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宗教(その4)(「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想、徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある、「キリスト教系は5万人増 仏教系は4000万人減」この30年間に起きた宗教離れの意味 日本は「宗教消滅」に向かっている) [社会]

宗教については、昨年12月9日に取上げた。今日は、(その4)(「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想、徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある、「キリスト教系は5万人増 仏教系は4000万人減」この30年間に起きた宗教離れの意味 日本は「宗教消滅」に向かっている)である。

先ずは、本年2月3日付け東洋経済オンラインが掲載した京都大学こころの未来研究センター教授の広井 良典氏による「「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/325711
・『多くの企業や経済団体などが「SDGs(持続可能な開発目標)」について言及する機会が増えている。こうした流れの象徴的出来事として前回記事ではグレタ・トゥーンベリさんの発言を取り上げた。 このたび『人口減少社会のデザイン』を上梓した広井良典氏が、今回は、同じような資源・環境問題に直面していた紀元前5世紀頃の「枢軸時代/精神革命」を切り口に、人類史的な視点から「地球倫理」が企業行動や経営にもたらしている変化を論じる』、歴史的で巨視的視点から捉えるとは興味深そうだ。
・『「枢軸時代/精神革命」をめぐる構造  前回、スウェーデンのグレタさんをめぐる動きを手がかりに、現在という時代が人類史の中での3度目の「拡大・成長から成熟・定常化」への移行期にあたること、またそこでは「地球倫理」とも呼ぶべき新たな思想や価値が求められていることを述べた。 ここで「地球倫理」の内容を考えていくにあたり、1つの手がかりとなるのは、紀元前5世紀頃の「枢軸時代/精神革命」をめぐる動きである。 なぜなら、1万年前に始まった農耕文明が、その発展に伴って人口や経済の規模が大きくなる中で資源・環境制約にぶつかり、「物質的生産の量的拡大から文化的・精神的発展へ」という方向に移行する際に生じたと考えられるのが紀元前5世紀頃の「枢軸時代/精神革命」であり、それは工業文明が資源的・環境的制約にぶつかっている現在の状況とよく似ているからだ。 そこでは、前回も少し述べたように、地球上のいくつかの場所で“同時多発的”に、現在につながるような普遍的な思想(ないし普遍宗教)が生まれた。 具体的には、ほぼ同時期に、ギリシャではいわゆるギリシャ哲学、インドでは仏教、中国では儒教や老荘思想、中東ではキリスト教やイスラム教の源流となった旧約思想(ユダヤ思想)がこの時代に生成したのである。 そして、 ●ギリシャにおける(ソクラテスの言う)「徳」ないし「たましいの配慮(care of the soul)」 ●仏教における「慈悲」 ●儒教における(「礼」の根底にある内的倫理としての)「仁」 ●キリスト教における「愛」 のように、それらの諸思想は、内容や表現は異なるものの、それまで存在しなかった、人間にとっての何らかの精神的あるいは内面的な価値や倫理を新たに提起したのである。 この場合、こうした新たな思想は、それまでに何もなかった空白地帯に突然のように生まれたわけではない。 やや立ち入った内容になるのでごく簡潔な記述にとどめるが、私の視点から大きくまとめると、それ以前の農耕文明社会においては、まず「宇宙的神話」と呼べるような段階があり、それがより合理化・抽象化されて「哲学的宇宙論」と呼べるような段階へと進化し、そしてそれがさらに「個人の内面的倫理」へと展開したところに、上記のような枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれたのである』、「紀元前5世紀頃の「枢軸時代」」、初めて聞いたが、「工業文明が資源的・環境的制約にぶつかっている現在の状況とよく似ている」、確かにその通りだ。「地球上のいくつかの場所で“同時多発的”に、現在につながるような普遍的な思想(ないし普遍宗教)が生まれた」、同時性には驚かされる。
・『インドにおける思想・倫理構造の進化  例えばインドの場合、紀元前1500年前後の時代に「リグ・ヴェーダ」と呼ばれる、多神教的な神々の讃歌としての叙事詩が書かれているが、その中の(おそらく最終的に到達した)部分に、「宇宙開闢(かいびゃく)の歌」と呼ばれる、世界の創造に関する文章がある。 そこでは宇宙の始まりにおいては「有」も「無」も存在せず、またこうした世界の創造がなぜ生まれたかは、(神々の創造はそれより後なので)誰にもわからないといった、現在においてもなお人類はこれ以上の認識に到達できていないと思えるような、根底的な思考が展開されている(『リグ・ヴェーダ讃歌』参照)。 そしてこうした宇宙的神話の先に、より抽象化された哲学的思考が生成し、いわゆる「ウパニシャッド」の書物群において「ブラーマン(宇宙の根源)とアートマン(自我の根源)の一致」や「輪廻の業からの解脱」といった思考が生まれる。 つまりここで(先の「リグ・ヴェーダ」のような)宇宙的なレベルの議論が個人のレベルにつながっていくことになり、そしてさらにその先に、ブッダの説くような、「慈悲」に収れんする個人の内的倫理(としての仏教)が生まれたのである。 