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民主主義(その9)(「若者よ 選挙に行くな」CMを支持する、納税額が低いと選挙権ナシ?高学歴なら複数投票OK?超有名思想家が下した結論とは) [経済政治動向]

民主主義については、2021年8月23日に取上げた。久しぶりの今日は、(その9)(「若者よ 選挙に行くな」CMを支持する、納税額が低いと選挙権ナシ?高学歴なら複数投票OK?超有名思想家が下した結論とは)である。

先ずは、本年4月12日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員の山崎 元氏による「「若者よ、選挙に行くな」CMを支持する」を紹介しよう。
・『統一地方選挙での若者の投票を呼びかける風刺動画が物議を醸している。「若者よ、選挙に行くな」と題したこの動画は、逆説的に若者が選挙で投票する大切さを説いているのだが、賛否両論が噴出している。筆者としては、この取り組みを支持したい』、興味深そうだ、
・『表現が痩せると発想も細る  表現の自由の範囲は、社会が許容できるギリギリまで広げておく方がいい。社会的圧力によってであれ、それを恐れた自主規制によってであれ、表現を制限していると表現力が痩せる。表現力が痩せると、やがては物事を発想する力も細っていく。これは、まことにつまらないことだ。いわゆる「ポリコレ」や「言葉狩り」をやり過ぎすることの最大の弊害だろう。 ちょうどいい検討例が現れた。趣旨としては今春の統一地方選挙で若者に選挙に行こうと呼びかける、インターネット動画のCM「若者よ、選挙に行くな」(笑下村塾作成)が物議を醸している。 皮肉が利いていていいではないかという声もあれば、若者と高齢者の対立をあおるので好ましくないといった意見もある。 動画を何度か観てみたが、結論は、「この程度は、全く問題ないではないか」だ。この程度の表現を抑圧したがるような、不寛容でおぞましくお節介な社会には「絶対に」なってほしくない。率直に言って、動画としての出来映えは今一つだと思ったのだが、内容はなかなか味わい深い。主たるメッセージが「若者は選挙に行った方がいい」という話なのは誤解のされようがないし、考える価値のある問題を複数提起している。 このCMの内容が気に入らない人も、少なからずいることだろう。もちろん、批判はあっていい。ただし、「こういうものは出すべきではない」という意見はできるだけ控えるべきだ。文句があるなら、もっとセンスのいい作品を作って対抗すればいい。 筆者としては、今回の「若者よ、選挙に行くな」CMのような表現やメッセージが、今後もどんどん登場することを期待したい。 「もっとやれ!」と言っておく』、「表現の自由の範囲は、社会が許容できるギリギリまで広げておく方がいい。社会的圧力によってであれ、それを恐れた自主規制によってであれ、表現を制限していると表現力が痩せる。表現力が痩せると、やがては物事を発想する力も細っていく。これは、まことにつまらないことだ。いわゆる「ポリコレ」や「言葉狩り」をやり過ぎすることの最大の弊害だろう」、「文句があるなら、もっとセンスのいい作品を作って対抗すればいい。 筆者としては、今回の「若者よ、選挙に行くな」CMのような表現やメッセージが、今後もどんどん登場することを期待したい。「もっとやれ!」と言っておく」、なるほど。「若者よ、選挙に行くな」CMのURLはhttps://www.youtube.com/watch?v=RF8I4LHej5E
