異次元緩和政策(その43)(植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは、「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ) [経済政策]
異次元緩和政策については、本年2月23日に取上げた。今日は、(その43)(植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは、「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ)である。
は、4月3日付けデイリー新潮が掲載したジャーナリスト・帝京大学教授の軽部謙介氏による「植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04030558/?all=1
・『10年にも及んだ異次元緩和を主導した黒田東彦日銀総裁に代わり、新たに中央銀行を統べるは経済学者の植田和男氏(71)。難題山積の中、異例の学者総裁にかじ取りを任せるのはなぜか。日銀、財務省、そして官邸の間で繰り広げられた「権力の興亡」、その内幕に迫る。 10年ぶりに日本銀行の総裁が交代する。4月以降は、総裁・植田和男(東大名誉教授)、副総裁・氷見野良三(前金融庁長官)、同・内田眞一(日銀理事)という体制に金融政策のかじ取りが委ねられるが、人選の過程を検証していくと「日本の権力構造」に潜む問題点が浮き上がってくる。そしてそれは、日銀総裁とは、誰が、どのように、何を基準にして選ぶべきなのかという問いにつながっていく』、興味深そうだ。
・『雨宮の言い分 元首相の安倍晋三が撃たれた2022年の夏も終わろうとしていた。 財務省の有力OB二人と日銀副総裁の雨宮正佳が都内の鮨屋でネタをつまみながら杯を交わしていた。アルコールがダメな雨宮も旧知の顔ぶれを相手に、よもやま話に花を咲かせた。 佳境に入り黒田東彦(はるひこ)・日銀総裁の後任人事に話が及んだ。このとき、後継の最有力候補といわれていた雨宮は二人にこういう趣旨の話をした。 新総裁は、黒田体制の10年だけでなく1998年の新日銀法施行以降の「非伝統的」と呼ばれた金融政策全般を対象に点検・検証するべきだ。しかし、自分はそれを主宰する任にはふさわしくない。なぜならその大半に関与しているからだ――。 確かに、雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった』、「雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった」、実に巧みな拒否理由だ。
・『各国の中央銀行総裁の多くは学者 もう一つ、雨宮が強調したポイントがあった。それは「学者の起用に道を開く」ということだ。副総裁就任後、各国の中央銀行総裁が集まる会合に代理出席する機会も多くなった雨宮は、トップたちが部下の助けも借りずに難解なテーマを自分たちの言葉で議論している現場を目の当たりにしてきた。 彼らの多くは経済学の博士号を取得している。ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ(元米連邦準備制度理事会=FRB=議長)、ジャネット・イエレン(前FRB議長)、スタンレー・フィッシャー(元イスラエル中銀総裁)、ラグラム・ラジャン(元インド中銀総裁)らは世界的に名の通った学者でもある。中国や韓国でも中銀のトップは学者が務めている。 しかも、中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている。問題は日本がそのコミュニティーに入っていけるかだ。経済・金融理論に対する深い知識や語学力など、日銀総裁には従来と異なる資質も求められる。 「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」 雨宮はこう言っていた』、「中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている」、「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」、さすが説得力に富んだ主張だ。ただ、欧州の中央銀行総裁は中央銀行実務家が多いようだ。
・『雨宮の真意 財務省は日銀の所管官庁として総裁選びにも深く関与する。実は先のOBだけでなく、このころ日銀人事を準備する過程で雨宮と接触した現役官僚も同じ趣旨の話を聞かされていた。 財務省の関係者たちには意外な感じがした。日銀総裁レースの大本命は雨宮だ。望んでもなれないそのポストは、1979年の入行以来日銀一筋で生きてきたこの男にとっても悲願のはず。「本当はやりたいと思っているが、最初は「自分には無理だ」などと言って一歩下がる常識的な対応」という見方も強かった。 雨宮の言っていることは本心なのだろうか。それとも一種の目くらまし戦術なのか――。 財務省は最後まで雨宮の真意を測りかねた。 そもそも彼らは今回の人事をこう位置付けていた。 「うちの番ではない」 この意味は歴代総裁の出自をたどればよくわかる。財務省が大蔵省だった時代から、日銀・財務の出身者が中央銀行トップの座をほぼ独占しており、両者が交代で就任するたすき掛け人事、いわゆる「交代ルール」が暗黙の了解だったのだ(掲載の表参照)。今回は財務省出身の黒田が2期10年務めた後で、「日銀の番」となるのが順当だった』、「雨宮氏は金融政策の裏も知り尽くしているだけに、黒田総裁の後任の職務の難しさを理解出来、自分がそんなババを引くのはご免被りたいと思っているのではあるまいか。
・『交代ルールを外れた人事 それでも、この役所は早くから正副総裁についていくつかの組み合わせを想定していた。最有力とみられたのは雨宮を頂点とし、副総裁の一人に財務省関係者、もう一人を学者にする案だ。 副総裁候補には財務官経験者ら何人かの名前が挙がった。しかし、ここで年次が問題になる。雨宮は79年の日銀入行。入省年次が同期もしくはそれよりも上の場合は対象から外された。そこで浮上してきたのが氷見野だった。金融庁長官を務めたが、もともとは83年の大蔵省入省だ。氷見野の副総裁就任は、財務省が「雨宮総裁」を予想していたことの裏返しだったわけだ。 そして、もう一人の学者としては、雨宮より年齢が上の植田ではなく、日銀出身の東大教授である渡辺努などの名前が挙がっていた。 しかし、結果的に総裁に選ばれたのは、交代ルールを外れるばかりか、21代宇佐美洵(まこと)以来、戦後2人目となる「民間」出身者の植田だった。 関係者によると、雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。 そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく。最終的に正副総裁三人の人選が固まったのは年末から年始にかけてだったといわれる』、「雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。 そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく」、なるほど。
・『知らされなかった財務省 しかし、財務省は最後までこの人選を知らされなかった。彼らが「植田総裁」という情報を得たのは、メディアで一斉に報じられた2月10日の数日前だったのだという。過去に日銀を従えて総裁の人選に深く関与してきた財務省は「死んだふり」をしているのか。それとも本当に死んでしまったのかは判然としない。 財務省・日銀出身者の交代ルールが崩れたことに加えて、今回の総裁人事にはもう一つ特徴があった。それは2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化だ。 後述する98年の新日銀法施行以前も、以降も、総裁選びは所管官庁である財務省(以前は大蔵省)と日銀が官邸とあうんの呼吸で詰めていくのが流儀だった。この二つの組織が交代ルールを参考にしながら有力として推す候補者に決着できるよう根回しも万全だった』、「2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化」、とすれば「財務省が知らされなかった」のはある意味当然かも知れない。
・『特定の金融政策を実施するために選ばれた総裁 しかし、10年前このプロセスは大きく変化した。12年12月の総選挙に勝利し政権に復帰した安倍は「大胆な金融政策」を柱とする経済政策、「アベノミクス」を掲げていた。そのため、13年4月に迫っていた日銀総裁人事は政権の行方を占う上でも間違いの許されない非常に重要な政治イベントになっていた。 前任の白川方明が日銀出身だったため、交代ルールに従えば自分たちの番だったこともあり、財務省は08年の総裁レースで国会承認の獲得に失敗した次官OBの武藤敏郎を強く推していた。しかし、安倍は彼らの意向を無視。財務省本流とは異なり「デフレは貨幣的現象なので金融政策だけで対処できる」とリフレ派的な主張を繰り返した黒田を最有力候補として位置付け、総裁就任を要請した。 この行為は政治家による内閣人事権を行使した「一本釣り」ともいえる。しかも、リフレであれ何であれ、特定の金融政策を実施するために総裁が決められるのは初めてだった。 安倍はさらに、日銀と財務省が予定調和的に決めていた副総裁や審議委員の人事も政治的に利用。黒田の補佐役として「リフレ派の教祖」と言われた学習院大学教授の岩田規久男を副総裁に抜てきしただけではなく、その後も若田部昌澄、原田泰、片岡剛士らリフレ派の面々を副総裁や審議委員に起用することで日銀をコントロールしようと試みた。 「内閣人事権の活用と政策を結び付けろ」と提唱していたのは21年11月に86歳で亡くなった中原伸之だ。東燃の社長を務め日銀の審議委員も経験した中原は財界応援団を組織し安倍をサポートしていたが、第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていたのだという』、「中原伸之」氏が「第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていた」とは、初めて知った。
