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タウン情報・街並み(その1)(池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった、おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感 高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳) [文化]

今日は、タウン情報・街並み(その1)(池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった、おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感 高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳)を取上げよう。

先ずは、昨年3月4日付け東洋経済オンラインが掲載したフリーランスライターの小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/535493
・『今年2月、西武グループの持ち株会社である西武ホールディングスは、プリンスホテルなど国内31の保有施設を売却すると発表した。同時期、セブン&アイホールディングスは西武池袋本店などを含む傘下の百貨店「そごう・西武」の売却に向けて調整に入ったと報じられた。 昭和初期から平成にかけて、西武は池袋駅を牙城にして発展してきた。1964年に西武の総帥・堤康次郎が没した後、鉄道事業などは堤義明へ、百貨店事業などは堤清二が率いる西武流通(後のセゾン)グループへと引き継がれた。歳月とともに両者は独立性を強めていくが、池袋駅東口には旗艦店となる西武百貨店と西武鉄道の駅が並び、“西武”を冠する両者は端から見れば同じグループであるように映った。 池袋駅や街の発展は、西武鉄道と西武百貨店の存在を抜きに語ることはできないが、そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかったが、それが街を発展させてきた』、「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかったが、それが街を発展させてきた」、ターミナル駅としては珍しい由来だ。
・『板橋や目白よりも遅かった開業  池袋駅を開設したのは、現在のJR東北本線や高崎線・常磐線などを建設した私鉄の日本鉄道だった。上野駅をターミナルに北関東や東北へと路線を広げる日本鉄道は、群馬県の富岡製糸場で生産される生糸を横浜港まで迅速に運搬することを主目的にしていた。 当時、上野駅と新橋(後の汐留)駅は一本の線路でつながっていない。そのため、上野駅で荷下ろしし、新橋駅で再び積み直すという手間が生じた。輸送効率を上げるべく、日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて品川駅までを結ぶ短絡線を建設。これは品川線と呼ばれる路線だが、現在の埼京線に相当する。 品川線には、中間駅として板橋駅・新宿駅・渋谷駅が開設されたが、この時点で池袋駅は開設どころか計画すら浮上していない。品川線の開業と同年には目白駅や目黒駅が、1901年には大崎駅が開設されたが、この時点でも池袋駅は開設されなかった。) その後も日本鉄道は路線網を広げていき、現在の常磐線にあたる区間を1898年に開業。常磐地方の石炭を輸送するという貨物輸送の役割が強かった同線は、繁華街にある上野ではなく田端駅をターミナルにした。田端駅には、太平洋沿岸で採掘される石炭などが多く運び込まれるようになる。 当時の日本は、工業化の進展とともに東京湾臨海部に工場が続々と誕生。田端駅から東京の南部や神奈川方面へ直通する列車の需要が生まれた。こうして同駅と品川線の目白駅とを結ぶ豊島線の構想が本格的に検討される。 豊島線は、田端駅と目白駅の間に駒込・巣鴨・大塚などの駅を開設し、大塚駅からは南西へと線路を建設して一直線に目白駅を目指す構想だった。しかし、目白駅の拡張は地形的な理由から難しく、さらに一直線で線路を建設すると、巣鴨監獄に線路を通すことになる。 巣鴨監獄は戦後にGHQが接収し、A級戦犯が収監された「巣鴨プリズン」の名で知られる。明治新政府は国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設した』、「日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて品川駅までを結ぶ短絡線を建設。これは品川線と呼ばれる路線だが、現在の埼京線に相当する。 品川線には、中間駅として板橋駅・新宿駅・渋谷駅が開設されたが、この時点で池袋駅は開設どころか計画すら浮上していない・・・田端駅から東京の南部や神奈川方面へ直通する列車の需要が生まれた。こうして同駅と品川線の目白駅とを結ぶ豊島線の構想が本格的に検討される。 豊島線は、田端駅と目白駅の間に駒込・巣鴨・大塚などの駅を開設し、大塚駅からは南西へと線路を建設して一直線に目白駅を目指す構想だった。しかし、目白駅の拡張は地形的な理由から難しく、さらに一直線で線路を建設すると、巣鴨監獄に線路を通すことになる」、なるほど。