・『若者にとっての「コスパ」を訴えよ  高齢者は、そもそも数が多く、しかも投票率が高いので、政治に彼らの意見が反映しやすいのは事実だ。これを指摘して、若者に投票を促すことは悪いことではない。事実を指摘して、良い行動を推奨している。 一方、より現実的な問題として、若者の投票率が上がっても選挙の結果は大きく変わらず、従って、世の中を変えるに至らないという調査や指摘が少なくない。例えば、多くの若者が読んでいると思われる経済学者・成田悠輔氏の『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(ソフトバンク新書)には詳細で説得的な分析が提示されている。 また、そもそも多くの社会的な意思決定を行うために、選挙で代表を選んで物事を決めようとする現在のシステム自体に相当な無理があることも事実だ。 こうした構造を考えたときに、若者が、自分が選挙に行っても何も変わらないだろうと予想を形成すること自体は大きく間違ってはいない。 では、この構造も含めて現状に不満を持っている場合に、若者はどうしたらいいのか。これが次の問題だろう。) 方法としては、ツイッターでのつぶやきから革命まで幅広い手段がある。ただ、行使できる影響力の期待値と手段のコストを考えると、今のところ最も「コスパ」のいい手段は、おそらく同じ意見の持ち主に声を掛けつつ選挙に行くことだろう。 若者の投票行動が変わると、少なくとも一部の政治家は焦り、一部は迎合しようとし、何らかの影響があるはずだ。また、選挙区によっては、本当に結果が変わるだろう。効果の期待値は、十分大きくはないかもしれないが、ゼロではない。コストは少々の時間と手間だ。逮捕などのリスクはない。 例えば、CMの続編を作るなら、「若者が選挙に行っても、選挙結果が変わる確率は小さいかもしれないわね」(女1)、「でも、あんたたち、革命なんか起こす元気もないし、面倒くさいんでしょう」(女2)、「今のところ意見を反映させる一番コスパのいい手段は選挙に行くことなんだよ。ダメ元でも、できることからやってみようよ」(男)、といったせりふを付け加えるのはいかがだろうか。 CMの出演者3人はプロの役者さんなので憎まれ役は平気だろう。しかし、ただ嫌われただけのキャラクターにしておくのは惜しい。それぞれの役者さんが、本当は若者のことを気に掛けていてアドバイスを送るような続編があってもいいのではないか』、「現状に不満を持っている場合に、若者はどうしたらいいのか。これが次の問題だろう。) 方法としては、ツイッターでのつぶやきから革命まで幅広い手段がある。ただ、行使できる影響力の期待値と手段のコストを考えると、今のところ最も「コスパ」のいい手段は、おそらく同じ意見の持ち主に声を掛けつつ選挙に行くことだろう。 若者の投票行動が変わると、少なくとも一部の政治家は焦り、一部は迎合しようとし、何らかの影響があるはずだ。また、選挙区によっては、本当に結果が変わるだろう。効果の期待値は、十分大きくはないかもしれないが、ゼロではない。コストは少々の時間と手間だ。逮捕などのリスクはない・・・CMの出演者3人はプロの役者さんなので憎まれ役は平気だろう。しかし、ただ嫌われただけのキャラクターにしておくのは惜しい。それぞれの役者さんが、本当は若者のことを気に掛けていてアドバイスを送るような続編があってもいいのではないか」、なるほど。
・『財政赤字の世代負担に関する「誤解」を考えるきっかけにも  CMの中に、「日本の借金が増えているって? でも、どーせ返すのは未来の子どもたちだろう?」という財務省が喜びそうなせりふがあるが、この意見は、将来世代が現在世代から資産を受け継ぐことを見落とした俗論である。 「財政赤字は将来世代の負担だ」と言って、「そうだ!」とうなずくか否かは、政治家が、経済を理解している人なのか、単に話を刷り込まれただけの拡声器なのかを判別するいいリトマス試験紙だ。読者も用いるといい。 家計の貸し借りと、国の借金は性質が異なる。国の借金が海外からのものでない限り、国の借金は、例えば国債という資産として国民に保有されていて、これは次世代に相続される。国の借金が、本質的な意味で将来世代の負担になるのは、それが非効率的に使われて、モノや労働力などを含めた広義の資源の無駄になる場合だ。) 仮に、若者嫌いで意地悪な高齢者がいて、自分が保有する資産を次世代に相続するのが嫌だとばかりに国債を換金して消費に回したとすると、その消費は経済を活性化させるだろうから、むしろ次世代にとっての恩恵になり得る。 ただし、国の借金が手放しで褒められるものでないことは事実だ。