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メディア(その32)(朝日新聞元エース記者が暴露する朝日新聞政治部シリーズ:(1)「吉田調書事件」とは何だったのか、(2)「吉田調書事件」とは何だったのか、(3)小渕恵三首相「沈黙の10秒」) [メディア]

メディアについては、5月29日に取上げた。今日は、(その32)(朝日新聞元エース記者が暴露する朝日新聞政治部シリーズ:(1)「吉田調書事件」とは何だったのか、(2)「吉田調書事件」とは何だったのか、(3)小渕恵三首相「沈黙の10秒」)である。

先ずは、5月23日付け現代ビジネスが掲載したジャーナリストの鮫島 浩氏による「元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(1)朝日新聞政治部(1)」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95386?imp=0
・『「鮫島が暴露本を出版するらしい」「俺のことも書いてあるのか?」――いま朝日新聞社内各所で、こんな会話が交わされているという。元政治部記者の鮫島浩氏が上梓した​『朝日新聞政治部』は、登場する朝日新聞幹部は全員実名、衝撃の内部告発ノンフィクションだ。 戦後、日本の左派世論をリードし続けてきた、朝日新聞政治部。そこに身を置いた鮫島氏が明かす政治取材の裏側も興味深いが、本書がもっとも衝撃的なのは、2014年に朝日新聞を揺るがした「吉田調書事件」の内幕をすべて暴露していることだ。 今日から7回連続で、本書の内容を抜粋して紹介していく』、興味深そうだ。
・『夕刊紙に踊る「朝日エリート誤報記者」の見出し  2014年秋、私は久しぶりに横浜の中華街へ妻と向かった。息苦しい都心からとにかく逃れたかった。 朝日新聞の特別報道部デスクを解任され、編集局付という如何にも何かをやらかしたような肩書を付与され、事情聴取に呼び出される時だけ東京・築地の本社へ出向き、会社が下す沙汰を待つ日々だった。蟄居謹慎(ちっきょきんしん)とはこういう暮らしを言うのだろう。駅売りの夕刊紙には「朝日エリート誤報記者」の見出しが躍っていた。私のことだった。 ランチタイムを過ぎ、ディナーにはまだ早い。ふらりと入った中華料理店はがらんとしていた。私たちは円卓に案内された。注文を終えると、二胡を抱えたチャイナドレスの女性が私たちの前に腰掛け、演奏を始めた。私は紹興酒を片手に何気なく聴き入っていたが、ふと気づくと涙が溢れている。 「なぜ泣いているの?」 二胡の音色をさえぎる妻の声で私はふと我に返った。人前で涙を流したことなんていつ以来だろう。ちょっと思い出せないな。これからの私の人生はどうなるのだろう。 朝日新聞社は危機に瀕していた。私が特別報道部デスクとして出稿した福島原発事故を巡る「吉田調書」のスクープは、安倍政権やその支持勢力から「誤報」「捏造」と攻撃されていた。政治部出身の木村伊量社長は、過去の慰安婦報道を誤報と認めたことや、その対応が遅すぎたと批判する池上彰氏のコラム掲載を社長自ら拒否した問題で、社内外から激しい批判を浴びていた。 「吉田調書」「慰安婦」「池上コラム」の三点セットで朝日新聞社は創業以来最大の危機に直面していたのである。特にインターネット上で朝日バッシングは燃え盛っていた。 木村社長は驚くべき対応に出た。2014年9月11日に緊急記者会見し、自らが矢面に立つ「慰安婦」「池上コラム」ではなく、自らは直接関与していない「吉田調書」を理由にいきなり辞任を表明したのである。さらにその場で「吉田調書」のスクープを誤報と断定して取り消し、関係者を処罰すると宣告したのだ。 寝耳に水だった。 その後の社内の事情聴取は苛烈を極めた。会社上層部はデスクの私と記者2人の取材チームに全責任を転嫁しようとしていた。5月に「吉田調書」のスクープを報じた後、木村社長は「社長賞だ、今年の新聞協会賞だ」と絶賛し、7月には新聞協会賞に申請した。ところが9月に入って自らが「慰安婦」「池上コラム」で窮地に追い込まれると、手のひらを返したように態度を一変させたのである』、「木村社長は「社長賞だ、今年の新聞協会賞だ」と絶賛し、7月には新聞協会賞に申請」、それを手の平を返して「辞任を表明」とは、全く節操がない人物だ。
・『私がどんな「罪」に問われていたか  巨大組織が社員個人に全責任を押し付けようと上から襲いかかってくる恐怖は、体験した者でないとわからないかもしれない。それまで笑みを浮かべて私に近づいていた数多くの社員は蜘蛛の子を散らすように遠ざかっていった。 私は27歳で政治部に着任し、菅直人、竹中平蔵、古賀誠、与謝野馨、町村信孝ら与野党政治家の番記者を務めた。39歳で政治部デスクになった時は「異例の抜擢」と社内で見られた。その後、調査報道に専従する特別報道部のデスクに転じ、2013年には現場記者たちの努力で福島原発事故後の除染作業の不正を暴いた。この「手抜き除染」キャンペーンの取材班代表として新聞協会賞を受賞した。 朝日新聞の実権を握ってきたのは政治部だ。特別報道部は政治部出身の経営陣が主導して立ち上げた金看板だった。