・『政治任用の意図 日銀・財務から推薦を受けた候補を粛々と指名していくという過去のやり方ではないという意味で、今回の植田総裁誕生も岸田による政治任用といえる。ただ、安倍が「リフレ政策の実現」という特定の方向性を求めて黒田を指名したのとは異なり、岸田が何か政策的な意図を持っているのかははっきりとしない。 人事の決め方は98年施行の新日銀法で「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」(23条)と規定されたが、政治任用の可能性を残すこの内閣人事権は当初甘く見られていた。 96年の夏。日銀の幹部たちは連日朝早く日本橋本石町の本店会議室に招集された。「夏合宿」と称されたこの会議は日銀法改正に向けて自らのポジションを固めるためのものだった。この時の日銀法(旧法)は、議院の同意を必要としない、文字通りの内閣人事権はもちろん、「総裁の解任権」や「一般的な業務指揮権」などが政府に認められており、日本の中央銀行は所在地をもじって「大蔵省本石町出張所」などと揶揄される組織だった。 「政府からの独立」はバブル崩壊後のさまざまな不祥事から始まった大蔵省改革の一環として議論されていた。ただ、実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない』、「日銀法」「実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない」、その通りだ。
・『「内閣には人事権があるのだから…」 合宿の場に企画局からこんなペーパーが提示された。 「政策の内容からいって独立性と中立性が要求され、他方で、任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール手段が確保されていれば、準備率の設定・変更・廃止についての権限を政策委員会が有することとしても、直ちに違憲というわけではない」(情報公開法で入手した96年7月10日付「日銀法改正の論点検討」) 民間金融機関は、受け入れている預金等のうち一定比率以上を日銀の当座預金に預けておかねばならず、この比率を準備率という。政策委員とは正副総裁を含めた審議委員のことだ。 当時、準備率の変更には大蔵大臣の認可が必要だった。準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ。 「中央銀行に完全な独立性などあり得ない」という主張も強い中、日銀は「人事権よりも金融政策を含む一般的な業務での独立性を獲得する方が大事」と考えていたので、こんな主張をしていたのだ。しかも陰りが見え始めたとはいえ、当時官僚の力はまだ強く、総裁人事にも大きな影響力を持っていた。まさか、財務・日銀の交代ルールまでほごにされ、挙句、政治任用で総裁が決まる日が来るなどとは思っていなかっただろう』、「準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ」、なるほど。
・『総裁にふさわしいか それから四半世紀経った2022年。夏の終わりに財務省OBに披瀝した問題意識を、雨宮は各方面に広く伝えていた。そしてそれは、結果的に、これまで財務・日銀に支配されていた「総裁選び」の構造に真正面から挑むものになった。特に財務省だ。 政治任用だった黒田を除き、総裁を務めた大蔵省出身者は全員が事務次官経験者だ。このポストは昔、「大蔵次官にとっての天下り先ナンバーワン」と言われたように事務次官経験者の中でも最も格が高いという位置付けだった。 次官に上り詰める財務官僚は主計局長からの昇格が大半を占める。主計局長になるには、多くの場合、局内で課長や主計官のポストを歴任する。財政を担当するセクションは政治との折衝に忙殺される。 しかし、大物といわれる次官OBだとしても、そのような経歴が日銀総裁にふさわしいかは別問題というのが岸田や雨宮の考え方のようだ。特にグローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す。雨宮は周辺にこう漏らしたことがある。 「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」』、「グローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す」ので、「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」、その通りだ。
・『もし経済運営に失敗すれば… 日銀総裁人事をめぐるうごめきは収束した。これからはYCCをどのように「手じまい」するのか、異次元緩和の出口をどのように潜(くぐ)るのか、さまざまな副作用にどう対処するのかなど、当面の課題処理に焦点が移る。 岸田や雨宮の意図がどこにあれ、結果的に2代続けて日銀総裁が政治任用となったことは、戦後続いてきた旧態依然たる交代ルールに終止符が打たれたことを意味する。財務次官経験者だからといって安易に総裁になれる時代ではないことも明確になった。 しかし、もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう。マクロ政策の象徴的存在である日銀総裁の人事は、誰が、何を基準に決めるべきなのか――。 「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い』、「もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう」、「「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い」、その通りだ。
次に、4月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した「木内登英・野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト・元日銀審議委員インタビュー「「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ」を紹介しよう。これは有料記事だが、私の場合、今月は残り3本まで無料である。元日銀審議委員として、日銀内の議論に参加していただけあって、極めて有用な内容である。
https://diamond.jp/articles/-/320884
・『日銀自身が否定していた政策 追い詰められて導入の繰り返し Qは聞き手の質問、Aは木内氏の回答) Q:量的緩和策にしても物価目標にしても白川総裁時代には、日銀はその効果には否定的でした。黒田総裁時代になって、ご自身も含め考え方に変化はあったのですか。 A:民主党政権時代も含め、2000年ごろから円高やデフレへの対応で日銀と政府との間でずっと軋轢がありました。積極緩和を求める政府に対して、日銀が押し返す局面もあったものの、ゼロ金利解除や最初の量的緩和解除など、何かアクションをすると経済が悪化し、また批判を受けるという繰り返し。 追い詰められて結局、いまのイールドカーブ・コントロール(長短金利操作、YCC)での長期金利のコントロールを含め、できないと否定していたことを全部やらされることになったのです。 最後の一押しが、第2次安倍晋三政権誕生につながった2012年12月の総選挙での自民党の圧勝でした。 安倍氏はその直前の自民党総裁選から、物価目標導入や大胆な金融緩和を唱えていました。その時は日銀の執行部も政策員会も意に介さずという空気でしたが、総選挙後に開かれた12月の決定会合では空気が一変しました。 総裁をはじめ執行部は、物価目標はやらざるを得ないという判断でした。安倍首相から強い働きかけがあったようですし、日銀内にも、物価目標の公約を掲げたから自民党が勝ったわけではないにしても、なにがしかの民意が反映されているのならば、対応する必要があるのではという意識はありました。自分たちは国民の選挙で選ばれたわけではないという引け目もあるわけです。 さらにそれ以上に大きなプレッシャーになったのは、自民党内の一部から出ていた総裁の解任権をちらつかせた日銀法改正の脅しでした。 金融政策で政府と日銀が決裂することになれば、総裁の解任権が法律に盛り込まれ、日銀の独立性が決定的に制限されかねません。ぎりぎりの判断で物価目標導入に一転、向かったということです。 私自身も納得はしていなかったけれど、執行部への同情もあったし逃れられないという判断でした』、「自分たちは国民の選挙で選ばれたわけではないという引け目もあるわけです」、「大きなプレッシャーになったのは、自民党内の一部から出ていた総裁の解任権をちらつかせた日銀法改正の脅しでした。 金融政策で政府と日銀が決裂することになれば、総裁の解任権が法律に盛り込まれ、日銀の独立性が決定的に制限されかねません。ぎりぎりの判断で物価目標導入に一転、向かったということです」、ここまで「日銀法改正の脅し」があったとは初めて知った。