一つには、政府は決してお金の使い方がうまい主体ではないから、大きな借り入れが自由にできることは上記の意味での本質的な負担を作る補助要因になり得る。また、国民の間に作った大規模な貸し借りが好ましくない形の再分配効果をもたらす可能性がある。 例えば、こうしたことを教えるために、「若者は選挙に行くな」CMを高校の授業で生徒に見せたりするのもいいのではないか』、「家計の貸し借りと、国の借金は性質が異なる。国の借金が海外からのものでない限り、国の借金は、例えば国債という資産として国民に保有されていて、これは次世代に相続される。国の借金が、本質的な意味で将来世代の負担になるのは、それが非効率的に使われて、モノや労働力などを含めた広義の資源の無駄になる場合だ」、なるほど。
・『「憲法を変える」の位置付けに驚く  CMは次に、新型コロナウイルスへの政府の対応が、若者に冷たく(修学旅行がない)、高齢者優遇的(旅行の補助は暇のある高齢者の方が利用しやすい)であったことを指摘する。 考えるべき素材として悪くないテーマだろう。世代の利害対立があることと、意思表示をしないとますます不利になりかねないことなどを考えさせる。 筆者が大いに驚いたのは、次のせりふだった。こわもての方の女性が次のように言う。 「同性婚? ベーシックインカム? 憲法を変える? そんなことしたら社会が変わっちゃうじゃない」 いかにも若者が口にしそうなテーマを三つ挙げたのだろう。先進7カ国(G7)の中で唯一日本だけで認められない同性婚が挙がるのはいい。次に、ベーシックインカムがここまで市民権を得た言葉になったかと思うと、これは感慨深い。だが、この並びで「憲法を変える」が出てくると、時代は変わったのだと改めて思う。) 30年くらい前の感覚では、古い世代は、かつての日本へのノスタルジーと「アメリカに押しつけられた憲法」への反発などから改憲にシンパシーを持ち(だから憲法改正が長らく自民党の党是の一つなのだろう)、一方、当時の若い世代や革新的な勢力は新憲法(現行の日本国憲法)を民主的な新しい時代のものなので擁護したいと考えるといったポジショニングだった。 ところが今の感覚では、若い世代こそが憲法を変えたがっている、ということらしい。 確かに、いわゆる「革新」という言葉は近年いかにも古びて聞こえる。全く魅力を感じない。「改革」ならまだ幾らかは新しく、「革新」と言ってしまうと残念なまでに古臭い。ことの良しあしは別として、現在の野党は、こうした感覚の変化に対応しないと、支持世代の老化とともにそのまま衰退してしまいそうだ』、「今の感覚では、若い世代こそが憲法を変えたがっている、ということらしい。 確かに、いわゆる「革新」という言葉は近年いかにも古びて聞こえる。全く魅力を感じない。「改革」ならまだ幾らかは新しく、「革新」と言ってしまうと残念なまでに古臭い。ことの良しあしは別として、現在の野党は、こうした感覚の変化に対応しないと、支持世代の老化とともにそのまま衰退してしまいそうだ」、なるほど。
・『動画の続編にも反論作品にも期待したい  CMはもう少し続いて、「ネットなら投票するのにって、ずっとネットで言ってなさい」などという名ぜりふもあるが、続きは動画を見ていただきたい。 主たるメッセージを伝えるだけでなく、その他にも考えさせる部分があるのは、いいメッセージだろう。 CMは全体を通じて、個人を侮辱するとか、特定の人を傷つけるような内容ではない。それなりの「毒」は盛られているが、注目されないよりも注目される方がいいので、許される範囲だろう。いいCMだったと思うし、続編的な作品にも期待したい。 ただ、繰り返しになるが、このCMが気に入らない人もいるだろう。センスのいい作品での反論にも大いに期待している』、「CMは全体を通じて、個人を侮辱するとか、特定の人を傷つけるような内容ではない。それなりの「毒」は盛られているが、注目されないよりも注目される方がいいので、許される範囲だろう。いいCMだったと思うし、続編的な作品にも期待したい」、同感である。

