少子化(その3)(「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由 フィンランドの失敗に学べ、「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由、「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている)
少子化については、2020年11月28日に取上げた。今日は、(その3)(「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由 フィンランドの失敗に学べ、「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由、「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている)である。
先ずは、本年2月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したイトモス研究所所長の小倉健一氏による「「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由、フィンランドの失敗に学べ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/317216
・『岸田政権が打ち出した「異次元の少子化対策」について、世論はおおむね歓迎しているようだ。しかし実は、この政策は逆に少子化が進めかねない巨大なリスクを抱えている。その根拠について、「子育て支援先進国」とされるフィンランドの失敗と、日本のデータに基づいて解説する』、「逆に少子化が進めかねない巨大なリスクを抱えている」とはどういうことだろう。
・『「異次元の少子化対策」への賛意の中に本質からずれた論点が散見される 岸田文雄首相が、年頭に「異次元の少子化対策」を打ち出したことを受け、政府内では少子化対策の積み増しが進められている。 具体的には、児童手当の所得制限撤廃と多子世帯への加算にはじまり、保育人材の処遇改善、子育て家庭の相談や一時預かりのサービス拡充。さらには医療費の高校3年生までの無償化、給付型奨学金の対象を年収600万円まで拡大、育児休業給付の対象外の人への給付など、豊富な内容になっている。 この「異次元の少子化対策」について、世論はおおむね歓迎しているようだ。しかし、少子化対策とは出生率を上げる対策のはずだ。これまで人類、特に先進国が直面してきた少子化を止める手立てについて、子育て世代にいくら手厚い支援をしたところで、少子化を止めるどころか、進んでしまっている現実がある。 そのメカニズムは後段で説明をするとして、まずは「異次元の少子化対策」に賛成する根拠として挙げられているのに、実は本質からずれてしまっている議論の整理から行っていきたい』、興味深そうだ。
・『本質からずれた論点(1)「高齢者が優遇されすぎている」 一つ目の論点は、「高齢者があまりにも優遇されすぎている」という訴えだ。 確かに、筆者もそう思う。貧困は高齢者だけの問題ではないにもかかわらず、医療費や公共施設の入場料、公共交通の運賃など、なぜか高齢者というだけで無料であったり、価格が異常に安かったりする。東京都中央区では、高齢者というだけで毎年、歌舞伎座の一等席で観劇し、豪華幕の内弁当が食べられる。高齢者は、税金によって無料だ。 戦争を経験した世代については、ウクライナ戦争を見ても、やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか。 しかし、この論点は正直、少子化対策とは何の関係もないはずだ。一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ』、「戦争を経験した世代については・・・やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか」、「一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ」、その通りだ。
・『本質からずれた論点(2)子どもに「教育機会の平等」を 二つ目の論点として、教育における「機会の平等」を子どもたちに与えようという意見が挙げられる。子育て支援を手厚くすることで「親ガチャ」を無くし、貧困を理由に進学の機会を失うことがないようにしようというものだ。 個人的にはこの論点については完全には同意しかねる。中卒でも高卒でも立派に働いている人はいるし、そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ。同質性の高い社会ほどもろく弱い社会はない。学校教育は自由が一番だ。 そんな筆者の意見は横に置いておくとしても、やはりこれも一つ目の論点と同様に、少子化対策とは関係のない話だ。 なぜこの話を先にしたのかというと、この一つ目、二つ目の論点に基づいて「岸田首相の異次元の少子化対策」を称賛する識者がたくさんいるのが確認できるからだ』、「そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ」、同感である。
・『「異次元」の予算規模となれば大増税が待つのは必然 そして、もう一つ押さえておきたい点が、当然ながら、税金で大盤振る舞いをした後に待つのは大増税であるという事実だ。岸田政権が打ち出した少子化対策の「異次元」というのは、予算規模のことを必ずしも指さないのではないかと淡い期待をしていたが、ダメだった。予算規模が異次元に拡大するのは間違いがないようだ。 日本銀行の分析(「国民負担率と経済成長」2000年)によれば、国民負担率(税負担+社会保障負担の対名目国内総生産〈GDP〉比)が1%上昇すると経済成長率は0.30%低下するという相関関係が見られる。 また、第一生命経済研究所「国民負担率の上昇がマクロ経済に及ぼす影響(続編)」(05年)によれば、国民負担率1%ポイントの上昇に対し、家計貯蓄率が0.28%ポイント低下する負の相関関係にあるという。 そして、日本人の潜在的国民負担率(将来世代の負担である財政赤字を含む)は22年度(見通し)で56.9%(対国民所得比)になっている。これは、福祉国家として知られる北欧のスウェーデンをも上回る値だ。政策目的と違う上記二つの論点のような効果を期待したバラマキについては、国益の観点から拒否しておいた方がよさそうだ』、「「異次元」の予算規模となれば大増税が待つのは必然」として、反対するとは論理的で、同意できる。
・『出生率を分解すると見えてくる少子化対策「真のポイント」とは さて、ここまできてようやく本題に移ろう。 内閣府子ども・子育て本部がまとめた「我が国のこれまでの少子化対策について」に、注目したいデータがある。そして、同じデータが、内閣官房のこども政策の推進に係る有識者会議の資料「少子化社会対策大綱の推進に関する検討会 における議論の状況について」(21年9月16日)が内閣府に提出されている。 その二つの資料には、こう書いてある。 (1)合計特殊出生率は、有配偶率と有配偶者出生率に分解できる。 (2)50歳時の未婚割合は、1980年に男性2.60%、女性4.45%であったが、直近の2015年には男性23.37%、女性14.06%に上昇している。この傾向が続けば、いずれ、男性で3割近く、女性で2割近くになると推計されている。 (3)夫婦の完結出生児数は、1970年代から2002年まで2.2人前後で安定的に推移していたが、2005年から減少傾向となり、直近の2015年には過去最低である1.94人になった。 そして、図が二つ提示してある。 ちょっと難しい言葉が続いたが、これらが何を意味しているのかを簡単に言うと、ざっとこのようなイメージだ。) 出生率の算定式は、(1)女性が結婚したかどうかと、(2)女性が結婚した後に、子どもを何人産んでいるかということに分解できる。前述した、資料内に提示してある「二つの図」で数字の推移を見ると、日本では未婚率がどんどん高まっていく一方で、結婚した後で何人子どもを産むかについては(微減しているが)ほとんど変わっていない。 このデータから導き出される結論は、少子化対策で最大の効果を狙うなら、子育て世帯を支援するよりも未婚者にもっと結婚をしてもらうしかないということだ』、「このデータから導き出される結論は、少子化対策で最大の効果を狙うなら、子育て世帯を支援するよりも未婚者にもっと結婚をしてもらうしかないということだ」、確かにその通りだ。