以上はインドでの展開だが、これと同様の構造の進化が、中東(→キリスト教)、中国(→儒教)、ギリシャ(→ギリシャ哲学)においても共通して起こっているのではないかというのが私の見立てである。 (「宇宙的神話から精神革命(枢軸時代)へ」の図はリンク先参照) この場合、これらの進化は“真空”の中で生まれたのではなく、やはりその時代の経済社会の構造変化と深く関わっていたと私は考える。 すなわち、これらはいずれも(約1万年前に始まった)農耕をベースとする社会における展開であり、農耕社会においては、それまでの狩猟採集社会に比べて、農作業という集団的な共同作業が中心となり、また(自然のサイクルという)時間的な秩序の中で生活が営まれていった。 そこでは神話を含め、共同体の中で人々が共有するような世界観(コスモロジー)が作られていくと同時に、そこでの“倫理”は基本的に「共同体の倫理」であり、「個」はその中に埋め込まれているような存在だったと言える。 しかしそうした農耕社会ないし農耕文明が、先述のように人口増加や経済の拡大に伴って資源的・環境的制約にぶつかるようになったのがその後半期であり、そこにおいて、以上のような「共同体の倫理」を乗り越え、それまでに存在しなかった「個の内的倫理」をうたう形で生まれたのが、枢軸時代/精神革命における諸思想であったと考えられるのである。 以上に対し、私たちが生きている近代社会ないし産業化社会は、当初から「個人」とその自由ということが中心的な原理となり、それが経済規模の拡大と一体となって展開してきた社会だった。 だとすれば、私たちがいま迎えつつあるその後半期の思想は、何らかの意味で「個人を超える」ようなベクトルを含む内容のものであるはずであり、それが本稿のテーマである「地球倫理」とつながることになる』、「「共同体の倫理」を乗り越え、それまでに存在しなかった「個の内的倫理」をうたう形で生まれたのが、枢軸時代/精神革命における諸思想であった」、「私たちがいま迎えつつあるその後半期の思想は、何らかの意味で「個人を超える」ようなベクトルを含む内容のものであるはずであり、それが本稿のテーマである「地球倫理」とつながることになる」、なかなか興味深い歴史解釈だ。
・『地球倫理という思想  以上を踏まえたうえで、私たちが今迎えようとしている、ここ200~300年続いてきた産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において、新たに生成してくると思われる「地球倫理」について、その要点をスケッチしておこう。 ここでまず、私たちが現在使っているような意味での「地球」という観念は、仏教や儒教、ギリシャ哲学や旧約思想が生まれた枢軸時代/精神革命においては存在しなかったということを確認していきたい。 そこで重要な意味をもったのは、先ほども宇宙的神話や哲学的宇宙論について言及したように、むしろ「宇宙」であり、ただしそれもまた、現在の私たちが念頭に置くような宇宙と言うよりは「“森羅万象”全体を含む世界」といった意味のものだった。 つまり、(アメリカの建築家・思想家バックミンスター・フラーが唱えた)“宇宙船地球号(spaceship earth)”といった発想や、“有限な資源と環境の惑星”としての「地球」という視点は、仏教や旧約思想などが生まれた枢軸時代にはなく、それは現代において固有の概念と言える。 したがって、人類史における「第3の定常化」の時代としての現在における、新たな思想や観念ということを考える場合、どうしても「地球」というコンセプトを避けることはできない。 そして、そこで浮かび上がってくる「地球倫理」ということを考えた場合、そのエッセンスをごく簡潔に記すならば、それは以下のような内容のものとなるだろう。 すなわち、地球倫理とは、 ①地球資源・環境の「有限性」を認識し、 ②地球上の各地域の風土的相違に由来する文化や宗教の「多様性」を理解しつつ、 ③それらの根底にある自然信仰を積極的にとらえていく ような思想のことをいう。 このうち①は基本的な出発点になるもので、私たちの経済活動が、“無限の空間”の中での「拡大・成長」を目指すという性格のものではなく、それは資源・環境の有限性の中においてなされる営みであることを認識するものだ。 これは「持続可能性(サステイナビリティー)」というコンセプトと不可分である。つまり資源や環境が無限に存在するのなら、わざわざ持続可能性ということを持ち出す必要はなく、ひたすら拡大・成長を追求すればよいのであって、資源・環境の有限性ということがあるからこそ、そうした制約と両立させながら経済活動をいかに持続させていくかという点がテーマとして浮上するわけである』、「産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において・・・私たちが現在使っているような意味での「地球」という観念は、仏教や儒教、ギリシャ哲学や旧約思想が生まれた枢軸時代/精神革命においては存在しなかった」、それは確かだ。「資源・環境の有限性ということがあるからこそ、そうした制約と両立させながら経済活動をいかに持続させていくか」、つまり「地球倫理」、が「テーマとして浮上」、なるほど。
