三菱重工はどうしたのか?(その7)(三菱スペースジェット失敗の理由 ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念、三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡 教訓生かせるか)
三菱重工はどうしたのか?については、2018年5月4日に取上げた。久しぶりの今日は、(その7)(三菱スペースジェット失敗の理由 ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念、三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡 教訓生かせるか)である。
先ずは、本年2月15日付けJBPressが掲載した元空将補の横山 恭三氏による「三菱スペースジェット失敗の理由、ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73967
・『三菱重工業は2023年2月7日、連結子会社の三菱航空機が取り組んでいた「三菱スペースジェット(旧MRJ)」の開発事業から撤退すると発表した。 同社が、国産リージョナルジェット機の事業化を決定し、三菱航空機を設立したのは、2008年である。 三菱航空機は、最初の顧客となる予定だった全日本空輸への機体の納入を2013年に始めるはずだった。 しかし、2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。 三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。 実際には2020年10月30日に三菱スペースジェット事業は打ち切られていた。 三菱重工は同日、三菱スペースジェットの開発活動は「いったん立ち止まる」と発表した。 筆者は、事業打ち切りの主要な要因は2つあると考える。 一つは採算が取れないことである。 2019年10月31日に地域航空会社3社を持つ米トランス・ステーツ・ホールディングス(TSH)が100機購入の契約を解消したのである。 TSHが契約解消する前の契約総数は387機であった。これで契約総数287機となった。 2007年時点の報道では採算ラインは350機、利益確保には600機の生産が必要とのことであった(出典:J-CASTニュース 2007.6.28)。 TSHが契約を解消した理由は、米国の労使協定「スコープ・クローズ」を既契約機では満たせないためであった。 契約当時、MRJは標準座席数が88席の「MRJ90」と、76席の「MRJ70」の2機種構成で、TSHはMRJ90を発注していた。 両社が契約を締結した時点では、リージョナル機の座席数(最大76席)や最大離陸重量(39トン)を制限する米国の労使協定「スコープ・クローズ」が将来緩和され、MRJ90(標準座席数88、最大離陸重量43トン)が運航できることを想定していた。 しかし、協定は現時点でも緩和されておらず、三菱航空機が協定をクリアする機体を製造できていないことから、契約解消に至った。 三菱側の「スコープ・クローズ」に対する見通しの甘さがうかがえる。 もう一つの事業打ち切りの要因は、型式証明の壁である。 MRJプロジェクトの納入延期のほとんどが型式証明の取得手続きに関わるものだった。 事業凍結への決定打となった大幅な5回目の遅延も、型式証明を得るための大規模な設計変更が理由である。 型式証明とは、民間航空機を対象としたもので、機体の設計が安全性基準に適合することを国が審査・確認する制度である。 安全性基準に適合すると判断した場合に限り、その型式に対して国が適合証明書を発行する。 三菱航空機のエンジニアらは「国内初のジェット旅客機とあって基準の解釈や、どうすれば基準をクリアしたことになるのかが分からず、戸惑い続けた」(三菱航空機の元事業開発担当者)。 機体強度や電気系統、耐火性能などを立証すべく試行錯誤を続けたが、「審査に耐えられない」と設計変更をたびたび余儀なくされた。 2016年秋以降はカナダのボンバルディアや米ボーイングのエンジニアらを次々と採用した。 しかし、それでもなお基準に適合していない不備があちこちで見つかり、証明作業の無限地獄に陥った(出典:日経ビジネス「国産ジェットの夢を阻んだ「型式証明」の壁 責任は三菱重工だけか」2023.2.7)。 また、型式証明の取得にこだわれば、今後数年にわたり年1000億円前後の出費が必要になる可能性があったと報道されている。 上記のとおり、経済産業省が全面支援し、三菱重工が巨費を投じた国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。 一方、8人乗りのプライベートジェットで単純比較はできないが、自動車メーカーのホンダがプライベートジェットであるホンダジェットの製品化に成功した。 重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか。両者を比較して教訓を見つけてみたい。 以下、初めに三菱スペースジェット開発の経緯について述べ、次に三菱重工によるスペースジェット事業失敗の総括について述べ、最後に三菱スペースジェットの失敗とホンダジェットの成功について述べてみたい』、「2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。 三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された」、「三菱重工業が約1兆円」、「経済産業省も約500億円の国費を投入」、全く見っともない結果だ。「重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか」、興味深そうだ。
・(以下、P7まで省略) 3.三菱の失敗とホンダの成功 三菱スペースジェットとホンダジェットを対比させた報道記事は多数出ている。以下はそれらの記事を筆者の視点から取りまとめたものである。 (1)「飛行機作りにはジーザス・クライストが必要だ」(この言葉は、飛行機の「神」、つまり全権を握る存在が不可欠という意味である。 これはホンダジェットの開発リーダーである藤野道格氏が、飛行機設計のノウハウをたたき込まれた米ロッキード(現ロッキード・マーチン)の技術者から教わった言葉である。 ロッキードには「神」がいたという。それがケリー・ジョンソン氏、通称、JCケリーだ。JCはジーザス・クライストの略である。 ロッキードの精鋭部隊「スカンクワークス」の創設者だ。 後にステルス戦闘機を開発し、JCケリーの後を継いだベン・リッチ氏は初めてスカンクワークスに足を踏み入れた時のことを「この世界は一人の男、ケリーを中心に回っていることが分かった」と回想している。 実際、スカンクワークスにはすべての連絡事項をJCケリーに集め、全権を持って決定するための「14カ条のおきて」が存在したという。 