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タウン情報・街並み(その1)(「オタクに優しい秋葉原」はもうない…ぼったくりで稼ぐ“心の荒んだメイド”が増加したワケ、【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」、食堂 住居 テレビさらに学校まで…西葛西で暮らすインド人を無償でサポート…「リトル・インディアの父」が語った「壮絶過去」) [生活]

今日は、タウン情報・街並み(その1)(「オタクに優しい秋葉原」はもうない…ぼったくりで稼ぐ“心の荒んだメイド”が増加したワケ、【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」、食堂 住居 テレビさらに学校まで…西葛西で暮らすインド人を無償でサポート…「リトル・インディアの父」が語った「壮絶過去」)を取上げよう。

先ずは、昨年5月12日付け日刊SPA!「「オタクに優しい秋葉原」はもうない…ぼったくりで稼ぐ“心の荒んだメイド”が増加したワケ」を紹介しよう。
https://nikkan-spa.jp/1962910
・『2023年、反響の大きかった記事からジャンル別にトップ10を発表。SNSでも話題だったニュースなどから1年を振り返る「炎上」部門、第9位はこちら!(集計期間は2023年1月~10月まで。初公開2023年5月12日 記事は取材時の状況。ご注意ください) 「日本がヤバい!」と言われ始めてしばらくたつが、本当にヤバくなってきた。国が貧乏になると悪いことしか起きないのだ。繁華街では、各地で目を覆いたくなるような犯罪が頻発している。日本に住んでいる身として、知っておいて損はない』、「「日本がヤバい!」と言われ始めてしばらくたつが、本当にヤバくなってきた」、どういうことなのだろう。
・『メイドカフェ5店舗が摘発、客引きの数も減ったようだが… 秋葉原  秋葉原では客引きは1店舗一人までというルールがある。通りでは行政から委託を受けた業者が注意喚起のアナウンスを行っていた 秋葉原がオタクの街から繁華街へと様子を変え始めたのは、’10年代後半のことだ。「メイド通り」と呼ばれるエリアにはコスプレ姿の若い女性たちがズラリと並び、通行人に対して常に声をかけていた。 しかし繁華街の宿命か、ぼったくりや風営法に違反する営業が横行し、’21年5月には過剰な接待を行っていたメイドカフェ5店舗が摘発。現在、秋葉原の路上に立つ客引きの数は減っているようにも思う』、「メイドカフェ5店舗」が「ぼったくりや風営法に違反」で「摘発」とは残念だ。
・『昼の客引きはむしろ増えている?  だが、ぼったくりはまだまだ健在だ。秋葉原でコンカフェを営む男性が実情を話す。 「夜の客引きの数は確かに減りましたが、昼はむしろ増えています。ターゲットをサラリーマンから外国人観光客と地方から来る客に替えたみたいですね。ぼったくりで稼ぐ店は依然として存在し、8000円ほどのシャンパンを頼まないとキャストと話せなかったり、無断でキャストがドリンクを飲みまくったりして、最後に4万~5万円を請求されます」』、「ターゲットをサラリーマンから外国人観光客と地方から来る客に替えたみたい」、「8000円ほどのシャンパンを頼まないとキャストと話せなかったり、無断でキャストがドリンクを飲みまくったりして、最後に4万~5万円を請求されます」、昔の素朴な「メイド」喫茶が懐かしい。
