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フランス(その2)(マクロン大統領に関する小田嶋氏のコラム) [世界情勢]

昨日に続いてフランスを取上げよう。今日は、(その2)(マクロン大統領に関する小田嶋氏のコラム) である。

コラムニストの小田嶋隆氏が5月12日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「大統領の大恋愛はお好き?」を取上げよう。
・フランスの大統領選挙は、決選投票の結果、エマニュエル・マクロン氏が当選した。5月14日付けで、新大統領に就任する運びになっている。 当選直後の各メディアの記事をひととおり見回してみると、マリーヌ・ル・ペン大統領誕生の可能性が消えたことに安堵する反応が目立つ。
・まあ、当然だろう。直前になって翻意したものの、長らくEU離脱の意向を表明していた彼女がフランスを率いる未来像はどう見ても剣呑だし、ヨーロッパの大国であるフランスが、排外的な民族主義にシフトする未来像も、素敵な結末とはいえない。とすれば、マクロン氏がいかなる人物で、この先どんなタイプのリーダーシップを発揮することになるのであれ、とにもかくにも、あからさまな極右の指導者であるル・ペン大統領の誕生よりは穏当だと考えるのが、外国人のリアクションとしては通り相場だ。
・個人的には、マクロン氏のプロフィールを伝える記事の中に「金融のモーツァルト」というフレーズが登場していたのが面白かった(朝日新聞DIGITAL「華麗なる経歴『金融のモーツァルト』最年少で仏大統領に」)。  「○○のモーツァルト」という形式の成句は、「○○」のところに地名を代入したフレーズとして流通しているケースが多い。その場合、「○○のモーツァルト」は、○○にハメこまれた国なり地域を代表する音楽家を意味する。「浪速のモーツァルト」が代表的な例だ。どこの国にも、どんな町にも、その場所なりのその地域にふさわしいモーツァルトがいる。そして、それらの一人ひとりの田舎モーツァルトは、それぞれの地域の音楽に彩りと豊かさをもたらしている。素晴らしいではないか。
・この言い方は応用が利く。 「静岡のマラドーナ」「ハマのメッシ」「岸和田のベーブ・ルース」「鶴巻町のジョニー・ロットン」「赤羽のプレスリー」「大阪営業二課のイニエスタ」「和製トランプ」「量産型アインシュタイン」てな調子で、われわれは、地域限定のスターと彼らが活躍するフィールドをワンセットの物語として楽しんでいる。かように、身近な誰かを偉大な誰かになぞらえる視点は、世界の解釈をスリリングにしてくれる魔法として、また、退屈な日常に刺激をもたらすスパイスとして、今日も人々を癒やしている。
・そんななかで「金融のモーツァルト」という言い方はちょっとめずらしい。 ○○のところに、地域ではなくて、「分野」「カテゴリー」「活躍分野」の変数を当てている点が異色だ。 この場合「金融のモーツァルト」は、「金融の世界に登場した、音楽におけるモーツァルトのような人物」ぐらいなニュアンスになる。「モーツァルト」の含意は、「早熟の天才」あるいは、「特筆すべき才能」といったあたりになるはずで、ということは、マクロンさんは、金融の世界で若くして頭角をあらわした天才的な人物だったのであろう。
・もっとも、皮肉な見方をすれば、モーツァルトの人物像は傲慢不羈な才人を示唆する記号にもなれば、下品な若者の暗喩としても通用する。35歳で病没したモーツァルトの生涯から逆算すれば、39歳のマクロン氏は、まだまだ十分に若いとはいえ、既に死に体の人物だということにもなる。 いずれにせよ、モーツァルトは、メタファーの素材として、多彩な幻視とBGMをもたらす、極めてきらびやかな素材だ。こういう人物になぞらえられる人間は幸運だと思う。
・もうひとつ印象深かったのは、新たなファーストレディーとなるブリジッド・トロニュー氏に関する報道だ。  当選が決まった翌日にあたる5月8日の朝日新聞は、マクロン新大統領とその夫人であるブリジッド氏の来歴を記した「マクロン氏、大恋愛の末に 25歳年上の既婚高校教師と」という記事を掲載している。