これは何もロッキードだけの流儀ではなかった。米航空機の雄、ボーイングが第2次大戦後に確固たる地位を築く立役者となったのがジョー・サッターという技術者だった。 超大型機「747」の開発者としても知られ、ボルト1本の設計さえサッターの許可が必要だったと言われている。 国産旅客機として代表的なホンダジェット、YS-11の開発にはカリスマ技術者と呼ばれるリーダーが存在した。 ホンダジェットの場合、それは藤野道格氏で、日本で技術経営を実践した代表的な人物だ。 藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーの社長として、また技術者として同機を開発し、大成功を収めた。 そして、開発開始から販売開始までの30年間、ホンダジェット開発のリーダーを務めた。 翻って三菱重工はどうか。 2008年に開発が始まってから約10年で、三菱航空機の社長を5人もすげ替えてきた。 迷走が顕著となってきたのは、2015年に4代目社長として森本浩通氏が就任した頃からだろう。 森本氏は火力発電プラントの海外営業が長い。直前も米国法人の社長としてニューヨークに駐在していた。つまり全くの門外漢だ。 「突然、宮永さんに通告された時は正直、冗談かと思いましたよ」と当時回想していたが、無理もない。 2013年に三菱重工の社長に就任した宮永俊一氏にとって森本氏の起用は、独立心が強くプライドが高いことで知られる航空・防衛部門を牽制する狙いがあった。 根城の名古屋航空宇宙システム製作所は「名航」と呼ばれ、三菱重工の社長も輩出してきた。 三菱航空機でも航空・防衛畑出身の社長が続いたが、機械畑の宮永氏はジェット開発の掌握のため門外漢をあえて起用した。 森本体制で2015年11月に初飛行に成功したが、その1カ月後に主翼の強度不足という致命的な欠陥が発覚し、4度目の納入延期に追い込まれる。 すると宮永氏はわずか2年で首をすげ替えた。 後任には航空・防衛畑の水谷久和氏を据えた。名航にとっては「大政奉還」と言えたが、これがさらなる迷走を助長した(出典:日経産業新聞『三菱ジェット、ホンダジェットと明暗分けた鉄則』(2020年10月30日)』、「飛行機作りにはジーザス・クライストが必要だ」、「ホンダジェットの場合」、「藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーの社長として、また技術者として同機を開発し、大成功を収めた。 そして、開発開始から販売開始までの30年間、ホンダジェット開発のリーダーを務めた」、「翻って三菱重工はどうか。 2008年に開発が始まってから約10年で、三菱航空機の社長を5人もすげ替えてきた」、これでは三菱航空機は失敗するべくして失敗したようだ。
・『(2)純国産・自前主義の弊害 三菱スペースジェットの主要部品・装置の約7割が海外サプライヤー製であるが、三菱重工は高学歴のエリート技術者が集まる名門企業のため、そのプライドもあり、自前主義や純血主義へのこだわりが海外サプライヤーとの統合や調整に難航したとされる。 その結果、三菱重工技術者だけで、運航開始に不可欠な米国連邦航空局(FAA)の型式証明(注1)の取得作業を進めた。 「日本の防衛を担う戦闘機を造っているのだから大丈夫」という根拠なき楽観論が同社の多数派であったといわれるが、型式証明のルールを欧米勢が握る民間航空機の世界は甘くなかったのである。(筆者注:自衛隊機は航空法第11条の適用を受けないため、型式証明が不要である) 一方、ホンダ エアクラフト カンパニーは米国に拠点を構え、ホンダジェットを開発・生産した。以下の3つが大きな理由として考えられる。 ①航空機産業で世界をリードするのは米国企業であり、有能な人材の確保が可能である。 ②キーコンポーネントであるジェットエンジンの内製化を期し、航空機エンジンのグローバル3大企業の1社である米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同開発を目指した 。 ③運航開始に不可欠な FAA の型式証明取得のため、米国航空業界の人脈・知見をフルに活用可能である。 (出典:国際ビジネス・コンサルタント江崎 康弘氏『比較経営検証:日本のものづくり—三菱スペースジェットとホンダジェット—』2021.12) (注1)航空関連の著作を多数刊行してきたノンフィクション作家の前間孝則氏は「型式証明」についてこう書いている。 「FAAに提出する申請書類やレポート、設計書や図面、数々の書類などの紙の重さの合計は機体の重さに匹敵する」 ちなみにホンダジェットの重量は約4トン。量もさることながら、用紙代だって巨額だ。認証の対象になるのは、機体はもちろんのこと、すべての搭載機器、その部品、材料一つひとつ、これらの設計計算書、図面、製造設備、製造方法、検査手順、治工具管理、マネジメントの体制、教育システム・・・。 ひとたび事故が起きれば死に直結するだけに、開発者に対する要求は想像を絶する』、「三菱重工は高学歴のエリート技術者が集まる名門企業のため、そのプライドもあり、自前主義や純血主義へのこだわりが海外サプライヤーとの統合や調整に難航・・・三菱重工技術者だけで、運航開始に不可欠な米国連邦航空局(FAA)の型式証明(注1)の取得作業を進めた。 「日本の防衛を担う戦闘機を造っているのだから大丈夫」という根拠なき楽観論が同社の多数派であったといわれるが、型式証明のルールを欧米勢が握る民間航空機の世界は甘くなかった」、他方、「ホンダ」・・・は米国に拠点を構え、ホンダジェットを開発・生産した。以下の3つが大きな理由として考えられる。 ①航空機産業で世界をリードするのは米国企業であり、有能な人材の確保が可能である。 ②キーコンポーネントであるジェットエンジンの内製化を期し、航空機エンジンのグローバル3大企業の1社である米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同開発を目指した 。 ③運航開始に不可欠な FAA の型式証明取得のため、米国航空業界の人脈・知見をフルに活用可能」、これでは「ホンダ」の成功と「三菱重工」の失敗は、当然とも言えそうだ。
