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医療問題(その39)(フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界 闘病生活を「セルフワイドショー」にした真意、「主治医に遠慮不要」セカンドオピニオンの受け方 どんな時に必要か「ポイント3つ」を医師が解説) [社会]

医療問題については、9月19日に取上げた。今日は、(その39)(フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界 闘病生活を「セルフワイドショー」にした真意、「主治医に遠慮不要」セカンドオピニオンの受け方 どんな時に必要か「ポイント3つ」を医師が解説)である。

先ずは、10月7日付け東洋経済オンラインが掲載したライターの松永 怜氏による「フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界 闘病生活を「セルフワイドショー」にした真意」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/623828
・『56歳で「悪性リンパ腫」と診断された笠井信輔さん。約33年間勤めたフジテレビを退社して、そのわずか2カ月後のことだった。 しかも入院生活は、短くても4カ月、長くて1年掛かると医師から聞かされる。長期に及ぶ入院に対して、ブログやInstagramで発信しながら、笠井さんが意識していたこととは何か。がんになって良かったと思う人はいない。それでも笠井さんが得たもの、失ったものは何だったのか。がんになった人を描く映画『愛する人に伝える言葉』についても聞いた(今回は、前後編の後編です) 前編:「追いやられて会社脱出、笠井アナどん底で見た景色」』、興味深そうだ。
・『人のプライバシーを伝えることを生業としてきた  がんが発覚した後、その2カ月前まで担当していた『とくダネ!』に出演して、自らがんの公表に踏み切った笠井さん。 病気を隠したまま過ごす人もいる中で、あえて生放送で公表したのはなぜか。 「フジテレビ人生の中で、約33年間ずっと情報番組やワイドショーを担当してきました。有名人、著名人のプライバシーを伝えることを生業としてきたんです。そこで自分が一大事になったときに、プライバシーのことなのでそっとしておいてほしい、というのは違うと思いました。贖罪だと思う部分もあります」 他にもいくつか理由がある。 1つは、『とくダネ!』で長年一緒に番組を担当していた小倉智明さんの存在だ。小倉さんは、膀胱がんを患って復帰した際、自分の症状や闘病生活をここまで言うかというくらい、赤裸々に語った。喋り手としての信念をみた。 2つ目に、自分が闘病生活を送る姿を記録に残したいと思ったことだ。ドキュメンタリーとして記録があれば、生きて帰ってきたときはもちろん、自分が死んだらさらに価値が上がると思った。職業柄といえる。家族は嫌かもしれないが、自分の最後の仕事としてはふさわしいと思った。 3つ目に、自分たち報道人は間接報道を行っている。震災や事故現場に行って、人から聞いた話を伝えている。しかし、自分自身について声を出すことは、セルフワイドショーとして、とても意味のあることだと思った。 4つ目は『とくダネ!』で独占取材していた西城秀樹さんの闘病生活だ。西城さんは、最後は言葉がもつれ、痛みに顔を歪め、杖をついてフラフラしながら歩いていた。そうした姿をすべてさらけ出した。 それは、今までファンでいてくれた人、同じように歳を重ねている人に対して、「俺は今頑張っているから、みんなも頑張ろうよ」と伝えるためだったという。自分がもし大病を患ったときは、自分も何かの役に立てるようなことをしようと思っていた』、「自分自身について声を出すことは、セルフワイドショーとして、とても意味のあることだと思った」、「セルフワイドショー」とは言い得て妙だ。
