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女性活躍(その25)(全国紙初の女性政治部長が「女性活躍社会なんて 絵空事でしかない」と言い切る深い理由 セクハラを反省しない「オッサン社会」の深い病、平安時代もあった「女性キャリアの壁」苦悩の実態 紫式部「源氏物語」好きオタク女子の思いとは?、これぞ日本人が「読みたくないコラム」 “女のバトル”が消した灯火) [社会]

女性活躍については、昨年5月16日に取上げた。今日は、(その25)(全国紙初の女性政治部長が「女性活躍社会なんて 絵空事でしかない」と言い切る深い理由 セクハラを反省しない「オッサン社会」の深い病、平安時代もあった「女性キャリアの壁」苦悩の実態 紫式部「源氏物語」好きオタク女子の思いとは?、これぞ日本人が「読みたくないコラム」 “女のバトル”が消した灯火)である。

先ずは、昨年5月22日付け東洋経済オンラインがPRESIDENT Onlineを転載した毎日新聞社論説委員の 佐藤 千矢子氏による「全国紙初の女性政治部長が「女性活躍社会なんて、絵空事でしかない」と言い切る深い理由 セクハラを反省しない「オッサン社会」の深い病」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/57343
・『なぜセクハラはなくならないのか。長年政治記者を務めてきた、佐藤千矢子さんは「男女雇用機会均等法にセクハラ対策が初めて明記されたのは1997年。その後、改正を重ねたが、いまだにセクハラの禁止を盛り込むことはできていない。ハラスメントに苦しむ人に対し、周囲が見て見ぬふりをしているうちは、皆が気持ちよく働き、ひいてはそれが業績につながる会社や社会をつくることはできないだろう。ましてや女性活躍社会なんて、絵空事でしかない」という――。 ※本稿は、佐藤 千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです』、全国紙で初の女性政治部長を務めたとは、この問題を語るのに最適だ。
・『財務省事務次官のセクハラ疑惑  2018年4月12日発売の雑誌『週刊新潮』(同年4月19日号)では、財務省の福田淳一事務次官がテレビ朝日の女性記者を飲食店に呼び出しセクハラ発言をしていた疑惑が報じられ、大きな問題になった。週刊新潮はインターネット上でセクハラ場面の音声も公開した。福田氏と見られる声で「胸触っていい?」「抱きしめていい?」などと発言していた。 福田氏は「女性記者との間でこのようなやりとりをしたことはない」「音声データからは、相手が本当に女性記者なのかもわからない」「女性が接客をしている店に行き、店の女性と言葉遊びを楽しむことはある。しかし、女性記者にセクハラ発言をしたという認識はない」など疑惑を真っ向から否定し、当時の麻生太郎副総理・財務相をはじめとして財務省も福田氏を守った。しかし、政府・与党内から更迭を求める声が強まり、福田氏は事実関係を否定したまま、省内を混乱させた責任をとって辞任した』、現在はスマホで録音されるので、逃げようがないが、「事実関係を否定したまま、省内を混乱させた責任をとって辞任」とは往生際が悪い。
・『「被害女性を考えない」オッサン感覚  この問題では、財務省が報道各社の女性記者に調査協力を求めるなど、対応のまずさが批判を浴びた。被害女性が名乗り出ることへの心理的な負担や二次被害の懸念などを全く考慮していない対応で、「オッサン」感覚を露呈した。「官庁の中の官庁」と言われた財務省の実態だった。 一方、記者が福田氏と会食した際の録音の一部を週刊新潮に提供したことで、情報源秘匿との関係で記者へのバッシングが起きた。私自身も、録音の提供ではなく別の方法で解決できればよかったと思うが、このケースでの記者への批判は問題すり替えの意図を感じ、賛同できない。録音は被害者として他に訴える方法がなく、やむを得ず証拠として提出したのであり、記者の倫理の問題とは別に被害救済が議論されるべきだ』、「このケースでの記者への批判は問題すり替えの意図を感じ、賛同できない」、同感である。
・『抗議すれば報復される可能性がある  福田氏のセクハラ問題があった時、自分の過去の経験に照らし合わせて考えざるを得なかった。議員宿舎の部屋で議員から抱きつかれそうになった時、先輩記者2人が「そんな奴のところに、もう夜回りに行かなくていい。それで情報が取れなくなっても構わない」と言ってくれて救われた件では、この議員は大物ではあったが、政党の幹事長のような「オンリー・ワン」という存在ではなかった。彼の情報は新聞社として必要だったが、いざとなったら他の議員の情報があれば、最低限、何とかできるだろうという面もあった。しかし、これが福田氏のような中央官庁の次官で、どうしても日常的に取材しなければならない相手だったら、どうなっていただろう。 もう誰も取材に行かなくていいという結論にはなり得ない。一番いいのは抗議だ。だが抗議しても、なかったことにされて、下手をすれば、報復される可能性がある。報復にはいろんなやり方があるが、一番ありそうなのは一切の取材に応じないことだ。その記者だけでなく、場合によっては新聞社ごと取材拒否にあう可能性もある。「女性の側にも落ち度があるのだろう」と批判されるような二次被害も覚悟しなければならない』、「抗議しても、なかったことにされて、下手をすれば、報復される可能性がある」、その通りで、今回はやはり、週刊誌へのタレ込みしかなかったのだろう。