・『(3)本田宗一郎のDNAと国家プロジェクト 本田宗一郎氏は「政府が介入すれば企業の力は弱まる。良品に国境なし。良い製品は売れる。自由競争こそが産業を育てる」 という考えで、国産四輪車開発などで中央官庁と正面から対立したが、この DNAこそがホンダジェットの源流であろう。 ホンダジェットは、ホンダエアクラフト カンパニー社長兼CEOである藤野道格氏が発案した。 彼は当時、歴代のホンダのトップからの厳しいダメ出しに敢然と立ち向かい、ホンダがホンダジェットをやる意味を社内で共有させた。 また、経験のない事業を蓄積も乏しくその基盤のない日本でやることを放棄し、北米に拠点を設立、北米のエコシステムの中で事業を育んだことも、藤野氏の慧眼と思われる。 そして完成まで一貫して藤野氏がプロジェクト・リーダーであったことも大きな要因(勝因)であろう。 ところが、対するMRJは全く対照的な発想と経緯を辿った。 この事業の発案者は、当時の経産省製造産業局の課長クラスと言われている。 「今しか、日本が航空機産業を再興する機会はない」という危機意識の醸成をしたものの、気が乗らない三菱重工を補助金の札束で引っ叩いて、経産省がバックアップするとの約束のもと着手させた。 MRJは、国家事業でもあったため、拠点を国外に置く事など夢想だにしなかった。 また三菱重工側には藤野氏のように、この困難な事業に命を賭けてやる意思のあるリーダーは一人もいなかったのではないかと思われる。 結局ナイナイ尽くしの中で、認証取得困難、設計変更の繰り返しで、刀折れ、矢尽きたのである。 (出典:国際ビジネス・コンサルタント江崎 康弘氏『比較検証:日本のものづくり:ワクチンそしてMRJとホンダジェット』2021.06.22)』、「歴代のホンダのトップからの厳しいダメ出しに敢然と立ち向かい、ホンダがホンダジェットをやる意味を社内で共有させた。 また、経験のない事業を蓄積も乏しくその基盤のない日本でやることを放棄し、北米に拠点を設立、北米のエコシステムの中で事業を育んだことも、藤野氏の慧眼」、他方「MRJ」、「事業の発案者は、当時の経産省製造産業局の課長クラス」、「気が乗らない三菱重工を補助金の札束で引っ叩いて、経産省がバックアップするとの約束のもと着手させた」、経産省も罪つくりだ。
・『おわりに なぜ、日本の航空機産業をリードする三菱重工業は、「リージョナルジェット」の開発に失敗したのか。多くの国民が関心を持つところであろう。 新型コロナウイルスという不測事態の発生があったにしても、型式証明への準備不足や「スコープ・クローズ」に対する見通しの甘さなど三菱重工業の事業管理の不手際が失敗の要因であったことは否めない。 さらに次のような国レベルの問題点も指摘されている。 有限会社オリンポスの四戸哲社長人は、「MRJの開発主体である三菱重工業、そして開発のために設立された三菱航空機は『作る』ことはできても『創る』ことができなくなっているのではないか」という。 すなわち、航空機を製造する技術が高くても、ゼロから航空機を創造することはできないということである。 また、同社長はその背景について次のように語っている。 「米国からの新技術情報がどんどん来るものですから、自分で考えるより、文献から『学ぶ』ことが好きな人が採用され、どんどん組織の中で偉くなっていったんです」 「そうすると、オリジナリティがあって、自分で何かをしようという意欲のある人が、なかなか組織に入れなくなるし、入っても偉くなれなくなってしまう」 「この選別は、日本の航空産業にかなりのダメージを与えたと思います」 上記のことは、三菱重工だけの問題でなく日本の航空機産業全体の問題でもあろう。 さて、型式証明を得るのに足踏みを続けた責任は三菱航空機だけにあるのでなく、航空行政をつかさどる国土交通省航空局にも問題があるという指摘がある。 「日本では1962年に初飛行した国産ターボプロップ旅客機『YS-11』から半世紀も航空機の型式証明審査から遠ざかっていた。米ボーイングの旅客機などで知見豊富な米連邦航空局(FAA)と比べ日本の航空当局は審査が付け焼き刃だったと言える」 「航空局も危機感を募らせ一時期、FAAからアドバイザーを呼びノウハウを吸収しようとしたが技能を身につけるのはたやすくなかった」 「『ある意味、経験則が生きるのが航空機の世界だが、MRJは燃費性能が高いエンジンや革新的な空力設計、高度な電気システムを採用した。それがさらに審査を難しくさせ、必要あるかないか分からない証明作業を求められた。それに三菱航空機は対応しきれなかった』(同社元関係者)」 「国家プロジェクトでありながら、国が最新の航空機の知見を取り入れ安全性を判定する能力を養ってこなかったのは三菱航空機にとって不幸といえる」 (出典:日経ビジネス2023.2.7) 上記のことは、航空産業をつかさどる行政当局の構造的問題である。 最後に、三菱重工の泉澤清次社長は、三菱スペースジェット開発中止を発表した会見において、「スペースジェットの開発で得た知見は、日本と英国、イタリアの3カ国で共同開発する次期戦闘機などに生かす」と述べた。 是非とも次期戦闘機の開発を成功させてほしい。 また、今回の三菱スペースジェットの失敗を奇貨として、日本の航空行政を含む航空機産業界の改革・改善が進むことを願っている』、確かに「三菱重工」だけでなく、「航空局」などの「審査」ノウハウ欠如なども足を引っ張っただろうが、そんなことは「三菱重工」にしたら覚悟の上だ。「「スペースジェットの開発で得た知見は、日本と英国、イタリアの3カ国で共同開発する次期戦闘機などに生かす」、負け惜しみだろうが、せめて「次期戦闘機」には生かしてほしいものだ。
次に、2月21日付け東洋経済オンライン「三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡、教訓生かせるか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/653741
・『多くの産業を巻き込んだ国家プロジェクト。失敗を繰り返すことはないのか。 日本発のジェット旅客機構想は夢と消えた。 三菱重工業は2月7日、2020年10月に「立ち止まる」としていたリージョナルジェット機「三菱スペースジェット(MSJ)」の開発を中止すると発表した。開発子会社である三菱航空機は、トヨタ自動車などほかの出資者との協議を経て清算する予定だ。 2008年に三菱航空機を設立してから15年。2013年に予定していた初号機の納入は6回も延期を繰り返し、これまでに投入した開発費は1兆円を超える。国も500億円の補助金を投入したが、量産前の最後のハードルである米連邦航空局からの型式証明(TC)を取得する直前でのリタイアとなった』、なるほど。
・『「事業性を見いだせない」 コロナ禍を理由に開発を凍結してから2年余り。三菱重工の泉澤清次社長はこの日の会見で「事業性を検討してきたが、開発を再開するに足るものを見いだせなかった」と説明した。 航空機産業は開発時にかけた膨大な投資コストを長期間の販売・運用で回収するビジネスだ。MSJはすでに最初に計画した量産開始時期から10年遅れており、その分投資を回収できる「賞味期限」が短くなってしまう。 商業運航に必要なTC取得作業を再開させても、販売開始まで「数年間、毎年1000億円規模の開発費がかかる」(泉澤社長)状況では、到底ビジネスとして成り立たない、と判断した。 今回の開発中止決定が三菱重工の経営に直接与える影響はほとんどない。2020年3月期に2633億円、翌2021年3月期に1162億円という巨額の損失を計上し、関連資産の減損を済ませているからだ。納入予定だった航空会社への違約金などの交渉状況は明らかではないが、経営にインパクトを与えるほどではないという。 三菱重工は責任の所在を明らかにしていない。泉澤社長は会見で「長いプロジェクトのポイントポイントで社として適切に意思決定をしてきた。