次に、11月20日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した九州大学名誉教授の関口正司氏による「納税額が低いと選挙権ナシ?高学歴なら複数投票OK?超有名思想家が下した結論とは」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/330415
・『与野党ともに次の総選挙の準備を進めている昨今、19世紀イギリスの思想家J・S・ミルが提唱した選挙制度の精神が光を放ち始めた。『自由論』で他者や社会を害しない範囲での幸福追求を論じたミルは、『代議制統治論』で他者への権力行使につながる投票行動を重視し、当時としても新奇な提言をおこなっている。「1票の格差」など問題山積の日本の選挙の指針となるか。本稿は、関口正司『J・S・ミル 自由を探求した思想家』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『多数派による専制を避けるにはヘア式投票制で死票を最小限に  ジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)は、非常に多様なテーマに関心を寄せたイギリス人の思想家だった。著作の範囲は、政治や行政や法律から、経済や社会、歴史や文学、道徳(倫理)や哲学などにまでおよんでいる。成熟期のミルの著作として『自由論』はよく知られているが、『代議制統治論』もまた代表的な1冊である。 『代議制統治論』は1861年4月に公刊された。全部で18章からなる大著で、選挙制度や議会、中央の行政、地方自治、インド統治など、当時のイギリスの政治体制全般にかかわる多様なテーマが取り上げられている。 代表者を選出する選挙人の資格という問題についてミルが行っている議論の中で、特に具体的な制度にかかわる提言を読むと、多くの読者が違和感を抱くかもしれない。 ミルによれば、代表民主政の正しい理解とは、国民の全員が等しく代表され、そのようにして選ばれた代表者たちによって国民全員が統治される、ということである。ところが、国民の中の多数者だけが代表されれば少数者が代表される機会が確保されなくてもよい、という誤った代表民主政のとらえ方が世の中では横行している。 この誤ったとらえ方では、(1)代表を実質的に選んでいる多数者や選ばれた代表者たちの知的レベルの低さ、(2)多数者による(代表をつうじた)排他的な階級利益(邪悪な利益)の追求という、2つの深刻な弊害は手つかずのまま放置されてしまう。 これらの弊害を防止するためには、あるいは可能な限り軽減するためには、代表民主政の正しい理解に即した制度、つまり平等の原則にもとづいた制度を導入する必要がある。 平等の原則からミルが強く推奨しているのは、ヘア式投票制である。これは、少数者の代表を応分に確保するために死票をできるだけ減らす工夫をした投票制度である。 選挙人は、自分の代表としたい複数の候補者を、順位をつけて投票する。地元だけでなくどの地域の候補者に投票してもよい。1人の候補者だけに投票してもよい。投票してよい候補者数は技術的問題がなければ無制限でかまわない。 当選票数は、全国の選挙人総数を議員の総定数で割算して出す。自分の投票した候補者の第1位が、自分の票を加算しなくても当選票数に達していれば、第2位に指名した候補者に票がまわることになる。以下、議員の総定員が満たされるまでこのような割り振りが繰り返される。実際には、見かけほど複雑な仕組みではない。) 選挙の平等の原則から必然的に帰結するのは、原則として成人の国民全員に選挙人の資格を与えることである。ミルはさらに、別の重要な道徳的問題もあるとして、次のように力説している。 ……他の人々と同じように自分にも利害がある事柄の処理について、自分の意見を顧慮してもらうという通常の特権を与えないことは、より大きな害悪の防止のためでないならば、人格にかかわる不正である。その人が支払うことを強制され、戦うことを強制されるかもしれず、黙って従うように求められるのであれば、それが何のためであるかを示してもらう法的な資格がある。同意を求められ、その人の意見を価値以上にではないにせよ、価値相応に受け止めてもらう法的な資格がある。