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ミャンマー(ロヒンギャ問題:彼らはどう焼かれ 強奪され 殺害されたか、5問でわかる「ロヒンギャ問題とは何か?」スーチー氏が直面する壁 なぜ差別を受けるのか。どう解決できるのか。) [世界情勢]

今日は、ミャンマー(ロヒンギャ問題:彼らはどう焼かれ 強奪され 殺害されたか、5問でわかる「ロヒンギャ問題とは何か?」スーチー氏が直面する壁 なぜ差別を受けるのか。どう解決できるのか。)を取上げよう。

先ずは、2月12日付けロイター「特別リポート:ロヒンギャの惨劇 彼らはどう焼かれ、強奪され、殺害されたか」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・縛られ、拘束された10人のロヒンギャの男たちは、すぐそばで浅い墓穴を掘る隣人の仏教徒たちを見つめていた。それからまもなく、昨年9月2日朝、彼ら10人の遺体がその穴に横たわった。そのうちの2人を切り殺したのは仏教徒たち。残る8人はミャンマー軍によって射殺されたと、穴を掘ったグループの2人がロイターに証言した。
・ミャンマーで起きたイスラム系少数民族ロヒンギャの惨劇。「ひとつの墓穴に10人を入れた」。同国ラカイン州インディン村にある仏教徒集落の退役兵士、Soe Chayはそう語り、同日の事件で自ら墓穴掘りに加わり、殺害を目撃したことを認めた。  彼によれば、兵士たちは、拘束したロヒンギャ1人に2、3発の銃弾を打ち込んだ。「埋められるとき、数人からはまだうめき声が聞こえていた。他はすでに死んでいた」と彼は話した。
▽終りの見えない「浄化作戦」
・ミャンマーの西の端にあるラカイン州の北部では、ロヒンギャたちに対する暴力行為が広範囲に行われている、と隣国バングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民や人権擁護団体は訴える。海岸沿いの村インディンで起きた虐殺事件は、暴力的な民族対立の悲惨さを雄弁に物語っている。
・昨年8月以降、自分たちの村を脱出、国境を越えてバングラデシュに避難したミャンマーのロヒンギャ住民は69万人近くに達する。インディン村にはかつて6000人のロヒンギャたちが住んでいたが、10月以降、残っているものは誰もいない。
・およそ5300万人の人口を持つミャンマーは、国民の圧倒的多数が仏教徒だ。イスラム系住民であるロヒンギャたちは、同政府軍が自分たちを抹殺するため、放火、暴行、殺戮(さつりく)を続けていると訴えている。
・国連はこれまでもミャンマー軍が虐殺を行っていると非難し、米国政府は同国での民族浄化を制止する行動を呼びかけている。一方、ミャンマー側はこうした「浄化作戦」はロヒンギャ反政府勢力による攻撃に対する合法的な対抗策だと繰り返している。
・ロヒンギャたちにとって、ラカイン地域はこれまで何世紀にもわたり自分たちが住み続けてきた場所だった。しかし、ミャンマー人の多くは、彼らをバングラデシュからやってきたイスラム系の招かれざる移民とみなし、軍はロヒンギャたちを「ベンガル人」と呼ぶ。 こうした対立はここ何年かの間に激しさを増し、ミャンマー政府は10万人以上のロヒンギャたちを食糧も医薬品も教育も十分に提供されないキャンプに閉じ込めてきた。
▽食い違う現場と政府の証言
・インディン村の惨劇はどのように起きたのか。ロイターは事件への関与を告白した仏教徒の村民たちに接触し、ロヒンギャたちの家屋への放火、殺害、死体の遺棄についての初めての証言を得た。証言からは軍の兵士や武装警察官が関係していたことも明らかになった。 村に住む長老の仏教徒からは3枚の写真を渡された。そこには9月1日の夕刻、ロヒンギャたちが兵士に拘束され、翌2日の午前10時過ぎに処刑されるまでの決定的な瞬間が写し出されていた。
