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不祥事への謝罪(危機管理)(社会心理学の専門家に聞く企業が陥る謝罪失敗の法則、謝罪を挽回のチャンスとする「謝罪道」を極める 『謝罪大国ニッポン』、豊田真由子氏から学ぶ 謝罪会見大失敗の根本的な理由) [社会]

今日は、不祥事への謝罪(危機管理)(社会心理学の専門家に聞く企業が陥る謝罪失敗の法則、謝罪を挽回のチャンスとする「謝罪道」を極める 『謝罪大国ニッポン』、豊田真由子氏から学ぶ 謝罪会見大失敗の根本的な理由) を取上げよう。

先ずは、やや古いが、2015年12月7日付け日経ビジネスオンライン「日本人はなぜ「お詫び」が好きなのか 社会心理学の専門家に聞く企業が陥る謝罪失敗の法則」を紹介しよう(▽は小見出し、――は聞き手の質問、+は回答内の段落)。
・12月7日号日経ビジネスの特集「謝罪の流儀」では、旭化成やトヨタ自動車、タカタなど最近起きた具体例を挙げながら、企業のリスク管理について分析した。 ソーシャルメディアの普及により、世論の生まれ方は一変したが、「謝罪好き」という日本人の国民性は変わっていない。日本人に適した危機管理を実践しなければ、企業は取り返しがつかないほど大きな傷を負うことになる。 良い謝罪・悪い謝罪について、『失敗しない謝り方』著者の大渕憲一・東北大学大学院教授(社会心理学)に話を聞いた。
――ここ数年、メディアを通じて企業の謝罪会見をよく目にします。足元では横浜の「傾きマンション」問題で会見を開いた旭化成が印象的でした。
・大渕:あの会見では、旭化成の浅野敏雄社長が涙を流しましたね。あれが良くなかった。これから問題を解決していくという最初の段階で、被害者側が求めていたのはしっかりとした対応だったはず。具体的な話までしなくても、しっかりとやってくれるという信頼感を求めていた。それなのに涙という情緒的な反応を見せ、被害者側の期待に応えられなかった。
+涙を全否定するわけではありません。ただ、すべての手を打ち、問題が解決した後に、流すべきでした。もちろん戦略的に泣いたわけではないのでしょうけど。トヨタ自動車の豊田章男社長が米公聴会で流した涙も同じです。涙は、自らが被害者だとアピールしているかのような印象を与えます。絶対に取ってはいけない行動のひとつですね。
――旭化成の浅野社長の涙を、「リーダーシップの欠如」と受け止めた日本人が多かったようです。
・大渕:そうでしょうね。情緒的な反応はマイナスにしかなりません。ただ一方で、消費者は謝罪会見だけでその企業やトップを判断するわけではありません。何をしてきたかという背景まで踏まえて判断しますが、旭化成の場合にはその背景の部分も見えにくかった。
――旭化成の会見で涙以外に失敗はなかったのでしょうか。
・大渕:一概に謝罪と言っても、そこにはいくつかの要素が含まれていることに注意しなければなりません。相手にお詫びする「謝罪」以外に、言い訳を伝える「弁解」、故意ではなかったなどと主張する「正当化」、無実を訴える「否認」があります。これらを一括して「謝罪」と呼ぶために誤解が生じることになります。
――どういうことでしょうか。
・大渕:恐らく旭化成はこの4要素のうちの「謝罪」を伝えるための会見にしようという意図を持っていました。ですが、結果として、「弁解」や「正当化」などの要素も入り混じったために中途半端なものになってしまったのです。 これは旭化成だけの問題ではありません。多くの企業が同じようなミスをしています。責任を認めたくないという思いが当然あり、その結果、先々のことまで考えて発言してしまうからです。でも、それは中途半端なだけでなく、不純な感じになってしまう。世間に悪い印象を与えることになるのです。
▽米国でも謝罪重視に