・『少子化対策の手本だったフィンランド 出生率が急落していた このデータを理解していれば、赤川学・東京大学大学院教授の「少子化の原因を分解すると、結婚しない人が増えていることの効果が9割を占めている」(日経ビジネス電子版、22年10月23日)という指摘も非常に納得できるはずだ。 欧米でも日本と同じように、「子育ての障害」となるようなお金の問題、休暇の問題、女性の待遇ばかりが議題として噴出し、効果のない少子化対策が繰り返された。とりわけ、そんな子育て支援先進国であるフィンランドの出生率は、10年には1.87だったがこの10年余りで急落。19年には過去最低の1.35にまで落ち込んだ。20年には微増したが1.37と、日本の1.34と大して変わらない状況だ。 子育て支援をすればするほど税金や社会保障による国民負担が増し、家計に打撃を与える。お金の問題で少子化が進むというのであれば、子育て支援に投じる税金の財源は高齢者のみに求めるしかないが、そんなことを自公政権がするはずもない。結局、現役世代への増税となって返ってくるだけであろう。であれば、岸田政権による意味のない少子化対策は、未婚率を下げ止めることなく、国民負担をただ増やすだけだ。金銭的事情で結婚をためらう人は増えてしまう。故に、コロナ禍で極端に減った出生数は短期的には多少の回復を見込めるかもしれないが、少子化はさらに進むことになる。 統一地方選挙を前にして、「異次元」なる言葉の下、与野党がバラマキ合戦を始めた――そんな現状は、国の経済成長にとっても私たちの家計にとっても悪夢でしかない(バラマキを勝ち誇る公明党の選挙ポスターが町中に張り出されるのが目に浮かぶ)。 「異次元の子育て支援」の恩恵を受けることになる子育て中の親からすれば、以上のことは受け入れ難い話だろう。しかし、自分たちが受け取った恩恵のツケは、今あなたの下で育っている子どもが払うことになる。果たして、それで本当にいいのだろうか。 国会議員、そして国民は、もう少し冷静になって考えてほしいところだ』、「自分たちが受け取った恩恵のツケは、今あなたの下で育っている子どもが払うことになる。果たして、それで本当にいいのだろうか。 国会議員、そして国民は、もう少し冷静になって考えてほしいところだ」、その通りだ。
次に、2月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した立命館大学政策科学部教授の上久保誠人氏による「「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/317327
・『岸田文雄首相が打ち出した「異次元の少子化対策」が波紋を呼んでいる。筆者もこの施策は少子化の抜本的な解決にはつながらず、「対症療法」にすぎないと考えている。そう言い切れる理由と、少子化脱却に向けて日本政府が本当に解決すべき問題について解説する』、興味深そうだ。
・『「異次元の少子化対策」はアベノミクスに似ている 今年1月、通常国会が開幕した。その中で岸田文雄首相が最重要課題の一つとして位置付けているのが「異次元の少子化対策」だ。 日本の合計特殊出生率は下落を続け、2021年は1.30人である。22年の日本の出生数は80万人を割り込んだとみられる。国家として危機的な状況といえる。岸田首相は、こうした状況を「異次元」の施策で一挙に解決するという。 「異次元」と聞いて想起されるのは、安倍晋三元首相が展開した「アベノミクス」の「異次元の金融緩和」だ。 だが、私はアベノミクスを評価していない。金額が異次元だっただけで、中身は旧来型のバラマキ政策だったからだ。この政策は、輸出産業など斜陽産業を延命させる「対症療法」だった。 経済を本格的に復活させる新しい産業を生み出す本質的な改革、いわば「原因療法」と呼べる規制緩和や構造改革は十分に行われなかった(本連載第305回・p2)。 「異次元の少子化対策」もアベノミクスに似ている。まず形式的な話をすると、主要な施策が「三本柱(三本の矢)」にまとめられる点が同じだ。 次に中身を見ていくと、(1)児童手当を中心とする経済的支援強化、(2)幼児教育や保育サービスの支援拡充、(3)働き方改革の推進――の三本柱は既存政策の拡充にすぎない。これもアベノミクスと同じだ。 さらに、「異次元」の予算規模で実行される点も同じだ。特に(1)(2)は本質的な課題を解消する「原因療法」ではなく、目の前に見えている問題を解決するためにバラマキを行う「対症療法」である点も似通っている。 こうした支援の充実は、既に子どもがいて、子育てにお金がかかる親にとっては助かる話だろう。だが、子どもがいない夫婦も含めて、国民が「もう1人子どもを産み、育てる」ことにつながるかというと、必ずしもそうではない印象だ』、「こうした支援の充実は、既に子どもがいて、子育てにお金がかかる親にとっては助かる話だろう。だが、子どもがいない夫婦も含めて、国民が「もう1人子どもを産み、育てる」ことにつながるかというと、必ずしもそうではない」、その通りだ。
・『「子どもがいる夫婦」だけの支援では少子化対策につながらない理由 2022年11月18日付の日本経済新聞電子版に掲載された調査結果によれば、「子どもが減っている理由は何だと思いますか」との問いに対する答えは「家計に余裕がない」「出産・育児の負担」「仕事と育児の両立難」が上位を占めた。 また、「結婚はした方がよいと思いますか」との問いに対し、30代女性のわずか9%が「そう思う」と回答した。結婚が減っている理由は「若年層の低賃金」「将来の賃上げ期待がない」などが上位を占めていた。 要するに、経済的な理由で、結婚したいのにできないでいる人たちや、結婚しても子どもを持てない人たちが多くいる。これが日本の「少子化問題」の本質だ。 だが前述の三本柱では、「既に結婚して子どもがいる人たち」だけを支援の対象とし、未婚や子どもがいない人たちは支援の対象外としている。 つまり、三本柱は本当の意味での「少子化対策」ではなく、子どものいる家庭の生活をサポートする「子育て支援策」にすぎない』、「前述の三本柱では、「既に結婚して子どもがいる人たち」だけを支援の対象とし、未婚や子どもがいない人たちは支援の対象外としている」、それでは効果は大したことはなさそうだ。
・『日本で少子化問題が深刻な一因は「日本型雇用システム」だ 日本で少子化問題が深刻なのは、日本特有の問題がある。今でこそ女性の社会進出が進んでいるが、かつての日本では結婚して子どもができると、妻は離職して専業主婦になるか、正規雇用の職を失い、パートなどの非正規雇用になっていくしかなかった。いわゆる「日本型雇用システム」だ(第269回・p3 )。 その実態は、データで見るとよく分かる。「女性の年齢別労働力率」をグラフ化すると、学校を卒業した20代でピークに達し、その後30代の出産・育児期に落ち込み、子育てが一段落した40代で再上昇する。いわば「M字」に似た曲線となるのだ(参考:男女共同参画局の「年齢階級別労働力率」のグラフ)。 30代女性の労働力率が低下する「M字の谷」現象は、日本や韓国に特徴的な現象だ。欧米諸国などでは、一定の年齢層で労働力率が下がらず、女性の働き方に対して柔軟性が高いので「M字の谷」はない(参考:男女共同参画局の「主要国における女性の年齢階級別労働力率」のグラフ)。 確かに、日本でも安倍政権以降に打ち出された女性の社会進出を促進する政策によって、「M字の谷」が緩やかになった。今では「台形」に近づきつつある。だが、それは「未婚」のまま働き続ける女性や、出産などを機に非正規雇用として働く女性が増えた結果だ。正規雇用の女性が爆発的に増えたわけではない』、「日本でも安倍政権以降に打ち出された女性の社会進出を促進する政策によって、「M字の谷」が緩やかになった。今では「台形」に近づきつつある。だが、それは「未婚」のまま働き続ける女性や、出産などを機に非正規雇用として働く女性が増えた結果だ。正規雇用の女性が爆発的に増えたわけではない」、その通りだ。