・『「監獄」を避けた線路  なぜ、政府が諸外国に対して人権意識の高さを示さなければならなかったのか。それは、諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた。政府はこれまでの囚人の扱いを改め、人権意識の高い国であることを示そうとした。 こうした取り組みや日清戦争の勝利により、西洋諸国は日本を一等国として遇するようになるが、巣鴨監獄を取り壊せば再び野蛮な国と見られてしまうかもしれない。そんな不安もあり、豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる。こうして豊島線と品川線の合流地点は変更され、1903年、新たな合流地点に池袋駅が開設された。 工業化が進展していた日本では、鉄道の貨物輸送量が年を経るごとに増加していた。日本鉄道は列車の運行本数を増やすべく、翌1904年に新宿駅―池袋駅間を複線化。日露戦争に勝利すると、政府はさらなる強国へと成長するべく軍事輸送の強化に乗り出す。1906年には「鉄道国有法」を施行し、品川線・豊島線などを含む多くの幹線を国有化。これにより、貨物輸送は政府の思惑が強く反映されることになる。 その後、現在の山手線にあたる区間の複線化が進められると同時に、1909年には電化にも着手。こうして現在の山手線の骨格が少しずつ組み上がっていく。) 池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。 東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。 だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した。 しかし、それでも街のにぎわいは大塚駅のほうが一枚上だった。この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた』、「こうした取り組みや日清戦争の勝利により、西洋諸国は日本を一等国として遇するようになるが、巣鴨監獄を取り壊せば再び野蛮な国と見られてしまうかもしれない。そんな不安もあり、豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった・・・豊島線と品川線の合流地点は変更され、1903年、新たな合流地点に池袋駅が開設された・・・池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。 東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。 だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した」、ずいぶん回り道をしたものだ。
・『豊島区発足、東口がにぎわいの中心に  時代が昭和に移ると、東京市は市域の拡張を検討。1932年、北豊島郡に属する巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が合併して豊島区が発足する。新区名は古くから栄える目白を採用して目白区とする案が有力で、将来性を考慮して池袋区とする案も出されたが、折衷案として郡名から豊島区に決まった。 新たな区役所は交通の便が考慮され、池袋駅付近に開庁することが異論なく決まった。区名になることは逃したものの、区役所が設けられたことで池袋は豊島区の中心的な街へと姿を変えていく。 それまでの池袋は、武蔵野鉄道や東武東上線など郊外へと通じる鉄道路線は開設されていたものの、都心部へと直結する鉄道網がなかった。 しかし、都心へとつながる路線がまったく計画されていなかったわけではない。武蔵野鉄道は1925年に池袋―護国寺間の路線免許を取得。昭和初期に立て続けに恐慌が発生していたこともあり未着工のままになっていた。同免許は東京市へ譲渡され、それが転用される形で1939年に市電の池袋線が開通。市電が都心部と直結したことで、池袋駅は東口ににぎわいが生まれていった。 東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。 池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ。) 武蔵野鉄道や東武東上線の沿線は農地が多く、終戦直後は多くの農家が池袋の闇市に食料を持ち込み、それを生活資金に換えていた。農家が持ち込む米や野菜を目当てに買い物へ来る客は多く、闇市が池袋に活況を与えた。 終戦直後の混乱期、闇市は黙認されていた。しかし、戦後のほとぼりが冷める頃から行政・警察当局による取り締まりが厳格化していく。