・『企業行動も「拡大・成長」から「持続可能性」へ  ところで、近年では多くの企業や経済団体等も「SDGs(持続可能な開発目標)」や環境や社会に配慮した「ESG投資」等々についてさまざまな形で言及するようになっており、そうした流れからすれば、ここで述べている「地球倫理」は、実はこれからの時代の企業行動や経営理念と密接に結び付く性格のものと言える。 こうした点を、「経済と倫理の分離と再融合」という観点から捉えてみよう。 思えば近年、企業の不祥事などで、記者会見場において3人くらいの幹部が並んで深々と頭を下げるという場面を見るのが半ば日常の出来事のようになった。個別の特殊事情もあろうが、そこには何か時代の構造的要因と呼ぶべきものが潜んでいるのではないか。 このことを「経済と倫理」という視点から考えてみたいのだが、「経済と倫理」というと、現在では対極にあるものを並置したような印象があるだろう。 しかし近代以前あるいは資本主義が勃興する以前の社会では、両者はかなり重なり合っていた。近江商人の“三方よし”の家訓がすぐ思い出されるし、現代風に言えば「地域再生コンサルタント」として江戸期に活躍した二宮尊徳は経済と道徳の一致を強調していた。 黒船ショックを経て日本が急速に近代化の坂道を登り始めて以降も、こうした世界観はなお一定に保たれていた。 新1万円札の肖像に選ばれ、「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、経済と倫理が一致しなければ事業は永続しないと論じたし、この時代の事業家には、渋沢や倉敷紡績の大原孫三郎のようにさまざまな「社会事業」ないし福祉活動を行う者も相当数いたのである。 戦後の高度成長期になると、状況は微妙に変化していったように見える。“経営の神様”といわれた松下幸之助が、「根源社」という社を設けるなど宇宙的とも呼べるような独自の信仰をもっていたことは知られており、同様の例はこの時期の日本の経営者に多く見られる。 しかし一方、国民皆保険制度(1961年)などが整備され、福祉や社会保障は政府が行うという時代となり、経営者は社会事業などからは遠ざかっていった。 つまりよくも悪くも、「私(企業ないし市場)」と「公(政府)」の分離が進み、前者はひたすら利潤の拡大を目指せばよく、そこから生じる格差や環境破壊等の問題は政府が事後的に対応する、という二元論的な枠組みが浸透していったのである。 ただし当時はモノがなお不足していた時代であり、松下自身が考えていたように、企業がモノをつくり人々に行き渡らせることがそれ自体「福祉」でもあった。ある意味で、収益性と倫理性が半ば予定調和的に結び付く牧歌的な時代だったとも言える。 80年代前後からこうした状況は大きく変容し、一方でモノがあふれて消費が飽和していくと同時に、「経済と倫理」は完全に分離していった。他方では、日本がそうであるように経済格差を示すジニ係数は増加を続け、また本稿で論じてきたように資源や環境の有限性が顕在化するに至っている』、「モノがあふれて消費が飽和していくと同時に、「経済と倫理」は完全に分離」、「経済格差を示すジニ係数は増加を続け・・・資源や環境の有限性が顕在化」、確かに大きな構造変化だ。
・『「経済と倫理」の再融合  こうした中で近年、“「経済と倫理」の再融合”とも呼ぶべき動きが、萌芽的ではあるが現われ始めているように見える。例えば「ソーシャルビジネス」や“社会的起業”に取り組む若い世代の言明などを読むと、それは渋沢栄一や近江商人の家訓など、ひと時代前の経営者の理念と意外にも共鳴するのだ。 私の身近でも、ゼミの卒業生で、再生可能エネルギーや環境等に関してソーシャル・ベンチャー的な会社を立ち上げたりする者は、そうした社会貢献的な志向を持っていることが一般的である。 例えばある卒業生は、事業を立ち上げるにあたり、自分がやりたいのは「自己実現」ではなく「世界実現」だと言っていた。“自己を超えた価値”の追求ということであり、それは“個人を超えて、コミュニティーや自然とつながる”思想としての「地球倫理」と通じる面をもっている。 なぜそうなるのか。それはほかでもなく本稿で述べてきたように、モノや情報があふれて消費が飽和するとともに、地球資源や環境の有限性が顕在化し、経済や人口が「拡大・成長」を続ける時代から「成熟・定常化」する時代へと移行しつつあるという構造変化が背景にあるだろう。 その中で「拡大・成長」時代の行動パターンや発想を続けていれば、企業や個人は“首を絞め合う”結果になる。 それが先ほどもふれた近年における“不祥事の日常化”とも重なっている。限りない「拡大・成長」を前提とした“ノルマ思考”も同様であり、こうした高度成長期的な「量的拡大」志向に日本がなおとらわれていることが、皮肉にも“失われた〇〇年”の元凶なのではないか。 いま根本から「経済と倫理」の関係を考え直す時期に来ており、そして、「拡大・成長」よりも「持続可能性」に軸足を置いた経済・経営の可能性を探っていく時期に来ているのである。 これは観念的な“空論”のように響くかもしれないが、そうではない。上述のように、こうした「持続可能性」に軸足を置いた経営理念あるいは「経済と倫理の融合」という発想ないしDNAは、日本においてはむしろ脈々と存在してきた。 しかもこうした方向は必ずしも現実離れしたものではない。例えばわかりやすい話、“事業規模を拡大することと、事業が長く続くことのいずれかを選ばなければならないとしたら、どちらを選びますか?”と問われた場合、「長く続く」ことを選ぶという経営者は、日本において決して少なくないのではないか。 このように考えていくと、本稿で述べてきた「地球倫理」とは、実は日本における経済や経営の理念として伝統的に存在していたものを、グローバル時代における資源や環境の有限性の顕在化という現代の文脈において“再発見”ないし“再定義”したものとも言える。 この意味では、いわば“「懐かしい未来(ancient futures)」としての地球倫理”という把握が可能なのだ』、「“「経済と倫理」の再融合”とも呼ぶべき動きが、萌芽的ではあるが現われ始めている」、「根本から「経済と倫理」の関係を考え直す時期に来ており、そして、「拡大・成長」よりも「持続可能性」に軸足を置いた経済・経営の可能性を探っていく時期に来ている」、「「地球倫理」とは、実は日本における経済や経営の理念として伝統的に存在していたものを、グローバル時代における資源や環境の有限性の顕在化という現代の文脈において“再発見”ないし“再定義”したものとも言える」、大胆だが、曙光がさすようなスケッチだ。