・『競合、テレビ東京のTシャツを着た理由  『とくダネ!』で病気を公表した当日。すでに普通に歩ける状態ではなかった笠井さんは、そのまま病院に向かい、入院生活が始まった。 短くても入院生活は4カ月から1年。そう医師から言われていたため、入院前からいくつか考えていたことがあった。 まずは、とにかく情報発信をすること。がんが分かり、初めてInstagramやブログを開設した。Instagramのアカウントを開設した当初は、フォロワーは300人程度。当時大学生だった息子は1000人だった。 しかし、『とくダネ!』でガンを公表すると、フォロワーが300人から3000人、一時は30万人まで増えた(2022年9月27日現在21.7万人)。 「もちろん自分の人気ではなく、がんに興味がある人たちの数字です。ものすごい現実を見せられたような気もしましたが、その30万人が励みになったのも確かです」 そして着るものも意識した。コロナ禍では面会制限があって、家族が頻繁に病院に来られない。着替えは、病院で一日300円程度のパジャマを頼んでいたが、毎日同じ服を着て、ひたすら単調な時間を過ごす。これは気持ちが滅入る。 そこで、周りからお見舞いのリクエストを聞かれるとTシャツを頼んだ。 「面白い文字が載っているものや、蛍光色とか派手なもの。毎日違ったTシャツを着ると、それだけでも気持ちが上がるんです。妻がテレビ東京勤務だったので、『Iラブテレ東』のTシャツを買ってきてくれました。そのTシャツを着てInstagramに載せたら、フォロワーさんが喜んでくれました」 長期におよぶ入院生活では、毎日の彩りをどこでつけるか工夫した。 また、入院中は時の移ろいが感じにくい。そのため早い段階で「病室にいても、年間行事をちゃんとやる」と決めた。 クリスマスにお正月、節分にひな祭り、花見、息子の誕生日などなど。正月は、妻がミニおせち料理を作ってきてくれた。節分では、鬼のコスプレと金棒が送られてきて静かに部屋で豆まきをしたことも。 コロナ禍になって、部屋から外に出られなかった笠井さん。世の中から取り残されたような、隔離されたような気持ちにならぬよう、家族や周りの人間がそれを防いでくれた』、「節分では、鬼のコスプレと金棒が送られてきて静かに部屋で豆まきをしたことも」、微笑ましい。
・明るい話だけを伝えるつもりでいたが…  ブログでは、抗がん剤の副作用で寝込む姿や、髪の毛が抜けていく様子も公開した。当初は、明るいニュースだけ伝えるつもりだった。入院患者でもこんなに前向きで頑張っていると。 しかし、現実は大量の抗がん剤があまりにも辛かった。いいところばかり切り取っていたら、同じ治療をしている人から「笠井は嘘をついている」と思われる。または、がんを患ったことがない人には、「抗がん剤治療ってこんな感じなんだ」と誤解を与えてしまう。そうならぬよう、抗がん剤を打って、わずか4日でどんどん髪の毛が抜けていく様子もしっかり伝えた。 ただし――。最後の砦として、スキンヘッドになった姿だけは、公表する勇気がなかった。確かに、がんサバイバーがYouTubeやInstagramでスキンヘッドで登場する姿を見て助けられたのも事実。ただ、自分がそこまでできるかといったら、勇気はなかった。 復帰後にそのイメージがつくことが嫌だった。 もうひとつ、当時明かさなかったことがある。ステージ4だったということだ。 テレビは印象のメディアでもある。「笠井ステージ4」と世の中に出た時点で、「笠井終わった」「笠井、死ぬな」といった雰囲気を醸し出されてしまう。それは悔しいと思った。そのため、ステージ4を公表したのは退院した後、『とくダネ!』に出演したタイミングになった。 笠井さんは、報道に携わるメディアの人間だ。何か思ったからといって、そのままの感情を、ただ雑然とブログに載せることは、メディアの人間としてできないと思った。 もちろん仕事柄、読みやすい文章を作ることには自信があった。しかし、がんだからといって何を言ってもいいのか。そうではない。これを言ったら別のがん患者さんが嫌な気持ちになるかもしれない。失望する可能性もある。とくに、自分の治療がうまくいっているとき。「俺はこんな治療でうまくいった!」なんて書いてしまうと、そうではない患者さんはどう感じるか――。 そのため、SNSに投稿する前に一度妻のチェックが入り、少し整えた形で投稿した。妻は、報道取材、アナウンサー歴が長かったため、的確なアドバイスをしてくれた。「こういうことは書かないで」「ダメ、この表現直して」とまるで編集デスク。チェックなしで掲載したときは、すぐにLINEがきたこともあったという』、「テレビ東京勤務」の奥さんは、「報道取材、アナウンサー歴が長かったため、的確なアドバイスをしてくれた」、ラッキーだ。