・『ホス狂いのメイドたちがオタクをカモに  かつて「オタクに優しい街」だった秋葉原は、「オタクに厳しい街」となった。その理由は街で働く女性たちの質が変わったことにある。 「ひと昔前までのメイドカフェといえば、オタクの女のコが勇気を出して面接に来るような場所でした。しかし、今メイドカフェやコンカフェで働いている女のコたちの中には歌舞伎町のホストクラブで夜な夜な遊んでいるコもたくさんいます。そのうち遊ぶカネがなくなり風俗嬢に転身するコもいるくらいです」(同) 男性いわく、ぼったくりで稼ぐ店のオーナーは「オタク出身の半グレにもなりきれないような不良」だという。当然、彼らの指示でぼったくりが行われているわけだが、キャストの女性たちも遊ぶカネ欲しさからぼったくりをしているのだ。 秋葉原では心の荒んだメイドに注意が必要だ』、「今メイドカフェやコンカフェで働いている女のコたちの中には歌舞伎町のホストクラブで夜な夜な遊んでいるコもたくさんいます・・・キャストの女性たちも遊ぶカネ欲しさからぼったくりをしているのだ。 秋葉原では心の荒んだメイドに注意が必要だ」、その通りだ。

次に、本年1月22日付け現代ビジネス「【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」」を紹介しよう。
・『江戸川区西葛西はインド人が集う街として知られる。その多くがIT技術者で日本のインフラを陰で支えている。この街を作り上げたのは、たった一人のインド人。彼が歩んだ壮絶な半生を辿ろう』、興味深そうだ。
・『インドと下町の融合  平日の夕方5時すぎ、東京メトロ東西線・西葛西駅のホームに降り立つと、授業終わりの学生やくたびれたサラリーマンにまじって、ラフな格好をしたインド人らしき姿が多く目に入る。タブレットを片手に、早足で改札をくぐる一人のインド人男性の後を追うと、そこには日本とは思えない異国情緒あふれる街並みが広がっていた。 ランドセルを背負った子ども、買い物袋を手に持った女性などインド人らしき人々の姿が当たり前の風景として視界に入る。駅周辺に立ち並ぶインド料理店や食材店の周囲では香辛料の香りが漂い、それらが混然となって街に溶け込んでいる。 ここ西葛西は日本でも屈指のインド人居住者の多い街であり、「リトル・インディア」とも呼ばれる。この街に暮らすインド人は3000人を超える。これは日本在留者の1割の人口だ』、「西葛西は日本でも屈指のインド人居住者の多い街であり、「リトル・インディア」とも呼ばれる。この街に暮らすインド人は3000人を超える。これは日本在留者の1割の人口だ」、ずいぶん多くの「インド人」が集中したものだ。
・『西葛西にインド人が多い理由  多くのインド人がこの街に居住する理由は3つある。 1つは西葛西周辺に貿易の拠点となる港や湾岸が点在しており、大きな貸倉庫があること。 2つめはビジネスの中心地である大手町や日本橋へ乗り換えなしで行くことのできる交通の利便性だ。 そして最も大きいのが3つめ――ある一人のインド人の功績だ。 「リトル・インディアの父」と呼ばれるその人物は現在71歳で、'70年代後半に単身、日本に渡り、紅茶の貿易、卸売事業で成功。以来、来日した同胞のため、無償で衣食住のサポートを行ってきたという。 いま、日本ではクルド人やミャンマー、カンボジアなど東南アジア系の外国人による犯罪やトラブルが顕在化しているが、ここ西葛西ではインド人による犯罪はほとんど起きていない。それも、この「リトル・インディア」の父を中心に強固なコミュニティが築かれているからだという。 いかにして西葛西はインド人の街となったのか。リトル・インディアが形成されるまでの足跡を解き明かすべく、本誌は在日インド人から「父」と尊敬を集める、その人物に取材を申し込んだ』、「多くのインド人がこの街に居住する理由は3つある。 1つは西葛西周辺に貿易の拠点となる港や湾岸が点在しており、大きな貸倉庫があること。 2つめはビジネスの中心地である大手町や日本橋へ乗り換えなしで行くことのできる交通の利便性だ。 そして最も大きいのが3つめ――ある一人のインド人の功績だ」、「3つめ」の「ある一人のインド人の功績」とはどういうことなのだろう。「西葛西ではインド人による犯罪はほとんど起きていない。それも、この「リトル・インディア」の父を中心に強固なコミュニティが築かれているからだという」、大したものだ。