・ロイターが事件の調査を続ける中、警察当局は12月12日、同社記者であるWa LoneとKyaw Soe Ooの2人を逮捕した。ラカインに関する機密情報を入手したという容疑だった。そして、年が明けた1月10日、軍はロイターによる報道内容をある部分で確認する声明を出した。インディン村において、10人のロヒンギャ住民が虐殺されたことを認める発表だった。
・しかし、軍が示した説明は、いくつかの重要な点で、事件を目撃したラカインの仏教徒やロヒンギャたちがロイターに提供した証言と食い違ってる。 軍側は殺された10人を治安当局に攻撃を仕掛けた「200人のテロリスト」の一味であると決めつけた。しかし、村の仏教徒住民はロイターに対し、インディン村において、大勢の反乱分子よる治安部隊への攻撃は全くなかったと明言している。そして、ロヒンギャの目撃者によると、その10人は近くの浜辺に避難していたロヒンギャたちから引き抜かれるように連行されていった人たちだった。
・さらに、ロイターの取材に応じた多くの仏教徒、兵士、武装警官、ロヒンギャたち、そして地元の行政当局者の証言から、より詳しい状況が明らかになった。
ー 仏教徒村民によると、軍の兵士や武装した警察官がインディン村の仏教徒住民を集め、そのうちの少なくとも2人がロヒンギャ住民の家に放火した。
ー 3人の武装警察官およびラカイン州の州都シットウェの警察官によると、インディン村のロヒンギャ集落を「浄化」する命令は、軍の指揮系統を通じて下された。
ー インディン村の仏教徒行政官と武装警官によると、武装警察隊の数人がロヒンギャ住民から牛やオートバイを売却目的で略奪した。
▽政府側は軍の作戦を擁護
・ロイターが入手したこれらの証言や情報について、ミャンマー政府はどう反応しているのか。 スポークスマンであるZaw Htayはロイターに対し、「人権侵害の申し立てがあることは否定しない。そして、全てを否定してもいない」とし、もし不法行為について「十分かつ信頼できる一次証拠があれば、政府は調査を行う」と語った。「そして、証拠に間違いがなく、暴力があったことが分かれば、我々は現行法に従って必要な行動を取る」と述べた。
・インディン村のロヒンギャ集落を「浄化」するよう命令を受けたという武装警官たちの証言については、「証明が必要だ。内務省と警察当局に聞かなければならない」と返答。武装警官たちによる略奪に関しては、警察が捜査するだろうと語った。
・スポークスマンは、仏教徒村民たちがロヒンギャたちの住宅を焼き討ちしたとの情報には驚いた表情で、「いくつも様々な異なった申し立てがあるが、誰がそうしたのかを証明することが必要だ。今の状況下では、それは非常に難しい」と付け加えた。
・一方、同氏はラカイン地域における軍の作戦を擁護した。「国際社会は誰が最初にテロ攻撃を仕掛けたのか理解すべきだ。もし、そうしたテロ攻撃が欧州各国や米国で、例えばロンドン、ニューヨーク、ワシントンで起きたら、メディアは何と言うだろうか」。
▽隣人に牙をむく隣人
・一連の出来事は昨年8月25日、ロヒンギャの反政府集団がラカイン州北部にある警察署と軍の基地に対して行った襲撃から始まった。身の危険を感じたインディン村の数百人の仏教徒村民たちは修道院に逃げ込んだ。8月27日、ミャンマーの第33軽歩兵部隊およそ80人が同村に到着した。
・村の5人の仏教徒によると、部隊を統率する兵士の1人は到着後、彼らに対し、治安作戦に参加することもできると持ちかけた。実際に仏教徒の「治安グループ」から名乗りを上げる者が出たと言う。 その後の数日間で、兵士、警官、仏教徒村民たちは同村のロヒンギャたちが住む家のほとんどに放火した、と10人以上の仏教徒住民がロイターに証言した。