とはいえ、やみくもに取り締まれば食料流通は停滞し、それは人々の日常生活に混乱を与える。 そこで、東京都は池袋駅東口から南東へと延びる大型道路(現・グリーン大通り)の南側一帯に着目。戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった。こうして東口に商店が立ち並んでいく。 池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった』、「「東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。 池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ・・・東京都は池袋駅東口から南東へと延びる大型道路(現・グリーン大通り)の南側一帯に着目。戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった。こうして東口に商店が立ち並んでいく。 池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、「東口」の方が「西口」より先に発展したようだ。
・『地下鉄開通でさらに発展  これらの動きと連動するように、1949年には池袋駅―神田駅間の地下鉄建設計画が決定。後に神田駅から御茶ノ水駅へとルート変更し、1954年に開業する。これが丸ノ内線の始まりだ。その後も同線は延伸された。 丸ノ内線の輸送能力が限界に達すると、それを補完する有楽町線の池袋駅―銀座一丁目駅間が1974年に開業。地下鉄も集積したことで、池袋は新宿・渋谷と比肩する繁華街へと変貌した。 実のところ、池袋駅の伸長は1960年代から兆しが現れていた。それを端的に表すのが、1964年に新宿・渋谷と池袋の商店街・行政・私鉄などによって結成された三副都心連絡協議会だ。同協議会は、明治通りの下に渋谷・新宿・池袋を結ぶ地下鉄を建設するように東京都へ働きかけている。 しかし、東京都は工費が莫大になることを理由に拒否。代替案として工費を10分の1に抑えられるモノレール構想が打診されたものの、こちらも実現することはなかった。東京都と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)という事業主体は異なるものの、1960年代から副都心線の萌芽ともいえる計画が持ち上がっていたことは注目に値する。 駅西口に目を移すと、運輸(現・国土交通)省が戦災復興で民衆駅を提案したことから戦後の駅前整備が始まっている。民衆駅とは民間資本によって駅舎を整備する資金調達スキームで、池袋駅西口はそのトップバッターに選ばれた。) 民衆駅計画は1947年に策定されたが、西口は権利関係が複雑で、なおかつ東口の根津山のような代替地がなかった。 国鉄や行政の意思だけでは整備ができず、西口に民衆駅を整備するには東武との調整が不可欠だった。闇市を移転する代替地もなかったことから民衆駅の計画は遅々として進まず、竣工に漕ぎ着けたのは1950年になってからだった。それらの影響もあり、民衆駅第1号の名誉はタッチの差で愛知県の豊橋駅となる。 ちなみに、ビックカメラのCMソングに歌われる、東口に西武、西口に東武の構図はこの時点で固まっていない。それどころか、1950年には東横百貨店(現・東急百貨店)が西口に出店。つまり、「東は西武で、西、東急」の時代があった。 1924年から1954年まで、池袋駅西口には鉄道育英会が開設した東京鉄道中学校が立地していた。同校は何度かの変遷を経て芝浦工業大学高等学校になった。 東横が開店した同年、東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった。こうした経緯もあり、東武百貨店は一時的に東武会館のテナントとして入居している。その後、東武は地元商店街からも理解を得て、百貨店事業を拡大。隣接する東横百貨店を買収して南館とした。 東武会館が着工された頃から、それまで停滞していた西口の戦災復興は進み始めた。そして、西口の開発は現在に至るまで繰り返し実施されて街の移り変わりは激しい』、「東横が開店した同年、東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった。こうした経緯もあり、東武百貨店は一時的に東武会館のテナントとして入居している。その後、東武は地元商店街からも理解を得て、百貨店事業を拡大。隣接する東横百貨店を買収して南館とした」、「東武」には「地元商店街の反対」があったので、「アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、初めて知った。
