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終末期(その9)(「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態、96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味 医師が解説「持病があってもPPKは叶うもの」、欧米では絶対にそんな治療はしない…現役医師が「日本の終末医療はほぼ虐待」と語るワケ 会話もできない寝たきりの状態で胃に栄養を流し込む) [人生]

終末期については、9月6日に取上げた。今日は、(その9)(「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態、96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味 医師が解説「持病があってもPPKは叶うもの」、欧米では絶対にそんな治療はしない…現役医師が「日本の終末医療はほぼ虐待」と語るワケ 会話もできない寝たきりの状態で胃に栄養を流し込む)である。

先ずは、10月6日付けPRESIDENT Onlineが掲載した内科医の名取 宏氏による「「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/62190
・『家族の看取りに際して後悔しないためにどんな準備ができるだろうか。内科医の名取宏さんは「老衰による死は、ご家族にとって突然に思えることが多い。だから心の準備をするために、どのような経過をたどるのか知っておいてほしい」という――』、興味深そうだ。
・『高齢化でかえって忘れられがちな老衰死  親世代のお看取りは、他人事ではありません。私個人にとっても、です。義父は老衰ではなく病気でしたが、自宅で看取りました。本人の希望で点滴もせず、経口摂取できなくなって数日で亡くなりました。義父本人も義理の息子(私)も医師で、どういう経過をたどるかわかっていたためスムーズにいきましたが、そうではない場合は家族が慌ててしまうことが多いでしょう。 ご存じの通り、今、日本はますますの超高齢化社会になっています。2020年(令和2年)の平均寿命は、女性が87.71歳、男性は81.56歳。2019年(令和元年)の平均寿命を女性は0.26年、男性は0.15年も上回っていて、今後ますます寿命が延びることが予想されています。高齢者である65歳以上の割合は、すでに28.9%です(※1)。 少子化なのは問題ですが、平均寿命と同時に健康寿命も延びていますから良いことですね。元気な高齢者が多いので、永遠に生きられるような気がするほどです。しかし実際はそうではなく、平均寿命はあくまで平均。そして誰もが老衰からは逃れられず、いつかは亡くなる時がくるのです。ですから「そんなの知らなかった」なんてことがないよう、これから親世代を見送る人たちに、老衰死の経過を知っておいてほしいと思います。(【図表1】平均寿命の推移と将来推計出所=内閣府「令和4年版高齢社会白書」はリンク先参照)』、「老衰死の経過」を知っておくことは、確かに役立ちそうだ。
・『高齢者の体調は「低空飛行中の飛行機」  私が勤務している病院はいわゆる慢性期病院で、入院患者さんのほとんどが高齢者です。90歳台は珍しくなく、100歳を超える患者さんもいらっしゃいます。高齢ですから、治療のかいなく亡くなることもよくあります。死亡診断書に記載する直接死因は「誤嚥ごえん性肺炎」や「心不全」などの病名がつくこともありますが、その背景には老衰があります。 何らかの病気ならば、適切に治療しても治らないことがあるものの、もちろん治ることもあります。一方で、老衰はどんな名医も治せません。医師にできることは、苦痛を和らげて、穏やかな最期を迎えていただくお手伝いをすることくらいです。ご家族の反応はさまざまで、医療従事者からみれば平均的な経過でも「こんなに急に悪くなるとは思わなかった」と言われることがよくあります。ごくまれに「病院に入院した以上は、必ず回復すると思っていた」とおっしゃるご家族も……。 そんな時に私がご家族への説明でよく使うたとえは「いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機」です。何もなければ低空ながらずっと飛んでいられるように見えますが、食欲低下などの何らかの問題があれば急に墜落する恐れがあります。それが老衰というものなのです』、「高齢者の体調は「低空飛行中の飛行機」とは言い得て妙だ。
・『病気やケガは最後の一押しに過ぎない  ご自宅や施設で暮らしていた高齢者が入院するきっかけは、食欲低下、発熱、転倒などですが、これが低空を飛んでいる飛行機の高度が急激に下がったことに相当します。熱中症や脱水なら点滴、肺炎なら抗菌薬の投与といった治療は十分にします。 それで高度が回復するならいいのですが、回復しなければ亡くなります。亡くなった最期だけを見ると急に悪くなったように見えますが、何年もかけてゆっくりと飛行機の高度は下がってきたのです。病気は、最後の一押しに過ぎません。 肺炎などの病気が治って、当面は命の危険がなくなっても、十分には回復しないこともあります。たとえば、誤嚥性肺炎の治療後に口から物を食べられなくなるケースです。物を飲み込む機能は複雑で、筋肉や神経の機能が衰えると、食道に送られるはずの食べ物が誤って気管や肺に送られ、肺炎を起こします。これが誤嚥性肺炎です。 肺炎自体は抗菌薬で治っても、体力が低下して衰えた「飲み込む機能」はなかなか元に戻りません。リハビリで回復するケースもないわけではありませんが、老衰が背景にある場合はまず回復しません』、「飲み込む機能」は「老衰が背景にある場合はまず回復しません」、厳しい現実だ。
・『食事をとれなくなったらどうするか  食事の経口摂取ができなくても「経鼻経管栄養」や「胃瘻いろう栄養」などといった栄養を補給する方法はあります。「経鼻経管栄養」は鼻から細いチューブを胃に通して栄養剤を入れる方法で、生命維持に必要なカロリーが補給できます。ただ、鼻にずっとチューブが入ったままなので不快感や苦痛を伴いますし、定期的にチューブの入れ替えが必要です。一方の「胃瘻栄養」は、胃に穴をあけてチューブを通して栄養剤を入れる方法で、長期的にはこちらのほうが負担は小さいといえます。神経難病などで飲み込む機能が衰えた患者さんにとっての胃瘻栄養は、命をつなぎ、生活の質を上げる重要な治療法です。 ですが、老衰で亡くなる恐れのある患者さんの胃瘻栄養は議論になるところです。日本では、自分で意思決定ができなくなった認知症の高齢者に対して胃瘻栄養が行われてきました。一方、海外の多くの国ではあまり行われていません。たとえばアメリカ老人医学会は、重度の認知症患者に対して胃瘻栄養は推奨せず、代わりに注意深く食事介助を行うとしています(※2)。 このことは欧米で寝たきり老人が少ない一因として挙げられます。「日本では胃瘻を造って強制的に栄養を取らせ高齢者を不自然に延命させる。欧米では口から食べられなくなったら自然で平穏な死を迎える」といった主張もあるほどです』、「「日本では胃瘻を造って強制的に栄養を取らせ高齢者を不自然に延命させる。欧米では口から食べられなくなったら自然で平穏な死を迎える」といった主張もあるほどです」、「胃瘻を造る」については、本人や家族からの強い要望がある場合に限定すべきだ。
・『胃瘻栄養を行わなければ点滴を行う  とはいえ、胃瘻栄養を悪と見なすのも一方的すぎます。「胃瘻を造って長生きしたい」と考える患者さんの価値観も尊重されるべきです。ただし、患者さんの価値観や死生観を確認しないまま、漫然と胃瘻栄養を開始するのはよくありません。 最近は、日本でも胃瘻栄養を行うことは減りました。胃瘻を造る手術には、ご本人やご家族の同意が必要です。本来、治療方針はご本人が決めるべきですが、その意思確認が不可能な場合は、胃瘻栄養の利点や欠点や代替案について説明した上でご家族に選択していただきます。胃瘻栄養を行わない場合、末梢まっしょう点滴をすることがほとんどですが、十分なカロリーは入りませんから、患者さんは数週間から数カ月で亡くなります。 カロリーだけを考えればブドウ糖濃度の高い点滴を多めに入れたほうがいいのですが、濃い点滴は静脈炎を起こしやすく、水分を多く入れると体がむくみます。点滴は血液と同じ濃さ(等浸透圧)のものを選び、徐々に量を減らします。等浸透圧の輸液を少量行うのなら静脈注射ではなく皮下注射も可能です。血管が細い患者さんに静脈注射を試みると、何度も血管を刺されることになりやすいですが、皮下注射ならそんなことはなくなります』、「胃瘻栄養を行わない場合、末梢まっしょう点滴をすることがほとんどですが、十分なカロリーは入りませんから、患者さんは数週間から数カ月で亡くなります」、やむを得ないことだ。
・『人工呼吸や胸骨圧迫を行うかどうか  呼吸や心臓が止まったときの対応も、ご家族に選んでいただくことがあります。もともと元気な若い患者さんが心肺停止した場合の対応は迷いません。意思を確認するまでもなく、速やかに人工呼吸や胸骨圧迫(心臓マッサージ)を開始します。 ですが、老衰死が予測される患者さんに対しては心肺蘇生をせず、そのまま看取ることも多いのです。当院で老衰死が予想される入院患者さんに対しては、原則として前もってご家族と話し合い、心臓や呼吸が止まっても心肺蘇生を行わない方針を定めておきます。 私が医師になったばかりの頃は、こうした心肺蘇生を試みない方針は、それほど多くありませんでした。命を助けることは医療の目的の一つです。今にも死にそうな患者さんに対して何もしないことは、医師にとって抵抗感があります。ご家族も「できる限りのことはやってください」とおっしゃいました。すると患者さんは胸骨圧迫をされ、チューブを喉に入れられ、人工呼吸器につながれることになります』、「老衰死が予測される患者さんに対しては心肺蘇生をせず、そのまま看取ることも多いのです。当院で老衰死が予想される入院患者さんに対しては、原則として前もってご家族と話し合い、心臓や呼吸が止まっても心肺蘇生を行わない方針を定めておきます」、無駄な「心肺蘇生」を避けるためにも、必須だ。
・『死を迎えるお手伝いも医療の役割  高齢者に対して本気で胸骨圧迫を行えば、間違いなく肋骨は折れます。命を救うためなら肋骨が折れようともためらわずにやるべきなのですが、老衰死するような患者さんが心肺停止に陥った場合、心肺蘇生をしても治ることはありません。 もしかしたら一時的に呼吸や脈拍が戻ることはあるかもしれません。ですが、また同じことが起こるでしょう。多くは意識がないので苦痛を感じないはずですが、もしも意識があるなら、肋骨が折れたり、喉にチューブを入れられたりすれば苦痛を伴います。では、誰のために心肺蘇生をしたり、人工呼吸器につないだりするのでしょうか。以前は、本人のためではなく、医療者の自己満足やご家族の納得のためにやっていた側面が確かにありました。 人はみな、必ず死にます。死を「医療の敗北」と考えると、医療は必ず負けるのです。死を避けようとするだけではなく、死を迎えるお手伝いをすることも医療の大切な役割のはずです。いざというときに心肺蘇生を行わない方針であれば、入院や施設入所をせず、ご自宅でお看取りをするという選択肢もあります』、「人はみな、必ず死にます。死を「医療の敗北」と考えると、医療は必ず負けるのです。死を避けようとするだけではなく、死を迎えるお手伝いをすることも医療の大切な役割のはずです」、その通りだ。
・『訪問看護・診療を受けて自宅で看取る  自宅にいても、訪問看護や訪問診療によって抗菌薬や酸素の投与、鎮痛・鎮静といった医療は受けられます。義父を含めて私の親族の幾人かは、信頼できる在宅医と巡り会えたということもあって、在宅で看取りました。特に新型コロナウイルス感染症の流行によって病院や施設での面会が制限されている現在では、住み慣れた自宅で家族に最期を見届けてもらえるのは大きな利点です。 一方、入院と違って在宅のお看取りでは可能な医療行為は限られます。病態が急に悪化しても医師がかけつけるまでには時間がかかりますし、夜中に息を引き取った場合、医師が訪問して死亡を確認するのはたいてい翌日の朝になります。 在宅でお看取りする方針であったはずなのに、心肺停止時にご家族が救急車を呼んでしまった事例もときどき聞きます。この場合、心肺蘇生を行わない方針だとしても、その事実が確認できるまで救急隊員は心肺蘇生を行うことになります』、「在宅でお看取りする方針」の場合には、「心肺蘇生を行わない方針」を家族中で徹底しておく必要がありそうだ。
・『どのようなお看取りが最善なのか  どのようなお看取りが良いのかという絶対の正解はありません。ケース・バイ・ケースで判断するしかないのです。患者さん本人が心肺蘇生を希望されるなら、その選択肢を尊重して十分な心肺蘇生を行います。十分な説明をされた上で、ご本人やご家族が少しでも納得のいく最期を迎えられるようにするしかありません。 高齢者ご本人が理解できるうちに十分な説明をし、胃瘻を造るかどうか、延命治療を行うかどうかを確認しておくのが理想的です。でも、もしもそれができなければ、ご家族が「ご本人だったらどうしたかったのか」をよく考えた上で選択されれば、それが最善だろうと私は思います。 最後に、死亡確認も医師の仕事です。聴診器で心音と呼吸音の停止を、ペンライトで対光反射の消失を確認し、死亡時刻を述べます。そのあとに「お疲れさまでした」と述べることが多くなりました。長く生きてこられた患者さまに対しての言葉でもありますし、長く看病されてきたご家族に対する言葉でもあります。何歳であってもご臨終はご家族にとってつらい瞬間です。悲しみや後悔を少しでも減らせるよう心がけています』、「何歳であってもご臨終はご家族にとってつらい瞬間です。悲しみや後悔を少しでも減らせるよう心がけています」、こうした丁寧な医師に看取ってもらいたいものだ。

次に、10月26日付け東洋経済オンラインが掲載した医療未来学者・医師の奥 真也氏による「96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味 医師が解説「持病があってもPPKは叶うもの」」を紹介しよう。
・『この秋、英王室のエリザベス女王が亡くなりました。 その気高さ、成し遂げられた数々の人類への貢献は、多くの人が心から敬意を表するものだったと思い返します。1万キロに近い距離を隔て、日本人の多くも喪失の悲しみに打ちひしがれました。 9月30日、スコットランド当局は、エリザベス女王の死因が「老衰」であると発表しました。エリザベス女王の命を奪った「老衰」とは一体何なのでしょうか』、「「老衰」とは一体何なのでしょうか」、興味深そうだ。
・『人はなかなか死ねなくなった  人類の平均寿命が延びている。そのことにはみんな気づいていますよね。いえ、意識しなくても、誰しもがついつい気づいてしまうほどに著明に延びています。人間はなかなか死ねなくなりました。 現在の日本の平均寿命は男性が約82歳、女性は約88歳です。昔の話をしますと、戦後(1945年)すぐの頃には日本人の平均寿命は50歳を少し超えたくらいでした。当時は、戦争の影響で下がっていた面が多少はあったにせよ、今と大きな違いがあります。かつての60代、70代の人は、現代の同世代とは比べられないくらいに「老人」だったのです。 ところで、老衰、って何でしょうか。 医学的に「老衰」というのは案外に難しい概念です。「老化」ならば比較的わかりやすい。人間を含む生物は、代替わりを繰り返して成立するもの。新しい世代が生まれる前提として、老兵は去らなくてはならない。生物の定めとして、メンバーの新陳代謝を図るわけです。そして、その新陳代謝のために自然が用意した答えこそが「老化」だったのです。このことは古来の共通理解であったと思われます。つまり、去って行くために「老化」して心身機能が細胞レベルから後退し、やがて生命を閉じる方向に向かうということです。 翻って「老衰」です。老衰は老化によってだんだんと衰えていく状態を指す言葉です。しかし、「老衰」と聞くと、それ自体が病気の名前のように感じられると思います。そのことには理由があって、「老衰」は長い間、高齢者が起こす不調をざっくりと表す魔法の言葉のように使われてきました。医学が老化にともなう人間の現象をはっきりとわかっていなくて、曖昧な用語を使っていたという面があるのです。) 高齢になるに伴い、人間の機能は低下してきます。いろいろな低下が起こるのは、完全に自然のなせる業、節理です。 冒頭に書いたように、我々は誰しも、次の世代にバトンタッチして自らは消えていく使命を帯びて生まれてきています。世代継承のために必要な寿命は最短なら20歳、子育てまで含めても50年あればお釣りがきます。そのため、我々が持つ身体はもともと50年仕様なのです(身体の部品が50年仕様である話は、拙著『人は死ねない』〈晶文社〉でも詳しく書いています)。 さて、その50年仕様を大きく超えて高齢を極めた人間が亡くなる頃、身体のさまざまな機能がちょっとずつ、生命の維持に十分に耐えうる状態ではなくなってきます。心臓も悪く、肺も悪く、腎臓の機能も足りない……一個一個の臓器の異常が特に顕著なわけではなくても、全体としての「チーム力」が足りなくなるのです。そして、チーム力のせいで生命の灯がついえる状況を、我々は老衰と呼ぶのです』、「一個一個の臓器の異常が特に顕著なわけではなくても、全体としての「チーム力」が足りなくなるのです。そして、チーム力のせいで生命の灯がついえる状況を、我々は老衰と呼ぶのです」、なるほど。
・『各臓器の総力が足りなくなる  なお、チーム力、と言いましたが、チーム力が足りなくなるときの最後の決定的な部分は、腎臓であったり肺であったり、また、心臓であったりします。野球でいうならば(野球に喩えるのが適切かどうかもわかりませんが)、4番バッターが打てなくなったから負けた、ピッチャーの層が薄いのが原因でリリーフの切り札の心身がボロボロになって打ち込まれた……というようなことでしょうか。ともかく、ひとりの人間全体の生命活動を支えるには各臓器の総力が足りなくなるのが老衰なのです。 そういう状況であることから、例えば高血圧や糖尿病の持病を抱えた、あるいはがんから回復したあとの「一病息災」「多病息災」の状況であっても、それらの病気が命を奪うことなく、「老衰」によって命を閉じることは十分にあり得ます。高齢でも目立った病気もなく日々の活動ができ、元気なままで、いわば、ピンピンピンピンピンピンコロリ(PPPPPPK)ということも高望みではありません。  国立国語研究所が運営するコーパスで調べてみます。コーパスとは、ごく簡単にいうと、検索しやすいように構造化された用例データベースです。コーパスで調べると、「老衰」が現代の意味で使われ始めたのは、少なくとも1878年生まれの小説家、有島武郎の『小さき者へ』までは遡れます。それより遙か以前、8世紀に著わされた書物にも「老衰」は使われています。しかし、その当時から18世紀までの間、同語の使われ方は、「齢を取って衰弱」という程度にとどまり、現代のような、病気に言及する意味はなさそうです。 ちょっと周辺の事情をお話ししたいと思います。 江戸時代から明治にかけて、日本に大量の西洋医学が入ってきました。蘭学医であった杉田玄白の『解体新書』などは、その文脈でよく知られる代表的な存在です。 当時、日本にはまだ存在しないモノや考え方が入ってきました。その結果、日本語の語彙として必要ないろいろな言葉が「転用」ないし「発明」されることになりました。「解剖」や「細胞」「侵襲」……といった医学用語が昔の語彙から蘇らされたり、たくさん作られたりしました。そのときに作られた言葉の見事さ、漢字の使われ方の完膚なきまでの技術を見ると、時代の知識層が漢文に大きな素養を持っていたことが見てとれます。現代人として恥ずかしくもなります。21世紀の日本語に定着しているさまざまな用語がこの時期に作られているのです。) そして、「老衰」もこの時期に使われ始めた「リバイバル語」であったと思われます。対応する西洋の言葉は「senility」(あえて普通に訳すなら、老化)、あるいは単純に「aging」あたりであったと想像されるものです。老いてだんだんと衰弱していく、まさにその状態をよく反映しています。 死亡診断書の話をしましょう。死亡診断書は、医師が人の臨終を看取ったときに書く書類です。この書類がないと、火葬することも、お葬式を出すこともできません。そして、医師は、死亡診断書を書くにあたり、死の原因をあれこれと医学的に判断し、1つの病名を書く決まりになっています。 仮にもし、その判断の時点で、死亡原因に不審な点があれば、「司法解剖」というものが行われるようになります。このあたりのシーンはテレビドラマなどでご覧になった方も多いのではないでしょうか。 さて、上段の話を裏付けるかのように、厚生労働省は、死亡診断書において、「老衰」という死因の記載を正式に認めています。 <死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って記入することになります。> 下図はその公式文書ですが、こういう文書にありがちな、素人には少しとっつきにくいものであると思います。要は「ほかに死因として書けるものがなければ老衰を使っていいよ」ということです。 平成30年度版「死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル」より抜粋 さて、ひと時代を美しくしなやかに導いたエリザベス女王が亡くなったことは、英国民ならず世界の人々を悲しみの淵に追いやります。私とてその例外ではもちろんありません。 女王の死の報に接したときは海外出張の地で同僚(主に欧州人)たちと会食の盛りであったのですが、1人が速報をつかみ、その話は瞬く間にテーブルにいきわたりました。ひとしきり、食卓の話題は女王とその時代に関するものに占められることになったのです。それぞれの人の中にエリザベス女王はありました。大きな位置を占めているといってよい状態でした。 エリザベス女王が君臨した美しい20世紀の終焉が、時を十分に経た今、そして、老衰というかたちであったことに私は深い感慨を禁じ得ません。医学がいかに発展しようが、人の自然な先行きに老衰があるということは変えようがないものであると改めて認識します。老衰とはまさにそういう存在だと私は思うのです』、「厚生労働省は、死亡診断書において、<死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って記入することになります』、「エリザベス女王」の「老衰」、について、「医学がいかに発展しようが、人の自然な先行きに老衰があるということは変えようがないものであると改めて認識します」、同感である。

第三に、11月28日付けPRESIDENT Onlineが掲載した臨床内科認定医の杉浦 敏之氏による「欧米では絶対にそんな治療はしない…現役医師が「日本の終末医療はほぼ虐待」と語るワケ 会話もできない寝たきりの状態で胃に栄養を流し込む」を紹介しよう。
・『日本では終末期の患者に点滴や人工栄養による延命措置を行うことがある。臨床内科認定医の杉浦敏之さんは「欧米では終末期に無理な延命を行わない方針が取られており、オーストラリアでは『栄養状態改善のための積極的介入は、倫理的に問題がある』と明確に指摘されている。家族や医療者ではなく『患者さんの最善の利益』を求める治療を整備していくべきだ」という――。(第2回) ※本稿は、杉浦敏之『死ねない老人』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『「患者さんが亡くなる=敗北」であれば医師はつねに全敗  医師は病と闘い、人の命を救うのが仕事です。 そのため医師にとっては、患者さんが亡くなることは医療の力が及ばなかった「敗北」という感覚があるのも事実です。だから死を認められない、認めたくない気持ちが働くのかもしれません。しかし、どれだけ医療が発展しても、生物としての死を免れることはできません。人の致死率は100%です。医師にとって「死が敗北」なら、確実に「全敗」なのです。 「全敗」というのは、90歳まで現役の医師として臨床の現場に出ていた私の父の言葉です。父は生前、医療の究極の目的は「いかに患者さんが満足して死んでいけるか」だとも語っていたことがあります。医師として半世紀以上、患者さんの生死を見つめてきた経験、そして自分自身が年齢を重ねてきたなかで行き着いた、一つの結論だと思います。 私自身も在宅医療や看取りを行うようになってから、つくづく父の言葉は真理だと思うようになりました。「満足のいく最期」ということを考えたとき、人工呼吸器や人工栄養などの望まない延命医療を施し、高齢者の苦痛を増やすのは満足とは正反対の、明らかに患者さんの利益に反する行為です。 にもかかわらず、終末期に至っても濃厚な医療が続けられてきた背景について、東京大学大学院人文社会系研究科附属死生学・応用倫理センターの特任教授・会田薫子氏は、次のように指摘しています。 「なぜ終末期の高齢者に人工栄養(胃瘻いろう)を行うかというと、『自然死についての社会のコンセンサスがない』『法律上の問題がある』『家族の希望である』『遠くの親戚が口を出す』などの様々な理由が出てくるが、実は『人工栄養の差し控えは餓死させることと同じだと思う』という医師の意識が一番大きいものだった」(ブックレット『高齢者の終末期医療を考える』生産性出版) 現在の日本では高齢者医療に携わる医師ですら、より苦痛が少なく、満足度の高い終末期医療についての正確な知識や理解がない、ということです。これは世界的に見ても異様な状況です』、「「なぜ終末期の高齢者に人工栄養(胃瘻いろう)を行うかというと」、「実は『人工栄養の差し控えは餓死させることと同じだと思う』という医師の意識が一番大きいものだった」、「現在の日本では高齢者医療に携わる医師ですら、より苦痛が少なく、満足度の高い終末期医療についての正確な知識や理解がない、ということです。これは世界的に見ても異様な状況です」、ショッキングな事実だ。
・『欧米では事前に終末医療のマニュアルを医師と本人が作成する  アメリカや欧州、オーストラリアなどの先進諸国では、人として尊厳のある死やそのための終末期医療について、もうずいぶん前から議論がなされてきています。それにより、どのようなときにどのような医療・ケアを行うか(行わないか)という具体的な指針も既につくられています。 たとえばアメリカでは、人生の最期のときまで本人の意思決定、自己決定権を尊重することが、尊厳のある死という考え方があります。そのため、高齢や病気によって終末期に至った人が治療を望まないという意思表示をしたとき、医療者はもちろん、家族ですらそれに反対することはありません。万一、本人の意思に反して治療を行えば、医師が家族に訴えられることもあります。 ただ一般の患者さんの意思表示だけでは、希望する医療の内容があいまいだったり、家に保管していていざというときに役立たなかったりすることから、医師と相談して治療内容を確認しておく「生命維持治療のための医師指示書(通称POLST)」というものが活用されるようになっています。 これは1991年にオレゴン・ヘルスサイエンス大学病院のリチャードソン博士が開発したものです。終末期の人(病気や加齢で余命1年程度と診断された人)が、次の医療行為を受けるかどうかについて、患者本人あるいは医療代理人と、医師とが相談して決めます。 医療行為は①心肺停止時の蘇生、②脈拍あるいは呼吸があるときの積極的治療、③抗生剤投与、④人工栄養、の4つです。そしてオリジナルの医師指示書は患者さんが保管し、医師もコピーを所持したり、情報をカルテに保持したりします。これがあれば、患者さんの状態が変わったときにも医師は治療方法に迷うことはありません。 実際の医療現場で、患者さんの意思が確実に反映されるしくみといえます』、「生命維持治療のための医師指示書(通称POLST)」は、「終末期の人・・・が、次の医療行為を受けるかどうかについて、患者本人あるいは医療代理人と、医師とが相談して決めます」、「オリジナルの医師指示書は患者さんが保管し、医師もコピーを所持したり、情報をカルテに保持したりします。これがあれば、患者さんの状態が変わったときにも医師は治療方法に迷うことはありません。 実際の医療現場で、患者さんの意思が確実に反映されるしくみ」、進んだ仕組みだ。
・『最も大切なことは「入所者の満足感」である  またオーストラリアでは、政府が2006年に「高齢者介護施設における緩和医療のガイドライン」を策定しています。そこでは、終末期の医療・ケアについて次のような方針が明確に示されています(以下、『高齢者の終末期医療を考える』より引用)。 ・無理に食事をさせてはいけない ・栄養状態改善のための積極的介入は、倫理的に問題がある ・脱水のまま死ぬことは悲惨であると思い点滴を行うが、緩和医療の専門家は経管栄養や点滴は有害と考える ・最も大切なことは入所者の満足感であり、最良の点滴をすることではない)・『終末期の高齢者が食事をしなくなることは自然なこと  世界各国の終末期医療を調査し、札幌で「高齢者の終末期医療を考える会」を立ち上げているのが、宮本顕二医師と宮本礼子医師のご夫妻です。認知症が専門の宮本礼子医師は、2007年に初めてスウェーデンの終末期医療を目にしたときの驚きを率直に著書に綴つづり、現地の医師の話をこう紹介しています(『欧米に寝たきり老人はいない』中央公論新社)。 「タークマン先生は、『スウェーデンでは、高齢者が食べなくなっても、点滴や経管栄養を行いません。食べられるだけ、飲めるだけですが、安らかに亡くなります。私の父もそうして亡くなりました。亡くなる前日まで話すことができて穏やかな最期でした』と言いました。日本では高齢者が人生の終わりに食べなくなると、点滴や経管栄養をするのが当たり前でした。 点滴もしないことに私が驚くと、『ベッドの上で、点滴で生きている人生なんて、何の意味があるのですか?』と逆に聞かれてしまいました。そして『スウェーデンも昔は高齢者が食べなくなると点滴や経管栄養を行っていましたが、20年かけてしなくなりました』と言っていました」 終末期の高齢者が食べなくなるのは、死に向かうとき自然な体の変化です。死が近づくと体が食べ物を受け付けなくなるのです』、「スウェーデンも昔は高齢者が食べなくなると点滴や経管栄養を行っていましたが、20年かけてしなくなりました」、「終末期の高齢者が食べなくなるのは、死に向かうとき自然な体の変化です。死が近づくと体が食べ物を受け付けなくなるのです」、なるほど。
・『無理やり食事をとらせるのは虐待しているようなもの  日本でも昔は医師にも社会にも「食べられなくなったらそこまで」という感覚があったものです。そしてときどき口に水やリンゴの搾り汁などを含ませる程度で、それだけでお年寄りは穏やかに亡くなっていました。 それに対し、現代の医師や介護者は高齢者が食べなくなると空腹やのどの渇きで苦痛なのではないかと考えてしまい、いつまでも必死に食べさせようとします。そして自力で食べられなくなれば、人工栄養や点滴を施します。宮本礼子医師も、日本で欧米式の人工栄養も点滴もしない終末期医療を提案すると、必ず医師たちから「患者さんを餓死させるのか」「見殺しにするのか」という質問や反発を受けると記しています。 しかし終末期に至った人は、健康な私たちが想像するような空腹やのどの渇きによる苦痛は感じなくなっています。体内の栄養や水分が少なくなるとβエンドルフィンやケトン体が多く分泌され、自然に鎮静鎮痛効果が働くともいわれています。むしろ食べられなくなった患者さんに無理に食事をとらせ、誤嚥ごえん性肺炎を繰り返すようなことは欧米の感覚でいえば「虐待」に相当します。 会話もできない寝たきりの状態で褥瘡じょくそうをつくりながら胃瘻で命をつなぐというのもそうかもしれません。点滴にしても、体に水分を多く入れれば痰が増えて吸引が多く必要になりますし、浮腫や肺水腫が増え、溺死と同じように肺に水が溜まって亡くなる患者さんも多くいます。私も在宅看取りでは点滴を減らし、水分を抜いて“乾かす”ようにしたほうが、患者さんの苦痛が少なく穏やかな最期になることを、確かに実感しています』、「現代の医師や介護者は高齢者が食べなくなると空腹やのどの渇きで苦痛なのではないかと考えてしまい、いつまでも必死に食べさせようとします。そして自力で食べられなくなれば、人工栄養や点滴を施します」、「終末期に至った人は、健康な私たちが想像するような空腹やのどの渇きによる苦痛は感じなくなっています。体内の栄養や水分が少なくなるとβエンドルフィンやケトン体が多く分泌され、自然に鎮静鎮痛効果が働くともいわれています。むしろ食べられなくなった患者さんに無理に食事をとらせ、誤嚥ごえん性肺炎を繰り返すようなことは欧米の感覚でいえば「虐待」に相当します」、「欧米の感覚でいえば「虐待」に相当」とはショッキングだ。
・『家族や医療者ではなく「患者さんの最善の利益」を求めるべき  欧米のほか、歴史的・文化的な背景の近いアジアでも、台湾や韓国は25年近く前から、患者本人の希望があれば積極的延命をしない方向になっており、法的にもそれが保証されてきています。 台湾では、2000年に「安寧緩和医療法」という尊厳死を法的に認める法案が100%の賛成で可決しています。台湾でも尊厳死法制化の前は、終末期の人に対して心臓マッサージ、人工呼吸、人工栄養、点滴などの処置が行われていたそうです。しかし現在は患者本人、または代理人のリビング・ウィルがあれば、延命治療の非開始も中止も、どちらも合法になりました。 また台湾には「終末期退院」と呼ばれる慣行があり、本人が希望すれば病院で緩和ケアを受けることも、自宅で在宅ホスピスを受けることもできるようになっています。一方の韓国では、終末期医療中止等を法的に認める「ホスピス・緩和医療および終末期患者の延命医療の決定に関する法律」が2016年1月に可決成立。2018年に施行されました。 患者さんの意思表明については「事前延命医療意向書」を作成し、登録します。登録先の医療機関やリビング・ウィル事業者を管理する、国立延命医療管理機関も設置されています。私も以前、海外の終末期患者のための病室を見学したある先生の講演で次のようなことを聞きました。 そこは天国に一番近いという意味で病院の最上階にあり、室内の内装も、天国や極楽浄土を思わせるような明るく、居心地のいい雰囲気になっていました。そこでお年寄りたちは家族と自由に交流をしたり、苦痛を取り除くケアを受けたりしながら最期の日々を過ごすのです。病院で亡くなるにしても、こうした環境と適切な終末期医療・ケアがあれば、その人らしい尊厳のある死を実現することはできるのです。 世界一の超高齢社会である日本でも、家族や医療者が納得するための終末期医療ではなく、「患者さんの最善の利益」のための終末期医療が整備され、広まっていく必要があるのはいうまでもありません』、「世界一の超高齢社会である日本でも、家族や医療者が納得するための終末期医療ではなく、「患者さんの最善の利益」のための終末期医療が整備され、広まっていく必要がある」、強く同意する。
タグ:(その9)(「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態、96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味 医師が解説「持病があってもPPKは叶うもの」、欧米では絶対にそんな治療はしない…現役医師が「日本の終末医療はほぼ虐待」と語るワケ 会話もできない寝たきりの状態で胃に栄養を流し込む) 終末期 PRESIDENT ONLINE 名取 宏氏による「「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態」 「老衰死の経過」を知っておくことは、確かに役立ちそうだ。 「高齢者の体調は「低空飛行中の飛行機」とは言い得て妙だ。 「飲み込む機能」は「老衰が背景にある場合はまず回復しません」、厳しい現実だ。 「「日本では胃瘻を造って強制的に栄養を取らせ高齢者を不自然に延命させる。欧米では口から食べられなくなったら自然で平穏な死を迎える」といった主張もあるほどです」、「胃瘻を造る」については、本人や家族からの強い要望がある場合に限定すべきだ。 「胃瘻栄養を行わない場合、末梢まっしょう点滴をすることがほとんどですが、十分なカロリーは入りませんから、患者さんは数週間から数カ月で亡くなります」、やむを得ないことだ。 「老衰死が予測される患者さんに対しては心肺蘇生をせず、そのまま看取ることも多いのです。当院で老衰死が予想される入院患者さんに対しては、原則として前もってご家族と話し合い、心臓や呼吸が止まっても心肺蘇生を行わない方針を定めておきます」、無駄な「心肺蘇生」を避けるためにも、必須だ。 「人はみな、必ず死にます。死を「医療の敗北」と考えると、医療は必ず負けるのです。死を避けようとするだけではなく、死を迎えるお手伝いをすることも医療の大切な役割のはずです」、その通りだ。 「在宅でお看取りする方針」の場合には、「心肺蘇生を行わない方針」を家族中で徹底しておく必要がありそうだ。 「何歳であってもご臨終はご家族にとってつらい瞬間です。悲しみや後悔を少しでも減らせるよう心がけています」、こうした丁寧な医師に看取ってもらいたいものだ。 東洋経済オンライン 奥 真也氏による「96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味 医師が解説「持病があってもPPKは叶うもの」」 「「老衰」とは一体何なのでしょうか」、興味深そうだ。 「一個一個の臓器の異常が特に顕著なわけではなくても、全体としての「チーム力」が足りなくなるのです。そして、チーム力のせいで生命の灯がついえる状況を、我々は老衰と呼ぶのです」、なるほど。 「厚生労働省は、死亡診断書において、<死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って記入することになります』、「エリザベス女王」の「老衰」、について、「医学がいかに発展しようが、人の自然な先行きに老衰があるということは変えようがないものであると改めて認識します」、同感である。 杉浦 敏之氏による「欧米では絶対にそんな治療はしない…現役医師が「日本の終末医療はほぼ虐待」と語るワケ 会話もできない寝たきりの状態で胃に栄養を流し込む」 杉浦敏之『死ねない老人』(幻冬舎新書) 「「なぜ終末期の高齢者に人工栄養(胃瘻いろう)を行うかというと」、「実は『人工栄養の差し控えは餓死させることと同じだと思う』という医師の意識が一番大きいものだった」、「現在の日本では高齢者医療に携わる医師ですら、より苦痛が少なく、満足度の高い終末期医療についての正確な知識や理解がない、ということです。これは世界的に見ても異様な状況です」、ショッキングな事実だ。 「生命維持治療のための医師指示書(通称POLST)」は、「終末期の人・・・が、次の医療行為を受けるかどうかについて、患者本人あるいは医療代理人と、医師とが相談して決めます」、「オリジナルの医師指示書は患者さんが保管し、医師もコピーを所持したり、情報をカルテに保持したりします。これがあれば、患者さんの状態が変わったときにも医師は治療方法に迷うことはありません。 実際の医療現場で、患者さんの意思が確実に反映されるしくみ」、進んだ仕組みだ。 「スウェーデンも昔は高齢者が食べなくなると点滴や経管栄養を行っていましたが、20年かけてしなくなりました」、「終末期の高齢者が食べなくなるのは、死に向かうとき自然な体の変化です。死が近づくと体が食べ物を受け付けなくなるのです」、なるほど。 「現代の医師や介護者は高齢者が食べなくなると空腹やのどの渇きで苦痛なのではないかと考えてしまい、いつまでも必死に食べさせようとします。そして自力で食べられなくなれば、人工栄養や点滴を施します」、 「終末期に至った人は、健康な私たちが想像するような空腹やのどの渇きによる苦痛は感じなくなっています。体内の栄養や水分が少なくなるとβエンドルフィンやケトン体が多く分泌され、自然に鎮静鎮痛効果が働くともいわれています。むしろ食べられなくなった患者さんに無理に食事をとらせ、誤嚥ごえん性肺炎を繰り返すようなことは欧米の感覚でいえば「虐待」に相当します」、「欧米の感覚でいえば「虐待」に相当」とはショッキングだ。 「世界一の超高齢社会である日本でも、家族や医療者が納得するための終末期医療ではなく、「患者さんの最善の利益」のための終末期医療が整備され、広まっていく必要がある」、強く同意する。
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幸福(その6)(「幸福度」を科学的に測定・分析することは可能か GDPに代わる「政策目標」として近年注目される、うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論”) [人生]

幸福については、7月29日に取上げた。今日は、(その6)(「幸福度」を科学的に測定・分析することは可能か GDPに代わる「政策目標」として近年注目される、うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論”)である。