・『実績とかけ離れた2%物価目標 国債買い続け、懸念通りの結果に Q:13年1月の政策決定会合では物価目標に反対し、その後も、黒田総裁のもとでの緩和策拡大に反対の姿勢を貫いたのはなぜですか。 A:物価目標を盛り込んだ政府と日銀の共同声明についての日銀側の解釈は、政府も成長戦略や財政改革をやり、企業も頑張ることで実体経済が活性化し、物価の期待水準がいずれは2%に上がっていくと、そういう状況になった際は日銀も全力で支援するというものでした。 私も執行部の解釈は理解できましたが、潜在成長力や賃金が上がって2%が当たり前の水準になっていけばいいので、あえて数値目標を掲げる必要はないと考えたからです。それに2%は、当時やそれまでの日本の消費者物価上昇の実績とはあまりにかけ離れた数値でした。 ただそれでも当時は、目標実現はいつまでにという時期は特定していませんでした。ところが黒田総裁が13年4月に就任し、最初の決定会合で、声明文に「2年程度で実現」という文言を入れるということになったわけです。 そうなると、2%が完全に金融政策だけの目標になってしまいます。そして金融政策を物価目標にひもづけたままでは、ずっと国債を買って緩和を続けることになり、永遠に金融政策は正常化できなくなります。 それで4月の決定会合からは、物価目標を中長期の目標としたうえで、「集中対応期間」と位置づけて2年たって成果が出ない場合は見直すという独自提案を続けました。 とにかく、政策を柔軟に見直せるようにすべきだと思ったからです。 異次元緩和は短期的な政策としては受け入れられますが、いたずらに長く続けるものではありません。国債市場の機能低下や財政規律の緩みなどの弊害も大きいからですが、懸念した通りになりました』、「物価目標・・・についての日銀側の解釈は、政府も成長戦略や財政改革をやり、企業も頑張ることで実体経済が活性化し、物価の期待水準がいずれは2%に上がっていくと、そういう状況になった際は日銀も全力で支援するというもの」だったのに、「黒田総裁が13年4月に就任し、最初の決定会合で、声明文に「2年程度で実現」という文言を入れるということになったわけです。 そうなると、2%が完全に金融政策だけの目標になってしまいます。そして金融政策を物価目標にひもづけたままでは、ずっと国債を買って緩和を続けることになり、永遠に金融政策は正常化できなくなります」、ずいぶん日銀だけに偏った政策になったようだ。
・『YCCは緩和策でなかった 政治に配慮、政策転換明示できず Q:16年9月の「総括的検証」後はYCCを導入し、量から金利に操作目標を戻しました。この頃からは「緩和強化」や「緩和維持」を言いながら、国債買い入れを減らすなど、「緩和縮小」とも取れる措置もやり始めて、方向感が定まりませんでした。 黒田総裁が主導した「攻め」の金融政策は、16年1月のマイナス金利政策導入までで、その後は、日銀の事務方が主導する大規模緩和の副作用対策に重点が置かれてきたというのが、私の解釈です。 異次元緩和を始めて1年ほどの間は物価も上がりましたが、円安で輸入物価が上がったからです。最初から効果が見えていた政策ではなかったので、14年後半には私以外の審議委員の中にも「もう引くべきだ」という空気が出てきていました。 しかし黒田総裁は、14年10月の決定会合での緩和拡大、さらにマイナス金利導入と、その後、2回、緩和強化のボタンを押してしまうわけです。14年10月の決定会合では9人の審議委員のうち4人が反対し、マイナス金利導入の時も同様でした。 銀行業界の反発に加え、10年国債の金利だけでなく超長期の国債金利もマイナスになって、生保や年金の運用にも支障が出てきました。 そういうわけで、YCCは金融緩和政策ではなく、日銀の国債保有が膨大になったり、長期金利までがマイナスになりイールドカーブが低位でフラットになってしまった問題をなんとかしなければということで始まったダメージコントロールだったのです。 結局、YCC移行の時点から金融政策の主導権は日銀の事務方に移ったと思います。雨宮正佳前副総裁も日銀の中では相対的には緩和積極派でしたが、途中からはついていけないということになったのだと思います。 YCC移行後も、YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化しました。 最終的には長期金利の誘導目標の変動幅は決定会合で決めるということで厳格化は維持されましたが、代わりに変動幅を事実上拡大しプラスマイナス0,25%の変動幅を明確にすることを黒田総裁もしぶしぶ受け入れ、妥協が図られたようです。 その後、しばらく金利は上がらなかったのですが、昨年3月、米連邦準備制度理事会(FRB)がインフレ抑制でハイペースの利上げに転じて以降は、日本の市場でも上昇圧力が一気に強まり、YCCの限界と問題点が一気に露呈してしまいました。 結局、日銀の事務方主導の政策修正はありましたが、明示的な政策転換は行われませんでした。異次元緩和がアベノミクスの象徴のようになってきた中で、政治的な配慮もあったと思います。 すでに陣を引いているにもかかわらず、攻めているような姿勢をみせようとして市場の不信感を強め、市場とのコミュニケーションすら難しくなってしまっています』、「黒田総裁が主導した「攻め」の金融政策は、16年1月のマイナス金利政策導入までで、その後は、日銀の事務方が主導する大規模緩和の副作用対策に重点が置かれてきたというのが、私の解釈です」、「YCCは金融緩和政策ではなく、日銀の国債保有が膨大になったり、長期金利までがマイナスになりイールドカーブが低位でフラットになってしまった問題をなんとかしなければということで始まったダメージコントロールだったのです。 結局、YCC移行の時点から金融政策の主導権は日銀の事務方に移ったと思います。雨宮正佳前副総裁も日銀の中では相対的には緩和積極派でしたが、途中からはついていけないということになったのだと思います」、「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化しました。 最終的には長期金利の誘導目標の変動幅は決定会合で決めるということで厳格化は維持されましたが、代わりに変動幅を事実上拡大しプラスマイナス0,25%の変動幅を明確にすることを黒田総裁もしぶしぶ受け入れ、妥協が図られたようです」、なるほど。「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化」、初めて知った。
・『植田氏起用は黒田流へのアンチテーゼ 市場との対話、丁寧な説明を重視 Q:植田新総裁の下で、金融政策の運営や政治との関係での変化をどう予想していますか。 A:学者出身ということで論理性を重視するでしょうし、国会での所信聴取でご自身が話しているように、市場とコミュニケ―ションや国民への丁寧な説明を重視すると思います。この点では評価しています。 黒田総裁は、政策の効果や波及経路についてあまり精緻な説明はせず、サプライズ的な政策決定をしました。市場にせよ企業や家計も、政策がどういう経路を通じてどれくらいの時間軸で影響が及ぶかがわからないので、結局、日銀が狙ったインフレ期待を醸成する効果も起きませんでした。 黒田総裁の下でも金融政策の正常化に向けた修正は事実上は進められてきましたが、植田日銀でも異次元緩和策の問題点を是正し緩和策の枠組みの修正を進め、その際には丁寧な説明をするだろうと思います。 ただ黒田路線を一気に否定することはしないで、個別の政策について効果と副作用を分析し市場に混乱が起きないように時間をかけてやるでしょう。 もともと日銀の伝統的なアプローチは、政策変更の際には市場や金融機関への影響を配慮しながらするやり方でした。植田氏も同じアプローチで、金融政策は伝統的なやり方に戻るのだと思います。 岸田政権の植田氏の起用は、黒田総裁のやり方へのアンチテーゼがあったのではないでしょうか。人選のポイントも、ソフトランディングを前提に、黒田総裁よりは柔軟な人をというのが基準の一つだったと思います。 植田氏は審議委員をしていた2001年の量的緩和導入の際も、自身としては効果に疑問をもっていたが、決定会合では反対しませんでした。 いわば現実的、柔軟なところ、悪く言えば黒田総裁のような信念の人ではないということと、初めての学者出身で人選の斬新さをアピールできるということが選ばれた理由ではないでしょうか。 政治との関係を言えば、岸田政権とは良好な形でスタートすると思います。ただし旧安倍派など保守派には、アベノミクスの継承にこだわっている人もいますし、昨年末の防衛増税への反対を見ても、自民党内の派閥の対立の影響が政策運営に及ぶ構図は変わらないと思います』、「植田氏は審議委員をしていた2001年の量的緩和導入の際も、自身としては効果に疑問をもっていたが、決定会合では反対しませんでした。 いわば現実的、柔軟なところ、悪く言えば黒田総裁のような信念の人ではないということと、初めての学者出身で人選の斬新さをアピールできるということが選ばれた理由ではないでしょうか」、「現実的、柔軟」さが過ぎると、金融政策の軌道修正にブレーキがかかってしまうリスクもありそうだ。
・『YCCの修正はすぐに必要な課題 マイナス金利解除は24年半ば以降 Q:金融政策の正常化のスケジュール感や課題をどのように考えますか。 A:最終的には、マイナス金利政策とYCCはなくなり、国債やETFなどの資産買い入れ策もかなり変わると思います。ただ、経済や物価の情勢に応じて、少しずつ時間をかけてということになると思います。 当面の課題はYCCをどうするかです。国債の買い入れを減らすために導入したはずが、昨年後半以降は、YCCの長期金利を維持するために国債を猛烈に買うことになっています。 円安になり物価が上がってきて本来は金融を引き締めなければいけないのに、日銀がバランスシートを拡大することで緩和に向かわざるを得ないというのは矛盾です。YCCは大きな弱点を抱えています。 まずは変動幅の拡大や撤廃、長期金利の誘導水準の引き上げ、あるいは指し値オペの見直しという三つの選択肢の中で修正に動くのではないでしょうか。 指し値オペは、金利が多少上振れしても今までのように連日、実施はするというやり方ではなく、市場が予想できないタイミングで使うといった具合に柔軟で機動的なやり方に変えれば、国債の買い入れも少なくできます。 ただし正常化の最大の山場は、マイナス金利政策をやめる時です。 時期としては2024年半ば以降になると思いますが、その時に長期金利が跳ねる可能性があるので、そのリスクに備えるために、YCCは形骸化させるにしても、マイナス金利解除の際までは枠組みを残しておくのではないでしょうか。 スケジュール感を予想すれば、YCCの修正や物価目標の柔軟化といったソフトな修正、いわば政策運営方針の転換は今年中に行われると思います。 その後、経済の状況を見て、マイナス金利解除や緩和方針などハードの部分を転換し、さらにその後に日銀の保有国債の処理や買い入れたETFをオフバランス化していくという、大きく言えば3段階での手順になると思います。 保有国債やETFの処理は、市場へ影響を与えないように結局、国債は満期までは保有するだろうし、ETFについては、日銀が出資する受け皿機関を作って、そこに移して損が出ないように売却していく。株式市場次第ですが、処理には十数年はかかる長い道のりになるでしょう』、「YCCの修正や物価目標の柔軟化といったソフトな修正、いわば政策運営方針の転換は今年中に行われると思います。 その後、経済の状況を見て、マイナス金利解除や緩和方針などハードの部分を転換し、さらにその後に日銀の保有国債の処理や買い入れたETFをオフバランス化していくという、大きく言えば3段階での手順になると思います」、「保有国債やETFの処理は、市場へ影響を与えないように結局、国債は満期までは保有するだろうし、ETFについては、日銀が出資する受け皿機関を作って、そこに移して損が出ないように売却していく。株式市場次第ですが、処理には十数年はかかる長い道のりになるでしょう」、さすがにマーケットも熟知しているだけに、あり得そうなシナリオだ。