……人は誰でも、何の相談もなく自分の運命を左右する無制限の権力を他人からふるわれるときには、自分で気づいていようといまいと、人格を貶められているのである。 人格的尊厳という点で、イギリスのような高度な文明国の国民には、男女を問わず、選挙資格を与えるべきである。特に、女性への選挙資格の付与は、ミルが強く主張した点だった』、「『代議制統治論』は1861年4月に公刊された。全部で18章からなる大著で、選挙制度や議会、中央の行政、地方自治、インド統治など、当時のイギリスの政治体制全般にかかわる多様なテーマが取り上げられている。 代表者を選出する選挙人の資格という問題についてミルが行っている議論の中で、特に具体的な制度にかかわる提言を読むと、多くの読者が違和感を抱くかもしれない。 ミルによれば、代表民主政の正しい理解とは、国民の全員が等しく代表され、そのようにして選ばれた代表者たちによって国民全員が統治される、ということである。ところが、国民の中の多数者だけが代表されれば少数者が代表される機会が確保されなくてもよい、という誤った代表民主政のとらえ方が世の中では横行している。 この誤ったとらえ方では、(1)代表を実質的に選んでいる多数者や選ばれた代表者たちの知的レベルの低さ、(2)多数者による(代表をつうじた)排他的な階級利益(邪悪な利益)の追求という、2つの深刻な弊害は手つかずのまま放置されてしまう。 これらの弊害を防止するためには、あるいは可能な限り軽減するためには、代表民主政の正しい理解に即した制度、つまり平等の原則にもとづいた制度を導入する必要がある・・・平等の原則からミルが強く推奨しているのは、ヘア式投票制である。これは、少数者の代表を応分に確保するために死票をできるだけ減らす工夫をした投票制度である。 選挙人は、自分の代表としたい複数の候補者を、順位をつけて投票する。地元だけでなくどの地域の候補者に投票してもよい。1人の候補者だけに投票してもよい。投票してよい候補者数は技術的問題がなければ無制限でかまわない。 当選票数は、全国の選挙人総数を議員の総定数で割算して出す。自分の投票した候補者の第1位が、自分の票を加算しなくても当選票数に達していれば、第2位に指名した候補者に票がまわることになる。以下、議員の総定員が満たされるまでこのような割り振りが繰り返される。実際には、見かけほど複雑な仕組みではない」、「死票をできるだけ減らす工夫をした投票制度」とは興味深い。
・『政策判断能力なき者や低額納税者への平等な投票資格付与は選挙を歪める  ただし、平等な選挙資格と言っても無条件ではない。投票は公共の利益に判断を下す行為だから、判断を下すのに欠かせない識字能力が要件となる。また、公金の処理にかかわる判断でもあり、歳出と納税者の負担との関係を意識している必要があるから、タダ乗り的投票をさせないために、一定程度の納税をしていることも条件になる。 これらの要件は現代ではほとんど問題外とされているが、ミルがこのような制限を求める主張の根拠(判断能力や責任の自覚)については、あらためて正面から考えてみる必要があるように思える。 ところで、平等な選挙の確保は重要であるとはいえ、代表者議会の知的レベルの確保と階級利益追求の防止という2つの課題は依然として残されている。選挙民や議員の多数派に良識や中庸や自制を期待すれば十分だというのでは、ミルの言葉を借りれば「立憲的統治の哲学は無用の長物にすぎない」。権力を悪用させない国制上の仕組みが必要である。 そのためミルは、これら2つの課題への対応策として、選挙の平等という原則の一線を越える提言にまであえて踏み込んでいく。つまり、選挙人の中の高い知性を持った層に複数票を与える、という提言である。) こういう提言を市民が受け容れること、つまり、「善良で賢明な人々にはより大きな影響力を持つ資格がある、と市民が考えることは、市民にとって有益なのだから、国家がこの信念を公言し、国の制度に体現させることは重要である」とミルは論じている。 なぜ、このような趣旨の制度が必要かと言えば、それが実際に知性の確保に役立つばかりではない。