・警官の1人は、ロヒンギャが住む地区へ「出かけて浄化する」よう司令官から口頭で命令を受け、放火しろと言う意味で受け止めたと話した。インディンの北にあるいくつかの村に何度か襲撃を仕掛けたという別の警官もいた。その警官とインディンの仏教徒行政官であるMaung Thein Chayによると、こうした治安部隊は村人たちに紛れ込めるよう民間人のシャツを着ていたという。
・ロヒンギャたちがインディン村から逃れた後に起きた略奪について、仏教徒たちがニワトリやヤギなど奪う一方、オートバイや畜牛といった価値の高い物品は第8治安警察隊の隊長が集め、売り払ったとの証言もあった。この隊長であるThant Zin Ooは、ロイターの電話取材に対し、コメントしなかったが、警察の広報を務めるMyo Thu Soe大佐は、略奪があったかどうか捜査すると話している。
・昨年9月1日までには、数百人のロヒンギャ住民がインディンから近くの海岸に避難していたと、複数の目撃者は話す。彼らの中に、殺害された男性10人がいた。彼らのうち5人は漁師または魚売りだった。その他の2人は店の経営者、2人は学生、1人はイスラム教指導者だった。 ロヒンギャたちの証言によると、このイスラム教指導者Abdul Malikは食べ物や竹を取りに村に戻っていた。避難場所に戻る時、少なくとも7人の兵士と武装した仏教徒の村人が後をつけてきた。その後、兵士はロヒンギャたちから男性10人を選んだという。
・その夜に撮影された1枚の写真には、村の小道にひざまづく10人の姿が写っている。仏教徒村民の話では、9月2日、彼らは墓地近くの低木地に連行され、そこで再び写真を撮られたという。  兵士らは彼らに、行方不明となっている仏教徒の農民、Maung Niの消息を問いただした。ロイターの取材に対し、複数の同州仏教徒とロヒンギャ住民は、10人のうちの誰かと行方不明の農民を結びつける証拠については何も知らないと答えた。
・仏教徒3人は、兵士がこの10人を処刑場所に連行するのを目撃したと話した。墓穴を掘った1人である元軍人のSoe Chayによると、現場を仕切る将校が、行方不明になっているMaung Niの息子たちを呼び、最初の一撃を加えるよう促した。そして、長男がイスラム教指導者のAbdul Malikを斬首にし、次男も他の男性の首を切り落としたという。
・殺害後の様子をとらえた写真をロイター記者に提供したラカイン州の長老は、その理由をこう語った。「この事件で起きたことをはっきりさせておきたい。この先、二度とこのようなことは繰り返して欲しくない。」
https://jp.reuters.com/article/rohinghya-idJPKBN1FW040

次に、昨年10月2日付けとやや古いが、全体像を捉えたものとして、上智大学教授(ビルマ近現代史)の根本 敬氏が現代ビジネスに寄稿した「5問でわかる「ロヒンギャ問題とは何か?」スーチー氏が直面する壁 なぜ差別を受けるのか。どう解決できるのか。」を紹介しよう’▽は小見出し)。
・50万人を超えるロヒンギャの人々が、ミャンマーから隣国バングラデシュへ難民となってあふれ出ている。雨期のなか、故郷のラカイン州西北部から国境のナフ河を越え、着の身着のままで脱出し、受け入れ態勢不十分な土地でなんとか生きようともがいている。
・1991年のノーベル平和賞受賞アウンサンスーチーが国家顧問を務める国で生じた大規模難民流出だけに、国連をはじめ国際社会の注目度は高い。日本でもそれなりに報道されているが、「ロヒンギャ問題はよくわからない」という方々はまだたくさんいるのではないだろうか。 ここではよくなされる5つの質問に答える形で、この問題についてわかりやすく説明してみたい。
▽問1 ロヒンギャとはどういう民族か?