・『うまく受け流せという暗黙のプレッシャー  抗議には確かな証拠が必要になる。しかし、セクハラは密室状態で行われることが多いため、立証が極めて難しい。隠れて録音したり、その録音データを公開したりするのは、取材源の秘匿との関係でできない。では、担当を替えてもらうのがいいのだろうか。担当替えは急場しのぎにはなるが、根本的な解決にはならない。被害者が自信を喪失することになるだろうし、相手は反省することなく、同じ行為をまた繰り返すかもしれない。 こういうことが目に見えているから、騒ぎ立てず「無難に処理しろ」「うまく受け流せ」という暗黙のプレッシャーが働く。しかし、その場はそれでおさまったように見えても、無難に処理して受け流すことは、女性の心に大きな傷を残す。被害者の女性のみに負担を強いて、それが人生に長く影を落としかねないような、そんな対応は明らかに間違っている』、「騒ぎ立てず「無難に処理しろ」「うまく受け流せ」という」大人の対応は、「女性の心に大きな傷を残す。被害者の女性のみに負担を強いて、それが人生に長く影を落としかねないような、そんな対応は明らかに間違っている」、その通りだ。
・『昔より声は上げやすくなったが…  福田氏のセクハラ疑惑について2018年4月18日、テレビ局の従業員らでつくる「日本民間放送労働組合連合会」(民放労連)と「民放労連女性協議会」は、次のような抗議声明を出している。 「放送局の現場で働く多くの女性は、取材先や、制作現場内での関係悪化をおそれ、セクハラに相当する発言や行動が繰り返されてもうまく受け流す事を暗に求められてきた。たとえ屈辱的な思いをしても誰にも相談できないのが実態だ。この問題はこれ以上放置してはいけない。記者やディレクター、スタッフ、そして出演者らが受けるセクハラは後を絶たないのに、被害を受けたと安心して訴え出られるような環境も整っていない。このような歪みを是正しなければ、健全な取材活動、制作活動は難しくなる」 自分がまだ若くセクハラに悩んでいた1990年代のころから改善されたようでいて、本質的にはあまり変わっていないのだと思う。だんだんと声をあげられるようにはなってきたが、それでもやはり声をあげることにさえ大きなハードルがあるという実態が広がっている』、「「日本民間放送労働組合連合会」・・・と「民放労連女性協議会」が・・・抗議声明」を出したのは当然だ。「自分がまだ若くセクハラに悩んでいた1990年代のころから改善されたようでいて、本質的にはあまり変わっていないのだと思う。だんだんと声をあげられるようにはなってきたが、それでもやはり声をあげることにさえ大きなハードルがある」、なるほど。
・『“セクハラ”という言葉の重み  セクハラという言葉が日本で認知されるようになったのは、1989年の新語・流行語大賞からだと書いたが、その後も数年間は私たちの多くはセクハラという言葉を知らなかったし、意識していなかった。認識が広がったのは、1997年、男女雇用機会均等法にセクハラ対策が初めて明記されたころからだったと思う。 セクハラという言葉ができたのは、大きかった。元大手損保会社で総合職第1号だった知り合いの女性は「当時は、セクハラについて口に出して言えなかったし、セクハラという言葉もなかった。言葉を持つことは、力を持つうえで非常に大切だ」と振り返る。 セクハラという言葉がない状況で、女性が被害を訴えても「気にしすぎだ」などと軽くいなされ、下手をすれば逆に「そんなことを問題にするなんて、お前おかしいんじゃないのか」と女性の側が非難されかねない。 セクハラという言葉がなかった時代、自分も含めて多くの知り合いの女性が泣き寝入りするしかなかったのは、そういう事情があったと思う。しかし、セクハラという言葉が定着することによって、「セクハラはしてはいけない行為だ」「被害女性に非はなく悪いのはあくまでも加害男性だ」ということが社会の共通認識になれば、被害を訴えやすくなるし、報告を受けた上司が対応せざるを得なくなる。大きな違いだ』、「セクハラという言葉が定着することによって、「セクハラはしてはいけない行為だ」「被害女性に非はなく悪いのはあくまでも加害男性だ」ということが社会の共通認識になれば、被害を訴えやすくなるし、報告を受けた上司が対応せざるを得なくなる」、確かにその通りだ。
・『男性側の過剰反応  一方で、「羹あつものに懲りて膾なますを吹く」とでもいうように、男性の側に過剰反応も起きるようになった。よくあるのは、男性上司が女性の部下と一対一で飲みに行くような誘いをしなくなるというケースだ。それで仕事に支障が出ない職種や職場ならば一向に構わないが、新聞記者の場合は困ることもある。 例えば、機微に触れるネタを追っていて、その日のうちに内密に打ち合わせが必要になるようなケースだ。忙しくて時間のない中で、食事の時間を打ち合わせに充てるしかなく、「それじゃあ仕事が一段落したところで、晩飯を食いながら打ち合わせしよう」となるのだが、それが男女一対一だと、やりにくいという場面が出てきた。私は全く意識していなかったのだが、ある時期から急に上司から飲みに誘われなくなったことがあり、「どうしたのか」と聞くと、「いや一対一はまずいかなと思ってね」と言われて、驚いたことがある。仕方ないと思って放っておいたら、何も状況は変わっていないのに、また普通に誘われるようになった。男性の側も、迷いながら対応しているということなのだろう』、「男性」の場合、組織内では「セクハラ」は噂になっただけでも人事考課に影響しかねないだけに、悩ましい問題である。