先ずは、10月6日付け東洋経済オンラインが掲載した半熟仮想株式会社 政策研究員の伊藤 ちひろ氏による「「幸福度」を科学的に測定・分析することは可能か GDPに代わる「政策目標」として近年注目される」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/622532
・『アリストテレスやベンサムを代表として、古くからずっと、幸福は人間社会の究極の目標だといわれてきた。格差や環境問題のような資本主義の副作用、「収入が上がっても、幸福度は徐々に上がりにくくなる」といった研究結果などを背景に、近年は金銭的な豊かさだけではなく、幸福度を直接測定・分析して政策の立案・評価をしようとする動きが活発化している。2011年に英国が始めて以来、幸福度の国家統計は各国に広がり、日本も21年から作成している。 これらの調査では、「今、人生に満足していますか? 0〜10のスケールでお答えください」といった質問で幸福度を尋ね、そのうえで回答の平均値の推移などを確認することが多い。しかし、考えてみてほしい。直前の気分や周囲の人との比較に惑わされず、自分の幸福度を正確に答えられるだろうか。それに、幸福度8の人は幸福度4の人の2倍幸せで、2人の平均幸福度は6だ、と単純に計算してよいだろうか。 実際、現在の測定・分析方法は課題だらけで科学的根拠に乏しい。本稿では、最新の研究に基づいて具体的な課題とその解決の方向性を紹介する』、かなり本格的な「幸福」論のようで、興味深そうだ。
・『「主観的」評価の重要性  幸福は、心理学・経済学・社会学・哲学・健康科学などさまざまな学問で研究されている。近年、経済学分野では「幸福度」の定義をするに当たって、幸福度の測り方の中でもとくに、人生の質・満足度についての総合的な「主観的」評価(Subjective Well-Being)に注目している。なぜなら、幸福度を直接測ることにより、科学的な分析を可能としたいからだ。 背景には、従来使われてきた「物質的・社会的・身体的・主観的」評価(Well-Being)に対する問題意識がある。この評価手法は、複数の幸福度の要素のうちどれをどう組み合わせるのかの決定が恣意的であり、科学的根拠が弱いのだ(それを踏まえると、Well-Beingを用いた「幸福な国ランキング」などのランキングは、ただの話題づくりだと思って、話半分に聞き流すのがいいだろう)。 さて、社会全体の幸福度を科学的に測定・分析するには、大きく分けて2つの条件が必要だ。〈条件1〉は、無関係の要素に惑わされない正確な回答が得られること、〈条件2〉は、異なる人・時期の回答結果を比較できることだ。何も工夫しないと、2条件とも満たされない可能性があるとわかってきた。 まず〈条件1〉については、質問の順番や回答者の忖度(そんたく)により、バイアス(偏り)が生じうる。例えば、政治に関する質問の後で幸福度について尋ねると回答の数値が下がり、心理カウンセリングの後で尋ねると回答の数値は上がることなどが知られている。 大規模な調査によれば、これらのバイアスの影響は大きくないとされるが、明確に取り除く方法の開発は発展途上で、さらなる研究が必要だ。バイアスが生じるプロセスを知るため、主観的な回答と客観的な身体指標(脳の動きやホルモン値など)との関係を理解しようという動きもあるが、いまだに明確な関係はわかっていない。) 次に〈条件2〉について、人々が示す自己評価の意味は、主に3つの要因によって変わること(Response Shift)が広く知られている。それは、「範囲」「規模」「表現方法」だ。 1つ目は幸福の評価の「範囲」、つまり何に注目して幸福度を考えるか、である。例えば、自分や家族の状況だけでなく、友人や社会の状況に評価が左右されることもある。「今」の幸福度としてどの期間・経験をイメージするかにも、ばらつきがある。評価範囲は、3つの要因のうち最も影響が大きいといわれている。 2つ目は幸福の比較の「規模」、何を最大・最小の幸福として定義するかだ。例えば、友人の起業が大成功したのを見て、自分も同じくらい大成功できるかもしれない、と最大値の定義が変わるかもしれない。あるいは全国優勝が当たり前の部活動に所属すれば、最小値の定義が変わるかもしれない。 3つ目は幸福の「表現方法」、各幸福度をどの値で回答するかだ。人や時間によって、各回答値が示す真の幸福度は異なる可能性がある(下図)。例えば、数字に疎い人は、0(最小)・5(中間)・10(最大)のみ利用して回答しがちであることが知られている。つまり、現在主流となっている、全員の回答値が等間隔であることを前提とした平均や分散の計算は、的外れである可能性が高い。 範囲・規模の違いの影響を取り除くには、どのような違いがあるのかを正確に理解することが必要だ。架空の人生の物語を読んで幸福度を評価してもらったり、直接範囲・規模を質問したりと、さまざまな方法が用いられている。ただし各方法には、回答者が自分の過去の考え方を思い出せることなどの各種前提がある。より汎用的に使える手法の開発が必要だ。 表現方法の違いの影響を取り除くには、等間隔を前提としない分析手法が有効だ。分析手法の数は限られるが、「以前と比べてより幸福かどうか」の測定、中央値や中央値からの広がりの比較、各回答値(とくに最大・最小値)の人数割合の比較は可能である。 もし幸福度の正確な測定・分析ができれば、幸福度向上に関する各政策の費用対効果を考慮できるようになり、政策の優先度・内容は大きく変わるだろう』、「社会全体の幸福度を科学的に測定・分析するには、大きく分けて2つの条件が必要だ。〈条件1〉は、無関係の要素に惑わされない正確な回答が得られること、〈条件2〉は、異なる人・時期の回答結果を比較できることだ」、「〈条件2〉について、人々が示す自己評価の意味は、主に3つの要因によって変わること(Response Shift)が広く知られている。それは、「範囲」「規模」「表現方法」だ」、かなり専門的な分析だ。 
・『何が幸福度を上げるのか  海外の研究では、例えば失業者への支援が充実している、緑が多い、通勤時間が短い社会では、人々の幸福度が上がる可能性があると知られている。もしこれが正しく、かつ日本に当てはまるとわかれば、より多くのリソースが失業対策、緑化、職住近接に関する政策などに充てられるかもしれない。調査結果によっては、新しい政策が生まれるかもしれない。 また、ビッグデータなどを用いて、高頻度で幸福度の測定を行うことができるようになれば、22世紀には、幸福度を社会目標として最大化するアルゴリズムが政策を自動生成する、というような日が訪れるかもしれない。 近年注目されている幸福度であるが、質の低い調査・研究結果を量産するのではなく、正確な測定・分析に向けた基礎研究を進めていくことが重要だ。(本稿は以下などを参考に執筆しました。https://www.youtube.com/playlist?list=PLG1lYftsVkA1r00R5xni5i0KVx3906dld)』、今後の研究の進展により「人々の幸福度が上がる可能性」に大いに期待したい。

次に、12月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した精神科医のTomy氏による「うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論”」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/313881
・『不安や悩みが尽きない。寝る前にイヤなことを思い出して、眠れなくなるなんてことも……。そこで参考にしたいのが、著者がNHK『あさイチ』[12/12(月)放送]に出演することで注目の感動小説『精神科医Tomyが教える 心の執着の手放し方』(ダイヤモンド社)だ。 ゲイのカミングアウト、パートナーとの死別、うつ病の発症……苦しんだ末にたどり着いた、自分らしさに裏づけられた説得力ある言葉。とても読みやすいオムニバス形式の8つのショートストーリーは、ふと心が落ち込んだとき、そっと心の荷物を手放すための優しい言葉を授けてくれる。voicy「精神科医Tomy きょうのひとこと」の心がスッと軽くなる“言葉の精神安定剤”で、気分はスッキリ、今日がラクになる!』、興味深そうだ。
・『うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論” 人はなにが起きても幸せになれる  アテクシの30代半ばから後半にかけては、いろいろと大変なことが重なって、精神的にも肉体的にもつらい目に遭いました。 当時、すでに自分のクリニックを開業していたのですが、仕事が立て込んでかなり忙しかったうえに、大切な人が次々と亡くなってしまい、絶望感にさいなまれたこともあって、うつ病を患ってしまいました。症状がひどいときには、朝起きたら、もうその瞬間から泣きそうな気分になっていたのです。 精神科医ですから対処の仕方は知っているのですが、それでもつらい状態が延々と続いたもので、「こんなことがいつまで続くんだろう」「いつになったら終わるんだろう」「もう元に戻らないんじゃないか」と不安になったものです』、「仕事が立て込んでかなり忙しかったうえに、大切な人が次々と亡くなってしまい、絶望感にさいなまれたこともあって、うつ病を患ってしまいました」、「精神科医ですから対処の仕方は知っているのですが、それでもつらい状態が延々と続いたもので、「こんなことがいつまで続くんだろう」「いつになったら終わるんだろう」「もう元に戻らないんじゃないか」と不安になったものです」、それでどうなったのだろう。
・『なにがあっても、あきらめないで  そんな最悪の精神状態でも、「いずれちょっとマシになるだろう」「今日のつらさを10としたら、明日のつらさは9.5でもいい」なんて思いながら、なんとかしのいで、その後、回復したわけです。 いまでも当時のつらさ、悲しさ、嫌なことが、なかったことにはなっていませんが、いまの自分は幸せだと断言できるんです。それは、あのつらい時期にあきめてしまっていたら、絶対に手に入らないものだったと思うからです。 いまが幸せだからといって、いまの幸せが未来永劫ずっと続くかといえば、そうともいえません。人の幸せというのは、つねに変わるもの。それでも、どんなことがあっても、人は幸せになることができるとアテクシは思ってます。なぜなら、人の幸せというのは、とても主観的なものだからです』、「そんな最悪の精神状態でも、「いずれちょっとマシになるだろう」「今日のつらさを10としたら、明日のつらさは9.5でもいい」なんて思いながら、なんとかしのいで、その後、回復したわけです」、よくぞ自力で乗り切ったものだ。
・『目の前のことを自分がどう捉えるか  自分自身が自分のいまに納得して、悔いはないと思えるなら、それは幸せだと思うんです。目の前の状況を自分がどう捉えるかによって、幸せにも不幸にもなるということです。 そこで、いちばん大事なポイントになるのは、あきらめないこと。いつも一生懸命になって、ずっと頑張り続ける必要はないんです。でも、決してあきらめないこと。いま頑張れない状態で、ゴロゴロしていても、あきらめなければ挽回できる機会が必ず訪れますから』、「いちばん大事なポイントになるのは、あきらめないこと。いつも一生懸命になって、ずっと頑張り続ける必要はないんです。でも、決してあきらめないこと。いま頑張れない状態で、ゴロゴロしていても、あきらめなければ挽回できる機会が必ず訪れますから」、「ずっと頑張り続ける必要はないんです。でも、決してあきらめないこと」、言うは易く、行うは難そうだが、自力で治ったのは大したものだ。
・『納得することが“幸せの最終形”  もうひとつ大事なことは、自分が納得して動くということ。動かないときも、自分が納得したうえで動かないこと。いずれにしても、自分が納得するということをつねに意識してください。 これは自分勝手とは違います。まわりの人たちを顧みず、振り回して、迷惑をかけても、自分が納得するから動く、動かないというとは、話が違うのです。そうではないことを前提に、自分が納得することを判断の基準とすることで、なにが起きても悔いはないと思えるようになります。それが幸せの最終形だと思っています。 本稿は『精神科医Tomyが教える 心の執着の手放し方』(ダイヤモンド社)の著者が日々お届けする“心のサプリメント”です。) (【著者】精神科医Tomy の略歴はリンク先参照)』、自らの行動については、「自分が納得することを判断の基準とすることで、なにが起きても悔いはないと思えるようになります。それが幸せの最終形だと思っています」、なるほど。
タグ:自らの行動については、「自分が納得することを判断の基準とすることで、なにが起きても悔いはないと思えるようになります。それが幸せの最終形だと思っています」、なるほど。 「いちばん大事なポイントになるのは、あきらめないこと。いつも一生懸命になって、ずっと頑張り続ける必要はないんです。でも、決してあきらめないこと。いま頑張れない状態で、ゴロゴロしていても、あきらめなければ挽回できる機会が必ず訪れますから」、「ずっと頑張り続ける必要はないんです。でも、決してあきらめないこと」、言うは易く、行うは難そうだが、自力で治ったのは大したものだ。 「そんな最悪の精神状態でも、「いずれちょっとマシになるだろう」「今日のつらさを10としたら、明日のつらさは9.5でもいい」なんて思いながら、なんとかしのいで、その後、回復したわけです」、よくぞ自力で乗り切ったものだ。 「仕事が立て込んでかなり忙しかったうえに、大切な人が次々と亡くなってしまい、絶望感にさいなまれたこともあって、うつ病を患ってしまいました」、「精神科医ですから対処の仕方は知っているのですが、それでもつらい状態が延々と続いたもので、「こんなことがいつまで続くんだろう」「いつになったら終わるんだろう」「もう元に戻らないんじゃないか」と不安になったものです」、それでどうなったのだろう。 『精神科医Tomyが教える 心の執着の手放し方』(ダイヤモンド社) Tomy氏による「うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論”」 ダイヤモンド・オンライン 今後の研究の進展により「人々の幸福度が上がる可能性」に大いに期待したい。 「社会全体の幸福度を科学的に測定・分析するには、大きく分けて2つの条件が必要だ。〈条件1〉は、無関係の要素に惑わされない正確な回答が得られること、〈条件2〉は、異なる人・時期の回答結果を比較できることだ」、「〈条件2〉について、人々が示す自己評価の意味は、主に3つの要因によって変わること(Response Shift)が広く知られている。それは、「範囲」「規模」「表現方法」だ」、かなり専門的な分析だ。 かなり本格的な「幸福」論のようで、興味深そうだ。 幸福 (その6)(「幸福度」を科学的に測定・分析することは可能か GDPに代わる「政策目標」として近年注目される、うつ病になった精神科医が人生のどん底で見つけた“幸せの最終結論”) 東洋経済オンライン 伊藤 ちひろ氏による「「幸福度」を科学的に測定・分析することは可能か GDPに代わる「政策目標」として近年注目される」
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恋愛・結婚(その7)(長い婚活に出口が!44歳&39歳が結婚できた勝因 結婚したい「恋愛が苦手な大人」がすべきこと、職場結婚は「今や傍流」1990年代から6割減の背景 ネット婚増でもお膳立てなければ結婚は増えない、マッチングアプリの沼にハマる44歳女性のリアル お金・危険・結婚願望…) [人生]

恋愛・結婚については、7月4日に取上げた。今日は、(その7)(長い婚活に出口が!44歳&39歳が結婚できた勝因 結婚したい「恋愛が苦手な大人」がすべきこと、職場結婚は「今や傍流」1990年代から6割減の背景 ネット婚増でもお膳立てなければ結婚は増えない、マッチングアプリの沼にハマる44歳女性のリアル お金・危険・結婚願望…)である。

先ずは、8月7日付け東洋経済オンラインが掲載した ライターの大宮 冬洋氏による「長い婚活に出口が!44歳&39歳が結婚できた勝因 結婚したい「恋愛が苦手な大人」がすべきこと」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/608796
・『大阪・梅田にある和食店に来ている。ランチの「祝会席」を予約して、印鑑と朱肉はペンケースに入れて持参した。 これから入籍予定の酒井聡さん(仮名、44歳)と関根典子さん(仮名、39歳)に婚姻届の証人になってほしいと頼まれたのだ。筆者はライター業のかたわら、男女を引き合わせて結婚までをお手伝いする「お見合いおじさん」をしており、彼らは7組目の成婚カップルとなる。 「典子さんは実際に会ったほうがかわいらしい、いやかわいいと思いました」 「私はZoomお見合いのときから、あ!と見つけた気分になりました。聡さんは清潔感があっていい感じの男性だからです」』、興味深そうだ。
・『昨年末までどんよりしていた2人がなぜ…?  前菜に箸をつける間もなくのろけ始める2人。お見合いをしたのは今年1月で、真剣交際に入ってから4カ月でゴールインした。 そんなに短い期間だとは思えないほど濃いお付き合いができているとさらにのろける2人。しかし、どちらも昨年末までは笑顔も出にくいような精神状態だったことを筆者は知っている。 聡さんは、従業員40人ほどの中小企業で働く会社員。中高大といわゆるお坊ちゃん系の私立校で育った聡さんは、おっとりした性格もあって、お金持ちではないのに友人たちに「ぼん」というあだ名で呼ばれている。 そんな聡さん、結婚相談所で出会った4歳年下の女性と婚約寸前で別れたばかりだった。原因はお金。 父親が他界したのをきっかけに実家に戻った聡さんは、母親と暮らす実家をリフォームしており、そのローンを負っている。相続対策はどうなっているのか、会社で出世する可能性はあるのか、などを何度も聞かれて気分が落ち込むようになってしまったという。 筆者はどちらかといえばその女性に同情する。聡さんは素直で優しげな男性だが、頼りがいがあるとは言いがたい。「おっちょこちょい」を自認しており、その場では言わなくてもいいことを口にしちゃうタイプだ。かなり生活力がある女性でなければ結婚相手として不安を覚えるかもしれない』、「筆者はどちらかといえばその女性に同情する。聡さんは素直で優しげな男性だが、頼りがいがあるとは言いがたい。「おっちょこちょい」を自認しており、その場では言わなくてもいいことを口にしちゃうタイプだ。かなり生活力がある女性でなければ結婚相手として不安を覚えるかもしれない」、しかし、「関根典子さん」はどうなのだろう。答えは以下にあるようだ。
・『40歳近くまで交際経験がほとんどなかった典子さん  典子さんのほうはより深刻だった。典子さんは大学卒業後にスポーツクラブのインストラクターになり、10年ほど働いてから法人営業の仕事に転職。現在はアウトドア用品のショップ店員として働いている。外見も若々しく、人懐っこい笑顔が印象的な女性なのだが、とにかく恋愛に自信がなかった。 結婚願望はあるし男性も苦手ではないのに、40歳近くになるまで交際経験はほとんどなかったと明かす。良き人と巡り合ってアプローチされても、「こんなに素敵な男性だから、相手にはもっと若くてかわいい女性がいいんだろう」と勝手に思い込んで関係がギクシャクしてしまう。 「選んでもらってもうまくいかない私が『いい人』を選ぶことなんてできない、と負のスパイラルに入っていました。だから、大宮さんとマチコ先生が聡さんを紹介してくれたのは本当に良かったです」 マチコ先生とは、筆者と一緒にお見合いおじさん活動をしている婚活パーソナルトレーナーの女性だ。誰と誰を引き合わせたらよいか、その2人が交際から婚約に至るには何がポイントか、などをつねに考えて実行している。 男女間のコミュニケーションが不器用な人たちは、マチコ先生のような存在をフル活用することが重要だ。結婚相談所の場合は担当カウンセラーにあたる。つねに相談できる関係でなければ、結婚相談所に入る意味があまりない。一人で相手を見つけて婚約までたどり着ける人はマッチングアプリなどでも結婚できるからだ。 双方の心境を把握している人の存在は、「仮交際」と言われるお試し状態から結婚を視野に入れた関係になる「真剣交際」に至るまでの微妙な期間にも効果を発揮する。典子さんは聡さんへの好意を当初は隠していたと明かす。 「私は最初から聡さんのことをいいな、と思っていたのですが、聡さんの気持ちがまだわからないし、彼にも相手を選ぶ権利があります。私からアプローチしてうまくいった経験もありません」 「それはわかるよ。僕もグイグイとアピールして失敗した経験があるので。典子さんをかわいいと思う気持ちは僕も隠していました」) 優しく共感を示す聡さんだが、自他ともに認めるおっちょこちょいである彼が「気持ちを隠す」だけで済むはずはない。「早急に判断せず、3回は淡々と会うこと」というマチコ先生のアドバイスを忠実に実行していることを典子さんにも伝えてしまったのだ。嫌々会っているかのように受け取られかねない。聡さん、何をしているんだよ……。 「他の人から同じことを言われたら、『そんなんやったらもう会わなくてもいいし』と反発していたかもしれません。でも、聡さんは素直なので何でも口に出す人なんだとわかってきていました。かわいくて誠実な人なんです」 「典子さんは年上の僕のことをかわいいかわいいと毎回のように言うんですよ~」 嬉しそうに合の手を入れる聡さん。失言を反省している様子は見られない。やはりお坊ちゃんキャラなのだ。そのままでいいよと周囲が受け入れてあげるしかない。 典子さんも10年前の「トゲトゲしていた」自分だったら聡さんの良さを理解できなかったかもしれないと笑う。 恋愛下手という自覚のある典子さんは、マチコ先生との連絡を密にすることにした。結婚を前提とした真剣交際に至るというのは、彼女にとっては高い壁だった。そこで4回目のデートを前に、マチコ先生に聡さんへの好意を明かしつつ「でも、聡さんは交際について慎重にお考えのようです」と伝えた。要するに、煮え切らない態度の聡さんの背中を、マチコ先生に押してもらおうと期待したのだ』、「男女間のコミュニケーションが不器用な人たちは、マチコ先生のような存在をフル活用することが重要だ。結婚相談所の場合は担当カウンセラーにあたる。つねに相談できる関係でなければ、結婚相談所に入る意味があまりない」、「恋愛下手という自覚のある典子さんは、マチコ先生との連絡を密にすることにした。結婚を前提とした真剣交際に至るというのは、彼女にとっては高い壁だった。そこで4回目のデートを前に、マチコ先生に聡さんへの好意を明かしつつ「でも、聡さんは交際について慎重にお考えのようです」と伝えた。要するに、煮え切らない態度の聡さんの背中を、マチコ先生に押してもらおうと期待したのだ」、なるほど。
・『告白は聡さんから  実際、マチコ先生は聡さんに「典子さんは待ちの状態です。次の機会にちゃんと告白しないとチャンスはありません」と厳しく告知。素直な聡さんは「真剣交際をしてください」とすぐに告白し、「喜んで!」という返事を典子さんからもらった。なかなか世話の焼ける人たちである。 ただし、真剣交際からの婚約までの道のりは極めて円滑だった。独身のまま老後を迎えることを覚悟して働いていた典子さんは聡さんに経済的に依存するつもりはない。聡さんが住宅ローンを負っていることについては、「ローンを組めるぐらい信用力がある人なんだ」と高評価。まずはそれぞれの職場がある大阪府内で賃貸マンションに住む予定だが、いずれは彼の実家に移って義母と同居することも考えている。 「私が住まわせていただけるなら、の話ですけど。お義母さんには優しく接してもらっています。ローンも2人で返したほうが早く終わりますよね」) 聡さんのほうは典子さんの家族のにぎやかさに親しみと憧れを感じたという。かつては多くの親戚が集まってくれていた実家は、父親と祖母が亡くなり、姉は他県に嫁いで離れ、母親との二人暮らしに寂しさを覚えていたのだ。 「僕が典子さんの家にご挨拶に行ったとき、ご両親だけでなく、妹さんと旦那さんとお子さん、弟さんとその婚約者もいたんです。一家勢ぞろいで大騒ぎ。羨ましかったです」』、「二人家族」からみれば、「大家族」は「羨ましい」のだろう。
・『不妊治療の検査を受け、子作りに励むつもり  聡さんと典子さんはそれぞれ早めに不妊治療の検査を受け、子作りに励むつもりだ。産み育てることも想定した賃貸物件を探している。 「結婚はやるべきことが多くて大変ですよ~」と言いつつ、聡さんは前のめりで結婚式に向けて準備を進めている。無駄な動きも多いはずだが、典子さんがしっかりフォローしていることだろう。 「婚活に6年もかけました。未熟な僕にはこれぐらいの準備期間が必要だったのだと思います。婚活だけでなく仕事や趣味のランニングを通していろんな方と接することができ、われながらどっしりしてきた今だからこそ結婚できたんだと思います」 現状で「どっしり」しているのであれば、6年前の聡さんは地に足がつかないほどとっちらかった軽量級の人だったはずだ。経験を積むことによって少しは落ち着いたと自覚している聡さん。素直で純真な性質は変わらず、年下の典子さんから「かわいい」と愛されている。その気持ちの根底には家族になったことの安心感があるはずだ。この2人には刹那的な恋愛よりも人生を分かち合う結婚のほうが向いていると思った。 本連載に登場してくださる、ご夫婦のうちどちらかが35歳以上で結婚した「晩婚さん」を募集しております(ご結婚5年目ぐらいまで)。事実婚や同性婚の方も歓迎いたします。お申込みはこちらのフォームよりお願いします』、「不妊治療の検査を受け、子作りに励むつもり」、検査結果が悪いものでないことを祈っている。

次に、11月18日付け東洋経済オンラインが掲載した独身研究家・コラムニストの荒川 和久氏による「職場結婚は「今や傍流」1990年代から6割減の背景 ネット婚増でもお膳立てなければ結婚は増えない」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/633338
・『「見合い結婚」か、「恋愛結婚」か。 厚生労働省の出生動向基本調査では、この夫婦の結婚形態の推移について継続的に調査しています。とはいえ、「見合いか、恋愛か」というほど両者が拮抗しているわけではなく、1965年あたりに見合い結婚比率が恋愛結婚比率に逆転されて以降、その差は広がり続けています。 ここでいう「見合い」の中には、いわゆる伝統的なお見合いパターンに加えて、結婚相談所による結婚も含みます。恋愛結婚に分類されているものは、夫婦の出会いのきっかけが、学校や職場、バイト先、友人などの紹介や街中でのナンパなどを選んだ対象者を恋愛結婚と分類しています。 要するに、伝統的な見合いと結婚相談所以外は恋愛結婚と振り分けられていると考えていいでしょう』、「1965年あたりに見合い結婚比率が恋愛結婚比率に逆転されて以降、その差は広がり続けています」、なるほど。
・『「恋愛結婚比率が下がっている」は本当か?  2021年の同調査では、この結果を出すための質問に、はじめて「ネットで」という選択肢が新たに加えられました。このネットというのは、SNSやマッチングアプリなど個人間の交流の場をオンラインで提供するサービスを用いて知り合ったケースと定義されています。 その結果、調査の報告書には『最新の2019~2021年間では、ネット婚が15.2%と見合い結婚の 9.9%を上回り、その分、従来の恋愛結婚比率が下がっている』と書かれているのですが、そこに違和感を覚えます。 グラフにすると、恋愛結婚が急に減って、その分「ネット婚」が増えたかのような印象を受けますが、果たしてネット婚と恋愛結婚とは別物なのでしょうか。) もし、別物だとするならば、ネットで知り合った夫婦は恋愛関係になることなく結婚しているのでしょうか? 知り合ったきっかけがネットであろうが、友達の紹介であろうが、合コンだろうが、職場だろうが、街でのナンパだろうが、結局当事者間の恋愛を経て結婚に至るのであれば、それは今までの分類上恋愛結婚と一緒なのではないかと思います。 「それを言ったら、見合いで知り合っても、戦前の見合いじゃないんだから、その後恋愛を経て結婚する夫婦が大部分で、見合い結婚も恋愛結婚になるじゃないか」というご指摘もあるかと思います。 ただし、見合いの場合は、事前の相手の選定から出会いの場の設定、その後のやりとりや相談も含めて仲人や媒酌人が介在します。それらは「お膳立て」といってよいものであり、当事者間だけで結婚に至るのか、第三者の介在とお膳立てがあったのかでは大きく結婚形態は違うものととらえるべきでしょう』、「見合いの場合は、事前の相手の選定から出会いの場の設定、その後のやりとりや相談も含めて仲人や媒酌人が介在します。それらは「お膳立て」といってよいものであり、当事者間だけで結婚に至るのか、第三者の介在とお膳立てがあったのかでは大きく結婚形態は違うものととらえるべき」、その通りだ。
・『ネット婚は恋愛結婚に含まれる  ネット婚の場合、確かに相手を探す段階でのお膳立てがプラットフォームとして提供されていますが、気になった相手を見つけた以降はすべて当事者間の行動に委ねられる点で、見合いのようなお膳立てとは一線を画すもので、広義の意味ではネット婚は恋愛結婚に含まれると考えるほうが妥当でしょう。 すると、恋愛結婚比率が75%に下がったとはいえ、ネット婚の15%を加えれば、ほぼ90%となり、1990年代以降変わらないと見ることもできます。 比率だけで判断すると、「恋愛結婚が9割」となるので、それこそ「若者の草食化」も「恋愛離れ」もないという話にもなります。が、比率だけ見ていてはわからない部分があります。 そもそも婚姻数は年々減少していますので、この比率による実数按分を可視化すると、また違った景色が見えてきます。元データは、初婚同士の夫婦を対象としたものなので、初婚同士の実婚姻数にあてはめて計算します。 期間ごとの1年当たりの平均婚姻数(古い1964年以前の一部欠損データは無視します)を分母として、結婚形態別の婚姻実数を推計してグラフ化したのが以下になります。こちらでは、恋愛結婚とネット婚は積み上げ面グラフとしています。 ご覧の通り、ネット婚の比率が増えたといっても、全体の婚姻数から見ればまだ微々たるもので、仮にネット婚を恋愛結婚の派生のひとつとみなせば、従来の恋愛結婚の代替えとしてネット婚に移行した人たちがいるだけであり、全体の恋愛結婚増に寄与するどころか、初婚数が減っているのはまさに恋愛結婚の数の減少によるものと解釈できます。 直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、その減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです。 こうなると、「ほうら、やっぱり若者の恋愛離れが起きているんだよ」と言いたがる人も出てくると思いますが、決してそうではありません。以下のグラフを見ていただければ、長期推移として婚姻数が減っている要因がわかります』、「直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、」「恋愛結婚」「の減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです」、なるほど。
・『職場の恋愛が減っている  1990年代半ばに恋愛結婚数は大きく伸長していますが、同時期に職場結婚数もMAXとなっています。以降、急激に下がり続け、最新の2021年対比では6割減です。同期間の全体初婚数の減少は4割弱ですから、職場結婚だけが異常に減っていることがわかります。言い換えれば「職場の恋愛が減っている」わけです。 ご覧の通り、ネット婚の比率が増えたといっても、全体の婚姻数から見ればまだ微々たるもので、仮にネット婚を恋愛結婚の派生のひとつとみなせば、従来の恋愛結婚の代替えとしてネット婚に移行した人たちがいるだけであり、全体の恋愛結婚増に寄与するどころか、初婚数が減っているのはまさに恋愛結婚の数の減少によるものと解釈できます。 直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、その減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです。 こうなると、「ほうら、やっぱり若者の恋愛離れが起きているんだよ」と言いたがる人も出てくると思いますが、決してそうではありません。以下のグラフを見ていただければ、長期推移として婚姻数が減っている要因がわかります』、「直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、その減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです」、初めて知った。
・『職場の恋愛が減っている  1990年代半ばに恋愛結婚数は大きく伸長していますが、同時期に職場結婚数もMAXとなっています。以降、急激に下がり続け、最新の2021年対比では6割減です。同期間の全体初婚数の減少は4割弱ですから、職場結婚だけが異常に減っていることがわかります。言い換えれば「職場の恋愛が減っている」わけです。 『100年前の日本人が「全員結婚」できた理由』という過去記事でも書いた通り、もっとも婚姻数が多かった1972年と2015年とを比較した場合、見合い結婚と職場結婚を合算した婚姻数のマイナス分は約46万組で、それは婚姻総数のマイナス分と完全に一致しています。つまり婚姻数の減少はこれら2つのきっかけの減少分だったと言ってよいわけです。 伝統的な見合い結婚比率は減り続けていますが、この減少分を職場結婚が見合いに代わる結婚のお膳立てシステムとして機能していた部分は否定できません。1970年代から1990年代がそれに当たります。 当時の上司は部下の結婚を推奨し、仲人をやりたがっていた人も多かったわけです。いわばかつては「地域・村」がお膳立てしていた部分を「職場」が担っていたのでしょう。 つまり、統計上恋愛結婚に分類されていた職場結婚ですが、これは少なくとも1990年代までは見合い結婚同様「お膳立て婚」と呼べるものであったのです。 そもそも、見合い結婚と恋愛結婚という分類自体が時代遅れで、実態に即して分類するとすれば、見合いや職場という「お膳立て婚」か、当事者間の恋愛による「自力婚」という分け方にすべきだと考えています。 そして、初婚数の激減はこの「お膳立て婚」の減少に帰結します。もちろん、職場結婚でも自力婚をした人がいないとは申しませんが、1980年代までの皆婚はこのお膳立てなしには実現できていません。 本来、ネット婚には、このお膳立ての代替え機能としての期待感があったように見受けられます。が、残念ながら現状のシステムでは大きな効果をあげることは困難でしょう。 なぜなら、それらは根本的には「出会いのツール」としては奏功しますが、その先の進展は当事者任せの側面が強く、いくら出会いの前にAIマッチングがあろうとも、出会った後、現実に恋愛や結婚するかどうかを決めるのは当事者だからです』、「1990年代半ばに恋愛結婚数は大きく伸長していますが、同時期に職場結婚数もMAXとなっています。以降、急激に下がり続け、最新の2021年対比では6割減です。同期間の全体初婚数の減少は4割弱ですから、職場結婚だけが異常に減っている」、「ネット婚は・・・大きな効果をあげることは困難でしょう。 なぜなら、それらは根本的には「出会いのツール」としては奏功しますが、その先の進展は当事者任せの側面が強く、いくら出会いの前にAIマッチングがあろうとも、出会った後、現実に恋愛や結婚するかどうかを決めるのは当事者だからです」、なるほど。
・『結婚したいのにできない不本意未婚者は4割もいる  マッチングアプリは、いわば「街のナンパのデジタル版」でしかなく、3割の恋愛強者にとっては「幅広い出会いの場となる」便利なツールですが、経験に乏しい恋愛弱者にとっては「自分がモテない」ことを思い知らされるだけの残酷なツールと化します。 婚活がなかなかうまくいかない人たちがよくいう「出会いがない」という言葉がありますが、出会いがあればうまくいくというものでもありません。出会えればうまくいくというのはむしろ恋愛強者の台詞です。 ネット婚の増加は、恋愛強者にとってはよりよい相手を見つけるためには役立ちますが、それは結局「自力婚」のきっかけの内容が変わるだけであり、全体の婚姻数を底上げするのは難しいかもしれません。 一方、職場結婚の復活も難しいでしょう。現在では、職場での上司の結婚圧力は当然ながら、社員同士の恋愛もセクハラ扱いされるリスクがあるためです。 「自力婚」できる強者は放置しておけば勝手に恋愛して結婚します。自らの選択で非婚を決定している人に結婚を無理強いする必要もありませんが、結婚したいのにできない不本意未婚者が4割もいます。 求められているのは、そうしたかつてのお膳立て機能がなければ結婚に至らない層に対する仕組みです。とはいえ、後者の恋愛力をあげる方向へ向かうのは見当違いです。人には向き不向きがあります。 必要なのは、出会いの数でも恋愛力でもなく、若者たちが自信を持ち、今より幸福感を感じられ、ちょっとだけ背中を押してあげられる時代の空気のようなものが必要ではないでしょうか。結婚したい若者を支援する「令和のお膳立て」を真剣に考えるべき時かもしれません。 『100年前の日本人が「全員結婚」できた理由』という過去記事でも書いた通り、もっとも婚姻数が多かった1972年と2015年とを比較した場合、見合い結婚と職場結婚を合算した婚姻数のマイナス分は約46万組で、それは婚姻総数のマイナス分と完全に一致しています。つまり婚姻数の減少はこれら2つのきっかけの減少分だったと言ってよいわけです。 伝統的な見合い結婚比率は減り続けていますが、この減少分を職場結婚が見合いに代わる結婚のお膳立てシステムとして機能していた部分は否定できません。1970年代から1990年代がそれに当たります。 当時の上司は部下の結婚を推奨し、仲人をやりたがっていた人も多かったわけです。いわばかつては「地域・村」がお膳立てしていた部分を「職場」が担っていたのでしょう』、「結婚したいのにできない不本意未婚者が4割もいます。 求められているのは、そうしたかつてのお膳立て機能がなければ結婚に至らない層に対する仕組みです。とはいえ、後者の恋愛力をあげる方向へ向かうのは見当違いです・・・必要なのは、出会いの数でも恋愛力でもなく、若者たちが自信を持ち、今より幸福感を感じられ、ちょっとだけ背中を押してあげられる時代の空気のようなものが必要ではないでしょうか。結婚したい若者を支援する「令和のお膳立て」を真剣に考えるべき時かもしれません」、「婚姻数が多かった1972年と2015年とを比較した場合、見合い結婚と職場結婚を合算した婚姻数のマイナス分は約46万組で、それは婚姻総数のマイナス分と完全に一致しています。つまり婚姻数の減少はこれら2つのきっかけの減少分だったと言ってよいわけです」、「結婚したい若者を支援する「令和のお膳立て」を真剣に考えるべき時かもしれません」、その通りだ。