・ロヒンギャの人々は独立国家を求めているわけではなく、自分たちの民族名称を認めてもらったうえで、ミャンマー連邦の国籍が与えられるよう求めている。 在外のロヒンギャの知識人によれば、自分たちはミャンマーのラカイン地方に8世紀から住む「由緒ある民族」だと主張している。
・しかし、ミャンマーでは政府も国民も彼らを「民族」として全く認めていない。外国からの不法移民集団だと決めつけている。 ロヒンギャに関する人権問題の立場からの調査は数多くあるが、歴史や人類学・社会学などの実証的研究はほとんど存在しない。そもそも史料が十分ではない。したがって、ロヒンギャの特徴について明確に説明できる事柄は、次の5つに限られる。
 1. 彼らはインドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)に起源を有し、保守的なイスラームを信仰している。言語はロヒンギャ語(ベンガル語チッタゴン方言のひとつ)を母語として使用する。 人口は統計がないので不明だが、ミャンマーのラカイン州に推定100万人強が住んでいるとされる。世界中に散った同胞を含めれば200万人に達すると主張するロヒンギャ知識人もいる。
 2. ロヒンギャ知識人が唱える歴史では、彼らは8世紀からラカインの地に住み続けていることになっている。しかし、現存する文書史料では「ロヒンギャ」という呼称の使用は第二次世界大戦後の1950年までしか遡れず、その意味では戦後に登場した新しい民族だといえる。 ただ、ロヒンギャを名乗るようになった集団そのものの起源は15世紀まで遡ることができる。当時のラカイン地方に存在したアラカン王国(1430-1784)の中に、ベンガル出身のムスリムが一定数居住し、王宮内で役職に就く者もいた。 その後、19世紀に入ってラカイン地方がイギリスの植民地となると、ベンガル地方から連続的に移民が流入し、数世代にわたってラカイン西北部に住み着き土着化する。このときから多数派のラカイン人仏教徒とのあいだで軋轢が本格化する。 20世紀になると、第二次世界大戦中の日本軍のビルマ占領期に、日本側が武装化した仏教徒ラカイン人と、英側が武装化したムスリムとのあいだで戦闘が生じ、日英の代理戦争を超えた「宗教戦争」と化し、両者の対立は頂点に達する。
 3. 戦後も東パキスタン(現バングラデシュ)からの移民が食料を求めてラカイン西北部に流入し、独立したばかりのビルマ政府の統治が及ばないなか、その一部はムジャヒディンを名乗って武装闘争を展開した。その後も1971年のインド―パキスタン戦争(バングラデシュ独立戦争)の混乱期にラカインへ移民流入が見られた。
 4. 以上をまとめると、ロヒンギャを名乗る民族集団は、15世紀からのアラカン王国時代のムスリムを起源に、19世紀以降の英領期の移民、第二次世界大戦直後の混乱期の移民、そして1971年の印パ戦争期の移民の「四重の層」から構成されると推定される。 しかし、彼らが1950年ころに、なぜ「ロヒンギャ」を名乗るようになったのか、その経緯はいまだにわかっていない。
 5. 1948年に独立したビルマは、しばらくの間、ロヒンギャを差別的には扱わなかった。1950年代後半から60年代初頭までロヒンギャ語によるラジオ放送(短波)を公認していたほどである。 しかし、1962年に軍事クーデターが起き、政府軍(国軍)が主導するビルマ民族中心主義に基づく中央集権的な社会主義体制(ビルマ式社会主義)が成立すると、扱いが急速に差別的となり、1978年と1991-92年の計2回にわたり、20万人から25万人規模の難民流出をひきおこしている。 この間、1982年に改正国籍法(現行国籍法)が施行されると、それに基づき、ロヒンギャはミャンマー土着の民族ではないことが「合法化」され、ロヒンギャを主張する限り、外国人とみなされるようになった。 状況によっては臨時の国籍証明書が与えられ、自ら「ベンガル系」であることを認めた者には正規の国籍が与えられることもあった。
▽問2 ロヒンギャはなぜ・どんな差別を受けるのか?