無知と知性を同等に扱わないという制度の精神が国民に影響を与えるからである。また、複数投票が与えられるのは少数者に限定されていて、この仕組みで少数者だけで国政を左右することはないと想定されていた。 それでもなお、「善良で賢明な人々」の影響力確保のために、高学歴や知的職業への従事者に複数投票権を認めるというミルの主張を目にすると、おそらく多くの読者は違和感を覚えるだろう。筆者としても、平等選挙の精神を健全に保つためには、不公平感を与えることなしに、すぐれた人の知見を国政に活かす別の方法を探究した方が得策に思える。 その一方で、平等選挙の原則を一貫して重視するのであれば、いわゆる「1票の格差」と呼ばれている今日の事態についても、きちんと答えを出す必要があるとも感じる。そういう意味で、今もなお示唆的な議論だと言えるだろう』、「「善良で賢明な人々」の影響力確保のために、高学歴や知的職業への従事者に複数投票権を認めるというミルの主張を目にすると、おそらく多くの読者は違和感を覚えるだろう。筆者としても、平等選挙の精神を健全に保つためには、不公平感を与えることなしに、すぐれた人の知見を国政に活かす別の方法を探究した方が得策に思える。 その一方で、平等選挙の原則を一貫して重視するのであれば、いわゆる「1票の格差」と呼ばれている今日の事態についても、きちんと答えを出す必要があるとも感じる」、なるほど。
・『他者に対する権力行使である投票を秘密のうちに行うのは正しいのか  ミルが「制度の精神」との関連で取り上げているテーマで、もう一つ注目されるのは、秘密投票(バロット)の問題である。 イギリスでは、1872年に秘密投票法が制定されるまで、庶民院や地方自治体の選挙は、自分が支持する候補者の名前を声を出して示すといった方法による公開投票だった。 ベンサムや父親のジェイムズ・ミルなどの哲学的急進派は、公開投票は地元有力者の圧力や買収の温床であり、旧来の地主支配体制を支える柱の一つだとみなし、秘密投票を政治改革の重要な項目の一つとしていた。ミルも、支持の立場を維持していた。 ミルがこの立場を変えたのは、1850年代になってからである。フランス2月革命の後、ルイ・ボナパルトが制度上は民主的な選挙によって大統領に選出されたことが、少なからず影響していると推測される。 ミルによれば、秘密投票は「制度の精神、つまり制度が市民の心に与える印象が、制度の働きの中で最も重要な部分を占める事例の一つ」である。その印象とは、人に知られることなく自分自身のために自分の都合に合わせて投票してよいのだ、という印象である。こうした印象は、投票を私的な権利だとみなす誤解につながる。しかし、投票は権利ではない。それは信託(trust)である。ミルは次のように力説している。) 権利の観念をどう定義し理解するとしても、人は誰も、他者に対して権力を行使する権利を(純粋に法律的な意味を別とすれば)持つことはできない。そうした権力はすべて、持つことが許されるとすれば、道徳的には、最も完全な意味で信託である。ところが、選挙人としてであれ代表としてであれ、政治的な役割を果たすということは、他者に対する権力行使なのである。 自分に権利のある家や債券を処分するとき、自由に思い通り処分してよい。権利の観念とはそうしたものである。投票も、権利であるなら同じように受け止められるだろう。 しかし、投票を家や債券と同様に自由に売ることは許されない。その意味で、投票は特殊な権利だと感じられている。この感覚は、鈍らせるのではなく、いっそう強化する必要がある。 投票の重要な意義は、たしかに自分の利益や自由を不当な侵害から守るのに役立つという点にある。しかし、投票は同時に、他者の未来も左右する。投票は社会全体に対する権力行使になる。 だから、投票は自分だけにかかわる自己決定と自己責任の問題ではなく、社会全体に対して責任を負うべき公共的行為である。投票者は、そうした権力を社会全体から信託されている。だから、投票を売ってはいけないのである。 