・『「令和の患者」は受け身では足りない  入院してみて、気づきもあった。患者として受け身でいるだけでなく、自分の意志をハッキリ表明することだ。 今までは、インフォームドコンセントといって、医療者=ピッチャーが投げた球に対して、患者はキャッチャーとしてボールを受け取るだけだったかもしれない。しかし令和は違う。自らピッチャーとなって、医療従事者にボールを投げることが大切だという。 それは単なるコミュケーションではない。自分の意見をきちんと伝えるのだ。そう思えたのは、担当の医師が笠井さんの体調や要望を常に意識して聞いてくれたこと。 自分がどういう治療をしたいか。したくないのか。どう過ごしたいのかと。そのおかげで笠井さんも治療方法はどうか。薬の量は適切か。いろいろな点でディスカッションができたという。) 気づけば、自分も悪性リンパ腫の治療を行う、医療者の一人だ、との自覚が芽生えたという。 次第に薬剤師、栄養士、看護師にも自分の細かな要望を伝えるようになった。看護師は、1人ひとりの名前やキャラクターを覚えていくと、会話がしやすくなった。頼みごともしやすくなって、入院生活、QOL(生活の質)が上がった。 栄養士との打ち合わせも大事だった。味覚障害や食欲不振もあったので、朝は、ご飯ではなくてパン、その代わり昼は頑張ってご飯を食べる、夜は食べやすい麺類はどうかと話し合った。または、量が食べられないと言えば、ハーフ食といって、量は半分だが高カロリーなものを教えてくれた。薬剤師さんにも痛みの相談をした。いずれも、大半の患者は遠慮してやらないことだ。 もちろん、病院側にもできること・できないことがある。ただ、今までのいわゆる昭和の患者たちは、わがままを言ったらいけない、これ以上迷惑をかけられないと我慢することが多かったかもしれない。 しかし、自分の意見を言うことはわがままではない。令和の時代、医療者側も患者の言葉を待っているという。「また、あの患者がなにか言ってるよ」というのも違うのだ』、「自分の意見を言うことはわがままではない。令和の時代、医療者側も患者の言葉を待っているという」、なるほど。
・『病院でWiFiが使えない…  2019年4月末。4カ月の入院生活を終えて無事に退院した。2020年6月にはすべての治療が終わり、今は、とても元気に、そして活き活きと仕事をしている。 退院後は、「#病室WiFi協議会」という団体を作った。コロナ禍で入院を経験し、誰もお見舞いに来られないときにインターネット環境が自分を助けてくれた。 しかし後から調べてみると、全国の7割の病院では、入院患者用の無料のWi-Fiは飛んでいないと知った。有料だからと入院中にネット接続を我慢している人が多くいることにも驚いた。 そこで、#病院WiFi協議会を8人の仲間と作り、厚生労働省に訴えた。活動の結果、補助金がつくようになった。ただ、緊急的な措置で半年で期限が切れたため、また新たに厚生労働省に頼んでいるところだという。) 改めて、がん発覚から今までを振り返ると「引き算の縁と、足し算の縁」だったと笠井さんは語る。 はじめに「引き算・足し算」を感じたのは東日本大震災を取材していたとき。 震災2日目から現場で取材をしたが、現場で聞こえてくるのは、「もうダメだ」といった、マイナスな言葉が多かった。しかし、震災から3週間くらい経つと、ボランティアの知り合いが増えた、病院で看護師さんと知り合った、避難所で新しい友達ができたなど、足し算の縁も聞こえてきた。最悪な状態のときに生まれた縁や、出会った人、ものを取り込んで生きていく。その強さを被災地で学んだ。 そして数年後、自分が「がん」になった。もちろん、はじめはマイナスの出来事、引き算しかない。フリーになって早々というショックもある。しかし、このまま凹んでいても被災者の人たちに笑われてしまう。 がんになったから終わりではなく、がんになったからこうなれた。そう言える人生を歩もうと入院中に切り替えた』、「がんになったから終わりではなく、がんになったからこうなれた。そう言える人生を歩もうと入院中に切り替えた」、賢明な「切り替え」だ。