・『リトル・インディアンの父の実像に迫る  取材当日、指定されたのは彼が経営する「シャンティ紅茶」だった。扉を開けると、複雑な紅茶の香りが鼻腔を抜けていく。店内はそう広くはないが、棚には白いパックに入れられた多種多様な紅茶が並んでいる。 レジに立っていた日本人女性のスタッフの案内に従い、店の中央にあるテーブルに座りながら彼を待った。 15分後、ストライプの入ったスーツに身を包んだインド人男性が奥の事務所から現れた。身長は170cm後半、顎には長い白ひげをたくわえており、威厳に満ちた風格だ。 記者があいさつをすると、 「どうもどうも。お待たせしてすみません。こういう者です」 という言葉とともに名刺を差し出す。いかにも日本的な所作に面食らいながら名刺を見ると、「ジャグモハン・チャンドラニ」と書いてある』、「ストライプの入ったスーツに身を包んだインド人男性が奥の事務所から現れた。身長は170cm後半、顎には長い白ひげをたくわえており、威厳に満ちた風格だ・・・いかにも日本的な所作に面食らいながら名刺を見ると、「ジャグモハン・チャンドラニ」、なるほど。

第三に、1月22日付け現代ビジネス「食堂、住居、テレビ、さらに学校まで…西葛西で暮らすインド人を無償でサポート…「リトル・インディアの父」が語った「壮絶過去」」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/122818?imp=0
・『江戸川区西葛西はインド人が集う街として知られる。その多くがIT技術者で日本のインフラを陰で支えている。この街を作り上げたのは、たった一人のインド人。彼が歩んだ壮絶な半生を辿ろう。 この記事は前編『【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」』の続編記事です』、興味深そうだ。
・故郷を追われた過去  「この地で随分とご尽力なされたと伺いました。ぜひお話を聞かせてください」 記者がそう伝えると、チャンドラニさんは「いえいえ」と謙遜しながら、穏やかな口調でその半生を語り始めた。 「私の一族はもともと、インド西部のカラチ(現在はパキスタン領)に住んでいました。父はエンジニアでありながら貿易商もしており、音響機器の輸入販売で生計を立てていました。映画館も5つ所有しており、比較的裕福な家庭だったと記憶しています。 しかし、'40年代後半にインドで独立紛争があって、ヒンドゥー教徒の多くが故郷を追われました。暴力を振るわれたり、家を潰されたり、中には殺されたりしてしまう人もいた。両親はほとんど荷物も持たずにジョードプルという街に避難しました。私の家族は運よく飛行機で移動できましたが、船や汽車で移動した人たちの多くはその道中で殺されました。逃げるとき、母が服に縫い付けていた貴金属を換金し、私たちはジョードプルから、さらにコルカタに移動して何とか新たな生活を始めました」 一度はすべてを失ったチャンドラニさん一族だったが、長年、培ってきた商才を武器に親族が世界各国へ散らばり、貿易業で再び財を成した。 「私も大学院卒業後、父親の貿易会社に就職しました。転機が訪れたのは、ビジネスチャンスを求めてニューヨークへ向かう準備をしていたときのこと。関西で繊維業を営んでいた従兄弟から『日本のほうがチャンスがある』と言われたのです。当時は1ドル360円の時代。日本製の繊維、精密部品は品質が高く、人気が高かった。私は急遽、行き先を変えて貿易の仕事を東京で始めることにしました。いま思えば、これが運命の分かれ目だったのでしょうね」 当初は精密部品などの買い付けが目的で、短期滞在の予定だった。しかし、20代だったチャンドラニさんは血気盛んで、自分の力でビジネスを成功させたい、という気持ちが大きくなっていった。 そこで目を付けたのが、インドの紅茶の輸入販売だ。ただ、そこには言語の壁が立ちはだかる。