第三に、11月30日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したライターの沢木 文氏による「マッチングアプリの沼にハマる44歳女性のリアル、お金・危険・結婚願望…」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/313254
・『沼とは何か? ある特定のことにはまったり、収集がやめられないことを「沼にはまる」と言います。アルコール、セックス、自傷、ギャンブルなど治療を要する「依存症」とは異なり、本人は満喫していて、周りにも迷惑をかけることもほとんどありません。ただ、その沼も浅いものからどっぷり深いものまでさまざま。そこで今回は、これまで500人以上を取材してきた著者が、実際に「沼にはまった人々」を紹介しながら、沼の正体を初めて明かす一冊『沼にはまる人々』から、マッチングアプリ沼について抜粋紹介します。「沼」は決して他人ごとではなく、あなたや近しい人の身近な問題ということが浮き彫りになるはずです』、「マッチングアプリの沼」とは興味深そうだ。
・『婚活リングに上がれないまま30代半ばに  2022年4月に、名の知れた女優(41歳)と一般男性との真剣交際が報道された。その出会いがマッチングアプリであることが公表され、40代以上にも一気にマッチングアプリは広まった。 都内の金融関連会社に勤務する美紀子さん(44歳)もその1人だ。「それまでマッチングアプリに対して、若者がやるものであり、かつての『出会い系サイト』のように不快な思いをするはずだと思い込んでいたんです。それに、私はSNSもほとんどやっていない。『顔写真を出して危険では?』という思いもありました」 美紀子さんのようなタイプの女性は多い。就職氷河期でやっと就職先を決めるも、ブラックな働き方で、5~6年が経過する。そして、28~30歳くらいに仕事が楽しくなると同時に余裕もでき、結婚を意識しかけるも、性的役割分担や女性のイメージに阻まれる。 「私がアラサーと言われるようになったのは、2005~7年頃。この頃は“大人かわいい”女性が大ブームで、仕事をしながら、家族にも献身する女性がメディアに登場していました」 たしかに睡眠時間を削り、“主人(夫)”のために尽くす女性がもてはやされていた。当時、育児雑誌で「ワーキングマザーの1日」のような特集が組まれていたのを見たことがある。1日の睡眠時間が3~4時間で、ほとんど自分の時間がないタイムスケジュール。それがあたかも素敵なことのように書いてあり、ゾッとしたことを覚えている。 「そうなんです。『忙しくても化粧くらいしろよ』みたいなトーンの漫画やドラマもありましたしね。私はこの通り、シンプルでボーイッシュです。いざ婚活をしようとするなら、ピンクのワンピースや花柄のスカートをはかなくてはリングに上がれない。先延ばしをするうちに、30代半ばになりました」 その頃は、不妊症がメディアで取り上げられていた。いつの頃からか「30代半ばでは自然妊娠は難しい」などと言われるようになっており、婚活市場から戦力外通知をされたような気持ちになったという。 ところで、恋愛はしていなかったのだろうか。 「ワンナイトばかりでした。きちんと交際したことはないです。相手は行きつけのバーの常連とか、その店主とか。閉店後の店内でそういうことをしたこともありましたよ。みんな妻子がいましたけれどね。たぶん、お互いに性欲を処理したかったんだと思うんです」 美紀子さんが38歳のときに、子宮筋腫の手術をした。それからは、性欲がぱったり止まってしまったという。 「病後の自分を大切にしたいと思ったんです。その後、20代の男の子と何回か関係を持ったのですが、その人が別の人と結婚してしまった。それから数年経過した今年、女優のマッチングアプリ報道があり、『これはやってみるのもアリなのか!?』と登録をしたんです」』、「30代半ばでは自然妊娠は難しい」などと言われるようになっており、婚活市場から戦力外通知をされたような気持ちになった」、「38歳のときに、子宮筋腫の手術をした。それからは、性欲がぱったり止まってしまった」、「今年、女優のマッチングアプリ報道があり、『これはやってみるのもアリなのか!?』と登録をしたんです」、結果はどうなのだろうか。
・『恋もせずに死ぬのは嫌  そこには、コロナ禍で「このまま恋もせずに死ぬのは嫌」という思いもあった。年齢といい、容姿といい、特に優れたものがない私に対して、ウソみたいに『いいね』が来るんです。通知が鳴りやまなくて、スマホの充電がみるみる減りました」 「いいね」とは、男性登録者からの「あなたに会いたい、興味がある」という証でもある。それが殺到しているということは、美紀子さんに女性としての魅力があることにほかならない。年齢を重ねており、容姿も人並みな女性になぜ、そこまで「いいね」が殺到するのか。それは、男性の登録人数が多いことにある。 主要なアプリは10ほどあり、それぞれのアプリが公表している登録人数は、100~400万人。海外のアプリなら、その単位は億に跳ね上がる。マッチングアプリは「条件が合う人」をつなげるプラットフォームだ。 「たしかに『女ならだれでもいい』というような人もいました。でも全然、数が違う。今まで、大学や職場、行きつけのバー、趣味などで相手を探していましたが、マッチングアプリをやってみると、『ここは魚(男性)がたくさんいる海だな』と思いました。今までの出会いを喩えるなら池……いや、違うな。コップの中で探していたと思います」 かつては友達の紹介もあったが、今はもうない。 「それに、この年で『恋愛がしたい』なんて、恥ずかしくて周りには言えません。でも私もアラフォーと言われる年齢になり、仕事も安定し、経済的にも余裕があるのに、寂しかったんです。実際にやってみると、40~50代も多いし、『オバサンじゃないとダメ』という若い男の子も多いんですよ」』、「マッチングアプリをやってみると、『ここは魚(男性)がたくさんいる海だな』と思いました。今までの出会いを喩えるなら・・・コップの中で探していたと思います」、こんなに中年女性に都合の良い場は馴れると恐ろしいことになりそうだ。「『オバサンじゃないとダメ』という若い男の子も多いんですよ」、ということで喜んでいるようではダメだ。
・『マッチングアプリ最初の相手はイケメン大学生  美紀子さんが最初に会ったのは、22歳の大学生だった。 「イケメンで若々しくてかわいい。すごく緊張していたのですが、それを解きほぐしてくれて、流れでホテルに行ったんです。びっくりするくらい上手で、『大人5、月2でどう?』と言われました」 “大人”とは、1万円札のこと。彼の言うことを翻訳すると、「月5万円で、デート2回はどうか」という提案になる。 「もちろん、断りました。そしたら、私がシャワーを浴びている間に、いなくなっていました。財布の中にあった2万円の現金も消えていた。メモが置いてあり、『もらっていくね』などと書いてあったんです」 女性が経済的な庇護者を見つける「パパ活」には、専用のマッチングアプリがある。当然男性の「ママ活」のマッチングアプリもあるが、怪しいものも多い。 「アカウントを見たら削除されているし、運営側に通報しても、お金は取り戻せない。でも、あれだけよかったので、いいかな……と思って泣き寝入り。あれから財布にお金を入れずに出かけるようになりました」) マッチングアプリ運営会社は「インターネット異性紹介事業」の届け出が義務だ。ユーザーも登録時に公的身分証明書を運営会社に提出するなど、本人確認が徹底されている。なりすましや経歴詐称は基本的にないとされているが、撮影して送るだけの身分証明書は偽造できる。実際はいたちごっこではないかと言う。 「ウチのママと同じ年だ」 しかし、一度知ってしまった、「いいね」の快楽と、肉体の快楽。美紀子さんはその後、様々な男性と会う約束を取り付ける。「最初は同世代で真剣に交際できる人を探していましたが、若い体に目覚めてしまった。自分で自分に『セクハラするオッサンかよ』とツッコミを入れつつ、20代のイケメンを中心に10人くらい会いました。すっぽかされたのは3回くらいかな。今の子って、みんな優しくてきれい。オラオラした子とか、マウンティングする子はいません。でも『ウチのママと同じ年だ』とは言われたことがありました」 平日の夜、ムラムラすると、アプリを開いて会っていた。若い男性の肌と触れ合うことは、美容液以上の効果があったようで、肌つやがよくなったという。「もっとイケメン、もっと高学歴、もっとオシャレな子……みたいな感じで物色していました。それはやはり、彼女として付き合いたいという気持ちがあったからかもしれません。同僚や親からは『結婚しない変人』みたいに扱われていて、そんな私が一発逆転でいい男を捕まえて、結婚する。それに驚くみんなの顔を見たらスカッとするなと妄想していました」』、「一発逆転でいい男を捕まえて、結婚する。それに驚くみんなの顔を見たらスカッとするなと妄想」、空しい限りだ。
・『出会いに潜む危険  リアルな人間関係を伴う出会いとマッチングアプリでの出会いは大きく異なる。アプリではプロフィールだけを頼りに全く知らない人とコンタクトを取るのだ。 ママ活男子のほかに、ネットワークビジネスや投資詐欺の餌食を探す温床になっているものもある。 「そういう人は多いです。ある程度、メッセージのやり取りで性格がわかるのですが、見破れなかったことはあります。あとは宗教やスピリチュアルセミナーなどもありました」 ストーキング行為をされたこともある。 「自称医師の若いイケメンで、話が全くかみ合わなかった。私が話したことに対して、『それは正解』『わかってないな、不正解』などとジャッジだけをする。不快になって帰ろうとしたら、『なんで?』と言われて……。振り切るように帰ってきました」 すると、後をつけられており、自宅を特定されたという。) 「私、大学時代からストーカー被害に遭うことが多かったので、こっちが堂々としていれば、そのうちいなくなることを知っている。その男性は3日目くらいにはいなくなっていました。 薬を飲まされそうになったこともありますよ。トイレに立って帰ってきたら、飲み物の味が変わっているのに気づいて、それから口をつけなかったんです。すると、相手の男性は『じゃあ、ワリカンで』と言って、そそくさと帰っていきました」』、ずいぶん危ない橋を渡っているようだ。
・『アプリで一瞬の恋をする  そんなことを繰り返しているうちに、あっという間に2年が経過してしまう。その間に100人以上の男性と関係を持った。 「今も沼にははまっていると思います。やはり、若い男がいいですから。それなりにキレイにしていれば、意外なくらいマッチングできます。この2年間で気づいたのは、結婚しなくてよかったということ。同世代の男性が、いかに高圧的か、男尊女卑か、そして肉体的にも衰えているか。そういうことがわかってくるお年頃ですしね」 若い男性は、すね毛、腕毛、ひげ、腋毛、指毛に至るまで、永久脱毛している人が多いのだという。 「私たち40代は90年代のトレンディドラマが理想だから、リアルな恋愛がしづらいんだと思うんです。ステキな人は誰かと結婚しているし、もし自分が美しい男性と結婚できても、年齢とともに毛が薄くなったり、ぽっちゃりしていくのを知っている。でも、アプリで彼らと会うのは一瞬だし、そのとき私は恋愛の主人公になれるんです」 しかし加齢とともに、ゲットできる男性の質は変わってきた。「この2年間で、若くてきれいな子とは会いにくくなったと思います。それだけたくさんの男の子と会ったのに、付き合っている人は誰もいないんです。あと、始めた頃とくらべて、きちんと会話ができる人が減ったと思う。会っても、短時間でさっさと帰られてしまう」 ところで、ラブホテル代はどうしているんだろうか。 「最初がママ活男子だったので、そのあとはなんとなく私が払っていましたが、ある男の子が『女性には払わせたくない。僕が払う』と言い張ったんです。その子には感動しましたね。それ以来、ワリカンか男性が払うことが多いです。一応、マッチングアプリだし、デートみたいなものだから」 どこにも行かない、先がないワンナイトの恋愛の繰り返し。それは性産業にも似ている。 「違いますよ。私がお金を払っているわけではないですし、一応、お互いが『いい』と思って関係を持っているし、デートもしますしね。パパ活やママ活、性産業はお金を払っているほうの力が強い。だから、支払われる側は断れないじゃないですか。でもマッチングアプリは違います。お互いに合意の上なので対等。全然違いますよ」』、「先がないワンナイトの恋愛の繰り返し」「それは性産業」とは「お互いに合意の上なので対等。全然違いますよ」。大差ないようにも思えるが・・・。
・『くすぶり続ける結婚願望  美紀子さんは、「いい人がいないかな」と思いながらも、今日もマッチングアプリを使っている。 「真面目な婚活アプリは変わった人しかいないと感じたので、出会いに特化したものを使っています。この2年間でそれなりにキレイになったので、いい男性も来るんです。20~30代のそれなりに素敵な男性と会っていると、『この人と付き合いたい』と思うんですが、距離を詰めようとすると断られてしまうんです」 誰かと付き合いたい、結婚したいという願望がありながら、目の前のワンナイトを優先してしまう。マッチングアプリには背後の人間関係がないので、どれだけ奔放になっても人の目を気にしなくていい。 それが利点でもあるが、歯止めが利かない沼にもなる。 「マッチングアプリをやめるか、くすぶり続ける結婚願望を消すか、どちらかを選ばないと後悔するとは思っているんですが、両方やめられません」 そう話している間も、アプリには「いいね」がついたアイコンが光る。承認欲求を満たすこの通知が、沼の正体かもしれない』、「アプリには「いいね」がついたアイコンが光る。承認欲求を満たすこの通知が、沼の正体かもしれない」、危険極まりない遊びだ。先ずは、「マッチングアプリをやめる」べきだろう。
タグ:「筆者はどちらかといえばその女性に同情する。聡さんは素直で優しげな男性だが、頼りがいがあるとは言いがたい。「おっちょこちょい」を自認しており、その場では言わなくてもいいことを口にしちゃうタイプだ。かなり生活力がある女性でなければ結婚相手として不安を覚えるかもしれない」、しかし、「関根典子さん」はどうなのだろう。答えは以下にあるようだ。 「私はZoomお見合いのときから、あ!と見つけた気分になりました。聡さんは清潔感があっていい感じの男性だからです」』、興味深そうだ。 「男女間のコミュニケーションが不器用な人たちは、マチコ先生のような存在をフル活用することが重要だ。結婚相談所の場合は担当カウンセラーにあたる。つねに相談できる関係でなければ、結婚相談所に入る意味があまりない」、 恋愛・結婚 (その7)(長い婚活に出口が!44歳&39歳が結婚できた勝因 結婚したい「恋愛が苦手な大人」がすべきこと、職場結婚は「今や傍流」1990年代から6割減の背景 ネット婚増でもお膳立てなければ結婚は増えない、マッチングアプリの沼にハマる44歳女性のリアル お金・危険・結婚願望…) 東洋経済オンライン 大宮 冬洋氏による「長い婚活に出口が!44歳&39歳が結婚できた勝因 結婚したい「恋愛が苦手な大人」がすべきこと」 「恋愛下手という自覚のある典子さんは、マチコ先生との連絡を密にすることにした。結婚を前提とした真剣交際に至るというのは、彼女にとっては高い壁だった。そこで4回目のデートを前に、マチコ先生に聡さんへの好意を明かしつつ「でも、聡さんは交際について慎重にお考えのようです」と伝えた。要するに、煮え切らない態度の聡さんの背中を、マチコ先生に押してもらおうと期待したのだ」、なるほど。 「二人家族」からみれば、「大家族」は「羨ましい」のだろう。 「不妊治療の検査を受け、子作りに励むつもり」、検査結果が悪いものでないことを祈っている。 荒川 和久氏による「職場結婚は「今や傍流」1990年代から6割減の背景 ネット婚増でもお膳立てなければ結婚は増えない」 「1965年あたりに見合い結婚比率が恋愛結婚比率に逆転されて以降、その差は広がり続けています」、なるほど。 「見合いの場合は、事前の相手の選定から出会いの場の設定、その後のやりとりや相談も含めて仲人や媒酌人が介在します。それらは「お膳立て」といってよいものであり、当事者間だけで結婚に至るのか、第三者の介在とお膳立てがあったのかでは大きく結婚形態は違うものととらえるべき」、その通りだ。 「直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、」「恋愛結婚」「の減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです」、なるほど。 「直近で恋愛結婚が多かった1990年代後半と比較すると、その減少率は実に46%減とほぼ半減です。むしろ、見合い結婚数は実数としてほんの少しですが増えているくらいです」、初めて知った。 「1990年代半ばに恋愛結婚数は大きく伸長していますが、同時期に職場結婚数もMAXとなっています。以降、急激に下がり続け、最新の2021年対比では6割減です。同期間の全体初婚数の減少は4割弱ですから、職場結婚だけが異常に減っている」、 「ネット婚は・・・大きな効果をあげることは困難でしょう。 なぜなら、それらは根本的には「出会いのツール」としては奏功しますが、その先の進展は当事者任せの側面が強く、いくら出会いの前にAIマッチングがあろうとも、出会った後、現実に恋愛や結婚するかどうかを決めるのは当事者だからです」、なるほど。 「結婚したいのにできない不本意未婚者が4割もいます。 求められているのは、そうしたかつてのお膳立て機能がなければ結婚に至らない層に対する仕組みです。とはいえ、後者の恋愛力をあげる方向へ向かうのは見当違いです・・・必要なのは、出会いの数でも恋愛力でもなく、若者たちが自信を持ち、今より幸福感を感じられ、ちょっとだけ背中を押してあげられる時代の空気のようなものが必要ではないでしょうか。結婚したい若者を支援する「令和のお膳立て」を真剣に考えるべき時かもしれません」、 「婚姻数が多かった1972年と2015年とを比較した場合、見合い結婚と職場結婚を合算した婚姻数のマイナス分は約46万組で、それは婚姻総数のマイナス分と完全に一致しています。つまり婚姻数の減少はこれら2つのきっかけの減少分だったと言ってよいわけです」、「結婚したい若者を支援する「令和のお膳立て」を真剣に考えるべき時かもしれません」、その通りだ。 ダイヤモンド・オンライン 沢木 文氏による「マッチングアプリの沼にハマる44歳女性のリアル、お金・危険・結婚願望…」 「マッチングアプリの沼」とは興味深そうだ。 「30代半ばでは自然妊娠は難しい」などと言われるようになっており、婚活市場から戦力外通知をされたような気持ちになった」、「38歳のときに、子宮筋腫の手術をした。それからは、性欲がぱったり止まってしまった」、「今年、女優のマッチングアプリ報道があり、『これはやってみるのもアリなのか!?』と登録をしたんです」、結果はどうなのだろうか。 「マッチングアプリをやってみると、『ここは魚(男性)がたくさんいる海だな』と思いました。今までの出会いを喩えるなら・・・コップの中で探していたと思います」、こんなに中年女性に都合の良い場は馴れると恐ろしいことになりそうだ。「『オバサンじゃないとダメ』という若い男の子も多いんですよ」、ということで喜んでいるようではダメだ。 「一発逆転でいい男を捕まえて、結婚する。それに驚くみんなの顔を見たらスカッとするなと妄想」、空しい限りだ。 ずいぶん危ない橋を渡っているようだ。 「先がないワンナイトの恋愛の繰り返し」「それは性産業」とは「お互いに合意の上なので対等。全然違いますよ」。大差ないようにも思えるが・・・。 「アプリには「いいね」がついたアイコンが光る。承認欲求を満たすこの通知が、沼の正体かもしれない」、危険極まりない遊びだ。先ずは、「マッチングアプリをやめる」べきだろう。
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随筆(その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、養老孟司が語る「じぶんの壁」…いまこそ、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん) [人生]

随筆については、6月28日に取上げた。今日は、(その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん)である。

先ずは、3月17日付け日経ビジネスオンラインが掲載した解剖学者の養老孟司氏による「養老孟司氏、人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/030100004/
・これは、有料記事だが、月3本までは無料なので、紹介する次第。 解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。 前回(日本の子どもに「個性と自己実現」を求めるべきか?)は、「自己の問題」を取り上げました。 日本の伝統的な考え方には、自己という概念がない。そのことを反映するかのように、日本の子どもたちはアメリカの子どもたちと違って、自分の人生を自分で選択したり、自分で決定したりすることを好まない。しかし、西洋の考え方が導入された現代社会を生きる親たちは、子どもたちに「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」と求める――。 このような自己の問題は、日本人が明治維新以来抱えているストレスであると先生はおっしゃいます。子どもの自殺が今、増えていることとも関係しているのかもしれません。 Q:前回のお話では、そもそも「生まれてから死ぬまで一貫して変わらない私がいる」という感覚が、日本人にはそぐわない、ということでした。今の日本の大人にとっては、当たり前の感覚だと思いますが、これは明治以降、西洋からきた考え方であり、日本の伝統的な考え方とは違う、と。 養老孟司氏(以下、養老):もともとヨーロッパでも、多神教の世界(*)ではこういう「私」はなかったと思うんです。 例えばデカルトの「我思う」ってありますね。あれはフランス語で「Je pense」でしょう。「donc je suis」は、「私は存在する」(*)。「Je」が、私ですね。 これをラテン語(*)で書くと、「我思う」はいきなり「Cogito(コギト)」となるんです。Cogitoは、一人称単数現在の動詞です。「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないんです。 Q:英語でいえば「think」のみということですね。主語がない。 養老:「主語がない」というと、何か不足しているような気がしますが、日本語と同じで必要がなかったんですね。 確かに日本語も、主語をあまり使いませんね。普段の会話において、「私は……」と話すことはあまりありません。 * 多神教の世界:神道の日本、インド、古代オリエント、古代ギリシャ・ローマなど。 *「我思う、ゆえに我あり」:Je pense, donc je suis * ラテン語:古代ローマ帝国の公用語。現在のフランス、イタリア、スペイン語など、すべてのロマンス諸語の母体』、「「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないんです。 Q:英語でいえば「think」のみということですね。主語がない。 養老:「主語がない」というと、何か不足しているような気がしますが、日本語と同じで必要がなかったんですね』、「ラテン語では主語は要らない」とは初めて知った。
・『「I am a boy」に、「I」は不要である  養老:英語で「I am a boy」って言うときに「I」を必ず付けますけど、その「I」も本当は要らないですよね。「am」とくれば、主語は「I」に決まっているのですから。じゃあ、ラテン語で入っていなかった「私」が、いつから入ってきたかというと、多分中世、キリスト教からです。 Q:何か理由があったのですか? 養老:一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない。 裁きを受けるまで、一貫した自己がないといけない……。以前(なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?)にうかがった、名前が必要な理由と似ていますね。「貸したお金を返してください」といったときに、「借りたのは私ではありません」と反論されると困るから、借りた私に「黒坂真由子」という名前が付けられている。 養老:最後の審判であれば、「審判を受ける自分は誰か」ということになる。生後50日の私と、84歳の今の私では、まったく違うとなれば、どっちが審判の場に出るのか、ということになります。 Q:仏教では、生後50日の養老先生と、84歳の養老先生はまったく違う存在だと考えるのでしたね(前回参照)。 養老:しかし、最後の審判がある人々にとっては、生まれてから死ぬまで一貫した私というものがないと困るんですよ。そういうものが要請されてしまったんですね。 Q:その「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった。 養老:そうです。だから先生も困っているのではないですか。 Q:前回ご紹介した研究の通り、日本の子どもは、パズルもペンの色も母親の好みで選びたい、人生の選択もなるべく多くを周りに委ねたい。そういった周囲の意向を受け入れて生きていくのが心地いい日本の子どもにとって、「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」という親や社会の期待が、プレッシャーになっている可能性がある。 このような「自己の問題」は、自殺にも関係しているのでしょうか? 養老:自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ』、「一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない」、「「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった」、確かに「自己」が未確立なのに、「個性」重視教育は馴染まない。「自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ」、困ったことだ。
・『自分の命は、自分のものではない  Q:「自己がある」という考えが「命は自分のもの」という考え方につながる。確かに「自己」がなければ「自分のもの」と思いようがないですね。 養老:みなさん、「命は自分のものだから、自分の好きなようにしていいんだ」と思っていますよね。自分の身体や命が「自分のもの」であるという暗黙の了解ができています。それが常識になってしまっている。でも、そんなことは、どこにも決められていないんです。 Q:では、もし子どもに、 「命は誰のものなのですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのでしょうか? 養老:世の中には誰かのものであるものと、誰のものか分からないものがあるんです。例えば、月は誰のものですか? 命が誰のものであるかを問うのは、それと同じくらい、おかしな質問です。今の社会の常識を優先してしまうから、質問自体が変だということに気がつかない。 Q:中学生の娘に、子どもの自殺をテーマに養老先生に取材をすると話したら、「なんで自殺しちゃいけないのか、養老先生に聞いてみたい」と言われました。こういう質問自体が、おかしいということなんですか? 養老:おかしいでしょう。それは「なぜ人を殺してはいけないの?」というのと、同じくらいおかしな質問です。一時期、この問いが話題になりましたよね。 Q:じゃあ、命は誰のものでもないのですか? 養老:そうです。 Q:ええと、自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう。 Q:なんというか、そういう答えを予想していなかったので……。「誰のものでもない」という答えは、正直、まったく考えていませんでした。 養老:あなたが勝手にいじっていいものじゃないよ、ということでしょうね。 Q:自分が今生きているということ自体を、いじる権利が自分にはない……。 養老:そうですね。仕方がないから生きてるんですよ、僕なんか。 これも、お互いさま(「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」参照)に近いですね。みなさん、自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう。何かそういう当たり前のことを議論しなくてはならなくなったのが、変なんですよ。本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ。 Q:でも、「命は誰のものか?」という問いには「誰かのもの」という答えがあるものだと、思い込んでいました』、「命は誰のものでもない」、「自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう」、「自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう・・・本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ」、「私の命は、私のものではない」のは確かだ。
・『「なぜ人を殺してはいけないのか?」に、どう答えるか  養老:「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に、藤原正彦さんは「『駄目だから駄目』ということに尽きます」と言っていました(*)。「ならぬことはならぬものです」という会津の教育ですね。今の人は、何でも理屈で解決できると思っている。すべてのことが言語的に解決できるかというとそうはいかないよ、ということです。 人生を一言で表現してみなさい、といわれたらどうですか。無理に決まっているでしょう。一言で言えるわけがないのですよ。生きるというのは、プロセスですから。 「自分の命は、自分のもの」という考え方には、根拠がないのです。特に日本においては、極めて根拠が薄い。 *『国家の品格』藤原正彦著(新潮新書/2005年) Q:前回、武士の話が出ましたが、確かに武士の社会では、「藩や家のために切腹」ということがありました。命はそれこそ藩や家に属していて、自分のものではなかった。 養老:そうです。本来、自分のためのものではないのです。人生とか生きがいというのは。 Q:そういう「命は自分のものではない」という価値観が綿々と続く社会の中で生きてきたのが、私たち日本人ということなんですね。でも、西洋では「命は自分のもの」であるわけですよね? それは自殺には結びつかないのですか?  養老:だからキリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです。戦後もありましたよ。自殺すると墓地に入れてもらえないことは。 でも日本では侍のハラキリから始まって、自殺を禁じる考えはありません。そういう社会に「自己」というものを持ち込み、その上「自分の命は自分のもの」という考え方まで持ち込んでくると、自殺者が増えるのは当たり前です。自殺を止める思想がそもそもないのですから。 Q:日本には「自殺禁止」につながる考え方は、何もなかったのですか?』、「キリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです」、「自殺禁止」を担保するため、「自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかった」とは初めて知った。
・『「自殺を止める思想」を失った日本人  養老:戦前はまだ、命は自分のものではないというのが基本的な考え方でした。「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり(しんたいはっぷこれをふぼにうく、あえてきしょうせざるはこうのはじめなり)」ということです。これは『孝経(*)』にある一節で、「人の身体はすべて父母からもらったものだから、傷つけないようにするのが孝行の始まり」という意味です。これが人間関係の起点でもありました。 * 孝経(こうきょう):孔子の弟子の曾子の作と伝えられる。『論語』とならぶ儒家の古典のひとつ。「孝」は儒教倫理の中心であり暗唱しやすかったため、家庭での教育に用いられた。 Q:戦前は親孝行をしなくちゃいけなかった。ある意味、自分の命は親のもの。戦争中は……。 養老:お国のためですね。 Q:ああ、シベリアで捕虜生活を送った大正12年(1923年)生まれの祖父に「なんで戦争に行ったの?」と尋ねたとき、「日本民族のため」と言っていたのを思い出します。そう考えると、私の祖父の頃までは「自分の命は自分のものではない」ということが、まだ常識だったということですよね。「命は自分のもの」ということが常識となったのは、ここ数十年のこと。自分のものなら、自分の好きにしていいと、確かに考えてしまいそうです。 養老:親孝行という徳目を、かつて徹底的に教えたことには、自殺を防ぐ効果があった。親孝行の価値観がある間は、子どもは死ねません。子どもが親の先に死ぬのは「逆縁」といって最大の親不孝です。今の常識では、夢にも思わないのではないですかね。 「滅私奉公」「一億玉砕」の裏返しで「命が自分のもの」になった今の日本には、自殺を止める思想がない。だから「こんなにつらいのなら、自分の命は自分で潰していい」と考える。 Q:そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がないということですね。これだけ大きな問題となると、どこから手をつけていいのかわからなくなってきてしまいました。 養老:もちろん簡単にはいきません。でも、簡単にいかないからといって考えることをやめるわけにもいきません。 Q:そうですね。難しくても、考えていくしかない。次回も、よろしくお願いいたします』、「そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がない」、「親孝行という思想」が「自殺」を止めていた。「親孝行という思想」は古臭いと思っていたが、意外な効用があったようだ。

次に、7月1日付け日経ビジネスオンライン「小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん」を紹介しよう。
・『2022年6月24日、日経ビジネスオンライン時代から長くご執筆をいただいてきたコラムニスト、小田嶋隆さんがお亡くなりになりました。 今回は、小田嶋さんに近しい方々にいただいた寄稿を掲載して、皆さんと一緒に偲びたいと思います。 最初は、日経ビジネスに小田嶋隆さんをご紹介くださったジャーナリスト、清野由美さんです。 追悼、小田嶋隆さんへ ついにこの時が来てしまった。 小田嶋さんが脳梗塞で入院された時から、ずっと、はらはらと過ごしてきた。編集Yこと、日経ビジネスの山中浩之さんから電話の着信があると、覚悟を決めて出るのが習いになっていた。小田嶋さん本人の美学から、逐一の病状はうかがっていなかったが、じわじわと砂の落ちる音は伝え聞いていた。 私にとっては、昨秋「中央公論」で小田嶋さんとオバタカズユキさんの対談の仕切り役をした時が、今生のお別れとなった。幾度かの入院治療のインターバルのタイミングで、身体の動きはゆっくりしていたが、アタマの切れは変わらず、口先もいたって達者で、さすがだった。 65という小田嶋さんの享年は、現在の日本の平均寿命から言えば早すぎるかもしれない。ただ、私はそう思わない。小田嶋さんは独自の美学を保ったまま、自身に与えられた唯一の時間をまっとうした。そう思えてならない。 ひとつに、老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった。 ある時、小田嶋さんから「お世話になったお礼に、食事をごちそうさせてもらいたい」というありがたい申し出があった。 「そんなあ、気を使わないでいいですよー」「いや、オレの気持ちだから」みたいなやり取りの後、「じゃあ、お言葉に甘えて」となった。だとしたら、普通は日程とか、お店とか、奢る方がアレンジする流れになりますよね。 でも、小田嶋さんだとそうならない。 結局、言われた方の私が、日取りも、待ち合わせの場所も設定して、待ち合わせの場所では「えっと、お店、決まっています?」「ううん、決まってない」という予想通りの展開になった。 ただ、ここで怒っていては、小田嶋番は務まらないのである。こんなこともあろうかと、私は事前に近隣でよかろうと思える店の見当も付けており、そこに無事、小田嶋先生をご案内したのであった。って、どっちが接待主なのよ。 このようなエピソードからも、新卒の営業要員として小田嶋さんが就職した日本の食品企業が、いかにつらかったか、容易に想像できる。つらかったのは、もちろん、雇用する側です。 しかし、世間知から見放されていたからこそ、小田嶋さんの書く文章、とりわけコラムにおけるレトリックの切れ味は極上であった。中でもいくつか、私の中には永久保存版のレトリックがある。ここで書きたいと思ったが、一部分だけ抽出すると、過度に攻撃的になってしまうので、やめておく。ともかく、つまらない大人は「おうさまは、はだかだ」なんて言えないし、そもそも分からない。でも小田嶋さんは、言葉のナイフで敵をすっと切り裂いた後、その切っ先を爆笑に着地させるという、スゴイ技を持っていた。 レトリックの根底にあったのは、彼一流のセンスだ。小熊英二が著した『日本社会の仕組み』によると、戦後、地域間賃金格差や階級間年収格差が最小だったのが1975年(引用元は、橋本健二『「格差」の戦後史』)で、日本社会が「一種の安定状態」にあったのが70年代後半だったという。 これはまさに、小田嶋さんが生涯を貫くセンスを獲得した高校、浪人、大学時代と重なる。小田嶋さん世代は、一回り上の団塊世代が、田舎くささ丸出しで、元気に暴れた果てに、権力の側に吸い込まれていった経緯を、柱の陰から眺め続けた。アタマのいい高校生は、そこから、事象をことさらに深刻化せず、落語のようなおかしみを持って語る反作用的な態度を身に付けた。その要諦は、含羞と諧謔、かろみ、デフォルトとしての虚無である。 地域間賃金、階級間年収はさておき、70年代は都会と地方には、まだ情報のギャップがあった。東京都北区赤羽という、江戸の町人文化を引く土地に生まれ育った小田嶋さんは、まさしく都会の高校生で、野暮すなわち、拝金、権威主義、自己宣伝、人とつるむ態度、湿っぽさ、反知性などなどを、忌むべきものとした。この感性は、いろいろな人がワサワサと行きかう都会でないと、なかなか磨かれないものだろう。 小田嶋さんには、言いたいことを言ってきたから、その点で私に悔いはない。 ただひとつ、今年6月に刊行された小田嶋隆、初の小説『東京四次元紀行』の素晴らしい出来に感動したことは伝えられなかった。小田嶋さんのコラムは、痛快であると同時に、時に切り込み過ぎて、小田嶋さんの美質とは違うところで炎上を招いていた。その様子を傍から見ていると、「違うのに……」と、胸が痛むことがあった。だが、小説は洒脱でドライで、どこかあったかいという、彼がその経験から培ったすべてのセンスが結実していた。きっと小田嶋さんにとって、コラムよりも書いていて楽しい形式だったと思う。ありあまる才能の、その先の展開が見られないことは、残念の一言である。その悔しさは、この文章を書いている現在ではなく、この先、雑踏を歩いている時なんかに唐突に襲ってきて、私の足をすくませてしまうのだろう。 小田嶋さんはいま、彼の顔をしかめさせる現世の言説、ふるまいからきっぱりと離れ、病の苦痛からも解放され、無垢な表情でやすらかに過ごしている。そう信じている。(文:清野 由美)』、「小田嶋」氏の追悼記事はこのブログでは6月28日に紹介した。「老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった」、極めて的確な紹介だ。
・『兄の親友、小田嶋隆を弟はどんな目で見ていたのか  次は20年に亡くなられた小田嶋さんの親友、岡康道さんの弟、岡 敦(あつし)さんです・・・この部分は紹介を省略する。
・『友達はいつでもスタンド・バイ・ミー  今回のラストは、東京女子大学学長の森本あんり先生。国際基督教大学の名誉教授でもあり、神学者でもある先生は、小田嶋さんとずっと同級生であり、学生時代を通して親しい友達でした。2021年には先生の書かれた『不寛容論』(新潮選書)を題材に、寛容についてお二人で話し合っていただきました(『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方)。この続きを近いうちに、と念じていたのですが、ついにかないませんでした。 2022年5月28日、13:19着信、15分通話――小田嶋と最後に話したのはいつだろう、と思って携帯電話の履歴を確認したら、そう記録があった。最近は便利なものである。その10日前、これもメールの記録から辿ったのだが、彼の編集者から突然連絡があり、ともかく小田嶋が話したがっているから電話をしてやってくれ、ということだった。すぐに何度も電話をしたのだが、つながらない。あちらからも電話があったようだが、わたしは気づかなかった。結局わたしがかけ続けていたのは間違った番号だった、とわかったのがこの28日なのである。その後しばらくして、そろそろまた電話してみようかな、と思っていたら、出張中の新幹線で訃報のメールを受け取った。 小田嶋の追悼文なんて、わたしは書きたくない。彼のことなので、わたしより親しかった友人や仕事仲間はたくさんいるだろうし、「惜しい人をなくしました」的なアナウンスもあちこちで流されるのだろう。そんな言葉を読んだり聞いたりしたら、きっと小田嶋はそれをまたひとしきり自嘲ネタにして楽しむだろう。そういう役割は、他の方々にお任せしたい。それでもわたしがこれを書いているのは、半世紀以上前の旧友として、われわれが共有した何ごとかを書いて残し、彼の逝去に際して捧げておきたいと思ったからである。 すでに何度か書いたことだが、わたしと彼は小中高と同級生で、とても親しかった。小田嶋は、昔から勉強ができて成績はいつもトップレベル。手先も器用で、ピアノもギターも見よう見まねでささっとできてしまう。何でもできるけれど、特に何かを一心不乱に追求してその道の達人になる、などということはしない。みっともないからである。 ちなみに、古代ギリシアではこういう人を円環的な教養人と呼ぶ。たとえば、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手すぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。「趣味といっても彼の腕前はプロ級で」などというのは、実のところ無教養の極みだろう。何にせよ適量を過ぎると、人は不幸になる。そのことを心底よく知っていた小田嶋は、結局のところまあまあ人生を楽しんだ幸せな人間だった。そう思うことにしたい。 彼が電話で話したかったのは、仕事のことではない。しばらく牧師職にあったわたしの宗教的な慰めが欲しかったわけでもない。ただ、たわいもない話ができることを喜んでいた。すでに鎮静剤もかなりの量になっているようで、メールを打つのもしんどいし、お見舞いなんてもっと疲れるから、電話で話すくらいがちょうどありがたい、ということだった。ツイッターなどとは縁のないわたしは、彼の病状が終末期まで進行していることも知らなかった。たぶんそうだろう、と思った彼は、「いきなり自分の訃報が届くのも何だから」ということで、わたしに心の準備をさせるために話したかったのだ。 電話の向こうで彼は、ゆっくりとした口調でこぼしていた。「あらいゆうこうも、ひろせだいぞうも死んじゃったし、もうオレとあんりが覚えている人って、このあたりに誰もいないのよ。」わたしは、その二人の名前は覚えているし、どのあたりに住んでいたかも覚えているが、いつどのように亡くなったかは知らない。 高校で同級生だった岡康道のことは、二人で一緒に高校の同窓会誌に書いた。当時からやたらに大人びていて、どこか陰のある魅力的な人物だった。メディア界の有名人になった彼を、わたしは小田嶋を通して間接的に知っていたくらいだが、「今度3人で何かやろう」と企画を話しているうちに、彼は亡くなってしまい、それを小田嶋はとても残念がっていた。おそらく、そうやって先に逝った人たちのことを順に数えながら、おぼろげに自分の行く末を見つめていたのだろう。最後は、「あっちに行ったら、岡によろしく」「うんわかった」というお出かけの挨拶だった。 高校卒業後の小田嶋のことも、わたしはまったく知らない。これも何度か書いたことだが、わたしにとって小中高は暗黒時代だったので、その後の人生ではできるだけ近づかないようにしていた。小田嶋隆という名前も、パソコン誌にテクニカルライターとして書いた彼の記事で知っていただけである。ところが、卒業して30年ほど経ったある日、突然連絡をもらい、彼の担当するラジオ番組で対談することになった。わたしが『反知性主義』(2015年)を書くより数年ほど前のことである。 その時の対談の内容は忘れてしまった。だが、この再会はわたしの人生に大きな意味をもった。収録が終わり、近くの喫茶店でくつろいでいた時のことである。彼は、わたしが忘れていたこと、というより記憶の底に押し込めて忘れようとしていたこと、をぽつぽつと語ってくれたのである。 高校生のある日、例によって授業を抜け出したわれわれ2人は、学校の裏手に新しく地下鉄の駅が建設されつつあるのを見つけた。現在の三田線千石駅である。小田嶋の回想によると、その時わたしは、中へ入ってみようと言い出し、勝手にシャッターをがらがらと上げて、暗い駅の中へ降りていったという。そんなことをして大丈夫かな、と思っているうちにホームに着くと、今度はさらに線路へ降りて歩くという。それはさすがにまずいのではないか、と彼は思ったそうだが、わたしがずんずん先へ行ってしまうので、結局2人して巣鴨へ向かって歩き始めた。すると、案の定途中で向こうから試運転の電車が轟音と閃光とともに走ってくる。恐怖に駆られたわれわれは、ひたすら壁に張り付いてやり過ごそうと思ったが、急停止した電車の車掌にとっつかまり、2匹のねずみのように連れて行かれて、駅でこっぴどく叱られた、という話である。 今から思うと、叱られただけで済んだなんて、信じられないほどラッキーな話である。ことによったら生命すら危なかっただろう。そんな彼の問わず語りを聞いて、ようやくわたしも思い出した。だが、思い出したのはその出来事だけでなく、その時自分が何を考えてそんな愚かなことをしたのか、ということだった。わたしはその時、「悪いことをして冒険してみたい」というより、「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである。 しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう。(文:森本 あんり)』、「三田線千石駅」のエピソードは、「「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである」、「しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、「自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた」、「忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、こんなドラマチックな話を「忘れたい過去と縁を切って」いたにせよ、「30年以上も忘れていた」とは驚かされた。「小田嶋」氏はやはり稀有の存在だったようだ。
タグ:日経ビジネスオンライン (その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、養老孟司が語る「じぶんの壁」…いまこそ、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん) 随筆 「養老孟司氏、人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?」 「ラテン語では主語は要らない」とは初めて知った。 「一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない」、「「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね 。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった」、確かに「自己」が未確立なのに、「個性」重視教育は馴染まない。「自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ」、困ったことだ。 「命は誰のものでもない」、「自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう」、「自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう・・・本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ」、「私の命は、私のものではない」のは確かだ。 「キリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです」、「自殺禁止」を担保するため、「自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかった」とは初めて知った。 「そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がない」、「親孝行という思想」が「自殺」を止めていた。「親孝行という思想」は古臭いと思っていたが、意外な効用があったようだ。 日経ビジネスオンライン「小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん」 清野由美 「小田嶋」氏の追悼記事はこのブログでは6月28日に紹介した。「老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった」、極めて的確な紹介だ。 東京女子大学学長の森本あんり 「三田線千石駅」のエピソードは、「「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである」、「しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。 自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、「自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた」、 「忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、こんなドラマチックな話を「忘れたい過去と縁を切って」いたにせよ、「30年以上も忘れていた」とは驚かされた。「小田嶋」氏はやはり稀有の存在だったようだ。
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クレーマー(その3)(「シルバークレーマー」はなぜ増えるのか そしてその対応策とは、生活保護を申請しホテルに971泊 市は「ハードクレーマー」にどう対応すべきか、鴻上尚史「複雑化する日本のクレームに対応するには“不寛容車両”しかない」 世間ってなんだ(4)) [人生]