何か特定の時期や判断に問題があったわけではない」と説明した。こうした説明は2020年10月の凍結時にもしている。 もしコロナ禍がなかったらうまくいったのか。泉澤社長は「なかなか難しい。1つの原因に帰着することではない」と述べるにとどめた。あまりに長期の開発遅延により、失敗の原因を特定することすらできなかった。) 航空機の部品はおよそ300万点あるとされ、自動車の100倍にもなる。それだけサプライヤーの裾野は広い。MSJの量産が始まれば、拠点のある東海地方には航空機産業の一大拠点ができあがる。そうした期待を背負ってスタートした国家プロジェクトだった。中止判断に時間がかかったのも、利害関係者が多いためだ。泉澤社長は「そんなに簡単に答えを出せるものではない」と語った。 三菱重工は反省点として「型式認証プロセスへの理解不足」や「長期にわたる開発を継続して実施するリソースの不足」をあげる。ただ、それにとどまらない体質の問題を指摘する声もあった。 それが、自らが持つ技術力への強すぎる信頼だ。三菱重工はアメリカのボーイングに対し、主力大型旅客機「B787」の主翼を供給するなど有力なサプライヤーだ。防衛関連でも戦闘機の開発を手がけるなど航空分野への知見も広い。「三菱の技術力を結集すれば開発は可能」。開発着手当時はそんな熱気があったと当時を知る業界関係者は振り返る。 ところが、開発は初期からつまずく。2016年ごろにはTC取得に向けて設計に大きな問題があったことも判明し、900件以上の設計変更を余儀なくされた。開発責任者をはじめ多くの外国人エンジニアを採用し巻き返しをはかったが間に合わなかった。 協力会社からも不満の声が上がった。設計変更や今後の見通しについて十分な説明がなく、理由のわからない原価低減要求も相次いだという。「三菱重工から量産投資を求められても、話半分で対応しておけ」という話が共有されるほどだった。 「技術力が足りなかったということではない。技術がなければ試験飛行はできなかった」。泉澤社長は会見でこう発言し、開発陣をかばった。前出の関係者は「結局、主翼などの部品を高い精度で作る技術は持っていても、それらをまとめ上げる力がなかった」と、振り返る。15年の長きにわたり、独り相撲を繰り広げたに過ぎなかった』、「「三菱の技術力を結集すれば開発は可能」。開発着手当時はそんな熱気があったと当時を知る業界関係者は振り返る。 ところが、開発は初期からつまずく。2016年ごろにはTC取得に向けて設計に大きな問題があったことも判明し、900件以上の設計変更を余儀なくされた。開発責任者をはじめ多くの外国人エンジニアを採用し巻き返しをはかったが間に合わなかった」、自社技術への過信・おごりが命取りになったようだ。
・『エネルギー変革、同じ失敗犯さないか 1兆円の開発費で得たものは、戦闘機や次世代技術の開発に向けた知見活用などあいまいなものだ。1兆円は事実上無に帰した。だが、これほどの巨額損失を出しても三菱重工の財務は比較的健全だ。2022年末時点でのD/Eレシオ(資本に対する負債の倍率)は0.58と財務の健全性の目安とされる1倍を大きく割り込んでいる。 巨額損失を計上しても経営が揺るがなかったのは、この間全社をあげて取り組んだ経営効率化が実を結んだからだ。三菱重工が扱う重厚長大型の事業は製品リードタイムが長く、資産の効率性が高くなかった。 製造拠点ごとに分かれていた調達体制の一本化や業務プロセスの見直しを通じて、既存事業のキャッシュインを増やすことに成功。これらの資金余力が巨額投資を支えた構図だった。 しかし、これらの効率化ももはや限界だ。三菱重工の現在の稼ぎ頭は火力発電用のタービンなどだが、急激な脱炭素の潮流のなか、将来の見通しには疑問符がつく。 そこで目を付けているのが水素発電や二酸化炭素(CO2)の回収・貯留といった新しいエネルギー関連事業だ。三菱重工は2040年に顧客による自社製品の使用を含めたカーボンニュートラル達成を宣言。脱炭素技術の売り込みに躍起になっている。 各地で実証が始まっており、今のところ計画は順調だ。ところが、水素発電にせよCO2の回収・貯留にせよ新しい技術で、世界中どこでも事業化されていない。技術として可能でも、ビジネスとして花開くのかは未知数だ。 「私としては挑戦してよかったプロジェクト。チャレンジしていかないと物事は変わらない」。泉澤社長はMSJについてそう語った。ただ、同じことをもう一度繰り返せば、会社の屋台骨を揺るがす危機になる』、「水素発電や二酸化炭素(CO2)の回収・貯留といった新しいエネルギー関連事業だ。三菱重工は2040年に顧客による自社製品の使用を含めたカーボンニュートラル達成を宣言。脱炭素技術の売り込みに躍起になっている。 各地で実証が始まっており、今のところ計画は順調だ。ところが、水素発電にせよCO2の回収・貯留にせよ新しい技術で、世界中どこでも事業化されていない。技術として可能でも、ビジネスとして花開くのかは未知数」、大いに「チャレンジ」してもらいたいものだ。
先ずは、本年2月15日付けJBPressが掲載した元空将補の横山 恭三氏による「三菱スペースジェット失敗の理由、ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73967
・『三菱重工業は2023年2月7日、連結子会社の三菱航空機が取り組んでいた「三菱スペースジェット(旧MRJ)」の開発事業から撤退すると発表した。 同社が、国産リージョナルジェット機の事業化を決定し、三菱航空機を設立したのは、2008年である。 三菱航空機は、最初の顧客となる予定だった全日本空輸への機体の納入を2013年に始めるはずだった。 しかし、2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。 三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。 実際には2020年10月30日に三菱スペースジェット事業は打ち切られていた。 三菱重工は同日、三菱スペースジェットの開発活動は「いったん立ち止まる」と発表した。 筆者は、事業打ち切りの主要な要因は2つあると考える。 一つは採算が取れないことである。 2019年10月31日に地域航空会社3社を持つ米トランス・ステーツ・ホールディングス(TSH)が100機購入の契約を解消したのである。 TSHが契約解消する前の契約総数は387機であった。これで契約総数287機となった。 2007年時点の報道では採算ラインは350機、利益確保には600機の生産が必要とのことであった(出典:J-CASTニュース 2007.6.28)。 TSHが契約を解消した理由は、米国の労使協定「スコープ・クローズ」を既契約機では満たせないためであった。 契約当時、MRJは標準座席数が88席の「MRJ90」と、76席の「MRJ70」の2機種構成で、TSHはMRJ90を発注していた。 