・『女性が正社員になれない日本の「あしき風習」 男女共同参画局がまとめた「男女共同参画白書」によると、2021年の時点で専業主婦世帯数は458万世帯(28.0%)、共働き世帯数は1177万世帯(72.0%)と、後者が圧倒的に多い(いずれも妻が64歳以下の場合)。 だが、21年時点の労働力の内訳を見てみると、正規雇用は男性が2334万人に対し、女性は1221万人。非正規雇用は男性が652万人に対し、女性は1413万人となっており、本当の意味での「女性活躍」には程遠いことが分かる。 こうした現象が起きる要因も、先述した「日本型雇用システム」によるものだと考えられる。 年功序列・終身雇用を前提としたこのシステムでは、一度離職した女性が幹部になるのは難しい。日本における離職は、組織内における同世代の「出世争い」からの離脱を意味し、一度離れると二度と争いに復帰できない。 ゆえに、数年のブランクのある女性は正規雇用での職場復帰は難しく、正規雇用での中途採用枠も極めて狭い。 一方、欧米諸国の企業や官僚組織は、基本的に年功序列・終身雇用ではない。新卒の一括採用は少なく、組織が必要とする業務について人材を募集する。 マネジャーや幹部職も公募で決まる。内部昇格が行われるのは、外部から応募してきた人材と公平に比較・検討され、内部の人材が優秀と判断された場合のみである。 欧米でも、女性が結婚・出産で離職することはもちろんあるが、キャリアアップのハンディにはならない。離職前の経歴をアピールすれば、それに適したさまざまなポジションを獲得できる。 世界的に見れば、女性の政治家や企業経営者・幹部、学者には、パートナーを持ち、出産・子育てを経験している人が多い。企業の管理職における女性の割合が、わずか14.9%の日本とは大きな違いがある(参考:男女共同参画局がまとめた「就業者及び管理的職業従事者に占める女性の割合(国際比較)」)。 表面上は、日本企業でも産休・育休制度が普及し、一度現場を離れた女性(育休の場合は男性も)が正社員として復帰できる体制が整っている。 だが、日本型雇用システムの名残なのか、復帰した人が周囲になじめなかったり、子どもの送り迎えなどで仕事を中抜けする人が白い目で見られたりといった「あしき風習」は今も企業に色濃く残っているようだ。 政府は「対症療法」に終始するのではなく、少子化問題の根本原因である雇用慣行の是正にこそ、「異次元」の投資をするべきではないか。 そこで本稿では、本質的な少子化対策として「ファミリーの所得倍増計画」を提起したい。あえて「倍増」とした理由は、妻が正社員として働き、夫と同程度の給料を得られるようになれば、単純計算で世帯年収が倍増するからだ。 実現はそう簡単にできることではなく、さまざまな課題を乗り越えなければならないのは確かだが、その第一歩となる案を示していきたい』、「表面上は、日本企業でも産休・育休制度が普及し、一度現場を離れた女性(育休の場合は男性も)が正社員として復帰できる体制が整っている。 だが、日本型雇用システムの名残なのか、復帰した人が周囲になじめなかったり、子どもの送り迎えなどで仕事を中抜けする人が白い目で見られたりといった「あしき風習」は今も企業に色濃く残っているようだ」、「「異次元」の投資をするべきではないか。 そこで本稿では、本質的な少子化対策として「ファミリーの所得倍増計画」を提起したい」、なるほど。
・『本質的な少子化対策にはどんな取り組みが必要なのか まず、「103万円の壁」をはじめとするボーダーラインの改革だ。妻が夫の扶養に入っている世帯では、妻の収入が103万円を超えると、所得税の支払い義務が発生して負担が重くなる。 他にも、年収が130万円を超えると扶養から外れる「130万円の壁」など、配偶者控除や社会保険の仕組みにはさまざまな“壁”が存在する。 だが、これらの制度は女性の労働意欲を阻害している側面がある。女性の社会進出が進む時代に適した制度だともいえない。これらのボーダーラインを見直し、“壁”のあり方を変えれば、夫婦の経済的な余裕につながり、有効な少子化対策になるのではないか。 次は、「日本型雇用システム」の改革だ。厚生労働省は現在、「くるみん認定」「えるぼし認定」といった認定制度を設け、女性活躍や育児支援に力を入れている企業に助成金を給付するなどの優遇措置を実施している。 だが繰り返しになるが、日本では女性の非正規雇用者が多く、少子化が進んでいるのが現状であり、両制度が飛躍的な効果を生んでいるとはいえない。効果をさらに高める上では、助成金給付の対象となる企業を広げたり、給付金額を手厚くしたりといったテコ入れが必要ではないだろうか。 最後は、共働き世帯を支援する体制の改革だ。その上で最も重要になるのは、「保育園の待機児童問題」の完全な解消だろう(第128回)。保育園の建設増、保育士の人数増、その待遇の改善などの政策に、最優先に予算を付ける必要がある。 その上では、現在の「出入国管理法」のスキームを超えて移民を拡大し、保育・家事に携わる人材を確保するという選択肢も検討すべきだ(第200回)。 具体的には、共働き夫婦をサポートし、子育て・家事を行うベビーシッターやハウスキーパーを海外から受け入れる。上海など中国本土の大都市や、香港、台湾、シンガポールなどで行われている、共働き夫婦のキャリア形成を支援するモデルを日本に導入するのだ。 移民の受け入れには批判が根強い。だが、リスク防止策も含めて政府は従来の発想を変える政策を打ち出す必要がある。 私が挙げた「ファミリーの所得倍増計画」は一例にすぎないが、日本政府はこれらに匹敵するような抜本的な改革がなければ、少子化の改善は見込めず、衰退の一途をたどることになるだろう。 今の日本には何が必要なのか、歴史、伝統、文化、そして思想信条の違いを超えて、国民全体で議論していくべきではないだろうか』、「配偶者控除や社会保険の仕組みにはさまざまな“壁”が存在・・・これらのボーダーラインを見直し、“壁”のあり方を変えれば、夫婦の経済的な余裕につながり、有効な少子化対策になるのではないか。 次は、「日本型雇用システム」の改革だ。厚生労働省は現在、「くるみん認定」「えるぼし認定」といった認定制度を設け、女性活躍や育児支援に力を入れている企業に助成金を給付するなどの優遇措置を実施している。 だが繰り返しになるが、日本では女性の非正規雇用者が多く、少子化が進んでいるのが現状であり、両制度が飛躍的な効果を生んでいるとはいえない。効果をさらに高める上では、助成金給付の対象となる企業を広げたり、給付金額を手厚くしたりといったテコ入れが必要ではないだろうか。 最後は、共働き世帯を支援する体制の改革だ。その上で最も重要になるのは、「保育園の待機児童問題」の完全な解消」、私は「ベビーシッターやハウスキーパーを海外から受け入れる」のには反対である。「今の日本には何が必要なのか、歴史、伝統、文化、そして思想信条の違いを超えて、国民全体で議論していくべきではないだろうか」、といった総論には賛成である。
第三に、2月22日付けPRESIDENT Onlineが掲載した解剖学者・東京大学名誉教授の養老 孟司氏による「「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/66648
・『なぜ日本の少子化は止まらないのか。解剖学者の養老孟司さんは「現代の人は、お金にならない自然は価値がないとして消していっている。先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」という――。 ※本稿は、養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)の一部を再編集したものです』、「先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」、養老氏らしいユニークな主張だ。
・『学問をすると、自分が「違う人」になる 『論語』の「朝あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。普通はそう解釈されています。でも現代人には、ピンとこないでしょう。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、何の役にも立ちませんから。 私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。 前の自分がいなくなる、たとえて言えば「死ぬ」わけです。わかりやすいたとえは、恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです』、「恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです」、分かり易い喩えだ。