クレーマーについては、2020年2月27日に取上げた。今日は、(その3)(「シルバークレーマー」はなぜ増えるのか そしてその対応策とは、生活保護を申請しホテルに971泊 市は「ハードクレーマー」にどう対応すべきか、鴻上尚史「複雑化する日本のクレームに対応するには“不寛容車両”しかない」 世間ってなんだ(4))である。

先ずは、昨年6月23日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した(株)エンゴシステム代表取締役の援川 聡氏による「「シルバークレーマー」はなぜ増えるのか、そしてその対応策とは」を紹介しよう。
・『現場を混乱させるクレーマーたち  ここのところ毎日、新型コロナウイルスワクチンの話がニュースや身の回りで大きな話題になっています。ワクチン接種の申し込みを受ける役所や、接種会場などでよく見聞きするのが、「接種ができずに感染したら責任を取れるのか!」「孫に会えないのはお前のせいだ!」などとキレる人たち。こうしたクレーマーへの対応に疲弊し、ストレスで心が折れてしまう職員が全国で発生しています。 納得できないことがあると毒を吐き、現場をマヒさせるモンスタークレーマー。なかでも、シルバー世代のクレーマーは、正論で世の中を正そうとする傾向があるようです。よく言えば豊富な人生経験に基づいた説得力があり、悪く言えば頑固で理不尽な言い分の中には、「おっしゃる通り」の部分もあるため、対応は面倒で厄介な作業となり、現場のマンパワーを低下させます。 対応する側の医療・行政やコールセンターの職員は、基本的にみな真面目。一生懸命対応しようとしますが、納得させることは非常に困難なのが現実です。コロナ禍時代の特徴として、「誠実で心優しい人」ほど心をやられる(心が折れる)時代がやってきたともいえるのです。 クレーマーに突然怒鳴りつけられた職員はどうすることもできません。萎縮し、泣きそうになりながら、ひたすら謝罪を繰り返すのみ……。ワクチン接種の現場で対応する(医療・行政)職員にとってはあまり想像したくない、クレーム対応の現実です。 しかし、長く続くコロナ禍で日頃から不満をためている人が増え、ちょっとしたことで爆発しやすくなっている今は、こうしたクレーマーに遭遇し、トラブルに巻き込まれる可能性が高まっています。いつ何時、あなたに降りかかるかわかりません』、「シルバー世代のクレーマーは、正論で世の中を正そうとする傾向があるようです。よく言えば豊富な人生経験に基づいた説得力があり、悪く言えば頑固で理不尽な言い分の中には、「おっしゃる通り」の部分もあるため、対応は面倒で厄介な作業となり、現場のマンパワーを低下させます」、これはやっかいだ。
・『シルバー世代のクレーマーたちは、なぜ“キレる”のか  「いきなり大声で威嚇された」という場合、視野を少し広く持ってみると、相手の声の大きさに過剰に反応して「怒声」と思い、そんな相手を理不尽だと決めつけているケースが多いのも事実です。 冒頭でシルバー世代のクレーマーがワクチン接種現場を混乱させていると書きましたが、年齢によるものも大きいのです。人間、年を取れば心身が衰えますが、実は脳も衰えます。老化により前頭葉が衰えると、怒りの沸点が低くなるといわれています。いきなり怒鳴りだすクレーマーがシルバー世代に多いのは、ある意味では自然現象ともいえるのです。 とはいえ、いくら業務上のお客様対応とはいえ、いきなり怒鳴りつけられたら気持ちはへこみますし、面白くありません。なかには対応の不備や従業員の言葉尻をとらえ、個人を攻撃してくる者もいます。 「いったいどんな教育を受けてきたんだ」「親の顔が見てみたい!」 こんな怒声を浴びせられ、心が悲鳴を上げない人はいないでしょう。 あなたの心を怒れる理不尽クレーマーから守るには、どうしたらよいのでしょうか? ここからは、得体の知れないクレーマーに対して、焦らず対応するための“心構え”を紹介します』、「老化により前頭葉が衰えると、怒りの沸点が低くなるといわれています。いきなり怒鳴りだすクレーマーがシルバー世代に多いのは、ある意味では自然現象ともいえるのです」、「得体の知れないクレーマーに対して、焦らず対応するための“心構え”」とは興味深そうだ。
・『「老人だから」を理由にゴリ押し、時間を奪う人たち  例えば、順番待ちの列に割り込んだ高齢男性。こちらが最後尾に案内するも、 「耳が遠いからよく聞こえない!」「立ってるのも、しんどいんだ!それくらい特別扱いをしろよ!」「年寄りだからってばかにしてんのか!?」 などと、老化に伴う身体的な衰えを理由に、過度な要求を無理やり通そうとする人。 また、社会通念を逸脱した行為に対して注意をすると、「耳が遠いんだ」「ボケたかな」などとうそぶいて相手の話を聞こうとしない人。 女性スタッフの体に直接触るなど、セクハラまがいな行動をし、とがめられると「年寄りだから」などと言い訳する人。 こうした「老人だから」を理由に、過度で理不尽な要求を押し通そうとする人は少なくありません。業務上の理由や公益性の観点からお断りすると、いきなりキレだすのも特徴です。さらに、一度キレだすと、不満と怒りがどんどん雪だるま式に大きくなり、直接的には店に関係のない文句を言い始めるなど、最後には本人もどうしたら怒りが収まるのかわからなくなってしまいます。興奮状態になって土下座を強要するような行為も、自分で怒りの収拾が付かなくなっているからだといえます。 そうなると、自身の理不尽な加害行為を棚に上げ、被害者意識にスイッチが入ります。 「ばかにしているのか!!!!」「年寄りは死ねばよいのか!」 と、怒鳴ることも珍しくありません。 また、他にも、話しぶりは穏やかでも 「私が子どもの頃はね……」「あなたはどこの出身なの?」「うちの息子がね……」などと、自身の身の上話や職員のプライベートについてなど脈絡なく延々と話し続け、長時間の接遇を求める困ったお年寄りもいます。 こういう人は、迷惑ではありますが、業務を妨害するクレーマーだとも一概に言いづらく、現場にとっては非常にやりにくいタイプかもしれません。要求がわかりにくく、話が長く支離滅裂。静かに話を聞いていたつもりが、何かのきっかけで不満が爆発してびっくりすることもあります』、「老化に伴う身体的な衰えを理由に、過度な要求を無理やり通そうとする人。 また、社会通念を逸脱した行為に対して注意をすると、「耳が遠いんだ」「ボケたかな」などとうそぶいて相手の話を聞こうとしない人。 女性スタッフの体に直接触るなど、セクハラまがいな行動をし、とがめられると「年寄りだから」などと言い訳する人。 こうした「老人だから」を理由に、過度で理不尽な要求を押し通そうとする人は少なくありません」、断固として特別扱いはすべきではない。「セクハラ」には警察を呼ぶなど断固たる対応が必要だ。
・『「心の上から目線」で対応する  ここからは、私が刑事時代に身につけた対処法をお話しします。 「いったいどんな教育を受けてきたんだ」 「親の顔が見てみたい!」 いきなりこんな怒声を浴びせられると萎縮し、心が悲鳴を上げてしまうものです。私はこうした言葉を真正面から受けません。スルーしたり、「そうですか……」などと返してやり過ごしたりしながら、相手の真意(第二の感情)を見出そうと試みます。元刑事である私は人に対するとき、言葉の意味や声の大きさだけではなく、表情やしぐさ、その視線などで真意を探るのです。 私がおすすめするのは、心が折れそうな局面になったら、クレーマーを別の角度から見てみるということです。 「怒鳴り続けているこの人は、きっと寂しい人なんだ」「家族や近所で疎んじられているんだ。かわいそうに」 などと、別の感情を持ちながら接するのです。 私はこれを「心の上から目線」と呼んでいます。実際に上から目線でクレーム対応することはありませんし、できませんが、心の中でだけ、上から目線でクレーマーを見つめ直す。そうすることで、落ち着いて冷静な対応をすることができるのです』、「心の上から目線」とは面白い対応方法だ。
・『根底にあるのは「孤独感」と「承認欲求」  ほとんどのケースで、シルバーモンスターの根底には、「孤独感」と「承認欲求」があります。年配者であることをカサに高圧的に説教してくる人も、高齢者としての弱者強調型も、その怒声の裏には、何らかの抑うつした感情があるのは事実です。 このように少し落ち着いて、客観的に分析することなどで相手のキャラクターや別の感情を早めにつかむことができれば、対応する側の感情も落ち着きを取り戻しやすくなります。すると、怒鳴りつけられて一瞬パニックになったときもその状態から回復しやすくなりますし、相手の罵声や非難、中傷が心に刺さらなくなります。 クレーム対応するときには、顧客の心に配慮する心配りは大切なポイントです。しかし、クレーマーに正面から対応しようとすると、感情がとらわれ、心が折れやすくなります。こうした局面でのクレーム対応においては、ここまで書いたような“心構え”があるだけで、結果は違ってきます。自らの心にバリアを張り、シャッターを下ろして、理不尽な攻撃から身を守るイメージです。 正義と弱者、善(白)と悪(黒)、セクハラ(ピンク)などなど……クレーマーたちはさまざまな色や形の仮面をかぶっています。時には弱者、時に敬うべき先人として振る舞い、イライラを無責任に爆発させ、理不尽な言葉でマウントを取ってきます。別角度から相手を探り、上手にスルーすることでクレーマーの理不尽な攻撃をかわし、“心構え”をしておくことで自らの感情と心を守ってください』、「少し落ち着いて、客観的に分析することなどで相手のキャラクターや別の感情を早めにつかむことができれば、対応する側の感情も落ち着きを取り戻しやすくなります。すると、怒鳴りつけられて一瞬パニックになったときもその状態から回復しやすくなりますし、相手の罵声や非難、中傷が心に刺さらなくなります。 クレーム対応するときには、顧客の心に配慮する心配りは大切なポイントです。しかし、クレーマーに正面から対応しようとすると、感情がとらわれ、心が折れやすくなります。こうした局面でのクレーム対応においては、ここまで書いたような“心構え”があるだけで、結果は違ってきます。自らの心にバリアを張り、シャッターを下ろして、理不尽な攻撃から身を守るイメージです」、確かにその通りなのだろう。

次に、昨年10月13日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した(株)エンゴシステム代表取締役の援川 聡氏による「生活保護を申請しホテルに971泊、市は「ハードクレーマー」にどう対応すべきか」を紹介しよう。
・『家賃滞納で立ち退きを命じられ、生活保護を申請中の男性がホテルで971泊。かかったお金を市に水増し請求するという事件がありました。男性は「ハードクレーマー」として有名だったとのことで、市職員も対応に苦慮したものと思われます。こうしたモンスタークレーマーを生まないためにはどうしたらいいのでしょうか?』、「「ハードクレーマー」として有名」とのことで、行政が増長させてしまったのだろう。
・『生活保護を受けている男性が971泊分のホテル代を市に請求  9月末、ちょっと驚くような事件の裁判がありました。 ●「ハードクレーマー」で有名、生活保護でホテル971泊…市に水増し請求(約2年8か月にわたりホテルに宿泊しながら、盛岡市から生活保護費の住宅扶助計約1440万円をだまし取ったとして詐欺罪に問われた無職の男(53)(青森県八戸市)と妻(47)(同)の初公判(加藤亮裁判長)が27日、盛岡地裁であった。 <略> 捜査関係者によると、男らは盛岡市内で被告の90歳代の父親と3人で同居していた。しかし、14年10月に家賃滞納で立ち退きを命じられ、同市に生活保護を申請。一家が住居を確保するまでの間、市は一時的にホテル代を住宅扶助として支給することを認めた。同市は3人家族に対する1か月の住宅扶助の支給上限額を4万円と定めているが、男らが受給した額は1か月あたり約45万円にのぼった。 検察側の冒頭陳述によると、男は担当者をどなりつけるなど、市職員の間では「ハードクレーマー」として有名だった。市は再三、住居の確保を要請したが、「高齢の父親がいるので身動きがとれない」とホテル暮らしを継続。「一定額までしか給付できない」との市の説明にも「全額でなければ困る」などと執拗(しつよう)に主張したという。 (引用:読売オンライン 2021年9月28日記事より) この記事を読んで最初に思ったのは、「なぜこんなことになるまで放置してしまったのか」という残念な気持ちでした。細かい事情は分からないので断定はできませんが、長期間にわたる後手後手の対応によって、超ド級の巨大モンスタークレーマーを育ててしまった、といってもいいかもしれません。 「役所としてはルール通りの金額を支給すればいい。もし怒鳴り散らすようなことがあれば通報すればよいだけでは? なぜそれができないのか」 この事件の記事を読んだ方はおそらく、このような感想を持ったのではないでしょうか。 このクレーマーはおそらく、市の職員に対して「高齢の父親の命に関わる問題だ!」「納得できない!」「弱者は死ねというのか!」「市民のための行政機関ではないのか!」「ばかじゃないのか!この税金泥棒!」などと怒鳴りつけたのではないでしょうか(あくまで想像ですが)。記事で「ハードクレーマーで有名」と説明されているということは、おそらく現場の職員がいくら丁寧に説明しても受け入れず、こうした暴言を吐き、何をやってもキレて怒鳴り散らす……。まさにモンスター状態だったのだろうと想像します。 さて、このような巨大なモンスターが育ってしまったきっかけは何だったのでしょうか? おそらくそれは「初期対応のミス」にあったのだろうと私は予想します』、「巨大なモンスターが育ってしまったきっかけは」「「初期対応のミス」にあった」、とはその通りだろう。
・『怒鳴りつけてくるクレーマーに対応するコツとは  初期対応で毅然と対応していれば、ここまでの悪質な事件にまでは至っていなかった――私だけでなく、多くの皆さんもそう思っているのではないでしょうか。 しかし、これまでの連載でも説明してきましたが、怒鳴り散らす相手に毅然とした対応をとることは実はとても難しい。ましてや、相手は生活保護の対象である「弱者」であり、最初から詐欺を働こうなどの悪意はなかったでしょう。初期の段階では、単に「怒鳴る・罵声を浴びせる」ことはあったかもしれませんが、それだけでは悪意があるとは断定でない状況であり、あくまでグレーゾーンです。 対応する職員の立場からすると、現場で突然浴びせられる罵声の威力は強烈で、ちょっとしたパニック状態になります。冷静になってから判断すれば、理不尽な要求だと分かっても、いきなり“弱い立場”の市民から怒鳴りつけられ、責任追及の罵声を浴びせられたら、あまりの剣幕にあらがえず屈してしまう――。そうした状況は、容易に想像できます。職員は、他の業務もある中、長時間拘束されてしまえば判断力も鈍るでしょう。そのストレスは計り知れません』、「冷静になってから判断すれば、理不尽な要求だと分かっても、いきなり“弱い立場”の市民から怒鳴りつけられ、責任追及の罵声を浴びせられたら、あまりの剣幕にあらがえず屈してしまう――。そうした状況は、容易に想像できます。職員は、他の業務もある中、長時間拘束されてしまえば判断力も鈍るでしょう。そのストレスは計り知れません」、確かにその通りだろう。
・『対応の限界「K点」を設定する  こうしたとき、私が現場で対応する人たちに推奨したいのは、対応の限界「K点」(レッドライン)を明確に設定することです。もしこのレッドラインを超えてしまったら、個人で対応するのをやめ、組織対応に切り替えます。このような明確なラインを設けることで、現場の負担も軽減し、後々で組織の首を絞めるような対応を避けることができるのです。 今回のケースの場合、基準は「他の市民(客)にもできるかどうか」になります。 「この人(クレーマー)の言う通り、特別に対応しても大したことではない……」と、事なかれ主義が頭をもたげたとしても、一人にそうした特別対応をすれば、二人目、三人目と当然特別対応しなくてはならない相手が増えていきます。このような特別待遇が他に知られたら、その対応についての二次クレームの電話が増え、その処理にも追われるでしょう。対応する職員のモチベーションが低下するのは間違いありません。 「面倒な人ほどシンプルに対応する」ことで現場担当者の負担が減り、ストレスも軽減するはずです。納得しない、理不尽な人、「ああ言えばこう言う」人に対してこそ、どのように向き合うか「心構えの基準」を組織で明確に持つことが重要なのです』、「対応の限界「K点」(レッドライン)を明確に設定することです。もしこのレッドラインを超えてしまったら、個人で対応するのをやめ、組織対応に切り替えます。このような明確なラインを設けることで、現場の負担も軽減し、後々で組織の首を絞めるような対応を避けることができるのです。 今回のケースの場合、基準は「他の市民(客)にもできるかどうか」になります」、「「面倒な人ほどシンプルに対応する」ことで現場担当者の負担が減り、ストレスも軽減するはずです。納得しない、理不尽な人、「ああ言えばこう言う」人に対してこそ、どのように向き合うか「心構えの基準」を組織で明確に持つことが重要なのです」、なるほど。
・『初期対応ができていない人は、クレーマーにつけこまれやすい  その証拠のようなエピソードもあります。 以前、自らを「理論派のクレーマー」と称する男性と話したことがあります。この男性がはっきり言っていたのは「つけ込みやすいのは初期対応ができていない、ダメな人」ということでした。 「クレームをつけたとき、相手の最初の対応が良ければいい(そこで諦める)が、中途半端な説明で逃げようとしたら、怒りのスイッチが入ります。そうなったら、自分たちの立場を押し付けるような“上から目線の態度”で、ガンガンいくしかない」 「逆に、クレームをエスカレートさせにくいのは、自分の言い分をしっかり聞こうとする姿勢や、できることとできないことの基準が明確な姿勢の相手。こういう人には、むやみなことは言えないと思う。『できないことはできない』ときっぱり言われれば、『しっかりしているな』と一目置きます」 あり得ない要求を突きつけるモンスターだとしても、相手は人間。こちらは明確な基準をもって対応するのが一番です。納得しない人が増える中で、多少担当者によって対応に差が出たとしても、基本は「公平・公正」、はっきりした基準を決めておくことが重要になります。 今回の事件では、この男性のホテル代に多額の税金が使われたことも気になりますが、この対応の最大の誤りは、うるさいハードクレーマーを特別扱いした結果、他の困っている人や声すら出せない真の弱者を放置してしまっている点です。 企業でも、行政機関や医療機関でも、何事も「できることとできないこと」ははっきりとあるはずです。 次回は、困ったクレーマーへの具体的な言い回しや具体的な対応について解説します』、「基本は「公平・公正」、はっきりした基準を決めておくことが重要になります。 今回の事件では、この男性のホテル代に多額の税金が使われたことも気になりますが、この対応の最大の誤りは、うるさいハードクレーマーを特別扱いした結果、他の困っている人や声すら出せない真の弱者を放置してしまっている点です。 企業でも、行政機関や医療機関でも、何事も「できることとできないこと」ははっきりとあるはずです」、その通りだ。

第三に、10月3日付け現代ビジネスが掲載した作家・演出家の鴻上 尚史氏による「鴻上尚史「複雑化する日本のクレームに対応するには“不寛容車両”しかない」 世間ってなんだ(4)」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/100289?imp=0
・『多くの書籍を通じて、日本社会の特徴ともいえる「空気」と「世間」について、さまざまな角度から考えてきた鴻上さん。 30年にわたる連載をもとに刊行した『世間ってなんだ』では、ずっと中途半端に壊れ続ける世間が私たちの生活、心に何をもたらしてきたのか、世間が息苦しいと感じたときに、そこから抜け出す方法を語っている』、「鴻上」氏の見方はユニークなので、これまでから注目してきた。
・『クレームに弱い日本  大阪に仕事に行って、帰りの新幹線の中で、たこ焼きと肉まんを食べるのが至福の時間でした。 それが2017年夏、いきなり、新大阪駅改札内で販売されている「たこ家道頓堀くくる」のパッケージに、「新幹線車内および駅構内でのお召し上がりはご遠慮願います。空き容器は店内のくずもの入れにお捨て願います」という注意書きシールが貼られました。 最初、このシールを見た時は凍りました。新幹線の中でたこ焼きの臭いがするのがダメなのかなあ、しょうがないなあ、と駅のホームで出発前までの短い時間に必死であふあふしながら頬張りました。口の中を若干火傷しながら、もう一度シールを見ると、「駅構内でのお召し上がりはご遠慮願います」と書かれていることに、あらためて気付きました。ということは、ホームでもダメじゃんとひりひりする口で気付きました。 でも、車内で隣の人が文句を言うのはまだ分かるけど、屋外のホームのベンチで食べるのがどうしていけないのと、臭いは風と共に消えていくよと、猛烈に悲しい気持ちになりました。 そもそも、買って食べないままずっと車内に置いておくと、臭いが長時間にわたってずっと出続けないかと心配になりました。 ネットの記事によれば、それは「くくる」さんの決断ではなく、JR東海からの要請だそうです。 で、JR東海さんの言い分は、もうこれは当然ながら、「車内でたこ焼きを食わすな。禁止しろ!」という臭いに対するクレームの電話があったからだということだそうです。 昔は、新幹線の中で「たこ焼き」が売られていました。1980年代です。けれど、今、新幹線の中ではたこ焼きは食べられません』、「JR東海からの要請だそうです。 で、JR東海さんの言い分は、もうこれは当然ながら、「車内でたこ焼きを食わすな。禁止しろ!」という臭いに対するクレームの電話があったからだということだそうです」、「JR東海」は「クレーム」には弱いようだ。
・『「社会」と「世間」の違いをよく分かってない日本人  そして、衝撃的なネット記事「IT media ビジネスオンライン(窪田順生、2018年3月13日)」を見つけました。 なんと、「551蓬莱」の豚まんが問題になっているというのです。 「551蓬莱」の豚まん、美味しいですよね。ホカホカをあふあふと食べれば、幸せを感じますよね。 でも、「豚まんのように強烈な臭いのするモノを車内で広げられたら、気分が悪くなる人もいるし、目的地まで眠りたい人の邪魔になる」とか「食欲がそそられるので、『豚まんテロ』」と、新幹線の車内で食べることは重大なマナー違反で、禁止すべきだという声が上がっているというのです。 現在、「くくる」さんは、改札内のお店なのでJR東海さんの指導に従い、「551蓬莱」さんは駅構内なので、JR東海直接の管轄ではないことが、「ご遠慮願います」というシールのあるなしを分けているようです。 でも、ニュースサイト『しらべぇ』がJR東海に問い合わせたところ、「駅弁や豚まんなど『シールがないもの』については一概にはお答えできませんが、周囲からご意見があった際は、ご協力いただくこともあるかもしれません」とその可能性を否定しなかったそうです。 つまりは、「クレームがあったら、豚まんも駅弁も禁止にしますから」ということです。もう、お客様の声が一番なんですね。 「社会」と「世間」の違いをよく分かってない日本人は、クレームに対してとても弱いです。どんなTVCMも、クレームの電話数本でオンエア中止になります。 お客様は神様だから、その言葉は「世間」様の声で、従うべき身内の指摘だと思うのです。 でも、それは「社会」の声です。神様ではなく他人の声です。客観的に分析し、実証し、判断するべきデータなのです。 いったい、一日、何人の人が「たこ焼き」を新幹線に持ち込み、何件の苦情があったのかを調べるべきなのです。 それが、例えば1割なら無視してはいけないと判断します。でも、1日5000人がたこ焼きを持ち込み、3人の人が苦情の電話をかけてきたら、割合は0.06%です。それは逆に問題にしてはいけない数字だと思います。 最近は、「隣で酒を飲まれると、臭いが漂ってきて不愉快だという人が出てきた」そうです。 たこ焼きから豚まん、そして、駅弁、お酒とどんどんクレームと共に新幹線はクリーンになっていくのでしょう。コーヒーの臭いが不快な人もいるでしょう。そういう人のクレームにも、JR東海さんはやがて対応していくのでしょうか。 担当編集者の鈴木さんが、「いずれ、『飲酒可車両』とかできるんじゃないかと思いますね。心おきなくタコ焼きを食べられる車両。それで、他人の食べもののニオイがイヤ、子供が泣くのもイヤ、酒飲みもイヤという人が乗る『不寛容車両』も作ればいいのにw」というメールをくれました。 なんてするどい。たしかに、JR東海さんは「たこ焼きの臭いに対するクレーム」に対して、誠実に対応して禁止にしたわけですから、これから増えていくであろう、お酒や駅弁の臭いや子供の泣き声に対するクレームにも誠実に対応するでしょう』、「最近は、「隣で酒を飲まれると、臭いが漂ってきて不愉快だという人が出てきた」そうです。 たこ焼きから豚まん、そして、駅弁、お酒とどんどんクレームと共に新幹線はクリーンになっていくのでしょう。コーヒーの臭いが不快な人もいるでしょう。そういう人のクレームにも、JR東海さんはやがて対応していくのでしょうか。 担当編集者の鈴木さんが、「いずれ、『飲酒可車両』とかできるんじゃないかと思いますね。心おきなくタコ焼きを食べられる車両。それで、他人の食べもののニオイがイヤ、子供が泣くのもイヤ、酒飲みもイヤという人が乗る『不寛容車両』も作ればいいのにw」というメールをくれました」、さすがに『不寛容車両』に乗れば、自らが「不寛容」であることを認めることになるので、乗ろうとする人はいないような気がする。
・『「子供は泣くもんだ」が許せない日本人  しかし、子供の泣き声に関しての、日本のお母さんの気の使い方は、痛々しいくらいです。 バスでも電車でも、子供がちょっとした声を上げると「しっ! 静かにしなさい」と叱ります。それで、静かになるなら、子供ではありません。小学校に入るぐらいなら、物事の分別がつく奴もそれなりに出てきますが、保育園・幼稚園のガキんちょに、「声を出すな。音をたてるな」と強制することは不可能です。 まして、赤ん坊に「泣くな」というのはありえません。でも、泣き始めると、母親は真っ青になって周りに気を使います。座っていては泣き止まないから、通路を歩いたり、車両の間に立ったり、見ていて胸が痛くなります。 僕は「子供が騒ぐ(泣く)に任せて放っている日本人親」より「子供が騒いだり(泣いたり)すると、オロオロして、周りに気を使い、子供をきつく叱り続けている日本人親」の方をたくさん見てきました。 海外では、子供が泣いても「子供は泣くもんだ」と自然にしている親をたくさん見ました。オロオロと立ち上がり、通路を歩き、「すみません。すみません」と謝り続ける親を見た記憶がありません。 やがて、日本ではクレームの結果、「子供不可」という車両が生まれるかもしれません。 じつは、世界で車内の携帯電話を禁止している国はほとんどありません。本当は日本以外ゼロと言いたいのですが、中に、地下鉄はダメとかバスはダメという国がほんの少数あります。 この規則は外国人からすると意味不明です。「うるさいから」というのなら、車内で大声で会話している二人組はうるさくないのか、迷惑なのにこれは禁止しないのか、という議論に当然なります。 一度、「電話は相手の声が聞こえないから意味不明の会話にしかならない。それが聞いていて不快なんだ」と説明している人がいました。そんなの、二人いてとんでもない会話を聞く方がもっと不快です。 以前、電車の中で、おばちゃん二人が、「日野の2トントラック」のTVCMに出ていたリリー・フランキーさんの話をしていました。おばちゃんは当然のようにリリー・フランクさんと言い、もう一人のおばちゃんが、「違うわよ、あれは吉田鋼太郎さんよ」と訂正し、フランクのおばちゃんが「あら、芸名変えたの?」と驚き、もう一人のおばちゃんが「本名にしたんじゃないの? 日本人だからいつまでもリリーじゃダメよ」とメデタシメデタシという顔で答えました。 二人の目の前でシートに座っていた僕は、「二人とも違う!」と、もう少しで叫びそうでした。 車内でどんなにトンチンカンなことを話してもいいのに、どうして携帯はダメなのか、というのは、理窟では説明できません。 唯一できるとしたら、「日本人は静かな環境が好きなので、本当は電車の中では話してもいけないんだ。やがて、電車では沈黙することがマナーになるだろう」という言い方でしょう。これなら、一応論理的に矛盾はしていません。 そういう車両を表向きは「クリーン車両」なんて言うようになるんじゃないかと思います。 でも、それは裏からいえば、編集鈴木女史が言ったように「不寛容車両」です。この言い方、すごくいいです。自分が不寛容であることを周りに宣言してるんですからね。 もうクレームに誠実に対応するなら、これしか方法はないと思います。 僕はうるさくて、臭いがあっても我慢します。「不潔車両」別名「寛容車両」で「くくる」のたこ焼きも、「551」の豚まんもたらふく食べたいと思います!(2018年3月)』、「「子供が騒いだり(泣いたり)すると、オロオロして、周りに気を使い、子供をきつく叱り続けている日本人親」の方をたくさん見てきました」、子供の泣き声などには寛容にすべきだ。「「日本人は静かな環境が好きなので、本当は電車の中では話してもいけないんだ。やがて、電車では沈黙することがマナーになるだろう」という言い方でしょう。これなら、一応論理的に矛盾はしていません。 そういう車両を表向きは「クリーン車両」なんて言うようになるんじゃないかと思います。 でも、それは裏からいえば、編集鈴木女史が言ったように「不寛容車両」です。この言い方、すごくいいです。自分が不寛容であることを周りに宣言してるんですからね。 もうクレームに誠実に対応するなら、これしか方法はないと思います」、「僕はうるさくて、臭いがあっても我慢します。「不潔車両」別名「寛容車両」で「くくる」のたこ焼きも、「551」の豚まんもたらふく食べたいと思います!」、「鴻上」氏らしい締めだ。
タグ:(その3)(「シルバークレーマー」はなぜ増えるのか そしてその対応策とは、生活保護を申請しホテルに971泊 市は「ハードクレーマー」にどう対応すべきか、鴻上尚史「複雑化する日本のクレームに対応するには“不寛容車両”しかない」 世間ってなんだ(4)) クレーマー ダイヤモンド・オンライン 援川 聡氏による「「シルバークレーマー」はなぜ増えるのか、そしてその対応策とは」 「シルバー世代のクレーマーは、正論で世の中を正そうとする傾向があるようです。よく言えば豊富な人生経験に基づいた説得力があり、悪く言えば頑固で理不尽な言い分の中には、「おっしゃる通り」の部分もあるため、対応は面倒で厄介な作業となり、現場のマンパワーを低下させます」、これはやっかいだ。 「老化により前頭葉が衰えると、怒りの沸点が低くなるといわれています。いきなり怒鳴りだすクレーマーがシルバー世代に多いのは、ある意味では自然現象ともいえるのです」、「得体の知れないクレーマーに対して、焦らず対応するための“心構え”」とは興味深そうだ。 「老化に伴う身体的な衰えを理由に、過度な要求を無理やり通そうとする人。 また、社会通念を逸脱した行為に対して注意をすると、「耳が遠いんだ」「ボケたかな」などとうそぶいて相手の話を聞こうとしない人。 女性スタッフの体に直接触るなど、セクハラまがいな行動をし、とがめられると「年寄りだから」などと言い訳する人。 こうした「老人だから」を理由に、過度で理不尽な要求を押し通そうとする人は少なくありません」、断固として特別扱いはすべきではない。「セクハラ」には警察を呼ぶなど断固たる対応が必要だ。 「心の上から目線」とは面白い対応方法だ。 「少し落ち着いて、客観的に分析することなどで相手のキャラクターや別の感情を早めにつかむことができれば、対応する側の感情も落ち着きを取り戻しやすくなります。すると、怒鳴りつけられて一瞬パニックになったときもその状態から回復しやすくなりますし、相手の罵声や非難、中傷が心に刺さらなくなります。 クレーム対応するときには、顧客の心に配慮する心配りは大切なポイントです。 しかし、クレーマーに正面から対応しようとすると、感情がとらわれ、心が折れやすくなります。こうした局面でのクレーム対応においては、ここまで書いたような“心構え”があるだけで、結果は違ってきます。自らの心にバリアを張り、シャッターを下ろして、理不尽な攻撃から身を守るイメージです」、確かにその通りなのだろう。 援川 聡氏による「生活保護を申請しホテルに971泊、市は「ハードクレーマー」にどう対応すべきか」 「「ハードクレーマー」として有名」とのことで、行政が増長させてしまったのだろう。 「巨大なモンスターが育ってしまったきっかけは」「「初期対応のミス」にあった」、とはその通りだろう。 「冷静になってから判断すれば、理不尽な要求だと分かっても、いきなり“弱い立場”の市民から怒鳴りつけられ、責任追及の罵声を浴びせられたら、あまりの剣幕にあらがえず屈してしまう――。そうした状況は、容易に想像できます。職員は、他の業務もある中、長時間拘束されてしまえば判断力も鈍るでしょう。そのストレスは計り知れません」、確かにその通りだろう。 「対応の限界「K点」(レッドライン)を明確に設定することです。もしこのレッドラインを超えてしまったら、個人で対応するのをやめ、組織対応に切り替えます。このような明確なラインを設けることで、現場の負担も軽減し、後々で組織の首を絞めるような対応を避けることができるのです。 今回のケースの場合、基準は「他の市民(客)にもできるかどうか」になります」、「「面倒な人ほどシンプルに対応する」ことで現場担当者の負担が減り、ストレスも軽減するはずです。納得しない、理不尽な人、「ああ言えばこう言う」人に対してこそ、どのように向き合うか「心構えの基準」を組織で明確に持つことが重要なのです」、なるほど。 「基本は「公平・公正」、はっきりした基準を決めておくことが重要になります。 今回の事件では、この男性のホテル代に多額の税金が使われたことも気になりますが、この対応の最大の誤りは、うるさいハードクレーマーを特別扱いした結果、他の困っている人や声すら出せない真の弱者を放置してしまっている点です。 企業でも、行政機関や医療機関でも、何事も「できることとできないこと」ははっきりとあるはずです」、その通りだ。 現代ビジネス 「鴻上尚史「複雑化する日本のクレームに対応するには“不寛容車両”しかない」 世間ってなんだ(4)」 「鴻上」氏の見方はユニークなので、これまでから注目してきた。 「JR東海からの要請だそうです。 で、JR東海さんの言い分は、もうこれは当然ながら、「車内でたこ焼きを食わすな。禁止しろ!」という臭いに対するクレームの電話があったからだということだそうです」、「JR東海」は「クレーム」には弱いようだ。 「最近は、「隣で酒を飲まれると、臭いが漂ってきて不愉快だという人が出てきた」そうです。 たこ焼きから豚まん、そして、駅弁、お酒とどんどんクレームと共に新幹線はクリーンになっていくのでしょう。コーヒーの臭いが不快な人もいるでしょう。そういう人のクレームにも、JR東海さんはやがて対応していくのでしょうか。 担当編集者の鈴木さんが、「いずれ、『飲酒可車両』とかできるんじゃないかと思いますね。心おきなくタコ焼きを食べられる車両。それで、他人の食べもののニオイがイヤ、子供が泣くのもイヤ、酒飲みもイヤという人が乗る『不寛容車両』も作ればいいのにw」というメールをくれました」、さすがに『不寛容車両』に乗れば、自らが「不寛容」であることを認めることになるので、乗ろうとする人はいないような気がする。 「「子供が騒いだり(泣いたり)すると、オロオロして、周りに気を使い、子供をきつく叱り続けている日本人親」の方をたくさん見てきました」、子供の泣き声などには寛容にすべきだ。 「「日本人は静かな環境が好きなので、本当は電車の中では話してもいけないんだ。やがて、電車では沈黙することがマナーになるだろう」という言い方でしょう。これなら、一応論理的に矛盾はしていません。 そういう車両を表向きは「クリーン車両」なんて言うようになるんじゃないかと思います。 でも、それは裏からいえば、編集鈴木女史が言ったように「不寛容車両」です。この言い方、すごくいいです。自分が不寛容であることを周りに宣言してるんですからね。 もうクレームに誠実に対応するなら、これしか方法はないと思います」、「僕はうるさくて、臭いがあっても我慢します。「不潔車両」別名「寛容車両」で「くくる」のたこ焼きも、「551」の豚まんもたらふく食べたいと思います!」、「鴻上」氏らしい締めだ。
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人生論(その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ) [人生]

人生論については、3月29日に取上げた。今日は、(その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ)である。