ミルの考えでは、公開投票であれば、投票者は他者の視線を意識することで、投票の公共的理由について多少は考えざるをえなくなる。申し開きが立たないような利己的で浅ましい理由では、自分の体面が保てなくなるからである。人目を気にしたり見栄を張ったりといった同調志向の心理も、こういう公共的な効用がある場合には、ミルは活用に躊躇しない。 もっとも、公開投票が、ミルの期待しているとおりの効果を持つのかどうか、また、公開投票のメリットは、買収や強要を助長するというデメリットを上回るのかどうかといった点は、状況次第であるように思える。しかし、ここで目を向ける価値があるのは、その点よりも、制度の精神という問題の捉え方である。 投票制度の精神を問題にするとき、ミルが大前提にしていたのは、他者に権力を行使する権利は道徳的には絶対ありえない、という強い信念だった。だから、ミルは法律で定められた権利という文脈を除いて、権利という言葉は使わない。結論で賛否が分かれるとしても、じっくり議論する価値のある重要な問題である』、「投票の重要な意義は、たしかに自分の利益や自由を不当な侵害から守るのに役立つという点にある。しかし、投票は同時に、他者の未来も左右する。投票は社会全体に対する権力行使になる。 だから、投票は自分だけにかかわる自己決定と自己責任の問題ではなく、社会全体に対して責任を負うべき公共的行為である。投票者は、そうした権力を社会全体から信託されている。だから、投票を売ってはいけないのである」、「投票制度」について、ここまで深い考察をしているとはさすがだ。こうした原論的考察の重要性を再認識させられた。
タグ:「「善良で賢明な人々」の影響力確保のために、高学歴や知的職業への従事者に複数投票権を認めるというミルの主張を目にすると、おそらく多くの読者は違和感を覚えるだろう。筆者としても、平等選挙の精神を健全に保つためには、不公平感を与えることなしに、すぐれた人の知見を国政に活かす別の方法を探究した方が得策に思える。 その一方で、平等選挙の原則を一貫して重視するのであれば、いわゆる「1票の格差」と呼ばれている今日の事態についても、きちんと答えを出す必要があるとも感じる」、なるほど。 若者の投票行動が変わると、少なくとも一部の政治家は焦り、一部は迎合しようとし、何らかの影響があるはずだ。また、選挙区によっては、本当に結果が変わるだろう。効果の期待値は、十分大きくはないかもしれないが、ゼロではない。コストは少々の時間と手間だ。逮捕などのリスクはない・・・CMの出演者3人はプロの役者さんなので憎まれ役は平気だろう。しかし、ただ嫌われただけのキャラクターにしておくのは惜しい。それぞれの役者さんが、本当は若者のことを気に掛けていてアドバイスを送るような続編があってもいいのではないか」、なるほど 「若者よ、選挙に行くな」CM 「家計の貸し借りと、国の借金は性質が異なる。国の借金が海外からのものでない限り、国の借金は、例えば国債という資産として国民に保有されていて、これは次世代に相続される。国の借金が、本質的な意味で将来世代の負担になるのは、それが非効率的に使われて、モノや労働力などを含めた広義の資源の無駄になる場合だ」、なるほど。 「若者よ、選挙に行くな」CMのURLはhttps://www.youtube.com/watch?v=RF8I4LHej5E ミルによれば、代表民主政の正しい理解とは、国民の全員が等しく代表され、そのようにして選ばれた代表者たちによって国民全員が統治される、ということである。ところが、国民の中の多数者だけが代表されれば少数者が代表される機会が確保されなくてもよい、という誤った代表民主政のとらえ方が世の中では横行している。 山崎 元氏による「「若者よ、選挙に行くな」CMを支持する」 「『代議制統治論』は1861年4月に公刊された。全部で18章からなる大著で、選挙制度や議会、中央の行政、地方自治、インド統治など、当時のイギリスの政治体制全般にかかわる多様なテーマが取り上げられている。 代表者を選出する選挙人の資格という問題についてミルが行っている議論の中で、特に具体的な制度にかかわる提言を読むと、多くの読者が違和感を抱くかもしれない。 