・『料理をしない三男が卵焼きを作ってきてくれて…  それに、些細なことにも喜びはある。たとえば、テレビをつけたら、たまたまやっていた漫才がめちゃくちゃ面白かった。今日見たYouTubeの音楽が泣けた。誰々がお見舞いに来てくれた――。 特に覚えているのは、三男が病室にきたとき。「高校生だった三男が、卵焼きを作ってきてくれたんです。料理なんか全くしない奴だったのに。それが、いつもと違う味、懐かしい味だったんです。聞いたら、おばあちゃんに習ってきたっていうんですよ。いや、こういうときはお袋の味でしょって笑ったけど、こんな感動なかったですよ」 がんにならないと体験できなかったこと。これこそ、足し算の縁だという。 もちろん、がんになって良かったなんて思っていない。とても辛いしきつい。マイナス面も多いけれど、それとは違った次元のプラスがあるということだ。 がんになって、たくさんの“がん友”もできた。無二の親友に出会う人たちもいる。 それに現役世代はガンになっても回復して日常に戻ってくる人も多い。確かにがんは、日本人の死亡理由の第1位だ。しかし、がん=死ぬ時代は、現役世代に関して言えば違う。だから諦めてはいけないと、笠井さんは力強く語る』、「三男が病室にきたとき。「高校生だった三男が、卵焼きを作ってきてくれたんです。料理なんか全くしない奴だったのに。それが、いつもと違う味、懐かしい味だったんです。聞いたら、おばあちゃんに習ってきたっていうんですよ」、「高校生だった三男が、卵焼きを作ってきてくれたんです。料理なんか全くしない奴だったのに。それが、いつもと違う味、懐かしい味だったんです。聞いたら、おばあちゃんに習ってきた」、「がんになって良かった一例」だろう。
・『がんになったとき、どう生きたいか  笠井さんは最後に、がんになった男性が主人公をつとめる映画『愛する人に伝える言葉』についても語ってくれた。 映画のストーリーは、がんで余命宣告を受けた男とその母親が、限られた時間の中で人生の整理をしながら死と向き合う姿を描くもの。笠井さんには印象的なシーンがいくつもあったという。 ひとつは主治医について。 「主治医役のエデ医師を演じたのは、ガブリエル・サラという実在する医師。こんな先生がいたらいいな、と思ったら本当にいました」 他に出演している病院のスタッフも役も、本当の医療従事者たちが含まれているという。非常に珍しい映画だといえる。 サラ医師が大事にする信念は、嘘をつかないこと。映画では、実際にサラが普段仕事でやっていること、言っていることしかやらないとし、それを基に脚本を作ったという。 患者にもウソはつかない。そのため、患者の男性には「あなたは長くないです」とハッキリ伝える。本当のことしか言わないが、完全に各患者に寄り添うと決めている。 特に印象的だった言葉は、息子の母に対して「旅立つ許可を与えましょう」「死ぬタイミングを決めるのは患者さんです」と伝える場面だという。 患者が「もう自分は頑張り尽くしたから、死んでもいい」と思ったら、そこで認めてあげるのが家族。それが最大の贈り物だと、そのシーンが心に残ったという。 一日でも長く生きていて欲しいと家族は思うかもしれない。これだけ医学が進めば延命もできる。でも、本人は生き抜きたいのか。最後はどう着地したいのか。希望とは何か。 笠井さん自身が聞かせてくれた、がんになったとき、自分がどう生きたいのかというメッセージとも重なってくる。 新たな船出をするタイミングでがんが発覚した笠井さん。怒りや悲しみに苛まれながらも、決して前を向くことをやめなかった。心を閉じなかった。自分にできるベストを尽くし、抗がん剤に苦しみながらも世の中に発信を続けた。 単調になりがちな入院生活も、早い段階で工夫した。患者として、一人の人間として、常に能動的に生きたのだ。 がんという言葉のパワーはとても強い。体に大きな負担が強いられる。もし、自分ががんになったら――。自分がどうありたいか。誰とどんな人生を過ごしたいか。 笠井さんの生き方から学ぶことは多い』、「怒りや悲しみに苛まれながらも、決して前を向くことをやめなかった。心を閉じなかった。自分にできるベストを尽くし、抗がん剤に苦しみながらも世の中に発信を続けた。 単調になりがちな入院生活も、早い段階で工夫した。患者として、一人の人間として、常に能動的に生きたのだ」、こうした「前向き」な姿勢は闘病にもプラスな筈だ。