先ずは、4月3日付け現代ビジネスが掲載した主婦の若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」を紹介しよう。
https://gendai.media/articles/-/92672?imp=0
・『若年性アルツハイマー病で、東京大学を早期退官した若井晋。沖縄での療養などを経て病を公表し、それがきっかけで「認知症当事者としての講演」という生きがいを見つけた彼だったが、症状の悪化からついに講演は不可能となった。妻とともに日常に戻った彼は、介護保険サービスを利用してデイサービスに通い始める。そこで明らかになった、認知症の当事者だからこその苦悩とは? 近刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子・著、講談社)よりお届けする。 【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」 【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実 【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩 【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか? 【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界 【第6回】元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」 【第7回】アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由』、興味深そうだ。
・『弱っていく体、澄んでいく心  講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました。 ■2010年  この年に介護保険を使い始めたことはすでに書きました。家で私たちは畳に布団を敷いて寝ていましたが、晋が立ち上がるのが難しくなったのがこの頃です。 幸い、ケアマネジャーさんが介護ベッドの導入を提案してくれたおかげで、解決することができました。 ■2012年  講演を通じて偶然知り合った医師の助言をきっかけに、デイサービス(デイ)に通い始めました(後で書く通り、うまくなじめず、いくつかのデイを転々とするのですが)。 この頃から、入浴に危険を感じるようになりました。滑りやすいタイル張りの浴室で、晋の大きな体を支えられるか、それだけの力が私に残っているか、不安になったのです。 ケアマネジャーさんに相談したところ、さっそく屈強なヘルパーさんを紹介してもらうことができ、見守りと介助を受けられるようになりました。 ■2015年(晋の要介護度は、最重度の「5」に引き上げられました。 そして、この年のある日、ついに晋が立ち上がれなくなります。 以前から足が上がりにくくなり、車にも乗れず、外出が減っていました。 ソファに座っても、自分の力だけでは立ち上がることができません。それでも、私が晋の前に立ち、両足で彼の足をしっかり踏んで固定し、手を握って全体重をかけて引っ張り上げれば、まだ立たせることができたのです。 しかし2015年のある冬の日、ついに手伝っても立てなくなりました。私が引っ張り上げるのに合わせて、晋も立とうとします。でも足に力が入らないのか、くにゃ、となってしまうのです。 それまでの「立てない」とは、明らかに様子が違いました。そこで私はまず、彼をなんとか座布団の上に座らせ、その座布団を引っ張って寝室へ移動し、ベッドの横に敷いた布団に彼を転がすように寝かせました。 私は力自慢ではありませんし、晋とはだいぶ体格差があるのですが、これが「火事場の……」というものでしょうか。 ともかく、翌朝ケアマネジャーさんに連絡をとると、さっそく訪問看護師が3人、我が家に飛んできて、晋を布団からベッドに移してくれました。 夏には誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)も経験し、1ヵ月半にわたって入院。 晋にとっては多難な年でした。 ■2016年(肺炎で再び入院。しかし前回の入院で、晋には病院での生活が負担になると痛感していたので、自宅での療養を選びました。抗生剤が効き前後10日ほどでデイサービスに通えるくらい回復したのは幸いでした。 こうして晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。 言葉を失い、寝たきりになった晋。 生きていて、幸せなのでしょうか。 尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。 南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。 そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています。その幸せそうな顔を見ていると、問うこと自体が無意味にも思えるのです。 ただ、この静けさに至るまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした』、「東大教授」から「寝たきり」になることを受け入れるには相当の時間が必要だった筈だ。
・『デイサービスになじめない  少し話が戻りますが、晋がデイに行き始めたのは、些細なことがきっかけでした。2012年に招かれた日本老年精神医学会の講演で、M先生という医師から、 「ぜひ、診断に使ったMRIの画像を見せてほしい」と申し出がありました。さっそく一式お送りすると、しばらくしてお便りが届きます。 その手紙のなかでM先生は、晋は「緩徐進行性非流暢性失語症(かんじょしんこうせいひりゅうちょうせいしつごしょう)」かもしれないと指摘したうえで、それでも、 「アルツハイマー病の可能性は否定できない。言葉を出してください」と書いてあったのです。そのことを説明しながら、私は彼にこうすすめたのでした。 「晋さん、言葉のリハビリだと思って、デイサービスへ行ってみたら」 「行くよ」 即答でした。リハビリという言葉が気に入ったのでしょうか。あとで子どもたちにこの一部始終を話すと、 「やっぱり、医者に言われると行くんだねえ」と納得顔。さっそくケアマネジャーさんに相談し、とりあえずデイに週1回、半日通うところから始めます。 これまで晋とふたりきりで、あまりにも密な生活を続けていた私は、晋が留守の間どう過ごそうか、あれこれ考えて夢を膨(ふく)らませていました。 晋も当初は、デイを楽しんでいました。 早くから支度をして外に出て、迎えの車を待つ、なんてこともしていたほどです。気持ちよく入浴させてもらい、笑顔で帰ってくる日が続いていました。 ところが、通い始めて3ヵ月ほど過ぎたころから、時折、暗く険しい顔つきが目立つようになりました。ついにある日、送りのデイ職員から、 「今日は職員の髪をひっぱりました」という報告が――。 「どうしたの? 何があったの?」尋ねても、晋はうつむいたままです。それでもしつこく問うと、たどたどしくはありましたが、彼の言葉からようやく事情がつかめました。 同じデイを利用するお年寄りから、「あの人は何もできない」と言われたそうなのです。 「それくらいのことで、落ち込んじゃだめだよ」 「落ち込んじゃいけないね」――そう言う晋は、しかし、うなだれたままです。 「もう、無理して行かなくていいよ。行きたくなかったら、やめていいんだよ」 私はたまらずこう声をかけました。 ケアマネジャー経由でデイに聞いても、「悪口」があった事実は確認できませんでしたが、こうして晋は、初めてのデイを去ることになったのです』、本人が嫌がる事情を聴き出せないというのも、ケアする奥さんにはストレスだろう。
・『心に刻まれる苦しさ  この時期の晋は、ふだんから「何もできない」ことを気にしていました。小さな悪口にみえるかもしれませんが、本人にとっては「無能」の烙印(らくいん)を押されたようなもので、何にもまして屈辱的だったのではないでしょうか。 実際、デイでの一件は、彼の中でずっと尾を引いていたのです。ある夜、布団に入った晋が言います。 「僕は何もできない」 「何もできないのが病人じゃない? でも晋さんは散歩にも行ける。電車にも乗れる。歌も歌えるじゃない」 「ありがとう」 ようやく眠りに入るのでした。 また、こんなこともありました。デイをやめた少しあと、私が発熱して一日家で寝ていたことがありました。晋がそばに来て、おろおろしながら尋ねます。 「誰かに何か、言われたんじゃないの」 「誰も何も言わないよ」私はあわてて打ち消しましたが、内心、驚きでいっぱいでした。 晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした。 認知症は物忘れの病気だといわれます。確かに、具体的なことは時間とともに忘れてしまうのでしょう。でも、苦しさは深く心に刻みこまれるのだと痛感した出来事でした』、「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。
・『「ちがうんだよ」と騒いでしまう理由  それでも、しばらくすると晋は、また別のデイに通うようになりました。家で退屈そうにしているのを見かねて、私がすすめたのです。もちろん、私自身にも、骨休めしたいという気持ちがありました。 2つめのデイ。ここでも晋は、当初ごきげんで通っていました。職員からは「先生」と呼ばれ、ほかの利用者と歌ったり踊ったり、楽しめていたようです。 「僕って面白いでしょ」 これが当時の、彼の口癖でした。しかし残念ですが、いい時間は長く続きません。) デイは毎回、行った日の詳しい出来事を「連絡ノート」で報告してくれます。そのノートからは、晋が次第に疲れをためていることが伝わりました。 「うるさい!」 そう大声を出すようにもなっていきました。 通い始めて5ヵ月ほど過ぎた、6月のある日。ついにこんな電話が入ります。 「先生が興奮しているので、来てくれませんか」 デイからでした。急いで迎えに行き、連れ帰りました。 何があったのか……「連絡ノート」を開くと、こんなくだりが目に飛び込んできます。 ■6月×日 9時15分(ホーム着です。室内を歩かれています。「うるさい!」を連発して言っています。 ずっと、「ちがうんだよ、ちがうんだから」 「何度も言ってるじゃないか。わかってください。場所がちがうんだ、やめてくれ」と大きな声で言われています。 「人がちがうんだから、ボクはボクで一人でやってるの、わかった?」 「わかったか! やめてよ!」とずっと興奮されています。まわりのことは見えてないようです。 ■11時40分(早めの昼食にしました(鶏の天ぷら、春菊のごま和え、リンゴ、トマト、レタス)。鶏の天ぷら、トマトは完食です。リンゴは2人分食べました。ごはん、みそ汁、春菊は残っています。 ■12時(歩きながら食べています。だいたい食べると 「うるさーい!」を連発して歩いています。 「ちがうんだからやめてよ本当に!!」 「だからいいよ、もう」 デイで「ちがう」としきりに口にしていることがわかります。 「晋さん、どうしたの、何かあったの?」 「僕はひとりなんだよ」 「いったい、何が『ちがう』の?」 「僕は今までの僕とはちがうんだから、わかってほしい。相手の言うことを一生懸命理解しようとすると、頭が疲れてきて、何が何だかわからなくなる。わかるように話してほしい」 「『場所がちがうんだ、やめてくれ』っていうのは、どういうこと?」 「場所が我が家とちがったり、知らない人に何か言われても、さっと理解できないし、言葉が出ない」 ゆっくりとではありましたが、晋が理路整然と説明することに、私は驚きを隠せませんでした。 このとき彼から聞き取ったことを私なりにまとめると、次のようになります。 「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした。 最高学府の教授でもあった夫・若井晋。その彼が若年性認知症になるとき、本人は、そして家族は、どうしたのか。病を受け入れてもなお歩き続けた夫婦の軌跡を、妻・若井克子が克明に描き出す新刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』は、全国の書店・ネット書店にて好評発売!』、「「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、「東大教授」であっても、「若年性アルツハイマー」になると、ここまで苦しむということに、改めて驚かされた。

次に、7月9日付け文春オンラインが掲載した精神科医の和田秀樹氏による「「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する、80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/55489
・『「人生100年時代」と言われているが、心身ともに自立して健康でいられる「健康寿命」の平均は、男性72歳、女性75歳となっている。これは、「80歳の壁」を超える前に寝たきりや要介護になってしまう人が多いことを示しているのだ。 ここでは、30年以上にわたり、高齢者医療の現場に携わる精神科医・和田秀樹氏の著書『80歳の壁』(幻冬舎新書)から一部を抜粋。老化を防ぎながら「80歳の壁」を超えるために、和田氏が提唱する“我慢しなくていい生活方法”を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)』、「80歳からの“我慢しない愉しみ方”」とは興味深そうだ。
・『食事は我慢しない。食べたいものは食べる  食べたいものを我慢している人は多いでしょう。食べる量を減らす、塩辛いものや甘いものを避ける、脂っこいものを控えるなどは、よくあるケースです。 世間の常識では、太っていると健康が損なわれ、「塩分、糖分、脂質」は3大害悪のように言われているからです。 でも、本当にそうなのでしょうか? 「食べたい」と思うのは体が求めている、とも考えられます。高齢者は臓器の働きが落ちるため、これが欲求を生んでいる可能性があるのです。 たとえば、塩分がそうです。人間は、ナトリウム(塩)がないと生きていけませんが、高齢者の腎臓は塩分を排出し、血中の塩分不足を起こすことがあるのです。 腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです。 食事の量もそうです。くどいですが「少し太っている人のほうが長生き」というデータは世界中にあります。つまり、太り気味であるほうが好調だと体のほうが知っていて、脳を通して「食べたい」という信号を伝えているとも考えられるわけです』、「腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです」、「老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまう」、とは初めて知った。
・『「食べたいものを我慢してダイエット」は寿命を縮める?  たしかに60代くらいまでは、塩分の摂り過ぎも太り過ぎも、健康を損なう原因になるかもしれません。しかし80歳も目前の幸齢者(編注:書籍内では、80歳を超えた高齢者を「幸齢者」と呼ぶ)になったのなら、その常識は一度忘れたほうがいいと思います。 「食べたいものを我慢してダイエット」など自ら寿命を縮める行為です。栄養不足は、確実に老化を進めるからです。 もちろん、無理に食べる必要はありませんが「食べたい」と思うなら、我慢せずに食べたらいいのです。 体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です。 人間の体は、じつによくできています。それを信じればいいのです。 ちなみに、前述の低ナトリウム血症は、意識障害や痙けいれん攣などを引き起こします。 ふだんは逆走や暴走をしない高齢ドライバーによる逆走事故や暴走事故などは、もしかすると低ナトリウム血症が原因で意識が飛んだのではないか。あるいは、血糖値や血圧を下げ過ぎて頭がぼーっとしたのかも……などと、複数の原因が考えられるのです』、「体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です」、まだその年齢に達してはいないが、そのうち、「体の声を素直に聞」いてもよくなるとは、待ち遠しい気もする。
・『興味あることは我慢しない。どんどんおやりなさい  本当はしたいのに「いい年をして」という言葉が頭に浮かび、我慢してしまうことはありませんか? でもやはり、したいことは我慢せず、やったらいいと思います。 たとえば、性的なこともその1つかもしれません。世間の常識では「年甲斐もなく」と非難されそうなことです。しかし健康面から言えば、積極的になっていいと思います。なぜなら、男性ホルモンが増えるからです。 数年前、歌舞伎町で違法なわいせつDVDを販売して、店員が逮捕される事件がありました。この事件で話題になったのが、常連客に高齢の男性が多かったこと。店には老眼鏡やルーペが常備されており、警察官が踏み込んだ際にも80歳を過ぎた男性客がいたと報道されています。この1月末にも同様の逮捕劇がありました。 「違法なDVD」は推奨できませんが、児童ポルノとは違い、欧米では合法のものです。それ以上にそれを見たいと思うのは健康の証です。また、このような性的映像は男性ホルモンの分泌を高めるので、「元気の源」になっている側面もあると思うのです。 もちろん「したいこと」は、エロティックなものだけではありませんし、男性に限った話でもありません。 「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです』、「「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです」、「ブレーキ」をかけるというつまらないことをする必要はない、というのは嬉しい限りだ。
・『男性ホルモンは元気の源。したいことをして脳も体も元気に  何かに興味を持つということは、脳が若い証拠です。実際、それを実行することで、脳は活性化し、体も元気になります。 それは男性ホルモンから見ても明らかです。年を取ると、体内の男性ホルモン量は自然に低下していきますが、多い人のほうが元気なことは、医学的にも証明されています。 男性ホルモンは、タンパク質の多い食事や運動習慣によっても、ある程度保つことができます。たとえば肉には、男性ホルモンの材料になるコレステロールが含まれており、肉をしっかり食べる人のほうが元気を維持できます。コレステロール値を下げる薬を飲み続けるとED(勃起障害)になりやすいのは、このためです。 80歳にしてエベレスト登山を成功させた三浦雄一郎さんは、まさに「元気」の代名詞のような方ですが、男性ホルモンの一種であるテストステロンを注入していることは有名な話です。 三浦さんは76歳のときにスキーで転倒し、大腿骨と骨盤を骨折する大ケガをします。入院で筋力も低下し、トレーニングの気力も削がれたそうですが、その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかったと語っておられます。シアリスやバイアグラのようなPDE5阻害剤は、動脈硬化を和らげる作用があることが知られています』、「三浦雄一郎さん」が、「大腿骨と骨盤を骨折する大ケガ・・・その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかった」、初めて知った。
・『衰えるに任せておけばどんどん衰退するが……  もちろん、トレーニング(運動)を継続していたことや、エベレスト登頂の目標を見失わなかったことも、三浦さんの元気の秘訣だったことは間違いありません。 年を取ると、筋力や臓器だけでなく、脳も老化します。認知症はそうした老化現象の1つです。なかでも一番多いのはアルツハイマー型で、「脳が縮む」と言われているタイプです。 実際に脳を解剖すると、海馬や前頭葉に萎縮が見られます。海馬は記憶を司つかさどる部分、前頭葉は思考や感情、行動や判断を司る部分です。人間が人間らしく生きるために、最も必要な部分が前頭葉なのです。 前頭葉の働きが衰えると、日常生活では次のような変化が生じてきます。 たとえば、考えることが面倒になる、感情をうまくコントロールできなくなる、 喜怒哀楽が激しくなる、意欲が衰える、集中できなくなる、などです。 人間の体はよくできており、使わない機能は退化していきますが(廃用性萎縮と言います)、使えば活性化していきます。とくに脳はその傾向が顕著です。 つまり、衰えるに任せておけばどんどん衰退しますが、奮起して使えば活性化させることができるわけです。 そして、最も効果があるのが「したいことをする」ということです。前頭葉にとって、それはとても刺激的なことで、脳が活性化するのです。 楽しいこと、面白そうだと思うことほど、脳にとっては刺激的です。反対に、つまらないことや、我慢を強いると、脳の働きは鈍ります。 我慢をして毎日をつまらなく生き、脳を萎しぼませていくか、したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていくか――。 したいことをすることは、脳の老化を防ぐためにも必要なのです』、言うまでもなく、「したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていく」方を選択したい。
・『エロティックは否定しない。いくつになっても刺激を求めていい  性欲についても再度話しておきましょう。日本人はタブー視しがちですが、本来、性欲は自然な欲求であり、とても大切なことです。 残念ながら、性欲は年齢と共に落ちていきます。とくに男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます。 性欲があることは、恥ずかしいことではありません。男性も女性も可能なら、積極的に性の営みをしたらいいと思っています。 少し前に新聞の「悩み相談」に、79歳の男性の投稿がありました。「毎日のように自慰をする自分は異常なのか?」という悩みでした』、「男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます」、こんなに男女差があるとは初めて知った。
・『自分の性欲を「不謹慎だ」と考える必要はない  回答者のコメントは忘れてしまいましたが、私が答えるならこうです。 「異常ではありません。素晴らしいことだと思います。男性ホルモンが十分分泌されている証拠です。恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながりますよ」 女性も同じです。「不謹慎だ」などと考える必要はありません。ある人も、まったくない人もいますが、それは個人差です。新たなパートナーを求めたり、年下を相手にしたりすることにも躊躇する必要はないと思います』、「恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながります」、誠に嬉しい限りだ。

第三に、9月22日付けPRESIDENT Onlineが掲載した一橋大学名誉教授の野中 郁次郎氏による「「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/60930
・『ビジネスパーソンに必要な能力とはいったいなにか。一橋大学の野中郁次郎名誉教授は「私は『知的バーバリアン(野蛮人)たれ』と繰り返してきた。学校秀才は予測不可能な変化や危機に対応できない。ビジネスの現場でこそ、人類が狩猟民族時代から発揮してきた『野性』の発揮が重要になる」という――。※本稿は、野中郁次郎『野性の経営 極限のリーダーシップが未来を変える』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです』、「野中」氏の見方とは興味深そうだ。
・『マニュアル頼りの“学校秀才”は突然の危機に弱い  昨今の世界情勢を念頭に置けば、予測不可能な変化や危機が次々と訪れる複雑性に満ちた世界を我々が生きていることは自明である。ロシアのウクライナ侵攻は、過去の常識や前例から見ればありえない、想定外の事象が起こりうる現実をわれわれに否応なく突きつけた。 突然の天災は、人間がコントロールすることはできない。しかしコロナ禍が示したように、極限状態において間違った対応の連鎖が続けば、それが人災になってしまうことがある。状況変化に応じた判断は、後戻りできない「一回性」という性質をもつ。ほんの一瞬の判断が、のちの大きな出来事の引き金につながり、将来の差異を生む。 足元の日本を見れば、世の中でもてはやされるのは手早く物事を解決してくれそうな「ハウツーもの」だ。極限の状況にあっても、流行の○○シンキングや○○思考、○○テクノロジーを駆使すれば、うまく対処できるのだろうか。 答えは否だ。むしろ、これらは人間が本来もっている直観や創造性を劣化させるかもしれない。 ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない。「ストリート・スマート」という言葉があるが、彼らは、その反対語である「ブック・スマート」や「アカデミック・スマート」で、日本語でいえば「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない』、「ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない」、「「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない」、その通りなのだろう。
・『分析・計画・統制の行き過ぎは野性を殺してしまう  混沌とした状況に対し、机上の空論や定石は役に立たない。一方の「ストリート・スマート」は、すべての現場・現実・現物にありのままに向き合う。一切の先入観を排除して、表象の背後にある意味を見抜き、臨機応変に対応する。思えば、人類は狩猟民族時代からそうやって生き抜いてきたのではないだろうか。 危機に絶対解はない。データ解析したところで、正解が得られるとは限らない。現場の文脈や質的な側面が削ぎ落とされた数値分析だけでは、暗黙的なものを含めた全体像を捉えられず、正しい判断はできない。刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう。合理や数値に還元できないものを封じ込めてはならない。 オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある。 「人的資本経営」がまた再注目されているが、人間を資本というモノとして扱っている限り、イノベーションは起きない。本来、人は未来に向かって意味をつくり出す動的存在だ。論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか』、「刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう」、「オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある」、「論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか」、その通りだ。
・『なぜアナログがいま再評価されているのか  いまやコンピュータ・テクノロジーは我々の生活を激変させ、インターネットは生活に深く入り込んでいる。今世紀に入るとバイオテクノロジーや人工知能(AI)などが日々発展し、メタバース、デジタルツインなど、仮想現実や疑似現実の世界も生まれ、空飛ぶクルマや宇宙旅行など、ひと昔前のSF小説に描かれた空想も現実となってきている。現代に生きる我々の生活が、科学やテクノロジーに依存していることは間違いない。 デジタルの波が押し寄せる一方で、一度は廃盤になったアナログな製品やサービスが復活し、若い人にも売れている。フィルムカメラは、現像に時間がかかり、どう映っているかわからないが、ワクワクする。レコードには、デジタル音源にはない味わいがある。フィジカルなモノと経験(コト)は、身体感覚を揺さぶるのだ。そこには、デジタルの世界では体験できない質感(クオリア)がある。アナログは、不便で不安定であり、不完全だ。アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか』、「アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか」、なるほど。
・『失敗や葛藤こそが人間の創造性を高める  人間は、生身の身体で五感を使って身体知を得ている。気配や空気感、という言葉があるが、それは数値化できない世界だ。日常生活のなか、全身で無意識に浴びているものすべてが暗黙知を豊かにし、感覚を磨いてくれる。「あうんの呼吸」も野性の最たるものだ。人間には自然に間合いを計る創造的な知が身についている。いわばクオリアを互いにやりとりしながら、「いま・ここ」の絶好のタイミングで呼吸を合わせる野性が人間には存在する。 人間は情報処理マシンではない。行間を読み、ニュアンスを感じられる人間とは異なり、AIは情報を機械的に処理することしかできない。人間は無限に広がる世界のなかで、環境と無意識のレベルも含めて相互作用し、共鳴しながら、全身で浴びた経験や感覚を主体的に意味づけられる。永遠の命が保証されない限りある人生のなかで、「過去・現在・未来」という流れを生き、創造性を発揮するのが人間だ。人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する』、「人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する」、その通りのようだ。
・『集合知化していくために必要なこと  アップル創業者スティーブ・ジョブズは、かの有名なスタンフォード大学卒業式でのスピーチで、「点と点をつなぐ」ことの大切さを説いた。人間は、まったく無関係の点であったはずの経験や知識をつなぎ合わせ、「いま・ここ」での文脈に応じて何かに転換する力をもっている。身体知など過去から蓄積してきた豊かな暗黙知が無意識に結びつくことによってブレークスルーが起きる「セレンディピティ」の力である。「フレーム問題」を持ち認識枠の限界があるAIとは大きく異なる点だ。AIには不可能な、共感と本質直観を同時にこなすことを、人間は「いま・ここ」で自然に行なっている。 人間は一人では生きていけない。一人ひとり(一人称)が感じたクオリアや直観を言語化・形式知化し、既存の科学もテクノロジーも含めてあらゆる知を総動員して集合知にしないと、社会や組織(三人称)で価値あるものとして共有できない。人間は、出会ったものとの関係性を一つひとつ育み、そのかかわりを通じて、一人ではなしえないことを共創し、達成してきた。一人称と三人称を媒介するのは、他者や環境の存在との相互作用における「共感」(二人称)だ。 しかし、真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである』、「真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである」、余り簡単なことではなさそうだ。
・『真の共感を生むことが組織の基盤になる  前例・慣例や手続きを優先したり、セクショナリズムで権限や既得権益にこだわったりすると、健全な議論は起こらず、機動的な対応は阻害される。同調圧力を退け、役職や立場や出自を超え、みなが知恵を持ち寄って徹底的に対話しなければならない。同じものが重なり合っても何も生まれないのは当然だ。異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう』、「異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう」、「野中先生」の理想とする姿だ。
・『正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた  筆者は、長らく「知的バーバリアン(野蛮人)たれ」と訴えてきた。「知的バーバリアン」は「知性」と「野蛮」を総合する「野性」を有する。正解もなく、定石が通じないこの世の中で、「知的バーバリアン」として必要なのは、二項動態(dynamic duality)思考と実践であろう。アナログとデジタル、暗黙知と形式知、安定と変化、アートとサイエンス、理想と現実など一見相反する事象の狭間で思い悩むことがあるかもしれない。対立項を対立項のまま扱って、どちらを棄却したり、予定調和で中途半端に妥協するべきでもない。もっと言えば、対立軸は意図的に作り出していることがあることも見抜かなければならない。本当は、これらは両極のあいだで、グラデーションで緩やかにつながっている。 まずは、ありのままに現実の只中で、先入観なく「感じる」ことだ。考えるのではなく、全身全霊で感じるのだ。そこで生まれる共感を媒介に、忖度なしに徹底的に対話する。共感を基盤とした知的コンバットという二項動態の方法論は、弁証法を超えるものではないだろうか。 矛盾や葛藤、不均衡は、新たな知へと変革(transformation)する契機になる。「あれかこれか」の二元論(dichotomy)ではなく、「あれもこれも」と突き詰めるなかで、ちょうどよいバランスが取れる、突破口となる跳ぶ発想が降りてくる。一度決めたら機動的に実践し、やり抜いてみる。その試行錯誤のなかで変化を察知し、「いま・ここ」で直観し、決定的瞬間を逃さずに柔軟に対応する。 こうして瞬時に局面が変化しても臨機応変な打開策を繰り出し、現実的に試行錯誤しながらも、理想高くより善い方向へ向かおうとする組織や人間が生き残ってきた。「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ』、「正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた」、「「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ」、実践するのは難しそうだが、その通りなのだろう。
タグ:人生論 (その12)(若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは、「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する 80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2、「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ) 現代ビジネス 若井 克子氏による「若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと 失語の当事者が語った胸の内とは」 「東大教授」から「寝たきり」になることを受け入れるには相当の時間が必要だった筈だ。 本人が嫌がる事情を聴き出せないというのも、ケアする奥さんにはストレスだろう。 「晋は、かつての自分と今の私を重ねていたのです。私が寝込んでいるのは、誰かに酷いことを言われて傷ついたからではないか――そう推測していたのです。 その時の彼にできる、最大限のお見舞いだったに違いありません。人を思いやる心は、損なわれていませんでした」、なるほど。 「「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」 問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした」、 「東大教授」であっても、「若年性アルツハイマー」になると、ここまで苦しむということに、改めて驚かされた。 文春オンライン 和田秀樹氏による「「性の営みはホルモンを分泌する」「自慰も素晴らしいこと」現役精神科医・和田秀樹氏が提唱する、80歳からの“我慢しない愉しみ方” 『80歳の壁』より #2」 和田秀樹氏の著書『80歳の壁』(幻冬舎新書) 「80歳からの“我慢しない愉しみ方”」とは興味深そうだ。 「腎臓にはナトリウムを貯留する働きがあり、足りなければキープしようとします。ところが老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまうというわけです。 すると、低ナトリウム血症(血液のナトリウム濃度が不足した状態)が起こりやすくなります。これを防ぐため、体が塩分を欲しがることがあるわけです」、 「老化するとキープする能力が落ち、吐き出してしまう。この現象によって、塩分不足になってしまう」、とは初めて知った。 「体の声を素直に聞く――。80歳を過ぎた幸齢者には、これが一番の健康法です」、まだその年齢に達してはいないが、そのうち、「体の声を素直に聞」いてもよくなるとは、待ち遠しい気もする。 「「楽しいな」とか「面白そうだな」と思うなら、自分にブレーキをかけず、どんどんやってみたらいいのです」、「ブレーキ」をかけるというつまらないことをする必要はない、というのは嬉しい限りだ。 「三浦雄一郎さん」が、「大腿骨と骨盤を骨折する大ケガ・・・その状態から回復できたのは、男性ホルモンの注入やED治療薬「シアリス」を服用したことも大きかった」、初めて知った。 言うまでもなく、「したいことをして毎日を元気ハツラツと生き、脳を活性化させていく」方を選択したい。 「男性は、男性ホルモンが減るため如実に低下します。女性は、年を取ると男性ホルモンが増えるため、性欲が多少上がる人もいます」、こんなに男女差があるとは初めて知った。 「恥ずかしがるより、楽しみましょう。いつまで続けられるかはわかりません。でも、いつ終わるかわからないことを楽しむのも、この年代ならではの楽しみ方ではないでしょうか。楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います。しかも男性ホルモンが多いことは、判断力や筋力も高めるので若さを保つことにつながります」、誠に嬉しい限りだ。 PRESIDENT ONLINE 野中 郁次郎氏による「「学校秀才」が二流の人材で終わるのは当たり前…野中郁次郎が「知的な野蛮人をめざせ」と訴える理由 「○○シンキング」や「○○思考」は人間を劣化させるだけ」 野中郁次郎『野性の経営 極限のリーダーシップが未来を変える』(KADOKAWA) 「野中」氏の見方とは興味深そうだ。 「ハウツーやマニュアル頼みの人は、現場のリアルな危機に直面したとき、その知識を応用できず役に立てられない」、「「学校秀才」だ。彼らは、現実の只中で「いま・ここ」で起きている状況を、全身全霊で五感を使って感じるということをしない」、その通りなのだろう。 「刻々と動いていく状況のなかで、目の前の現実に向き合い、「何をなすべきか」という本質を見抜く。その起点となるのは、現場の直接経験のなかで「いま・ここ・私だけ」が感じる質感(クオリア)だ。これは、人間が誰もが持ち合わせている感覚である。合理性への過信は、局面の大きな変化を察知する嗅覚を劣化させ、現象の背後にある意味を見抜く機会を失わせてしまう」、 「オーバーアナリシス(過剰分析)、オーバープラニング(過剰計画)、オーバーコンプライアンス(過剰統制)は、人間や組織のもっている野性味、創造性、あるいは機動力などを棄損する。日本の「失われた30年」におけるイノベーション力の劣化の原因は、ここにある」、 「論理のみにフォーカスする流行りの経営モデルからは、イノベーション創造の主体として人間観が見えてこない。だからこそ、異なる主観を持つ人間同士の共感を出発点にし、生き方(a way of life)の意味を追求する、もっと人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)が必要ではないか」、その通りだ。 「アナログが再評価されるのは、デジタルやテクノロジーの進化で失われつつある、自分の肌感覚や感性など、人間が生まれつき備え持つ生きる力である「野性」を取り戻そうとしているからではないか」、なるほど。 「人間の生き方は、因果関係でプログラミングされた決定的なものでない。失敗や葛藤、愚直な試行錯誤は、人間の創造性を豊かにする。偶然性や予測不可能性に「わくわく」したり「どきどき」したりするのが人間らしさであり、そのクオリアが人間の創造力を刺激する」、その通りのようだ。 「真の共感は、たんに相手に同情したり、遠慮して忖度そんたくすることでも、妥協することでもない。もっと厳しいものだ。新たな境地にともに達するためには、相手になりきって一緒になって悩み苦しんだうえで、お互い殻を破ってとことん言葉を尽くして対話をし、どうすればよいかを考えるのである」、余り簡単なことではなさそうだ。 「異なる思いや意見を歓迎し、エゴを超えた無我の境地で、命懸けの熟議をすれば、自ずと集団として生き残るための善後策は自ずと見えてくる。 組織であれば、そのような場を意図的につくれるか、あるいは自然発生的に生まれるような仕掛けをすることがリーダーの役割になる。このような場は、一人ひとりの潜在能力である野性を解放し、自律分散的にリーダーシップが発揮される全員経営を下支えするだろう」、「野中先生」の理想とする姿だ。 「正解のない世界で「知的野蛮人」が生き残ってきた」、「「生き抜くための知恵」である「野性」は人間の直観や潜在能力から生まれ、そして生き抜くことにより、人間の「野性」は磨かれるのだ」、実践するのは難しそうだが、その通りなのだろう。
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終末期(その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい) [人生]

終末期については、5月1日に取上げた。今日は、(その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい)である。

先ずは、7月27日付けPRESIDENT Onlineが掲載した看護師の前田 和哉氏による「バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには、変わり果てた姿になっている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/59928
・『救命救急の現場では、どのような治療が行われているのか。『自分らしい最期を生きた人の9つの物語』(KADOKAWA)を上梓した看護師の前田和哉さんは「ICUに運び込まれてくれば、延命治療が最優先になる。このため胸の骨をバキバキと折りながら、心臓マッサージを続けることもあった。私はそんな現場に疑問を持って、救急科を離れることになった」という――』、看護師にとっては「救急科」にも予想外の落とし穴があるようだ。
・『新人ナース時代に感じた“違和感”  私が看護師としてのキャリアをスタートしたのは、2009年のこと。静岡県内の総合病院に就職し、救急科の集中治療室(ICU)に配属されました。 救急科には昼夜問わず、ひっきりなしに重篤な患者さんが運ばれてきます。中には治療によって回復する人もいましたが、運ばれてきた時点ですでに心肺停止に近い状態で、手の施しようのない方もたくさんいました。 1分1秒を争うような厳しい現場で患者さんの治療やケアに奔走していた私は、看護師として日々やりがいを感じながらも、ある違和感をおぼえるようになりました。 それは、今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくことでした』、「今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくこと」、確かに現在の医療の矛盾点だ。
・『骨が“バキバキ”と折れても心臓マッサージは行われる  実際に救急の現場でどのような救命措置や延命治療が行われていたのか。 まず、患者さんが心肺停止に陥った場合、即座に心臓マッサージが行われます。ただ、強い力で胸骨を圧迫するため、骨がバキバキと音を立てて折れてしまいます。特に高齢の方の場合は骨ももろくなっており、若い人以上にダメージが大きいのは間違いありません。 衝撃だったのは、その折れた骨が肺に刺さって、たびたび出血するということ。患者さんはこの時点で自発呼吸が弱まっているため、人工呼吸器の管を付けることになりますが、その際に吐血のように血が噴き出してくるのです。 さらに患者さんはショック状態に陥っていて、血も止まりにくくなっている。とめどなく流れる血液を吸引したり、拭き取ったりする処置をし続けなければなりませんでした。 血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置もナースの仕事の一つでした。 あまりに痛々しくて、目を覆いたくなるような場面もありましたが、実際に医療現場でどのようなことが起こっているのか、知っていただきたいと思い、ありのまま書かせてもらいました。 医療系ドラマの救命のシーンのように、「命が助かってよかった」と軽々しく言えないほど、壮絶な現場であったことは確かです』、「血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置もナースの仕事の一つでした」、確かに救急医療行為の副作用は想像以上に酷いようだ。
・『延命治療をしてよかったのかと悔やむ家族  そのことを最も痛切に感じたのは、間近で見ているご家族ではないかと思います。もちろん、医師や看護師が処置をしている最中はご家族に見せることはありません。 ですが、救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている。その姿を見て、本当にこうした措置を行ってよかったのかと、後悔の念にさいなまれるご家族がいたことも事実です』、「救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている」、「家族」にも覚悟が必要なようだ。
・『なぜ、救命救急の現場でこのような措置が取られるのか?  まず、心肺蘇生や延命治療を行うかどうかについては、ご本人の意識がないため、ご家族に確認します。ところが、ご家族もご本人の意思を把握していないことが多いので、なかなかすぐに決断ができません。その上、救急搬送されたショックもあり、思わず「命を助けてほしい」と、同意してしまうケースが多いのです。 ご家族と連絡がつかない場合も、医師の判断で救命措置がとられることになります。病院はまず「命を救う」ことが第一優先だからです。 ただ、「命を救う」という認識が、病院側とご家族の間で必ずしも一致していないのも事実。ご家族は「どうにか本人の命を助けてほしい」と救命や延命措置に同意しますが、病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません』、「病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません」、その通りだろう。
・『一命を取りとめたとしても、重篤な後遺症をもたらす可能性がある  蘇生行為によって一命を取りとめたとしても、意識不明のままであったり、重篤な後遺症をもたらしたりすることもあります。 それに加え、延命治療を途中でストップすることは困難です。現行の法律に「尊厳死」はなく、もし延命治療を中止した場合、医師の刑事責任が問われる恐れがあります。 そのため、人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません。 その間、家族が通院して介護することになり、精神面、肉体面のみならず、経済的にも多大な負担を強いられます』、「蘇生行為によって一命を取りとめたとしても、意識不明のままであったり、重篤な後遺症をもたらしたりすることもあります。 それに加え、延命治療を途中でストップすることは困難です」、「人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません」、「人工呼吸器」の装着は事前に家族の了解を取るのだろう。
・『何度も話し合いを重ねることで「本人の意思」をくみ取れる  人生の最終段階において、自分がどういう最期を迎えたいのか? 家族や医療・ケアチームと前もって話し合う、「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」、通称「人生会議」の重要性が叫ばれています。 「ACP(人生会議)」は、厚生労働省を中心に普及活動が行われていますが、中でも強調されているのが、本人と家族、医療・ケアチームの間で「繰り返し話し合う」という点です。 なぜ、話し合いを重ねたほうがいいのかというと、心身の状態によって本人の意思が変わる可能性があったり、家族の側が本人に対して望むこともあったりするからです。 例えば、本人は「家族に迷惑をかけたくないから、延命治療はしたくない」という想いを持っていても、家族は「できるだけの治療を受けて長く生きてほしい」と願っている場合もあります。お互いに想いをすり合わせることが、本人だけではなく残される家族にとっても、悔いのない最期につながりやすくなるのです。 近年の終活ブームにより、エンディングノートを書く人が増えましたが、書いておくだけでは残念ながら不十分です。 せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成すものだと考えます』、「せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成す」、大いに気をつけたい。
・『術後のリスクや後遺症を事前に理解しておくべき  また、人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです。というのも、延命治療にはどういうものがあり、その治療によって実際にどういうリスクがあるのか、医療者の立場でないと詳しくわからない部分があるからです。 これは私自身の家族のケースになりますが、以前こんな出来事がありました。 祖母が脳腫瘍を患い、手術をするかどうか家族内で話し合った時のことです。 祖母は、「どうしても手術がしたい。失敗しても自分が死ぬだけだから、責任は自分で取る」と言っていたため、家族もその想いに同意したのですが、現役の看護師でもある私は「待った」をかけました。そこでこう告げたのです。 「厳しいようだけど、もし手術が失敗した場合、重い障害が残り、寝たきりになるリスクもある。そのままずっと介護が続く恐れもあるよ」と。すると、家族は「そこまで想像していなかった」と言い、改めて手術をするべきかどうか考え直したのです。 結果的に手術を受けることになりましたが、術後のリスクや起こり得る後遺症を理解し、覚悟を持った上で治療に挑むのと、何も知らずに挑むのとでは、その後の事態の受け止め方が変わってきます。 私の場合はたまたま医療従事者の立場から意見が言えましたが、そうした医療の面からの視点も加えることで、より納得のいく決断がしやすくなるでしょう』、「人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです」、理想論ではあるが、現実には「医療従事者を交える」ことは難しいそうだ。
・『本人の意思を伝えられる代理人の存在が重要  終末期における延命治療については、さまざまな方法があります。いわゆる三大延命治療と言われているのが、「人工呼吸」「人工栄養」「人工透析」です。 中でも、口から栄養が取れなくなった場合に行われる「人工栄養」は種類も幅広く、点滴で注入する「末梢まっしょう静脈栄養法」、心臓に近い太い静脈に注入する「中心静脈栄養法」、鼻からチューブで胃に送る「経鼻経管栄養法」、胃に直接チューブで送る「胃瘻いろう」などがあります。 これらの治療は具体的にどのように行われるのか? 治療を行うことによってどのようなリスクがあるのかなど、それぞれのメリット・デメリットについて、医師から十分な説明を聞くと同時に、不安な点を確認しておくといいでしょう。 患者さん本人が自分の意思を明確に伝えられる場合はよいのですが、終末期の時にはすでに話せる状態にないことも多いかもしれません。 その場合には、本人に成り代わって、意思や希望を伝えられる代理人(代理意思決定者)となる人がいるとスムーズです。 例えば、「父(母)は、昔から食べることが好きで、『口から食べられなくなったら寿命だ』と言っていた。だから、胃瘻いろうの造設はしないでほしい」といったことや、「本人は延命治療を望んでいないが、痛かったり苦しかったりするのはとても嫌だと言っていた。最期、苦痛だけでも取り除いてもらえないか」など、本人の望みをまるで“影武者”のように医師に伝えられるとベストです。 そのためにも、「自分がどういう最期を迎えたいのか」を日頃から家族や身近な人に伝えておくと同時に、家族自身も本人の意向や考え方を知る努力が必要だと言えます。 幸せな最期とは、自分の望んだ形で人生のゴールテープを切れること――。多くの終末期の患者さんやご家族を見てきて、そう実感しています』、私の母の場合には、「人工栄養」は断ったので、最後の時はそれだけ早く来たが、それでよかったと思っている。