・『共同声明見直しはすぐにも着手? 金融不安、米経済次第で正常化後ずれ Q:米国では地方銀行の破綻や預金流出が続き欧米で金融不安がくすぶる状況です。FRBは、3月のFOMC(米連邦公開市場委員会)では0.25%の利上げを継続しましたが、正常化への影響をどう考えますか。 A:正常化が世界経済や米国の金融政策に左右される面は大きいと思います。 米国では大幅利上げが進んできましたが、金融不安から銀行が貸し出しに慎重になり、一方で利上げはまだやめないとなれば、クレジットクランチのようなことが重なるので、景気はかなり減速する懸念があります。 そうなると日本経済にはマイナスの影響が及ぶし、円高にもなりやすくなります。 FRBの利上げ打ち止め、さらには利下げということになるのかどうか、米経済の状況次第という面はありますが、利下げ観測が強まれば、植田日銀が思い浮かべている緩和の枠組みの修正は後にずれる可能性があります。 場合によっては、今年中はほぼ何もしないということになり、そうなれば、24年半ばからの金融政策の正常化スケジュールも遅れるでしょう。 ただし今までの金融政策の総括をするのと、政府との共同声明を見直して物価目標の位置づけを変えることは、政策修正とは別なので、新体制になって比較的、早いタイミングで着手できると思います。 安倍政権の共同声明は、日銀を積極緩和にコミットさせる狙いでしたが、結局、金融政策を縛ってしまいました。円安になっても日銀は動きが取れず、一方で政府は輸入価格高騰による物価対策をしなければならないという矛盾が起きてしまったわけです。 (木内登英氏の略歴はリンク先参照) 岸田政権としては、そこは政権の責任もあるということで、柔軟なものにして日銀を縛りから解こうということだと思います。日銀もいずれ政策転換をしようとする際には物価目標の見直しが必要です。 共同声明当時の日銀側の解釈であれば、2%は中長期の目標だと位置づけることはできます。本来なら日銀だけで物価目標の再定義をすればいい話ですが、政府が共同声明を見直すというのなら、そういう形で変えるということになるのではないでしょうか。 ただ見直しに着手はしても、自民党内との調整もあるので、まとまるタイミングは不明で、今年後半になるのかもしれません。 一方で、今までの政策の総括はやらない可能性があります。どうしても異次元緩和の問題点をあげつらうことになり、例えばマイナス金利政策なども問題点が大きいということになれば、早く撤廃をと、市場などに催促される形になって無用な混乱を生みかねないからです。 内外の経済情勢や市場の動きを見ながら、個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います』、「FRBの利上げ打ち止め、さらには利下げということになるのかどうか、米経済の状況次第という面はありますが、利下げ観測が強まれば、植田日銀が思い浮かべている緩和の枠組みの修正は後にずれる可能性があります。 場合によっては、今年中はほぼ何もしないということになり、そうなれば、24年半ばからの金融政策の正常化スケジュールも遅れるでしょう」、「ただし今までの金融政策の総括をするのと、政府との共同声明を見直して物価目標の位置づけを変えることは、政策修正とは別なので、新体制になって比較的、早いタイミングで着手できると思います」、「安倍政権の共同声明は、日銀を積極緩和にコミットさせる狙いでしたが、結局、金融政策を縛ってしまいました。円安になっても日銀は動きが取れず、一方で政府は輸入価格高騰による物価対策をしなければならないという矛盾が起きてしまった」、「一方で、今までの政策の総括はやらない可能性があります。どうしても異次元緩和の問題点をあげつらうことになり、例えばマイナス金利政策なども問題点が大きいということになれば、早く撤廃をと、市場などに催促される形になって無用な混乱を生みかねないからです。 内外の経済情勢や市場の動きを見ながら、個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、確かに「総括」にはそうしたリスクがあるので、「個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、極めて現実的だ。さあ、新相殺のお手並み拝見!
は、4月3日付けデイリー新潮が掲載したジャーナリスト・帝京大学教授の軽部謙介氏による「植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04030558/?all=1
・『10年にも及んだ異次元緩和を主導した黒田東彦日銀総裁に代わり、新たに中央銀行を統べるは経済学者の植田和男氏(71)。難題山積の中、異例の学者総裁にかじ取りを任せるのはなぜか。日銀、財務省、そして官邸の間で繰り広げられた「権力の興亡」、その内幕に迫る。 10年ぶりに日本銀行の総裁が交代する。4月以降は、総裁・植田和男(東大名誉教授)、副総裁・氷見野良三(前金融庁長官)、同・内田眞一(日銀理事)という体制に金融政策のかじ取りが委ねられるが、人選の過程を検証していくと「日本の権力構造」に潜む問題点が浮き上がってくる。そしてそれは、日銀総裁とは、誰が、どのように、何を基準にして選ぶべきなのかという問いにつながっていく』、興味深そうだ。
・『雨宮の言い分 元首相の安倍晋三が撃たれた2022年の夏も終わろうとしていた。 財務省の有力OB二人と日銀副総裁の雨宮正佳が都内の鮨屋でネタをつまみながら杯を交わしていた。アルコールがダメな雨宮も旧知の顔ぶれを相手に、よもやま話に花を咲かせた。 佳境に入り黒田東彦(はるひこ)・日銀総裁の後任人事に話が及んだ。このとき、後継の最有力候補といわれていた雨宮は二人にこういう趣旨の話をした。 新総裁は、黒田体制の10年だけでなく1998年の新日銀法施行以降の「非伝統的」と呼ばれた金融政策全般を対象に点検・検証するべきだ。しかし、自分はそれを主宰する任にはふさわしくない。なぜならその大半に関与しているからだ――。 確かに、雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった』、「雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった」、実に巧みな拒否理由だ。
・『各国の中央銀行総裁の多くは学者 もう一つ、雨宮が強調したポイントがあった。それは「学者の起用に道を開く」ということだ。副総裁就任後、各国の中央銀行総裁が集まる会合に代理出席する機会も多くなった雨宮は、トップたちが部下の助けも借りずに難解なテーマを自分たちの言葉で議論している現場を目の当たりにしてきた。 彼らの多くは経済学の博士号を取得している。ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ(元米連邦準備制度理事会=FRB=議長)、ジャネット・イエレン(前FRB議長)、スタンレー・フィッシャー(元イスラエル中銀総裁)、ラグラム・ラジャン(元インド中銀総裁)らは世界的に名の通った学者でもある。中国や韓国でも中銀のトップは学者が務めている。 しかも、中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている。問題は日本がそのコミュニティーに入っていけるかだ。経済・金融理論に対する深い知識や語学力など、日銀総裁には従来と異なる資質も求められる。 「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」 雨宮はこう言っていた』、「中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている」、「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」、さすが説得力に富んだ主張だ。ただ、欧州の中央銀行総裁は中央銀行実務家が多いようだ。
・『雨宮の真意 財務省は日銀の所管官庁として総裁選びにも深く関与する。実は先のOBだけでなく、このころ日銀人事を準備する過程で雨宮と接触した現役官僚も同じ趣旨の話を聞かされていた。 財務省の関係者たちには意外な感じがした。日銀総裁レースの大本命は雨宮だ。望んでもなれないそのポストは、1979年の入行以来日銀一筋で生きてきたこの男にとっても悲願のはず。「本当はやりたいと思っているが、最初は「自分には無理だ」などと言って一歩下がる常識的な対応」という見方も強かった。 雨宮の言っていることは本心なのだろうか。それとも一種の目くらまし戦術なのか――。 財務省は最後まで雨宮の真意を測りかねた。 そもそも彼らは今回の人事をこう位置付けていた。 「うちの番ではない」 この意味は歴代総裁の出自をたどればよくわかる。財務省が大蔵省だった時代から、日銀・財務の出身者が中央銀行トップの座をほぼ独占しており、両者が交代で就任するたすき掛け人事、いわゆる「交代ルール」が暗黙の了解だったのだ(掲載の表参照)。今回は財務省出身の黒田が2期10年務めた後で、「日銀の番」となるのが順当だった』、「雨宮氏は金融政策の裏も知り尽くしているだけに、黒田総裁の後任の職務の難しさを理解出来、自分がそんなババを引くのはご免被りたいと思っているのではあるまいか。