・『「働く男女の比率」が近づけば解決される  直接的な仕事の話ではなくても、いわゆる「飲みニケーション」として、時には酒を一緒に飲みながら話をするのも必要なことだ。大勢で飲めばいいではないかと言われるかもしれないが、酒を飲もうが飲むまいが、本当に重要な話は「一対一」のサシでするというのは、特に私たち新聞記者には染みついている。そこで、女性ばかりが誘われないというのは、問題が生じる。 ただ、こうした問題も、女性が少数派だから起きることだ。男女の比率がもっと近づけば、お互いに注意しながら付き合うことになり、一方的に女性が飲み会に誘われなくて不利になるということはなくなっていくのではないだろうか。もちろん、女性上司から男性の部下へのセクハラにも、これまで以上に注意を払わなければならない時代に入っていくだろう』、「「働く男女の比率」が近づけば解決される」と楽観的だが、私はそこまで楽観的になれない。また、「飲み会」に「女性」が入った場合には、どうしても遠慮せざるを得ないので、「男性」だけで遠慮せずに飲む会も続くのではなかろうか。
・『なぜセクハラはなくならないのか  セクハラという言葉が定着し、これだけ認識が広まってきたように見えるのに、それでもなくならないのはなぜだろう。 福田次官の問題があった時、ある政治家の言葉が広まった。「福田氏のような話で辞任させれば、日本の一流企業の役員は全員、辞任しないといけなくなるぞ」。本人に発言の確認を直接とっていないし、客観的事実と異なることを言っているので、匿名でしか書けないが、私はいかにもありそうな発言だと思った。 この発言が本当だとしたら、国会議員、中央官庁の幹部だけでなく、民間企業の幹部だって同じだと、政治家自らが言ってはばからず、反省もしない社会とは何なのか。「オッサン社会」の深い病を思う。 私の友人の女性は、「日本の男性は結局、独身女性をバカにしているんだよ」と怒っていた。セクハラの標的になるのは主に独身の女性だ。既婚女性へのセクハラもあるだろうが、独身女性に比べれば圧倒的に少ないのではないか。それは既婚女性には、やはり夫の影がちらつくからではないだろうか。男性からすれば、セクハラが問題化した場合、相手が独身女性ならば相手の責任を言い募って逃れられるかもしれないが、既婚女性ならば夫が乗り出してきて大事になるかもしれない、といった計算が無意識に働いているのではないか。そんなふうに私は見ている』、「福田氏のような話で辞任させれば、日本の一流企業の役員は全員、辞任しないといけなくなるぞ」、というのは程度の違いこそあれ、概ねその通りで、「オッサン社会」の「病」は「深い」。
・『セクハラするオッサンに欠けている意識  時々不思議に感じるのだが、オッサンたちはこのままでは自分の娘が同じような被害にあうかもしれないと考えないのだろうか。それとも「娘は専業主婦にさせて会社勤めなんかさせない」、あるいは「優良企業に就職させるから大丈夫」「親のコネがあるから誰も手を出せないだろう」とでも考えているのだろうか。 または「手を出される女性のほうにスキがあるからだ」とでも考えているのだろうか。セクハラに苦しむ女性たちと、自分の娘を分けて考えられる発想が私には全く理解できない。想像力の欠乏症としか思えない』、「娘」は全く別物と考えないと、「セクハラ」のみならず、不倫も成立しない。
・『女性活躍社会へは程遠い  セクハラ被害に対しては、相手に直接抗議するか、会社の相談窓口や労働組合などに相談し、相手に事実関係を認めさせ、謝罪と再発防止を確約させる必要がある。しかし、一般的にいって会社へのセクハラ相談は、依然としてハードルが高いようだ。女性たちが会社側の対応を信頼できないのが一因だろう。 男女雇用機会均等法にセクハラ対策が初めて明記されたのは1997年。その後、改正を重ねたが、いまだにセクハラの禁止を盛り込むことはできていない。私の友人が言ったようにセクハラは厳罰をもって対処しない限り、なくなることはないが、日本社会の対応は極めて甘い。ハラスメントに苦しむ人に対し、周囲が見て見ぬふりをしているうちは、皆が気持ちよく働き、ひいてはそれが業績につながる会社や社会をつくることはできないだろう。ましてや女性活躍社会なんて、絵空事でしかない』、「セクハラ」は認定が微妙なだけに、「禁止」や「厳罰」は馴染み難いように思う。

次に、本年3月3日付け東洋経済オンラインが掲載した文筆家の三宅 香帆氏による「平安時代もあった「女性キャリアの壁」苦悩の実態 紫式部「源氏物語」好きオタク女子の思いとは?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/655947
・『学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週木曜日配信)の第22回は、前回に引き続き紫式部が書いた『源氏物語』の熱烈なファンだった菅原孝標女の『更級日記』の面白さについて解説します』、興味深そうだ。