「投票制度」について、ここまで深い考察をしているとはさすがだこうした原論的考察の重要性を再認識させられた。 関口正司氏による「納税額が低いと選挙権ナシ?高学歴なら複数投票OK?超有名思想家が下した結論とは」 「今の感覚では、若い世代こそが憲法を変えたがっている、ということらしい。 確かに、いわゆる「革新」という言葉は近年いかにも古びて聞こえる。全く魅力を感じない。「改革」ならまだ幾らかは新しく、「革新」と言ってしまうと残念なまでに古臭い。ことの良しあしは別として、現在の野党は、こうした感覚の変化に対応しないと、支持世代の老化とともにそのまま衰退してしまいそうだ」、なるほど。 「表現の自由の範囲は、社会が許容できるギリギリまで広げておく方がいい。社会的圧力によってであれ、それを恐れた自主規制によってであれ、表現を制限していると表現力が痩せる。表現力が痩せると、やがては物事を発想する力も細っていく。これは、まことにつまらないことだ。いわゆる「ポリコレ」や「言葉狩り」をやり過ぎすることの最大の弊害だろう」、「文句があるなら、もっとセンスのいい作品を作って対抗すればいい。 平等の原則からミルが強く推奨しているのは、ヘア式投票制である。これは、少数者の代表を応分に確保するために死票をできるだけ減らす工夫をした投票制度である。 選挙人は、自分の代表としたい複数の候補者を、順位をつけて投票する。地元だけでなくどの地域の候補者に投票してもよい。1人の候補者だけに投票してもよい。投票してよい候補者数は技術的問題がなければ無制限でかまわない。 当選票数は、全国の選挙人総数を議員の総定数で割算して出す。自分の投票した候補者の第1位が、自分の票を加算しなくても当選票数に達していれば、第2位 https://www.youtube.com/watch?v=RF8I4LHej5E 「CMは全体を通じて、個人を侮辱するとか、特定の人を傷つけるような内容ではない。それなりの「毒」は盛られているが、注目されないよりも注目される方がいいので、許される範囲だろう。いいCMだったと思うし、続編的な作品にも期待したい」、同感である。 「投票の重要な意義は、たしかに自分の利益や自由を不当な侵害から守るのに役立つという点にある。しかし、投票は同時に、他者の未来も左右する。投票は社会全体に対する権力行使になる。 だから、投票は自分だけにかかわる自己決定と自己責任の問題ではなく、社会全体に対して責任を負うべき公共的行為である。投票者は、そうした権力を社会全体から信託されている。だから、投票を売ってはいけないのである」、 に指名した候補者に票がまわることになる。以下、議員の総定員が満たされるまでこのような割り振りが繰り返される。実際には、見かけほど複雑な仕組みではない」、「死票をできるだけ減らす工夫をした投票制度」とは興味深い。 この誤ったとらえ方では、(1)代表を実質的に選んでいる多数者や選ばれた代表者たちの知的レベルの低さ、(2)多数者による(代表をつうじた)排他的な階級利益(邪悪な利益)の追求という、2つの深刻な弊害は手つかずのまま放置されてしまう。 これらの弊害を防止するためには、あるいは可能な限り軽減するためには、代表民主政の正しい理解に即した制度、つまり平等の原則にもとづいた制度を導入する必要がある・・・ 関口正司『J・S・ミル 自由を探求した思想家』(中央公論新社) 「現状に不満を持っている場合に、若者はどうしたらいいのか。これが次の問題だろう。) 方法としては、ツイッターでのつぶやきから革命まで幅広い手段がある。ただ、行使できる影響力の期待値と手段のコストを考えると、今のところ最も「コスパ」のいい手段は、おそらく同じ意見の持ち主に声を掛けつつ選挙に行くことだろう。 ダイヤモンド・オンライン (その9)(「若者よ 選挙に行くな」CMを支持する、納税額が低いと選挙権ナシ?高学歴なら複数投票OK?超有名思想家が下した結論とは) 民主主義
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