・『2023年に開業120周年  池袋駅は、その後も鉄道によって多くの人を引きつけていく。1985年には池袋駅―赤羽駅間を往復していた赤羽線が発展的に埼京線へと姿を変え、埼玉都民と呼ばれる通勤者の流入を促した。 東上線沿線ではニュータウン開発が盛んになり、沿線人口は増加。住民の多くが東京へと通勤するサラリーマンだったことから東上線の混雑は年を追うごとに激化した。 混雑緩和を目的に、1987年には東上線の和光市駅―志木駅間を複々線化。有楽町線にも乗り入れを開始し、有楽町線と東上線が直通運転することで混雑の分散を図った。それでも池袋駅から山手線へと乗り継ぐ利用者が多く、山手線の混雑率が高止まりしていることから、山手線のバイパス機能を担う副都心線が2008年に開業することになった。 来年2023年、池袋駅は開業120年を迎える。地元の豊島区は2014年から池袋駅周辺の整備に着手し、歩行者主体のまちづくりへと舵を切った。これは2032年の豊島区誕生100年を意識した長期的な取り組みだ。 コロナ禍で鉄道を取り巻く環境や存在意義も改めて問われている。飛躍の原点ともいえる西武が揺れる中、池袋駅と街はどのような変化を遂げるのか』、「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる中、池袋駅と街はどのような変化を遂げるのか」、「西武線」や「東上線」が池袋を通らずに都心に地下鉄で結ばれたことで、ターミナルの乗降客はどの程度減ったのだろう。

次に、本年11月2日付け東洋経済オンラインが掲載した東京情報堂代表の中川 寛子氏によう「おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感 高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/712158
・『特に1980年代には1970年代創刊の「anan」「nonno」「JJ」などといった女性誌にファッションの街、雑貨の街として頻繁に取り上げられた。ロケ地としてテレビドラマに登場することも増え、全国的に知られるようにもなった。同時期には人気絶頂だった松田聖子や俳優の津川雅彦が店長を務める店なども誕生、街中には行列ができたものである。 その後、2003年に自由が丘スィーツフォレストが誕生。スイーツの街としても知られるようになり、現在は美容室が100軒以上、それ以外にネイルやエステのサロンも集積する街になるなど、新しい顔を見せるようにもなっている。 スィーツのまちとしての自由が丘の名を高めたスィーツフォレスト』、「スイーツの街としても知られるようになり、現在は美容室が100軒以上、それ以外にネイルやエステのサロンも集積する街になるなど、新しい顔を見せるようにもなっている」、よくぞこんなにも変貌したものだ。
・『新宿や池袋、二子玉川、武蔵小杉との競争  だが、ここ10~15年、このままでいいのかという議論が起こってきたと、自由が丘のまちづくり会社で都市再生推進法人であるジェイ・スピリットの岡田一弥氏は言う。 きっかけは東急線の相互直通運転だった。新宿や池袋など他の魅力的な商業地域とダイレクトにつながることになり、これまで並び称されてきた代官山、下北沢などとは異なる、より広範な地域間での競争を意識せざるをえなくなったのである。 加えて二子玉川や武蔵小杉の変貌もあった。「自由が丘は鉄道、道路といったインフラが整備されないままにきた街。課題である迷路のような細街路の魅力を武器に専門店の集積として発展してきましたが、一方で諦めてしまったものもあります」と岡田氏。 「かつて6館あった映画館は今はゼロ。大きな床がないのでホテルも、オフィスもありません。駐車場、駐輪場も足りない。生鮮三品を扱う店も以前からの店はほぼ死滅している状態。対して二子玉川や武蔵小杉にはそうしたものが全部揃っています」 周囲の変化に対する危機感に加え、この10年ほどは建物の老朽化が進んでもいた。建て替えを考えても駅前では交通を遮断するわけにいかないため、単独建替えは難しい。さらにいつ始まるかわからない都市計画道路工事もある。そうした諸問題を解消、建物を更新するためには共同で建替えるしかないという声が出ていた。) その結果が現在進んでいる再開発である。再開発はデベロッパーや自治体から地元に声がかかり、彼ら主導で進んでいくことが多い。だが、自由が丘では主体は地権者。このままではまずいという1人の意見に徐々に地域の人たちが賛同、みんなで解決策を模索した結果、自分たちで開発を決めたのである。 再開発と言いながら、実態は共同建替えに近く、自分たちが所有している土地を鑑定、その評価分を再開発後の床と交換すると考えると等価交換とも近いと岡田氏。かなりの商店主が新築後の建物で商売を再開する予定になってもいる。 地元で声が上がり、それで地域がまとまるという流れが生まれた背景には自由が丘の商店街の立地と歴史がある。 自由が丘はターミナル駅ではあるもの、世田谷区との区境近くにあり、自治体が何か施設を作ることもなければ、大手資本が進出することもなく、街の繁栄は商店街にかかっていた。自分たちでやるしかないということである』、「再開発と言いながら、実態は共同建替えに近く、自分たちが所有している土地を鑑定、その評価分を再開発後の床と交換すると考えると等価交換とも近いと岡田氏。かなりの商店主が新築後の建物で商売を再開する予定になってもいる。 地元で声が上がり、それで地域がまとまるという流れが生まれた背景には自由が丘の商店街の立地と歴史がある」、なるほど。