・『『源氏物語』大好きオタク女子の回想  平安時代の『源氏物語』オタク菅原孝標女の日記、『更級日記』。物語に夢中になっていた少女時代から始まり、彼女がアラサーで就職し、結婚するところまでを前回まで見てきた。 「光源氏みたいな男、この世にいるわけがないんだ……」と呆然としつつ、なんとか結婚するに至った菅原孝標女。彼女は結婚生活についてあまり多くを書いていない。しかし出産を経験し、家庭生活にそれなりに労力を割いていたらしい。 40代くらいの菅原孝標女は、自分の人生をこう回想している。 <本文>世の中にとにかくに心のみつくすに、宮仕へとても、もとは一筋につかうまつりつがばやいかがあらむ、時々たち出でば、なになるべくもなかめり。 年はややさだ過ぎゆくに、若々しきやうなるも、つきなうおぼえならるるうちに、身の病いと重くなりて、心にまかせて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばのたち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにも、わがあらむ世に見おくこともがなと、臥し起き思ひ嘆き、たのむ人のよろこびのほどを、心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いとほいなくくちおし。 ※原文はすべて『新編日本古典文学全集26・和泉式部日記/紫式部日記/更級日記/讃岐典侍日記』(犬養廉ほか訳注、小学館、1994年) <意訳>当時、家庭にあれこれ労力を割いていた。もしあの時間、宮中仕事に本腰を入れて打ち込んでいたら……どうなっていただろう。もしかしたら、わりといいところまで出世できたかもしれない。でも実際は、ときどきタイミングが合うときに出仕するだけだった。どうしようもない。 私は年齢を重ね、若作りをして働くような歳でもなくなっていた。そのころ、病気もつらくなってきていた。自由に神社参拝などもとてもできなくなった。たまに出仕することすら、やめてしまったのだ。 長生きする自信なんて、なかった。でも、小さい子どもたちの将来はどうにか見届けたい。私は一日中めそめそ悲しんでいた。ああ、夫の次の赴任先が都になってくれないかな……そうひそかに願っていたが、秋になって任命された場所は、期待通りにはいかなかった。厳しいもんだ。 結婚後の菅原孝標女の勤務スタイルは、たまにタイミングが合ったとき――すなわち自分の手が空いていて、呼ばれたときだけ、出仕するというものだったらしい。しかもどうやら1人の貴族にずっと仕えるというものではなく、呼ばれた人のところにそれぞれ行くのみだった。 たしかに、これでは顔も覚えてもらえない。今でいう派遣社員やパートのような立ち位置の女房が、平安時代にもいたのだなあ、と私は彼女の日記を読むと思う』、「今でいう派遣社員やパートのような立ち位置の女房が、平安時代にもいたのだなあ」、同感である。
・『紫式部や清少納言が活躍できたワケ  菅原孝標女の言う「育児や家庭に使っていた時間を、派遣やパートタイムじゃない正社員型の勤務に使えていたら、今の自分の地位はどうなっていたのかしら」という妄想。これはかなり現代にも通じる悩みではないだろうか。現代のブログかな?と思うような内容である。 というのも平安時代の女房といえば、藤原彰子にずっと仕えた紫式部や、自分が仕えた“お姫様“こと藤原定子のことを随筆に残した清少納言のような働き方を想像してしまう。が、それは紫式部が夫と死別、清少納言は離婚しており、夫の転勤に左右されない立場だったから成立した働き方だったのだ。 菅原孝標女のように、夫が転勤ありの役職で、子どももいるような状況では、「ずっと宮中に詰める」女房になることは難しい。だからこそパートタイム女房勤務しかできなかった。そしてその状況を、彼女はたんたんと日記につづっている。 現代にも通じるテーマである、「夫の転勤についていくとキャリアが途絶える」問題。これを平安時代にすでに指摘していたなんて、菅原孝標女が聡明で優れたエッセイストだったことが、よくわかる。1000年早いよ!その問題、いまだに解決してないよ!と私は菅原孝標女と語り合いたくなる一文である。 しかし救いとしては、菅原孝標女は職場で何人か仲良くなった女性がいたらしいことである。数人、女房仕えをしたときに気の合う友人ができたらしい。彼女たちとは、その後も和歌のやりとりが続いていた。直接会うことはなかなか叶わなかったらしいが、手紙のやりとりができる女友だちができたことは、きっと彼女にとって僥倖だったのではないだろうか。) さて、そんな彼女の夫は、あっさり病で亡くなってしまう。突然のことに彼女はうろたえ、そして嘆き悲しむ。「ああ、もっと若いころにちゃんと仏道修行していたら、こんな孤独な目に遭わなかったんだろうか?」と彼女は後悔を重ねるのだ。これが菅原孝標女、51歳のことだ』、「紫式部が夫と死別、清少納言は離婚しており、夫の転勤に左右されない立場だったから成立した働き方だったのだ。 菅原孝標女のように、夫が転勤ありの役職で、子どももいるような状況では、「ずっと宮中に詰める」女房になることは難しい。だからこそパートタイム女房勤務しかできなかった」、「紫式部」と「清少納言」が、「夫の転勤に左右されない立場だった」とは初めて知った。
・『現実の厳しさに呆然とする菅原孝標女  <本文>昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふしるしの杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに、稲荷に詣でたらましかかば、かからずやあらまし。年ごろ「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母して内裏わたりにあり、みかど、后の御かげにかくるべきさまをのみ、夢ときも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳もつくらずなどしてただよふ。 <意訳>昔から、どうということもない物語や和歌にばかり夢中にならず、昼夜問わず仏道修行でもしていたら……今ごろこんな喪失感を噛み締めずに済んだんだろうか。 