・『風土・文化の多様性そして「鎮守の森」  以上、地球倫理の柱として示したうちの①について述べたが、残る2点についてはどうか。 ②として挙げた「地球上の各地域の風土的相違に由来する文化や宗教の「多様性」を理解」という点は、次のような趣旨である。 先ほど、紀元前5世紀頃の枢軸革命/精神革命の時代に生まれた(仏教や儒教、ギリシャ哲学や旧約思想といった)普遍思想ないし普遍宗教について述べたが、これらの諸思想は、その内容は互いに大きく異なるものでありつつ、自らの思想が“普遍的(ユニバーサル)”なものとして自認し、人類すべてにあてはまるものとして主張していった。 しかし実際には、そうした普遍思想のそれぞれがもつ世界観や自然観は、それが生まれた風土の影響を色濃く反映したものであった。 すなわち、キリスト教などの源流となった旧約(ユダヤ)思想が、人間と自然を対立的なものとして捉える“砂漠の宗教”という性格をもち、アーリア人がガンジス河流域に移動していく過程で生成した仏教が人間と自然・宇宙をより一体的に捉える“森の宗教”と呼びうる性格をもったように、その自然観や人間観はそれらが生まれた地域の風土に大きく規定されたものであり、こうした意味で、それらの“普遍性”は実は限定的なものだったのである。 地球上の地域間の交流や移動が現在と比べれば圧倒的に少なかった中世においては、それぞれの風土に根差して生まれた各々の普遍思想ないし普遍宗教は、いわばリージョナルな形で“住み分け”、互いに共存することができた。 しかしグローバル化が進んだ現在においては、(キリスト教文化圏とイスラム教文化圏の対立に象徴されるように)皮肉なことに、自らの“普遍性”や絶対性を信じてやまない普遍思想ないし普遍宗教同士が互いに衝突し、紛争の元凶の1つになっているのである。) 地球倫理の特質として挙げた②は、まさにこうした点に関わるものであり、地球上に存在するさまざまな宗教や文化の「多様性」に積極的に目を向けつつ、そうした多様性がそもそもなぜ生じるかを、その背景となっている風土ないし環境の多様性との関わりにおいて把握し、異なる文化間の相互理解の道を開こうとするものである。 それは宗教を含め、人間の思想や観念が「環境」に依存していることを認識するという点で、「エコロジカル」な人間理解と言えるものだ。 この点に関し、私は「ローカル・グローバル・ユニバーサル」という言い方をするのだが、ここで述べている「地球倫理」の「地球(グローバル)」とは、地球上のすべての地域を均質化していくような“マクドナルド化”という意味でのグローバルではない。 そうではなく、むしろ地球上のローカルな地域の個別性や多様性に積極的に目を向け、そうした多様性がなぜ生じるかの全体構造を理解するという点がポイントであり、つまり「ローカル(=個別的・地域的)」と「ユニバーサル(=普遍的・宇宙的)」の対立を乗り越え総合化するような意味の「グローバル」なのだ』、「「ローカル・・・」と「ユニバーサル・・・」の対立を乗り越え総合化するような意味の「グローバル」なのだ」、なるほど。
・『「自然信仰」を再発見していく  最後に、地球倫理の③は「根底にある自然信仰を積極的にとらえていく」という点である。ここでいう「自然信仰」とは、自然の中に単なる物質的なものを超えた何か、あるいは有と無を超えた何かを見出すような理解をいう。 こうした「自然信仰」は、さかのぼれば(前回述べた)狩猟採集社会の後半期に起こった「心のビッグバン」において生成したものであり、さまざまな宗教や信仰の最も根底にあるものと言えるのだが、先ほどから述べている枢軸時代/精神革命の時代に生まれた普遍宗教においては、こうした(アニミズム的な)自然観は“不合理”なものとして忌避された。 しかしこうした自然観を、上記のようにまさにさまざまな宗教の根源にあるものとして再発見していくというのが「地球倫理」の③であり、これは「“アース”(大地)としての地球」という点からも理解できるだろう。(「「地球倫理」をめぐる構造」の図はリンク先参照) このように記すと一見わかりづらく感じるかもしれないが、それは日本の文脈では“八百万の神様”とか「鎮守の森」といった表現、あるいは宮崎駿監督のジブリ映画などにも示される自然観であり、日本人にとっては日常的な感覚としても理解しやすいものだろう。 ちなみに、私はここ10年以上にわたり「鎮守の森・コミュニティプロジェクト」というプロジェクトをささやかながら進めており、御関心のある方は「鎮守の森コミュニティ研究所」のホームページを参照いただければ幸いである。 本稿では、前回も含め、スウェーデンの高校生グレタさんの話を導きの糸として、現在の私たちが人類の歴史のどのような場所に立っているかという視点を座標軸にしながら、「拡大・成長から持続可能性へ」という方向性の意味を、「地球倫理」という思想を軸に考えてきた。 それは一見迂遠であるように見えて、実は日本における伝統的な経営理念や企業行動の“DNA”と親和的な面を多くもち、また、その土台をなす「自然信仰」は、やはり日本において伝統的な「鎮守の森」的な自然観と共鳴するものだった』、「普遍宗教においては、こうした(アニミズム的な)自然観は“不合理”なものとして忌避された。 しかしこうした自然観を、上記のようにまさにさまざまな宗教の根源にあるものとして再発見していくというのが「地球倫理」の③」、日本の場合は(アニミズム的な)自然観は神道のなかに残されている。欧米のように徹底して「忌避された」地域でも「再発見」されるかどうかは説明不足のようだ。