・『交代ルールを外れた人事 それでも、この役所は早くから正副総裁についていくつかの組み合わせを想定していた。最有力とみられたのは雨宮を頂点とし、副総裁の一人に財務省関係者、もう一人を学者にする案だ。 副総裁候補には財務官経験者ら何人かの名前が挙がった。しかし、ここで年次が問題になる。雨宮は79年の日銀入行。入省年次が同期もしくはそれよりも上の場合は対象から外された。そこで浮上してきたのが氷見野だった。金融庁長官を務めたが、もともとは83年の大蔵省入省だ。氷見野の副総裁就任は、財務省が「雨宮総裁」を予想していたことの裏返しだったわけだ。 そして、もう一人の学者としては、雨宮より年齢が上の植田ではなく、日銀出身の東大教授である渡辺努などの名前が挙がっていた。 しかし、結果的に総裁に選ばれたのは、交代ルールを外れるばかりか、21代宇佐美洵(まこと)以来、戦後2人目となる「民間」出身者の植田だった。 関係者によると、雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。 そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく。最終的に正副総裁三人の人選が固まったのは年末から年始にかけてだったといわれる』、「雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。 そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく」、なるほど。
・『知らされなかった財務省 しかし、財務省は最後までこの人選を知らされなかった。彼らが「植田総裁」という情報を得たのは、メディアで一斉に報じられた2月10日の数日前だったのだという。過去に日銀を従えて総裁の人選に深く関与してきた財務省は「死んだふり」をしているのか。それとも本当に死んでしまったのかは判然としない。 財務省・日銀出身者の交代ルールが崩れたことに加えて、今回の総裁人事にはもう一つ特徴があった。それは2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化だ。 後述する98年の新日銀法施行以前も、以降も、総裁選びは所管官庁である財務省(以前は大蔵省)と日銀が官邸とあうんの呼吸で詰めていくのが流儀だった。この二つの組織が交代ルールを参考にしながら有力として推す候補者に決着できるよう根回しも万全だった』、「2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化」、とすれば「財務省が知らされなかった」のはある意味当然かも知れない。
・『特定の金融政策を実施するために選ばれた総裁 しかし、10年前このプロセスは大きく変化した。12年12月の総選挙に勝利し政権に復帰した安倍は「大胆な金融政策」を柱とする経済政策、「アベノミクス」を掲げていた。そのため、13年4月に迫っていた日銀総裁人事は政権の行方を占う上でも間違いの許されない非常に重要な政治イベントになっていた。 前任の白川方明が日銀出身だったため、交代ルールに従えば自分たちの番だったこともあり、財務省は08年の総裁レースで国会承認の獲得に失敗した次官OBの武藤敏郎を強く推していた。しかし、安倍は彼らの意向を無視。財務省本流とは異なり「デフレは貨幣的現象なので金融政策だけで対処できる」とリフレ派的な主張を繰り返した黒田を最有力候補として位置付け、総裁就任を要請した。 この行為は政治家による内閣人事権を行使した「一本釣り」ともいえる。しかも、リフレであれ何であれ、特定の金融政策を実施するために総裁が決められるのは初めてだった。 安倍はさらに、日銀と財務省が予定調和的に決めていた副総裁や審議委員の人事も政治的に利用。黒田の補佐役として「リフレ派の教祖」と言われた学習院大学教授の岩田規久男を副総裁に抜てきしただけではなく、その後も若田部昌澄、原田泰、片岡剛士らリフレ派の面々を副総裁や審議委員に起用することで日銀をコントロールしようと試みた。 「内閣人事権の活用と政策を結び付けろ」と提唱していたのは21年11月に86歳で亡くなった中原伸之だ。東燃の社長を務め日銀の審議委員も経験した中原は財界応援団を組織し安倍をサポートしていたが、第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていたのだという』、「中原伸之」氏が「第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていた」とは、初めて知った。
・『政治任用の意図 日銀・財務から推薦を受けた候補を粛々と指名していくという過去のやり方ではないという意味で、今回の植田総裁誕生も岸田による政治任用といえる。ただ、安倍が「リフレ政策の実現」という特定の方向性を求めて黒田を指名したのとは異なり、岸田が何か政策的な意図を持っているのかははっきりとしない。 人事の決め方は98年施行の新日銀法で「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」(23条)と規定されたが、政治任用の可能性を残すこの内閣人事権は当初甘く見られていた。 96年の夏。日銀の幹部たちは連日朝早く日本橋本石町の本店会議室に招集された。「夏合宿」と称されたこの会議は日銀法改正に向けて自らのポジションを固めるためのものだった。この時の日銀法(旧法)は、議院の同意を必要としない、文字通りの内閣人事権はもちろん、「総裁の解任権」や「一般的な業務指揮権」などが政府に認められており、日本の中央銀行は所在地をもじって「大蔵省本石町出張所」などと揶揄される組織だった。 「政府からの独立」はバブル崩壊後のさまざまな不祥事から始まった大蔵省改革の一環として議論されていた。ただ、実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない』、「日銀法」「実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない」、その通りだ。
・『「内閣には人事権があるのだから…」 合宿の場に企画局からこんなペーパーが提示された。 「政策の内容からいって独立性と中立性が要求され、他方で、任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール手段が確保されていれば、準備率の設定・変更・廃止についての権限を政策委員会が有することとしても、直ちに違憲というわけではない」(情報公開法で入手した96年7月10日付「日銀法改正の論点検討」) 民間金融機関は、受け入れている預金等のうち一定比率以上を日銀の当座預金に預けておかねばならず、この比率を準備率という。政策委員とは正副総裁を含めた審議委員のことだ。 当時、準備率の変更には大蔵大臣の認可が必要だった。準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ。 「中央銀行に完全な独立性などあり得ない」という主張も強い中、日銀は「人事権よりも金融政策を含む一般的な業務での独立性を獲得する方が大事」と考えていたので、こんな主張をしていたのだ。しかも陰りが見え始めたとはいえ、当時官僚の力はまだ強く、総裁人事にも大きな影響力を持っていた。まさか、財務・日銀の交代ルールまでほごにされ、挙句、政治任用で総裁が決まる日が来るなどとは思っていなかっただろう』、「準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ」、なるほど。
・『総裁にふさわしいか それから四半世紀経った2022年。夏の終わりに財務省OBに披瀝した問題意識を、雨宮は各方面に広く伝えていた。そしてそれは、結果的に、これまで財務・日銀に支配されていた「総裁選び」の構造に真正面から挑むものになった。特に財務省だ。 政治任用だった黒田を除き、総裁を務めた大蔵省出身者は全員が事務次官経験者だ。このポストは昔、「大蔵次官にとっての天下り先ナンバーワン」と言われたように事務次官経験者の中でも最も格が高いという位置付けだった。 次官に上り詰める財務官僚は主計局長からの昇格が大半を占める。主計局長になるには、多くの場合、局内で課長や主計官のポストを歴任する。財政を担当するセクションは政治との折衝に忙殺される。 しかし、大物といわれる次官OBだとしても、そのような経歴が日銀総裁にふさわしいかは別問題というのが岸田や雨宮の考え方のようだ。特にグローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す。雨宮は周辺にこう漏らしたことがある。 「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」』、「グローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す」ので、「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」、その通りだ。
・『もし経済運営に失敗すれば… 日銀総裁人事をめぐるうごめきは収束した。これからはYCCをどのように「手じまい」するのか、異次元緩和の出口をどのように潜(くぐ)るのか、さまざまな副作用にどう対処するのかなど、当面の課題処理に焦点が移る。 岸田や雨宮の意図がどこにあれ、結果的に2代続けて日銀総裁が政治任用となったことは、戦後続いてきた旧態依然たる交代ルールに終止符が打たれたことを意味する。財務次官経験者だからといって安易に総裁になれる時代ではないことも明確になった。 しかし、もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう。マクロ政策の象徴的存在である日銀総裁の人事は、誰が、何を基準に決めるべきなのか――。 「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い』、「もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう」、「「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い」、その通りだ。