――日本人では特に「謝罪」を求める傾向が強いと言われています。それはなぜなのでしょうか。
・大渕:確かに日本人は謝罪好きですね。我々の調査でも、例えば米国民は何らかの被害にあった場合、その相手による「謝罪」よりも、「弁解」や「否認」を受け入れる傾向にあります。日本では反対で、圧倒的に「謝罪」を求めます。
+日本では小さい頃から、人に迷惑をかけたらまず謝りなさいという教育を受けます。たとえ悪くなくても謝りなさいと。日本社会では周囲のコミュニティーから排斥されることを最も嫌い、恐れます。典型的なムラ社会であることが大きいでしょう。社会的な関係を維持するためには、非を認めるというような形で犠牲を払ってもいいという考えがあります。
――そうした日本人の国民性は今も変わっていませんか。
・大渕:我々の調査でも根底は変わっていないという結果が出ています。最近、謝罪しない若者が増えたという話題が出ます。それは日本社会が変わったというよりも、むしろ謝罪を求める文化が色濃く残っているからこそ、そうした話題に注目が集まるということだと思います。
+むしろ国民性が変わってきているように感じるのが米国です。米国人は責任を押し付けられるかもしれないのでめったに謝らないという印象が強いかもしれません。ただ、最近では弁護士など法曹関係者を中心に、トラブルを起こしたらまず謝罪するように呼びかけています。必要以上の対立を煽らず、話し合いの入り口として謝罪をした方が、その後の交渉が円滑に進むという考え方に基づいています。
――では、企業は謝罪会見でどのように振る舞うべきなのでしょうか。
・大渕:被害者をいたわり、必要な援助をすることを明言する。これが「謝罪」の本質です。特に謝罪が求められる日本ではそこが出発点になります。責任があるのかどうか分からないから謝りませんというのは認められません。 謝罪会見では思い切って「あらゆることをします」と言っていいんです。後ほど責任がないことが分かっても、「あの時あのように言ったじゃないか」というように反発を受けることにはならない。謝罪と法的な問題とは別。謝罪会見はまず気持ちを示すのが重要になります。
――負うべき責任にも色々な種類があります。
・大渕:大別すると、倫理違反と能力違反の2つに分けられます。倫理違反を犯すと、深刻な不信感を引き起こします。場合によっては犯罪として立件され、企業にとって取り返しのつかない事態に陥る可能性があります。
+一方、能力違反は単なる不注意として処理されることが多い。ですが、すべての点が免責されるわけではありません。不注意によるミスを犯すような人物に仕事を任せていた企業は管理責任を問われ、大きな減点対象になるからです。
▽「まな板の鯉」になるべき
――旭化成の会見では、杭打ちデータの改ざんに手を染めた現場代理人が非正規社員だった点を強調していました。これは問題を矮小化しようという意図があったからではないでしょうか。
・大渕:そうでしょうね。ただ、実際は逆効果です。杭打ち工事という重大な業務を、権限を持たない立場の人間に任せるのか。無責任な会社だ、というふうに多くの人が受け止めるからです。倫理違反をごまかそうとするあまり、能力面での企業の脆弱性が露わになった。私はそう感じました。
――ごまかそうとする態度は世間に悪い印象を与えてしまいます。
・大渕:現代社会では隠し立てをするのが難しい。嘘はいずれバレます。そういう意味で自己防衛的な姿勢は極力見せない方がいい。問題や不祥事が起きてしまったら「まな板の鯉」になるべきです。問題点をすべて明らかにし、一からやり直すことを覚悟しないといけません。傷が浅いところで止めようとすると、かえってずるずると悪化し、問題は深刻化します。
――「傾きマンション」問題で、販売元の三井不動産レジデンシャルは逃げるような態度を取り続けています。