・『現代の日本において求められているものとは  思えば日本は世界の中で“高齢化・人口減少のフロントランナー”でもあり、従来型の「拡大・成長」モデルとは異なる新たな社会像を率先して実現していくべきポジションにある。 SDGsやESG投資などの潮流も踏まえ、それをチャンスと捉え返しつつ、人類史における「第3の成熟・定常化」の時代における新たな思想や経済社会のありようを構想し、発信していくことこそが日本において求められているのである』、私は前述のように「「地球倫理」の③」にやや危うさを感じるが、全体としては大いに考えさせる好論文だ。

次に、9月6日付け東洋経済オンラインが掲載した元国税調査官で作家の大村 大次郎氏による「徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/355272
・『江戸幕府260年の基礎を築き上げた初代将軍・徳川家康。彼はなぜキリスト教が日本に普及することを恐れたのか? 元国税調査官で、作家の大村大次郎氏による新刊『家康の経営戦略』より一部抜粋・再構成してお届けする。 豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。 が、あるときを境に、キリスト教を全面的に禁止することになる。しかも、それは秀吉のときの「バテレン追放令」のように「自発的にキリスト教を信仰する分には構わない」というような緩いものではなく、キリスト教を完全に禁教にしてしまうのだ』、「家康」の変心の理由は何だったのだろう。
・『家康がキリスト教を「禁教」にした理由  家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。 その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。 しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。 戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。 当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。 このキリスト教の広がりは、じつは大きな利権が絡んでいた。天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していたのである。 15世紀から16世紀にかけ、ポルトガルとスペインは、世界各地への航路を開拓し、手広く貿易をおこなったが、この貿易には、キリスト教の布教がセットになっていた』、「人口の2〜4%がキリスト教徒だった」、驚くほどの多さだ。「天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していた」、危険性を見抜いた「家康」は大したものだ。
・『なぜキリスト教が世界を席巻したか?  ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。 ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。 彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。 当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。 すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。 家康は、天下人になって以降、諸大名の軍事力を削減させようとしてきた。築城や城の改築などは原則禁止で、特別な理由があるときだけ幕府が許可した。 また、慶長14(1609)年には、500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収された。このように、諸藩の軍事力を削減させようとしているなか、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は害が大きかった。 しかも、ポルトガルやスペインは、軍事的にも不穏な動きがあった。長崎はイエズス会の領地のようになってしまっていた。またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていたのである。 スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。 もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。それらのことを総合的に判断し、キリスト教全面禁止に踏み切ったものと考えられる』、「ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた」、これが両国の熱心な布教活動に繋がっていたとは、初めて知った。「南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあった」、「スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった」、とあっては、「キリスト教全面禁止に踏み切った」、のは賢明な措置だ。