買い付けだけだったら英語で事足りるが、日本人を相手に商売するとなるとそうはいかない』、「「私の一族はもともと、インド西部のカラチ(現在はパキスタン領)に住んでいました。父はエンジニアでありながら貿易商もしており、音響機器の輸入販売で生計を立てていました。映画館も5つ所有しており、比較的裕福な家庭だったと記憶しています。 しかし、'40年代後半にインドで独立紛争があって、ヒンドゥー教徒の多くが故郷を追われました。暴力を振るわれたり、家を潰されたり、中には殺されたりしてしまう人もいた。両親はほとんど荷物も持たずにジョードプルという街に避難しました。私の家族は運よく飛行機で移動できましたが、船や汽車で移動した人たちの多くはその道中で殺されました。逃げるとき、母が服に縫い付けていた貴金属を換金し、私たちはジョードプルから、さらにコルカタに移動して何とか新たな生活を始めました・・・「私も大学院卒業後、父親の貿易会社に就職しました。転機が訪れたのは、ビジネスチャンスを求めてニューヨークへ向かう準備をしていたときのこと。関西で繊維業を営んでいた従兄弟から『日本のほうがチャンスがある』と言われたのです。当時は1ドル360円の時代。日本製の繊維、精密部品は品質が高く、人気が高かった。私は急遽、行き先を変えて貿易の仕事を東京で始めることにしました。いま思えば、これが運命の分かれ目だったのでしょうね」 当初は精密部品などの買い付けが目的で、短期滞在の予定だった。しかし、20代だったチャンドラニさんは血気盛んで、自分の力でビジネスを成功させたい、という気持ちが大きくなっていった。 そこで目を付けたのが、インドの紅茶の輸入販売だ。ただ、そこには言語の壁が立ちはだかる。買い付けだけだったら英語で事足りるが、日本人を相手に商売するとなるとそうはいかない」、どうやって「日本」での「商売」を軌道に乗せたのだろう。
・『日本でのビジネス  チャンドラニさんは日本語学校に通い始めるものの、当時、インド人の生徒はほとんどいない。周りの生徒は中国人、台湾人、シンガポール人などもともと漢字になじみのある民族ばかり。自分のせいで授業に遅れが生じてしまうことに負い目を感じた彼は3ヵ月で学校を辞め、独学で日本語を身に着けた。 「拙い日本語で、必死に営業しました。当時は百貨店のお歳暮やお中元商戦が盛んでした。そこで百貨店の外商担当者にアプローチをしました。商品は自分で小分けにして瓶詰め箱詰めをし、ラップをかけて運びました。実際に飲んでいただき、顧客を獲得していきました。当時はまだ紅茶は狭い市場でしたが、少しずつホテルやレストランなどに納入できるようになっていったのです」』、「日本語学校に通い始めるものの、当時、インド人の生徒はほとんどいない。周りの生徒は中国人、台湾人、シンガポール人などもともと漢字になじみのある民族ばかり。自分のせいで授業に遅れが生じてしまうことに負い目を感じた彼は3ヵ月で学校を辞め、独学で日本語を身に着けた。 「拙い日本語で、必死に営業しました。当時は百貨店のお歳暮やお中元商戦が盛んでした。そこで百貨店の外商担当者にアプローチをしました。商品は自分で小分けにして瓶詰め箱詰めをし、ラップをかけて運びました。実際に飲んでいただき、顧客を獲得していきました。当時はまだ紅茶は狭い市場でしたが、少しずつホテルやレストランなどに納入できるようになっていった」、「非漢字圏」なので「独学で日本語を身に着けた」とは大したものだ。「顧客」「獲得」にはきっと大変な苦労があったのだろう。