・「大恋愛」 という単語が見出しに掲げられているのを見て、私はちょっと笑った。 久しぶりに見る大時代な言葉だと思ったからだ。 「大恋愛」は、私の脳内では 「新派大悲劇」 だとか 「昭和枯れすすき」 といったあたりの言葉と同じ箱に入っている。 とてもではないが、新聞の見出しに持ってこれる物件ではない。
・私自身、生まれてこの方、他人をからかう時以外に、この言葉を使った経験はない。 それほど大仰な言葉だということだ。 この二人の関係のどの部分を指して朝日新聞は「大恋愛」と言ったのだろう。 二人の間に25歳の年齢差があることだろうか。 マクロン氏が15歳の高校生だった時に出会ったという、その年齢のまばゆさのゆえだろうか。 あるいは、出会った時にトロニュー氏が既婚で3人の子を持つ母であったという境遇のブラームスがお好きっぽい異例さが、「大恋愛」という振りかぶった言葉を召喚せずにおれなかった理由なのであろうか。
・勝手に想像すればだが、二人の間には、巨大な時間と境遇の違いに加えて、婚外交際という道ならぬ恋の気配が横たわっていたわけで、だからこそ、記者は、それらの逆風と困難を乗り越えて結ばれた夫妻の行きがかりに「大恋愛」というタグを貼り付けたくなった、と、まあ、大筋の話としては、そういうなりゆきだったはずだ。
・この記事を書いた朝日新聞の記者の見方は、私の個人的な感覚と、実は、そんなにかけ離れていない。 つまり、私は、マクロン夫妻の結婚を「大恋愛」の結果だとする見方に、基本的には同意するということだ。  にもかかわらず、私が、見出しを見た瞬間に、こみあげてくる笑いを抑えがたく感じたのは、「大恋愛」という言葉がおかしかったというよりは、他人の恋愛事情に言及する時の、われわれ自身のご都合主義に自嘲の気持ちを抱いたからなのだと思う。
・たとえばの話、昨年の今頃、「ゲス不倫」と呼ばれて袋叩きに遭っていた、ベッキー嬢とゲス氏の交際と、この度のマクロン夫妻のエピソードを比べてみたとして、どちらがより不道徳で、いずれがより純粋なのだろうか。 マクロン夫妻の年代記が「大恋愛」と評され、ベッキー嬢の密会が「ゲス不倫」と名付けられたのは、この二組の交際にどんな質的な違いがあったからなのだろうか。
・マクロン氏が大統領でなく、フランス人でなく、男前でもモーツァルトでもないのだとしたら、彼の結婚にいたる物語は、「大恋愛」と呼ばれただろうか。 疑問だ。 うちの国のマスコミは、いったいにフランス人に甘い。特にフランス人の恋愛事情には、いちじるしく甘い。 結婚であれ、事実婚であれ、不倫であれ、同性愛であれ、フランス人がこの道でやらかす不行跡に対して、われわれは決して文句を言わない。というのも、女性誌の編集者が暗黙のうちに定めたルールによれば、フランス人は服を10着しか持っていないのに常にエレガントで、グルメ三昧の食生活を謳歌しつつも一向に太らない体質で、恋愛に関しても全方向的な免罪符を所持していることになっているからだ。
・あるいは、マクロン夫妻の年齢差が逆転していて、39歳のマクロン氏が、25歳年下の、14歳の少女と結婚していたのだしたら、彼らは祝福されるだろうか。 …いや、この例は極端すぎる。いくらなんでも14歳の少女と結婚という設定には無茶がある。 つまり、アレだ。40歳の妻子ある高校教師のマクロン氏が、教え子である15歳のブリジット嬢との間に愛を育んで、後に結婚することになったのだとして、彼らの交際は「大恋愛」と呼んでもらえるのだろうかといったあたりが、この場合の正しい問いになる。
・これも、難しいはずだ。 不倫どころか、淫行と呼ばれるかもしれない。 情報拡散の時期や内容次第では、当局に取り調べられる展開すら考えられる。
・そもそもの話をすれば、われわれの周囲に転がっている恋愛のうちのどれが「大恋愛」で、そうでない交際はどうして、大規模な恋愛としての名誉ある扱いを受けられないのだろうか。 障害を克服した恋愛が大恋愛だというお話だろうか。
・とすると、不倫や国際結婚や、敵対する二つの家系に属する男女の交際や、同性愛や複雑に交錯した三角関係や親子ほども年齢の離れた異例の二人による交際こそが大恋愛で、われわれの社会が模範的な組み合わせとして推奨している誰もが祝福する似合いのカップルによる穏当な異性交友はすべて「小恋愛」だということになるが、そういうことでよろしいのか?