私は政治部の威光を後ろ盾に特別報道部デスクとして編集局内で遠慮なく意見を言える立場となり、紙面だけではなく人事にまで影響力を持っていた。それが一瞬にして奈落の底へ転落したのである。 ああ、会社員とはこういうものか――。そんな思いにふけっているところへ、妻の声が再び切り込んできた。二胡の妖艶な演奏は続いている。 「なぜ泣いているの?」 「なんでだろう……。たぶん厳しい処分が降りるだろう。懲戒解雇になると言ってくる人もいる。すべてを失うなあ……。いろんな人に世話になったなあと思うと、つい……」 妻はしばらく黙っていたが、「それ、ウソ」と言った。続く言葉は強烈だった。 「あなたはこれから自分が何の罪に問われるか、わかってる? 私は吉田調書報道が正しいのか間違っているのか、そんなことはわからない。でも、それはおそらく本質的なことじゃないのよ。あなたはね、会社という閉ざされた世界で『王国』を築いていたの。誰もあなたに文句を言わなかったけど、内心は面白くなかったの。あなたはそれに気づかずに威張っていた。あなたがこれから問われる罪、それは『傲慢罪』よ!」 紹興酒の酔いは一気に覚めた。妻はたたみかけてくる。 「あなたは過去の自分の栄光に浸っているだけでしょ。中国の皇帝は王国が崩壊した後、どうなるか、わかる? 紹興酒を手に、妖艶な演奏に身を浸して、我が身をあわれんで涙を流すのよ。そこへ宦官がやってきて『あなたのおこなってきたことは決して間違っておりません。後世必ずや評価されることでしょう』と言いつつ、料理に毒を盛るのよ!」 中国の皇帝とは、仰々しいたとえである。だが、妻の目に私はそのくらい尊大に映っていたのだろう。そして会社の同僚たちも社内を大手を振って歩く私を快く思っていなかったに違いない。私はそれにまったく気づかなかった。 「裸の王様」がついに転落し、我が身をあわれんで涙を流す姿ほど惨めなものはない。そのような者に誰が同情を寄せるだろうか。 私は、自分がこれから問われる「傲慢罪」やその後に盛られる「毒」を想像して背筋が凍る思いがした。泣いているどころではなかった。独裁国家でこのような立場に追い込まれれば、理屈抜きに生命そのものを絶たれるに違いない。今日の日本社会で私の生命が奪われることはなかろう。奈落の底にどんな人生が待ち受けているかわからないが、生きているだけで幸運かもしれない。 そんな思いがよぎった後、改めて「傲慢罪」という言葉を噛み締めた。「吉田調書」報道に向けられた数々の批判のなかで私の胸にストンと落ちるものはなかった。しかし「傲慢罪」という判決は実にしっくりくる。そうか、私は「傲慢」だったのだ! 政治記者として多くの政治家に食い込んできた。ペコペコすり寄ったつもりはない。権力者の内実を熟知することが権力監視に不可欠だと信じ、朝日新聞政治部がその先頭に立つことを目指してきた。調査報道記者として権力の不正を暴くことにも力を尽くした。朝日新聞に強力な調査報道チームをつくることを夢見て、特別報道部の活躍でそれが現実となりつつあった。それらを成し遂げるには、会社内における「権力」が必要だった――。 しかし、である。自分の発言力や影響力が大きくなるにつれ、知らず知らずのうちに私たちの原点である「一人一人の読者と向き合うこと」から遠ざかり、朝日新聞という組織を守ること、さらには自分自身の社内での栄達を優先するようになっていたのではないか。 私はいまからその罪を問われようとしている。そう思うと奈落の底に落ちた自分の境遇をはじめて受け入れることができた。 そして「傲慢罪」に問われるのは、私だけではないと思った。新聞界のリーダーを気取ってきた朝日新聞もまた「傲慢罪」に問われているのだ』、奥さんに指摘された「あなたはね、会社という閉ざされた世界で『王国』を築いていたの。誰もあなたに文句を言わなかったけど、内心は面白くなかったの。あなたはそれに気づかずに威張っていた。あなたがこれから問われる罪、それは『傲慢罪』よ!」は、実に本質を突いた至言だ。
・『日本社会がオールドメディアに下した判決  誰もが自由に発信できるデジタル時代が到来して情報発信を独占するマスコミの優位が崩れ、既存メディアへの不満が一気に噴き出した。2014年秋に朝日新聞を襲ったインターネット上の強烈なバッシングは、日本社会がオールドメディアに下した「傲慢罪」の判決だったといえる。木村社長はそれに追われる形で社長から引きずり下ろされたのだ。 「吉田調書」報道の取り消し後、朝日新聞社内には一転して、安倍政権の追及に萎縮する空気が充満する。他のメディアにも飛び火し、報道界全体が国家権力からの反撃に怯え、権力批判を手控える風潮がはびこった。安倍政権は数々の権力私物化疑惑をものともせず、憲政史上最長の7年8ヵ月続く。 マスコミの権力監視機能の劣化は隠しようがなかった。民主党政権下の2010年に11位だった日本の世界報道自由度ランキングは急落し、2022年には71位まで転げ落ちた。新聞が国家権力に同調する姿はコロナ禍でより顕著になった。 木村社長が「吉田調書」報道を取り消した2014年9月11日は「新聞が死んだ日」である。日本の新聞界が権力に屈服した日としてメディア史に刻まれるに違いない。 私は2014年末、朝日新聞から停職2週間の処分を受け、記者職を解かれた。