・大渕:三井不レジはうまく立ち居振る舞っているように思っているかもしれませんが、すべてを下請けに任せっきりにしている無責任な印象を与えています。イメージダウンは相当大きいと思います。三井不レジに対する世間の信頼感が大きかっただけに余計にダメージは深刻でしょう。企業に対するマイナスイメージがずっと残ることになるため、逃げ続けることは得策ではありません。
――謝罪で失敗した事例として日本マクドナルドの異物混入問題も挙げられます。
・大渕:マクドナルドは、自分たちの責任が明確にならないと謝罪しないという古い米国流のスタンスを貫き、その点に多くの日本人が反発しました。納入業者の製造過程に問題があったとしても、対外的にはマクドナルドが全責任を負わないといけません。内輪の論理は公には無関係です。彼らは日本文化を完全に見誤りましたね。
+ただ、日本人のこのような過剰とも言える反応は、商品の品質を高めるのに寄与した面もあります。結果として、過剰なコストを企業に負わせることになるかもしれませんが、それが世界に名だたる「メードインジャパン」の品質を育てました。
▽言い切ることが大事
――謝罪好きの国民性がマイナスに働く面はありませんか。
・大渕:確かに、謝罪会見を安易に開きすぎるという面があります。でも、それは消費者が企業の責任を不合理なまでに肥大化して捉えるからに他なりません。 ごく個人的な問題であっても組織の責任者がすぐに謝罪会見を開き、批判が大きくなるのを未然に防ぐ。問題を起こした者が成人であっても、親まで表に引っ張り出す。こうした状況が常識になった結果、企業側が非難される前に早めに手を打ちたいという気持ちになるのは当然でしょう。
――良い謝罪会見の極意を教えて下さい。
・大渕:まずは4つの要素のうち「謝罪」を前面に打ち出すこと。それはお詫びといたわりの気持ちを言葉に表すことに尽きます。きちんと言いきれば、結果的に好意的な印象につながります。注意しないといけないのは、言葉と表情の齟齬でしょう。日本人特有の照れ笑いやはにかみなどは相手に誤解を与えるので、控えるべきです。
+重要なのは心構えです。誰しもしかるべき立場になった時に、謝罪会見の準備をすべきだと思います。私も東北大学の学部長になった際にひそかに準備しました。準備といっても、会見にふさわしい正装を用意することと、頭の中で会見の流れをイメージすることぐらい。ただ、それだけでもいざという時に落ち着いて会見に臨めます。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/120300013/120400001/?P=1

次に、昨年9月9日付けダイヤモンド・オンライン「謝罪を挽回のチャンスとする「謝罪道」を極める 『謝罪大国ニッポン』」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽オッサン4人が一斉に頭を下げる 1人はハゲ頭だと尚良し
・ベッキーや舛添要一前東京都知事をはじめ、謝罪のやり方を誤ったことで、奈落の底に追い込まれる例が後を絶たない。 現代では謝罪の必要がないのに、第三者が謝罪を求め、そしてその人たちに向けて謝罪会見を開くというようなことが多くなっている。「世間をお騒がせして申し訳ございません」というのがその時に使われる常とう句であるが、世間は勝手に騒いでいるだけなのだから、それに対していちいち謝罪する必要はない。
・この本『謝罪大国ニッポン』(中川淳一郎著)では、謝罪は適切にすべきだが、不要な謝罪はすべきではないというスタンスで書かれている。 茶道、武道、剣道、柔道など数々の「道」があるように、謝罪にも「道」があるのではないか?と著者はいう。現代の日本では謝罪が本来の目的から逸脱し、様式美やなんらかのルーティーンのようになっている。謝罪は実際に被害を与えたことに対して行う行為だけではなく、とりあえずは「型」をつくるためにやるものになったのだ。