両社が契約を締結した時点では、リージョナル機の座席数(最大76席)や最大離陸重量(39トン)を制限する米国の労使協定「スコープ・クローズ」が将来緩和され、MRJ90(標準座席数88、最大離陸重量43トン)が運航できることを想定していた。 しかし、協定は現時点でも緩和されておらず、三菱航空機が協定をクリアする機体を製造できていないことから、契約解消に至った。 三菱側の「スコープ・クローズ」に対する見通しの甘さがうかがえる。 もう一つの事業打ち切りの要因は、型式証明の壁である。 MRJプロジェクトの納入延期のほとんどが型式証明の取得手続きに関わるものだった。 事業凍結への決定打となった大幅な5回目の遅延も、型式証明を得るための大規模な設計変更が理由である。 型式証明とは、民間航空機を対象としたもので、機体の設計が安全性基準に適合することを国が審査・確認する制度である。 安全性基準に適合すると判断した場合に限り、その型式に対して国が適合証明書を発行する。 三菱航空機のエンジニアらは「国内初のジェット旅客機とあって基準の解釈や、どうすれば基準をクリアしたことになるのかが分からず、戸惑い続けた」(三菱航空機の元事業開発担当者)。 機体強度や電気系統、耐火性能などを立証すべく試行錯誤を続けたが、「審査に耐えられない」と設計変更をたびたび余儀なくされた。 2016年秋以降はカナダのボンバルディアや米ボーイングのエンジニアらを次々と採用した。 しかし、それでもなお基準に適合していない不備があちこちで見つかり、証明作業の無限地獄に陥った(出典:日経ビジネス「国産ジェットの夢を阻んだ「型式証明」の壁 責任は三菱重工だけか」2023.2.7)。 また、型式証明の取得にこだわれば、今後数年にわたり年1000億円前後の出費が必要になる可能性があったと報道されている。 上記のとおり、経済産業省が全面支援し、三菱重工が巨費を投じた国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。 一方、8人乗りのプライベートジェットで単純比較はできないが、自動車メーカーのホンダがプライベートジェットであるホンダジェットの製品化に成功した。 重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか。両者を比較して教訓を見つけてみたい。 以下、初めに三菱スペースジェット開発の経緯について述べ、次に三菱重工によるスペースジェット事業失敗の総括について述べ、最後に三菱スペースジェットの失敗とホンダジェットの成功について述べてみたい』、「2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。 三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された」、「三菱重工業が約1兆円」、「経済産業省も約500億円の国費を投入」、全く見っともない結果だ。「重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか」、興味深そうだ。
・(以下、P7まで省略) 3.三菱の失敗とホンダの成功 三菱スペースジェットとホンダジェットを対比させた報道記事は多数出ている。以下はそれらの記事を筆者の視点から取りまとめたものである。 (1)「飛行機作りにはジーザス・クライストが必要だ」(この言葉は、飛行機の「神」、つまり全権を握る存在が不可欠という意味である。 これはホンダジェットの開発リーダーである藤野道格氏が、飛行機設計のノウハウをたたき込まれた米ロッキード(現ロッキード・マーチン)の技術者から教わった言葉である。 ロッキードには「神」がいたという。それがケリー・ジョンソン氏、通称、JCケリーだ。JCはジーザス・クライストの略である。 ロッキードの精鋭部隊「スカンクワークス」の創設者だ。 後にステルス戦闘機を開発し、JCケリーの後を継いだベン・リッチ氏は初めてスカンクワークスに足を踏み入れた時のことを「この世界は一人の男、ケリーを中心に回っていることが分かった」と回想している。 実際、スカンクワークスにはすべての連絡事項をJCケリーに集め、全権を持って決定するための「14カ条のおきて」が存在したという。 これは何もロッキードだけの流儀ではなかった。米航空機の雄、ボーイングが第2次大戦後に確固たる地位を築く立役者となったのがジョー・サッターという技術者だった。 超大型機「747」の開発者としても知られ、ボルト1本の設計さえサッターの許可が必要だったと言われている。 国産旅客機として代表的なホンダジェット、YS-11の開発にはカリスマ技術者と呼ばれるリーダーが存在した。 ホンダジェットの場合、それは藤野道格氏で、日本で技術経営を実践した代表的な人物だ。 藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーの社長として、また技術者として同機を開発し、大成功を収めた。 そして、開発開始から販売開始までの30年間、ホンダジェット開発のリーダーを務めた。 翻って三菱重工はどうか。 2008年に開発が始まってから約10年で、三菱航空機の社長を5人もすげ替えてきた。 迷走が顕著となってきたのは、2015年に4代目社長として森本浩通氏が就任した頃からだろう。 森本氏は火力発電プラントの海外営業が長い。直前も米国法人の社長としてニューヨークに駐在していた。つまり全くの門外漢だ。 「突然、宮永さんに通告された時は正直、冗談かと思いましたよ」と当時回想していたが、無理もない。 2013年に三菱重工の社長に就任した宮永俊一氏にとって森本氏の起用は、独立心が強くプライドが高いことで知られる航空・防衛部門を牽制する狙いがあった。 根城の名古屋航空宇宙システム製作所は「名航」と呼ばれ、三菱重工の社長も輩出してきた。 三菱航空機でも航空・防衛畑出身の社長が続いたが、機械畑の宮永氏はジェット開発の掌握のため門外漢をあえて起用した。 森本体制で2015年11月に初飛行に成功したが、その1カ月後に主翼の強度不足という致命的な欠陥が発覚し、4度目の納入延期に追い込まれる。 すると宮永氏はわずか2年で首をすげ替えた。 後任には航空・防衛畑の水谷久和氏を据えた。名航にとっては「大政奉還」と言えたが、これがさらなる迷走を助長した(出典:日経産業新聞『三菱ジェット、ホンダジェットと明暗分けた鉄則』(2020年10月30日)』、「飛行機作りにはジーザス・クライストが必要だ」、「ホンダジェットの場合」、「藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーの社長として、また技術者として同機を開発し、大成功を収めた。 そして、開発開始から販売開始までの30年間、ホンダジェット開発のリーダーを務めた」、「翻って三菱重工はどうか。 2008年に開発が始まってから約10年で、三菱航空機の社長を5人もすげ替えてきた」、これでは三菱航空機は失敗するべくして失敗したようだ。