・『時代の波に導かれて  そうして事業が軌道に乗り始めたチャンドラニさんは、再開発の始まった西葛西に倉庫を借りた。それがこの街が「リトル・インディア」になる始まりだった。 転機が訪れたのは、'97~'98年のこと。当時、日本では2000年問題(コンピューターシステムに不具合が生じると示唆された問題)が叫ばれ、企業の多くが不安に駆られていた。 そこで、企業はすでにIT大国となっていたインドから大量の人材を迎え、予測不能の事態に備えようとした。結果的に大きな混乱は起きなかったが、これを契機にインド人の流入が加速した。 だが、当時の日本には、まだインド人が暮らしやすい環境が整っていなかった。チャンドラニさんはかつて自分がそうであったように、日本で暮らす難しさを痛いほど知っていた。だからこそ、困る同胞を無視することなどできなかった。 「人は家族や友人、社会から施してもらってはじめて生きていくことができる。自分が受けたものを別の形で他者に返――。これはヒンドゥー教の原点にある教えです」 まずは住居の問題。IT関係の仕事に就いているので家賃の支払いは問題ない。ただ保証人がいないので、チャンドラニさんがその役目を負った。縁が人と人とをつなげ、100人以上がチャンドラニさんを頼った。 さらに短期滞在のインド人が増えてくると、彼は水道光熱費込みで、1日3000円で泊まれるゲストハウスも作った。冷暖房、テレビ、その他家具も取り揃えた施設だ。 これで万全かと思いきや、次なる問題が浮かび上がってくる。それが一番の難問である食事だった。インド人にはベジタリアンが多く、どんな原材料が使われているかわからないので、日本のレストランに行くこともできない』、「2000年問題」で「企業はすでにIT大国となっていたインドから大量の人材を迎え、予測不能の事態に備えようとした。結果的に大きな混乱は起きなかったが、これを契機にインド人の流入が加速した。 だが、当時の日本には、まだインド人が暮らしやすい環境が整っていなかった。チャンドラニさんはかつて自分がそうであったように、日本で暮らす難しさを痛いほど知っていた。だからこそ、困る同胞を無視することなどできなかった・・・自分が受けたものを別の形で他者に返――。これはヒンドゥー教の原点にある教えです」 まずは住居の問題。IT関係の仕事に就いているので家賃の支払いは問題ない。ただ保証人がいないので、チャンドラニさんがその役目を負った。縁が人と人とをつなげ、100人以上がチャンドラニさんを頼った。 さらに短期滞在のインド人が増えてくると、彼は水道光熱費込みで、1日3000円で泊まれるゲストハウスも作った。冷暖房、テレビ、その他家具も取り揃えた施設だ。 これで万全かと思いきや、次なる問題が浮かび上がってくる。それが一番の難問である食事だった。インド人にはベジタリアンが多く、どんな原材料が使われているかわからないので、日本のレストランに行くこともできない」、必要に応じて商売の範囲を着実に広げていったようだ。
・『私財もなげうった  さらに、家父長制が根強いインドでは食事は妻や母親が作っているので、男性には自炊の習慣がない。バナナ1本で日々を凌ぐなど、「お金はあるのに食べられない」という状況に多くのインド人が苦しんでいた。 「そこで彼らのためにボランティアの食堂をつくることにしました。そのためにインドから2人の料理人も呼んだ。在日インド人専用で、一食700円で自由に食べに来られる場所にしました。料理人の2人がスーパーに行って食材を買い、毎日違うメニューで家庭料理を提供するようにした。食事に関してはインドと同じ環境を作れば、心も安らぐだろうと思ったのです。 心の拠り所にもなりますし、ネットワーク作りにも役立ちました。経済的に大変でしたが、それ以上にみんなが喜んでいる姿を見られて嬉しかったですね」 2000年問題が過ぎた後も、インド人のITスキルを重宝した企業はそのまま彼らを正規雇用で迎えた。これまでは短期滞在が大半だったが、本格的に西葛西に根を下ろす人も増えてきた。 すると、彼らは本国から妻や家族を呼び寄せて生活を始める。自宅で食事が取れるようになったので、チャンドラニさんは若い夫婦のためにインド食材店をオープン。 さらに、家で時間を持て余す女性がインドの番組を見られるように香港からブロードバンド回線も買い取って視聴環境を整えた。 ほとんど持ち出しのお金で同胞のために尽くしてきたチャンドラニさんだが、次なる問題も起きた。