6年半の歳月を経て2021年2月に退職届を提出し、たった一人でウェブメディア「SAMEJIMA TIMES」を創刊した。 私と朝日新聞に突きつけられた「傲慢罪」を反省し、読者一人一人と向き合うことを大切にしようと決意した小さなメディアである。自らの新聞記者人生を見つめ直し、どこで道を踏み外したのかをじっくり考えた。本書はいわば「失敗談」の集大成である。 世の中には新聞批判が溢れている。その多くに私は同意する。新聞がデジタル化に対応できず時代に取り残されたのも事実だ。一方で、取材現場の肌感覚とかけ離れた新聞批判もある。新聞の歩みのすべてを否定する必要はない。そこから価値のあるものを抽出して新しいジャーナリズムを構築する材料とするのは、凋落する新聞界に身を置いた者の責務ではないかと思い、筆を執った。 この記事は大手新聞社の中枢に身を置き、その内情を知り尽くした立場からの「内部告発」でもある。 次回は「新人時代のサツ回りが新聞記者をダメにする」​です』、「木村社長が「吉田調書」報道を取り消した」、どんな事情があったのだろう。

次に、この続きを、5月24日付け現代ビジネスが掲載したジャーナリストの鮫島 浩氏による「元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(2) 朝日新聞政治部(2)」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95464?imp=0
・『「鮫島が暴露本を出版するらしい」「俺のことも書いてあるのか?」――いま朝日新聞社内各所で、こんな会話が交わされているという。元政治部記者の鮫島浩氏が上梓する『朝日新聞政治部』(5月27日発売、現在予約受付中)​は、登場する朝日新聞幹部は全員実名、衝撃の内部告発ノンフィクションだ。 戦後、日本の左派世論をリードし続けてきた、朝日新聞政治部。そこに身を置いた鮫島氏が明かす政治取材の裏側も興味深いが、本書がもっとも衝撃的なのは、2014年に朝日新聞を揺るがした「吉田調書事件」の内幕をすべて暴露していることだ。 同書の内容を抜粋して紹介する。7日連続公開の第2回は、新聞記者が新人時代に必ず通る「地方支局でのサツ(警察)回り」の実態だ』、興味深そうだ。
・『キャリア官僚の話に興味が持てない  私は1994年に京都大学法学部を卒業し、朝日新聞に入社した。バブル経済は崩壊していたものの、その余韻が残る時代だった。数年後にやってくる就職氷河期の「失われた世代」や現在の「コロナ禍世代」と比べれば、気楽な就職活動の時代であった。 当時の京大生のご多分に漏れず、学業に熱心とは言い難い生活だった。就活中の1993年は自民党が衆院選に敗北して下野し、細川連立内閣が発足した戦後政治史の重要な年である。京大キャンパスのある衆院京都1区(当時は中選挙区制)からは、のちに民主党代表となる前原誠司氏が日本新党から出馬して初当選した。だが、私にはこの衆院選の投票に行った記憶がない。 新聞も購読していなかった。母子家庭で仕送りがなく、奨学金とアルバイト代で辛うじて学生生活を送っていたというのは言い訳である。 トイレも風呂も洗面所もない「離れ」に下宿した入学当初はたしかに厳しい暮らしだったが、3~4年生になると塾講師のアルバイトで稼いで自分の車まで所有していた。単に「学び」に不熱心だったというほかない。国立大学なら奨学金とアルバイトで何とか下宿し、通学し、それなりに遊び、卒業して就職できる幸運な時代だった。 朝日新聞の採用試験を受けたのも、当時交際していた同じ年の女性が新聞社志望で、募集要項をもらってきたのがきっかけだった。今となってはそこに何を書き込んだのかも覚えていない。朝日新聞といえばリベラルというくらいの印象しかなかった。ただ、これを境にそろそろ就職活動をしないといけないとにわかに焦り始めたことを覚えている。 親しい友人たちが国家公務員一種試験(法律職)を目指して勉強していたので、遅ればせながらその輪に入れてもらった。2~3ヵ月、過去問をひたすら解いて挑んだ筆記試験に合格し、友人たちに驚かれた。要領は良かったのだろう。その後、キャリア官僚と「面接」を重ねたが、自慢話を聞かされるばかりで興味を持てなかった。そこで、様々な業種から名前を知っている大企業をひとつずつ選んで訪問することにした。銀行、生保、メーカー……。朝日新聞はそのひとつに過ぎなかった。世間知らずの学生だった。 面接は得意だった。当意即妙の受け答えには割と自信があった(政治記者になった後も記者会見やインタビューで二の矢三の矢を放つのが好きだった)。それが功を奏したのか、朝日新聞を含め、いくつか内定をいただいた。 朝日新聞の東京本社や京都支局にうかがって現役の新聞記者にも会ったが、興味のわく人はいなかった。キャリア官僚と同じ匂いがした。 私は朝日新聞の内定を断った。代わりに選んだのが新日鉄(現・日本製鉄)である。この会社は会う人会う人が魅力的だった。私は新日鉄にのめり込んでいった。各地の製鉄所も見学させてもらった。「鉄は国家なり」と熱く語る人、ヒッタイト以来の鉄の歴史を研究して披露する人、鉄鋼労働者が暮らす四畳半の宿舎を案内し「君がこの会社で最初にする仕事はこの部屋が煙草の不始末で火事にならないようにすることだ」と説く人。みんな思いが詰まっていて、キャリア官僚や新聞記者より輝いて見えた。 なかでも私を気に入ってくれたのが、Sさんだった。私は京都から大阪・梅田の高層ビルに入る高級店に何度となく呼び出され、「君と一緒に仕事をしたい」と口説かれた。Sさんはパリッとしたスーツに身を固め、紳士的で、格好良かった。キャリア官僚や新聞記者とはまるで違った。私は新日鉄へ入社する決意をSさんに告げた』、「梅田の高層ビルに入る高級店に何度となく呼び出され」、「新日鉄」も優秀な大学生にはかなり手をかけたようだ。