・『(2)純国産・自前主義の弊害 三菱スペースジェットの主要部品・装置の約7割が海外サプライヤー製であるが、三菱重工は高学歴のエリート技術者が集まる名門企業のため、そのプライドもあり、自前主義や純血主義へのこだわりが海外サプライヤーとの統合や調整に難航したとされる。 その結果、三菱重工技術者だけで、運航開始に不可欠な米国連邦航空局(FAA)の型式証明(注1)の取得作業を進めた。 「日本の防衛を担う戦闘機を造っているのだから大丈夫」という根拠なき楽観論が同社の多数派であったといわれるが、型式証明のルールを欧米勢が握る民間航空機の世界は甘くなかったのである。(筆者注:自衛隊機は航空法第11条の適用を受けないため、型式証明が不要である) 一方、ホンダ エアクラフト カンパニーは米国に拠点を構え、ホンダジェットを開発・生産した。以下の3つが大きな理由として考えられる。 ①航空機産業で世界をリードするのは米国企業であり、有能な人材の確保が可能である。 ②キーコンポーネントであるジェットエンジンの内製化を期し、航空機エンジンのグローバル3大企業の1社である米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同開発を目指した 。 ③運航開始に不可欠な FAA の型式証明取得のため、米国航空業界の人脈・知見をフルに活用可能である。 (出典:国際ビジネス・コンサルタント江崎 康弘氏『比較経営検証:日本のものづくり—三菱スペースジェットとホンダジェット—』2021.12) (注1)航空関連の著作を多数刊行してきたノンフィクション作家の前間孝則氏は「型式証明」についてこう書いている。 「FAAに提出する申請書類やレポート、設計書や図面、数々の書類などの紙の重さの合計は機体の重さに匹敵する」 ちなみにホンダジェットの重量は約4トン。量もさることながら、用紙代だって巨額だ。認証の対象になるのは、機体はもちろんのこと、すべての搭載機器、その部品、材料一つひとつ、これらの設計計算書、図面、製造設備、製造方法、検査手順、治工具管理、マネジメントの体制、教育システム・・・。 ひとたび事故が起きれば死に直結するだけに、開発者に対する要求は想像を絶する』、「三菱重工は高学歴のエリート技術者が集まる名門企業のため、そのプライドもあり、自前主義や純血主義へのこだわりが海外サプライヤーとの統合や調整に難航・・・三菱重工技術者だけで、運航開始に不可欠な米国連邦航空局(FAA)の型式証明(注1)の取得作業を進めた。 「日本の防衛を担う戦闘機を造っているのだから大丈夫」という根拠なき楽観論が同社の多数派であったといわれるが、型式証明のルールを欧米勢が握る民間航空機の世界は甘くなかった」、他方、「ホンダ」・・・は米国に拠点を構え、ホンダジェットを開発・生産した。以下の3つが大きな理由として考えられる。 ①航空機産業で世界をリードするのは米国企業であり、有能な人材の確保が可能である。 ②キーコンポーネントであるジェットエンジンの内製化を期し、航空機エンジンのグローバル3大企業の1社である米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同開発を目指した 。 ③運航開始に不可欠な FAA の型式証明取得のため、米国航空業界の人脈・知見をフルに活用可能」、これでは「ホンダ」の成功と「三菱重工」の失敗は、当然とも言えそうだ。
・『(3)本田宗一郎のDNAと国家プロジェクト 本田宗一郎氏は「政府が介入すれば企業の力は弱まる。良品に国境なし。良い製品は売れる。自由競争こそが産業を育てる」 という考えで、国産四輪車開発などで中央官庁と正面から対立したが、この DNAこそがホンダジェットの源流であろう。 ホンダジェットは、ホンダエアクラフト カンパニー社長兼CEOである藤野道格氏が発案した。 彼は当時、歴代のホンダのトップからの厳しいダメ出しに敢然と立ち向かい、ホンダがホンダジェットをやる意味を社内で共有させた。 また、経験のない事業を蓄積も乏しくその基盤のない日本でやることを放棄し、北米に拠点を設立、北米のエコシステムの中で事業を育んだことも、藤野氏の慧眼と思われる。 そして完成まで一貫して藤野氏がプロジェクト・リーダーであったことも大きな要因(勝因)であろう。 ところが、対するMRJは全く対照的な発想と経緯を辿った。 この事業の発案者は、当時の経産省製造産業局の課長クラスと言われている。 「今しか、日本が航空機産業を再興する機会はない」という危機意識の醸成をしたものの、気が乗らない三菱重工を補助金の札束で引っ叩いて、経産省がバックアップするとの約束のもと着手させた。 MRJは、国家事業でもあったため、拠点を国外に置く事など夢想だにしなかった。 また三菱重工側には藤野氏のように、この困難な事業に命を賭けてやる意思のあるリーダーは一人もいなかったのではないかと思われる。 結局ナイナイ尽くしの中で、認証取得困難、設計変更の繰り返しで、刀折れ、矢尽きたのである。 (出典:国際ビジネス・コンサルタント江崎 康弘氏『比較検証:日本のものづくり:ワクチンそしてMRJとホンダジェット』2021.06.22)』、「歴代のホンダのトップからの厳しいダメ出しに敢然と立ち向かい、ホンダがホンダジェットをやる意味を社内で共有させた。 また、経験のない事業を蓄積も乏しくその基盤のない日本でやることを放棄し、北米に拠点を設立、北米のエコシステムの中で事業を育んだことも、藤野氏の慧眼」、他方「MRJ」、「事業の発案者は、当時の経産省製造産業局の課長クラス」、「気が乗らない三菱重工を補助金の札束で引っ叩いて、経産省がバックアップするとの約束のもと着手させた」、経産省も罪つくりだ。
・『おわりに なぜ、日本の航空機産業をリードする三菱重工業は、「リージョナルジェット」の開発に失敗したのか。多くの国民が関心を持つところであろう。 新型コロナウイルスという不測事態の発生があったにしても、型式証明への準備不足や「スコープ・クローズ」に対する見通しの甘さなど三菱重工業の事業管理の不手際が失敗の要因であったことは否めない。 さらに次のような国レベルの問題点も指摘されている。 有限会社オリンポスの四戸哲社長人は、「MRJの開発主体である三菱重工業、そして開発のために設立された三菱航空機は『作る』ことはできても『創る』ことができなくなっているのではないか」という。 すなわち、航空機を製造する技術が高くても、ゼロから航空機を創造することはできないということである。 また、同社長はその背景について次のように語っている。 「米国からの新技術情報がどんどん来るものですから、自分で考えるより、文献から『学ぶ』ことが好きな人が採用され、どんどん組織の中で偉くなっていったんです」 「そうすると、オリジナリティがあって、自分で何かをしようという意欲のある人が、なかなか組織に入れなくなるし、入っても偉くなれなくなってしまう」 「この選別は、日本の航空産業にかなりのダメージを与えたと思います」 上記のことは、三菱重工だけの問題でなく日本の航空機産業全体の問題でもあろう。 