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驕る自民党議員の暴走(その2) 丸山議員の失言、丸川環境相の発言、高市総務相の発言 [メディア]

驕る自民党若手の暴走を昨年8月14日に取上げた。最近は若手に止まらず、中堅や大臣も加わってきたので、今日は若手を外して、驕る自民党議員の暴走(その2) 丸山議員の失言、丸川環境相の発言、高市総務相の発言 である。

たびたび引用しているコラムニストの小田嶋隆氏が、2月19日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ロード・トゥ・ザ・提灯持ち」を紹介しよう。
・自民党の丸山和也参議院議員が、2月17日の参院憲法審査会で「黒人奴隷が米大統領になった」という旨の発言をしたということで、ちょっとした騒ぎになっている。 はじめにお断りしておくが、私は、丸山議員のこの発言を、今回の原稿の主題に据える気持ちは持っていない。 最初にこの発言のニュースを引いたのは、ほかの政治家の問題発言と対比するためだ。
・私は、ここしばらく頻発している政治家による不穏当な発言と、それらの発言に関するそれぞれの報道のトーンに、釈然としないものを感じている。今回はそれらの「失言の伝えられ方」を見比べてみることでメディアの役割について再考してみたいと考えている。
・丸山議員の発言は、問題外の軽率な発言だ。 「どこから突っ込んで良いのやら」 というヤツだ。 なにより、「黒人の血を引く」「奴隷ですよこれは」といったあたりの言葉の選び方に無神経さが露呈している。 昭和の時代ならいざ知らず、21世紀の政治家である以上、このあたりの言葉についての感覚の鈍さは、資質を疑われても仕方のないレベルだと思う。
・とはいえ、発言の内容自体は、全体の文脈から言って、人種差別意識に根ざしたものではない。大統領や米国に対して悪意のこめられた主張でもない。米国の自由さと変化のダイナミックさを強調する話の流れの中で、例として引いた奴隷のたとえが、結果として無神経なお話だったということに過ぎない。
・その意味では、今回の彼の発言は、異常な政治観や露骨な差別意識を反映した「暴言」というよりは、単に言葉の選び方を間違えた「失言」に近い。 「失言」だから勘弁してやれ、と言っているのではない。 悪気が無いんだから大目に見るべきだと主張しているのでもない。
・私が言いたいのは、軽率さや言葉遣いの稚拙に起因する「失言」と、考え方そのものの暴力性や異常性のあらわれである「暴言」は、別種の問題として分けて考えるべきで、処分の仕方や記事の書き方についても、両者は峻別した方が良いということだ。
・丸山議員が前述の失言をその日のうちに謝罪・撤回した日から数えてちょうど5日前の2月12日、丸川珠代環境大臣が記者会見を開いて、自身の発言を撤回し、関係者に陳謝している。
・撤回の対象となった丸川大臣の発言は、以下のようなものだ。 彼女は、福島第一原子力発電所の除染長期目標値の設定について、2月7日に松本市で開催された自身の講演の中で「何の科学的根拠もない」と述べている。
・この発言は、様々な点で問題を含んでいる。 年間1ミリシーベルトとされている除染の長期目標値(詳しくはこちら)について、異論があることは事実だ。 おそらく、丸川大臣の周囲にいる専門家の中には、 「もっと大きい数値でも問題ないはずだ」  と言っている人もいるのだろう。 しかしながら、この1ミリシーベルトという数字は、ほかならぬ国(つまり環境省)が定めたものだ。当然、科学的根拠も、国が数値を決定する段階で十分に検討されていると考えなければならない。というよりも、環境大臣が、自分たちの定めた基準値を否定してしまったら、環境基準という考え方そのものが丸ごと無効になってしまう。そんなバカなことが通用して良いはずがないではないか。
・仮に、丸川大臣が、この先、この数値を見直す考えをその内心に抱いているのだとしても、その際には、もう一度科学的な根拠を明らかにした上で数値見直しに向けた手続きをはじめからやり直さなければならない。
・大臣の任にある人間が、ほかならぬ国の定めた基準値を「科学的根拠が無い」などと言い捨てて良い道理はどこにもない。もしそんなことが許されるのなら、国道ごとに設定された速度制限にしたところで、ドライバーの側が恣意的に「根拠が無い」と決めつけた上で、無視して良いことになる。
・さらにタチが悪いのは、前述の記事の中で触れられている通り、丸川大臣が、 《信濃毎日新聞が報道した8日、丸川氏は記者団に「そういう言い回しはなかったと記憶している」と否定。9日の衆院予算委でも「こういう言い回しをした記憶は持っていない」と釈明した。》と、自らが当該の発言をした事実を当初は認めようとしなかった点だ。
・もうひとつ、15日の衆院予算委員会で民主党の長妻昭・民主党代表代行が指摘したところによれば、丸川大臣は、講演の中で、「科学的根拠が無い」とする発言に先立って、《「反放射能派がワーワー騒いだ中で…」と状況説明を》していたことが明らかになっている。