はじめて初瀬に参拝した際、「稲荷から杉が届いていますよ」と言われる夢を見たけれど。あの夢の跡、すぐに稲荷へ参拝しに行ってれば、こんなつらい目に遭わずに済んだのかな。 私は昔からずっと「天照大神にお祈りしなさい」と言われる夢を見てきた。が、それって私が高貴なお方の乳母になって、宮中で暮らし、帝や后に気に入られる人生を送るサインだと思い込んでいた……。でも私の夢占い、まったく当たらなかった。 当たった占いといえば、昔、鏡で見た「将来の私が悲しそうな顔をしている」姿。それだけは当たった。悲しい。つらい。 こうして昔夢見た将来設計はひとつも叶わず、一生が終わってしまう。でも今更、仏道修行をして徳を積んでも意味ないだろうし、ぼーっと日々を暮らしてしまっている。 現実の厳しさに呆然とする菅原孝標女。その日記の内容は、夫を亡くし、孤独に泣く彼女の姿が綴られている。胸が痛くなる晩年の日記だ。 しかしその中で描かれる夢占いの内容が、やっぱり彼女らしくて笑ってしまう。それは私が彼女のことを日記でしか知らない読者だからだろうか。 そしてこれだけ反省しながらも、結局彼女は尼になったり、修行や参拝に邁進して終わることなどはなく、人生を終えることになる。「結局、徳は積もうとしないんかい」とツッコミを入れたくなるが、菅原孝標女としてはぼんやりしながら晩年を過ごしていたらしい。 『更級日記』のラストは、尼になった友人との和歌で閉じられる。この友人が、昔一緒に暮らしていた女房なのか、あるいは出仕生活で仲良くなった友人なのかはわからない。しかし久しく手紙も交わしていない彼女に、菅原孝標女は「久しぶりに遊びに来てよお」と嘆く和歌を送る。 しげりゆく蓬が露にそほちつつ人にとはれぬ音をのみぞ泣く(荒れ果てた庭の、茂る蓬の露に濡れながら、私はあなたが来てくれない淋しさに泣いていますわ) 相手は、つれない返事を送ってくる。 世のつねの宿の蓬を思ひやれそむきはてたる庭の草むら(あなたの庭は荒れ果ててなんていませんよ、それくらいの蓬の茂みは普通です。私みたいに世を捨てた人間の庭の草むらを想像してください、荒れ放題なんだから) 菅原孝標女は昔、「田舎の山奥に住んで、光源氏か薫みたいな人が来るのを待ちたいわあ」という将来の夢を日記に綴っていた。その着地点である晩年の風景が、「茂る庭のある家に住んで、女友だちに『ねえ、遊びに来てよ~、寂しいのよ~』という手紙を贈る」ものであったところに、なんだか私はちょっとした切なさと温かさを感じる。 もちろん、光源氏みたいなイケメンは現れなかったかもしれない。しかし「寂しいのよねえ、会いたいわ」と言えるような女性の友人がちゃんといたところには、少しばかりの救いの印象を受けるのだ』、「菅原孝標女は昔、「田舎の山奥に住んで、光源氏か薫みたいな人が来るのを待ちたいわあ」という将来の夢を日記に綴っていた。その着地点である晩年の風景が、「茂る庭のある家に住んで、女友だちに『ねえ、遊びに来てよ~、寂しいのよ~』という手紙を贈る」ものであったところに、なんだか私はちょっとした切なさと温かさを感じる」、その通りだ。
・『現代にも通じるような普遍性が宿る『更級日記』  1人で『源氏物語』に耽溺していた少女は、仕事や結婚を経験し、晩年はまた1人に戻る。そのときは寂しくて眠れなかったかもしれない。しかしその先でどうか、ぼーっとしながら、彼女が孤独な時間を手紙や物語で紛らわせられていたらいいな、と思うのだ。 彼女の日記には、現代にも通じるような普遍性が宿っている。それはひとりの文学少女が物語に憧れながらその人生を綴った、平凡で、ありきたりで、でもそれゆえ共感できる点がたくさん詰まった日記文学になっているのだ』、「彼女の日記には、現代にも通じるような普遍性が宿っている。それはひとりの文学少女が物語に憧れながらその人生を綴った、平凡で、ありきたりで、でもそれゆえ共感できる点がたくさん詰まった日記文学になっているのだ」、『更級日記』を改めて見直した。

第三に、3月15日付け日経ビジネスオンラインが掲載した健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏による「これぞ日本人が「読みたくないコラム」 “女のバトル”が消した灯火」を紹介しよう。これは、今月あと2本までは無料。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00240/
・『今回は「きっと読まれない。でも、皆さんに教えてほしい」原稿を書こうと思います。 「何をしょっぱなから言ってるのか」って? いやいや、文字通り「読まれない」かも、でも、「教えてほしい」のです。 「そろそろネタに尽きた」って? いやいや、逆です。一体いつになったら私はこの「ネタ」を書かなくていい日が来るのだろうという“尽きないネタ”です』、「“尽きないネタ”」とはどういうことだろう。