・謝罪の会見には「型」が存在する。 “+ うだつのあがらなそうなオッサンが4人ほど登場する。 +神妙な表情を浮かべる +同タイミングで一斉に頭を下げる(時間は5~10秒) +このときハゲ頭がひとりいると尚良し +司会者役は記者に対しとにかく丁寧に接し、謝罪者には冷淡にする。 ” 
・これをやらずに大失敗したのがマクドナルドのサラ・カサノバ氏の会見である。 “悪い会見のポイント  (1) 嘘をつく (2) 開き直る (3) 他人のせいにする (4) 反省しているように見えない (5) (その資格がないのに)幸せそうに見える (6) 被害者ぶる (7) 「謝罪道」のテンプレートに反している” 
・中国の食品業者が期限切れの肉を使っていたことが発覚した際、カサノバ氏は上記の悪い会見のポイントのうち(3)、(4)、(6)、(7)をみごとにやってのけた。仏頂面で会見に臨み、下請け会社がやったことで、私たちも被害者である。会社の品質管理には自信があるというような会見を開き、大ひんしゅくをかったのだ。
・企業の不祥事に対する会見というものには「型」や「様式美」があり、「反省している感じ」をいかに出すのかが重要なのである。その点でうまい謝罪会見として紹介されているのは山一證券の「号泣会見」である。謝罪道のカギは「実績」「見た目」「所作」がセットになっているのだ。
▽「責任者を出せ!」は責任者が出れば収まる
・謝罪を要求する人たちは口をそろえて「責任者を出せ」という。現場レベルでいくら謝罪をしても全く納得をしなかったのに、責任者がでていったとたんに納得をするということも多い。金銭を要求するような悪質なクレーマーも、お金が取れないのならば、責任者に謝罪をさせたということを落としどころにする人が多いそうだ。 謝罪を要求する→担当者が対応し謝罪→納得せず「責任者を出せ」と要求→責任者がでてきて謝罪。という一連の流れも一種の様式美となっている気がする。
・もうひとつ謝罪では大事なことがある。怒られた際は、言い訳から入るのではなく、まず「ごめんなさい」から入ることだ。 怒っている人がいた場合、重要なのは「怒っている」という事実である。それがいかに理不尽であっても、まずは相手の話を聞く姿勢をとる。話を聞いたうえで、その怒りが誤解に基づくものであれば、「それは誤解です」と伝える。自らに落ち度がある場合は「ごめんなさい」と頭を下げる。
・そこで、「ごめんなさい」を言わずに言い訳をすると、怒っている側は許せなくなるのだ。ただ世の中にはいくら謝罪をしても許されないということはあるので、そのときはあきらめるしかない。
▽謝ることは恥ではなく挽回のチャンス
・この本にはこのほかにも様々な謝罪の事例が載っている。その中で謝罪のテクニックとして面白いと思ったのは「着いた瞬間、ハーハーゼーゼーしながら汗まみれになってると、相手は許してくれることが多い」というものだ。謝罪で大事なのは人の心をどうやって掴むかということである。土下座や頭を丸めるといった古典的な方法も、相手の心をつかむ上では役に立つのだ。
・謝ることは恥ではない。自分に非があるときはきちんと謝る。そこからコミュニケーションが生まれ、良好な関係ができることもあるだろう。謝罪は挽回のチャンスでもある。謝罪道を極めてこれからの世の中をうまく生きていこうではないか。
http://diamond.jp/articles/-/101297

第三に、ノンフィクションライターの窪田順生氏が9月21日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・謝罪会見を開いたはずが、ボロカスに叩かれてさらに評判を落とした豊田真由子氏。おじぎの角度から回答内容まで、危機管理のプロの指南に忠実にこなしたであろうことは間違いないが、なぜ結果が「惨敗」だったのだろうか?