第二に、10月22日付け東洋経済オンラインが掲載した腫瘍内科医・山口大学医学部附属病院腫瘍センター准教授の井岡 達也氏による「「主治医に遠慮不要」セカンドオピニオンの受け方 どんな時に必要か「ポイント3つ」を医師が解説」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/623156
・『この病院でいいのか、この治療法でいいのか、受けている治療がうまくいっていない気がするが、誰に相談すればいいのか……。そんな不安が常につきまとうのががんという病気です。 たとえ同じ治療をしていても「効果が上がりやすい患者さんには多くの共通点がある」と、抗がん剤治療の名医である井岡達也氏は分析します。それは一体何でしょうか? 治療法の選択、主治医を味方にする話し方からお金の使い道など……。後悔のない治療をし、効果を最大限にするために患者側でできることを親身かつ具体的にアドバイスする同氏の新刊『がん治療 うまくいく人、いかない人』より、抜粋してお届けします(3回目)。 1回目:もしもがんに…「治療効果を上げる」告知の受け方 2回目:がん患者でも仕事を続けたほうがいい絶対的理由』、興味深そうだ。
・『適した治療は患者によって違う  がんの治療には、外科手術、抗がん剤による薬物療法、放射線療法の三大療法があり、これらを組み合わせて治療を行う集学的治療もあります。どの治療法を選択するか、あるいはどの組み合わせで治療するかは、がんの種類、進行度といった、患者さん一人ひとりの病状によって変わってきます。 医師はその時点で最も適切と考えられる治療法を患者さんに提案するわけですが、ほかにもいくつかある選択肢の中から選ぶのですから、患者さんとしては「別の選択もあり得るのでは?ほかの医師の意見も聞いてみたい」と考えるのは無理もないことだと思います。 そこで、セカンドオピニオンです。セカンドオピニオンとは、言葉通り、現在診てもらっている医師とは別の医師に、第二の意見を求めることです。ほかの医師にも意見を聞きたいなどと言い出したら、主治医の機嫌を損ねることになるのではないか、と心配する患者さんもいるかもしれませんが、セカンドオピニオンは患者さんの権利として認められていますから、躊躇することなく活用すればよいと思います。 ほとんどの医師が、患者さんがセカンドオピニオンを受けたいと申し出ることを想定していると思います。他の医師への紹介状もすぐ書いてくれるでしょう。 といっても、セカンドオピニオンは必ず受けたほうがよいというわけではありません。現在診てもらっている医師と信頼関係ができていて、治療法にも納得しているならば、わざわざ受ける必要はありません。) では、どんなときにセカンドオピニオンを受けたほうがよいのでしょうか? ①選択肢を1つしか提示されないとき(医師から治療法を1つしか提示されず、ほかの選択肢を示されない場合は、セカンドオピニオンを受けることを考えたほうがよいでしょう。普通に通院できるほどの体調であれば、治療の選択肢が1つということはないはずです。治療法の選択肢を複数用意して、その中で優先順位があることを伝え、どうして優先順位があるのかについてや、各治療法の良い点、悪い点を説明して、患者に選んでもらうことが、医師のすべきことです。 特に、それが標準治療ではない臨床試験段階の治療ならばなおさら、医師は患者に対して効果と安全性、リスクをていねいに説明して、納得して治療を受けてもらうようにしなければなりません』、「医師から治療法を1つしか提示されず、ほかの選択肢を示されない場合は、セカンドオピニオンを受けることを考えたほうがよいでしょう」、その通りだ。