次に、4月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した「木内登英・野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト・元日銀審議委員インタビュー「「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ」を紹介しよう。これは有料記事だが、私の場合、今月は残り3本まで無料である。元日銀審議委員として、日銀内の議論に参加していただけあって、極めて有用な内容である。
https://diamond.jp/articles/-/320884
・『日銀自身が否定していた政策 追い詰められて導入の繰り返し Qは聞き手の質問、Aは木内氏の回答) Q:量的緩和策にしても物価目標にしても白川総裁時代には、日銀はその効果には否定的でした。黒田総裁時代になって、ご自身も含め考え方に変化はあったのですか。 A:民主党政権時代も含め、2000年ごろから円高やデフレへの対応で日銀と政府との間でずっと軋轢がありました。積極緩和を求める政府に対して、日銀が押し返す局面もあったものの、ゼロ金利解除や最初の量的緩和解除など、何かアクションをすると経済が悪化し、また批判を受けるという繰り返し。 追い詰められて結局、いまのイールドカーブ・コントロール(長短金利操作、YCC)での長期金利のコントロールを含め、できないと否定していたことを全部やらされることになったのです。 最後の一押しが、第2次安倍晋三政権誕生につながった2012年12月の総選挙での自民党の圧勝でした。 安倍氏はその直前の自民党総裁選から、物価目標導入や大胆な金融緩和を唱えていました。その時は日銀の執行部も政策員会も意に介さずという空気でしたが、総選挙後に開かれた12月の決定会合では空気が一変しました。 総裁をはじめ執行部は、物価目標はやらざるを得ないという判断でした。安倍首相から強い働きかけがあったようですし、日銀内にも、物価目標の公約を掲げたから自民党が勝ったわけではないにしても、なにがしかの民意が反映されているのならば、対応する必要があるのではという意識はありました。自分たちは国民の選挙で選ばれたわけではないという引け目もあるわけです。 さらにそれ以上に大きなプレッシャーになったのは、自民党内の一部から出ていた総裁の解任権をちらつかせた日銀法改正の脅しでした。 金融政策で政府と日銀が決裂することになれば、総裁の解任権が法律に盛り込まれ、日銀の独立性が決定的に制限されかねません。ぎりぎりの判断で物価目標導入に一転、向かったということです。 私自身も納得はしていなかったけれど、執行部への同情もあったし逃れられないという判断でした』、「自分たちは国民の選挙で選ばれたわけではないという引け目もあるわけです」、「大きなプレッシャーになったのは、自民党内の一部から出ていた総裁の解任権をちらつかせた日銀法改正の脅しでした。 金融政策で政府と日銀が決裂することになれば、総裁の解任権が法律に盛り込まれ、日銀の独立性が決定的に制限されかねません。ぎりぎりの判断で物価目標導入に一転、向かったということです」、ここまで「日銀法改正の脅し」があったとは初めて知った。
・『実績とかけ離れた2%物価目標 国債買い続け、懸念通りの結果に Q:13年1月の政策決定会合では物価目標に反対し、その後も、黒田総裁のもとでの緩和策拡大に反対の姿勢を貫いたのはなぜですか。 A:物価目標を盛り込んだ政府と日銀の共同声明についての日銀側の解釈は、政府も成長戦略や財政改革をやり、企業も頑張ることで実体経済が活性化し、物価の期待水準がいずれは2%に上がっていくと、そういう状況になった際は日銀も全力で支援するというものでした。 私も執行部の解釈は理解できましたが、潜在成長力や賃金が上がって2%が当たり前の水準になっていけばいいので、あえて数値目標を掲げる必要はないと考えたからです。それに2%は、当時やそれまでの日本の消費者物価上昇の実績とはあまりにかけ離れた数値でした。 ただそれでも当時は、目標実現はいつまでにという時期は特定していませんでした。ところが黒田総裁が13年4月に就任し、最初の決定会合で、声明文に「2年程度で実現」という文言を入れるということになったわけです。 そうなると、2%が完全に金融政策だけの目標になってしまいます。そして金融政策を物価目標にひもづけたままでは、ずっと国債を買って緩和を続けることになり、永遠に金融政策は正常化できなくなります。 それで4月の決定会合からは、物価目標を中長期の目標としたうえで、「集中対応期間」と位置づけて2年たって成果が出ない場合は見直すという独自提案を続けました。 とにかく、政策を柔軟に見直せるようにすべきだと思ったからです。 異次元緩和は短期的な政策としては受け入れられますが、いたずらに長く続けるものではありません。国債市場の機能低下や財政規律の緩みなどの弊害も大きいからですが、懸念した通りになりました』、「物価目標・・・についての日銀側の解釈は、政府も成長戦略や財政改革をやり、企業も頑張ることで実体経済が活性化し、物価の期待水準がいずれは2%に上がっていくと、そういう状況になった際は日銀も全力で支援するというもの」だったのに、「黒田総裁が13年4月に就任し、最初の決定会合で、声明文に「2年程度で実現」という文言を入れるということになったわけです。 そうなると、2%が完全に金融政策だけの目標になってしまいます。そして金融政策を物価目標にひもづけたままでは、ずっと国債を買って緩和を続けることになり、永遠に金融政策は正常化できなくなります」、ずいぶん日銀だけに偏った政策になったようだ。
・『YCCは緩和策でなかった 政治に配慮、政策転換明示できず Q:16年9月の「総括的検証」後はYCCを導入し、量から金利に操作目標を戻しました。この頃からは「緩和強化」や「緩和維持」を言いながら、国債買い入れを減らすなど、「緩和縮小」とも取れる措置もやり始めて、方向感が定まりませんでした。 黒田総裁が主導した「攻め」の金融政策は、16年1月のマイナス金利政策導入までで、その後は、日銀の事務方が主導する大規模緩和の副作用対策に重点が置かれてきたというのが、私の解釈です。 異次元緩和を始めて1年ほどの間は物価も上がりましたが、円安で輸入物価が上がったからです。最初から効果が見えていた政策ではなかったので、14年後半には私以外の審議委員の中にも「もう引くべきだ」という空気が出てきていました。 しかし黒田総裁は、14年10月の決定会合での緩和拡大、さらにマイナス金利導入と、その後、2回、緩和強化のボタンを押してしまうわけです。14年10月の決定会合では9人の審議委員のうち4人が反対し、マイナス金利導入の時も同様でした。 銀行業界の反発に加え、10年国債の金利だけでなく超長期の国債金利もマイナスになって、生保や年金の運用にも支障が出てきました。 そういうわけで、YCCは金融緩和政策ではなく、日銀の国債保有が膨大になったり、長期金利までがマイナスになりイールドカーブが低位でフラットになってしまった問題をなんとかしなければということで始まったダメージコントロールだったのです。 結局、YCC移行の時点から金融政策の主導権は日銀の事務方に移ったと思います。雨宮正佳前副総裁も日銀の中では相対的には緩和積極派でしたが、途中からはついていけないということになったのだと思います。 YCC移行後も、YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化しました。 最終的には長期金利の誘導目標の変動幅は決定会合で決めるということで厳格化は維持されましたが、代わりに変動幅を事実上拡大しプラスマイナス0,25%の変動幅を明確にすることを黒田総裁もしぶしぶ受け入れ、妥協が図られたようです。 その後、しばらく金利は上がらなかったのですが、昨年3月、米連邦準備制度理事会(FRB)がインフレ抑制でハイペースの利上げに転じて以降は、日本の市場でも上昇圧力が一気に強まり、YCCの限界と問題点が一気に露呈してしまいました。 結局、日銀の事務方主導の政策修正はありましたが、明示的な政策転換は行われませんでした。異次元緩和がアベノミクスの象徴のようになってきた中で、政治的な配慮もあったと思います。 すでに陣を引いているにもかかわらず、攻めているような姿勢をみせようとして市場の不信感を強め、市場とのコミュニケーションすら難しくなってしまっています』、「黒田総裁が主導した「攻め」の金融政策は、16年1月のマイナス金利政策導入までで、その後は、日銀の事務方が主導する大規模緩和の副作用対策に重点が置かれてきたというのが、私の解釈です」、「YCCは金融緩和政策ではなく、日銀の国債保有が膨大になったり、長期金利までがマイナスになりイールドカーブが低位でフラットになってしまった問題をなんとかしなければということで始まったダメージコントロールだったのです。 結局、YCC移行の時点から金融政策の主導権は日銀の事務方に移ったと思います。雨宮正佳前副総裁も日銀の中では相対的には緩和積極派でしたが、途中からはついていけないということになったのだと思います」、「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化しました。 最終的には長期金利の誘導目標の変動幅は決定会合で決めるということで厳格化は維持されましたが、代わりに変動幅を事実上拡大しプラスマイナス0,25%の変動幅を明確にすることを黒田総裁もしぶしぶ受け入れ、妥協が図られたようです」、なるほど。「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化」、初めて知った。