・『家康はなぜ「オランダびいき」なのか?  家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」のほかに、もう1つ大きな理由があった。幕府が独占的にオランダと交易するためである。 家康は、オランダと奇妙な縁があった。家康がまだ征夷大将軍になる前の慶長5(1600)年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着した。臼杵藩の藩主・太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航されることになった。 「関ヶ原の戦い」の少し前であり、まだ豊臣政権だったときのことである。この時期、豊臣政権の番頭格だった石田三成は、失脚して領国に戻っており、事実上、家康が政務を取り仕切っていた。そのため、家康が、リーフデ号の検査、尋問などをすることになった。 日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。 リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。 家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった。このヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスから、家康は当時の西洋の国情や宗教事情などを詳しく聞いたようである。 当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。 ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。 プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである』、「家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。 家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった」、恥ずかしながら、初めて知った。
・『オランダとの貿易をやめなかった理由  が、一方、オランダはプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。 オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。つまり、オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれるというわけである。 家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。 そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである』、「オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれる・・・家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる」、「江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。・・・「蘭学」は、日本の最先端の学問となった」、「家康」の決定の賢明さに改めて感謝したい。

第三に、9月9日付けPRESIDENT Onlineが掲載した宗教学者の島田 裕巳氏による「「キリスト教系は5万人増、仏教系は4000万人減」この30年間に起きた宗教離れの意味 日本は「宗教消滅」に向かっている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/38441
・『文化庁の『宗教年鑑』によると、平成の30年間でキリスト教系の信者数は5万人増えたが、仏教系は4000万人減った。一体なにが起きているのか。宗教学者の島田裕巳氏は「日本は宗教消滅に向かっている。とくに仏教系は深刻な事態に直面している」という――。 ※本稿は、島田裕巳『捨てられる宗教 葬式・戒名・墓を捨てた日本人の末路』(SB新書)の一部を再編集したものです』、「仏教系は4000万人減った」、驚きの数字だ。何が要因だったのだろう。
・『平成の時代、宗教信者数は大きく減少した  世界の宗教地図は大きく変わろうとしている。とくに、世界最大の宗教組織であるカトリック教会は、根本的な危機に直面している。では、日本の宗教はどうなのだろうか。 昭和の時代においては、日本の各宗教団体は信者の数を伸ばしていった。ところが、平成の時代になると、事態は大きく変わり、信者数は相当に減少するようになった。そのことは、宗教法人を所轄している文化庁が毎年刊行している『宗教年鑑』にはっきりとした形で示されている。『宗教年鑑』には、いくつかの数字があげられているが、ここでは、「包括宗教団体別被包括宗教団体・教師・信者数」を取り上げたい。 宗教法人について詳しくないと、包括宗教団体や被包括宗教団体の意味はわからない。簡単に言ってしまえば、前者は仏教教団で言えば宗派にあたり、後者は個々の寺院のことをさす。平成の約30年のあいだにどういった変化が起こったかを見てみよう。まず、昭和63年版からの数字をあげる。 総数 1億9185万0997人 神道系 9617万7763人 仏教系 8666万8685人 キリスト教系 89万5560人 諸教 810万8989人 次に、今のところ最新の令和元年版の数字をあげる。 総数 1億3286万3027人 神道系 8009万2601人 仏教系 4724万4548人 キリスト教系 95万3461人 諸教 457万2417人』、確かに「仏教系」の落ち込みが顕著だ。