・『研究的な治療法には要注意  もし、「あなたにはこれがいいから、この治療法にしなさい」と、標準治療ではない研究的な治療法を主治医から勧められた場合は要注意です。その医師は自分の開発している研究的治療が、標準治療より優れていると信じて疑わないのかもしれませんが、まだ試験結果が出ていない以上、自信があっても患者に強要することはできません。 患者さんも、主治医の機嫌を損なわないようにと気遣って、希望していない治療法を選択するのはよくありません。 ②主治医が、どうしたらいいか迷っているようなとき  「あなたのがんは、この病院では治療経験に乏しい」と言われたならば、それは患者さんが少ない希少がんなのかもしれません。情報不足にならず、最適な治療を受けるために、できればあなたの患う希少がんを扱う医療機関、医師を探してセカンドオピニオンを受けてください。 しかし、患者さんにとっても医師にとっても、希少がんは最新の情報を集めることが難しいがんです。わが国で希少がんを最も多く扱っている国立がん研究センターには、希少がんセンターがあり、希少がんの患者さん、家族のための「希少がんホットライン」が設けられていますので、まず、こちらに相談するのもよいかもしれません。 希少がんでなく、肺がんや胃がんのような患者数が非常に多いがんでも、経過が特殊な場合には、その後はどのように治療したらよいか医師が迷うことがあると思います。主治医がどうしたらよいか迷っているときは、セカンドオピニオンを受けることを考えてください。 ③標準治療以外の治療法に興味があるとき(日本の病院では、通常、がんの患者さんはがんの種類、進行状態に対して決められた標準治療を受けます。標準治療とは、前述しましたが、今までで一番優れていると確認されたチャンピオンである、現時点で最良の治療法です。 標準だから平凡というわけではありません。現在の標準治療よりも効果が高いと実証された治療法が登場すれば、それが新チャンピオンとして新しい標準治療となります。) ところが、日本人の悪いクセでしょうか、「標準」というとイマイチで、もっと上のランクがあると感じてしまうのか、「標準」よりも「特別」とか「最新」と謳われた治療法を選びたがります。「特別な治療法」とか「最新の治療法」と形容されても、それが最もれた治療法であることを意味しているわけではありません。 標準治療ではない「最新の治療法」が本当にベストなのか、それを確かめるために経験のある医師の意見を聞くことは重要だと思います。そのために、セカンドオピニオンを受けるという選択肢もあるでしょう。 ただし、セカンドオピニオンで説明されたのと同じ治療法を現在通院している病院でしてくれというのは難しいことがありますから、セカンドオピニオンを受け入れる場合は転院が必要になります。通院可能な範囲にある、治療実績が多い病院でセカンドオピニオンを受けてください』、「セカンドオピニオンを受け入れる場合は転院が必要になります。通院可能な範囲にある、治療実績が多い病院でセカンドオピニオンを受けてください」、その通りなのだろう。
・『セカンドオピニオンはどこで?  どうせセカンドオピニオンを受けるなら、日本一の病院や医師に受けることをお勧めします。ハイボリュームセンターに勤務する経験豊富な医師から得られる意見は、あなたの今後の治療に必ずプラスになるはずです。 ただし、素晴らしい治療成績に感動して転院したいと思っても、週に1回程度の通院も難しいような遠方の病院への転院は現実的ではありません。あとで落胆しないように、通院が可能な範囲で、セカンドオピニオンを受ける医療機関を探してください。 どこに受けに行ったらいいのかわからないという場合は、先に触れたようにウエブサイト「がん情報サービス」→「がん診療連携拠点病院などを探す」にアクセスし、がん診療連携拠点病院などのがん相談支援センターに相談するのもよいでしょう。 セカンドオピニオンを受けたい病院が決まったら、申し込みです。その病院の窓口に連絡して、日時の予約、必要な書類などの確認をしてください。近年では、セカンドオピニオン外来を設ける病院が増えてきました。 