・『変わりたくない人は知ることはできない 人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさら何を驚くことがあるだろうか。『論語』の一節は、そういう反語表現だというのが私の解釈です。正しいかどうかはわかりません。 確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません』、「確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません」、その通りだ。
・『都会人が「空き地」と呼ぶ空間にあるもの 現代の人たちは、偶然を受け入れることが難しくなっています。なぜか。都市化が進んできたからです。私の言葉で言えば「脳化」です。 戦後日本の特徴を一言で言えば、都市化に尽きます。戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだと言ってもいいくらいです。都会の人々は自然を「ない」ことにしています。 木や草が生えていても、建物のない空間を見ると、都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」になってしまうわけです』、「都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」になってしまうわけです」、鋭い指摘だ。
・『なぜ樹齢八百年のケヤキを切ってしまうのか なぜ自然がないことになるのかというと、空き地の木には社会的・経済的価値がないからです。都会で「ある」のは、売り買いできるものです。売れないものは、現実に「ない」も同然。だから「空き地」と言われるのです。 岡山県の小さな古い神社で、宮司さんが社殿を建て直したいと思いました。その宮司さんが何をしたかというと、境内に生えている樹齢八百年のケヤキを切って売った。その金で社殿を建て直しました。八百年のケヤキを保たせておけば、二千年のケヤキになるかもしれません。大勢の人がそれを眺めて心を癒すことでしょう。でも、それを売ったお金で建てた社殿は、千年はぜったいに保ちません。これがいまの世の中です。 社会的・経済的価値のある・なしは、現実と深く関わっています。いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです』、「いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです」、確かにその通りだ。
・『「現実ではない」ものは消されてしまう 不動産業者にとっても、財務省のお役人にとっても、地面に生えている木なんて、切ってしまうだけのものです。誰かに切らせて、更地にする。どうして切るかというと、本来「ない」はずのものだからです。 そこに木が生えているから、家の建て方を変えよう。川や森があるから、町のつくり方を工夫しよう。そう思うなら、木や川、森はあなたにとって現実です。でも、更地にする人にとっては、木は「現実ではない」。現実ではないのですが、実際には生えていますから、邪魔物扱いをして切ってしまう。まさしく木を「消す」のです。 頭の中から消し、実際に切ってしまって、現実からも消すのです。不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです』、「不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです」、面白い捉え方だ。虫採りが趣味だと、虫の立場でものを考えられるのだろう。
・『都会人にとって、幼児期の子どもは必要悪 こういう世界で、子どもにまともに価値が置かれるはずがありません。子どもの先行きなど、誰もわからないからです。子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません。だから、自然と同じように、子どももいなくなるのです。 いや、子どもはいるじゃないか。たしかに、子どもはいます。しかし、それは空き地の木があるのと同じです。いるにはいるけれど、子どもそれ自体には価値がない。現実ではないもの、つまり社会的・経済的価値がわからないものに、価値のつけようはないのです。 木を消すのと同じ感覚で、いまの子どもは、早く大人になれと言われています。都市は大人がつくる世界です。都市の中にさっさと入れ。そうすれば、子どもはいなくなりますから。 都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。子どもがいきなり大人になれるわけがない。でも、いきなり大人になってくれたら便利だろう。都会の親は、どこかでそう思っているふしがある。 ところが田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です』、「子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません」、「都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています」、「田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です」、よくぞここまでズバリと本質をえぐるものだ、さすが養老先生だけある。久しぶりに刺激が強い記事だった。
先ずは、本年2月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したイトモス研究所所長の小倉健一氏による「「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由、フィンランドの失敗に学べ」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/317216
・『岸田政権が打ち出した「異次元の少子化対策」について、世論はおおむね歓迎しているようだ。しかし実は、この政策は逆に少子化が進めかねない巨大なリスクを抱えている。その根拠について、「子育て支援先進国」とされるフィンランドの失敗と、日本のデータに基づいて解説する』、「逆に少子化が進めかねない巨大なリスクを抱えている」とはどういうことだろう。
・『「異次元の少子化対策」への賛意の中に本質からずれた論点が散見される 岸田文雄首相が、年頭に「異次元の少子化対策」を打ち出したことを受け、政府内では少子化対策の積み増しが進められている。 具体的には、児童手当の所得制限撤廃と多子世帯への加算にはじまり、保育人材の処遇改善、子育て家庭の相談や一時預かりのサービス拡充。さらには医療費の高校3年生までの無償化、給付型奨学金の対象を年収600万円まで拡大、育児休業給付の対象外の人への給付など、豊富な内容になっている。 この「異次元の少子化対策」について、世論はおおむね歓迎しているようだ。しかし、少子化対策とは出生率を上げる対策のはずだ。これまで人類、特に先進国が直面してきた少子化を止める手立てについて、子育て世代にいくら手厚い支援をしたところで、少子化を止めるどころか、進んでしまっている現実がある。 そのメカニズムは後段で説明をするとして、まずは「異次元の少子化対策」に賛成する根拠として挙げられているのに、実は本質からずれてしまっている議論の整理から行っていきたい』、興味深そうだ。
・『本質からずれた論点(1)「高齢者が優遇されすぎている」 一つ目の論点は、「高齢者があまりにも優遇されすぎている」という訴えだ。 確かに、筆者もそう思う。貧困は高齢者だけの問題ではないにもかかわらず、医療費や公共施設の入場料、公共交通の運賃など、なぜか高齢者というだけで無料であったり、価格が異常に安かったりする。東京都中央区では、高齢者というだけで毎年、歌舞伎座の一等席で観劇し、豪華幕の内弁当が食べられる。高齢者は、税金によって無料だ。 戦争を経験した世代については、ウクライナ戦争を見ても、やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか。 しかし、この論点は正直、少子化対策とは何の関係もないはずだ。一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ』、「戦争を経験した世代については・・・やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか」、「一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ」、その通りだ。