・いや、良いとか悪いとか、そういうことではない。 私が申し上げたいのは、恋愛に大小の区別をつけているのは、他人の色恋沙汰にドラマを期待する見物人のエゴではないのかということだ。 私は、マクロン氏の結婚が不純で異様で彼らの結婚に至った過程が不道徳だった点をメディアがあげつらわないことに不満を漏らしているのではない。
・逆だ。 私は、フランスの大統領であれば祝福され賞賛され選挙戦における投票フックにすらなる配偶者との関係が、どうして日本の芸能界や政界では、炎上の火種になり、燃料になり、糾弾の標的になり、活動休止や議員辞職の理由になるのかということについて、問題提起をしているつもりだ。
・海の向こうのセレブに対しては寛容である同じ人間が、どうして自分たちの身近にいる人間に対しては、これほどまでにケツメドの小さい態度で接するのか、その理由をはっきりさせなければならない。
・ずっと昔、歌手の沢田研二がまだジュリーと呼ばれていた頃の話をする。 1970年代の後半から80年代にかけて、彼は、同じプロダクションのとある先輩歌手と結婚していたのだが、その一方で、ある時期から、さる女優と交際していた。この二人の交際は、やがて週刊誌にスッパ抜かれ、以来、やれ「不倫」だ「裏切り」だ「逃避行」だと、毎週のように厳しい言葉で糾弾されることとなった。
・で、そういうきびしい時代が何年も続いたあげくの果てのある日、妻が離婚を承諾し、不倫の二人は、晴れて結婚した。 と、その瞬間に、女性週刊誌の論調は 「ジュリー、T中Y子愛の軌跡」 ってな調子の祝福に変わった。
・まるでたった一日で世界の文法がひっくり返ったみたいに、全ゴシップメディアの書き方が、軒並み悪意から好意に転換したのである。 あるいは、所属プロダクションや有力者を通じて、何らかの働きかけなり手打ちなりがあって、それで、「話がついた」ということなのかもしれないし、離婚協議の中の条件のひとつに報道についての一文が添えられていたのかもしれない。
・真相はわからない。あるのだとしても私は知らない。 それにしても、なんというご都合主義だろうか。 私は、この時の芸能マスコミの手の平返しについて月刊誌で感想を書いたのでよく覚えているのだが、その時に書いたのは、結局のところ、芸能マスコミは、特定の誰かの立場の正義を代表しているわけではなくて、「結婚」という制度の味方をすることでお茶をにごしているということだった。
・不倫も裏切りも逃避行も泥棒猫も、「結婚」の二文字を得るや、「愛の軌跡」という美しい物語に読み替えられるわけで、なんのことはない、メディアは、生身の人間の交際をその交際の実体に即して評価しているのではなくて、単に書類上の正当性から後押ししているだけだったのである。
・あれから何十年かが経過して、さすがにうちの国のマスコミも他人の色恋沙汰を追いかけ回すテの報道から足を洗ったと思っていたら、昨年来の文春砲の連発だ。 一連の不倫告発記事に、私は、毎度毎度気持ちをくじかれている。 文章を書く仕事の下劣さを思い知らされるからでもあるが、それ以上に、あの記事を喜ぶ読者の多さに無力感を抱くからだ。 心をこめて作った料理よりも、土足で踏んで作ったピザの方が喜ばれるのだとしたら、誰がいったい大真面目にスープを仕込んでいられるだろう。
・今回、マクロン夫妻の結婚を「大恋愛」と呼んだ朝日新聞と、昨年来他人の婚外交渉を「ゲス」だ「不倫」だと言っては攻撃している週刊文春は、別の会社の刊行物であり、会社同士も必ずしも仲の良い関係ではない。その意味では、彼らの報道を一緒くたにしたうえで、「ダブルスタンダード」だとする指摘は、お門違いだろう。
・公人の私生活であっても、犯罪にかかわる話でない限り、男女の間のできごとには介入せず、できれば論評もしないのが大人のたしなみだ、と私は考えている。 もちろん、この考えに賛成できない人がいるのは当然だ。 退屈した人たちが他人の色恋沙汰に興味を持つことも仕方のないことだとも思っている。