▽服装からおじぎまでプロのアドバイスに忠実だった
・「ち~が~う~だ~ろ~」がチビッコたちのギャグにまでなり一躍全国区となった豊田真由子衆議院議員が催した「謝罪会見」がすこぶる評判が悪い。あそこまでボロカスに叩かれるのなら会見など開かない方がよかったのかもしれない。
・既に情報番組やらネットニュースやらでいろいろな専門家や有識者が問題点を指摘されているので、ここで改めて一つひとつ羅列するのはやめておくが、この10年あまり危機管理広報に携わってきた立場から言わせていただくと、あの会見は以下の一言に尽きる。 「テンプレ危機管理」の限界――。
・「テンプレ」とはテンプレート。就職活動のエントリシートやお礼状、あるいはビジネス文書などで一度は使用したという方も多いだろう。要するに、マニュアル等で定められている「模範文」のことだ。
・世間も薄々、勘付いていると思うが、企業や政治家が不祥事を起こして、謝罪会見を開いたり、謝罪コメントを出すという時も、実はこの「テンプレ」がフル活用されている。弁護士など「危機管理コンサルタント」を名乗るプロのみなさんが、「こういう質問がきたら、こう返しておきましょう」という「模範回答文」を授けて、登壇者はそれを自分流にちょこっとカスタマイズするのだ。
・つまり、「テンプレ危機管理」とは模範的な立ち振る舞い、模範的な回答で世間に反省していると強く印象づけよう、という危機管理のスタイルである。いろいろ叩かれているが、豊田氏の会見はあらゆる面で、この「テンプレ」に準じていた。 黒髪に黒いスーツ、8秒間も頭を深々と下げたおじぎ、司会者が「では、次の方が最後で」と案内しても「大丈夫です」と対応を続けるなど、謝罪会見の「作法」はしっかりと押さえていた。恐らく、「危機管理のプロ」の方々から綿密なトレーニングを受けてきたのだろう。
▽「テンプレ回答」一辺倒では不誠実さを感じさせる
・「話法」もテンプレにのっとった模範的な対応である。たとえば、わかりやすいのが会見の冒頭で述べたコメントだ。 「刑事事件の関係につきましては、大変恐縮ながら現在捜査中の案件でありますので、警察、検察、またその他との関係から微々細々にわたっては決してそれは言及してはならないというふうになっております」
・これは今回のような暴行はもちろん、偽計業務妨害、業務上過失致死などあらゆる刑事事件で汎用できる。事実、豊田氏もこの後、記者たちから暴行の有無について厳しい追及が繰り返されるたび、この「テンプレ回答」を微調整してリピートしている。
・政治家にせよ企業にせよ、会見という情報発信の場であっても、どうしても言えないこと、言ってはいけないことがある。そのような苦しい立場をスムーズに伝えるための「テンプレ回答」は、ある程度は必要なのだ。  ただ、この便利さにあぐらをかいて、あまりにもリピートしてしまうと、危機管理としては致命的な印象を世の中に与えてしまう。
・これは、お客様相談室などを想像してみるとわかりやすい。もしあなたが購入した商品に何か不具合があってクレームを入れたとしよう。担当者がマニュアルを読み上げているような、木で鼻を括ったような説明をスラスラと言ってきたらどう感じるだろうか。メールでの回答も然り。丁寧な言葉使いではあるが、こちらの疑問に答えていないような「テンプレ回答」が送られてきたらどうだろうか。 「嘘くさい」「不誠実」と感じるのではないか。豊田氏の会見も残念ながら、世の中にそのような印象を与えてしまっている。
▽謝罪会見は単なる「釈明の場」!?豊田氏サイドの決定的な思い違い
・「作法」も「話法」も、謝罪会見の「テンプレ」に基づいて無難に乗り切ったはずなのに、「どうせ選挙に出るために体面を取り繕ってるんでしょ」と、かえってマイナスになってしまっているのだ。
・だったら、どうすればよかったか。 いろいろな考え方があるので、「これが正解」というものは難しいが、もし筆者が豊田氏からアドバイスを求められたら、まずはご本人に「いい負け方」の道を納得していただくことから始める。
