として身につけさせようと思ったら、その教材は、やはり教育勅語でなければならない 教育勅語を教材に採用しようとしている人たちが、子供たちに伝えたいのは、「教育勅語の中の憲法に反する部分」だということだ。 最後の方にある 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」 という部分を子供たちの心に定着させることができるのは教育勅語だけだ。 自己犠牲。 挺身。 私心の排除。 その種の道徳は、教育勅語でなければ、その真髄を正しく伝えることができない 親孝行や友達と仲良くすることを教えるのだったら、何も教材は教育勅語でなくてもかまわない。そこいらへんの漫画でもショートストーリーでも、なんなら子供の書いた作文でも十分にその役割を果たすことができるはずだ
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