次に、8月24日付けPRESIDENT Onlineが掲載した東京大学名誉教授の矢作 直樹氏による「マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた」を紹介しよう。
・『孤独死は避けるべきものなのか。東京大学名誉教授の矢作直樹さんは「一人でいることは決してネガティブなことではなく、家で孤独死することは本来褒められることだ。人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」という――。※本稿は、矢作直樹『閉塞感がニャくなる魔法の言葉88』(ワニブックス)の一部を再編集したものです』、「人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」、面白い考え方だ。
・『孤独死は特別なことでも寂しいことでもない  猫は気高く誰にも見られずに死ぬ、と言われています。これは、身体が弱ってきたときには誰の目にもつかないところに逃げ込むという防衛本能によるものだとも言われています。 今、世間では孤独死を、よくないこととして、問題として扱っている風潮があります。私はそうは思いません。 一人で家で死ぬということは、つまり、それまで一人で家で生活していたということです。 これは褒められこそすれ、非難されるようなことではありません。 家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません。 寂しくもありません。先に逝った、あなたにとって懐かしい人が迎えに来るからです。両親かもしれませんし、配偶者や友人かもしれません。もしかしたら、飼っていたペットも一緒に迎えに来てくれるかもしれません。死は終わりではなく、こちらからあちらへ処替ところがえするだけです。楽しみに待っていていいのです。 独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません。脱いだ服が少々傷いたんでしまうだけです』、「家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません」、「独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません」、発想法一つで世間の常識が頼りにならないことを示している。
・『一人でいても自由に好きなことができる  仲間がいないのを嘆くことはありません。一人でも楽しいことはたくさんあります。一人でできることに楽しみを見つけることができればいいのです。一人は気ままで自由です。 そういうと、そうした人生に意味があるのか、などとにらまれそうです。でも、人生に意味などいるのでしょうか。一匹で歩いている猫を見て不幸と感じるでしょうか。一人の気ままな自由を実感したら、きっと、人生に意味を見出す必要などないと思うでしょう。 私は学生のときから、一人でいるのが好きでした。山登りや自転車やランニングが好きなのは一人でできるからです。自分のペースで、誰に気兼ねする必要もありません。 山へはだいたい一人で行きます。長い時は3週間近く、人に会わないこともあります。冬は寒いです。風呂にも入れません。食事も質素なものになります。「何が楽しいの?」と友人に真顔で聞かれますが、荷物を詰め、山の準備をしているときは、まるで遠足前の子どもです。 また、私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています。ランやグズマニアをいただいて鉢分けしたり、近所の花屋で買ったハイビスカスやブーゲンビリアなども育てていて、冬なのに花を咲かせていたりすると本当にけなげだと思います。話しかけると、まるで答えてくれるようなのです。 音楽を聴いたり、地図を見たり、本を読んだり、私の好きなことはすべて一人でできるものです。人嫌いなわけではありません。小さい頃から、一人でいる時間が多いのです。そこに、童心に戻れるような瞬間が少しでもあれば、それが幸せというものです』、「私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています」、もともと独身のようだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BD%9C%E7%9B%B4%E6%A8%B9
・『私がテレビのニュースを見ない理由  猫はたぶん、テレビを見ません。ですから、擬人化された漫画や小説の中の猫でもない限り、ニュースを見て世の中を嘆いたりはしません。 私は一方的にたれ流されるテレビのニュースは見ないようにしています。必要な情報はネットや文献から取捨選択します。 私たちができるのは、自分の心持ちをしっかりさせることだけです。それができないのなら、なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです。同様に、つきあう友だちも自分で選べます。できる限り、自分が心地良いものを取り入れるようにしましょう』、「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです」、私は「ニュース」は「ネガティブな」ものであっても「インプットする」ようにしている。「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう」、とすると、自分の判断基準がおかしくなってしまう懸念があるためだ。
・『マスコミは心配をあおることばかりする  たとえば、子どもへの虐待が後を絶たない、というニュースをよく目や耳にしますが、本当にそうでしょうか。ネットに公表されている警察庁の公式データを見ると、2009年から子供の虐待死の数は減少しています。 その一方、虐待事件の件数は増えています。これには理由があります。児童虐待防止法が制定されて虐待の範囲が大幅に拡大されたからです。この法律に基づいて警察が虐待の捜査や検挙に積極的に取り組むようになったために見た目の数字が増えました。ニュースは、データに基づいて正確に読み取る必要があります。マスコミは心配をあおることばかりするものです。 世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます』、「世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます」、私は「世の中を変えること」の難しさは理解した上で、それでも「変える」努力をすることに意義を見出している。
・『「万が一の事態」に向けて心がけることは…  「備え」をして、「恐れ」を手放してください。猫のようにいつも泰然自若としていましょう。 でも、「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です。3日間の内に、自治体の対策が整ってきます。そのための備えが必要、というわけです。具体的な準備については、消防庁のホームページなどに一般的な案内が載っています。 いろいろなものが入った「非常袋」を今はかんたんに買うこともできます。他に、赤ちゃんのオムツとか、ペットを飼っているならペットフードの備えとか、自分なりにアレンジする必要もあるでしょう。 私はいつも登山用のヘッドライトをカバンの中に入れています。電源が落ちても、明かりがあればとりあえず安全な場所へ動くことはできます。準備は想像力を働かせて行いましょう。 「○○になったら、○○する」というシミュレーションも必要です。これも想像力が必要です。自家用車を持っているなら、水没しそうになったら窓を割る、ということでカナヅチなどを運転席に備えておくこともいいでしょう。 準備が終わったら心配するのはやめましょう。もし、日本国民のすべてが「地震が来たら怖い」と思っていると、その集合意識が現実に地震を創ってしまうかもしれません。かといって、何も起こらないと思うのは謙虚さが足りません。地球に対して失礼です。「もし動くならば、穏やかな変化でお願いします」と祈ればよろしいと思います』、「「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です」、これは同感である。

第三に、9月1日付けPRESIDENT Onlineが掲載した精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授の和田 秀樹氏による「和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人、満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら、もっと遊んだほうがいい」を紹介しよう。
・『老年医学の専門家として、長年にわたり現場で高齢者たちをみてきた精神科医の和田秀樹さんは「お年寄りはもっと遊ぼう。それが心身の健康度を上げ、健康寿命を延ばすことにつながります」という。新著『70歳から一気に老化する人しない人』を上梓した和田さんがすすめる「70歳からの新しい生き方」とは──。(第1回/全2回) ※本稿は、和田秀樹『70歳から一気に老化する人しない人』(プレジデント社)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『男性は73歳、女性は75歳が「老化の分かれ道」  日本人の平均寿命は、2020年(令和2年)の調査によると、男性が81.64歳、女性が87.74歳です。これは、「何歳まで生きるか」という平均年齢を示すものです。と同時に、ズバリ言うと「何歳で死ぬか」という平均値でもあります。 では、「男性は9年間」「女性は12年間」──この年数がいったい何を示すかわかりますか。実はこれ、病気や認知症などで寝たきりになったり、誰かに介助されたりしながら生きる平均年数を表したものです。 「健康寿命」という言葉を聞いたことのある人も多いと思います。心身ともに自立していられる年齢のことを意味します。 その年齢は、男性が72.68歳、女性が75.38歳です(令和元年調べ)。つまり、平均して男性は73歳、女性は75歳で、誰かの介助が必要になるのです。病気や認知症で寝たきりになるレベルでなくても、身の回りのことを一人でできなくなり始める平均年齢です。 先に記した男性9年間、女性12年間とは、平均寿命から健康寿命を引いた数字。身の回りのことを一人でできずに過ごす年数がこれだけ長いことに驚く人もいるかもしれません。もちろんこれは統計上の数字にすぎませんが。
・『健やかな老後を過ごしたい…  「人生100年」といわれる時代になりました。日本にはいま100歳オーバーの人が8万6000人もいるそうです。皆さんの周りにも、とても元気な100歳前後の人がいるでしょう  しかし当然ですが、「100年時代」といっても全員が90歳、100歳を迎えられるわけではありません。 また、90歳、100歳を迎えたとしても、全員が健康で幸せであるという保証もありません。介助を受けてベッドで過ごしている、ボケてしまって自分が誰かわからない、ということも考えられます。 先に平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう』、「平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう」、同感だ。
・『誰もが人生の最後に通る「道」  当然のことながら、人はそれぞれ年齢も体型も違います。性格や考え方も違います。生活の環境や仕事も家族構成も違う。一人ひとりは、まったく違う人生を歩むまったくの別人です。 しかし、すべての人に共通することがあります。それは、全員が「やがて死んでいく」ということです。これだけは避けようがありません。 死に至るまでには、2つの道があります。 1つは、幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道です。もう1つは、不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道です。 どちらの道を選びたいか? それは聞くまでもありませんね』、「不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道」、は送りたくない。やはり「幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道」、を送りたいものだ。
・『「ない」ものを数える人、「ある」ものを大切にする人  最期に満足しながら死ぬために大切なこととは何でしょうか。 突き詰めるとそれは、たった1つに集約できます。老いを受け入れ、できることを大事にする、という考え方です。これが「幸せな晩年」と「不満足な晩年」の境目になると思っています。 「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです。 たとえば、自分の老いを嘆き、「あれができなくなった」「これだけしか残されていない」と「ない」「ない」を数えながら生きる人がいます。かたや、自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます。 どちらの人が幸せなのでしょうか? 私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます』、「「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです」、「自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます・・・私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます」、なるほど。
・『70歳からは「“幸”齢者」を目指そう  いま日本では、65歳以上を「高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と呼んでいます。でもなんだか機械的な響きで、ちょっと切なくありませんか。 ここまで頑張って生きてきたのですから、もっと明るくて希望の持てる呼び方にすべきだと、私は常々思っています。そこで提案したいのです。 70歳を超え、楽しく充実した暮らしを送っている人は、高齢者ではなく「“幸”齢者」──。 この呼び方なら、温かみや年をとることへの希望も感じられるでしょう。幸せな晩年を過ごして、人生をまっとうしたい。私たちが目指すべきは「幸齢者」なのではないでしょうか』、「幸齢者」とは確かに上手いネーミングだ。
・『70代からは「個人差」を受け入れる  70代になると、世代全体の10%が認知症になります。しかし残りの9割は依然として頭がはっきりしていて、健康な人とそうでない人の差が、それまでになくはっきりと分かれてきます。 70代では、外見の面でも社会的地位についても、それぞれ取り巻く状況が大きく異なってきます。そのため、なにかと他人と比べて引け目を感じやすくなり、人によってはそれが重荷になってくるケースもありえます。 同世代の人よりもちょっとだけ早く老いを受け入れざるをえなくなった70代の人にとっては、「老いを受け入れる」ことは「個人差を受け入れる」とほぼイコールの行為でもあると私は思います。 自分を他人と比べている限りは抱えている苦しさから抜け出せません。他人にはできて、自分にはできないことについて思いを巡らせて悶々もんもんとするよりは、「いまの自分に何ができるのか」ということを前向きに考えたほうが、ずっと健康的に生きられます。 また、「働いているほうが偉い」「社会的地位が高いほうが偉い」「見た目が若々しいほうが偉い」といった50代、60代までの価値観にいつまでも縛られているのもよくありません。 人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと、私としては信じています』、私も現在では、「人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと」考えるようになった。
・『年をとったら、もっと遊ぼう  もう1つ指摘したいことがあります。それは、高齢になると、「健康のために遊ぶ」「健康のためにお金を使う」ことも大きな意味を持ってくる、ということです。 日本では、高齢者は地味に暮らすのが当然だと思われていますから、「年金でカラオケに行くのはいかがなものか」「年金生活者がパチンコに行くとはけしからん」などといった非難を浴びがちです。 しかし家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう。 感情の老化を予防するには、年をとるほど強い刺激が必要です。脳の老化によって弱い刺激には反応しにくくなることに加えて、積み重ねた人生経験から多少のことでは心に響かなくなるからです』、「家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう」、同感である。
・『お金を使ってよい刺激を受ける  仕事などで経験を積んだおかげで先が読めるから、ものごとをそつなくこなしてしまいます。失敗することがなくなるのはいいのですが、面白さは薄れてしまいます。 「先が読めてしまう」と、刺激が失せるだけでなく、興味や関心までも色いろ褪あせるわけです。それだけに、いままで以上に、意識して強い刺激を与えてくれる遊びをしたほうがいいのです。 資本主義社会とは、「お客様は神様です」の社会です。お金を使うことによって、よりよいサービスが受けられます。それに、社会の第一線から退いたと感じている高齢者は、お金を使うことで自己愛が満たされることでしょう。 お年寄りの多くがお金を使って遊ぶと、これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになるでしょう。高齢者がしっかり遊んでくれたほうが、消費が拡大し、経済が回ります。国内の景気のためにもいいのです。 「生涯現役」とは、高齢になっても働き続けるという意味だけでなく、「生涯現役の消費者である」という意味も含まれているのです』、私の場合、消費のうち、選択的消費の主なものとしては、旅行、音楽、付き合いでの飲み会、程度で、とても「これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになる」にはほど遠い。しかし、「生涯現役の消費者である」と考えて消費するのは気分が良さそうだ。その効用はきっと大きいだろう。
タグ:「幸齢者」とは確かに上手いネーミングだ。 「「幸せ」とは、本人の主観によるものです。つまり、自分がどう考えるかによって決まるものです」、「自分の老いを受け入れつつ、まだこれはできる、あれも残っていると「ある」「ある」を大切にしながら生きる人がいます・・・私のこれまでの臨床経験では、「ある」「ある」で生きる人のほうが幸せそうに見えました。家族や周囲の人とも、楽しそうにしている人が多いと感じます」、なるほど。 「不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道」、は送りたくない。やはり「幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道」、を送りたいものだ。 「平均寿命と健康寿命について説明しましたが、できればその差──身の回りのことを一人でできずに過ごす年数──を短くし、健やかな老後を過ごしたいと考えるのが、人情というものでしょう」、同感だ。 「せっかく書き記しても机の引き出しにしまったままでは、いざというときに見つけてもらえず、自分の意に沿わない最期を迎えるリスクもあります。自分の意思は家族や身近な人と共有してこそ、初めて意味を成す」、大いに気をつけたい。 「人工呼吸器を一度装着したら、自発呼吸が見られるなど回復の兆候が見えない限り、外すことはできず、意識がないまま何年、何十年と延命され続けるケースも少なくありません」、「人工呼吸器」の装着は事前に家族の了解を取るのだろう。 PRESIDENT ONLINE 私の場合、消費のうち、選択的消費の主なものとしては、旅行、音楽、付き合いでの飲み会、程度で、とても「これまで少なかった高齢者向けのビジネスも盛んになる」にはほど遠い。しかし、「生涯現役の消費者である」と考えて消費するのは気分が良さそうだ。その効用はきっと大きいだろう。 「家の外に出て遊ぶことで、前頭葉が刺激されます。また、楽しむことで免疫機能にもよい影響を与えることができます。ですから、むしろ「お年寄りはもっと遊べ」と言うべきでしょう」、同感である。 私も現在では、「人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと」考えるようになった。 和田秀樹『70歳から一気に老化する人しない人』(プレジデント社) 和田 秀樹氏による「和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人、満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら、もっと遊んだほうがいい」 「「恐れ」だけで、「備え」がおろそかになってはいませんか。自分なりに備えれば、「あとはなんとかなる」と覚悟が定まるものです。 たとえば地震や台風など災害についていえば、家族が3日間過ごせるように備えることが目安です」、これは同感である。 「世の中の不条理を悲しんだり、怒ったりすることは不要。世の中を変えることなんてできないと割り切って楽しそうに幸せそうに生きていれば、それが世の中に影響を与えます」、私は「世の中を変えること」の難しさは理解した上で、それでも「変える」努力をすることに意義を見出している。 「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう。これは、逃げではありません。自分にインプットする情報は自分で選べるのです」、私は「ニュース」は「ネガティブな」ものであっても「インプットする」ようにしている。「なるべくネガティブなニュースを見聞きしないようにしましょう」、とすると、自分の判断基準がおかしくなってしまう懸念があるためだ。 「私は一人暮らしのうえに留守がちなので、動物は飼えず、その代わりに植物を育てています」、もともと独身のようだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BD%9C%E7%9B%B4%E6%A8%B9 「家族と同居していたとしても、亡くなるときは一人です。たとえ、家族に見守られ、手を取られていたとしても、肉体を脱いで、あの世へ帰るときは誰もが一人です。 孤独死という言葉が独り歩きをして独居の人の不安をあおっていますが、なんの心配もありません。逆を言えば、誰もが孤独に死ぬのですから、孤独死は別に特別なことではありません」、「独居の方は、家族や友人と毎日連絡を取り合うなどしていれば、万が一のときに時間がかからず発見されます。もし、時間が経ってしまっても、あなたの魂に傷はつかないし、なんの問題もありません」、 「人の不安をあおってばかりいるテレビニュースなどを見ず、猫のように自分軸を持って生きることをお勧めする」、面白い考え方だ。 矢作直樹『閉塞感がニャくなる魔法の言葉88』(ワニブックス) 矢作 直樹氏による「マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた」 私の母の場合には、「人工栄養」は断ったので、最後の時はそれだけ早く来たが、それでよかったと思っている。 「人生会議を行う際には、かかりつけ医や担当の医師など、医療従事者を交えることをおすすめしたいです」、理想論ではあるが、現実には「医療従事者を交える」ことは難しいそうだ。 「病院はあくまで「救命すること」が目的であって、倒れる以前の状態まで回復できるとは限りません」、その通りだろう。 「救命や延命措置が行われた後、たくさんの管につながれながら、変わり果てた姿でベッドに横たわっている」、「家族」にも覚悟が必要なようだ。 「血圧も大きく下がってしまいますから、点滴を大量に投与して血圧を上昇させます。すると、全身がむくみ出し、身体に吸収されなかった水分が小さな傷口や点滴の痕などからどんどん出てきてしまいます。吸収シートで全身をぐるぐると巻いて、流れ出る水分を拭き取る処置も欠かせません。 むくみの影響は顔面にも及び、誰だか見分けがつかなくなるほど顔が膨れ上がることもありました。まぶたも閉じなくなり、眼が開いたままの状態になることも……。乾燥を防ぐために、眼の表面に保湿剤のワセリンを塗って、ラップフィルムをかぶせる。そうした処置 「今後回復が一切見込めない、高齢の患者さんに対しても、次々と心肺蘇生や延命治療が行われていくこと」、確かに現在の医療の矛盾点だ。 看護師にとっては「救急科」にも予想外の落とし穴があるようだ。 前田 和哉氏による「バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには、変わり果てた姿になっている」 (その8)(バキバキと骨が折れても心臓マッサージは続く…救急科の看護師が目を背けたくなった「延命治療」の壮絶さ 家族と対面するときには 変わり果てた姿になっている、マスコミは不安をあおっているだけ…東大名誉教授が「孤独死は立派なことだ」と褒める理由 猫の生き方に学ぶ「自分軸」のつくりかた、和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人 満足して死んでいける人」を分ける意外な要素 年をとったら もっと遊んだほうがいい) 終末期
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幸福(その5)(人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事 自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?、《この国は不寛容社会》「幸福度ランキング58位」の日本人に足りないたった1つの習慣 『アメリカはいつも夢見ている』より #1、自分も周りも幸せに!笑顔がもたらす5つの効果 笑うのが無理なら 軽く微笑むだけでもOK) [人生]

幸福については、2月27日に取上げた。今日は、(その5)(人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事 自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?、《この国は不寛容社会》「幸福度ランキング58位」の日本人に足りないたった1つの習慣 『アメリカはいつも夢見ている』より #1、自分も周りも幸せに!笑顔がもたらす5つの効果 笑うのが無理なら 軽く微笑むだけでもOK)である。

先ずは、昨年9月30日付け東洋経済オンラインが掲載したメンタルコーチの中島 輝氏による「人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事 自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/458028
・『コロナ禍が長引く中、自分のあり方や未来などに不安を抱えていたり、自信を失っていたりする人は少なくありません。日本人は自己肯定感が低いと言われますが、「いいときも悪いときも自分を信じて前進できる人には、心に"あそび"がある」と語るのは、自己肯定感の第一人者で心理カウンセラーの中島輝氏です。中島氏の著書『うまくいっている人がしている 自己肯定感を味方にするレッスン』から、人生をより豊かにするためのメソッドを紹介します』、「人生をより豊かにするためのメソッド」とは有り難い。
・『「幸せになる自分」を選ぶのは、自分  同じ環境で同じように暮らしていても、喜びや幸せを感じられる人と、悲しみにさいなまれて幸福感を得られない人がいます。いったい何が違うのでしょうか?両者の違いを解説するとき、私は次のエピソードを紹介しています。 囚われの身である2人の男が鉄格子から外を見ていた。  1人は下を向いて地面の泥を見ながら絶望感を抱いていた。  1人は上を向いて空に輝く星を眺めて希望を抱いていた。 つらいことがあったとき、美しいものに気が付いて、気持ちが晴れた経験は誰にでもあると思います。地面の泥を見て絶望に打ちひしがれていた男も、もし空を見上げる余裕があったなら、輝く星に未来への期待を見出せたかもしれません。 鉄格子の中から上を向くか下を見るか。つまり、希望を見つけるか、絶望に浸るかは、他人に強要されるものではなく、自分自身の選択です。 「今日は上司に怒られて、恥をかかされ、作業のやり直しにも時間がかかって最悪だった」と泥を見つけるのも自分の選択。「今日は上司に怒られたけれど、自分のミスに気づけたし、やり直すことで学びがあった。明日はもっとうまくできそうだ」と星を眺めるのも自分の選択です。 「泥という絶望」を見るか、「星のような希望」を見るのかを自分で選択できるということは、「自分を幸せにできる選択」は自分自身でできるということ。もしその選択が失敗だったとしても、自分で選んだ道なら後悔は少なく、納得できるでしょう。 自分で選択することを続けていけば、他人と自分を比較して落ち込むことが減っていきます。表面だけを取り繕ってごまかす必要もなくなり、自分の信念に基づいて、次々と新たな「幸せ」を選択できるようになるでしょう。 鉄格子の中から星を見上げた男のように、物事をポジティブに捉えることができるのは、自分を信じられる人、つまり自己肯定感が高い人です』、「「泥という絶望」を見るか、「星のような希望」を見るのかを自分で選択できるということは、「自分を幸せにできる選択」は自分自身でできるということ。もしその選択が失敗だったとしても、自分で選んだ道なら後悔は少なく、納得できるでしょう。 自分で選択することを続けていけば、他人と自分を比較して落ち込むことが減っていきます。表面だけを取り繕ってごまかす必要もなくなり、自分の信念に基づいて、次々と新たな「幸せ」を選択できるようになるでしょう」、「物事をポジティブに捉えることができるのは、自分を信じられる人、つまり自己肯定感が高い人です」、なるほど。
・『本来自己肯定感は生まれながらに備わっている  ここで改めて、自己肯定感とは何かを説明しておきましょう。 自己肯定感とは、「私が私であることに満足でき、自分を価値ある存在だと受け入れられること」。私は、自己肯定感こそが「人生を支える軸となるエネルギー」だと考えています。 本来、自己肯定感は誰にでも生まれながらに備わっているもの。実は、自己肯定感が一番高いのは赤ちゃんのときです。伝い歩きを始めた赤ちゃんは、「転ぶかもしれない」「怖いからやめよう」なんて微塵も考えていません。何度転んでも「自分はきっと歩ける」と信じてチャレンジし続けます。 誰もが赤ちゃんのときは「きっとできる」と、自己肯定感に満ち溢れています。しかし、成長するにしたがい、さまざまなネガティブな経験によって自己肯定感は低下してしまいます。 でも、安心してください。自己肯定感は何歳からでも高めることが可能です。ただ、高めることができても、一生自己肯定感の高い人でいられるわけではなく、人生のさまざまな出来事の中で上がったり下がったりします。大切なのは、自己肯定感が下がってしまったとき、再び高められる方法を把握しておくことです。) ところで、あなたは「自己肯定感の高い人」と聞いてどのような人物を思い浮かべますか? ブレない自分を持っている人、強い芯のある人、どんなときも堂々と自分の考えを主張できる人──これらは、自己肯定感が強い人の典型だといえるでしょう。しかし、ブレない強さにこだわり過ぎると逆に、小さな失敗をしただけで心がポキッと折れるようになってしまうのです』、「伝い歩きを始めた赤ちゃんは、「転ぶかもしれない」「怖いからやめよう」なんて微塵も考えていません。何度転んでも「自分はきっと歩ける」と信じてチャレンジし続けます。 誰もが赤ちゃんのときは「きっとできる」と、自己肯定感に満ち溢れています。しかし、成長するにしたがい、さまざまなネガティブな経験によって自己肯定感は低下してしまいます」、確かに「誰もが赤ちゃんのときは「きっとできる」と、自己肯定感に満ち溢れています」、「自己肯定感」なくしては歩くことなどできない筈だ、「大切なのは、自己肯定感が下がってしまったとき、再び高められる方法を把握しておくこと」、「ブレない強さにこだわり過ぎると逆に、小さな失敗をしただけで心がポキッと折れるようになってしまう」、やはりバランスも重要なようだ。
・『選択肢に柔軟性を持てる人の強み  自己肯定感が高い人には「柔軟性」が備わっています。この柔軟性を私はよく、「心に"あそび"がある」と表現しています。 あらゆる物事に対し、「絶対にAだ」と執着せず、周囲の意見を受け入れる。「Aもいいけれど、Bも素敵だな。でも今日はCにしておこう」と選択肢に柔軟性を持つことができる。これが心に「あそび」のある状態です。もしCに失敗したとしても、「こんなこともあるよね」と笑顔で受け入れられるようになることが大切なのです。 「あそび」は心の中にある、まっさらで自由な空間。空間があるから、自分とは異なる人の意見も、広い心で受け入れることができます。 自己肯定感が低いと、どうしても視野が狭くなり、一度決めた物事に固執してしまう傾向になります。そんなときは、心に「あそび」があるかどうか、自分自身に問いかけてみてください。 自分には青い服が似合う、青を選んでいれば間違いないと思い込んでいたけれど、たまには赤い服を選んでみるのもいいかもしれない。緑色を試すのもおもしろそうだ――そんなふうに、ときには迷ったりブレたりした方が、自分の可能性も広がって、日々が輝き、人生が楽しいものになります。 自己肯定感が高いと、「私の未来は明るいんだから、1回ぐらい失敗したって大丈夫!」と前向きな気持ちで赤や緑色を選択できるようになります。すると、ますまずポジティブなエネルギーが湧いてきて、人生を楽しむためのアイデアがどんどん生まれてきます。 今持っている自分の価値観を強く信じ続けるのではなく、ときには自分自身を疑ってみてください。自分は何を大切にして生きていきたいのか、どんな人間になりたいのか――時の流れとともに、答えは少しずつ変化しているはずです。 迷って、ブレて、変化するから、次の新しい発想や行動が生まれ、人生に豊かな彩りを与えてくれます。変化に対応するのは難しいことでも大変なことでもなく、実はとても楽しいことなのですから。 「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります。あなたは今までの自分とは違う実感と自信に気づくことができるでしょう』、「「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります」、なるほど。
・『自分に起きることはすべてギフト  自分は何を選んで、何を大切にして、どんな人間になりたいのかを考え、迷ったり、ブレたりしながら人生を歩んでいく。その時々で自分が選んできたものが、自分の人生を形作ります。 世間の常識や体裁など、誰かが敷いたレールの上を走るのではなく、自分で考えた道を自分の足で歩んでいるという実感。ここに、人生の大きな喜びがあるのです。 いいことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、自分の身に起きるすべては、理想の人生をデザインするための「ギフト」です。 幸せとは満ち足りることではなく、気づき続けることです。毎日自分の身に起こるさまざまな出来事(=ギフト)から、どんな気づきを得ることができるのか。それは人ぞれぞれ異なります。 最初に述べた「鉄格子の中」という過酷なギフトから、「希望」を見いだせた人のように、どんなギフトを受け取っても、肯定的に受け止めて感謝をすること。その積み重ねによって自己肯定感が高まり、人生がますます楽しくなっていくはずです。 迷って、ブレて、変化するから、次の新しい発想や行動が生まれ、人生に豊かな彩りを与えてくれます。変化に対応するのは難しいことでも大変なことでもなく、実はとても楽しいことなのですから。 「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります。あなたは今までの自分とは違う実感と自信に気づくことができるでしょう』、「「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります。あなたは今までの自分とは違う実感と自信に気づくことができるでしょう」、実際には難しい面もあるが、理想形としてはその通りだ。
・『自分に起きることはすべてギフト  自分は何を選んで、何を大切にして、どんな人間になりたいのかを考え、迷ったり、ブレたりしながら人生を歩んでいく。その時々で自分が選んできたものが、自分の人生を形作ります。 世間の常識や体裁など、誰かが敷いたレールの上を走るのではなく、自分で考えた道を自分の足で歩んでいるという実感。ここに、人生の大きな喜びがあるのです。 いいことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、自分の身に起きるすべては、理想の人生をデザインするための「ギフト」です。 幸せとは満ち足りることではなく、気づき続けることです。毎日自分の身に起こるさまざまな出来事(=ギフト)から、どんな気づきを得ることができるのか。それは人ぞれぞれ異なります。 最初に述べた「鉄格子の中」という過酷なギフトから、「希望」を見いだせた人のように、どんなギフトを受け取っても、肯定的に受け止めて感謝をすること。その積み重ねによって自己肯定感が高まり、人生がますます楽しくなっていくはずです』、「いいことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、自分の身に起きるすべては、理想の人生をデザインするための「ギフト」です」、ここまで割り切るのは、実際にはかなり困難だろう。その壁を乗り越えると、「最初に述べた「鉄格子の中」という過酷なギフトから、「希望」を見いだせた人のように、どんなギフトを受け取っても、肯定的に受け止めて感謝をすること。その積み重ねによって自己肯定感が高まり、人生がますます楽しくなっていくはずです」、となるようだ。

次に、本年4月30日付け文春オンラインが掲載したアメリカ在住のエッセイストの渡辺 由佳里氏による「《この国は不寛容社会》「幸福度ランキング58位」の日本人に足りないたった1つの習慣 『アメリカはいつも夢見ている』より #1」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/53876
・『「日本人の幸福度は全世界で58位」――ある時期、そんなニュースがSNSをにぎわせた。 なぜ日本人は幸せを感じづらいのか? その理由を、アメリカ在住のエッセイスト・渡辺由佳里さんの新刊『アメリカはいつも夢見ている』より一部を抜粋。国連がまとめた「幸福度ランキング」を見ることで、欧米人にあって日本人に足りないものが見えてきた。(全3回の1回目/#2、#3を読む)』、興味深そうだ。
・『日本は幸福度ランキング58位  Twitterに流れてくる日本のニュースで、国連がまとめた幸福度ランキングで日本が2018年から4つ順位を下げて58位になったということを知った(2019年)。 このニュースだけでは内容がよくわからないので、情報の大元である2019年WHR(World Happiness Report)をダウンロードして読んでみた。統計の専門家ではないので計算方法などはよくわからないが、このレポートは日本と日本人の幸福感について重要なことをいくつか指摘してくれていると感じた。 WHRの幸福度ランキングはギャラップの世論調査(Gallup World Poll Questions)を元にしている。ビジネス経済、社会関与、コミュニケーションとテクノロジー、多様性(社会問題)、教育と家族、感情(幸福感)、環境とエネルギー、食と住居、政府と政治、法と秩序(治安)、健康、宗教と倫理、交通、仕事の14の分野での質問があり、回答者は「カントリルラダー」という指標を使って答える。「はしご(ラダー)」を想像し、想像できる最悪の状態を0、最高の状態を10として主観的な評価をするものだ。 WHRでは、その結果の幸福度を説明する重要なファクターとして「一人あたりの国内総生産」、「社会的支援」、「出生時の平均健康寿命」、「人生の選択をする自由」、「他者への寛大さ」、「公職者が汚職/堕落しているという国民の認識」の6つを挙げている。 幸福度ランキングのグラフを見ると、トップからフィンランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランドと北欧の国々が並んでいる。銃による大量殺人があり、オピオイド依存症が深刻になっているアメリカですら19位に入っている。それなのに、日本が58位だというのは不思議に思える。 グラフをよく見ると、日本は「一人あたりの国内総生産」、「社会的支援」、「出生時の平均健康寿命」という左から3つのファクターでは上位の国々とほとんど変わらないことがわかる。 上位の国々と日本との大きな違いは、「他者への寛大さ」と最後の「ディストピア+レジデュアル」である。日本は「出生時の平均健康寿命」では156ヶ国中2位というチャンピオンなのに、「他者への寛大さ」においては92位というほぼ最低レベルなのだ。) 繰り返すが、幸福度のスコアはそれぞれの国の回答者の主観的な評価の平均であり、6つのファクターはその因果関係を説明しようとしているだけである。例えば「他者への寛大さ(generosity)」が高いからといってその国がスコアを上げてもらっているわけではない。 まずはこの「他者への寛大さ」と幸福感について語ろう』、「日本は「一人あたりの国内総生産」、「社会的支援」、「出生時の平均健康寿命」という左から3つのファクターでは上位の国々とほとんど変わらないことがわかる。 上位の国々と日本との大きな違いは、「他者への寛大さ」と最後の「ディストピア+レジデュアル」である」、具体的な内容はこのあと説明があるようだ。 
・『日本人はなぜ幸せになれないのか?  WHRの「幸福と社会性がある行動」という章は、人間が非常に社会的な動物であり、家族や友人だけでなく見知らぬ他人を助けることによって満足感や幸福感を得ることを説明している。見返りを求めずに自分の金を提供する寄付や、自分の時間を提供するボランティアがその代表的なものだ。 しかし、レポートには「(それらに加えて)いろいろな方法で他者を援助することができる。例えば、見知らぬ人のためにドアを開けてあげるとか、褒めてあげるとか、病に臥せっている親戚を介護するとか、伴侶を気遣ってあげるとか、拾った財布を持ち主に返してあげるとか、小さいけれども意義がある寛大な行動だ」と書いてある。ランダムに親切な行動をする実験では、親切な行動をしたグループのほうがしなかったグループよりも幸せになったという。 次の「ディストピア+レジデュアル」という項目は少しわかりにくい。「ディストピア」とは世紀末的なSFでよく使われる言葉で、ユートピアの反対の社会である。この調査では、幸福度を説明する6つの重要なファクターが世界で最悪である架空の国を「ディストピア」と設定する。「ディストピア」に住んでいる人は世界で最も不幸であるという仮定で、カントリルラダーにおける「最悪」の基準にする。その基準と照らし合わせて自国の自分の生活の評価をするのだ。 ディストピアの国民の自己評価の平均推定値が1.88で、それに「レジデュアル」を加えたのがこの部分ということらしい。「レジデュアル(残余)」とは(グラフの左の6つのファクターで)「説明されていない構成要素(unexplained components)」ということで、日本人はここが異常に少ない。) たとえば世界で12位のコスタリカでは、幸せの理由を具体的に説明する6つの要素は日本より少ないのに世論調査での総合的な幸福度のスコアは日本よりずっと高い。6つの要素では説明されない部分で、彼らは幸せを感じているのだろう。 見方を変えると、「日本は他国に比べて幸せになる社会的な条件はけっこう揃っているのに、なぜか幸せを感じていない」ということが浮かび上がってくる。 これら2つの特徴を考慮すると、日本人が幸せになる近道は、「他者に寛大/寛容で親切になる」ことと「自分がけっこう幸せであることを自覚する」ことになる。 「自分が幸せであることを自覚する」というのは漠然としていて難しいので、わかりやすくやりやすい「寛大/寛容になる」ことから始めればいいだろう。 経済的に余裕がない人が無理に大金を寄付したり、寝る時間がない人がボランティアをしたりする必要はない。電車で辛そうにしている人がいたら席を譲ってあげ、ベビーカーを押している人がいたら電車やエレベーターの乗り降りを手伝ってあげるといったことなら誰でもできる。朝、道ですれ違う人に「おはよう」と声をかけたり、レジの人に「今日はいいお天気でよかったですね」と笑顔で話しかけて「ありがとう」と言うだけでも、相手に小さな幸せを与えてあげられるし、それによって自分も少し幸せになれる』、「「日本は他国に比べて幸せになる社会的な条件はけっこう揃っているのに、なぜか幸せを感じていない」ということが浮かび上がってくる。 これら2つの特徴を考慮すると、日本人が幸せになる近道は、「他者に寛大/寛容で親切になる」ことと「自分がけっこう幸せであることを自覚する」ことになる。 「自分が幸せであることを自覚する」というのは漠然としていて難しいので、わかりやすくやりやすい「寛大/寛容になる」ことから始めればいいだろう」、なるほど。
・『善人ぶってもいいじゃないか  私はアメリカの慣習にならって郵便局などでよく私の後ろから来た人にドアを開けて先に入れてあげたり、レジで少ない品数の人が後ろに並んだら「私は沢山買うので、お先にどうぞ」と譲ってあげたりするのだが、たいていの人は笑顔で「ありがとう」と言ってくれる。 常連になっているいくつかのスーパーマーケットでは従業員の人たちとよく挨拶を交わしているのだが、韓国系スーパーで無表情に客の対応をしているレジの女性たちが私を見かけたとたんにぱっと笑顔になってくれるのがとても嬉しい。別のレジの人までが振り向いて「ハウアーユー」と言ってくれるのも。オーガニック専門スーパーマーケットでは、1週間姿を見せなかっただけで精肉コーナーのおじさまたちが「旅行にでも行っていたの?」と話しかけてくれる。 そんな小さなふれあいだけでも一日が明るくなるし、幸福度が上昇するものだ。 このような話をすると、日本のソーシャルメディアでは「善人ぶっている」という反応が戻ってくることがある。赤ん坊を連れたお母さんに優しくしてあげることを呼びかけると、「こっちも大変なのに、そんな時間に電車に乗るほうが悪い」といった激しい反論が来ることもある。) 国連の幸福度ランキングが教えてくれるのは、もしかすると、そういう心の余裕のなさと不寛容が日本人の幸福度を下げているかもしれないということだ。 善人ぶって他者に親切にしてもいいではないか。それを自慢してもいいではないか。また、自慢している人を褒めてあげてもいいではないか。それで助かる人がいるのだから』、「国連の幸福度ランキングが教えてくれるのは、もしかすると、そういう心の余裕のなさと不寛容が日本人の幸福度を下げているかもしれないということだ。 善人ぶって他者に親切にしてもいいではないか。それを自慢してもいいではないか。また、自慢している人を褒めてあげてもいいではないか。それで助かる人がいるのだから」、同感である。
・『「寛容のなさ」が日本人から幸福を奪っている  このレポートには書いていないが、髪の色やスカートの長さのように奇妙なところまで縛る厳しい校則や個々の社員の自発的な対応まで縛ってしまうような社則、社員の私生活や性格にまで踏み込んでくるような上司、といったことも、日本人から幸福感を奪っている「寛容のなさ」かもしれない。 そう感じるのは、欧米で生活する日本人が「こちらに来て楽になった」とよく話題にするのがこの部分だからだ。 自分自身の経験から言えるのは、「他者に寛容になれると、自分にも寛容になれる」ということだ。他人の役に立つことができれば、自分を好きになることも容易になる。自分を好きになれたら、幸福のはしごをもうけっこう上まで登ったことになる。 日本人が寛容さを広めることができたら、6つのファクターで説明できない部分の幸福度も自然と増えていくのではないかと思うのだ』、「「他者に寛容になれると、自分にも寛容になれる」ということだ。他人の役に立つことができれば、自分を好きになることも容易になる。自分を好きになれたら、幸福のはしごをもうけっこう上まで登ったことになる」、その通りなのだろう。