それは育児環境。インドでは家族や隣人が手伝ってくれるのが当たり前だったが、日本では妻一人だけだ。疲労のあまりノイローゼになる人もいたという。 「ゲストハウスの一部を託児所に変え、日本で言う保育園を開設したのです。教師経験のあるインド人女性を雇い、遊具も設置しました。 いまはもう別の方に運営は譲りましたが、規模を拡大した現在では1200人ものインド人がこの施設で働き、学んでいます」 西葛西でかつて暮らしていたインド人の子どもたちは海外の大学を出て米国や英国の一流IT企業に勤める人も少なくない。それでも彼らにとっての「心のふるさと」は西葛西にある。休暇中に帰ってくると、地域住民は「おかえり」と暖かく迎え入れる。 「大人になった彼らはもちろん、京都や広島の観光地に遊びに行く。だけど、『やっぱり西葛西がいい』って言うんですよ。昔遊んだ公園、母親と買い物に行ったスーパーなどに行き、長い間、離れていたのに『昨日の続きのようだ』って笑顔を見せる。 かつては同じインド人のために活動してきましたが、いまはこの西葛西を日本人とインド人だけではなく、どんな国籍の人でも暮らしやすい街にしていきたいですね」 チャンドラニさんが作り上げたリトル・インディアには、かつての日本にあった「地域社会の繋がり」が強く残されていた』、「企業はすでにIT大国となっていたインドから大量の人材を迎え、予測不能の事態に備えようとした。結果的に大きな混乱は起きなかったが、これを契機にインド人の流入が加速した。 だが、当時の日本には、まだインド人が暮らしやすい環境が整っていなかった。チャンドラニさんはかつて自分がそうであったように、日本で暮らす難しさを痛いほど知っていた。だからこそ、困る同胞を無視することなどできなかった。 「人は家族や友人、社会から施してもらってはじめて生きていくことができる。自分が受けたものを別の形で他者に返――。これはヒンドゥー教の原点にある教えです」 まずは住居の問題。IT関係の仕事に就いているので家賃の支払いは問題ない。ただ保証人がいないので、チャンドラニさんがその役目を負った。縁が人と人とをつなげ、100人以上がチャンドラニさんを頼った。 さらに短期滞在のインド人が増えてくると、彼は水道光熱費込みで、1日3000円で泊まれるゲストハウスも作った。冷暖房、テレビ、その他家具も取り揃えた施設だ。 これで万全かと思いきや、次なる問題が浮かび上がってくる。それが一番の難問である食事だった。インド人にはベジタリアンが多く、どんな原材料が使われているかわからないので、日本のレストランに行くこともできない・・・「ゲストハウスの一部を託児所に変え、日本で言う保育園を開設したのです。教師経験のあるインド人女性を雇い、遊具も設置しました。 いまはもう別の方に運営は譲りましたが、規模を拡大した現在では1200人ものインド人がこの施設で働き、学んでいます・・・西葛西でかつて暮らしていたインド人の子どもたちは海外の大学を出て米国や英国の一流IT企業に勤める人も少なくない。それでも彼らにとっての「心のふるさと」は西葛西にある。休暇中に帰ってくると、地域住民は「おかえり」と暖かく迎え入れる・・・チャンドラニさんが作り上げたリトル・インディアには、かつての日本にあった「地域社会の繋がり」が強く残されていた」、「リトル・インディア」はすっかり日本に定着したようだ。「チャンドラニ」氏が必要に応じて商売の範囲を拡大していった姿は見事という他ない。