・『信者数は「3割」減少している  これは、文化庁が調査した数字ではない。包括法人の側が報告してきた数を、そのまま『宗教年鑑』に載せたものである。 その点では、果たして実態を示したものなのかという疑問が生まれる。けれども、ほかに使える資料がない。信者の数を調査しようにも、国民全体を対象として実施することなど不可能である。その点で、この数字を使うしかないのだが、それでも重要な変化は見て取ることができる。 まず総数である。平成がはじまる段階では、信者数は全体で1億9000万人に達していた。日本の総人口が、1990年(平成2年)の時点で、およそ1億2361万人だから、信者数はそれを上回っている。主に、神社の氏子として数えられている人たちが、同時に寺院の檀家としても数えられているからである。これは別に不思議なことではない。私たちは、長く続いた神仏習合の時代の名残で、神道と仏教の双方にかかわっているのだ。 その総数が、令和元年版では1億3000万人にまで減少している。およそ5900万人減っている。3割の減少である。 これは驚くべき数字である。平成のあいだに、宗教の世界で大変な事態が起こったことになる。神道系だと、9600万人が8000万人に減少している。こちらは1割7分の減少である。神道系以上に減少が著しいのが仏教系である。8700万人が4700万人にまで減っている。なんと4割5分も減っている。半減に近い』、「仏教系」が「4割5分も減っている」、衝撃的な数字だ。
・『創価学会と密接な関係を持っていた「日蓮正宗」  平成の約30年のあいだに仏教系の信者は半減した。これが事実なら、とんでもないことである。 ただ、これについては、一つ考慮しなければならないことがある。仏教系の信者急減の原因として、ある宗派の事情がかかわっているからだ。その宗派とは日蓮正宗のことである。日蓮正宗と言っても、多くの人にはピンと来ないかもしれない。 日蓮正宗は、日蓮宗の一派ということになるが、以前は日本で最大の新宗教である創価学会と密接な関係を持っていた。昭和の時代には、創価学会に入会する際に、会員は自動的に日蓮正宗に入信した。それは、日蓮正宗の特定の寺院の檀家になることを意味した。そして、入信の際には、家の仏壇に祀る曼荼羅を授与された。曼荼羅の中心には、「南無妙法蓮華経」の題目が描かれている。そのもとを書いたのは宗祖である日蓮で、檀家はその写しを授かるのである。 戦後、創価学会は相当な勢いで信者を増やした。そのため、日蓮正宗も膨大な信徒を抱えるようになった。街のなかで、「正宗用仏壇」という看板を掲げた仏具店を見かけることがある。正宗とは日蓮正宗のことで、そこで創価学会の会員は仏壇を買い求める。正宗用仏壇には、曼荼羅を掲げるためのフックが付けられており、一般の仏壇とは形式が異なっている。 ところが、1970年代になると、在家の組織である創価学会と、出家の組織である日蓮正宗の関係が悪化した。創価学会は、戦後急成長をはじめた段階では、自分たちの教えの正しさを証明するために日蓮正宗という後ろ盾を必要とした。だが、巨大教団に発展することで、それが不要になったのだ』、「創価学会は、戦後急成長をはじめた段階では、自分たちの教えの正しさを証明するために日蓮正宗という後ろ盾を必要とした。だが、巨大教団に発展することで、それが不要になった」、なるほど、そういった特殊要因があったとは・・・。
・『日蓮正宗による「破門」で減少した1684万人  創価学会と日蓮正宗との対立が激しくなったのは1990年(平成2年)のことである。翌年には、日蓮正宗が創価学会を破門した。これで、創価学会の会員のほとんどが日蓮正宗から離れた。日蓮正宗寺院の檀家ではなくなったのだ。『宗教年鑑』昭和63年版では、日蓮正宗の信者数は1756万6501人となっていた。これが正確な数字なら、人口の1割5分に近い。それが、令和元年版では72万8600人と激減している。1684万人も減ったのだ。 創価学会の会員数は『宗教年鑑』には掲載されていないが、創価学会本部は、会員数をここのところずっと827万世帯としてきた。世帯で数えるのは、曼荼羅が世帯単位で授与されるからである。日蓮正宗から抜けた創価学会の会員は、別の宗派に入信したわけではない。したがって、仏教系の信者数のなかから、1684万人分が消えてしまった。 このことを加味して考えると、仏教系の信者の数は、平成の30年のあいだに2300万人減少したことになる。4000万人よりははるかに減少の幅は小さい。それでも2割6分の減少である。仏教系は4分の3に縮小したのだ』、「仏教系の信者の数は」、「創価学会」の影響を除いても、「2割6分の減少」、とは何故なのだろう。
・『バブル時代が日本の宗教人口のピークだった  1995年には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、宗教は恐ろしいというイメージが広がった。それは、宗教を信じる人の割合、信仰率にも影響を与えた。しかしそれが、2割5分の減少の主たる原因ではない。 神道系の信者も、仏教系ほどではないもののかなり減少している。日本の宗教は衰退しつつある。そのことが、平成の30年間を振り返ってみることで明らかになってくるのである。 平成の時代は1989年からはじまる。それは80年代なかばからはじまるバブル経済が頂点を極めようとしていた時期にあたる。株価や地価は上がり続けており、それに比例するかのように、宗教団体の信者数も、バブルの時代がもっとも多かった。 バブルがはじまる前の『宗教年鑑』昭和55年(1980年)版を見ると、信者数の総数は、1億7603万8611人で、昭和63年版と比べると1580万人少なかった。神道系が7986万9429人で、仏教系が8350万4031人だった。いずれも、昭和63年版の方が増えている。仏教系は300万人ほどの伸びだが、神道系は1600万人も増えている。どうやら平成のはじまりの時点が、日本の宗教人口のピークだったようなのだ。 それが、平成の約30年が過ぎるあいだに、激減という事態が起こった。しかも、その傾向は、令和の時代に入っても変わらない。依然として宗教団体の信者数は減り続けている。宗教消滅に向かっていることは確かだ。そのなかでも、とくに仏教系は深刻な事態に直面しているのである』、「創価学会」の影響を除いた「仏教系」の減少要因は、結局説明されないままで、拍子抜けだ。檀家制度の空洞化などが影響しているのだろう。