・『指導的地位に女性が占める割合を30%以上に  というわけで、「きっと読まれない」この原稿を開いてくださっている「あなた」。「何を教えてほしいのか知りたい!」という方は、最後までお付き合いください。 まずは、メディアが大喜びした、“ある報道番組”での出来事から。 「女性にげたを履かせて結果平等をつくり、法的拘束力を持たせ数値目標を実行するのはあくまでも過渡期的な施策であるべきだ。社会で活躍する女性の絶対数を増やせば、自然と管理職も増える。法的拘束力を持たせれば、女性の絶対数が少ないので人事に無理が出る。米国では黒人や女性を優遇した政策に対して逆差別だという議論も出た。慎重にしなければならない」 こう持論を展開したのは、時の政調会長、高市早苗氏である。 それに対し 「強制的に枠をつくらないと女性が活躍する場所が生まれてこない。数値目標を持たないと、いつまでも有能な女性を生かしきれない社会が続く。韓国では女性にげたを履かせる形で女性議員を増やした結果、女性大統領が誕生できたと私は推察している。まずは数を確保すること。社会の中枢で働く人たちが女性であり、職場で結婚、妊娠、出産、育児が当然のものになれば、あえて無理をしなくとも社会で女性が活躍できるように移行していくのではないか」 と、180度正反対の論を展開したのが、時の総務会長、野田聖子氏だった。 これは10年前の2013年1月、自由民主党が掲げた「社会のあらゆる分野で20年までに、指導的地位に女性が占める割合を30%以上にする目標を確実に達成する」との公約(12年12月の衆議院選挙)を議論する番組での出来事である。  自民党のツートップである、女性政治家2人が“バトル”を繰り広げた。 そう。今から10年前。10年も前に自民党のトップスリーのうち2人を女性が占めていたのだ。 思い出された人もいるかもしれないが、前述した通りメディアは、「おいおい女同士はやっぱりすごいぞ!」と言わんばかりに、お二人の議論を“女のバトル”とやゆし連日報道した。 当初番組で議論する予定だった「何のための数値目標なのか?」の議論も一切なし。自民党側の「明確な説明」もなかった』、「時の政調会長、高市早苗氏」が「女性にげたを履かせて結果平等をつくり、法的拘束力を持たせ数値目標を実行するのはあくまでも過渡期的な施策であるべきだ」、これに対し「時の総務会長、野田聖子氏」が「強制的に枠をつくらないと女性が活躍する場所が生まれてこない。数値目標を持たないと、いつまでも有能な女性を生かしきれない社会が続く」、との「バトル」とは、それぞれの個性も反映された考え方で面白い。
・『女性=カネという構図  一方で、「20年までに30%を達成するための取り組み第1弾」とされる特別法案の骨子は、日本があえぐ「経済の低成長」から脱する最後の砦(とりで)として、女性の労働力が不可欠と見て取れるものばかりだった。 当時の私のメモによれば、 年4兆~5兆円の規模で推移している国の物品調達にも『女性力』の活用を促す。 制度面で企業に優遇策を設ける。 女性の役員や管理職の割合、出産・育児への支援措置などを基準に、首相が優れた企業を「男女共同参画推進事業者」に認定し、国などが物品調達時に優遇する。 と書かれている。 内閣府の男女共同参画会議は、出産を機に女性が退職する損失は産休後に復職するより大きいとの試算結果を公表。女性の就業希望者(約342万人)が全員就業できれば報酬総額は約7兆円に上り、それが消費に回れば実質国内総生産(GDP)は約1.5%増加すると推計した(資料、https://www.gender.go.jp/kaigi/renkei/subcommittee/economic_activity/03/pdf/mat03-03.pdf)。 また、数値目標は「女性の視点」という言葉に置き換えられ、新聞やテレビメディアは女性管理職の割合とその経済効果にスポットを当て続けた。「女性管理職が多い会社ほど売上高利益率が高い」「女性管理職の多い国は経済成長している」「経済成長のためには女性の労働力が不可欠」だのと、¥マークばかりが飛び交った。 本来、「20年までに30%」といった数値目標は、差別撤廃が目的であり、人権の問題であり、機会平等のための「ポジティブアクション(アファーマティブアクション:積極的差別是正措置)」のプロセスなのに、「経済、経済、また経済!」とばかりに、女性=カネという構図だった。少なくとも私にはそう見えた。 ポジティブアクションは、米国のリンドン・ジョンソン元大統領の演説がきっかけとされ、人種差別を禁じた1964年成立の公民権法の精神を基本とする積極的な動きを意味している。) その後、人種(差別の禁止)などのマイノリティーに対する施策から、ジェンダーの視点がクローズアップされるようになり、女子差別撤廃条約が、79年の第34回国連総会において採択され、81年に発効した(日本は85年に締結)。 この条約は、男女の完全な平等の達成に貢献することを目的として、女子に対するあらゆる差別を撤廃することを基本理念としている。具体的には、「女子に対する差別」を定義し、締約国に対し、政治的および公的活動、並びに経済的および社会的活動における差別の撤廃のために適当な措置をとることを求めている』、なるほど。
・『首相になったら女性閣僚を半分に  ポジティブアクションは「男女の事実上の平等を促進することを目的とする暫定的な特別措置」と定義し、これが国際的なジェンダー視点におけるポジティブアクションの定義と理解されている。 とまぁ、あれこれ難しく書いたけど、平たく言えば、「女性だから」「小さな子供がいるから」「結婚しているから」「更年期障害だから」といった理由で、雇用や昇進の機会が失われてしまうことを是正するための積極的な措置としての「数値目標」であり、¥マークと結びつけるためのものじゃない。あくまでも数値目標のゴールは「人」だ。 いかなる数値目標もゴールが“人”の尊厳と生活を守るものでない限り、真のポジティブアクションじゃない。そして、数値目標(ゴール・アンド・タイムテーブル方式)の先にあるのが、性別などを基準に一定の枠を法律で決める施策や、性別や人種を基準に一定領域に対する人数や比率を割り当てた「クオータ制」だ。 