タグ:タウン情報・街並み 。両親はほとんど荷物も持たずにジョードプルという街に避難しました。私の家族は運よく飛行機で移動できましたが、船や汽車で移動した人たちの多くはその道中で殺されました。逃げるとき、母が服に縫い付けていた貴金属を換金し、私たちはジョードプルから、さらにコルカタに移動して何とか新たな生活を始めました・・・ 「チャンドラニ」氏が必要に応じて商売の範囲を拡大していった姿は見事という他ない。 「リトル・インディア」はすっかり日本に定着したようだ。「チャンドラニ」氏が必要に応じて商売の範囲を拡大していった姿は見事だ。 いまはもう別の方に運営は譲りましたが、規模を拡大した現在では1200人ものインド人がこの施設で働き、学んでいます・・・西葛西でかつて暮らしていたインド人の子どもたちは海外の大学を出て米国や英国の一流IT企業に勤める人も少なくない。それでも彼らにとっての「心のふるさと」は西葛西にある。休暇中に帰ってくると、地域住民は「おかえり」と暖かく迎え入れる・・・チャンドラニさんが作り上げたリトル・インディアには、かつての日本にあった「地域社会の繋がり」が強く残されていた」、 さらに短期滞在のインド人が増えてくると、彼は水道光熱費込みで、1日3000円で泊まれるゲストハウスも作った。冷暖房、テレビ、その他家具も取り揃えた施設だ。 これで万全かと思いきや、次なる問題が浮かび上がってくる。それが一番の難問である食事だった。インド人にはベジタリアンが多く、どんな原材料が使われているかわからないので、日本のレストランに行くこともできない・・・「ゲストハウスの一部を託児所に変え、日本で言う保育園を開設したのです。教師経験のあるインド人女性を雇い、遊具も設置しました。 「人は家族や友人、社会から施してもらってはじめて生きていくことができる。自分が受けたものを別の形で他者に返――。これはヒンドゥー教の原点にある教えです」 まずは住居の問題。IT関係の仕事に就いているので家賃の支払いは問題ない。ただ保証人がいないので、チャンドラニさんがその役目を負った。縁が人と人とをつなげ、100人以上がチャンドラニさんを頼った。 「企業はすでにIT大国となっていたインドから大量の人材を迎え、予測不能の事態に備えようとした。結果的に大きな混乱は起きなかったが、これを契機にインド人の流入が加速した。 だが、当時の日本には、まだインド人が暮らしやすい環境が整っていなかった。チャンドラニさんはかつて自分がそうであったように、日本で暮らす難しさを痛いほど知っていた。だからこそ、困る同胞を無視することなどできなかった。 これで万全かと思いきや、次なる問題が浮かび上がってくる。それが一番の難問である食事だった。インド人にはベジタリアンが多く、どんな原材料が使われているかわからないので、日本のレストランに行くこともできない」、必要に応じて商売の範囲を着実に広げていったようだ。 自分が受けたものを別の形で他者に返――。これはヒンドゥー教の原点にある教えです」 まずは住居の問題。IT関係の仕事に就いているので家賃の支払いは問題ない。ただ保証人がいないので、チャンドラニさんがその役目を負った。縁が人と人とをつなげ、100人以上がチャンドラニさんを頼った。 さらに短期滞在のインド人が増えてくると、彼は水道光熱費込みで、1日3000円で泊まれるゲストハウスも作った。冷暖房、テレビ、その他家具も取り揃えた施設だ。 「2000年問題」で「企業はすでにIT大国となっていたインドから大量の人材を迎え、予測不能の事態に備えようとした。結果的に大きな混乱は起きなかったが、これを契機にインド人の流入が加速した。 だが、当時の日本には、まだインド人が暮らしやすい環境が整っていなかった。チャンドラニさんはかつて自分がそうであったように、日本で暮らす難しさを痛いほど知っていた。だからこそ、困る同胞を無視することなどできなかった・・・ 「非漢字圏」なので「独学で日本語を身に着けた」とは大したものだ。「顧客」「獲得」にはきっと大変な苦労があったのだろう。 現代ビジネス「食堂、住居、テレビ、さらに学校まで…西葛西で暮らすインド人を無償でサポート…「リトル・インディアの父」が語った「壮絶過去」」 いま思えば、これが運命の分かれ目だったのでしょうね」 当初は精密部品などの買い付けが目的で、短期滞在の予定だった。しかし、20代だったチャンドラニさんは血気盛んで、自分の力でビジネスを成功させたい、という気持ちが大きくなっていった。 