・『12の商店街が「団結」  その結果、自由が丘の商店街は団結した。現在、自由が丘には最少10人、最多380人という12の商店街があり、それを束ねる形で自由が丘商店街振興組合がある。会員数はコロナ禍で少し減ったものの1250人ほどでおそらく日本でも最大級の商店街振興組合である。 それだけの商店街がまとまって動けばインパクトは大きい。たとえば自由が丘では季節に応じて8つのイベントが開催されているが、そのうちでも最大規模の「自由が丘女神まつり」の来場者数は約50万人以上とも言われるほど。隣り合う商店街はたいていの場合、仲が悪いものだが、自由が丘では一緒になって街を盛り上げ、それで成功してきた。一体感がある街なのである。 イベント、祭り以外にも夜間のゴミ収集事業、個店の煩雑なカード決済業務を引き受けるカードビジネス、その他、商店街振興組合はさまざまな事業を行っており、前述のまちづくり会社も商店街発。2002年から商店街が行政、鉄道会社その他地域の関係者と連携、まちづくりを先導してきた。自らの発意による再開発もその流れなのである。) そのため、再開発で生まれるビルには、駐車場、駐輪場、共同荷捌き所、無電柱化を進めるための電力システムなど、今自由が丘に足りていないものを備えるという。加えて、細街路に個店が並ぶ、いかにもこの街らしい自由が丘サンセットエリアへの人の流れを促すよう、建物内を貫通する通りも作られる。足元には幅4.5mほどの歩道空間も生まれる予定だ。 低層階には商業、業務機能を入れ、7階以上を賃貸住宅に充てるというのも他の再開発にはない点だ。自由が丘の大きな顧客である隣接地、田園調布では高齢化が進んでおり、165㎡という住宅の最低敷地面積の制限もあって若い人の流入がそれほど多くは見込めない。だが、自由が丘駅前の賃貸住宅であればこれまでと違う層の流入が期待できる。 また、賃貸にするということは売りきっておしまいにするという、よくある再開発のやり方ではないという意味でもある。地権者、事業協力者も含め、この土地に関わり続けざるをえないのである』、「自由が丘駅前の賃貸住宅であればこれまでと違う層の流入が期待できる。 また、賃貸にするということは売りきっておしまいにするという、よくある再開発のやり方ではないという意味でもある。地権者、事業協力者も含め、この土地に関わり続けざるをえないのである」、なるほど。
・『さらなる再開発もありえるか  開発が進む地域と道路を挟んで西側、東急東横線を挟んで東側でもすでに市街地再開発準備組合が設立されている。現在のところ、どのような開発になるかはわかっていないが、内容次第では現在、自由が丘に足りていない機能が新たに付加されるかもしれない。 2004年度に自由が丘周辺の東急2路線が東京都の「踏切対策基本方針」の検討対象区間に位置づけられて以降、鉄道施設の更新についても検討が行われてきた。2023年には目黒区が自由が丘駅周辺地区都市基盤整備構想を策定。建物の更新よりは時間はかかるかもしれないが、確実に鉄道インフラの更新への道は敷かれつつある。 東急東横線沿いには戦後の闇市に由来する商業施設・自由が丘デパート、ひかり街、サンリキ会があるが、こちらでも街づくり勉強会が始まった。ただ、これらのビルは線路と非常に近く、建物だけ、鉄道だけでの更新は難しいように思われる。鉄道の更新同様時間をかけて検討するということになるのではなかろうか。) 駅周辺のあちこちでさまざまな動きがあるわけだが、気になるのは自由が丘らしさはどうなるか。 「サンセットエリア、南口地区はこれまでと変わらないので自由が丘らしさは周辺に残ります。逆に駅近くの商業施設の集客力が増えることでそこからのシャワー効果で周辺部にも人が増え、結果として街が面的に大きくなるのではないかと見込んでいます」(岡田氏) ジェイ・スピリットと目黒区が連携して作った「自由が丘未来ビジョン」によると再開発エリアを含む駅周辺の商業地域は歩行者中心の「楽歩地区(らっぽちく)」とされており、できるだけ多くの歩行者空間、日本一多い座れる場を創り出すことが目指されている。 九品仏川緑道に匹敵するようなオープンスペースの整備計画もある。再開発建物内に平面、立面の細街路を作ることも構想されており、それを見る限り、自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている。駅前の風景は変えるとしてもこの街らしさは変えない。それが現在、開発に関わっている人たちの思いであるようだ』、「自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている。駅前の風景は変えるとしてもこの街らしさは変えない」、これを大切にしてほしいものだ。「開発が進む地域と道路を挟んで西側、東急東横線を挟んで東側でもすでに市街地再開発準備組合が設立されている。