・『本質からずれた論点(2)子どもに「教育機会の平等」を 二つ目の論点として、教育における「機会の平等」を子どもたちに与えようという意見が挙げられる。子育て支援を手厚くすることで「親ガチャ」を無くし、貧困を理由に進学の機会を失うことがないようにしようというものだ。 個人的にはこの論点については完全には同意しかねる。中卒でも高卒でも立派に働いている人はいるし、そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ。同質性の高い社会ほどもろく弱い社会はない。学校教育は自由が一番だ。 そんな筆者の意見は横に置いておくとしても、やはりこれも一つ目の論点と同様に、少子化対策とは関係のない話だ。 なぜこの話を先にしたのかというと、この一つ目、二つ目の論点に基づいて「岸田首相の異次元の少子化対策」を称賛する識者がたくさんいるのが確認できるからだ』、「そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ」、同感である。
・『「異次元」の予算規模となれば大増税が待つのは必然 そして、もう一つ押さえておきたい点が、当然ながら、税金で大盤振る舞いをした後に待つのは大増税であるという事実だ。岸田政権が打ち出した少子化対策の「異次元」というのは、予算規模のことを必ずしも指さないのではないかと淡い期待をしていたが、ダメだった。予算規模が異次元に拡大するのは間違いがないようだ。 日本銀行の分析(「国民負担率と経済成長」2000年)によれば、国民負担率(税負担+社会保障負担の対名目国内総生産〈GDP〉比)が1%上昇すると経済成長率は0.30%低下するという相関関係が見られる。 また、第一生命経済研究所「国民負担率の上昇がマクロ経済に及ぼす影響(続編)」(05年)によれば、国民負担率1%ポイントの上昇に対し、家計貯蓄率が0.28%ポイント低下する負の相関関係にあるという。 そして、日本人の潜在的国民負担率(将来世代の負担である財政赤字を含む)は22年度(見通し)で56.9%(対国民所得比)になっている。これは、福祉国家として知られる北欧のスウェーデンをも上回る値だ。政策目的と違う上記二つの論点のような効果を期待したバラマキについては、国益の観点から拒否しておいた方がよさそうだ』、「「異次元」の予算規模となれば大増税が待つのは必然」として、反対するとは論理的で、同意できる。
・『出生率を分解すると見えてくる少子化対策「真のポイント」とは さて、ここまできてようやく本題に移ろう。 内閣府子ども・子育て本部がまとめた「我が国のこれまでの少子化対策について」に、注目したいデータがある。そして、同じデータが、内閣官房のこども政策の推進に係る有識者会議の資料「少子化社会対策大綱の推進に関する検討会 における議論の状況について」(21年9月16日)が内閣府に提出されている。 その二つの資料には、こう書いてある。 (1)合計特殊出生率は、有配偶率と有配偶者出生率に分解できる。 (2)50歳時の未婚割合は、1980年に男性2.60%、女性4.45%であったが、直近の2015年には男性23.37%、女性14.06%に上昇している。この傾向が続けば、いずれ、男性で3割近く、女性で2割近くになると推計されている。 (3)夫婦の完結出生児数は、1970年代から2002年まで2.2人前後で安定的に推移していたが、2005年から減少傾向となり、直近の2015年には過去最低である1.94人になった。 そして、図が二つ提示してある。 ちょっと難しい言葉が続いたが、これらが何を意味しているのかを簡単に言うと、ざっとこのようなイメージだ。) 出生率の算定式は、(1)女性が結婚したかどうかと、(2)女性が結婚した後に、子どもを何人産んでいるかということに分解できる。前述した、資料内に提示してある「二つの図」で数字の推移を見ると、日本では未婚率がどんどん高まっていく一方で、結婚した後で何人子どもを産むかについては(微減しているが)ほとんど変わっていない。 このデータから導き出される結論は、少子化対策で最大の効果を狙うなら、子育て世帯を支援するよりも未婚者にもっと結婚をしてもらうしかないということだ』、「このデータから導き出される結論は、少子化対策で最大の効果を狙うなら、子育て世帯を支援するよりも未婚者にもっと結婚をしてもらうしかないということだ」、確かにその通りだ。
・『少子化対策の手本だったフィンランド 出生率が急落していた このデータを理解していれば、赤川学・東京大学大学院教授の「少子化の原因を分解すると、結婚しない人が増えていることの効果が9割を占めている」(日経ビジネス電子版、22年10月23日)という指摘も非常に納得できるはずだ。 欧米でも日本と同じように、「子育ての障害」となるようなお金の問題、休暇の問題、女性の待遇ばかりが議題として噴出し、効果のない少子化対策が繰り返された。とりわけ、そんな子育て支援先進国であるフィンランドの出生率は、10年には1.87だったがこの10年余りで急落。19年には過去最低の1.35にまで落ち込んだ。20年には微増したが1.37と、日本の1.34と大して変わらない状況だ。 子育て支援をすればするほど税金や社会保障による国民負担が増し、家計に打撃を与える。お金の問題で少子化が進むというのであれば、子育て支援に投じる税金の財源は高齢者のみに求めるしかないが、そんなことを自公政権がするはずもない。結局、現役世代への増税となって返ってくるだけであろう。であれば、岸田政権による意味のない少子化対策は、未婚率を下げ止めることなく、国民負担をただ増やすだけだ。金銭的事情で結婚をためらう人は増えてしまう。故に、コロナ禍で極端に減った出生数は短期的には多少の回復を見込めるかもしれないが、少子化はさらに進むことになる。 統一地方選挙を前にして、「異次元」なる言葉の下、与野党がバラマキ合戦を始めた――そんな現状は、国の経済成長にとっても私たちの家計にとっても悪夢でしかない(バラマキを勝ち誇る公明党の選挙ポスターが町中に張り出されるのが目に浮かぶ)。 「異次元の子育て支援」の恩恵を受けることになる子育て中の親からすれば、以上のことは受け入れ難い話だろう。しかし、自分たちが受け取った恩恵のツケは、今あなたの下で育っている子どもが払うことになる。果たして、それで本当にいいのだろうか。 国会議員、そして国民は、もう少し冷静になって考えてほしいところだ』、「自分たちが受け取った恩恵のツケは、今あなたの下で育っている子どもが払うことになる。果たして、それで本当にいいのだろうか。 国会議員、そして国民は、もう少し冷静になって考えてほしいところだ」、その通りだ。
次に、2月7日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した立命館大学政策科学部教授の上久保誠人氏による「「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/317327
・『岸田文雄首相が打ち出した「異次元の少子化対策」が波紋を呼んでいる。筆者もこの施策は少子化の抜本的な解決にはつながらず、「対症療法」にすぎないと考えている。そう言い切れる理由と、少子化脱却に向けて日本政府が本当に解決すべき問題について解説する』、興味深そうだ。