そこで目を付けたのが、インドの紅茶の輸入販売だ。ただ、そこには言語の壁が立ちはだかる。買い付けだけだったら英語で事足りるが、日本人を相手に商売するとなるとそうはいかない」、どうやって「日本」での「商売」を軌道に乗せたのだろう。 たものだ。 現代ビジネス「【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」」 「メイドカフェ5店舗」が「ぼったくりや風営法に違反」で「摘発」とは残念だ。 「多くのインド人がこの街に居住する理由は3つある。 1つは西葛西周辺に貿易の拠点となる港や湾岸が点在しており、大きな貸倉庫があること。 2つめはビジネスの中心地である大手町や日本橋へ乗り換えなしで行くことのできる交通の利便性だ。 そして最も大きいのが3つめ――ある一人のインド人の功績だ」、「3つめ」の「ある一人のインド人の功績」とはどういうことなのだろう。「西葛西ではインド人による犯罪はほとんど起きていない。それも、この「リトル・インディア」の父を中心に強固なコミュニティが築かれているからだという」、大し 日刊SPA!「「オタクに優しい秋葉原」はもうない…ぼったくりで稼ぐ“心の荒んだメイド”が増加したワケ」 「ターゲットをサラリーマンから外国人観光客と地方から来る客に替えたみたい」、「8000円ほどのシャンパンを頼まないとキャストと話せなかったり、無断でキャストがドリンクを飲みまくったりして、最後に4万~5万円を請求されます」、昔の素朴な「メイド」喫茶が懐かしい。 「「私の一族はもともと、インド西部のカラチ(現在はパキスタン領)に住んでいました。父はエンジニアでありながら貿易商もしており、音響機器の輸入販売で生計を立てていました。映画館も5つ所有しており、比較的裕福な家庭だったと記憶しています。 しかし、'40年代後半にインドで独立紛争があって、ヒンドゥー教徒の多くが故郷を追われました。暴力を振るわれたり、家を潰されたり、中には殺されたりしてしまう人もいた。 「今メイドカフェやコンカフェで働いている女のコたちの中には歌舞伎町のホストクラブで夜な夜な遊んでいるコもたくさんいます・・・キャストの女性たちも遊ぶカネ欲しさからぼったくりをしているのだ。 秋葉原では心の荒んだメイドに注意が必要だ」、その通りだ。 「私も大学院卒業後、父親の貿易会社に就職しました。転機が訪れたのは、ビジネスチャンスを求めてニューヨークへ向かう準備をしていたときのこと。関西で繊維業を営んでいた従兄弟から『日本のほうがチャンスがある』と言われたのです。当時は1ドル360円の時代。日本製の繊維、精密部品は品質が高く、人気が高かった。私は急遽、行き先を変えて貿易の仕事を東京で始めることにしました。 「ストライプの入ったスーツに身を包んだインド人男性が奥の事務所から現れた。身長は170cm後半、顎には長い白ひげをたくわえており、威厳に満ちた風格だ・・・いかにも日本的な所作に面食らいながら名刺を見ると、「ジャグモハン・チャンドラニ」、なるほど。 「西葛西は日本でも屈指のインド人居住者の多い街であり、「リトル・インディア」とも呼ばれる。この街に暮らすインド人は3000人を超える。これは日本在留者の1割の人口だ」、ずいぶん多くの「インド人」が集中したものだ。 「「日本がヤバい!」と言われ始めてしばらくたつが、本当にヤバくなってきた」、どういうことなのだろう。 (その1)(「オタクに優しい秋葉原」はもうない…ぼったくりで稼ぐ“心の荒んだメイド”が増加したワケ、【ルポ】たった一人の男が…東京都西葛西が「インド人の街」になるまでの「驚きの理由」、食堂 住居 テレビさらに学校まで…西葛西で暮らすインド人を無償でサポート…「リトル・インディアの父」が語った「壮絶過去」)
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