現在のところ、どのような開発になるかはわかっていないが、内容次第では現在、自由が丘に足りていない機能が新たに付加されるかもしれない・・・鉄道施設の更新についても検討が行われてきた。2023年には目黒区が自由が丘駅周辺地区都市基盤整備構想を策定。建物の更新よりは時間はかかるかもしれないが、確実に鉄道インフラの更新への道は敷かれつつある。 東急東横線沿いには戦後の闇市に由来する商業施設・自由が丘デパート、ひかり街、サンリキ会があるが、こちらでも街づくり勉強会が始まった。ただ、これらのビルは線路と非常に近く、建物だけ、鉄道だけでの更新は難しいように思われる。鉄道の更新同様時間をかけて検討するということになるのではなかろうか・・・九品仏川緑道に匹敵するようなオープンスペースの整備計画もある。再開発建物内に平面、立面の細街路を作ることも構想されており、それを見る限り、自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている。駅前の風景は変えるとしてもこの街らしさは変えない。それが現在、開発に関わっている人たちの思いであるようだ」、なるほど。「自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている」、一安心だ。
・『従来とは違うイオンモールも誕生  このほか、2021年に閉店し、自由が丘周辺住民に多大なショックを与えたスーパー、大丸ピーコックの跡地はイオンモールの商業施設「JIYUGAOKAde aone(自由が丘デュアオーネ)」として2023年10月に開業した。従来のイオンモールを想像した人たちからは自由が丘にそぐわないのではないかという声も聞かれたが、実際にはデッキ、緑の多い開放的で自由が丘らしい建物になっている。 これは建物背後が規制の厳しい第一種低層住居専用地域で斜線制限などがあるため、セットバックの多い建物にならざるをえなかった結果。とはいえ、商店街にも相談、逐次報告があったそうで、商店街が大事にする自由が丘らしさもおおいに考慮されたのではないかと思うのだが、どうだろう。 参考資料/「自由が丘」ブランド自由が丘商店街の挑戦史岡田一弥・阿古真理著産業能率大学出版部2016年』、「イオンモールの商業施設「JIYUGAOKAde aone・・・」として2023年10月に開業した。従来のイオンモールを想像した人たちからは自由が丘にそぐわないのではないかという声も聞かれたが、実際にはデッキ、緑の多い開放的で自由が丘らしい建物になっている」、「自由が丘らしさ」は大切にしたとは「イオン」もやるものだ。
タグ:・・・池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。 東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野 「スイーツの街としても知られるようになり、現在は美容室が100軒以上、それ以外にネイルやエステのサロンも集積する街になるなど、新しい顔を見せるようにもなっている」、よくぞこんなにも変貌したものだ。 「こうした取り組みや日清戦争の勝利により、西洋諸国は日本を一等国として遇するようになるが、巣鴨監獄を取り壊せば再び野蛮な国と見られてしまうかもしれない。そんな不安もあり、豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった・・・豊島線と品川線の合流地点は変更され、1903年、新たな合流地点に池袋駅が開設された 田端駅から東京の南部や神奈川方面へ直通する列車の需要が生まれた。こうして同駅と品川線の目白駅とを結ぶ豊島線の構想が本格的に検討される。 豊島線は、田端駅と目白駅の間に駒込・巣鴨・大塚などの駅を開設し、大塚駅からは南西へと線路を建設して一直線に目白駅を目指す構想だった。しかし、目白駅の拡張は地形的な理由から難しく、さらに一直線で線路を建設すると、巣鴨監獄に線路を通すことになる」、なるほど。 「日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて品川駅までを結ぶ短絡線を建設。これは品川線と呼ばれる路線だが、現在の埼京線に相当する。 品川線には、中間駅として板橋駅・新宿駅・渋谷駅が開設されたが、この時点で池袋駅は開設どころか計画すら浮上していない・・・ 「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかったが、それが街を発展させてきた」、ターミナル駅としては珍しい由来だ。 小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」 東洋経済オンライン 「イオンモールの商業施設「JIYUGAOKAde aone・・・」として2023年10月に開業した。従来のイオンモールを想像した人たちからは自由が丘にそぐわないのではないかという声も聞かれたが、実際にはデッキ、緑の多い開放的で自由が丘らしい建物になっている」、「自由が丘らしさ」は大切にしたとは「イオン」もやるものだ。 