・『「異次元の少子化対策」はアベノミクスに似ている 今年1月、通常国会が開幕した。その中で岸田文雄首相が最重要課題の一つとして位置付けているのが「異次元の少子化対策」だ。 日本の合計特殊出生率は下落を続け、2021年は1.30人である。22年の日本の出生数は80万人を割り込んだとみられる。国家として危機的な状況といえる。岸田首相は、こうした状況を「異次元」の施策で一挙に解決するという。 「異次元」と聞いて想起されるのは、安倍晋三元首相が展開した「アベノミクス」の「異次元の金融緩和」だ。 だが、私はアベノミクスを評価していない。金額が異次元だっただけで、中身は旧来型のバラマキ政策だったからだ。この政策は、輸出産業など斜陽産業を延命させる「対症療法」だった。 経済を本格的に復活させる新しい産業を生み出す本質的な改革、いわば「原因療法」と呼べる規制緩和や構造改革は十分に行われなかった(本連載第305回・p2)。 「異次元の少子化対策」もアベノミクスに似ている。まず形式的な話をすると、主要な施策が「三本柱(三本の矢)」にまとめられる点が同じだ。 次に中身を見ていくと、(1)児童手当を中心とする経済的支援強化、(2)幼児教育や保育サービスの支援拡充、(3)働き方改革の推進――の三本柱は既存政策の拡充にすぎない。これもアベノミクスと同じだ。 さらに、「異次元」の予算規模で実行される点も同じだ。特に(1)(2)は本質的な課題を解消する「原因療法」ではなく、目の前に見えている問題を解決するためにバラマキを行う「対症療法」である点も似通っている。 こうした支援の充実は、既に子どもがいて、子育てにお金がかかる親にとっては助かる話だろう。だが、子どもがいない夫婦も含めて、国民が「もう1人子どもを産み、育てる」ことにつながるかというと、必ずしもそうではない印象だ』、「こうした支援の充実は、既に子どもがいて、子育てにお金がかかる親にとっては助かる話だろう。だが、子どもがいない夫婦も含めて、国民が「もう1人子どもを産み、育てる」ことにつながるかというと、必ずしもそうではない」、その通りだ。
・『「子どもがいる夫婦」だけの支援では少子化対策につながらない理由 2022年11月18日付の日本経済新聞電子版に掲載された調査結果によれば、「子どもが減っている理由は何だと思いますか」との問いに対する答えは「家計に余裕がない」「出産・育児の負担」「仕事と育児の両立難」が上位を占めた。 また、「結婚はした方がよいと思いますか」との問いに対し、30代女性のわずか9%が「そう思う」と回答した。結婚が減っている理由は「若年層の低賃金」「将来の賃上げ期待がない」などが上位を占めていた。 要するに、経済的な理由で、結婚したいのにできないでいる人たちや、結婚しても子どもを持てない人たちが多くいる。これが日本の「少子化問題」の本質だ。 だが前述の三本柱では、「既に結婚して子どもがいる人たち」だけを支援の対象とし、未婚や子どもがいない人たちは支援の対象外としている。 つまり、三本柱は本当の意味での「少子化対策」ではなく、子どものいる家庭の生活をサポートする「子育て支援策」にすぎない』、「前述の三本柱では、「既に結婚して子どもがいる人たち」だけを支援の対象とし、未婚や子どもがいない人たちは支援の対象外としている」、それでは効果は大したことはなさそうだ。
・『日本で少子化問題が深刻な一因は「日本型雇用システム」だ 日本で少子化問題が深刻なのは、日本特有の問題がある。今でこそ女性の社会進出が進んでいるが、かつての日本では結婚して子どもができると、妻は離職して専業主婦になるか、正規雇用の職を失い、パートなどの非正規雇用になっていくしかなかった。いわゆる「日本型雇用システム」だ(第269回・p3 )。 その実態は、データで見るとよく分かる。「女性の年齢別労働力率」をグラフ化すると、学校を卒業した20代でピークに達し、その後30代の出産・育児期に落ち込み、子育てが一段落した40代で再上昇する。いわば「M字」に似た曲線となるのだ(参考:男女共同参画局の「年齢階級別労働力率」のグラフ)。 30代女性の労働力率が低下する「M字の谷」現象は、日本や韓国に特徴的な現象だ。欧米諸国などでは、一定の年齢層で労働力率が下がらず、女性の働き方に対して柔軟性が高いので「M字の谷」はない(参考:男女共同参画局の「主要国における女性の年齢階級別労働力率」のグラフ)。 確かに、日本でも安倍政権以降に打ち出された女性の社会進出を促進する政策によって、「M字の谷」が緩やかになった。今では「台形」に近づきつつある。だが、それは「未婚」のまま働き続ける女性や、出産などを機に非正規雇用として働く女性が増えた結果だ。正規雇用の女性が爆発的に増えたわけではない』、「日本でも安倍政権以降に打ち出された女性の社会進出を促進する政策によって、「M字の谷」が緩やかになった。今では「台形」に近づきつつある。だが、それは「未婚」のまま働き続ける女性や、出産などを機に非正規雇用として働く女性が増えた結果だ。正規雇用の女性が爆発的に増えたわけではない」、その通りだ。
・『女性が正社員になれない日本の「あしき風習」 男女共同参画局がまとめた「男女共同参画白書」によると、2021年の時点で専業主婦世帯数は458万世帯(28.0%)、共働き世帯数は1177万世帯(72.0%)と、後者が圧倒的に多い(いずれも妻が64歳以下の場合)。 だが、21年時点の労働力の内訳を見てみると、正規雇用は男性が2334万人に対し、女性は1221万人。非正規雇用は男性が652万人に対し、女性は1413万人となっており、本当の意味での「女性活躍」には程遠いことが分かる。 こうした現象が起きる要因も、先述した「日本型雇用システム」によるものだと考えられる。 年功序列・終身雇用を前提としたこのシステムでは、一度離職した女性が幹部になるのは難しい。日本における離職は、組織内における同世代の「出世争い」からの離脱を意味し、一度離れると二度と争いに復帰できない。 ゆえに、数年のブランクのある女性は正規雇用での職場復帰は難しく、正規雇用での中途採用枠も極めて狭い。 一方、欧米諸国の企業や官僚組織は、基本的に年功序列・終身雇用ではない。新卒の一括採用は少なく、組織が必要とする業務について人材を募集する。 マネジャーや幹部職も公募で決まる。内部昇格が行われるのは、外部から応募してきた人材と公平に比較・検討され、内部の人材が優秀と判断された場合のみである。 欧米でも、女性が結婚・出産で離職することはもちろんあるが、キャリアアップのハンディにはならない。離職前の経歴をアピールすれば、それに適したさまざまなポジションを獲得できる。 世界的に見れば、女性の政治家や企業経営者・幹部、学者には、パートナーを持ち、出産・子育てを経験している人が多い。企業の管理職における女性の割合が、わずか14.9%の日本とは大きな違いがある(参考:男女共同参画局がまとめた「就業者及び管理的職業従事者に占める女性の割合(国際比較)」)。 表面上は、日本企業でも産休・育休制度が普及し、一度現場を離れた女性(育休の場合は男性も)が正社員として復帰できる体制が整っている。 だが、日本型雇用システムの名残なのか、復帰した人が周囲になじめなかったり、子どもの送り迎えなどで仕事を中抜けする人が白い目で見られたりといった「あしき風習」は今も企業に色濃く残っているようだ。 政府は「対症療法」に終始するのではなく、少子化問題の根本原因である雇用慣行の是正にこそ、「異次元」の投資をするべきではないか。 そこで本稿では、本質的な少子化対策として「ファミリーの所得倍増計画」を提起したい。あえて「倍増」とした理由は、妻が正社員として働き、夫と同程度の給料を得られるようになれば、単純計算で世帯年収が倍増するからだ。 実現はそう簡単にできることではなく、さまざまな課題を乗り越えなければならないのは確かだが、その第一歩となる案を示していきたい』、「表面上は、日本企業でも産休・育休制度が普及し、一度現場を離れた女性(育休の場合は男性も)が正社員として復帰できる体制が整っている。 だが、日本型雇用システムの名残なのか、復帰した人が周囲になじめなかったり、子どもの送り迎えなどで仕事を中抜けする人が白い目で見られたりといった「あしき風習」は今も企業に色濃く残っているようだ」、「「異次元」の投資をするべきではないか。 そこで本稿では、本質的な少子化対策として「ファミリーの所得倍増計画」を提起したい」、なるほど。