セカンドオピニオンを受けるためには、現在の担当医に紹介状、血液検査などの記録、CTなどの画像データやフィルムを準備してもらうことが必要です。 有名な医師の場合、セカンドオピニオンの希望も多く、予約がかなり先になることがあります。病状を踏まえて、そこまでしてセカンドオピニオンを受ける意味があるのか、治療開始時期を遅らせても問題はないのか、などを主治医に確認してからセカンドオピニオンの手配をしてください。 セカンドオピニオンは公的保険が利かない自由診療ですから、病院によって費用が異なります』、「通院が可能な範囲で、セカンドオピニオンを受ける医療機関を探してください」、「セカンドオピニオンを受けるためには、現在の担当医に紹介状、血液検査などの記録、CTなどの画像データやフィルムを準備してもらうことが必要です」、「セカンドオピニオンは公的保険が利かない自由診療ですから、病院によって費用が異なります」、ただし、オピニオン自体は「自由診療」でも、治療は「公的保険」がつく。
タグ:医療問題 (その39)(フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界 闘病生活を「セルフワイドショー」にした真意、「主治医に遠慮不要」セカンドオピニオンの受け方 どんな時に必要か「ポイント3つ」を医師が解説) 東洋経済オンライン 松永 怜氏による「フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界 闘病生活を「セルフワイドショー」にした真意」 「自分自身について声を出すことは、セルフワイドショーとして、とても意味のあることだと思った」、「セルフワイドショー」とは言い得て妙だ。 「節分では、鬼のコスプレと金棒が送られてきて静かに部屋で豆まきをしたことも」、微笑ましい。 「テレビ東京勤務」の奥さんは、「報道取材、アナウンサー歴が長かったため、的確なアドバイスをしてくれた」、ラッキーだ。 「自分の意見を言うことはわがままではない。令和の時代、医療者側も患者の言葉を待っているという」、なるほど。 「がんになったから終わりではなく、がんになったからこうなれた。そう言える人生を歩もうと入院中に切り替えた」、賢明な「切り替え」だ。 「三男が病室にきたとき。「高校生だった三男が、卵焼きを作ってきてくれたんです。料理なんか全くしない奴だったのに。それが、いつもと違う味、懐かしい味だったんです。聞いたら、おばあちゃんに習ってきたっていうんですよ」、「高校生だった三男が、卵焼きを作ってきてくれたんです。料理なんか全くしない奴だったのに。それが、いつもと違う味、懐かしい味だったんです。聞いたら、おばあちゃんに習ってきた」、「がんになって良かった一例」だろう。 「怒りや悲しみに苛まれながらも、決して前を向くことをやめなかった。心を閉じなかった。自分にできるベストを尽くし、抗がん剤に苦しみながらも世の中に発信を続けた。 単調になりがちな入院生活も、早い段階で工夫した。患者として、一人の人間として、常に能動的に生きたのだ」、こうした「前向き」な姿勢は闘病にもプラスな筈だ。 井岡 達也氏による「「主治医に遠慮不要」セカンドオピニオンの受け方 どんな時に必要か「ポイント3つ」を医師が解説」 「医師から治療法を1つしか提示されず、ほかの選択肢を示されない場合は、セカンドオピニオンを受けることを考えたほうがよいでしょう」、その通りだ。 「セカンドオピニオンを受け入れる場合は転院が必要になります。通院可能な範囲にある、治療実績が多い病院でセカンドオピニオンを受けてください」、その通りなのだろう。 「通院が可能な範囲で、セカンドオピニオンを受ける医療機関を探してください」、「セカンドオピニオンを受けるためには、現在の担当医に紹介状、血液検査などの記録、CTなどの画像データやフィルムを準備してもらうことが必要です」、「セカンドオピニオンは公的保険が利かない自由診療ですから、病院によって費用が異なります」、ただし、オピニオン自体は「自由診療」でも、治療は「公的保険」がつく。
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