・ご本人や会見をサポートしていた方たちからお話を伺ったわけではないので、あくまで筆者の想像の域を脱しない話だが、会見での発言から、豊田氏サイド的には以下の3つのゴールを目指していたように思う。  1.「あの暴言は特別な状況で生まれたもの」とやんわりと世間に伝える 
 2.「新潮の報道内容はすべてが事実ではありません」とやんわりと世間に伝える
 3.「なんやかんやありましたけど、次の選挙も出ます!」とやんわりと世間に伝える
・「なんて都合のいいことを」と呆れる方も多いだろうが、不祥事の当事者となった方たちというのは、往々にしてこういう考え方をする。世間の見方としては「謝罪会見」というのは「潔く負けを認めるみそぎの場」なのだが、実際に「謝罪会見」に臨む側は、「報道被害に対する釈明の場」だと考える。
・そう、彼らは「加害者としての自分」よりも、嵐のような報道にさらされた「被害者としての自分」に意識が向きがちなのだ。 この悲劇的な認識のすれ違いが、「謝罪会見でちっとも反省していなかった」という世間の反感を生み出すのである。
▽謝罪会見は「負けを認める場」 「勝ち」を目指すと大炎上する
・そこで私なら、まずは「報道被害に対する釈明の場」だという考えを豊田氏に捨ててもらう。事実と違うところを泣き寝入りしろと言っているわけではない。まずはしっかりと「負け」を認めるというプロセスを踏まないことには、こちらの釈明も世の中には伝わらないということを申し上げているのだ。
・豊田氏は会見冒頭で、「テンプレ回答」的にシレッと「報道には事実と違うところもたくさんございまして」と言及した。記者とのやりとりでも、「やっていないことはやっていないということは、私は主張をさせていただかなければ、それは私の、刑事事件だとか名誉だとかいう以前の、人間の尊厳の問題だというふうにちょっと思っております」とお話しになった。
・だが、会見について報じた記事やニュースでは、こうした発言はほとんどスルーされている。むしろ、「暴言」や「暴行」についての釈然としない説明と相まって、「反省していない」というイメージに拍車をかけてしまっているのだ。つまり、「ちょっとだけでも勝ちたい」というスケベ心を出したことが裏目となって、さらにひどい負け方になってしまっているのだ。
・これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。 しかし、その真理を受け入れられない人たちが、どうにかして「勝ち」を目指して、苦しい言い逃れをしたり、事実を隠してしまう。
▽豊田氏が言うべきだった3つのこと
・では、豊田氏の「潔い負け」とは何かといえば、音声データに対する苦しい言い逃れをしないということに他ならない。それを踏まえて、筆者なら会見では以下の3つのメッセージを「テンプレ」ではなく、ご本人の言葉で語ってもらう。
 1.自分は怒りをコントロールできないので、カウンセラーや家族の力を借りて向き合いたい。
 2.暴行は捜査中なのでなにも言えない。暴言は時間をかけて秘書に謝罪を受け入れてもらう。
 3.自分は未熟な人間だが、今回の失敗も生かして政治家を続けたい。後は有権者に判断してもらう。
・もちろん、こんな都合のいいメッセージがそう簡単に受け入れられるとは思っていない。しかし、「テンプレ回答」を繰り返しながらも、「あんな暴言は吐いたのははじめて」「顔が腫れるような暴行をしていない」などという自己保身感たっぷりの言い訳も紛れ込ませるというスタイルの謝罪よりも、「潔さ」は伝わるはずだ。
・「怒り」がコントロールできないため激昂してしまった、なんてことを素直に認めたら政治家生命が終わるじゃないか!とかいう取り巻きもいるだろうが、「覚えていない」という発言は、世間からは「嘘をついている」と思われる。こんな不誠実な回答を繰り返す方が、政治家的にはアウトだ。
・パワハラの「加害者」だと自ら認めるのは短期的にはマイナスだが、もし本当に社会のために身を捧げたいのなら、長期的にはプラスになる。パワハラの「加害者」となって社会からこれだけ糾弾されるという経験をした人間はいない。つまり、「パワハラ問題」に日本一詳しい政治家とも言える。