・『「新聞記者は主役になれない」  迷走はここから始まる。私は世の中をあまりに知らなかった。自分がいざ「鉄鋼マン」になると思うと、「鉄は国家なり」と熱く語る人やヒッタイトの歴史を熟知する人のように鉄に人生を捧げる覚悟が湧いてこなかった。「鉄」に限らずビジネスの世界で生きる将来の自画像がまったく浮かんでこなかったのだ。 一度決断しないと本心に気づかないのは困ったものである。就活の季節はとっくに過ぎ去っていた。内定を断った会社に今一度問い合わせてみた。 そのなかで唯一「今からでも来ていいよ」と答えてくれたのが朝日新聞社だった。当時の採用担当者から「君は新聞のことを知らなすぎる。新聞記者としてうまくいくかわからないけれど、来たいのなら来てもいいよ」と言われ、負けん気に火がついたのである。 私は大阪・梅田で新日鉄のSさんに会い、内定をお断りした。「どこにいくのか」と聞かれ、「新聞記者になります」と答えた。Sさんは引かなかった。「なぜ新聞記者なのか」と繰り返し迫った。私はとっさに「いろんな人の人生を書きたいからです」と魅力を欠く返答をした。彼は決して譲らず、熱く語った。 「新聞記者は人の人生を書く。所詮は人の人生だ。主役にはなれない。我々は自分自身が人生の主役になる。新日鉄に入って一緒に主役になろう」 熱かった。心が揺れた。私はこののち多くの政治家や官僚を取材することになるが、このときのSさんほど誠実で心に迫る言葉に出会ったことがない。いわんや、朝日新聞の上司からこれほど心を揺さぶられる説得を受けたことはない。 しかし、Sさんの熱い言葉は、彼の思いを超えて、私に新たな「気づき」を与えたのだった。ビジネスの世界に身を投じることへの抵抗感が自らの心の奥底に強く横たわっていることを、私はこのときSさんの熱い言葉に追い詰められて初めて自覚したのである。 「なぜ新聞記者なのか」と繰り返すSさんに、私がとっさに吐いた言葉は「ビジネスではなく、政治に関心があるからです」だった。政治家になろうと考えたことはなかった。政治に詳しくもなかった。なぜ「政治に関心がある」という言葉が出てきたのか、自分でもわからない。 いま振り返ると、一介の学生が働き盛りの鉄鋼マンに「なぜ新聞記者なのか」と迫られ、「ビジネス」への対抗軸として絞り出した答えが「政治」だったのだろう。多くの書物を読んで勉学を重ねた学生なら「学問」「文化」「芸術」などという、もう少し気の利いた言葉が浮かんだのかもしれないが、当時の私はあまりにも無知で無学で野暮だった。「政治」という言葉しか持ち合わせていなかったのだ。 ところが、「政治」という言葉を耳にして、Sさんはついに黙った。ほどなくして「残念だ」とだけ言った。Sさんとの別れだった。彼にとって「政治」とは、どんな意味を持つ言葉だったのか。当時の私には想像すらできなかった。 Sさんに投げかけられた「なぜ新聞記者なのか」という問いを、私はその後の新聞記者人生で絶えず自問自答してきた。客観中立を口実に政治家の言い分を垂れ流す政治記事を見るたびに、「新聞記者は主役になれない」と言い切ったSさんの姿を思い出した。いつしかSさんに胸を張って「主役になりましたよ」と言える日が来ることを志し、27年間、新聞記者を続けてきた。山あり谷あり波乱万丈の記者人生だったが、Sさんと再会して「君は主役になったな」と認めてもらえる自信はない。「所詮は新聞という小さな世界の内輪の話だよ」と言われてしまう気もする。 鉄も新聞も斜陽と呼ばれて久しい業界だ。学生時代の私が進路を決めるにあたり鉄と新聞で揺れたのは、果たして偶然だったのだろうか。私がSさんにとっさに吐いた言葉の後を追うように「政治記者」となり、多くの政治家とかかわるようになったのは運命だったのだろうか。 いずれにせよ、私は「新聞記者は主役になれない」という言葉を背負って朝日新聞に入社した。そこには新聞記者を志し、とりわけ朝日新聞に憧れて難関を突破してきた大勢の同期がいた。朝日新聞記者の初任給は当時、日本企業でトップクラスだった。日本の新聞の発行部数はまだ伸びていた。1994年春である。 太平洋の向こう側、アメリカ西海岸ではIT革命が幕を開けようとしていた』、当初は新日鉄入社を考えていたが、「鉄に人生を捧げる覚悟が湧いてこなかった」、「「新聞記者は主役になれない」という言葉を背負って朝日新聞に入社した」、なるほど。