・ロヒンギャが受けてきた差別は、おもに1960年代後半からの不法移民調査を理由にした政府軍や警察による執拗な嫌がらせに始まる。 ロヒンギャという名乗り自体を政府によって公式に否定され、地元のラカイン州では多数派の仏教徒ラカイン人による中傷や人的攻撃にさらされ、両者の間で大小の民族暴動が何度か発生した。
・ロヒンギャが多数派を構成するラカイン州西北部のマウンドーとブーディータウン両郡では、1990年代以降、その地域から外への移動が許可制となり、多数派ラカイン人と少数派のロヒンギャが共存する州都のシットウェーでは、2012年に発生した両者間の民族暴動を機に、中央政府がロヒンギャ住民を収容所のような一区画に押し込め、そこから出られなくした。
・また、2014年に31年ぶりに実施された人口調査では、ロヒンギャはベンガル人だと認めない限りカウント対象からはずされ、さらに臨時国籍証をはく奪して「審査対象中」というカードをかわりに与え、事実上の無国籍者とした。
・翌2015年には総選挙を前に、それまで認めていた選挙権と被選挙権もとりあげた。同年5月には人身売買業者が仲介したロヒンギャ難民のボート・ピープル事件も発生し、南タイ沖で木造船に乗ったロヒンギャ集団が漂流したり、陸上で人身売買業者によるロヒンギャの集団殺害が発覚したりして、国際社会を騒がせている。
・ミャンマー国民がロヒンギャを差別する理由には3つある。 ひとつは彼らが保守的なイスラームを信仰する集団だからである。国民の9割近くを占める上座仏教徒は、少数派のキリスト教徒やヒンドゥー教徒にはさほどの差別意識を持たないが、ムスリムには強い嫌悪感を有している。 人口統計では証明できないにもかかわらず、彼らはムスリムが高い出生率を維持して人口を増やし、「仏教徒の聖地」ミャンマーを乗っ取るのではないかという漠然とした恐怖心を抱いている。 また、ムスリムが仏教徒女性を騙して結婚し、イスラームに改宗させ、子供をたくさん産ませているという「理解」も広くいきわたっている。
・もうひとつはロヒンギャに対する人種差別意識の存在である。肌の色が一般的なミャンマー土着民族より黒く、顔の彫りが深く、ミャンマーの国家語であるビルマ語を上手にしゃべれない(ロヒンギャ語を母語にしている)ことへの嫌悪感が、彼らに対する差別を助長させている。
・3つ目は、これが最大の理由であるが、ロヒンギャがベンガル地方(バングラデシュ)から入ってきた「不法移民」であり、勝手に「ロヒンギャ」なる民族名称を「でっちあげ」、「ミャンマー連邦の土着民族を騙っている」ことへの強い反発を有しているからである。
・彼らにとって、ロヒンギャは「民族」ではなく、「ベンガルからの(不法)移民集団」でしかない。リベラル派(民主化支援派、人権派)のミャンマー人であっても、そうした理解に大きな違いはない。 ただリベラル派の場合、ロヒンギャがその名前を捨てて「ベンガル人」であることを「素直に」認めれば、温情で国籍を与えてもよいと考えている人が多い。
▽問3 スーチー国家顧問はどう対応しているのか?