・この経験を生かして、被害者への償いをしながら、「パワハラ」というものがなぜ生まれるのか、なぜ社会的にはエリートだという自分が「加害者」になってしまったのかということを考察して、今後は政治家としてパワハラ問題をライフワークにしたっていい。
・「危機管理のプロ」を名乗る人々からすると、こんなヤケクソみたいな対応は「邪道」以外の何物でもない。模範的な立ち振る舞いと、模範的な回答でダメージを最低限にしましょう、というのが危機管理のセオリーだからだ。
▽ベッキーに始まり豊田氏がダメ押し テンプレ回答はもう限界だ
・ただ、そのような時代はもう終わりを迎えている気がする。謝罪会見ももちろん、クレーム対応の現場などでも、これまでのような「テンプレ回答」が通用しなくなってきているからだ。 たとえば、少し前にTBSの「ひるおび」が、森友・加計学園問題の報じ方があまりにも偏向しているということで、一部ネットユーザーの方たちが「スポンサー電凸(電話で抗議すること)」をするという出来事が起きた。TBSに文句を言っても「中立公正にやっています」と木で鼻を括ったような対応しか返ってこないから、番組にCMを出稿している企業に文句を言おうというわけだ。
・しかし、模範的な「テンプレ回答」をした某企業が「テンプレ丸出し」と見抜かれて、「炎上」してしまった。その反面、数年前なら「邪道」とされるような、踏み込んだ回答をした企業が、「誠実に対応をしている」と評価されるという現象も起きている。
・いたるところで「テンプレ」が溢れかえれば当然、建前的な対応に嫌悪感を抱く人が増えていく。そんな世相を決定的にしたのが、「ベッキー騒動」である。 ご存じのように、「文春砲」でゲス不倫をスッパ抜かれたベッキーさんは、白ブラウスにロングスカートといういでたちでしおらしく頭を下げて、「友達です」と会見で語った。会見なのに「質問禁止」というスタイルは大きな批判を浴びたが、「作法」だけ見れば、さすが器用なタレントさんだけあって、見事な「テンプレ謝罪会見」だった。
・しかし、その後にLINEのやり取りが流出して、あの「友達で押し通す」という本音が日本中にさらされてしまった。 2000年、雪印集団食中毒事件で石川哲郎社長(当時)が、記者会見の延長を求める記者たちに、「私は寝てないんだ!」と発言して炎上してから、日本の危機管理というのは、いかに「本音」を隠して、儀礼的に謝罪と反省をおこなうかという「様式美」を追求してきた。
・だから、頭を下げる角度とか、下げる時間とかが重要視される。そのような「様式美」が、実はすべてしょうもない欺瞞だということを、ベッキーさんはこれ以上ないほどわかりやすく世間に知らしめたのである。 このように「テンプレ危機管理」がガラガラと崩れているなかで、今回の豊田氏の会見はそのトドメを刺したように筆者には見えてしまう。
・そろそろ「謝罪会見」という日本特有の文化そのものを、見直す時期にきているのではないだろうか。
http://diamond.jp/articles/-/142893

第一の記事で、 『恐らく旭化成はこの4要素のうちの「謝罪」を伝えるための会見にしようという意図を持っていました。ですが、結果として、「弁解」や「正当化」などの要素も入り混じったために中途半端なものになってしまったのです。 これは旭化成だけの問題ではありません。多くの企業が同じようなミスをしています』、というのは、その通りなのだろう。 『米国でも謝罪重視に』、というのは初めて知った。 『現代社会では隠し立てをするのが難しい。嘘はいずれバレます。そういう意味で自己防衛的な姿勢は極力見せない方がいい。問題や不祥事が起きてしまったら「まな板の鯉」になるべきです。問題点をすべて明らかにし、一からやり直すことを覚悟しないといけません』、との指摘もなるほどである。