さて、型式証明を得るのに足踏みを続けた責任は三菱航空機だけにあるのでなく、航空行政をつかさどる国土交通省航空局にも問題があるという指摘がある。 「日本では1962年に初飛行した国産ターボプロップ旅客機『YS-11』から半世紀も航空機の型式証明審査から遠ざかっていた。米ボーイングの旅客機などで知見豊富な米連邦航空局(FAA)と比べ日本の航空当局は審査が付け焼き刃だったと言える」 「航空局も危機感を募らせ一時期、FAAからアドバイザーを呼びノウハウを吸収しようとしたが技能を身につけるのはたやすくなかった」 「『ある意味、経験則が生きるのが航空機の世界だが、MRJは燃費性能が高いエンジンや革新的な空力設計、高度な電気システムを採用した。それがさらに審査を難しくさせ、必要あるかないか分からない証明作業を求められた。それに三菱航空機は対応しきれなかった』(同社元関係者)」 「国家プロジェクトでありながら、国が最新の航空機の知見を取り入れ安全性を判定する能力を養ってこなかったのは三菱航空機にとって不幸といえる」 (出典:日経ビジネス2023.2.7) 上記のことは、航空産業をつかさどる行政当局の構造的問題である。 最後に、三菱重工の泉澤清次社長は、三菱スペースジェット開発中止を発表した会見において、「スペースジェットの開発で得た知見は、日本と英国、イタリアの3カ国で共同開発する次期戦闘機などに生かす」と述べた。 是非とも次期戦闘機の開発を成功させてほしい。 また、今回の三菱スペースジェットの失敗を奇貨として、日本の航空行政を含む航空機産業界の改革・改善が進むことを願っている』、確かに「三菱重工」だけでなく、「航空局」などの「審査」ノウハウ欠如なども足を引っ張っただろうが、そんなことは「三菱重工」にしたら覚悟の上だ。「「スペースジェットの開発で得た知見は、日本と英国、イタリアの3カ国で共同開発する次期戦闘機などに生かす」、負け惜しみだろうが、せめて「次期戦闘機」には生かしてほしいものだ。
次に、2月21日付け東洋経済オンライン「三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡、教訓生かせるか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/653741
・『多くの産業を巻き込んだ国家プロジェクト。失敗を繰り返すことはないのか。 日本発のジェット旅客機構想は夢と消えた。 三菱重工業は2月7日、2020年10月に「立ち止まる」としていたリージョナルジェット機「三菱スペースジェット(MSJ)」の開発を中止すると発表した。開発子会社である三菱航空機は、トヨタ自動車などほかの出資者との協議を経て清算する予定だ。 2008年に三菱航空機を設立してから15年。2013年に予定していた初号機の納入は6回も延期を繰り返し、これまでに投入した開発費は1兆円を超える。国も500億円の補助金を投入したが、量産前の最後のハードルである米連邦航空局からの型式証明(TC)を取得する直前でのリタイアとなった』、なるほど。
・『「事業性を見いだせない」 コロナ禍を理由に開発を凍結してから2年余り。三菱重工の泉澤清次社長はこの日の会見で「事業性を検討してきたが、開発を再開するに足るものを見いだせなかった」と説明した。 航空機産業は開発時にかけた膨大な投資コストを長期間の販売・運用で回収するビジネスだ。MSJはすでに最初に計画した量産開始時期から10年遅れており、その分投資を回収できる「賞味期限」が短くなってしまう。 商業運航に必要なTC取得作業を再開させても、販売開始まで「数年間、毎年1000億円規模の開発費がかかる」(泉澤社長)状況では、到底ビジネスとして成り立たない、と判断した。 今回の開発中止決定が三菱重工の経営に直接与える影響はほとんどない。2020年3月期に2633億円、翌2021年3月期に1162億円という巨額の損失を計上し、関連資産の減損を済ませているからだ。納入予定だった航空会社への違約金などの交渉状況は明らかではないが、経営にインパクトを与えるほどではないという。 三菱重工は責任の所在を明らかにしていない。泉澤社長は会見で「長いプロジェクトのポイントポイントで社として適切に意思決定をしてきた。何か特定の時期や判断に問題があったわけではない」と説明した。こうした説明は2020年10月の凍結時にもしている。 もしコロナ禍がなかったらうまくいったのか。泉澤社長は「なかなか難しい。1つの原因に帰着することではない」と述べるにとどめた。あまりに長期の開発遅延により、失敗の原因を特定することすらできなかった。) 航空機の部品はおよそ300万点あるとされ、自動車の100倍にもなる。それだけサプライヤーの裾野は広い。MSJの量産が始まれば、拠点のある東海地方には航空機産業の一大拠点ができあがる。そうした期待を背負ってスタートした国家プロジェクトだった。中止判断に時間がかかったのも、利害関係者が多いためだ。泉澤社長は「そんなに簡単に答えを出せるものではない」と語った。 三菱重工は反省点として「型式認証プロセスへの理解不足」や「長期にわたる開発を継続して実施するリソースの不足」をあげる。ただ、それにとどまらない体質の問題を指摘する声もあった。 それが、自らが持つ技術力への強すぎる信頼だ。三菱重工はアメリカのボーイングに対し、主力大型旅客機「B787」の主翼を供給するなど有力なサプライヤーだ。防衛関連でも戦闘機の開発を手がけるなど航空分野への知見も広い。「三菱の技術力を結集すれば開発は可能」。開発着手当時はそんな熱気があったと当時を知る業界関係者は振り返る。 ところが、開発は初期からつまずく。2016年ごろにはTC取得に向けて設計に大きな問題があったことも判明し、900件以上の設計変更を余儀なくされた。開発責任者をはじめ多くの外国人エンジニアを採用し巻き返しをはかったが間に合わなかった。 協力会社からも不満の声が上がった。設計変更や今後の見通しについて十分な説明がなく、理由のわからない原価低減要求も相次いだという。「三菱重工から量産投資を求められても、話半分で対応しておけ」という話が共有されるほどだった。 「技術力が足りなかったということではない。技術がなければ試験飛行はできなかった」。泉澤社長は会見でこう発言し、開発陣をかばった。前出の関係者は「結局、主翼などの部品を高い精度で作る技術は持っていても、それらをまとめ上げる力がなかった」と、振り返る。15年の長きにわたり、独り相撲を繰り広げたに過ぎなかった』、「「三菱の技術力を結集すれば開発は可能」。開発着手当時はそんな熱気があったと当時を知る業界関係者は振り返る。 ところが、開発は初期からつまずく。2016年ごろにはTC取得に向けて設計に大きな問題があったことも判明し、900件以上の設計変更を余儀なくされた。開発責任者をはじめ多くの外国人エンジニアを採用し巻き返しをはかったが間に合わなかった」、自社技術への過信・おごりが命取りになったようだ。