第三に、5月28日付け東洋経済オンラインが掲載した精神科医の和田 秀樹氏による「自分も周りも幸せに!笑顔がもたらす5つの効果 笑うのが無理なら、軽く微笑むだけでもOK」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/590526
・『コロナ禍のマスク生活が始まって、すでに2年以上が経過しています。不自由な毎日が長く続いていますから、自分のことを「明るい」と考えている人でも、「最近、ちょっと暗くなっているかも」と感じているのではないでしょうか。 「暗い気持ちでいると、どうしてもネガティブな方向に考えが向いてしまいます」と言うのは、精神科医の和田秀樹氏です。「ネガティブな考え方をしていても、何もいいことはありませんが、明るい気持ちで前を向いていれば、不思議と物ごとがいい方向に動き出します」。 では、しんどいとき、落ち込んでいるとき、気分を上げるにはどうすればいいのか。和田氏の新刊『なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学』をもとに3回にわたり解説します。 私たちは会社や学校、地域社会で生活していますから、仕事や勉強のことで不安になったり、人間関係に悩んで暗い気持ちになることがあります。 同じような環境で生活していても、いつも明るく、楽しそうに毎日を送っている人もいます。 あなたの周りにも、そいう人がいるのではないでしょうか?そういう人は、ほぼ例外なく「笑顔」でいるはずです。この違いは、どこにあるのでしょうか? ・明るい気持ちでいるから、毎日が楽しくなるのか? ・毎日を楽しくしようとしているから、表情が明るくなるのか? そのどちらも正解だと思いますが、暗い顔をしている人に比べて、明るい笑顔でいる人というのは、周りの人たちの気持ちを明るくします。毎日が楽しくなるような「いい環境」ができやすいのです』、「明るい笑顔でいる人というのは、周りの人たちの気持ちを明るくします。毎日が楽しくなるような「いい環境」ができやすい」、「明るい笑顔でいる人」はどの組織にとっても貴重なようだ。
・『気持ちが明るい人には人が寄ってくる  いつも気持ちが明るい人というのは、心理的な垣根が下がりますから、自然と人が寄ってきます。部下の人たちに威厳を示そうと「仏頂面」をしている上司より、ニコニコと愛想がいい課長や部長のところには、やはり人が集まってきます。 女性が管理職になると、「部下にナメられたくない」と思って必要以上に厳しい顔をする人がいますが、それでは逆効果です。仕事ができる人というのは、男性でも女性でも意外と愛想がいいものです。 明るい笑顔の人が周囲の人も明るくするというのは、その人が持っている雰囲気とか心理的な影響だけでなく、科学的にも証明されています。笑顔の人と一緒にいると、その人につられて笑顔になる……という経験をしたことがあると思いますが、それは「エンドルフィン」の働きによるものと考えられています。 エンドルフィンとは、脳内で機能する神経伝達物質の1つで「体内で分泌されるモルヒネ」の意味があります。モルヒネの数倍の鎮痛効果があると考えられ、「気分が高揚」したり「幸福感」が得られたりするという作用を持っています。 笑顔の人につられて一緒になって笑うと、周囲の人たちの脳内でもエンドルフィンが放出されるため、一体感や安心感が生まれます。人に笑いかけることは、「私はあなたの敵ではない」ということを相手に伝えるだけでなく、相手を笑顔にして、その人の気分を明るくする効果があるのです。 その相手の笑顔を見ることによって、笑顔の人はさらに明るい気持ちが増幅されて、幸福感を得られる……というフィードバック効果もあります。笑顔の人の周囲に幸せオーラが感じられるのは、こうした明確な理由があるのです』、「エンドルフィンとは、脳内で機能する神経伝達物質の1つで「体内で分泌されるモルヒネ」の意味があります。モルヒネの数倍の鎮痛効果があると考えられ、「気分が高揚」したり「幸福感」が得られたりするという作用を持っています。 笑顔の人につられて一緒になって笑うと、周囲の人たちの脳内でもエンドルフィンが放出されるため、一体感や安心感が生まれます」、「人に笑いかけることは、「私はあなたの敵ではない」ということを相手に伝えるだけでなく、相手を笑顔にして、その人の気分を明るくする効果があるのです。 その相手の笑顔を見ることによって、笑顔の人はさらに明るい気持ちが増幅されて、幸福感を得られる……というフィードバック効果もあります。笑顔の人の周囲に幸せオーラが感じられるのは、こうした明確な理由があるのです」、なるほど。
・『仏頂面で暗い顔をしていませんか?  人が笑顔でいると、そのほかにもさまざまな「恵み」があります。仏頂面をして暗い気持ちでいるより、明るい気持ちで笑顔でいる方が、何となくいいことがありそうですが、それをハッキリと認識している人は少ないかもしれません。 毎日を明るく過ごすためには、笑顔の効果を知っておくことも大切です。以下に主な5つを紹介しましょう。 ①気持ちに余裕が生まれる(笑顔になると、人は明るい気持ちになり、心に余裕が生まれます。リラックスして日常を過ごすことで、自然と疲れやストレスを蓄積しにくくなり、何ごとに対しても「やる気」が出ます。 前向きな姿勢で物ごとに向き合えますから、いい結果が出やすくなります。ビジネスの世界に限らず、さまざまな分野で成功している人に明るいイメージの人が多いのは、こうしたことも要因の1つです。) ②相手に心を開いているサインになる(周囲の人と円滑なコミュニケーションを図るという点でも、笑顔は欠かすことのできない大切な要素です。あいさつや会話の際に笑顔でいると、相手に心を開いているサインになります。相手もリラックスできますから、お互いの心理的な距離を素早く縮めることができます。) ③生き生きした印象を与える(女性が美しさを維持するためにも、笑顔には大きな意味があります。笑顔の回数が多い人ほど表情筋を使う機会が多くなり、顔のコリがほぐれて血行がよくなり、シワやたるみが目立たなくなります。口角の上がった美しい笑顔でいることは、生き生きした印象を与えることができます。 いつもニコニコしていると、表情筋が発達して表情が若々しくなります。逆に、あまり笑わないと表情筋が緩んでしまい、人に老けた印象を与えます。疲れているように見えたり、不機嫌そうに見えてしまうのです。) ④免疫力が高まる(笑顔になると、健康面でもいい影響があります。笑うことでリンパ球の一種であるNK(ナチュラルキラー)細胞が活性化され、免疫力が高まって病気の予防に役立ちます。) ⑤精神的に安定する(「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンが分泌されることで、安らぎや安心感が得られて、精神的に安定することも明らかになっています。声を上げて笑うと肺や心臓が刺激されて、脈拍や血圧が安定してリラックスしたり、自律神経を整えてくれます。全身の筋肉が動くことで、代謝も上がります。 近年の研究によって、こうした健康面のメリットは「作り笑顔」でも同じ効果が得られることがわかっていますから、意識的に笑顔を心がけるだけで、心身共に健康に一歩近づくことができるのです』、「健康面のメリットは「作り笑顔」でも同じ効果が得られることがわかっていますから、意識的に笑顔を心がけるだけで、心身共に健康に一歩近づくことができるのです」、「「作り笑顔」でも同じ効果が得られる」、とは意外だ。
・『明るい気持ちで過ごすには笑顔が大切  明るい気持ちで毎日を過ごすためには、日ごろから「笑顔」を心がけることが大切です。笑顔が無理ならば、軽く「微笑む」だけでもいいのです。非常にシンプルなことですが、明るい気持ちで毎日を過ごすためには、実は最も重要なことであり、最も効果が出やすいことでもあります。 人は誰でも、「暗い顔」になったり、「落ち込んだ顔」になったりすることがあります。そんなときに「あれ、いま暗い顔をしているな」と気づいて、「こんな顔をしていちゃダメだな。笑顔を心がけよう」と思うだけでいいのです。 少なくとも、他の人がいる前だけでも笑顔を心がけて、明るい気持ちでいよう……ということです。あなたが笑顔でいれば、周囲の人も明るい気持ちになります。その明るい気持ちが、あなたを明るい気分にさせてくれるのです。 明るい笑顔になれば、人に与える印象も大きく変わります。普段、難しそうな顔をしている人が笑顔になると、周囲の人もホッとして、和やかな雰囲気が生まれます。 笑顔が無理なら、「こんにちは」というあいさつだけでもいいのです。普段、仏頂面をしている人が「よう!」と明るく手を上げるだけで、印象は確実に変わります。いつも笑顔の人より効果があったりするものです。 美容整形で二重まぶたにすることは簡単にできても、笑顔がチャーミングな顔にするのは意外に難しいといいます。 男性をハンサム系やイケメン系に変身させることはできても、魅力的な笑顔の持ち主にすることは、至難の業なのです。最新医学を持ってしても難しい笑顔に、そう簡単になれるわけがないと考える人もいるかもしれません。 でも、笑顔が無理ならば、話題の選び方を工夫するとか、物ごとの考え方を改めるなど、何らかの工夫をすることはできます。そうした工夫を繰り返し続けることは、笑顔を心がけることと同じくらい大事な意味を持っています』、「人は誰でも、「暗い顔」になったり、「落ち込んだ顔」になったりすることがあります。そんなときに「あれ、いま暗い顔をしているな」と気づいて、「こんな顔をしていちゃダメだな。笑顔を心がけよう」と思うだけでいいのです。 少なくとも、他の人がいる前だけでも笑顔を心がけて、明るい気持ちでいよう……ということです。あなたが笑顔でいれば、周囲の人も明るい気持ちになります。その明るい気持ちが、あなたを明るい気分にさせてくれるのです」、同感である。
タグ:(その5)(人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事 自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?、《この国は不寛容社会》「幸福度ランキング58位」の日本人に足りないたった1つの習慣 『アメリカはいつも夢見ている』より #1、自分も周りも幸せに!笑顔がもたらす5つの効果 笑うのが無理なら 軽く微笑むだけでもOK) 幸福 東洋経済オンライン 中島 輝氏による「人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事 自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?」 「人生をより豊かにするためのメソッド」とは有り難い。 「「泥という絶望」を見るか、「星のような希望」を見るのかを自分で選択できるということは、「自分を幸せにできる選択」は自分自身でできるということ。もしその選択が失敗だったとしても、自分で選んだ道なら後悔は少なく、納得できるでしょう。 自分で選択することを続けていけば、他人と自分を比較して落ち込むことが減っていきます。表面だけを取り繕ってごまかす必要もなくなり、自分の信念に基づいて、次々と新たな「幸せ」を選択できるようになるでしょう」、「物事をポジティブに捉えることができるのは、自分を信じられる人、つまり自己 「伝い歩きを始めた赤ちゃんは、「転ぶかもしれない」「怖いからやめよう」なんて微塵も考えていません。何度転んでも「自分はきっと歩ける」と信じてチャレンジし続けます。 誰もが赤ちゃんのときは「きっとできる」と、自己肯定感に満ち溢れています。しかし、成長するにしたがい、さまざまなネガティブな経験によって自己肯定感は低下してしまいます」、確かに「誰もが赤ちゃんのときは「きっとできる」と、自己肯定感に満ち溢れています」、「自己肯定感」なくしては歩くことなどできない筈だ、「大切なのは、自己肯定感が下がってしまったとき 「「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります」、なるほど。 「「何があっても受け入れる」という柔軟な心で自己肯定感を養っていくと、自分の人生を自分でデザインできるようになります。あなたは今までの自分とは違う実感と自信に気づくことができるでしょう」、実際には難しい面もあるが、理想形としてはその通りだ。 「いいことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、自分の身に起きるすべては、理想の人生をデザインするための「ギフト」です」、ここまで割り切るのは、実際にはかなり困難だろう。その壁を乗り越えると、「最初に述べた「鉄格子の中」という過酷なギフトから、「希望」を見いだせた人のように、どんなギフトを受け取っても、肯定的に受け止めて感謝をすること。その積み重ねによって自己肯定感が高まり、人生がますます楽しくなっていくはずです」、となるようだ。 文春オンライン 渡辺 由佳里氏による「《この国は不寛容社会》「幸福度ランキング58位」の日本人に足りないたった1つの習慣 『アメリカはいつも夢見ている』より #1」 『アメリカはいつも夢見ている』 「日本は「一人あたりの国内総生産」、「社会的支援」、「出生時の平均健康寿命」という左から3つのファクターでは上位の国々とほとんど変わらないことがわかる。 上位の国々と日本との大きな違いは、「他者への寛大さ」と最後の「ディストピア+レジデュアル」である」、具体的な内容はこのあと説明があるようだ。 「「日本は他国に比べて幸せになる社会的な条件はけっこう揃っているのに、なぜか幸せを感じていない」ということが浮かび上がってくる。 これら2つの特徴を考慮すると、日本人が幸せになる近道は、「他者に寛大/寛容で親切になる」ことと「自分がけっこう幸せであることを自覚する」ことになる。 「自分が幸せであることを自覚する」というのは漠然としていて難しいので、わかりやすくやりやすい「寛大/寛容になる」ことから始めればいいだろう」、なるほど。 「国連の幸福度ランキングが教えてくれるのは、もしかすると、そういう心の余裕のなさと不寛容が日本人の幸福度を下げているかもしれないということだ。 善人ぶって他者に親切にしてもいいではないか。それを自慢してもいいではないか。また、自慢している人を褒めてあげてもいいではないか。それで助かる人がいるのだから」、同感である。 「「他者に寛容になれると、自分にも寛容になれる」ということだ。他人の役に立つことができれば、自分を好きになることも容易になる。自分を好きになれたら、幸福のはしごをもうけっこう上まで登ったことになる」、その通りなのだろう。 和田 秀樹氏による「自分も周りも幸せに!笑顔がもたらす5つの効果 笑うのが無理なら、軽く微笑むだけでもOK」 「明るい笑顔でいる人というのは、周りの人たちの気持ちを明るくします。毎日が楽しくなるような「いい環境」ができやすい」、「明るい笑顔でいる人」はどの組織にとっても貴重なようだ。 「エンドルフィンとは、脳内で機能する神経伝達物質の1つで「体内で分泌されるモルヒネ」の意味があります。モルヒネの数倍の鎮痛効果があると考えられ、「気分が高揚」したり「幸福感」が得られたりするという作用を持っています。 笑顔の人につられて一緒になって笑うと、周囲の人たちの脳内でもエンドルフィンが放出されるため、一体感や安心感が生まれます」、「人に笑いかけることは、「私はあなたの敵ではない」ということを相手に伝えるだけでなく、相手を笑顔にして、その人の気分を明るくする効果があるのです。 その相手の笑顔を見るこ 「健康面のメリットは「作り笑顔」でも同じ効果が得られることがわかっていますから、意識的に笑顔を心がけるだけで、心身共に健康に一歩近づくことができるのです」、「「作り笑顔」でも同じ効果が得られる」、とは意外だ。 「人は誰でも、「暗い顔」になったり、「落ち込んだ顔」になったりすることがあります。そんなときに「あれ、いま暗い顔をしているな」と気づいて、「こんな顔をしていちゃダメだな。笑顔を心がけよう」と思うだけでいいのです。 少なくとも、他の人がいる前だけでも笑顔を心がけて、明るい気持ちでいよう……ということです。あなたが笑顔でいれば、周囲の人も明るい気持ちになります。その明るい気持ちが、あなたを明るい気分にさせてくれるのです」、同感である。
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恋愛・結婚(その6)(:過熱化する不倫報道「書き放題」の残酷すぎる現実 脳科学者・中野信子×国際政治学者・三浦瑠麗、若者のデート離れを加速させる「ゼロリスク志向」 若者の自信のなさが恋愛にも影響する時代に、「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ) [人生]

恋愛・結婚については、3月15日に取上げた。今日は、(その6)(:過熱化する不倫報道「書き放題」の残酷すぎる現実 脳科学者・中野信子×国際政治学者・三浦瑠麗、若者のデート離れを加速させる「ゼロリスク志向」 若者の自信のなさが恋愛にも影響する時代に、「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ)である。

先ずは、4月30日付け東洋経済オンラインが掲載した脳科学者の中野 信子氏と国際政治学者の 三浦 瑠麗氏による対談「過熱化する不倫報道「書き放題」の残酷すぎる現実 脳科学者・中野信子×国際政治学者・三浦瑠麗」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/581947
:芸能人やアスリートなど著名人の不倫報道やバッシングが近年かなり過熱化しています。なぜ不倫を報じ、不倫した人の社会的地位を失うまで叩くのでしょうか。『不倫と正義』から一部抜粋し再構成のうえ、脳科学者の中野信子さんと国際政治学者の三浦瑠麗さんが不倫報道について思うことを語り合います』、興味深そうだ。
・『なぜ「不倫」はこんなにも注目されるのか  中野:ここ10年くらいですかね。不倫が原因でそれまで活躍していた世界を去ることになったり、謝罪会見をすることになったり、いわゆる「世間」から指弾されて社会的制裁を受ける有名人が増えた気がするんですよね。 三浦:そうですね。 中野:それってなんでなんだろう?というのが私にはずっとあって。不倫はもちろん、配偶者から訴えられれば法的な問題になりますけど、姦通罪があった昔とは違って今は違法行為ではないですよね。 コンプライアンス意識が強くなったとか、ネット社会で相互監視が厳しくなったから見つかりやすくなったとか、いろいろな要素があるとは思うのだけれど、なぜそんなに不倫が注目されるんだろうと思ってたんです。 三浦:一方で、不倫をしている「有名人でない人」はけっこう多そうですが。 中野:あはは。そうね。昔ながらの既婚男性と若い未婚女性という組み合わせもあれば、W不倫もあれば、既婚女性と若い男性の組み合わせもある。職場内不倫もあれば、かつての同級生や恋人との焼けぼっくい不倫もあれば、出会い系での不倫に幼稚園や保育園の送迎から親同士や先生と発展する不倫なんてのもあるらしい。 パパ活、ママ活といった金銭を伴う関係までを不倫と言っていいのかわからないですけど、出会いの数だけ不倫があると言ってもいいくらいに思いますし、「実際にはすごく多いんじゃない?」というのが実感なんですよね。それなのに、有名人となると社会的地位を失うまでに叩かれる。 三浦:2020年の「ジェクス」ジャパン・セックスサーベイによれば、現在パートナー(恋人や結婚相手)以外の人とセックスをしている割合は、セックス経験者のうち男性の41.1%、女性の31.4%にのぼったそうです。すべてがいわゆる「不倫」というわけではありませんが、想像より多い数字ですよね。 20~30代が高いので、付き合っているカップルの状態での「浮気」が多いんでしょうけれども。一方で、パートナー以外としたことがないと答えた人は60代女性が最多で70.2%。年代もありますよね。私たち以下の世代で不倫したことがある人の比率は実はこの数字とそんなに変わらないんじゃないかと思います。) 中野:ですよね。だからなおさら思うんですよ。なんだろうこのギャップはと。私は脳科学者ですから、脳科学的に考えれば不倫しやすい人がいたり、実際にしてしまう脳の仕組みがあること、あるいは人が人を非難するときになぜ快感を覚えるかといったことも理解できる。 でも、実際にしている人が多い割に、非難の声があまりに大きいように思えるんですよ。そのギャップが気になっていて、これは瑠麗さんとお話ししてみたいなと思ったんですよ。私とは別の角度から人間社会を俯瞰して見てる国際政治学者の瑠麗さんなら、社会的、文化的側面から解説してくれるんじゃないかって思って。 三浦:いやいや、恐縮です。私はよく「不倫を擁護するな」って叩かれるんですけど、違法行為でもなし、擁護も否定もする気はないんですよね。かといって、ロマンチックな見方を持っているかというと、そうでもない。 そもそもそれ以前に、なぜひと様の家庭に口を突っ込むんだ?と思って報道に不快感を示すコメントをしたりします。でもそういうことを口にすると「不倫を擁護するのか」「お前も旦那に不倫されてみろ」などと言われる(笑)』、「現在パートナー(恋人や結婚相手)以外の人とセックスをしている割合は、セックス経験者のうち男性の41.1%、女性の31.4%に」、想像以上の多いようだ。「実際にしている人が多い割に、非難の声があまりに大きいように思える」、同感である。
・『不倫は増加している?  中野:そういう人って瑠麗さんが不倫する可能性は考えないんですかね? 三浦:そうねえ。不倫は男がするものだっていう社会通念があるんでしょう。ただ、興味深いのは、それぞれはどこまで正確な数字かわからないですけれど、働いている既婚女性のほうが専業主婦よりも不倫している率が高いという各種アンケート結果があること。不倫する女性の圧倒的多数は「働く女性」だということですよね。 中野:そういうことになりますね。 三浦:最近言われている不倫の増加は、女性の社会進出と密接に関係があるんではないかと私は思っているんですね。女性の地位が上がって、ある程度男女が経済的に対等になったり、場合によっては格差が逆転したりということにも関係があるんではないかなと。 専業主婦は望むと望まざるとにかかわらず、夫の収入に依存せざるをえません。一方で、結婚したら専業主婦という道も選べる、という経済的に余裕のある男性と結婚できる人の割合はどんどん少なくなってきています。働く女性に自由度が生まれたというだけでなく、結婚にオールインできるという楽観もそこなわれた可能性がありますね。 既婚男性が浮気をしても、妻は養われながら貞淑に家庭を守る、というモデルは成立しにくくなっている。私たちがなんとなく「最近、女性の不倫が増えてない?」と思っているのはあながち的外れでもないんではないかと思います。) 中野:その一方で、「不倫騒動」は相変わらず多いですよね。あえて名前は挙げませんが、何かというと報道されている。 三浦:多少の知名度があれば、本来プライバシーにあたるものが報じられてしまうのが今のメディアですよね。週刊誌報道の内容に多少脚色や不正確な部分があっても、褒められた行為ではないがゆえに反論すればするほど傷口が広がる。したがってほとんどの人がプライバシー侵害で訴えずに泣き寝入りしています。まあ、ある意味「書き放題」ですよね』、「最近言われている不倫の増加は、女性の社会進出と密接に関係があるんではないかと私は思っているんですね。女性の地位が上がって、ある程度男女が経済的に対等になったり、場合によっては格差が逆転したりということにも関係があるんではないかなと」、「週刊誌報道の内容に多少脚色や不正確な部分があっても、褒められた行為ではないがゆえに反論すればするほど傷口が広がる。したがってほとんどの人がプライバシー侵害で訴えずに泣き寝入りしています」、なるほど。
・『「世間」と「有名人」で受ける反応が非対称  中野:イメージダウンして仕事は外され収入は減る、CMは降ろされて違約金は払わねばならない、出演していた番組は放送中止になって関係各所に迷惑がかかる……ミュージシャンならコンサートに出られなくなるし、俳優が映画に出ていれば下手すればその映画はお蔵入り、というそこまでの社会的、金銭的制裁を受けながら、あげく復帰もできないという人もいるわけですよね。あまりに「世間」と「有名人」で受ける反応が非対称です。 三浦:職場不倫がバレれば、会社に懲戒解雇はされないにせよ、配置転換されてしまうことはありうるでしょう。でもそこまでの「社会的制裁」は受けない気がしますね。もちろん、パートナーから離婚されたり、慰謝料を請求されたり、さまざまな人間関係がおかしくなるということはあるでしょうけど、それはあくまで「私」の部分ですよね。 中野:もちろん、イメージを売ることで報酬を得ている芸能人の場合、不倫に代償が生じるのはやむをえないんでしょう。夫婦円満、家庭的なイメージでCMに出演している俳優さんとかね。CMを降ろされても仕方がないかもしれない。 だけど政治家だったら政治、ミュージシャンだったら音楽、お笑い芸人だったらお笑い、みたいな本業にまで差し障りが出るとなると、それはどうなんだろうとは思います。 三浦:芸人さんがスキャンダルを起こした場合、「笑えないなあ」というのはあるかもしれないですけど、でも「あいつが番組に出てると不快だから出すな」とかとなるとね、ちょっとヒステリックすぎないかなと思いますよね。 昔の“不倫スキャンダル”は夫の浮気を妻が「芸の肥やし」として認めるパターンもありましたけど、今ではちょっと考えられない。仮に平穏を守るために奥さんが我慢するという選択肢をとりたくとも、世間にバッシングされるので婚姻関係が壊れてしまう事例だってありえます。) 中野:歌舞伎役者なんかずーっと歴史的にそういうことが許容されてきた土壌があったと思うんですけど……現代はどうも、ちょっと、芸能を生業とする人には大変だなと思いますね。噺家さんとかもすごくもったいないなと思う。いろんな女性とおつきあいしたほうが芸のためにはいいこともあるでしょう?そういうチャンスを奪われているとも言えるし。 三浦:不倫の善しあしは脇に置いて、短期的な関係の積み重ねをストレスに感じず、それを肥やしにするタイプの人たちも世の中にはいるわけですよね。だけど社会的には、そういう人々はノーマルからの逸脱として罰を受けやすい状況になっているという感じはしますね』、「昔の“不倫スキャンダル”は夫の浮気を妻が「芸の肥やし」として認めるパターンもありました。今ではちょっと考えられない」、「社会的には、そういう人々はノーマルからの逸脱として罰を受けやすい状況になっているという感じはしますね」、なるほど。
・『「調子に乗ると人は不倫するのか?」  中野:そもそも芸能をやる人はノーマルから逸脱してるもんなんじゃないのかって思うところもあるんですけどねえ。 ちょっと前に話題になったオリンピアンの不倫報道でも気になったことがあって。 三浦:どんなことですか。 中野:いくつか情報番組で「順風満帆な人生すぎて調子に乗って不倫をしたのではないか」といった指摘があったんです。でも私が思ったのは、「そもそも、調子に乗ると人は不倫するのか?」という疑問で。 三浦:人間、そのとき調子に乗っているかどうかで不倫するものなのかと。 中野:別の不倫報道でもやっぱり、「調子に乗っていた」みたいな言われ方をしていたんですよね。あるいは、「あんなにできた奥さんなのになんで?」と。 それを聞くと女からしてみると「なのに」ってなによ?って思いません?(笑)。じゃあ「できた奥さんじゃなければ不倫してもいい」ということになるのか?とかね。世間の反応は私にしてみたら疑問だらけなんですよ』、「世間の反応は私にしてみたら疑問だらけなんですよ」、との「中野」氏の述懐は理解できる。

次に、6月28日付け東洋経済オンラインが掲載した金沢大学融合研究域融合科学系教授・東京大学未来ビジョン研究センター客員教授の金間 大介氏による「若者のデート離れを加速させる「ゼロリスク志向」 若者の自信のなさが恋愛にも影響する時代に」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/598230
・『「20代独身男性の4割がデート経験なし」「30代は4人に1人が結婚願望なし」「婚姻は戦後最少」――。6月14日に公表された内閣府『令和4年版男女共同参画白書』は大きな話題を読んだ。 新著『先生、どうか皆の前でほめないで下さい――いい子症候群の若者たち』が話題の金間大介氏は、「デートしないのは、自分に自信がないから」だと指摘する。「彼らにとって恋愛は、メンタルを不安定にするリスク要因そのもの。自分で決められないという性向も、恋愛には不向き」とも。その背景には、恐怖心にも似た、人の感情に対する強い心理が関係しているというのだが――。 20代男性の65.8%は妻や恋人がおらず、39.8%はデートした人数0人。20代女性も似た傾向にあり、51.4%に夫や恋人がおらず、25.1%がデート未経験――。6月14日に公表された内閣府の『令和4年版男女共同参画白書』が大きな話題を呼んでいる。 なぜ、今の若者はデートや恋愛に対し、ここまで消極的なのか。 白書の公表以降、各種メディアでなされてきた議論は、次の4点にまとめられる。①経済力の低迷(特に男性の)、②恋愛や結婚に興味のない人の増加、③ひとり時間の充実、④出会いの減少、だ。 私は、これらの解釈にはある程度同意しつつも、やや表面的と感じる。むしろその根底に、今の若者における「変なこと言って空気を乱したらどうしよう」「ズレた提案をして後で自分のせいにされたらどうしよう」という、人の感情に対する強い恐怖心が作用しているのではないかと思う』、興味深い説だ。
・『失敗すると思い込み、最初から「デートしない」  今の若者の多くは、目立ちたくない、100人のうちの1人でいたい、自分で決めたくない、誰かが決めたことに従っていたい、(自分に対する)人の気持ち・感情が怖い、といった心理的特徴を有していて、私は彼らを「いい子症候群」と称し、その深層心理の可視化に努めてきた。) なぜ、彼らはそこまで自分に向けられた他人の感情を怖がり、空気に従おうとするのか。 それは、自分に自信がないからだ。自分に自信がないから、自分に向けられた人の気持ちに過敏になり、それをちょっとでも想像しただけで強い緊張が走る。 自分に自信がないから、100人の中の1人として埋もれていたいと願い、自分に自信がないから、ひたすらメンタルの安定を求め、微細なリスクすらも取らないゼロリスク志向へと突き進む……』、「自分に自信がない」のは若者特有の特徴なのではなかろうか。
・『自分が提案したお店へご飯を食べに行ったとしたら…  そんな心理状態では、デートどころではない。いい子症候群の若者たちにとって、デートや恋愛は、メンタルを不安定にするリスクの塊そのものだ。たとえば、仮に自分が提案したお店へご飯を食べに行ったとしよう。万が一、そのお店の雰囲気が悪かったら、もう気まずくて息もできない。ご飯の味より申し訳なさで頭がいっぱいだ。さらにそんなとき、相手が「別にいつも行く○○(チェーン店)でいいよ」なんて言ってくれようものなら、そんな神レベルの素敵な人が自分のことを好きになるはずはないので、もうデート失敗確定。今後、100年間は異性と食事には行きません。 あるいは、レンタカーを借りてドライブでも行ってみようか。でも万が一、行き場所が定まらず、「ここさっきも通ったな……」とか思われたら、もうそんな空気の中じゃ息もできない。何とか窒息死だけは免れたとしても、その心の声がトラウマすぎて、やはりデート失敗確定。今後100年間、自分からドライブには誘いません。 と、たしかにこんな心理状態では、デートどころではない。もはやその場の空気に対処することに精いっぱいで、相手のことは目に入っていない。デート後も疲労感でいっぱいだ。そして何より、そんな自分を容易に想像できるから、最初からデートしようとは思わない。) 実際、どのくらい今の日本の若者が自分に自信がないかを示すデータは枚挙に暇がない。例えば、2019年の日本財団の若者に対する調査によると、「自分で国や社会を変えられると思う」にYesと回答した割合は18.3%(アメリカ65.7%、中国65.6%)だ。 また2019年の国立青少年教育振興機構の調査によると、「自分はダメな人間だと思うことがある」に「よくあてはまる」「まあまああてはまる」と答えた割合はなんと80.8%(アメリカ61.2%、中国40.0%)だ。この値は2015年には72.5%だったから、日本の若者のダメ人間思考はさらに強まっていることになる。 もっと身近で、かつ本稿の主題に沿うところで見てみよう。私の研究室が2020年に行った大学生・大学院生281名に対するアンケート調査では、自分の見た目に自信があるかという問いに対して「ある」「少しある」が17.4%、「ない」「あまりない」が45.6%であった。同時に、自分のセンスに自信があるかという問いに対し「ある」「少しある」と回答した割合は26.7%、逆に「ない」「あまりない」とした割合は40.0%となる。 このような自己肯定感の低さが積み重なった結果、今の若者は次のような傾向を示す。 ・「有名な大学や学校に通ったほうが有利になる」→そう思う:70%(過去最高) ・「ものごとを判断するときに世間体を気にしてしまう」→そう思う:69%(過去最高) ・「人生をよりよくするためには実力よりもコネが大事」「対外的に自分の立場を説明するためには役職や肩書が重要」「資格が生きる仕事に就きたい」と考える(いずれも国際比較調査で日本は高い数値を計上) ・就職する際、「働きがいのある会社」より「安定している会社」を選択する若者がおよそ3.3倍』、「自己肯定感の低さ」は日本の若者固有の現象で、昔からあったのではなかろうか。
・『分岐点は2010~2012年頃か  あきれを通り越して、恐ろしい状況になりつつあるが、そもそもいつからこのような心理的特徴が強まってきたのか。 私は、2010~2012年頃だと思っている。根拠となるデータはやはり枚挙に暇がない。たとえば、大学生が就職先を選ぶ理由として「自分のやりたい仕事ができる会社」が低下し始め、その代わり「安定している会社」が上昇し始めたのも(マイナビ 2022年卒大学生就職意識調査)、新入社員にとって「仕事が面白い」かどうかは重要ではなくなったのも(日本生産性本部 平成31年度 新入社員「働くことの意識」調査)この頃からだ。 2010年代以降に20代を迎えた彼らは、児童・生徒のときに教育環境の変化も経験している。いわゆるゆとり教育の導入だ。このとき改訂された学習指導要領は、1993年から2010年にかけて小学校へ入学した児童に適用されており、この世代がちょうど今、20代を丸ごと形成している』、「分岐点は2010~2012年頃か」、同じ調査項目での時系列比較ができないのは残念だ。「ゆとり教育」の「世代がちょうど今、20代を丸ごと形成している」、なるほど。
・『「いい子症候群」的気質が恋愛や結婚に影響を与えている  恋愛に関しても、時期が符合するデータがある。たとえば、日本性教育協会が6年ごとに調査している「青少年の性行動調査」によると、2005年調査までは性交経験率は上昇していたが、2011年調査から男女とも低下傾向に転じている。 むろん、これらのデータを構成する要因は多様で複雑だ。ただ、ここまで多くのデータが歩調を合わせたようにタイミングを同期させていることを鑑みると、「いい子症候群」的気質が恋愛や結婚にも強い影響を与えていると考えざるをえない。 ここまで読んだ方は、今後この傾向はどうなるのか、も気になるだろう。私が主に研究対象としているのは大学生から20代であるため、現在、10代の性向をよく知る人たち、つまり中学校・高校の教諭や教育関係者との対話を精力的に進めている。 ただ、今のところ、子供たちの主体性を重んじた教育方針を強めているにもかかわらず、いい子症候群的気質が変わる兆しはなく、むしろ強化されている状況も見られる。今なんとかしなければ、今後しばらくは「いい子」を装った指示待ち人材が大量に産業界へ送り出され、若者の婚姻率は下がり続けることになるかもしれない』、「今なんとかしなければ、今後しばらくは「いい子」を装った指示待ち人材が大量に産業界へ送り出され、若者の婚姻率は下がり続けることになるかもしれない」、前述の通り実証分析に甘さはあるが、大筋はその通りなのだろう。