九品仏川緑道に匹敵するようなオープンスペースの整備計画もある。再開発建物内に平面、立面の細街路を作ることも構想されており、それを見る限り、自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている。駅前の風景は変えるとしてもこの街らしさは変えない。それが現在、開発に関わっている人たちの思いであるようだ」、なるほど。「自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている」、一安心だ。 2023年には目黒区が自由が丘駅周辺地区都市基盤整備構想を策定。建物の更新よりは時間はかかるかもしれないが、確実に鉄道インフラの更新への道は敷かれつつある。 東急東横線沿いには戦後の闇市に由来する商業施設・自由が丘デパート、ひかり街、サンリキ会があるが、こちらでも街づくり勉強会が始まった。ただ、これらのビルは線路と非常に近く、建物だけ、鉄道だけでの更新は難しいように思われる。鉄道の更新同様時間をかけて検討するということになるのではなかろうか・・・ 「開発が進む地域と道路を挟んで西側、東急東横線を挟んで東側でもすでに市街地再開発準備組合が設立されている。現在のところ、どのような開発になるかはわかっていないが、内容次第では現在、自由が丘に足りていない機能が新たに付加されるかもしれない・・・鉄道施設の更新についても検討が行われてきた。 「自由が丘らしさは形を変えつつも最大限に尊重されている。駅前の風景は変えるとしてもこの街らしさは変えない」、これを大切にしてほしいものだ。 「自由が丘駅前の賃貸住宅であればこれまでと違う層の流入が期待できる。 また、賃貸にするということは売りきっておしまいにするという、よくある再開発のやり方ではないという意味でもある。地権者、事業協力者も含め、この土地に関わり続けざるをえないのである」、なるほど。 「再開発と言いながら、実態は共同建替えに近く、自分たちが所有している土地を鑑定、その評価分を再開発後の床と交換すると考えると等価交換とも近いと岡田氏。かなりの商店主が新築後の建物で商売を再開する予定になってもいる。 地元で声が上がり、それで地域がまとまるという流れが生まれた背景には自由が丘の商店街の立地と歴史がある」、なるほど。 中川 寛子氏によう「おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感 高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳」 「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる中、池袋駅と街はどのような変化を遂げるのか」、「西武線」や「東上線」が池袋を通らずに都心に地下鉄で結ばれたことで、ターミナルの乗降客はどの程度減ったのだろう。 「東横が開店した同年、東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった。こうした経緯もあり、東武百貨店は一時的に東武会館のテナントとして入居している。その後、東武は地元商店街からも理解を得て、百貨店事業を拡大。隣接する東横百貨店を買収して南館とした」、「東武」には「地元商店街の反対」があったので、「アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、初めて知った。 口」の方が「西口」より先に発展したようだ。 東京都は池袋駅東口から南東へと延びる大型道路(現・グリーン大通り)の南側一帯に着目。戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった。こうして東口に商店が立ち並んでいく。 池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、「東 「「東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。 池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ・・・ 鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。 だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した」、ずいぶん回り道をしたものだ。 (その1)(池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった、おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感 高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳) タウン情報・街並み
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