ちなみに「クオータ制」はもともと政治の舞台から始まっている。政治家が国民の代表であるとするなら、国と同じように一般領域でも男性と女性が同じような割合であるべきだという発想に基づき、女性一般の利益が害されないためという理由で取り入れられた。 日本は政府主導の下「2020年までに30%」を掲げ、「女性活躍」だの「女性を輝かせる」だのというフレーズが多用されたけど、結局、数値目標は消えた。静かに消えていった。まるで数値目標などなかったように。 揚げ句、自身が「首相になったら女性閣僚を半分にする」と宣言しただけで(by 野田氏・自民党総裁選)たたかれる社会になった。 厚生労働省の「令和3年度(2021年度)雇用均等基本調査」によれば、課長相当職以上の管理職に占める女性の割合は12.3%(前年度より0.1ポイント低下)、係長相当職以上も14.5%と、前回調査(同14.6%)より0.1ポイント低下している(資料、https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/71-r03/02.pdf)。 出所:厚生労働省「令和3年度(2021年度)度雇用均等基本調査」』、「野田氏」は冒頭の論争と同じ姿勢だが、「自身が「首相になったら女性閣僚を半分にする」と宣言しただけで・・・たたかれ」たとは気の毒だ。
・『日本は変わらないことを選択した国  役職別に女性管理職がいる企業の割合を見ると……、かなり微妙だ。 しかも、約4割の企業が総合職は「男性のみ採用」としている。……“大奥”はひっくり返ってるというのに。 出所:厚生労働省「令和3年(2021年)度雇用均等基本調査」 女性閣僚に至っては14年の第2次安倍改造内閣で、過去最高の5人で……、ジ・エンド。 22年の参院選挙で125人の全当選者のうち女性は35人で、過去最多の28人を上回り、立候補した女性も181人で、候補者全体に占める女性の割合は33.2%と、第5次男女共同参画基本計画で示した「25年までに衆参両院での選挙における女性候補者の比率35%」の目標をもう少しで達成できそうだった。 が、「数値目標」を10年前に公約に掲げた、自民党の候補者全体に占める女性比率は23.2%で、主要政党でワースト2位。最も低かったのが公明党で、20.8%。当選者に占める割合も、立憲民主党52.9%、共産党50.0%に対し、自民は20.6%、公明は15.4%にとどまっている。 さて、と。この現実をシンプルに捉えれば、「日本は変わらないことを選択した国」となるわけだが、これは10年前に数値目標を掲げながら「え? そんなことあったかね?」的に動き続けてる自民党の問題なのか、それとも日本という国自体の問題なのか。どっち? 「っていうか、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)が問題なんじゃない?」 「っていうか、性別役割分担意識の問題が根深いってことでしょ」 「っていうか、既得権益じゃね?」 「単に女性が機会平等を求めてないってことでしょ」 「っていうか、ロールモデルの問題でしょ」 「そうだよね~、あの人にみたいなりたい! って思える女性政治家いないし」 「会社だとさ、部長とか役員とかなってる女性って、経歴もすごいし」 「っていうか、男社会にどっぷり浸かってる人でしょ」 などと、あれこれ理由づけすることは可能だし、私自身これまでそうやって心理の裏側をひもとき、社会的構造を指摘し、解決策を提案してきた』、「日本は変わらないことを選択した国」とは確かにその通りだ。
・『政治・経済における権力の半分も女性が持つべきだ  だが、それだけでは語り尽くせないほど深い、深い、とんでもなく深い闇を日本社会に感じている。 なにせ「女性問題」を取り上げるだけで、大バッシングされ(はい、そうなんですよ~)、ついには「女性問題」に興味すら示さなくなっているのですよね。はい、だから読まれません(笑)。ここまでお読みいただいた方に、心より感謝です! 「っていうか、そうやってアンタが書いてきたあれこれが複雑に絡まってんでしょ。知らんけど」 おっしゃる通りだ。 だからこそ、知りたい。マスではなく「個」の意見が。幸い本コラムには毎回たくさんのコメントをいただく。「あなた」の意見を、「あなた」の素直な気持ちを教えてほしいのだ。 くしくも先週8日は国際女性デーだった。 見よ、こちらを! なんて豊かな、すてきな写真なのだろう! スペインのペドロ・サンチェス政権は7日、閣僚級ポストや企業の取締役会における比率を男女どちらも40%以上とするクオータ制の導入を盛り込んだジェンダー平等促進法案を閣議決定した。 「社会の半分は女性なのだから、政治・経済における権力の半分も女性が持つべきだ」(by サンチェス首相) ちなみに、18年にサンチェス首相が就任した時には、17人中11人が女性! 先に不信任決議を受けて辞任したマリアノ・ラホイ前首相の男性ばかりの内閣とは対照的だ。 件の写真は、見てるだけで豊かな気持ちになる。ああ、自分も頑張っていいんだね、と前向きな気持ちになれる。 こんな写真、撮ってみたいと思いませんか? 皆さまの「自分の頭で考えたご意見、心の奥底に潜む気持ち」、教えてください』、「ペドロ・サンチェス政権は7日、閣僚級ポストや企業の取締役会における比率を男女どちらも40%以上とするクオータ制の導入を盛り込んだジェンダー平等促進法案を閣議決定」、とはうらやましい限りだ。