・「大統領より上の立場に立つ」ことを公言して2016年4月に国家顧問に就任したアウンサンスーチーは、現在、国際社会から非難の矢面に立たされている。 1991年に非暴力に基づく民衆化運動の指導が評価されてノーベル平和賞を受賞した彼女であるが、苦節25年を経て国家顧問となって以降、ロヒンギャ問題に関しては発言を控え、今回の大規模難民流出についても9月19日に国内外に向けた英語演説を行うまで自らの姿勢を明示せず、その結果、嵐のような非難を浴びせられた。
・しかし、アウンサンスーチーがロヒンギャ問題に関し何もしてこなかったというのは言い過ぎである。 彼女は国家顧問に就任する前の下院議員時代から、積極的ではなかったにせよ、ロヒンギャ問題についてメディアから問われると、「ロヒンギャ」という名前の使用を避けつつも、問題の存在とその深刻さを認めていた。
・そして、2013年4月の来日時に、人権系NGOとの交流会で、ラカイン西北部に住むムスリムについては精査の上、三世代以上にわたって住んでいる人には国籍を与えるべきであり、関連して現行国籍法の差別的な内容ついても再検討する必要があると語っていた。
・国家顧問就任後は、2016年8月に彼女の主導で、コフィ・アナン元国連事務総長に委員長になってもらい、第三者によるラカイン問題調査委員会を発足させている。 ここでもロヒンギャという名称は一切使わせなかったが、実質的にロヒンギャ問題に関する調査と解決案の提示を主務とする調査に取り組ませた。同委員会は9人のメンバーで構成され、うち3人はコフィ・アナン氏を含む外国人で、かつメンバーのうち2人はムスリムだった。
・ロヒンギャが一人も加わらなかったことが悔やまれるが、国際社会に開かれた形でロヒンギャ問題の解決に向けた提案をおこなうための調査が一年間にわたって実施されたことは大きい前進だったといえる。委員らはラカイン州とバングラデシュの双方を調査し、本年8月24日に次の2つを骨子とする提言を公表した。
(1)ラカイン西北部に住むムスリム(=ロヒンギャ)の移動の自由を認めるべきである。  (2)彼らのなかで世代を超えてこの地に住む者には国籍を付与すべきである。関連してミャンマー国籍法(1982年施行)で国籍を「正規国民」「準国民」「帰化国民」に3分類しているが、一本化に向けた再検討が求められる。
・ここでもロヒンギャという名称の使用は避けているが(「その名称を使用しないよう国家顧問からの強い依頼があった」とコフィ・アナン委員長自らが断っている)、この答申はアウンサンスーチーがもともと考えていた解決への道と同じであり、彼女にとって追い風になるはずだった。
・しかし、答申が公表された翌日未明、「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)による政府軍襲撃が発生し、軍による住民に対する過剰な封じ込めと難民の流出がはじまって国際社会の注目を浴びると、委員会の答申のニュースは吹っ飛んでしまった。
・アウンサンスーチー国家顧問はそれでも、9月19日の演説で難民の早期帰還への積極的取り組むと、この答申の尊重を明言した。 したがって、彼女のロヒンギャ問題への対応は、短期的には難民の安全な帰還実現、中長期的にはコフィ・アナン委員長の提言に沿ってなされることが明らかになった。
・ただ、彼女の前には二つの大きな壁が立ちはだかっている。 ひとつは憲法上の壁であり、もうひとつは国内世論の壁である。憲法上の壁とは、彼女に軍と警察と国境問題に対する法律上の指揮権が与えられておらず、その3分野は軍がコントロールしているという事実である。 軍政期の2008年につくられた現行憲法では、軍の権限が様々に認められており、シヴィリアン・コントロールが徹底されていない。ロヒンギャ問題はこの3つの分野に直結するだけに、彼女は非常に動きにくい立場にある。
・もうひとつの国内世論の壁は、国民の強い「反ロヒンギャ」感情である。前述のようにリベラル派でさえ、「ベンガル人」と認めない限り国籍は付与してはならないと主張している。 ミャンマーでは国際社会からのアウンサンスーチー非難が強まれば強まるほど、彼女を守ろうとする意識が作用して国民のアウンサンスーチー支持がますます強まる傾向を見せている。 しかし、それは支持のねじれ現象といえ、アウンサンスーチー国家顧問がロヒンギャ問題を前向きに扱おうとするときにいっそうやっかいな障害となる。
・彼女はこのように、「反ロヒンギャ」に立つ軍部と世論によって手足を縛られた格好でこの問題の解決に立ち向かわざるを得ない状況に置かれているのである。
▽問4 「アラカン・ロヒンギャ救世軍」による政府軍襲撃の実態と、その背後関係はどのようなものか?