・『植田氏起用は黒田流へのアンチテーゼ 市場との対話、丁寧な説明を重視 Q:植田新総裁の下で、金融政策の運営や政治との関係での変化をどう予想していますか。 A:学者出身ということで論理性を重視するでしょうし、国会での所信聴取でご自身が話しているように、市場とコミュニケ―ションや国民への丁寧な説明を重視すると思います。この点では評価しています。 黒田総裁は、政策の効果や波及経路についてあまり精緻な説明はせず、サプライズ的な政策決定をしました。市場にせよ企業や家計も、政策がどういう経路を通じてどれくらいの時間軸で影響が及ぶかがわからないので、結局、日銀が狙ったインフレ期待を醸成する効果も起きませんでした。 黒田総裁の下でも金融政策の正常化に向けた修正は事実上は進められてきましたが、植田日銀でも異次元緩和策の問題点を是正し緩和策の枠組みの修正を進め、その際には丁寧な説明をするだろうと思います。 ただ黒田路線を一気に否定することはしないで、個別の政策について効果と副作用を分析し市場に混乱が起きないように時間をかけてやるでしょう。 もともと日銀の伝統的なアプローチは、政策変更の際には市場や金融機関への影響を配慮しながらするやり方でした。植田氏も同じアプローチで、金融政策は伝統的なやり方に戻るのだと思います。 岸田政権の植田氏の起用は、黒田総裁のやり方へのアンチテーゼがあったのではないでしょうか。人選のポイントも、ソフトランディングを前提に、黒田総裁よりは柔軟な人をというのが基準の一つだったと思います。 植田氏は審議委員をしていた2001年の量的緩和導入の際も、自身としては効果に疑問をもっていたが、決定会合では反対しませんでした。 いわば現実的、柔軟なところ、悪く言えば黒田総裁のような信念の人ではないということと、初めての学者出身で人選の斬新さをアピールできるということが選ばれた理由ではないでしょうか。 政治との関係を言えば、岸田政権とは良好な形でスタートすると思います。ただし旧安倍派など保守派には、アベノミクスの継承にこだわっている人もいますし、昨年末の防衛増税への反対を見ても、自民党内の派閥の対立の影響が政策運営に及ぶ構図は変わらないと思います』、「植田氏は審議委員をしていた2001年の量的緩和導入の際も、自身としては効果に疑問をもっていたが、決定会合では反対しませんでした。 いわば現実的、柔軟なところ、悪く言えば黒田総裁のような信念の人ではないということと、初めての学者出身で人選の斬新さをアピールできるということが選ばれた理由ではないでしょうか」、「現実的、柔軟」さが過ぎると、金融政策の軌道修正にブレーキがかかってしまうリスクもありそうだ。
・『YCCの修正はすぐに必要な課題 マイナス金利解除は24年半ば以降 Q:金融政策の正常化のスケジュール感や課題をどのように考えますか。 A:最終的には、マイナス金利政策とYCCはなくなり、国債やETFなどの資産買い入れ策もかなり変わると思います。ただ、経済や物価の情勢に応じて、少しずつ時間をかけてということになると思います。 当面の課題はYCCをどうするかです。国債の買い入れを減らすために導入したはずが、昨年後半以降は、YCCの長期金利を維持するために国債を猛烈に買うことになっています。 円安になり物価が上がってきて本来は金融を引き締めなければいけないのに、日銀がバランスシートを拡大することで緩和に向かわざるを得ないというのは矛盾です。YCCは大きな弱点を抱えています。 まずは変動幅の拡大や撤廃、長期金利の誘導水準の引き上げ、あるいは指し値オペの見直しという三つの選択肢の中で修正に動くのではないでしょうか。 指し値オペは、金利が多少上振れしても今までのように連日、実施はするというやり方ではなく、市場が予想できないタイミングで使うといった具合に柔軟で機動的なやり方に変えれば、国債の買い入れも少なくできます。 ただし正常化の最大の山場は、マイナス金利政策をやめる時です。 時期としては2024年半ば以降になると思いますが、その時に長期金利が跳ねる可能性があるので、そのリスクに備えるために、YCCは形骸化させるにしても、マイナス金利解除の際までは枠組みを残しておくのではないでしょうか。 スケジュール感を予想すれば、YCCの修正や物価目標の柔軟化といったソフトな修正、いわば政策運営方針の転換は今年中に行われると思います。 その後、経済の状況を見て、マイナス金利解除や緩和方針などハードの部分を転換し、さらにその後に日銀の保有国債の処理や買い入れたETFをオフバランス化していくという、大きく言えば3段階での手順になると思います。 保有国債やETFの処理は、市場へ影響を与えないように結局、国債は満期までは保有するだろうし、ETFについては、日銀が出資する受け皿機関を作って、そこに移して損が出ないように売却していく。株式市場次第ですが、処理には十数年はかかる長い道のりになるでしょう』、「YCCの修正や物価目標の柔軟化といったソフトな修正、いわば政策運営方針の転換は今年中に行われると思います。 その後、経済の状況を見て、マイナス金利解除や緩和方針などハードの部分を転換し、さらにその後に日銀の保有国債の処理や買い入れたETFをオフバランス化していくという、大きく言えば3段階での手順になると思います」、「保有国債やETFの処理は、市場へ影響を与えないように結局、国債は満期までは保有するだろうし、ETFについては、日銀が出資する受け皿機関を作って、そこに移して損が出ないように売却していく。株式市場次第ですが、処理には十数年はかかる長い道のりになるでしょう」、さすがにマーケットも熟知しているだけに、あり得そうなシナリオだ。
・『共同声明見直しはすぐにも着手? 金融不安、米経済次第で正常化後ずれ Q:米国では地方銀行の破綻や預金流出が続き欧米で金融不安がくすぶる状況です。FRBは、3月のFOMC(米連邦公開市場委員会)では0.25%の利上げを継続しましたが、正常化への影響をどう考えますか。 A:正常化が世界経済や米国の金融政策に左右される面は大きいと思います。 米国では大幅利上げが進んできましたが、金融不安から銀行が貸し出しに慎重になり、一方で利上げはまだやめないとなれば、クレジットクランチのようなことが重なるので、景気はかなり減速する懸念があります。 そうなると日本経済にはマイナスの影響が及ぶし、円高にもなりやすくなります。 FRBの利上げ打ち止め、さらには利下げということになるのかどうか、米経済の状況次第という面はありますが、利下げ観測が強まれば、植田日銀が思い浮かべている緩和の枠組みの修正は後にずれる可能性があります。 場合によっては、今年中はほぼ何もしないということになり、そうなれば、24年半ばからの金融政策の正常化スケジュールも遅れるでしょう。 ただし今までの金融政策の総括をするのと、政府との共同声明を見直して物価目標の位置づけを変えることは、政策修正とは別なので、新体制になって比較的、早いタイミングで着手できると思います。 安倍政権の共同声明は、日銀を積極緩和にコミットさせる狙いでしたが、結局、金融政策を縛ってしまいました。円安になっても日銀は動きが取れず、一方で政府は輸入価格高騰による物価対策をしなければならないという矛盾が起きてしまったわけです。 (木内登英氏の略歴はリンク先参照) 岸田政権としては、そこは政権の責任もあるということで、柔軟なものにして日銀を縛りから解こうということだと思います。日銀もいずれ政策転換をしようとする際には物価目標の見直しが必要です。 共同声明当時の日銀側の解釈であれば、2%は中長期の目標だと位置づけることはできます。本来なら日銀だけで物価目標の再定義をすればいい話ですが、政府が共同声明を見直すというのなら、そういう形で変えるということになるのではないでしょうか。 ただ見直しに着手はしても、自民党内との調整もあるので、まとまるタイミングは不明で、今年後半になるのかもしれません。 一方で、今までの政策の総括はやらない可能性があります。どうしても異次元緩和の問題点をあげつらうことになり、例えばマイナス金利政策なども問題点が大きいということになれば、早く撤廃をと、市場などに催促される形になって無用な混乱を生みかねないからです。 内外の経済情勢や市場の動きを見ながら、個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います』、「FRBの利上げ打ち止め、さらには利下げということになるのかどうか、米経済の状況次第という面はありますが、利下げ観測が強まれば、植田日銀が思い浮かべている緩和の枠組みの修正は後にずれる可能性があります。 場合によっては、今年中はほぼ何もしないということになり、そうなれば、24年半ばからの金融政策の正常化スケジュールも遅れるでしょう」、「ただし今までの金融政策の総括をするのと、政府との共同声明を見直して物価目標の位置づけを変えることは、政策修正とは別なので、新体制になって比較的、早いタイミングで着手できると思います」、「安倍政権の共同声明は、日銀を積極緩和にコミットさせる狙いでしたが、結局、金融政策を縛ってしまいました。円安になっても日銀は動きが取れず、一方で政府は輸入価格高騰による物価対策をしなければならないという矛盾が起きてしまった」、「一方で、今までの政策の総括はやらない可能性があります。どうしても異次元緩和の問題点をあげつらうことになり、例えばマイナス金利政策なども問題点が大きいということになれば、早く撤廃をと、市場などに催促される形になって無用な混乱を生みかねないからです。 内外の経済情勢や市場の動きを見ながら、個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、確かに「総括」にはそうしたリスクがあるので、「個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、極めて現実的だ。さあ、新相殺のお手並み拝見!