タグ:女性活躍 (その25)(全国紙初の女性政治部長が「女性活躍社会なんて 絵空事でしかない」と言い切る深い理由 セクハラを反省しない「オッサン社会」の深い病、平安時代もあった「女性キャリアの壁」苦悩の実態 紫式部「源氏物語」好きオタク女子の思いとは?、これぞ日本人が「読みたくないコラム」 “女のバトル”が消した灯火) 佐藤 千矢子氏による「全国紙初の女性政治部長が「女性活躍社会なんて、絵空事でしかない」と言い切る深い理由 セクハラを反省しない「オッサン社会」の深い病」 PRESIDENT ONLINE 東洋経済オンライン 佐藤 千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書) 全国紙で初の女性政治部長を務めたとは、この問題を語るのに最適だ。 現在はスマホで録音されるので、逃げようがないが、「事実関係を否定したまま、省内を混乱させた責任をとって辞任」とは往生際が悪い。 「このケースでの記者への批判は問題すり替えの意図を感じ、賛同できない」、同感である。 「抗議しても、なかったことにされて、下手をすれば、報復される可能性がある」、その通りで、今回はやはり、週刊誌へのタレ込みしかなかったのだろう。 「騒ぎ立てず「無難に処理しろ」「うまく受け流せ」という」大人の対応は、「女性の心に大きな傷を残す。被害者の女性のみに負担を強いて、それが人生に長く影を落としかねないような、そんな対応は明らかに間違っている」、その通りだ。 「「日本民間放送労働組合連合会」・・・と「民放労連女性協議会」が・・・抗議声明」を出したのは当然だ。「自分がまだ若くセクハラに悩んでいた1990年代のころから改善されたようでいて、本質的にはあまり変わっていないのだと思う。だんだんと声をあげられるようにはなってきたが、それでもやはり声をあげることにさえ大きなハードルがある」、なるほど。 「セクハラという言葉が定着することによって、「セクハラはしてはいけない行為だ」「被害女性に非はなく悪いのはあくまでも加害男性だ」ということが社会の共通認識になれば、被害を訴えやすくなるし、報告を受けた上司が対応せざるを得なくなる」、確かにその通りだ。 「男性」の場合、組織内では「セクハラ」は噂になっただけでも人事考課に影響しかねないだけに、悩ましい問題である。 「「働く男女の比率」が近づけば解決される」と楽観的だが、私はそこまで楽観的になれない。また、「飲み会」に「女性」が入った場合には、どうしても遠慮せざるを得ないので、「男性」だけで遠慮せずに飲む会も続くのではなかろうか。 「福田氏のような話で辞任させれば、日本の一流企業の役員は全員、辞任しないといけなくなるぞ」、というのは程度の違いこそあれ、概ねその通りで、「オッサン社会」の「病」は「深い」。 「娘」は全く別物と考えないと、「セクハラ」のみならず、不倫も成立しない。 「セクハラ」は認定が微妙なだけに、「禁止」や「厳罰」は馴染み難いように思う。 三宅 香帆氏による「平安時代もあった「女性キャリアの壁」苦悩の実態 紫式部「源氏物語」好きオタク女子の思いとは?」 『新編日本古典文学全集26・和泉式部日記/紫式部日記/更級日記/讃岐典侍日記』 「今でいう派遣社員やパートのような立ち位置の女房が、平安時代にもいたのだなあ」、同感である。 「紫式部が夫と死別、清少納言は離婚しており、夫の転勤に左右されない立場だったから成立した働き方だったのだ。 菅原孝標女のように、夫が転勤ありの役職で、子どももいるような状況では、「ずっと宮中に詰める」女房になることは難しい。だからこそパートタイム女房勤務しかできなかった」、「紫式部」と「清少納言」が、「夫の転勤に左右されない立場だった」とは初めて知った。 「菅原孝標女は昔、「田舎の山奥に住んで、光源氏か薫みたいな人が来るのを待ちたいわあ」という将来の夢を日記に綴っていた。その着地点である晩年の風景が、「茂る庭のある家に住んで、女友だちに『ねえ、遊びに来てよ~、寂しいのよ~』という手紙を贈る」ものであったところに、なんだか私はちょっとした切なさと温かさを感じる」、その通りだ。 「彼女の日記には、現代にも通じるような普遍性が宿っている。それはひとりの文学少女が物語に憧れながらその人生を綴った、平凡で、ありきたりで、でもそれゆえ共感できる点がたくさん詰まった日記文学になっているのだ」、『更級日記』を改めて見直した。 日経ビジネスオンライン 河合 薫氏による「これぞ日本人が「読みたくないコラム」 “女のバトル”が消した灯火」 「“尽きないネタ”」とはどういうことだろう。 「時の政調会長、高市早苗氏」が「女性にげたを履かせて結果平等をつくり、法的拘束力を持たせ数値目標を実行するのはあくまでも過渡期的な施策であるべきだ」、これに対し「時の総務会長、野田聖子氏」が「強制的に枠をつくらないと女性が活躍する場所が生まれてこない。数値目標を持たないと、いつまでも有能な女性を生かしきれない社会が続く」、との「バトル」とは、それぞれの個性も反映された考え方で面白い。 「野田氏」は冒頭の論争と同じ姿勢だが、「自身が「首相になったら女性閣僚を半分にする」と宣言しただけで・・・たたかれ」たとは気の毒だ。 「日本は変わらないことを選択した国」とは確かにその通りだ。 「ペドロ・サンチェス政権は7日、閣僚級ポストや企業の取締役会における比率を男女どちらも40%以上とするクオータ制の導入を盛り込んだジェンダー平等促進法案を閣議決定」、とはうらやましい限りだ。
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