・『記者人生を決める「サツ回り」  新聞記者人生は大概、地方の県庁所在地から始まる。新人記者は県警本部の記者クラブに配属され、警察官を取材する「サツ回り」で同僚や他社の記者と競わされる。支局には入社1~5年目の記者がひしめく。同世代はみんなライバルだ。 私は違った。初任地は茨城県のつくば支局。大学と科学の街である。県庁所在地ではなく県警本部はない。他社に新人記者は一人もいなかった。大半は科学記者だ。朝日新聞つくば支局は科学部出身の支局長、科学部兼務の記者、新人の私の3人。畑が点在する住宅街にある赤煉瓦の一軒家に支局長が居住し、その一角が私たちのオフィスになっていた。 同期たちからは「まあ、気を落とすなよ」と言われた。彼らには私が会社員人生の初っぱなから「コースを外れた」と映ったようだ。すでに出世競争は始まっていた。サツ回りで評価された記者が政治部や社会部に進む新聞社の常識を、私は知らなかった。 1994年4月、私は水戸支局に赴任する同期のY記者と特急スーパーひたちに乗り込んだ。茨城県全域を統括する水戸支局長に着任の挨拶をするためだ。支局長は社会部の警視庁記者クラブで活躍した特ダネ記者という評判だった。 水戸支局は水戸城跡のお堀に面した通りにある。いちばん奥のソファに、彼は仰向けに寝そべっていた。黒いサングラスをかけ、白いエナメルの靴を履いた足を投げ出している。その姿勢を維持したまま、彼は少し頬を緩めボソボソと口を開いた。 「世の中の幸せの量は決まっている。Yの幸せはサメの不幸、サメの幸せはYの不幸」 訓示はそれで終わった。何が言いたいんだ、競争心を煽っているのか、とんでもないところに来てしまった、これが新聞社なのか……。 この水戸支局長、野秋碩志(のあきひろし)さんが私の最初の上司である。 Y記者は早速、3人チームのサツ回りに投入された。入社3年目の県警キャップと2年目のサブキャップのもとで徹底的にこき使われるのだ。昼間は県警記者クラブで交通事故や火災などの発表を短行記事にする。殺人事件や災害が起きれば現場へ向かい、関係者の話を聞いたり写真を撮ったりする。朝と夜は警察官の自宅を訪問して捜査情報を聞き出す。いわゆる「夜討ち朝駆け」だ。 当時携行させられていたのはポケベルだった。休日深夜を問わず鳴り続ける。警察官宅で酔いつぶれたキャップから車で迎えに来るように呼びつけられることもある。 県警発表を記事にするだけでは評価されない。未発表の捜査情報――「明日逮捕へ」とか「容疑者が~と供述」とか――を、他社を出し抜いて書く。これら特ダネは、警察官と仲良くなって正式発表前に特別に教えてもらうリーク型がほとんどだ。不都合な事実を暴く正真正銘の特ダネとは違う。 新聞というムラ社会の中だけで評価される特ダネを積み重ねることが「優秀な新聞記者」への第一歩となる。逆に他社に特ダネを書かれることを「抜かれ」といい、他の全社が報じているのに一社だけ記事にできずに取り残されることを「特オチ」という。それらが続くと「記者失格」の烙印を押される。サツ回りで特ダネを重ねた記者が支局長やデスクに昇進し、自らの「成功体験」を若手に吹聴して歪んだ記者文化が踏襲されていく。 駆け出し記者は特ダネをもらうのに必死だ。あの手この手で警察官にすり寄る。会食を重ねゴルフや麻雀に興じる。風俗店に一緒に行って秘密を共有する。警察官が不在時に手土産を持って自宅を訪れ、奥さんや子どもの相談相手となる。無償で家庭教師を買って出る……。休日も費やす。とにかく一体化する。こうして警察官と「癒着」を極めた記者が特ダネにありつける。 警察は記者同士の競争意識につけ込み、警察に批判的な記者には特ダネを与えない。他の記者全員にリークし、批判的な記者だけ「特オチ」させることもある。記者たちはそれに怯え、従順になる。こうした環境で警察の不祥事や不作為を追及する記事が出ることは奇跡に近い』、「警察官と「癒着」を極めた記者が特ダネにありつける。 警察は記者同士の競争意識につけ込み、警察に批判的な記者には特ダネを与えない。他の記者全員にリークし、批判的な記者だけ「特オチ」させることもある。記者たちはそれに怯え、従順になる。こうした環境で警察の不祥事や不作為を追及する記事が出ることは奇跡に近い」、「警察」のマスコミ・コントロールは容易なようだ。
・『競わされる相手がいなかった  日本の新聞記者の大多数はこうしたサツ回りの洗礼を受け、そこで勝ち上がった記者が本社の政治部や社会部へ栄転していく。敗れた記者たちもサツ回り時代に埋め込まれた「特ダネへの欲求」や「抜かれの恐怖」のDNAをいつまでも抱え続ける。 純朴で真面目なY記者は日々、明らかに憔悴していった。 私は違った。つくばには他社を含め新人記者は私しかいない。警察本部もない。つくば中央警察署(現・つくば警察署)に取材に訪れる記者は私だけだった。競わされる相手がいなかったのだ。末端の警察官まで私を歓迎してくれた。 しかもメインの取材先は警察ではなかった。私は科学以外のすべてを一人で担う立場にあった。つくば市など茨城県南部の読者に向けて地域に密着した話題(いわゆる「街ダネ」)を県版に毎日写真入りで伝えることを期待された。カメラをぶら下げ、市井の人々と会い、日常のこぼれ話を来る日も来る日も記事にした。 27年間の新聞記者人生でこの時ほど原稿を書いた日々はない。当時はフィルム時代だった。つくば支局にはカラー現像機がなかった。私は毎日、白黒フィルムで撮影し、暗室にこもって写真を焼いた。 この記者生活は楽しかった。私は新人にして野放しだった。夜討ち朝駆けはほとんどしなかった。毎朝目覚めると「今日はどこへ行こうか」「誰と会おうか」「何を書こうか」と考えた。私は自由だった。毎日が新鮮だった。 この野放図な新人時代は、私の新聞記者像に絶大な影響を与えることになる。 次回は「政治取材の裏側〜小渕恵三首相の沈黙の10秒」​​。「野放図な新人時代は、私の新聞記者像に絶大な影響を与えることになる」、幸運だったようだ。