・襲撃事件の全体像が明らかになるには、あと数ヵ月はかかると思われる。昨年(2016年)10月にもミャンマーの国境警備隊に対する似たような襲撃事件が生じ、そのときと今回の武装集団は名前こそ異なるものの、同じグループだとみなされている。 しかし、襲撃方法は大きく異なる。昨年10月の襲撃は事前に銃を揃え、用意周到に襲撃対象の隙を衝いた攻撃をおこなっているが、今回の襲撃は槍とナイフを武器に、アジア・太平洋戦争末期の日本軍の「万歳突撃」のような正面突破攻撃をおこなったため、襲撃した側に400人以上の大量の死者が出ている(政府軍側は10数名の死者)。この違いが何を意味するのかはまだはっきりしない。
・背後関係についても、昨年10月の襲撃事件については、パキスタン育ちのロヒンギャがバングラデシュで武器調達をおこない、ラカインに入り込んで百人規模のロヒンギャ青年を訓練したことまではほぼ判明しているが、それがISまでつながるような背後関係を持っているのかはわかっていない。今回の襲撃事件については、より不明な点が多い。
・明言できることは、彼らは一般のロヒンギャ住民とは無縁の集団だということである。 第二次大戦時のヨーロッパにおける対ナチ・レジスタンス活動のような武装闘争であれば、住民らの支持と協力なくしては活動が維持できないが、ロヒンギャ武装集団の行動にはそうした地元の協力が伴っていない。大半のロヒンギャ住民にとって、この武装集団は支持対象ではなく、支持や協力が伴っていない。
▽問5 ロヒンギャ問題解決へ向けて何をすべきか?
・第一に取り組むべきことは、50万人を超えるロヒンギャ難民の保護と、帰還に向けた準備への着手である。 難民保護に関しては食料と医薬品、衣料品、その他生活必需品全般の早期供与と、何よりも環境の整った難民キャンプ設置への国際的協力が求められる。日本政府も財政支援については早々に実施を表明しているが、人的支援もおこなって貢献すべきである。
・難民の帰還準備への着手に関しては、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を軸に、ミャンマー政府とバングラデシュ政府の間で話し合いを進め、帰還後のロヒンギャ住民の安全の保証をミャンマー政府に約束させ、かつUNHCRないしは第三者機関による厳格なモニタリングがなされるようにすべきである。また、ミャンマー政府に帰還難民へのメディアの自由取材も認めさせる必要がある。
・第二に取り組むべきは、中長期的課題として、前述のコフィ・アナン元国連事務総長が委員長となった諮問委員会が出した提言をミャンマー政府に尊重させ、その中身に具体的に取り組ませることである。
・ここで問題になるのは、ロヒンギャに対する国籍付与と、その際の民族名称である。ロヒンギャの人々はあくまでも「ロヒンギャ」という名称にこだわる。それは彼ら自身の名乗りであり、それを認めることは普遍的人権の面から見ても大切なことである。 しかし、諮問委員会はそこまで明言しておらず、このままだと「ベンガル系ミャンマー人」のような新しい民族的括りを政府側が用意し、それを受け入れるのであれば国籍を付与すると言い出す可能性が高い。
・また、三世代にわたってラカインに住み続けていることを条件にした場合、そのことの「精査」が、逆に短期の流入者を合法的に追い出す措置を正当化することにつながり、ロヒンギャ側が容易に納得するとは思われない。 さらに軍は、治安対策と称して「精査」にあたってテロリストのあぶりだしを最重視することが確実であるため、これによって国籍付与対象が極端に絞りこまれることも予想される。
・反ロヒンギャ感情を強く持つ国内世論の壁を考えた場合、このへんの調整はアウンサンスーチー国家顧問が最も苦労するところとなろう。 しかし、現状では彼女を除いてこの任にあたれる人物はミャンマーに存在しない。彼女のこの努力を国際社会がバックアップすることこそ重要だといえる。