・『エネルギー変革、同じ失敗犯さないか 1兆円の開発費で得たものは、戦闘機や次世代技術の開発に向けた知見活用などあいまいなものだ。1兆円は事実上無に帰した。だが、これほどの巨額損失を出しても三菱重工の財務は比較的健全だ。2022年末時点でのD/Eレシオ(資本に対する負債の倍率)は0.58と財務の健全性の目安とされる1倍を大きく割り込んでいる。 巨額損失を計上しても経営が揺るがなかったのは、この間全社をあげて取り組んだ経営効率化が実を結んだからだ。三菱重工が扱う重厚長大型の事業は製品リードタイムが長く、資産の効率性が高くなかった。 製造拠点ごとに分かれていた調達体制の一本化や業務プロセスの見直しを通じて、既存事業のキャッシュインを増やすことに成功。これらの資金余力が巨額投資を支えた構図だった。 しかし、これらの効率化ももはや限界だ。三菱重工の現在の稼ぎ頭は火力発電用のタービンなどだが、急激な脱炭素の潮流のなか、将来の見通しには疑問符がつく。 そこで目を付けているのが水素発電や二酸化炭素(CO2)の回収・貯留といった新しいエネルギー関連事業だ。三菱重工は2040年に顧客による自社製品の使用を含めたカーボンニュートラル達成を宣言。脱炭素技術の売り込みに躍起になっている。 各地で実証が始まっており、今のところ計画は順調だ。ところが、水素発電にせよCO2の回収・貯留にせよ新しい技術で、世界中どこでも事業化されていない。技術として可能でも、ビジネスとして花開くのかは未知数だ。 「私としては挑戦してよかったプロジェクト。チャレンジしていかないと物事は変わらない」。泉澤社長はMSJについてそう語った。ただ、同じことをもう一度繰り返せば、会社の屋台骨を揺るがす危機になる』、「水素発電や二酸化炭素(CO2)の回収・貯留といった新しいエネルギー関連事業だ。三菱重工は2040年に顧客による自社製品の使用を含めたカーボンニュートラル達成を宣言。脱炭素技術の売り込みに躍起になっている。 各地で実証が始まっており、今のところ計画は順調だ。ところが、水素発電にせよCO2の回収・貯留にせよ新しい技術で、世界中どこでも事業化されていない。技術として可能でも、ビジネスとして花開くのかは未知数」、大いに「チャレンジ」してもらいたいものだ。
タグ:横山 恭三氏による「三菱スペースジェット失敗の理由、ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念」 JBPRESS (その7)(三菱スペースジェット失敗の理由 ホンダジェットとの比較を詳解 三菱に欠けホンダにはあったリーダーシップと信念、三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡 教訓生かせるか) 三菱重工はどうしたのか? 「2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。 三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された」、「三菱重工業が約1兆円」、「経済産業省も約500億円の国費を投入」、全く見っともない結果だ。「重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか」、興味深そうだ。 「飛行機作りにはジーザス・クライストが必要だ」、「ホンダジェットの場合」、「藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーの社長として、また技術者として同機を開発し、大成功を収めた。 そして、開発開始から販売開始までの30年間、ホンダジェット開発のリーダーを務めた」、「翻って三菱重工はどうか。 2008年に開発が始まってから約10年で、三菱航空機の社長を5人もすげ替えてきた」、これでは三菱航空機は失敗するべくして失敗したようだ。 「三菱重工は高学歴のエリート技術者が集まる名門企業のため、そのプライドもあり、自前主義や純血主義へのこだわりが海外サプライヤーとの統合や調整に難航・・・三菱重工技術者だけで、運航開始に不可欠な米国連邦航空局(FAA)の型式証明(注1)の取得作業を進めた。 「日本の防衛を担う戦闘機を造っているのだから大丈夫」という根拠なき楽観論が同社の多数派であったといわれるが、型式証明のルールを欧米勢が握る民間航空機の世界は甘くなかった」、他方、「ホンダ」・・・は米国に拠点を構え、ホンダジェットを開発・生産した。以下の3つが大きな理由として考えられる。 ①航空機産業で世界をリードするのは米国企業であり、有能な人材の確保が可能である。 ②キーコンポーネントであるジェットエンジンの内製化を期し、航空機エンジンのグローバル3大企業の1社である米ゼネラル・エレクトリック(GE)と 共同開発を目指した 。 ③運航開始に不可欠な FAA の型式証明取得のため、米国航空業界の人脈・知見をフルに活用可能」、これでは「ホンダ」の成功と「三菱重工」の失敗は、当然とも言えそうだ。 「歴代のホンダのトップからの厳しいダメ出しに敢然と立ち向かい、ホンダがホンダジェットをやる意味を社内で共有させた。 また、経験のない事業を蓄積も乏しくその基盤のない日本でやることを放棄し、北米に拠点を設立、北米のエコシステムの中で事業を育んだことも、藤野氏の慧眼」、他方「MRJ」、「事業の発案者は、当時の経産省製造産業局の課長クラス」、「気が乗らない三菱重工を補助金の札束で引っ叩いて、経産省がバックアップするとの約束のもと着手させた」、経産省も罪つくりだ。 確かに「三菱重工」だけでなく、「航空局」などの「審査」ノウハウ欠如なども足を引っ張っただろうが、そんなことは「三菱重工」にしたら覚悟の上だ。「「スペースジェットの開発で得た知見は、日本と英国、イタリアの3カ国で共同開発する次期戦闘機などに生かす」、負け惜しみだろうが、せめて「次期戦闘機」には生かしてほしいものだ。 東洋経済オンライン「三菱重工「国産ジェット失敗」で抱える本当の危機 15年で1兆円の投資が水の泡、教訓生かせるか」 「「三菱の技術力を結集すれば開発は可能」。開発着手当時はそんな熱気があったと当時を知る業界関係者は振り返る。 ところが、開発は初期からつまずく。2016年ごろにはTC取得に向けて設計に大きな問題があったことも判明し、900件以上の設計変更を余儀なくされた。開発責任者をはじめ多くの外国人エンジニアを採用し巻き返しをはかったが間に合わなかった」、自社技術への過信・おごりが命取りになったようだ。 「水素発電や二酸化炭素(CO2)の回収・貯留といった新しいエネルギー関連事業だ。三菱重工は2040年に顧客による自社製品の使用を含めたカーボンニュートラル達成を宣言。脱炭素技術の売り込みに躍起になっている。 各地で実証が始まっており、今のところ計画は順調だ。ところが、水素発電にせよCO2の回収・貯留にせよ新しい技術で、世界中どこでも事業化されていない。技術として可能でも、ビジネスとして花開くのかは未知数」、大いに「チャレンジ」してもらいたいものだ。