第三に、この続きを、5月25日付け現代ビジネスが掲載したジャーナリストの鮫島 浩氏による「話題の書『朝日新聞政治部』先行公開第3回〜小渕恵三首相「沈黙の10秒」 朝日新聞政治部(3)」を紹介しよう。
・『・・・戦後、日本の左派世論をリードし続けてきた、朝日新聞政治部。そこに身を置いた鮫島氏が明かす政治取材の裏側も興味深いが、本書がもっとも衝撃的なのは、2014年に朝日新聞を揺るがした「吉田調書事件」の内幕をすべて暴露していることだ。 7日連続先行公開の第3回は、初めて政治部に着任した鮫島氏が小渕恵三総理と向き合う緊迫の場面を紹介する』、興味深そうだ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95521?imp=0
・『政治記者は「権力と付き合え」  1999年春、私は政治部へ着任した。時は小渕恵三政権である。自民、自由、公明の連立政権が動き始めていた。小泉純一郎政権から安倍晋三政権へ至る清和会支配が幕を開ける前夜、竹下登元首相が最大派閥・平成研究会(小渕派)を通じて隠然たる影響力を残していた時代である。 私は新聞記者6年目の27歳。政治や経済は無知であった。そればかりか初めての東京暮らしで右も左もわからなかった。政治部の恒例で着任初日は政治部長に挨拶し昼食をともにする。駆け出し政治記者が政治部長と直接話をすることなどこの時くらいである。 政治部長は若宮啓文さんだった。朝日新聞を代表するハト派・リベラル派論客で、のちに社説の責任者である論説主幹や主筆となる。韓国紙に連載するなど国際派でもあった。父親は朝日新聞政治部記者から鳩山一郎内閣の総理秘書官に転じた若宮小太郎氏。その子息の若宮さんは「政治記者として血統の良いサラブレット」という印象が強かった。朝日新聞をライバル視する読売新聞の渡辺恒雄氏とも昵懇で、政治家では河野洋平氏と密接な関係を築いていた。 その若宮さんが私たち駆け出し政治記者に投げかけた訓示が衝撃的だった。私はつくば、水戸、浦和で過ごした新聞記者5年間とは別世界に来たと思った。若宮さんは眼光鋭い目を見開きながら、静かにこう語ったのだった。 「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」 新聞の役割は権力を監視することだと思ってきた。「権力としっかり付き合いなさい」という言葉は意外だった。私は当時、世間知らずで怖いもの知らずだった。日本の新聞界を代表する政治記者であり、朝日新聞を代表する論客であり、初対面である自分の上司に、やや挑発めいた口調でとっさに質問したのである』、「新聞の役割は権力を監視することだと思ってきた。「権力としっかり付き合いなさい」という言葉は意外だった」、確かにドサ回りとは全く違う環境のようだ。
・『日本という国家の「権力」  「権力って、誰ですか?」 若宮さんはしばし黙っていた。ほどなく、静かに簡潔に語った。 「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そして、アメリカと中国だよ」 経世会とは、田中角栄や竹下登の流れを汲み、当時は小渕首相が受け継いでいた自民党最大派閥・平成研究会のことである。永田町ではかつての名称「経世会」の名で呼ばれることも多い。数の力で長く日本政界に君臨し、たたき上げの党人派が多く「武闘派」と恐れられた。小沢一郎氏が竹下氏の後継争いで小渕氏に敗れ自民党を飛び出した「経世会の分裂」が、1990年代の政治改革(小選挙区制導入による二大政党政治への転換)の発端だ。 宏池会は、池田勇人、大平正芳、宮澤喜一ら大蔵省(現・財務省)出身の首相を輩出し、戦後日本の保守本流を自任してきた。経済・平和重視のハト派・リベラル派で、政策通の官僚出身が多い一方、権力闘争は不得手で「お公家集団」と揶揄される。経世会の威を借りて戦後の政策立案を担ってきた。 大蔵省と外務省は、言わずと知れた「官庁中の官庁」。自民党が選挙対策や国会対策に奔走する一方、内政は大蔵省、外交は外務省が主導するのが戦後日本の統治システムだった。とくに大蔵省は予算編成権を武器に政財界に強い影響力を行使し、通産省(現・経済産業省)や警察庁など霞が関の他官庁は頭が上がらなかった。この大蔵省・財務省支配は2012年末の第二次安倍内閣発足まで続く。 そしてアメリカと中国。日米同盟を基軸としつつ対中関係も重視するのが経世会や宏池会が牛耳る戦後日本外交の根幹だった。政治家やキャリア官僚は日頃から在京のアメリカ大使館や中国大使館の要人と接触し独自ルートを築く。政治記者を煙に巻いても米中の外交官には情報を明かすことがある。政治記者ならアメリカや中国にも人脈を築いてそこから情報を得るという「離れ業」も必要だ。国際情勢に対する識見を身につけたうえで、米中の外交官が欲する国内政局に精通し、明快に解説できないようでは見向きもされない。 若宮さんの訓示は、この6者(経世会、宏池会、大蔵省、外務省、アメリカ、中国)こそが日本という国家の「権力」であり、政治記者はこの6者としっかり付き合わなければならないということだった。戦後日本政治史の実態を端的に表現したといえるだろう。 私は当時、その意味を理解する知識も経験も持ち合わせていなかったが、政治記者として20年以上、日本の政治を眺めてきた今となっては、若輩記者の直撃に対して明快な答えを即座に返した若宮さんの慧眼と瞬発力に感動すら覚える』、確かに「若輩記者の直撃に対して明快な答えを即座に返した若宮さんの慧眼と瞬発力に感動すら覚える」、その通りだ。