・しかし、ともかく、夫婦の間で、相手に言えない秘密を持つことが、仮に、恥ずかしいことであるのだとしても、その他人の秘密を暴いて金を稼ぐことは、それ以上に恥ずかしいことだという認識は、できれば共有してほしい。というのも、ゲスという言葉は、不倫をはたらいている人間よりも、それを暴いて正義面をしている人間が受け止めるべき言葉だと思うからだ。 まあ、こんなことを言っても、どうせゲスの耳には届かないのだろうが。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/051100093/

マクロン氏が「金融のモーツァルト」と呼ばれているとは初めて知った。 『「ゲス不倫」と呼ばれて袋叩きに遭っていた、ベッキー嬢とゲス氏の交際と、この度のマクロン夫妻のエピソードを比べてみたとして、どちらがより不道徳で、いずれがより純粋なのだろうか。 マクロン夫妻の年代記が「大恋愛」と評され、ベッキー嬢の密会が「ゲス不倫」と名付けられたのは、この二組の交際にどんな質的な違いがあったからなのだろうか』、との比較は、凡人には考えもつかないだけに、さすが小田嶋氏ならではである。 『私が、見出しを見た瞬間に、こみあげてくる笑いを抑えがたく感じたのは、「大恋愛」という言葉がおかしかったというよりは、他人の恋愛事情に言及する時の、われわれ自身のご都合主義に自嘲の気持ちを抱いたからなのだと思う』、 『私は、フランスの大統領であれば祝福され賞賛され選挙戦における投票フックにすらなる配偶者との関係が、どうして日本の芸能界や政界では、炎上の火種になり、燃料になり、糾弾の標的になり、活動休止や議員辞職の理由になるのかということについて、問題提起をしているつもりだ』、 『昨年来の文春砲の連発だ。 一連の不倫告発記事に、私は、毎度毎度気持ちをくじかれている。 文章を書く仕事の下劣さを思い知らされるからでもあるが、それ以上に、あの記事を喜ぶ読者の多さに無力感を抱くからだ』、などの指摘には大いに感心させられた。
マクロン大統領が来月の国民議会議員選挙の洗礼を無事乗り切れることを期待している。
タグ:日経ビジネスオンライン (その2)(マクロン大統領に関する小田嶋氏のコラム) 小田嶋隆 フランス 大統領の大恋愛はお好き? あからさまな極右の指導者であるル・ペン大統領の誕生よりは穏当だと考えるのが、外国人のリアクションとしては通り相場 「金融のモーツァルト」 新たなファーストレディーとなるブリジッド・トロニュー氏 朝日新聞 「マクロン氏、大恋愛の末に 25歳年上の既婚高校教師と」 「大恋愛」 久しぶりに見る大時代な言葉だと思ったからだ 私が、見出しを見た瞬間に、こみあげてくる笑いを抑えがたく感じたのは、「大恋愛」という言葉がおかしかったというよりは、他人の恋愛事情に言及する時の、われわれ自身のご都合主義に自嘲の気持ちを抱いたからなのだと思う たとえばの話、昨年の今頃、「ゲス不倫」と呼ばれて袋叩きに遭っていた、ベッキー嬢とゲス氏の交際と、この度のマクロン夫妻のエピソードを比べてみたとして、どちらがより不道徳で、いずれがより純粋なのだろうか うちの国のマスコミは、いったいにフランス人に甘い。特にフランス人の恋愛事情には、いちじるしく甘い フランスの大統領であれば祝福され賞賛され選挙戦における投票フックにすらなる配偶者との関係が、どうして日本の芸能界や政界では、炎上の火種になり、燃料になり、糾弾の標的になり、活動休止や議員辞職の理由になるのかということについて、問題提起をしているつもりだ 芸能マスコミは、特定の誰かの立場の正義を代表しているわけではなくて、「結婚」という制度の味方をすることでお茶をにごしているということだった 他人の秘密を暴いて金を稼ぐことは、それ以上に恥ずかしいことだという認識は、できれば共有してほしい
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