・第三に取り組むべき課題は、第二の課題と深く連関するが、ミャンマー国内で政府と国内外のNGOが協力して、諸宗教間の相互理解と和解活動を広め、特に排他的なナショナリズム感情と反イスラーム感情が融合してしまっている現状を、少しでも和らげる努力をおこなうことである。 アウンサンスーチー国家顧問はこのことの必要性については理解しているはずである。ここでも内政干渉にならないような形で国際社会の関与が求められよう。
▽スーチー氏が「重し」となっている
・私たちはロヒンギャの人々が置かれている状況の着実な改善を常に優先して考えるべきである。 そのためには、難民流出の直接の原因をつくった軍と警察による弾圧の責任追究が「正義の実現」として求められるにしても、それだけを声高に叫び続けることは、けっして政治的に得策とはいえない。
・軍はいっそう頑なになって国際社会への反発を強め、国内世論もそれを支持し、アウンサンスーチー国家顧問がこの問題でますます動きにくくなってしまうからである。 外側から見ていかに消極的に映ろうと、現状のミャンマーにおいてはアウンサンスーチー国家顧問だけがロヒンギャ問題の解決に取り組む前向きの姿勢を見せており、皮肉なことではあるが、彼女が反ロヒンギャに懲りたまった軍と国内世論が今以上に爆発することを抑える「重し」となっているのである。
・私たちはそのことを認識したうえで、ロヒンギャの人々の状況改善や、これ以上の状況悪化を防ぐための対応をミャンマー政府に取らせていく必要がある。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53042

第一の記事で、 『昨年8月以降、自分たちの村を脱出、国境を越えてバングラデシュに避難したミャンマーのロヒンギャ住民は69万人近くに達する』、『国連はこれまでもミャンマー軍が虐殺を行っていると非難し、米国政府は同国での民族浄化を制止する行動を呼びかけている。一方、ミャンマー側はこうした「浄化作戦」はロヒンギャ反政府勢力による攻撃に対する合法的な対抗策だと繰り返している』、『隣人に牙をむく隣人』、という悲惨さには、心が痛む。
第二の記事で、 『第二次世界大戦中の日本軍のビルマ占領期に、日本側が武装化した仏教徒ラカイン人と、英側が武装化したムスリムとのあいだで戦闘が生じ、日英の代理戦争を超えた「宗教戦争」と化し、両者の対立は頂点に達する』、というのは初耳で、日本にも責任の一端がありそうだ。 『1948年に独立したビルマは、しばらくの間、ロヒンギャを差別的には扱わなかった。1950年代後半から60年代初頭までロヒンギャ語によるラジオ放送(短波)を公認していたほどである。 しかし、1962年に軍事クーデターが起き、政府軍(国軍)が主導するビルマ民族中心主義に基づく中央集権的な社会主義体制(ビルマ式社会主義)が成立すると、扱いが急速に差別的となり、1978年と1991-92年の計2回にわたり、20万人から25万人規模の難民流出をひきおこしている』、クーデターの中心人物は、アウンサンススーチー国家顧問の父親だが、さすがに彼女は心中では差別の見直しに前向きなようだ。これまで、スーチー氏は何をやっているのかと思っていたが、難しい立場が理解できた。『第三者によるラカイン問題調査委員会・・・答申が公表された翌日未明、「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)による政府軍襲撃が発生し、軍による住民に対する過剰な封じ込めと難民の流出がはじまって国際社会の注目を浴びると、委員会の答申のニュースは吹っ飛んでしまった』、真相はまだ不明のようだが、ARSAによる襲撃の背後には軍による働きかけがあった疑いがあるのではなかろうか。 『ロヒンギャ問題解決へ向けて何をすべきか?』、というのは説得力がある。
前述の通り、『日本にも責任の一端がありそうだ』、ということから、この問題を人ごとではなく、注視していきたい。
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