タグ:宗教 東洋経済オンライン PRESIDENT ONLINE 島田 裕巳 大村 大次郎 (その4)(「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想、徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある、「キリスト教系は5万人増 仏教系は4000万人減」この30年間に起きた宗教離れの意味 日本は「宗教消滅」に向かっている) 広井 良典 「「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想」 『人口減少社会のデザイン』 「枢軸時代/精神革命」をめぐる構造 紀元前5世紀頃の「枢軸時代」 「工業文明が資源的・環境的制約にぶつかっている現在の状況とよく似ている」 「地球上のいくつかの場所で“同時多発的”に、現在につながるような普遍的な思想(ないし普遍宗教)が生まれた」 インドにおける思想・倫理構造の進化 「共同体の倫理」を乗り越え、それまでに存在しなかった「個の内的倫理」をうたう形で生まれたのが、枢軸時代/精神革命における諸思想であった 私たちがいま迎えつつあるその後半期の思想は、何らかの意味で「個人を超える」ようなベクトルを含む内容のものであるはずであり、それが本稿のテーマである「地球倫理」とつながることになる 地球倫理という思想 産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において 私たちが現在使っているような意味での「地球」という観念は、仏教や儒教、ギリシャ哲学や旧約思想が生まれた枢軸時代/精神革命においては存在しなかった 資源・環境の有限性ということがあるからこそ、そうした制約と両立させながら経済活動をいかに持続させていくか 「地球倫理」 テーマとして浮上 企業行動も「拡大・成長」から「持続可能性」へ モノがあふれて消費が飽和していくと同時に、「経済と倫理」は完全に分離 経済格差を示すジニ係数は増加を続け 資源や環境の有限性が顕在化 「経済と倫理」の再融合 “「経済と倫理」の再融合”とも呼ぶべき動きが、萌芽的ではあるが現われ始めている 根本から「経済と倫理」の関係を考え直す時期に来ており、そして、「拡大・成長」よりも「持続可能性」に軸足を置いた経済・経営の可能性を探っていく時期に来ている 「地球倫理」とは、実は日本における経済や経営の理念として伝統的に存在していたものを、グローバル時代における資源や環境の有限性の顕在化という現代の文脈において“再発見”ないし“再定義”したものとも言える 風土・文化の多様性そして「鎮守の森」 「自然信仰」を再発見していく 日本の場合は(アニミズム的な)自然観は神道のなかに残されている。欧米のように徹底して「忌避された」地域でも「再発見」されるかどうかは説明不足のようだ 現代の日本において求められているものとは 「「地球倫理」の③」にやや危うさを感じるが、全体としては大いに考えさせる好論文 「徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある」 家康がキリスト教を「禁教」にした理由 人口の2〜4%がキリスト教徒だった 天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していた なぜキリスト教が世界を席巻したか? ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負った 南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあった スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった キリスト教全面禁止に踏み切った」、のは賢明な措置 家康はなぜ「オランダびいき」なのか? オランダ船のリーフデ号が漂着 家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。 家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった オランダとの貿易をやめなかった理由 オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれる 家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる 江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。 「蘭学」は、日本の最先端の学問となった 「「キリスト教系は5万人増、仏教系は4000万人減」この30年間に起きた宗教離れの意味 日本は「宗教消滅」 平成の30年間でキリスト教系の信者数は5万人増えたが、仏教系は4000万人減った 平成の時代、宗教信者数は大きく減少した 信者数は「3割」減少している 「仏教系」が「4割5分も減っている 創価学会と密接な関係を持っていた「日蓮正宗」 創価学会は、戦後急成長をはじめた段階では、自分たちの教えの正しさを証明するために日蓮正宗という後ろ盾を必要とした。だが、巨大教団に発展することで、それが不要になった 日蓮正宗による「破門」で減少した1684万人 「仏教系の信者の数は」、「創価学会」の影響を除いても、「2割6分の減少」 バブル時代が日本の宗教人口のピークだった 「創価学会」の影響を除いた「仏教系」の減少要因は、結局説明されないままで、拍子抜けだ。檀家制度の空洞化などが影響しているのだろう
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