・『小渕恵三首相の「沈黙の10秒」  小渕恵三という総理は、口下手だった。途中で言葉が詰まり上手に話せないこともしばしばあった。しかし、総理番の取材に丁寧に応じようとしていることはよく伝わってきた。短い時間に、歩きながら、必死に言葉を絞り出していた。 私も何度もぶらさがって小渕総理に厳しい質問をしたが、どんなに慌ただしい政局の中でも何とか言葉を探して一言は答えてくれたものだ。無視されることはなかった。 小渕総理は風貌は地味で、流暢に話せず、「冷めたピザ」と揶揄されたが、若手記者の取材に真摯に応じる姿勢に惹かれた総理番は少なくなかった。「人柄の小渕」がマスコミを通して世間にじわじわ浸透したのか、当初低迷していた内閣支持率は徐々に上向いた。時間がたつにつれ支持率が下がることの多い日本の政権にしては珍しいパターンだった。 私は2000年春に総理番を卒業することになった。最終日、4月1日は日本政治史に残る重大な日となる。当時の関係者が何年もたった後に私に打ち明けた話によると、自自公連立を組む自由党の小沢一郎氏はこの時、連立離脱をちらつかせながら小渕総理と水面下で接触し、自民党と自由党をともに解党して合流するという大胆な政界再編を秘密裏に迫っていたというのだ。この日は夕刻に官邸を訪れ、小渕総理と最後の直談判に及んだのだった。私たち総理番は執務室の前で待った。小沢氏が硬い表情で退出した後、ほどなくして小渕総理が現れ、総理番に取り囲まれた。 私は小渕総理の目の前にいた。小渕総理は何か語ろうとしたが、うまく声を発することができずに10秒ほど押し黙った。ようやく口を開いて「信頼関係を維持することは困難と判断した」と述べ、会談が決裂したことを告げた。 小渕総理はそのまま総理番たちに背中を向け、総理公邸へ向かう廊下を進んだ。最後にちらっと私たちのほうを振り向いた。 これが小渕総理との別れだった。小渕総理は公邸に戻り、大好きな司馬遼太郎の「街道をゆく」のビデオを観ながら倒れたという。あとで先輩から「お前はあの時、小渕さんの目の前にいながら、10秒も押し黙ったのに、体調に異変が生じていることに気づかなかったのか」と叱られた。まったくその通りである。 しかし当時の政局は緊迫していた。小沢氏と決裂して連立解消が決まった直後、小渕総理の口調がこわばっていても不思議ではない。しかも小渕総理は日頃から能弁ではなく、言葉に詰まることが珍しくなかった。とはいえ体調の異変に気づかなかったのは、毎日密着している総理番としては観察力に欠けていたと言われても仕方がない。 その夜、政治記者たちは連立解消の取材に遅くまで追われた。朝刊の締め切りが過ぎた4月2日未明、私は他社の総理番らに国会近くの飲み屋で「総理番卒業」の送別会を開いてもらった(4月2日は日曜だった)。私は外務省担当になることが決まっていた。「小渕政権の最後まで総理番として見届けたかった」と他社の総理番たちにほろ酔いで話していたまさにその頃、小渕総理は病魔に襲われ、密かに順天堂大学附属順天堂医院へ運び出されていたのである』、「小渕恵三首相の「沈黙の10秒」」に立ち会ったが、「体調の異変に気づかなかった」、とは「小渕」氏であれば、やむを得ないだろう。
・『権力は重大な事を隠す  当時の青木幹雄官房長官や野中広務幹事長代理ら「五人組」は小渕総理が倒れた事実を伏せ、後継総理――それは森喜朗氏だった――を密室協議で決めた。 権力は重大な事を隠す。小渕総理の入院が公表された時にはすでに森政権へ移行する流れは出来上がっていた。小渕総理が身をもって教えてくれた政治の冷徹な現実である。 小渕官邸の「総理番」で学んだことは多かった。もちろん、官邸と官邸記者クラブの「癒着」は当時からあった。いちばん驚いたのは官房機密費の使い方だ。さすがに「餞別」などの理由で現金が政治記者に配られることはなかったと思う。しかし政務担当の総理秘書官は連夜、総理番を集め高級店で会食していた。その多くの費用は官房機密費から出ていると政治部記者はみんな察していた。 当時、地方支局ではオンブズマンが情報公開制度を利用して官官接待を追及しており、行政と記者の癒着にも厳しい目が向けられていた。「取材相手との会食は割り勘」は常識だったし、記者懇談会で提供される弁当にも手を付けるなという指示が出るほどだった。それなのに永田町の政治取材の現場では官房機密費がばらまかれていた。官房機密費の使用には領収書が不要で、情報公開で決して表に出ることはないと政治家も官僚も記者も確信しているからだった。 私は政務の総理秘書官を担当しておらず会食に出席したことはなかったが、上司に「あれはおかしいのではないか」と言ったことがある。