タグ:異次元緩和政策 (その43)(植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは、「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ) デイリー新潮 軽部謙介氏による「植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とは」 「雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった」、実に巧みな拒否理由だ。 「中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている」、「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」、さすが説得力に富んだ主張だ。ただ、欧州の中央銀行総裁は中央銀行実務家が多いようだ。 「雨宮氏は金融政策の裏も知り尽くしているだけに、黒田総裁の後任の職務の難しさを理解出来、自分がそんなババを引くのはご免被りたいと思っているのではあるまいか。 「雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。 そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく」、なるほど。 「2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化」、とすれば「財務省が知らされなかった」のはある意味当然かも知れない。 「中原伸之」氏が「第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていた」とは、初めて知った。 「日銀法」「実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない」、その通りだ。 「準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ」、なるほど。 「グローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す」ので、「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」、その通りだ。 「もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう」、「「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い」、その通りだ。 ダイヤモンド・オンライン 木内登英 「「マイナス金利解除は24年以降」元日銀審議委員・木内氏が語る植田日銀の正常化シナリオ」 「自分たちは国民の選挙で選ばれたわけではないという引け目もあるわけです」、「大きなプレッシャーになったのは、自民党内の一部から出ていた総裁の解任権をちらつかせた日銀法改正の脅しでした。 金融政策で政府と日銀が決裂することになれば、総裁の解任権が法律に盛り込まれ、日銀の独立性が決定的に制限されかねません。ぎりぎりの判断で物価目標導入に一転、向かったということです」、ここまで「日銀法改正の脅し」があったとは初めて知った。 「物価目標・・・についての日銀側の解釈は、政府も成長戦略や財政改革をやり、企業も頑張ることで実体経済が活性化し、物価の期待水準がいずれは2%に上がっていくと、そういう状況になった際は日銀も全力で支援するというもの」だったのに、「黒田総裁が13年4月に就任し、最初の決定会合で、声明文に「2年程度で実現」という文言を入れるということになったわけです。 そうなると、2%が完全に金融政策だけの目標になってしまいます。そして金融政策を物価目標にひもづけたままでは、ずっと国債を買って緩和を続けることになり、永遠に金融政策は正常化できなくなります」、ずいぶん日銀だけに偏った政策になったようだ。 「黒田総裁が主導した「攻め」の金融政策は、16年1月のマイナス金利政策導入までで、その後は、日銀の事務方が主導する大規模緩和の副作用対策に重点が置かれてきたというのが、私の解釈です」、「YCCは金融緩和政策ではなく、日銀の国債保有が膨大になったり、長期金利までがマイナスになりイールドカーブが低位でフラットになってしまった問題をなんとかしなければということで始まったダメージコントロールだったのです。 結局、YCC移行の時点から金融政策の主導権は日銀の事務方に移ったと思います。雨宮正佳前副総裁も日銀の中では相対的には緩和積極派でしたが、途中からはついていけないということになったのだと思います」、「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化しました。 最終的には長期金利の誘導目標の変動幅は決定会合で決めるということで厳格化は維持されましたが、代わりに変動幅を事実上拡大しプラスマイナス0,25%の変動幅を明確にすることを黒田総裁もしぶしぶ受け入れ、妥協が図られたようです」、なるほど。「YCCの厳格な運営を考える黒田総裁と、柔軟化が必要とする雨宮氏では温度差があり、21年3月の金融緩和の点検の際には二人の意見の違いが表面化」、初めて知った。 「植田氏は審議委員をしていた2001年の量的緩和導入の際も、自身としては効果に疑問をもっていたが、決定会合では反対しませんでした。 いわば現実的、柔軟なところ、悪く言えば黒田総裁のような信念の人ではないということと、初めての学者出身で人選の斬新さをアピールできるということが選ばれた理由ではないでしょうか」、「現実的、柔軟」さが過ぎると、金融政策の軌道修正にブレーキがかかってしまうリスクもありそうだ。 「YCCの修正や物価目標の柔軟化といったソフトな修正、いわば政策運営方針の転換は今年中に行われると思います。 その後、経済の状況を見て、マイナス金利解除や緩和方針などハードの部分を転換し、さらにその後に日銀の保有国債の処理や買い入れたETFをオフバランス化していくという、大きく言えば3段階での手順になると思います」、「保有国債やETFの処理は、市場へ影響を与えないように結局、国債は満期までは保有するだろうし、ETFについては、日銀が出資する受け皿機関を作って、そこに移して損が出ないように売却していく。株式 市場次第ですが、処理には十数年はかかる長い道のりになるでしょう」、さすがにマーケットも熟知しているだけに、あり得そうなシナリオだ。 「FRBの利上げ打ち止め、さらには利下げということになるのかどうか、米経済の状況次第という面はありますが、利下げ観測が強まれば、植田日銀が思い浮かべている緩和の枠組みの修正は後にずれる可能性があります。 場合によっては、今年中はほぼ何もしないということになり、そうなれば、24年半ばからの金融政策の正常化スケジュールも遅れるでしょう」、 「ただし今までの金融政策の総括をするのと、政府との共同声明を見直して物価目標の位置づけを変えることは、政策修正とは別なので、新体制になって比較的、早いタイミングで着手できると思います」、「安倍政権の共同声明は、日銀を積極緩和にコミットさせる狙いでしたが、結局、金融政策を縛ってしまいました。円安になっても日銀は動きが取れず、一方で政府は輸入価格高騰による物価対策をしなければならないという矛盾が起きてしまった」、 「一方で、今までの政策の総括はやらない可能性があります。どうしても異次元緩和の問題点をあげつらうことになり、例えばマイナス金利政策なども問題点が大きいということになれば、早く撤廃をと、市場などに催促される形になって無用な混乱を生みかねないからです。 内外の経済情勢や市場の動きを見ながら、個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、確かに「総括」にはそうしたリスクがあるので、「個別に政策を順次修正していくというアプローチをとると思います」、極めて現実的だ。さあ、新相殺のお手並み拝見!