・『本質的な少子化対策にはどんな取り組みが必要なのか まず、「103万円の壁」をはじめとするボーダーラインの改革だ。妻が夫の扶養に入っている世帯では、妻の収入が103万円を超えると、所得税の支払い義務が発生して負担が重くなる。 他にも、年収が130万円を超えると扶養から外れる「130万円の壁」など、配偶者控除や社会保険の仕組みにはさまざまな“壁”が存在する。 だが、これらの制度は女性の労働意欲を阻害している側面がある。女性の社会進出が進む時代に適した制度だともいえない。これらのボーダーラインを見直し、“壁”のあり方を変えれば、夫婦の経済的な余裕につながり、有効な少子化対策になるのではないか。 次は、「日本型雇用システム」の改革だ。厚生労働省は現在、「くるみん認定」「えるぼし認定」といった認定制度を設け、女性活躍や育児支援に力を入れている企業に助成金を給付するなどの優遇措置を実施している。 だが繰り返しになるが、日本では女性の非正規雇用者が多く、少子化が進んでいるのが現状であり、両制度が飛躍的な効果を生んでいるとはいえない。効果をさらに高める上では、助成金給付の対象となる企業を広げたり、給付金額を手厚くしたりといったテコ入れが必要ではないだろうか。 最後は、共働き世帯を支援する体制の改革だ。その上で最も重要になるのは、「保育園の待機児童問題」の完全な解消だろう(第128回)。保育園の建設増、保育士の人数増、その待遇の改善などの政策に、最優先に予算を付ける必要がある。 その上では、現在の「出入国管理法」のスキームを超えて移民を拡大し、保育・家事に携わる人材を確保するという選択肢も検討すべきだ(第200回)。 具体的には、共働き夫婦をサポートし、子育て・家事を行うベビーシッターやハウスキーパーを海外から受け入れる。上海など中国本土の大都市や、香港、台湾、シンガポールなどで行われている、共働き夫婦のキャリア形成を支援するモデルを日本に導入するのだ。 移民の受け入れには批判が根強い。だが、リスク防止策も含めて政府は従来の発想を変える政策を打ち出す必要がある。 私が挙げた「ファミリーの所得倍増計画」は一例にすぎないが、日本政府はこれらに匹敵するような抜本的な改革がなければ、少子化の改善は見込めず、衰退の一途をたどることになるだろう。 今の日本には何が必要なのか、歴史、伝統、文化、そして思想信条の違いを超えて、国民全体で議論していくべきではないだろうか』、「配偶者控除や社会保険の仕組みにはさまざまな“壁”が存在・・・これらのボーダーラインを見直し、“壁”のあり方を変えれば、夫婦の経済的な余裕につながり、有効な少子化対策になるのではないか。 次は、「日本型雇用システム」の改革だ。厚生労働省は現在、「くるみん認定」「えるぼし認定」といった認定制度を設け、女性活躍や育児支援に力を入れている企業に助成金を給付するなどの優遇措置を実施している。 だが繰り返しになるが、日本では女性の非正規雇用者が多く、少子化が進んでいるのが現状であり、両制度が飛躍的な効果を生んでいるとはいえない。効果をさらに高める上では、助成金給付の対象となる企業を広げたり、給付金額を手厚くしたりといったテコ入れが必要ではないだろうか。 最後は、共働き世帯を支援する体制の改革だ。その上で最も重要になるのは、「保育園の待機児童問題」の完全な解消」、私は「ベビーシッターやハウスキーパーを海外から受け入れる」のには反対である。「今の日本には何が必要なのか、歴史、伝統、文化、そして思想信条の違いを超えて、国民全体で議論していくべきではないだろうか」、といった総論には賛成である。
第三に、2月22日付けPRESIDENT Onlineが掲載した解剖学者・東京大学名誉教授の養老 孟司氏による「「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている」を紹介しよう。
https://president.jp/articles/-/66648
・『なぜ日本の少子化は止まらないのか。解剖学者の養老孟司さんは「現代の人は、お金にならない自然は価値がないとして消していっている。先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」という――。 ※本稿は、養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)の一部を再編集したものです』、「先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」、養老氏らしいユニークな主張だ。
・『学問をすると、自分が「違う人」になる 『論語』の「朝あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。普通はそう解釈されています。でも現代人には、ピンとこないでしょう。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、何の役にも立ちませんから。 私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。 前の自分がいなくなる、たとえて言えば「死ぬ」わけです。わかりやすいたとえは、恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです』、「恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです」、分かり易い喩えだ。
・『変わりたくない人は知ることはできない 人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさら何を驚くことがあるだろうか。『論語』の一節は、そういう反語表現だというのが私の解釈です。正しいかどうかはわかりません。 確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません』、「確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません」、その通りだ。
・『都会人が「空き地」と呼ぶ空間にあるもの 現代の人たちは、偶然を受け入れることが難しくなっています。なぜか。都市化が進んできたからです。私の言葉で言えば「脳化」です。 戦後日本の特徴を一言で言えば、都市化に尽きます。戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだと言ってもいいくらいです。都会の人々は自然を「ない」ことにしています。 木や草が生えていても、建物のない空間を見ると、都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」になってしまうわけです』、「都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」になってしまうわけです」、鋭い指摘だ。
・『なぜ樹齢八百年のケヤキを切ってしまうのか なぜ自然がないことになるのかというと、空き地の木には社会的・経済的価値がないからです。都会で「ある」のは、売り買いできるものです。売れないものは、現実に「ない」も同然。だから「空き地」と言われるのです。 岡山県の小さな古い神社で、宮司さんが社殿を建て直したいと思いました。その宮司さんが何をしたかというと、境内に生えている樹齢八百年のケヤキを切って売った。その金で社殿を建て直しました。八百年のケヤキを保たせておけば、二千年のケヤキになるかもしれません。大勢の人がそれを眺めて心を癒すことでしょう。でも、それを売ったお金で建てた社殿は、千年はぜったいに保ちません。これがいまの世の中です。 社会的・経済的価値のある・なしは、現実と深く関わっています。いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです』、「いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです」、確かにその通りだ。
・『「現実ではない」ものは消されてしまう 不動産業者にとっても、財務省のお役人にとっても、地面に生えている木なんて、切ってしまうだけのものです。誰かに切らせて、更地にする。どうして切るかというと、本来「ない」はずのものだからです。 そこに木が生えているから、家の建て方を変えよう。川や森があるから、町のつくり方を工夫しよう。そう思うなら、木や川、森はあなたにとって現実です。でも、更地にする人にとっては、木は「現実ではない」。現実ではないのですが、実際には生えていますから、邪魔物扱いをして切ってしまう。まさしく木を「消す」のです。 頭の中から消し、実際に切ってしまって、現実からも消すのです。不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです』、「不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです」、面白い捉え方だ。虫採りが趣味だと、虫の立場でものを考えられるのだろう。