上司は「それはそうだが、あの会食に出ないと、総理日程などの情報が取れない」と説明した。それに抗って異論を唱え続ける胆力は新米政治記者の私にはなかった。 当時に比べると、今の取材現場では「割り勘」が浸透し、悪弊は解消されつつある。ただし、そのスピードは極めて遅い。そればかりか、安倍晋三、菅義偉、岸田文雄各総理の記者会見をみると、官邸と官邸記者クラブの緊張関係はまったく伝わってこない。 小渕総理と政治記者のぶらさがり取材には緊張関係があった。小渕総理が政治記者という職業に敬意を払っていたからだろう。当時は新聞の影響力が大きく無視できないという政治家としての現実的な判断もあっただろう。 政治取材は長らく、権力者側の「善意」や「誠意」に支えられる側面が大きかった。新聞の影響力低下に伴って政治記者が軽んじられるようになり、一方的に権力者にこびへつらうようになったのが今の官邸取材の実態である。権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないことを前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、政治報道への信頼はますます失われていくだろう。 次回は「内閣官房長官の絶大な権力」​​。明日更新です』、「新聞の影響力低下に伴って政治記者が軽んじられるようになり、一方的に権力者にこびへつらうようになったのが今の官邸取材の実態である。権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないことを前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、政治報道への信頼はますます失われていくだろう」、その通りだ。 「吉田調書事件」については、何も触れられてないのは、残念だ。
タグ:(その32)(朝日新聞元エース記者が暴露する朝日新聞政治部シリーズ:(1)「吉田調書事件」とは何だったのか、(2)「吉田調書事件」とは何だったのか、(3)小渕恵三首相「沈黙の10秒」) メディア 現代ビジネス 鮫島 浩氏による「元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(1)朝日新聞政治部(1)」 「木村社長は「社長賞だ、今年の新聞協会賞だ」と絶賛し、7月には新聞協会賞に申請」、それを手の平を返して「辞任を表明」とは、全く節操がない人物だ。 奥さんに指摘された「あなたはね、会社という閉ざされた世界で『王国』を築いていたの。誰もあなたに文句を言わなかったけど、内心は面白くなかったの。あなたはそれに気づかずに威張っていた。あなたがこれから問われる罪、それは『傲慢罪』よ!」は、実に本質を突いた至言だ。 「木村社長が「吉田調書」報道を取り消した」、どんな事情があったのだろう。 鮫島 浩氏による「元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(2) 朝日新聞政治部(2)」 「梅田の高層ビルに入る高級店に何度となく呼び出され」、「新日鉄」も優秀な大学生にはかなり手をかけたようだ。 当初は新日鉄入社を考えていたが、「鉄に人生を捧げる覚悟が湧いてこなかった」、「「新聞記者は主役になれない」という言葉を背負って朝日新聞に入社した」、なるほど。 「警察官と「癒着」を極めた記者が特ダネにありつける。 警察は記者同士の競争意識につけ込み、警察に批判的な記者には特ダネを与えない。他の記者全員にリークし、批判的な記者だけ「特オチ」させることもある。記者たちはそれに怯え、従順になる。こうした環境で警察の不祥事や不作為を追及する記事が出ることは奇跡に近い」、「警察」のマスコミ・コントロールは容易なようだ。 「野放図な新人時代は、私の新聞記者像に絶大な影響を与えることになる」、幸運だったようだ。 鮫島 浩氏による「話題の書『朝日新聞政治部』先行公開第3回〜小渕恵三首相「沈黙の10秒」 朝日新聞政治部(3)」 「新聞の役割は権力を監視することだと思ってきた。「権力としっかり付き合いなさい」という言葉は意外だった」、確かにドサ回りとは全く違う環境のようだ。 確かに「若輩記者の直撃に対して明快な答えを即座に返した若宮さんの慧眼と瞬発力に感動すら覚える」、その通りだ。 「小渕恵三首相の「沈黙の10秒」」に立ち会ったが、「体調の異変に気づかなかった」、とは「小渕」氏であれば、やむを得ないだろう。 「新聞の影響力低下に伴って政治記者が軽んじられるようになり、一方的に権力者にこびへつらうようになったのが今の官邸取材の実態である。権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないことを前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、政治報道への信頼はますます失われていくだろう」、その通りだ。 「吉田調書事件」については、何も触れられてないのは、残念だ。
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