第二の記事で、 『うまい謝罪会見として紹介されているのは山一證券の「号泣会見」である』、というのは、第一の記事での泣くことの否定と矛盾している。「号泣会見」がよかったと世間からも評価されているのは、「感極まって泣いた」ことが明らかだったので、視聴者にも感動を与えたことだと思う。その意味では、第一の記事の指摘の例外として理解すべきなのかも知れない。また、 『謝罪の会見には「型」が存在する』、との指摘は、第三の記事では、 『苦しい立場をスムーズに伝えるための「テンプレ回答」は、ある程度は必要なのだ。  ただ、この便利さにあぐらをかいて、あまりにもリピートしてしまうと、危機管理としては致命的な印象を世の中に与えてしまう』、と「型」(テンプレート)だけに従うことの危険性を指摘している。私には、第二の記事の指摘は、「コンサルタント的」過ぎ、第三指摘の方が適切に思える。ただ、「ベッキー騒動」については、テンプレート通りにした謝罪会見そのものは上手くいったと評価すべきで、 『その後にLINEのやり取りが流出』、というのは謝罪会見とは切り離して評価すべきだと思う。 豊田真由子氏の謝罪会見の評価については、異論はない。
いずれにしろ、テンプレートに従って型通りにやるが、心がこもってない謝罪会見はもううんざりだ。
タグ:テンプレ危機管理」とは模範的な立ち振る舞い、模範的な回答で世間に反省していると強く印象づけよう、という危機管理のスタイル 範回答文 ベッキー騒動 不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ 危機管理コンサルタント 模範文 謝罪 テンプレート 「テンプレ危機管理」の限界 (危機管理) 服装からおじぎまでプロのアドバイスに忠実だった 日経ビジネスオンライン (社会心理学の専門家に聞く企業が陥る謝罪失敗の法則、謝罪を挽回のチャンスとする「謝罪道」を極める 『謝罪大国ニッポン』、豊田真由子氏から学ぶ 謝罪会見大失敗の根本的な理由) 豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由 不祥事 窪田順生 その後にLINEのやり取りが流出して、あの「友達で押し通す」という本音が日本中にさらされてしまった 、「作法」だけ見れば、さすが器用なタレントさんだけあって、見事な「テンプレ謝罪会見」だった 豊田氏の会見はあらゆる面で、この「テンプレ」に準じていた 謝ることは恥ではなく挽回のチャンス 謝罪の会見には「型」が存在する 現代の日本では謝罪が本来の目的から逸脱し、様式美やなんらかのルーティーンのようになっている 謝罪は適切にすべきだが、不要な謝罪はすべきではないというスタンス 『謝罪大国ニッポン』(中川淳一郎著) 世間は勝手に騒いでいるだけなのだから、それに対していちいち謝罪する必要はない。 世間をお騒がせして申し訳ございません 謝罪を挽回のチャンスとする「謝罪道」を極める 『謝罪大国ニッポン』 ダイヤモンド・オンライン 自分たちの責任が明確にならないと謝罪しないという古い米国流のスタンスを貫き、その点に多くの日本人が反発 日本マクドナルドの異物混入問題 「まな板の鯉」になるべき 能力違反 倫理違反 負うべき責任 米国でも謝罪重視に これは旭化成だけの問題ではありません。多くの企業が同じようなミスをしています 旭化成はこの4要素のうちの「謝罪」を伝えるための会見にしようという意図を持っていました。ですが、結果として、「弁解」や「正当化」などの要素も入り混じったために中途半端なものになってしまったのです 否認 正当化 「弁解」 「謝罪」 謝罪と言っても、そこにはいくつかの要素が含まれていることに注意 リーダーシップの欠如 米公聴会で流した涙も同じです。涙は、自らが被害者だとアピールしているかのような印象を与えます。絶対に取ってはいけない行動のひとつですね トヨタ自動車の豊田章男社長 旭化成の浅野敏雄社長が涙を流しましたね。あれが良くなかった 「傾きマンション」問題 著者の大渕憲一・東北大学大学院教授 失敗しない謝り方 謝罪の流儀 日経ビジネスの特集 日本人はなぜ「お詫び」が好きなのか 社会心理学の専門家に聞く企業が陥る謝罪失敗の法則 謝罪会見は「負けを認める場」 「勝ち」を目指すと大炎上する テンプレ回答」一辺倒では不誠実さを感じさせる
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