・『都会人にとって、幼児期の子どもは必要悪 こういう世界で、子どもにまともに価値が置かれるはずがありません。子どもの先行きなど、誰もわからないからです。子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません。だから、自然と同じように、子どももいなくなるのです。 いや、子どもはいるじゃないか。たしかに、子どもはいます。しかし、それは空き地の木があるのと同じです。いるにはいるけれど、子どもそれ自体には価値がない。現実ではないもの、つまり社会的・経済的価値がわからないものに、価値のつけようはないのです。 木を消すのと同じ感覚で、いまの子どもは、早く大人になれと言われています。都市は大人がつくる世界です。都市の中にさっさと入れ。そうすれば、子どもはいなくなりますから。 都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。子どもがいきなり大人になれるわけがない。でも、いきなり大人になってくれたら便利だろう。都会の親は、どこかでそう思っているふしがある。 ところが田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です』、「子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません」、「都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています」、「田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です」、よくぞここまでズバリと本質をえぐるものだ、さすが養老先生だけある。久しぶりに刺激が強い記事だった。
タグ:「自分たちが受け取った恩恵のツケは、今あなたの下で育っている子どもが払うことになる。果たして、それで本当にいいのだろうか。 国会議員、そして国民は、もう少し冷静になって考えてほしいところだ」、その通りだ。 「日本でも安倍政権以降に打ち出された女性の社会進出を促進する政策によって、「M字の谷」が緩やかになった。今では「台形」に近づきつつある。だが、それは「未婚」のまま働き続ける女性や、出産などを機に非正規雇用として働く女性が増えた結果だ。正規雇用の女性が爆発的に増えたわけではない」、その通りだ。 「こうした支援の充実は、既に子どもがいて、子育てにお金がかかる親にとっては助かる話だろう。だが、子どもがいない夫婦も含めて、国民が「もう1人子どもを産み、育てる」ことにつながるかというと、必ずしもそうではない」、その通りだ。 だが繰り返しになるが、日本では女性の非正規雇用者が多く、少子化が進んでいるのが現状であり、両制度が飛躍的な効果を生んでいるとはいえない。効果をさらに高める上では、助成金給付の対象となる企業を広げたり、給付金額を手厚くしたりといったテコ入れが必要ではないだろうか。 最後は、共働き世帯を支援する体制の改革だ。その上で最も重要になるのは、「保育園の待機児童問題」の完全な解消」、私は「ベビーシッターやハウスキーパーを海外から受け入れる」のには反対である。 「配偶者控除や社会保険の仕組みにはさまざまな“壁”が存在・・・これらのボーダーラインを見直し、“壁”のあり方を変えれば、夫婦の経済的な余裕につながり、有効な少子化対策になるのではないか。 次は、「日本型雇用システム」の改革だ。厚生労働省は現在、「くるみん認定」「えるぼし認定」といった認定制度を設け、女性活躍や育児支援に力を入れている企業に助成金を給付するなどの優遇措置を実施している。 ダイヤモンド・オンライン 本質からずれた論点(1)「高齢者が優遇されすぎている」 本質からずれた論点(2)子どもに「教育機会の平等」を 「表面上は、日本企業でも産休・育休制度が普及し、一度現場を離れた女性(育休の場合は男性も)が正社員として復帰できる体制が整っている。 だが、日本型雇用システムの名残なのか、復帰した人が周囲になじめなかったり、子どもの送り迎えなどで仕事を中抜けする人が白い目で見られたりといった「あしき風習」は今も企業に色濃く残っているようだ」、「「異次元」の投資をするべきではないか。 そこで本稿では、本質的な少子化対策として「ファミリーの所得倍増計画」を提起したい」、なるほど。 「前述の三本柱では、「既に結婚して子どもがいる人たち」だけを支援の対象とし、未婚や子どもがいない人たちは支援の対象外としている」、それでは効果は大したことはなさそうだ。 「戦争を経験した世代については・・・やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか」、「一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ」、その通りだ。 少子化 「逆に少子化が進めかねない巨大なリスクを抱えている」とはどういうことだろう。 「そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ」、同感である。 (その3)(「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由 フィンランドの失敗に学べ、「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由、「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている) 「「異次元」の予算規模となれば大増税が待つのは必然」として、反対するとは論理的で、同意できる。 小倉健一氏による「「異次元の少子化対策」が逆に少子化を進める理由、フィンランドの失敗に学べ」 「このデータから導き出される結論は、少子化対策で最大の効果を狙うなら、子育て世帯を支援するよりも未婚者にもっと結婚をしてもらうしかないということだ」、確かにその通りだ。 上久保誠人氏による「「異次元の少子化対策」はアベノミクスと同様の対症療法にすぎないと言い切れる理由」 「今の日本には何が必要なのか、歴史、伝統、文化、そして思想信条の違いを超えて、国民全体で議論していくべきではないだろうか」、といった総論には賛成である。 PRESIDENT ONLINE 養老 孟司氏による「「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている」 「先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」、養老氏らしいユニークな主張だ。 「恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです」、分かり易い喩えだ。 「確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません」、その通りだ。 「都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」にな てしまうわけです」、鋭い指摘だ。 「いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです」、確かにその通りだ。 「不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです」、面白い捉え方だ。虫採りが趣味だと、虫の立場でものを考えられるのだろう。 「子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません」、「都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています」、「田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。 育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です」、よくぞここまでズバリと本質をえぐるものだ、さすが養老先生だけある。久しぶりに刺激が強い記事だった。