第三に、6月16日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したノンフィクションライターの窪田順生氏による「「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/304857
・『マスコミが「若者の○○離れ」と言いたがる理由  20代男性のおよそ7割が配偶者や恋人がおらず、およそ4割にいたっては「デートの経験がない」――。内閣府のそんな調査データを受けて、マスコミが「若者の恋愛離れ」だと騒いでいる。 例えば、あるワイドショーでは、「若い男性の“恋愛離れ”が進行しています」と巨大パネルを用いて解説した。スマホゲームやら1人で楽しめる娯楽が増え、恋愛が面倒になっているのではないかとか、人間関係が希薄になって異性との交際を恐れるようになっているのではないか、なんていう専門家らの指摘を紹介していた。 また、別の番組ではコメンテーターの男性が、「私も若い頃は恋愛をたくさんして、すごくいい人生勉強になりましたからこういう結果は残念です」なんておっしゃっていた。「恋愛離れ」によって人として成長できない、と苦言を呈しているようにも聞こえてしまう。 なぜこんなにも「若者の恋愛離れ」に執着するのかというと、マスコミにとって「若者の○○離れ」は大好物だからだ。 自動車が売れないのは、若者が「自動車離れ」をしているから。酒が売れないのは、若者が「アルコール離れ」をしているから。最近ではテレビの視聴率がガタ落ちしているのも、若者が「テレビ離れ」をしていることが原因だと説明されている。 なぜあらゆることを若者のせいにするのか不思議になるだろうが、これはマスコミにとって主たる読者・視聴者である高齢者の共感を得やすいからだ。 新型コロナウイルス感染症の新規感染者が増えるたび、渋谷スクランブル交差点を中継して、「ごらんください!あんなにたくさん若者が出歩いてます!」とレポーターが大はしゃぎして紹介していたことを思い出していただきたい。「まったく、最近の若者は…」「オレが若い頃は…」と高齢者に顔をしかめさせるようなニュースほど数字が稼げるという現実があるのだ。 ただ、そういうビジネス的な事情を考慮しても、「若者の恋愛離れ」をあおるマスコミの姿勢はいただけない。 「20代独身男性の4割がデート未経験」なんて話は昨日今日にはじまったことではなく、今のおじさんたちが“ナウなヤング”だった35年前から存在していた。つまり、時代に関係なく、「若い男性というのはもともとそういうもの」である可能性が高いのだ』、「なぜあらゆることを若者のせいにするのか不思議になるだろうが、これはマスコミにとって主たる読者・視聴者である高齢者の共感を得やすいからだ」、「「まったく、最近の若者は…」「オレが若い頃は…」と高齢者に顔をしかめさせるようなニュースほど数字が稼げるという現実があるのだ」、「「20代独身男性の4割がデート未経験」なんて話は昨日今日にはじまったことではなく、今のおじさんたちが“ナウなヤング”だった35年前から存在していた。つまり、時代に関係なく、「若い男性というのはもともとそういうもの」である可能性が高いのだ」、それにしても、「高齢者に顔をしかめさせるようなニュースほど数字が稼げるという現実がある」、こうしたことで、報道内容が歪められるとは困ったことだ。
・『1980年代後半から「恋愛できない症候群」というネーミング  1987年の厚生省人口問題研究所の「独身調査」によれば、20〜24歳の男性で交際している恋人・婚約者がいると回答したのは26.8%しかない。25〜29歳の男性でも25.6%だ。つまり、20代独身男性の7割が配偶者や恋人がいないという今回の内閣府データとあまり変わらない結果だ。 この恋人・婚約者のいない男性たちの中には当然、デート経験のない人もかなり含まれている。当時の調査では「デート経験」については明らかにされていないが、3〜4割くらいはいたのではないかと推察できる。 それがうかがえるのが、「性体験の有無」だ。当時の調査では、20〜24歳の男性では43%、25〜29歳では30%が「性体験がない」と回答している。もちろん、「性体験がなくてもデートまでは経験がある」という男性もそれなりにいるはずだが、「性体験がない」という男性の中には、そもそも女性と二人っきりになったことがないという人もかなりいるはずなので、「デート経験なし」も近い割合になるのではないかと思う。 3割くらいは恋愛に積極的でガツガツしているが、7割くらいは恋人や配偶者がいない。さらに3〜4割くらいはデートすらしたことがない人も存在している――つまり、2022年も1987年も、若い男性の恋愛の傾向それほど大きな違いはないということだろう。 それはマスコミの報道を見てもわかる。 実は日本では30年以上前から、さまざまな調査によって、女性との交際に積極的ではない男性たちの存在が浮かび上がり、「シングル」という言葉も普及して、今とほぼ変わらない論調が出来上がっている。 例えば、1988年の「読売新聞」では、「独身男が増えている」という連載がスタート。その第1回である『「価値ある」と進んで選択 “30代未婚”10年で倍 女性含めネットワーク』には、今の「若者の恋愛離れ」を紹介した記事の中にあっても違和感のない記述が並ぶ。 <一人で生きる男性が増えてきた。「配偶者に恵まれない」という人もいるが、「自分の世界を大切にしたいから」という人もまた、少なくない>(読売新聞1988年5月31日) さらに翌年になると、「朝日新聞」が恋愛に後ろ向きな人々に、こんなキャッチーなネーミングをする。 <恋愛したけれど相手がいない、異性とどうやって付き合えばいいわからないという「恋愛できない症候群」の若者が、都会を中心に増えている>(朝日新聞1989年7月13日) いかがだろう。この時代から「若者の恋愛離れ」という話は何も変わっておらず、それを紹介するマスコミの論調も変わっていない。厳しい言い方をすれば、なんの進歩もしていないのだ。 人はどうしても「自分が生きている今の時代は特別」と思い込みたい生き物だ。「今はスマホや多様性など、いろんな社会の変化が起きている。だから、人の行動も劇的に変わっているに違いない…」そんな先入観に縛られているので、マスコミの「若者の恋愛離れが進行しています」なんて話にコロッとだまされてしまう。 たかが35年ぽっちで、人々の意識はそれほど劇的に変わらないのだ』、「「今はスマホや多様性など、いろんな社会の変化が起きている。だから、人の行動も劇的に変わっているに違いない…」そんな先入観に縛られているので、マスコミの「若者の恋愛離れが進行しています」なんて話にコロッとだまされてしまう。 たかが35年ぽっちで、人々の意識はそれほど劇的に変わらないのだ」、同感である。
・『政府の失策を「若者の恋愛離れ」のせいにして責任転嫁  さて、そこで次に気になるのは、なぜマスコミは「若者の恋愛離れ」などという与太話をでっちあげてきたのかということだ。 ひとつには、先ほど申し上げたように「若者の○○離れ」が数字の稼げるキラーコンテンだからということもあるが、もうひとつ大きいのは、マスコミの大切な情報源である「政府」に吹き込まれたということが大きい。 <政府関係者は未婚や晩婚化、少子化に拍車をかけることにつながりかねないとして危機感をあらわにしています>(テレ朝news 6月14日) この言葉からもわかるように、日本政府は、「若者の恋愛離れ」は晩婚化や少子化の背中を押す、非常にやっかいな問題であるというスタンスだ。マスコミはその主張をノーチェックで、右から左で流している。 これは見ようによっては「悪質な情報操作」である。少子化という問題を「恋愛に興味を抱かなくなった若者が悪い」ということにして、これまでの政府の失策をウヤムヤにしようとしているからだ。 実は世間的にはあまり知られていないが、少子化というのは、「日本の無策」を象徴する問題だ。50年以上も前からこうなることはわかっていたが、政治が何も有効な手を打つことなく放置してきたからだ。 例えば、1967年4月27日の「ふえる老人 減る子供 人口問題をどうする 厚相、審議会に意見きく」という読売新聞の記事では、以下のような厚生省人口問題研究所の推計が掲載されている。  <総人口は約500万人ずつ増加しているが、これも昭和80年(1億2169万人)をピークとして減少に転じる。(中略)昭和90年には幼少17%、成人63%となり、老齢人口が20%を占めるという> 実際のところ、昭和80年にあたる2005年の人口は1億2777万人で試算よりも増えたが、昭和90年にあたる2015年の15歳未満は12.6%、65歳以上は26.6%となり試算よりも深刻なことになった。このようにある程度のバラつきはあるが、実は日本は50年以上前から現在の「危機」をある程度、正確に予見していたのである。 しかし、何もしてこなかった』、「日本政府は、「若者の恋愛離れ」は晩婚化や少子化の背中を押す、非常にやっかいな問題であるというスタンスだ。マスコミはその主張をノーチェックで、右から左で流している。 これは見ようによっては「悪質な情報操作」である。少子化という問題を「恋愛に興味を抱かなくなった若者が悪い」ということにして、これまでの政府の失策をウヤムヤにしようとしているからだ。 実は世間的にはあまり知られていないが、少子化というのは、「日本の無策」を象徴する問題だ。50年以上も前からこうなることはわかっていたが、政治が何も有効な手を打つことなく放置してきたからだ」、その通りだ。
・『50年前に予測された通りのシナリオが進行  国は、独身者への調査を繰り返すだけで、「恋愛離れだ!」「結婚に価値を見出していない」なんて「若者の意識」のせいにして、諸外国がやっているような対策をサボってきた。 例えば、少子化対策で有名なのは、「子どもへの支出」だ。OECD Family Databaseによれば、子どもに対して社会がどれだけお金を出しているのかという「家族関係社会支出」の割合が高い国であればあるほど、出生率も上がっていく傾向がある。意外に思うかもしれないが、子どもに対して社会全体で手厚いサポートがあれば、「私も親になりたい」と思う人も増えていくことがわかっているのだ。 また、「賃上げ」もそうだ。ご存じのように、日本はこの30年ほとんど賃金が上がっておらず、先進国の中でも際立って低く、韓国にまで平均年収で抜かれている。最低賃金も諸外国の中で低く、若者の貧困化も進んでいる。  「若者が結婚しないのは経済的理由だけではない」みたいなことを主張する経済評論家も多いが、結婚以前に恋愛というのは「見栄」を張る部分もあるので、ファッション、デート、プレゼントなど出費がかさむものだ。日本の常軌を逸した低賃金によって、「恋愛できない」「結婚できない」という若者もかなりいるはずなのだ。 こういう問題を政府が50年放置してきたことで、日本の少子化は拍車がかかってしまった。何もしなかったので、50年前に予測された通りのシナリオが進行しているのだ。もちろん、政府としてはそういう話になることは避けたい。結果が伴っていないのは動かし難い事実なのだが、国は少子化対策をずっと力を注いで一生懸命やってきた、としたい。 となると、誰かを「スケープゴート」にしなくてはいけない。ここまで言えばもうお分かりだろう。そう、それが「若者の恋愛離れ」である』、「こういう問題を政府が50年放置してきたことで、日本の少子化は拍車がかかってしまった。何もしなかったので、50年前に予測された通りのシナリオが進行しているのだ」、「となると、誰かを「スケープゴート」にしなくてはいけない。ここまで言えばもうお分かりだろう。そう、それが「若者の恋愛離れ」である」、「若者の恋愛離れ」を「スケープゴート」にしたとはあり得る話だ。
・『「恋愛をしない独身の若者」は格好のスケープゴート  国は少子化対策に力を入れてきたが、それ以上に足を引っ張っているのが、若い男性たちだ。彼らが恋愛に後ろ向きになってしまったことが最大の問題ということにしてしまえば、すべて解決だ。国は無策の責任を取らなくていいし、「若者の恋愛をサポートします」なんて上っ面の話をしていれば、賃上げや子ども対策という面倒な話に着手しなくて済む。 実はこれは日本という国がよくやる“お家芸”でもある。『医療危機に「国民のがんばり」で立ち向かう、戦時中と変わらぬ日本の姿』の中で詳しく紹介したが、日本は、政府が社会システムの根本から変えなくてはいけないような問題にに直面した時に、国民の責任に話をすり替えて、「個人のがんばり」で乗り切ろうとする悪い癖がある。 最近でわかりやすいのは、コロナ対策だ。他の先進国ではほとんど起きていない「医療崩壊」を2年間も大騒ぎしたのは、日本の医療供給システムに根本的な欠陥があるからであることは明白だが、そこには手をつけず、ひたすら個人のせいにした。 「ルールを守らない飲食店が悪い」「渋谷で遊んでいる若者が悪い」という感じで、医療崩壊という国のシステムエラーから国民の目をそらして、ひたすら「この非常時に協力しない身勝手な人間のせい」にして、医療提供体制の見直しなどの根本的な議論は先送りされている。 「若者の恋愛離れ」にも同じ匂いが漂う。 これから人口減少はさらに拍車がかかる。1年で鳥取県と同じ人口が消えていくので国内経済も加速度的に縮小していく。尻に火がついた時、「こんな状況になるまで放っておいたのは誰だ!」と犯人探しが始まる。 その時、「恋愛をしない独身の若者」は何度でも格好のスケープゴートにされるだろう。 「日本が衰退したのは、ゲームやアニメばかりを楽しんでデートもしない自分勝手な男が増えたからだ!」「最近の若者は何事にも臆病でダメだ!我々が若い時は女性には当たって砕けろだった!」なんて感じで、おじさんたちも怒りをぶつけやすい。政治家も選挙で叫びやすい。若者はそもそも投票に来ないので、いくらディスっても痛くない。 「若者の恋愛離れ」というインチキ話は、そう遠くない未来に始まる「若者ヘイト」の序章なのかもしれない』、「「若者の恋愛離れ」というインチキ話は、そう遠くない未来に始まる「若者ヘイト」の序章なのかもしれない」、政府・マスコミへの痛烈な批判だ。 
タグ:恋愛・結婚 (その6)(:過熱化する不倫報道「書き放題」の残酷すぎる現実 脳科学者・中野信子×国際政治学者・三浦瑠麗、若者のデート離れを加速させる「ゼロリスク志向」 若者の自信のなさが恋愛にも影響する時代に、「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ) 東洋経済オンライン 中野 信子氏 三浦 瑠麗氏 対談「過熱化する不倫報道「書き放題」の残酷すぎる現実 脳科学者・中野信子×国際政治学者・三浦瑠麗」 「現在パートナー(恋人や結婚相手)以外の人とセックスをしている割合は、セックス経験者のうち男性の41.1%、女性の31.4%に」、想像以上の多いようだ。「実際にしている人が多い割に、非難の声があまりに大きいように思える」、同感である。 「最近言われている不倫の増加は、女性の社会進出と密接に関係があるんではないかと私は思っているんですね。女性の地位が上がって、ある程度男女が経済的に対等になったり、場合によっては格差が逆転したりということにも関係があるんではないかなと」、「週刊誌報道の内容に多少脚色や不正確な部分があっても、褒められた行為ではないがゆえに反論すればするほど傷口が広がる。したがってほとんどの人がプライバシー侵害で訴えずに泣き寝入りしています」、なるほど。 「昔の“不倫スキャンダル”は夫の浮気を妻が「芸の肥やし」として認めるパターンもありました。今ではちょっと考えられない」、「社会的には、そういう人々はノーマルからの逸脱として罰を受けやすい状況になっているという感じはしますね」、なるほど。 「世間の反応は私にしてみたら疑問だらけなんですよ」、との「中野」氏の述懐は理解できる。 金間 大介氏による「若者のデート離れを加速させる「ゼロリスク志向」 若者の自信のなさが恋愛にも影響する時代に」 興味深い説だ。 「自分に自信がない」のは若者特有の特徴なのではなかろうか。 「自己肯定感の低さ」は日本の若者固有の現象で、昔からあったのではなかろうか。 「分岐点は2010~2012年頃か」、同じ調査項目での時系列比較ができないのは残念だ。「ゆとり教育」の「世代がちょうど今、20代を丸ごと形成している」、なるほど。 「今なんとかしなければ、今後しばらくは「いい子」を装った指示待ち人材が大量に産業界へ送り出され、若者の婚姻率は下がり続けることになるかもしれない」、前述の通り実証分析に甘さはあるが、大筋はその通りなのだろう。 ダイヤモンド・オンライン 窪田順生氏による「「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ」 「なぜあらゆることを若者のせいにするのか不思議になるだろうが、これはマスコミにとって主たる読者・視聴者である高齢者の共感を得やすいからだ」、「「まったく、最近の若者は…」「オレが若い頃は…」と高齢者に顔をしかめさせるようなニュースほど数字が稼げるという現実があるのだ」、「「20代独身男性の4割がデート未経験」なんて話は昨日今日にはじまったことではなく、今のおじさんたちが“ナウなヤング”だった35年前から存在していた。つまり、時代に関係なく、「若い男性というのはもともとそういうもの」である可能性が高いのだ」 「「今はスマホや多様性など、いろんな社会の変化が起きている。だから、人の行動も劇的に変わっているに違いない…」そんな先入観に縛られているので、マスコミの「若者の恋愛離れが進行しています」なんて話にコロッとだまされてしまう。 たかが35年ぽっちで、人々の意識はそれほど劇的に変わらないのだ」、同感である。 「日本政府は、「若者の恋愛離れ」は晩婚化や少子化の背中を押す、非常にやっかいな問題であるというスタンスだ。マスコミはその主張をノーチェックで、右から左で流している。 これは見ようによっては「悪質な情報操作」である。少子化という問題を「恋愛に興味を抱かなくなった若者が悪い」ということにして、これまでの政府の失策をウヤムヤにしようとしているからだ。 実は世間的にはあまり知られていないが、少子化というのは、「日本の無策」を象徴する問題だ。50年以上も前からこうなることはわかっていたが、政治が何も有効な手を打つこ 「こういう問題を政府が50年放置してきたことで、日本の少子化は拍車がかかってしまった。何もしなかったので、50年前に予測された通りのシナリオが進行しているのだ」、「となると、誰かを「スケープゴート」にしなくてはいけない。ここまで言えばもうお分かりだろう。そう、それが「若者の恋愛離れ」である」、「若者の恋愛離れ」を「スケープゴート」にしたとはあり得る話だ。 「「若者の恋愛離れ」というインチキ話は、そう遠くない未来に始まる「若者ヘイト」の序章なのかもしれない」、政府・マスコミへの痛烈な批判だ。
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随筆(その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘) [人生]

随筆については、2020年2月22日に取上げたままだった。今日は、(その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘)である。同氏のコラムは、このブログでもたびたび紹介してきた。最近は、有料になったので、殆ど紹介できなくなっていたが、突然の訃報になす術もなく、ただ驚き、心を痛めている。ご冥福をお祈りしたい。

先ずは、本年6月24日付け日経ビジネスオンライン「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00162/
・『日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社会に対して、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」と喝破します。 体調が優れずにやむなく休載してからも、「キーボードを打てなくても、音声で入力できてこれがいいんだよ」と話した小田嶋さん。「まだまだ伝えたいことがある」「残さないといけない言葉がある」と連載再開の意欲に満ちあふれていらっしゃいました。 小田嶋さんが残したかったその言葉とは何だったのでしょうか。 謹んでご冥福をお祈りします。(日経ビジネス編集部) この原稿は、とある都内の病院のベッドサイドに設置された硬い椅子の上で書いている。というのも、私は、またしても入院しているからだ。 先週と今週の当欄は、だから、病院からの出稿ということになる。 自分ながらよく働く病人だと思っている。 病的な勤勉さと申し上げても良い。 じっさい、 「勤勉は貧困の一症状である」と言えば言えるわけで、十分な資産なり年収なりを手にしている人間は、病院で原稿を書くみたいな無茶はしない。 でもまあ、ものは考えようだ。 原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ。 そういう意味で、これまでのライター生活の40年が、おおむね適度な貧困に恵まれた月日であったことには感謝している。デビュー作がうっかりベストセラーになっていたりしたら、私はそれっきり何も書かずにアルコールに耽溺していたはずだ。だとすると、私はすでにこの世からいなくなっていたことだろう。感謝せねばならない』、「原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ」、「書き手の心身をすり減らすもの」とは再認識させられた。
・『今回の入院は救急車で搬送された緊急の入院ではない。 あくまでも治療のための入院だ。 新たに開始することになった治療は、通院でも対応可能なものなのだが、毎日病院に通う手間を考えると、いっそ入院したほうが楽だろうと考えた次第だ。その意味では、計画的な入院という言い方もできる。いずれにせよ、大きな心配はいらない。 とはいえ、8月に入院したばかりなのに、またしても病院のお世話になっている状況に心を痛めている読者もいらっしゃるはずだ。甲子園大会の言い方になぞらえるなら、2015年からの7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる。穏やかならぬ頻度だ。訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう。 ん? 私はすでに晩年を生きているのだろうか。 私がどう思っているのかにかかわらず、客観的に見れば、その可能性はある。晩年コラムニストの晩年コラム。多少ありがたみが増すだろうか。 今回は、晩年について考えていることを書いてみようと思う』、「7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる」、「訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう」、結果的にはなってしまったようだ。
・『書店の店頭を眺めてみればわかることなのだが、昨今の出版界では、意外なことに、このテーマ(晩年、老後の過ごし方、穏やかな老い方、死と向き合う方法)を扱った書籍に大いに依存している。であるから中規模以上の書店には、死生観やら老年やらを扱った特別なコーナーが設置されている。そのコーナーの中では、80歳を超えた老大家たちが、いずれも、人生に結末をつける方法について得々と語っていたりする。 さてしかし「晩年」は、観察者の言葉であって当事者の言葉ではない。 どういうことなのかというと、他人の人生を観察なり整理している人間が、生まれた時期と死んだ時点を確認した上で、死亡時から逆算した最後の数年間に「晩年」というタグを貼り付けているだけで、生きている当人は、特段に結末を意識していないということだ。 テニス選手の引退前の幾年かを「晩年」「末期」と呼ぶのは、ジャーナリストなり記者なりの評価であって、選手本人は、ルーキーイヤーであれ5年目であれ引退の前年であれ、同じ気持ちでコートに立っている(はずだ)。だから、事実として、全盛期より見劣りのするショットが行き来しているのだとしても、ひとの選手生活に対して、他人が「晩年」という言葉を使うのは失礼に当たる。 たとえば、研究室でマウスやモルモットの繁殖を担当している助手のことを考えてみれば良い。飼育担当者は万全な注意を払って動物を管理している。であるから、誕生から死に至るイベントを残らずデータとして記録している。その完全な観察者である人間からすれば、マウスの「晩年」はあらかじめわかっている。死んだ時期も、生まれたタイミングも、生存していた年数もすべて把握しているからだ。そこから「晩年」を算出するのはそんなに難しい作業ではない。 しかし、現実に生きている人間が自分の晩年を予断として決定するのは容易なことではない。 自分が何年の寿命を持っていて、あと何年生きるのかがわかっていないと、どのポイントを「晩年」の起点として良いのやら見当がつかない。 晩年を決定できるのは本人だけだという考え方もある。 少なくともかかわりのないひとの晩年を他人が決めるのは失礼に当たる。 「あのヒトもどうやら晩年に差し掛かっているようだな」「昨今の言い草に耳を傾けるに、あの男は晩年の相に突入して久しい」 といった観察ないし言明は、失礼であるのみならず傲慢でもある。 年齢を重ねているからといって、定年を迎えたからといって、晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ。ついでに申し添えれば、若い時代に急逝する人間は、いわゆる晩年に到達しない。彼ら彼女らはポキンと棒が折れるみたいにしてこの世を去る。幸運なことなのか不運なことなのかはたぶん本人にもわからない。 なるほど。 してみると、晩年の過ごし方という、なにやら普遍的に聞こえる話題も、ずいぶんと恣意的な話になる。結局のところ、いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない。 書店の「晩年コーナー」の充実ぶりは、われわれの社会の高齢化を反映したものなのだろう。おそらく、半世紀前に比べて達者で暮らしている70代や80代の高齢者を多く含む令和の日本社会は、それだけ、人生の幕の引き方を示唆する書籍への高い需要をかかえている』、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」、「いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない」、面白いひねりだ。
・『3年ほど前だったか、ある雑誌の企画でその種の「高齢者本」をまとめて10冊ほど読んだことがある。 その時に抱いた印象は、どの本もこちらの予断を裏切って、非常に楽観的な、明るい筆致で書かれていることだった。 いま思えばそもそもこちらの予断が間違っていたのだろう。 考えてみれば、80歳を過ぎて書籍を出版しようという書き手が悲観的な人生観を抱いているはずがないではないか。 出版社の側から見ても、昨今のせちがらい編集会議をくぐりぬけて出版にこぎつける企画である以上、著者として選ぶのはすでにネームバリューを持った人々だ。かつてベストセラーを連発していた小説家であるとか、恋愛スキャンダルで昭和の週刊誌を騒がせた女性であるとか、とにかく肩書だけで読者をひきつけることのできる著者が選ばれている。逆に言えば、編集者としては、書籍の内容よりも著者の知名度にもたれかかっていたほうが、効率的な本作りができるということだ。) かくして、各種老年本をひもといてみると、そこには若々しい希望に満ちた前向きな言葉が並んでいる。もう少し地味な諦観をキメてみせているであろうと思ったのはこちらの見当違いで、じっさいのところの「諦観」は印象として非常に明るいものだったわけだ。 もっとも、この「明るさ」は、半ば以上著者と編集者が結託して作り上げたフィクションというのか、演出上の必然なのだと思う。 死や老年や病苦を扱った書籍が暗い筆致で書かれていたのでは、誰も読む人がいなくなるはずだからだ。 つまり、ともすると暗い方に傾きがちな話題は、つとめて明るく語るきまりごとがあらかじめ設定されているのだろう。 というよりも、そもそも書き手の顔ぶれを並べてみれば、いずれもスーパーな高齢者ばかりで、このジャンルの書き手として選ばれた人間は、フィクションだの演出効果だのをディレクションするまでもなく、はじめから前向きで若々しいとびっきりの楽観老年に限られている。 読者としてこれらの書籍を購入している人々も、おそらくご老人ばかりではない。 個人的な思い込みであることをお断りした上で言うのだが、私は、この種の「晩年」を扱った出版物の読者の平均年齢は、業界の人間が考えているよりずっと若いのではないかと思っている。というのも、死や老年について思いを馳せるのは、むしろ若い人たちだからだ。行き先が見通しにくい世の中で暮らしているからこそ、若い人たちは一足飛びに老年を夢想する。そして、その夢想は、私の世代の者が若かった時代に思い描いていたにべもない老人蔑視とは違って、もう少し地に足のついた現実的な未来像で、必ずしも暗く閉ざされているわけでもない。 「私たち」という一人称複数の代名詞を使うと各方面から即座に「主語が大きい」というツッコミが入るお約束になっているので、ここから先、「私たちの世代」だとかいうフォーカスの甘い主語でものを言うのは控えよう。 少なくとも私は、若かった頃、自分の老年を想像したことなどなかったし、予測も見込みも何も立てていなかった。というのも、そもそも私は自分が40歳以上になるまで生きているとは考えていなかったからで、それゆえ、老年などという単語は徹頭徹尾自分とは無縁なのだと決めてかかっていた。 いま思えば幼稚な思い込みだ。 それ以上に、手前勝手な決めつけでもある。 しかしながら、念のために申し上げておくに、少なくとも昭和の半ば頃までは、若い人間が 「先のことなんか知ったことじゃねえよ」的な考え方で人生の飛び石を渡るのは、さほど珍しい景色ではなかった。というよりも、若者である以上、多かれ少なかれ、捨て鉢な方針を振りかざしていたいものなのだ。別の言い方をすれば、そういうふうに、未来にも過去にも無頓着かつ冷淡であることが「若さ」の真義であると、当時の若者は少なくともそう考えていたのである。 令和の若者は、30年来の不況下で生まれ育った不景気の申し子のような人たちだ。 だから、先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある。わたくしどもの目にはそんなふうに見える。 それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある。現在の若い人たちは、自分が老いることを「知って」いるのだ。なんと賢い若者たちであることだろうか』、「令和の若者は、・・・先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある・・・それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある」、彼らが「老年本」の重要な読者層だとすれば、その通りだ。
・『最後に、まだ老年に差し掛かっていない若い人たちに、先行者としてアドバイスを残しておく。 私が自分ながら幸運だったと思っているのは、原稿を書く仕事とともに老年を迎えていることだ。 原稿執筆は、老年と相性が良い。 テキスト作成は、場所もとらないし、道具もさほどいらない。自分のウデとアタマとPCが一台あれば、たいていのことは間に合ってしまう。 だから病気をしても仕事ができるし、足腰が衰えてもなんとかなる。 そんなわけなので、将来の変わり身に向けて多彩な選択肢を持っているみなさんには、いまのうちに「書く技術」を身につけておくことを、強くおすすめする。 じっさい、書ける人間はヤマほどいる。 というよりもインターネット時代を迎えて、市井に生きる一般人が文章を作成する能力は、飛躍的に向上しつつある。いまやそこいらへんの高校生が、びっくりするほど破綻のない文章をテもなく書いてのける。ただただびっくりするばかりだ。 単純にテキストの出来不出来の話をするなら、プロ水準の原稿を生産する能力を備えた人間は、たぶん600万人(←筆者概算)ほどいるはずだ。 以前、いくつかアマチュアの人たちの書いた文章を添削する機会に恵まれたことがあるのだが、毎度毎度、趣味でものを書いている人たちの筆力の向上ぶりに驚かされたものだ。 一流企業のそれなりの地位にいる管理職のおっさんが、情感にあふれた珠玉のエッセーを書いてきたり、本職では医療事務にたずさわっている女性が、意表を突いた着眼でさらりと笑わせる小洒落たコラムをものしていたりして、プロであるはずの私にしてからが、直すところのなさに往生したものだった。 私のような職業的な書き手と彼らのようなアマチュアの凄腕に差があるのだとすれば、「職をなげうっているかどうか」だけだ。 つまり、文章を書くことを専業として食べて行けるのかどうかは、もはや才能や筆力の問題ではないということだ。ライターとして独立できるのかどうかは、ひとえに「いま食えている仕事を投げ出すことができるのか」にかかっている。 いかに達者な文章を書くからといって、ライターという稼業が、独立研究機関の研究職や航空会社の地上勤務の職を蹴飛ばしてまで挑む価値のある仕事であるのかといえば、はなはだ疑問だと申し上げざるを得ない。) しかしながら、時代は変わっている。 しばらく前から、ライティングにまつわる作業は、ライターの専業ではなくなってきている。 10年もたてば、文章を書くことだけで生計を立てている専業の書き手は、現在の半分ほどに減っているかもしれない。 ライティングの仕事が消滅するわけではない。 たぶん、業界は専業の書き手よりも「書ける素人」を希求している。 というのも、文章作成は、志を持った者が生涯をかけて取り組むべき課題である一方で、収入や作業時間といった諸条件から勘案すると、むしろ副業に向いた仕事だからだ。 問題はペイだ。 現在、ライターは、買い叩かれている。 特にデジタルの原稿料は、web上の有象無象のサイトが品質の低い似たようなテキストを大量に求めている現状を反映した地点に落着している。 クリック数を広告でマネタイズする現状の仕組みが続く限り、テレビ感想文や皇室スキャンダルの焼き直しをミートボールにして煮込んだみたいな低劣なテキストがアクセス数のランキングに並ぶ事態は変わらないだろう。 しかし、こんなバカなことが長く続くはずがない。 読者は質の高い文章を求めている。 そして、質の高い文章を書ける人材は巷にあふれている。 近い将来、文章の質に値段がつく時期がやってくるはずだ。 いずれにせよ、今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み(どうせGAFA頼りだとは思うのだが)が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある』、「今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み・・・が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある」、持って回った表現で、分かり難いが、「ライターの未来」をどうも明るくはみてないような印象を受けた。

次に、6月28日付け日刊ゲンダイ「反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/307399
・『24日に65歳で病死したコラムニストの小田嶋隆さんは「反骨精神の論客」として知られ、日刊ゲンダイにも度々コメントを寄せていた。哀悼の意を込めて、最近の発言を振り返りたい。 「医療従事者には、まるで『パラレルワールド』の出来事でしょう。人流を抑える緊急事態宣言の発令と、海外から数万人の関係者が訪れる五輪開催は大いなる矛盾。その上、『一生に一度の自国開催』とあおり、ブルーインパルスまで飛ばせば『一目見よう』という人が増えるのも無理はない。開会式では医療従事者を競技場内の聖火ランナーに起用するなど、形ばかりの『感謝の気持ち』に明け暮れましたが、おためごかしもいいところ。コロナ禍の大会は医療従事者イジメ。日本勢第1号の金メダリストへの直電で悦に入る菅首相の精神性は、辞任した開会式の楽曲担当者と同じ。単なる“イジメ自慢”です。誰かの犠牲の上に成り立つ五輪は、根本的に間違っています」(2021年7月=東京五輪開催について) 「菅首相は1964年の東京大会でバレー女子チームを金メダルに導いた、大松博文監督に感銘を受けているのでしょう。“鬼の大松”の指導方法をひと言で表せば『シゴキ』。今でいえば壮絶なパワハラで、当時は『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織に根付く負の体質を育むことにもなった。その風潮の変化には実に半世紀もかかったのに、『シゴキ』を今の世によみがえらせようとしているのが、菅首相です。大松監督は帝国陸軍の生き残り。東京五輪はよく『インパール作戦』に例えられますが、監督はその過酷な戦地からの生還者でもある。だからこそ『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調するにいたったのですが、このアナクロニズムこそ菅首相の原点。自称『叩き上げ』の強い自負心もあり、無謀な挑戦も精神力で乗り切れると鼓舞し、医療従事者に限らず国民に全員一丸を押しつける。コロナ禍の五輪開催でシゴキ抜き、国民を強く鍛え上げられると本気で考えているとしか思えません」(2021年7月=菅首相(当時)の「東洋の魔女」発言について) 「曲がりなりにも『一体性、多様性、男女平等』を基本原則に掲げる五輪のホスト国として、日本はふさわしいのか。その点に国際世論は批判の矛先を向けているのです。女性蔑視発言の翌日に組織委が森会長を更迭していれば、まだ個人の問題を正常に処理したとみなされたでしょう。ところが、組織委の武藤敏郎事務総長や遠藤利明副会長ら『わきまえた』幹部は慰留に努め、JOCの山下泰裕会長らもモノが言えない。世耕弘成参院幹事長は『余人をもって代えがたい』、萩生田光一文科相は『最も反省で逆にあの態度』と政府・与党内の取り巻きからも擁護論が飛び出す始末。日本の後進性を世界にアピールしてばかりで結局、更迭の形でけじめをつけられなかった。後任も、若く、清新で、森会長と対照的な精神の持ち主とは言い難い。ただでさえ、五輪は新型コロナ禍で開催すら危ぶまれているのに、この体たらく。日本に自浄能力は期待できないと、世界中の意識の高いアスリートたちがボイコットに動いても、おかしくありません」(2021年2月=JOCの森会長の女性蔑視発言で) 「安倍氏は国会で自信満々に答弁し、野党議員に説教までしていた。その発言が虚偽だったのです。国会で嘘をつくなんて、政治家として終わっている。普通なら恥ずかしくて、議場に座っていられない。すぐにでも議員辞職するような話ですよ。ところが、安倍氏は平然としている。国民の側が政治に対する失望に慣らされ、嘘がまかり通るようになってしまった面もあると思います。底知れぬ政治腐敗を覚えます」) 「ホテルが数百人もいる参加者一人一人と契約して参加費を払ってもらっているなんていう説明があり得ない話なのは、誰もが分かっていた。それでも安倍さんは平気で明らかな嘘をつく。当たり前の常識が通用しない規格外の人です。バレない嘘ならついていい。バレても証拠がなきゃいい、立件されなければいいと思っている。立件されても有罪にならなきゃいいとすら思っている。そういう人には牢屋に入ってもらって、臭いメシを食べてもらうしかないんじゃないでしょうか。そうでもしなければ、改心することはないでしょう」(2020年11月=安倍首相の虚偽答弁が118回に及んだことについて)』、本質を突いた手厳しい批判は胸がすくようだ。
・『「安倍政権で日本語が意味を喪失、行政文書が紙ゴミに」  「安倍さん自ら『結果を出すことが重要』と言っている以上、首相を辞めた理由はどうであれ、8年に及ぶ安倍政治はきちんと総括されなければなりません。病気だからといって、執政が批判されない理由にはならないのです。文書主義を否定し、行政を“私物化”した安倍政権とは何だったのか、ちゃんと検証しない限り、時の政権による行政支配が続いていくと思います」(2020年9月=安倍首相が2度目の首相辞任を決めたことについて) 「政権の罪は、むしろ、彼らの日常動作の中にある。たとえば、行政文書を前例通りに記録・保存するという行政の担当者としてのあたりまえの習慣を、安倍晋三氏とその追随者たちは、政権を担当したこの8年の間に完膚なきまでに破壊した。それだけではない。彼らは、自分たちの政治資金の出納をまっとうに報告するという、政治家としての最も基本的な義務すら果たしていない」 「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている。一刻も早くこの国から消えてもらいたいと思っている」(2020年2月=安倍政権について) 「年金法案など個別の政策には反対が多いし、アベノミクスも失敗した。普通なら安倍内閣の支持率は下がるはずです。それなのに上がる理由は、ひとつは民進党が信頼されず、代わりがいないから。そしてもうひとつは、政策ではなく『安倍首相』というキャラクターが支持されているからではないでしょうか。トランプ現象が代表例ですが、世界中でハッキリ物を言うリーダーが受けている。安倍さんが国会で民進党をディスる姿が、むしろたくましいと思われている。弱者を助け、人権を守るというような戦後民主主義のリベラル思想を切り捨て、『甘ったれるな』と弱者の尻を叩くのを、正直な人だと好感を持って捉える。そんな背景があるように感じています」 「このままでは、弱者のためのセーフティーネットがなくなってしまいかねない。そうなれば、結果的に社会から活力や生産性が失われる。年を取ったり病気など不幸なことで、誰もが弱者になる可能性があるのに、セーフティーネットがなければ二度と這い上がれません。これ以上、格差拡大や社会的分断が加速すれば、取り返しのつかないことになってしまいます」(2020年1月=安倍政権について)』、「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている」、こうした手厳しい批判者が欠けてしまうのも、寂しい限りだ。
タグ:「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」、「いまこの時を精いっぱいに生きる以外に方途を持たない大部分の凡人からすれば、晩年などという言葉を振り回しにかかること自体、いけ好かない態度であるのかもしれない」、面白いひねりだ。 「7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる」、「訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう」、結果的にはなってしまったようだ。 「原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ」、「書き手の心身をすり減らすもの」とは再認識させられた。 日経ビジネスオンライン「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」 随筆 (その4)(追悼 小田嶋隆氏2題:小田嶋隆さん お疲れ様でした そしてありがとう、反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘) 「令和の若者は、・・・先行きの見込みや未来の展望について、うわついたところがない。 こういう世界が、このまま、たいして変わることもなく、いつまでも続くのだろうと、なんとなくそう決めてかかっているフシがある・・・それゆえ彼らは、楽観的な老年本に誘引されるのではないか。昭和の若者が老後や近未来に一瞥もくれなかったことを思うと実に隔世の感がある」、彼らが「老年本」の重要な読者層だとすれば、その通りだ。 「今後、文章を含んだページを適正にマネタイズする枠組み・・・が整備されて、利益に見合った適正な原稿料が配布されるシステムが完成すれば、ライターの未来はそんなに暗くない。 しばらくの間、食えない時代が続くかもしれないが、心配はない。 文章の上手な素人というのは、どこに置いても素敵な存在だし、なにより、ライターの伝統的な持ち前は「食えない」ところにある」、持って回った表現で、分かり難いが、「ライターの未来」をどうも明るくはみてないような印象を受けた。 日刊ゲンダイ「反骨のコラムニスト小田嶋隆さんの発言を振り返る 東京五輪の矛盾や安倍政権の罪を指摘」 本質を突いた手厳しい批判は胸がすくようだ。 「安倍政権の中枢に連なるメンバーは、正確な日本語を使い、公の場でウソをつかないという、日本の大人として守るべき規範さえ、きれいにかなぐり捨ててしまっている。おかげで、わたくしどものこの日本の社会では、日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌してしまっている。でもって、血統と人脈とおべっかと忖度ばかりがものを言う、寒々とした前近代がよみがえりつつある。(略)安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。私はそう思っている」、こうし
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