・ここで「反放射能派」と呼ばれている人々がどういう種類の人々であるのか、また、「ワーワー騒いだ中で」と説明されている状況が具体的にどんな場面を指しているのかは、この短い引用からだけでは判定しがたい。が、いずれにせよ、丸川大臣が「反放射能派」に良い感情を抱いていないことは、はっきりしている。というのも、「ワーワー騒いだ中で」という描写の中には、あからさまな蔑視が露呈しているからだ。
・もっとも、反原発を訴える人々の中に、放射線被害を過剰に見積もって騒ぎ立てる人たちが一定数含まれていることは、一面の事実ではある。 私自身、その種の放射線被曝の恐ろしさを過剰に騒ぎ立てる人たちの活動に影響されて、福島県産の農産物や水産物がなかなか風評被害から脱しきれていない部分があることに心を痛めてもいる。 とはいえ、ごく一部の極端な運動家が放射線恐怖を過大に煽り立てているからといって、一般の国民が抱いている放射線への不安のすべてが、まるごと科学的根拠を欠いた妄想だということにはならない。
・過剰に恐れることが科学的でないのと同様に、危険を過小に見積もることも科学的な態度とは言えない。その意味で、国の基準である1ミリシーベルトという除染目標値を「科学的根拠が無い」と決めつけた丸川大臣の言葉は、科学的な取り組み方とはほど遠い断言だったと評価せざるを得ないし、その発言に至る判断の背景に介在していたと思われる「反放射能派」に対する蔑視に至っては、科学的な態度どころか、一般人としての礼儀すら踏みにじっていると思う。
・さて、相前後して起きた二つの政治家の発言をめぐる事件は、その重大性にふさわしい伝えられた方をしただろうか。 結果は、報道量において、丸山案件が圧勝している。 理由はたぶん、丸山発言の方が、やらかし感においてわかりやすく、記事として書きやすく、また、若手の政治記者がやっつけるタマとしても手頃だからだ。
・「黒人」「奴隷」「大統領」「51番目の州」という、中学生でもピンと来るキーワードを粗雑に散りばめた丸山議員のお馬鹿な演説と、その間抜けな演説を思うさまにやっつけた記事の文面は、ランチの話題にぴったりの手軽さと、他人の愚かな行状を笑い飛ばす爽快感に溢れた爽やかな読後感を与えてくれる。
・それに比べれば、丸川大臣のネタは、「科学」や「放射能」や「シーベルト」という厄介な話題を含んでいる。間違っても雑な解説はできないし、ツッコみ方を間違えるとこっちがヤケドをしかねない。 といって、正確を期して慎重に書いた科学関連の記事は、慎重であるがゆえに読者の関心を惹きにくい。
・でも、どちらがニュースとして重要なのかは明らかだ。 考えの足りないタレント出身の議員がウケ狙いをたくらんだあげくに見事にスベっただけの自損事故めいた失言騒動よりは、国民の安全と豊かさに関して致命的な次元で左右する環境ならびにエネルギー政策を担う環境大臣による、国策を愚弄しにかかる発言の方が、どこからどう考えても重大であるに決まっているのだが、メディアは、よりわかりやすく、よりページビューが稼げそうで、より書きやすい方の記事を選んでいる。これが頽廃でなくてなんだろうか。
・もうひとつ、ほかならぬメディアに向けて吐かれた暴言がある。 高市早苗総務大臣による、「停波可能性」発言だ。 《--略-- (2月)9日の衆院予算委員会。民主の玉木雄一郎氏が「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」と問いただした。高市氏は「1回の番組では、まずありえない」としつつ、「私が総務相の時に電波停止はないだろうが、将来にわたってまで、法律に規定されている罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べ、重ねて電波停止を命じる可能性に言及した。--略--》 
・この後、安倍晋三首相が、「番組全体は一つ一つの番組の集合体で、番組全体を見て判断する際、一つ一つの番組を見て判断するのは当然」と、高市大臣の停波発言を追認し、 さらに、16日午前の衆院予算委員会では、《放送局の電波停止に触れた自らの一連の発言をめぐる最近の報道について、「私自身に対するここ1週間くらいの報道を見ても、決してメディアは萎縮していない。報道に携わる方が矜持(きょうじ)をもって伝えるべきことを伝えている」と述べ》ている。
・これは、以前、国会答弁の中で、安倍首相が、《「今日、帰りにでも日刊ゲンダイを読んでみてくださいよ。これが萎縮している姿ですか」》と言って野党の質問を笑い飛ばしたのと同じ論法だ。
・わかりきった話ではあるのだが、一応反論しておく。 メディアの萎縮というのは、0か1かを問うオール・オア・ナッシングの問題ではない。 萎縮には程度があり、段階があり、また分野があり強度がある。どの分野のどの報道が、どんなふうに萎縮しているのかについては、数多くあるメディアの現在と過去を仔細に比較検討した上でないと、簡単には答えられない。
・「日刊ゲンダイ」が連日安倍首相を非難する記事を掲載しているからといって、そのことをもって、日本のメディアがまったく萎縮していないことを立証することはできないし、高市総務大臣の一連の発言への批判記事が複数のメディアに掲載されているからといって、すべてのメディアが圧力を受けていないと言い切れるものでもない。
・その種の極論が許されるのであれば、戦前の日本にも最後まで政府批判を貫いていた人々はいたし、ナチスドイツ治世下のドイツであっても、一部の宗教者やレジスタンスはヒットラーへの抵抗をやめていなかったわけで、とすれば、大本営の大日本帝国でも、ナチスドイツでも言論の自由は保障されていたということになってしまう。
・昨年の2月、当時世間を騒がせていた「イスラム国」人質事件に関連して、政権批判の自粛が広がっているとして、そのことを憂えるジャーナリストや学者1200人が、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道陣、表現者の声明」を発表するということがあって、朝日新聞がその記事を掲載したことがあった。
・と、早速 《そもそも、この記事が載ること自体が、言論封殺の翼賛体制なんてないということを証明してるじゃねえか>「政権批判の自粛、社会に広がっている」1200人声明 - 朝日新聞デジタル》  と、記事を揶揄するツイートが私のタイムラインに流れて来た。
・《《「政権批判の自粛が広がっている」という記事が載ること自体が言論封殺の成立を否定している》みたいな言い方って、一見もっともらしいけど、「程度」の問題を無視していると思うよ。政権批判の「自粛」が広がることは、政権批判記事が「根絶」されることとは別なわけだし。》   《程度の問題を無視して極論を言うなら、「こういう提灯持ちが現れること自体、政権のプロパガンダが確実に浸透していることを物語っている……」みたいな言い方だってできるわけでね。》  という二つのツイートで応じたわけなのだが、状況は当時より深刻化している。
・というのも、「政権批判の自粛が広がっているという記事が載ること自体が、言論封殺の成立を否定している」という主旨の発言をする人間が、素人のツイッタラーではなくて、政権の中枢のメンバーになっているからだ。
・「言論の弾圧」は、必ずしも憲兵がやってきて記者を逮捕していったり、新聞記事の文面が伏せ字だらけになることだけを意味しているのではない。 一般的な言論への圧力は、もっと微妙な形で、たとえば、政権に対して苦言を呈することの多いニュースキャスターが更迭されて代わりに局アナが起用されるとか、GDPが二期連続でマイナスである旨を伝えるニュースに「実体経済は変わらず良好」というテロップが添えられるみたいな現象として、メディアの上に顕現することになっている。 というよりも、言論への圧力は、そもそも、受け手には気づかない場所で進行するはずなのだ。 私は、丸川環境相や高市総務相のニュースより、丸山議員の失言のニュースの方がずっと大きく扱われていること自体が、実のところ、大きな枠組みから言えば、「メディアの萎縮」の現れであるというふうに受け止めている。 なんとなくやりにくいニュースをスルーしているだけで、「萎縮」はものの見事に達成される。 少々古い話になるが、1月29日の朝日新聞に載った、池上彰さんの「新聞ななめ読み」というコラムが、メディアの萎縮の背景にある微妙な空気をこれまた微妙な書き方で活写していて秀逸だった。
・安倍首相の動静記事を大手紙がどのように書いているかを読み比べたものだ。リンクを辿れる方は、ぜひ参照していただきたい。 2年もしたら、私たちは、首相がいつ、誰と食事をしたのかについて、知ることができなくなるかもしれない。 私たちが首相の会食の相手の名前にアクセスできなくなる理由は、メディアの人間が会食の席から締め出されるからではないかもしれない。 その逆で、彼らが首相と肝胆相照らす仲になっているから、かもしれない。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/021800032/

丸山議員のは「考えの足りないタレント出身の議員がウケ狙いをたくらんだあげくに見事にスベっただけの自損事故めいた失言騒動」とは、言い得て妙である。これよりはるかに重大な丸川環境相の発言の報道量の方が少なかったのは、確かにメディアの「頽廃」「萎縮」だ。
さらに、安部首相は、高市総務相の「停波可能性」発言を追認したのみならず、日刊ゲンダイを例にメディアの「萎縮」を否定したのには仰天した。有効な反論が出来ない野党やメディアのだらしなさにも失望させられた。メディアの萎縮には「程度、段階、分野、強度」があり、「大本営の大日本帝国でも、ナチスドイツでも言論の自由は保障されていたということになってしまう」との小田嶋氏の指摘には、思わず膝を打った。池上彰氏を含め、こうした物が言える言論人が例外的存在である限りは、「萎縮」がさらに進むのではないかと危惧している。
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